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●暴論は疑う

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子育ての世界には、暴論と
呼ばれるメチャメチャな
育児法がある。

そうした暴論には、みなさん、
くれぐれも、ご注意!

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 少し前、子どもの不登校や情緒障害を、怒鳴り散らして「治す(?)」という指導者がいた。テ
レビでも何度か紹介されたことがあるが、ただただ(?)クェスチョンマークだけが並ぶような指
導法だった。

 ときとしてこういう暴論が、世間をにぎわす。少し前には、Tヨットスクールというのがあった。
死者まで出す、めちゃめちゃな指導法だったが、当初は、マスコミにも取りあげられ、結構話題
になった。
 
 私はずっと子育てや、育児論を最前線で見てきたが、結論はただひとつ。「暴論は疑う」だ。

 子どもの心は、ときとしてガラス箱のように、デリケートでこわれやすい。そしてこわれた心
は、こわれたガラス箱のように、簡単には、もとに戻らない。それこそ一年単位の時間と努力
が必要。それを数回、怒鳴っただけで治す(?)とは! 私もその指導者が書いた本を、二冊
買って読んだが、正直言って、「?」の本だった。一冊は、自分が高校生のとき、父親の車を盗
んで、無免許で乗り回したとか、そういう話が書いてあった。つまり「そういう経験が、今、役に
たっている」と。

 それ以上のことは私にはわからないので、反論のしようがないが、子育てには、近道も抜け
道もない。あるとすれば、あなたがそこにいて、子どもがそこにいるという事実。その事実だけ
を冷静に見つめて、子育てをすればよい。仮に子どもに問題があったとしても、「なおそう」と
か、「なおしてやろう」とか、さらには、「なおさなければ」と思う必要はない。今ある事実を、ある
がままに受け入れて、その中で、あなたとあなたの子どもの人間関係をつくればよい。

 つぎの原稿は、こうした暴論について書いたもの。

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(暴論1)

スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない!)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本独特のおかしさは、
外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもた
ちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こ
ういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけ
て、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものでき
る仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせれ
ばいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レン
ジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうス
キをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ
息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。

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(暴論2)

「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の評論家(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その評
論家が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその評論家の、そういう言い方は卑怯(ひきょう)だと思う。強い立場のものが、一方的
に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするな
ら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間
関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。
切れないと思っているのは、親だけで、親はその幻想の上に安住しているだけ。そのため子ど
もの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれの
おかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか!」と言うのと同じ。たしかにそうか
もしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに
言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。

私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意識は
ほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあって
も、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこにも
ないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の評論家の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

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(暴論3)(少し前に掲載した原稿です)

子どもにはナイフを渡せ!

●墓では人骨を見せろ?

 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?

 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。

●子どもにはナイフをもたせろ?

 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひ
っこめざるをえなかったのだろう。ナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評
論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にあ
る。

●ゴーストライターの書いた本

 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家が
いた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆
箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解する
ことも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ること
ができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよ
いものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイ
レを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま
私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、
こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。

●タレント教授の出世術

 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライタ
ーをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい

 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論

 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 さらに子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととし
て考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あな
たはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち

 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。

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 こうした暴論がなぜ生まれるか。その背景には、独断と独善がある。だからといって、私の意
見が正論とは思わないが、私のばあい、すべての授業を公開することで、つまりいつも親の視
線と監視のもとに自分の教育を置くことで、そのつど軌道修正してきた。いまだかって、非公開
で授業をしたことはないし、参観を断ったことがない。これは教育を組みたてるときには、たい
へん重要なことだと思う。あえていうなら、世間的な常識の注入ということになる。これがない
と、教育者も評論家も、軌道を踏みはずすことになる。理由は、簡単。英語でも、教師のこと
を、「子どもの王(King of Kids)」という。つまり独裁者。世間的な常識の注入がないと、その独
裁者になりやすい。





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●自然教育

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自然教育は、どうあるべきか。
その前に、「自然」を、私たちは、
どう考えたらよいのか?

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 地球温暖化の問題は、年々、深刻さをましている。しかしこういう言い方は、ほかの国の人た
ちには失礼かもしれないが、日本ほど、ラッキーな国はない。

 四方を海に囲まれ、しかも中央には、三〇〇〇メートル級の山々を連ねている。これから
先、地球温暖化の問題が起きてくるとしても、日本に被害がおよぶのは、最後の最後。海面上
昇にしても、また水不足にしても、当面は心配ない。が、油断してはいけない。そのひとつ。食
料とエネルギーの確保。

 ……というようなことは、私が書いても意味がない。そこでここでは、もう一歩、先に話を進め
る。

 いろいろ誤解があるようだが、世界の中でも、日本人ほど、自然に対して破壊的な民族は、
そうはいない。よく「日本人は自然を愛する民族だ」というが、これはウソ。日本に緑が多いの
は、たまたま放っておいても緑だけは育つという、恵まれた環境だからにほかならない。

 つぎに「自然を大切にしましょう」と、声高に叫ぶのは勝手だが、その「自然」がやさしいの
は、ごく限られた国々でしかない。たとえばアラブの、つまり砂漠の国々へ行って、「自然を大
切に」などと言おうものなら、「お前、アホか!」と言われる。ほとんどの国では、自然というの
は、人間が戦うべき「脅威」ということになっている。つまり、これらの点でも、日本は、本当にラ
ッキーな国である。

 しかしもともと日本人は、自然に対して、受け身の民族であった。が、その姿勢が大きく変化
したのは、戦後のことである。それについて書いたのが、つぎのエッセー。

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この私の自然論は、
少し難解なため
興味のある方だけ、
お読みください。

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自然論

 フランシス・ベーコン(1561−1626、イギリスの哲学者)は、「ノーヴェム・オルガヌム」の中
で、こう書いている。「まず、自然に従え。そして自然を征服せよ」と。このベーコンの自然論の
基本は、人間と自然を、相対した関係に置いているというところ、つまり人間がその意識の中
で、自然とは別の存在であると位置づけているところにある。

それまでのイギリスは、ある意味で自然に翻弄されつづけていたとも言える。つまりベーコン
は、人間の意識を自然から乖離(かいり)させることこそが、人間の意識の確立と考えた※。こ
の考えは、その後多くの自然科学者に支持され、そしてそれはその後さらに、イギリスの海洋
冒険主義、植民地政策、さらには1740年ごろから始まった産業革命の原動力となっていっ
た。

 一方、ドイツはまったく別の道を歩んだ。ベーコンの死後から約100年後に生まれたゲーテ
(1749−1832)ですら、こう書き残している。「自然は絶えずわれわれと語るが、その秘密を
打ち明けはしない。われわれは常に自然に働きかけ、しかもそれを支配する、何の力ももって
いない」(「自然に関する断片」)と。さらにこうも言っている。「神と自然から離れて行動すること
は困難であり、危険でもある。なぜなら、われわれは自然をとおしてのみ、神を意識するからで
ある」(「シュトラースヴェルグ時代の感想」)と。

ここでゲーテがいう「神」とは、まさに「自己の魂との対面」そのものと考えてよい。つまり自己の
魂と対面するにしても、自然から離れてはありえないと。こうしたイギリスとドイツの違いは、海
洋民族と農耕民族の違いに求めることもできる。海洋民族にとって自然は、常に脅威であり、
農耕民族にとっては自然は、常に感嘆でしかない。海洋民族にとっては自然は、常に戦うべき
相手であり、農耕民族にとっては自然は、常に受け入れるべき相手でしかない。が、問題は、
イギリスでも、ドイツでもない。私たち日本人はどうだったかということ。

 日本人は元来農耕民族である。ドイツと違う点があるとするなら、日本は徳川時代という、世
界の歴史の中でも類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治を体験したということ。そのためその
民族は、限りなく従順化された。日本人独特の隷属的な相互依存性はこうして説明されるが、
それに反してイギリス人は、人間と自然を分離し、人間が自然にアクティブに挑戦していくこと
を善とした。ドイツ人はしかし自然を受け入れ、やがてやってくる産業革命の息吹をどこかで感
じながらも、自然との同居をめざした。

ドイツ人が「自然主義」を口にするとき、それは、自然への畏敬の念を意味する。「自然にある
すべてのものは法とともに行動する」「大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する」(「断
片」)と書いたカント(1724−1804)に、その一例を見ることができる。一方、日本人は、自然
を従うべき相手として、自らを自然の中に組み入れてしまった。その考えを象徴するのが、長
岡半太郎(1865−1950)である。物理学者の彼ですら、こんな随筆を残している。「自然に
人情は露ほども無い。之に抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる。之に順ふものは、恩恵に浴
する」と。

日本人は自然の僕(しもべ)になることによって、自然をその中に受け入れるというきわめてパ
ッシブな方法を選んだ。が、この自然観は、戦後、アメリカ式の民主主義が導入されると同時
に、大きく変貌することになる。その象徴的なできごとが、田中角栄元首相(1972年・自民党
総裁に就任)の「日本列島改造論」(都市政策大綱、新全総、国土庁の設置、さらには新全総
総点検作業を含む)である。

 田中角栄氏の無鉄砲とも思える、短絡的な国家主義が、当時の日本に受け入れられたの
は、「展望」をなくした日本人の拝金思想があったことは、だれも疑いようがない。しかしこれは
同時に、イギリスからアメリカを経て日本に導入されたベーコンイズムの始まりでもあった。日
本人は自らを自然と分離することによって、その改造論を正当化した。それはまさに欧米では
すでに禁句となりつつあった、ハーヴェィズム(「文明とは、要するに自然に対する一連の勝利
のことである」とハーヴェィ※2は説いた)の再来といってもよい。

日本人の自然破壊は、これまた世界の歴史でも類をみないほど、容赦ないものであった。そ
れはちょうどそれまでに鬱積していた不満が、一挙に爆発したかのようにみえる。だれもが競
って、野や山を削ってそれをコンクリートのかたまりに変えた。たとえば埼玉県のばあい、昭和
三五年からの四〇年間だけでも、約二九万ヘクタールから、約二一万ヘクタールへと、森林や
農地の約三〇%が消失している※3。田中角栄氏が首相に就任した1972年以来、さらにそ
れが加速された。(イギリスにおいても、ベーコンの時代に深刻な森林の減少を経験してい
る。)そこで台頭したのが、自然調和論であるが、この調和論とて、ベーコンイズムの変形でし
かない。基本的には、人間と自然を対照的な存在としてとらえている点では、何ら変わりない。
そこで私たちがめざすべきは、調和論ではなく、ベーコンイズムの放棄である。そして人間を自
然の一部として再認識することである。私が好きな一節にこんなのがある。ファーブルの「昆虫
記」の中の文章である。

「人間というものは、進歩に進歩を重ねたあげくの果てに、文明と名づけられるものの行き過ぎ
によって自滅して、つぶれてしまう日がくるように思われる」と。

ファーブルはまさにベーコンイズムの限界、もっと言えばベーコン流の文明論の限界を指摘し
たともいえる。言い換えると、ベーコンイズムの放棄は、結局は自然救済につながり、かつ人
間救済につながる。人間は自然と調和するのではない。人間は自然と融和する。そして融和す
ることによってのみ、自らの存在を確立できる。自然であることの不完全、自然であることの不
便さ、自然であることの不都合を受け入れる。そして人間自身もまた、自然の一部であること
を認識する。たとえば野原に道を一本通すにしても、そこに住む生きとし生きるすべての動植
物の許可をもってする。そういう姿勢があってこそ、人間は、この地球という大自然の中で生き
延びることができる。
 
※……ベーコンは「知識は力である」という有名な言葉を残している。「ベーコンは、ルネッサン
ス以来、革新的な試行に哲学的根拠を与えた人物としても知られ、『自然科学の主目的は、人
生を豊かにすることにある』とし、その目標を『自然を制御し、操作すること』においた。この哲
学が、自然科学のイメージを高め、将来における科学の応用、さらには技術や工学の可能性
を探求するための哲学的根拠となった」(金沢工業大学蔵書目録解説より)。

※2……ウィリアム・ハーヴェイ(1578−1657)、医学会のコペルニクスとも言われる人物。
彼は「自然の支配者であり、所有者としての役割は、人類に捧げられたものである」と説いた。

※3……埼玉県の「森林および農地」は、昭和35年に296・224ヘクタールであったが、平成
11年現在は、211・568ヘクタールになっている(「彩の国豊かな自然環境づくり計画基礎調
査解説書」平成九年度版)。





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●孫とのつきあい

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孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

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 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつきあ
いについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(2)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調査結
果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはならず、(2)
かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなったとも
考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先日も、実家へ
帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母親は、みなに抱きかか
えられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになった。母親
に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 「まるで
別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、「しま
った!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、あわ
れな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、半ば
無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」という思
いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほうだか
ら、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれでよいとは思
わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少し脱線
したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。






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●コンフリクト(葛藤)

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人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

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 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリクト)が
起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされる。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚は、2泊
3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうしたらいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつけてい
ることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型という。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのもいや
だが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、ひきつ
ける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行けば、
さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)の接近・回
避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロール値があがってし
まう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コンフリク
ト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知らな
い人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、そこに
私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまとめながら、何
かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほしい。し
かし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たやすいものではなかっ
た。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭の中が、バラバラになるよう
な感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここでいうコ
ンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべりしている
人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが実に
よくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」という思
いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、そういう講演会
が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲ってくる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その場で、や
さしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひかえてくださいね」
と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、余談だ
が……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、すなおに言
ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、できる
だけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたいが、そこまでは
言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意しても、知らぬ
顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気がつくまで、数度、あ
るいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべりしてい
る人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよい。迷
惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、守るべき、マ
ナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。





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●息子や娘の結婚

++++++++++++++++

息子や娘の結婚、さらには結婚式に
ついて、どのように考えたら、よいのか。

自分の息子たちのこともあり、このところ、
それについて、よく考える。

++++++++++++++++

 息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘に、そ
の相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立感を覚える。

 これは、私だけの感覚か。

 最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかということ。
……ではないか?

 「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、保守的にな
る。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。

 もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、意味が
ない。

 そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取り越し苦
労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。

 で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生まれ育った
環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。が、何よりも気に
なるのは、(5)その相手の性格、である。

 おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よい。すな
おな心であれば、さらによい。

 ……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、それを求
めてしまう。

 ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身につくもの
か? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎると、いろいろな模
様が、そこに現れるようになる。

 つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どうせ結婚す
るなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。映画『タイタ
ニック』の中の、ジャックとローズのように、である。


●結婚式(PART2)

 数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コメント
が届いている。

 「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性からは、
こんなものも……。

 「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。

 で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40万円程
度とのこと。それでも、豪華なほうだという。

 二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、10万
円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパーティに、10万
円程度。計、総額で、30万円弱。

 もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。

++++++++++++++++++

●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。浜松市内の、あるホテルであげた。費用は、350万円プラ
ス150万円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、それ
は基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、ちがってい
た。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でやめれば、
それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくのムダづ
かい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれないが、世間
に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こうした結
婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人が、にわかクリ
スチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろん牧師もニセモノ。

 (オーストラリアでは、ニセ牧師を演じて、お金を取ると、逮捕されるそうだ。)

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩ってくれる
人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今に見
る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいというのなら、自分
たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、3万円
から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、数え切れ
ないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の女性の両親
が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにがんばっても、角が
立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世術の一
つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)

++++++++++++++++

【追記】

 結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見るたびに、
「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。

 昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネをして、
どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化なのだろう
か。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。

 アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、結婚式
のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、ほとんどを準備
する。

 すると、その女性(30歳)は、こう言った。

 「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメリカには、
定着しないでしょうね」と。

 そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、新婦の
友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」という意味
が、ちがうのではないのか?

 いろいろ考えさせられる。

 ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなかった。
それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」と聞いたら、
「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。

 毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじることな
ど、できただろうか。




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●すなお論

●もう1人の私

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心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。

そうでない人を、そうでないという。

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 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、本当の自分
がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自分でない自分が生まれ
てくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないことかもし
れないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師ということにな
る。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言われてい
るうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作ってしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、ことさら、嫌っ
てみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってしまう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をかぶりな
がら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこやかに笑いながら、
その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともとそういう
もの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、たいへんなことに
なってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれば、そ
の質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものではないか。あ
るいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、外科医が、焼肉を
嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウナギの蒲焼き屋のおや
じが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに幼児の世
界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとっての幼児教育という
のは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であるという
こと。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの世界でいうところ
の人間関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30歳くら
いのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがっていたか
らだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているように感じた
こともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリと笑って、別のことを言
う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに頭の中
で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、おまけに偏頭
痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私は、ま
さに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人格者の教師
を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、それ
に近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、とても
外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すために、別の
意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早く別れた
いと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に善人ぶって、自分を
飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、みなさん
は、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?






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●ギルフォードの立体知能モデル

++++++++++++++++

子どもの知能は、多方面から、
多角的に判断しなければならない。

ある一面だけを見て、一方的に
判断すると、子どもを見誤る
原因となる。

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 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。1967年のことだ
った。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集部員
が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い衝撃を
受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。それらは
すぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『なかよし学習』
という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡散的思
考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けているが、具体
性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、知能因子
を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サーストンの
「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜんとしていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQという言葉も
生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つまり因子と言えない
因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野だけ
ではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右脳教育と
いう言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書くことが
できない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無理なのかもしれな
い。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、10万
個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。その数は、
10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思考の可能性を、ワ
クの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。
(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス)




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●幻惑からの脱出

++++++++++++++++

親子であるがゆえに生まれる、
強烈な関係。そしてそれが生まれる
束縛感。

これを心理学の世界では、「幻惑」という。
しかし実際には、そうでない親子も多い。

そうでないというのは、親子関係と
いっても、心理学の教科書どおりには
いかないケースも、あるということ。

++++++++++++++++
 
テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いている。そ
の少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所も転々と、か
えているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛をともな
う。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる束縛感には、相当
なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれしも考える
ところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こんな例があ
る。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が必要
になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、大企業
のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費を渡し
ていた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」というよ
うな会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、遊びまわっ
ていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車まで買
い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが苦しむ
ことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れない。もちろん
親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子であるため、絆(きず
な)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、人格否定、自己否定にまで進んで
しまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこと、近
所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に出ること
ができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分は人間として、
失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところまで行く
と、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、この幻惑から、の
がれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。これから
は、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないような会話かもし
れないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもあるような、
ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たちのことは、
ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、
「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、無数のという
か、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、行きつくところま
で、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。どこかで殺
人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻惑から逃れることは
できない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いというこ
と。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。母親
は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、何も、
親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。本当は、あん
な母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だなんてほめられる
と、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、かなり
深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦しんでい
るなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは割り切って、つ
きあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同じような幻
惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そそのと
き、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれができ
ないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。しかしそれ
は、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻惑から
解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親自身が、子
どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、ベタベタ
の親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それを強要しては
いけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれば、それは子ども
の問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面に
作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かというと、
そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自我群というものが
どういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるのね。
何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、重圧
感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものである。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、父親が、
息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰ったのですが…
…」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前は、
人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたことで、心に
大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そういうことを
するな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばりつける人が、よく用
いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言いますよ。『ま
た、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、扱い方
がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。だから、適当
に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう人たちに抵抗しても、意
味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるような問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子どもが、
いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。親孝
行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。家の心配?
 バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きていきなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことになる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の愛というも
のではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。このタイ
プの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、それ。
「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」とか。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、出して
やった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労している姿を、
「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫(その母親の
長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当たらな
ければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか……とい
うようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私という)親の悪口を
言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になるのを楽し
みに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、例外
とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、他山の石と
なる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというより、家族
の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともある。「家
族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。息子がい
ますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」ということ
か。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけない。親
は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるということは、それく
らい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。




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●貞操義務?

+++++++++++++++++++

日本の法務大臣が、こう言った。
「(妻の)貞操義務や性道徳についても
考えないといけない」と。

離婚後300日以内問題に関して、である。
つまり日本には、離婚後300日以内に生まれ
た子どもは、前夫の子とするという民法の規定がある。

それについて、「貞操義務」とは?

+++++++++++++++++++

 離婚後300日以内に生まれた子どもは、前夫の子とみなされる。これについて、今度法務省
は、つぎのような通達を出した。

「離婚後の妊娠が明らかな場合に限り、医師の証明書があれば、裁判の手続きを経ずに戸籍
の窓口で今の夫の子と認めるよう、民法の運用を見直す」と。

 わかりやすく言えば、離婚後300日以内でも、医師の証明書があれば、そのとき交際中の
男性の子とみなすことが可能になったということ。

 が、N法務大臣が、これに「待った!」をかけた。N法務大臣は、「通達」が離婚前の妊娠を
対象にしていないことについて、こう言った。「貞操義務や性道徳についても考えないといけな
い」「婚姻中の妊娠は、今の夫の子とする民法の根幹を揺るがすもので認められない」と。

 この問題はさておき、つまり「離婚後300日以内問題」はさておき、(貞操義務)とは、何か?
 私の記憶のあるかぎり、私はこの言葉を、2、30年ぶりに耳にした。だいたい「義務」という
のが、おかしい。まさか法的義務というわけでもあるまい? もし法的義務なら、不倫をした妻
は、義務違反で、処罰されることになる。昔は「不貞罪」というのがあった。

 このばあい、(義務)というのは、(夫に対する誠意)ということになる。つまり貞操を守るかど
うかは、あくまでもその人の人間性の結果。もしこんな(義務)が是認されるなら、(炊事義務)
(掃除義務)(洗濯義務)などなど、なんでも(義務)という言葉で片づけられてしまう。

 それに妻側にだけ、貞操義務があるという発想も、おかしい。貞操などというものは、守りた
い人は守ればよい。一方、いくら「守れ」と言っても、守れない人は守れない。どこまでも個人的
な問題である。そういう点で、そもそも法的アミをかけることには無理がある。

 そういうことを百も承知で、「貞操義務」とは?

 (性)が、(妊娠)(出産)、さらには(結婚)というワクから解放された今、その(性)を、今、どう
やって道徳や倫理の世界に、引きもどそうというのか。むしろ世界は、(性)のさらなる解放に
向かって、速度をまして進みつつある。

 保守主義が正しいと思うのは、そう思う人の勝手。自分のもつ価値観を、他人に押しつけて
はいけない。一夫一妻制にしても、それが、人間が守るべき絶対的な制度であると、だれも、
思っていない。

 そんなわけで、「300日以内でも……」となった。今では、DNA鑑定という方法もある。納得
できない人は、最終的には、DNA鑑定という手段を選べばよい。ものごとは、合理的に考えれ
ばよい。

 しかしそれにしても、(貞操)とは? 今どき、こんな言葉を使う人がいること自体、私には、信
じられない。




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●親の恩

●「やってあげた」論(保護・依存の関係)

++++++++++++++++

「私は、これだけのことをやってやった」
「だから、相手は、私に感謝しているはず」
「相手も、それなりの誠意を見せてくれるはず」と、
お人よしの人は、考える。

しかし相手によっては、それがまったく通用しない
こともある。

「やってあげた」論には、いつもこうした
限界がつきまとう。

+++++++++++++++++

 最初は感謝する。しかしそれが2度、3度とつづくうちに、それが少しずつ、当たり前になる。
さらに、4度、5度とつづくと、今度は、それを反対に要求されるようになる。……こうして、たが
いの間に、保護・依存の関係ができあがる。

 一度、保護・依存の関係ができあがってしまうと、保護する側は、いつも保護する側に回り、
依存する側は、いつも依存する側に回る。こんな例がある。

 M氏(開業医)のところに、ある日、ひとりの男が、お金を借りに来た。遠い親戚にあたる人で
ある。その男は、「お金がないと、一家心中しなければならない」と、言葉巧みに、M氏に援助
を迫ったという。

 名字が同じということもあり、また同じ地域に住んでいるということもあって、M氏は、いくらか
のお金を渡した。M氏にしてみれば、たいした額ではなかった。男は、M氏に感謝して、その場
を去った。

 が、こういうことが、そのあと、たび重なるようになった。はじめのころは、半年に1度くらいだ
ったのが、やがて、それが数か月に一度になり、さらに毎月のようになった。つまり、毎月のよ
うにその男はM氏のところへやってきて、お金を無心した。

 そのころになると、その男は、「助けてもらうのが、当然」と考えるようになった。一方、M氏
は、心のどこかで疑問を感じながらも、その男を援助しつづけたという。

 こういう関係が、15年近くもつづいた。

 で、その男の長男が、大学に入学した。M氏は、こう言う。「入学金や学費はもちろんのこと、
受験先のホテル代まで、うちで負担しました」と。

 金額にすれば、たいへんな額ということになる。しかしここからが、変? そこまで世話になり
ながら、その男にしても、そしてその男の長男にしても、M氏に、ほとんどといって、感謝の念を
もっていないという。

 M氏と、その事情をよく知るM氏の妻は、「どうしてでしょうね?」と私に聞いた。私は、即座
に、その理由がわかった。が、しかし、それは言えなかった。ただ「保護と依存の関係というの
は、一度できあがってしまうと、それを断ち切るのはたいへんなことです」とだけ、答えた。

 話は、ぐんと政治的になるが、現在のあのK国を見ていると、それがよくわかる。

 先の6か国協議では、「(たがいに)60日以内に、初期措置を完了する」と約束した。アメリカ
は、BDAの金融制裁を解除する。一方、K国は、いくつかの核開発施設での活動を停止す
る、と。

 しかしそれがいつの間にか、「金融制裁が解除されたのが確認されたら、核開発施設の活動
を停止する」となってしまった。正確には、「制裁解除が現実に証明されれば、我々も行動を取
る」(K国外務省・4月13日)となってしまった。

 いつものK国のやり方である。つまり、これが保護と依存の関係である。

 K国はいつも、(してもらうこと)だけしか、考えていない。「自分たちは、援助されて、当然」「ま
た、それに値する国である」と。

 こういう感覚は、この日本にもある。たとえば日本とアメリカの関係がそうである。反対に、
「どうしてアメリカが、日本の平和と安全について、責任をもたねばならないのか」という質問
に、満足に答えられる日本人は、どれほどいるだろうか。

 これだけ極東アジア情勢が混とんとしてきても、いまだに、「アメリカが何とかしてくれるさ」と
考えている日本人は多い。

 アメリカの話はさておき、こうしたK国の心理を読み違えると、6か国協議にしても、何のため
の協議かということになってしまう。へたをすれば、他の5か国が、一方的にK国に振り回され
るだけ、ということになってしまう。

 で、今、その渦中にあるのが、実は韓国である。肥料(20万トン)、毛布類につづいて、食糧
(30万トン+40万トン、計70万トン)もの援助を、すでに開始している。韓国にしてみれば、
「これだけのことをしてやっているのだから、K国は、韓国に感謝しているはず」ということにな
る。

 しかしこうした誠意は、相手によっては、通じない。とくにK国は、戦後、常に外国からの援助
で生き延びてきた国である。当初は、ソ連、それが中国へと変わった。2つの国の間を行った
りきたりしたので、当時は、(振り子外交)と呼ばれた。

 今は、それが韓国に変わった。

 だからいくら韓国が援助をつづけても、K国には、そもそも、それを理解するだけの(心)がな
い。そのことは、先に書いた、M氏と1人の男の関係を見ればわかる。つまり保護・依存の関
係というのは、そういう関係をいう。わかりやすく言えば、依存する側には、(甘え)が生まれ、
その(甘え)だけがどんどん肥大化し、やがて依存する側は、自分を見失ってしまう。

 最後に、先のM氏について。M氏は、「どうしてでしょうね?」と私に聞いた。「どうして、感謝し
てくれないのか?」と。

 M氏には話せなかったが、理由は明白である。

 生活のレベルが、あまりにもちがいすぎる。M氏のばあい、一般勤労者の所得基準で計算す
ると、年収が5000〜6000万円の生活をしていた。月収に換算すれば、月、500万円の給
料ということになる。そういう生活ぶりを、その男は、M氏の家を訪問するたびに、直接見てい
た。

 最初は、羨望(せんぼう)。しかし羨望は、やがて嫉妬(しっと)に変化しやすい。嫉妬は人の
心を狂わせる。その男も、そうだ。「自分は、援助してもらって、当然」と。

 ……ということで、この保護・依存の関係には、じゅうぶん、注意したらよい。10人の人とつき
あえば、その10人の人の間で、この保護・依存の関係が生まれる。そしてひとたびそれができ
あがると、それを基準として、人間関係ができてしまう。

 もちろん親子関係とて、例外ではない。依存する側にしてみれば、居心地のよい世界かもし
れないが、保護する側は、そうでない。ときにその重圧感に押しつぶされてしまうこともある。親
子関係といっても、つきつめれば一対一の人間関係。それで決まる。

【補足】

●友だち親子

 02年の3月、玩具メーカーのバンダイが、こんな調査をした。「理想の親子関係」についての
調査だが、それによると……。

 一緒にいると安心する ……94%
 何でもおしゃべりする ……87%
 友だちのように仲がよい……77%
 親は偉くて権威がある ……68%

(全国の小学4〜6年生、200人、および五歳以上の子どもをもつ30〜44歳の父母600人
を対象に、インターネットを使ってアンケート方式で調査。)

 一方で「現実の親子関係」では、

 子どもと何でもおしゃべりすると答えた父親 ……72%
 父親と何でもおしゃべりすると答えた子ども ……49%

 この調査からわかることは、子どもは親に、「友だち親子」を求めているということ。それにつ
いて、バンダイキャラクター研究所の土居由希子氏は、「友だちのような親子関係は、『家族の
機能が失われつつある』という文脈で語られることが多いが、実はそうではない。家族がひとつ
にまとまるために、これまでの伝統や習慣にかわって、仲のよさや、共通の趣味や話題が必
要となっているようだ」(読売新聞)とコメントを寄せている。

 また父親の72%が、子どもと何でもおしゃべりすると答えているのに対して、子どもの側は、
49%であることも注目したい。父親と子どもの意識が、微妙にすれているのが、ここでわか
る。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、総合的にみても、子どもの前やうしろを歩
くのは得意だが、子どもの横を歩くのは、苦手。バンダイの調査に対して、「親の威厳こそ大
切」という意見もある。しかしこうした封建時代の遺物をひきずっているかぎり、子どもは親の
前で心を開くことはない。はからずも、「いっしょにいると、
安心する」を、94%の親子が支持している。この数字のもつ意味は大きい。
(02−7−25)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●たった一度の人生

息子たちへ

たった一度しかない人生だから、
お前たちは、お前たちの人生を、
思う存分、生きなさい。
思う存分生きて、この広い世界を
思いきり、羽ばたきなさい。

だれにも遠慮することはない。
己が命ずるまま、己が人生を生きなさい。
他人の目を気にしてはいけない。
他人に左右されてはいけない。
お前たちの人生は、どこまでいっても、
おまえたち自身のもの。

親孝行……? バカなことは考えなくてもいい。
家の心配……? バカなことは考えなくてもいい。
そんなヒマがあったら、お前たちの人生を
ただひたすら、前向きに生きなさい。
パパもママも、自分の人生を、最後の最後まで、
しっかりと自分で生きるから、
何も心配しなくていい。

そう、パパもママも、自分の人生を
思う存分、生きてきた。つらいことや
苦しいこと、悲しいこともあったけど、
それなりに結構、楽しく生きてきた。
いやいや、お前たちのおかげで、
どれほど人生が潤ったことか。
どれほど励まされたことか。
どれほど楽しかったことか。
どれほど生きがいを与えられたことか。
感謝すべきは、むしろパパやママのほうだよ。

いつかパパもママも、人生を終えるときがくる。
あの世があるかどうか、パパにもママにも
わからないけど、あればあの世で、
お前たちがくるのを待っている。
だから、あわてなくていいから、
ゆっくりときなさい。いつまでも待っている。
それまで、どんなことがあっても、
自分の人生を生きなさい。

たった一度しかない人生だから、ね。
そうそう、言い忘れたが、
ありがとう。心からお礼を言うよ。
今まで、お前たちのおかげで、
パパもママの成長したよ。
……成長することができたよ。
心から、ありがとう。

そうそう言い忘れたが、
ここはお前たちの故郷だよ。
さみしいことや、つらいことがあったら、
いつでも帰っておいで。
羽を休めに、帰っておいで。
いつでもドアをあけて、待っているからね。





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●運命論

+++++++++++++++

私が知る私の範囲には、限界がある。
ときに私は、私の知らない世界によって、
自分の進む道を決められてしまうことも
ある。

それを人は「運命」と呼ぶ。

+++++++++++++++

 ほんのささいな過ちや、ほんのささいな妥協が、その人のそれからの人生を狂わすことはよく
ある。とくに男女の仲はそうで、不本意な結婚、不本意な出産が、その人を不幸のどん底にた
たき落とすことは、珍しくない。

言いかえると、今、それこそ電撃に打たれるような恋をして、相思相愛、双方の家族の温かい
理解に恵まれ結婚できる人など、どれほどいるというのか。

「自分の運命は自分でつくるもの。虚偽や不正は絶対に排撃しなければならない」と言ったの
はチェーホフ(「彼のモットー」)だが、そういった強い生き方をできる人は、どれほどいるという
のか。

たいていの人は、そのときの「流れ」にのまれ、「まあ、こんなものか」「何とかなるだろう」という
思いの中で、ずるずると流れの中に、身を沈めてしまう。埼玉県所沢市に住むUさん(女性、3
4歳)がそうだ。

 Uさんから、こんなメールが届いた。いわく、「不本意な結婚、子育て、旦那の宗教、また世間
体重視の旦那の価値観。そして私の実家は男尊女卑。親の暴力も日常茶飯事だった……」
と。
 
 私には運命というものがあるのかどうかは、わからない。仮にあるにせよ、生きているのは私
たち自身だし、その運命の最後の最後で、ふんばって生きるのも私たち自身である。決して運
命に身を任せてはいけない。つまり任せないところに、人間が人間としてもつ気高さがある。無
数のドラマもそこから生まれる。

ただ結婚や出産がほかの運命と違うところは、そのこと自体が、一生を左右するということ。一
度その流れの中に入ると、途中で軌道修正することは、たいへんむずかしい。1年、2年とがま
んしているうちに、その分だけ、人生そのものが短くなっていく。そしてその短くなった分だけ、
後悔の念が強くなる。

実のところ、私にも、今のワイフと結婚する前、好きな女性がいた。結局、その女性とは別れ、
そのあと数年して、今のワイフと知りあい、結婚した。どちらかというと、成りゆき結婚だった。
あとで聞いたら、ワイフも、「私はあなたなんかと結婚するつもりはなかったのよ」と。結婚した
のは、私の早とちりからだった。今のワイフが「うちへ遊びにきて」と言ったのを、「責任を取らさ
れる」と早とちりした。そして自分のほうから、ワイフの父親の前で結婚を口にしてしまった。
「結婚します。収入はこれだけです。しばらくはアパートで暮らします」と。

驚いたのはワイフのほうだった。あとで「私は遊びにきてと言っただけ」と言われたときには、私
のほうは、もう身動きがとれない状態になっていた。

 が、だからといって、その私が不幸になったわけではない。ワイフにしてもそうだ。結婚のしか
たこそ、そうであったかもしれないが、それとて、私を超えた運命が、そういう状況を作ったの
かもしれない。

 私といっても、私を知る範囲には、限界がある。私の知らない世界で、私が動かされることだ
って、ある。

 今にしてみると、私は、別の心で、やすらぎを求めていたのかもしれない。今のワイフは、現
在に至るまで、私にそのやすらぎを与えつづけていてくれる。つまり私は、無意識のうちにも、
今のワイフのような女性を求め、そして結婚した。

 反対に、私のワイフが、今のワイフのようでなかったとしたら……。それを想像するだけでも、
ぞっとする。

 大切なことは、そこに運命を感じたら、そっと静かに、それに身を寄せてみるということ。運命
というのは、それを受け入れたものには、やさしく微笑みかけ、反対に、それを拒絶したものに
は、悪魔となって、襲いかかる。

 所沢市に住むUさんには、こう書いた。

 「どんな人でも、その人の身のまわりには、どうにかなる問題と、反対にどうにもならない問題
があるのではないでしょうか。

 どうにかなる問題については、努力でがんばりましょう。しかしどうにもならない問題について
は、あきらめて、それを受け入れましょう。すなおに、『私はこうなんだ』と割り切ってしまうので
す。すると、肩から力が抜け、心が軽くなりますよ」と。

(補足)

 たまたま昨日は、「ピック病」という病気が気になって、それを調べていた。認知症のひとつに
考えられているが、それが原因で、それなりに社会的地位があり、それなりに分別があると思
われる人が、万引きをしたりすることもあるという。

 40〜50代で発症することが多いそうだ。アルツハイマー病よりは、発症率は低いという。

 で、そういう病気にしても、(私)を離れたところで、発祥する。つまり「自分は病気である」とい
う病識がないという。

 運命も、ある意味で、「病識のない病気」と似ているのではないか。たいていのばあい、私の
知らない世界から、私に指令を出し、私を動かしていく。

 あまり関係のない話かもしれないが、今、ふと、そう感じたので、それをそのまま書いておく。

【Uさんへ】

 自分で選んだ人生は、たとえ失敗しても、後悔しない。しかし他人に選ばれた人生は、たとえ
成功しても、最後の満足感は得られない。よく親の反対を押し切り、結婚したり、駆け落ちした
りする人がいる。周囲の人は、「どうせ失敗する」と笑うが、笑うほうがおかしい。私の知人にこ
んな人がいる。

 その男性(40歳)のとき、それまでの会社勤めをやめ、単身マレーシアのクアラルンンプー
ルに渡った。そこで中古のヨットを購入。私がその話をその男性の兄から聞いたときは、「今ご
ろは、フランス人の女性と、フランスに向けて、インド洋を航海しているはずです」ということだっ
た。

 私はこの話を聞いたとき、「上には上がいるもんだなあ」と思った。もちろん航海といっても、
私たちが頭の中で想像するほど、ロマンチックなものでない。まさに命がけ。その男性にして
も、たまたま独身だったからできたこと。しかしそこに、限りないあこがれを感ずるのは、反対
に私たちの日常的な生活が、あまりにも味気ないからではないのか。

平凡であることは、それ自体は、美徳かもしれない。しかし人間はそれでは満足できない何か
をもっている。どこかのテーマパークの標語を借りるなら、「夢と冒険とロマン」こそが、人間に
生きる活力を与える。

 と、言っても、失敗は恐ろしい。が、それ以上に恐ろしいのは、失敗を恐れて、自分の人生を
闇に葬ること。「何かをしたかった」「何かができたはずだ」「何かをやり残した」という思いの中
で、悶々とした日々を過ごす。それほど不幸なことはない。

人生が永遠であれば、それでもよいが、しかし人生には限りがある。健康にせよ、気力にせ
よ、年齢とともに衰える。「明日こそ何かをしよう」と思っていても、その明日そのものが、なくな
ってしまう。そんなわけで、要は勇気の問題ということか。

 さて私たち夫婦のこと。そういう結婚だったから、私は最初からワイフには、多くを期待してい
なかった。多分、ワイフも何も期待していなかったと思う。私にしても、恋愛はもうこりごりという
状況での結婚だった。が、振り返ってみると、それがかえってよかったのかもしれない。やがて
長男が生まれ、二男、三男とつづくうちに、私もワイフも、「家庭」の中にすっかり取り込まれて
しまった。

 それにもうひとつ私たち夫婦を支えたものはといえば、いつも生活そのものが、断崖絶壁に
立たされていたこと。私もワイフも、親戚縁者の援助はもちろんのこと、実家の援助もいっさ
い、期待できなかった。収入も不安定だった。

ただひとつすがれるものはと言えば、健康しかなかった。そういう生活だったから、私はワイフ
と力を合わせるしかなかった。夫婦げんかをして、どんなに家庭の中がメチャメチャになってい
ても、仕事だけは放棄しなかった。それが結果として、今までかろうじて「家族」の形を保ってい
る理由ではないか。

 運命は、私たちの努力で変えられる。それに身を負かせば、運命は運命だが、しかし足をふ
んばって、それと戦う姿勢を示したとき、運命のほうから、別のドアをあけてくれる。運命は決し
て、不変ではない。問題は、運命があることではなく、運命があるとあきらめてしまう人間のほ
うにある。たとえ不本意な結婚をし、不本意な出産をしたとしても、運命をのろってはいけない。
のろえば、それこそ運命の思うツボ。大切なことは、「今という現実」をしっかりと見つめ、そこを
原点として、前向きに生きること。方法はいくらでもある。

まず、どうにもならない問題と、何とかなる問題を分ける。
 つぎに、どうにもならない問題には、目をつぶり、あきらめる。
 そして何とかなる問題については、徹底的に戦う。

 冒頭にあげたUさんについて言うなら、結婚して、子どもがいるという事実は、これはどうにも
ならない問題。それが運命だというのなら、運命でもよい。しかしそういう運命はのろってはい
けない。のろえば、生き方そのものがうしろ向きになってしまう。

 が、今、Uさんは、生きザマは変えることができる。夫や、そして子どもの悪い面を見るので
はなく、よい面だけを見て、「今」を出発点に、人生を組みなおす。それはちょうど、棚から落ち
た人形のようなもの。こわれたことを嘆いても始まらない。大切なことは、再利用できるものは
別によりわけて、こわれた人形を片づけること。それでも、どうしても人形がほしいというのであ
れば、新しく買えばよい。

繰り返すが、こわれた人形を前にして、嘆き悲しんでも、意味はない。悲しめば悲しむほど、そ
れこそ運命の思うツボ。あなたの人生は、何も変わらないばかりか、かえってあなたを不幸に
する。

 最後に一言。運命に身を任すも、任さないも、それはその人自身の意思による。それは決し
て運命ではない。自分の意志だ。そしてさらに一言。幸福であるとか、ないとかいうことは、決し
て運命のなせるわざではない。あなた自身の意思で決めることである。

 Uさん、心から応援します。がんばってください。





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●幼児期(自律性の発達)

++++++++++++++++++++

青年期最大のテーマは、「自己同一性」の問題
である。

(自分はこうあるべきだ)という姿と、
(現実の自分)が一致していることを、
自己同一性という。簡単に言えば、そういう
ことになる。

それを確立できるかどうか? それで青年期の
あり方が決まる。

結婚にたとえるなら、愛し合って結婚した
カップルは、同一性が確立していることになる。
そうでないカップルは、そうでない。

夫婦の間でも、同一性が確立できないと、
心理状態は不安定になり、
夫婦げんかばかりするようになる。
人間の心理も、また同じ。

その自己同一性の基礎は、実は、乳幼児期に、
作られる。

++++++++++++++++++++

 乳児期最大のテーマは、言うまでもなく、「基本的信頼関係」の構築にある。基本的信頼関係
は、生後直後から、母子の関係で、はぐくまれる。

 (絶対的な安心感)が基本にあって、子どもは、母子との間で、基本的信頼関係を築くことが
できる。(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の2つ
をいう。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。「何をしてもよい」と自分をさらけ
だすのを、(絶対的なさらけ出し)という。「何をしても、子どものことは許す」というのを、(絶対
的な受け入れ)という。

 が、それだけではない。

 エリクソンによれば、つづく第2段階の幼児期では、「自律性の確立」が、テーマとなる。「自
立性」と言いかえてもよい。つまり「独立した人間として、自分のことは自分でする」ことをいう。

 この自律性の確立に失敗すると、子どもは、他人に対して、「恥ずかしい」という感覚をもつよ
うになる。あるいは過度に他人に対して依存的になり、その分だけ、さらに自立できない人間
になってしまう。自分が何をしたらよいのか、何をすべきなのか、それがわからなくなることもあ
る。

 Y氏は、50歳になるが、たいへん世間体を気にする人である。何をするにも、世間の目を気
にする。「そんなことをすれば世間に顔向けができない」「世間が笑う」「世間が許さない」と。
「世間体」という言葉も、よく使う。

 一見、他人と協調性のある人に見えるが、その実、自分がない。「では、あなたはどうしたい
のですか?」と聞いても、答が返ってこない。それが如実に表れたのが、実父の葬儀でのこと
だった。

 Y氏はけっして、裕福ではなかった。実父との関係も、よくなかった。その実父は、Y氏が、48
歳のときに、くも膜下出血で急逝した。そのとき、ほかの兄弟たちと、たいへんな騒動になって
しまった。

 実父は、かなりの知識人であったとみえる。はやくから遺言を残していた。それには、「葬儀
はしなくていい。遺灰は、○○浜から太平洋へまいてほしい」とあった。

 その遺言をめぐって、「遺言は無視して、恥ずかしくない葬式をする」と主張するY氏。「遺言
どおり、遺灰を海にまく」と主張するほかの兄弟たち。結局、Y氏が長男だったということもあ
り、父親の遺言を無視して、葬儀をすることになった。その地域でも評判になるほど、かなり派
手な葬儀であったという。

 Y氏の妹氏(45歳)はこう言う。「兄には、これが私の生き方という、一本のスジがないので
す。いつも他人の目の中だけで生きているような人です」と。

 が、Y氏のこうした生き様は、エリクソンによれば、幼児期にできあがったものと考えてよい。
長男であるということで、蝶よ花よと、手をかけて育てられた。つまりその分だけ、自律性の発
達が遅れた。

 エリクソンの言葉を借りるなら、「重要な人格構成要素がうまく獲得できるか、それともマイナ
ス面が勝ってしまうか」(「性格心理学」清水弘司)というはげしいせめぎあいの中で、マイナス
面のほうが、表に出てきてしまったということになる。

 エリクソンは、これを「心理的危機」「社会的危機」と呼んだ。つづく第3段階の「就学前期」、4
段階の「学童期」にかけて、それぞれの段階で必要な人格の確立に失敗しやすくなるからであ
る。

 Y氏がそうであったかどうかはわからない。わからないが、Y氏の様子を観察するかぎり、Y氏
は、自律性の確立に失敗した人ということになる。

 つまりその分だけ、依存性が強い。もちろん本人は、それに気づいていない。自分が自律性
のない人間だとは、さらに思っていない。一応、それなりの仕事をしている。家族もいる。「世間
体」そのものが、Y氏にとっては、ひとつの哲学(?)になっている。「恥」という言葉にしてもそう
だ。

 1人の人間が懸命に生きる。その生き様に価値がある。生きる意味も、そこから生まれる。
たとえ失敗しても、それはそれ。どうしてそれが「恥」なのか。いつか書いたが、「恥」にも2種類
ある。

 「己に対する恥」と「他者に対する恥」である。ここでいう恥というのは、当然、「他者に対する
恥」ということになる。

 そんなもの、気にするほうがおかしい……と私は思うが、Y氏にとっては、そうではない。ここ
にも書いたように、Y氏にしてみれば、それが生きる哲学(?)にもなっている。

 では、どう考えたらよいのか。

 エリクソンの発達論を借りるまでもなく、幼児期は、子どもの自律性だけを考えて、子どもを
育てる。「自分で自分を律しながら、自立させる」。もっと言えば、「自分で考えて、自分で行動さ
せ、自分で責任を取らせる」。

 そのために何をすべきかということよりも、何をすべきでないかを考える。というのも、望まし
い環境の中で、あるべき方法で子どもを育てれば、子どもは、自ら自分の中から、その自律性
を引き出していく。過干渉、過保護、過関心、溺愛が悪いことは言うまでもない。親の価値観の
押しつけ、優位性の押しつけが悪いことも言うまでもない。

 ……ということで、この話はここまでにする。と、同時に、あなた自身は、どうかということを、
ここで自問してみてほしい。

 あなたはここでいう自律した人間だろうか。それとも、依存性が強く、世間体ばかりを気にす
るタイプの人間だろうか。どうであれ、そうした基礎は、実は、幼児期に作られたものであると
いうこと。それに気がつくだけでも、あなたはさらによく、あなたという「私」を知ることができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自律
 自律論 エリクソン 発達論 心理的発達論 恥論)

++++++++++++++++

基本的信頼関係について書いた原稿
などを、参考のために、ここに添付
しておきます。

++++++++++++++++

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)







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●感情の発達

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)0歳〜1歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)1歳前後〜2歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)2歳前後〜5歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?





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●家族の中の子ども

【お母さん方からの、Q&A特集】

●夫との違い

1 夫の怒りかたが荒っぽくて困っている。できれば話して(言葉で)わからせたいのに、夫は
怒鳴ったり、手をあげることも・・・。

★『夫婦は一枚岩』というのが、子育ての鉄則です。夫婦で意見の衝突があっても、子どもの
前では見せないようにします。また『船頭は一人』という鉄則もあります。こういうケースでは、
母親は、まず父親を立てる。決して男尊女卑的なことを言っているのではありません。たがい
に高度な次元で尊敬しあってこそ、それを「平等」といいます。子どもの前では、「お父さんがそ
う言っているから、そうしなさい」と、あくまでも父親の側に立ちます。納得がいかないことがあ
れば、子どもが寝静まったあとにでも、「私はこう思うけど……」と、意見の調整をします。

★そうでなくても、むずかしいのが子育て。これから先、夫婦の心がバラバラで、どうして子育
てができるというのでしょうか。なおこういうケースでは、夫が怒鳴ったり、手をあげたりしそうで
あれば、その前に、夫の言いたそうなことを前もって、言うようにします。いわゆる夫の機先を
制するということです。「そんなことをすると、お父さんに叱られますよ!」と。夫に抵抗すればす
るほど、夫の心は、あなたや子どもから離れていきます。これは子どもの問題というより、夫婦
の問題かもしれません。どこか夫婦の間に、すきま風が吹いていませんか。私には、そちらの
ほうが気になります。

★なお、親子の信頼感は、「一貫性」で決まります。E・H・エリクソンという心理学者も、「親(とく
に母親)の安定的態度が、基本的信頼関係を結ぶ基礎である」というようなことを言っていま
す。要するに親の心がグラグラしていては、親子の間で、信頼関係を結ぶことができないだけ
ではなく、つづいて、子どもは、園や学校の先生、さらには友人との信頼関係を結べなくなりま
す。よきにつけ、悪しきにつけ、親は、一本スジの通った子育てをします。


2 食事中のマナーについて。夫はテレビを見ながら食べている。でも、子どもには、ごはんを
食べるときはテレビを消しなさい」と言ってあるので、子どもの教育上、夫にはテレビを消して、
協力して欲しい。

★子育ての世界には、メジャーな問題と、マイナーな問題があります。家庭の役目は、家族が
外の世界で疲れた心と体をいやすことです。そのために「家庭はどうあるべきか」を考えるの
は、メジャーな問題。「家庭でのこまごまとした、ルール」は、マイナーな問題ということになりま
す。マイナーな問題に引き回されていると、メジャーな問題を見失うことがあります。そこでこう
したマイナーな問題は、言うべきことは言いながらも、あとは適当に! その時と、場所になれ
ばできればよいと考えて、おおらかに構えます。

★また子どもの世界には、『まじめ八割、いいかげん二割』という鉄則があります。「歯をみが
きなさい」と言いながらも、心のどこかで、「虫歯になったら、歯医者へ行けばいい」と思うように
します。虫歯の痛さを知って、子どもは歯をみがくことの大切さを学びます。それだけではあり
ません。子どもは、そのいいかげんな部分で、羽を伸ばします。子育てでまずいのは、神経質
な完ぺき主義。家庭が家庭としての機能を果たさなくなるばかりか、子どもの心をつぶしてしま
います。さらに子どものことで、こまごまとしたことが気になり始めたら、あなた自身の育児ノイ
ローゼを疑ってみます。

★「しつけ」と「ルール」は違います。「しつけ」は、自律規範のことをいいます。この自律規範
は、初期のころは、親から与えられますが、やがて子どもは、自分で考え、自分で判断し、自
分で行動するようになります。子どもをしつけるということは、いかにして子どもを自律させるか
ということ。一方、ルールは、あくまでもルール。むしろ『ルールがないから家庭』と言います。ま
たイギリスの教育格言にも、『無能な教師ほど、ルールを好む』というのもあります。これを言い
かえると、『無能な母親ほど、ルールを好む』(失礼!)となります。

★ルールは、つくるとしても、家庭では最小限に。夫の立場で言うなら、「家に帰ってきてから
は、のんびりとテレビでも見ながら、食事をしたい」ということではないでしょうか。私なら妻か
ら、そんなこまごまとしたルールを言われたら、気がヘンになります。なお、「食事中はテレビを
見ない」というのは、マナーでも何でもありません。「マナー」というのは、「他人の心を害さない
こと」を言います。そういうマナーは大切ですが、「テレビを見ながら、食事をしてはいけない」と
いうのは、マナーではありません。いわんや「教育上……」と、おおげさに構えなければならな
いような、問題ではありません。ちなみに、私は、毎日、テレビを見ながら、夕食を食べていま
す。

★要するに子育てをするときは、いつもメジャーな視点を忘れないこと。いつも、「より大切なこ
とは何か」と考えながら、します。そういう視点が、あなたを親として、大きな人間にします。こま
かいルールで、がんじがらめになっている家庭からは、大きな子どもは生まれません。


3 子どもの習い事など。園のお友だちなどを見ると、習い事をさせる人もけっこういます。子ど
ももやりたがっていることだし、私としては何かやらせてもいいのでは? とおもっているけど、
夫は「まだ早い。子どもはのびのび遊んでいればいい」と。この感覚の違いって、これからもも
めごとの原因になりそうで・・・。

★親には、三つの役目があります。子どもの前を歩く。子どものガイドとして。子どものうしろを
歩く。子どもの保護者として。そして子どもの横を歩く。子どもの友として。日本の親は、子ども
の前やうしろを歩くことは得意ですが、子どもの横を歩くのが苦手。そういう発想そのものがあ
りません。こういう相談のケースでも、「(子どもに)やらせる」という発想そのものが、気になり
ます。大切なことは、子どもの方向性を見極めながら、「あなたはどう思うの?」と、そのつど、
子どもの心を確かめながら、行動することです。習い事をする、しないは、あくまでもその結果
です。

★で、習い事をするにしても、この時期は、「楽しませること」を考えてします。(できる、できな
い)ではなく、(楽しんだかどうか)をみます。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす原動力と
なります。もう少し専門的には、「プラスのストローク(働きかけ)」を大切にするということです。

★この時期は、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよい結果を生みます。ですからそのつ
ど、「あなたはよくできる」「あなたはもっとできるようになる」と、プラスの暗示をかけていきま
す。ほかに『一芸論』(子どもに一芸をもたせる。一芸を伸ばす)や、『才能は作るものではな
く、見つけるもの』という鉄則もあります。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ママ友だちとの違い

1 何かトラブルがあると「うちの子にかぎって、そんなことはしない!」と、決まって言う母親が
いる。自分の子が原因になっていても、よその子から疑うなんて。「他人は他人」と思っていて
も、やっぱり頭にきちゃう!

★反面教師という言葉があります。あなたのまわりに「親バカ」(失礼!)がいたら、いつも「自
分はどうか?」と自問してみます。そういう親を非難するのではなく、自分自身が伸びるために
利用します。このケースでも、「頭にきちゃう」ではなく、「親というのはそういうもの。ならば自分
はどうなのか?」という視点でみるようにします。そうすれば、少しは怒りがおさまるはずです。

★このケースで気になるのは、むしろ相手側の親子です。「うちの子にかぎって」と思っている
親ほど、子どもの心がわかっていない。それだけではない。ひょっとしたら、その子どもは、親
の前で、いい子ぶっているだけ? こういうのを「仮面」といいます。さらにひどくなると、心(情
意)と、表情や言動が遊離するようになります。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコ笑う
など。こうなると、親の側から見ても、自分の子どもが何を考えているかわからなくなります。親
子断絶の初期症状と考えて、警戒します。

★信頼関係を築くためには、(さらけ出し)→(心を開く)というプロセスを踏みます。「どんな恥
ずかしいことでも、たがいに言いあえる」「何をしても、何を言っても、たがいに許しあえる」とい
う関係があってはじめて、信頼関係を築くことができます。親子とて、例外ではありません。しか
し今、信頼関係どころか、親子でも、心を開けないケースが、ふえています。先日も、私に、「う
ちの子(小二男児)がこわいです。私のほうから、あれこれ言うことができないので、先生のほ
うから言ってください」と言ってきた、母親がいました。

★一方、心を開けない子どもは、開けない分だけ、心をゆがめます。いじける、ひがむ、つっぱ
る、ひねくれるなど。それを防ぐためにも、子どもには、まず言いたいことを言わせ、したいこと
をさせます。その上で、よい面を伸ばし、悪い面を削るようにします。相手側の親子には、そう
いう姿勢が感じられません。ひょっとしたら溺愛ママ? 自分の心のすき間を埋めるために、子
どもを利用しているだけ? そういう視点で見てあげると、さらに怒りがおさまるかもしれませ
ん。


2 育児論に自信があり、「私の子育ては正しくて間違いはない!」と言ってはばからないママ
が園にいる。みんなそれぞれなのに、人の子育てにも口を出してくる始末。もう、ほっといてほ
しいのに。

★ほかの親とのつきあいは、『如水淡交』が原則。「淡く水のように」という意味です。中に、自
己中心的で、押しつけ的なことを言ってくる親もいますが、そういう親とは、サラサラと水のよう
に交際するのが、コツです。この世界、その底流では、親たちのドロドロの、それこそ血みどろ
の戦いがウズを巻いています。それに巻き込まれると、かなり神経の太い人でも、参ってしま
います。だから交際するとしても、園や学校の行事の範囲だけにとどめます。決して深入りして
はいけません。間に子どもがいるため、一度、こじれると、この種の問題は、とことんこじれま
す。もしどうしても、ということなら、あなたの子どもが通っている園や学校とは、直接関係ない
世界に住んでいる親と交際するようにします。

★ただ子育てで注意しなければならないのは、カプセル化です。カプセル化というのは、親子
だけの狭い世界でマンツーマンの生活をすることいいます。そしてその世界だけで、独自の価
値観を熟成してしまう……。家族が、ちょうど小さなカプセルに閉じ込められるようになるので、
カプセル化といいます。一度カプセル化すると、同じ過干渉でも、極端な過干渉、あるいは同じ
溺愛でも、極端な溺愛になりますから、注意します。それを防ぐためにも、自分のまわりは、い
つも風通しをよくしておきます。つまりたがいの情報を交換することは悪いことではありません
ので、「ほっといて!」ではなく、「また教えてね!」というような、つきあい方に切りかえてみては
どうでしょうか。


3 うちによく遊びに来る子が、まったくしつけされていない。人の家の冷蔵庫を勝手にあけた
り、寝室(入ってはダメと言ってある所)に入ったり・・・。しかも、それを見ても、本人の親は何も
注意しない!「おたくのしつけ、どうなってるの!」って感じ。「もうこないで!」と言いたいが、子
ども同士は仲がいいので、言えない。

★こういうときの鉄則は、ただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』です。相手の子どもの行
動のどこか、どのように悪いかを、子どもに話しても、決して相手の子どもの名前を出してはい
けないということです。「よそのうちの冷蔵庫を勝手にあけるのはよくないね」「そのおうちの人
が入ってはいけないという部屋に入ってはいけないね」と、です。こういうケースで、「○○君と
は遊んではダメ」と、子どもに言うことは、子どもに、「親を取るか、子どもを取るか」の択一を
迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。そうでなければ、あなたとあなたの子
どもの間に大きなキレツを入れることになりますから、注意してください。なおこの鉄則は、これ
から先、あなたの子どもがおとなになるまで、有効です。

★で、あえて言うなら、あなたの子どもは、その子どもといっしょにいることが、楽しいのです。
子どもというのは、無意識のうちにも、居心地のよい仲間とつきあいます。つまり『類は友を呼
ぶ』です。そこで大切なことは、あなたの子どもにとって、どこがどう居心地がよいかを知ること
です。ひょっとしたら、あなたのほうが、ガミガミとこまかいしつけをし過ぎていませんか。……
そうではないと思いますが、そんなことも疑ってみることも、ときには大切です。

★これから先、あなたの子どもは、無数の人間関係を、いろいろな場所で結びながら、その間
でのやりくり、つまり社会性を身につけていきます。そういう意味では、悪友もまた、必要なので
す。社会に対する免疫性も、そこから生まれます。だからといって悪いことを容認せよというわ
けではありませんが、一般論として、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほ
ど、社会人になってから常識豊かな人になることも、よく知られています。「悪いからダメ」式
に、子どもを押さえつけるのではなく、その子どもを反面教師として、ここで書いたことを参考
に、相手の子どもを利用してみてはどうでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●義父母・父母との違い

1 子どものほしがるものは何でも与えてしまう姑。特に、お菓子やおもちゃは、わが家なりの
ルールを決めて、守らせたいのに。今まで一生懸命に言い聞かせてきたのが無駄になる!

★昔の人は、「子どもにいい思いをさせるのが、親の愛の証(あかし)」「いい思いをさせれば、
子どもは親に感謝し、それで絆(きずな)は太くなるはず」と考えて、子育てをしました。今でも、
日本は、その流れの中にあります。だから今でも、誕生日やクリスマスなどに、より高価なプレ
ゼントであればあるほど、あるいは子どものほしがるものを与えれば与えるほど、子どもの心
をとらえるはずと考える人は少なくありません。しかしこれは誤解。むしろ、逆効果。イギリスの
格言に、『子どもには、釣竿を買ってあげるより、いっしょに釣りに行け』というのがあります。つ
まり子どもの心をつかみたかったら、モノより、思い出というわけです。しかし戦後のひもじい時
代を生きた人ほど、モノにこだわる傾向があります。「何でも買い与える」という姑の姿勢の中
に、その亡霊を見ることができます。

★また昔の人は、「親(祖父母)にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子」と考える傾向があります。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼の子」
として嫌いました。今でも、そういう目で子どもを見る人は少なくありません。あなたの姑がそう
だとは言いませんが、つまりこうした問題は、子育ての根幹にかかわる問題なので、簡単には
なおらないということです。あなたの姑も、子ども(孫)の歓心を買うことにより、「いいおばあち
ゃん」でいたいのかもしれません。そこでどうでしょうか。この私の答を、一度、姑さんに読んで
もらっては? しかし子育てには、その人の全人格が集約されていますから、ここにも書いたよ
うに、簡単にはなおりません。時間をかけて、ゆっくりと説得するという姿勢が大切です。


2 嫁と舅・姑の違いって必ずあるし、それはしかたないことと割り切っています。でも、我慢し
て「ノー」と言えないのでは、ストレスもたまるいっぽう。同居するとますます増えそうなこのモヤ
モヤ。がまんにも限度があると思うから、それを越えてしまったときがこわい!

★もう、同居している? それともしていない? 祖父母との同居問題は、最終的に、「別居
か、もしくは離婚か」というところまで覚悟できないなら、あきらめて、受け入れるしかありませ
ん。たしかに問題もありますが、メリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけてみると、メリット
のほうが多いはず。私の調査でも、子どもの出産前から同居しているケースでは、ほぼ、10
0%の母親が、「同居してよかった」と認めています。

★問題は途中同居(つまり子どもがある程度大きくなってからの同居)ですが、このばあいも、
祖父母との同居を前向きに生かして、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。仕
事でも、趣味でも、スポーツでも。「おじいちゃんやおばあちゃんが、いっしょにいてくださるの
で、助かります」とか何とか言って、です。祖父母の甘やかしが理由で、子どもに影響が出るこ
ともありますが、全体からみれば、マイナーな問題です。子ども自身の自己意識が育ってくれ
ば、克服できる問題ですので、あまり深刻に考えないようにしてください。

★なお、「嫌われるおじいちゃん、おばあちゃん」について、私は以前、その理由を調査してみ
たことがあります。その結果わかったことは、理由の第一は、健康問題。つぎに「子どもの教育
に口を出す」でした。今、日本の子育ては、大きな過渡期にあります。(孫の教育に口を出す祖
父母の時代)から、(祖父母は祖父母で、自分の人生を生きる時代)へと、変化しつつありま
す。そこで今は今で、そのストレスをしっかりと実感しておき、今度は、あなたが祖父母になっ
たとき、(その時代は、あっという間にやってきますが……)、そういうストレスを、つぎの若い夫
婦に与えないようにします。


3 何かあると自分の子育て論で迫る母。「昔は8か月でオムツが取れた」とか「昔は○○だっ
たのに」など、自分の時代にことを持ち出して、いい加減なことばかり。時代は進んでいるの!
 今のやり方をもっと認めて!

★『若い人は、老人をアホだと思うが、老人は、若い人をアホだと思う』と言ったのは、アメリカ
の詩人のチャップマンです。「時代は進んでいる」と思うのは、若い人だけ(失礼!)。数十万年
もつづいた子育てが、一世代くらいの時間で変わるはずもないのです。いえ、私は、このこと
を、古い世代にも、若い世代にも言いたいのです。子育てに「今のやり方」も、「昔のやり方」も
ないのです。もしそう見えるなら、疑うべきは、あなた自身の視野の狭さです(失礼!)。

★もっともだからといって、あなたの姑の子育て観を容認しているのではありません。子離れど
ころか、孫離れさえできていない? いや、それ以上に、すでに姑とあなたの関係は、危険な
状態に入っているかもしれません。やはりイギリスの格言に、『相手は、あなたが相手を思うよ
うに、あなたを思う』というのがあります。これを心理学では、「好意の返報性」と呼んでいます。
つまりあなたが、姑を「昔風の子育てを押しつけて、いやな人」と思っているということは、まっ
たく反対の立場で、姑も、あなたのことを、「今風、今風って、何よ。いやな嫁」と思っているとい
うことです。

★実のところ子育てでまずいのは、個々の問題ではなく、こうしたギクシャクした人間関係で
す。つまりこうした不協和音が、子育て全体をゆがめることにもなりかねません。そこでどうでし
ょうか。こういうケースでは、姑を、「お母さんは、すばらしいですね。なるほど、そうですか!」と
もちあげてみるのです。最初は、ウソでもかまいません。それをつづけていると、やがて姑も、
「よくできた、いい嫁だ」となります。そしてそういう関係が、子育てのみならず、家庭そのものを
明るくします。どうせ同居しなければならないのなら、割り切って、そうします。こんな小さな地球
の、こんな狭い日本の、そのまたちっぽけな家庭の中で、いがみあっていても、し方ないでしょ
う!




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【子育てが不安なあなたへ……】

+++++++++++++

子育てをしていて、それが
不安でならないと訴えてきた
母親がいた。

それについて考えてみたい。

+++++++++++++

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして
も、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた
けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか
ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一
周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす
ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし
い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ
しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職
業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え
てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ
に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる
問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の
子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信
頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子ど
もに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなりま
す。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を
知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか
ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと
をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で
すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然
ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ
のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き
になります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(10)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(11)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」
「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子
どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼
をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を
裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(12)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
のノイローゼ、育児不安)
(030516)






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●老齢期の統合性

●老齢期の絶望

++++++++++++++++

老齢期は老齢期で、
自分のアイデンティティを
確立しなければならない。

自分を真剣の見つめなおさなければ
ならない。

+++++++++++++++

 老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯定すること。エリクソンは、それを「(人生
の)統合性」と呼んだ。

「老齢」といっても、50代、60代のことではない。ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40
歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年期、さらには老年期へと向かうとされる。

 この時期までに、その人のアイデンティティ(=自己同一性)は、おおかた決まってくる。が、
中には、そのアイデンティティをかなぐり捨ててまで、別の人生を歩もうとする人がいる。

 こんな話を耳にした人は多いと思う。

 「第二の人生」と踊らされて、退職後、田舎暮らしを始める人たちの話である。私が知るかぎ
り、こうしたもくろみは、たいてい失敗する。たとえば浜名湖の北に、Aという村があった。退職
者たちが集まってつくった村である。

 当初はマスコミにも騒がれ、それなりに注目されたが、それから15〜20年。今は見る影もな
い。荒れ果てた原野に逆戻り。地元の小学校で校長をしている男性に理由を聞くと、こう話して
くれた。

 「周囲の村の人たちと、うまく溶けこめなかったからです」と。

 それも理由のひとつかもしれないが、心理学的に言えば、アイデンティティの崩壊が起きたか
らと考えるのが、正しい。つまり、それまでに自分がつくりあげてきたアイデンティティを放棄し、
別のアイデンティティを求めても、うまくいかないということ。生命力にあふれた成人前期(ユン
グ)でも、アイデンティティの確立はむずかしい。いわんや、中年期においてをや。

 人生の正午を過ぎると、精神力、体力は急速に衰えてくる。それ以上に、「死」をそこに感ず
るようになる。時間の限界を覚えるようになる。言うなれば、断崖絶壁の上に立たされたような
状態になる。

 そういう状態で、それまでの自分を否定する。それまでの自分とはまったく別の人生を歩もう
とする。が、それはそのまま、想像を絶するストレッサーとなって、その人にはねかえってくる。

 たいていの人は、この段階で、もがき、あがき、そして苦しむ。自己否定から、絶望する人も
少なくない。

 もっとも、だからといって、たとえばここに書いたような田舎暮らしに、みながみな、失敗すると
いうわけではない。中には、それなりにうまく、田舎に溶けこんでいく人もいる。

 たとえば私の姉の義理の叔父は、50歳を過ぎるころまで、名古屋市内で事業を営んでい
た。が、そのころ会社を他人に売り払い、そのまま、屋久島に移り住んだ。九州の南にある、
あの屋久島である。5、6年前に80数歳の歳で亡くなったが、その人のばあい、30年以上、そ
の屋久島で、田舎暮らしをしたことになる。

 それには理由がある。

 姉の義理の叔父は、それまでも、つまり若いときから、年に数回は屋久島に旅をつづけてい
た。屋久島に心底、惚れこんでいた。そういう下地があった。だからうまくいった。うまくいったと
いうよりは、移住した時点で、(自分がしたいこと)と、(現実の自分)を一致させることができ
た。

 そういう例なら、私にも理解できる。しかしそれまで都会でサラリーマンをしていた人が、突
然、田舎へ移り住んで、それでうまくいくということは、心理学的に考えても、ありえない。いくら
それが(自分がしたいこと)であっても、それに合わせて、(現実の自分)をつくることは、たいへ
んなこと。並大抵の努力ではできない。遊んでいても暮らせるならまだしも、農業を職業とする
となると、なおさらである。

 では、どうするか?

 大切なことは、冒頭にも書いたように、老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯
定すること。あるいはそれまでの人生の延長線上に、自分を置くこと。ユングは、「生の縮小」と
いう言葉を使った。が、だからといって、それは敗北を意味するのではない。「生の縮小」とは、
自分の限界を認めること。「ああ、私はこんなものだ」「私の人生は、こんなものだ」と。

 そしてその範囲の中で、自分ができることを模索する。そういう意味では、ユングも言ってい
るように、この時期こそ、自分を真剣に見つめなければならない。またその努力を怠ってはい
けない。

 私も、もうすぐ満60歳になる。定年退職ということはないにしても、心の中では、すでに老齢
期の過ごし方を準備している。しかしその過ごし方は、今の私とまったく別のものではない。「6
0歳を過ぎて、何ができるか」「70歳になったら、何ができるか」という視点で、ものを考える。

 でないと、自分がバラバラになってしまう。へたをすれば、先にも書いたように、自己否定か
ら、絶望へと進んでしまう。が、何としても、それだけは避けなければならない。そのためにも、
今こそ、私は、自分を真剣に見つめなおさなければならない。

 ついでに一言。

 私はときどき、ふと、こう思う。もし神様か何かが、私にこう言ったとする。「お前を、奇跡によ
って、もう一度、青春時代に戻してやろうか?」と。

 しかし多分、私は、こう答えるだろうと思う。「これからも健康でいたい。長生きをしたい。その
ために努力はする。しかし同じ人生をもう一度歩めと言われるなら、それは断る。人生は、一
度でたくさん」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢
期の統合性 アイデンティティ アイデンティティの確立 人生の正午 生の縮小)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【老齢期の統合性】(2)

++++++++++++++++++

少し前、老齢期の統合性について、書いた。
老齢期は、老齢期で、自己概念と現実自己を
一致させなければならない。

それを「統合性」という。

この統合性の構築に失敗すると、その人の
老齢期は、あわれで惨(みじ)めなものになる。

日々に、「こんなはずではない」と、悶々と
悩みながら生きることになる。

++++++++++++++++++

 若いときは、よい。一つの目標を設定し、その目標に向かって努力することで、自己概念(=
「私はこうであるべき」と描く自己像)と、現実自己(=現実の自分)を一致させることができる。

 が、その同一性は、長くはつづかない。「これでいいのか」「自分は、もっとできるはず」「今の
仕事は、本当に自分が求めていたものか」と。やがて、日々の平凡さの中で、人は、それを考
え始める。

 名誉や地位は、それなりに魅力的なもの。お金はなければ、不幸になる。しかしお金で、幸
福は買えない。健康も買えない。いわんや精神を満足させることはできない。「だからどうな
の?」と自問することも多くなる。

 豪華な高級車を購入した……だからどうなの?
 息子が有名大学に進学した……だからどうなの?
 立派な家を購入した……だからどうなの?
 高価な服を買って、身を飾った……だからどうなの?、と。

 そこで大半の人は、40歳をひとつの曲がり角として、再度、自己の同一性を求めて、さまよ
い歩くことになる。ちょうどそのころ、親であれば、子育てが一段落する。子どもは親離れし、親
も子離れをする。

 仕事にしても、先が見えてくる。それまではぼんやりとして見えなかった(未来)が、そこに見
えてくる。「ああ、私はこの先、よくて部長どまり」「今の夫と、いっしょに老後を暮らすことは考え
られない」と。と、同時に、自分の限界を思い知らされる。「何だ、私の人生は、こんなものだっ
たのか」と。

 が、それまでの人生を軌道修正することは、容易なことではない。日々に悩んでも、そのまま
明日はやってくる。そしてその明日になれば、またそのつぎの明日がやってくる。

 「このままでいいとは思わない」「何とかしなければならない」……そんな思いの中で、ときに
人生は空回りをする。いや、中には、そうした人生に、果敢に挑戦していく人もいる。転職した
り、離婚したり、あるいは資格を取り独立したり……。しかしそれをするにも、かなりの体力と気
力が必要。たいていの人は、その勇気もないまま、その一歩手前で、立ち止まってしまう。

 そこでこのタイプの人は、身近に安楽な道をさがし、妥協し、納得し、その中に身を沈めてい
く。仕事から帰ってきたら、テレビでみるのは野球中継だけ。たまの休みには、近くのパチンコ
屋で、一日を過ごす。新聞にバーゲンのチラシが入れば、それを頼りに買い物にでかける。街
角で友人に会えば、数時間でも立ち話をして、時間をつぶす。

 こうして人は、50代になり、やがて60代へと突入する。

 が、ここで人は、人生、最大の問題を迎える。「命の限界」という問題である。いくら「私は、老
人ではない!」と叫んでみても、まわりの人たちは、それを認めてくれない。人は加齢とともに
老人になるのではなく、まわりの人たちによって、老人につくられていく。それもそのはず。あな
たはだれから見ても、老人。老人そのもの。白髪に、弱った足腰。たるんだ皮膚に、鈍くなった
頭の回転。

 その先にあるのは、暗くて冷たい、死の世界。

 そこで人は、再び、こう叫ぶ。「私の人生は、いったい、何だったのか!」「今まで、私は何を
してきたのか!」と。

 そのときそこに(自分)を知る人は、幸福な人だ。自分の人生を、それまでに築きあげた土台
の上に、さらに自分の人生を円熟させる。しかしそんな幸運な人は、コンマ・数パーセントもい
ない。あるいは、もっと少ないかもしれない。

 そのとき一番楽な方法といえば、何も考えることなしに、バカになること。アホになること。人
生そのものを放棄してしまうこと。「老後は、悠々自適な年金生活」「庭いじりをして、あとは孫
の世話」と。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。

 あるいはあの世に身を託し、宗教に埋没するという方法もある。あの世を認めれば、理屈の
上では、命は永遠につづくことになる。この世の限界を乗り越えることができる。しかし見たこと
もないあの世に、どうして自分の身を託すことができるのか。少なくとも、私にはできない。

 先ほど、私は、「40歳」という年齢を具体的に書いた。心理学の本などでも、この「40歳」と
いう年齢を取りあげることが多い。この年齢を、「人生の正午」(エリクソン)と呼ぶ学者もいる。
ちょうど子どもたちが、14、5歳ごろから思春期を迎えるように、人は、この40歳を節目に、大
きな転機を迎える。

 この40歳ごろから、人は、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、新しい自分探しを
始める。「自分探し」というよりは、つぎのステップに進むための土台づくりと言ったほうが正確
かもしれない。

 言いかえると、この時期を安逸に逃してしまうと、その人の老後は、ないに等しい。そう断言
するのは危険なことだが、自分を見つめなおす気力そのものを失ってしまう。あるいは、こう言
って日々に、自分を慰めて生きる。

 「まあ、人生、こんなものだよ」「死ねば、みな、同じ」「楽しく生きることこそ大切」と。通俗的な
論理をふりかざし、問題をいつも先送りしながら、生きる。生きていると言えるよう状態でないま
ま、生きる。

 老後の問題。それはここでいう統合性の問題と言ってもよい。若者は、「私はどうあるべき
か」と悩む。そしてそれに現実の自分を一致させようとする。しかし命の限界を感ずると、そう
はいかない。自己像にしても、「私はどうあるべきか」ではなく、「私は何をすべきか」と変質して
いく。「どうあるべきか」ではなく、「何をすべきか」と。

そして具体的に自己像を描く。その自己像に合わせて、現実の自分をつくりあげていく。それ
が老後の自己同一性の問題ということになる。

 繰りかえすが、その時期は、「40歳」。老後の準備は、このころからしても、早すぎるというこ
とはない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 老後の統合性 自己同一性 自我同一性 自己像)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●老齢期メランコリー

+++++++++++++++

改めて、老齢期の適合性に
ついて考えてみる。

+++++++++++++++

 定年退職か何かで、仕事を失う。退職でなくてもよい。リストラ、左遷、配置転換、転職などな
ど。

 そのときだれしも、ふと、こう思う。「私は、今まで、いったい、何をしてきたのだろう?」と。

 そこに残っているものは、何もない。恐ろしいほど、何もない。

 そんなことを考えているとき、通りで、こんな光景を見かけた。若い数人の男たちの集団だっ
た。胸には、どこかの会社のバッジをつけていた。みな、意気揚々と、肩で風を切りながら歩い
ていた。多分、これからどこかで、打ちあげ式か何かをするつもりなのだろう。

 私にも、ひょっとしたら、ああいう時代があったかもしれない。しかしそれも今は、乾いた風の
中。振りかえると、その風の中で、秋の落ち葉がヒラヒラと舞っているだけ。

 老後……人は、「第二の人生」と呼ぶが、どうすれば自分の統合性をつくりあげることができ
るのか。思春期を過ぎた若者たちが、自己の同一性で悩むように、老後を迎えた私たちも、そ
の同一性、つまり統合性の問題に直面する。

 「何をすべきか」と、悩む。「そのために、自分は、どうあるべきか」と。

 孫と悠々自適な老後生活? 年金暮らし? 海外旅行に庭いじり? とんでもない! そんな
もので心のすき間を埋めることはできない。またそんなものを求めて、今まで自分の道を歩い
てきたのでもない。

 心理学の本などによれば、その統合性を準備するのは、40歳くらいからだという。エリクソン
は、「人生の分岐点」という意味で、その40歳という年齢を、「人生の正午」と呼んだ。

 「さあ、これから午後の仕事だ」という意味で、「正午」と呼んだのか。それとも「午後の仕事の
あり方を決める」という意味で、「正午」と呼んだのか。

 40歳といっても、決して早すぎることはない。学者で言えば、ライフワークを始める年齢という
ことになる。それまでの研究を基礎に、「これが私だ」というものを、作りあげる。40歳で始めて
も、10年や20年はかかる。
 
 が、この時期を逸すると、そのままズルズルと老齢期を迎える。ズルズルと、だ。で、そのう
ち、体力も衰え、持病が表に出てくる。気力も薄れる。より安易な道を選び、それに納得し、満
足する。いや、心のどこかで、「これではいけない」と思うことがあるかもしれない。が、自ら、そ
れを打ち消してしまう。「人生、こんなものよ」と。

 たいていの人は、こうして定年退職か何かで、仕事を失う。そしてハタと気がつく。「私は、今
まで、いったい、何をしてきたのだろう?」と。

 そこには何もない。本当に何もない。あるのは、秋の、ただの乾いた風。







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●メタ・コミュニケーション

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 最近、「メタ……」という言葉を、
よく耳にする。「メタ・サーチ」
「メタ・ミュージック」
「メタ・サイコロジー」など。

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 最近、「メタ……」という言葉を、よく耳にする。「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」「メタ・サイコ
ロジー」など。

 その中に、「メタ・コミュニケーション」というのがある。この場合の「メタ」は、「高次」と訳す。
「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味である。

 たとえばあなたが今、Aさんという人と、対峙して話したとする。そのときあなたは、自分の心
情を、(1)言葉と、(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとする。この(2)の言葉以
外の、伝達方法を、メタ(高次)・コミュニケーションという。

 たとえば、あなたがAさんからプレゼントをもらって、うれしかったとする。するとあなたは、Aさ
んに、「ありがとう」と言う。それが、言葉によるコミュニケーションだが、同時に、あなたは、そ
のうれしさを、表情や動作で表現したりする。そのコミュニケーションを、メタ・コミュニケーショ
ンという。相手のAさんは、そういうあなたを見て、あなたが感謝していることを知る。

 ふつう、この(1)の言葉と、(2)の言葉以外の伝達方法は、たがいにシンクロナイズ(同調)
する。「ありがとう」と言って、ニコニコ笑う。「バカヤロー」と言って、怒った顔をする、など。

 しかしときに、この二つが、一致しないことがある。子どもの世界でも、ときどき観察される。

 たとえばブランコを横取りされても、ニヤニヤ笑っている。先生に叱られているのに、無表情
のまま。あるいは、先生にほめられているのに、すごんだ目つきをする、など。以前、数学の問
題を解きながら、突然、ニヤニヤと笑い出した子ども(中学生女子)もいた。「何を考えている
かわからない」といった、状態になる。

 このタイプの子どもに接すると、熟練した教師でも、ある種の不気味さを感ずる。

 そこで私は、年に1度、「表情」というレッスンをもうけている。心の状態を、すなおに、そのま
ま表現できるように、子どもを指導する。喜怒哀楽の情に合わせて、それに言葉や、ジェスチ
ャをのせていく。そして最終的には、少し大げさであるにせよ、心の状態を外に向って開放でき
るようにする。

 参観している親たちから見ると、(多分)、私が遊んでいるように思うかもしれない。あるい
は、そういう指導が、「勉強」と、どういう関係があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。

 本来なら、そういう説明をした上で、「表情」の指導をしたほうがよいのかもしれないが、時間
的にも無理。それに本当のところ、若いお父さんやお母さんに、理解してもらえるかどうか、わ
からない。だから、私はあくまでも、子どもだけを見て、指導する。

 話をもどすが、このメタ・コミュニケーションの重要さは、そうでない子どもに出会ったときに、
わかる。「何を考えているかわからない」という子どもとしばらく接していると、こちら側も、言い
ようのない不安感に襲われる。イライラすることもある。

この「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者が、統合失調症
(分裂病)の患者を観察していて、使い出したという。恐らくベイトソンも、そういう患者と接して
いて、言いようのない不安感、あるいは恐怖感を覚えたのではないか。そのことからもわかる
ように、こうした状態、つまりメタ・コミュニケーションが、言葉と遊離した状態を、決して、安易
に考えてはいけない。

 こうした(1)言葉と、(2)言葉以外の伝達方法が不一致を起こす原因としては、いろいろ考え
られる。

 抑圧された家庭環境、神経質な家庭環境など。過干渉、過保護、過関心がよくないことは言
うまでもない。さらに進んで、母子関係の不全、基本的信頼関係の不足などもある。

 何でもないことのようだが、明るい表情で、心の状態をありのままに表現する子どもは、それ
だけでも、心がまっすぐに伸びていることを示す。
(はやし浩司 メタ・コミュニケーション メタコミュニケーション 高次コミュニケーション ベイト
ソン)




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●共依存

●どうしようもない夫

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暴力夫に、献身的に仕える妻。

一見、すばらしい妻に見えるが、
こういうのを、「共存依存」という。

決して正常な関係ではない。

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 Aさん(45歳・女性)の夫は、大のギャンブル好き。借金ばかりしている。酒も飲む。暴力も、
振るう。そんな夫だが、Aさんは、別れることもできず、夫のそばにいる。めんどうをみている。
昼間はスーパーで働き、夜は、宅配会社の仕分けの仕事をしている。

 ふつうなら、Aさんは、夫に愛想をつかして、別れてもよいはず。まわりの人たちも、Aさんに、
「早く別れなさい」と勧める。

 しかしAさんは、別れない。Aさんは、こう言う。「私がいなければ、あの人は生きていけない」
「あの人には、私が必要」と。

 そういえば、同じようなシーンを、昔、何かのヤクザ映画で見たことがある。チャンパラ映画
の定番にもなっていた。どこまでも献身的な妻。それに甘えて、ますます自分勝手な振るまい
を繰りかえす夫。

 こういうのを、心理学の世界では、「共存依存」という。

 つまりそういうふうにして、夫と共存すること自体が、その妻の生きがいになっている。もしそ
ういう夫と別れたら、その妻は、自分を証明するものを、失ってしまう。まわりから、「かわいそ
うだ」「いい嫁だ」と言われることが、その妻にとっては、生きがいになっている。

 一方、夫は夫で、精神的に妻を虐待すればするほど、妻が、自分に依存してくるのを、知って
いる。だから、ますます自分勝手な振るまいを繰りかえすようになる。

 しかしこんな人間関係は、異常である。ゆがんでいる。

 栃木県に住んでいるBさんから、こんな相談があった。ここでいうAさんというのは、そのBさ
んの姉である。

 「どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、まず、本人自身に、その異常さを理解してもらうのが、一番よい。そ
してパチンコ依存症(男性に多い)や、買い物依存症(女性に多い)と同じような、依存症の一
つであることを、わかってもらう。

 こうした共存依存に陥ると、(1)自分のことが客観的に判断できなくなる、(2)自分が何を望
んでいるか、それを表現できなくなる、(3)自分が自分でなくなり、(夫の)人形のようになってし
まうなどの、障害が現れるようになる。

 方法としては、一度、夫と離れて暮らしてみるのがよい。たがいに冷却期間を置くわけだが、
実際には、これがむずかしい。無理に離れさせたりすると、禁断症状のような症状が、たがい
に出てくることがある。だから結局は、またモトのサヤに収まってしまう。

 こういうケースでは、たがいに「好きだ」とか、「愛している」とか言うものだが、本当のところ
は、それは愛でも何でもない。たがいに依存しあっているだけ。が、それすらも本人たちには、
わかっていない。

 もともとどちらか一方に、心の空白部分があるために、そうなると考える。だから、ことは簡単
ではない。また簡単には解決しない。ふつうは、そういう状態のまま、双方が、その人生を終え
ることが多い。

 Aさんも45歳ということだから、私の印象では、そのままの状態で、これからもいくだろうと思
う。妹のBさんにとっては、つらいことかもしれないが、Bさんにできることにも限界がある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 共存
依存 依存うつ)

【付記】
 夫婦の問題は、どこまでいっても、夫婦の問題。他人がとやかく言っても、始まらない。どうし
ようもない。親や兄弟でも、そこには限界がある。本人たちが、「それでいい」と言うなら、あと
は、暖かく無視するしかない。何かあって、助けを求めてきたら、そのときは、相談にのる。し
かし、そのときまで、待つしかない。

 この種の問題は、きわめてデリケート。へたに干渉すれば、その時点で、人間関係は終わ
る。干渉するにしても、慎重に。控えめに。相談されたことだけを、その範囲で、ていねいに、
いっしょに考えてあげるのがコツである。







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●人形期から反抗期へ

●人形期から反抗期前夜へ

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子どもは、親の人形であること
によって、身の保全を図ろうと
する。この時期を、「人形期」と
いう。

親の前でいい子ぶる。
親の期待に答えようとする。
「うちの子はやればできるはず」と
親に思わせることによって、
自分の立場を確保する子どももいる。

が、その時期は、小学3年生前後まで。
この時期を境に、子どもは急速に
親離れを始める。つづいて反抗期へと
入っていく。

++++++++++++++++

 子どもは、満4・5歳〜5・5歳から、幼児期を脱して、少年、少女期に入る。以後、(1)人形
期→(2)反抗期→(3)モラトリアム(猶予)期→(4)自己同一性期を経て、おとなへと成長して
いく。

 そのうちの人形期の特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)親が描く子ども像を敏感に察知して、その像に合わせて自分を演出する。
(2)親の期待に答えられる子どもであるという期待感を、親にもたせようとする。
(3)ものの考え方が、隷属的、依存的になりやすい。
(4)いい子ぶることによって、仮面をかぶったり、二面性をもつこともある。

 この時期、親の存在感が強すぎると、子どもは、その存在感に押しつぶされる形で、マザー
コンプレックスやファーザーコンプレックスをもちやすくなる。そのためにも親やおとなのもつ優
位性を、子どもに押しつけないこと。あるいは子どもが親離れを始めたら、親離れしやすい環
境を用意する。

 人形期から反抗期への移行に失敗すると、子どもは、いわゆる「人形子」(イプセン、「人形
の家」)になる。未成熟なまま、おとなになる。子どもの側からすると、そのあとの自己の同一性
の形成がしにくくなる。

 人形子ほど、そのあと、親子の呪縛に苦しむことは、よく知られている。これを心理学の世界
でも、「幻惑」と呼ぶ。「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』にしばられる。ふつうの
苦しみではない。ある男性は、それを、「悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ」と表現し
た。「親子でも、よい関係であるなら、そういうこともないのでしょうが、私のばあいは、そうでは
ありませんでした。私は父を、ずっと憎んでいました。私が解放されたと感じたのは、父親が死
んだときです」とも。

 少しずつだが、(親の前で見せる自分)と、(本当の自分)との間のギャップを感ずるようにな
る。こうして子どもは、いわゆる(反抗期前夜)を迎える。

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●ゆりもどし現象

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子どもは、突然、親離れをするの
ではない。

ときにおとなびてみたり、ときに
幼児ぽくなったりを繰りかえしな
がら、徐々に親離れをする。

これを『ゆりもどし現象』と、
私は呼んでいる。

数年前に書いた原稿をそのまま、
ここに載せる。

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●巣立ち

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岐阜県在住の、Yさん(母親)より、
こんな相談があった。

「高校2年の息子と、断絶状態にあるが、
どうしたらいいか」と。

メールには、「転載、引用、お断り」と
あったので、詳しくは、紹介できない。

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 岐阜県のF市に住む、Yさんという方より、こんな相談があった。家族構成は、わからない。

 Yさんは、目下、Yさんの、高校2年生になる息子と、断絶状態にあるという。それについて、
「どうしたらいいか」と。

 メールには、「転載、引用、お断り」とあった。私のほうで、簡単にまとめてみる。

(10)朝食を食べないで学校へ行く。用意しても無視する。
(11)ときどき、学校をサボって、部屋の中に引きこもってしまう。
(12)部屋の中で、何をしているかわからない。
(13)小遣いがあると、ヒーローものの人形を、買い集めている。
(14)夕食も、ひとりで食べる。家族との接触を避ける。
(15)会話は、ない。話しかけると、すぐけんかになってしまう。
(16)けんかといっても、一方的にキレてしまい、会話にならない。
(17)「(中学時代)、行きたくもない塾に行かされた」と、Yさんを責める。
(18)「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Yさんを責める。
(10)無気力状態で、勉強をしない。成績はさがった。
(11)中学2年生ごろまでは、いい子で、Yさんに従順だった。
(12)中学生のころには、成績もよく、クラスでもリーダー的な存在だった。

 子どもは小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。(ほとんどの親は、それに気がつか
ないが……。)この時期、たいていの親は、「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と
考えて、子どもの心を見失う。あるいは「親離れ」というものが、どういうものかさえ、わかってい
ない。

 ただ「親離れ」といっても、一次直線的に、親離れしていくのではない。ときに幼児ぽくなった
り、ときに、妙におとなびてみたりを繰りかえしながら、徐々に親離れしていく。これを「ゆりもど
し」と呼ぶ。

 女児であれば、この時期を境に、父親との入浴をいやがるようになる。男児であれば、学校
でのできごとを話さなくなったりする。同時に、第3世界(子供どうしの世界)が、急速に拡大す
る。相対的に第1世界(家族の世界)が、小さくなる。

 そのあと、子どもは、思春期に入り、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。自我
(私は「私」でありたいという意識)が強くなってくると、「私さがし」を始めるようになる。

 そのとき自己概念(私は、こうでありたいという自己像)と、現実自己(現実の自分)が一致し
ていれば、その子どもは、たいへん落ちついた様子を見せる。自己の同一性(アイデンティテ
ィ)が、確立されているからである。

 が、この両者が不一致を起こすと、子どもは、(おとなもそうだが)、ここに書いたように、精神
的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。これを「同一性の危機」と呼ぶ。わかりやすく言
えば、心が、スキマだらけになる。誘惑に弱くなり、当然、非行に走りやすくなったりする。

 それは、たとえて言うなら、嫌いな男性と、いやいや結婚した女性の心理に似ている。あるい
は不本意な仕事をしている男性の心理に似ている。

 こうした状態が慢性的につづくと、それがストレッサーとなって、子どもの心をゆがめる。それ
から生まれる抑うつ感が、うつ病などの精神病の引き金を引くこともある。それはたいへんな
抑うつ感といってよい。決して、安易に考えてはいけない。

 Yさんの息子は、メールを読むかぎり、小中学生のころは、親に従順で、(いい子)であったよ
うである。Yさんも、それに満足していた。そして多分、世間で起きているような子どもの非行問
題を横目で見ながら、「うちの子は関係ない」「うちの子は心配ない」と思っていたはずである。

 が、そんな子どもでも、ある時期から、急変する。その時期は、ここにも書いたように、内的な
性的エネルギーが急速に肥大化する、思春期ということになる。

 大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)引きこもり型がある。症状はまったく反対だが、引きこもり
型でも、突発的にキレて、大暴れすることも、珍しくない。

 Yさんの息子について、いくつか気になる点は、過去の問題をとりあげて、被害妄想的に、そ
れを親の責任にしていること。「行きたくもない塾に行かされた」「こんなオレにしたのは、お前
だ」という言葉に、それが集約されている。

 しかしこうした言葉を、Yさんに浴びせかけるようであれば、まだ症状は軽いとみる。この段階
で、対処のしかたを誤ると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落ちていく。はげしい家庭内
暴力を繰りかえしたり、あるいは数年単位の引きこもりを繰りかえしたりするようになる。(ご注
意!)

 で、こういう症状が出てきたら、鉄則は、ただ1つ。

(5)今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えながら、1年単位で様子をみる。
(6)進学、学習は、あきらめて、なるように任す。高校中退も念頭に入れる。
(7)「がんばれ」「こんなことでどうするの」式の励まし、脅しは、タブー。
(8)キレる状態がはげしければ、一度、心療内科で相談してみる。

+++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
ここに添付しておきます。

+++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
 
++++++++++++++++

 問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない家庭はない。いわんや、親の願いど
おりに育っていく子どもなど、さらに、いない。つまり子育てというのは、そういうもの。またそう
いう前提で、子育てを考える。

 Yさんの息子のケースでは、遠くは、母子間の信頼関係が、じゅうぶん育っていなかったこと
が考えられる。心配先行型の子育て、不安先行型の子育てだった可能性は、じゅうぶん、考え
られる。あるいはそれ以上に、Yさん自身の過関心、過干渉があったことも、考えられる。子ど
もの心を確かめないまま、子育てをしてきた。親のリズムだけで、子育てをしてきたかもしれな
い。

 だからYさんの息子は、思春期に入るまでは、(いい子)だった。子どもの側から見れば、(い
い子)であることによって、自分の立場をとりつくろってきた。が、ここにきて、一変した。Yさん
にとっては、つらい毎日かもしれないが、それも巣立ちと考えて、親は、1歩、退くしかない。

 子どものことは、子どもに任す。もしYさんの心が袋小路に入って、悶々とするようなら、つぎ
の言葉を念ずればよい。

 『許して、忘れる。あとは時の流れに任す』と。

 子育てというのは、基本的には、そういうもの。あるいはYさん自身は、どうであったかを考え
てみるのもよい。あなたは、あなたの親に対して、ずっと(いい子)であっただろうか。たいてい
の人は、「私には問題がなかった」と思っているが、そう思っているのは、その人だけ。

 先にも書いたように、子どもは、小学3、4年生を境に、急速に、親離れをする。しかし親は、
それに気がつかない。親が、子離れするようになるのは、子どもが高校1、2年生になったこ
ろ。

 「このクソババア!」と叫ばれて、はじめて親は、自分に気がつく。そして子離れをする。それ
はさみしくも、つらい瞬間かもしれない。しかしそれを乗り越えなければ、子どもは子どもで、自
立できなくなってしまう。

 忘れていけないのは、Yさん自身も苦しいかもしれないが、それ以上に苦しんでいるのは、子
ども自身だということ。その子どもが今、懸命に、Yさんの助けを求めている。が、肝心のYさん
自身は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 こんな状態で、どうしてYさんの息子が、Yさんに、自分の悩みや苦しみを、心を開いて話すこ
とができるだろうか。

 先にも書いたが、こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態を、決して「最
悪」と考えてはいけない。むしろ事実は逆で、Yさんの息子は、まだじゅうぶん立ちなおることが
できる状態にある。悪い面ばかり見るのではなく、息子のよい面もみる。ほかの子どもよりは、
独立心がおう盛で、かつ自分の人生を、真剣に考えている。親は、自分の(常識)の範囲だけ
でものを考えようとするが、一度、その常識をはずして考えてみることも、大切なのではないだ
ろうか。

 「あなたは、あなたの道を行けばいい。それがどんな道であっても、お母さんは、あなたを信
じ、支持するからね」と。

 今、Yさんの息子が待っている言葉は、そういう言葉ではないだろうか。

+++++++++++++++++

ついでに「人形子」という言葉を
はじめてつかった、イプセンの
『人形の家』について書いた原稿を
収録しておきます。

+++++++++++++++++

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」で夫婦は、どう
いうものか。それを如実に表したのが、イプセンの『人形の家』である。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1914)

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、「子
どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。その苦しみは、
苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、ふ
つう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。その
愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護がありま
す。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどきの過保護を、「代
償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償的過
保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「もっと、勉
強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心にキ
ズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活に対し
て、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。自分
の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるのは、子ども
のことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういうことはな
い。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの受験競争に狂
奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「がんばり
なさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そんなタイプの母
親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないですか」と言ったことがあ
ります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私は、もう終わりましたから…
…」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、もっと言
えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはありませ
ん。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イプセンの『人
形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここでは省略します。子ども
は子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になってしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。どこにも、
「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分を取りもどそうと
します。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればいいんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように見える
かもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありません。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもってしまう子
どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプの子どもの特徴
のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母親の前では、ひざに抱か
れたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言っているの
ではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、自分自身
も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、たいへん高いという
ことです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくらがんばっても、(あるいはがん
ばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いということです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。今はわか
らないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、同じことをして
いた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っている
のではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されているのが、
乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子ども
は、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底不安」という
のがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてまわります。それがう
つ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)
を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感のことを
いいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こうして母子の間でで
きる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。子どもの
心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でなければなりませ
ん。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中で、愛情に包まれて
生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがありますね。「子ども
ができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。夫婦の愛情は、二の
次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になります。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをしながら、
そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、たいていこ
のタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子どもではない
からです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能に近い
部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出てすぐ二足
歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわかってきました。これを「敏
感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」「育てて
いただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化する
わけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの(子ども)へ
と伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能ではなく、学習』と
いうことになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、今度は、それを自分の子
育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということです。
また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許してはいけないという
ことです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなければなりま
せん。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっくりそのまま、今度
は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっているように、
(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わかりやすく言えば、自分
を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上で、(3)「私はこういう人間だ」とい
う(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても過言で
はありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟なまま、あなた
という子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あなたの母親を責めてい
るのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想でしか
ないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないということです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、大きく
なります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しかし幻想は幻想。心
理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女ではな
いか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、耳にタコができる
ほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高校2年生のときのことだっ
たと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗していな
ければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。(もっとも、
それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありませんが……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメールを読ん
でいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、どうか、仮にお
気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知ることもあり
ます。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だろう」「人間って
何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができましたら、送ってください。いっし
ょに、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、ね。何も、それ
に誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉 過干
渉児)





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●子どもの問題、家族の問題

++++++++++++++

子どもに何か問題が起きると、
たいていの親は、「原因は、子ども
自身にある」「子どもに問題がある」と
考える。

これに対して、最近は、「家族とい
うのは、よくても悪くても、相互
に作用しあうもの」、つまり、
子どもの問題といっても、それは
家族の問題と考える考え方が、主流
になってきている。

つまり子どもといっても、家族の
「代表者」にすぎない、と。

子どもに何か問題が起きたら、
まず、家族のあり方を考える。

+++++++++++++++

子どもに何か問題が起きると、たいていの親は、「原因は、子ども自身にある」「子どもに問題
がある」と考える。そして「子どもを、何とかしよう」と考える。

これに対して、最近では、「家族というのは、よくても悪くても、相互に作用しあうもの」、つまり、
子どもの問題といっても、それは家族の問題と考える考え方が主流になってきている。つまり
子どもといっても、家族の「代表者」にすぎない、と。子どもに何か問題が起きたら、まず、家族
のあり方を考える。

 たとえばここにハキがなく、見るからに萎縮した子どもがいたとする。親は、「どうしてウチの
子は、ハキハキしないのか」「どうすれば、活発な子どもにすることができるか」と悩む。

 しかし本当の原因は、親自身にある。親の神経質な育児姿勢、過関心、それに過干渉。こう
した家庭環境が混然一体となって、その子どもをそういう子どもにした。こんな例もある。

 ある姉(当時、小2)と、弟(年長児)がいた。ともにハキがなく、チックや吃音(どもり)などの
神経症的症状のほか、無気力、無関心などの症状も示していた。話を聞くと、姉は、こう言っ
た。「勉強しないと、その夜は犬小屋で寝させられる」と。

 まだ「虐待」という言葉が、それほどポピュラーでない時代だった。私は、その(犬小屋で寝さ
せられるという異常さ)にぞっとした。つまりそういうことを当たり前とする家庭環境が、その姉と
弟を、そういう子どもにした。

 が、親は、それに気づいていない。いないばかりか、そうすることが親として、あるべき姿と信
じていた。

 そこでここにも書いたように、最近では、子どもに何か問題が起きると、家族全員(たいてい
は両親、両祖父母)を集めて、その問題を考えるようになってきている。これを「家族療法」とい
う。つまり子どもの問題は、家族の問題と考える。

 が、私の経験からしても、これは容易なことではない。家族というのは、家族自体が、ひとつ
の(自我群)で取り囲まれている。ひとつの固いカラでおおわれていると考えると、わかりやす
い。

 もっとわかりやすく言えば、親というのは、(おとな)。価値観や人生観、それに宗教観や哲学
などが、それなりにかたまってしまっている。そういう(おとな)を相手に、親自身がもつ問題点
をわからせるのは、たいへんなこと。いわんや、親自身を変えるようにもっていくのは、もっとた
いへんなこと。

 私にしても最近になって、年の功というか、若い親たちをやっと説教できるようになった。が、
若いときは、そうではない。へたに(家族)に介入しようものなら、「何を、生意気なことを!」と、
はね返されてしまった。

 たとえば過負担から無気力になってしまった子ども(小5男児)がいた。親は、毎日、その子
どもに、3〜4枚のプリント学習を強制していた。

 で、私はある日、意を決して、その父親にこう言った。「もう、勉強はあきらめたほうがいい。
今のままでは、本当に燃え尽きてしまう」と。

 しかし父親は、それに頑(がん)として反対した。「このままでは、ウチの息子は、ダメになって
しまう」と。さらにこうも言った。「先生(=私)は、他人の子どものことだから、そういうふうに言う
ことができる」と。

 今の私なら、もう少しうまく説得できたかもしれない。が、それがその親子との最後の会話に
なってしまった。

 そこで家族療法としては、(1)まず、子ども自身がもつ問題点を、親に理解してもらう、(2)そ
の原因は、家族全体がもつ雰囲気(システム)にあることを理解してもらう、というところから始
める。

 が、これとて、私のほうからするわけではない。親のほうから何か相談があったとき、その機
会を通して、それとなく親に理解してもらう。言い方をまちがえると、大騒動に発展してしまうこ
ともある。

 加えて親自身がもつ、知的能力の問題もある。家族療法といっても、親に、それを理解する
だけの知的能力がなければならない。さらに家庭環境の問題もある。すでに家庭崩壊の状態
にある親子に向かって、家族療法を勧めても、意味はない、などなど。

 が、ひとつだけ、心に留めておいたらよい。

 子どもに何か問題を発見したら、それはあなたの問題である、と。

 そういう謙虚さが、あなたの心を溶かし、ついで、子どもの心を溶かす。「ウチの子どものこと
は、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、自分の子どものことがわかっていない。く
れぐれも、ご注意!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
療法 家族自我群)







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●家庭内子育て戦争

+++++++++++++

家族の問題は、相手から相談
があるまで、介入しない。

これは子どもを指導するときの
大鉄則。

+++++++++++++

 明らかに過保護な子ども(年中男児)がいた。原因は、おばあさん。そこである日、たまたま
母親が迎えにきていたので、その母親にこう言った。「少し、おばあちゃんから離したほうがい
いですよ」と。

おばあさんは、ベタベタに子どもをかわいがっていた。が、この一言が、その後、大騒動の引き
金になろうとは!

 それから一か月後。母親がすっかり疲れきった様子で、幼稚園へやってきた。あまりの変わ
りように驚いて、私が「どうしたのですか」と声をかけると、こう話してくれた。

「いやあ、先生、あれからたいへんでしたの。祖父母と別居か、さもなくば離婚ということになり
まして、結局、祖父母とは別居することになりました」と。ほかのことならともかく、親も、こと子
どものこととなると、妥協しない。こんなこともあった。

 その老人は、たいへん温厚で、紳士的な人だった。あとで聞くと、中学校の教師をしていたと
いう。その老人が、どういうわけだか、D君(年長児)の入試に、異常にこだわっていた。「先
生、何としても孫には、A小学校に入ってもらわねば困るのです」と。

私はその老人の気持ちが理解できなかった。「元先生ともあろう人が、どうして?」と。が、ある
日、その理由がわかった。老人は、こう話してくれた。D君の父親は、隣町の浜北市で勤務医
をしていた。もしD君がA小学校に入学すれば、D君は、その老人の家から小学校へ通うことに
なる。が、入学できなければ、D君は浜北市の親のもとへ帰ることになる、と。

しかし入試の直前になって、事態が急変した。親が入試を受けることに、猛烈に反対し始めた
のだ。私のところにも父親から電話がかかってきた。「今後は、我が家の教育については干渉
しないでほしい。息子は浜北市の地元の小学校に通わせることにしたから」と。

 この事件はそれで終わったが、それから半年後。そのときその老人は、自転車に乗っていた
が、車ですれ違うと、別人のようにやつれて見えた。孫の手を引きながら、意気揚揚と幼稚園
へ連れてきた、あのハツラツとした姿は、もうどこにもなかった。あとで聞くと、それからさらに
半年後。その老人は何かの病気で亡くなってしまったという。その老人にとっては、孫育てが生
きがい以上のもの、つまり「命」そのものだった。

 孫を取りあって、父母との間で壮絶な、家庭内戦争を繰り広げている人はいくらでもいる。し
かし世の中には、こんな悲惨な例もある。例というより、一度、あなた自身のこととして考えてみ
てほしい。あなたなら、こういうケースでは、一体どうするだろうか。

 ある祖父母には、目に入れても痛くないほどの一人の孫がいた。が、その孫が交通事故に
あった。手術をすれば助かったのだが、その手術に、嫁が、がんとして反対した。嫁は、ある宗
教教団の熱心な信者だった。その教団では、手術を拒否するように指導している。

一度私が教団に確認すると、「そういう指導はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら拒否
することもあるでしょう」とのこと。ともかくもそれで、その孫は死んでしまった。
 
 その祖父はこう言って、言葉をつまらせた。「それまでは、愛だとか平和だとか、嫁の宗教
も、それほど悪いものではないと思っていたのですが……」と。







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●根性のある子ども

+++++++++++++

今、子どもたちが、どこか
ナヨナヨしている。

またそういう子どもほど、
できのよい子と考える。

しかし……。

+++++++++++++
 
 自分の意思を貫こうとする強い自我を、根性という。この根性さえあれば、この世の中、何と
かなる。反対にこの根性がないと、せっかくよい才能や頭脳をもっていても、ナヨナヨとした人
生観の中で、社会に埋もれてしまう。

 ある男の子(年長児)は、レストランで、「もう一枚、ピザを食べる」と言い出した。そこで母親
が、「お兄ちゃんと半分ずつにしなさい」と言うと、「どうしても一枚食べる」と。母親はあきらめ
て、もう一枚注文したが、その子どもは、ヒーヒー言いながら食べたという。あとで母親が、「お
となでも二枚はたいへんなのに」と笑っていた。

 またある幼稚園で先生が一人の男の子(年中児)に、「あんたなんか、もう、おうちに帰りなさ
い!」と言ったときのこと。先生は軽いおどしのつもりでそう言っただけなのだが、その子ども
は先生の目を盗んで教室を抜け出し、家まで歩いて帰ってしまった。先生も、まさか本当に帰
るとは思っていなかった。母親もまた、「おとなの足で歩いても、一時間はかかるのに」と笑って
いた。こういう子どもを、根性のある子どもという。

 その自我。育てる、育てないという視点ではなく、引き出す、つぶすという視点で考える。つま
りもともとどんな子どもにも、自我は平等に備わっているとみる。それは庭にたむろするスズメ
のようなものだ。あのスズメたちは、犬の目を盗んでは、ドッグフードをかすめ取っていく。そう
いうたくましさが人間にもあったからこそ、私たちは、何十万年もの長い年月を、生きのびるこ
とができた。

 が、多くの親たちは、その自我をつぶしてしまう。過干渉や過関心、威圧的な子育てや親の
完ぺき主義、さらには親の情緒不安が、子どもの自我をつぶす。親が設計図をつくり、その設
計図にあてはめるのも、まずい。子どもは小さくなり、その小さくなった分だけ、自我をそがれ
る。

 反対に自我を引き出すためには、まず子どもは、あるがままを認める。そしてあるがままを
受け入れる。できがよくても、悪くても、「これがうちの子だ」と納得する。もっとはっきり言えば、
あ・き・ら・め・る。一見いいかげんな子育てに見えるかもしれないが、子どもは、そのいいかげ
んな部分で、羽を伸ばす。自分の自我を引き出す。

 ただしここでいう自我と、がんこは区別する。自分のカラに閉じこもり、かたくなな様子になる
のは、がんこという。たとえばある男の子(年長児)は、幼稚園では同じ席でないと、絶対に座
らなかった。また別の男の子(年長児)は、二年間、ただの一度もお迎えにくる先生に、あいさ
つをしなかった。そういうのは、がんこという。

 また自我は、わがままとも区別する。「この前、お兄ちゃんは、○○を買ってもらったのに、ど
うしてぼくには買ってくれないのか」と、主張するのは自我。しかし理由もなく、「あれ買って!」
「これ買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。ふつう幼児のばあい、わがままは
無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、誰も相手にしませんよ」という姿勢を貫
く。





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●教育基本法改正

 教育の世界の憲法、それが教育基本法ということになる。その「改正」が、今、急ピッチで進
められている。しかしなぜ、今なのか?

 問題点はいくつかある。愛国心に始まって、公共の精神、伝統の継承など。そのほかにも、
「不当な支配」(旧法、第10条)がある。

 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」
というのがそれである。

 それが改正案では、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定め
るところにより行われるべき」となっている。

 問題は、この「不当な支配」の解釈。

 もともとは、「教職員による不当な支配」を念頭に置いてつくられた条文だが、一方、教職員
側は、「国による不当な支配」と解釈した。解釈のし方によって、その目的するところが、180
度、ちがう。

 この条文によって、国側は、「教職員による政治教育」を排除しようとした。一方、教職員側
は、「国による教育の強制」を排除しようとした。こうした解釈のちがいが鮮明化したのが、国
歌、国旗の問題である。

 「国歌の斉唱、国旗の掲揚を拒否するのは、教職員による不当な支配」と主張する国。一
方、「国歌の斉唱、国旗の掲揚を、教育現場に押しつけるのは、国による不当な支配」と主張
する教職員。

 そこでそのあいまいさをなくすため、改正法では、「この法律及び他の法律の定めるところに
より行われるべき」となった。つまり改正法によれば、教職員側の解釈は、一方的に排除され
ることになった。

 ……とまあ、いまだにこうした時代錯誤的な論議がなされていること自体、奇異な感じがす
る。欧米では、何度も書くが、教育は自由化に向かって、どんどんと進んでいる。たとえば教科
書の検定をしているのは、この日本だけ。EUでは、大学の単位そのものが、共通化されてい
る。またカナダでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。学校で使う言語その
ものも、自由。そうした流れを止めることは、もう、だれにもできない。

 いまどきこんなことにこだわっているのは、先進国の中では、日本くらいなもの。愛国心にし
ても、それは内なる世界からわき起こってくるもの。国であれ、他人から押しつけられるもので
はない。郷土愛にしてもそうだ。国旗を掲揚し、国歌を歌うから愛国心があるということにはな
らない。また国旗を掲揚せず、国歌を歌わないから、愛国心がないということにもならない。

 安倍総理大臣は、任期後半は教育改革だと息こんでいるが、何をどうしようとしているのか、
私にはよくわからない。あるいは、つぎの憲法改正のための基礎づくりをしている? つぎの憲
法改正では、天皇を日本の元首にすえるという。そういう動きというか、流れづくりも、これまた
急ピッチで進められている。

 そのためにまず思想づくり、つまり教育……ということか?

 あるとき気がついたら、学校の各教室に、天皇、皇后の写真が飾られている。そういう時代
が、もう、すぐそこまできているのかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
基本法 改正 不当な支配 憲法改正)


●教育基本法改正(2)

+++++++++++++++++

愛国心、郷土愛も結構だが、
どうして教育基本法では、
自由や平等、さらには博愛を
歌わないのか?

近隣諸国との友好でもよい。
今のところまだ現行憲法は
生きているのだから、平和でも
よい。

そうすることに、何か、
まずいことでもあるのだろうか?

+++++++++++++++++

 母の介護をして5か月になる。その間、いろいろなことを、反面教師として、母から学んだ。

 そのひとつ。介護は、きれいごとだけではできない。たとえば便の始末など。が、それだけで
はない。母が我が家に住むようになってから、私たち家族は、いろいろな病気(?)に悩まされ
た。多くは皮膚病だが、おそらく母が我が家にもちこんだものだ。

 そういう母だから、おむつを替えるたびに、私は、陰部をアルコール消毒してやっている。
が、母には、そういう私たちの意図など、理解できない。そのつど、「冷たい!」「親に、何てこと
する!」「おまはんら、鬼や」と叫ぶ。

 そういうとき実の私ですら、「コノヤロー!」という気持ちになる。が、そこは親子。私は無視し
て、必要なことはする。

 つまり実の親子でも、介護にはかなりの忍耐心と寛容心が必要。いわんや、他人をや!

 そこで私は、「博愛」という言葉を使う。これから先、この日本は、いまだかって世界でも経験
したことがないような老齢化社会を迎える。あと10〜20年先には、人口の3分の1が、満65
歳以上になるとも言われている。

 そうなったとき、私たち老人は、社会からどのような扱いを受けるか? 多分、「コノヤロ
ー!」ではすまないだろう。すでに老人虐待も、問題になりつつある。つまり愛国心も結構なこ
とだが、こと「教育」ということになるなら、そんな狭い料簡(=考え)は捨てて、「博愛心」として
もよいのではないか。

 さらに自由、平等もある。現行の憲法はまだ有効なのだから、平和でもよい。しかしなぜか、
そういう言葉は、教育基本法の中には、どこにも出てこない。なぜか?

 自由……今、自由化がいちばん必要なのは、実は教育の世界である。が、その教育が、
今、逆行している。管理、管理、また管理。だから教育基本法で「自由」を歌うことは、まことに
もって、ま・ず・い。

 平等……日本に天皇制が残るかぎり、日本には、平等はない。とくにつぎの改正憲法では、
天皇を元首に置くという動きすらある。だから「平等」を歌うことは、ますます、ま・ず・い。

 平和……現行憲法を改正するという大前提で、教育基本法が改正されるのだから、「平和」
を歌うことも、ま・ず・い。誤解してはならないのは、平和憲法があるから、戦争はダメということ
ではない。自由や平等、博愛を守るためなら、いざとなったら戦う。相手が攻めてきたら、戦
う。これは当然のことである。

 新教育基本法では、「我が国と郷土を愛する態度を養う」とある。この「我が国と郷土」の部
分を変えて、「自由、平等、博愛、平和を愛する態度を養う」としたら、どうか? そのほうが、よ
っぽど視野が広くて、私はよいと思うのだが……。

(追記)

 何度も書くが、政府はことあるごとに、「愛国心は世界の常識」と説く。しかしこれはまっかな、
ウソ!

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。

日本ではその「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語
の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大
切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国
心になっている。

 どうか誤解のないように!





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●言葉能力

++++++++++++++

言葉能力は、あらゆる学習の
基本となる。

が、今、その言葉能力そのものに
問題がある子どもが、ふえている。

++++++++++++++

 日本人の男性と国際結婚した母親がいた。台湾から来た人だった。が、たいへん教育熱心
な人(?)で、子ども(小1男児)がテストで、まちがえたりすると、そのつど子どもをはげしく叱っ
ていた。ふつうの叱り方ではない。たいていは「どうして、こんなの、できない!」「できるわ!」
の大騒動になった。 

 そこで私に相談があった。そのときその子どもは、小学2年生になっていた。しかし原因はは
っきりしていた。その子どもは頭のよい子どもだったが、しかし言葉能力が不足していた。文章
題が読めなかった。

たとえば「3足す4(3+4)」と「3が4つ(3×4)」の区別がつかなかった。母親が家の中では中
国語を話していたこともある。しかしそれ以上に、母親の日本語能力が、問題だった。私と話
すときも、「先生、息子、ダメ。算数、できない。どうして。これ、困る、ね」と。

 そこで私は、「お子さんの言葉能力に、問題があります」と言った。するとその母親は猛烈に
反発して、「うちの子、日本語、だいじょうぶ。話せる、あるよ」と。……と書くと、簡単な会話の
ように思う人がいるかもしれないが、こうした押し問答が、延々と三30分近くもつづいた。

説明するのに時間もかかったが、そのたびにその母親は、ああでもないこうでもないと反論し
た。「うちの子は、私が教えたら、できた。どうして学校では、できない、あるか」「中国では、1
年生で、20までの数の足し引き算ができる」「うちの子、頭、いい。できないはず、ない」と。

が、何よりもその母親で不愉快だったのは、異常なまでの教育に対する、過関心だった。子ど
ものささいなミスをとらえて、それをことさらおおげさに問題にしていた。私が「この時期は、学
ぶことを楽しむことのほうが大切です。もっとおおらかに構えてください」と言ったのだが、最後
の最後まで、「おおらか」という意味さえわかってもらえなかった。

この母親のケースは、極端なケースだが、しかしこれを薄めたケースとなると、いくらでもある。
子どもが勉強できない原因は母親にある。しかし母親はそれに気づいていない。気づかないば
かりか、このタイプの母親は、その責任は子どもにある、学校にあると主張する。そして結果と
して、子どもの伸びる芽すら、自ら摘んでしまう……。

 この母親とはそのあとも、いろいろあった。で、やがて私のほうが疲れてしまい、最後は、「ど
うぞ、自分で教育してください」と、サジを投げてしまった。そのあとその母親と子どもがどうなっ
たか、消息は聞いていない。






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●乳幼児の心理vs老人の心理

●老人の心理

++++++++++++++++

母だけを観察して、「老人はこうである」
という意見を書くのは、きわめて危険で
ある。

それはよくわかっている。

しかしその一方で、母が見せる様子を、
幼児に照らし合わせてみると、これまた
興味深い点がいくつか見つかる。

少し前、老人特有の自己中心性につい
て書いた。認知症になればなるほど、
老人は、自分のことしか考えなくなる。

乳幼児の自己中心性は、よく知られて
いる。その自己中心性は、成長とともに、
利己から利他へと、変質していく。

老人のばあい、反対に利他から利己へと
変質していく。

そのほかにも、いくつか気がついた。

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 たとえば母だが、最近、おもしろい言い方をするのに気がついた。たとえば、大便や小便が
近くなると、こう言う。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と。

 大便や小便が、まるで勝手に出てくるというような言い方をする。「自分の意思とは関係なく、
大便や小便のほうが、勝手に出てくる」と。他人ごとのようでもある。つまり、「だから、何とかせ
よ!」と。あるいは、「困るのは、お前たちのほうだ」とでも、言いたげである。

 同じような現象は、幼児の世界でも観察される。大便や小便をしたくなったようなとき、ほとん
どの幼児は、こう言う。「オシッコ! (……だから何とかしてくれ)」「ウンチ! (……だから何
とかしてくれ)」と。

 こういう言い方を総称して、『何とかしてくれ』言葉という。依存性の強い子ども特有の言い方
と覚えておくとよい。

 一方、老人も、そうである。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と言いながら、その
裏で、「だから何とかしてくれ」と言っている。健康な人なら、そういう言葉を聞くと、こう思うにち
がいない。「オシッコでもウンチでも、自分のことだろう」「自分で始末しろ」と。しかし老人になる
と、自己中心化が進む。進むと、精神そのものが、肉体から遊離し始める。

 ケア・ゼンターには、こんな老人もいるという。

 思うように動かなくなった自分の体について、「どうして治らない!」と、ドクターの顔を見るた
びに怒鳴りつけている老人である。「どうして治せない!」ではなく、「どうして治らない!」と言っ
ているところに注目してほしい。その老人は、ドクターに対して怒りをぶちまけているのではな
い。自分の体に対して、そうしている。

 そこで私は学んだ。

 肉体あっての精神である。精神活動も、もとはといえば、肉体活動の一部である。肉体を離
れて、精神はありえない。

 そこで重要なことは、精神は、いつも、自分の肉体を受け入れなければならないということ。
わかりやすく言えば、老いゆく自分の体にしても、それは私自身であるということ。自分の肉体
を嫌うということは、そのまま、自分の精神を嫌うということになる。

 が、若い人の中でも、自分の肉体を嫌う人は少なくない。必要もない整形手術を繰りかえす
ような人たちである。つまりそれだけ自己中心性の強い人とみてよい。もっとはっきり言えば、
それだけ幼児性が残っているということになる。……こう言い切るのは危険なことかもしれない
が、老人の心理を観察していると、それがよくわかる。

 私たちはいつも、あるがままの(私)を受け入れながら生きる。ここでいう(あるがまま)の中に
は、当然(肉体)も含まれる。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」ではなく、言うべき言
葉は、「私はオシッコをしたい」「私はウンチをしたい」である。

 願わくは、私は死ぬまで、そういう生き方をしたい。

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乳幼児の自己中心性について、
以前書いた原稿を紹介します。

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●乳幼児の自己中心性

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的
特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がいるとい
う。あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 人口
論 実念論 物活論 幼児の自己中心性)

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もう1作、補足します。

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●実念論

 乳幼児の心理の特徴の一つに、「実念論」がある。聞きなれない言葉だが、要するに、乳幼
児は、「念力」を信じているということ。

 実念論……どこか「?」な言葉だが、最初に、外国の論文を翻訳した学者が、そういう訳語を
つけたのだろう。「念じて、ものごとを実現させる」という意味である。

 私も幼児のとき、クリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザがほしくて、心の中で何度も念じ
たことがある。ほかにもいろいろ念じたことがあるが、それについては、あまりよく覚えていな
い。

 つまり、乳幼児は、現実と幻想の世界の区別が、あまりつかないということ。

 しかし問題は、このあとに起こる。

 こうした実念論は、やがて修正され、成長とともに、思考パターン(回路)の中でも、マイナー
な領域へと追いやられる。子どもは、より現実的なものの見方を身につけていく。

 しかしその実念論が、子どもの中に必要以上に残ることがある。あるいは、その実念論が、
かえって、増幅されることがある。

 少しくだらないことだが、こんなことがあった。

 まだ私が幼稚園で働いていたときのこと。ある日、あるところへ行ったら、そこでばったりと、
幼稚園の同僚の先生(若い女性)に出会った。「こんなところで何をしているの?」と聞くと、そ
の先生は、恥ずかしげもなく、こう言った。

 「ここで私の運勢を、占ってもらっていたんです」と。

 見ると、その一角が、ボックスで仕切られたブースになっていた。そして小さいが、そこには、
看板がかけられていた。「○○占星術研究会」と。

 私はそのとき、ほんの瞬間だが、「こんな先生に指導される子どもたちは、かわいそうだ」と
思った。体はおとなだが、心は、乳幼児のまま(?)。

 もちろんそのころには、私は、実念論という言葉は知らなかった。(まだそういう言葉は、なか
ったように思う。)が、乳幼児が、ときどき空想と現実を混濁するという現象は、経験していた。
 

イギリスの格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。この格言を、私はすでに25年前に知っ
ていた。

 が、今は、念力ブーム。現象としては、あの『ポケモンブーム』のときから、加速されたように
思う。自分の願いごとを、スーパー・パワー(超能力)のようなもので実現させようとする。こんな
ことがあった。

 ある中学生が、何やら真剣な表情で、ビルの一角をじっとにらんでいた。「何をしているの?」
と声をかけると、その中学生は、こう言った。

 「先生、ぼくね、念力で、あのビルを吹っ飛ばしてみたい」と。

 そのポケモンブーム全盛期のころのことである(99年)。私は、こう言った。「吹っ飛ばしたい
と思うのは、君の勝手だが、吹っ飛ばされる人たちの立場で、少しはものを考えなよ」と。

 乳幼児の実念論。こうした現象が、どうして乳幼児にあるかは別にして、できるだけ、そうした
実念論からは、子どもを遠ざけていく。あるいはそれにかわる思考パターンを、植えこんでい
く。

 これは幼児教育においては、とても重要なことだと思う。

 つまり、先生が、占いや、まじないを信じていたのでは、話にならない!、ということ。


●物活論

 この実念論と並んで、よく知られている乳幼児の心理に、「物活論」がある。乳幼児が、ありと
あらゆるもの、無生物も含めて、すべてのものは、生きている」と考える現象をいう。

 人形やおもちゃは言うにおよばず、風にそよぐカーテン、点滅する電気、自動車、石ころ、本
など。

 ある子どもは、姉が本を何かで叩いたとき、「本が痛がっているから、やめて」と言った。反対
に、飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池をかえれば、また動く」と主張した子どももい
た。

 物活論の特徴は、(1)すべてのものは、生きている。(2)すべてのものには、感情がある、と
考えるところにある。

 これも広い意味では、現実と空想の混濁。乳幼児の視点に立ってみると、それがよくわか
る。つまり乳幼児には、まだ生物と無生物を区別するだけの知力や経験が、ない。

 が、こうした物活論を修正していくのも、幼児教育の重要なポイントということになる。わかり
やすく言えば、「生物」と、「無生物」の区別を指導する。

 私には、こんな経験がある。

 10年ほど前、たまごっちというゲームが流行したことがある。そのときこと、私は不注意で、
その中の生き物(?)を殺してしまったことがある。スイッチの押し方をまちがえてしまった。

 とたん、その女の子(年長児)は、「先生が、殺してしまったア!」と、おお泣きした。で、「私
が、死んではいないよ。これはゲームだから」と何度も言って聞かせたが、結局は、ダメだっ
た。私を責めつづけた。

 (反対に、生物を無生物と思いこんでしまうこともある。これはたいへん危険な現象と考えて
よい。これについては、また別のところで、考えてみる。当時、ちょうど同じころ、死んでミイラ化
した死体を、『まだ生きている』と主張した、おかしなカルト教団が現れたのを覚えている。

無生物を生物と思いこむ子ども。死んだ人を生きていると思いこむ信者。現象としては、正反
対だが、これら両者は、一本の糸でつながっている。)

 風でそよぐカーテンを、「生きている」と思うのは、どこかロマンチックな感じがしないでもな
い。しかし子どもは、さまざまな経験をとおして、やがて生物と無生物を区別する知力を身につ
ける。

 それを指導していく、つまり論理的(ロジカル)なものの考え方を教えていくのも、幼児教育の
一つということになる。

【付記】

 そういう意味では、乳幼児期の教師(先生)の選択には、きわめて慎重でなければならない。

 思想性はもちろんのこと、とくに宗教性には、慎重でなければならない。この時期の教師とし
ては、論理的で知的な教師であればあるほど、よい。社会的に認知されていない、「?」的なカ
ルト教団に染まっているような教師は、好ましくない。(当然だが!)
(はやし浩司 実念論 物活論 乳幼児の心理)






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●損論

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心が広いかどうかは、
「損」に対する、寛大さで決まる。

「損」に対して、寛大な人を、
心の広い人といい、そうでない人を、
心の狭い人という。

言いかえると、人は、損に損を重ねることで、
心を広くすることができる。

+++++++++++++++

 人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。人は、その死によって、すべてを奪われ
る。失う。名誉も地位も、そして財産も!

 ところでその人の心が広いかどうかは、「損」に対する寛大さで決まる。損に対して寛大な人
を、心の広い人といい、そうでない人を、心の狭い人という。

 いいかえると人は、損に損を重ねることで、自分の心を広くすることができる。そのことは、反
対に、そうでない人を見ればわかる。俗にいう「ケチな人」というのが、それである。

が、ここで誤解してはいけないのは、「ケチな人」というときは、何も、お金(マネー)だけの問題
ではないということ。先日、介護の会に出たとき、こんな話をした女性(60歳くらい)がいた。そ
の女性もまた、今年85歳になる母親の介護を、自宅でしているという。

 その女性には、一人、妹がいるの。が、その妹は、母親の介護を、まったく分担しようとしな
いという。費用分担はもちろんのこと、ときどき世話を頼むのだが、そのつどあれこれ口実をつ
くっては、それから逃げてしまうという。

 「妹は、自分の時間が取られたり、自分の生活のリズムが崩されるのがいやみたいです」と。

 ここでいうケチな人というのは、生活に対する姿勢が、防衛的な人のことをいう。ものの考え
方が、利己的で、かつ自己中心的。もちろん他人のためには、ほとんど何もしない。いや、する
ことはあるが、たいていは自分をよく見せるための仮面。たとえば町内で祭りの世話などは、
よくするが、それもどこか打算的。その女性は、そう言った。

 そこで「損」、ということになる。

 もちろん、だれしも損はしたくない。お金はもちろんのこと、時間にしてもそうだ。さらに苦労も
したくない。しかし損というのは、自動車のハンドルの(遊び)のようなもの。(遊び)があるから、
自動車を運転することができる。(遊び)がなかったら、運転することはできない。

 たとえばあなたの近くに、こんな人がいたとしよう。男でも、女でもよい。その人は、一日中、
家の中にいて、自分の好きなことをしている。庭いじりに、家庭菜園。人と会うこともしないし、
町内のつきあいもしない。もちろん訪れる人もいない。

 近所の子どもが庭へ入ってきただけで、それを不愉快に思う。だから、塀の外に、もう一本、
別の柵をつくる。が、それだけではない。

 その人は、道路に落ちているゴミひとつ、拾おうとしない。となりに空地があり、その季節にな
ると雑草が生い茂る。それについても、逐一(ちくいち)、市役所に苦情を申し立てたりする。あ
るいは自分の家の前の道路に、だれかが自動車を駐車したりすると、すぐパトカーを呼ぶ、な
どなど。

 あなたの周囲にも、ひょっとしたら、そういう人がいるかもしれない。しかしそういう人を、だれ
も心の広い人だとは、思わない。心の狭い人という。

 しかしそこの「死」を感ずるようになると、ものの見方が一変する。「生」というのは、たとえて
言うなら、光り輝く白い世界。が、その光り輝く白い世界だけに住んでいると、その(輝き)がわ
からなくなる。

 その(輝き)は、(死)という暗黒の世界をうしろにおいたとき、それがわかる。闇の世界があ
るからこそ、光の世界に輪郭(りんかく)ができる。闇の世界がなければ、影すら、できない。冒
頭に書いたように、人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。「損」という言い方に語
弊があるなら、こう言いかえてもよい。

 やがて襲い来る「死」という「損」の前で、何が、「損」なのか、と。つまり私たちが生きている間
は、その生きていることにまさる価値はない。「損」、そのものが存在しない。

 だから「損」を考えるほうが、おかしい……ということになる。わかりやすく言えば、あなたの身
のまわりのものすべて、そして身近にいる人すべてが、あなたに何かを教えるためにそこにあ
り、そこにいる。そこであなたがすべきことは、己(おのれ)の中の善の心に耳を傾けて、それ
に従っていきるということ。

 あとのことは、あとに任せればよい。(生きている)ことを無限の価値とするなら、あなたが
「損」と考えるようなことは、その一部にもならない。ゴミのようなもの。そんなゴミに左右され
て、迷ったり、悩んだりするほうが、おかしい。気分をクシャクシャさせるほうが、おかしい。

 もちろん自ら損をすることはない。大切なことは、心のどこかで「損」を感じたら、そのときこ
そ、あなたはつぎのステップへの階段を昇るときだと思えばよい。つまりそのとき、「いやだ」と
思えば、あなたはいつまでも凡人のまま。しかし笑って過ごせれば、あなたはすでにそのとき、
つぎのステップに昇ったことを意味する。

 私も、過去において、とくに金銭的な意味では、損ばかりしてきた。取られることはあっても、
もらったことは、ほとんど、ない。ワイフの父親が亡くなったとき、遺産(?)として、現金10万円
をもらった。あとにも先にも、人からお金をもらったのは、そのときだけ。

 しかし私はあるとき、こう考えた。

 「健康で今まで、生きてきた。それにまさる価値はない」と。とたん、気が晴れた。スーッとし
た。大切なことは、いつまでも前向きに、光り輝く白い世界に向かって生きること。「損」だとか、
「得」だとか、そんなことを考えるほうが、おかしい。そんなヒマがあったら、とにかく足を前に一
歩、踏み出すこと。

 繰りかえすが、あとのことはあとに任せればよい。

【付記】

 どうしても話は、介護のことになってしまう。たしかに家の中に、老人がいると、自分の行動が
制約される。私のばあいも、母と同居するようになって、1泊旅行というのが、ほとんどできなく
なった。

 もっとも、それができなくなったというわけではない。ケア・マネージャーの人に頼めば、あれ
これと骨を折ってくれる。ケア・センターのほうで、母を預かってくれる。

 そんなとき、ふと、こう思う。「母のおかげで、好きなことができない」と。

 しかしものごとには、いつも両面がある。(何でも好き勝手なことができる)という前提で、今の
自分を見ると、たしかに不自由である。しかし(何もできない)という前提で、今の自分を見る
と、私は自由である。(何もできない)状態というのは、最終的には(死)を意味する。

 つまり自由、不自由ということは、あくまでも相対的なこと。何をもって自由といい、何をもって
不自由というか。さらに言えば、自由といっても、行動の自由、肉体の自由、それに精神の自
由がある。

 こと精神の自由に関していえば、だれも、またいかなるばあいも、私の自由は、制約されるこ
とはない。肉体の自由も、健康である間は、そうである。精神の自由、肉体の自由の前では、
行動の自由など、大きな問題ではない。

 たまの日曜日だが、母の介護があって、何かの会合に出られないからといって、不自由にな
ったとは言えない。が、ここでいう「ケチな人」には、それがわからない。「自由がない」「自由が
ない」と、ことさら大げさに騒ぐ。あるいは取り越し苦労ばかりしている。

 しかし最初から「損」を計算に入れておくと、ものの見方が一変する。「損」を前提として、生き
る。そのほうが、気も楽。どうあがいたところで、やがて「死」は確実に、私やあなたのところに
やってくる。どうせそのとき、私やあなたは、すべてを失う。その「死」と比較したら、今、私やあ
なたが経験している「損」など、何でもない。

 大切なことは、一日でも多く、一時間でも多く、「損」のことは忘れて、心朗らかに生きること。
私はそう思う。




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●荷おろし症候群

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目的の学校(中学、高校)に無事、
入学をはたしたとたん、勉強面で、
無気力になってしまう子どもは、
多い。

勉強面なら勉強面だけで無気力に
なるという点で、いわゆる燃え尽き症候群
(バーント・アウト)とは区別される。

称して、「荷おろし症候群」。

今、そういう子どもがふえている。
程度の差もあるが、たとえば中学
入学の段階で、約20%前後の子ども
がそうなる。

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 受験という緊張感から解放されたとたん、勉強面なら勉強面だけで、無気力になってしまう子
どもがいる。ほかの遊びや、クラブ活動のほうは、それなりにがんばる。しかし「勉強」となった
だけで、それから逃げてしまう。やる気を示さない。

 ちょうど荷物をおろしたような状態、つまりそのとたん、疲れがドッと出て、その場でへたりこ
んでしまうような症状に似ているところから、「荷おろし症候群」と呼ぶ。特徴としては、つぎのよ
うなものがある。

(1)虚脱感(目的を見失う。目的がもてない。)
(2)無気力感(やる気が起きない。)
(3)倦怠感(ぼんやりと、無益に時間をつぶす。)
(4)疲労感(何をしても、疲れる。)
(5)集中力欠如(集中力がつづかない。)
(6)現実逃避性(現実から逃避しようとする。)

 もともと勉強に対して、受動的だった子どもほど、そうなりやすい。親に言われて、勉強した子
どもや、受験塾などで、脅されながら勉強した子どもなど。程度の差もあるが、全体的にみる
と、たとえば中学に入学した段階で、約20%前後の子どもが、そうなる。あるいはもっと多い
かもしれない。

 が、表面的には、それほど変わらない。それだけに、家族の人も、それに気がつくということ
がない。「うちの子はだいじょうぶ」と考えて、見過ごしてしまう。また先にも書いたように、勉強
面だけで無気力になるという点で、燃え尽き症候群(バーント・アウト)とは、区別される。

 しかし決して、軽く考えてはいけない。荷おろし症候群にしても、脳の機能そのものが変調し
て起こると考える。重いばあいには、そのまま燃え尽き症候群へと進んでしまうこともある。

 ではどうするか……という問題よりも、ここでは、ではどうすれば、こうした子どもの問題を防
ぐことができるかということを考えてみたい。

 ほとんどの親は、(おそらく、あなた自身も)、「いい学校へ子どもを入学させるのは、子ども
のため」と考えている。しかしこれがとんでもない誤解! そのことは、自己同一性の視点から
考えてもわかる。

 子どもが何かの(目的)をもって、その(目的)に向かって努力することは、大切なことである。
たとえば「ケーキ屋さんになりたい」と思って、お菓子作りの勉強をする、など。

 このばあいは、(自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致している。

 しかし「いい学校へ入る」というのは、ここでいう(目的)ではない。私は「擬似目的」と呼んでい
る。言うなれば、魚を釣るときの、ルアー(擬餌)のようなもの。目的の学校に入学したとたん、
その目的を見失ってしまう。「入学したからどうなの?」という部分が、ない。ないから、入学した
とたん、目的を見失ってしまう。

 しかもたいていの子どもは、受験塾などで、受験勉強を繰りかえしている。そこは「成績」とい
う数字だけの世界。その数字に脅されて勉強を強いられる。もし反対に、そういう世界が楽し
いと言う子どもがいたら、その子どもの人間性を疑ってみたほうがよい。

 まともな子どもほど、そういう世界になじまない。なじまないまま、受験競争を強いられる。そ
してこういう状態が、1年とか2年もつづく。荷おろし症候群というのは、まさにその結果として起
こる。

 ではどうするか?

 子どもには子どもの能力とリズムがある。その能力とリズムを、的確に見分け、知る。すべて
はここから始まる。それを無視して、「うちの子はやればできすはず」「うちの子は、こんなはず
はない」と、子どもをたきつけても、意味はない。

 以前、私は『伸びたバネは、縮む』という格言を考えた。子どもの能力というのは、まさにそう
で、無理をして引っ張っても、力を抜いたとたん、もとに戻ってしまう。仮にそれで中学受験はう
まくいったとしても、今度は、高校や大学受験でつまづく。その時点で、ここでいう荷おろし症候
群を示したり、ばあいによっては、燃え尽き症候群を示したりするようになる。

 子どもの能力を競馬にたとえるのは、不謹慎なことかもしれないが、それは、第1レースと第
2レースで勝っても、第3レースで、あり金すべてを失ってしまうようなもの。要するに、無理をし
ても意味はない。

++++++++++++++

以前、何度もこのテーマについて
は書いてきました。

それらの原稿を添付します。

++++++++++++++

●燃え尽き症候群と、荷おろし症候群

 ふと、今、燃え尽き症候群と、荷おろし症候群は、どこがどうちがうか、それを考えた。

 燃え尽き症候群の最大の特徴は、無気力感と脱力感。しかし荷おろし症候群の最大の特徴
は、目的の喪失である。症状としては、よく似ているが、(実際には、区別できないが……)、中
身はちがう。

 たとえば(明日のジョー)は、がんばりすぎて、そのあと、燃え尽きてしまった。(明日のジョー)
は、燃え尽き症候群の典型例として、よく話題になる。

 しかし荷おろし症候群のばあいは、目的そのものをなくす。何かの目的を果たしたあと、いわ
ば、宙ぶらりんの状態になる。まったくの無気力状態になるわけではない。ただ、心に大きなす
き間ができるため、誘惑などにもろくなる。

 こうした現象は、大学生を見ていると、よくわかる。

 猛勉強に、猛勉強を重ね、有名一流大学に入学したあと、燃え尽きてしまう学生もいれば、
燃え尽きはしないが、何をしてよいかわからず、遊びまくる学生もいる。後者が、荷おろし症候
群の学生ということになる。

 こんな定義をしても、実際には、あまり役にたたないが、今、ふと、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があって
も、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方
法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さ
ねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリス
の格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが
ある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何か
のことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、
子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができ
るかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールし
ているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を
受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を
放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号
こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの
心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「でき
たア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが
感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。
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的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ 荷おろし症候群 荷下し
症候群)



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