倉庫3518837
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●モバイル人間

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携帯電話を手放せない人は多い。
そういう現象は、若い人たちだけの
ものかと思っていたら、結構、年配の
人でも、そういう人がいる。
それを知り、驚いた。

私が知っているのは、50歳近い女性だが、
携帯電話を家に忘れた日は、仕事をサボってでも、
それを取りに帰るという。

「携帯電話がないと、不安でならない」、
ということらしい。

+++++++++++++++

 携帯電話を中心に、携帯電話でつながる世界を、「モバイル空間」と呼ぶ。そしてそのモバイ
ル空間で、いつも携帯電話を手放せない人を、モバイル人間と呼ぶ。いくつかの特徴がある。
その中でも、もっとも重要なのが、「今」の共有。

 携帯電話を手放せない人たちは、いつも、こういうやりとりをしている。「今、どこにいる?」
「今、何をしている?」「今、どう思っている?」と。過去や未来の話ではない。いつも、「今」を話
題にする。「今」の話をする。

 つまりそういう形で、「今」を共有する。と、同時に、自分の「今」を、相手に共有させる。こうし
て自分と相手の「今」を、つなぐ。

 ……という話は、常識で、ここでは、その先を考えてみたい。

 携帯電話が現れる前までは、通信手段と言えば、固定電話と手紙しかなかった。固定電話と
いうのは、家の中のどこかに固定してある電話機をいう。

 だから他人とコミュニケーションを取るといっても、今から思うと、恐ろしく時間がかかった。お
金もかかった。相手が外国に住んでいたりすると、手紙だと、航空便でも、往復2週間。電話代
も高かった。1970年当時、オーストラリアへ電話をすると、5〜10分話しただけで、1000〜
2000円ほどかかったように記憶している。今の貨幣価値に換算すると、5000前後くらい
か?

 それが今では、瞬時、瞬時に、ことが進む。インターネットがそれに拍車をかけた。

 こうした時代の変化の中で、私たちがもつ意識も、確実に変わりつつある。思いつくままで恐
縮だが、それを並べてみる。

(1)短絡性(深く、時間をかけて考えることができない。)
(2)大量性(一度にたくさんの友人と連絡を取りあう。)
(3)速効性(今の問題は、今、解決しようとする。)

 こうした意識の変化の中で、(4)言葉そのものが変質しつつある。モバイル用語というのがあ
って、モバイル世界では、モバイルの世界でしか通用しない、独特の言い回しがある。

 さらに(5)新種の孤独感、疎外感が生まれつつある。モバイル世界そのものが、ある種の共
同体を形成し、その共同体から疎外されることによって生まれる、孤独感や疎外感である。

 携帯電話がない時代には、人間と人間の間には、(時間)というクッションがあった。そのクッ
ションのおかげで、自分を見つめなおすことができた。反対に、相手との関係を調整することも
できた。

 が、今は、携帯電話を使って、人間が、(群れ)となって集団行動を繰り返している。言うなれ
ば、太古の昔、人間がまだ魚だったころの群れ意識を、(多分?)、携帯電話によって、呼び覚
まされたということになるのか。わかりやすく言えば、人間は携帯電話により、再び「個」を喪失
しつつある。

 「今」を共有できる人間どうしが集まって、群れをつくる。同じ行動をし、同じことを考える。そ
して同時に、その群れに入らないものを、差別し、排斥する。が、同時に、自分がその群れか
らはずれされることを恐れる。それがここでいう新種の孤独感と疎外感を生み出す。

 私の知人の中には、携帯電話を家に忘れると、仕事をサボってまで、それを取りに帰る女性
がいる。20代や30代の若い人ではない。今年、その女性は、50歳くらいになる。その女性
も、こう言う。

「携帯電話がないと、不安でならない」と。

 理由を聞いても、それがよくわからない。「どうして?」と聞くと、「とにかく、不安になる」と。

 たかが通信手段ではないのか? 携帯電話がなければ、固定電話機をさがせばよい。ある
いはその前に、それほどまでに緊急な用事というのは、そうはない。その通信手段が、本来の
通信手段というワクを超えて、人間の心理にも大きな影響を与えつつある。

 大切なことは、仮に携帯電話をもち歩くとしても、それがもつ弊害を理解しながら使うというこ
と。決して、「群れ意識」の中で、自分を見失ってはいけない。自分という「個」を見失ってはい
けない。

 さらに言えば、表面的な情報に操られるまま、操られてはいけない。

 そこで、(6)として、つぎのことを書き足す。

 個の喪失と、思考の浅薄化、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モバ
イル世界 モバイル人間)




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●熟年離婚

●ある離婚

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身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、
今、離婚状態にある。離婚したという
わけではないが、離婚を前提とした、
別居状態にある。

年齢は、ともに、59歳。理由はよく
わからない。いろいろあったらしい。
どこかおかしいなとは感じていたが、
しかし夫婦のことは、夫婦しかわから
ない。

私も詳しくは、聞かなかった。

+++++++++++++++++

 身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、今、離婚状態にある。離婚したというわけではない
が、離婚を前提とした、別居状態にある。

 数日前、そういう連絡を受けた。すぐ電話をしようと思ったが、つらくて、電話をすることがで
きなかった。ただメールだけは打っておいた。夫と私は学生時代からの友人で、もう40年近い
つきあいになる。その夫婦と私たち夫婦と、いっしょに旅行したことも、何度かある。

 そういう積み重ねがあるから、どちらの味方をするとか、そういうことは考えない。そっと静か
にしておいてやることこそ、大切ではないか。流れとしては、奥さんのほうから先に、離婚話が
もち出されたようだ。

 いろいろ考える。考えるが、こうまで身近な人のこととなると、考えがまとまらない。以前書い
た原稿を、読みなおしてみる。

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●さらけ出す

 オーストラリア人の家庭へ行ったときのこと。食後、ふと見ると、その家の奥さんが、だんなさ
んのひざの上に、抱かれるようにして、もたれかかっていた。が、子どもたち(高校生の女の子
と、私の友人の大学生)は、平気な顔をして、私と、会話をつづけていた。

 今から35年ほど前に見た、光景である。その光景を見て、私がいかに驚いたかは、もうここ
に書くまでもない。当時の日本の常識では、考えられない光景であった。今でも、珍しい。当時
ですら、向こうの大学生たちは、大学の構内を歩きながらでも、抱きあったり、キスをしたりして
いた。

 もっとも欧米人が、みな、こうした「さらけ出し」を、平気でしているわけではない。そのためア
メリカなどでは、離婚率の増加とともに、結婚カウンセラーの数が急増しているという。こうした
カウンセリングでは、主に夫婦の間の信頼関係の結び方の指導に重点を置いているという。
今、その信頼関係が結べない夫婦がふえている。もちろん、この日本でも、ふえている。

 結婚したあと、夫婦の会話がない。セックスもない。夫は家事、育児をすべて妻に任せ、自分
は、知らぬ顔。妻は妻で、家庭に閉じ込められ、爆発寸前。夫にせよ、妻にせよ、その原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるとみる。この時期、子どもは、絶対的に安心できる家庭環境
の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。自分をさらけ出しても、だいじょうぶだという安心感を学
ぶ。そしてそれが基本となって、信頼関係の結び方を学ぶ。

 自分をさらけ出すから、信頼関係が結べるということにはならないが、しかしさらけ出さないこ
とには、結べない。あるがままの自分を、相手にさらけ出す。それはたがいの信頼関係を結
ぶ、大前提ということになる。

 そういう意味では、私が見た、あのオーストラリア人夫婦の光景は、参考になる。反対に、日
本の夫婦だったら、どういう反応を示すかということを考えてみればよい。たとえばあなたたち
夫婦は、どうだろうか。

(4)デパートやスーパーでも、平気で手をつないで歩くことができる。
(5)子どもの前でも、平気で抱きあってみせることができる。
(6)客の前でも、平気で、抱きあったり、キスしてみせることができる。

 いろいろなレベルがあるだろうが、日本では、こうした行為を、「はしたない」と否定する。しか
し「はしたない」とは何か? どうしてそれが悪いことなのか? 私たちも一度、そういう原点に
立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。

 なお私のこうした意見に対して、「アメリカのほうが離婚率が高いではないか」と反論する人が
いる。「日本より、はるかにさらけ出しをしているアメリカ人のほうが、離婚率が高い。つまり日
本の夫婦のほうが、たがいの関係がしっかりしている」と。

 この反論が、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちたものかは、あなたが妻の立場にいるなら、すぐわ
かるはず。日本の夫婦の離婚率がまだ低いのは、夫婦の関係がそれだけしっかりしているか
らではない。とくに妻側が、がまんしているからにほかならない。いまだに、男尊女卑の思想
は、この日本に根強く残っている。もし日本の妻たちの意識が、アメリカ並になったら、離婚率
は、アメリカの離婚率を、はるかに超える。

 私たちは、夫婦の間だけでも、そして子どもの前でも、もっと自分をさらけ出してもよい。言い
たいことを言い、したいことをする。夫意識など、くそ食らえ。妻意識など、くそ食らえ。親の権
威など、くそ食らえ。親意識など、くそ食らえ! まずあるがままをさらけ出す。他人のばあい
は、そうはいかないが、夫婦や、親子の間では、かまわない。それが家族の特権でもある。とく
に、つぎのような人は、そうしたらよい。

(6)他人と接していると、気をつかい、精神疲労を起こしやすい。
(7)親だから(夫だから、妻だから)という意識が強く、何かにつけて気負ってしまう。
(8)夫婦の間でも、「それはいけないこと」というようなブレーキが働くことが多い。
(9)友人が少なく、さみしがり屋なのに、友人と良好な関係をつくるのが苦手。
(10)いつも自分をよく見せようと、心のどこかで緊張してしまう。あるいは自分を飾る。

 さあ、あなたも、たった一度しかない人生だから、思う存分、自分をさらけ出して生きたらよ
い。あるがままの自分で、あるがままに生きたらよい。だれにも遠慮することはない。無理をす
ることはない。それで相手がダメだというのなら、こちらから相手を蹴飛ばしてやればよい。よ
い人ぶったりしてはいけない。自分を飾ったり、ごまかしてはいけない。

さあ、あなたもあなたの心を取り巻いている、無数のクサリを解き放ってみよう。たった一度し
かない人生だから、思う存分、自分の人生を生きてみよう! 英語国では、こう言う。「心を解
き放て! 体はあとからついてくる!」と。よい言葉だ。
(030214)

●自由が新しい宗教であり、それが全世界に広がることは、まちがいない。(ハイネ「イギリス
断片」)
●人は生まれながらにして、自由かつ平等である。(フランス人権宣言)


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【補足(1)】離婚率

 日本人の離婚率が、欧米より低いことについて、先に、「日本の女性が、それだけがまん強
いからだ」と書いた。それについて補足する前に、世界の離婚率を調べてみた。

離婚率 (人口1000人当たり) 日本   ……2・3人(2001年)
                 アメリカ ……4・1人(2000年)
                 イギリス ……2・6人(2000年)
                 韓国   ……2・5人(2000年)
                 ドイツ  ……2・3人(1999年)
                 フランス ……2・0人(1999年)
                 
                          (総務省統計局)

 この総務省の統計局の数字を見てわかることは、日本はアメリカよりも低いが、しかし他の
欧米諸国と比べてみると、それほど低くはないということ。ドイツと同じで、かつフランスより高
い。

 アメリカが高いのは、アメリカが多様な民族による移民国家であるためと考えられる。たとえ
ばテキサス州では、人口の約40%が、ヒスパニック系と言われている。

 日本の女性ががまん強いというのは、女性自身ががまん強いというよりは、社会制度の不
備、それに古い因習や慣習による拘束が、背景にあるためと考えられる。もしこうした不備が
改善され、日本の女性たちが古い因習や慣習から解放されたら、離婚率は、一挙に上昇する
と考えられる。日本の女性たちは、そういう拘束の中で、「離婚したくても、できない」という事情
に苦しんでいる。

 だからといって、離婚率が高くなればよいと私は言っているのではない。しかし無理をして、
結婚の体裁だけを整えている家族も多いのも事実。この日本では、女性が経済的に自立する
のは、むずかしい。とくに離婚した女性が、自立するのは、本当にむずかしい。そういう事情の
中で、多くの女性たちが、離婚したくてもできず、がまんしている。

【補足(2)】家庭は兵舎

 せっかくすぐれた才能をもちながら、「家庭」という「兵舎」に閉じ込められた女性が、そのの
ち、出産、育児を経験するうちに、その才能を鈍らせるというケースは、きわめて多い。が、そ
れだけではない。

 こうした才能にめざめた女性たちが感ずる、閉塞(へいそく)感は相当なもので、その閉塞感
が大きければ大きいほど、ストレスも増大する。「家庭が兵舎」という発想は、そういうところか
ら生まれる。

 たとえばマンションを購入する。仕事をしている夫にとっては、「家庭」かもしれないが、妻に
は、監獄に近い。しかし悲劇は、そういう事実を、夫が理解しないことにある。いくら見晴らしが
よくても、密閉された箱の中のような世界では、一日を過ごすことはできない。精神や肉体に与
える影響も大きい。

 たとえば、こんな調査結果がある。

妊婦の流産率は、六階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階は5〜7%)。流・死
産率でも六階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。マンションなど集合
住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立
精神神経センター北村俊則氏)など。 

 マンションなど、高層住宅に住んでいる女性の流産率は、40%もあるという。マタニティーブ
ルーになる女性は、一戸建ての家に住む女性の四倍もあるという!

 実際、私の実践教室は、市の中心部のビルの3階にある。見晴らしは悪くはないが、あの閉
塞感は、いかんともしがたい。窓の外へは一歩も出られないというだけで、閉じ込められた感じ
がする。そんなわけで、一時間でも休み時間があると、私は近くの書店で、本を立ち読みして
過ごす。設備はいろいろあるので、その気になれば泊まることもできるが、過去において、一
度だった泊まったことがない。

 そういうマンションに閉じ込められた女性にとっては、家庭はまさに、監獄に近いということに
なる。夫の発想では、「マンションも買った。……買ってやった。その家庭でのんびりできるでは
ないか。何が文句があるのか」ということになるが、それは女性たちが感じる現実とは、かなり
違うということ。仮に今の私が妻なら、そういう生活には、一日どころか、半日も耐えられないだ
ろう。

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 10年ほど前から、「父親の育児参加」が、声だかに叫ばれるようになった。つまりそれくら
い、日本の父親たちは、育児に無関心。「仕事だけしていれば、一人前」と考える。しかし育児
は、義務ではない。権利である。父親というより、人間としての権利である。反対に育児が満足
できないような職場環境なら、権利侵害で訴えてもよい。

 が、この問題だけは、いくら父親を説得しても、意味はない。先にも書いたように、それは脳
のCPUにも関係する、意識の問題だからである。仮に頭で理解しても、いざそれをするとなる
と、父親にとっては、それは苦痛でしかない。かえってストレスがたまるということにもなりかね
ない。無理に強制することは、できない。

 そこで意識改革ということになるが、先に書いた話に戻ってしまったので、このテーマは、また
別の日に考えることにする。
(030621)

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もう一つ、おまけに……
以前こんな原稿を書いた。中日新聞掲載済み
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仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポー
クスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決
意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、6年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任
に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、
「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第2小法廷は、1999年の9月、次のような判決を言
いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり
「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。

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みなさん、力をあわせて、日本人の意識改革を進めましょう!

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●家庭は少女の監獄であり、婦人の矯正所。(バーナードショー「革命主義者のための格言」)

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 夫婦が夫婦であるためには、絶対的な一体化が必要である。「絶対的な」というのは、「疑い
すらもたない」という意味である。

 しかしこの一体化は、一方的なものであってはいけない。よくあるのは、夫だけが、「私たち
夫婦は、一体化している」と思いこむケース。妻の心は、とっくの昔に夫から離れてしまってい
る。が、夫は、それに気づいていない……。

 先日、「記憶の棘(いばら)」という映画(DVD)を見た。その映画の中では、夫婦の心のすれ
ちがいが、伏線として、ひとつのテーマになっていた。

 ……ジョギング中に、夫は、心臓発作か何かで倒れる。妻は、未亡人として、それから10年
近く、亡き夫をしのんで過ごす。映画はここから始まるが、しかしその夫には、心臓発作か何か
で死んだとき、別に、愛人がいた。その愛人とは、妻との離婚を話し合っていた。知らなかった
のは、妻だけだけ……という伏線である。

 「私たちはすばらしい夫婦だった」「私たちは愛し合っていた」と思いこんでいる妻。しかし肝
心の夫は、別のところで、すでに離婚話を進めていた。……というわけである。

 そこで、では、私たちは、どうなのかということ。「私たち」ではなく、「私」はどうなのかというこ
と。

 ワイフの心の中まで、私はのぞくことはできない。だからひょっとしたら、ワイフも同じように思
っているのかもしれない。今は、夫婦として、私に同調しているフリをしているだけかもしれな
い。別のところで、離婚の準備をしているかもしれない。

 しかし私は、最近は、それでも構わないと思うようになっている。今まで、ワイフは、私によくし
てくれた。もう、じゅうぶんすぎるほど、じゅうぶんなことをしてくれた。だからワイフが、「これか
らはひとりで生きたい」と言えば、私としては、ワイフにそうさせてやりたい。私自身は、ひとりで
生きていく自信はないが、それに応ずるしかない。

 だからときどき、私のほうからワイフに、こう言う。「ぼくと、離婚したくないか?」「離婚したけ
れば、離婚してもいいんだよ」と。

 そのつどワイフは笑いながら、「そんなこと、考えてないわよ」と言う。が、私は、そういうワイ
フを信じていない。本当はどうなのか、私にはわからない。私が反対の立場なら、つまり私が
私のワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。

 それが自分でもよくわかっている。

 しかし今度ほど、「夫婦も、つきつめれば他人なんだなあ」と、考えさせられたことはない。身
近な、本当に身近なところにいる夫婦の離婚話だけに、ショックも大きかった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 離婚
 離婚率 日本の離婚率)




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●ネット中毒

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TBS−iニュースに、気になる
記事が載っていた。

題して、「インターネット中毒」。

これからの日本でも急増すると
思われる。早急な対策が必要では
ないか。

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 インターネットの先進国(?)、お隣の韓国では、今、「インターネット中毒」なるものが、問題
になっている(TBS−iニュース、5月12日)。

 いわく、「韓国情報文化振興院が今年発表した調査結果によれば、治療が必要な中毒者は
未成年者では14%、大人でも7%にのぼっている」と。

 若者で14%ということは、10人のうち、1〜2人ということになる。先日携帯電話中毒につい
て書いたが、インターネット中毒のほうは、割合こそ携帯電話中毒より少ないかもしれないが、
中身が深刻。

 TBS−いニュースは、つぎのように伝える。

 『……「とにかく自分がコントロールできなくなりました。キーボードと画面から目を離すことが
できないのです。そして、長い間ゲームをしているうちに冷たい汗が流れるのを感じました」
(「インターネット中毒」になった大学生)

 この大学生は、中学生の頃からインターネットのオンラインゲームにのめり込むようになっ
た。学校にも行かず、1日中パソコンに向かう日々が続き、体調不良に悩まされている。

 半年前、このままではいけないと思い立ち、始めたのがカウンセリング治療だった。今でも1
日12時間もインターネットを使っているが、これでも以前と比べれば、かなりましになったとい
う。

 「カウンセリングの需要は増加しています。(インターネット中毒)は、今や全国的な問題にな
っているので、全国規模での対応が必要です」(情報文化振興院「インターネット中毒」担当責
任者)。

 都市部から地方へと中毒が広がりを見せる中、韓国情報文化振興院は専門カウンセラーの
養成に力を入れ始めた。40時間の課程を修了した人をインターネット中毒専門カウンセラー
に認定するというこの講座、受講者には地方の行政機関などで働いている人が目立つ。

 「主婦がチャットにはまったためその浮気相手が夫の職場に押しかけたケースもあり、また、
ゲームをやりすぎる子供に親が手を焼くケースは日常茶飯事です」(受講者=家庭問題のカウ
ンセラー)。

 この日の授業は「美術治療」と呼ばれるカウンセリング技術についてです。絵を描かせ、その
絵を説明させる過程でコミュニケーション能力を回復させ、自分を客観視させる効果があると
言う。

 「インターネットに夢中になっている子は、家族との対話が断絶しています。絵を通して子供
の心を理解し、表現することが重要だと学びました」(受講者)

 韓国政府は、今年に入って、インターネット中毒のカウンセリングが受けられる施設を全国で
およそ30カ所増やすとともに、今後、年間300人程度を目標に専門カウンセラーを養成して
いくという』と。

 私も、(ゲーム中毒の子ども)をときどき経験している。7、8年前に書いた原稿だが、それを
紹介する。

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●子どもがゲームづけになるとき

●ゲームづけの子どもたち 

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ
ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(20
00年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、1人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出
せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が九〇〇〇になる」と。

子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカード
どうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」
と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、1パック5枚入りで、150円か330円程度で
販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。

●ポケモンからマジギャザまで

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。

M君(中2)いわく、「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(15枚
で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚近く集めたそ
うだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと
思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよく
わからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子
どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通してい
る。

●現実感を喪失する子どもたち

 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからな
い生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを
供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。

中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している20歳代の女性までいた(NHK
「電脳の果て」97年12月28日放送)。

そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号
だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団
の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死
んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、方
向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲームに
は、そういう危険な面も隠されている。

●思考回路はそのまま

 で、浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、
多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持っている。中
には1万枚も持っている子どももいる。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよ
くて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会
で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のお
となばかりだよ」とも。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい
うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中
毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万円も払ったりする!

●子どもをダシに金儲け

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間100億
円から200億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表の数字。闇か
ら闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入
れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。

しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そ
うしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、2001年の終わりには
再び発売されているとのこと。

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●携帯電話を買う

 とうとう買った。携帯電話だ。ドコモの最新型。1・3メガのカメラつき。ソニーの製品だ。

 きっかけは、オーストラリアの友人のB君が、携帯電話を買いたいと言ったこと。それで携帯
電話ショップへいっしょに行き、あれこれ通訳しているうちに、自分でもほしくなってしまった。

 いろいろな機種があったが、どうせ買うなら最新型、ということで、それにした。長い間、悶々
としていた気分が、これで吹き飛んだ。手続きが終わるとワイフは、こう言った。「あんたも、や
っと一人前ね」と。そうだ。私もやっと、一人前!

 家に帰って、説明書を見る。ゾクッとするほど、分厚い。こうして機械をいじるのが、何よりも
楽しい。ショップの女の子に、「ぼくは、機械オンチでね。パソコンなど、いじったこともありませ
ん……」と言ったら、本気にした。そしてあれこれ手取り、(本当に、手取りだぞ!)、親切に教
えてくれた。合計で、八回ほど、手を握ってもらった。きれいな人だったから、うれしかった。は
はは。

 しかしそれにしても、機能満載! 携帯電話がここまで進化しているとは、思ってもみなかっ
た。カメラにしても、ズーム機能までついている。インターネットにメールを送ることもできる。ほ
かに留守番電話だの、アイモードだの。ただこの機種(ソニー・SO505i)は、閉じた状態で、ス
イッチが外部に出るため、不用意にスイッチを入れてしまう可能性がある。いいのかなあ…
…?

 さっそく、あちこちに電話してみる。うまくつながった。今度は反対に、携帯電話に電話してみ
る。これもうまくつながった。しかし一番格安のコースでも、月々の基本料金が、4000円近くに
なる。こうした料金でも、まさに「チリも積もれば……」。これから先、老後に向けて、生活をコン
パクトにしようと考えていたのだが……。

 しかしこうした電気製品は、いわばオモチャのようなもの。それにボケ防止になる。ときどきこ
ういう新製品を買って、頭を刺激する。しかし、私は、実のところ、こうした分野では、天才的な
能力がある。(ホント!)昔、ある医療研究所に、タタミ一枚分ほどもある、大型の電子機器が
置いてあった。だれもそれを操作できず、半年ほどそこに放置してあった。それを私は、一時
間ほどで動かしてしまった。あとで所長が、「君は、この機械のことを知っていたのかね?」と。
(これは自慢!)

 それにしても楽しい。手の中でクルクルと携帯電話をいじっていると、無上の喜びを感ずる。
(これは私のビョーキのようなもの。)そのうち私も、携帯電話を手放せなくなるかもしれない。
今は、その、はじめの一歩? 中毒にならないように、注意しよう。
(030610)

++++++++++++++

 話を戻す。

 TBS−iニュースは、つぎのように締めくくっている。

 『韓国でインターネット中毒が深刻化した背景としては、学歴競争での挫折や人間関係のスト
レスに苦しむ人たちが、現実社会からネットの世界へ逃げ込むという傾向が指摘されていて、
日本社会にとっても無縁とは思えない問題である』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ネット
中毒 インターネット中毒 ゲーム中毒)

【付記】

 インターネット中毒に陥ること自体、依存うつと考えてよいのでは? さらに最近の研究によ
れば、うつ病の「根」は、0歳から2、3歳までの、乳幼児期に作られるということがわかってき
た。

 この時期の安定的な家庭環境(とくに母子関係)が、いかに重要であるかは、いまさら、ここ
に書くまでもない。





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●忍耐力

●子どもをよい子にしたいとき 

+++++++++++++

子どもは、使えば使うほど、
よくなる。

忍耐力も、そこから生まれる。

+++++++++++++

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教
えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。

つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてき
た高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校
生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のよう
なものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しかし一度この
時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ドラ
娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるか
らである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねの
けてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー
で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。

話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子ども
にしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負
で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。

幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを
始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛
玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。こんな子ども(年中女児)が
いた。

その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、
その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが
口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、
学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さ
んが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされ
ると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほ
うがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さら
に食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦
労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみ
んなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
(4)生活のルールを守らせる。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、
(6)バランスのとれた生活に心がける。

 ここでいう「バランスのとれた生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をい
う。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。
あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグにな
っている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなる
ほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。





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●退職

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしま
う。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にしてきた人
も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができなくなったとた
ん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということになる。そう
でない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたいこと)
と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、この同一性の
問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、そこにある
のに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになってしまう。何をして
も、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期には、(未
来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に立たされたよう
な状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」ではない。
この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔いしれて、
自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時的に自分をご
まかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分から、「自分は
どうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がついてみた
ら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたような状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。40歳という
年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りといわれる
40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的には、
(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまりそれをしない
まま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。この両者の
間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多くは、(したいこと)
でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。
議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなしていた。その
女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは何もない。が、そ
の女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問題だけ
は、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致させてい
た。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半の人が
そうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで金儲
け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを見出す人も多
い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほど、(酔
い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そのとおり
で、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。その人がその
人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんになって
しまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、公務員であ
るにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個人的
には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題は、それほど
までに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も繰りかえ
すが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできることを考え
る。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名誉や地位にし
てもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。というのも、(す
べきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。その(闘い)なくして、
(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題
とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠のいてしまう。時に、そのため絶
望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を残す
ことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そういう方
でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物というのは、田丸先生の
ような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後はどうあ
るべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うなら、真理
の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、この世界は、本当
に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れてくる。ときどき、自分
が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だからよく
迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論によれ
ば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」とか、
「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいである。子育て
が終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足でやってくる。60代
は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教団に身
を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、その人
は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがてそのまま静か
に自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいるかさ
え、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。しかし食欲だけ
は、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってくる。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、ない。何
かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。毎日、もの
を食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。価
値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きているだ
け。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味する。母は、高
齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、それ
ぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命をみな、負って
いる。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさがそうとし
ても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くもある。20歳から50歳
までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決して、
安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。





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●真・善・美について

++++++++++

2年前に書いた原稿を
そのまま紹介します。

++++++++++


●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。その基盤と
方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。若い人たちは、
真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。その価値がわ
からないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。そしてその価値にひ
れ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そ
うでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。そのときを予想しながら、子ど
もの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。ものを書き始め
たのが、40歳前後。それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったの
は、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかっ
たのか。どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。本当に悔やまれる。もっと早くスタートしていれば、頭の
働きだって、まだよかったはず。どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますます
ボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の
追求を、今から始めてほしい。30代でも、20代でも、早すぎるということはない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息
ばかり。「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。と、同時に、「後悔」のもつ恐
ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。時間や健康、それに
脳ミソの働きには、かぎりがあります。余計なお節介かもしれませんが……。






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●愛他的自己愛(偽善)

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。楽しい。そう感ずる人は、多い。俗に
いう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。しかしそういう人が、本当に他人のことを
思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。自分をよく見せるために、他
人を愛しているフリをしてみせることをいう。しかしフリは、フリ。中身がない。仏教の世界にも、
末那識(まなしき)という言葉がある。無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽
善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズ
ムがある。表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。その人の心を、裏から
操る。そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しか
しそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこ
までも自分勝手でわがまま。「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なの
は、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえ
しになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあ
いだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。町の中で、クラブ制の窯(か
ま)をもっていた。教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれ
よと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、
名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なまま
のはず」「私が才能をみつけてやった」と。そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もく
れない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。が、その
親切は、ある意味で、計算されたものだった。本当に親切であったから、Xさんは、その男性
を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な
陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。Xさんが、「恩知ら
ず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末那識つまり、
自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽
善者の特徴と言いかえてもよい。

(10)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(11)行動がおおげさで、演技ぽい。
(12)行動が、全体に、恩着せがましい。
(13)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(14)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(15)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(16)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(17)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(18)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の
資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。も
ともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のもの
にした。そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。またYさんを、非難しているわけでもな
い。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。またYさんのような
親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。またそれを
生きがいにしていたわけでもない。Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えな
がら、介護の指導員として活動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地
よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんのところへ、ある日、夫が、夫の兄を連れてきた。Yさんの義兄ということになる。この義
兄は、身寄りがなく、それに脳梗塞(こうそく)による軽い障害もあった。トイレや風呂くらいは、
何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態だった。年齢は、73歳。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度
は、義兄を虐待するようになった。風呂の中で、義兄が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、義兄に、バスタブを自分で洗わせた。義兄に対する、執拗な虐待が始ま
ったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日にな
りかけていたが、窓を、開けさせない。風呂に入らせない。義兄が腹痛や、頭痛を訴えても、病
院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶってい
たことがわかったという。姉は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないから
ね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかし
そこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言い方である。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。子どもを1
人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」としてみる。またさ
らには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をする
のは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の
中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。私たちは、ともすれば、「親だ
から、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。しかしこうした(ダカラ論)ほど、
あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も
……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が
基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の
支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。しかし大きくちがう点は、代償的過
保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。子どもが、
自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔する母親た
ちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ
認めていないことが多い。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子ども
の姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。子どもに対する偽善といっ
てもよい。勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。S
S中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わか
っているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。偽善だらけといってもよい。教育システムそのものが、そうな
っている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原
点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。教育イコール、進
学。進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今
でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。数年前も、関東地方を中心にし
た、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であ
るから、そうしているのではない。毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているため
に、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。どの私立中高校も、進学のための特別
クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平
感である。それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかく
も、偽善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。文明という、つまりそれまでの人間が経験し
なかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。スズメたちの世界は、実に単純、わ
かりやすい。礼節も文化もない。スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているの
ではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、
(人間らしさ)を追求してきた。偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間
がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。「私は私であるか」と問うてみ
るのもよい。「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うな
ら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、つい
で、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。悪もある。その悪が、ゴミのよう
に、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構えの一つというこ
とになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論 はやし浩司,幼児
教育,子育て論,育児論,教育評論,評論家,育児評論,育児評論家,子育て評論,子育て問題,育児
問題,子育て)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末が悪
い。






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●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身
を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も
「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに自己
を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに思えるが、その
実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分であ
る部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ど
もがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ど
も自身にはその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親につ
いても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつま
でも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
(031025)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。97年に約2
000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさんがモ
デルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでた
いというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーがで
き、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言え
ば、閉店状態に追い込まれた。

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。

生きることが母体(マトリックス)なのに、働くという仮想現実の世界のほうが、母体だと錯覚し
てしまう。

この日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はいくら
でもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得たと
しても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値と
いうのは、もっと別のことである。

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商5000億円もの売り
上げを記録したというが、そんな必要はなかった。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄
だから自転車は売らない」などと言っていた。仮にその町内で自転車が売れたりすると、夜中
にこっそりと自転車を届けたりしていた。しかしそうした善意など、大型スーパーの前ではひと
たまりもなかった。

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう価値基準で人を判
断することのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考
えるなら、私の父は生涯貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣ることは何もない。お
しんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように富
と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

 名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生きるためには便利
な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を見失う。日本では、
あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたこと
か。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の
関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの
人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

(付記)
 実のところ子どもの世界も同じ。多くの親は、子育ての本分を忘れ、仮想現実の中で子育て
をしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進学だの、
有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこう言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはな
い、と。しかしそれこそまさに「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらの
ほうを「現実」と錯覚してしまう。

が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切なものを大切
でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果として、親子関係を
破戒し、子どもの人間性まで破壊してしまう。自分の人生をムダにしてしまう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

+++++++++++++++

先に書いた原稿と一部ダブりますが
お許しください。

+++++++++++++++

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。97年に約2
000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさんがモ
デルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでた
いというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーがで
き、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言え
ば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来、母体(マトリックス)であ
るはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと錯覚してしまう。

一つの例が単身赴任という制度だ。もう30年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当
時の副学部長だったブレナン教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という
制度があるそうだが、法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにい
た学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外で
はない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物
(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。

私が「何も死んでいないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私が
そのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そ
のときもそうだ。そのときも子ども(小3女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまっ
た。

いや、子どもだけではない。当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソ
や冗談でしているのではない。マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養して
いる女性(20歳くらい)もいた(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。し
かし本当にそうか? 

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団
の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死
んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信者は、どこが違うの
か。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが違うというのか。仮
想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はい
くらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得た
としても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値
というのは、もっと別のこと。地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこなくても
かまわない。そういうものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商5000億円もの売り
上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄
だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内
で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に
気をつかったためである。

しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさ
にめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザー
で地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断す
ることのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考
えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣
ることは何もない。

おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように
富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者という
のは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例だが、2002
年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校である。その説明会
には、定員の約60倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は約6倍という狭き門になっ
た。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステリー状態になる親も続出した。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そのため
の特別講座の説明会を開いた(2002年2月)。入試が終わってから1か月もたっていなかっ
た。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。私も進学塾の世界はかいま見て
いるから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講座を開くようになったかがよく
わかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きるために働く」というレベルを超え
ている。

あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの成功者というの
は、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら「成功」とは何かと
いうことになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネをあげた周囲の
商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあった。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生
きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を
見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたこと
か。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の
関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家
が土建業者から1000万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者は、
その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。

しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから
贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。

たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人
に対してではなく、B氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮
想現実の世界に住んでいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。

しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。た
ぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはいくらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本
分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を
育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわって
いる。ある母親はこう言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはな
い、と。しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そち
らのほうを「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハ
マることによって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでし
まう。そして結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわか
りやすい例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたとき
のこと。私が中学1年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車とい
う意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 
英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。

が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言
う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだったの? これではA
高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、
ムダだったわね」と言う親すらいる。

こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さら
には親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、
そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として
子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまって
いる。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来の
ために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や
高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。

こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生を
ムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚
かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうち
に、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知
ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、2週間という休暇を
与えられたとする。そのとき、(1)休暇は休暇として。そのときを楽しむことができる。(2)休み
が数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことば
かり考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。

あなたの子どもの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、(1)子どもは子どもで、休
みは思う存分、遊べばよい。(2)子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またし
っかり勉強するためだ。

 (1)のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質
は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから
未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば
仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。実際に、「死
に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。

この結果主義もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日
本人が仏教を取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくな
い。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターン
に入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演
算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がいる。

何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八
か所を巡礼して回ることだそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「なら
ば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその
人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大き
い。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅
行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感
の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚
すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と
考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の
映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校
教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるの
は、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過
ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。

だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生き
ることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。

●再起をかけるW氏

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの
人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

いや、実際にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きて
いる人はいくらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。「君は
幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかっ
たのだろう」と。

彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事
もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断す
る。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャ
ード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、1955年にレストランの権利
を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド
氏は、98年の7月に満89歳で他界。)

そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞
いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、
弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、
のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れな
かった人ということになる。

●残る職業による身分制度

私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは
道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、母が言ったこと
は、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけではない。私は自分のした
いこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでもありがた
がる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を必要以上にあ
がめる。

今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最下
位。さらに幼稚園の教師は番外、と。

こうした序列は、何かの会議に出てみるとわかる。一度、ある出版社の主宰する座談会に出
たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横に座った教授とでは、まるで違ったのには驚い
た。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペ
コペコする。こうした風潮は、出版界や報道関係では、とくに強い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・2005)の懇
談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口をす
べらせた新聞社の記者(40歳くらい)がいた。

私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実
の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や肩書きのない
人間を、いつもそういう目で見ている。自分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だか
らそう言った。

が、このタイプの人たちは、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自分の人生を
ムダにしながら、ムダにしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地
域の中高一貫校、約60校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進学
大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それが
実に偽善ぽい。

それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですらある。
子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押し込めようとし
ているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく
 
ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のま
わりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれない
が、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたち
のためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。

 先日、60歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の友
人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のような
人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 生き
る哲学 マトリックスの世界)

【注】

●まちがい(「汝自身を知れ」)

+++++++++++++++++

私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。




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●許して忘れる

●ある相談から(掲示板より)

++++++++++++++++++

スナックで働くようになった娘(中3)
についての相談があった。

++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

はやし先生へ
初めまして。
高校2年、中学3年、小学校1年と3人の娘を持つ母(40才)です。
今回中3の二女のことで、ご相談したくメールさせて頂きました。

毎日、毎日が不安で、子どもにどう向かっていったらいいのか、自分を見失っています。
私は、長女が6才、二女が4才の時に離婚をしました。そして再婚。

主人(34才)は、それは優しく穏やかな人で、何よりも家庭を第一に考えてくれる、すてきな人
です。正式に結婚するまでには、2年ぐらいおつきあいしていたので、子どもたちも、すんなりと
お父さんと呼んでくれました。自分でも仕事をもっていたので忙しい日々でしたが、私の実母が
こどもたちの面倒をみてくれていたので、なんとか乗り越えてきたと思っていました。

二女が、中学に入学し変わっていくまでは・・・。

服装の乱れ、授業態度が悪くなる、部活動をさぼることから始まり、突然の家出。
二女の置き手紙には、自分だけお父さんと話せないのが嫌です。
友達がまだ遊んでいるのに自分だけ帰らなくてはいけないのが嫌です・・・
たくさんの不満がつづられていました。

お父さんも私も、ハッとする所があったと思います。
でもその時の私達は、これ以上娘を悪くさせてたまるか! 絶対目をはなさい。ダメな親だと思
われたくない。すごい意気込みだったと思います。娘の友達の親から、「それじゃあまりにも厳
しすぎて、窮屈でかわいそうだ。」と言われるほどでした。

先生のHPを読ませて頂いて、確信してしまいました。私は、娘に大きなゆがみを与えてしまっ
たことにです。

それから、1年半。坂道をかけ落ちるかのように娘は変わってしまいました。
授業妨害、夜遊び、化粧、タバコ、飲酒、万引き、繰り返す家出・・・。

その都度、担任、学年主任、児童相談所、先輩のお母さんがた・・・。

とにかくたくさんの方々に相談し、毎日、今自分たちにできることはなんなのか?
夫婦で話し合ってきました。そして、娘の帰るべき所、心休まる所を家庭にしようとしてきまし
た。

あの子を理解し、温かい気持ちで包んであげたいと、ただただそれだけを考え、必死でした。

生活態度は、相変わらずですが、娘の私たちに対する態度が明らかに変わり、笑顔での会話
が増えました。家にいることも多くなりました。きっと良い方向に向かうと信じ・・・。

でも、家出したときに世話になった先輩達とスナックで働きたいと言いだしたのは、2週間前の
こと。「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃまをしないで、
高校進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。もう万引きなんてし
ない。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」

もちろん反対しました。説得しました。中学生が夜の世界ではたらくなんて、犯罪じゃないか、
黙認しろなんて・・・このことは、まだ、誰にも相談できずにいます。

玄関に座り込んで、絶対に行かせないって言うべきか、店に乗り込んで、この子はまだ中学生
なので、連れて帰りますと、強行するべきか。何か行動を起して、その結果今度は、どうなって
しまうのか、不安で、怖くて、夜働きにでる娘になにもできないでいます。

私は、どうすべきなのでしょうか。こんなダメな親ですが、あの子が好きです。大切です。文章
がまとまらずすみません。アドバイスを頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

【はやし浩司からUさんへ】

一言で言えば、『許して、忘れなさい』ということでしょうか。あなたの二女は、あなたが考えてい
るより、はるかにおとなですし、すでにあなたの手の届かないところに巣立っています。とても
残念ですが、今、あなたができることは、ほとんどというより、何もありません。

 もしあるとすれば、二女がいつ帰ってきてもよいように、窓をあけ、温かいふとんを用意して
おくことくらいなものです。むしろあなたの心配、不安が、二女を、さらに混乱させる結果となっ
ていることに注意してください。もっと言えば、あなたは二女を、ほとんど信じていない。それが
二女にとっては、不満であり、苦痛なわけです。

 「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃまをしないで、高校
進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。もう万引きなんてしな
い。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」という言葉の中に、今の二女の気持ち
が集約されていると思います。

 今、大切なことは、今の状態をこれ以上悪くしないこと。現状を受け入れ、あきらめ、この段
階で、ストップをかけることです。今、ここで「スナックで働くのを阻止する」という行動に出れ
ば、二女は、さらに、そのつぎのステップへと進んでしまうでしょう。あなたは今の状態を、ドン
底と考えているようですが、そのドン底にはさらにつぎのドン底があるということです。

 (本当は、ドン底でも何でもないのですが……。)

 ちょうど半年ほど前にも、たいへんよく似たケースを経験しました。相談をしてきたのは、中3
の男子をもつ母親でした。その男子が、ガールフレンドの家で寝泊まりするようになってしまっ
たというのです。

 相手の女子の親は、「もし反対すれば、娘もいっしょに家出してしまうかもしれない」ということ
で、その男子と同居させていました。(マガジンの過去版で、それについて書いたことがありま
す。)

 こういうケースでも、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて対処する」が鉄則で
す。「なおそう」とか、「もとに戻そう」と考えて行動すればするほど、二番底、三番底へと落ちて
いきます。(本当は、落ちるのではありませんが……。親から見ると、そう見えるだけの話です
が……。)

 子どもの巣立ちのし方には、いろいろあります。どういう巣立ちのし方をするかは、その子ど
もが決めます。しかもその巣立ちのし方は、必ずしも、美しいものばかりではありません。で
は、どうするか。

 ここまできたら、腹を決めなさい。覚悟しなさい。ジタバタしないで、あなたは自分の子どもを
信じて、一歩、引きさがりなさい。今は、中3ですが、あとは時間が解決してくれます。

 先の男子のケースもそうですが、その男子は、母親にこう言っていました。「迎えに来たら、お
前をぶっ殺す」と。が、その男子は、入試直前に家にもどってきました。そして今は、何ごともな
かったかのように、高校に通っています。

 「あなたはあなたの道を行きなさい」「お母さんは、あなたを信じていますからね」と、一度、肩
をたたいてあげる。同時に、あなたは、今の苦しみから解放されます。『あきらめは悟りの境
地』という格言を考えたこともあります。

 子どもは、許して忘れる。あとは時の流れに任せて、あきらめる。その度量の深さが、あなた
という親の「愛」の深さを決めます。今こそ、正念場ですよ。スナック勤務を勧めるわけではあり
ませんが、職業に偏見は禁物です。

 あなたにすれば、「どうしてうちの子が!」ということになりますが、いまどき、この種の問題
は、珍しくも何ともありません。あなたの町のあなたの町内でも、あるいはあなたの近所でも、
日常茶飯事として起きていることです。

 二女は、ふつうの子ども以上に、常識豊かな子どもとなって、必ず、あなたのところに戻って
きますよ。二女は二女なりに、今、自分さがしの旅に出たのだと思ってください。忘れていけな
いのは、あなたが苦しんでいる以上に、あなたの二女もまた、苦しんでいるということ。加えて、
親の束縛感、重圧感、(これらをまとめて自我群と言いますが)、それにも苦しんでいます。

 あえて言うなら、そこまで自分のことを考えている子どもという点で、すばらしい子どもではあ
りませんか。今、あなたたちは、たがいにキズつけあっているだけ。どうして愛し合っていなが
ら、そんなことをするのですか?

 くりかえしますが、あなたが二女を信じているかぎり、またその気持ちが二女に伝わっている
かぎり、二女は、今の段階で自分をもちなおし、時期がきたら、必ず、あなたのところへもどっ
てきます。

 だから今すぐ、あなたは二女にこう言ってあげなさい。「お母さんは、どんなことがあっても、
あなたを守ってあげるからね。いつでも、好きなときに、もどってきてね」と。

 『許して忘れる』について書いた原稿を添付します。私はこの原稿を書いているとき、一行ご
とに、大粒の涙を流しました。今でもそのときのことをよく覚えています。

++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分
を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではな
い。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園する
ころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には3人の息子がいるが、そのうちの2人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。

あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、
昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、3歳にな
ったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の2人の息子たちが流
れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。

英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも
訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために
許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、
子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。

そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん
許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子どもの言い
なりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがま
まに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があっ
たとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

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もう一作、似たような原稿ですが……。

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【子育てのすばらしさを教えられるとき】

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。

 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのような
ものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自
分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していてもいつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。

 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし
子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見
せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者
なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。で
きないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版である
にせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者
 
たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大き
くすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、
矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さ
にもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。

 子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。







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●フェムト秒

++++++++++++++

フェムト秒という単位を
知っているだろうか?

1秒を、10の15乗で割った
短い時間を、1フェムト秒と
いう。

++++++++++++++

 フェムト秒という、時間の単位を知っているだろうか? 1秒を、10の15乗で割った短い時
間を、1フェムト秒という。わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10
の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。

反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒というの
は、この地球上では、3100万年分に相当する。(3100万年だぞ!) 数字を見ただけで、気
が遠くなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。(私が計算した数字なので、まちが
っているかもしれない。必要な方は、自分で計算してみたらよい。)

 現在では、そのフェムト秒単位で、分子の動きを追いかけたり、観察することができるように
なったという。このことを逆に考えると、分子の世界では、フェムト秒単位で、ものごとが動いて
いるということになる。

 話はずっと飛躍するかもしれないが、こうして考えてみると、私たちが考えている(時間の概
念)ほど、アテにならないものはないということになる。私たちがいう1時間、1分、1秒というの
は、それはあくまでも人間が日常生活の中で感ずる概念でしかない。

 たとえば私たちが感ずる1秒という時間の間に、分子の世界では、3100万年に相当する時
間が流れている。極端な言い方をすれば、そういうことになる。

 こうした時間の概念に、哲学的な視点からメスを入れたのが、あのマルティン・ハイデガー(1
889〜1986)である。彼が書いた『存在と時間』(1927年)は、ヘーゲルの書いた『精神現象
学』と並んで、哲学の世界では、最重要文書の一つに考えられている。

 ハイデガーによれば、人間そのものが、時間性をもっているということになる。つまり私たち
は、時間の中で生きているのではなく、生きていること自体が、(時間)であるということになる。
ハイデガーは、それを「死」と結びつけて考えた。「私たちが存在には、常に死が張りついてい
る」と。

 このことは、介護施設にいる老人たちを見ていると、わかる。昨日も母を見舞うついでに、デ
イ・サービスを受けている老人たちの部屋を見た。老人たちは、小さな紙に、ぬり絵をしてい
た。

 小さな紙である。そこに何匹かの動物が描かれていて、老人たちは、それに色を塗ってい
た。それは恐ろしくのんびりとした世界であった。私なら、数分もあれば、色を塗ってしまうだろ
う。そういうぬり絵を、1時間とか、あるいは2時間とか、そんな時間をかけて、塗る。

 それは私にとっては、衝撃的な光景でもあった。私の世界では、つまり私が見慣れた世界で
は、時間と私は別のものである。朝、6時に起きる。朝、7時に朝食をとる。朝、8時に散歩に
出かける。

 しかし老人たちの世界では、私の世界とはまったく別の時間が働いている! 働いていると
いうより、老人たちは老人たちの時間の中で、生きている。ということは、同時に、私たちもま
た、私たちの時間の中で生きているということになる。

 私たちがもつ時間は、決して絶対的なものではない。そのことは反対に、子どもたちの世界
をのぞいてみると、わかる。子どもたちは、子どもたちの時間の中で生きている。頭の回転も
速い。気分の転換も速い。

 単純に考えれば、つまりあまりにも常識的に考えれば、子どもたちの頭の回転は速く、老人
たちの頭の回転は、遅いということになる。しかしこうした見方は、あまりにも(作られた常識)
でしかない。「そこにものが見えるから、ある」と考えるのと同じくらい、単純な常識ということに
なる。

 「単純」というのは、「あまりにも表面的な」という意味である。

 そこでハイデガーがヒントを与えてくれたように、「生きていること自体に、時間性がある」と考
えてみる。そうすると、ものの考え方が一変する。わかりやすく言えば、「生きていること自体
が、時間」ということになる。

 たとえばもう一度、デイ・サービスを受けている老人たちをながめてみよう。その老人たちは、
その老人たちの時間性の中で生きている。私たちからすれば、恐ろしくのんびりとした世界に
見えるかもしれない。が、老人たちは老人たちの時間の中で生きているから、自分では、決し
て、のんびりしているとは思っていないはず。

 ひょっとしたら、そんなぬり絵をしながらも、「忙しい」と思っているかもしれない。

 この時間性は、加齢とともに、さらに長く、間がのびたものになる。その間がのびきったとき、
人は、「死」を迎える。つまり死などというものは、ある日突然やってくるものではない。それぞ
れのもつ時間性が、のびきったとき、死がやってくる。言いかえると、老人たちは老人たちで生
きているつもりかもしれないが、すでに限りなく死に近づいているということになる。

 わかりにくい話になってしまったが、極端な例として、こう考えてみるとよい。

 もし私たちがフェムト秒単位で生きることができるとしたら、私たちは、この世界でいうところ
の1秒で、3100万年分の人生を送ることができる。この世界で1秒といえば、瞬間だが、しか
し中身は3100万年分。恐竜の時代にまでは届かないが、人間が小さな哺乳動物だった時代
からの人生を生きることができる。

 どちらの人生が長いかということになれば、たとえこの世界で1秒という時間ではあっても、こ
の世界で100年生きた人よりも、はるかに長く生きることになる。

 そこでまたまた話は飛躍するが、「生きることは時間性の問題である」と考えていくと、「生き
ることは、時間との闘いである」ということにもなる。もっとわかりやすく言えば、「私たちの張り
ついた死」(ハイデガー)という限界状況の中で、いかに、その死と闘いながら生きていくかとい
うこと。

 つまりそこに人間の生きる意味がある。さらにさらにわかりやすく言えば、だらだらと、だらし
ない人生を生きたところで、そういう生き方には、意味はないということ。意味はないと言い切
るのは正しくないかもしれないが、それに近い。それこそ与えられた命を、無駄にして生きるこ
とになる。

 1フェムト秒単位で生きることは無理であるとしても、同じ1秒を、1分、あるいは10分に拡大
して生きることは可能である。ばあいによっては、1時間に拡大することもできる。

「生きていること自体に、時間性がある」という意味がわかってもらえれえば、うれしい。
(2007年6月15日記・(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 時間性 生きることの時間性 ハイデガー)

+++++++++++

02年(5年前)の9
月に書いた原稿を添付
します。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジョ
イントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル
賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 

今は固体表面に吸着した分子1個1個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(1秒を10で15回繰り返して割った短い時間)で、その挙動を追っ
かけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。ただ、(1)の
分子を見ることについては、もう20年前から技術的に可能という話は聞いていたので、「へえ」
という驚きでしかなかった。

しかし「フェムト秒単位の観察」というのには驚いた。わかりやすく言うと、つまり計算上では、
一フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。反対に言え
ば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒というのは、この地
球上の3100万年分に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、一フェムト秒と
いうのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考えざるを
えなくなってしまう。もし人間が、一フェムト秒を、一秒にして生きることができたら、そのたった
一秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だった。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ
チガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球
の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年も
かかる。しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たち
がゆっくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然
に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、
あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上
の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、カチカ
チカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、もしフ
ェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100万年を過
ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、いつ、どのよう
にして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし
てそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでい
う時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。

たとえばロケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。しかしその宇宙の果てに近づ
けば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っている人の動きは、(たとえば
地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払い
する間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰
り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそ
ばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。私のような素人でもわかること
は、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人間にあてはめてみると、よくわか
る。

たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすること
ができる人がいる。反対に10年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりや
すく言うと、不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その1年を、ほかの
人の30年分、40年分に生きることも可能だということ。

反対に、「平均寿命まで、あと30年。あと30年は生きられる」と言われながらも、その30年
を、ほかの人の数日分にしか生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういう
ものらしい。いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万
年分の人生を送ることができたらと思う。

もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、た
ったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年
と計算して)、あと60年分、生きることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児が
過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間の
単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる一秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日で
も、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもしれな
い。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●またまたフェムト秒

+++++++++++++++

庭に、このところスズメバチが
よくやってくる。

近くに巣を作ったらしい。
気をつけよう!

+++++++++++++++

 庭に、このところスズメバチが、よくやってくる。近くに巣を作ったらしい。気をつけよう。私は、
今度ハチに刺されたら、そのまま死んでしまうかもしれない。

 で、そのスズメバチを見ていて、こんなことを考えた。

 スズメバチというのは、(何もスズメバチにかぎらないが)、動きが速い。チョコチョコと、葉か
ら葉へと動きまわる。それを見ながら、私は、では、人間と比較して、どれくらい速いかを考え
てみた。

 たとえば、一枚の葉から別の葉に移るときの動作を観察してみよう。人間で言えば、ヘリコプ
ターを操縦して、一つの着陸地点から別の着陸地点に移る動作にたとえられる。実際に計測し
たことはないので、正確な数字はわからないが、スズメバチは、それを、2〜3秒の間にやって
のける。

 しかしヘリコプターだと、どんなに早くても、(舞い上がる高度にもよるが)、数分以上はかか
る。つまり、スズメバチのほうが、人間よりも、100倍近く速く、行動しているということになる。

 ということは、スズメバチたちは、人間世界でいうところの1秒を、100秒にして生きていると
いうことになる。さらに言えば、彼らの1日というのは、人間世界でいうところに100日というこ
とになる。また彼らの1年というのは、人間でいうところの100年ということになる。

 どこかメチャメチャな計算だが、しかしもともと「1秒」という人間が決めた単位にすぎない。ス
ズメバチの時間をみるほうが、おかしい。フェムト秒という単位がある。その単位でみれば、人
間世界でいうところの1秒は、3100万年(3100万年だぞ!)に相当する。

 もし人間がフェムト秒単位で生きることができるようになったとしたら、人間は、1秒を、3100
万年にして生きることができる!

 わかるかな? 1秒を、3100万年だぞ!

 スズメバチが飛ぶのを見ていると、目にも止まらない速さで、羽をはばたいているのがわか
る。しかし彼らにしてみれば、そよ風の中で揺れる葉のようにして、羽をはばたいているのかも
しれない。フワフワと、だ。

 もともと彼らがもつ時間性と、私たち人間がもつ時間性とは、ちがう。さらにこんなことも言え
る。

 先日、この日本で、「量子コンピュータ」なるものが開発されたという(読売新聞)。それによれ
ば、スーパーコンピューでさえ、1000万年かかる計算を、数10秒で解くことができるという。

 わかるかな?

 スーパーコンピュータでさえ、1000万年もかかる計算を、何と、数10秒で解くという。もし、
そんな能力をもったロボットが現れたら、そのロボットは、人間世界でいうところの1秒を、それ
こそ1000万年分にして生きることができるということになる。

 実際には、スーパーコンピュータでさえ、人間の能力をはるかに超えている。卓上にある電卓
にしても、掛け算や割り算など、あっという間にしてのける。だから実際には、そのロボットは、
それこそフェムト秒単位で生きることができるようになるかもしれない。

 ……というような話は、決して、デタラメでも、空想話でもない。さらにダメ押しとして、それが
わからなければ、あなたも一度、特別養護老人ホームをのぞいてみたらよい。

 あの老人ホームでは、老人たちが、1日を、あたかも、1分か2分かのようにして生きている。
何をするでもなし、ただ空中をみつめたまま、その日、その日を過ごしている。私たちのもつ時
間性と、老人たちのもつ時間性は、明らかにちがう。

 先週より、「時間性」の問題について考えてきた。この話が、少しは、みなさんの時間性の理
解につながれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 時間
性)






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●学力

+++++++++++++

子どもの学力は、
現在、どの程度なのか?

+++++++++++++

 先日の新聞にも、子どもの学力についての投書が載っていた。どこかの学習塾で講師のア
ルバイトをしている大学院生のものだが、「基礎学力の低下予想以上に深刻」(Y新聞朝刊)
と。「まず驚いたのが、中学生でも掛け算の九九を完全にマスターしていない生徒が散見され
ることだ」そうだ。

 実際、子どもたちの学力の低下には、ものすごいものがある。少し前も、小学5年生に、公倍
数と公約数を教えたが、(今ではこの単元は、小学6年の2学期に学ぶことになっている)、掛
け算の九九があやしい子どもが、20%近くもいる。「三・九、24」(本当は、三・九、27)と平気
で言ったりする。

小学二年で、掛け算の九九を勉強したから、以後、子どもたちが掛け算の九九はできるように
なったハズと考えるのは、まったくの誤解。幻想。5年生だから、掛け算の九九ができるハズと
考えるのも、まったくの誤解。幻想。

以前、掛け算の九九がまだできない中学生が、15〜20%もいるという話を聞いたことがある
※。私の実感でも、それくらいはいる。(ただ、どの程度をできる、どの程度をできないという
か、その判断の基準がむずかしい。)

 話は変わるが、私はこの35年間、何らかの形で、英語とは深いつながりをもって生きてき
た。そういう自分を振り返っても、30歳以後に覚えた単語は、ほとんど記憶に残っていない。
覚えるには覚えるのだが、すぐ忘れてしまう。反対に20歳前後に覚えた単語は、今でもしっか
りと頭の中に残っている。

しかしこれは私という、「おとな」の話。脳細胞の老化現象が原因だという。その老化現象に似
た現象が、子どもでも起きている?

 そこで改めて調査してみた。もともと私の教室へきている子どもたちは、教育環境的にはレ
ベルの高い子どもが多い。しかしそんな子どもでも、小学3年生で、約20%は、掛け算がまだ
あやしい。掛け算の九九は何とか言えても、「三・八?」と聞いたとき、とっさには答えられない
子どもも含めると、もっと多い。

多くの親たちは、「うちの子は小学2年のときには、掛け算の九九がスラスラと言えたから、もう
掛け算はマスターしたはず」と考える。しかしこれも誤解。幻想。今の子どもたちは、数か月も
すると、学んだことそのものまで忘れてしまう。つまりそれだけ覚え方が浅い? 脳にきざまれ
ていない? それとも老化現象に似た現象がすでに始まっている? 理由はよくわからない
が、ともかくも、そういうことだ。

 しかし、だ。これはほんの一例にすぎない。今、あらゆる面で、子どもの学力は低下してい
る。知識や、知力だけではない。「自ら学ぶ力」そのものまで低下している。言われたことや、
教えられたことはきちんとできるが、その範囲をはずれると、まったくできない。考えようともし
ない。先のクラスでも、最後に私はこんな問題を出してみた。

 「30から50までの中に、3と5の公倍数はいくつあるか」と。10人の子どもがいたが、何と
か、考えるそぶりを見せたのは、たったの1人。あとは、「そんな問題、知らない」「解き方を学
んでいない」「めんどくさい」と、問題そのものを投げ出してしまった。

公倍数など、どうでもよいといった様子を見せた子どももいる。言いかえると、今、子どもに教
えるとき、その動機づけをどうするかが大切。ここをいいかげんにすますと、教える割には、効
果がない。……などなど。

 話が三段跳びで飛躍するが、こうした学力低下の背景にあるのは、結局は、飽食とぜいたく
の中で、子どもを甘やかしてしまったこと。「腹、減ったア!」と叫べば、みなが何とかしてくれ
る。それと同じように、「わからなイ〜」「この問題、解けないイ〜」と叫べば、みなが何とかしてく
れる。そういう環境の中で、子どもたち自身が、自分を見失ってしまった。

 もっともオーストラリアあたりでは、中学1年で、2桁かける2桁の掛け算を学んでいる。日本
では小学三年生のレベル(01年度までの旧学習指導要領)。掛け算の九九ができないからと
いって、教育水準が低いということにはならない。

 しかしオーストラリアのばあいは、科目数そのものが多い。どこのグラマースクール(中高一
貫寄宿学校)でも、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、
日本語の五つの言語の中から選択できるし、芸術にしても、音楽、ドラマ、絵画などが、それぞ
れ独立した科目になっている。

環境保護の科目もあれば、キャンピングという科目もある。もちろんコンピュータという科目も
ある。数学は、日本と違って、あくまでも教科の一部でしかない。つまりそういう違いも考慮する
と、やはり日本の子どもたちの学力の低下は異常である。
(02−9−18)※
 
※(参考)……東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。
教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、

小学6年生で、80・8%から、61・7%に低下。
分数の割り算は、90・7%から66・5%に低下。
小数の掛け算は、77・2%から70・2%に低下。
たしざんと掛け算の混合計算は、38・3%から32・8%に低下。
全体として、68・9%から57・7%に低下している(同じ問題で調査)、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力
 子供の学力 学力低下)




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●時間性(2)

+++++++++++++++++++++

このところずっと、「生きることの時間性」に
ついて考えている。

私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を
別々のものと考えている。

しかし、生きることイコール、時の流れでは
ないのか? 

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 目の前に、私のパソコンがある。モニターがある。19インチワイドのモニターである。そのモ
ニターを見ながら、私は、こう考える。「本当に、そこにモニターがあるのか?」と。

 私が見ているモニターの像というのは、あくまでも光の集合体でしかない。その光の集合体を
目の網膜がとらえ、脳はそれを電気的信号に変え、大脳の後頭部に伝える。大脳の後頭部に
は、パソコンのモニターと同じようなモニター(視覚野)がある。そのモニター(視覚野)に、その
像が映し出される。

 私たちが見ている像は、そのモニター(視覚野)に映った像にすぎない。

 が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、モニター(視覚野)に映った
像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わない。思わないまま、目の前に、パソコンのモニ
ターがあると、そのまま信じてしまう。

 同じように、私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を、別々のものと考える。わかりやすく言
えば、「時計」と「生活」の関係といってもよい。

 朝6時半に目覚まし時計が鳴る。それを見て、起きる。朝7時になると、ワイフが朝食の用意
をし始める。私は居間におり、身じたくを整え、ついでに庭にある畑に水をまく。

 つまり「時の流れ」を、「時計」に集約させることによって、「生きること」から切り離してしまう。
しかし考えてみれば、時計とて、「時の流れ」に合わせて動くようにできた機械でしかない。時計
イコール、「時の流れ」ではない。

 そこで私自身について考えてみよう。

 若いころ、それは私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのこと。私は1日を、それま
での1年のように長く感じたことがあった。決しておおげさなことを言っているのではない。その
ときは、本当にそう感じた。

 こうした感覚は、私だけのものかと思っていたが、私の三男が、自分のBLOGに同じようなこ
とを書いているのを知って驚いた。三男もまた、あるとき、「1日を1年のように長く感ずる」と書
いていた。

 つまり、充実した生活をしていると、ときに人は、1日を、1年のように長く感ずることがある。
このことは、老人ホームかどこかで生活している老人たちと対比させてみると、よくわかる。

 老人ホームでは、老人たちは、毎日、同じ生活を繰りかえしている。で、今日も、私は母に、
こう聞いてみた。

私「何か、したいことはあるか?」
母「何も、ない」
私「何か、ほしいものはあるか?」
母「何も、ない」
私「だれかに会いたいか?」
母「お前に会いたい」と。

 母にしてみれば、明日も、今日と同じ。明後日も、今日と同じということになる。つまりそういう
生活では、逆に、1年が1日になってしまうかもしれない。あるいは母が、「老人ホームでは、1
年を1日のように短く感ずる」と言っても、私は、驚かない。「そうだろうな」と納得する。

 つまり「生きること」には、その人のもつ「時間性」が深くからんでくる。からんでくるというより
は、生きることイコール、時間性と考えたほうが、ずっとわかりやすい。同じ1時間でも、充実し
た生活をしている人にとっては、1日分の密度がある。反対に、そうでない人にとっては、同じ1
日でも、1時間分の密度しかない。

 時計が示す「時間」に、だまされてはいけない。時計が24時間を示したからといって、1日を
過ごしたことにはならない。が、私たちは、時計だけを見て、1日が過ぎたと思う。……思ってし
まう。

 そこでもう一度、「時の流れ」について、考えなおしてみよう。時計の単位としては、(秒)があ
り、(分)があり、(時)がある。しかしその時計の単位ほど、あてにならないものはない。ないこ
とは、あのA・アインシュタインが証明している。

 地球上の1年にしても、光速に近い運動をしている世界では、数秒にもならない。反対に、地
球上の1秒といっても、別の天体の、別の惑星では、1年分に匹敵(ひってき)するかもしれな
い。

 時の流れに、もともと絶対的な単位などないのである。

 ということは、「時の流れ」を決めるのは、その人自身の「生命そのもの」ということになる。こ
こでいう「生きること」ということになる。もっと言えば、「生きること」イコール、「時の流れ」、「時
の流れ」イコール、「生きること」ということになる。

 物理学の世界では、「時そのものがエネルギー」と説くが、それと同じに考えてよい。私たち
は時の流れがもつエネルギーによって、生きている。生かされている。

 話がわかりにくくなってきたので、簡単な例で、もう一度、考えてみよう。

 たとえばあなたが今、死の宣告を受けたとする。「あと1か月の命です」と宣告されたとする。
もしそういう状態になったら、あなたは、どう行動するだろうか。どう反応するだろうか。

 たいていの人は、(ひょっとしたら私もそうかもしれないが)、自分の命の短いことを嘆き悲し
み、死の恐怖におびえながら、悶々とした日々を過ごすだろう。しかし中には、その1か月の間
に、眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人もいる。

 そういう人にしてみれば、つまり眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人にしてみれば、
その1か月を、1年、あるいは10年のようにして生きることができるかもしれない。懸命に生き
るというその姿勢が、時の流れを、何十倍も長くする。

 あのマルティン・ハイデッガーが言った、「時間性」というのは、そういう意味である。そこで、こ
う考えてみたらどうだろうか。

 「あと1か月の命です」と言われれば、だれしも驚き、それを悲しむ。しかし「あと20年の命で
す」と言われて、それを驚き、悲しむ人はいない。しかし現実には、もうすぐ60歳になる私にし
てみれば、私の寿命は、長くて、あと20年そこそこということになる。あるいは、事故か病気
で、それがぐんと短くなるかもしれない。

 つまりハイデッガー風に、そこに「死」の存在を積極的に受け入れて生きる。20年そのもの
を、短いと感じて生きる。寿命は、寿命だ。とたん、それまで見えていなかった世界が、そこに
姿を現す。

 それは驚くべき世界と言ってもよい。人によっては、ものの見方、価値観が、180度、ひっくり
返るかもしれない。一瞬、一秒が、とてつもなく貴重なものに見えてくる。その一瞬、一秒の中
に、「生きること」を感ずるようになる。

 このエッセーの冒頭で、私は、こう書いた。「が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えてい
るため、だれも、モニター(視覚野)に映った像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わな
い。思わないまま、目の前に、パソコンのモニターがあると、そのまま信じてしまう」と。

 同じように、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、「生きること」イコー
ル、「時の流れ」、「時の流れ」イコール、「生きること」とは考えない。時間と生きることを切り離
してしまう。そして無益だろうが有益だろうが、1年生きたという時計的な数字を見ただけで、1
年を生きたと思いこんでしまう。

 しかしそんな尺度で、自分の人生を評価することは、バカげている。自分の人生を考えること
は、バカげている。

 大切なことは、今の、この一瞬、一瞬を、1年のように長く、あるいは10年のように長く生きる
こと。その努力だけは、いつも忘れてはならない。

 それがここでいう「時間性」の問題ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 時間
性)


+++++++++++++++

なぜここで「時間性」を問題にするか。

言うまでもなく、その「時間性」の
中にこそ、より有意義な人生を送るための
方法を示す、ヒントが隠されている
からである。

少し別の角度から、この問題について
考えなおしてみたい。

+++++++++++++++

●子どもの自我

 ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その
30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。話そのものがかみあわない。どこかヘラ
ヘラしているだけといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日
で5万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今の
S氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間
の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ
る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ
ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分
からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。
それが「結果」として表れてくるからだ。先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないか
もしれないが)、今のS氏は、この三〇年間の生きざまの結果でしかない。

 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」
と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。






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【子育て談話】

【子育て・あれこれ】

●寸劇指導法

 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。

こういうことを言っても、言う親の気休め程度の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを
○○君にもっていってあげてね。○○君は喜ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わ
りの会で先生が何と言ったか、あとでママに話してね」と言いかえる。「交通事故に気をつける
のですよ」というのもそうだ。

 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。

……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦しみな
がら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれない
が、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればある
ほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくなる。

 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●性格は化学反応

 子どもの性格は、環境によって大きな影響を受ける。ここにあげるのは、あくまでも一般論だ
が、たとえばつぎのようなものがある。

(1)ケチの長男、ズボラな二男……一般的に長男や長女は防衛に回ることが多く、そのため
ケチになりやすい。それに反して二男や二女は、モノにこだわらなくなり、気前よくなったり、ズ
ボらになったりしやすい。
(2)男一人と、女一人は、ともに一人っ子……男の一人と、女の子一人の家庭では、ともに一
人っ子の性格をもちやすいことを言ったもの。ともにわがままで、社会性がなくなるなど。反対
に双子というのは、互いによい影響を受けやすく、社交的で活発になる。
(3)女二人は憎しみ相手……年齢の近い姉妹は、互いにはげしいライバルになりやすく、ばあ
いによっては、互いに憎しみあうことがある。私の知人の娘たちだが、一人の男性をとりあっ
て、まさに殺し合い寸前までのことをしたという。
(4)年上の姉と甘えん坊……年上のめんどうみのよい姉がいると、下の弟は、二人の母親を
もったような状態になり、甘えん坊になりやすいことを言ったもの。
(5)足して二で割ると、平均児……兄弟や姉妹では、互いにできふでき、性格などが正反対に
なりやすいことがある。兄には神経質に手をかけすぎたり、反対に弟は放任したりすることなど
によるが、そういうとき親はよくこう言う。「足して二で割れば、お互いに平均児なんですけどね
エ」と。
(6)年の近い姉は、男まさり……男の間でもまれて成長すると、女の子も男まさりになったりす
る。そのときでも、すぐ下に弟がいたりすると、さらに男まさりになったりする。いわゆる姉御(あ
ねご)タイプになりやすい。
(7)末っ子は甘えん坊……末っ子が甘えん坊になるのは、親側に、「この子が最後だ」という
思いが強いからである。そのため、どうしてもあれこれ手をかけてしまう。また親側にも、子育
ての余裕ができ、子どもをより広い包容力で包むことができる。そのため末っ子は甘えん坊に
なりやすい。つまり依存心がつきやすい。
(8)まん中の子は、人なつっこい……兄弟や姉妹が三人以上いると、まん中の子どもは、愛情
不足から、人なつっこくなりやすい。しかしその反面、心を許さないという面もある。
(9)総領の甚六……長男や長女は、それだけ期待もされ、手もかけられて育つため、おっとり
とした性格になることを言ったもの。つまりそれだけできが悪くなることを言ったもの。

 これらは冒頭に書いたように、あくまでも一般論である。子どもというのも、置かれた環境の
中で、長い時間をかけて性格がつくられていく。そういう面はたしかに否定できない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●子どもの性質

 子どもにも生まれつきの性質というものがある。その一つが、敏感児と鈍感児(決して頭が鈍
感という意味ではない)。

たとえばA子さん(年長児)は、見るからに繊細な感じのする子どもだった。人前に出るとオドオ
ドし、その上、恥ずかしがり屋だった。母親はそういうA子さんをはがゆく思っていた。そして私
に、「何とかもっとハキハキする子どもにならないものか」と相談してきた。

 心理反応が過剰な子どもを、敏感児という。ふつう「神経質な子」というときは、この敏感児を
いうが、その程度がさらに超えた子どもを、過敏児という。敏感児と過敏児を合わせると、全体
の約30%の子どもが、そうであるとみる。

一般的には、精神的過敏児と身体的過敏児に分けて考える。心に反応が現れる子どもを、精
神的過敏児。アレルギーや腹痛、頭痛、下痢、便秘など、身体に反応が現れる子どもを、身体
的過敏児という。A子さんは、まさにその精神的過敏児だった。

 このタイプの子どもは、(1)感受性と反応性が強く、デリケートな印象を与える。おとなの指示
に対して、ピリピリと反応するため、痛々しく感じたりする。(2)耐久性にもろく、ちょっとしたこと
で泣き出したり、キズついたりしやすい。(3)過敏であるがために、環境になじまず、不適応を
起こしやすい。集団生活になじめないのも、その一つ。そのため体質的疾患(自家中毒、ぜん
息、じんましん)や、神経症を併発しやすい。(4)症状は、一過性、反復性など、定型がない。
そのときは何でもなく、あとになってから症状が出ることもある(参考、高木俊一郎氏)。A子さ
んのケースでも、A子さんは原因不明の発熱に悩まされていた。

  ……というようなことは、教育心理学の辞典にも書いてある。が、こんなタイプの子どももい
る。

見た目には鈍感児(いわゆる「フーテンの寅さん」タイプ)だが、たいへん繊細な感覚をもった
子どもである。つい油断して冗談を言い合っていたりすると、思わぬところでその子どもの心に
キズをつけてしまう。

ワイワイとふざけているから、「ママのおっぱいを飲んでいるなら、ふざけていていい」と言った
りすると、家へ帰ってから、親に、「先生にバカにされた」と泣いてみせたりする。

このタイプの子どもは、繊細な感覚をもちつつも、それを茶化すことにより、その場をごまかそ
うとする。心の防御作用と言えるもので、表面的にはヘラヘラしていても、心はいつも緊張状態
にある。先生の一言が思わぬ方向へと進み、大事件となるのは、たいていこのタイプと言って
よい。

その子ども(年長児)のときも、夜になってから、親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。
「母親のおっぱいを飲んでいるとかいないとか、そういうことで息子に恥をかかせるとは、どうい
うことですか!」と。敏感かどうかということは、必ずしも外見からだけではわからない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●伸びる子ども、伸び悩む子ども

「あなたはどんどん伸びる」「あなたはすばらしい子になる」と。そんな前向きな暗示が子どもを
伸ばす。実際、前向きに伸びていく子どもは、やや自信過剰なところがあり、挫折しても、それ
を乗り越えてさらに前に進んでいく力をもっている。

そういう意味でも、この時期、とくに幼児期から少年少女期にかけては、子どもはやや自信過
剰なほうが、あとあとすばらしい子どもになる。

 反対に子どもの「力」をつぶしてしまう親がいる。力というより、伸びる芽をつんでしまう。過関
心や過干渉など。親はよく、「生まれつき……」という言葉を使うが、生まれつきそうであるかど
うかは、神様でもわからない。(それとも、あなたは赤ちゃんを見て、それがわかるというのだろ
うか?)そういう子どもにしたのは、親自身にほかならない。

そこで伸びる子どもと、そうでない子どもを分けると、つぎのようになる。

●伸びる子ども……ものごとに攻撃的かつ積極的。「やる」「やりたい」という言葉が、子どもの
口からよく出る。現実感が強く、ものの考え方が実利的になる。頼れるのは自分だけというよう
な考え方をする。ほしいものがある。目の前にはお金がある。こういうときセルフコントロール
ができ、自分の行為にブレーキをかけることができる。自制心が強く、そのお金には手を出さ
ない。将来性のある創造的な趣味をもつ。たとえば「お金をためて楽器を買う。その楽器でコン
クールに出る」「友だちの誕生日のプレゼント用に、船の模型を作る」など。前向きに伸びようと
する。

●伸び悩む子ども……ものごとに防衛的かつ消極的。「いやだ」「つまらない」という言葉が多
い。ものの考え方が非現実的になり、空想や神秘的なものにあこがれや期待を抱いたりする。
一時的な快楽を求める傾向が強く、趣味も退行的かつ非生産的。たとえば意味もないカードや
おもちゃをたくさん集める、など。もらった小遣いも、すぐ使ってしまう。衝動性が強くなり、ほし
いものに対して、ブレーキをかけられない。盗んだお金で、ほしいものを買っても、欲望を満足
させたという喜びのほうが強く、悪いことをしたという意識がない。






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●家庭は兵舎

++++++++++++++

世の男たちよ、あなたがもっている
「家庭観」を少しは疑ってみたらよい。

家庭は、なくてはこまるものだが、
しかしそこは決して安住の場では
ない。

とくに女性たちにとっては、
そうである。

++++++++++++++

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。

「育児で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。
が、最大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。あ
る男性は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なの
か」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、1、2年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。

これも私の経験だが、私も若いころは、生徒たち(幼児、40〜100人)を連れて、季節ごとに、
キャンプをしたり、クリスマス会を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、3
5歳を過ぎるころから、それができなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。

たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の中における、自己愛の喪失を例にあげている。自
己愛は軽蔑すべきものだが、しかしその自己愛がまったくないというのも、問題である。つまり
一般世間から、隔離された状態に長くいると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失す
るという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。

その前の段階として、冷淡、無視、育児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査
によっても、約40%の母親たちが、子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのが
わかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もし
くは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数
字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」など
の17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しば
しばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの九%、「虐待傾向」が、30%、「虐待な
し」が、61%であったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。


●悪しき「家庭論」

「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから大
半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なおさ
らである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛である。

Aさん(34歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家庭
は兵舎 窒息する母親たち 悪しき家庭論)





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【変わる子どもたちの世界】

++++++++++

子どもたちの世界が、
大きく変わってきた。
同時進行の形で、子どもたちの
心も、大きく変わりつつある。

これも時代の流れか?

++++++++++

●テクノストレス

 テクノストレスという言葉がある。コンピュータに代表されるハイテクと、人間の関係が不調に
なったときに感ずるストレスをいう。このストレスが、一方で、人間どうしのつきあい方にまで、
影響を与えている。

●たとえば携帯電話。

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……

(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。たとえば以前は、まず自分の名前を名乗ってから、電話をかけたり、手紙を書いたりした。
しかし今は、住所はもちろんのこと、名前すら名乗らない人がふえている。

(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。ある日、突然、人間関係をゼロにしてしまう。

(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。

(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温
の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロー
ルしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。ある高校生は、こう言った。
「環境が破壊されても、青い空はコンピュータで再現できる」と。ものの考え方が、当然のことな
がら、現実離れしてくる。

(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。

(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。ある高校生は、教科書を忘れても、家にとりに戻らないが、携帯電話を忘れる
と、昼間でも、家にとりに戻るという。四六時中、かたときも、携帯電話を自分の体から離さな
い子どもは多い。

(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけでしか通用しない用語だけで会話をし
ようとする。またそれを知らない人を、よそ者として排斥しようとする。言葉の短縮、隠語、絵文
字、独特の表現など。

(8)ワイヤレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能
化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。情報が多
すぎる反面、自分にとってつごうのよい情報しか取り入れないため、ものの考え方が、偏(かた
よ)る。そのためきわめて狭い範囲の専門知識はもつことはあっても、総合的な判断ができなく
なる。

(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざそ
の人と直接対面すると、何も話せない。家の中でさえ、携帯電話で会話(?)している若い夫婦
もいるという。さらに日常会話そのものが、携帯電話的な会話になることもある。「エッヘ〜」
「ギョッ!」「ウソ〜!」と。ものの考え方がイメージ先行型になる。

(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層の世界まで入り込んで
いる。小学生の間でも、「フェラ(フェラチオ)」「クリ(クリニングス、クリトリス)」などという言葉
は、今では常識。「性」そのものが、ギャグ化されつつある。

(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考力が浅くなり、も
のの考え方が直観的になる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。

(12)ほかに、親指人間現象、会話能力欠如現象、言葉の短文化現象、感情の短絡化現象、
文字のマンガ化現象などがある。

通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。誰も
が黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっている子ども
に遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?

今では中学生の約60%、高校生の約80%が携帯電話をもっている(01年)。すでに「持ち
物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必需品にすらなりつつある。

「携帯電話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生もいる。もちろ
んそれが子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナンパ・援助交際を問題にする
ほうがおかしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの世界に入り込んでいる。携帯電話に
は便利な部分もあるが、その一方で、子どもたちの心までむしばみ始めていることを忘れては
ならない。

●時代の流れ

問題は、こうした変化をどうとらえるかだが、鉄則の第一、逆らっても、意味がないということ。
鉄則の第二、こうした問題は、私たちがどうこうしようとして、それでどうにかなる問題ではない
ということ。実のところ、私たち自身ですら、その流れの中にある。

 私たちが小学生のころは、マンガが、大きな問題になった。一度は、県全体で、「マンガ禁止
令」なるものも出されたこともある(G県)。「マンガは読んではダメ」と。当時、すでに手塚治虫
氏が活躍していたから、この禁止令が、いかにおかしなものであったかがわかる。

 こうした変化は、まさにときの流れそのもの。かつ同時に、旧世代から、いつも攻撃される。
私の祖父は、いつも、「今どきの若いものは……」と言った。同じように、その祖父も、若いこ
ろ、そのまた祖父から、「今どきの若いものは……」と言われた。

 で、その「流れ」を知る私たちとしては、その流れに添ったものの考え方を、理解することでし
かない。今となって、「携帯電話はだめだ」「パソコンゲームをやらせてはだめだ」と言ったとこ
ろで、意味はない。仮に百歩譲って考えても、正すべきは、子どもの世界ではなく、私たちおと
なの世界である。

たとえば援助交際にしても、援助交際をする女子高校生や中学生を責めても意味はない。責
めるべきは、おとな自身である。たとえ携帯電話が、そのための道具になっていたとしても、携
帯電話を取りあげても、意味はない。

 今の時代を生きる子どもや若者たちは、30年後、あるいは50年後には、今の私たちの知る
世界とは、まったく違った世界をつくるに違いない。しかしそれがどんな世界であれ、それはそ
の世界に住む、その人たちの世界である。少なくとも、「現在」という今を生きる私たちが、とや
かくいう問題ではない。

 ここで取りあげた、テクノストレスにしても、問題は、そういうストレスがあるということではな
く、それをどう解決していくかということである。

●私のばあい
 
 このところ無性に、携帯電話がほしくなった。今まで、2度ほどためしに購入してみたが、その
つど、息子たちに取られてしまった。が、それから、もう、4年になる。

 私は子どものころから、機械いじりが好きで、いつも機械をバラバラにして遊んでいた。そう
いう名残が今でもあって、機能がいっぱいついた電気製品を見たりすると、今でも、ゾクゾクす
る。で、最近の携帯電話では、動画が送受信できることはもちろんのこと、カメラつきのまであ
るという。こうなると私の好奇心が、黙っていない。何としても、そのカメラつきの携帯電話が、
ほしい……。と、考えて、さて本題。

 つまるところ、私が結局は、その「流れ」の中にあることがわかる。そういう私を見て、「林は、
おかしい」と言うなら、それを言う人のほうがおかしい。そしてさらにその結果として、私がデジ
タルカメラつきの携帯電話をもち歩き、かつ人間関係に影響が出てきたとしても、そのときは、
そのとき。時代は、そのときをベースとして、またつぎの流れの中に入っていく。

 そういう点では、私は現実主義者。現実というものを、まず肯定的にとらえる。そしてその上
で、未来を考えていく。空理空論は、私がもっとも嫌うところ。空想は好きだが、夢想するの
は、あまり得意ではない。もともと、というか、子どものころから、たいへん理屈っぽい人間。

 そこでこのエッセーの結論としては、人間を取り巻く環境は今、急速に変化しつつあるし、そう
した変化については、謙虚に耳を傾ける。その結果として、また別の価値観が生まれたとして
も、それはそれとして受け入れる。大切なことは、旧態の価値観を若い世代に、押しつけない
こと。

私のばあい、たとえばこれだけは、若い人に向かっては、言わないようにしている。「今どき
の、若いものは……」という言葉である。私は、若いころ、そういう言葉を、さんざん浴びせかけ
られた。だから、つぎの世代の人たちには、この言葉だけは、言いたくない。

 そうそうあの山本五十六も、「書簡」の中で、こう書いている。「『いまの若い者は』などと、口
はばたきことを申すまじ」と。

●「一般的に言って、ひとつの世代は、その世代中に産み出された世界観によって生きるより
も、むしろ、前時代に産み出された世界観によって生きるものである」(シュヴァイツアー「文化
と倫理」)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 テクノ
ストレス 携帯電話 子供と携帯電話)




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【気うつ症で悩む子ども】

+++++++++++++++

いつ晴れるということもない。
悶々とした気分で、毎日を送る。

そういう子どもは少なくない。

+++++++++++++++

●自分で自分を追いこむ

 中学二年のR君は、こう言った。「今度の期末テストがこわい」と。「どうして?」と聞くと、「悪い
点を取るのがこわい」と。

 このところR君は、元気がない。話しかけても、うわの空。反応がない。ときどき恥ずかしそう
に、にっこりと笑うだけ。あとは、ため息ばかりついている。

 私「点が悪いと、お父さんに叱られるのか?」
 R「ううん」
 私「じゃあ、お母さんか?」
 R「ちがう……」
 私「じゃあ、どうしてこわいの?」
 R「ぼくは、今、こうしてがんばっている。これだけがんばっているのに、もし悪い点だったら、
ぼくは、自分に自信をなくしてしまう。ぼくは、それでおしまい。それがこわい」と。

 そこで私は、こう言った。「あのね、今日、がんばったから、明日、いい結果が出るということ
はないよ。何か月も、あるいは何年も先に、結果が出るということもある。だから、そんなふうに
考えてはいけないよ」と。

 R君は、自分で自分を追いつめていた。R君自身が、学歴カルトの信者になっている。だれか
が、R君をそういう子どもにしむけたというわけではない。家庭の雰囲気、学校の雰囲気、そし
て友だちの雰囲気の中で、R君は今のR君になった。

このタイプの子どもに、「学校なんか、どこでもいいじゃないか」などと言うのは、その信仰を信
じている人に、「あなたの信仰はまちがっている」と言うに等しい。かえってその子どもを、混乱
状態におとしいれてしまう。

●気うつ症
 
 抑圧された精神状態が長くつづくと、子どもでも気うつ症になる。見た目にも、暗く沈み、元気
がなくなる。しかしこういう症状が、だれの目にもわかるようになったときというのは、すでにか
なり心が病んでいるとみる。つまりそうなる前に、その前兆をとらえ、適切に対処しなければな
らない。

が、実のところ、これがむずかしい。前兆をとらえるのがむずかしいのではなく、仮に前兆があ
っても、ほとんどの親は、それを無視してしまう。「気のせいだ」「わがままだ」「疲れているだけ」
と。さらには「一時的なもの」「そのうちなおるだろう」と、安易に考えてしまう。

 たとえばその前兆として、つぎのようなものがある。

(8)感情の起伏がはげしくなる。……ちょっとしたことで、カッと怒りだしたり、そうかと思うと、ソ
ファの上で、ぼんやりとしているなど。親子の会話が少なくなり、親からみて、「何を考えている
かわからない」といったふうになる。R君の母親も、「家では、何も話してくれません」と言ってい
た。

(9)疲れ(倦怠感)を訴える。……何をしても、「疲れた」と言う。子どものばあい、体力を使って
疲れたようなときには、「眠い」という。子どもが「疲れた」というときは、精神的疲労をいう。ちょ
っとしたことで、その疲れを訴えることが、多くなる。

(10)いろいろな神経症を発症する。……神経症は、千差万別で定型がない。不眠、早朝覚
醒、悪夢、腹痛、頭痛、脚痛のほか、「おかしな行為だ」と思ったら、神経症を疑ってみる。(検
索サイトで、「はやし浩司 神経症」で検索。)

(11)生活態度がだらしなくなる。……部屋が散らかったり、身のまわりのことが、ぞんざいに
なる。髪の毛がボサボサになったり、何日も、風呂に入らなかったりするなど。約束を忘れた
り、「うっかり事故」が多くなる。

(12)生活習慣が乱れる。……夜と昼が逆転したり、その前の段階として、真夜中まで起きて
いて、朝、起きられないなど。反対に、日中、ぼんやりするなどの症状が見られることもある。R
君は、こう言った。「ときどき、授業中でも、眠っている」と。

(13)行動に統制がとれなくなる。……目的そのものを喪失するため、「あれをしてみたい」「こ
れをしてみたい」などといって、そのつど、周囲のものを引き回す。しかしもともと目的がはっき
りしないため、しばらくすると、また別のものに移動していく。R君は、そのため、その前後の半
年間だけでも、二回も塾をかえ、今度は「インターネット学習をしたい」と言いだしている。

(14)体型が変化することもある。……こうした状態が長くつづくと、子どもによっては、気うつ
症独特の雰囲気をもつようになる。顔中が、ぽってりと太ったり、動作が緩慢(かんまん)になっ
たりするなど。R君のばあいも、どこか水太りのような感じになり、顔色もどんよりと曇り、子ど
もらしい、生彩が消えた。

 そのR君が、大きく変化したのは、冒頭にあげた期末試験の直後だった。R君は、ポツリとこ
う言った。「先生、何もできなかったよ……」と。

●テスト中、眠ってしまったR君

 期末試験のとき、テスト用紙を見たとき、R君は、その内容が、今まで勉強してきた内容と、
まったく違ったことを知った。中学二年のレベルでは、たとえばその時期、連立方程式、あるい
はその文章題が出ることになっていた。しかし第1問は、「1個50円のミカン、1個100円のリ
ンゴ、1個500円のメロンがある。全部で、10個、金額も、1000円以内におさめたい。全部
で何通りの買い方があるか」と。

 最近は、中学校でも、この種の問題がふえた。「できる・できない」をみるのではなく、「考える
かどうか」を試す。それはそれとしてよい傾向だが、しかしR君は、それまで見たこともない問題
にとまどった。とたん、パニック! 「頭の中が、真っ白になりました」と言った。

 この時点で、注意しなければならないことがある。

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、「自己成就予言」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識のう
ちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

●自己成就予言

 Aさん(高2女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう自己成就予言で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。つまり
彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守らなけれ
ば、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おかしなこ
と」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。つまり占いが当たった
わけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

●R君の自己成就的予言

 R君は、テストの前から、「今度のテストで失敗すれば、自分はおしまいだ」という暗示を、自
分にかけた。そして懸命に、そのテストに向けて、勉強した。しかしその勉強は、自らがしたくて
した勉強ではない。「しなければ、自分はダメになる」という強迫観念の中で、いわば追いたて
られてした勉強である。
 
 で、その強迫観念が、テスト用紙を見たとき、頂点に達した。が、見たこともない問題ばか
り! ふつうならこういうとき、「何とか別の方法で……」と考えるが、R君のばあい、自ら、「失
敗する」という暗示を同時にかけてしまったのかもしれない。そこでパニック状態になってしまっ
た。

 私「どうして、考えようとしなかったの?」
 R「見たこともない問題で、どうしたらいいかわからなくなった」
 私「でも、君の力で、解ける問題だよ」
 R「しばらく問題を見つめていたら、眠くなってしまった」
 私「眠い……?」
 R「そう、それで、ぼく、眠ってしまった」
 私「テスト中に、か?」
 R「うん……」と。

 心がパニック状態になると、今度は、心の防衛機能が働く。これを心理学の世界では、「防衛
機制」という。この防衛機制には、攻撃型(人やものごとに攻撃的、暴力的になる。自虐的な攻
撃型もある)、回避型(人と接するのを避けるようになる。引きこもる)、同情型(弱い自分を演
出して、相手を同情させながら、相手をコントロールする)、服従型(徹底的に相手に忠誠を誓
い、自分にとって、居心地のよい世界をつくる)などがある。

 R君のばあいは、ここでいう回避型と考えてよい。パニック状態になったとき、そのパニック状
態を回避するために、眠ってしまったというわけである。

●R君の父親に会う

 私はR君の家にでかけた。R君の家は、昔からの呉服店で、父親は、自らその店先で仕事を
していた。感じのよい人だった。あらかじめ母親にも話してあったので、母親もそこにいた。時
計は、夜の一〇時を示していた。まだどこか肌寒さが残っていた。

 父「思い当たることはないのですが……。無理に勉強を強いたわけでもありませんし。本人に
は、好きなようにしなさいと言っているのですよ」
 私「いえ、決して、お父さんやお母さんのせいだと言っているのではありません」
 母「ただ、あの子が通っている学校が学校でしょ。みんな、進学の話ばかりしているのです。
それで自分を追いこんだのかもしれません」
 私「そういうことは、よくあります」

 しかしこういう問題では、だれかを責めても意味はない。もちろん本人の責任でもない。

 私「私が心配するのは、このままでは、本人が、バーントアウトしてしまうことです」
 父「バーントアウト?」
 私「そうです。燃え尽きてしまうということです」
 父「どういうことですか?」
 私「完全な無気力状態になってしまうということです。まったく何もしないで、ぼんやりとしてし
まうということです。しかしそれだけではありません。その前後に、いろいろな神経症による症
状が出てくることもあります。情緒障害や、精神障害の遠因になることもあります」

 母「このところ、そう言えば、あれほど好きだった、サッカーをやめたいと言いだしています」
 父「そうなんですよ。理由を聞いても言わないし……」
 私「私が今、ここで言えることは、サッカーはやめないほうがいいということ。今ここでやめる
と、それこそ糸の切れた凧(たこ)のようになってしまいます」
 父「糸の切れた凧、ですか?」
 私「無気力状態が、一挙に加速するということです」
 
●どうすればよいのか?

幸いR君のばあいは、症状が軽かった。両親も理解してくれた。まだR君には、自分の意識
で、自分をコントロールする力をもっていた。こうした子どもの気うつ状態は、長くつづけばつづ
くほど、回復がより困難になる。私はつぎのようにアドバイスした。

(6)学校から帰ってきたら、ひとりでぼんやりできる時間をふやす。周囲の人があれこれ気を
つかうのは、かえって逆効果。子どもの側から見て、親の視線をまったく感じないようにするの
が望ましい。とくに土日の過ごし方は、本人のまったくの自由にする。

(7)学校での成績のでき、ふできは、あきらめる。「がんばれ」式の励まし、「こんなことでは…
…!」式のおどしは、禁物。「よくがんべっているね」式の理解を、示してあげる。

(8)負担を少しずつ、減らす。急に減らすと、今度は、立ちなおりができなくなる。学習塾も、週
二回程度にする。サッカー部は、やめないほうがよい。

(9)Ca、Mg分の多い食生活に心がけ、生活のリズムは大切にする。無理な夜更かし、不規
則な生活は禁物。一度サイクルが狂い始めると、どんどん狂っていくので、注意する。

(10)なおそうと考えるのではなく、今の状態をより悪化させないことだけを考え、一か月単位
で、様子をみる。数日単位で、瞬間的になおったかのように見えるときもあるが、そういう姿に
だまされてはいけない。説教したり、叱ったりするのは、タブー。

 実のところ、ここで「症状が軽かった」と書いたが、私自身は、「間にあった」とほっとしてい
る。あと数か月とか、半年放置していたら、R君は、不登校もしくは、引きこもりを起こしていた
かもしれない。あるいはその程度では、すまなかったかもしれない。今のところ、学校へは、何
とか通っているので、その状態をじょうずに保てば、R君は、このまま立ちなおっていくものと思
われる。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

+++++++++++++++

予言を信じて、その予言どおりの
ことをする。無意識なまま、すること
もある。

そしてあとになって、こう言う。

「予言が当たった」と。

これを自己成就的予言という。

+++++++++++++++

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。するとあなた
は、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとする。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やはり血液型
による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「「自己成就的予
言(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言われたとす
る。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それを無
視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」と信ずるあま
り、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カルトの世界では、よく観察
される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件がある。あの
教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリンという猛毒をま
き、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくってしまう
人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を肯定してしまう。血
液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考えて
よい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断がある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりからはっき
りしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分かれる。それまでの
子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていくかという
こと。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、おかしいと思う心を育
てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの考え方
を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうがよい。子ども
がそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱりと言い切る。そういう
姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼントをもっ
てくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、迷信ということにな
る。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今でもそう
だが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信をよく信じた。しかし今から思うと、
そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したのかもしれない。
私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。その結果
が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれかが、
「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、突然私に
向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私が小
学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカなことはない」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら話しつづ
けたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。しか
しそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるものではな
い。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北を認める人と
いってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、こん
なことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたかった。だか
らここに書いた。

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう言っ
た。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに答え
て、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがあるが、思想
らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言っ
た。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医はこう言
った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だからといっ
て、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はないとは言えない」
と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまいこと言う
な」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミソの
中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実でないものと
対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数のシナ
プスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそうしたシナプ
スを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み取ることができ
るようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、まったく
別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレビ電波
でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。が、だからと
いって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、霊の存在を否定しては
いけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。あるいはそ
の反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あたかも事実であ
るかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人間の運、
不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
成就 自己成就的予言 具現 予言成就 自己成就予言)






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【EQ(Emotional Quality、人格指数)】

●EQとは……

 IQ(Intelligence Quality、知能指数)に対して、EQ(人格指数)という言葉がある。

 IQは、

 IQ=((精神年齢)÷(生活年齢))×100で、計算される。

 精神年齢というのは、知能テストの結果など。生活年齢というのは、その人(子ども)が、生ま
れてから、テストを受けるまでの年齢をいう。

 要するに、IQで、頭のよしあしがわかるということ。しかしここで誤解してはいけないことは、I
Qが高いから、その人(子ども)の人格の完成度が高いということにはならないということ。えて
して、この日本では、(頭のよい人)イコール、(すぐれた人)イコール、(人格の完成度が高い)
とみる。しかしこれは誤解というより、幻想。幻想というより、ウソ!

 しかしその人(子ども)の人格の完成度は、もっと、別の方向からみなければならない。それ
が、EQである。

●EQ

 EQを最初に提唱したのは、D・ゴールマンである。彼は、ハーバード大学を出たあと、ジャー
ナリストとして活躍しているうちに、「EQ、こころの知能指数」を発表。この本は、たちまちベスト
セラーになり、日本でも翻訳出版された。1990年代の中ごろのことだった。

 一般論として、以前から、IQの高い人(子ども)ほど、心が冷たいとよく言われる。それは、
(頭がよい人間)の特有の症状と考えてよい。

 ある子ども(小5男児)は、こう言った。「みんなバカに見える」と。「算数の授業でも、ほかの
ヤツら、どうしてこんな問題が解けないのかと、不思議に思うことが多い」と。

 彼は進学塾でも、飛び級をして、学習をしていた。

 こうした優越感が、ほかの子どもとの間に、カベをつくる。そして結果として、その子どもだけ
が、遊離してしまう。そしてさらにその結果、他人から見ると、「心の冷たい子ども」ということに
なる。

 しかしこれは、多分に誤解による部分もないとは言えない。

●IQの高い子どもは、誤解されやすい 

 私の印象に残っている子どもに、N君という子どもがいた。私は、彼を、幼稚園の年中児のと
きから、小五まで教えた。

 そのN君が、年中児のときのこと。ふと見ると、彼が、箱の立体図を描いているのがわかっ
た。この時期、箱の立体図を、ほぼ正確に描ける子どもは、数100人に1人もいない。(あるい
は、もっと少ない。)

 それまでは、私は、N君は、どこか得体の知れない子どもとばかり思っていた。しかし彼がそ
う見えたのは、彼にしてみれば、まわりが、あまりにも幼稚すぎたからである。

 以後、N君は、天才的ともいうべき能力を発揮した。が、N君の母親はいつも、こう悩んでい
た。

 「いつも先生や、友だちに、生意気だと言って、嫌われます」と。

 たしかにN君は、一見、生意気に見えた。中学生が方程式を使って解くような問題でも、N君
は、独自の方法で、解いてしまったりした。彼が小学4、5年生のころのことである。

●しかしEQも大切

が、だからといって、私は、(IQの高い子ども)イコール、(人格者)と言っているのではない。事
実は、その逆のことが多い。

 一般的に、IQの高い子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(5)自分の優秀性を信ずるあまり、ほかの人(子ども)を、見くだす。
(6)そのため、仲間から遊離しやすく、孤独になりやすい。
(7)協調性がなく、人間関係をうまく調整できず、がり勉になりやすい。
(8)結果的に友人が少なくなる。心を開けなくなる。独善、独断に陥りやすい。

 そこでIQの高い人(子ども)は、同時に、EQを高めなければならない。そのEQは、つぎのよ
うな視点から、判断される。

(5)感情のコントロールは、できるか。
(6)統率力、判断力、指導力はあるか。
(7)弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか。
(8)決断力、行動力、性格の一貫性はあるか。

 この中で、とくに重要なのは、(3)の、弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるかと
いう点である。わかりやすく言えば、より相手(=弱者)の立場になって、ものを考えられるかと
いうこと。

●EQは、思春期までに完成される

 このEQは、思春期までに完成され、それ以後、そのEQが、大きく変化するということは、な
い。つまりこの時期までの、人格の完成度が、その後の、子どもの人格のあり方に、大きく影
響する。

 しかしこの日本では、ちょうどこのころ、子どもたちは、受験勉強を経験する。この受験勉強
の弊害をあげたら、キリがないが、その一つが、ここでいうEQへの悪影響である。

 私は幼児から高校3年生まで、一貫して子どもを教えているが、この受験期にさしかかると、
子どもの心が、大きく変化するのを知っている。この時期を境に、ものの考え方が、どこか非
人間的(=ドライ)になり、かつ合理的、打算的になる。

 親は、成績がよくなることだけを考えて子どもに勉強を強いる。あるいは、進学塾へ、入れ
る。が、こうした一方的な教育姿勢が、心の冷たい子どもを作る。そしてその結果、回りまわっ
て、今度は、親自身が、さみしい思いをすることになる。

 「おかげで、いい大学へと、喜んでみせる、そのうしろ。そこには、かわいた秋の空っ風」と。

 受験勉強は、この日本では、避けては通れない道かもしれないが、子育ては、それだけでは
ない。そういう視点から、もう一度、EQを考えてみてほしい。

子育ては、失敗してみて、それが失敗だったと、はじめてわかる。だれも、「うちの子は、だいじ
ょうぶ」「うちにかぎって……」と思って、無理をする。そして失敗する。あああ。私の知ったこと
か!
(040107)

【追記】

 あなたの親類でも近所でもよい。とくに戦後直後の、出世主義の教育を受けた人ほど、そう
だ。

 そういう人の中で、高学歴をもって、それなりの仕事をしている人を観察してみるとよい。
 
 もちろん中には、そうでない人も多いが、一方、全体としてみると、あなたはそういう人ほど、
心の冷たい人だと知るだろう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●EQ

その人のEQは、先にも書いたように、「弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか」
で決まる。

 言いかえると、もし、あなたが今、自分で心の冷たさに気づいたら、いつも相手の立場でもの
を考えるようにするとよい。時間はかかるが、やがてあなたは自分のEQを、高めることができ
る。

 かく言う私も、はげしい受験勉強を経験している。そしてその時期を境に、ものの考え方が変
ったのを知っている。しかしそれに気づくのに、10年。少しだけ自分を変えるのに、さらに10
年はかかった。そんなことを考えながら書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実
際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさら
されるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに
自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわ
けで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育て
をとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、R社という出版社で仕事をしていたことがある。あのR社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは
言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態
度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって
もよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役
にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話な
ど、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組み
たてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えな
い。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということ
は考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろ
う」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分
が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に
自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。
(040107)






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●輸血拒否

++++++++++++++

注入された思想を、思想と
思いこむ、愚かさ。

「教え」とは何か?
その人が自ら考えるように
しむけることを、「教え」という。

思想を注入することを、「教え」とは
言わない。

まず、それに気づいたらよい。

++++++++++++++

 またまた起きた。輸血拒否による、死亡事故である。毎日新聞はつぎのように伝える(6月1
9日)。

『信仰上の理由で輸血を拒否している、宗教団体「Eの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大
病院(大阪府高槻市)で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡した
ことが19日、分かった。

病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。Eの証人信者への輸血
を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を
侵害したとして最高裁で敗訴が確定している。

一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑
問の声も上がっている』(毎日新聞)と。

++++++++++++++++

Eという宗教団体については、
すでにたびたび書いてきた。

その原稿を再掲載する。

++++++++++++++++

●「E」という宗教団体

 私が「E」という宗教団体に、最初に興味をもったのは、ほかならない、学生時代の友人(女
性)が、その宗教団体の信者になったからである。

 どこか過激(pushing)な宗教団体で、その団体は、輸血を拒否することで、よく知られている。
そこで、ある日、その教団の「日本の本部」に電話をかけて、そのことを確かめてみた。

 電話はあちこちに回されたが、そのあと、幹部と呼ばれる人から、こういう返事をもらった。
「私どもは、一度だって、信者の方に輸血を拒否するよう指導した覚えはありません。しかし熱
心な信者なら、信仰上の確信から、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。

 何とも、巧みな、責任逃れな言い方である。

 そうした輸血を拒否したため、90年代に入ってから、このH市でも、患者が死亡してしまうと
いう事件が起きている。さらに、その団体では、ほかの団体との交流を禁止している。(多分、
本部の人たちは、「禁止はしていない。熱心な信者なら……」という言い方をするだろうが…
…。)

 そのためその友人は、同窓会には、一度も顔を出していない。いないばかりか、ある日、同
窓生全員に、聖書なる分厚い本を送り届けてきた。

 私にとっては、何とも悲しいできごとであった。それまではその女性に、特別な感情ををもって
いたが、それを知ったとき、その女性が、私の手の届かない、はるか遠くに行ってしまったよう
に感じた。と、同時に、慕情は消えた。

 人はそれぞれの方法で、幸福への道をさがす。幸福というゴールは一つかもしれないが、道
は無数にある。またその道は、千差万別。

 だからこうした過激な宗教団体に入信したからといって、その人を責めても意味はない。また
責める必要もない。大切なのは、それぞれの立場で、その人を、そっとしておいてやることであ
る。

 ただ「E」という宗教団体が問題なのは、その過激性(=狂信性)ゆえに、家庭崩壊という問題
を、あちこちで引き起こしているということ。たいていは、ある日突然、夫の知らないところで、
妻が入信してしまう。その深刻さは、部外者には、想像もつかない。「妻を返せ!」「家族を返
せ!」と、悲痛な叫び声をあげている夫は、その団体のまわりだけでも、推定、4万人はいると
される(「M」、三一書房)。

 で、その友人の夫は、どうだったのだろうか。……ということを考えていくと、「私でなくてよか
った」と、思ってしまう。……というところから、その友人への慕情が消えた。いくら私でも、そし
ていくら熱烈な恋愛をしたからといっても、それを乗りこえて、そうした女性を愛しつづけること
は、不可能だっただろう。

 今、15年ぶりに、再び、カルト関係の本を読み始めている。一度は、足を洗った世界だが、
しかしどうしても無視できない事情が、このところ生まれてきた。これから先、この問題につい
て、少しずつ、考えていきたい。

(補記)

 大切なことは、日ごろから、自分の常識力をみがいておくこと。

 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、その中で、常識力をみがいておくこと。

 音楽を聞き、旅行をし、本を読み、スポーツや運動を楽しみながら、みがいておくこと。

 奇をてらった修行をしなければ真理に到達できないとか、ほかの人たちとの接触を禁ずるよ
うなことを教えているというのであれば、そもそも、その教えはまちがっている。

 それがわからなければ、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。彼らはいつも、自然の中で、
自然に生きている。人間もまた、そうであるべきであって、そうであることをまちがっているとい
うのなら、そう言うほうが、まちがっている。

 この常識力が、あなたを、こうしたカルトから、守る。いらぬ節介かもしれないが……。

++++++++++++++++

ついでに、血液型の問題について。

++++++++++++++++

●血液型

 ある雑誌に、先日、血液型による性格判断について、記事を書いた。「血液型による性格判
断ほど、ナンセンスなものはない」というのが、私の書いた記事の趣旨である。

 それについて、「そうとは言い切れないのでは……?」という意見が届いた。M県に住んでい
るX氏である。血液の種類が、人間の性格に影響をおよぼすことは、ありえないことではない、
と。

 そこで私なりに調べてみた。で、わかったことは、たとえば血小板の中に含まれる、血小板M
AO(モノアミン酸化酵素)が、脳の中の神経物質に影響を与えるという説もあるということがわ
かった(深堀元文「心理学のすべて」)。

 しかし「血液型性格論は、赤血球の血液型を判断基準としていて、血小板は関係ありません
し、血小板MAOの働きに関しても、反論が多く提出されています」(同書)とのこと。血液型と血
小板は、まったく関係がないということ。やはり血液型と、その人の性格は、関係ないということ
になる。

 で、結論。もうこういうくだらない俗説を振りまわすのは、やめよう。血液型と性格とは、関係
ない。私も無数の子どもたちを見てきたが、子どもの血液型など、話題にしたこともない。関連
性があるなら、私だって、とっくの昔に気がついているはずである。
(はやし浩司 血小板MAO 血液型 血液型性格判断 性格判断)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【輸血拒否】(2)

++++++++++++++++

宗教団体「E」の輸血拒否は、
よく知られている。

しかし彼らには、彼らなりの
宗教的信条がある。

それについて……。

+++++++++++++++++

 宗教団体「E」の輸血拒否は、よく知られている。そのため、この浜松市でも、ひとりの中学生
が、手術を受けられず、死亡するという事件が起きている。それについては以前にも書いたの
で、ここではその先を書く。

 1940年代後半ごろには、「E」では、全血、あるいは血液成分の一部の利用も、すべて禁じ
ていた。私が直接電話で問い合わせたところ、「禁止はしていない」「熱心な信者なら、自ら拒
否するでしょう」ということだった。

 が、現在では「アルブミン、免疫グロブリン、血友病製剤は使用してもよい」(「Eの証人」、ウィ
リアム・ウッドー著、三一書房)ということになっている。

 「ダメ」とされるのは、全血、分離RBC(赤血球)、血漿(けっしょう)などの輸血、WBC(白血
球)、血小板の投与だ、そうだ。

 では預血などの自家血輸血(=自分の血液)はどうかというと、これはダメ。しかし「透析器や
心肺装置、および体外循環が中断されることのない手術時救命法の採用はよい」(「E」機関
誌、1982年、12月8日号」とのこと。

 「輸血」といっても、中身は複雑。「血漿はだめ」というが、血漿の93%は水。残りは、アルブ
ミンやグロブミン、さらに血友病製剤に使われるフィブリノーゲン凝結性の因子である(同書)。

 つまりこれらを別々に使用するなら構わないが、まとめて使うのはダメということになる。

 で、その理由というか、根拠は、どこにあるかというと、それは当然のことながら旧約聖書に
ある。

 『モーセの五書』の中には、つぎのようにある。

 『イブン・エズラの言葉によると、血の使用は、道徳的な性質と、肉体的な性質を堕落させる
影響をもち、将来の子孫に遺伝的な影響を与える』と。

 つまり「(輸血によって)、遺伝的な性質、病気にかかりやすくなる」「個人の生活に起因する
毒、食べるくせ、飲むくせが含まれる。自殺させたり、人を殺させたり、盗みをさせたりするくせ
は、血の中にある」(アロンゾ・ジェイ・シャドマン博士、同書)ということらしい。

 さらに「……色情倒錯、憂うつ感、劣等感、軽犯罪は、しばしば輸血後に生ず」(「E」機関誌、
1961年12月15日号)ともある。

 ここから先は、「信ずる」「信じない」の問題である。さらに言えば、それぞれ個人の問題であ
る。その人がそれを正しいと信じて、輸血拒否したとしても、部外者である私たちは、それに対
して、あれこれ批判することは許されない。

 しかし……、という疑問はもちろんある。言いたいことは山のようにある。が、ここでは省略。
あとの判断は、読者のみなさんに任せる。

 ついでに血液の勉強をしておきたい。

 血液は、大きく分けて、(1)赤血球、(2)白血球、(3)血小板、(4)血漿の4つから成る。血
液の細胞成分を血球(赤血球、白血球、血小板)といい、これらを取り囲む液体成分を血漿と
いう。

 その血液は、生命維持に欠かせない栄養素や酸素を運ぶ一方、ホルモンや老廃物の運搬、
生体防御や体温調整など、人体にとって重要な役割を果たしている。

 もちろん各種のウィルスも混入することもある。エイズ・ウィルスもそのひとつ。

 だから輸血には、それなりの危険性がともなうことは事実である。また未知の危険因子も含
まれている可能性も高い。エイズ・ウィルスにしても血液製剤を介して、多くの人に感染してしま
った。

 しかしいくら宗教を信じたからといって、合理の精神まで見失ってしまってはいけない。見失っ
たとたん、信仰は、妄信へと変化する。

なお「E」の世界では、輸血を拒否して死んでいった人たちを、「殉教者」といって、称えている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「Eの証人」の輸血拒否

++++++++++++++

このほど、日本輸血・細胞治療学会
など関連5学会の合同委員会(座長
=大戸斉・福島県立医大教授)は、
15歳未満の患者に対しては、信者で
ある親が拒否しても救命を優先して輸
血を行うとする指針の素案をまとめた。

当然のことである。

++++++++++++++

 読売新聞6月24日によれば、つぎのようにある。

 『信仰上の理由で輸血を拒否する「Eの証人」信者への輸血について、日本輸血・細胞治療
学会など関連5学会の合同委員会(座長=大戸斉・福島県立医大教授)は、15歳未満の患者
に対しては、信者である親が拒否しても、救命を優先して輸血を行うとする指針の素案をまと
めた。

 「信教の自由」と「生命の尊重」のどちらを優先するかで悩む医療現場の要請に応えて検討
を始め、「自己決定能力が未熟な15歳未満への輸血拒否は、親権の乱用に当たる」と判断し
た。

 合同委員会はこのほか、日本外科学会、日本小児科学会、日本麻酔科学会、日本産科婦
人科学会の国内主要学会で組織。年内に共通指針としてまとめる」と。

 当然である。この浜松市でも、こんなことが起きている。ある高校2年生の男子がオートバイ
事故にあい、病院に収容され、出血多量で輸血が必要とされたという事件である。が、Eの証
人だった家族が、これを拒否。その結果、その高校生は、5時間後に死んでしまった(1989
年8月・参考:「Eの証人」・三一書房)。

 いくら親でも、子どもの命にまで干渉することはできない。もしそんなことが許されるとするな
ら、親による子への虐待ですら、肯定されてしまう。

 で、肝心の「Eの証人」は、どのような見解を示しているかというと、これがまたおかしい。彼ら
の公式の見解によれば、「輸血拒否は戒律として課しているのではなく、あくまでも本人の意思
を尊重している」(Mの塔・日本支部、同書)とのこと。

 私も先の事件が起きたとき、直接、本部へ電話をかけ、それを確かめたことがある。それに
応えて、電話口の男性は、こう言った。

 「私たちは輸血拒否を信者の方に強制したことはありません。ただ熱心な信者なら、輸血を
自らの判断で、拒否するでしょう」と。何とも、いいかげんな、つまり、責任逃れ(同書)な言い方
である。一方で、「輸血は神の律法に反するもので、神聖をけがす行為である」と信者たちに教
えておきながら、「本人の意思に任せている」とは!

 仮にそうであるしても、つぎのようなケースのばあい、Eの証人の信者たちは、どう考えるの
だろう。

 たとえば30代、40代になってから、入信した人のケースである。そういう人の中には、それ
までに輸血で、命拾いをした人も多いはず。入信してからの輸血拒否はわかるとしても、入信
前の輸血はどう考えるかという問題である。すでに入信前に、「神の律法に反し、神聖をけが
す行為」をした人でも、入信できるのだろうか? あるいは「あなたはすでにけがされている」と
いう理由で、入信を拒否されるのだろうか?

 もし入信できるとするなら、子どもについても、同じに考えたらどうだろうか。少なくとも、満15
歳になるまで、子どもを入信させないでおく。輸血が必要なら、輸血をさせればよい。そして子
ども自身がおとなになり、自分で判断できるようになったら、自分で考えさせて入信させればよ
い。それからでも遅くない。そういうことになる。

 さらにあまり表では問題になっていないが、Eの証人の世界では、子どもたちの指導に際し
て、「むち打ちの体罰」が日常的になされているという報告もある。つまり親の言うことを聞かな
ければ、親に、ベルトやむち、ときには棒で、叩かれるという(同書)。もしこれが事実だとする
なら、それこそまさに虐待というにふさわしいのではないか。

 いろいろ書きたいことはあるが、今日はここまで。私は、日本輸血・細胞治療学会など関連5
学会の合同委員会の素案を支持する。

【付記】

 旧約聖書にしても、メソポタミア文明を築いたシュメール人一派が残した、「アッシリア物語
(別名「ギルガメッシュ叙事詩」)」をもとに書かれたものである。しかもシュメール人たちが姿を
消したあと、700〜1000年もたってから、ユダヤ人たちによって書かれた……というよりは、
書き改められたものである。

 700〜1000年と言えば、日本にたとえていうなら、鎌倉時代に書かれた物語を、現在書き
改められるようなものである。

 もし旧約聖書の原点を知りたい人がいれば、一度、「アッシリア物語」を読んでみるとよい。そ
の中には、ノアの方舟に似た話(「ウトナピシュティムの洪水物語」)も出てくる。余計なことかも
しれないが……。

++++++++++++++

5年前に書いた原稿を、
ここに添付します。

++++++++++++++

●ある信仰団体

 今日も、その人たちがやってきた。Eというユダヤ系の宗教教団に属する人たちだ。みな、大
きなカバンをもち、一様に満ち足りた表情をしている。彼らの教団では、月にX十時間の布教
が義務づけられている。私が電話で「義務ですか?」と問い合わせると、「義務ではありませ
ん。しかし熱心な信者なら、みなそうしています」とのこと。

 月にX十時間と言えば、土日の計8日で割っても、1日、X時間前後になる。たいへんな重労
働だ。彼らはそのため、土日は、ほとんど丸1日を、その布教活動のために使っている。で、
会って話を聞くと、その布教のために使う小冊子などは、すべて自前で購入するという。一方で
教団には、1円も寄付しないということだが、こうした形、つまり教団から布教に必要な小冊子
や冊子、さらには聖書などを購入することによって、財政的に教団を支えている。……らしい。

 ユダヤ教と言えば、旧約聖書に基づく。私は若いころ、あることからシュメール文化に興味を
もち、つづいて、アッシリア物語に興味をもったことがある。現在、当時の記録を残す楔形(くさ
びがた)文字で書かれた土板が大量に発掘されていて、それらが翻訳されている。

アッシリア物語は、いわば旧約聖書の母体となった物語だと思えばよい。そのアッシリア物語
を読んでも、旧約聖書がかなり「いいかげんな書物だ」ということがわかる。それもそのはず
で、旧約聖書は、シュメール文化が滅んでから、700〜1000年もたってから、ユダヤ人たち
によって書かれた書物だからである。日本で言えば、2002年に、鎌倉時代の物語を思い出し
ながら書いたようなものだ。

 ……だからといって、旧約聖書を否定しているのではない。私が「聖書だって、まちがいがあ
るかもしれませんよ」と言ったときのこと。彼らは血相を変えた。横にいた女性は、「聖書を疑う
なんて!」とそのまま絶句してしまった。彼らにとって、聖書というのは、そういうものらしい。そ
の気持ちはわかる。

多かれ少なかれ……というより、ほとんどの宗教は、自らの宗教的権威のハクづけを信仰の
「柱」にする。宗教的権威のない宗教はないとさえ言える。たとえばこの日本では、経文を現代
日本語に翻訳しただけで、あちこちからクレーム(抗議)が殺到する。「勝手な解釈をしてもらっ
ては困る」「経文には、うわべの意味と、底に沈んだ意味がある」「経文を翻訳することができる
のは、私たちの法主(ほっす)だけだ」と。経文というのは、チンプンカンプンであればあるほ
ど、信者にはありがたみが増すというわけだ。

 しかし私は僧侶の、あの読経を聞くたびに、いつもこう思う。「中国人が読んでも意味がわか
らないような漢文を、これまたメチャメチャな発音で読んで、本当にインド人のお釈迦さまが、
理解できるのか」と。

 もちろん信仰するのは、その人の自由。勝手。反社会的な宗教教団は別として、彼らの信仰
は信仰として、尊重しなければならない。よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいる
のではない。それを求める信者がいるから、宗教教団がある。宗教教団を否定しても意味が
ない。

それはわかるが、ではなぜ、彼らはズカズカと、私の家に入り込んでくるのか。「私たちは絶対
正しい」と私に向かって言うことは、「あなたはまちがっている」と私に言うに等しい。そういう失
礼なことを言いながら、なぜ彼らは、わからないのか。

 私たちは今、自分の足で立ちあがろうとしている。どれもこれも不完全で、未熟なものだ。し
かしそれでも自分の足で立ちあがろうとしている。人間の生きる美しさは、そこから生まれる。
無数のドラマもそこから生まれる。私とて、神や仏に頼ることができたら、どれほど気が楽にな
ることか。身を寄せ、すべてを任せてしまえば、もう考える必要はない。しかしそれは、私にとっ
ては、敗北以外の何ものでもない。

私は、たった一度しかない人生だから、自分の足で歩いてみたい。自分の頭で考えてみたい。
もしそれがまちがっているというのなら、神や仏のほうがまちがっている。野を走る動物を見
ろ。野に咲く花を見ろ。みんな自分の力で生きているではないか。みんな自分の力で懸命に生
きているではないか。

 冒頭のEという宗教教団の信者はこう言った。「それではあなたは救われません」と。「救う」と
か「救われない」とか、そこらの人間が軽々に言ってもらっては困る。口にするような言葉では
ない。具体的には、「終末(世の終わり)に、神の降臨があり、信じたものだけが救われる」とい
う。

もしそうなら、その宗教教団は、まちがっている。野を走る動物や、野に咲く花は救われないの
か。懸命に生きている私は救われないのか。もし、そうならそれで結構。私は死んだら、まっさ
きに、その神様のところへ行き、「あんたはまちがっている」と言ってやる。

 そう、私は神や仏ではないが、毎日子どもたちに接していると、神や仏の気持ちが理解でき
るときがある。いや、キリストにせよ、釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったのか。私はそう
いう子どもたちに接しながら、「先生、先生」と、ベタベタとすりよってくる子どもよりも、「林のバ
カヤロー」と悪態をつく子どものほうが、かわいい。

「先生の言うことなんか、まちがっている。ぼくのほうが正しい」と言う子どものほうが、たのもし
い。いわんや、「君は、私の教えに従わなかったから、人生で失敗する」とか、「バチが当たる」
とか、そういうことは言わない。

この地上で、その人が少しくらい、神や仏の意思に反したことをしたからといって、どうしてその
人を救わないということがあるのか。またそういうことがあってよいのか。私が神や仏なら、「あ
んたも、ずいぶんと、勝手なことをしましたね」と笑ってすます。無量無辺に心が広いから、神と
いう。仏という。そういう神や仏に甘えてよいというのではない。その前に、まず自分の足で立
ちあがってこそ、私たちは人間なのだ。

 彼らは実に楽しそうだ。私に対してはともかくも、仲間どうし、実にわきあいあいとしている。
振り返ると、私の家へ来た信者たちは、電柱のところに待っていた別の信者と合流した。うれし
そうだった。もっともこういう関係があるから、宗教教団は強い。まとまる。信仰する。私も子供
会や自治会、PTAの役員などをしてきたが、そういうところでは、絶対に味わうことができない
関係といってもよい。

私は、心のどこかで、「うらやましいな」と思いつつ、玄関のドアを閉めた。







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●時間性vs統合性

++++++++++++++++

したいことだけをしながら、好き勝手
なことをして、生きる。

一見、充実した人生に見えるが、中身
は薄い。

「だから、それがどうしたの?」と、
自分に問いかけてみると、それがわか
る。

そういう人生からは、何も生まれない。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を1日にして、生きるだけ。

++++++++++++++++

●時間性

 その人がもつ時間性は、みなちがう。時計を回る針の上では、同じ1秒かもしれないが、その
1秒を、1時間にして生きる人もいれば、反対に、1時間を1秒にして生きる人もいる。もし人間
が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、人間は、1秒を3100万年にして生きるこ
ともできる。

 そこで私のことになるが、平均寿命でみるかぎり、あと30年近くは生きられることになる。30
年といえば、0歳から30歳までの年月に等しい。

 しかし0歳の子どもが、30歳になるのと、私があと30年生きるのとでは、中身は、まるでち
がう。同じ30年だが、へたをすれば、私のこれからの30年は、短い。私はその30年を、3
年、あるいは3か月のようにして生きるかもしれない。

 そういう高齢者は、多い。

 たとえば私の母は、私の家に、6か月、いた。その6か月を振り返ってみても、ほとんどといっ
てよいほど、思い出が残っていない。毎日、毎晩、おむつとパットを取り換え、便器を洗い、日
常的な世話をしたはずなのに、記憶の中では、ほんの数回しただけのような気がする。

 母にしても、そうだろう。昨日も老人ホームへ菓子を届け、その話をした。私が、「また、ぼく
の家に戻ってきたいか?」と聞くと、母は、こう言った。「お前の世話になったことはない」と。
「ぼくの家にいたことを忘れたのか?」と再度聞くと、「行った覚えはない」と。

 母は、私の家にいた、6か月という長い時間すら、きれいに、忘れていた。母にしてみれば、
6か月という時間にしても、瞬間にすぎない。記憶がそのまま、どこかへ消えてしまっている。

 生きるということは、その人がもつ時間性の問題ということになる。そしてその時間性は、そ
れぞれの人によって、みな、ちがう。そのことを知るために、たとえば、こんな生物を考えてみ
よう。

 ある天体のある惑星に、ケイ素を主体とした生物がいたとする。わかりやすく言えば、岩石で
できたような生物である。

 その生物は、指を数センチ動かすだけでも、地球時間で約2〜3年もかかる。立ちあがるだ
けでも、地球時間で約50年もかかる。そういう生物だから、地球から、望遠鏡か何かで観察し
ても、毎日、ほとんど変化がないように見える。

 しかしその生物には、その生物なりの時間というものがある。時計ももっている。しかしその
時計にしても、1秒刻むのに、地球時間で約3年もかかる。彼らの時計が24時間進むのに、
地球時間で、26万年もかかる。

 しかしその生物は、全体としてみれば、私たち人間と、ほとんど変わらない生活をしている。
私たちと同じように朝起きて、パソコンを立ち上げ、その日のニュースを読む。メールを読む。
返事を書く。そしてワードを開き、何かの文を書く。

 こうして考えていくと、私たち人間が考えている「1秒」というものほど、あてにならないものは
ないということがわかる。人間にとっての1秒は、人間にとっての1秒でしかない。しかもその1
秒も、宇宙的な基準でながめると、刻々と変化している。

 たとえば光速に近い宇宙船に乗って、宇宙を旅したとしよう。数日の旅をしたつもりでも、地
球へ帰ってくると、地球では、何年もすぎている。アインシュタインの相対性理論を、いまさら、
ここでもちだすまでもない。まさに時はエネルギーであり、そのエネルギーの中で、私たち人間
も生かされているにすぎない。「生きることイコール、時のエネルギー」と考えている哲学者も多
い。

 ……どこか話がSF的になってしまったが、要するに、1日を1秒にして生きるか、反対に、1
秒を1日にして生きるかは、その人しだいということ。同じ1日でも、生き方によって、中身はま
るでちがってくる。

 どちらが得か損かということになれば、1秒を1日にして生きるほうが、ずっと得である。自分
の人生を、何倍も長くして生きることができる。

●統合性

 が、ここで大きな問題にぶつかる。

 私の知人の中には、55歳で定年退職してから30年間、ほとんど毎日同じ生活を繰りかえし
ている人がいる。

 恐ろしいほど、何もしない。だれにも会わない。毎朝同じ時刻に起きて、同じ時刻に床につく。
どこか病的だが、自分では、そうは思っていない。自分はそういう生活をするのに、ふさわしい
人間だと思いこんでいる(?)。またそれが最善の生き方だと思いこんでいる(?)。

 することと言えば、親譲りの畑で、花木の世話をすることだけ。妻と一人娘がいるが、妻とは
家庭内別居の状態。娘は娘で、嫁いでからというもの、この30年近く、一度も実家には帰って
いない。ときどき妻(=母親)と、外で会うことはしているそうだ。

 その知人は、毎日、したいことだけをしながら、好き勝手なことをして、生きているだけ。一
見、充実した人生に見えるが、中身は薄い。もしそれがわからなければ、その人の立場になっ
て、「だから、それがどうしたの?」と、自分に問いかけてみればよい。それでそれがわかるは
ず。

そういう人生からは、何も生まれない。1か月を1日にして、生きるだけ。1年を1日にして、生
きるだけ。先に書いた時間性の問題をあてはめてみると、それがよくわかる。

 では、どうすればよいのか? どうすれば、私たちは、反対に1日を1年のようにして生きるこ
とができるか?
 
 ここで出てくるのが、(統合性)の問題である。

 若いときは、自分のしたいこと(=自己概念)と、自分のしていること(=現実自己)を一致さ
せることで、自己の同一性を確立することができる。しかしそれも一巡すると、時間という限界
状況の中で、人は、それに満足することができなくなる。

 「私は残された時間の中で、何をすべきか」と考えるようになる。

 その(自分のすべきこと)と、(自分がしていること)が一致した状態を、統合性という。つまり
残された時間を、そこに感ずるようになる前に、私たちは、統合性を確立しておかねばならな
い。その努力を怠ると、つまり統合性を確立しないまま、老齢期を迎えると、それこそそのま
ま、私たちは、1年を1日のようにして生きることになる。

 が、前にも書いたが、ほとんどのばあい、(自分のすべきこと)というのには、苦労や苦痛がと
もなう。「したいか、したくないか」と聞かれれば、「したくない」と答えることのほうが、多いだろ
う。しかもその基盤は、一朝一夕(いっちょういっせき)にできるものではない。「定年で退職しま
した。だから今日から、ボランティア活動を始めます」というわけには、いかない。

 それまでの生きざま、生き方、思想、哲学……そういったものが、総合的に集合されて、ここ
でいう(すべきこと)につながっていく。

 私の母に話を戻すが、今の今も、私は母に、何かの生きがいをもたせることに苦労してい
る。仏壇の前で、朝夕の勤行を欠かさなかった人だったが、今は、その信仰までやめてしまっ
た。詩吟(しぎん)にしても、ちぎり絵にしても、興味すら示さない。古いアルバムから写真を抜
き出し、A4サイズの大きさにプリントアウトして、それを見せたが、その効果も一時的。

 私の顔を見るたびに、「うちへ帰りたい」「こんなところにいたくない」を繰りかえすだけ。

 母が言うところの「うち」とは、自分の生まれ育った古里の実家をいう。その母は、この3〜4
0年だけをみても、自分のしたいことだけを、好き勝手にしてきた。生涯、自分で働いて、お金
を稼いだという経験は、一度もない。自己愛のかたまりのような人だった。そういう過去の生き
ざまが、晩年になった今、ここで集約され、現れている(?)。

 で、そういう母を見ながら、「そうであってはいけない」と思う私はどうかというと、今まさに、母
と同じ人生を歩もうとしている。正直に告白するが、いまだに、(自分がすべきこと)が、よくわ
からない。わからないまま、そこにある老後に突入しようとしている。若い人の立場にたとえる
なら、自分のしたいことがよくわからないまま、毎日、不完全燃焼感だけを残しながら、生きて
いる。そんな思いから、どうしても抜け出すことができないでいる。

 私は今、まさに、時間性と統合性の問題の渦の中にいる。







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●宇宙人論

【秋の夜のロマン】

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセントに
すぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレー
ターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合
体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れるサ
ルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間
は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自
分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、ど
こまでも明るい。
(030925)

+++++++++++++++

ついでにもう1作!

これも日付を見ると、ちょうど
3年前の原稿ということになる。

+++++++++++++++


【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)








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【豊かさについて】

【豊かさとは何か】

●相対的貧困層 

+++++++++++++

貧困かどうかということは、
相対的な満足度によって決まる。

家と車と家電製品をもっていても、
貧しい人は、貧しい。

その日、その日を生きていくだけで、
精一杯という人も、少なくない。

そこで最近では、国の豊かさを
測る尺度として、「相対的貧困率」
という言葉を使う。

+++++++++++++

 生活の豊かさは、「モノ」では決まらない。いくら家と車と家電製品をもっていても、貧しい人
は、貧しい。その日、その日を生きていくだけで、精一杯という人も少なくない。

 そこで最近では、国の豊かさを測る尺度として、「相対的貧困率」という言葉を使う。わかりや
すく言えば、生活に対する満足度ということになる。

 それによれば、

 メキシコ  ……20・3
 アメリカ  ……17・1
 トルコ   ……15・9
 アイルランド……15・4
 【日本】  ……15・3
 ポルトガル ……13・7
    ……
    ……
スウェーデン…… 5・3
チェコ   …… 4・3
デンマーク …… 4・3、だ、そうだ。

(OECD24か国平均……10・4)(2005年)

 日本は相対的貧困率でみるかぎり、貧しい国としては、上位5位ということになる。実際、「ワ
ーキングプア」という言葉があることからもわかるように、この日本には、「働いても、働いても
楽になれない」という人たちが、「全体の4分の1、400万世帯もある」(朝日新聞「キーワー
ド」)そうだ。

 これらの人たちは、最低賃金や、生活保護以下の収入しか得られない人たちという。つまり
その分だけ、所得格差が進んでいる。ジニ係数(ジニ指数ともいう)でみても、日本は、OECD
25か国中、第10位ということになっている。ジニ係数は、所得のかたよりを測る指数と考えて
よい。

 たとえば高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3の人たち
が、残った4分の1の所得を分けあう状態で、ジニ係数は、0・5となる。日本は、0・314(200
5年)である。

 ……そういう意味では、この日本は、たしかに住みにくい国になりつつある。何をするにも、
お金がかかる。どこへ行っても、お金がついて回る。まさに、マネー、マネー、マネーの国。お
金がないと、それこそ、身動きができない。

 そこで知恵をしぼって、たとえば休日でも、できるだけお金を使わないですまそうとする。お弁
当を用意して、無料の公園を散策したり、山歩きをしたりする。が、それでもお金がかかる。ど
ういうわけだか、かかる。そういうしくみが、できあがってしまっている。

 言いかえると、お金を使わないですまそうと思ったら、家の中で、ゴロゴロしているしかない。
しかしそういう生活を、だれも、豊かな生活とは言わない。つまり今、日本人の多くが感じてい
る貧困感は、そういうところから生まれている(?)。

 では、どうすれば、豊かに生きられるのか? 「豊か」というより、「心豊か」と言いかえたほう
がよい。

 私なりの実践法を並べてみる。

(1)家族が円満であること。これは心豊かに生きるための、第一条件。
(2)みなが、健康であること。これも心豊かに生きるための、第一条件。かりにだれかが病気
であっても、それを前向きに受け入れてしまう。
(3)収入の範囲で、ほどほどの生活をする。できれば、常に最低限の生活を心がける。
(4)価値観を、(お金)から、(心)と(知恵)に移す。心の豊かさ、知恵の豊かさをもって、「豊
か」と判断する。
(5)「私は私」という生き方を貫く。世間体、見栄、体裁は無視。冠婚葬祭を含めて、儀礼を廃
する。

 私はとくに(4)が大切だと思う。心や知恵は、みがけばみがくほど、そうでない人が、そうでな
く見えてくる。他人に対して優越感をもつことは、好ましいことではないが、しかしそのうち、愚
かな人たちを相手にしなくなる。「私は私」という生きざまを貫きやすくなる。

 ……ともかくも、相対的貧困率が高いということは、けっして望ましいことではない。社会がそ
れだけ不安定化することになる。また国の豊かさというのは、いかに弱者にやさしいかで決ま
る。弱者にきびしい国というのは、それだけ未熟な国ということになる。

【付記】

●拡大する貧富の差とこれからの受験勉強

 この日本の社会では、静かに、密かに、しかし確実に、ジワジワと、貧富の差が拡大しつつ
ある。

 このことは、工場労働者の構成を見ればわかる。

 近くのX自動車の下請けメーカーの中堅社員が、こんなことを話してくれた。

「社員といっても、何種類もいる。正社員のほか、パート社員、期間社員、アルバイト、人材派
遣会社からの派遣社員などなど。

 さらに最近では、一応社員なのだが、独立した仕事だけをして帰る社員もいる」と。

 「どういう仕事ですか?」と聞くと、「たとえば会社で出す、人材募集のチラシを作ったり、社内
報を作ったりする社員です。しかしこの社員は、社員というよりは、独立したアルバイトといった
感じです。社会保険にも入れず、もちろんいっさいの保証はありません」と。

 手厚く保護される正社員。しかしその一方で、冷遇されるそれ以外の社員(?)たち。年俸に
しても、数百万円以上もの差がある。が、「安い」だけではない。労働条件は、かえってきびし
い。少しでもヘマをすると、即、クビという状態だそうだ。

 この日本では、今、確実に、貧富の差が、広がりつつある。やがてそのうち、社会問題化す
るのも時間の問題といってよい。数字を見てみよう。

 厚生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数(世帯ごとの所得格差を示す)は、調査を始め
た84年から、7年連続で、拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づきつつある。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを意味す
る。残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 しかしこの数字を、深刻に考えている政治家は、少ない。……いない。経済界にいたっては、
なおさらで、むしろ、こうした格差を歓迎しているふうですら、ある。理由がある。

 「こうした差こそが、やる気のある人にやる気を出させ、経済を活性化させる」と。

 つまり力があり、やる気のある人がいい生活をして、そうでない人が、そうでない生活をする
のは、当然ではないか、と。そういう冷徹な論理である。が、どうもそれだけではないようだ。

 「この世の中では、支配階級と、だまってそれに従う階級がなければ、そもそもマネー社会
(=マネー資本主義)は成りたたない」という論理がある。みなが平等になり、中産階級になっ
てしまえば、社会の活力そのものが、停止してしまうという。例がないわけではない。

 かつて私が留学していたころのオーストラリアが、そうだった(1960〜70年代)。

 当時のオーストラリアでは、年俸が、確か2万ドル(この数字は正確ではない)を超えると、と
たんに、所得税率が極端にあがるしくみになっていた。だから、みな、2万ドル分までは働くが、
それ以上に働いても意味がないというように考えるようになった。

 こうして「レイジー・オージー(怠け者のオーストラリア人)」が生まれたわけだが、この制度
は、オーストラリアの活力そのものまで奪ってしまった。(もともと、土地を掘れば、鉱物資源が
無尽蔵に出てくるという、ラッキーな国であったことも事実である。)

 だから経済界あたりでは、むしろ、貧富の差を助長することこそ、重要であるというような考え
方をする。はっきり言えば、マスター(ご主人様)がいて、それに従順に従う、スレイブ(奴隷)が
いたほうが、経済の活性化のためには、つごうがよいということになる。

 だから、官僚たちは、恥ずかしげもなく、こう言う。「林さん、労働者には、金(マネー)をもた
せてはいけないのですよ。金をもったとたん、働かなくなりますから。万博でも何でもいい。そう
いうのを開いて、労働者に金を使わせる。貯金させてはいけないのですよ」と。

 これはある官僚から、私が直接聞いた言葉である。だから万博に反対というわけではない。
経済界の論理というのは、そういうもの。

 それを知ってか、知らずか、地方の貧しい人たちが、バスに乗って、万博を見にくる。マンモ
スの像を見て、「マンモスだ」「マンモスだ」と、喜んでみせる。そこにある種の悲しさを覚えるの
は、はたして私だけであろうか。

 話がそれたが、この貧富の差が大きくなればなるほど、またまた受験競争が燃えあがる。だ
れしも勝ち組に入りたいと願っている。「せめて、自分の子どもだけは……」と願っている。それ
が子どもの受験競争に拍車をかける。

 1995年〜2000年にかけて下火になってきた、いわゆる受験産業が、このところまた息を
吹きかえしつつ。そんな事情の背景には、こんな事実が隠されている。

 悲しいかな、今、この日本で、「受験」に背を向けて生きられる人(子ども)は、ほとんど、いな
い。そしてその傾向は、これから10年、さらにはげしくなる。貧富の差がはげしくなればなるほ
ど、なおさらである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ジニ
指数 ジニ係数 貧富の差 受験競争)

【付記】

 満60歳という年齢は、本当に不愉快な年齢である。いくら「私はそうでない!」とがんばって
も、周囲の人たちは、年齢で私を見る。知的能力や運動能力では、ない。年齢で見る。健康度
もそうだ。「60歳の人は、こうだから……」という見方でしか、見てくれない。

 しかし私は、ひとりそれに抵抗している。近くに、60歳以上は、〜〜円引という理髪店があ
る。しかし私は、60歳になっても、ぜったいに、そういうサービスを利用しない。今から心に決
めている。

 「だれが、自分から、ジジイになってやるか!」と。

 その60歳になると、貧困感がどっと押し寄せてくる。先日、80歳をすぎた女性について書い
た。その女性は、郵便局だけでも、1000万円の貯金と、1000万円の国債をもっていた。さら
に手にした年金の100万円をどうしようかと、困っていた。

 実のところ、そういう女性の気持ちを理解できないわけではない。その女性は、ひょっとした
ら、「信じられるのはお金だけ」と、考えているのかもしれない。必死になって、お金にしがみつ
いているのかもしれない。私とて、油断をすれば、いつそうなるかわからない。すでにその傾向
が、見え始めている(?)。

 「心の豊かさとは何か」「知恵の豊かさとは何か」、今日はこれをテーマに、一日、考えてみた
い。

++++++++++++++++++

心の豊かさで、自分の原稿を検索
してみたら、いくつかをヒットしま
した。

それらを紹介します。

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●心の豊かさvs心の貧しさ

 K府に住んでいる、Rさん(女性)から、こんなメールが、届いた。題して、「悲しき笑い話」。

 「私の母は、今年、82歳になります。頭もしっかりしています。が、昔から、異常なまでに虚栄
心が強く、見栄を張ります。

 収入は、わずかな年金だけ。あとは私の兄が、毎月、いくらかの小遣いを送ってくれるので、
それで生活をしています。

 たとえばサイフの中には、いつも、10万円近いお金を入れて歩いています。スーパーでお金
を払うときも、わざとそのお金が、店員さんに見えるようにして払うのです。で、私が「そんな人
にまで、見栄を張ることはないでしょう」と言うのですが、私の言うことなど、まったく聞いてくれ
ません。

 が、ときどき、お金が少なくなるときもあるようです。そういうときは、一番上と、一番下に、1
万円札を置き、中に1000円札を、10枚くらいはさんで、あたかも、お金があるように見せか
けます。

 そういう母を見ていると、ときどき、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』
と、娘として、さみしくなります」(以上、要約)と。

 見栄を張る人は多い。しかもそれが人生観の基本になっているから、始末が悪い。また人生
の途中でそれに気がついて、改めるということもしない。だから80歳をすぎても、そのまま。

 が、この年代の人には、こういったタイプの人が多い。見かけはともかくも、心は貧しい。貧乏
な人の家にやってきて、ことさら金持ちであることを、吹聴してみせる。そして相手に対して、優
越感を覚え、それを楽しむ。

 そう言えば、バブル経済のこと、東南アジアの貧しい国々へでかけていって、札や、コインを
バラまいていた日本人がいた。やはり、心の貧しい人たちである。体中に、キンキラキンの宝
飾をぶらさげ、ブランド品で身を包んで、得意になっている人たちもそうだ。

 話はそれたが、それたついでに、もうひとつ。

 よく東南アジアやアフリカへでかけていって、その国や、その国の人々を紹介するテレビ番組
がある。そういう番組の中で、レポーターが、相手の国の貧しさや不便さに、ことさら驚いてみ
せたりすることがある。場違いな服装に、派手な装飾品。いかにも、リッチな、日本からやって
きましたというふうな様子をしてみせる。

 そのレポーターの心が貧しいというよりは、日本人全体の心が、まだそのレベルにあると考
えてよい。

 相手の人が貧しい生活をしていたら、その貧しさに、自分を合わせる。合わせた生活をす
る。相手がどういう感情をもつかを、相手の立場で思いやる。相手が、あなたに対して、羨望
(せんぼう)を覚えたとしたら、それはあなたの責任。決して、自分たちの優越性を見せつけて
はいけない。それがその国の人たちに対する、礼儀と言うもの。

 さて、冒頭の女性の話にもどる。Rさんの母親は、たいへん心の貧しい人と考えてよい。ある
いは心の豊さというものがどういうものか、わかっていない。Rさん自身が言っているように、
『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』ということになる。

 で、そうならないための、いくつかの教訓を考えてみた。

(5)あるがままの自分をさらけ出して、生きる。
(6)「私は私」をつらぬき、他人の目を気にしない。
(7)心の豊かさを追求し、世間体、見栄、体裁を気にしない。
(8)いつも、ともに(生きている)という原点において、自分を見つめる。

 が、油断すると、ふと見栄を張ることがある。自分が自分でなくなるときがある。自分の中に
潜むそういう邪悪性を知るための、一番、手っ取り早い方法としては、あなたの周辺にいる人
の中から、そういう人をさがすというのがある。その人の愚かさを、しっかりと認識する。あなた
のまわりにも、必ず、1人や2人はいるはず。

 そういう人を反面教師として、自分を高めるために、利用する。その人には悪いが、その人
の愚かさがわかったら、それを自分の生きザマの中に、生かしていく。

【補足】

 相手に羨望感をもたせて(=うらやましがらせて)、優越感にひたるというのは、愚劣な人間
だけがなしうる、軽率な行為である。

 金持ちであることを、見せびらかしたり、得意になったりする。昔、私の近所にも、そういう男
がいた。和服の呉服店を経営していて、ことあるごとに、「今日は、x10万円、もうけたよ」「これ
で今月は、x100万円だ」と言っていた。

 「オレは、それだけ力のある男だ」と言いたかったのだろうが、私には、ただのノーブレイン
(=おバカ)にしか見えなかった。

 玄関中に、高価な、鎧やトラの皮を飾っている人もいた。借金だらけなのに、外車を乗り回し
ている人もいた。根底に、何か、大きな劣等感がある人ほど、そういう行為に走りやすい。つま
りは、「私」がないから、そうする。

 20代や30代の若い人ならともかくも、50代、60代になっても、「私」がつかめきれていない
人というのは、それだけで、人生の敗北者(失礼!)と考えてよいのでは……? こう言いきる
のは危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケチな人

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ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

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 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ生活
が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳幼児期の愛
情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結びついたと考えると
わかりやすい。

 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心の許容範
囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買ってやった
ステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだから、「私のもの」
と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、できる
が……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、コンドー
ムというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、しかしその夫婦の
ばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばかりが
やたらと強く、自分で、お金を出したことがないという。出しても、10円単位までの割り勘。弟の
ほうが見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが多かったという。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまっていたとか、
など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は使わな
い。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊かさを
優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比べてみ
ると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋る。兄
弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金通帳をなが
めて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この浜松市で
も、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたことがある。で、私は、
その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグには、家
からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」という。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本人
は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を遠ざけ
る。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、自分の利
益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をすること
で、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができる。よい例が、
ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。あの
明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。


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もう1作、5年間に書いた原稿です。

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●無用の長物

 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思ってみ
ると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。

案内されるまま荷台を見ると、原木を切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立ったの
が、トチの木をそのまま削ったもの。トラの模様のようになっていて、それが両端を飾ってい
た。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五〇〇年です」と言った。

 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこでどういうわけ
か、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わが家の居間にデー
ンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。それに重い。二〇〇キロ以
上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも?

 この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。しかし無
用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。今はパソコン
と、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こういう時代だから、買っ
てくれる人もいないだろう。

 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の長物
が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれているのだけで
も、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。

そう言えば、当時の私は、毎週のようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の雑貨点
があったこともある。少し不便を感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。そのテーブ
ルもそんなときに買った。

 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。どの部
屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽しい。いや、それ
以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、解放感がある。どこ
かの旅館へ行ったような気分になる。

 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少なくとも、
心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になるのか、とも。もち
ろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、どうなのか? 

たとえばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、六脚
もある。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うことはない。
それに冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個も並
んでいる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使えるはず。全
体で、一六畳の広さがある。

 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買ってから
は、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひとつだけ役に
たっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。そしてその後悔
が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買おうとするたびに、私の
頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うのをやめよう」と。

 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。
(02−12−28)

●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブルで
す。ホント!
●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。(メ
レ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【心の豊かさ】(補記)

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サニー様、お元気ですか?

古い原稿ですが、こんな原稿が
出てきました。

(まだ私のマガジンを読んで
くださっていますか?

これを読んだとき、あのころの
初々しい自分が、どどっつと
思い出されました。)

日付をみると、2003年の3
月とあります。

長い年月を経ているようで、
たった4年前?

驚いています。

++++++++++++++++

●サニー様からの投稿より

 サニー様から、私のHPの掲示板に、つぎのような投稿があった。この問題について、考えて
みたい。

++++++++++++++++

はやし先生

(前略)

さて、今日のメルマガに、

(以下引用)だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親
としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた
視点で子どもを見るようにする。

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張
状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不
安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり
(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。(こ
こまで引用)

 うちの場合は反抗期も十分あったのに(今でも喧嘩になると『このくそ婆!』とかいうのです
よ!)。

結局小さい頃のその時期に私がその反抗を押さえつけていた(許してやらなかった)ことに発
端があるわけで、反抗しそこなったことが今マイナス型として現れているなら、この今のマイナ
ス型の時期も自我を形成していると考えていいんでしょうか?

 母親ばかりのせいではない、と自分を慰める一方、どこの家庭もそうでしょうが、母親が子供
にかかわる時間は膨大に多い。そのこどもとの時間を楽しめるときと、楽しめないときがあり、
それも仕方がないと思いながら、、、。

すみません。ここ2,3日ホルモンのバランスが悪いらしく非常に情緒が不安定で(私は周期的
にこういうことがあるのですが)誰とも話したくなく、また、周りのすべてに対し攻撃的になってい
ます。鬱症状というわけです。

友人に話しても、母親はみな多かれ少なかれそういうことがあるようです。
C新聞にも、卵巣機能の低下によるホルモンのバランスの崩れで、二〇代から四〇代の女性
が更年期障害の症状を訴えるケースが多いという記事が出ていました。専門医に相談するべ
しと。

でも実情は、お医者様は男性が多く、その症状を訴えても、『それくらいガマンできないか?』と
か『ジャー薬飲んでみる?』という程度のリアクションで、もう二度と相談するか!という結果に
なるのが常なのです。(私も友人もそうでした)

私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでしまい
そうですので、今はやめました。

とりあえず自分が情緒不安を周期的に持っている、ということだけキモに銘じ、そういう時はな
るべくヒトと接触を持たないように今は心がけています。

++++++++++++++++++

【サニー様へ】

 自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわかる
ほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というようなことが書いて
ありましたが、そこまで進む人も少なくありません。

 若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いにあるリ
オへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブラジルは、
貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、そういう人たちを
見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子どもたちが、どこからと
なく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印象に残っているのは、バスから
おりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)

 その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私はそういう子
どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いました。「子どもを育て
る力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。

 しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、これ
またひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっとおとなになっ
てからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが……。)「ひどい」と
か、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなのですね。

 私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」「育ててや
った」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませんが、そういう言葉
の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とうとう爆発。私が高校生のと
きだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼んだ!」と、母に叫んでしまいま
した。

 で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧し
さなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったことはありませんで
した。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。ですから歩くたびに、キュッキ
ュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。ですから近所の家に、それがついたと
き、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年生のときです。

 貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。……と考え
ていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかということになる
と、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧しそうでしたが、見た感じ
は、本当に楽しそうでした。

 一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵まれた生活
をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、どうもそうではないよ
うな気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなくてもよいようなことばかり、一
生懸命している? そんな感じがします。

 さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。

 乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、い
わゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自分を、あるが
ままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、全幅に受け止めてくれ
る。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかな
い」という意味です。

 この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子どもは、そ
の「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。ばあいによって
は、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりすうようになります。おとな
の世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前ですが、家族の世界では、本来、こう
いうことは、絶対に、あってはいけません。

 おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざいな態度を
する。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そういうことが、「一定
のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。

 これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。悪い言葉
を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、子どもを、抑え
つけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したいことをさせながら、しか
し軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だということです。

 また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝ています。
で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、そういうとき、よく
ワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」と言うと、「あんたでし
ょ!」と、言いかえしたりしたからです。

 しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に出し、泳ぐと
きのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすったり、吐いたりしていま
す。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、しかしそれも、ここでいう「さらけ
出し」なのですね。

 そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安心感を
もとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。

 幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、ご存知
のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子どもをほめた
り、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのが
わかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。

 しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、私との
間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」ということかも
しれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に入っていく……。そ
んな感じになります。

 一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「すなおさ」が
ありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひねくれる。いじける。つ
っぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを閉じてしまいます。極端な例
では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。

 が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこで、ショ
ーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマアラシが、体を
暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキズつけてしまう。しかし
離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところで、暖めあう。自分の位置を決
める……。

 このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそこで
は、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、また引っ込
む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、ちょうどよいところ
で、自分の位置を決める……。

 このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られているの
が、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症などがありま
す。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障害にまで発展し
ます。

 が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といいます。相
手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。サニーさんが、ご
指摘なのは、このあたりのことなのですね。サニーさんの問題を、もう少し整理してみると、こう
なります。

(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。

 たしかにそういう親は、多いし、サニーさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。いま
だに親の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす人もいま
す。しかし問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおらかな愛情」の中
で、それができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身が気にしないケースもあ
れば、軽く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。

 そこで今度は、親自身の問題ということになります。

 不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんでいませ
ん。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子どもに対して
します。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育てが、どこかぎこちな
くなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負い先行型、心配先行型、不安
先行型の子育てをすることもあります。

 そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもしれません
が……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなさに気づくわけです。「私はどうして
自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくると、今度は、原因をさ
がし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私をこんな親にしたのは、私の両
親が悪いからだ」と、です。

 「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでし
まいそうですので……」と、サニーさんは、書いておられます。実のところ、私も、同じように、悩
んだことがあります。

 が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べていく
だけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今から思えば、貧
乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よかったという思いもあ
ります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向けられていったと思います。

 今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけています。
「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親が不幸だっ
たのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義名分もない、メチ
ャメチャな戦争だったのです。

 ということで、自分なりに処理しました。そこでサニーさんの件ですが、「(親を恨んでしまいそ
うなので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、サニーさんは、どこかよい
子ぶろうとしている。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きになったのは、か
なり深い部分で、サニーさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられるからです。むし
ろ、これはすばらしいことなのです。

 実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世代に伝えて
しまうところにあります。もし仮にここでサニーさんが、自分の心を抑えてしまうと、今度また、同
じ失敗を、サニーさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教育の世界では、「世代
連鎖」とか、「世代連覇」とか言います。

 これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってしまいま
す。

 しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、入りま
す。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮することはありません。
そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親から受け継いだも
の)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。

 私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そういう意
味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、何かにつけ
て、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振るったことも、しばし
ばあります。

 しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであっては
いけないことに気づきました。

 さて本題ですね。長い前置きになりました。

 残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。「自
我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世界では、
「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界では、「つか
みどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいいま
す。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイナスの自我)という考え方には、
なじみません。

 で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我ということ
にはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そがい)」という
ことになるかもしれません。しかしサニーさんのお子さんのばあい、むしろ、今、不登校という形
であるにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることからして、強烈な自我がある
と考えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿は、最後に張りつけておきます
から、また参考にしてくいださい。

 以上、こうしてサニーさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみてくださ
い。

 過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、と。

 つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないというこ
と、です。サニーさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。その「事実」だ
けを見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくということです。悩んだところ
で、過去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切なことは、その「今」を、懸命
に生きていく。結果は、必ず、あとからついてきます。

 お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、サニーさんも、
もう気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向かって、さり
げなく、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。

 「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き勝手なこ
とをしなさい」と。

 「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思ったとしたら、
サニーさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、親子の信頼関
係は結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずサニーさんのほうが子どもに向かっ
て、さらけ出しをしなければなりません。

 で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。いくら金銭
的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子どもの心がゆが
むことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、もしですよ、サニーさん
の子どもたちが、そのことをサニーさんに教えようとして、今の問題(問題という言い方も好きで
はありませんが……)をかかえているとしたら、見方も変わってくるのではないでしょうか?

 サニーさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、サニーさんとは、見方も違うかもしれませ
んが、人間が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がします。
ほんのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それがあのブラ
ジルの子どもたちです。

 だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中で、いつ
も幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強だの、進学だ
のと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしまった。そして勝手
に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだしてしまった。そして新しい問
題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子どもたちが、今の日本の子どもたちより
不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本の子どもたちが、ブラジルの子どもたちよ
り、幸福だとは、とても思えないのです。

 この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立ちかえ
って考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になってしまいました
が、また投稿してください。喜んで返事を書きます。








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【ゲーム中毒】

++++++++++++++

おとなりの韓国では、インターネット
依存症に関する相談件数が、03年の
2559件から、06年の5万1777件
へと、急速にふえているという(韓国情報文化
振興院)。

しかしこれはそのまま、日本の2〜3年後の
問題と考えてよい。

++++++++++++++

おとなりの韓国では、子どもたちのゲーム中毒が、
問題になっている。今朝の朝鮮N報には、つぎのよう
にある。(読みやすくするため、私のほうで、文章を
少し改変した。)

++++++++++++++

【朝鮮N報の記事より】

 ソウルに住む中学3年生のカン君(15歳)は、小学1年生の時、初めてコンピュータの使い方
を教わった。 

 家で1日1時間を越えない程度にインターネットゲームをしていたカン君だったが、5年生のこ
ろからネットカフェに出入りするようになった。1日2〜3時間、ゲームするようになった。

やがてカン君はゲームをせずにはいられないようになっていった。小学校では上位だった成績
も、中学校に入ったころから急に下がった。

このころになってやっと、カン君の両親は息子が毎日ネットカフェで、4〜5時間ゲームをしてい
ることを知った。中2になると、カン君は下校後から夜12時までゲーム漬けになっていった。

夜遅くになってもカン君が家に戻らないため、両親は近所のネットカフェを捜し回った。しつけ
のために、ムチを手にした親に、カン君は、「どうしてゲームをさせてくれないんだ!」と食って
かかった。

そしてゲームをやめさせると、極度に神経が過敏になったり、手が震えたりする「禁断症状」が
出始めた。カン君は今年初めに、韓国コンピュータ生活研究所に相談し、以後、現在にいたる
まで、治療を受けている。

◆寝言でもネットカフェ

 ネットカフェに通う子どもが陥りやすいゲーム依存症は、うつ病などの精神疾患をはじめ、深
刻な症状に至るケースがある。サイバー空間に入り込んだ子供たちの精神が、麻薬に侵され
たようになるのだ。

 ゲーム依存症になった子供たちは、ゲームの中のバーチャルな世界と現実の区別がつかな
くなったり、ゲーム用語を寝言で言ったりするようになる。

 ソウル市中浪区面牧洞に住むユン君(高3)は昨年初め、オンラインゲーム「リネージュ」には
まっていた。自宅近くのネットカフェで1日5〜6時間ゲームをし、週末はネットカフェで夜を明か
した。

そして家に戻ると失語症に近いと思われるくらいに、口数が減った。話す時も視線が定まって
いない。眠っていても「アイテム(ゲームで使う武器)が必要なのに…」と寝言を言う。両親と共
に相談所を訪れたユン君は、典型的な「ゲーム依存症」と診断された。

 45歳の男性は、高1の息子のことが心配でたまらないという。息子の成績が下がる一方な
ので、息子が通っているという読書室(自習・受験勉強用にパーテーションが設けられた机の
ある私設スペース)に行ってみた。

すると読書室の経営者は、「そういう名前の生徒は来たことがない」と答えた。そこで夜遅く帰
宅した息子を問いただすと、息子は「読書室利用料としてもらっていたお金は全部、ネットカフ
ェのゲーム代に使ってしまった」と告白した。

韓国コンピュータ生活研究所のオ・ギジュン所長は「韓国の青少年文化にはすでにインターネ
ットゲームが深く浸透している。昔の子供たちは『○○時に△△で会おう』と約束していたが、
最近では、『○○のネットカフェで、△△ゲームのサーバーに入って来いよ』と言うようになっ
た」と話す。

 大韓青少年精神医学会が今年初め、インターネット依存症で医療機関の治療を受けている
青少年203人を対象に調査を行ったところ、患者の90%以上が男子学生で、そのうち70%以
上が、大規模マルチプレイヤー・オンラインゲーム(MMOG=多人数が同時にアクセスし、そ
れぞれの役割を担って行うゲーム)にはまっていた。

インターネットゲーム依存症は中学生が43・3%で最も多く、ついで高校生28・3%、高校卒業
者が10・3%だった。

中毒患者は11歳から急増し始め、14歳が最も多かった。このうち85%はうつ病や衝動抑制
障害(何らかの衝動を自分で抑制できない障害)といった精神疾患を経験していた。

+++++++++++++++

ここまで読んだだけでも、この問題が
いかに深刻なものかがわかる。

しかしこの問題には、さらに先が
ある。

朝鮮N報は、つぎのようにつづける。

+++++++++++++++

●暴力を助長するゲーム依存症

 ゲーム依存症になった子供の共通点は、暴力的な性格になってしまうということだ。

 仁川市に住むウさん(44)はゲームに没頭する中3の二男を叱ったとき、驚いた。普段は物
静かな二男が、突然「だからって俺がどう変わるって言うんだよ!」と、叫んだというのだ。

ウさんは「内気だとばかり思っていた二男が、ゲームにはまって性格が変わってしまった」と力
なく語った。

 一方、ゲーム依存症が重大な犯罪につながるケースもある。先日、京畿道盆唐のショッピン
グセンターの駐車場で20代の女性客を殺害し、約11万ウォン(約1万4700円)を盗んだキ
ム容疑者(26)は「ゲーム依存症」だった。

また先月、釜山では暴力的なゲームに熱中していた中3男子が、これを叱った祖母に暴力を
振るい、死亡させるという事件が起きている。今年4月に米バージニア工科大学銃乱射事件を
起こしたチョ・スンヒ容疑者(23)=死亡=も、友達がいず、ゲームに没頭していたという。

 韓国情報文化振興院が全国の青少年相談所の相談例を集計したところ、インターネット依
存症に関する相談は昨年5万1777件に上り、5年前の02年の2559件に比べ約20倍にも
急増したという。このうち「ゲーム依存症」の相談は80・3%に達したという。

++++++++++++++

さらに朝鮮N報は、どんな子ども
がゲーム依存症になりやすいかに
ついても、書いている。

たいへん参考になるので、そのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++

●ゲーム依存症になりやすい子ども

ゲーム依存症になりやすいのはどんな子供だろうか。 

 専門家は「ゲーム依存症は習慣によるものが多いが、先天的に衝動を抑制する脳の機能が
弱い子供がかかりやすい」と話す。

小さいころからキレやすく、気が短ければ短いほどゲーム依存症にかかる確率が高いというこ
とだ。

ナウ精神科医院のキム・ジンミ院長は、「脳の自律調節機能が弱く、衝動的な欲求を抑制でき
ない場合、ゲーム依存症になる可能性が高い。こうした子供はゲームのバーチャル空間に登
場する主人公と自分の区別がつかなくなり、深い依存症に陥る」と説明する。

 一方、青少年だけでなく、大人のゲーム依存症も深刻な問題になりつつある。

米国医師会(AMA)はゲーム依存症を精神疾患の1つとして分類する案を検討している。

建国大学付属病院神経・精神科のハ・ジヒョン教授は、「ネットカフェにいるゲーム依存症患者
は、注意欠陥・多動性障害(ADHD)や、うつ病といった精神的な問題を起こすが、これは性格
的な要因だけでなく、家庭不和などの環境的な要因が影響しているケースも少なくない。親が
まず、子供がゲーム依存症になった原因を分析し、対応する必要がある」と警告している。
(以上、朝鮮N報・6月28日号)

+++++++++++++

日本でも、「ゲーム脳」という
言葉を使って、この問題について、
いろいろな側面から、検討が
加えられている。

現在は、「ゲームは危険である」という説と、
「ゲームは危険ではない」という説が、
入り乱れている状態と考えてよい。

さらにおかしな現象として、
こうしたゲームの世界を批判したり、
批評したりすると、それに対して
ものすごい反発が起きるということ。

私も7年前に、『ポケモン・カルト』
(三一書房)を発表した。が、この本に
対する反発には、ものすごいものが
あった。

いまだに、「お前は、オレたちの夢を
破壊するのか」という抗議のメールが
届いたりする。しかも20歳を過ぎた、
大(だい)のおとなたちから……。

こうした現象は、「ゲーマーたちの世界」が、
カルト化しているためによって起こるものと
考えてよい。

冒頭に書いたように、韓国で今、起きている
問題は、数年後の日本の問題と考えてよい。

++++++++++++++

私が少し前(05年、8月)に
書いた原稿を、もう一度、
そのまま紹介します。

++++++++++++++

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲー
ム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東
北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介す
る。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもの脳が乱舞するとき】

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師
が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前
の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型
の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌な
どに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということにな
る。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。
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