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【幼児教育とは】

●レディネス

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子どもに何かを学習させるとき、
そこに、「適切な時期」がある
ことがわかる。

その適切な時期のことを、
発達心理学の世界では、
「レディネス」という。

たとえば文字。

満4・5歳(4歳6か月)を境と
して、子どもは、急速に文字
への関心を深める。文字が書ける
ようになる。

それまでは文字になっていないような
文字、たとえばグニャグニャの
線を書いて、「字を書いた」などと
いう。

が、4・5歳を過ぎると、突然、
その線が、意味をもった文字へ
と変化する。

そのころ文字の読み書きを教える
と、子どもは、無理なく、文字を
学習する。

こうした時期を、レディネスと
いう。

「レディネス」は、「readiness」
とつづる。「準備、OK」という
意味である。

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●早期教育

 幼児教育というと、「早期教育」と誤解している人は多い。中には、「先取り教育」と誤解してい
る人さえいる。小学1年生で学ぶことを、幼児の段階で教えるのが、幼児教育である、と。

 しかし、これはとんでもない、誤解! まちがい! 

 たとえば文字学習を例にあげて考えてみよう。

 子どもが文字を読み書きできるようになるのは、満4・5歳(4歳6か月)である。それ以前はと
いうと、形の弁別すらむずかしい。たとえば三角形を、描き写させても、グニャグニャの形を描
いたりする。

 が、この時期に近づくにつれて、急速に形の弁別ができるようになる。三角形は、三角形らし
くなる。四角形は、四角形らしくなる。そうした時期を、「フォスタリング(=準備期間)」というな
ら、そのフォスタリングが熟成したときが、「レディネス」ということになる。

 言いかえると、この満4・5歳以前に、文字を教えようとしても、子どもはなかなか文字を覚え
ない。しかし満4・5歳前後に文字を教えると、それが子どもの頭の中に、スーッと子どもの頭
の中に入っていくのがわかる。スーッと、だ。

●「差」はない。

 たとえばこんなことがある。

 ある母親は、文字を学習させようと、満3歳くらいから、子どもに文字の読み書きを教えた。
で、1年ほどして、やっとひらがなを読み書きできるようになった。その母親は、「効果があっ
た」「成果があった」と、それを喜んだ。

 一方、子どもは、満4・5歳を過ぎると、急速に文字への関心を深め、自分でそれらしきもの
を書いて遊ぶようになる。自分で書いて、親の所へもってきて、「見て!」「見て!」と言ったりす
る。

 それを見て、親は喜び、感心して見せる。子どもをほめたりする。「すごいわね!」と。

 やがてその子どもも、ひらがなを読み書きできるようになる。先の子どもよりは、やや時期は
遅れるが、満5歳ごろになると、その(差)は、まったくわからなくなる。

 むしろ無理に学習させられた先の子どものほうが、文字に対する嫌悪感を覚えるようになる
ことが多い。その危険性は高い。文字を見ただけで、そのうしろに、親のガミガミ、イライラした
姿を思い浮かべるようになるかもしれない。

●フォスタリング(準備期間)

 だからといって、満4・5歳以前に、何もしなくてよいというわけではない。文字の読み書きの
学習をせる前に、親としてしておかねばならないことは、山のようにある。

(1)文字への関心を深める。……たとえば親が子どもを抱いて、本を読んでやる、など。子ど
もが文字を見たとき、その向こうに(親のぬくもり)を感じさせるようにするのが、コツ。その(ぬ
くもり)が、子どもを伸ばす原動力となる。
(2)形の弁別を教える……文字は複雑な図形である。いくつかの直線や円が組み合わさって
できている。たとえば「み」は、「フ」「○」「十」の組み合わせでできている。簡単な形の弁別につ
いては、遊びを通して、学習させておく。
(3)運筆能力を高める……手の動きを見てほしい。横線を書くときは、手の動きは単純であ
る。一方縦線を書くときは、手は複雑な動きをするのがわかる。幼児にとって難しいのは、曲
線である。(幼児の運筆能力を知るためには、円を描かせてみればわかる。運筆能力のある
子どもは、きれいな円を描く。そうでない子どもは、そうでない。)運筆能力の訓練としてすぐれ
ているのが、ぬり絵。ぬり絵に慣れてくると、こまかいところを、曲線、直線を織り交ぜながら、
きれいにぬることができるようになる。

 こうした積み重ねが、(基礎)となって、つぎの(レディネス)を迎える。

●強化の原理

 今さら言うまでもないが、子どもが文字らしきものを書いて、「見て!」「見て!」と言ってきた
ら、親は、それを心底、喜んでみせる。ほめる。その様子に励まされて、さらに子どもは文字へ
の関心を深める。

 これを「内発的動機づけ」と呼ぶ。(これに対して、賞罰などを与えて、子どもに動機づけをす
ることを、「外発的動機づけ」と呼ぶ。)言葉はともかくも、それが子ども自身を伸ばす、(強化
の原理)として働く。わかりやすく言えば、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれる。

この段階で大切なことは、子どもに「文字を書く喜び」を教えること。形ではなく、中身を大切に
すること。

 文字を覚えたての子どもは、文字を下から上に向かって書いたりする。文そのものを、下か
ら上に書く子どももいる。逆さ文字、鏡文字は、この時期、当たり前。もちろん書き順は、めち
ゃめちゃ。 

さらに、たとえば年長児に、「昨日」と書かせると、「きのお」「きお」「きの」とか書く。「きのう」と
正しく(?)書ける子どもは、30%前後である(筆者経験)。が、だからといって、「きのお」をま
ちがっていると指摘する必要はない。

 文字を読んで、それで意味が通ずればよしとする。こうしたおおらかさが、子どもの文字への
関心を、さらに加速させる。

●型にこだわる日本人

 が、こうした自然発生的な学習能力に対して、異論を唱える人も多い。「書き順は、最初から
しっかりと教えた方がいい」「まちがって覚えると、あとで直すのがたいへん」と。

 そういう話を聞くたびに、私は、「どうして日本人は、こうまで型にこだわるのか?」と思う。言
うまでもなく、文字の使命は、こちらの意思や考えを相手に伝えること。それに始まって、それ
に終わる。アメリカでも、オーストラリアでも、つづりのまちがいについては、実におおらかであ
る。文法にしても、そうである。書き順などといったものすら、ない。

 それをトメだの、ハネだの、ハライだの……。さらに画数だの、書き順だの……。復古主義者
の人たちは、こういうとき必ず、こう言う。「日本語の美しさを守るため」と。

 が、そんなことばかりしているから、子どもはやる気をなくす。文字に嫌悪感を覚えるようにな
る。ついでに、作文嫌いになる。ものごとには、「ほどほど」というものがある。少なくとも、トメ、
ハネ、ハライくらいは、もう廃止にしたらよい。毛筆時代は、とっくの昔に終わった!

 が、「それでも……?」という人がいたら、こう覚えておけばよい。

 「テーマはひとつ」と。文字の形や書き順や気になったら、それはそれとして、また別の機会
に教えればよい、と。子どもの機嫌がよさそうなときを見はからって、「この字は、こう書くといい
よ」などと言って、教える。

●内発的動機づけ

 幼児教育とは何かと聞かれたら、答はひとつ。つまり、「方向性をつくること」。

 文字学習を例にあげるなら、「文字は楽しい」「おもしろい」「文字が書けると、本が読めるよう
になる」「文字で、相手を動かすことができるようになる」という喜びを、子どもの中で、目覚めさ
せること。

 子ども自身の内部で起きる動機づけという意味で、「内発的動機づけ」という。こうした無数の
動機づけを重ねることによって、やがて子どもは子ども自身がもつ力で、前向きに伸びていく。
あとは、子ども自身に任せればよい。

 子どもが「見て!」「見て!」と言ってきたら、すかさず、それを喜び、「あら、じょうずに書ける
ようになったわね」とほめて見せる。喜んでみせる。

 私も、子どもたちが字を書いたら、その懸命さをほめるという意味をこめて、こう言うようにし
ている。「おや、じょうずだねえ」「この前より、またじょうずに書けるようになったね」と。たとえグ
ニャグニャの文字であっても、そう言う。

 余談だが、中には、それを喜ばない親、とくに祖父母がいる。ときどき、今でも電話で、こう言
って抗議してくる。「先生は、どうしてああいういいかげんな丸をつけるのですか?」と。「林(=
私)の教え方は、おおざっぱ」という批評が、父母の間でも、定着している。

 文字学習というと、トメ、ハネ、ハライをきちんと教え、ついでに書き順を教えるものだと思っ
ている。

●才能

 子どもには、その段階ごとに、「適切な時期」というものがある。その時期の前に、あれこれ
無理をしても、あまり意味はない。一方、その時期を過ぎてしまうと、学習の機会を失うというこ
とも、これまた、よくある。

 よく例に出されるのは、たとえばピアノやバイオリンのレッスンである。

 その時期がくれば、だれでも、ピアノやバイオリンを弾けるようになるわけではない。その時
期については、いろいろな説があるが、かなり早い時期から、少しずつ教えたほうがよいと主
張する人もいる。興味づけや、動機づけについては、0歳からでもよいと説く人もいる。

 しかしその時期を過ぎてしまうと、学習そのものが、不可能になる。不可能ではなくても、学習
するのに、たいへんな努力とエネルギーを必要とするようになる。ことピアノやバイオリンのレ
スンということになると、小学校へ入学したあとからでは、遅い。

 さらに子ども自身の(才能)の問題もある。たとえばあのベートベンは、息子を作曲家にしよう
と、かなりの努力する。しかし息子自身は、音楽に対してほとんど才能を示すことはなかった。
反対に、音楽に対して拒否反応すら示すようになってしまった。

 子ども自身がもつ方向性、(それについても遺伝的要素があると説く学者もいるが)、それを
見誤ると、「労多くして、効少なし」ということになりかねない。

●方向づけ

 幼児教育は、早期教育のことをいうのではない。先取り教育のことでもない。さらに言えば、
小学校へ入るための、準備教育でもない。

 幼児は、幼児期にしておかねばならないことが、山のようにある。(その多くは、親の側で、し
ておかねばならないことだが……。)それが幼児教育ということになる。

 愚かな人は、(親が教えるのは構わないが……)、かけ算の九九を、幼児に暗記させてい
る。泣いていやがる子どもを正座させて、書道の練習をさせている。さらに小学校の入試問題
を解かせたりしている。

 今、年中児で、「文字を書いてみようね」と声をかけただけで、涙ぐむ子どもは、10人のうち、
2〜3人はいる。体がこわばってしまう子どもとなると、4〜5人はいる。家庭での、(あるいは外
部のおけいこ塾での)、無理な学習が、子どもをして、そういう症状を示させる。

 そういう子どもが、そのあとどうなるか? 今さら、ここに書くまでもない。

 つまり、その反対のことをするのが、幼児教育ということになる。わかりやすく言えば、子ども
自身の中に、(方向づけ)をつくる。それが幼児教育ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 幼児
教育論 レディネス 動機づけ 外発的動機づけ 内発的動機づけ)







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●思考の範囲

少し前、「論理」というテーマで、エッセーを
書いた。

その中で、論理的に照合する幅の広い人を、
思考力のある人という、反対に、その
幅の狭い人を、思考力のない人という、
……と書いた。

まちがってはいないと思うが、もう少し
視点を変えて、考えてみたい。

たとえばこんな話はどうだろう。

A:目の見えない人が、新しい眼がねを買い
ました。その眼がねをかけて、新聞を読みました。

この話を聞けば、ほとんどの人は、「おかしい」と
思う。「目の見えない人」という部分と、
「眼がねをかけて、新聞を読んだ」という
部分が、矛盾するからである。

が、つぎの話はどうだろう。何かのトンチの本に
出ていた話である。子どもたちから聞いた。

B:ナポレオンがある日、部下の兵士たちに
命令した。部下の兵士たちは、ナポレオンの
声がよく聞こえるところにいた。
が、いくらナポレオンが、「進め!」「進め!」と
命令をしても、部下たちは、ポカンとしている
だけで、だれもナポレオンの命令には従わなかった。
なぜだろう。

この話を聞いた人は、いろいろに考える。
「部下たちは耳が聞こえなかった」
「部下たちは、どこかに閉じ込められていて、
前に進むことができなかった」など。

正解は(?)、「だれも、『進め』という日本語を
理解できなかったから」だ、そうだ。部下に命令する
なら、フランス語で言わなければならない。

つまりAの話を聞いたときには、狭い(範囲)で、
論理的にその矛盾を知ることができる。が、Bの
話を聞いたときには、(範囲)をより広くしなければ
論理的にその矛盾を知ることができない。

同じように「私」を包む問題を考えてみよう。

自分のことしか考えない人を、自己愛者という。
そこを原点とするなら、その範囲を広げることで、
人は、より利他的になることができる。

さらにその範囲が広くなると、人生全体、
人類全体、生命全体、さらには地球全体へと、
その範囲を広げていくことができる。

「人は、何のために生きているのか」
「命とは何か」
「地球環境を守るためには、どうしたらいいか」と。

が、考えれば考えるほど、そこに壁(かべ)
があることを知る。

つまり(範囲)が、広がれば広がるほど、
そこに(限界)があることを知る。

もちろんその(限界)には、個人差がある。
「太陽は神だ」というレベルで、思考を停止して
しまう人がいる。その一方で、話を広げて、
宇宙論にまで思考を拡大する人もいる。

同じように、「老後は楽隠居」というレベルで、思考を
停止してしまう人がいる。その一方で、人生のあり方を、
死ぬまで追求する人もいる。

そこで重要なことは、その(限界)を、自らの努力
によって、より高次なものに、引きあげなければ
ならないということ。

つまりそれを決めるのが、思考力ということになる。

話がこみいったが、(限界を知る)→(思考によって
限界を破る)→(新しい限界を知る)を繰りかえす
ところに、思考する意味がある。

もう一度、数日前に書いたエッセーを読みなおし
てみる。

++++++++++++++++++

●論理

 論理とは何か? 簡単に言えば、証明された事実だけを組みあげて、ものごとに一定の結論
を与えることをいう。日本語大辞典(講談社)には、つぎのようにある。

 「(1)思考や議論の道筋。(2)法則的にものごとが、関連していること。(3)推論の運び方」
と。

 その論理は、思考力によって成り立つ。が、では、その思考力とは何かというと、これまた、
よくわからない。あるいは反対に、その人の思考力は、何によって決まるのか?

 たとえば……。

 今朝、こんな夢を見た。インドのどこかを、旅行している夢だった。枯れた大地が、広がって
いた。遠くに丘が見えて、岩山をくりぬいた寺院が、そこにあった。私たちは汽車か何かに乗っ
ていた。

 だれかが言った。「こんなところで、のんびりと暮らしてみたい」と。すると、べつのだれかが言
った。「こんなところに住んでも、しかたないよ」と。私はそんな会話を、ぼんやりと聞いていた。

 列車はやがて、長野県か群馬県へと入ってきた。今度は、緑の山々が、眼下に見えてきた。
ところどころに、澄んだ水が流れる川が見えた。窓の少ない列車で、後部、半分ほどが倉庫の
ようになっていた。客は、私たちだけだった。つまり5〜6人の、ツアー客だけだった。

 先ほどまでいっしょにいた外人の客たちは、川で泳ぐため、みな列車をおりた。私たちは、そ
のまま旅をつづけた。列車は、飛行機のように高いところを走っていた。が、やがて、小さな駅
に着いた。

 時刻表を見ると、1時間に1本くらいしか、発着がない。1日を通しても、5、6本。見ると駅前
には、小さな店がいっぱい並んでいた。駅の名前は、「浜松」。私はそれを見て、「ああ、昔は、
浜松駅も小さかったんだな」と思った。

 ……という、何とも意味のわからない夢だった。が、夢を見ているときというのは、(論理)が
機能しない。そのつど、その直前のことを忘れている。夢の内容そのものが、記憶されていか
ないため、そうなるらしい。いや、記憶(=記銘)はされているのだろうが、(現に、今、こうして
夢の内容を覚えているのだから……)、想起されないまま、つぎのシーンへと移る。

 だから矛盾を、矛盾と判断することもできない。インドから突然、長野県へ。そして突然、現在
から過去へ……。夢の途中で、「おかしいぞ、たった今、インドにいたはずだ」「列車に乗ってい
るはずなのに、どうして空を飛んでいるのか?」「いつの間にか、過去にタイプスリップしてしま
ったぞ」などというようなことは、考えない。

 そこで思考力。私が今朝見た夢を例にあげると、思考力というのは、そのつど(今)から(過
去)(未来)へと、脳に飛来した信号を、照合する力ということになる。その時点で、矛盾を覚え
れば、修正、訂正する。つまりそれが思考力ということになる。

 夢の中では、その(照合する力)が機能しない。だから矛盾だらけの夢を見ながらも、それを
矛盾と感じない。つまり思考力、ゼロ。

 反対に、その照合する範囲の広い人を、思考力のある人ということになる。ここで「範囲」とい
う言葉を使ったが、照合する力は、その「範囲」で決まる。このことは、子どもの世界を見てい
ると、よくわかる。

 こんな話を、幼児(年長児)クラスでしてみる。

 「おばあさんが、杖をついて、歩いていました。右手には、カバンをもち、左手には、日傘をも
っていました」と。

 この話をしたとき、すかさず、「おかしい!」と叫ぶ子どもがいる。そうでない子どももいる。
「おかしい!」と叫ぶ子どもは、その話の最初から最後まで、つまり広い範囲で、私の話を聞い
ていたことになる。

 一方、そうでない子どもは、私の話を聞きながらも、そのつど、その部分(=狭い範囲)でしか
ものを聞いていない。だからこういう話を聞いても、矛盾を感じない。

 で、その範囲は、人それぞれ。範囲の広い人もいれば、そうでない人もいる。さらにいくら思
考力のある人でも、そこには限界がある。もちろん今の私にも、ある。こうして思考力について
書きながらも、今の私がわかるのは、ここまで。

 このあたりまでくると、その先が、薄いモヤに包まれているのがわかる。

 「思考力と論理を、同じに考えていいのか?」「では思考力というのは、記憶力によって決まる
のか?」「どうすれば範囲を広げることができるのか?」「論理というテーマで書いているのに、
いつの間にか、思考力の話になってしまった。これでは、インドから長野県へ列車が飛んだ、
夢の内容と同じではないか?」「論理と思考力は、どうちがうのか?」と。

 ただ、こういうことは言える。

 大切なのは、問題意識である。かりにここに書いたことがまちがっているとしても、気にするこ
とはない。あとで訂正すればよい。大切なことは、「問いつづけること」(アインシュタイン)。その
姿勢だけは、大切に。

 それがその人の「範囲」を広くする。

++++++++++++++++++

話をもどす。

思考によって、思考の限界を知るということは、
恐らく人間がもつ認知力の中でも、最高度の
ものではないか。

人間というより、その人個人の問題と考えてもよい。
このことも子どもたちの世界を見れば、わかる。

ある男の子(小5)が、数日前、私にこう言った。
「先生(=私)は、ぼくたちの言うことを、何でも
頭から否定する」と。

そこで私が、「たとえばどんなことで?」と聞くと、
「血液型でも、先生は否定した」と。

少し前、「血液型による性格判断は、インチキだ」と
言った。それに対して、子どもたちは、「インチ
キではない」「当たっている」と、反論した。

子どもたちには、子どもたちの(限界)がある。
子どもたちは、「血液型と性格は関係がある」と
信じている。また信じるに足りる根拠(?)を
もっている。

が、そこまで。私がそれを否定したから、子ども
たちは、その(範囲)で、右往左往し始めた。中に、
「先生の言っていることは、まちがっている」と
言った子どもさえ、いた。

しかしそんな子どもたちに、血液型の話をしても
理解できないだろう。性格の話をしても理解でき
ないだろう。第一、性格というのが、どういうもの
かさえわかっていない。

子どもたちは、自分の限界すら知らない。それに
気づいてもいない。どこに限界があるかさえも、
知らないのだ。

が、それはそっくりそのまま、私自身についても
言える。

私は、「正しい」と思っていることを、こうして
文にしている。が、その私が、どこに限界がるかを
知っているかと問われれば、答は、NO!

レベルこそちがえ、私のしていることは、子どもた
ちがしていることと、それほど、ちがわない。

が、もしほんの少しでも、子どもたちに思考力が
あったら、どうだろう。子どもたちは、少しは
私の話に、謙虚に耳を傾けたかもしれない。そして
私の話を参考に、血液型による性格判定がもつ
矛盾に気がついたかもしれない。

つまりこの私にしても、さらなる思考力があれば、
自分の限界を知り、それを打ち破ることができる。

ずいぶんと混みいった話になってしまったが、
要するに、(1)自分の限界を知ることは、
むずかしい。(2)その限界を超えることを、
思考という。(3)また思考によってのみ、
その限界を超えることができる、(4)また
それができる人を、思考力のある人ということ。

(補記)

たとえば数学の問題でも、定理と公式を使って、
(解ける問題)を解くのは、それほど難しいこと
ではない。訓練を重ねれば、かなりのところまで、
だれにでもできるようになる。

しかし自分で定理や公式を発見しながら、(解ける
か解けないかわからない問題)を、解けないと
証明するのは、むずかしい。(もちろん解ければ、
それはそれでよし。)

解けない世界があることを知ることが、(限界)という
ことになる。

(補記2)

思考こそが、人間を高める唯一の方法である。
また思考するからこそ、人間は人間なのである。






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●コンフリクト

+++++++++++++

私たちは何をするにも、心の
中で葛藤(=コンフリクト)する。
葛藤の連続と言ってもよい。

多くのばあい、二律相反した作用が、
同時に心の中で起きる。

「運動はしたくない」「しかし
運動をしなければ、健康が
維持できない」と。

こうした心の葛藤を類型化した
のが、レヴィン(K・Lewin)と
いう学者である。

彼は、コンフリクトを、内容別に

(1)接近―接近型
(2)回避―回避型
(3)接近―回避型
(4)二重の接近―回避型
(春木豊・「心理学の基礎」)

の4つに分類した。

++++++++++++++

 たとえば、お金はたっぷりある。そのお金で、昼食を食べることにした。町へ出ると、2つの店
が並んでいた。フランス料理店と中華料理店である。どちらも食べたい。さあ、どうするか……
と悩むのが、(1)の接近―接近型ということになる。できれば、両方とも食べたい。

 わかりやすく言えば、YES−YES型ということになる。

 つぎにたとえば、「働くのはいやだ」と仕事サボる。しかし仕事をしなければ、借金が返せない
という状況を考えてみよう。

 このばあい、「働くのもいやだが、借金取りに追いかけ回されるのもいや」という状況に追い
込まれる。さあ、どうするか……と悩むのが、(2)の回避―回避型ということになる。できれば
両方とも避けたい。

 わかりやすく言えば、NO−NO型ということになる。

 またこんな状況はどうだろう。火の中に、栗が落ちている。おいしそうな栗だ。取って食べた
い。が、へたをすれば、やけどをするかもしれない。さあ、どうするか……と悩むのが、(3)の
接近―回避型ということになる。何かをしたいのだが、その何かを、負の要因が取り囲んでい
る。

 わかりやすく言えば、YES−NO型ということになる。

 さらに、こうしたYES−NOが、2つ以上、複雑にからんでいるばあいを、(4)の二重の接近
―回避型という。

 春木豊氏著の「心理学の基礎」では、こんな興味ある事例をあげて、回避―回避型を考えて
いる。

 「学校へ行きたくない。しかし学校へ行かなければ、親に叱られる」と。

 このばあい、「学校へ行きたくない」という思いと、「親に叱られるのもいや」という思いが、同
時に心の中で作用する。そしてそのどちらが強いかによって、子どもの行動は決まるという。

 最終的に、「学校へ行きたくない」という思いの方が、「親に叱られるのがいや」という思いより
も強くなったとき、子どもは、学校へ行かなくなる。「親に叱られた方が、楽」と。

 そのバランスを、ミラーという学者は、「接近勾配と回避勾配」(同書)で表現した。経済でいう
ところの、損益分岐線に似ている。値段をあげれば、利益幅は大きくなるが、売れなくなる。値
段をさげれば、売れるが、利益幅は小さくなる。二本の直線は、あるところで、交差する。

 同じように、接近と回避を直線で表示すると、その直線は、あるところで、交差する。そしてそ
の作用の強い方に向かって、行動が開始される。

 「学校へは行きたくないが、親にガミガミ言われるのは、もっといや」ということであれば、その
子どもは、学校へ行く。

 「学校へ行きたくない。親にガミガミ言われる方が、マシ」ということであれば、その子どもは、
学校へ行かない。

 なるほどと思う理論なので、ここに書きとめておく。

 ……と考えていくと、冒頭に書いたように、私たちの行動には、つねにこのコンフリクトがつい
て回る。私が最近、経験したケースでは、こんなことがある。これは(4)の二重の接近―回避
型ということになる。

 母を介護しているときのこと。

 たて続けに数回、事故が起きた。母は夜中に、ベッドの周囲を動き回る。そのとき、さかさま
にベッドと柵の間に頭をつっこんだりした。偶然にも、私たちが発見したからよかったようなも
の、もし発見が遅れていたら、母は死んでいたかもしれない。

 ケア・マネ(ケア・マネージャー)に相談すると、「添い寝をするしかありませんね」と。

 しかしそんなことをすれば、今度は私たちが不眠症になってしまう。ここでコンフリクトが始ま
る。

 「母の世話をしなければならない」「しかし添い寝はできない」と。

 さらに問題はつづく。そこで私たちは、介護施設に入居させることにした。が、費用は、ばか
にならない。兄も、現在、グループホームに入居している。

 「費用はだいじょうぶか」「しかし費用は負担しなければならない」と。

 が、最大の問題は、「子」として、「親」を施設に入れることには、大きな抵抗感を覚えたこと。
「できるなら自宅で、めんどうをみてやりたい」「しかし事故が起きてからでは、遅い」と。

 このようにいくつかのコンフリクトが同時多発的に起きた。まさにレヴィンの説くところの、(4)
二重の回避―接近型ということになる。

 で、義理の兄夫婦に相談すると、一も二もなく、「入居させなさい」だった。「そんなことしてい
たら、あなたたちの健康にさしさわりが出てくる」と。「それに事故でも起きたら、警察ざたにな
る」とも。

 で、老人介護施設に入居届けだけは出しておこうと思って足を運ぶと、たまたまそこの所長さ
んが、応対に出てくれた。そして運よく(?)、「ちょうど明日、空きができますが、どうですか?」
とのこと。あとで知ったが、こんな例は、稀(まれ)だそうだ。ふつう半年待ち、長い人になると、
1、2年待ち。

 そこでまたまたコンフリクト。「もう少し自宅で、めんどうをみていてやりたい」という思いと、「こ
の機会をのがしたら、1、2年先になる」という思い。その2つがはげしく心の中で対立した。

 まさにコンフリクトの連続!、……ということになった。

 しかし大切なことは、コンフリクトはいつも起きるものだとしても、バランスをよく考えて判断す
るということ。その判断がじょうずにできる人を、良識のある人ということになる。そうでない人
を、そうでないという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 コンフ
リクト 接近 回避 レヴィン Lewin)








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【満60歳】

●もうすぐ60歳!

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私も、もうすぐ満60歳!
その満60歳に際して、ここで
自分自身を特集してみたい。

題して、「満60歳の私」。

どこかくすぐったい感じがしないでも
ない。が、年齢だけは、みな平等に、取る。

「ああ、いやだ!」といくら叫んでも、
その時はやってくる。やってきた。

誕生日は、10月2x日。1947年
生まれ!

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●時間性

 ワイフが言う。「いやだったら、気にしなくていいのに」と。しかし気になる。世間では、「還暦」
とか何とか言う。気になる。が、何、それ?

 ところで、その人がもつ時間性というのは、個人によって、みなちがう。世の中には、1年を1
日のようにして過ごす人もいれば、1日を、1年のようにして過ごす人もいる。そのことがわから
なければ、台所のテーブルに止まる、ハエを見ればよい。せわしなく手足を動かし、あっという
間にやってきて、あっという間に去っていく。

 もしあれと同じ行動を人間にしろと言われたら、1時間、かかるかもしれない。あるいはこんな
ことも。

 一匹の蚊がやってきた。その蚊が、私の足の先から頭のところまで、スーッとあがってきた。
人間の高さに換算すると、約500メートル。(それを疑う人は、自分で計算してみたらよい。)つ
まり蚊は、人間にすれば500メートルの高さの山を、数秒のうちに、あがったり、さがったりし
ている。

 もし人間が同じことをしようとしたら、ヘリコプターを使っても、5〜10分はかかる。歩いて、登
ったりおりたりすれば、1日かかるかもしれない。

 つまり人間のもつ時間性は、蚊のもつ時間性の、数百分の1ということになる。蚊にすれば人
間は、恐ろしく動きが鈍く見えることだろう。

 これは人間と蚊の話だが、同じ人間どうしでも、時間性は、みな、ちがう。わかりやすく言え
ば、時間性は、その密度で決まる。時間性の濃い人もいれば、そうでない人もいる。

●濃密な人生

 限られた人生なら、時間性は濃ければ濃いほど、得ということになる。平均的な人が10日か
かってすることを、1日で、できる。単純に計算すれば、自分の人生を、10倍にすることができ
る。

ここでいう「得」という実感を得るのは、なかなかむずかしい。他人より10倍分濃い人生を送っ
たからといって、その10倍を実感するのは、むずかしい。が、反対に、時間を無駄にしたとき
に、それがわかる。くだらないテレビ番組などを、つい見るとはなしに見てしまったようなばあい
である。そういうとき、私のばあい、「しまった!」と思う。

だからその人に与えられた時間の長さは同じでも、それをどう使うかは、それぞれ個人の問題
ということになる。ダラダラと、だらしない時間の過ごし方をすれば、時間だけが無益に過ぎて
いく。

 それはたとえて言うなら、貯金のようなもの。「時間」という貯金である。時間イコール、「命」と
置き換えてもよい。その貯金にはかぎりがある。浪費すれば、あっという間になくなってしまう。
有効に使えば、それなりに長く使うことができる。

●脳みその穴

 が、ここでひとつの問題が起きる。

 年を取ればとるほど、脳みその底に穴があくということ。多くの人は、一度頭の中に入った情
報や知識は、そのままの状態でいつまでも脳みその中に残ると考える。しかしこれは誤解。あ
る年齢を超えると、あたかも脳みその底に穴があいたかのように、情報や知識は、どんどんと
下へこぼれ落ちていく。

 私も、パソコンを使って数か月前にできたことが、できなくなることが、しばしばある。たとえば
ソフトの使い方、など。英語の単語にしても、50歳を過ぎて覚えた単語というには、数えるほど
しかない。

 さらに思考そのものが、ループ状態になることもある。毎日、同じことを考えているだけ。毎
週、同じことを考えているだけ。さらに毎年、同じことを考えているだけ、と。

 一度、こういう状態になると、進歩など、望むべくもない。そういう状態のときに、脳みその底
に穴があくと、今度は、一気に、脳みその働きは鈍くなる。

 が、さらに悲劇はつづく。そういう状態になりながらも、その人自身が、それに気づくということ
はない。脳みそのCPU(中央演算装置)そのものが鈍くなる。コンピュータにたとえるなら、CP
Uのクロック数そのものが少なくなるため、全体に脳の働きそのものが全体として、遅くなる。
だから自分では、気づかない。

 ひとつの例だが、脳のCPUが鈍くなると、話し方そのものが、遅くなる。同時に、早口で話す
人の言葉が理解できなくなる。

●精進

 そこで釈迦は、「精進(しょうじん)」という言葉を考えた。「死ぬまで、精進あるのみ」と。

 脳みその底に穴があくなら、それはしかたのないこと。だれでも、そうなる。体の筋肉が衰え
るように、脳みその機能も衰える。そこで重要なことは、漏れ出る以上のものを、上から補うと
いうこと。

 10の情報が漏れ出たら、20の情報を補う。100の情報が漏れ出たら、200の情報を補う。

 つぎに思考のループ性。同じことを、毎日、同じように考える。そういうループ性をどこかで感
じたら、そのループ性から抜け出ること。が、実際には、これがむずかしい。そこで人は常に、
新しい世界に興味をもち、それに挑戦していく。その結果として、ループ性から抜け出る。

 新しい思想に接する。新しい分野に挑戦する。新しい人に出会う。

 もっともこんなことは、私が書くまでもなく、常識と考えてよい。つまり新しい世界を知ることに
より、その反射的効果として、自分のループ性に気がつくことができる。ループ性から、抜け出
ることができる。

●生きるということは、考えること
 
 さて、虫の話に戻る。

 虫がもつ時間性が、かりに人間のもつ時間性の10倍であるとする。(「10倍」でも、ひかえめ
な数字だが・・・。)もし虫が時計を考えたとしたら、時針、分針、秒針のほかに、もうひとつ、1
秒で1周する、細い針を考えるかもしれない。虫の動きは、人間の動きとくらべても、明らかに
10倍は、速い。

 が、その虫が、では人間とどこがちがうかといえば、答はひとつ。虫には、思考能力がないと
いうこと。与えられた情報をもとに、それを加工し、利用していく能力はあるかもしれないが、思
考能力はない。

 思考能力というのは、分析力、そして論理力で構成される。だからいくら脳のCPUのクロック
数が速いからといっても、それがそのまま、虫の脳みその性能につながるとは、考えられな
い。たとえて言うなら、ソフトのインストールされていない、パソコンのようなもの。

 思考能力というのは、それほどまでに高度なもの。かつ、思考するには、時間がかかる。こ
れもパソコンにたとえていうなら、パソコン自らがプログラムを組んでいくようなものかもしれな
い。虫の目からすると、思考している人間は、まるで眠っているかのように見えるかもしれな
い。

 しかし、だからといって、その分だけ、虫の人生が、人間のそれより密度が濃く、その分だけ
長いというかというと、そういうことはない。虫は虫として、(思考といえるようなものがあるかど
うかは、わからないが)、思考をループさせているだけ。

 そういう点では、虫は、「息(いき)ている」かもしれないが、「生(いき)ている」ことにはならな
い。ただこういうことは言える。

 人間から見れば、虫の一生は、数週間から数か月かもしれないが、虫自身は、それを短い
などとは思っていないということ。活動の量ということになると、かりにここに書いたように、10
倍とするなら、虫にとっての1年は、人間の10年分ということになる。

が、それでも虫は、「息ているだけ」。言い換えると、「息ているだけ」では、虫と同じ。人間がな
ぜ虫とはちがうかといえば、(考える)ところにある。その(考える)という部分が、人間と虫を分
ける。また考えるからこそ、人間は人間としての価値を維持することができる。

●長く生きる 

 平均寿命という言葉がある。それに対して、健康寿命という言葉もある。健康寿命というの
は、健康でいられる寿命をいう。ふつう(平均寿命)−10が、(健康寿命)と言われる。たとえば
平均寿命が84歳なら、84−10=74歳が、健康寿命ということになる。

 残りの10年は、不健康年齢ということになる。病気を繰り返したり、頭がボケたりする。つま
りそれまでが勝負。

 この計算式に従えば、私の健康寿命は、残り、10数年しかないということになる。(たったの
10数年だぞ!)「60歳」という年齢を気にするとすれば、むしろそちらの方である。「還暦(か
んれき)」とか何とか、そんなくだらない言葉に、振り回される必要はない。「残り、10数年しか
ない」という視点で、自分に緊張感を奮(ふる)い立たせる。

●これからの人生

 ではどうすれば、私は、残りの10数年を、有意義に過ごすことができるのか。人間として、
「生きる」ことができるのか。ただこのばあいも、「10」とか、「20」とかいう数字に、まどわされ
てはいけない。冒頭に書いたように、世の中には、1年を1日のようにして過ごす人もいれば、
1日を、1年のようにして過ごす人もいる。

 もし1年を10年にして生きることができれば、私の人生は、10倍の10年に延びることにな
る。

 そのひとつの方法が、「考える」ということになる。私のばあい、「真」の追求ということになる。
ほかにも、「善」の追求をする人もいるだろう。「美」の追求をする人もいるだろう。人は、人そ
れぞれだが、してはいけないことだけは、はっきりとしている。

 明日も今日と同じ。来月も今月と同じ。来年も今年と同じ・・・という人生には、意味はない。そ
んな人生の送り方だけは、してはいけない。それこそ、10年を1年にして生きるだけ、というこ
とになる。もっと言えば、ただ死を待つだけの人生ということになる。

●人間は中身
 
 60歳になったからといって、60歳らしく生きなければならないということはない。またそんなこ
とを、考える必要もない。中には、「コンパクトな人生論」を説く人もいる。生活のレベルをさげ、
範囲を狭くする。しかしどうしてコンパクトでなければ、ならないのか。

 どうせ死ねば、私もろとも、この宇宙すべてが消えてなくなる。だったら、それまでの人生。そ
れまで生きて、生きて、生き抜く。未練の痕跡を残さないほどまでに、燃やし尽くす。私はひと
り。そのたったひとりの私が、どうして他人に遠慮しなければならないのか。自分という人間に
遠慮しなければならないのか。

 バカめ!

 恩師の田丸謙二先生は、先日、私にメールをくれた。その中で、先生は、「老いと戦うすばら
しさ。感謝、感謝」と書いていた。

 人は老いることにより失うものも多い。それは事実だし、避ける方法もない。しかし同時に得
るものも多い。その第一。人は老いてはじめて、生きることのすばらしさを知る。生きることの
価値を知る。あのアインシュタインは、かつて、こう言った。『生きていること自体が奇跡』と。そ
れが実感としてわかるようになる。

 私にしても、今の命が、あと何年つづくかわからない。ひょっとしたら、あと数か月かもしれな
い。が、それまで燃えて燃えて、燃やし尽くす。明日、死の宣告をされても、ジタバタしないよう
に、今日を懸命に生きる。来年、死の宣告をされても、ジタバタしないように、今年を懸命に生
きる。10年後に死の宣告をされても、ジタバタしないように、この10年間を懸命に生きる。

 私の人生は、満60歳から、始まる! さあ、ここはしっかりと、はちまきを締めなおしてがん
ばろう!

【団塊の世代へ】

 私たちが満75歳までがんばれば、つまり何らかの形で現役として働けば、少子化の問題は
解決する。元気で働ける人だけでよい。それで少子化の問題は、解決する。仮に団塊の世代
と呼ばれる人の中の30%の人が、75歳まで働いたとすると、日本の労働人口は、私の試算
では、2015年から、労働者人口は、増加に転ずる※。

 だから元気で働けるうちは、元気で働こう。それは義務というより、特権である。元気で働け
る者の特権である。元気で働ける者が働けば、そうでない人たちの分まで、カバーする。

 不運にも、50代、60代で、大病をわずらう人もいるかもしれない。認知症になる人もいるか
もしれない。そういう人たちのためにも、元気で働ける人が働けば、回りまわって、結局は、そ
ういう人たちのためになる。

 元気で働ける人が、庭いじりや、孫の世話などで、時間をつぶしてはいけない。年金をアテに
して、遊んで暮らしてはいけない。生活の合間にするのは、それはそれでかまわない。しかしそ
れが決して、あるべき老後の姿ではない。またそういう生活を、理想の老後と思ってはいけな
い。

注※

 乱暴な計算だが、団塊の世代(昭和22年〜26年生まれ)、200万人x5年分x0・3=600
万人。つまり30%の人たちが働きつづければ、600万人の労働人口を、団塊の世代だけで、
カバーすることができる。これらの人たちが、満70歳〜75歳の間も働けば、2015年以後、
少子化で減少する労働人口、約500万人分をカバーすることができる。

 さらに私たちのあとにつづく者たちが、同じように75歳まで働けば、少子化の問題は、その
まま霧散する。

 私たち団塊の世代は、戦争を経験することもなく、豊かな繁栄の時代を生きることができた。
それなりにきびしい時代ではあった。が、世界的に見れば、私たちはたいへん恵まれた時代を
生きたと言える。そこで私たちに残された責務は、ただひとつ。次の世代の人たちに、その豊
かさを、遺産として残すことである。還元することである。

 繰り返すが、元気で働ける者が、元気で働けるというのは、まさに特権である。その特権を、
おおいに楽しもう。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

【老齢期の統合性】

●生きる価値

 賢い人は、失う前に、その価値を知り、愚かな人は、失ってから、あわてて、その価値を知
る。

 わかりやすい例では、健康がある。健康のときは、健康の価値というのがなかなかわからな
い。病気になったり、けがをしたりしたときに、その価値がわかる。

 同じように、仕事がある。仕事をしているときは、仕事をしていることに価値というのが、なか
なかわからない。「早く休みになればいい」とか、「できるだけ楽をしたい」とか、考える。

 しかしその仕事がなくなると、とたんに心の中に、ポッカリと穴があいたような状態になる。そ
れがわからなければ、その反対の状態を想像してみればよい。もしあなたがこう言われたとし
たら、あなたは、どう思うだろうか。

 「あなたはもう、何もしなくていい。あなたの役目は終わった。あなたには用はない」と。

 あなたはそれを喜ぶことができるだろうか。「長い休暇を手にした」と、喜ぶことができるだろ
うか。答は、NO!、のはず。

 人間の価値は、他者とのかかわりの中で、決まる。同時に、生きる価値も、他者とのかかわ
りの中で、決まる。いわんや、死を待つだけの人生に、いくら健康であっても、あなたは、それ
に耐えることができるだろうか。

 私の知人にこんな老人がいる。55歳で定年退職してからというもの、優雅な(?)年金生活。
一日とて、働いたことがない。間に、数年ほど、地区の補導委員のようなことはしたことがあ
る。が、それだけ。近所のゴミ拾いすら、したことがない。

 家の裏に70〜80坪ほどの畑をもっているが、まさに庭いじり三昧(ざんまい)。健康なとき
は、朝から夕まで、その庭で遊んでいた。

 が、このところ健康が、思わしくなくなってきた。年齢は85歳を超えているのではないか。肥
満も重なった。歩くのもままならない。ときどき、妻に支えられて、庭の中を行ったり来たりして
いる。

 つまりその老人は、定年退職と同時に、死んだも同然という状態になった。一見、うらやまし
いような老後生活に見えるが、しかしそんな生活を、だれも、理想的とは思わない。その老人
は、30年という年月を、1年、あるいは1か月にして過ごしただけ。

 (少し、言いすぎかな?)

 私も、ある時期、教材づくりに没頭したことがある。それなりに楽しかった。お金にもなった。
しかし今、振り返ってみると、そこに何もないことを知る。反対に、だれかに利用されただけとい
う思いだけが、今になって、後悔の念ばかりが、胸をふさぐ。

 つまり仕事といっても、中身の問題もある。そういうことはあるが、「時間を無駄にした」という
思いは、年齢とともに、ボディブロウのように、ジワジワと体に響く。

●我ら、ヤング・オールド・マン!

 さあ、私は心に決めた。もうすぐ満60歳になるが、その日を、私の満30歳の誕生日とする。
その日を境に、私はもう一度、がむしゃらに働く。その日からではない。今日、今のこの瞬間か
ら、がむしゃらに働く。

 どうしてこの私が、老人臭く生きなければならないのか。老人臭くならなければならないの
か。老人らしく生きなければならないのか。

 私は自分がすべきことをやる。(とりあえずは、書きたいことを書く。)だれのためでもない。私
のためだ。私自身の命のためだ。

 「統合性」という言葉がある。私のエッセーでも、たびたび取りあげてきた。その統合性という
のは、(自分のすべきこと)と、(自分のしていること)を一致させることをいう。(自分のすべきこ
と)というのは、ほとんどのばあい、(自分のしたいこと)ではない。それはたとえて言うなら、寒
い夜に、ジョギングにでかけるようなもの。

 だれだって、コタツの中にうずくまっていたい。楽をしたい。しかしそれでは、自分の健康を維
持することはできない。

 統合性についても、同じ。「したくないから、しない」というのでは、もとから統合性など、望む
べくもない。

 そうの統合性の確立させる。それが老後を心豊かに生きる、秘訣ということになる。

 ただしそれには条件がある。

 統合性を確立するためには、無私無欲でなければならないということ。打算や功利が混ざり
込んだとたん、統合性は、そのまま霧散する。(結果として、それが利益につがったとしても、そ
れはあくまでも、結果。目的であってはいけない。)

 それにこの統合性は、一朝一夕に確立できるようなものではない。「人生の正午」と呼ばれ
る、満40歳前後から、その準備に入らなければならない。「定年退職をした。さあ、統合性を
確立しよう!」と考えても、遅いということ。よい例がボランティア活動。その基礎づくりは、40
歳でも遅すぎる。30歳でも遅すぎる。10代、20代のころからはじめて、その人の基礎にな
る。

【統合性、チェック・テスト】

(1)毎朝、起きると、すぐ、すべきことが、あるか?
(2)毎朝、起きると、すぐ、何かをし始めるか?
(3)毎日、したいこと、すべきことが、はっきりとしているか?
(4)毎晩、眠る前に、その日の充実感を覚えるか?
(5)毎晩、眠る前に、明日の計画が、思い浮かぶか?

 これらのテストで、5項目とも当てはまれば、統合性の確立した人ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 老齢期の統合性 老齢期の生きがい 統合性 チェックテスト チェック・テスト)









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●多文化共生

++++++++++++++

外国人労働者がふえている。
当然、その子どもたちも、
ふえている。

日本が、この先、国際社会の中で
生き延びていくためには、外国人
労働者の存在を、否定することは
できない。

少子高齢化でできる穴を、こうした
外国人労働者たちが、埋めてくれる。
が、問題は、ないわけではない。

++++++++++++++

 先日(07年9月)、静岡県K町にある小学校で、講演をさせてもらった。昔からお茶の産地と
して知られる、田園風景の美しい街である。その席で、校長が、こんな数字を教えてくれた。校
長が話してくれたことをメモにしただけなので、数字的には、不正確かもしれない。

 校長は、こう言った。「私はこの地域で生まれ育ちましたが、この40年間で、学校の様子も、
すっかり変わりました」と。その上で、「ご存知ないかもしれませんが、実は、このK町が、外国
人比率では、静岡県、ナンバー・1です」と。

私「このK町がですか?」
校「そうなんですよ。そんなわけで、この学校にも、外国人の子どもたちが、たくさん来ています
よ」
私「どれくらいの割合ですか?」
校「全校生徒数452人のうち、外国人の子どもは、39人です」
私「39人も、ですか!」と。

 外国人というのは、ブラジルを中心とする、南米からの労働者の子どもをいう。452人中、3
9人といえば、約8・6%ということになる。おおざっぱに言えば、10人のうち、1人弱ということ
になる。

校「が、そのうち、つまり39人のうち、21人がほとんど日本語を理解できません。つまり日本
語指導が必要な子どもたちです」
私「学級を別にしているのですか?」
校「そうできればいいのですが、それができないから困っているのです」と。

 同じような問題を、浜松市の西にある、K市もかかえている。自動車部品を作る企業が、数
多く並んでいる。そのK市の中心部に、K小学校という、全校児童800人ほどのマンモス校が
ある。そうしたマンモス校では、こうした外国人の子どもたちのために、特別の予算がつけられ
ている。ポルトガル語のできる指導員も配属されている。私が見学させてもらったクラスでは、
3〜4人の子どもに、1人の教師がついて、マンツーマンの指導をしていた。

 つまり、こうした指導には、お金がかかる。

 が、たとえばブラジル人の子どもたちにかぎって言えば、ブラジル人学校がないわけではな
い。先のK町の子どもたちにしても、通えなくはない。しかし学費が高い。

 一般公立小学校のばあい、月1万円弱程度の学費で、通学できる。一方、ブラジル人学校
のばあい、学費は、月、6万円前後。中には、子どもを2〜4人、連れて日本へやってくる夫婦
もいる。そのため「どうしても学費の安い公立小学校で……」となるらしい。

 もちろん、問題もある。

 ほとんどの親たちは、子どもを学校へ連れてきて、こう言うという。「日本語を教えてほしい」
と。

 しかし現在の学校には、そういうカリキュラムは用意されていない。「しかたないので、ふつう
の学級で、日本の子どもたちといっしょに、学習させています」(K小学校談)とのこと。

 が、さらに問題はつづく。

 つぎの話は、私の地元で市議会議員をしている男性(40歳くらい)から聞いたものである。そ
の男性は、こう言った。ある市営団地(集合住宅)のほとんどが、外国人労働者たちによって、
支配されてしまったという。そういう話の中で、こう教えてくれた。

 「文化の破壊が進んでいます」と。

 たとえば南米からの労働者たちは、夜中でも、パーティを開く。大騒ぎする。信号無視は、当
たり前。交通ルールも守らない。黄色車線でも、平気で追い抜きをかけてくる。

学校教育についても、ブラジル人の子どもたちは、雨が降れば学校を休む。行事があっても、
土曜日には、学校へは来ない。ある日突然入学したかと思うと、またある日、突然、学校をや
めてどこかへ行ってしまう、など。

 だからといって、ブラジル人の子どもたちを責めているのではない。ブラジルにはブラジルの
伝統や、習慣というものがある。「彼らはそっくりそのまま、この日本に持ちこんでくるのです
ね」(市議会議員の男性談)と。

 それがさらに、このところ過激に(?)なってきた。以前はというと、南米からの労働者といっ
ても、少数派。目立たなかった。日本の社会の同化しようという意識も、まだあった。

 それがこのところ、先にも書いたように、全体の10%〜とか、地域によっては、それ以上に、
なってきた。しかも経済的に余裕のある外国人労働者がふえてきた。この浜松市でも、ここ数
年、外国人労働者の運転する車が、目立って多くなった。

 つまりその分、「ますます態度が大きくなってきた」(市議会議員の男性談)とのこと。そしてそ
れがそのまま学校教育という場に、反映されるようになった。

 冒頭に書いたK町の小学校の校長は、こう言った。「他文化共生も結構ですが、今、現場で
は、学校教育を守るのに必死です。このままでは、学校教育そのものが、崩壊してしまいます」
と。

 ことは深刻である。ゆいいつの解決策は、公立のブラジル人学校を開設することだが、それ
にもこれまた多くの問題がある。が、不可能ではない。

 カナダでは、学校の設立そのものが、自由化されている。しかも内部で教える言語は、自
由。日本も今すぐ……というわけには、いかないかもしれないが、日本がこの先、国際社会の
中で生き残っていくためには、教育の自由化、教育の国際化も、避けられないのでは?

 私はその小学校の校長の話を聞きながら、そんなことを考えていた。








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【謎の扁桃体(核)】(思考と心のメカニズム)

++++++++++++

脳の中心部に、辺縁系という
組織がある。その中に扁桃体
という組織がある。「扁桃核」と
呼ぶ人もいる。

この扁桃体が、実は、人間が
人間らしくあるための、カギを
にぎっている(?)ということが、
最近の研究でわかってきた。

今までに、それについて書いた
原稿を集めてみた。

一部、重複する部分があるかも
しれないが、許してほしい。

+++++++++++++

●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの
だ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を
コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの
は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ
ると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で
いう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に
思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。

もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、
帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い
人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のこと
をいう。が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切で
ある。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくという
わけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では
「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな
いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい
る。おとなでも考える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三
個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ
た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい
るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す
る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。

まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の
言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみ
ればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからと
いって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言ってい
るのでもない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ
と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進
める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親
で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生
によく質問するのですよ」と言う。)(田丸謙二先生、指摘)

その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評
価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教
育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでし
まったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま
たそうでなければならない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさん
がボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになっ
て、人は手でそれを受け止める。

しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を
察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。
人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、
それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされ
るが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用す
るという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私が書いたエッセーを読んでみてほしい。この中で、私は「気持ちよさ」と
か、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。

先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になん
か帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでい
た。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいの
か」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だ
から私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。その扁桃
体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってき
た。

もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送り、そ
れを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれるとい
うのだ。ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに五〇円のお金を渡したことが、扁桃体
に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は二三、四歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、
「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数十種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維
持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。

そうなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっ
ていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実
際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突
然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何
か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そし
て誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人
間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた
信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドと
いう物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を
体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。イギリスにも、『抑圧
は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみる
が、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれ
が、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつ
かまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてき
て、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。

私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、
それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませ
る。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。
また別の日。

小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。
「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏ん
で、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。
さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することも
ある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する
能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。
昔、こう言った高校生がいた。

「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっ
と住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環
境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくな
る。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを
渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい
る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれ
て、さまざまな感情をもつようになる。

よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコ
ニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野の新新皮
質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児
は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判
断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしているこ
とがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく四〜六歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であること
がわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれなが
らにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正し
い。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもには
ならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人で
あるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この一、
二年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によ
っては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば一〇分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。

同じように、私はアリたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリ
たちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感
じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができ
る、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 扁桃
体 扁桃核 善悪 性善説 性悪説 心のメカニズム)






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【ヤング・オールド・マン】

●価値

 賢い人は、失う前に、その価値を知り、愚かな人は、失ってから、あわてて、その価値を知
る。

 わかりやすい例では、健康がある。健康のときは、健康の価値というのがなかなかわからな
い。病気になったり、けがをしたりしたときに、その価値を知る。

 同じように、仕事がある。仕事をしているときは、仕事をしていることに価値というのが、なか
なかわからない。「早く休みになればいい」とか、「できるだけ楽をしたい」とか、考える。

 しかしその仕事がなくなると、とたんに心の中に、ポッカリと穴があいたような状態になる。そ
れがわからなければ、その反対の状態を想像してみればよい。もしあなたがこう言われたとし
たら、あなたは、どう思うだろうか。

 「あなたはもう、何もしなくていい。あなたの役目は終わった。あなたには用はない」と。

 あなたはそれを喜ぶことができるだろうか。「長い休暇を手にした」と、喜ぶことができるだろ
うか。答は、NO!、のはず。

 人間の価値は、他者とのかかわりの中で、決まる。同時に、生きる価値も、他者とのかかわ
りの中で、決まる。人間は、いつも他人というカガミに自分の姿を映しながら、自分を知る。そ
れもなく、いわんや、死を待つだけの人生に、いくら健康であっても、あなたは、それに耐えるこ
とができるだろうか。

 私の知人にこんな老人がいる。55歳で定年退職してからというもの、優雅な(?)年金生活。
一日とて、働いたことがない。間に、数年ほど、地区の補導委員のようなことはしたことがあ
る。が、それだけ。近所のゴミ拾いすら、したことがない。

 家の裏に70〜80坪ほどの畑をもっているが、まさに庭いじり三昧(ざんまい)。健康なとき
は、朝から夕まで、その庭で遊んでいる。

 が、このところ健康が、思わしくなくなってきた。年齢は85歳を超えているのではないか。肥
満も重なった。歩くのもままならない。ときどき、妻に支えられて、庭の中を行ったり来たりして
いる。

 つまりその老人は、定年退職と同時に、死んだも同然という状態になった。一見、うらやまし
いような老後生活に見えるが、しかしそんな生活を、だれも、理想的な生活とは思わない。そ
の老人は、30年という年月を、1年、あるいは1か月にして過ごしただけ。

 (少し、言いすぎかな?)

 私も、ある時期、教材づくりに没頭したことがある。それなりに楽しかった。お金にもなった。
しかし今、振り返ってみると、そこに何もないことを知る。反対に、だれかに利用されただけとい
う思いだけが、今になって、日増しに強くなってきた。

 つまり仕事といっても、中身の問題もある。そういうことはあるが、「時間を無駄にした」という
思いは、年齢とともに、ボディブロウのように、ジワジワと体に響く。もし「後悔」という言葉が当
てはめるとしたら、そういう状態を、「後悔」という。

 そこで改めて、仕事論。

 仕事ができるということは、まさに権利であり、それができる者にとっては、特権である。繰り
かえしになるが、賢い人は、失う前に、その価値を知る。

+++++++++++

(付記)

 ところで昨日、電車に乗ったら、こんなポスターを見かけた。歌舞伎俳優の顔写真を背景に、
「老人力……」うんぬんという文言が書いてあった。要するに、「老人よ、働こう」という内容のポ
スターだった。

 それを見て、私なら、「ヤング・オールド・マン」という言葉を使うのに思った。

 ニュアンスとしては、年を取っても、現役で働くことができる元気な老人という意味である。そ
れについて書いた原稿がある。

+++++++++++

●ヤング・オールド・マン

ワ「私たちは、おかげで、健康よ。私、よく思うの。こうして無事、今まで、生きてこられただけで
も、不思議な気がするわ」
私「そうだね。健康だったということは、ありがたいね。仕事も、いろいろあったけど、とにかく、
順調だった。ぜいたくはできなかったけれど、そこそこに、いい生活はできた」
ワ「そうよ、まず、それに感謝しなければいけないわよ」

 私たちは、通りに出ると、駅に向って歩き始めた。近くに水族館があった。が、火曜日は、休
館日ということだった。その少し向こうには、何かのテーマパークがあるということだった。しか
しそこへ行くのはやめた。時刻は、午後の2時になろうとしていた。

 私たちは、裏通りを歩いた。静かな裏通りだった。途中、1人の大工さんが道路で、角材を電
動ノコで切っていたが、私たちが見かけたのは、その男だけだった。

 空き地に「蒲郡定住促進事業」という立て札が立てられているのを見たとき、ふと、「この町
も、不景気でたいへんなんだな」と思った。

私「あのころぼくたちには、何もなかった。でも、今は、何でもそろっている。家もあるし、車もあ
る」
ワ「そうよ、やっとあなたの考え方が、前向きになってきたわ」
私「そうだよな。これが前向きの考え方って、言うんだよね」
ワ「そうよ、ものは、そういうふうに考えたほうがいいのよ」

私「子育ては、重労働だった。たいへんだった。でも、今は、それも終わった。もう孫育てなん
て、ごめん。クソ食らえ!」
ワ「そうよ、孫のことは、息子たちに任せればいいのよ。あなたが心配しても、始まらないのよ」
私「ぼくたちはぼくたちで、自分の人生を楽しめばいい」
ワ「そうよ、そうなのよ。私たちは、ヤング・オールド・マンよ」
私「そうだ、ぼくたちは、ヤング・オールド・マンだ」

 工事中の通路を、やけに長く感じた。私たちは、通路を抜けると、プラットフォームに出た。そ
して帰りの電車に乗った。

●第二の人生

 老後は、第二の人生の始まりという。姉も、少し前、私にこう言った。何かのことで、私がグチ
をこぼしたときだ。

 「浩ちゃん、何、言ってるのよ。これからが、一番楽しいときになるのよ。夫婦、2人だけで、
好きなことができるのよ。旅行でも、何でも、よ」と。

 その姉の話をワイフに言うと、「それみなさい」というような表情を、私にしてみせた。私は私
で、それを見て笑った。

 私の考え方は、たしかにうしろ向きだった。マイナス思考というのだ。しかし、年齢などに、ど
ういう意味があるというのか。そこには、青い空があり、晴れた陽光がある。何を、私は恐れ、
何を心配しているのか。

 おかげで、健康だ。自由だ。その気になれば、やりたいことを何だって、できる。私に命令す
る人はいない。命令できる人も、いない。

 浜松駅へ着くころ、私はワイフにこう言った。

 「いつも出かけるときは、今日はやめようかと思う。しかし帰ってくるころになると、出かけてよ
かったと思う。今度の土曜日も、どこかへ行こうか」と。

 それを聞いて、今度はワイフが、うれしそうに笑った。

 駅前では、青色申告会の人たちが、ビラを配っていた。それを見て、「あの人たち、みんな知
っているわ。いつもお世話になっている人たちよ」と。

 相変わらず、白い陽光が、かわいた路面を明るく照らしていた。私たちは、人目もはばから
ず、手をつないで歩いた。
(終わり)

【老齢問題】

 例外なく、だれもが直面する問題。それが老齢問題。

 その老齢問題について、私は今、大きな心境の転換期を迎えている。ただ単なる一時的な
思いこみかもしれない。あるいはやがてすぐ、またもとに戻ってしまうかもしれない。

 しかし、今、私は、たしかに、ものの考え方を変えつつある。

 その一。老齢は、人生の終わりの始まりではないということ。いつしか人間は、年齢を、時代
ごとに、区切って考えるようになった。幼児期、少年期、思春期……と。しかしこうした区切り方
そのものが、まちがっている。そしてその区切り方に応じて、自分の人生を考えることは、まち
がっている。

 50年も、自分の体だって、少しくらいは、ガタがくる。そんなことは、当然のことではないか。
しかしだからといって、私の目に映る空は、少し白っぽくなったかとは思うが、私が、30年、40
年前に見た、あの青い空と、どこもちがわない。

 木々の緑も、雲の白さも、そうだ。

 私は、何も失っていない。何も、なくしていない。

 むしろ、あの切なくて、わびしかった30年前とくらべただけでも、今は、(すべてのもの)が、そ
こにある。家族もいるし、家もある。仕事もある。その私が、どうしてマイナス思考をしなければ
ならないのか。

 もう一度、あのゲオルギウの言葉を、ここでかみしめてみようではないか。

ゲオルギウというのは、ルーマニアの作家。一九〇一年生まれというから、今、生きていれば、
一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 老齢を認めるかどうかは、その人の問題。しかし認めたところで、マイナス思考になることは
あっても、何も、よいことはない。だったら、認めないこと。気にしないこと。忘れること。頭の中
に置かないこと。

 さあ、これから私は、運動にでかけるぞ。途中、本屋とパソコンショップに寄るぞ。子どもたち
とワイワイと騒いでくるぞ。したいことをするぞ。
(041117)

【付記】

 「幼児だから……」「子どもだから……」と、私たちは、子どもを見るとき、安易に、そう決めて
かかる傾向がある。

 それについては、私は、常、日ごろから、「おかしい」と主張してきた。しかし何のことはない。
実は、その自分が、自分に向って、「団塊の世代だから……」「初老だから……」と、決めてか
かっていた。

 明らかに、私は矛盾している。その矛盾に、今日、気がついた。

【団塊の世代の仲間へ……】

 ……と書いても、私の原稿の読者には、団塊の世代の人は、ほとんどいないと思うが、あえ
て宣言。

 私たちは、ほとんど何もわからず懸命に生きてきた。今も、生きている。さあ、これからも懸
命に生きていこう。

 思い出してみようよ、あの貧しかった時代。あの時代から見れば、私たちは、今、夢のような
生活をしているではないか。

 まだ30年は、がんばれるぞ! がんばるぞ! そこらの若者たちなんかに、負けてたまる
か!

 
+++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●我ら、ヤング・オールド・マン!

 青春時代と、今の時代を比較する。その比較をしながら、人は、老齢期が近づくと、(失った
もの)をなつかしみ、そしてその反動として、自分のおかれた立場を嘆く。

 しかし本当に、そうだろうか? 私たちは、青春時代にもっていたものを、本当に失ったのだ
ろうか? そう思いこんでいるだけでは、ないだろうか?

 南こうせつとかぐや姫の歌う歌に、「神田川」がある。「♪あなたは、もう、忘れたかしら……」
という歌詞の、あの歌である。
 
 あの歌を耳にするたびに、涙を流す人も、多いはず。私もその一人だが、まさにあの歌詞の
ままの状況を、私も経験している。そういう時代を思い出すと、この「今」という時代は、夢のよ
うな時代ということになる。

 物質的な繁栄だけではない。当時、こんなことを思ったことがある。結婚当初、私たちは、6
畳1間のアパートに住んでいた。つぎに移ったアパートも、4畳と6畳、それに狭い台所と食堂
だけだった。

 仕事も不安定で、収入も、それ以上に、不安定だった。そんな私は、ある日、近くの家を見な
がら、こう思ったことがある。「ぼくたちも、いつか、あんな家が持てるのだろうか」と。

 そのときの私は、家をもつことなど、永遠に不可能に感じた。「家」というより、家がもつ家庭
的なぬくもりをもつことなど、永遠に不可能と感じた。私には、縁のない話だと思っていた。

 もちろん仕事も、そうだった。幼稚園の講師といったところで、今でいうフリーターのようなも
の。若い女性の先生にすら、軽んじられた。はっきり言えば、バカにされた。

 そんな私が、57歳になった。たいした人間にはなれなかったが、しかしそれでも、あの時代
の「私」とくらべれば、夢のような「私」になった。家もある。車もある。それに何よりもすばらしい
ことに、家族もある。家庭もある。若いときのように、もう私は、孤独ではない。

 そうして考えてみると、私が失ったものは、何もないことに気づく。もともと美貌とかスタイルな
どといったものは、私には、無縁のものだった。顔にシワがふえたところで、また髪の毛が白く
なったところで、私は、それを気にしたことはない。

 ただ女性に、年ごとに相手にされなくなったのは、感じている。が、だからといって、それがど
うなのか? 仮に今、私が、若い女性に好意をもたれたところで、私にとっては、レストランの
ウィンドウに飾られた料理のようなもの。手をのばすことすら、できない。

 平均寿命のことを言う人もいる。57歳といえば、残りの寿命は、約30年弱ということになる。
しかしその平均寿命にしても、若いから、長いとか、老齢だから短いと言うことにはならない。
「死」の恐怖は、世代をこえて、だれにでもある。

 その恐怖が、多少、大きくなっただけ。しかしその一方で、今まで生きてこられたことに感謝
する。そんな気持ちが生まれてきた。

 大切なことは、健康であるかどうかということよりも、健康管理ということになる。さらに言え
ば、「今」をどう生きるかということになる。

 私は今まで、老齢になる私を、少し、おおげさに考えすぎていた。まちがっていたというので
はない。しかし老齢を気にするあまり、もっと大切なものを、見落としていた。私は、それに今、
気づいた。

 我ら、ヤング・オールド・マン(YOM)は、若いのだ!

【YOMの規約】

第1条

 結婚生活20年以上、子育てが終わりに近づいた、あるいは終わった我らを、ヤング・オール
ド・マン(YOM)と称する。

第2条

 我らYOMは、(1)健康管理を第一とし、(2)日々に新しいテーマについて考え、(3)常に前
向きに生きていく。

第3条

 我らYOMは、(1)利他、つまり奉仕と還元の精神を大切にし、(2)自己管理を徹し、(3)他
者と良好な人間関係を築く。

第4条

 我らYOMは、日々に(1)やるべきことを完遂し、(2)やりたいことをし、(3)悔いを残さないこ
とを、モットーとする。
(はやし浩司 YOM規約 ヤングオールドマン ヤング オールド マン)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●時間性

 ワイフが言う。「いやだったら、気にしなくていいのに」と。しかし気になる。世間では、「還暦」
とか何とか言う。気になる。が、何、それ?

 ところで、その人がもつ時間性というのは、個人によって、みなちがう。世の中には、1年を1
日のようにして過ごす人もいれば、1日を、1年のようにして過ごす人もいる。そのことがわから
なければ、台所のテーブルに止まる、ハエを見ればよい。せわしなく手足を動かし、あっという
間にやってきて、あっという間に去っていく。

 もしあれと同じ行動を人間にしろと言われたら、1時間、かかるかもしれない。あるいはこんな
ことも。

 一匹の蚊がやってきた。その蚊が、私の足の先から頭のところまで、スーッとあがってきた。
人間の高さに換算すると、約500メートル。(疑う人は、自分で計算してみたらよい。)つまり蚊
は、人間にすれば500メートルの高さの山を、数秒のうちに、あがったり、さがったりしている。

 もし人間が同じことをしようとしたら、ヘリコプターを使っても、5〜10分はかかる。歩いて、登
ったりおりたりすれば、1日、かかるかもしれない。

 つまり人間のもつ時間性は、蚊のもつ時間性の、数百分の1ということになる。蚊にすれば人
間は、恐ろしく動きが鈍く見えることだろう。

 これは人間と蚊の話だが、同じ人間どうしでも、時間性は、みな、ちがう。わかりやすく言え
ば、時間性は、その密度で決まる。時間性の濃い人もいれば、そうでない人もいる。

●濃密な人生

 限られた人生なら、時間性は濃ければ濃いほど、得ということになる。平均的な人が10日か
かってすることを、1日で、できる。単純に計算すれば、自分の人生を、10倍にすることができ
る。

ここでいう「得」という実感を得るのは、なかなかむずかしい。他人より10倍分濃い人生を送っ
たからといって、その10倍を実感するのは、むずかしい。が、反対に、時間を無駄にしたとき
に、それがわかる。くだらないテレビ番組などを、つい見るとはなしに見てしまったようなばあい
である。そういうとき、私のばあい、「しまった!」と思う。

だからその人に与えられた時間の長さは同じでも、それをどう使うかは、それぞれ個人の問題
ということになる。ダラダラと、だらしない時間の過ごし方をすれば、時間だけが無益に過ぎて
いく。

 それはたとえて言うなら、貯金のようなもの。「時間」という貯金である。時間イコール、「命」と
置き換えてもよい。その貯金にはかぎりがある。浪費すれば、あっという間になくなってしまう。
有効に使えば、それなりに長く使うことができる。

●脳みその穴

 が、ここでひとつの問題が起きる。

 年を取ればとるほど、脳みその底に穴があくということ。多くの人は、一度頭の中に入った情
報や知識は、そのままの状態でいつまでも脳みその中に残ると考える。しかしこれは誤解。あ
る年齢を超えると、あたかも脳みその底に穴があいたかのように、情報や知識は、どんどんと
下へこぼれ落ちていく。

 私も、パソコンを使って数か月前にできたことが、できなくなることが、しばしばある。たとえば
ソフトの使い方、など。英語の単語にしても、40歳を過ぎて覚えた単語というには、数えるほど
しかない。

 さらに思考そのものが、ループ状態になることもある。毎日、同じことを考えているだけ。毎
週、同じことを考えているだけ。さらに毎年、同じことを考えているだけ、と。

 一度、こういう状態になると、進歩など、望むべくもない。そういう状態のときに、脳みその底
に穴があくと、今度は、一気に、脳みその働きは鈍くなる。

 が、さらに悲劇はつづく。そういう状態になりながらも、その人自身が、それに気づくということ
はない。脳みそのCPU(中央演算装置)そのものが鈍くなる。コンピュータにたとえるなら、CP
Uのクロック数そのものが少なくなるため、全体に脳の働きそのものが全体として、遅くなる。
だから自分では、気づかない。

 ひとつの例だが、脳のCPUが鈍くなると、話し方そのものが、遅くなる。同時に、早口で話す
人の言葉が理解できなくなる。

●精進

 そこで釈迦は、「精進(しょうじん)」という言葉を考えた。「死ぬまで、精進あるのみ」と。

 脳みその底に穴があくなら、それはしかたのないこと。だれでも、そうなる。体の筋肉が衰え
るように、脳みその機能も衰える。そこで重要なことは、漏れ出る以上のものを、上から補うと
いうこと。

 10の情報が漏れ出たら、20の情報を補う。100の情報が漏れ出たら、200の情報を補う。

 つぎに思考のループ性。同じことを、毎日、同じように考える。そういうループ性をどこかで感
じたら、そのループ性から抜け出ること。が、実際には、これがむずかしい。そこで人は常に、
新しい世界に興味をもち、それに挑戦していく。その結果として、ループ性から抜け出る。

 新しい思想に接する。新しい分野に挑戦する。新しい人に出会う。

 もっともこんなことは、私が書くまでもなく、常識と考えてよい。つまり新しい世界を知ることに
より、その反射的効果として、自分のループ性に気がつくことができる。ループ性から、抜け出
ることができる。

●生きるということは、考えること
 
 さて、虫の話に戻る。

 虫がもつ時間性が、かりに人間のもつ時間性の10倍であるとする。(「10倍」でも、ひかえめ
な数字だが・・・。)もし虫が時計を考えたとしたら、時針、分針、秒針のほかに、もうひとつ、1
秒で1周する、細い針を考えるかもしれない。虫の動きは、人間の動きとくらべても、明らかに
10倍は、速い。

 が、その虫が、では人間とどこがちがうかといえば、答はひとつ。虫には、思考能力がないと
いうこと。与えられた情報をもとに、それを加工し、利用していく能力はあるかもしれないが、思
考能力はない。

 思考能力というのは、分析力、そして論理力で構成される。だからいくら脳のCPUのクロック
数が速いからといっても、それがそのまま、虫の脳みその性能につながるとは、考えられな
い。たとえて言うなら、ソフトのインストールされていない、パソコンのようなもの。

 思考能力というのは、それほどまでに高度なもの。かつ、思考するには、時間がかかる。こ
れもパソコンにたとえていうなら、パソコン自らがプログラムを組んでいくようなものかもしれな
い。虫の目からすると、思考している人間は、まるで眠っているかのように見えるかもしれな
い。

 しかし、だからといって、その分だけ、虫の人生が、人間のそれより密度が濃く、その分だけ
長いというかというと、そういうことはない。虫は虫として、(思考といえるようなものがあるかど
うかは、わからないが)、思考をループさせているだけ。

 そういう点では、虫は、「息(いき)ている」かもしれないが、「生(いき)ている」ことにはならな
い。ただこういうことは言える。

 人間から見れば、虫の一生は、数週間から数か月かもしれないが、虫自身は、それを短い
などとは思っていないということ。活動の量ということになると、かりにここに書いたように、10
倍とするなら、虫にとっての1年は、人間の10年分ということになる。

が、それでも虫は、「息ているだけ」。言い換えると、「息ているだけ」では、虫と同じ。人間がな
ぜ虫とはちがうかといえば、(考える)ところにある。その(考える)という部分が、人間と虫を分
ける。また考えるからこそ、人間は人間としての価値を維持することができる。

●長く生きる 

 平均寿命という言葉がある。それに対して、健康寿命という言葉もある。健康寿命というの
は、健康でいられる寿命をいう。ふつう(平均寿命)−10が、(健康寿命)と言われる。たとえば
平均寿命が84歳なら、84−10=74歳が、健康寿命ということになる。

 残りの10年は、不健康年齢ということになる。病気を繰り返したり、頭がボケたりする。つま
りそれまでが勝負。

 この計算式に従えば、私の健康寿命は、残り、10数年しかないということになる。(たったの
10数年だぞ!)「60歳」という年齢を気にするとすれば、むしろそちらの方である。「還暦(か
んれき)」とか何とか、そんなくだらない言葉に、振り回される必要はない。「残り、10数年しか
ない」という視点で、自分に緊張感を奮(ふる)い立たせる。

●これからの人生

 ではどうすれば、私は、残りの10数年を、有意義に過ごすことができるのか。人間として、
「生きる」ことができるのか。ただこのばあいも、「10」とか、「20」とかいう数字に、まどわされ
てはいけない。冒頭に書いたように、世の中には、1年を1日のようにして過ごす人もいれば、
1日を、1年のようにして過ごす人もいる。

 もし1年を10年にして生きることができれば、私の人生は、10倍の10年に延びることにな
る。

 そのひとつの方法が、「考える」ということになる。私のばあい、「真」の追求ということになる。
ほかにも、「善」の追求をする人もいるだろう。「美」の追求をする人もいるだろう。人は、人そ
れぞれだが、してはいけないことだけは、はっきりとしている。

 明日も今日と同じ。来月も今月と同じ。来年も今年と同じ・・・という人生には、意味はない。そ
んな人生の送り方だけは、してはいけない。それこそ、10年を1年にして生きるだけ、というこ
とになる。もっと言えば、ただ死を待つだけの人生ということになる。

●人間は中身
 
 60歳になったからといって、60歳らしく生きなければならないということはない。またそんなこ
とを、考える必要もない。中には、「コンパクトな人生論」を説く人もいる。生活のレベルをさげ、
範囲を狭くする。しかしどうしてコンパクトでなければ、ならないのか。

 どうせ死ねば、私もろとも、この宇宙すべてが消えてなくなる。だったら、それまでの人生。そ
れまで生きて、生きて、生き抜く。未練の痕跡を残さないほどまでに、燃やし尽くす。私はひと
り。そのたったひとりの私が、どうして他人に遠慮しなければならないのか。自分という人間に
遠慮しなければならないのか。

 バカめ!

 恩師の田丸謙二先生は、先日、私にメールをくれた。その中で、先生は、「老いと戦うすばら
しさ。感謝、感謝」と書いていた。

 人は老いることにより失うものも多い。それは事実だし、避ける方法もない。しかし同時に得
るものも多い。その第一。人は老いてはじめて、生きることのすばらしさを知る。生きることの
価値を知る。あのアインシュタインは、かつて、こう言った。『生きていること自体が奇跡』と。そ
れが実感としてわかるようになる。

 私にしても、今の命が、あと何年つづくかわからない。ひょっとしたら、あと数か月かもしれな
い。が、それまで燃えて燃えて、燃やし尽くす。明日、死の宣告をされても、ジタバタしないよう
に、今日を懸命に生きる。来年、死の宣告をされても、ジタバタしないように、今年を懸命に生
きる。10年後に死の宣告をされても、ジタバタしないように、この10年間を懸命に生きる。

 私の人生は、満60歳から、始まる! さあ、ここはしっかりと、はちまきを締めなおしてがん
ばろう!

【団塊の世代へ】

 私たちが満75歳までがんばれば、つまり何らかの形で現役として働けば、少子化の問題は
解決する。元気で働ける人だけでよい。それで少子化の問題は、解決する。仮に団塊の世代
と呼ばれる人の中の30%の人が、75歳まで働いたとすると、日本の労働人口は、私の試算
では、2015年から、労働者人口は、増加に転ずる※。

 だから元気で働けるうちは、元気で働こう。それは義務というより、特権である。元気で働け
る者の特権である。元気で働ける者が働けば、そうでない人たちの分まで、カバーする。

 不運にも、50代、60代で、大病をわずらう人もいるかもしれない。認知症になる人もいるか
もしれない。そういう人たちのためにも、元気で働ける人が働けば、回りまわって、結局は、そ
ういう人たちのためになる。

 元気で働ける人が、庭いじりや、孫の世話などで、時間をつぶしてはいけない。年金をアテに
して、遊んで暮らしてはいけない。生活の合間にするのは、それはそれでかまわない。しかしそ
れが決して、あるべき老後の姿ではない。またそういう生活を、理想の老後と思ってはいけな
い。

注※

 乱暴な計算だが、団塊の世代(昭和22年〜26年生まれ)、200万人x5年分x0・3=600
万人。つまり30%の人たちが働きつづければ、600万人の労働人口を、団塊の世代だけで、
カバーすることができる。これらの人たちが、満70歳〜75歳の間も働けば、2015年以後、
少子化で減少する労働人口、約500万人分をカバーすることができる。

 さらに私たちのあとにつづく者たちが、同じように75歳まで働けば、少子化の問題は、その
まま霧散する。

 私たち団塊の世代は、戦争を経験することもなく、豊かな繁栄の時代を生きることができた。
それなりにきびしい時代ではあった。が、世界的に見れば、私たちはたいへん恵まれた時代を
生きたと言える。そこで私たちに残された責務は、ただひとつ。次の世代の人たちに、その豊
かさを、遺産として残すことである。還元することである。

 繰り返すが、元気で働ける者が、元気で働けるというのは、まさに特権である。その特権を、
おおいに楽しもう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 60歳
 還暦 満60歳)







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●ギャグ化する子どもたち

+++++++++++++

「IQサプリ」という言葉がある。
いわば、「トンチ」のことだが、
そのトンチが、明らかに子どもたちの
世界を侵襲し始めている。

わかりやすく言えば、子どもたち
の世界も、ギャグ化し始めている。

たとえば作文を書かせても、
「ぼくの夢は、ゴジラと戦って、
ゴジラの肉を食べること」などと、
平気で書いたりする。

昨日も、こんなことがあった。

+++++++++++++

【問】
14人の友だちに、4分以内で連絡が届くように、連絡網をつくりたいと思っています。連絡は、
電話でします。また電話は、1人、1分かかるものとします。どのような連絡網を作ればよいで
すか。(たとえば、A→Bで、1分。B→Cで、1分、計2分……かかります。)(浜松市内N高校中
等部・07年出題問題より)

 この問題を、小5の子どもたちにやらせてみた。学校ではみな、トップクラスの子どもたちであ
る。が、この問題を出すやいなや、みなが、こう言い始めた。

A「電話を14台、もってくればいい」
B「でも、やっぱり、14分、かかってしまう」
A「だったら、3分以内に、みなに電話をかけ、受話器を並べておいて、残りの1分で、大声で、
しゃべればいい」
C「電話を14台も、もってこれないよ」
A「どこかの病院の電話を借りればいい。病院になら、電話がたくさんある」と。

 つまり数学の問題ですら、彼らはすぐギャグ化してしまう。

私「もう少し、まじめに考えろ!」
D「だったら、1分もかけないで、早口で、30秒ですませばいい」
私「これはそういう問題ではないの!」
A「私だったら、早口だから、30秒で、できる」
私「だったら、答にそう書けばいい。ぼくがバツをつけてあげる」
D「どうしてバツなの?」と。

 多くの人は、思考と情報を混同している。情報量の多い子どもを、「賢い子ども」と錯覚してい
る。さらにこうしたトンチ的発想のできる子どもを、「賢い子ども」と錯覚している。

 何度も書くが、思考力は、分析力と論理力で決まる。子どもたちが言っていることは、論理で
はなく、トンチである。トンチは、「頓知」と書く。国語大辞典には、「即座の知恵、機転、機知、
ウィット=quick wit」とある。

 子どもの賢さは、(おとなの賢さもそうだが)、思考力で決まる。トンチではない。思考力であ
る。トンチなら、まだよいが、それが最近では、ここにも書いたように、ギャグ化している。つまり
ものごとを、まじめに考えようとする前に、それを茶化してしまう。

 で、私は、本気で怒った。

私「お前たち、もっとまじめに考えろ。電話は1台しかない。連絡するのに、1人、1分、かかる。
それが条件だ」
A「もし、友だちが、外出していたら、どうするの?」
私「そういう偶然性は、考えないの。もし外出していたら、留守番電話に伝言を残しておけばい
い」
A「留守番電話がなかったら?」
私「そんなこと、知らない。だまって考えろ!」と。

 こうした傾向は、冒頭に書いた、「IQサプリ」という言葉が耳に入るようになってから、大きくな
った。ある時期は、毎晩のように、こうした番組がテレビで流されるようになった。たしかに頭の
体操にはなるだろう。しかしだからといって、つまりそれを繰りかえしたからといって、「賢い子
ども」には、ならない。

 それに(機転)程度のことだったら、私の飼っている犬のハナにだって、できる。追いかけてい
たトカゲが柵の中にもぐったようなとき、ハナは、先回りして、柵の向こうへ行く。が、そういうこ
とができるからといって、私は、ハナに思考力があるとは思わない。頭はよいが、それと思考
力とは、まったく異質のものである。

 それがわからなければ、最初の問題を、あなた自身で解いてみたらよい。かなり難解な問題
である。

 たとえば……

 (A)→(B)→(C)→(D)→(E)で、4分、かかる。

 そこで、

(A)→(B)→(C)→(D)→(E)
↓  ↓   ↓   ↓
(F)→……
 ↓
(G)
 ↓
(H)
 
 ……というように連絡網をつくっていく。たいていの人は、この段階で、「ああでもない」「こうで
もない」と頭をかかえ始めるだろう。つまりその(苦しみ)こそが、思考の特徴ということになる。
条件といってもよい。最近の子どもたちは、その苦しむということをしない。あるいは、それを意
図的に避けようとする。

 その結果が……。話が飛躍するが、大阪府の元知事の、横山N氏であり、宮崎県の知事
の、S氏ということになる。昨日も、こんなニュースが伝わってきた。

 自民党の総裁選挙で敗れたA氏は、こう言ったという。「これから家に帰って、たまったコミッ
ク本(ゴルゴ13)を、みんな読む」と。政治そのものが、ギャグ化している。が、悲しいかな、日
本全体がギャグ化しているから、それをギャグとは、だれも気づかない。

 日本人、1億、総ギャク化!、……と、子どもたちを見ながら、私は、そんなことを考えてい
た。

+++++++++++++++

これに関連して、以前書いた
原稿を、ここに添付します。

+++++++++++++++

●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++++++++++

親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは
一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になっ
たとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計
算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかっ
た。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のも
のを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S
君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそ
れはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法
が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育と
いう。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能と
なって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前
を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれ
ない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 
子供 才能とこだわり 思考のバランス)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「マッチ棒4本で、81を作れ」

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小学5年のMさんが、こんな
問題を出した。

「マッチ棒4本で、81を作れ」と。

しばらく考えて答を言うと、
「さすが、先生!」と言ってくれ
た。

どこかのテレビ番組で、そういう
クイズが出たのだろう。

「君が考えた問題か?」と
聞くと、「友だちから聞いた」と。

「自分で考えたというのなら、
それはすばらしい。しかし友だち
から聞いたというのでは、意味が
ない。そういう問題は、自分で
考えなくちゃあ」と。

+++++++++++

 以前書いた原稿を読みなおしてみる。「またか!」と思われる人も多いかと思うので、今日は
自分の書いた原稿に注釈を加えてみたい。

+++++++++++

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。

『思考が人間の偉大さをなす』とも。

よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別の
ことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その
園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。

私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人は
こう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。

デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。

正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなこと
があった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。

おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のこ
とを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがん
でくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育
は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基
本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の故森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判
断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98
年・田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。

ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++

 こういう文章をいつも書いているので、ときどき、こう言われる。「先生は、夜のバラエティ番
組が嫌いのですか?」と。

 好きとか、嫌いとかという問題ではない。ああいうのを見ていると、「これが同じ人間か」「これ
が同じ日本人か」と思って、悲しくなる。あえて言うなら、情報の洪水。その洪水は、頭の上から
入ってきて、そのまま下へと流れ落ちていく。

 ロンドン大学の森嶋先生は、この原稿を書いたあと、しばらくして亡くなった。全国紙にも、そ
の訃報が載っていた。恩師田丸先生の親友であったとも聞いている。だからここでは「故」をつ
けて、「故森嶋……」とした。

 その故森嶋名誉教授は、こう言っている。「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育であ
る。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自
己判断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」と。

 こう言われても、ピンとこない人も多いかもしれない。とくにこの日本で生まれ育ち、日本で生
活している人には、それがわからない。(……と思う。)ただこういうことは言える。

 (考える人)からは、(考えない人)がよくわかる。「よくわかる」というより、はっきりとした(差)
を感ずる。

 しかし(考えない人)からは、(考える人)がわからない。が、その(差)は相対的なもの。たとえ
ば田丸先生や故森嶋先生レベルから見ると、私など、まったくものを考えない人間に映るかも
しれない。しかしそんな私でも、ときどき(考えない人)が、どういう人か、わかるときがある。

 ……というより、これは極端なケースかもしれないが、そのことは老人介護センターへ行って
みると、よくわかる。あそこで日々を過ごしている老人たちは、何も考えていない。まったく、何
も考えていない。

 ではそこにいる老人たちと、私が、どれほどちがうかと言えば、それほど、ちがわない。中
に、「私は考えている」と言う人はいる。(私もその部類だが……。)しかしその実、何も考えて
いない。多くは、日々の生活を繰りかえすように、毎日、同じことを繰りかえし考えているだけ。

 思想の進歩など、もとから望むべくもない。そこでああのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒
険」の著者)はこう言った。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。マーク・トウェーン
は、「皆と違ったことをするのが、自由」という意味で、そう言ったが、この言葉を拡大すると、こ
うなる。

 『昨日と同じことを考えていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。あるいは、
 『みなと同じことを考えていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』でも、よい。

 考えるということは、まさに日々の研鑽(けんさん)のみによって、磨かれるもの。そしてそれ
には、際限がない。目標もなければ、ゴールもない。あるいは日々の研鑽をやめたとたん、考
えはしぼみ、後退する。

 それはまさに、健康論に似ている。究極の健康法など、ない。「これをしたから、一生、健康」
と言うような健康法はない。体を鍛えるのをやめたとたん、その人は、不健康に向かって、まっ
しぐらに進む。

 さて、今、多くの子どもたちもまた、思考と情報を混同している。何度も書くが、思考は、分析
と論理によって成り立つ。分析や論理をともなわない思考は、一見、思考に見えても、思考でも
何でもない。よい例が、冒頭にあげた、「マッチ棒4本で、81を作れ」という問題である。

 答は、マッチ棒を2本ずつ使って、「く」を2つ作る。それで「くく(九九)」とし、「九九、81」とな
る。

 私はこの問題を解くとき、「81」という数字に着目した。かけ算の「81」を連想した。だから、
「九九」→「クク」となった。その「クク」が、「くく」となった。しかしこんなのは、知恵の(遊び)でし
かない。英語で言えば、リドル(とんち)。あえて言うなら、ヒラメキ! ここでいう思考とは、本質
的に別のものである。

 現にそのあと、その問題を出したMさんは、今度は血液型による性格判断の話を、し始め
た。「O型の人は、ジコチューなんだってエ」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
 思考論 思考と情報)






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●障害をもつ子ども

●Tさん(群馬県)からのメール

++++++++++++++

体に障害をもつ子どもをもつ、Tさん。
そのTさんから、こんなメールが届いた。

++++++++++++++

はじめて相談いたします。 今悩んでいるのは、3男(中2)のことです。

生まれつき右足が不自由で、2才のときに手術をしました。現在、歩行には問題がありません
が、速く走ったりなどは、できません。自分はみんなと違い、自由に運動ができないと知ったこ
ろ(4年生)から、なんで俺だけ・・・という気持ちが強くなったようです。

中学で職業調べを始め、運動に制約があると、資格をとる上での第一条件(主に航海士など)
と知り、ショックを受け、私に向かい、お前のせいで俺の夢が奪われた・・責任とれ・・と、くどく
ど言いつづけたり、暴力を振るったりするようになりました。

また、寝起きなどは特に悪く、お前の声がキモイ出て行けなどと言い、腕や背中を殴ったりしま
す。塾や学校に遅刻するのも、お前のせいだ・・と何事も自分は反省せず、私のせいにしま
す。

俺の右足を奪ってどうする気だ・・何かいうことはないのか、と毎日のように怒鳴ります。私は、
わざとじゃないけどごめんね、と謝るだけです。夢がなくなったから、勉強してもしょうがない、と
いい、宿題はしません。成績は悪いです。

去年、仲の良かった友達とけんかしてから、親友もいないようです。家で会話するのも、私だけ
で、夫や兄弟とはほとんど会話しません。

二学期になり、学校行かないといい、5日ほど休みました。 言いがかりと暴力で、毎日がとて
も不安です。どうしたら、息子の心が平和になってくれるのでしょうか。将来にもっと夢と希望を
持ってほしいのですが・・・障害をもってなかったら・・と私もいまさらながらに思ってしまうことも
あります。家族で笑い会える日心待ちにしています。アドバイスをよろしくお願いします。
(07年9月)

【はやし浩司よりTさんへ】

拝復

こんばんは!

メールを読みました。

読んで、こう思いました。

愛し合うべき人たちが、たがいに憎しみ合っている。
キズつけ合っている、とです。とても悲しい話ですね。

お子さんは、反抗期(燃え上がってくる、エネルギー)
+自我の同一性の危機的(自分で何をしたらよいか
わからない)状況で、情緒的にも混乱していると
考えてください。

障害のことは、半ば口実にすぎません。

私も個人的に似たような場面を経験していますが、
『許して、忘れる』です。

この言葉だけを念じて、この時期を過ぎてください。

あなたの思いは、必ず、お子さんに届きます。
時間はかかりますが、そのときあなたたちは、
真の親子関係を築くことができます。

不登校の問題も同時進行の形で起きていますが、
この際、子どもの心だけを考え、最優先します。

不登校など、何でもない問題です。

運命は受け入れましょう。運命にさからうと、
運命はキバをむいて、あなたの襲いかかってきます。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、
何ともありません。運命のほうが、シッポを巻いて
逃げていきます。

そういうものです。

子どもの混乱は、今しばらくつづきますが、今こそ
あなたの愛がためされているときだと思ってください。
そしてあなた自身が、「十字架のひとつやふたつ何だ!」と、
いっしょに背負う姿を見せてあげてください。

ここが正念場ですよ。逃げてはいけませんよ。

「あなたはさみしいのね」「孤独なのね」「つらいのね」と
子どもに話しかけてみてください。そしてどんなことが
あっても、子どもを見捨てない……今はその混乱期
です。

このタイプの子どもは、一度、どこかで自分の運命を
受け入れてしまえば、ウソのように静かになります。
その時期は、近いと思います。というのも、
こういう状態で、いちばんつらい思いをしているのは、
あなたの子ども自身だからです。

そのつらさに、子ども自身が耐えられなくなります。
心理学にも、(フリップ・フロップ理論)というのがあります。

心が不安定な状態では、本人自身が疲れるため、
やがてどちらかに転ぶ……という理論です。

そのとき、静かになります。

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++++++

【子育てのすばらしさを学ぶ法(許して忘れろ!)】


子育てのすばらしさを教えられるとき


●子をもって知る至上の愛    


 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。


●自分の中の命の流れ


 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。



 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。し
かしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなも
のがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分
も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。 



●神の愛と仏の慈悲


 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。



 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし
子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見
せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教
えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれな
い。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の
愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な
心をいやしてくれる。


●神や仏の使者


 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか
る。



 子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。


+++++++++++++++++++++++++++

【子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)】


親が子どもを許して忘れるとき


●苦労のない子育てはない


 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。



 よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の
山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。



 たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこか
ツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あ
いさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が
実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。


●子どもは下からみる


 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。


 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。



 私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。



 私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それも
できなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人
が、海から二男を助け出すところだった。


●「こいつは生きているだけでいい」


 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。



 昔の人は、いつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上
ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行
きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という
原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。


●子育ては許して忘れる 


 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。 




 英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」と
も訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるため
に許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていた
ように思う。が、ある日。その意味がわかった。


 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。



 つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るた
めに忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の
愛の深さが決まる。



 もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に
問題があったとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。


 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。


***************************

あなたはけっしてひとりではないし、またほとんどの親が
それぞれ問題をかかえて、がんばっています。

外からは、それが見えないだけです。

また気が向いたら、いただいたメールを、みなさんに
紹介させてください。よろしくお願いします。

マガジンでは、いろいろな方の問題をよく取りあげます。
また参考にしてください。

おやすみなさい。

どうか、心安らかに!

そうそうもし荒れがあまりひどいようでしたら、
まずTさんだけで、心療内科を訪れて
みてください。アドバイスがもらえるはずです。

今は、よい薬もあります。

ひとりで悩まないこと。

では、

はやし浩司






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●自己愛

+++++++++++++++++

自己中心性が、極端に肥大化した
状態を、「自己愛・Narcissistic personality」
という。

極端な自己中心性にあわせて、完璧主義、
他人の批判などを許さない、などの特徴
がある。

で、その自己愛が、さらに極端化し、
通常の社会生活がむずかしくなった
状態を、自己愛性人格障害と呼ぶ。

DSM(アメリカ精神医学会(APA)、
『精神障害の診断・統計マニュアル』
(Diagnostic and Statistical Manual of 
Mental Disorders)は、つぎのように
定義する。

●自己愛性人格障害 

A.自己の重要さ、まはユニークさをおおげさに感じること。
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)

B.再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的な愛の空想に夢中になること。

C.自己宣伝癖。
  (例:絶えず人の注意と称賛を求める)

D.批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、劣等
感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である。

E.以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。

(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
   (例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)

(2)対人関係における利己性:
   自己の欲求にふけるため、または自己の権力の拡大のために他者を利用する。
   他者の自己保全や権利を、ないがしろにする。

(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。

(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。
   (例:重症の病気にかかっている人の苦悩を感じ取れない)
(DSM日本語版より抜粋)

++++++++++++++++

 「自己愛」というと、この日本では、どこか美しい(?)響きを感じながら、それをとらえる人は
多い。しかし自己愛は、軽蔑すべきものであって、けっして、賞賛されるべきものではない。

 要するに自分勝手でわがまま、自己中心的で、自分がいつも舞台の上の主人公でいないと
気がすまない。他人の心を思いやる余裕もなければ、共感性、共鳴性がない。つまりは、どう
しようもない人間。

 が、このタイプの人ほど、外の世界では、そうでない人間として振る舞う。他人の不幸話に、
それらしい顔をして耳を傾ける、わざと控えめな自分を演ずる、など。しかしそれは仮面(ペル
ソナ)。相手が自分の意図したとおりの反応を示さなかったりすると、激怒してみせたり、その
人をこきおろしてみせたりする。

長い時間をかけて、「それでは損」と、学習するためと考えるとわかりやすい。つまり自分の中
の自己愛を隠すために、その反対の人間を演じてみせる。しかし仮面は仮面。心の底から伝
わってくる人間味がない。

 子どもの世界でも、こうした自己愛的性格は、小学の低学年から現れ始める。中学生になる
ころには、それが「性格」として定着する。

 一般に子どもの自己中心性は、年齢とともに、修正されていく。大きく分けて、内容は、つぎ
の2つに分けて考える。

三十五、空間的自己中心性……「自分は世界の中心にいる」と思いこむ。
三十六、精神的自己中心性……「私だけが絶対である。自分だけが正しい。ほかはまちがっ
ている」と思いこむ。

 この段階にまで進むと、他人に対する共感性、共鳴性が、極端に低下する。そのため、ズケ
ズケと言いたいことを言ったりする。あるいは反対に、同情したフリをしながら、他人の不幸
話、失敗話を楽しむ。が、その一方で、他人が自分に対してそれをするのを許さない。そのた
め、他人の心がわからなくなる。他人の立場や置かれた状況が、的確に判断できない。

 たとえば突然電話をかけてきて、「明日、そちらへ行くから」などと言ってきたりする。こちらの
都合など、まるで構わない。「私が行けば、あなたは喜ぶはず」という前提でものを考える。

 そこで私が、たとえば、(あくまでもたとえばの話だが……)、「明日は仕事があるので、1時
間くらいしか時間が取れない」などと答えたりすると、とたんに不機嫌になったりする。

 話がそれたが、こうした自己中心性は、そのつど他人とのかかわりの中で、修正されていく。
言いかえると、(他人とのかかわりがない)→(自己中心性が肥大化する)→(ますます他人と
のかかわりがもてなくなる)の悪循環の中で、やがて自己愛におぼれるようになる。

 子どもの世界では、そういう点でも、「お宅族」というのは、けっして好ましい状態ではないとい
うことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛 自己愛性人格障害)









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●リタリンは安全か?

++++++++++++++

現在、ADHD児と診断された
多くの子どもたちが、リタリンという
名前の薬を処方され、服用している。

しかしそのリタリンは、安全なのか。

M県に住んでいる、Kさん(母親)から、
質問があったので、アメリカのサイトから、
検索してみた。

アメリカでも、リタリンの服用について、
多くの臨床医たちが疑問を感じ始めて
いる。

出典は、アメリカ「Data Search Worldwide, Incまる」

こうした精神薬の子どもへの投与は
慎重であったほうがよい。

ADHD児についても、その年齢に
なると、表面的には、それがわからなく
なる。

++++++++++++++

【Psychiatric Disorders】(情緒障害)

The "solution" to ADHD – Ritalin and similar drugs (ADHD治療薬―リタリンと類似し
た薬物)

The Drug Enforcement Administration (DEA) has established 5 schedules (or classes) of 
controlled substancesまる Random House Dictionary defines a controlled substance as, "
any of a category of behavior-altering or addictive drugs, as heroin or cocaine, whose 
possession or use are restricted by lawまる" Drugs in Class I (or Schedule I) have the 
highest potential for abuse and dependence and, "typically, the only use for these 
substances are for research purposesまる Examples include LSD and heroinまる" Class II 
(Schedule II) includes drugs, "that have the highest abuse and dependence potential for 
drugs with medicinal purposesまる Examples include analgesics (drugs used to relieve pain) 
like morphine and Demerolまる" The above quotes are from The Essential Guide to 
Prescription Drugs, by Drsまる Rybacki and Longまる As the authors also point out, the 
DEA has classified Ritalin as a Class II drugまる
"Stimulants are the drugs most frequently prescribed for ADHD in the hope of controlling 
behaviors described as hyperactivity, impulsivity, and inattentionまる With their chemical 
names in parentheses, the drugs include:

まるRitalin (methylphenidate) (リタリン)
まるDexedrine and DextroStat (dextroamphetamine or d-amphetamine) 
まるAdderall (d-amphetamine and amphetamine mixture) 
まるDesoxyn and Gradumet (methamphetamine) 
まるCylert (pemoline) 

"Except for Cylert, all of these drugs have nearly identical effects and side effectsまる (Cy
lertを除いて、リタリンなどすべての薬には、特有の効果と、副作用がある。)Ritalin and the 
amphetamines can for most purposes be considered one type of drugまる"
Drまる Peter Breggin, from his book Talking Back To Ritalin                 
"Perhaps the best known effect of chronic stimulant administration is psychosisまる (長期
にわたる刺激剤投与の、もっともよく知られた副作用は、精神障害である。)Psychosis has 
been associated with chronic use of several stimulants; eまるgまる, amphetamines, 
methylphenidate (Ritalin), phenmetrazine and cocaine…(This) psychosis mimics paranoid 
schizophrenia or paranoia so closely that it has been misdiagnosed as such by experienced 
clinicians many timesまる"
Predicting Dependence Liability of Stimulant and Depressant Drugs
by Drまる Klaus Unna, MまるDまる and Travis Thompson, PhまるDまる

"Ritalin is structurally related to amphetamine…Its pharmacological properties are 
essentially the same as those of the amphetaminesまる"
Goodman and Gilman's The Pharmacological Basis of Therapeutics (1985)  

The side effects of Ritalin on our childrenまるまるまる(リタリンの子どもへの副作用)

The following list of Ritalin side effects has been culled from 35 references and studies 
discussed in the book Talking Back To Ritalin by psychiatrist Drまる Peter Bregginまる  
They are in no particular orderまる Some of these side effects are very common, others 
not as frequent, while others are rare: (以下の副作用は、ありふれたものもあれば、頻繁に
現れるものでもないもの、あるいはまれに現れるものである。)

★ pacing(歩きまわること)
★ impulsivity(衝動性)
★ agitation(錯乱、興奮性)
★ personality changes(性格の変化)
★ depression(落ち込み、抑うつ感)
★ "zombie" behavior(ゾンビのような行動)
★ inhibition of emotional feeling(感情の抑制)
★ blurred vision(ぼんやりとした幻覚)
★ muscle cramping(筋肉痙攣)
★ sadness(悲しみ)
★ tachycardian (abnormal increase heart rate)(異常な心拍数の増加)
★ psychosis (general term for any serious mental disorder)(一般的な意味での精神障害)
★ nausea(吐き気、むかつき)
★ dry mouth(口乾)
★ hair loss(頭髪が抜ける)
★ withdrawal symptoms(引きこもり症状)
★ skin disorders(皮膚障害)
★ oculogyric crisis (spasms of the eye muscles)(目の筋肉痙攣)
★ confusion(混乱)
★ stupor(知覚麻痺)
★ euphoria(多幸症……感情の病的高揚状態)
★ obsessive focusing on a routine task(日常的業務に関する、強迫観念)
★ increased weepiness(悲哀感の増大)
★ grimacing(しかめ面)
★ feelings of great power(強大感情)
★ fearful behavior(恐怖行動)
★ seeing and feelingsmall creatures, especially bugs(虫のような小生物を見たり感じたりする)
★ incessant talking(絶え間ない会話)
★ loss of sensation in fingers(指の感覚の喪失)
★ enuresis (loss of control of urination)(遺尿……遺糞尿コントロールの喪失)
★ marked blotches(おでき、吹きでものなど)
★ worsening of ability to think and learn(学習能力の悪化)
★ abnormal physical movements(異常な肉体的動き)
★ handwringing(手を握ること)
★ inattention(集中力欠如)
★ restlessness(落ちつきなく動くこと)
★ irritability(短気、かんしゃく)
★ social withdrawal(社会的引きこもり)
★ a pinched, somberexpression(陰湿感)
★ leukopenia (reduced white blood cell count)(白血球の減少)
★ heart palpitations
★ increased blood pressure(血圧増加)
★ dizziness(めまい)
★ headache(頭痛)
★ tic syndromes*(チック)
★ vomiting(吐き気)
★ weight loss(体重減少)
★ dependency symptoms(依存的症候群)
★ addiction symptoms(常習症候群)
★ liver disorders(肝機能障害)
★ severe convulsions(重度のひきつけ)
★ hallucinations(幻覚症状)
★ emotional instability(情緒不安定)
★ nervousness(神経質)
★ paranoia(パラノイア)
★ dysphoria (painful emotions)(精神不安……苦痛感情)
★ loss of "sparkle"(活力喪失)
★ paranoid schizophrenia(偏執分裂病)
★ body distortions(体のゆがみ)
★ ringings in the ears(耳鳴り)
★ tiredness(疲労感)
★ dopiness(不活発さ)
★ arm-waving(腕振り)
★ foot-tapping(足で床をたたくこと)
★ aggressive behavior(過激行動)
★ feeling hot(高熱感)
★ diarrhea(下痢)
★ hyperventilation(過呼吸)
★ excessive hugging and clinging(過度なしがみつき、抱きグセ)
★ suppression of the production of the hormone prolactin(プロラクチンの過剰分泌)
★ foot jiggling(足をせかせかと動かす、貧乏ゆすり)
★ anxiety(不安感)
★ insomnia(不眠)
★ memory problems(記憶障害)
★ constriction of mental activity(精神活動の緊縮)
★ inhibition of spontaneity(自発性の抑制)
★ anemia (a blood disorder
thrombocytopenic purpura (loss of factors for blood clotting)(無気力、虚脱感)
★ excessive central nervous stimulation, possible causing convulsions
★ "Tourette's symdrome**(ツーレット症候群)
★ loss of appetite(食欲減退)
★ stomach pain(胃痛)
★ growth suppression (including brain growth)(成長抑制、脳の発達抑制)
★ twitching(びくびくする)
★ abnormal thinking(異常な思考性)
★ hostility(敵意)
★ amnesia(記憶喪失)
★ neurosis (general term for any minor mental disorder)(精神神経症)
★ hypoactive (opposite of hyperactive)(過剰行動)
★ babbling(無駄口)
★ arching of the arms and legs(腕や脚のひきつり)
★ listlessness(ものうげ)
★ dazed feeling(ぼんやりとした感じ)
★ teeth grinding(歯ぎしり)
★ continuous, involuntary(持続的な無気力)
★ tremulous tongue movements(舌の震え)
★ wild, out-of-control behavior(制御できない暴力行為)
★ mottled skin (skin w/spots and disruption of growth hormone(斑紋)
★ visual disturbances(見た目の騒々しさ)
* tics is a general term which includes a wide variety of abnormal movements, including 
facial twitches and grimaces, eye blinking, and various abnormal movements of the feet, 
hands, arms, and legs
** Tourette's syndrome involves a combination of tics with spontaneous, uncontrollable 
vocalizations often in the form of a single word that may be obscene or offensive.

What the experts have to say about Ritalin...(リタリンについての専門家の意見) 

"The latest survey showed that about 7 percent of Indiana High School students had used 
Ritalin nonmedically at least once, and 2.5 percent of high school students use it monthly or 
more frequently…Used non-medically, it often is ground into a powder and snorted like 
cocaine, or diluted and injected like heroin."
Indianapolis Star article, "Teen abuse of Ritalin taking root," 5 August 1998

"Sufficient data on safety and efficacy of long-term use of Ritalin in children are not yet 
available." (Note: Ritalin was first introduced in 1956)
Ciba-Geigy Pharmaceuticals (makers of Ritalin) info sheet on the drug

"The mode of action (of Ritalin) in man is not completely understood, but Ritalin 
presumably activates the brain stem arousal system and cortex to produce its stimulant 
effect. There is neither specific evidence which clearly establishes the mechanism whereby 
Ritalin produces its mental and behavioral effects on children, nor conclusive evidence 
regarding how these effects relate to the condition of the central nervous system."
Ciba-Geigy Pharmaceuticals (makers of Ritalin) info sheet on the drug

"In clinical practice, children are routinely diagnosed with ADHD and treated with Ritalin if 
they display one, two, or three of these characteristics, or even a few behaviors that 
resemble these traits. While the most recent edition of the diagnostic manual added the 
requirement that the symptoms appear in two or more settings, children are commonly 
diagnosed on the basis of their behavior in school or a single classroom."
Dr. Peter Breggin-, from his book Talking Back to Ritalin 

"Through these criteria, describing common, everyday behavior of children, the rhetoric of 
science transforms them into what are purported to be objective symptoms of mental 
disorder. On closer inspection, however, there is little that is objective about the diagnostic 
criteria."
S. Kirk and Kutchins from "The Selling of DSM: The Rhetoric of Science In Psychiatry"
 
"I wrote to the Food and Drug Administration (FDA), the Drug Enforcement Administration 
(DEA), to Ciba-Geigy (manufacturer of Ritalin), to Children and Adults with Attention Deficit 
Disorders (CH.A.D.D.) and four times to leading ADHD researchers at the National Institute 
of Mental Health, requesting that they direct me to one or a few articles in the peer-
reviewed, scientific literature that constitutes proof of a physical or chemical abnormality in 
ADHD, thus making it a 'disease'. I have yet to receive anything which would constitute 
proof of an abnormality - one that could be tested for patient by patient - one proving that 
we are not drugging entirely normal children."
Dr. Fred Baughman, M.D., Neurologist, from the booklet Psychiatry - Betraying and Drugging 
Children published by the Citizens Commission on Human Rights

"The driving force behind the over-diagnosis (of ADHD) is a system that is out of control.  
Teachers want compliant, well-behaved children. Parents eager to see children succeed 
take them to mental health professionals who are quick to diagnose ADHD and seek drug 
treatment. Under an insurance system that favors drugs over therapy, ADHD is an easy 
label to apply to undesired behavior; drugs are a quick fix. …

"Children who are creative, having a different learning style or are oppositional, angry, or 
depressive all have been diagnosed as having ADHD. Many of these problems can be found 
only by talking with patients at length."
Sharon Collins, pediatrician (1997)

"It's well known among research of the gifted, talented, and creative that these individuals 
exhibit greater intensity and increased levels of emotional, imaginational, intellectual, sensual 
and psychomotor excitability and that this is a normal pattern of development.
"These characteristics, however, are frequently perceived by psychotherapists and others 
as evidence of a mental disturbance… ADHD and ADD are a few of the diagnostic labels 
mistakenly used."
Lynne Azepeitia and Mary Rocamora (February 1997), from Misdiagnosis of the Gifted, in 
the newsletter of the National Association for the Fostering of Intelligence

"Sadly, it is often the more creative and enthusiastic kids who are slapped with a mental 
disorder label. Even Albert Einstein, if he had been born in the last decade or so, would 
have perfectly fit the profile of someone having attention deficit and supposedly needing 
Ritalin. (悲しいことに、より創造的で情熱的な子供ほど、精神障害のラベルを張られる。アル
バート・アインシュタインですら、もし現在に生まれていたら、AD児と診断され、リタリンの服用
をさせられていたであろう。) He didn't speak until he was 7(アインシュタインは、7歳までしゃ
べらなかった。); his teacher described him as mentally slow, unsociable, and adrift in his 
foolish dreams. (彼の先生は、アインシュタインは、先進的に鈍く、非社交的で、おかしな空想
にふけると評している。)(You can rest assured that today there would be an all-out effort 
to have him medicated; and he certainly wouldn't have been alone. In school, Thomas Edison
's thoughts often wandered and his body was perpetually moving in his seat. His teacher 
said he was unruly and too stupid to learn anything…Walt Disney had several of the 
characteristics used to diagnose ADHD, as did Alexander Graham Bell, Leonardo da Vinci, 
Mozart, Henry Ford, Benjamin Franklin, Abraham Lincoln, and the Wright Brothers. The list 
goes on…every one of these great minds and thousands of others like them would probably 
have been labeled with a mental disorder and put on Ritalin if they had gone to grade school 
today…What about our children? Do we want to stunt their initiative and creativity by 
drugging them? Wouldn't it be wiser instead to find out what is really stopping each of these 
young people from doing their very best in school?"
Dr. Erwin Gemmer, from his taped lecture Conspiracy Against Our Children

"A boy was brought to the home, diagnosed as ADD (Attention Deficit Disorder). The 
treating psychologist said that we wouldn't want to take him. So, I interviewed him. As he 
supposedly had ADD, I asked him some basic questions: 'What's the longest time you've ever 
talked to a girl on the phone?' 'Three to five hours,' he replied. 'Do you remember what she 
said?' He could remember it all. I asked how long he could play a Nintendo (video) game.  
He told me he'd played it eight hours straight. What about books? Could he read? He said 
he read books from beginning to end - the ones he liked reading. He'd also played full games 
of basketball and football. So it appeared to me that he could pay attention to anything 
that he was interested in."
(AD児として薬が処方されている少年が、ホームに連れてこられた。臨床精神科医は彼を連
れて行きたくなかった。それで私はその少年に、質問をした。「ガールフレンドと最長、何時間
話したことがあるか」と。すると彼は、「3時間から5時間」と答えた。そこで「彼女が言ったことを
覚えているか」と聞くと、彼はすべてを覚えていた。つぎに「ニンテンドーのゲームはどれくらい
しているか」と聞くと、「8時間休みなくしている」と答えた。本はどうなのか? 彼は読書はでき
るのか? 彼は最初から最後まで読んだ。バスケットやフットボールは、フル・ゲームでしてい
た。だから私には、彼が、彼が興味もつものしか注意力を示さないように思えた。
Fred Shaw, Jr., owner and manager of several California group homes for boys as an 
alternative to prison            
              
"I became an expert in treating hyperactive children with stimulant drugs. Then I 
discovered that many children developed their unacceptable behavior because of the food 
they were eating. Along the way I found that I could stop allergies, lift depression, control 
some of the symptoms of schizophrenia, lower blood pressure if elevated, assuage asthma, 
control insomnia, and stop addiction and a great deal of criminal behavior. All with few or no 
drugs."
Dr. Lendon Smith, Oregon pediatrician

"Possible side effects of Ritalin: chronic rash, stunted growth, weakened immunity, anorexia, 
anemia, depression, anxiety, insomnia, withdrawal. Possible side effects of natural 
therapies: emotional stability, peace of mind, strengthened immunity, peaceful sleep, clarity 
of thought, ability to focus, more patient, enjoy life more, more loving."
Nina Anderson and Howard Peiper, from "ADD - The Natural Approach"                     

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【メタ認知】

●自分を知る

++++++++++++

ほとんどの人は、「私のことは
私がいちばんよく知っている」
と思っている。

しかしその実、自分のことは、
まったくわかっていない。そう、
自分で思いこんでいるだけ。

よい例が、「病識」。「私は病気で
ある」という意識があることを、
病識という。

精神疾患の世界でも、この病識
のあるなしで、病気の軽重が
決まるという。

同じように、心理学の世界には、
「メタ認知」という言葉がある。
自分の思考プロセスを客観的に
知り、それを意識化することをいう。

「なぜ、私はこう考えるのか」と。
考えている内容ではない。なぜ、
そのように考えるか、そのプロセスを
意識化することをいう。

さらに哲学の世界では、「汝自身を
知れ」が、究極の目標になっている。

精神医学、心理学、そして哲学の
世界で、それぞれ言っていることは、
みな、同じ。

つまり、「私を知ること」は、それほど
までにむずかしい。

……それでもあなたは、「私のことは
私がいちばんよく知っている」と、
言い張ることができるだろうか?

+++++++++++++

 たとえば若い女性が、胸や太ももをあらわにした服を着たとする。その女性にしてみれば、そ
れが流行であり、そのほうが自分に似合うと思うから、そうする。

 そこでさらに、店にでかけ、あれこれ迷いながら、自分に合った(?)服を買おうとする。そうい
う女性に向かって、「どうしてそういう服を買うのですか」と質問しても、意味はない。その女性
はその女性なりに、懸命に考えながら、色やデザインを選んでいる。

 が、もしその女性が、こう考えたらどうだろうか。

 「私はフロイトが説いたところの、イド、つまり性的エネルギーに支配されているだけ」と。

 そう、その女性は、無意識の世界からの命令によって動かされているだけ。そしてその命令
は、種の保存本能に根ざしている。胸や太ももをあらわにするのも、結局は、(男)という異性
をを意識しているからにほかならない。が、もちろんその女性には、その意識はない。

私「男を意識するから、そういう服を着るの?」
女「男なんて、関係ないわよ。ファッションよ」
私「ファッションって?」
女「自分に似合った服を選んで、身につけることよ」と。

 つまり精神疾患でいうところの「病識」が、その女性には、まったくないということになる。「私
は正常だ」「ふつうだ」と思いこんでいる。しかし若い男性にとっては、そうではない。あらわにな
った胸や太ももを見ただけで、性的な情欲にかられる。女性には、その意識はなくても、男性
は、そうなる。

 「どんな服装をしようとも、女性の勝手」というわけにはいかない。

 もっとも、その女性が、性的エネルギーにすべて支配されていると考えるのも、まちがいであ
る。動機の原点に、性的エネルギーがあるとしても、そこから先は、(美の追求)ということにな
る。ファッションショーに、その例を見るまでもない。

 しかしそのつど、もし私たちが、自分の思考プロセスを、客観的に認知することができるよう
になったら、またそういう習慣を身につけることができたら、自分の見方が大きく変わるかもし
れない。それを心理学の世界では、「メタ(高次)認知」という。

 たとえばこの私。毎日、ヒマさえあれば、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。実際
には楽しいから、そうしている。頭の中の未知の世界を探索するのは、ほんとうに楽しい。毎
日、何か、新しいことを発見することができる。

 が、なぜ、そうするかというと、そこからが、「メタ認知」の領域ということになる。哲学の世界
でいう、「私自身を、知る」という世界ということになる。

 基本的には、大きな欲求不満があるのかもしれない。あるいは心のどこかで女性という読者
を意識しているのかもしれない。さらに言えば、(生)に対して、最後の戦いをいどんでいるのか
もしれない。フロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使ったが、弟子のユングは、「生的エネ
ルギー」という言葉を使った。

 「性」も「生」の一部と考えるなら、私は、今の自分が、その生的エネルギーによって支配され
ているということになる。

 その生的エネルギーが姿を変えて、私を動かしている。それを知るということが、つまりは、メ
タ認知ということになる。「私自身を知る」ということになる。

(補記)

 子どもの世界をながめていると、メタ認知というものが、どういうものか、よくわかる。

 たとえば心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉がある。自我が危機的な状況に置かれ
ると、子どもは、(おとなもそうだが)、その崩壊を防ぐために、さまざまな行動に出ることが知ら
れている。

 たとえば学習面では目立たない子どもが、スポーツ面でがんばるなど。非行や暴力、つっぱ
りも、その一部として理解されている。

 が、当の本人たちには、その意識はない。「私は私」と思って、(思いこんで)、そういう行動を
繰りかえす。

 相手は子どもだから、ここでいうメタ認知を求めても、意味はない。心を知り尽くした心理学
者でもむずかしい。あのソクラテスですら、「汝自身を知れ」という言葉にぶつかってはじめて、
「無知の知」という言葉を導いた。

 しかしメタ認知は、同時に、他人をよく知る手助けにもなる。

 出世主義に邁進する人も、金儲けに血眼になっている人も、あるいはスポーツの世界で華々
しい成果をあげている人も、心のどこかで、何かによって動かされている。それが手に取るよう
に、よくわかるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 認識 病識 汝自身を知れ 汝自身を、知れ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●糸の切れた凧(たこ)

+++++++++++++

ただ勉強さえできれば、それで
いいと考えている親は、多い。

若い親たちは、ほとんどが、みな、
そうではないか。

しかし指針のない教育ほど、
恐ろしいものはない。それは
たとえて言うなら、糸の切れた
凧のようなもの。

風が吹くのに任せて、右往左往する
だけ。

やがて子どもは、ダメ人間に……。
親は親で、深い、絶望の谷底に
……。

+++++++++++++

 もう20年以上も前のこと。あるとき1人の母親が私のところへきて、こう相談した。「うちの息
子(5歳男児)が通っている英語教室の先生は、アイルランド人です。アイルランドなまりの、へ
んな発音が身につくのではないかと、心配です」「だからどうしたらいいでしょうか」と。

 この話は、ほんとうにあった話である。あちこちの本や雑誌にも、紹介させてもらった。

 たしかにアイルランド人は、やや独特の英語を話す。「W」の発音を、「ウォ〜」と延ばしたりす
る。オーストラリアやアメリカには、アイルランド系の移住者も多い。

 しかしネイティブは別として、日本人で、アイルランド英語を、ほかの英語と区別できる人は、
いったい、どれだけいるだろうか? 私はその相談を受けたとき、「そんな問題ではないのだが
なア」と思った。

 その子どもには、多動性に併せて、多弁性も見られた。きびしいしつけが日常化し、それが
原因と思われるチックと吃音(どもり)も見られた。幼児期はともかくも、小学校へ入学したあ
と、伸び悩むことは、明白だった。が、その母親は、英語教室の先生の、なまりを気にしてい
た!

 ……というような例は、多い。子育てイコール、(子どもが勉強ができるようにすること)と考え
ている。もっとはっきり言えば、進学競争のため。ほとんどの親は、「うちの子は、やればできる
はず」「うちの子にかぎって、今より悪くなるはずはない」と信じている。つまり、前しか見ない。
上しか見ない。

 が、子どもの世界には、うしろもある。下もある。幼児期の、あの穏やかさ、すなおさが、いつ
までもつづくと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。やがてつぎつぎと問題が起こり、それ
が怒濤のように親を襲う。

 それには、理由がある。

 親の欲望には、際限がない。少し子どもができるようになると、「もっと」「もっと」と言って、子
どもを追いまくる。が、子どもとて、1人の人間。やがてその限界にやってくる。よく家庭内暴力
が問題になるが、子どもが暴力をふるうのは、何も、家庭だけではない。学校という場で、教師
に向かって暴力をふるう子どもが、近年、急速にふえている。

 いつだったか、私は『子どもの心は風船玉』という格言を考えた。学校でしめつけられた子ど
もは、家庭で荒れる。反対に、家庭でしめつけられた子どもは、学校で荒れる。

 ふつうの荒れ方ではない。「テメエ、この野郎!」と言って、本気で足蹴りを入れてくる。本気
だ。しかも高校生や中学生ではない。まだあどけなさの残る、小学生。それも、小学3、4年
生。たいていは、女児である。

 が、親というのは、悲しい。子どもがそういう状態になっても、気がつかない。気がつかないフ
リをする。私がそれとなく指摘しても、「まさか……」「そんなはずは……」と、それを否定してし
まう。ことの深刻さが、理解できていない。

 この時点で、子どもの心は、粉々に破壊されている。やさしい心は消え、心は、とげとげしくな
る。ささいなことでキレやすくなり、暴れる。「勉強どころの話ではないのだが……」と私は思う
のだが、親は親で、拍車をかけて、子どもの受験競争に狂奔する。症状も、この程度ですめ
ば、まだよいほう。さらに心をゆがめれば、行き着く先は、不登校、家庭内暴力、陰湿ないじめ
などなど。

 ……というような、その親子の未来像が、私には、手に取るようにわかる。40年近くも幼児を
見ていると、それがわかるようになる。が、それを口に出すことは、タブー。わかっていても、今
度は、私の方が知らぬフリをする。冷酷なようだが、その人の子育てには、その人すべての哲
学や人生観が集約されている。さらに、その人自身の過去が集約されている。

 仮に問題があったとしても、親自身がそれに気がつくのは、むずかしい。心理学の世界に
も、「メタ認知」という言葉がある。自分自身の思考プロセスを、意識化することをいう。人間が
もつ意識の中でも、最高度の意識といってもよい。

 「なぜ私は、子どもの受験競争に狂奔するのか」と。それが自分でわかる親は、まずいない。
どの親も、もっと深い部分からの命令によって、動かされているだけ。それを認知する力が、
「メタ認知」ということになる。

 私はその母親と別れるとき、「道は遠いだろうな」と思った。その母親が、自分の愚かさ(失
礼!)に気がつくことはあるのだろうかとさえ、思った。と、同時に、そのときほど、やる気をなく
したことはない。おかしな無力感だけが、いつまでも残ったのだけは、今でもよく覚えている。

 学生時代、私のガールフレンドは、そのアイルランド移民だった。若くして白血病でなくなって
しまった。今でもアイルランド英語を耳にするたびに、切ない思いにかられる。これは余談だが
……。

(補記)【メタ認知】

 医学の世界にも、「病識」という言葉がある。精神疾患を病んだような人が、「自分はおかし
い」と認識することを、病識という。

 この病識がある、なしで、精神疾患の重大さを判断することができるという。「私はおかしい」
「私は狂っている」と、認識できる病人は、まだ症状が軽いという。

 しかし病状が進むと、それすら、わからなくなる。「私はどこもおかしくない」「私の精神状態は
健康だ」とがんばる病人ほど、症状が重いという。

 自分で自分の(おかしさ)に気づくことは、それほどまでに、むずかしい。同じように、自分の
思考プロセスを、意識化することは、むずかしい。たとえばDV(家庭内暴力)がある。たいてい
は夫が妻に暴力をふるうケースだが、なぜ暴力をふるうのか。その思考プロセスを、夫自身が
気がつくのは、むずかしい。

 とくに心のキズというのは、そういうもの。無意識の世界から、その人を操(あやつ)り人形の
ように、操る。夫自身も、幼少時代、親に虐待されていたかもしれない。

 わかりやすく言えば、哲学の世界で、「今の自分を知る」ということが、心理学の世界では、
「メタ認知」ということになる。

 まず手始めに、「なぜ、私はこうまで、子どもの受験競争にカリカリするのか」と、自問してみ
るとよい。そこからメタ認知は、始まる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 思考過程 思考プロセス 無意識下の意識)


●メタ認知(追記)

 今日、ドライブしながら、ワイフに、メタ認知の説明をした。ワイフは、たいへん興味深そうに、
私の話を聞いてくれた。

 メタ認知……わかりやすく言えば、自分の思考プロセスを、客観的に意識化することをいう。
私が、「人間が知覚する意識の中でも、最高度のものだよ」と説明すると、「ふ〜ん」と。

私「なぜ、自分がそのように行動し、考えるかという、そのプロセスを知ることだよ」
ワ「それがわかったからといって、どうなの?」
私「自分で、自分をコントロールすることができるようになる」
ワ「そうねえ。自分がなぜ、そのように行動し、考えるかがわかれば、自分で自分をコントロー
ルするのは、簡単ね」
私「そうなんだよ」と。

 私が、なぜ、こうして毎日文を書いているかと言えば、その原点に、(生)があるからである。
その(生)を確認するために、文を書いている。それはまさしく、(生との闘い)と言ってもよい。
そういうプロセスを知ることが、メタ認知ということになる。それを話しているとき、若い男が運
転する、ランドクルーザーとすれちがった。横には、若い女性が、乗っていた。

私「ほら、あの男。自分では、自分で考えてあの車を買ったつもりでいる。しかし実際には、自
分の力不足を、ごまかすために、あの車を買ったのかもしれない。ランクルに乗っているだけ
で、大物になったような気分になれる」
ワ「でも、本人は、それには気づいていないわね」
私「気づいていない。自分の中の、奥深くに潜む意識によって、操られている。おそらく説明し
ても、あの男性には、理解できないだろうね」と。

 その男性は、(生的エネルギー)(ユング)というよりは、(性的エネルギー)(フロイト)のほう
に、強く操られていたかもしれない。常識で考えれば、あれほどまでに若い男が、600〜800
万円もするような高級車に乗れることのほうが、おかしい。

 言いかえると、性的エネルギーは、それほどまでに強力ということ。が、それはそのまま私た
ち自身の問題ということになる。

 私たちは、今、なぜ、今のような行動をし、今のように考えるか。行動の内容や、考えの内容
は、どうでもよい。問題は、なぜそのような行動をし、考えるかを知る。それがメタ認知というこ
とになる。

私「もし精神疾患をもった人が、自分を客観的にメタ認知できるようになったら、自分で自分の
病気を克服できるようになるかもしれないね」
ワ「すごいことね」
私「そう、すごいことだ。が、重度の患者ほど、『私は正常だ』『どこも悪くない』と言ってがんば
る。つまりメタ認知ができないということになる」と。

 こんな例が適切かどうかは、知らない。が、こんなこともある。

 空腹になってくると、血糖値がさがってくる。同時に脳間伝達物質が、減少してくる。すると、
精神的に不安定になる。人によっては、怒りっぽくなったり、イライラしたりするようになる。

 その怒りっぽくなったり、イライラしたようなとき、自分を客観的にメタ認知できたら、どうだろ
うか。「ああ、今、怒りっぽくなっているのは、空腹のせいだ」と。それが自分でわかる。そうす
れば、自分の感情を、その時点でコントロールすることができるようになる。

 で、そのときも、そうだった。私はそれを感じたので、ワイフに、「どこかで食事しようか」と声
をかけた。ワイフは、それに快く応じてくれた。





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●カクテルパーティ効果

+++++++++++++

人間の耳というのは、騒音の
中でも、自分にとって必要な
音だけを選り分け、それを聞く
ことができるという。

たとえばカクテルパーティの
ような騒々しい席でも、その
ほかの人たちの声を無視して、
相手と会話をつづけることが
できる。

これを、「カクテルパーティ効果」
という。

しかし……。

+++++++++++++

 私の左耳は、まったくといってよいほど、聴力を失っている。30代のある日、突発性何とかと
いう病気になった。焼けるような痛みを、1〜2日間覚えたあと、聴力を失った。たぶん、耳と脳
をつなぐ神経が、それで焼き切れてしまったのだろう。

 以来、右耳とは、じょうずにつきあっている。が、いろいろと問題がある。

 子どもの声が聞こえたとする。しかし私のような人間には、その方向がわからない。どちらか
らその声が聞こえてくるのか、それがわからない。そういうときは、口が動いている子どものほ
うを見る。そしてその子どもが、話をしているのを知る。

 が、さらに深刻な問題がある。

 音は一方向からしか聞こえてこない。だから、耳の中で、音を区別することができない。たと
えば何かの講演会場で、子どもたちが騒いだとする。すると、ふつうの人なら、子どもたちの騒
いでいる音は脳の中に入る前に、シャットアウトすることができる。これを「カクテルパーティ効
果」という。が、私には、それができない。講演者の声も、騒音も、同じように耳の中に入ってく
る。

 だから私の教室でも、参観の親たちが何かを話していると、それが気になってしかたない。子
どもの声と親の声が混ざったまま、私の耳の中に入ってくる。だから教室では、親たちの私語
は絶対、禁止。……というふうにしている。

 で、クテルパーティ効果は、しかし、何も、耳だけの話ではない。視覚にもある。さらに、思考
の世界にもある。

 人間は、自分にとって心地よい響きのあるものだけを、無意識のうちにも選択しながら、見た
り聞いたりしている。考えたりしている。

 たとえば今、私は、K国問題、朝鮮半島問題について、あまり考えたくない。この問題は、私
が少しくらいものを書いてどうかなるというレベルを、すでに超えてしまっている。少し前、「打つ
手なし」と書いたが、そのとおり。考えれば考えるほど、敗北感のみが、心をふさぐ。

 ますます強硬になるアメリカ。今朝の新聞でも、「米軍基地に、もっと金を出せ」という内容の
記事が載っていた。本来なら、その数字をあげ、その正当性をここで考えなければならない。し
かし、今は、その気力も、消えかかっている。

 アメリカは、この先、さらに無理難題を、日本にふっかけてくるだろう。大臣や庁官たちの失
言につづく、失言。アメリカは「日本に裏切られた」と騒いでいる。が、日本人には、その意識は
ない。アメリカがなぜそう言うのか、それさえ理解できない。意識のちがいというのは、恐ろし
い。

 日米関係は、2007年の春を境にして、大きく変わった。あとはなるようにしか、ならない。

 つまり今の私は、無意識のうちにも、考えるテーマを選んでいる。これもカクテルパーティ効
果の一つといえば、その一つということになる。(あるいは「逆カクテルパーティ効果」?)







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●効果的な学習法

++++++++++++

子どもに何かを学習させるとき、
そこにはいくつかのコツがある。

その中でもとくに重要なのが、
(1)動機づけと、(2)強化の
原理である。

ほかにもいろいろある。

(1)接近の原理
(2)効果の原理
(3)練習の原理
(4)集中・分散の原理
(5)分習・全習の原理など。
(参考:「心理学の基礎」・春木豊・
有斐閣より)

++++++++++++

 入り口のところで、子どもに、何をどう興味をもたせるか。興味をもてば、そのあとの学習が、
スムーズに進む。そうでなければそうでない。その入り口での興味づけを、動機づけという。

 たとえばいきなりいくつかの形を見せ、「どの角が、いちばん小さいですか?」と聞いても、子
どもたちは、まったくといってよいほど、反応を示さない。

 そこでいろいろな角(=形)を見せ、「刺したとき、いちばん痛いのはどのれかな?」などと問
いかけてみる。とたん、子どもたちは、「Aの角が痛い」「Bの角の方が痛い」などと言い出す。
その反応を見ながら、つぎの学習へとつなげていく。

 つぎに重要なのが、強化の原理。「できた」「ほめられた」「楽しい」という思いが重なると、子
どもは前向きに、自分で伸びていく。

 基本的には、この2つを大切にする。が、ほかにもいろいろある。

(1)接近の原理
(2)効果の原理
(3)練習の原理
(4)集中・分散の原理
(5)分習・全習の原理など。

(1)接近の原理

子どもが何かよいことをしたら、あるいはそれができたら、すかさず、それを評価し、ほめる。
その間隔は狭ければ狭いほどよい。間が延びると、あるいは間をおくと、その効果は、半減す
る。


(2)効果の原理

子どもが何かをしたら、それを何かの成果(=効果)に結びつけていく。「できた」→「効果があ
った」という思いが重なると、それが条件づけになり、さらに子どもを伸ばす。

(3)練習の原理

ものごとは練習によって上達する。それは常識だが、単なる反応作業では、子どもも疲れる。
春木氏は「(練習したあと)、それが正しかったかどうか、満足をもたらすものであったかどうか
を確かめることが本質」(P112)と説明している。

(4)集中・分散の原理

集中的にしたほうが効果的なのか、それとも、休み休みしたほうが効果的なのかについては、
「分散したほうが効果的」とある。「回転盤作業で、1日15回、10日間練習したのだが、50秒
の作業の間に5〜10秒の休みしか入れなかった場合(=集中型)と、65〜70秒(の休みを)
入れた場合(=分散型)とでは、はっきりと差が表れている」(P113)と。


(5)分習・全習の原理

子どもに何かを学習させるとき、内容をいくつかに分けて学習させるばあい(=分習)と、全体
を1つの学習として学習させるばあい(=全習)については、「どちらのほうが有利とは言えず、
条件によって左右される傾向がある」(同)と。

 私はほかに、こんな経験をしている。

 学習の前に、5〜10分程度、子どもたちに遊ばせたばあいと、いきなり学習に入ったばあい
を比較してみる。遊ばせたほうが、そのあと、はるかに集中的に子どもたちが学習してくれる。

 遊ばせると、時間的には、5〜10分のロスにはなるが、そのあと子どもたちは集中的に学習
に取りくんでくれる。全体としてみると、学習量は、明らかに違う。たとえば、遊びを入れないば
あいは、プリント学習で、5枚とすると、遊びを入れたばあいには、それが7〜10枚といったふ
うになる。とくに、勉強嫌いの子どもには、この方法は、効果的である。

 そこで私の実験教室では、学習の前に遊びを入れ、それを毎週、あるいは2〜3週ごとに、
内容を入れ替えるようにしている。たまたまこの原稿を書いている今週は、広いテーブルの上
で、ドミノ倒しをしている。

 これは遊ぶことにより、子どもの中に、(ものごとに前向きに取り組む)という姿勢が生まれる
ためと考えてよい。「楽しい」という思いは、そのまま「楽しみ」につながる。また遊びといっても、
紙工作、チェス、ゲームなど、できるだけ学習的に意味のある遊びにするよう心がけている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 効果
的な学習法 接近の原理 効果の原理 連取の原理 集中 分散の原理 分習 全習の原
理)






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●ホメオスタシス

●空腹のメカニズム

+++++++++++++

昨夜、床につく前、猛烈な空腹感
に襲われた。

「パンでも食べようか……」と思ったが、
やめた。

そういうときの空腹感は、幻覚の
ようなもの。

朝、起きると、空腹感は消える。
今までの経験で、それがよくわかって
いる。

それに寝る前に食べると、肥満に
つながる。

+++++++++++++

 人間の空腹感は、(ほ乳動物もみなそうだが)、2つの相反する作用によって決まるということ
がわかっている。「食べたい」という作用と、「食べたくない」という作用である。「食べたい」とい
う作用が、「食べたくない」という作用よりも強くなったとき、空腹感が起きてくる。順に考えてみ
よう。

 大脳の視床下部に、血糖値を感知するセンサーがある。一般的には、血糖値がさがると、そ
のセンサーが機能し、空腹感をもたらすと考えられている。

 しかし空腹感のメカニズムは、そんな単純なものではない。私の例で、考えてみよう。

 たとえば昨夜、私は寝る前に、猛烈な空腹感に襲われた。人間には、(ほ乳動物はみなそう
だが)、ホメオスタシス効果というのがある。「ホメオスタシス」というのは、人間内部の生理的
環境を一定に保とうとする機能を総称したもの(付記、参照)。

 もっともわかりやすい例が、食欲である。体内のエネルギーが不足してくると、生理的バラン
スを一定に保つために、ホメオスタシス効果が機能し始める。それが食欲につながる。

 猛烈な空腹感に襲われたのは、血中の血糖値がさがったため。それを大脳の視床下部のセ
ンサーが感知した。それが猛烈な空腹感へとつながった。

 しかしならば、朝になると、どうしてその空腹感が消えるのか? 血糖値は、昨夜のままのは
ず。あるいは睡眠中に、ホメオスタシス効果が機能して、血糖値を調整したのか。その可能性
は、ある。あるが、どうも合点がいかない。血糖値だけで、食欲の有無は、決まるのか?

 この謎を解くカギが、拒食症や過食症の患者にある。

 食欲……正確には、「摂食行動」というが、その摂食行動は、2つの相反する作用によって、
決まるという。ネズミの実験だが、ネズミの視床下部の外側野に電気刺激を与えると、摂食行
動が活発化し、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が停止するという(春木豊氏「心理学
の基礎」)。

 が、反対に、その視床下部の外側野に隣接した、腹内側核を刺激すると、摂食行動が起き
なくなり、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が止まらなくなり、ネズミは過食し始めると
いう(同)。

 わかりやすく言えば、視床下部の外側野と、それに隣接する腹内側核が、たがいに相反した
機能をもちながら、人間の食欲を調整しているということになる。以上の話を、もう一度、まとめ
ると、こうなる。

(1)視床下部の外側野……(刺激すると)→(摂食行動が起きる)
               (破壊すると)→(摂食行動が停止する)

(2)視床下部に隣接する腹内側核……(刺激すると)→(摂食行動が起きなくなる)
                    (破壊すると)→(過食が始まる)   

 脳の機能も外部からの刺激で、変調しやすい。ここに書いたマウスの実験では、脳の一部を
破壊することによって、摂食行動の変化を確かめたが、機能が変調しても、同じことが起きると
考えるのは、ごく自然なことである。 

 たとえば拒食症の人は、視床下部の外側野の機能が、低下した人ということになる。一方、
過食症の人は、腹内側核の機能が、低下した人ということになる。(かなり乱暴な書き方で、ご
めん!)

 で、私のばあいは、どうか?

 昨夜、猛烈な空腹感が、私を襲った。原因として考えられるのは、夕食を、一気に食べたこ
と。つまり短時間で食べた。

 短時間で食べたため、血糖値が、急激に上昇した。それと並行して、(ややタイムラグ=時間
的なズレはあるが)、インシュリンが分泌された。昨夜は、それがやや多めに分泌されたらし
い。

 結果、血糖値はさがったが、インシュリンは、血中に残って、さらに血糖値をさげつづけた。
そのため寝る前に、私は、低血糖の状態になった。それを大脳の視床下部にあるセンサーが
感知した。そしてその信号を、視床下部の外側野に伝えた。

 私は猛烈な空腹感に襲われた。

 しかし私は、それをがまんした。一連のメカニズムがわかっていると、がまんするのも、それ
ほどつらいことではない。「この空腹感は、幻覚」と自分で自分に、言って聞かせることができ
る。

 眠っている間に、ホメオスタシス効果が機能した。体内の生理的バランスを調整した。結果と
して、朝起きたとき、空腹感は消えていた。

 ……というように、自分の欲望や行動を、客観的に意識化することを、「メタ認知」という。人
間がもつ認知力の中でも、最高度のものである。少し前、ワイフが、「それ(=メタ認知)ができ
たからといって、それがどうなの?」と聞いた。私は、それに答えて、「メタ認知ができるようにな
れば、さらに自分がよくわかる。自分で自分をコントロールできるようになる」と答えた。

 以上、「空腹のメカニズム」。おしまい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 空腹
のメカニズム 過食症 拒食症 ホメオスタシス メタ認知 視床下部 外側野 腹内側核)

(付記)

ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、生
物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生理学
者のキャノンが提唱(国語大辞典)。






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●ギャグ文化

++++++++++++++

今の若い人たちは、ほんとうに
バカになってしまった。(ごめん!)

知識はある。知恵もある。しかし
自分で考える力をもっていない。
その習慣もない。

バカならバカでいい。しかしものごと
を、まじめに考えようとすらしない。

脳みその表層部に飛来する信号が
命ずるまま、行動する。ものを
しゃべる。政治の話をしようとしても、
そのまま、はねのけてしまう。

「ダサイ!」と。

まさに今は、ギャグ文化、全盛期。

++++++++++++++

 少し前、……といっても、もう5、6年前になるが、携帯電話の占いコーナーへのアクセス数
が、1日、100万件を超えた。それが話題になった。が、そのときは、(占い)といっても、まだ
日陰的な存在だった。が、現在は、それが日向(ひなた)に出てきた。公認された。ある時期
は、毎晩のように、それらしいオバチャンが、テレビに出てきた。(今も、出てきているが…
…。)

 「あんたの背中には、ヘビがついている。毎朝、3回、シャワーを浴びなさい」「あなたは、3年
以内に結婚しなさい。それを過ぎると、天運が切れて、地獄に堕ちる」とか、など。ウソ、インチ
キ、デタラメ。私はそれを聞いて、「よくもまあ、こういうアホなことが言えるものだ」と、むしろ、
そちらのほうに感心(?)した。

 で、一方、言われた方の若い人たちは、中には涙までこぼして、「わかりました」「そうします」
と。演技ではない。ほんとうに体を震わせ、涙をこぼす。つまりそんな程度のウソ、インチキ、デ
タラメすら、見抜く力をもっていない。肉体はおとなでも、中身は、幼児以下。(幼児でも、そん
な話は信じないぞ!)

 日本人は、ほんとうにものを考えなくなった。考える力を失ってしまった。考えるという習慣も
ない。が、それは、日本の将来を考えるなら、たいへん危険なことでもある。実はその兆候が、
すでに見え始めている。「ギャグ」という兆候である。

 今や、ギャグ文化、全盛期! 

 ある小学校の校長が、こう話してくれた。

 「昔、どこかの番組で、こんな歌が歌われましたね。『♪からす、なぜ鳴くの? からすの勝手
でしょ……』と。あれも一種のギャグですが、今では、あの歌を、まじめに歌う子どもはいませ
ん。あの歌そのものが、死んでしまいました。が、それだけではありません。この『からすの勝
手でしょ』という部分だけが、ひとり歩きを始めています。

 私どもが『子どもの茶髪は、やめてください』と注意を促すと、親の方が、『そんなのは、私た
ちの勝手でしょ。だれにも迷惑をかけるわけではないから』と。そう言いかえされます」(静岡県
K町のK小学校校長談)と。

 その校長は、「学校が、最後の砦(とりで)になりつつあります」と、何度も繰りかえした。つま
り「ギャグ文化を食い止める、最後の砦」と。

 が、もうこの流れを止めることは、だれにもできない。大きなうねりとなって、日本中を洪水の
ように襲いつつある。とても残念なことだが、私や、この文を呼んだあなたくらいが、それに抵
抗しても、川の中に打ち込んだ杭(くい)程度の効果しかない。

 それがわからなければ、子どもたちに作文を書かせてみればよい。「地球温暖化が進んでい
ます。あなたはどう思いますか」というテーマでよい。

 半分近くの子どもたち(小4〜6)は、それなりにまともな意見を書く。しかし残りの半分近くの
子どもたちは、「冬でも泳げるからいい」とか、「アメリカが何とかしてくれる」とか、「ぼくは宇宙
へ逃げるからいい」などとか、書く。以前には、考えられなかった現象である。

 たった今も、森有正(1911〜76)という人が書いた、「いかに生きるか」(講談社現代新書)
を読んだ。その中で、森有正は、「日本は民主主義国家になったとは言っているが、その底流
を流れる日本人の体質は、変わっていない」というようなことを書いている。

 同感である。そして私がいちばん恐れている部分は、ここである。

 日本中がギャグ化するなら、するで、それはもうしかたない。しかたないというか、構わない。
が、そのあとこの日本は、どうなる? それを考えると、空恐ろしさすら覚える。たぶんというよ
り、まちがいなく、現在の官僚たちが政治の実験を握ることになる。この日本で、政治的に
(?)組織化された集団は、官僚組織をおいてほかにない。

 すでに天皇を、再び(元首)にしょうという動きすらある。(元首、だぞ!)もしそうなれば、日本
は、王政復古から、一気に、ファシズムの道を歩むことになる。

 もちろん日本が、そうなってよいというのではない。そうなってはいけない。だから私は、こうし
てものを書きつづける。犬の遠吠えかもしれないが、しかし書かざるをえない。

 で、こうした流れを止める唯一の方法は、一部の人たちだけではなく、私のように名もない、
力もない、一般の庶民たちがみな、考えることである。考えて、賢くなることである。おかしいも
のは、「おかしい」と声をあげていう。たったそれだけのことでも、みなですれば、この流れをく
い止めることができる。

 先の自民党総裁選挙のときには、A前外務大臣が行くところどこでも、「太郎ちゃん」「太郎ち
ゃん」の大合唱が聞こえたという。A前外務大臣のBLOGでかりたてられた、若者軍団である。
こういう現象を、ギャグと言わずして、何という? そのA前外務大臣は、総裁選挙に敗れるや
いなや、こう言った。「読みかけのコミック本が山になっているから、これから家に帰って読む」
と。こういう現象を、ギャグと言わずして、何という?

 もし日本人が、今の民主主義を、血と涙と汗で勝ち取ったものであるとするなら、民主主義に
ついて、そういう使い方はしない。もう少し、畏敬(いけい)の念をもって、接するはず。大切に
するはず。しかし悲しいかな、日本にはその歴史はない。だから民主主義を、ギャグにしても、
だれも疑問に思わない。おかしいとも思わない。

 しかしなぜ、日本人は、こうまで考えなくなってしまったのか? もう8年前になるが、こんな原
稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それだけで軽蔑の対象にな
る。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言われたりすると、その人はそ
れをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。関心もな
い。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セイジ
……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分がどのようにダ
サイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よく理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、そ
の結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

●文部省からの三通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、3通の文部省通達である(たった3通!)。文部省が1960
年に出した「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、それに「初等
中等局長通達」(12月24日)※。

 この3通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。

さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、禁止された。当時は、安保闘争のま
っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があったが、それから45年。日本
の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。その結果が、「ダサ〜イ」という
ことになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に入る
と、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、それである。
構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう20年以上になるが、結局は、ほとんど何も改革
されていない。

このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、すでに、日本は、現在、に
っちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとはいつ爆発し、崩壊するかという状
態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった3通の、次官、局長クラスの通達で、日本の教
育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、どうか理解してほし
い。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままに、あやつられている。

(付記)

 どうしてこうまで、子どもたちは、政治に関心をもたなくなってしまったのか? 数日前も、中
学生たちに、「K国が、日本にミサイルを打ちこんでくるかもしれないよ」と話すと、こう言った。

 「どうして?」
 「アメリカがいるから、だいじょうぶだよ」と。

 議論そのものが、かみあわないというより、議論そのものが、できない。まったく、話にならな
い。

 こうした愚民化政策というのは、為政者にとってはつごうがよいかもしれないが、日本の将来
を考えるときには、マイナスにこそなれ、プラスになることは何もない。

 子どもたちでさえ、目先の利益や話題ばかりを、追いかけている。しかも、ここが重要な点だ
が、親も、ときどき、「子どもに政治の話はやめてほしい」と、クギを刺してくる。

 私は共産主義者でも社会主義者でもない。民主主義者である。まちがいなく、民主主義者で
ある。それに、子どもたちを指導して、政治活動をしようなどという意図は、もとからない。

 だから私も、政治の話はしない。子どもたちのほうから質問があったときは、「おうちの人に
聞いてごらん」と言って逃げる。

つまりそういう日本全体の風潮が、政治的に無関心な子どもたちを作ったといえる。フランスの
高校生のデモのニュースを聞いたとき、内容はともかくも、その行動力のちがいに、私は、大き
なショックを受けた。
(注※) 「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、それに「初等中
等局長通達」)




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●先祖論

●血統空想

++++++++++++++

「私だけは特別でありたい」という
思いは、だれにでもある。そのひとつ
が、「血統」。

「私の血統は、特別だ」「だから私は
特別な人間」と。

あのジークムント・フロイトは、
そうした心理を、「血統空想」という
言葉を使って説明した。

年齢で言えば、満10歳前後から
始まると考えられている。

しかしそう思うのは、その人の勝手。
それはそれでかまわない。しかし、その
返す刀で、「私以外は、みな、劣って
いる」と考えるのは、まちがっている。
自己中心性の表れそのものとみる。

EQ論(人格完成論)によれば、
自己中心性の強い人は、それだけ
人格の完成度の遅れている人と
いうことになる。

わかりやすい例でいえば、今でも
家系にこだわる人は多い。ことあるご
とに、「私の先祖は、○○藩の家老だ
った」とか何とか言う。

悪しき封建時代の亡霊とも考えられる。
江戸時代には、「家」が身分であり、
「家」を離れて、個人として生きていく
こと自体、不可能に近かった。

日本人がいまだに、「家」にこだわる
理由は、ここにある。

それはわかるが、それからすでに、
約150年。もうそろそろ日本人も、
そうした亡霊とは縁を切るべきときに
来ているのではないのか。

+++++++++++++++

 かつて福沢諭吉は、こう言った。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のす
すめ」)と。

その「天は人の上に……」という名言が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎの
ような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対するアメ
リカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰もワシン
トンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、徳
川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持っていな
いアメリカの社会制度に、諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭吉は
新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず
と言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』と。

 意識のちがいというのは、恐ろしい。恐ろしいことは、この一文を読んだだけでもわかる。いわん
や明治の昔。福沢諭吉がそのとき受けた衝撃は、相当なものであったと考えられる。そこで福沢
諭吉らは、明六社に合流し、悪しき亡霊と闘い始める。

 明六社……明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。
教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した人でもある。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評された
こともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。その
明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定し、
不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運動が、
日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ちょう
ど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)その100年の間に、この日本は、本
当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現わ
れた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったことを
忘れ、武士の立場で、武士道を礼さんするから、おかしい。悲しい。そして笑える。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そんなこ
とは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかるはず。そういったことを、反省するこ
ともなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時代
は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れてはな
らない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓蒙
運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本に、封建時代の負の遺産を、ひきずって
いる人は多い。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。
たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となると、
ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、わからない。それが
精神的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなかった
からである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡してしまっ
た。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎり、こうした制
度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人にと
っては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人には、居
心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知るこ
とができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建時代の負
の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。

 ……と話が脱線してしまったが、これだけは覚えておくとよい。

 世界広しといえども、「先祖」にこだわる民族は、そうは、いない。少なくとも、欧米先進国には、
いない。いわんや「家」だの、「血統」だのと言っている民族は、そうは、いない。そういうものにこだ
わるということ自体、ジークムント・フロイトの理論を借りるまでもなく、幼児性の表れと考えてよ
い。
つまりそれだけ、民族として、人格の完成度が低いということになる。

(付記)

 この問題は、結局は、私たちは、何に依存しながら、それを心のより所として生きていくかという
問題に行き着く。

 名誉、財産、地位、学歴、経歴などなど。血統や家柄も、それに含まれる。しかし釈迦の言葉を
借りるまでもなく、心のより所とすべきは、「己(おのれ)」。「己」をおいて、ほかにない。釈迦はこう
説いている。

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』(法句経)と。「自由」という言葉も、もともとは、
「自らに由る」という意味である。

 あなたも一言でいいから、自分の子どもたちに、こう言ってみたらよい。「先祖? そんなくだらな
いこと考えないで、あなたはあなたはで生きなさい」と。

 その一言が、これからの日本を変えていく。
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 封建時代 武士道)




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