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●子どもの情緒

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断する。運
動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス
型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子
どもとみる。

子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」
というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん弱い。それこそ日
中、5〜10分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイナス型)、
反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。表情にだまされて
はいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。このタイプの子どもは、
ささいなことがきっかけで、激変する。

母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ど
も(年長女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴
えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向
(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)は、母親が入
院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態にな
る)になってしまった。
 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、気が
抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的
な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもにはそれほど大き
な影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子どもは愛情の変化には、
とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「し
つけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、
家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だった
の」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)
●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。


(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の情緒 情緒不安定 情緒が不安定な子供 子ども 情緒不安)






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●苦労論

●「苦労」論

+++++++++++++

数日前、老人ホームへ母を見舞った。
「ここは地獄や」と言われてから、
見舞ってやろうという(やさしさ)が、
私の中で、半減してしまった。

私には私の(思い)というものがある。
苦労もある。そういうものを、私の
母は、まったく理解できなくなって
しまった。

自分勝手でわがまま。まるでジコチュー
のかたまりのようになってしまった。

だから見舞っても、話すことは何もない。
ただ横に座って、じっとしているだけ。

+++++++++++++

 いくたの困難を乗り越えることを、「苦労」という。その苦労が、その人を、やがて光り輝かせ
るものにする。それは常識だが、しかし「困難」といっても、内容はさまざま。

 自己の名誉や地位、さらには財産を得るための困難もあれば、近親者の病苦、死などを乗
り越えるための困難もある。「私は苦労しました」と言う人は多い。が、問題は、その中身。中
には、見栄、体裁、さらには世間体をとりつくろうために苦労している人もいる。

 あまりよい例ではないかもしれないが、北海道のどこかに、牛肉に豚肉を混ぜて加工食品を
作っていた、インチキ社長がいた。マスコミでも大きく取り上げられた。話を聞くと、その社長は
社長なりに、苦労に苦労を重ねて、今の会社を、今の会社にした人らしい。

 はじめは肉屋で、店員をしていたとか、など。「貧しかったので、(肉が食べられる)、肉屋に
就職した」というような話も聞いた。

 しかしその社長を見て、私は、こう思った。「いかにも、そういうことをしそうな人だな」と。顔は
もちろん、体中から、醜悪さが、にじみ出ていた。見るも不愉快な、醜悪さだった。一片の知性
も、理性も、感じられなかった。

つまりその社長のしてきたことは、小ズルさの上に小ズルさを重ねて、金儲けをしてきただけ。
どこかのテレビ局のレポーターが、「苦労をした人ですね」と言っていたが、その苦労からにじ
み出るはずの人間的な深みが、どこにも感じられなかった。

 私は老人ホームに座って、ぼんやりと空を見つめる母を見た。ついでに、まわりの老人たち
を見た。みんな、それぞれにそれなりの苦労をしてきた人である。私の母にしても、元気なころ
は、いつもこう言っていた。「私ほど、苦労した人間はいない」と。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。そのひとつに、嫁・姑(しゅうとめ)戦争がある。

 私の祖母(つまり母にとっての姑)は、まれに見る気性のはげしい女性だった。自分の着物
が汚れるからという理由で、自分の息子や娘を、自分の手で抱いたことすらない。何か気に食
わないことがあったりすると、そこらにあるものを、手当たり次第に、投げつけたりした。そうい
うときの祖母は、ギャーギャーと泣きわめいて、手がつけられなかった。

私の父と結婚してからというのも、敷地が30坪もないような、せまい商家で、母は毎日、そんな
祖母と顔を突き合わせなければならなかった。仲よく過ごせというほうが、無理だった。

 ほかにもいろいろあっただろう。しかし母自身は、自転車屋の夫と結婚しながら、一度とて、ド
ライバーを手に握ったことすらない。自分の手が油で汚れるのを、何よりも嫌った。とくに祖父
が死に、つづいて父が死んでからの30年は、母は、遊びに遊んだ。毎日、子どものように遊ん
だ。

 だから母が、「私ほど、苦労した人間はいない」と言うたびに、私は、母がいうところの「苦労」
とは、何か、よく考える。まあ、あえて言えば、不本意な結婚をして、愛情の「ア」の字も感じな
い夫と、最後まで連れ添ったことかもしれない。

 仏教にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。四苦八苦の一つにあげられている。
わかりやすく言えば、「会いたくない人と会う苦しみ」ということになる。母にしてみれば、毎日
が、その怨憎会苦の連続だったかもしれない。

 しかしそれは同時に、母に、仮面(ペルソナ)をかぶらせてしまった。母のばあい、他人に見
せる顔と、私たち子どもに見せる顔は、まったくちがった。恐ろしいほど、ちがった。私は、そう
いう母の二面性を、毎日見ながら、育った。

 つまりそれも苦労といえば、苦労だったかもしれない。自分を偽って生きるというのは、これ
またたいへんなこと。私だって、1、2時間なら、善人ぶることはできる。しかし1日ともなると、
そうはいかない。仮に1日もすれば、翌日は、片頭痛か何かが起きて、フトンの上で、ころげ回
ることになる。

 そこで改めて「苦労」とは何かと考えてみる。またどういう苦労なら、その人を、光り輝く人間
に育てることができるのか、と。

 ひとつの考え方としては、(真・善・美)の追求がある。おしなべて見ると、科学者にせよ、宗教
家にせよ、あるいは芸術家にせよ、その(真・善・美)をかぎりなく追求してきた人には、それな
りの(輝き)がある。他人を寄せつけない、高邁(こうまい)な人間性と言ってもよい。それがあ
る。

 だから……と書けば、見え透いた結論になってしまうが、仮にどんな世界にいても、またどん
な苦労をしたとしても、(真・善・美)の追求だけは、心のどこかで忘れてはいけない。そうでない
と、生活に疲れた、ただのヨボヨボの老人になってしまう。

 今の私には、この程度の結論しか書けないが、要するに、苦労にも、いろいろあるというこ
と。またその困難にしても、これまたいろいろあるということ。その選択というか、見極めをしっ
かりしながら生きていかないと、結局は、時間を無駄にすることになる。人生を無駄にすること
になる。

++++++++++++

 私とワイフは、無言のまま、席を立った。
「帰る」と一言、母に声をかけると、母は、
「わかった」と言って、手を振った。

このところいつもそうだが、母と別れるときは、
どうも、歯切れが悪い。中途半端。

「また来る」と言いかけることもあるが、
それもどこか、空々しい。それが自分でも
よくわかる。

だから、やはり黙ったまま。廊下に出るころには、
振り返ることもなく、そのまま前に歩く。

「ここは母にとっては、地獄なんだなあ」と。

++++++++++++


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 苦労
論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(5)愛別離苦(あいべつりく)
(6)怨憎会苦(おんぞうえく)
(7)求不得苦(ぐふとっく)
(8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(5)愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦し
みをいう。
(6)怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(7)求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成
する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛ん
になりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(5)苦諦(くたい)
(6)集諦(しゅうたい)
(7)滅諦(めったい)
(8)道諦(どうたい)の、4つである。

(5)苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(6)集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえ
ば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、そ
の原因となることもある。
(7)滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねは
ん)の世界へ入ることをいう。
(8)道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原
始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。






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●復古主義

●安易な復古主義に警戒しよう!

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右に寄りすぎた(?)、安倍内閣。
安倍総理大臣はともかくも、その
周辺の人物たちは、まるで右翼団
体の構成員のよう。

連日、愛国心だの、国歌だの、国旗
だのと、まるで右翼の街宣車がが
なりたてているような言葉を口に
している。

あげくのはては、憲法改正、さらに
は、天皇の国家元首制?

が、何よりも気になるのは、あの
復古主義。その復古主義について、
もう一度、ここで考えてみたい。

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●安易な復古主義

安易な復古主義に警戒しよう!

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●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。教育家
でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わっ
たのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。
中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省すること
もなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れ
てはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。た
とえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となる
と、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バ
ックボーンになっていることすら、ある。地域によっては、その地域全体が、カルト化していると
ころさえある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 復古
主義 封建主義 呆け時代の亡霊 明六社 福沢諭吉)





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●煩悩(ぼんのう)

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。

 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うの
ではない。「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。

 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ね
たんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになっ
たりする」(「仏教聖典」)という。つまり、自分を見失ってしまう。

 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と
位置づける。これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。そういう例は、多
い。

 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味
のことか。わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。貪欲な人は、たし
かに見苦しい。

 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。義父を思いやる、やさ
しい心からそうしているのではない。その財産が目的である。義母がいるが、体も弱く、このと
ころ思考力もかなり低下してきた。

 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。その女性が義父を見舞うたびに、
義父は興奮状態になってしまう。そのあと様子がおかしくなるという。しかしその女性は、見舞
いをやめる気配はない。

 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。私は勝手に「怒り」としたが、研究者
がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情
のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。

 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。たとえば今、私は、社会
保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。K国の金xxにも、怒りを感じている。元公安
調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。さらには、防衛大臣の失言にも、怒り
を感じている。

 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。つまり(怒り)が正義と結びついて
いれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。

 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。しかし先にも書いたよう
に、「知識がないこと」を、愚かというのではない。ものの道理をわきまえないことを、(愚か)と
いう。
 
 では(道理)とは何か。現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。人格の完成度の高い人
を、「道理をわきまえている人」という。他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利
他的な人を、人格の完成度の高い人という。

 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。考えて、考えて、考えぬく。パスカ
ルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。中に、「私はものごとを深く考えな
い」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。しかしそういう人は、
自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。

 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。

 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。「おの
れを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導く
ことになる」(「仏教聖典」)と。つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 
 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。

 悪いことをしないから、善人というわけではない。よいことをするから、善人というわけでもな
い。私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。悪と積極的
に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。またそういう人を、善人という。

 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。この瞬間においてすら、そ
の煩悩が、体中で、渦を巻いている。「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話
は、おしまい。

私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩
論 パーリ 仏教聖典)






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【現実検証能力】

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現実検証能力という言葉を使ったので、
それについて書いた原稿を載せる。

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●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こ
う書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼児性の持続」
は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どうか、この
点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度 現実検証能力)





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【荒れる子ども】

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静かな指導になじまず、
自分勝手でわがまま。

言動が粗放化し、
享楽的で投げやり。

そんな子どもについて、
ここで考えてみたい。

+++++++++++++

●教育と秩序

 教育の現場には、ある一定の秩序が必要である。その秩序がなければ、教育そのものが、
成り立たない。学級崩壊は、その延長線上にある。

 が、その一方で、その秩序を、あえて破壊する子どももいる。いわゆる「粗放児」と呼ばれる
子どもたちである。原因の大半は、家庭教育の失敗とみる。多動児(AD・HD児)とのちがい
は、きびしく叱れば、それなりの効果はあるということ。しかしそのあと、さらに強烈な反動が起
きる。つまりますます粗放化する。

●粗放児の特徴

 家庭教育の崩壊、無視、冷淡、親の暴力、虐待、不適切で威圧的な家庭環境、無秩序な親
子関係、一貫性のない親の育児姿勢などが日常化すると、ここでいう「粗放児」が生まれる。
「荒れる子ども」と考えるとわかりやすい。

 つぎのような特徴がある。

(1)自己管理能力の欠如……善悪の判断ができない。ルールが守れない。約束が守れない。
感情(気分)のおもむくまま、行動する。行動しても、なげやり的。忍耐力がなく、短気で、突発
的。静かで論理的な会話ができず、静かな指導になじまない。

(2)破滅的な行動……協調性、共同性が極端に低下し、それに合わせて、極端な自己中心性
が見られる。そのため従順性に欠け、ものの考え方が直感的で、連続性がない。静かな落ち
着きがない。授業中に騒いだり、自分勝手な行動を繰りかえす。秩序を破壊する。

(3)極端な自己中心性……意図的な行動というよりは、動物的な行動により、秩序を破壊す
る。感情のおもむくまま行動する。他人を思いやる気持ちが、極端に低下する。自分勝手で、
わがまま。そのため常識はずれの行動に出ることが多い。

(4)AD・HD児とのちがい……AD・HD児とのちがいは、強く叱ったり、あるいは自分が「こわい」
と感ずる教師の前では、それなりにおとなしく、静かにしていること。相手を見るのに敏感で、
自分に対してやさしい教師には、ここでいう破滅的な行動に出る。

●R君(小3・男児)のケース

 「勉強はいや」「嫌い」をことあるごとに連発する。みなが静かに作業に入っているようなとき
でも、自分だけは、つまらなさそうな表情をして、机を蹴ったり、となりの子どもにちょっかいを
出したりする。

 教師の指示に対しても、免疫性ができていて、ふつうの指示では、効果がない。(かといっ
て、強く叱ると、ほかの子どもに影響が出るので、それもできない。)

 行動が投げやり的で、あきっぽい。放っておくと、自分だけ別行動を始める。バッグの中か
ら、ピンポン玉を取り出し、それを壁にぶつけて遊び始めたりする。で、それに同調する子ども
が現れたりすると、その子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。

 そういうとき教師は、「みんなの迷惑になるから、静かにしてください」と何度も繰り返し、注意
する。が、無視。が、あまりにも騒音がはげしいようなとき、「みんなの迷惑になるから、廊下で
遊んでいなさい」などと言うと、そのまま、校庭へ出て行ってしまう。雨が降っていても、雨の中
で、平気でボールを投げたりして遊んでいる。

 そこで教師が家に電話をして、家での様子を聞くが、母親は、「家ではとくに変わったことはな
い」「家ではふつうです」などと答える。自分の子どもに問題があると考える前に、子どもから聞
く話を、鵜(う)呑みにしてしまっている。

●家庭教育の失敗

 原因は、家庭教育の失敗とみる。家庭教育の崩壊、無視、冷淡、親の暴力、虐待、不適切で
威圧的な家庭環境、無秩序な親子関係、一貫性のない親の育児姿勢など。

 しかしこの中でもとくに、このタイプの子どもを決定づけるのは、親の不安定な育児姿勢であ
る。そのときの気分によって、子どもをはげしく叱る。ふつうのはげしさではない。大声で怒鳴り
散らしたり、あるいはそれに暴力を加えたりする。

 が、そうでないときは、そうでない。一慣性のない育児姿勢が、子どもをして、ますます粗放化
させる。

 が、最大の問題は、多くのばあい、親にその(自覚)がないこと。自分の子どもが教育の秩序
を破壊しているということについても、「学校が悪い」「先生が悪い」などと、平気で口にしたりす
る。子どもの言い分だけを鵜呑みにしているからである。さらにひどくなると、被害妄想をもつ
ようになる。「うちの子だけが、先生に嫌われている」「仲間はずれにされている」と。

 子どもにしても、親の前では、おとなしく、いい子ぶっていることが多い。

 あとはこの悪循環。(ますますはげしく子どもを叱る)→(ますます粗放化する)→(ますます先
生からの相談、苦情がふえる)→(ますますはげしく子どもを叱る)、と。

●対策

 親の理解と協力が何よりも大切だが、多くのばあい、家庭秩序そのものが崩壊していて、そ
れが得られない。ある小学校の教師は、家庭訪問をしてみて、あまりの荒れように、唖然として
しまったという。

 部屋中に酒びんが散乱し、子ども部屋といっても、ゴミの山だったという。約束の時間になっ
ても、母親が現れなかったので、その教師はそのまま学校に戻った。

 このタイプの子どもは、荒れる一方で、はげしい孤独感をもち、自分を包んでくれるおとなの
愛情に飢えている。おだやかで、愛情にあふれた、やさしい指導が好ましいが、実際には、そ
れをするにも限度がある。教師にしても、その子どもだけにかまっているわけにはいかない。
そのスキをついて、このタイプの子どもは、暴れ出す。

 何よりも教師の根気と努力が必要……ということになるが、実際には、「捨て子」として扱わ
れることが多い。「捨て子」というのは、教師仲間の間で使われる隠語で、「無視して、授業を進
めるしかないタイプの子ども」という意味だそうだ。現在の教育制度の中では、このタイプの子
どもを救いあげて、マン・ツー・マン的な指導するのは、現実には不可能と考えてよい。

 ただ、もちまえのバイタリティを、運動面、スポーツ面に向ければ、そちらの方面では、すばら
しい能力を発揮するということは、よくある。そういう方面で、自分を燃焼できるように、子どもを
もっていく。

●できるだけ早い時期に!

 対策を立てるとしても、できるだけ早い時期に子どもの進むべき方向性をつくってやる必要
がある。ここにあげた、R君は、小学3年生だが、あと数年もすれば、体格もおとな並になり、
俗な言い方をすれば、やがて手がつけられなくなる。

 同時に思春期に入り、それこそ欲望のおもむくまま行動するようになる。非行から、さらに何
らかの犯罪的行為に走る可能性も、じゅうぶん、考えられる。

 そういうとき、現場の教師は悩む。どこまで家庭教育に介入すべきか、と。親のほうから相談
があれば、話は別だが、先にも書いたように、ほとんどのばあい、親にそれだけの問題意識と
自覚がない。子どもは子どもで、先手を打って、親に教師の悪口を言う。「あの先生は、ぼくだ
けを目の敵(かたき)にする」「ぼくだけをたたく」「ぼくだけをのけものにする」と。

 教師が家庭教育に介入する前に、教師と親の信頼関係が、こなごなに破壊されているケー
スは、少なくない。

 もし今の段階で、R君に進むべき方向性をもたせてやらないと、先にも書いたように、「やが
て手がつけられなくなる」。進むべき方向性というのは、運動やスポーツ面で、R君のもつエネ
ルギーを燃焼させることを意味する。その一芸が、R君を立ち直らせる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 荒れ
る子供 荒れる子ども 粗放児 粗放化する子ども 家庭崩壊 崩壊児)





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●マザコンの果てにあるもの(再録・再考版)

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マザコンについて、補記します。

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●でき愛は愛ではない

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

●意外と多いマザコン娘

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

●マザコン息子

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

●親離れを助けるのも親

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

●マザコンは、離婚率が高い?

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困る。)自ら、
「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マザ
コン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘)








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●心の主(あるじ)

●心に従わず、心の主(あるじ)となれ

++++++++++++++

釈迦は、こう言った。

『心に従わず、心の主(あるじ)となれ』と。

もう少し明確に言うと、こうなる。

『心の奴隷になるな。心の支配者となれ』と。

さらの健康についても、こう言える。

『肉体の奴隷になるな。肉体の支配者となれ』と。

++++++++++++++

 釈迦は、こう言った。『……もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさ
えなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ』(「最後の教え」(仏教聖典))と。

 もう少し明確に言うと、こうなる。『心の奴隷になるな。心の支配者となれ』と。健康について
も、同じようなことが言える。『肉体の奴隷になるな。肉体の支配者となれ』と。

 心というのは、それが欲望に支配されているかぎり、私たちの精神活動は、邪悪なものとなり
やすい。また肉体についても、本来、肉体は、怠け者と考えてよい。心や肉体の命ずるままに
していたら、人間は、そのまま動物に逆戻り。健康も損(そこ)なわれる。

 その心や肉体は、常に、いろいろな信号を発している。その信号をどう聞き、選択するかも重
要だが、それ以上に重要なのは、心や肉体を、逆に、支配し、その心や肉体に命令することで
ある。

 たとえば何かの不愉快なことで、心がイライラしたとする。怒りも充満している。そういうとき心
の奴隷になってしまうと、心が命ずるまま、そのイライラや怒りが、表情や態度となって外に出
てきてしまう。ときに人間関係を破壊してしまうこともある。

 そこで反対に、心を支配する。支配して、心を、コントロールする。釈迦は、欲望について、
『心に従わず、心の主(あるじ)となれ』と言った。これを拡大解釈すれば、ここに書いたようなこ
とになる。

 同じように、健康についても、そうである。

 私たちの肉体は、(私)の命令どおりに動く、きわめて精巧なロボットである。(私)の意思の
命令に従って、(私)は、自分の(肉体)を自由に動かすことができる。「立て」と命令すれば、立
つ。「座れ」と命令すれば、座る。

 しかしその一方で、この肉体は、本来的には、たいへんな怠けものである。つねに私たちに、
「動きたくない」「疲れた」「めんどう」という信号を送ってくる。さらには「楽をしたい」「横になりた
い」「もっと食べたい」と。

 そんな肉体の命令をそのまま聞いていたら、それこそたいへんなことになる。そこで私たち
は、意思の命令によって、体を動かす。「お前の健康を管理するのは、私だ。私の言うことを聞
け!」と。

 するとしぶしぶながら、(肉体)が動き出す。それは幼い子どもに、何かの仕事を言いつける
ときの様子に似ている。「スリッパをならべてください」と頼むと、幼い子どもは、しぶしぶながら
も、それをする。

 (私)と(心)、さらには(私)と(肉体)を分離して考えることには、危険な側面もないわけではな
い。それが極端になると、(私)と(心)、さらには(私)と(肉体)を分離して考えるようになる。そ
うなればなったで、それはカルトの世界の話ということになる。彼らが言うところの(霊)というの
は、そういう考え方の延長線上にある。

 が、それはそれとして、つまりそれとは別に、(私)が(心)を支配し、ついで、(肉体)を支配す
ることは、釈迦の言葉を借りるまでもなく、大切なことである。心や肉体を支配できる人のこと
を、自己管理能力の高い人という。人格の完成度の高い人という。そうでない人を、自己管理
能力の低い人という。人格の完成度の低い人という。

 要するに感情のおもむくまま、行動してはいけないということ。一方、肉体が求めるまま、飽
食や大食をしてはいけないということ。だらしない生活をしてはいけないということ。これは心や
肉体の健康を守るために、とても重要なことである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 釈迦
 心の奴隷 肉体の支配者 心に従わず 主(あるじ))

【補記】
 何かのことで、カッとなったようなとき、この言葉を思い出してみてほしい。『心に従わず、心
の主(あるじ)になれ』と。

 あなたもきっと、私の意見に同意するだろう。

 また私は、よく自分の(肉体)に命令するときがある。近くにワイフがいても、ワイフに頼まな
いで、自分に向かって、「食器を洗え」「あと片づけをしろ」「掃除機をかけろ」と。

 そういうとき(肉体)は、「いやだ」という信号を送ってくる。しかし私は無視する。無視して、「や
れ」と再度命令をくだす。

 そういった命令を自分にくだすのが、このところ、とても楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●精神を支配せよ

+++++++++++++

昨日(7月6日)は、一日中、
「精神を支配せよ」という
言葉を、頭の中で考えていた。

釈迦は、『心の主(あるじ)と
なれ』と説いた。

それまでの私は、(精神)イコール、
(私)と考えていた。しかし
実際には、その(私)は、精神に
振り回されているだけ。

私の心の中は、いつもザワザワと
している。そしてそのたびに、
(私)は、右往左往している。

昨日、それがわかった!

+++++++++++++

 一度、自分の精神活動を、(私)から切り離してみる。それは、とても大切なことだと思う。肉
体にたとえてみると、それがよくわかる。

 私の肉体は、私のモノであって、私のモノではない。指の先の爪ひとつをとっても、(私)とは
無関係に成長する。「私の体」とはよく言うが、「私の体」と言えるような部分は、どこにもない。

 だから一度、自分の体を、(私)から切り離してみる。決して肉体の言いなりになってはいけな
い。たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 このところ、体重が2〜3キロもふえてしまった。そこでこの数日間、食事の量を、それまでの
2分の1から3分の1に減らしている。野菜を中心とした献立に切り替えている。

 そんなとき、何かの用事で、街へ出た。ワイフは、自分の用事をすませていた。で、見ると、
道の反対側に、コンビニがあった。私は、無性にアイスクリームが食べたくなった。そのときの
こと。私はこう考えた。

 「私の肉体は、アイスクリームを求めている。しかし今、アイスクリームを食べたら、ダイエット
が台無しになってしまう」と。

 (アイスクリームを食べたいと訴える肉体)。しかしその(肉体)を一度、(私)から切り離してみ
る。すると、その(肉体)が、私のモノであって、私のモノでない、……たとえて言うなら、自分の
子どものように思えてきた。

 そこで私は、私の肉体に、こう命令をした。「今夜は、やめろ!」「がまんせよ!」と。

 これは肉体の話だが、精神も、同じように考えることができる。先にも書いたように、精神とい
うのは、いつもザワザワしている。怒り、ねたみ、うらみ、欲望などなど。美しい女性と通り過ぎ
ただけで、ふと、そちらを見てしまう。

 そこで私は、『心の、主(あるじ)となれ』という言葉を、反復する。私のばあい、私は、ずっと、
心の奴隷みたいなようなものだった。また、それが当然と考えていた。しかしそれでは、釈迦の
言葉を借りるなら、『身を正し、心を正す』ことはできない?

 たまたま昨日の朝は、ワイフと、不穏な関係にあった。いつもなら口げんかをしていたかもし
れない。私のワイフは、ときとして、私の言うことを、ことごとく否定する。「否定する」という意識
がないまま、否定する。たとえば、昨日の朝も、こうだった。畑でとってきた、豆の料理をし始め
たときのこと。

私「ケチャップをかけて、食べようか」
ワ「醤油のほうが、おいしいわよ」
私「醤油は、塩分が多い」
ワ「少しくらいなら、だいじょうぶよ」
私「いいじゃないか、ぼくが、ケチャップでいいと言っているんだから……」

ワ「少しは塩分をとったほうがいいのよ」
私「どうして、お前は、いちいちぼくの言うことを否定する?」
ワ「否定なんか、してないわよ」
私「それがパラドックスだ。『否定していない』と言って、否定している」
ワ「否定してないわよ」

私「ぼくが、ケチャップでいいと言っているから、そうしてくれればいい」
ワ「だったら、私の言うことも聞いてよ」
私「ぼくが、食べるんだから、それでいい。お前は醤油をかけて、食べればいい」
ワ「料理のあとで、醤油をかけるわけにはいかないのよ」と。

 こういう状態になると、あとは、もう何を言っても無駄。がんこというか、ワイフは、厚いカラの
中に入ってしまう。生来の生い立ちの貧しさが影響しているのかもしれない。あるいは認知症
の初期症状なのかもしれない。さらにあるいは、私に対して、根深い欲求不満を抱えているの
かもしれない。

 何はともあれ、そういうときは、私は、だまってワイフの料理したものを食べるしかない。それ
がいやなら、自分で料理をする。

 私は自分の精神に命令をした。「言い争うくらいなら、無視して、自分で料理を作れ!」と。

 私は戸棚から、いくつかの缶詰を取り出して、封を切った。冷蔵庫から、サラダを取り出し
て、テーブルに並べた。

ワ「私の料理は、食べないの?」
私「……」
ワ「無視しなくてもいいじゃないの?」
私「……」と。

 不思議と、心の中は、平穏だった。鼻歌まで出てきそうな雰囲気だった。私は私で、ワイフを
無視して、朝食をすませた。

 ……つまりそういうこともあって、昨日は、一日中、『精神を支配せよ(心の、主(あるじ)とな
れ)』という言葉について、考えていた。

 今までにない、新しい経験だったので、たいへん新鮮な感じがした。このつづきは、もう少し、
あとに書いてみたい。

【発展】

 子どもにしても、そうだ。「私の子ども」とは、よく言うが、「私の子ども」と言えるような部分は、
どこにもない。私という(男)がしたことは、情欲に任せて、精液をひとしずく、ワイフの体の中に
注入しただけ。

 「私の体であって、私の体でない」と考えていくと、「私の子どもであって、私の子どもでない」と
いう考え方が、さらに鮮明な輪郭(りんかく)をともなって、明確になって現れてくる。

 子育てをするときは、常に、子どもから一歩、退いて、子どもをみる。これは子育ての常識だ
が、同じように、自分をみるときも、自分自身から一歩、退いて、自分をみる。それが正しいこ
となのかどうなのか、今の私にはまだわからない。わからないが、ここにも書いたように、これ
は私にとっては、新しい経験である。それが今、たいへん新鮮な感じがする。

 もう少し、今の経験を積み重ねてみたい。






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●ケータイ中毒

●子どもたちの世界

+++++++++++++++ 

私のところには、毎日、500〜800
通あまりのスパム・メールが届く。
(数えたことはないが、これは本当だぞ!)

その90%以上が、スケベ・メール。

そこで私は、すべてのメールを、一度
すべて、「ごみ箱」に入れる。設定は、
ツールの中の、(メッセージ・ルール)
でできる。

そうしたあと、読みたいメールだけを、
受信トレイに移動したあと、そこで
開いて読む。

こうしたスケベ・メールから子どもたちを
守ることは、可能なのか?

答は、NO!

+++++++++++++++
 
内閣府は6日、「情報化社会と青少年に関する意識調査」の結果を発表した。それによれば、
つぎのようだそうだ。

『高校生の96%が携帯電話やPHSを使用し、中学生は約6割、小学生も約3割が使ってお
り、携帯電話が広く行き渡っている実態が分かった。

小中高生を含む10〜29歳の男女5000人と、小中高生の保護者2000人を対象に3月、面
接や郵送で実施。10〜29歳の2468人(回答率49.4%)、保護者1145人(同57.3%)か
ら回答を得た。

 携帯電話やPHSからインターネットにアクセスしている高校生は95.5%、中学生56.
3%、小学生27%。パソコンからは高校生74.5%、中学生68.7%、小学生58.3%。目
的は▽宿題▽ホームページ、ブログを見る▽メールが小中高生とも上位を占めた。

 一方、保護者の約4割が「暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスすること」
を心配していたが、こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという高校生は40.7%、
中学生は43.4%、小学生は30%にとどまった。

 有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している小中高生は、
携帯、パソコンとも0.5〜2.7%しかいなかった』と。

+++++++++++++

 たとえば、こうある。『保護者の約4割が、暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアク
セスすることを心配していたが、こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという高校生
は40.7%、中学生は43.4%、小学生は30%にとどまった』と。

 保護者(=父母)の40%が、暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスするこ
とを心配しているという。しかしこの数字を裏から読むと、「60%は、心配していないか、何とも
思っていない」ということになる。

 さらにこうしたサイトにアクセスしないよう心がけている高校生は、40.7%、中学生は43.
4%、小学生は30%にとどまったという。しかしこの数字も、同じように裏から読むと、「60%
以上の子どもたちは、日常的にアクセスしている」ということになる。

 その結果、『有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している小
中高生は、携帯、パソコンとも0.5〜2.7%しかいなかった』と!

 こうした数字を見るかぎり、子どもの世界を、悪質インターネットの世界から守るのは、もう不
可能になったと考えるのが、正しい。「うちの子は、携帯電話をもっていないからだいじょうぶ」
とか、「インターネットはさせていないからだいじょうぶ」などと思うのは、幻想以外の何ものでも
ない。

たとえば、ここに100人の中学生がいたとする。内閣府の調査によれば、43%、つまり43人
が、悪質サイトへのアクセスをしないように心がけているという。となると、では、残りの57%の
子どもは、どうなのかということになる。

内閣府の調査をそのまま読むと、「心がけている子どもも、約半数はいるから、問題はない」
(?)ということになる。

 しかし本当にそうか。本当の問題は、その中身である。

 そうしたサイトへのアクセスに、ほとんど関心がない子どももいれば、反対に、毎日、家に帰
ってから、ハマりっぱなしという子どももいる。「57%もいるからだいじょうぶ」ということではな
く、そういうハマりっぱなしという子どもが、仮に1%でもいたら、大問題だということ。1学年を、
約120万人で計算すると、1%でも、中学生で、3万6000人ということになる。

 この1%の子どもたちが、残りの99%の子どもを、誘導してしまう。「悪」のもつパワーは、そ
れほどまでに強烈である。

 が、今では1%どころか、50%以上の子どもたちが、日常的に、悪質サイトにアクセスしてい
る。「手遅れ」というよりは、子どもたちは、私たちの知らない、まったく別の新しい世界を作りつ
つある。

 私は、この数字を見て、そう思った。

【まとめ】

●「情報化社会と青少年に関する意識調査」(内閣府・07年7月発表)


携帯電話やPHSからインターネットにアクセスしている子ども、

高校生は95.5%
中学生56.3%、
小学生27%。

パソコンからインターネットにアクセスしている子ども、

高校生74.5%
中学生68.7%
小学生58.3%。

目的は●宿題●ホームページ、ブログを見る●メールが小中高生とも上位を占めた。

 保護者の約4割が「暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスすること」を心配
している。

こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという子ども、

高校生は40.7%
中学生は43.4%
小学生は30%。

 有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している子ども。

小中高生は、携帯、パソコンとも0.5〜2.7%、と。

(小中高生を含む10〜29歳の男女5000人と、小中高生の保護者2000人を対象に3月、
面接や郵送で実施。10〜29歳の2468人(回答率49.4%)、保護者1145人(同57.3%)
から回答を得た。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 携帯
電話 子供と携帯電話 子供とインターネット 子どもとインターネット)





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●恐怖症

【群馬県のMさんより】

+++++++++++++++++

群馬県にお住まいのMさんより、
子どもの恐怖症についての相談が
あった。

Mさんの次男は、その恐怖症で、
学校へ行けない状態がつづいて
いる。

+++++++++++++++++

はじめまして。自分の子供のことで悩んでいる時、はやし先生のHPを拝見しました。

 次男(小4)が5月の中ごろより、学校に行けなくなっております。そのことでご指導いただけれ
ばと思い、メールを送らせていただきます。

 子供は小5(11歳)、小4(9歳)、保育園年中(4歳)の3人の男の子です。

 7年前から私たち夫婦が、私の実家の会社を継ぐことになり、現在は、主人と一緒に、その
会社で働いています。主人、私、母、叔母、それに従業員6名でやっております。

実家とは別々に生活しています。主人は婿養子ではありません。主人の両親は遠方に住んで
いて、盆、正月程度しか帰ることができません。私の義母(=主人の母)は保育園の園長先生
をしていたこともあり、子供の扱いがとても上手です。長男、次男とも義母が大好きで、いつも
夫の実家へ帰るのを楽しみにしています。

 私には兄が2人おり、私は3女です。長男はまもなく50歳になりますが、27歳ぐらいから引きこ
もりになり、現在も、その状態が続いております。

 私の実家は複雑でした。

 私の祖父は多額の借金を残したまま、亡くなり、父は20歳ごろから、借金だらけの中、苦労し
て現在の家業をつづけてきました。意に沿わない母との結婚、叔母や祖母との同居の上、そ
れに貧乏でした。叔母は父の母親のようです。母の実家のいざこざ、母の実家への借金、仕
事の問題等など、叔母が何かと解決してきました。

父はロマンチストで、母は現実派でした。
 
私の父はいつも、頭のボケた祖母を罵倒し、私の母を罵倒してきました。基本的にはみんな善
人なのですが、そんなわけで問題が絶えませんでした。私は怒鳴り声が聞こえる家がいやでし
た。

そんな中で精神的に一番被害を受けたのが兄でした。兄は就職した後、家業にもどり、すぐに
そのまま家に引きこもってしまいました。兄は両親とは全く話せなくなったため、私が間に入っ
ています。結婚前から、今まで、兄のことでずっと振り回されてきました。

 仕事がとても忙しかったのと、私の兄が引きこもったこともあり、この7年間、毎日、目の回る
ような忙しさでした。

 先日、私の父が亡くなりました。次男は父の四十九日が終わった直後から、学校に行けなく
なりました。

 何故、急に行けなくなったのかについては、原因はよく解りません。本人にも何度か聞きまし
たが、何故急に怖くなったとのこと。

 ただ、今から考えると、少し前から様子はおかしかったように思います。

4〜5ヶ月程前から、(1)見ているものが、急に小さくなるとか、そんなことを訴えるようになりま
した。

 三男と衝突することが多くなったようです。

 ほかに、(2)早起きだったのが起きれなくなる。(3)登校前、トイレからなかなか出てこない
(大便がまた出そうな気がするので、それが無くなるまで出られない)、と言うような事がありま
した。

 最近はほとんどありませんが、長男も次男も、低学年の頃、学校に行く前に何度かお腹が痛
くなったことがあります。私たちは、熱がない場合、学校に行き、どうしてもだめだったら迎えに
行くよと言い、送り出すようしておりました。

 今回、学校に行けなくなった直前もやはり、次男は腹痛や吐き気を訴えました。2日程はしぶ
しぶ行っていました。その後、教室が怖いと言い出し、「お母さんがついて来てくれたら行け
る。」と言うので、1週間ほど一緒に学校に行きました。が、それも行けなくなりました。

 教室が怖いから始まり、同年代の子供たちが怖い、知らない人が怖い、大きな物音が怖い、
などと訴えるようになりました。

 しばらく、休んでいましたが、「楽しいことがない」と言うので、おもちゃを買ってあげたり、一緒
にあそんであげたり、出かけたりもしたのですが、最近では、遊ぶものもなくなってきました。

ビデオやインターネットなども長い時間していたこともあるのですが、あまり長くし続けるのも良
くないように思い、やる時間を決めました。すると、また、暇になってしまいました。

あまり、暇だと言うので、「勉強でもする?」と聞くと、好きな算数の計算はやるのですが、嫌いな
漢字練習などは、少ししただけで、様子がおかしくなってしまいます。

 学校を休みだしてからしばらくしてからのこと。校外学習の日、行きたそうにしていたので、聞
くと「行きたい」というので、学校へ行きました。それからは、行きたい時に行くというかたちで学
校に行っています。

しかし、学校にいる間、怖がることが多く、私におんぶしたり、膝に座ったり、廊下でうずくまっ
たりしています。休み時間のドッチボールや、体育での球技などはやりたいと言って、参加する
ことができます。何かのことで怖くなったら、帰っておいでと言っていますが、帰りたくないと言う
ことが多いです。

 この1週間ほどは、あまり無いのですが、突然、おかしなことを言い出すことがありました。

たとえば、学校に行った日、学校が目の前にあるのに、「学校どこ?」と聞くようなことです。当
然解っているようなことを、聞いてきたりします。

 長男が生まれた頃は、もともと神経質な私は、いろいろなことで悩んでいました。長男のほう
に何か問題が起こらないかを心配をしていたほどです。次男はひょうきんで明るかったし、友
達もそこそこいるようだったので、ほとんど心配していませんでした。ところが、今回、学校に行
かなくなってから、次男といろいろと話していると、次男は、とても怖がり屋で、細かなことにとて
もこだわる子であることが解りました。
 
 次男との接し方はこのままでよいのか? 病院等に相談する必要は無いのか。(スクールカ
ウンセリングの先生はもう少し様子を見ては、と言っています。)

 現在、仕事を休んでいますが、いつまでもこのままというわけにはいきません。仕事を辞める
わけにもいきません。

 無理に学校に行く必要はないよ、とは言っていますが、行かないで家にいると、次男は、暇で
仕方がないと言います。そういうとき、どのように対処したらよいのでしょうか。あるいは学校を
休んでいる間は、どのような過ごさせ方をしたらよいのでしょうか。

 今まで、ゲーム機を買い与えていませんでしたが、最近欲しいと何度も言うようになりました。
約束事を決めて、買ってあげるべきかどうか、迷っています。

 次男への接し方と、長男、三男への接し方に相当な差が出てしまっています。
 長男も影響されて、学校を休みがちになってきています。どのように対処したらよいのでしょう
か。

 たぶん、今の状態は相当長く続くとは思うのですが、どのように子供たちに接していくべきな
のか、仕事をどうしたら良いのか?、など毎日 色々悩んでおります。

ご指導宜しくお願いいたします。

【はやし浩司よりMさんへ】

 私もいくつかの恐怖症をもっています。子どものころは、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあり
ました。30歳少し前に、飛行機事故に遭遇してからは、飛行機恐怖症になってしまいました。

 何とか飛行機には乗れるのですが、先方の外地などでは、完全な不眠症になってしまいま
す。(最近は、かなり楽になりましたが……。)

 恐怖症を軽く考えてはいけません。よく「気のせいだ」と言う人もいますが、そんなものではあ
りません。私が経験していますから、よく知っています。

 恐怖症の対処のし方の第一は、(1)そのことに触れないこと、(2)時間をかけて忘れさせる
こと、です。

 全体にみると、学校恐怖症(私のHPで、「はやし浩司 学校恐怖症」を検索してみてください)
による不登校のようにも思いますが、正確な診断は、スクールカウンセラーを通して、学校医
にしてもらってください。

 また神経症による症状も、いくつか出ていますね。しかし最近の考え方によれば、子どもはあ
くまでも、(代表)にすぎないという視点で、子どもの問題を考えます。大切なことは、「子どもを
なおそう」と考えるのではなく、原因となっている家庭環境、親子関係を猛省するということで
す。

 メールによれば、いろいろと不安定な家庭事情がつづいていたようですね。そういったこと
が、子どもの心理に大きな影響を与えてきたと考えてもよいのではないでしょうか。Mさんたち
の気がつかないところで、です。

 で、具体的に、どうしたらよいかについてですが、あまり(こだわり)が強いようでしたら、心療
内科を訪れてみることも考えてください。今ではたいへんすぐれた薬も開発されています。

 しかし当然のことながら、「薬だけでなおそう」とは、考えないでくださいね。(環境)を考えま
す。コツは、友として、話しかけ、相談にのることです。この際、くだらない親意識は、捨ててくだ
さい。

 子どもの立場からして、親の存在をまったく意識しないほどまで、子どもの周囲から緊張感を
取り除きます。親の過関心、過干渉があれば、改めます。また「家庭は心を休める場所」と心
得て、家庭では、子どもに好き勝手なことをさせます。

 態度がぞんざいになっても、部屋中が散らかっても、子どもがそれでいいと言うなら、それに
任せます。

 次男は、どこかで愛情飢餓の状態だったかもしれません。が、それはそれとして、今からでも
遅くありませんから、全幅の愛情を、次男に向けてあげてください。添い寝、手つなぎ、抱っこ、
いっしょの入浴などは、いとわず、します。献立も、CA、MG、K(=海産物)の多い食生活に切
り替えます。必要であれば、CA剤を処方してもらい、一方で、甘味の強いジュース、菓子など
は避けます。

 こうした問題で、一番大切なのは、担任の先生と密接な連絡をとり、カウンセラーの先生のア
ドバイスを聞くことです。幸いにも、「様子をみましょう」ということですから、カウンセラーの先生
は、その程度(失礼!)のことに思っているのかもしれません。というのも、Mさんにしてみれ
ば、自分の子どものことでもあり、事情が客観的に見えないかもしれませんが、事例としては、
(よくある事例)です。

 子どもが風邪をひくように、今、Mさんの次男は、心の風邪をひいているのです。だれだって
風邪くらい、ひくでしょう。だからあまりビクビクしないで、時の流れの中に、静かに身を置いて
みてください。

 私の感じたところでは、症状は、学校恐怖症といっても、軽いのではないかと思います。むし
ろ怠学に近いと思います。学校恐怖症の子どもは、家から出たがりませんし、また「退屈」とは
あまり言いません。

 こうした事例では、先にも書きましたように、「なおそう」と思わないこと。またここが大切です
が、「今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて」、対処してください。この種の問題は、
なおそうと思い、無理をすればするほど、二番底、三番底へと落ちていきます。つまり「今を最
悪」と思ってはいけません。

 これからのことですが、仕事と子ども、どちらが大切か、よく考えてください。私なら、迷わず、
子どもを選びます。Mさんには、Mさんのご事情があるかと思います。ご主人と、このあたりの
ことを、よく話しあってください。道はあるはずです。

 また長男に現れた症状ですが、こうした伝播は、よく報告されています。長男は、11歳という
ことですから、そろそろ何か目的(目標)をもたせることで、対処するのがベストかと思います。

 詳しくは、また私のマガジン(予定では、8月1日号)で取りあげさせてください。無料ですか
ら、また読んでくだされば、うれしく思います。

 神経症、恐怖症、学校恐怖症などの問題も、そちらで取りあげてみます。

 このところ忙しくて、ゆっくり返事が書けなく、この程度ですみません。また返事が遅れたこと
をお許しください。

 どうか、気を楽に。今はつらいかもしれませんが、子どもを信じて育てれば、この種の話は、
必ず、あとで笑い話になります。

 あとは、許して、忘れる、ですよ。その度量の広さが、あなたの子育てを、心豊かなものにし
ます。あなたももっとすばらしい人になれます。

 たかがゲームくらいのことで、悩まないこと。ご主人に任せたらどうでしょうか。

 おやすみなさい!

 はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学校
恐怖症の子供 学校恐怖症 恐怖症 怠学)






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●イチャモン保護者(?)

++++++++++++++++

学校に、無理難題をふっかけてきては、
学校の教師を困らす親がふえている。

称して「イチャモン保護者」。
「モンスター保護者」という新語も
生まれた。

しかしこの種の保護者は、昔もいた。
ただ当時は、数も少なかったし、
(学校)という権威が、まだそれを
抑えこむ力をもっていた。

今は、それがなくなった。

私自身も数多く経験している。

++++++++++++++++

●先生の訴訟費用保険加入が急増(産経新聞)

今朝(7月10日)の産経新聞は、つぎのように伝える。

『学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となるなか、仕事に関するトラブルで訴えられた
場合に弁護士費用などを補償する、「訴訟費用保険」に加入する教職員が急増している。

東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人が加入した。いつ保護者に訴
訟を起こされるか分からないとおびえる教師たちの姿が浮かぶ。

 公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、
弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。東京では都福利厚生事業団が窓口となり平
成12年から都職員の加入を募集。保険料は月700円だ。

 事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、3月現在で全体の約7割を占める2万18
00人。導入した12年当時は全体の2割の1300人だったが、口コミで急速に広まったようだ
という。同タイプの保険を扱う大手損害保険会社でも、個人で加入する教職員が全国的に目
立っているという』と。

 少し前、帰校途中で、けがをした子どもについてのエッセーを書いた。これらの話は、私が当
事者である学校の先生から、直接聞いた話をもとにして書いたものである。

++++++++++++++

●トラブル・メーカー

 ある県のある小学校に、「キング・トラブル・メーカー」と呼ばれる母親がいる。現在は、長男
の時代から、その小学校に、もう8年もいるという。その妹が、今年、5年生になった。

 その母親は、ささいなことでからんで、学校へ怒鳴りこんでくるという。40歳を過ぎたベテラン
教師(男性)ですら、その母親から電話がかかってくると、顔が青ざめてしまうという。

 とにかく、しつこい、ということらしい。

 あるとき、担任の教師が、その妹の頭を、プリントを丸めてたたいた。たたいたというより、ト
ントンとたたいたというほうが正しい。

 が、その3日後のこと。その母親がいきなり、校長室へ飛び込んできた。そして、「(担任の)
○○を呼んでこい!」と。

 校長が「どうしましたか」と聞くと、「うちの子をたたいたそうだが、許せない。うちの子になんて
ことをするのだ!」と。

 あわててやってきた担任には、その意識がない。たたいたという意識がないから、覚えていな
い。そこで「たたいた覚えはありません」と答えると、「相手が子どもだと思って、いいかげんな
ことを言うな!」「うちの子(娘)は、私には、ウソをつかない!」と。

 そうして1時間ほど、ねばったという。

 で、こういうことが、1、2か月おき。あるいは3、4か月おきにつづいた。電話を受け取っただ
けで、顔が青ざめるようになるのは、当然である。

 その男性教師(40歳)から、「そういうときは、どうしたらいいでしょうか?」と。

 私の経験では、(1)こちら側からは、いっさい、アクションをしない。その場だけのことですま
して、あとは、ただひたすら無視するのがよいと思う。そう返事を書いた。

 何かアクションを起こすと、それがとんでもない方向の飛び火することがある。そしてときとし
て、収拾がつかなくなってしまう。

 メールの内容からして、相手の母親は、まともではない。このタイプの母親は、全体の5%は
いるとみる。育児ノイローゼ、過関心、過保護、過干渉。その母親自身が、どこかに心の病気
をもっていることもある。あるいは、アルツハイマーの初期の、そのまた初期症状というのもあ
る。

 異常なまでの自己中心性、傲慢、強引などなど。妄想性も強く、対処のし方をまちがえると、
烈火のごとく怒りだす。詳しくは書けないが、私も若いころ、そのタイプの母親に、さんざんいび
られた。当時は、そのため、母親恐怖症にさえなってしまった。「お母さん」と相手を呼んだとた
ん、ツンとした緊張感が、背中を走ったのを覚えている。

 しかしここに書いた鉄則を守るようになってから、トラブルは、ほとんどなくなった。要するに、
その場だけ相手にして、あとは、忘れる。この世界には、『負けるが勝ち』という、大原則があ
る。意地を張ったり、反論しても、意味がない。まず、頭をさげて、「すみませんでした」と言えば
よい。あちこちで問題にすると、かえってこじれてしまう。

 ささいな言葉尻をつかまえて、「言った」「言わない」の、大騒動になることもある。だから、無
視。ただひたすら、無視。あとは、時間が解決してくれるのを待つ。

 で、その母親は、校長室で、「隣の席にすわっている女の子を呼んでこい」と息巻いたという。
「その子どもが、証人になってくれる」と。

 校長が「そこまでは、できません。相手の子どもにショックを与えることになりますから」「これ
からは気をつけますから、許してください」と、再三再四、頭をさげたという。

 こういうトラブルは、学校という世界では、まさに日常茶飯事。しかし一番の犠牲者は、その
母親の子どもということになる。

 そのメールをくれた教師は、こう書いている。

「その子が、たたかれたとウソを言ったのは、宿題をやっていなかったからです。それで学校へ
行きたくないと言った。が、母親には、それを言うことができなかった。それで、その子は、母親
に、ウソを言ったのだと思います。ああいう母親ですから、子どもも、ウソをつくしかなかったの
ですね」と。
 
 あなた周囲にも、1人や2人、必ず、このタイプの母親がいるはず。つきあうにしても、じゅう
ぶん注意したほうがよい。とくに、口がうまく、ヘラヘラと、どこか不自然なほどまでに、親しげに
近寄ってくる母親には要注意。これは、ある幼稚園の理事長がこっそりと私に話してくれたこと
である。 

(付記)

 それでもトラブルが起きてしまったら……。学校での活動は、必要最小限にして、学校そのも
のから遠ざかること。

 時間には、不思議な力がある。その時間が解決してくれる。

 またこうしたトラブル・メーカーは、あなたに対してだけではなく、別のところでも、トラブルを起
こすようになる。あとの判断は、周囲の人たちに任せればよい。性急に、自分の正しさを主張
したりすると、かえって問題が、こじれる。

 ほかの世界でのことなら、ともかくも、間に子どもがいることを、決して忘れてはならない。


++++++++++++++++

●親とのトラブル

++++++++++++++++

ある学校の先生が、親とのトラブル
で、悩んでいる。

トラブルといっても、その先生には
身に覚えのないトラブル。

教育現場は、私たちが思っているほ
ど、美しいものではない。

そこには、ありとあらゆる人間の欲
望が、ウズを巻いている。ホント!

++++++++++++++++

 昨夜、ある学校の先生(小学5年担任、女性)と、話す。電話で話す。いろいろと悩みは、尽
きないようだ。今、こんなことで、悩んでいるという。

 「ちょうど半年前のこと、何かのことで、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですか
ア!』と言いました。数日おきに学校へ電話をしてきて、あれこれと言うのです。

 いわゆる教育ノイローゼというのですね。ささいな問題を取りあげては、ああでもない、こうで
もない、と。一方的にペラペラとしゃべるだけ。こちらの話など、何も聞かないのです。それであ
る日、私のほうがキレてしまい、何かあれば、直接学校のほうへ、おいでくださいませんかと言
ったのです。

 それに対して、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですかア!』と。

 この世界にも、口に出していい言葉と、そうでない言葉があります。その母親は、口に出して
はいけない言葉を言ったのですね。それからは、私のほうも、心して、一線を引くようになりまし
た。

 が、その母親のほうは、それからことあるごとに、私の悪口を言い始めました。そこで先生
(=私)からのアドバイスにしたがい、ひたすら無視することにしました。やがてその母親は、先
生(=私)が言ったように、ほかの父母たちからも、孤立するようになりました。

 ところが、です。先日、また突然、電話がかかってきました。うちの学校では、自宅の電話番
号は教えないようにしているのですが、自宅へ、かかってきました。電話を受けた娘の話では、
泣き声だったそうです。そして、『先生、うちの子がいじめられている。何とかしてほしい』と。

 たまたまその日は、今度の研修会の準備やらで、帰宅が10時近くになっていました。娘から
そういう電話があったことは聞きましたが、10時も過ぎていたということで、その日は電話をし
ませんでした。

 翌朝、一番に電話をしてみましたが、留守でした。しかたないので、そのまま学校へ出勤。

 ところが昼近くになって、教頭から突然の呼びだし。あわてて校長室へ行ってみると、その母
親が、ものすごい剣幕で、そこにいました。驚いて、『どうしたのですか?』と聞くと、その母親
は、私を無視し、教頭に向って、こう怒鳴りました。『こんな教師は、即刻、辞めさせてくださ
い!』と。

 いろいろな親がいますが、実際には、こういう親も多いです。そしてこういう親にからまれる
と、神経がもちません。こういうときは、どうしたらいいのでしょうか?」と。

 ちょうど半年前、私がその先生にしたアドバイスは、つぎのようなものだった。

 まともでない親(失礼!)にからまれたときは、ひたすら無視する。ていねいに頭をさげて、
「すみません」とだけ言って、逃げる。こちらが反応すればするほど、相手は勢いづく。私の恩
師(元幼稚園理事長)は、かつて、こう教えてくれた。

「林さん、そういうときは、『私がいたりませんでした。どうか許してください。これからも何かと、
いたらない点があるかもしれませんが、そのときは、よろしくご指導ください』と言って、頭をさげ
なさい。決して、親を怒らせてはいけませんよ」と。

そしてあとは時間が過ぎるのを待つ。時間が過ぎれば、やがてだれの目から見ても、その親
は、まともでないことがわかる。つまり孤立する。

 私は子どものころ、よくかんかをした。気が小さいくせに、そういうときになると、どういうわけ
か、肝(きも)っ玉がすわってしまう。が、年下のものや、女子とは、したことがない。だから、今
でも、けんかは、じょうず。攻め際(ぎわ)と、引き際を、よく心得ている。攻めるだけでは、けん
かには、勝てない。引くときは引く。そして相手を孤立させる。そうして最終的に、勝つ。

で、こういう親とのトラブルは、学校というワクに中で起きたときには、ただひたすら頭をさげ
て、逃げるのがよい。学習塾やおけいこ塾なら、親にやめてもらうこともできる。親のほうも、や
めることができる。しかし学校という場では、それができない。

 その先生は、精神的にかなり疲れているようだった。ときどき、「もう教師なんか、やめたい」
というようなことまで、言った。

 そして最後のアドバイスは、前回と同じ。私は、こう言った。

 「どこの世界にも、そういう人はいますよ。道理や理屈の通らない人たちです。育児ノイロー
ゼ、教育ノイローゼの人となると、ゴマンといます。ノイローゼそのものについての相談というこ
とであれば、話は別です。さらに40歳もすぎると、アルツハイマー型認知症の初期の、そのま
た初期症状の親が出てきます。がんこで、自分勝手。それに被害妄想をもちやすくなります。
そういう人にからまれたときの鉄則は、ただ一つ。『ただひたすら頭をさげ、あとは時間が過ぎ
るのを待つ』です。

 こわいのは、そういう事例が、いくつか重なったときです。先生自身の耐久性もあるでしょう
が、3つとか4つとか、重なったときです。さらにそういう親どうしが連携(れんけい)したときで
す。

 そうなると、もう、教育どころでは、なくなってしまいます。(私立)幼稚園でも、そのため、先生
が退職に追いこまれたり、あるいは、神経を病んでしまうことがあります。どこの幼稚園にも、1
人や2人、精神科か心療内科の世話になっている先生がいます。長期休職している先生も、い
ます。事情は学校も同じでしょうが、学校のばあい、まだ転校という方法がありますが、幼稚園
では、それもままなりません。だから退職ということになってしまうのです」と。

 ついでながら、その母親の子ども(小5、女児)は、学校では、いつもオドオドとしていて、元気
がないという。そのため、学校では、友だちの輪の中に入っていくことができず、結果として、い
じめを受けているように見えるのではないか、と。が、その原因はといえば、母親にあると、そ
の先生は言った。

 「多分、家の中でも、こまごまとしたことで、母親は、娘を叱ったり、説教したりしているのでし
ょうね。ときどき電話で話す程度の私でさえ、気がヘンになりそうですから、毎日接している子
どもとなると、影響を受けて、当然です。

 これは学校や子どもの問題というよりは、母親自身の問題だと思うのですが……」と。

 そういう事例は、多い。いつか、「母因性萎縮児」について書いた。(その原稿は、このあとに
添付。)母親自身が、子どもの伸びる芽を、つんでしまう。そして子どもの問題点を見つけて
は、「学校が悪い」「先生が悪い」と騒ぐ。もちろんそういうケースもあるだろうが、しかしまず疑
ってみるべきは、自分自身の育児姿勢ということになる。

 卑近な例だが、自分では、信号無視、駐車場では、駐車してはいけない場所で駐車。窓から
ゴミをポ捨てしておいて、「どうして、うちの子は、約束を守らないのでしょう」は、ない。

 ……まあ、こう書くからといって、決して先生の肩をもつわけではない。しかし、今、学校の先
生は、本当に忙しい。休み時間(空き時間)にしても、文科省の指導どおりなら、週1時間しか
ない(公立の小学校)。学校に問題をもちこむとしても、そういうことを理解して上で、したらよい
のでは……。いらぬお節介かもしれないが……。
 
++++++++++++++

親が神経質になるのは、親の
勝手。しかしその影響は、
確実に子どもに現れる。

++++++++++++++

●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 母因
性萎縮児 母原性萎縮児)

++++++++++++++

私自身が経験したことにも、
こんな事件がある。

古い話なので、ここに紹介する。
(中日新聞掲載済み)

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●気になる新築の家のキズ

++++++++++++++

自分の子どものことで
神経質になる母親たち。

しかしそれも度を越すと……

++++++++++++++

 新築の家のキズは、気になる。私も少し前、ノートパソコンを通販で買ったが、そのパソコン
には、最初から一本のすりキズがついていた。それがそのとき、私は気になってしかたがなか
った。

子育てもそうだ。子どもが年少であればあるほど、親は子育てに神経質になる。「英語教室の
先生はアメリカ人だが、日系二世だ。ヘンな発音が身についてしまうのでは」「こっそりと参観に
行ったら、一人で砂場で遊んでいた。いじめにあっているのでは」「授業中、隣の子と話をして
いた。集中力がないのでは」など。

それはわかるが、度を超すと、先生と親の信頼関係そのものを破壊する。いろいろなケースが
ある。

 ある幼稚園の若い先生は、電話のベルが鳴るたびに、心臓が止まる思いをしていた。また別
のある幼稚園の園長は、一人の親からの小型の封筒の手紙が届くたびに、手を震わせてい
た。こうした症状がこうじて、長期休暇をとっている先生や、精神科の医師の世話になっている
先生は多い。どこの幼稚園にも一人や二人は、必ずいる。

 親から見れば、子どもを介しての1対1の関係かもしれないが、先生から見ると、30名の生
徒がいれば、1対30。1人や2人の苦情には対処できても、それが4人、5人ともなると、そう
はいかない。

しかも親の欲望には際限がない。できない子どもが、ふつうになったとしても、親は文句を言
う。自分自身に完ぺきさを求めるならまだしも、先生や教育に、完ぺきさを求める。そしてささ
いなことを大げさにしては、執拗に、先生を責めたてる。

ふだんは常識豊かな人でも、こと子どものこととなると、非常識になる人は多い。私もいろいろ
な経験をした。私が5月の連休中、授業を休んだことについて、「よそのクラスは月4回の指導
を受けている。私のクラスは3回だ。補講せよ」と言ってきた父親(歯科医師)がいた。私がそ
れを断わると、その親は、「お前を詐欺罪で訴えてやる。ワシは顔が広い。お前の仕事をつぶ
すことぐらい、朝飯前だ」と。

また別の日。たまたま参観にきていた父親に、授業を手伝ってもらったことがある。しかしあと
で母親(妻)から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれた
わね! どうしてくれるの!」と。

ふつうの電話ではない。毎日、毎晩、しかもそれぞれの電話が、ネチネチと一時間以上も続い
た。この電話には、さすがに私の女房もネをあげた。電話のベルの音がするたびに、女房は
ワナワナと体を震わせた。

 あなたが園や学校の先生に、あれこれ苦情を言いたい気持ちはよくわかる。不平や不満も
あるだろう。しかし新築の家のキズはキズとして、あきらめることはサッとあきらめる。忘れるこ
とはサッと忘れる。子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、神経質な過関心は、思
い出を見苦しくする。あなた自身や子どもの健康にも、よくない。

よけいなことかもしれないが、子どもはキズだらけになってはじめて、たくましくなる。キズつくこ
とを恐れてはいけない。私のパソコンも、今ではキズだらけ。最初のころは毎日、そのつどカバ
ーをかけてしまっていたが、今では机の上に出しっぱなし。しかし使い勝手はぐんとよくなった。
子育ても、それと同じ。今、つくづくとそう思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 神経
質になる親たち 神経質な親)


++++++++++++++

もちとん、子どもどうし、
親どうしのトラブルもある。

そんなときは、どう考えたら
よいのか。

++++++++++++++

●子どものトラブル解決法(1)

 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。た
とえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまでは
いかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をき
たすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。

そういうトラブルがつづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつ
のケースを、モデルに考えてみる。

【K君、小三男児のケース】

 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明る
かった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通ってい
たが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。

 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校は
いやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすら
しない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別
人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。

 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰っ
てきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』
というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。

 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の
前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が
多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が
今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断し
なければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化
する。

 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を
解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にや
るべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)

(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかり
と包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなる
ことが多いが、それはそれとして、大目にみる。

(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切に
する。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心
を裏から支えるようにする。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、
学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。

 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症
状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしては
いけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子
どもの症状だけを訴えて、それですます。

判断や指導は、プロである先生に任す。それがわからなければ、たとえばあなたが病気になっ
たときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクターに、自分の診断名や治療法を話すだろ
うか。そんなことをしても、意味がない。ないばかりか、かえって、診断や治療のさまたげにな
る。学校という社会では、先生は、まさに教育のドクター。が、それだけではない。

 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わ
ぬ方向に、飛び火したりする。10人もいれば、1人はまともでない親がいる。そのうちさらに10
人のうち1人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込むと、そ
れこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わないの」
が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルではすまな
くなる。

 私は、つぎのような格言を考えた。

●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサ
ラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふう
に考えてはいけない。

●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、
その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言う
ことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。

あなたの子どもがあなたをとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きな
キレツが入ることになる。同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生
を責めてはいけない。症状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を
覚悟しているのなら、話は別だが……。)

●子どもどうしのトラブルは、1に静観、2にがまん。3、4がなくて、5にほかの親に相談……
「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親に
相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決す
る。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。

++++++++++++++

こうしたトラブルが起きる背景には、
「何でも学校」という、親側の
甘えがある。

こんな事件もあった。

++++++++++++++

【MTさんへ、はやし浩司より】

 私も、若いころ、あちこちで、ひどい目にあいました。おかげで少しは、利口になりました。
が、それが(現実)というか、(外国)なのですね。日本の常識は、どこかぬるま湯的。外国で
は、通用しません。

 少し前にも書きましたが、アメリカ人は、道に迷っても、ぜったい、見知らぬ人には道を聞き
ません。自分で地図を開いて、それとにらめっこをしながら、目的の場所をさがします。で、あ
るとき、私が、「どうしてそのあたりの人に聞かないのか?」と聞くと、そのアメリカ人は、こう教
えてくれました。

 「相手の人がこわがるから」と。

 ご存知ですか? アメリカでは道を聞くフリをして、その人に近づき、ピストルで脅(おど)して
お金を奪うという犯罪が、少なくないそうです。ばあいによっては、ズドン!

 が、日本では、中学校で使う英語の教科書などには、道をたずねるという英会話が載ってい
ますね。「郵便局は、どう行けばいいですか、教えていただけませんか?」「この道をまっすぐ行
って、三つ目の角を、右に曲がってください」と。

 しかしそんなことをたずねるアメリカ人は、いません。つまりあれほど、ムダな英会話というの
もないということになります。

 で、MTさんのメールを読んでいて、感じたこと。……言うなれば、中国は、自己責任の国とい
うことでしょうか。あるいは社会制度そのものが、まだ未成熟? 日本では、大雨が原因で洪
水が起きても、住民は、市を訴えたりします。「行政の怠慢が原因で、洪水になった」と、です。
つまりそれだけ、日本人というのは、(お上)に対して、依存性が強いということになります。

 それがよいのか悪いのか、私にはわかりませんが、こうした依存性は、教育の場にも、たび
たび見られます。

 少し前にも書きましたが、ある小学校で、こんな事件が起きました。

 ある子ども(小1、男児)が、学校の帰りに、同級生に石を投げられ、ケガをしたのです。たい
したケガではなかったのですが、母親が、それに反発。翌日、学校へ行き、担任に、「もっとし
っかりと、子どもたちを監視してほしい」と申し出たそうです。が、その先生は、正直な人だった
のですね。その母親に、こう答えたそうです。

 「そこまでは、できません」と。つまり「帰り道のことまでは、責任を負えません」と。

 その言葉に、母親はさらに反発。今度は、その足で、校長室まで行って、校長に抗議したそう
です。きっと「あの先生は、無責任だ」とか何とか、そんなようなことを言ったのだと思います。

 しかし、実際問題として、先生が、そこまで監視するのは、不可能です。で、その先生は、そ
の日の終わりの会のとき、子どもたちの前で、「昨日、○○君に石を投げたのは、だれだ」と、
言ってしまったというのです。

 が、これがまたまた大問題に発展してしまいました。

 それを聞いた母親が、「そんなことを先生がみなの前で言えば、うちの子がいじめにあってい
るということが、みなにわかってしまう」「ますますいじめられるようになってしまう」と。

 ……こうした一連の母親の行為の向こうに、私は、日本人独特の、あの依存性を感じてしま
うのです。もし自分の子どものことがそんなに心配なら、自分で、自分の子どもの送り迎えをす
ればよいのです。多分、中国人なら、そうするでしょうね。しかしそういう発想は、日本人には、
ありません。

 「何でも、かんでも学校」という発想です。たまたま今夜も、NHKテレビで、国語力についての
報道番組がありました。最近、若者たちの国語力が、低下しているという内容のものでした。

 その中で、ある作家(○○賞受賞者)が、こうコメントを述べていたのには、驚きました。「学
校での基礎教育を、もっと充実すべき」と。

 ここでも、また「学校」です。しかしどうして「学校」なのでしょう。私なら、「母親の言葉教育から
始めるべき」と言うでしょう。あるいは「母親の言葉教育を、もっと充実すべき」と言うでしょう。

 言うまでもなく、子どもの国語力、なかんずく会話能力を決めるのは、母親自身の国語力だ
からです。その国語力が、子どもの国語力の基礎となります(※)。

 わかりますか?

 「自分で何かをしよう」と考える前に、「お上(=学校)に何かをしてもらおう」という発想です。
こうした発想が、日本中の、すみずみにまで、行き渡っている。日本人の骨のズイのズイまで、
しみこんでいる。

 (外国)は、もっときびしいですね。日本人の私たちが考えているより、はるかにきびしい。MT
さんからのメールを読んでいたとき、別の心で、そんなことを私は考えていました。ちがうでしょ
うか?

 ……ともあれ、お元気そうで、何よりです。しかし、MTさん自身がそうなのですから、ご主人
は、もっとたいへんな経験をなさっておられるかもしれませんね。風習や制度がちがうというよ
り、文化そのものがちがいますから……。むしろ戦前の日本人のほうが、中国に同化しやすか
ったかもしれませんね。日本人は、よきにつけ、悪しきにつけ、戦後、アメリカ型の西欧文明を
受けいれてしまいましたから……。

 今、MTさんが感じておられるギャップというか、カルチャ・ショックは、その狭間(はざま)で生
じているのだと思います。おおいに頭の中で火花を飛ばして、それを楽しんでください。少なくと
も、お子さんたちには、たいへんよい刺激になっているはずですから……。(少し、無責任な意
見で、すみません。)

 で、日本は、今、秋たけなわといったところです。暖房はまだ必要ありませんが、ひんやりとし
た寒気を感じる毎日になりました。

 また、どうか、上海の様子を知らせてください。よろしくお願いします。楽しみにしています。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モンス
ター保護者 イチャモン保護者 子育て狂騒曲 狂騒する親たち)






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●一事が万事

 たとえば……。この熱い中、運転席の横の窓をあけて走っている車を、ときどき見かける。外
の空気を取り入れるために、そうしているのではない。たいていは、(ほぼ例外なく)、自分が吸
っているタバコの灰を、窓の外に捨てるために、である。

 そういうことが平気でできる人というのは、そういう人だと見てよい。まさに一事が万事。ひと
つの場面で小ズルイ人は、ほかのあらゆる場面で、小ズルイ。人間の脳みそは、それほど器
用にはできていない。

 場面ごとに、まじめになったり、場面ごとに小ズルくなったりなどということは、できない。もっと
も若いときは、(気力)がそれをカバーする。その(気力)で自分をごまかすことができる。

 しかし歳をとると、そうはいかない。(気力)そのものが、弱くなる。そしてそのため、自分の中
身が、モロに外に出てきてしまう。実は、これがこわい。

 そこで窓の外にタバコの灰を捨てている人を、よく観察してみるとよい。高級車であるとか、
そうでないとかいうことは、関係ない。若い人であるとか年配の人であるとか、そういうことも関
係ない。どの人も、例外なく、見るからに醜悪な顔をしている。

 そこで私たちはひとつの教訓を手に入れる。

 私たちの人格は、日々の、ほんのささいなことの積み重ねによって、できていくということ。そ
れが月となり、年となり、それが10年、20年とつづき、その人の人格となっていく。

 方法は簡単。ウソをつかない。約束(ルール)を守る。この2つだけを、心がければよい。人
が見ているとか、見ていないとか、そんなことを意識する必要はない。これは自分自身に対す
る問題である。つまりは、己(おのれ)の問題。

●小ズルイ人とは、つきあわない

 ところで、最近、私は、つきあう人の選択を始めている。話せば長くなるが、私はもともと、小
ズルイ人間(子ども)であった。

 すべてをあの時代、つまり戦後のあの貧しい時代のせいにするわけいにはいかない。が、そ
ういう生まれ育った環境もある。

 その小ズルさに気づいたのは、私がオーストラリアに渡ってからのこと。それまでの私は、自
分が小ズルイということさえ、わからなかった。それは私の体にしみついた、シミのようなもの。
私は私で、それがふつうだと思っていた。みなも、そうだと思っていた。

 しかし私は、誠実な友人に恵まれた。それがよかった。が、それはそれとして、だからといっ
て、自分の中から、小ズルさが消えたわけではない。今でも、私は基本的には、小ズルイ人間
である。ふと油断したようなとき、その小ズルサが、表に出てくるときがある。

 とくに、小ズルイ人間を前にしたとき、そうである。

 というか、もともと私はそういう人間だから、自分に照らし合わせることによって、相手の小ズ
ルさが、よくわかる。「ああ、小ズルイことをしているな」と。だから私には、小細工(こざいく)は
通用しない。

 が、同時に、ここでおかしな現象が起きる。

 そういう小ズルイ人とつきあっていると、自分の中の小ズルさが、そのまま外に出てきてしま
う。「目には目を……」というわけでもないが、相手が小ズルイ人間とわかったとたん、あるいは
小ズルイことをされたとたん、そういう人に対して、私は小ズルイことをしてしまう。良心の呵責
(かしゃく)というか、抵抗を、ほとんど感じない。

 だから私は、最近、私は、つきあう人の選択を始めている。(本当は、相手から選択されてい
るのかもしれないが……。)とくに、小ズルイ人とは、距離をおくようにしている。それが親類で
あれ、古い友人であれ、そうしている。

 その人たちが悪いというより、そういう人たちに感化されてしまう自分がこわい。

●子どもに評価される親

 子育てにおいても、また、然(しか)り。

 当然のことながら、あなたは子育てしながら、あなたは自分の子どもに、誠実になってほしい
と願っている。心豊かな人生を、まっすぐ進んでほしいと願っている。もしそうなら、その前に、
あなた自身が、そうでなければならない。親が小ズルイ人間であって、どうして子どもに向かっ
て、「そうであってはいけない」と諭(さと)すことができるというのか。

 そのためにも、一事が万事。その一事が万事を、今に生かしていく。わかりやすく言えば、身
の回りのどんなささいなことについても、まず、約束(ルール)を守る。ウソをつかない。そうした
積み重ねが、長い年月を経て、あなたの人格となり、その人格は、確実に、あなたの子へと伝
わっていく。

 しかしこれはあなたの子どものためというよりは、あなた自身のためでもある。

 あなたもいつか、親としてではなく、一人の人間として、子どもに評価されるときがやってくる。

 そのとき、あなたがその評価に耐えうるような人間であれば、それでよし。そうでなければ、
先にも書いたように、あなたの老後は、みじめで、あわれなものになる。何が悲しいかと言っ
て、子どもに軽蔑されることぐらい、悲しいことはない。それ自体が、人生の結論といってもよ
い。

 が、それだけではない。

●時そのものが、金

 人はなぜ生きるかといえば、一歩でも、真・善・美に近づくためである。ほかにもいろいろ考え
られるだろうが、究極的には、この3つに集約される。が、そのための時間は、あまりにも短
い。

 加齢とともに、「時間性」(ハイデッガー)は、ますます拡散される。若いときの1年と、50歳を
過ぎてからの1年は、明らかにちがう。わかりやすく言えば、50歳を過ぎると、1年は、あっとい
う間に過ぎ去っていく。

 たとえば今日にしても、2007年の7月10日。1年の半分以上が過ぎた。「つい先日、正月を
祝ったばかり」と思っているのに、もう半分以上が過ぎた? つまりそういった感じで、時が流
れていく。

 だからこそ、回り道をしているヒマなど、ない。しかも真・善・美などというものは、簡単には近
づけない。へたをすれば、かえって遠ざかってしまうことすらある。『時は金なり』とは言うが、私
の年代になると、『時そのものが、金』なのだ。

 そんなわけで、さあ、あなたも勇気を出して、自分の小ズルさと闘おう。あなたの周囲から、
小ズルイ人を、遠ざけよう。

 そうすることが、あなたの人生を、心豊かに生きるための、第1歩と考えてよい。





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●母性vs父性

●親像に苦しむ親たち

++++++++++++

自分の中に、自然な形での
親像がインプットされていない
親は多い。

不幸にして不幸な家庭環境で
育てられた親たちである。

何度も書くが、子育ては、
本能ではなく、学習によって
できるようになる。

自分が親に育てられたという
経験が、自分の体の中に
しみこんでいてはじめて、
親は、親として、子どもを
自然な形で育てることができる。

++++++++++++

【親像】

●子どもの親像を知る

子どもに母性や父性が育つとき

●ぬいぐるみでわかる母性 

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。
しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。

父性や母性(父性と母性を区別するのも、おかしなことだが……)が育っている子どもは、ぬい
ぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。
抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約八
〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好き」と答えている。

●男児もぬいぐるみで遊ぶ

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通し
て、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性
や母性を学ぶ。

そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが
代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。や
わらかい素材でできた、温もりのあるものがよい。

●悪しき日本の偏見
 
日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏
見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐ
るみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。

男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう
人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、こ
こでいう人形ではない。

 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。

弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった
軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからない
ほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、
あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。

●ぬいぐるみで育つ母性と父性

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ
ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー
ッと頬を寄せてくる。

こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言いかえると、この時期
すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思
っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親
になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親像
 ぬいぐるみ 人形)

+++++++++++++++

【親が子育てができなくなるとき】
 
●親像のない親たち
 
「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母
親すらいた。

また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を
経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人
とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような
記事を書いただけでその翌日、一〇本以上の電話が届いた。

「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸
せな結婚はできないのか」など。

「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家
庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにとも
なう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。
たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければ
ならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。

たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつ
くることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を
自分の中につくった。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり
自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てがで
きるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかってい
ても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考
えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。

しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育と
いっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育と
いうワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てが
できる本当の理由ではないのか。

(参考)

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一
点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待
あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%
であった。

この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているのがわか
る。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実
母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三
七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%と
なっている。

++++++++++++++

 群馬県に住んでいるMさん(母親)から、こんなメールが届いた。Mさんも、自分自身の中に
親像がインプットされていない(?)ことに悩んでいる。

 しかしMさん、心配は、無用! この問題だけは、それに気づくだけも、ほとんどが解決したと
みる。あとは、時間が解決してくれる。がんばれ、Mさん!

【Mさんより、はやし浩司へ】

 先日は、お忙しい中、早速お返事を頂 ありがとうございました。

 ご相談させていただいた後も、はやし先生のHPを色々拝見させていただいておりますが、先
生のおっしゃるとおり もっと重大な問題を抱えておられる方々がおられることがわかりまし
た。

 今の次男の状態が、どの程度のものなのかが、わからずとても不安でしたので、少し気持ち
が落ち着きました。

 以前から、「子供はほめて育てなさい」とは聞いていましたが、私は確固たる理論や理屈なく
ほめているだけでよいのか? 強く言って聞かせる必要もあるのでは?、と考えていました。

 何故、そのように考えるのかよくよく考えてみました。

 1.母、父、叔母等から「昔は厳しかった」「厳しく言わないと子供は まあいいや になるので
はないか」と言うような話を聞いた。

 2.私自身 頭から叱れることが多かった

 3.世の中 軟弱な人が多い

1と2について 私の親たちが家庭人としてすばらしい人たちだったかと言うと、答えはNOで
す。

3 について本当にそうなのか不明。勝手になんとなくそう思っている。

 以前、兄のことをずっと相談していた人に、「あなたは子供たちをあなたの親と同じように育
ててはいけません。母親はどっしりと、おおらかで、細事にこだわってはいけません。」と言われ
ていました。

 私は子供たちに対してどのように接してきたのか振り返ってみました。

 仕事や兄のことで時間がとられ、常に目の前にあるものを何とかすべく走り回り、時間が足り
ないことにイライラする事が度々ありました。

 イライラしている時に子供たちが自分の思った様子で無ければ、突き刺さるような(主人がそ
う感じたそうです)叱り方をしていました。

 ぐずぐずしている時には突き放し、条件をつけて(私の目から見て)良い生活をさせようとし、
脅迫するように諭すこともありました。
 
 こうして考えると、してはならないことを度々してきたようです。

 わたしは、両親のような子育てはしないぞ と思ってきました。

 主人はとても良く相談に乗ってくれる人なので、主人との関係がよければ子供たちに大きな
問題は無いだろう。と思っていました。

 しかし、私はやはり両親と同じような事をしてきていたようです。

 今回の次男のことは、私に考える時間を与えてくれたのだと考えております。

 まだまだ、吹っ切れない部分もあるので、色々悩む事もあると思いますが、主人と相談しなが
ら自分のことをもっと反省していきたいと思います。

 マガジンでこのような問題を取り上げていただけるとの事 参考にさせていただきます。

 文章力がないため、長くなってしまい申し訳ありません。
 今後も宜しくご指導お願いいたします。







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●親どうしの交際

【心の洗濯・さわやかに生きる】

+++++++++++++

毎日をさわやかに生きるために
は、いろいろなコツがある。

+++++++++++++

●他人の生活をのぞかない

 他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。それはその他人のため
というよりは、あなた自身のためである。

 少し話がそれるが、こんな事件が身近であった。

 10年ほど前だろうか、近所に住むA氏(40歳、当時)から、こんな相談があった。
何でも、そのA氏の自宅の東側に住むB氏(50歳、当時)が、A氏の家の中を、いつも のぞい
ているというのだ。それでA氏の妻が、気味悪がって、不眠症になってしまった、
と。

 そこでA氏が、B氏に、「そういうことは、やめてほしい」と注意すると、B氏は、猛然とそれに
反発して、こう言ったという。

 「お前こそ、オレの家をのぞいているではないか。オレのウチは、そのため、すべての
窓ガラスを、型ガラスにかえたんだぞ!」と。

 A氏には、まったく身に覚えのない話だった。つまりB氏は、いつもA氏の家の中をの
ぞいていた。それでB氏は、自分もA氏にのぞかれていると思ったらしい。これに似た話
は、よくある。

 たとえば他人の私生活を気にする人は、同時に、自分が世間からどう見られているかを
気にする。つまり他人の生活をのぞく人は、のぞいた分だけ、今度は、自分の生活がのぞ
かれているのではないかと恐れる。あるいはそういった被害妄想を、もちやすい。冒頭に
あげたB氏が、そういう人だった。

 だから他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。気にすればする
ほど、今度は、あなたが、自分の子どものことで、他人の目を気にするようになる。

 25年ほど前のことだが、いつも娘(高校生)を、車で送り迎えしていた母親がいた。「近所の
人に、娘の制服を見られるのが、恥ずかしかったから」というのが、その理由らしい。あるい
は、(これはホントの話だぞ……)、駅で制服を着替えてから、学校に通っていた子どもさえい
た。

 世間の目を気にする人は、そこまで気にする。

 私は私。他人は他人。そのためにも、まずあなた自身の心をつくりかえる。つまり他人
の生活は、のぞかない。それは、このどろどろした世界を、さわやかに生きるための鉄則
でもある。

●家庭問題には、かかわらない
 
 こういう仕事をしていると、ときどき、横ヤリが入ることがある。つい先日も、ある女
性(60歳くらい)から、こんな電話が入った。

 「うちの嫁(=生徒の母親)が、孫(=私の生徒)をつれて、実家へ帰ってしまった。
ついては、あなた(=私)のほうで、何とか、孫だけでも、取りかえしたい。ついては協
力してもらえないか」と。

 その生徒は、私のところへ、何も変わりなく、通っていた。その女性(=祖母)は、そ
の機会をとらえて、孫(=生徒)を、取りかえそうと考えていた。

 こういうケースでは、私は、いつもはっきりと断ることにしている。「私は、母親(=嫁)から委
託を受けて仕事をしています。その母親を、裏切ることはできません」と。

 しかし問題は、そのあとだ。こうした電話があったことを、その母親に告げるべきかど
うかで迷う。

 で、私のばあい、こうした電話は、そのまま無視することにしている。いつしか、そう
いう処世術を身につけてしまった。まさに『さわらぬ神にたたりなし』である。

 へたに介入すると、やがて抜き差しならない状態になる。実際、こじれた人間関係ほど、
わずらわしいものはない。また介入したところで、どうにもならない。それぞれの家庭に
は、言葉に言いつくせない問題が、「クモの巣」(=英語の表現)のようにからんでいる。

 相手から相談があれば、話は別だが、これも、さわやかに生きるための鉄則である。


●人の悪口は、自分で止める

 母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。「言った」「言わない」が、こじれて、裁判ざたになるこ
ともある。

 で、私の耳にも、そういった話が、容赦なく、飛びこんでくる。しかしそういうときの
鉄則は、ただ一つ。『ただ聞くだけ。そしてその話は、絶対に、人には、伝えない』。

 たとえばAさんが、こう言ったとする。

 「あのBさんね、祖母の老齢年金を、とりあげているそうよ。そしてそのお金を、自分
の息子の塾代にあてているんですって」と。

 こういう話は、聞くだけで、絶対に人に伝えてはいけない。あなたのところで止めて、
そのまま消す。そして忘れる。相づちを打ってもいけない。

だいたいにおいて、そういう話が飛びこんでくるということは、あなた自身も、そのレ
ベルの人ということになる。だから、よけいに、相手にしてはいけない。英語の格言にも、『食物
は口から入るが、禍(わざわい)は、口から出る』というのがある。

 ……と、偉そうなことを書いてしまったが、実は、私も無数の失敗をしている。たとえ
ば以前、こんなエッセー(中日新聞投稿済み)を書いたことがある。


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●父母との交際は慎重に

 教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、あ
る小学校であった。

その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がいる」と、
ふと口をすべらせてしまった。その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、
今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくない。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾な
ど。

そこでそれぞれの親が、自分のことを言われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動
へと発展してしまった。結局その先生は、任期の途中で転校せざるをえなくなってしまっ
た。が、実は私にも、これに似たような経験がある。

 母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それ
はそれですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」
と聞いた。するとその母親は、「行きませんでした」と。

そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「そ
れは賢明でしたね」と言ってしまった。が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わ
ってしまった。

しかもどこかで話がねじ曲げられ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れ
ていったヤツはバカだと、あのはやしが笑っていた」ということになってしまった。数日
後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私のところへやってきた。「バカとは何よ! あ
やまりなさい!」と。

 母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言った、言わない」の大喧嘩になることも
珍しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある
小学校で、母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。

 そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば
必要最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。
そして相づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、
ほかの人に伝わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。

 教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に
「子ども」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り
広げる。

一〇人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、
めんどうを大きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。
そのときはこうする。

 日本でも、『魚心あれば、水心』という。イギリスの格言にも、『相手は自分が相手を思うよう
に、あなたのことを思う』というのがある。つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相
手もあなたのことを「よい人だ」と思うようになる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も
「いやな人だ」
と思うようになる。

だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うよう
にする。相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。

要するにこの世界では、敵を作らないこと。何度も繰り返すが、ほかの世界のことなら
ともかく、子どもが間にからんでいるだけに、そこは慎重に考えて行動する。

++++++++++++++++++++++++

 英語にも、『同じ羽の鳥は、いっしょに集まる』という格言がある。私は、どこか低劣な
話が耳に入ってきたときには、相手は、私もその低劣な人間とみているのだなと思うよう
にしている。

 相手から見れば、私も低劣に見える。だからそういう低劣な話を、私にするのだ、と。

 しかし実際には、幼児相手の仕事をしていると、いつも低劣に見られる? 先日もいき
なり電話がかかってきて、こんなことを言う母親がいた。

 「おたく、幼児教室? あら、そう。今、うちの子を、クモンへ入れるか、あんたんど
こへ入れるか、迷っているんだけど、どっちがいいかなア?と、思って……」と。

 私はそれに答えて、「はあ、うちは、10問(ジューモン)教えますので……」と。

 この答え方は、昔、仲間のI先生が教えてくれた言い方である。(クモンと、ジュウーモンのち
がいですが、わかりますか?)

 いかにして、この世界で、さわやかに生きるか。これはとても重要なテーマのように思
う。いつもそれを心のどこかで考えていないと、あっという間に、泥沼に巻きこまれてし
まう。

それを避けるためのいくつかの鉄則を書いてみたが、これらの鉄則は、そのまま母親ど
うしの人間関係にも、応用できるのでは。ぜひ、応用してみてほしい。






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【無知】

++++++++++++++++

メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていれば、それでよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪と考えてよい。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

++++++++++++++++

【無知という「罪悪」】

+++++++++++++++++

「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

+++++++++++++++++

 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがいる。
自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわずらわし
さから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまされな
い。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状をこじらせる
だけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追いやってしまう。

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向があ
った。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。たとえば幼稚
園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった席でないと、すわらな
いとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になることもあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードをもって
いたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並べたり、箱に入
れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、カード
の入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりしたからである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、倉庫
へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、それとわかる
ほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)と笑うな
ど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。A君は、カードに
は見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破ったり、ゴミ箱に捨てたりし
た。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、「どうして
カードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親は、こう言った。「だっ
て、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私がしまったのは、古いカードが
入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげたりする
と、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからない。いつもその
ときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇が終わ
るわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。ないか
ら、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。
人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言っていました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわけでは
ないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではどうすれ
ばいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれてしまってい
た。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よくある。心
の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向いてくると、たいて
いの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気力になっ
てしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子どもがいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1〜2時間も書き取りをした。祖母はそれを見て喜んで
いたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことをさせてはいけな
い。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワークブック
も、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で見てもらうと、
ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐやめさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかった。そ
れまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。それらすべ
てをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすのがよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑うことも
しなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきても、家族と、会話
さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできることはもう
何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまでに、3年とか4年
はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなかった。よくあるケースとし
ては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こうしてさらに、子どもは、二番底、三番
底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子どもの
学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者がそれをするな
らまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ばあいによっては、子ど
もの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当に指導な
のか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分の理性に照ら
しあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つということになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくらいの覚悟
をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多すぎると思うので
……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無知 
無知という罪悪 無学という罪悪)





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●家庭教育力

【家庭教育の原点】

++++++++++++++++

家庭での教育力が低下していると
言われている。

それはそうだが、しかし家庭教育と
いっても、構えて考える必要は
ない。またそんな問題ではない。

自然体で、臨めばよい。そのコツに
ついて、書いてみる。

++++++++++++++++

●約束(ルール)を守る、ウソをつかない

日々の積み重ねが月となり、その月が積み重なって、年となる。その年が、10年、20年と積
み重なって、その人の人格となる。その日々の積み重ねは、身の回りのほんのささいなことか
ら始まる。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことには関係なく、約束(ルール)を
守る。ウソをつかない。そういう親の姿を、子どもは、うしろから見る。自分の人格とする。


●子どもは使う

子どもは使えば使うほど、よい子になる。忍耐力(=いやなことをする力)も、それで身につく。
社会性も身につく。が、それ以上に、他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。言うまで
もなく、子どもにかぎらず人は、自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労が理解できるよう
になる。その心のポケットができる。あなたが重い荷物をもって歩いているとき、「もってあげ
る!」と子どもが助けてくれれば、それでよし。そうでなければ、家庭教育のあり方を、猛省す
る。


●夢と希望、そして目的

目的(目標)をもった子どもは、強い。多少の誘惑くらいなら、自らはねのけてしまう。心の抵抗
力ができていると考える。その心の抵抗力をつける第一。それが夢と希望。その先に目標(目
的)ができる。そのため、子どもの夢や希望は、大切にする。親の価値観を、けっして、押しつ
けてはいけない。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、それはすてき
ね」と言い返してやる。そういう親の姿勢が、子どもの夢や希望を育てる。


●子どもの横に立つ

子育てには、3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前に立つ。保護者として、子どものうし
ろに立つ。そして友として、子どもの横に立つ。日本人は、伝統的に、子どもの前やうしろに立
つのは得意だが、横に立つのが苦手。そのため多くのばあい、子どもが親離れを始めるころ
から、親子の間にキレツが入るようになり、さらに多くのばあい、そのキレツは、断絶へとつな
がっていく。


●忍耐力は、いやなことをする力

試しに、台所のシンクにたまった生ごみを、始末させてみればよい。あるいは風呂場の排水口
にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハ〜イ」と言って、あなたの子どもがそれを始末したとし
たら、あなたの子どもは、すばらしい子どもとみてよい。またこのタイプの子どもは、学習面で
も、伸びる。なぜなら、勉強というのは、もともと(イヤなもの)。そのイヤなことを乗り切る力が、
ここでいう忍耐力ということになる。その忍耐力を育てるためには、子どもは、使う。


●思考回路というレール

夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思
考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化す
る。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生に
なると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であ
れ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進ん
でいくことができる。


●子どもに育てられる

親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園
へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで
苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭を
さげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育て
る。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。


●熟成される「善」

西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではな
い。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではな
い。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、2
0年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子ど
もに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てに
おける、大きなテーマのひとつと考えてよい。


●すなおな子ども

親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。
すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、
(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イ
ヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子ど
もという。


●至上の愛

ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう
言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの
命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子ど
もをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あな
たに何かを教えるために、そこにいる。


●シャドウに警戒する

人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユ
ングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくり
そのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、
凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)
として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。


●自立したよき家庭人

アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。
「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、
いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建
時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根
源になっている。


●「偉い」という言葉を、廃語にしよう

日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉
すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味であ
る。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人に
なれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。


●「家族」という重圧

家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族
も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、そ
の重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安
易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉
は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。


●恩の押し売り

日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」
「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せ
っせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい
歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていい
からね」だ。


●悪玉親意識

親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉
親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識
が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩
を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態
度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意!


●親の統合性

子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を
確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親
は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」と
いう。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、
自己の統合性をめざす。


●人生の正午

満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり
「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫
の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。


●「だから、それがどうしたの?」

(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこ
う問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。ある
いは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をして
も、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。


●子育ては、子離れ

心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの
親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなく
なってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の
息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」
「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。


●「釣りバカ日誌」論

浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本
人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パー
ティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうも
のなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識
ではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補足】

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わさせてしまう。いわゆ
る依存型子育てというのが、それ。






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●教師の世界

【今、学校では……】(再録版)

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先日、市内のS小学校で
講演をさせてもらった。

そのときその学校の校長と、
習熟度別クラスが話題に
なった。

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●習熟度別クラス

 習熟度というほど、おおげさではないが、子どもの能力と、やる気に合わせて、クラスを分け
て授業を進めるという方法が、この浜松市でも、あちこちの小学校で採用されている。

 現在は、まだ、試行錯誤の段階で、そうした授業を、親たちに参観させながら、そのあとアン
ケート調査をするところも多い。

 で、一応、親たちは、それを、「習熟度別授業」と、理解している。

 従来(2〜3年前から)は、小学3〜4年生クラスにおいて、実験的に、特定の教科について、
こうしたクラス分けがなされていた。たとえば理科の実験などでは、人数を減らして、マンツーマ
ンで教えるなど。

 ほかに小学1年生については、国語の学習で、とくに遅れが目立つ子どもについてなどは、
個人レッスンの形で、やはりクラス分けがなされていた。これを「個別指導」というが、時間的
は、それほど、長いものではない。平均して、20〜30分程度である。

 しかしこれは習熟度別というのではなく、ここにも書いたように、個人レッスン的な色彩が濃い
ものであった。こうした授業形態を、「小(こ)人数クラス」と呼び、「少人数クラス」とは、区別し
ていた。

 こうした授業に対して、浜松市内の大規模校を中心に、(1)テストの結果などを参考に、(2)
日ごろの観察、(3)子どもの自主性、(4)親の希望を取り入れて、習熟度別授業をもつところ
が、ふえてきた。

 「まだ、(本格的に)、しているところと、していないところがある」(某小学校教頭談)とのこと。

 こうした習熟度別授業は、(1)固定化しているわけではなく、そのつど、流動的に生徒が、そ
れぞれのクラスを移動する。(2)クラス分けは、均等分けするときもあるし、そうでないときもあ
る。たとえば2クラスを、3クラスに分けて授業をするときは、均等分けにしたりする。

 実験的な措置として、特定の学校のみに、1人、余分な教師が派遣されることもある。(大規
模校には、2人)。そういう教師を利用して、2クラスを3クラスに分けるときもある。

科目によっては、とくに算数などの差のつきやすい科目については、Aクラス(レベル高)を、1
0〜20%前後、Cクラス(レベル低)を、10〜20%前後にし、中位のBクラス(レベル中)のそ
のほかの生徒を置くということがなされている。

クラス名は、「上下意識」を感じさせないように、「木の実クラス」「さくらクラス」「かもめクラス」と
いうようなネーミングをつけるところが多い。が、こうした授業が、教師に与える負担も、相当な
ものである。

 これについて、以前、つぎのような原稿を書いたので、再掲載する。

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●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。(学校によっては、1週間に、平均して3時間程度というところも
ある。文科省の指導に従えば、週1時間程度になるが、学校ごとに、やりくりをして、3時間程
度を確保している。なお、中学校では、平均して7〜8時間程度の、空き時間がある。浜松市
内)

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司  空き
時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学指導 詰め込み教
育)

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 今後は、こうした習熟度別教室は、一部の抵抗もあるだろうが、学校内で定着していくものと
思われる。実際には、当初は、どこか遠慮がちに始まった習熟度別授業だったが、市内の小
学校を中心に、新たな単元が始まるたびに、簡単なテストをして、そのあと、クラス分けをする
ところがふえてきた。

 もちろん、問題点がないわけではない。

 教師の負担もさることながら、こうした習熟度別授業は、親たちに、少なからず、ショックを与
えている。たとえば習熟度別授業を参観してきた、ある母親は、こう言っている。学校の帰り
道、親たちはみな、進学塾はどうしようと、そんな話ばかりしていました、と。

こうした習熟度別授業は、平等主義を貫いてきた学校教育に、大きな変化をもたらすことはも
ちろんのこと、子どもたちの間で、差別化を生む可能性もある。それをどう克服していくか、こ
れからの大きな課題になるものと思われる。


●過酷な職場

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学校の先生たちが、悲鳴をあげている。
あなたには、その悲鳴が聞こえるだろうか?

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 教育は、重労働である。とくに、小学校教育は、そうである。

 たとえば水泳指導したあと、生徒たちといっしょに着替え、つぎの時間には、クラスで算数を
教えなければならない。

 そのためかなりの体力と気力を、必要とする。

 で、現実問題として、この浜松市でも、55歳をすぎて教師をしている、女性教師は、ほとんど
いない。女性教師のばあい、たいていの教師は、50歳前後に退職していく。「水泳指導ができ
なくなったら、教師はやめる」というのが、一つの目安になっているという。

 学校の教師のばあい、50歳少し前に、管理職に向うかどうかが、決まる。管理職になれば、
学級担任からはずされるが、それは校長と教頭、教務主任のほか、あと1名程度。そこでもっ
と、女性教師を管理職に回せばよいということになるが、これもむずかしい。

 浜松北部の、旧HK市のばあい、小学校は18校あるが、去年まで、女性校長は3人いた。し
かし2人、退職したので、現在(05年度)は、1人のみ。

 そうでない教師は、学級担任をつづける。が、50歳過ぎてからの、学級担任は、きつい。男
性教師にとっても、事情は、同じ。

 ますます拡大する教師の仕事。今では、家庭問題にまで教師が駆り出される時代である。
「子どもが警察につかまった。いっしょに行ってくれ」「子どもが家出をした。いっしょにさがしてく
れ」と。

 本来なら、教師は教育に専念すべきである。またそれをもって「教師」という。しかし雑務、雑
務の連続。これでは、本来の教育がおろそかになって当然。「これでいいのか」と疑問をもつの
は、私だけではないと思う。


●家庭問題が、そのまま学校に!

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 以前、荒れた学校が、問題になった。
しかし今は、問題になっていない?

実は問題になっていないのではなく、
荒れた学校が、当たり前になってしまった。

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 今どき、荒れた学校を問題にする人はいない。教師も、父母も、そして評論家も。それが当
たり前の現象になってしまったからである。

 しかし「荒れ」は「荒れ」でも、以前とは、少し質が変わってきた。H市で小学校の校長をしてい
るN氏は、こう話してくれた。

 「以前は、荒れというと、暴力事件を言いました。しかし今は、少し質が変わってきたように感
じます。つまり今は、家庭問題が、そのまま学校へ持ちこまれるようになりました。

 家庭騒動、親の離婚、貧困などなど。親の心の問題が、そのまま持ちこまれることもありま
す。引きこもり傾向を示す生徒がいたので、家庭訪問をしたら、親が出てこない。つまり親自身
も、引きこもってしまっているのですね。

 そういう子どもが、学校の内部で、いろいろな問題を引き起こします。最近の荒れは、そうし
て起こるものが多いです」と。

 ついでに言うと、その校長も、あの「金P先生」を、鋭く、批判していた。「ああいうありもしない
教師像を、マスコミが勝手につくり出すから、かえって、現場は混乱してしまうのです。

たとえばあの番組の中で、非行グループが、自転車のチェーンを振り回したとしますね。すると
つぎの日には、本当にそのチェーンをもって、学校へ来る生徒が出てきたりします」と。

 金P先生については、私も、たびたび批判してきた。ああいう教師を見て、「教師とは、こうあ
るべきだ」と考えるとしたら、それはまちがい。よくテレビドラマの中で、警官と悪党が、ピストル
でバンバンと撃ちあうシーンがある。

 それと同じくらい、金P先生の世界は、ありえない。たとえば金P先生は、非行少年の家の中
にあがりこみ、その少年の父親といっしょに、酒を飲んで、人生論を語りあったりする。

 しかしそれが教師のあるべき姿なのか。そこまでしてよいのか。あるいは、それこそまさに、
教師の(おごり)ではないのか。いや、その前に、体力そのものが、つづかない。20〜30人も
の子どもを相手にすることだけでも、重労働である。その上での、教育である。

 その金P先生について書いた原稿が、つぎのものである(中日新聞掲載済み)。

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教師が10%のニヒリズムをもつとき 

●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金P先生』というのがある。武田T也氏が演ずる金P先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょうど刑事ドラマの中
で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなもの。ドラマとしてはおもしろいが、現
実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。

私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、「明日、
娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげてあやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、一時間ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。

浜松市内で歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんな
こともあった。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。たまたまその子
ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送した。

で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だろうと
思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケース
がついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの一〇%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども

 一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か
弱い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるよう
だったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また
親は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしいハキがない。動作も不自然で、ぎ
こちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も100まで
自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を30年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。……つまりそこまでわかっていても、私は黙
って見送るしかない。

それもまさしくニヒリズムということになる。

++++++++++++++++++++++

 熱血教師が悪いというのではない。しかし一つまちがえば、熱血教師は、子どもの問題にせ
よ、家庭の問題にせよ、さらにその問題をこじらせてしまう。その教師の独断と偏見、思いこみ
と早とちりが、かえって騒動を大きくしてしまうこともある。

 反対の立場で考えてみればわかる。

 ある日、突然、子どもの問題にかこつけて、あなたの子どもが通う学校の教師が、ズカズカと
あなたの家にあがりこんできたら、あなたは、どのような反応を示すだろうか。いくらあなたの
家庭に問題があったとしても、あなたはこう言うだろう。「失敬だ」と。

 話が脱線したが、こうした「荒れ」もあって、学校の教師は、ますます疲れる。ある女性教師
(小学校)は、はからずも、私にこう話してくれた。

 「授業中だけが、心と体を休める場所です」と。

 こうした現実を、どれだけの親たちが、知っているだろうか?

(付記)

 参観日に参観授業を見てきた親の中には、よく、こう言う親がいる。「すばらしい授業でした。
先生も、あそこまで教材を用意して、授業をしてくれるとは、思ってもみませんでした」と。

 しかしそれは、参観日だから、である。「参観日のあと、数日は、何もやる気が起きません」
と、その(疲れ)を訴える教師が多いことも、忘れてはいけない。







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●乱暴な子ども

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滋賀県にお住まいの
Sさんという方から、
こんな相談が届いている。

掲載の許可をいただき
ましたので、そのまま
紹介させていただきます。

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【滋賀県のSさんより、はやし浩司へ】

はじめてお便りします。滋賀県O市に住んでいる、S(母親)というものです。
早速ですが、小学校1年生の長男についての相談です。下に、1歳ちがいの妹がいます。
私は2人姉妹の、姉です。家業は、昔からの呉服商です。夫は、今、両親とともに、T町
の中心部で、家業を手伝っています。

で、息子のことですが、先日、学校帰りに、近所のスーパーで、200円のお菓子を万引
きしてしまいました。スーパーから1人で出てくるところを他の子に見られ、「取ったの
か?」と聞かれそうだ」と答え、万引きしたことが、わかりました。

子どもどうしの会話は学童保育の中でのできごとだったため、学童保育の先生に教えて
いただきました。その後、スーパーに行き、謝罪し、お金を支払いました。

わたしは、頭が真っ白になりショックで1日、起きあがれませんでした。長男は
「お母さんが、禁止って言うから、どうしても食べたかったんだ!」と言いました。
私は歯に良くないのでだめだと言ってしばらく与えていませんでした。

長男はとても活発で、元気な子どもです。年少児のころは一日に、何度も着替えるほど、
どろんこになって遊んでいました。「取った、取られた」で、お友達とのトラブルも
よくありました。年中児になり、「とても落ち着いたね」と、園の先生方からも言われ
担任の先生もおおらかな方で、とくにこれはというトラブルもありませんでした。

年長児になり、春の親子遠足で、全体の写真撮影の時、お友達の手をひっかき、
泣かせてしまいました。うしろにいた私は気がつかず、その夜、先生からのお電話で
知りました。長男に確認したところ、「ぼくの悪口を言ったんだ。お母さん、怒らない?
お母さんのことを『でぶばばあ』って言ったんだよ」と言って、泣き出してしまいました。

(そういえば、園でバスの出発を待っているとき、5人ぐらいの友だちに、
リュックを引っ張られたり、何か言われたりしていました。長男が、反撃をしようと
したので子どもたちに、「そろそろ出発だからお母さんのところに帰ろうね。」と言って
長男から引き離したことがありました。

私は、泣いている長男に、「でも、暴力はいけない」と言って相手のお母さんに
お詫びのお電話をしました。目の前で子どもを泣かされたお母さんは大変怒っていて、
許していただけませんでした。私は、「お気を悪くしないでください。実はこういう
ことがありました。」と事情を話しました。

相手のお母さんは余計怒ってしまい、「うちの子はそんなことは言っていない。お宅の
お子さんは落ち着きがないですよね。多動ではないかと他のお母さんが言っていた。
早く対処してあげないと子どもがかわいそうだ」と言われてしまい、泣けてしまい
ました。

その後、相手のお母さんから、「子どもに聞いたら、他の子が悪口を言って、
たまたま近くにいたうちの子が手をひっかいたようだ」と、電話がありました。

私のほうは、多動と言われた事がショックで、担任の先生に相談したところ
「お母さんの気持ちを聞いてもらったらどうか?」と、保健婦さんを紹介されました。
保健婦さんは、簡単な知能検査をして、帰っていきました。

話を聞いてもらえる機会はなく、先生からは「特に顕著な症状や遅れはありませんが
お母さんが心配なら、専門の病院を紹介します」とのことでした。
主人に相談をしたら、「考えすぎだ、そんなことをしたら子どもが傷つく」と言われ、
私自身も心の整理ができず、病院へは行きませんでした。

その後も、滑り台から滑ったときに、年少児の子を突き飛ばしたのに、やっていないと
うそをついたこともあります。「嘘はいけない」と、先生に、遊具倉庫に入れられたあと、
鍵をかけられたこともあります。

バスの中で立ってはいけない約束なのに、その約束も守れず、4日くらい言うことを
聞かなかったので、年少児の帽子をかぶり、1日、年少組で過ごしたこともありました。

その後、お友だちからばかにされるようになり、仲間に入れてもらえなかったりして、
トラブルになることもありました。長男にも言い分があったのですが、私は子どもの
言い分に耳を貸さず、ヒステリックに叱ったりしました。

そのあと、子どもにチックの症状が表れ、反省し、なるべく落ち着いて説明するよう
心がけました。

卒園前にはペットボトルの取り合いで、お友達に水をかけたので1人だけ、卒園式の
練習に参加させてもらえませんでした。卒園の少し前のこと、あんなに大好きだった
幼稚園に、「あんな幼稚園大嫌いだ!もう、いきたくない!」と。

「あと、3日で終わりだから、そんなこと言わないで」と言うと、
「ほんと?あ〜、良かった」といいました。後から考えると子どもなりに理由も
あったようですが、子どもの言い分を書いてしまうと、園の批判になってしまいますし、
先生方のお考えもあっての事だと思いますので、控えさせていただきます。

小学校入学前は、幼稚園の時みたいにならないようにと事こまかく
(あれをしてはだめ、これをしてはだめ)と、行く前から、何度もお説教しました。

その甲斐もなく、集団登校で言うことを聞かないと、上級生にさじを投げられたり、
お友達がたたいた、蹴ったと、いちいち職員室に報告に行ったりしました。

そして、今回の事件(万引き事件)がおこり、何をしつけてきたのかと、
がく然としました。

ただ、反省することは一度も子どもの味方になってあげられなかったことです。
今回の万引きで、「一生取り返しがつかないことをした、どろぼうだ。」と
言ってしまいました。言ってはいけないと思っても過去の色々な事が
フラッシユバックして止められません。1人の時は泣けてきてしまいます。

先生のコラムを読ませて頂いて、私自身にも問題があるのでは?、と思いました。
私の両親は典型的な『代償的過保護』だと思われます。

20代の時、それを断ち切るために、友だちをたよって、ワーキングホリデーを利用して、
オーストラリアに行ってきました。今では、両親の気持ちも理解でき、関係は良好です。

もうひとつは、私自身の幼稚園の年中児のときのできごとです。

雨の日、室内ジャングルジムで遊んでいる時、上から飛び降りるグループと
その下を通り抜けるグループに分かれて遊んでいました。
先生は「危ないから、やめなさい」と何度も言ったのですが、私たちは無視して
遊んでいました。私の番になった時、何度も「どいて、どいて、」と言って
飛び降りたのに、下を通り抜ける子とぶつかってしまいました。

先生は急いで下の子を医務室に連れて行きました。おなかをぶって苦しんでいる
私のところに「大丈夫?」と言ってきてくれた子に、先生は「自分が悪いんだから、
そんなことしなくていい!」と怒鳴りました。

その後しばらく幼稚園に通えなくなってしまいました。

しばらくして登園すると、みんな、よそよそしく感じ、先生の目も冷たく感じたのを
覚えています。

年中組が終わるまで、針のむしろにすわらせられたような気分で、「先生に嫌われたら、
みんな、離れていってしまう。こういう集団の中では生きていけないんだ。」と思い、
「幼稚園の2階から飛び降りて死んじゃおうかな・・・・。」と本気で考えたことも
あります。

でも、「両親 、大好きなおばあちゃんが悲しむな」と思いやめました。
それから、いい子という仮面をかぶって生きることにしました。
だから問題を起こしてくる長男が許せなかったのかもしれません。

長男へのしつけはしていたつもりです。「あいさつの大切さ、一番してはいけない
ことは、人の物や命を奪うこと」だと、何度も教えたつもりでした。
悪いことは悪い!、と、決めつけてしまい、長男の本当の理由と気持ちを聞いて
あげられなかった、言えなくしていたことがいけなかったのではと反省しています。

思いのたけをぶつけてしまいました。申し訳ありません。
読んでいただき、ありがとうございました。
アドバイスがありましたら、お願いします。

【はやし浩司より、Sさんへ】

 こうしたケースでは、まず、『負けるが勝ち』と心得て、子どもが何かトラブルを起こしたら、頭
をさげて、ひきさがります。いろいろあなたにも言い分はあるでしょうが、大切なことは、子ども
自身が、気持ちよく、学校へ行けるような環境を用意してあげることです。

 そのためにも、『負けるが勝ち』です。またそうすることで、あなたは相手の親より、一歩、先
に進むことができます。

 つぎに多動というよりは、1歳年下の妹さんとの、葛藤が疑われます。年齢的にみて、いちば
んあなたという母親に甘えたかったときに、妹が生まれてしまった。つまりそれが子どもの情緒
をゆがめてしまったのかもしれません。

 今からでも遅くありませんので、濃密なスキンシップを大切にして、もう一度、子どもに安心感
(=信頼感)を与えるように努力してみてください。全体としてみると、あなた自身の不安先行
型、心配先行型の子育てが、子どもに、悪い影響を与えていると考えられます。

 リズムというか、親子の歯車がかみあっていない?

 また情緒が不安定(つっぱる、いじける、怒りっぽい、キレやすい)ということであれば、海産
物を中心にした献立にきりかえてみてください。CA、MG、Kの多い食生活にするということで
す。子どもによっては、劇的に落ち着いてくるはずです。

 で、仮に多動性があるとしても、小学3、4年生を境に、症状は急速に収まってきます。自己
意識が育ち、自分で自分をコントロールするようになるからです。それまでは、あ・き・ら・め・
る、です。今しばらく、こうした乱暴、あるいはトラブルはつづくと考えてください。またすぐになお
す方法は、ありません。

 だから冒頭に書いたように、『負けるが勝ち』なのです。

 で、万引きですが、この時期の子どもは、それほど悪意もなく、万引きをすることがあります。
金銭感覚がこの時期、急速に育ってきますが、同時に、それは未完成なものです。言うべきこ
とは言いながらも、子どもがおびえるほどまでに強く叱ってはいけません。

 なお、ウソ、悪口、盗みは、子どもが自立するための3種の神器と私は呼んでいます。それを
許せというのではありませんが、子どもは、ウソ、悪口、盗みをとおして、おとなの世界に挑戦
してきます。おとなの優位性を、押しつけないこと。

 大切なことは、友として、子どもの横に立つことです。どこか「私は親だ」という気負いを強く感
じます。その気負いが、今、あなたと子どもの関係をギクシャクしている。私には、そう見えま
す。

 ともかくも、万引きにせよ、乱暴行為にせよ、ケースとしては、よくあることで、あまりおおげさ
に考えないこと。「うちの子も、その年齢になったのだ」と、一歩退いて、おおらかに考えてくださ
い。

 今までに書いた原稿を、いくつか添付しておきます。どうか、参考にしてください。

 メール、ありがとうございました。先日、長浜の町に行ってきましたが、すてきな町に変身して
いましたね。また行きたいです。では、今日は、これで失礼します。

++++++++++++++++++

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。

この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。そ
れに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人
もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に
1人はいる。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そ
ういうまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。

+++++++++++++++

●心配先行型の子育て

 私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。

 ある日、自分の教室へ入ると、A組のA先生のチョーク箱が、起き忘れてあった。そこで園庭
で遊んでいた、ひとりの女の子(年長児)をつかまえて、そのチョーク箱を、A組のA先生のとこ
ろへもっていってくれるように頼んだ。その女の子は、「ハーイ」と元気な声でそれに応じてくれ
たが、心配だったのでその女の子を見ていると、その女の子は、またチョーク箱をもってかえっ
てきてしまった。

 そこで私が、「どうしてチョーク箱をもって帰ってきたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。
「だって、A組に先生がいなかったもん」と。当時、園舎はコの字型の廊下になっていて、その
女の子が走っていく様子がよくわかった。その廊下で、帰ってくるとき、その女の子は、A先生
とすれちがっていた。そこでまた私が、「廊下ですれちがったとき、どうしてA先生に渡してくれ
なかったの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、先生は、教室にいなかったもん」
と。

 その女の子は、(A組でA先生に渡す)ということにこだわった。その気持ちはわからないでも
ないが、チョーク箱を渡すという目的からすれば、その女の子の行動は、どこか的がはずれて
いる。こういう例は、ほかにもある。

 B君が教室に忘れ物をしたときのこと。私は近くにいたC君(年長児)に「これをB君にもって
いってあげて」と頼んだ。C君はすぐ追いかけたものの、これまたすぐ戻ってきてしまった。「どう
したの?」と聞くと、C君はこう言った。「もういなかった」と。C君は、うわばきをはいていた。そ
れで「外(庭)へは出られなかった」と。C君は、B君を呼びとめようと思えば、それができたはず
である。しかしC君は、それを思いつかなかった?

 このタイプの子どもは、頭がかたいというふうにも考えるが、もうひとつは社会性の不足という
ことも考えられる。その場、その場で臨機応変にものを考えることができない。もっと言えば、
頭の中で大局的にものを考えることができない。言われたことは忠実にするが、「なぜ自分が
そうしなければならないか」、また「その目的は何か」ということが考えられない。威圧的な過干
渉、親の先走り、心配先行型の子育てが日常化すると、子どもは自分で考えることができなく
なり、ここでいうような症状を示すようになる。

 もしあなたが「うちの子の行動は、いつもどこか的がはずれている」「常識はずれの行動が多
い」と感ずるなら、子どもの問題というよりは、育てかたの問題と考え、反省する。

+++++++++++++++

●子どもの心を大切に

●無理は禁物

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなたには本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

●こわい悪循環

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

●ウリのつるにナスビはならぬ

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++

【子育てポイント】

●温もりのある園を

 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。

 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため
に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す
といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子
どもをやらないほうがよい。

●園は、先生を見て選ぶ

 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって
いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ
うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという
ような園は、さける。

 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、
よい。

●男児は男児

 男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル
のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取
っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって
いる。

 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ
とと決めてかかってはいけない。

●負けるが勝ち

 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まずこちらから、「すみま
せんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるように見える
ときも、あるいは言い分があっても、負ける。

 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ
れなりに深刻なケースと考えてよい。さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。

ほかの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子
どもにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。

●我流に注意
 
子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」「他
人の育児論は役にたたない」と。

 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と
思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない…
…」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。

 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。

●二番底、三番底に注意

 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの
世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち
るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを
繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。

 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?

 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす
るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。

●信仰に注意

 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。

 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊
状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ
マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、
行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。

 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集
団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始
めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした
りする。

 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。

●機嫌を取らない

 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない
ことは、言うまでもない。)

 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの
親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子
どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育
児観は、捨てたほうがよい。

 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた
と子どものパイプを太くする。

●いつも我が身をみる

 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。

 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって
ほしいです」と。

 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て
をするときの、コツ。

●本物を与える
 
子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」と
いうのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそう
する」。

 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファースト・フードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ
のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた
ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。

こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかとい
うこと。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれ
ば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。

●親が生きがいをもつ

 子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。

 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは
結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言
える。

 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。

●仮面に注意

 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見
られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。

 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト
レスをためやすい。

 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。

 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。

●聞き上手になる

 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ
レーションする。そうでない親は、そうでない。親と話していて、(教える立場で)、何がいやかと
いって、すぐカリカリすること。

 私「最近、元気がありませんが……」
 親「うちでは元気があります」
 私「何か、問題がありませんか?」
 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。

 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ
になる。

●親の悪口は言わない

 あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい
けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結
果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。

 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って
はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家
族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。

●無菌状態に注意

 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、
つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学
ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ
も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。

 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も
身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま
ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。

●子どもは削って伸ばす

 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。

たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。

 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。

 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

●「偉い」を廃語に

 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い
人。わかるかな?」と言っていた。

 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ
る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま
り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、
ほとんど問題にならない。

 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。そこでどうだろう。も
う「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かっては、「偉い人になりな
さい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのようだが、こうした小さな
変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることができる。

●訓練(指導)と教育は別

 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、
教育ではない。

 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い
込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教
育の最大の悲劇がある。

 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも
訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり
えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す
ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。

 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。

むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。







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【自律性の発達】

++++++++++++++++++++

青年期最大のテーマは、「自己同一性」の問題
である。

(自分はこうあるべきだ)という姿と、
(現実の自分)が一致していることを、
自己同一性という。簡単に言えば、そういう
ことになる。

それを確立できるかどうか? それで青年期の
あり方が決まる。

結婚にたとえるなら、愛し合って結婚した
カップルは、同一性が確立していることになる。
そうでないカップルは、そうでない。

夫婦の間でも、同一性が確立できないと、
心理状態は不安定になり、
夫婦げんかばかりするようになる。
人間の心理も、また同じ。

その自己同一性の基礎は、実は、乳幼児期に、
作られる。

++++++++++++++++++++

 乳児期最大のテーマは、言うまでもなく、「基本的信頼関係」の構築にある。基本的信頼関係
は、生後直後から、母子の関係で、はぐくまれる。

 (絶対的な安心感)が基本にあって、子どもは、母子との間で、基本的信頼関係を築くことが
できる。(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の2つ
をいう。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。「何をしてもよい」と自分をさらけ
だすのを、(絶対的なさらけ出し)という。「何をしても、子どものことは許す」というのを、(絶対
的な受け入れ)という。

 が、それだけではない。

 エリクソンによれば、つづく第2段階の幼児期では、「自律性の確立」が、テーマとなる。「自
立性」と言いかえてもよい。つまり「独立した人間として、自分のことは自分でする」ことをいう。

 この自律性の確立に失敗すると、子どもは、他人に対して、「恥ずかしい」という感覚をもつよ
うになる。あるいは過度に他人に対して依存的になり、その分だけ、さらに自立できない人間
になってしまう。自分が何をしたらよいのか、何をすべきなのか、それがわからなくなることもあ
る。

 Y氏は、50歳になるが、たいへん世間体を気にする人である。何をするにも、世間の目を気
にする。「そんなことをすれば世間に顔向けができない」「世間が笑う」「世間が許さない」と。
「世間体」という言葉も、よく使う。

 一見、他人と協調性のある人に見えるが、その実、自分がない。「では、あなたはどうしたい
のですか?」と聞いても、答が返ってこない。それが如実に表れたのが、実父の葬儀でのこと
だった。

 Y氏はけっして、裕福ではなかった。実父との関係も、よくなかった。その実父は、Y氏が、48
歳のときに、くも膜下出血で急逝した。そのとき、ほかの兄弟たちと、たいへんな騒動になって
しまった。

 実父は、かなりの知識人であったとみえる。はやくから遺言を残していた。それには、「葬儀
はしなくていい。遺灰は、○○浜から太平洋へまいてほしい」とあった。

 その遺言をめぐって、「遺言は無視して、恥ずかしくない葬式をする」と主張するY氏。「遺言
どおり、遺灰を海にまく」と主張するほかの兄弟たち。結局、Y氏が長男だったということもあ
り、父親の遺言を無視して、葬儀をすることになった。その地域でも評判になるほど、かなり派
手な葬儀であったという。

 Y氏の妹氏(45歳)はこう言う。「兄には、これが私の生き方という、一本のスジがないので
す。いつも他人の目の中だけで生きているような人です」と。

 が、Y氏のこうした生き様は、エリクソンによれば、幼児期にできあがったものと考えてよい。
長男であるということで、蝶よ花よと、手をかけて育てられた。つまりその分だけ、自律性の発
達が遅れた。

 エリクソンの言葉を借りるなら、「重要な人格構成要素がうまく獲得できるか、それともマイナ
ス面が勝ってしまうか」(「性格心理学」清水弘司)というはげしいせめぎあいの中で、マイナス
面のほうが、表に出てきてしまったということになる。

 エリクソンは、これを「心理的危機」「社会的危機」と呼んだ。つづく第3段階の「就学前期」、4
段階の「学童期」にかけて、それぞれの段階で必要な人格の確立に失敗しやすくなるからであ
る。

 Y氏がそうであったかどうかはわからない。わからないが、Y氏の様子を観察するかぎり、Y氏
は、自律性の確立に失敗した人ということになる。

 つまりその分だけ、依存性が強い。もちろん本人は、それに気づいていない。自分が自律性
のない人間だとは、さらに思っていない。一応、それなりの仕事をしている。家族もいる。「世間
体」そのものが、Y氏にとっては、ひとつの哲学(?)になっている。「恥」という言葉にしてもそう
だ。

 1人の人間が懸命に生きる。その生き様に価値がある。生きる意味も、そこから生まれる。
たとえ失敗しても、それはそれ。どうしてそれが「恥」なのか。いつか書いたが、「恥」にも2種類
ある。

 「己に対する恥」と「他者に対する恥」である。ここでいう恥というのは、当然、「他者に対する
恥」ということになる。

 そんなもの、気にするほうがおかしい……と私は思うが、Y氏にとっては、そうではない。ここ
にも書いたように、Y氏にしてみれば、それが生きる哲学(?)にもなっている。

 では、どう考えたらよいのか。

 エリクソンの発達論を借りるまでもなく、幼児期は、子どもの自律性だけを考えて、子どもを
育てる。「自分で自分を律しながら、自立させる」。もっと言えば、「自分で考えて、自分で行動さ
せ、自分で責任を取らせる」。

 そのために何をすべきかということよりも、何をすべきでないかを考える。というのも、望まし
い環境の中で、あるべき方法で子どもを育てれば、子どもは、自ら自分の中から、その自律性
を引き出していく。過干渉、過保護、過関心、溺愛が悪いことは言うまでもない。親の価値観の
押しつけ、優位性の押しつけが悪いことも言うまでもない。

 ……ということで、この話はここまでにする。と、同時に、あなた自身は、どうかということを、
ここで自問してみてほしい。

 あなたはここでいう自律した人間だろうか。それとも、依存性が強く、世間体ばかりを気にす
るタイプの人間だろうか。どうであれ、そうした基礎は、実は、幼児期に作られたものであると
いうこと。それに気がつくだけでも、あなたはさらによく、あなたという「私」を知ることができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自律
 自律論 エリクソン 発達論 心理的発達論 恥論 幼児期の自立性 自律性 自律性の発
達)


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基本的信頼関係について書いた原稿
などを、参考のために、ここに添付
しておきます。

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【基本的信頼関係】

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
的信頼関係 信頼関係 子供との信頼関係)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●感情の発達

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)0歳〜1歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)1歳前後〜2歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)2歳前後〜5歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
感情の発達 子どもの感情)







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●聖職意識(ある事件)

++++++++++++++

学校の教師には、聖職意識があった。
牧師、僧侶と並んで、「学校の先生」
と。

しかしその聖職意識は崩れた。崩れた
だけではなく、今や、学校の教師が、
聖職意識をかなぐり捨てて、自ら、
こう叫び始めている。

「われわれだって、ふつうの人間だ」と。

++++++++++++++

 こんな記事が、最近、新聞に載っていた(07年7月)。どこかの県のどこかの学校で、起きた
事件である。そのクラス(小4)には、どうしようもない問題児(男児)が1人いた。授業中も、席
には座らなかった。大声を出したり、ものを投げつけたりして、遊んでいた。

 おそらくそれまでに、いろいろないきさつがあったのだろう。担任の教師(女性、35歳)は、あ
る日、クラス全員に、その問題児についての作文を書かせた。問題児自身にも書かせた。そし
てその作文を集めると、そのまま、その問題児の母親のところへもっていった。母親に読ませ
た。

 母親は、それを見て、激怒。「こうした個人攻撃は、許せない!」と。この記事を新聞で読んだ
人も多いかと思う。

 で、こういう事件を見聞きすると、攻撃の矛先(ほこさき)は、まず教師に向けられる。(1)クラ
ス全員に作文を書かせたこと。(2)その作文を母親に見せたこと。こうした行為は、母親が言
うように、個人攻撃そのものにほかならない。もう少しわかりやすい言葉を使えば、「つるしあ
げ」。

 もちろん、こうした個人は、あってはならない。それはそのとおりだが、だからといって、その
女性教師が全面的に悪いかといえば、そうとも言えない。私にも似たような経験がある。

 ずいぶんと以前のことだが、私の教室にも、かなりの問題児がいた。最初から「勉強しよう」
などという意識は、みじんもなかった。「遊ぶ」というよりは、「破壊」するのが目的。そんな感じ
の子ども(小4)だった。

 かなり頭のよい子どもだった。このタイプの子どもは、巧みなウソをつく。「ぼくのママが、林
は、どうせ、くだらない男だからと言っていた」「ぼくのママが、こんな教室、来月でやめろと言っ
ていた」「ここは、レベルの低い教室だとママが、言っていた」などなど。

 教える側としては、こうした言葉に敏感に反応する。中学生や高校生だと、その子ども自身を
見ながら、教師は教壇に立つ。しかし小学生や幼児のばあいには、いつも子どもの向こうに、
親を見ながら、教壇に立つ。

 こうしてその子どもは、私の母親に対する印象を悪くする。少なくとも、私が若いときは、そう
いう印象をもった。「何だ、あの親は、オモテでは、協力的なフリをしながら、ウラでは、そんな
ことを言っているのか」と。

 しかし今は、ちがう。子どものウソを、見抜けるようになった。それに「?」と思ったら、すぐ電
話をかけて、確かめることにしている。

 が、一方、このタイプの子どもは、家では、これまた別のウソをつく。「あの林は、ぼくだけ仲
間ハズレにする」「わからないところを教えてくれない」「ママのことを、おかしな親だと言ってい
た」などなど。

 子どもはウソをつかないというのは、とんでもない誤解である。この時期のこの子どもは、ウ
ソのかたまりと言っても過言ではない。ウソを言うことで、おとなの世界を誘導しようとする。快
感とする。反抗期前夜によく見られる、子どもの心理のひとつである。

 こうしてその子どもは、私と母親の間を、そのつど離反させようとした。

 で、今回、どこかの県の、どこかの学校で起きた事件を振りかえってみる。こうした事件を考
えるときは、決して表面的な(できごと)だけを見て判断していはいけない。そこにいたるプロセ
スというものがある。とくに教育現場というのは、子どもの世界とは言いながらも、人間対人間
の関係で成り立っている。

 いくら相手が小学4年生でも、カチンとくるときには、くる。相手は子どもとわかっていても、ふ
と油断すると、ドロドロとしたウズに巻きこまれてしまう。いわんや、毎日、毎日、学級を破壊す
るような行為がつづいたら、たまらない。教師は、ものを教えることができて、はじめて教師で
ある。

 それが思うようにできなくなったとたん、教師は、ジレンマに陥る。ふつうのジレンマではな
い。へたをすれば、そのジレンマは、そのまま自己否定へとつながる。もっと言えば、廃業すべ
きかどうか、そこまで悩む。追いこまれる。

 そこでおそらくその女性教師は、その問題児の母親に、何度もコンタクトを試みたにちがいな
い。が、そういう親にかぎって、非協力的。いや、その母親がそうであったというのではないが、
それゆえにその母親の子どもがそういう子どもになったということは、じゅうぶん、考えられる。

 それに先にも書いたように、母親は母親で、その教師に対して、悪い印象をもっていたかもし
れない。私も同じような立場に立たされたことは、何度かある。しかし電話で相談しようとして
も、たいてい、その場で、はねのけられてしまう。「うちでは、ふつうです」「問題はありません」
と。

 さらには、こんなことを私に言った母親もいた。「あなたは、だまって、うちの子の勉強だけを
みていてくれればいい」と。(心の問題)は、「あなたの管轄ではない」と。

 たぶん、冒頭に書いた記事を新聞で読んだ人は、「先生が悪い」と思ったにちがいない。ふつ
うに記事だけを読めば、そうなる。

しかし私は、ちがう。ちがうということを言いたかったため、このエッセーを書いた。その女性教
師のした行為は、たしかにおとなげない行為であった。それは認める。しかしそういう行為をせ
ざるをえなかったところまで、追いつめられたその女性教師の気持ちも、私は理解できる。そ
の女性教師の悲鳴のようなものさえ、私は感ずる。

教師だって、ふつうの人間である。私やあなたと同じ、ふつうの人間である。ふつうの人間であ
ることが悪いと言っているのではない。「先生だから……」という理由だけで、一方的に先生だ
けを責めるのも、私はどうかと思う。もしそれがわからなければ、あなた自身を、その教室の中
に置いてものを考えてみたらよい。

 はたして、読者のみなさんは、どうだろうか?

【補記】

 教育は、親と教師の信頼関係の上に成り立つ。もしその信頼関係がなければ、教育そのも
のが成り立たない。その時点で、教育は崩壊する。

 しかしその信頼関係は、教師の側だけがつくるものではない。当然、親の側も、それなりの努
力をしなければならない。その努力を怠っておきながら、「学校が悪い」「教師が悪い」は、な
い。






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●発達障害児のための教室

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浜松市内では、現在、拠点校として、
6校ほどの小学校が、発達障害の
ある子どもを、専門的に指導する
設備を整えている。

たまたま先日講演をさせてもらった
S小学校もその一つ。そこには約40人
の障害をもった子どもが、通学している。

S小学校の現在の全校児童数は、400
人弱だから、約10%の子どもということ
になる。

自閉症、緘黙症、AD・HD児、LD児
など。ほかに言葉の教室もあり、発語
障害のある子ども(幼児を含む)も、
週1回くらいの割合で通っている。

健常児といっしょに生活することで、
将来にわたって、社会的に自立しやすく
するということで、ほかの子どもたちと、
ほとんど区別することなく、指導して
いるとのこと。

なお、現在(07年7月)、41人の
障害をもった子どもが通学しており、
それに対して、9人の指導教師が、
指導にあたっている(S小学校)。

また指導用の教室は、学校の中に、学校の
建物と併設という形で並んでいる。
S小学校のばあいも、校長室、職員室
と同じ棟、その隣に併設されている。

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●変わる親の意識

 以前はというと、発達障害をもった子どもの親は、それを世間的に(?)隠そうとする意識が
強かった。「障害児をもつことは、家の恥」という、とんでもない誤解と偏見もあった。その疑い
(?)をかけられただけで、親は、絶望感にたたきのめされたり、あるいは狂乱状態になったり
した。

 今でも、その傾向には大きなちがいはない。しかしこの5、6年、親たちの意識が大きく変わ
り始めているのを感ずる。

 S小学校でも、校長とそれが話題になった。私が、「親たちがこういう教室へ入れることに抵
抗しませんか?」と質問すると、校長は、笑いながら、「最近では、よその地域から、見学に来
る親がふえています」とのこと。

 もちろんそこに至る過程の中で、さまざまな葛藤があったと思われる。しかし親たちが、自分
の立場ではなく、子どもの立場で、ものを考えるようになった。校長も、そう言っていた。これは
たいへんすばらしいことだと思う。

 もちろん学校側としては、強制はできない。そういう教室に入れるかどうかは、あくまでも、最
終的には、親の判断ということになる。しかし子どもの立場で考えると、その子どもには、その
子どもに合った環境で、指導を受けるほうが、BETTERということになる。つまりそういうふうに
考える親がふえてきた。

 問題点もないわけではない。が、今やっと、こうした指導態勢が、この日本でも始まったばか
り。私たちがすべきことは、こうした指導態勢を前向きにとらえて、それを伸ばし、育てていくこ
と。当然のことながら、親たちもまた、それに合わせて、意識を変えていかねばならない。

 国のレベルは、いかに弱者にやさしいかで、決まる。同じように教育のレベルもまた、いかに
弱者にやさしいかで決まる。進学率ではない。(やさしさ)である。そうした常識が、日本中の常
識となったとき、日本という国は、すばらしい国になる。

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私が8年前に書いた原稿を
添付します。

中日新聞に発表したものですが、
この原稿には、大きな反響が
ありました。

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●「お宅の子どもを、落第させましょう」・学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてく
れ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。

そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうは
いかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の
先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」
と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(99年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。

その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を
見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(1年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。

日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。




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●抑圧と抵抗(児童買春について)

++++++++++++++

心の中の葛藤を、簡単に説明すれば、
(抑圧)と(抵抗)の関係ということ
になる。

人は、おとなも、子どもも、この
(抑圧)と(抵抗)のはざまで、
葛藤する。その葛藤が、さまざま
な心理的反応を示す。

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●61歳の男性が児童買春

 つい2週間ほど、前のこと。この浜松市で、61歳の男性(職業は大工)が、中学生を相手に
した児童買春で、逮捕されるという事件が起きた。

 61歳の男性と中学生? 親子どころか、祖父と孫の関係と言ってもよい。その事件を知った
とき、私は、最初に、こう思った。「よく、相手にしてもらえたな」と。

 たいへん不謹慎な意見であることは認める。こういうとき、私なら、「児童買春は、悪だ」「そ
の男性は、悪人だ」と書くべきかもしれない。しかしきれいごとを言うのは、もう疲れた。だから
本音を書く。

 61歳といえば、ほぼ私と同じ年齢。その私はどうかというと、とうの昔に、若い女性と遊ぶの
は、あきらめた。あきらめたというより、(あきらめ)が重なって、考えることすらしなくなった。お
そらく今の私は、40歳の女性にも、相手にしてもらえないだろう。30歳の女性なら、なおさら。
それが自分でもよくわかっている。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「お金が目的だからよ」と。

 ナルホド! 

新聞報道によれば、そのつど男性は、4、5万円の小遣いを女の子たちに渡していたという。し
かしそれにしても……?

私「あのなあ、ぼくが中学生のときには、年上の女の子は、たった数歳でも、みな、おばさんに
見えたよ。60歳といえば、オバアチャン。そんな女性と関係をもつなどということは、ぼくには、
想像もできなかった。お金の問題ではないと思う」
ワ「男性と女性は、ちがうかもしれないわよ。男性はそうかもしれないけれど、女性は、年上の
男性とでも、関係をもつことはできるわよ」
私「45歳も、年上でもか?」
ワ「……そうねえ……」と。

 で、私なりの結論は、こうだった。その男性というのは、よほど、かっこよかったのではなかっ
たかということ。白いスーツに、水色のズボン。そういういでたちで、BMWかか何かを乗り回し
ている!

 つまりここに私なりの葛藤がある。「若い女性と遊んでみたい」という(欲望)が、(願望)につ
ながる。が、その(願望)には、強力なブレーキが働く。これが(抑圧)となる。しかしその性的エ
ネルギーをコントロールするのは、容易なことではない。(抑圧)が強くなればなるほど、性的エ
ネルギーは、それに対して(抵抗)を開始する。

 この(抑圧)と(抵抗)が、はげしくぶつかりあう。そのときさまざまな心理的反応が、生まれ
る。それがこじれて、神経症を発症することもある。

 だからといって、私は、児童買春を容認しているわけではない。どうか、誤解しないでほしい。
私が言いたいことは、フロイトが説く(性的エネルギー=リピドー)というのは、本能に根ざすも
のだけに、それほどまでに強力であるということ。つまり私にだって、ふつうの人間としての、ふ
つうの性的エネルギーはある。私も、(ふつうの人間)であり、(ふつうの男)である。聖職意識
など、これまたとっくの昔に、捨てた!

 そういう自分の中を静かにのぞいてみると、(抑圧)と(抵抗)の関係がよくわかる。

 私はたしかに、自分の性的エネルギー(=リピドー)を、抑圧している。若いときとくらべると、
はるかに弱くなったとはいえ、性的エネルギーがまったく、なくなったわけではない。

 しかしその一方で、それに抵抗している自分も、いる。ここでいう(抵抗)というのは、フロイト
が説いた(抵抗)とは、少しニュアンスがちがうものかもしれない。(フロイトは、精神分析を受け
ている患者が、現状を維持するため、医師の治療などに反抗的になることを、「抵抗」と呼ん
だ。)

 (抑圧)と(抵抗)。この2つは、つねに、あらゆる場面で、人の心の中で、衝突する。ウズを巻
く。そしてそれをコントロールするものがあるとすれば、理性であり、道徳であり、倫理ということ
になる。

 しかし実際には、これら理性、道徳、倫理のもつ(力)というのは、それほど強くはない。また
コントロールできるほどまでの理性、道徳、倫理をもつにしても、並大抵の努力ではできない。

 実際に(性的エネルギー)をコントロールしているのは、(恐怖)ということになる。第一義的に
は、配偶者(夫や妻)との信頼関係、教師であれば、父母との信頼関係を破壊するという恐
怖。二義的には、罰として、刑が科せられるという恐怖。もちろんその時点で、その人の社会
的名誉、地位は、地に落ちる。

 こうした(恐怖)が、実際には、性的エネルギーをコントロールする。言いかえると、こうした児
童買春についていえば、アメリカ並みに、厳罰主義で臨むよりほかにないということになる。16
歳未満の子どもと性的関係をもったら、問答無用式に、2年の懲役刑を科すとか、など。

 そうでもしないかぎり、この問題だけは、いつまでもつづくと思う。ただし一言。あまり刑を重く
すると、今度は、事件そのものをもみ消すため、(殺人)というレベルまで、発展する危険性も
ある。そういうことはあるが、今の日本の刑法は、こと児童買春については、甘すぎる。

 たいてい執行猶予がついて、見た目には、無罪放免となるケースがほとんど。だから今の今
も、こうしたハレンチ事件は、あとを絶たない。

++++++++++++++

児童買春について書いた原稿を
さがしてみた。

つぎの原稿は、05年の5月に
書いたものである。

++++++++++++++

●教師によるハレンチ事件

+++++++++++++++

このところ、このS県でも、
教師による、ハレンチ事件が
たてつづけに、起きている。

+++++++++++++++

 今度は、I町(浜松市の近郊)の塾講師が、ハレンチ罪の容疑で逮捕された。新聞の報道に
よれば、中学生の女子と、中学生と知りつつ、どこかのホテルで、「いかがわしい行為をした」
(報道)という。

 当の塾講師は、「身に覚えがない」(報道)と、それを否定しているという。それはそれとして、
つまり今の段階では、その講師がシロかクロかはわからないが、今回の事件は、(いもづる
式)に、発覚した。

 その女子は、不特定多数の男性と、そういうことをしていたらしい(?)。で、1人の男性を調
べていたら、ほかにも、同じようなことをしていた男性が何人か見つかり、その中に、塾講師も
含まれていたという。

 で、こういう事件を見聞きすると、その周囲の人間は、(私も含めてだが)、「さも、私は関係あ
りません」というような顔をする。「自分は、そういうことをする人間ではありません」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう考えてよいのだろうか? 言いかえると、だれが、こういう
塾講師を、『石もて、打てるのか』?

 スケベ心はだれにでもある。あなたにも、私にも、だれにでもある。もしそのスケベ心を否定
してしまったら、人間は、人間でなくなってしまう。つまりこういう事件に関しては、絶対的な悪人
もいないし、絶対的な善人もいない。

 では、悪人と善人のちがいは何かということになると、それが(距離)である。(してみたい)と
思うことと、(実際に、してみる)ということの間には、距離がある。その距離の短い人を、悪人
といい、その距離の長い人を、善人という。

 その距離をつくるのが、道徳であり、倫理ということになる。哲学もそれに含まれる。その人
の社会的地位や立場が、距離をつくるということも考えられるが、こういう事件では、あまりアテ
にならない。アテにならないことは、一連の教師によるハレンチ事件を見ればわかる。

 「教師なら、そういうことをしないはず」と考えるのは、今では、幻想以外の何ものでもない。

 距離をつくるのは、もっと本質的な問題である。また、そういう視点でこういう問題を考えない
と、こうした事件は、ますます巧妙化するだけ。水面の下にもぐるだけ。言いかえると、その距
離のない人に向かって、自己規制を、いくら求めても、ムダ。
 
 そこで前から私が述べているように、こうしたハレンチ事件に対しては、厳罰主義で臨むのが
よい。たとえば問答無用式に、2年の懲役刑にするとか、など。オーストラリアでは、さらにそれ
が進んで、そうした行為を見聞きしたばあい、通報義務まである(南オーストラリア州)。

 たとえばあなたの友人(男性)が、未成年者(女子)とそういう交際をしていると知ったら、あな
たは、それを警察に通報しなければならない。それを怠ると、あなた自身も逮捕される。

 そういう意味では、日本は、こうした犯罪に対して、甘い。アメリカなどでは、教師が生徒と性
交渉をもったりすると、軽くても、10年近くの刑を科せられる。言い逃れはできない。日本も、
そうすればよい。そうすることによって、こういう事件の再発を防ぐ。

 わかりやすく言えば、道徳面、倫理面、哲学面で距離を作ることが無理なら、その距離は、
刑罰で作るしかないということ。若い女の子が近づいてきただけで、男性のほうが青くなって遠
ざかるような状況になれば、この種の事件は、ぐんと少なくなるはず。

 世界広しといえども、女子高校生や女子中学生が、売春まがいの遊びをしている国は、そう
はない。またそういった子どもたちに群がって、男性たちがお金を払っている国は、そうはな
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 児童
買春 厳罰主義)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【抑圧と抵抗(2)】

+++++++++++++

昨日は、1日中、抑圧と抵抗
について、考えていた。

もともと(抑圧)というのは、
その人個人が、無意識のうちにも、
心の中に押し込めた、(病的な
心的プロセス)をいう。

何かのことで受けた心の傷(トラウ
マ)を念頭に置いて考えてみれば、
それがわかる。

その(抑圧)を、たとえば治療などに
よって、解放させようとすると、
その人個人は、これまた無意識の
うちにも、それをさせまいと
がんばる。

病的な状況から解放されることに
よって、自分が自分でなくなって
しまう、つまり自我の危機をそこ
に感ずるからである。

これが(抵抗)である。

+++++++++++++

●抑圧と抵抗(2)

 たとえば……。妻に執拗な暴力を繰りかえす夫を考えてみよう。こういうケースでは、夫自身
が、幼少期に、何らかの心の傷(トラウマ)を負ったことが遠因となっていることが多い。

 しかし夫は、それに気がつかない。気がつかないまま、妻に暴力を繰りかえす。「自分が暴力
を振るうのは、そうするに足る理由があるからだ」「言っても聞かない妻が悪いからだ」と。自分
を正当化することも多い。

 ある男性は、子どものころ、父親に口答えしただけで、その場で父親になぐられた。だからそ
の男性は、父親の前では、いつも借りてきた猫の子のようにおとなしかった。またそうすること
によって、身の保全をはかった。

 しかしこの時点で、その男性は、(自分)を、心の中でぐいぐいと押し殺さなければならなかっ
た。父親の前では、いい子ぶることによって、仮面をかぶった。

 こうしてやがてその男性はおとなになり、今の妻と結婚した。ふだんは仲の良い夫婦だった。
が、妻が口答えしたとたん、男性の様子が急変した。「何だ、その生意気な態度は!」と。

 ここに書いた男性というのは、架空の男性である。話をわかりやすくするために、1つの例と
して考えてみた。

 そこでその男性は、専門医のもとで、心理カンウンセリングを受けることにした。と言っても、
それにすなおに応じたわけではない。妻がその男性の暴力で、大けがをし、救急車で病院へ
運ばれるという事件が起きてからである。離婚話が、妻の両親のほうからもちかけられた。

 それでしぶしぶ、その男性は、専門医の門をくぐった。が、その男性は、こう言いつづけた。
「私は正常だ」「どこもおかしくない」「ぼくを病人扱いしないでくれ」と。

 この例をみてもわかるように、心の奥深くに潜んだ心の傷(トラウマ)は、そうは簡単には、姿
を現さない。現さないまま、その人個人を、心の裏から操る。そしてその心の傷(トラウマ)を、
だれかがえぐり出そうとすると、たいてい、それに対して猛烈に反発する。

その男性のケースでも、妻が、「あなたはおかしい」「一度、病院へ行って」と懇願しただけで、
狂乱状態になった。妻に暴力を振るった。

 その男性にしてみれば、心に傷(トラウマ)があることを認めることは、それまでの自分を否定
することに等しい。心の病気に対する偏見もある。「自分はおかしい」と認めることは、それゆ
えにできない。

 (抑圧)と(抵抗)というものが、どういうものか、これでわかってもらえたと思う。

 私たちはいつも、自分の中に、何らかのわだかまり(=固着)をもって生きている。わだかま
りのない人はいない。見方を変えれば、私たちの心は、わだかまりのかたまりといっても、過言
ではない。

 そのわだかまりを、ときには、心の奥深くに押し込むことがある。押し込みながら、別の自分
で、表を飾る。そしてだれかがその心の奥深くに侵入しようとしてきたとき、私たちたちは、無
意識のうちにも、それに対して猛烈に反発する。

 ここにあげた男性のようなケースは例外的であるにしても、似たような現象は、日常生活の
中で、よく経験する。無意識のうちにも、自分が覆い隠している部分を、だれかが指摘されたり
したようなときだ。そういうとき、たいていの人は、カッとなり、自分を見失う。

 もうひとつ、例をあげて考えてみよう。これは私自身のことである。

 若いころ、(今もそうだが)、私の書いた本は売れなかった。書いても書いても、売れなかっ
た。そこであるときから、私は、自分で自分をなぐさめるようになった。「私は自分のために書
く」「だれのためではない。自分のためだ」と。

 こうした心理的操作を、「合理化」という。それはそれとして、一方で、「お金がほしい」「有名
になりたい」という欲望を、私は、そのつどぐいぐいと押し殺さなければならなかった。事実、押
し殺すことに成功した。

 私は無欲のライター(書き手)を装い、それなりに善人ぶっていた。

 そんなある日、ワイフが、新聞の広告欄を見ながら、こう言った。「あら、あのAさんの本が、5
0万部も売れたんだってエ」と。Aというのは、昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の1人で
ある。

 ワイフは軽い気持ちでそう言った。が、そのとたん、私の心の中で怒りが爆発した。自分の心
の中に抑圧していたものが、一気に、表に顔を出した。嫉妬というような、なまやさしいもので
はない。私は、ワイフが、私を否定したかのように感じた。

 ……というのも、実は、架空の話である。しかしこれを薄めたような経験は、ある。今も、その
種の話は、好きではない。そういう話を聞くと、その瞬間、私は私でなくなってしまう。

 では、どうすればよいか。

 それについて、昨日は、一日中、考えていた。で、私なりの結論は、こうだ。

 まず自分を抑圧しているものに気づく。抑圧しているものというよりは、心の奥深くで、抑圧さ
れているものに気づく。ヒントがないわけではない。自分の弱点というか、(痛いところ)という
か、それに気づく。

 つぎに、それを自ら解放させる。ウソをついたり、仮面をかぶる必要はない。私のばあいだっ
たら、何もきれいごとを並べる必要はない。本を書いてお金を儲けたかったら、「儲けたい」と、
声に出して言えばよい。有名になりたかったら、「有名になりたい」と、声に出して言えばよい。
それを邪悪なものとして、心の奥に押し込める必要は、まったく、ない。

 こうして少しずつ、自分を解放していく。

 冒頭にあげた男性のようなケースなら、最初は、小さな問題で、自分を解放させる。それを繰
りかえしながら、最終的には、自分の心の傷(トラウマ)を解放させる。

そのあとのことは、時間に任せる。時間が解決してくれる。ここに書いた、(抑圧)と(抵抗)に無
縁の人は、いないはず。あなた自身の問題として、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 抑圧 
抵抗 心の傷 トラウマ)

+++++++++++++++++

子育ても、またしかり。
子育てというのは、頭で考えてするものではない。
また考えたくらいで、変えることはできない。

ある母親はこう言った。

「頭の中ではわかっているのですが、その場に
なると、ついカッとして……!」と。

子育てというのは、もともとそういうもの。

そういう視点で、以前、こんな子育て
ポイントを書いた。

+++++++++++++++++

【子育てポイント】

●子どもに、子どもの育て方を教える

 子どもに子どもの育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。

 教えるだけでは足りない。身にしみこませておく。「幸せな家庭というのは、こういうものです
よ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうものですよ」と。そういう「し
みこみ」があってはじめて子どもは、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができ
るようになる。

●自分の過去をみる

 一般論として、不幸にして不幸な家庭の育った人(親)は、子育てがへた。どこかぎこちない。
自分の中に親像のない人とみる。

 ある父親は、ほとんどその母親だけによって育てられていた。(父親の父親は、今でいう単身
赴任の形で、名古屋に住んでいた。)そのため父親がどういうものであるか知らなかった? 
何か子どもに問題があると、子どもを、容赦なく、殴りつけていた。このように、極端にきびしい
親、あるいは反対に極端に甘い親は、ここでいう親像のない人とみる。

 また不幸な家庭に育った人は、「いい親子関係をつくろう」「いい家庭をつくろう」という気負い
ばかりが強くなり、結果として、子育てで失敗しやすい。

 もしあなたが自分の子育てのどこかで、ぎこちなさを感じたら、自分の過去を振りかえってみ
る。この問題は、自分の過去がどういうものであるかを知るだけで、解決する。まずいのは、そ
の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされること。

●「育自」なんて、とんでもない!

 よく「育自」という言葉を使って、「育児とは、育自」と言う人がいる。しかし子育てはそんな甘
いものではない。親は子育てをしながら、子どもに、否応なしに育てられる。

 子育てはまさに、山や谷の連続。その山や谷を越えるうちに、ちょうど稲穂の穂が、実るとた
れてくるように、親の姿勢も低くなる。もし「育自」を考えるヒマがあるなら、親は親で、子育てを
忘れて、一人の人間として、外の世界で伸びればよい。そういう姿勢が、一方で、子どもを伸ば
す。自分を伸ばすことを、子育てにかこつけてはいけない。

●カプセル化に注意

 家庭という小さな世界に閉じこもり、そこで自分だけの価値観を熟成すると、子育てそのもの
がゆがむことがある。これをカプセル化という。

 最近は、価値観の多様性が進んだ。また親たちの学歴も高くなり、その分、「私が正しい」と
思う人がふえてきた。それはそれで悪いことではないが、こと子育てに関しては、常識と経験
が、ものをいう。頭で考えてするものではない。

 そのため子育てをするときは、できるだけ風通しをよくする。具体的には、ほかの親たちと交
流をふやす。が、それだけでは足りない。いつも「私はまちがっているかもしれない」という謙虚
な姿勢を保つ。そして子どもを、自分を通して見るのではなく、別個の一人の人間としてみる。
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私の子どもは、私と同じように考えているは
ず」と過信している親ほど、子育てで失敗しやすい。

 このカプセル化のこわいところは、それだけではない。同じ過保護でも、カプセルの中に入る
と、極端な過保護になる。過干渉も、過関心も、極端な過干渉や、過関心になる。いわゆる子
育てそのものが、先鋭化したり、極端化したりする。

●親の主義に注意

 よく「私は○○主義で、子どもを育てています」などという人がいる。しかし「主義」などというも
のは、無数の経験と、試行錯誤の結果、身につくもの。安易に主義を決め、それに従うのは、
危険ですらある。いわんや、子育てに、主義などあってはならない。よい例が、スパルタ主義、
完ぺき主義、徹底主義など。

 これについては、以前、こんな原稿を書いたので、ここに張りつけておく。

++++++++++++++++

●子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育
てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。





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【老後の統合性】

++++++++++++++++

(何をしたいか)ではなく、(何をすべきか)。

その(何をすべきか)を見出し、
現実の自分を、それに一致させて
いく。

それが老後を豊かに生きるための
秘訣ではないか。

そんなわけで、ここでもう一度、
老後の統合性を考えてみたい。

ただ、この老後の統合性を考える
上で、ひとつだけ条件があるとするなら、
それは大前提として、無私、無欲でなければ
ならないということ。

そこに功利、打算が入ったとたん、
統合性は、霧散する。

++++++++++++++++

●青年時代の同一性

 若いときは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)を一致させれば、それですんだ。
(と言っても、それとて簡単なことではないが……。)

 よく「私、さがし」とか、「自分、さがし」という言葉を使う人がいる。そういう人たちは、結局は、
(自分のしたいこと)がわからない。(自分はこうあるべき)という「像」がつかめない人とみてよ
い。あるいは(自分のしたいこと)と、(していること)を一致させることができない人とみてよい。

 だから、迷う。悩む。苦しむ。

 もう少し心理学的に説明すると、(自分はこうあるべき)という像を、「自己概念」という。そして
そこには、(現実の自分)がいる。その現実の自分を、「現実自己」という。この両者が一致した
状態を、「自己の同一性」という。

 自己の同一性を確立した若者は、(何も若者にかぎらないが)、それなりに強い。ひとつの目
標に向かって、自分を燃焼させることができる。そうでない若者は、そうでない。

 私も、実は、高校2年の終わりまで、工学部の建築学科をめざして、勉強していた。さらにそ
の前はといえば、大工になりたかった。しかし高校2年から3年にかけて、半ば無理やりに進路
を変えられてしまった。

 それはたとえて言うなら、好きでもない男性と、不本意な結婚をした女性の気持に似ている。
顔を見るのもいや、においをかぐのもいや。肌に触れられるのは、もっといや。そういう男性と
結婚した、女性の気持ちに似ている。

 私は生涯において、そのとき、もっとも息苦しく、精神的にも不安定な時期を迎えた。

 つまりここで私は、いわゆる「同一性の危機」を迎えたことになる。わかりやすく言えば、リカ
ちゃん人形のコスチュームを着せられ、踊りたくもないのに、舞台の上で踊らされたようなも
の。そのとき私は、私でなくなってしまった。

 が、やがて水が低いところを求めて流れていくように、私は私なりの道を見つけ、今の私にな
った。しかしそれとて、10年単位の時間がかかった。今でも悔やまれるのは、あのとき、どうし
て私はもっと自分を主張できなかったかということ。「そんな有名な大学でなくてもいい」「私は
工学部へ進みたい」と。

●何をすべきか

 話が脱線したが、今でも、心のどこかに不完全燃焼感がないわけではない。「何か、やり残し
た」という思いである。しかし年齢とともに、私はもっと大きな問題をかかえるようになった。

 が、ここで誤解しないでほしいのは、(年齢)という数字が、問題ではないということ。「40歳」
「50歳」という、(数字)には、ほとんど意味がない。問題なのは、(命の限界)である。加齢とと
もに、その(命の限界)を強く感ずるようになる。

 もっと端的に言えば、「死」である。「死」をそこに感ずるようになる。とたん、今まで見てきた
風景が一転する。つまりそれまでは、(自分のしたいこと)をすること、で、自分を満足させるこ
とができる。しかしそういう自分に対して、「……だから、それがどうしたの?」と、問いかけるよ
うになる。

 おいしい料理を食べた……だから、それがどうしたの?
 すてきな旅館に泊まった……だから、それがどうしたの?
 性能のよい新車を買った……だから、それがどうしたの?、と。

 そこで心理学者たちは、「統合性」という言葉を生み出した。同一性の問題が、(自分のした
いこと)と(現実にしていること)を一致させることだとするなら、統合性の問題は、(自分のすべ
きこと)と(現実にしていること)を、一致させること、ということになる。

 (したいこと)と(すべきこと)は、基本的な部分で、大きくちがう。自分の欲望のおもむくまま、
享楽的に何かをすることを(したいこと)という。(したいこと)をしているときは、だれしも、楽し
い。時の流れることさえ、忘れることができる。

 しかし(すべきこと)には、多くのばあい、苦痛や苦労がともなう。さらにほとんどのばあい、
(すべきこと)は、(したいこと)ではない。(できればしたくないこと)であることのほうが、多い。

 しかも(すべきこと)というのは、無私、無欲でしなければ意味がない。功利、打算を考えたと
たん、(すべきこと)は、そのまま霧散してしまう。

●「死」という限界状況の中で

 が、「死」をそこに感ずるようになると、(したいこと)の魅力が急速に薄れ、それにかわって、
「私は、最後に何をなすべきか」を考えるようになる。もっと言えば、(自分という人間の存在の
意味)を考えるようになる。

 それがわからなければ、仮に私やあなたが、何かの大病を患ったばあいを想像してみれば
よい。医師から、「あなたの命は、あと1年です」と宣告されたようなばあいでもよい。

 たった1年だぞ!

 そうなったとき、あなたはどういう心理的反応を示すだろうか。たった1年しかないことを嘆き
悲しみ、取り乱して、ワーワーとわめきつづけるだろうか。それとも(自分のすべきこと)を自覚
して、それに向かって、つき進むだろうか。もちろん、その中間もあるだろう。

 少なくとも、(したいこと)をしたからといって、ポッカリとあいた心のすき間を、それで埋めるこ
とはできない。さらに言えば、(死という限界)を感じるようになると、名誉、地位、肩書きのむな
しさを、思い知る。山のように積まれた札束とて、ただの紙くずになる。

 そこで改めて、私やあなたは、こう考える。「私は、なぜ、ここにいるのか?」と。

 ここで寿命を1年と書いたが、それが20年でもかまわない。30年でもかまわない。もうすぐ
私は満60歳になるが、どうがんばっても、あと30年前後しか生きられない。しかも「健康寿命」
というのもある。平均寿命から10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。

 言いかえると、晩年の10年は、(不健康との戦い)ということになる。脳梗塞、認知症、持病
の悪化などなど。家庭医学書に書いてある、無数の病気が、そこで私やあなたを待ちかまえて
いる。してみると、私の命などというものは、長くみて、あと20年。20年もあれば、御(おん)の
字ということになる。

 1年でも寿命なら、20年でも寿命である。

 しかしここでおかしな錯覚にとらわれる。「1年だと短いが、20年だと長い」という錯覚であ
る。1年と宣告されると、あわてる人は多い。が、そんな人でも、20年と宣告されれば、あわて
ない。「ひょっとしたら、100歳を超えても、自分だけは健康で生きられるかもしれない」という、
ばくぜんとした期待感が、自分から死の恐怖を遠ざけてくれる。

 そういうことはある。

 しかしそれが、「私は、なぜ、ここにいるか?」という問題の答になるわけではない。わかりや
すく言えば、今、そこにある問題を、先延ばしにしているだけ。

●真の自由

 ところで(自由)には、2つの意味がある。行動の自由と、魂の自由である。行動の自由はと
もかくも、魂の自由は、ハイデッガー流に考えるなら、死の恐怖から解放されてはじめて、自分
のものとすることができる。

 死は、私やあなたから、すべてのものを奪う。そういう意味で、「死は不条理なり」という。つま
りいくら「私は自由だ」と叫んでも、「死」を前にしたら、「私」など、空中に浮かぶ、かげろうほど
の意味もない。事実、死ねば、私やあなたは煙のごとく、この世界から消える。

 そこで実存主義を信奉する哲学者たちは、「無私」という言葉に行きついた。「私」があるから
こそ、死は恐怖となる。が、もし「私」がなければ、失うものは、何もない。つまり死の恐怖から、
解放される。無一文の人は、泥棒を恐れない。無肩書きの人は、地位を失うことを恐れない。
それと同じに考えてよい。

 (すべきこと)には条件があると書いた理由は、ここにある。私やあなたは、(すべきこと)をす
ることによって、真の自由を手に入れることができる。またそれが(すべきこと)の最終目標とい
うことになる。

●あるべき老後とは

 話がこみいってきたので、結論を急ぐ。

 老後を心豊かに生きるためには、(自分のしたいこと)だけをしても、意味はない。よく、「老後
は孫の世話と庭の手入れ、それに旅行三昧(ざんまい)の生活をしたい」と言う人がいる。しか
しそうした生活は、けっして老後のあるべき姿ではない。またそれをしたところで、心のすき間
を埋めることはできない。
 
 私やあなたは、(自分がすべきこと)をする。個人によってテーマはちがうかもしれない。が、
(自分がすべきこと)を知り、それに向かって、前に進む。

 が、ここで重大な問題にぶつかる。(自分がすべきこと)というのは、そうは簡単には見つから
ない。またそれを見つけるにしても、下準備というものが、必要。その下準備が熟成されて、そ
れが(すべきこと)につながる。

 ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年
期、さらには老年期へと向かうとされる。その年齢を、40歳とした。なお「自己の同一性(アイ
デンティティ)」という概念は、エリクソンという学者が考えたものである。

ユングの説によれば、つまり発達段階論によれば、そのころから、(自分のすべきこと)の下準
備をしなければならないことになる。しかし40歳でも、早すぎるということはない。30歳でも、早
すぎるということはない。

 先に書いた統合性の問題は、何も、老人たちの問題ではないということ。むしろ、「死の限
界」を感ずるようになってからでは、遅いということ。そのことは定年退職していく人たちを見れ
ば、わかる。

 私の友人、知人たちは、今、いっせいに、その定年退職を迎えつつある。それぞれ老後の夢
をもっている。「日本中を車で一周する」「農地を買って、百姓をする」「本を1冊、書く」とかな
ど。中には、どうしてそういうジジ臭いことを考えるのかよくわからないが、「四国八十八か所め
ぐりをする」と言う人もいる。

 しかしみな、それまでのキャリアを、その時点でへし折られることになる。私も、その1人だ
が、「今までの私は何だったのか」と、それを思い知らされる。あるいは「今まで私は、何をして
きたのか」でもよい。

 老後という乾いた道には、何もない。恐ろしいほど、何もない。しかもその道は、先へ行けば
行くほど、細くなる。左右は、断崖絶壁。その下では、「死」が、「おいで、おいで」と手招きして
いる。で、せいぜい私たちができることと言えば、その道を、ただ黙って、静かに歩くこと。

 ……というのでは、あまりにも悲観的すぎる。そこで再々度、「統合性」の問題ということにな
る。

 私やあなたは、何をすべきなのか? またその(自分がすべきこと)を、どうすれば、現実の
自分と一致させることができるのか? あるいは私やあなたには、その下地があるのか? ど
うすれば、その下地を発展させることができるのか?

 私はあと数か月で、満60歳になる。まさに正念場を迎えることになる。

++++++++++++++

少し前に書いた原稿を、少し
手直しして添付します。

++++++++++++++

【老齢期の絶望】

++++++++++++++++

老齢期は老齢期で、
自分のアイデンティティを
確立しなければならない。

自分を真剣の見つめなおさなければ
ならない。

+++++++++++++++

●自分を受け入れる

 老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯定すること。エリクソンは、それを「(人生
の)統合性」と呼んだ。

「老齢」といっても、50代、60代のことではない。ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40
歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年期、さらには老年期へと向かうとされる。

 この時期までに、その人のアイデンティティ(=自己同一性)は、おおかた決まってくる。が、
中には、そのアイデンティティをかなぐり捨ててまで、別の人生を歩もうとする人がいる。

 こんな話を耳にした人は多いと思う。

 「第二の人生」と踊らされて、退職後、田舎暮らしを始める人たちの話である。私が知るかぎ
り、こうしたもくろみは、たいてい失敗する。たとえば浜名湖の北に、Aという村があった。退職
者たちが集まってつくった村である。

 当初はマスコミにも騒がれ、それなりに注目されたが、それから15〜20年。今は見る影もな
い。荒れ果てた原野に逆戻り。地元の小学校で校長をしている男性に理由を聞くと、こう話して
くれた。

 「周囲の村の人たちと、うまく溶けこめなかったからです」と。

 それも理由のひとつかもしれないが、心理学的に言えば、アイデンティティの崩壊が起きたか
らと考えるのが、正しい。つまり、それまでに自分がつくりあげてきたアイデンティティを放棄し、
別のアイデンティティを求めても、うまくいかないということ。生命力にあふれた成人前期(ユン
グ)でも、アイデンティティの確立はむずかしい。いわんや、中年期においてをや。

 人生の正午を過ぎると、精神力、体力は急速に衰えてくる。それ以上に、「死」をそこに感ず
るようになる。時間の限界を覚えるようになる。言うなれば、断崖絶壁の上に立たされたような
状態になる。

 そういう状態で、それまでの自分を否定する。それまでの自分とはまったく別の人生を歩もう
とする。が、それはそのまま、想像を絶するストレッサーとなって、その人にはねかえってくる。

 たいていの人は、この段階で、もがき、あがき、そして苦しむ。自己否定から、絶望する人も
少なくない。

 もっとも、だからといって、たとえばここに書いたような田舎暮らしに、みながみな、失敗すると
いうわけではない。中には、それなりにうまく、田舎に溶けこんでいく人もいる。

●屋久島に移り住んだ知人

 たとえば私の姉の義理の叔父は、50歳を過ぎるころまで、名古屋市内で事業を営んでい
た。が、そのころ会社を他人に売り払い、そのまま、屋久島に移り住んだ。九州の南にある、
あの屋久島である。5、6年前に80数歳の歳で亡くなったが、その人のばあい、30年以上、そ
の屋久島で、田舎暮らしをしたことになる。

 それには理由がある。

 姉の義理の叔父は、それまでも、つまり若いときから、年に数回は屋久島に旅をつづけてい
た。屋久島に心底、惚れこんでいた。そういう下地があった。だからうまくいった。うまくいったと
いうよりは、移住した時点で、(自分がしたいこと)と、(現実の自分)を一致させることができ
た。

 そういう例なら、私にも理解できる。しかしそれまで都会でサラリーマンをしていた人が、突
然、田舎へ移り住んで、それでうまくいくということは、心理学的に考えても、ありえない。いくら
それが(自分がしたいこと)であっても、それに合わせて、(現実の自分)をつくることは、たいへ
んなこと。並大抵の努力ではできない。遊んでいても暮らせるならまだしも、農業を職業とする
となると、なおさらである。

 では、どうするか?

●生の縮小

 大切なことは、冒頭にも書いたように、老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯
定すること。あるいはそれまでの人生の延長線上に、自分を置くこと。ユングは、「生の縮小」と
いう言葉を使った。が、だからといって、それは敗北を意味するのではない。「生の縮小」とは、
自分の限界を認めること。「ああ、私はこんなものだ」「私の人生は、こんなものだ」と。

 そしてその範囲の中で、自分ができることを模索する。そういう意味では、ユングも言ってい
るように、この時期こそ、自分を真剣に見つめなければならない。またその努力を怠ってはい
けない。

 私も、もうすぐ満60歳になる。定年退職ということはないにしても、心の中では、すでに老齢
期の過ごし方を準備している。しかしその過ごし方は、今の私とまったく別のものではない。「6
0歳を過ぎて、何をすべきか」「70歳になったら、何をすべきか」という視点で、ものを考える。

 でないと、自分がバラバラになってしまう。へたをすれば、先にも書いたように、自己否定か
ら、絶望へと進んでしまう。が、何としても、それだけは避けなければならない。そのためにも、
今こそ、私は、自分を真剣に見つめなおさなければならない。

 ついでに一言。

 私はときどき、ふと、こう思う。もし神様か何かが、私にこう言ったとする。「お前を、奇跡によ
って、もう一度、青春時代に戻してやろうか?」と。

 しかし多分、私は、こう答えるだろうと思う。「これからも健康でいたい。長生きをしたい。その
ために努力はする。しかし同じ人生をもう一度歩めと言われるなら、それは断る。人生は、一
度でたくさん」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢
期の統合性 アイデンティティ アイデンティティの確立 人生の正午 生の縮小)

【補記】

この恐ろしいほどのニヒリズムは、
どこから来るのか?

地球温暖化の問題にしても、ふと、
「私には関係ない」と思ってしまう。

「少なくとも、私が死ぬまでは、
だいじょうぶ」と。

あるいは政治の問題にしても、
「勝手にしろ」と思ってしまう。

「どうせ、なるようにしかならない」と。

私のワイフですら、ときどき、
こう言う。

「あなた、1人くらいが悩んだところで、
どうにもならないのよ」と。

が、その一方で、その私を、急(せ)きたてる
ものがある。

「急げ、急げ、急がないと、間に合わないぞ」と。

それが今、こうしてものを書く原動力に
なっている。

そこに何があるか、私にもわからない。
なぜ、こうして毎日ものを書いているのかさえ、
私にもわからない。

しかし今の私が、今までの私の結果であると
するなら、今の私は、今の私をそのまま
受け入れるしかない。

今さら、ゴビの砂漠で、ヤナギの木の苗を
植えろと言われても、できるものではない。

老人介護センターで、ヘルパーのボランティア
活動をしろと言われても、できるものではない。

またしたところで、満足感を得られるもの
ではない。私は、その下準備をしてこなかった。

つまり私は私で、今の私を、貫くしかない。

「そのうちいいこともあるだろう」という程度の
淡い期待感でしかないが、悪いことばかりではない。

昨日も、1通の礼状が届いた。私はそれを
ポケットに入れたまま、そのつど、何度も
読み返した。うれしかった。励まされた。

私がしていることが、どこか知らないところで、
知らない人に、小さな感動を与えている!

私のすべきことは、こんなところにあるのかも
しれない。

あとは、それに向かって、前に進むだけ。
もう迷っている暇はない。

だれが何と言おうとも、私の知ったことではない。
私は、私の道を進む。

それが私にとっての、(統合性の一致)という
ことになる。





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