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●受験競争の弊害

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受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

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 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調
和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それだけ
精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることに
より、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこれは遺伝
子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。が、ここ
でいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的なも
のであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であればあるほ
ど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。ばあい
によっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そういう側面
がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をす
る子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(8)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(9)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(10)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(11)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(12)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(13)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(14)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。親自
身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれて
いる。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができな
い。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。い
や、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。今でも、
農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会
では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつのは、私だ
けではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとおれない
こと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【いじめ】

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管理、管理、また管理。

子どもたちが窒息している。
おまけにあろうことか、教育再生会議なる
会議が、それに拍車をかけようとしている。

あやういところで流れたが、
教育長の国の任命制度なども、それ。

そこで子どもたちは、不満の
はけ口を、弱いもの、少数なものに
向けようとする。

本来なら、そうしたエネルギーは、
親に向かい、教師に向かい、
さらには社会に向かわねばならない

が、それができない。その力もなければ、
方法も知らない。
できないから、そのエネルギーは、
子どもどうしの仲間に向かう。

これが、いじめる側の、
いじめの構造と考えてよい。

++++++++++++++++++

 昨夜(3月3日)、NHKで、「いじめ問題」の特集番組を流していた。いろいろな専門家が集ま
り、いろいろな意見を述べていた。「いじめはなくなるか、なくならないか」と、(YES・NO)方式
で、そのつど、アンケート調査もしていた。(YES・NOで答えられるような問題でもないと思うの
だが……。)

 最初の部分と、最後の部分は見ていないので、こう言い切るのは危険なことかもしれない。
が、(いじめる側)を擁護する意見が、まったくなかったのには驚いた。「いじめる子どもは絶対
的な悪である」という大前提が、まず、はじめにありき。その上で、「どうしよう」「こうしよう」と。

 「擁護」と言っても、誤解しないでほしい。私は何も、「いじめが悪いことではない」と言ってい
るのではない。いじめは悪である。それはそうだ。ただ、しかしいじめる子どもにしても、それな
りの背景というか、理由があるということ。もっと言えば、この問題は、(いじめる側)の子どもの
心の奥深くまで、メスを入れないと、解決しないということ。

 善人も悪人も、紙一重。

 何度も書くが、『抑圧は、悪魔をつくる』(イギリスの教育格言)。つまり抑圧された状態が長く
つづくと、人の心は悪魔的になる。ものの考え方、行動が、悪魔的になる。人間の心の奥底に
隠されている邪悪な部分が、抑圧によって、えぐり出されるためと考えてよい。

子どもの世界とて、例外ではない。今、子どもたちは、(学校)という場で、窒息している。管理、
管理、また管理。さらに(受験競争)という(勉強)が、子どもたちをしめつけている。本来なら自
由化に向わねばならないはずの教育が、今、逆行しようとしている。教育再生会議なる会議
も、そういう方向に向っている。

 あやうく流れたからよいものの、教育長の国の任命権もそのひとつ。とんでもない話である。

 先日も、ある小学校の校長がこう言った。「昔は、学校帰りに道草を食いながら、遊んで帰る
というのが、当たり前だった。しかし今は、それができない。まっすぐ家に帰るよう、親も教師
も、そう指導している」と。

 私も、小学生のころは、めったに、まっすぐ家に帰ったことはない。学校の門を出たところで、
私たちはすべてから解放された。好き勝手なことをした。ザリガニを取ったり、ドジョウを取った
りした。夏の暑い日だと、魚釣りをして帰ったこともある。

 そういうことが、当時は、まだ自由にできた。

 ただ、当時もいじめは、あったと思う。私もいじめられたし、(私にはその意識はなかった
が)、だれかをいじめたこともあると思う。しかしそうした解放感にひたることによって、(抑圧)
の大部分は、解消されたと思う。いじめる側にしても、またいじめられる側にしても、だ。

 さらに言えば、いじめる側の子どもの心は、私たちが考えているほど、単純なものではない。
そこには、人間が動物としてもっている、(本能)の問題もからんでいる。集団で行動しようとす
る(群れ意識)、さらには、弱くて、力のないものを、ふるい落とそうとする(種族選択意識)、さ
らには、自分より弱者を身近に置くことによって、安心感を得たいという(優越意識)などなど。

 群れの中にいることによって安心感を覚える。(とくにアジア人種はそうか?)半面、その群れ
からはずれるものを許さない。自分とは異質なものを、許さない。群れを否定するものに対して
は、それを徹底的に攻撃する。

 より優勢な種族を残そうと、弱いものや、劣等なものを、ふるい落とそうという意識も働く。動
物の世界では、よく見られる現象である。たとえば私の庭には、毎年、ドバトがやってきて巣を
つくる。たいてい2羽のヒナがかえるが、うち1羽のヒナは、ある時期になると、もう1羽のヒナに
巣から落とされ、殺される。

 さらに自分より弱いものをそばに置いておくということは、それだけで、安全が担保される。ま
ずその弱いものが犠牲になり、つづいて、自分となる。だから人間は、ほかの動物たちと同じ
ように、自分より弱いもの、劣等なものを身近に用意することによって、自分の安全を担保しよ
うとする。

 人間は、「私たちは、ほかの動物たちとはちがう」と考えがちだが、人間がほかの動物たち
と、ちがうと考えるほうが、おかしい。むしろ、動物そのもの。ときには、動物以下にもなる。動
物でもしないような愚かなことを、平気ですることさえある。

 いじめには、こうした問題が複雑にからんでいる。

 例によって例のごとく、じめられた経験のある子どもたちが、涙ながらに、「いじめられるもの
の苦しみをわかってください」と訴えていた。その気持ちは痛いほど、よくわかる。いじめは、根
絶しなければならない。繰りかえすが、悪である。

が、ではその子どもたちが、反対の立場になったら、どうなのだろう。はたしてじめをしない、す
ばらしい子どもになるだろうか。この問題は、個人というワクをこえて、その向こうにある、人間
を見て考えなければならない。いじめの問題には、人間が人間であるがゆえにかかえる、本来
的もつ問題がからんでいる。

 ある教師はこう言っていた。「じめは、努力でなくなります」と。

 しかし本当に、そうか? 現実には、教師の間のいじめほど、すさまじく、はげしいものはな
い。そんなことは学校教育にたずさわっているものなら、みな、知っている。わかりやすく言え
ば、教師どうしが、いじめに明け暮れていて、どうして子どものいじめをなくすことができるか、
ということ。私はこの意見には、「?」を、10個ほど、感じた。

 たいへんきわどい問題である。それはわかっている。

 しかしこれだけは言える。抑圧された心は、そのはけ口を、どこかに向ける。向けなければ、
その人自身が窒息してしまう。子どもとて、同じ。

 そこで本来ならそのエネルギーは、親や教師に向かうべき。あるいは社会に向かうべき。「ど
うして勉強なんか、させるのだ」「受験競争をなくしてほしい」と。しかし子どもには、その力がな
い。方法も知らない。だからそのエネルギーは、内へと向かう。中の世界へと向かす。自分より
弱いもの、かつ少数なものに向かう。それが(いじめる側の、いじめの構造)である。

 つまりこの部分にまでメスを入れないと、いじめの問題は解決しない。

 むずかしい話はさておき、一方で、子どもたちを受験競争でギューギューにしめつけながら、
その一方で、「いじめをなくすにはどうしたらいいか」は、ない。抑圧と、いじめは、相関関係に
ある。そう言い切ってもよい。

つまり、現象として表れる、いじめだけを問題にしても、ナンセンス。たとえて言うなら、熱を出し
ている患者の熱だけを見て、病気を論ずるようなもの。私には、その番組を見ていて、そう感じ
た。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 いじ
め いじめの問題 いじめる側の論理)






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●依存性

●自分の中の邪悪さ

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遠い昔、
私は、母の子だった。

しかしその母と別れて住むようになって、
40年以上。

が、どういうわけか今また、私は
母といっしょに暮らしている。

その母を見ていると、そこに、ときどき、
自分の(過去)が、そこにあることを知る。

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 遠い昔、私は、母の子だった。しかしその母と別れて住むようになって、40年以上。盆暮れ
のときには、そのつど帰っていたが、しかしその程度。その私が、今、どういうわけか、その母
といっしょに暮らしている。

 その母を見ていると、そこに、ときどき、自分の(過去)が、そこにあることを知る。

 よい部分もあれば、そうでない部分もある。私は、母に溺愛されて育った。それはそれで感謝
しなければならないことかもしれない。が、溺愛は、決して、「愛」ではない。私は、母のモノとし
て、つまり、母を慰めるための道具として、育てられた。

 少年時代は、母の期待にこたえることだけが、私の生き様(ざま)だったように思う。が、それ
だけではない。私は、母のもつよい部分はもちろんのこと、そうでない部分まで、そっくりそのま
ま引きついでしまった。

 そうでない部分の多くは、邪悪な部分といってもよい。母と別れて住むようになって、私はそ
の部分と、ずっと自分の中で戦ってきたように思う。母はまだ生きているので、それについて詳
しくここに書くことはできない。しかしいつだったか、これももう、ずいぶんと前のことだが、こう
思ったことがある。

 「母だって、ただの女性ではないか」と。何も、(ただの女性)であることが悪いというのではな
い。「親である」という幻想に振りまわされて、過大な期待はしてはいけないということ。それに
気がついた。

 以来、私は母を冷静に見ることができるようになった。と、同時に、自分の中の邪悪な部分に
ついても、冷静に見ることができるようになった。

 邪悪な部分……しかし、それはけっして、単純な問題ではない。自分の心の中に、顔のシミ
のように、しみついている。ある時期は、自分の中のそれと戦うために、もがき苦しんだことも
ある。そういう部分を、今、母は、平気で私に見せる。

 頭に、カチンとくることもある。心だけが、過剰に反応することもある。しかし母は、母。しかも
90歳をすぎている。脳みその働きも、よくない。つまり私が本気で相手にしなければならないよ
うな相手ではない。だから、瞬間的にはカチンときても、つぎの瞬間には、笑ってすます。

私「あのバーさん、またやったよ」
ワ「放っておきなさいよ」
私「わかってる……」と。

 親といえども、けっして(親である)という立場に甘えてはいけない。親だって、1人の人間。い
つかその親も、1人の人間として、子どもに評価されるようになる。つまりそのとき、その評価に
耐えられるような親であれば、それはそれでよし。そうでなければ、そうでない。結局は、さみし
い思いをするのは、親自身、つまりあなた自身である。

 ところで今、あの森Sが歌う、『おふくろさん』が、世間の話題になっている。何でも森Sと、作
詞家の間の関係が、険悪なものになっているという。ときどき、私はあの『おふくろさん』を、批
評する。日本的な、実に日本的な歌であるという意味で、批評する。

 ここに書いたこととあまり関係ないかもしれないが、それについて書いた原稿を、ここに添付
する。(中日新聞発表済み)

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日本人の依存性を考えるとき
 
●森Sの『おくふろさん』

 森Sが歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし…
…。

日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独
特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子ど
もに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。

そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よ
い子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないと
いうより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。

そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服
でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。

依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それである。
たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だから何
とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こう
いう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森Sの歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ…
…」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日
本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)

●夫婦別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(二〇〇一年)。それによると、同制度導入のための法律改正に賛成
するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では
反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用す
る法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがっ
たというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が
高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感
に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま
る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、
「影響はない」の二六・八%を大きく上回った。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の
五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための
法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか
尋ねたところ、希望者は一八・二%にとどまったという。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●依存性

+++++++++++++++++++

人間が動物としてもっている、(群れ意識)、
それが、依存性に転化した。

その依存性は、本能的であるがゆえに、
なかなか、その輪郭(りんかく)を外には現さない。

そのため、「私は独立心が旺盛だ」と思って
いる人でも、依存性の強い人は、多い。

+++++++++++++++++++

 「よい人間でいよう」「よい夫でいよう」「よい妻でいよう」、さらには、「よい親でいよう」と思うこ
と自体、すでに、それが依存性の表れとみてよい。人間は、だれかを意識し、自分の立場を意
識したとたん、そこに(保護)と(依存)の関係をつくる。

 誤解してはいけないのは、保護意識が強いからといって、依存性が弱いということにはならな
い。「だれかに保護してもらいたい」「だれかに依存したい」という意識が転じて、得てして、それ
が他人を保護するという意識に変わる。そういった例は、親子の間で、よく観察される。

 たとえば子どもの受験競争に狂奔する親。このタイプの親は、一見すると、保護意識が強く、
その分だけ、独立心が旺盛のように見える。しかし実際には、子どもに依存したいという意識
が基本にあって、それが転じて、親をして、子どもの受験競争に駆り立てる。もう少しわかりや
すく言えば、子どもを1人の人間として認めていない。つまりはそれだけ子離れできない、未熟
な親ということになる。

 が、だからといって、依存性のない人はいない。だれでも、多かれ少なかれ、依存性を、体質
としてもっている。実際には、「私は私」と、自分を確立しながら生きるのは、この世界では、容
易なことではない。子どもについて言えば、「うちの子は、うちの子」と、子どもを守りながら生き
るのは、この世界では容易なことではない。

人に依存して生きることによって、自らがもつ重荷を、軽減することができる。その分だけ、気
が楽になる。

 半面、独立的であろうと思えば思うほど、そこにあるのは、(孤独)。言いかえると、依存性が
もつ甘美な世界と、独立性がもつ孤独な世界は、ちょうど対照関係にある。だから人は、無意
識のうちにも、独立的であろうとするよりは、だれかに依存しながら、楽に生きる道を選ぼうと
する。冒頭に書いた、(群れ意識)というのも、そこから生まれた。

 私は、これを昔から、「甘い誘惑」と呼んでいる。が、その甘い誘惑から自分を切り離し、独立
して生きることは、容易なことではない。たとえば(自由)という言葉がある。人が真に自由を求
めようとするなら、まず、この甘い誘惑から自分を切り離さなければならない。

 話がわかりにくくなってきたので、もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 ある教会に、1人の信者がやってきた。その信者は、白内障で、視力がかなり低下していた。
が、その少し前、手術で、白内障が治った。

 その信者は、教会の祭壇の前に正座すると、こう言った。「神様が私を守ってくださったおか
げです」と。何度も何度も手を合わせ、祭壇に向って、礼拝した。

 しかし白内障を治したのは、実は、神ではない。病院のドクターである。しかし依存性、この
ばあい、神への依存性の強い人には、それがわからない。「神様が、白内障を治してくれた」と
考える。しかも白内障といっても、今では、簡単な手術で治すことができる。

 しかしその信者は、自分では、けっして神に依存しているとは、思っていない。「神を信じてい
る」とは言うが、「依存している」とは言わない。しかし依存は、依存。それがわからなければ、
子どもの受験について、合格祈念をしている親の姿を思い浮かべてみればよい。

 そんなことに(力)を貸す仏や神がいたとするなら、その仏や神は、エセと考えてよい。常識の
ある人なら、そう考える。しかし依存性が強くなると、それがわからなくなる。そして子どもが運
よく(?)、目的の学校に合格できたりすると、「仏様のおかげ」「神様のおかげ」と喜ぶ。

 子どもの能力ではない。子どもの努力でもない。仏や神のおかげと、それを喜ぶ。

 こうした依存性と戦うためには、まず自分の中の、依存性に気づくこと。たとえばあなたが子
どもの歓心を買うために、何か高価なプレゼントを買い与える場面を想像してみるとよい。そ
のときあなたは、心のどこかで、「買ってやる」という、(やる意識)をもつかもしれない。

 それも立派な、依存性である。だから子どもがあなたの期待に応えなかったりすると、「あん
な高価なものを買ってやったのに」と、子どもを叱ったりする。子どもが高校受験に失敗した日
に、私にこう言った母親さえいた。「子どものころから、音楽教室や体操教室に通わせました
が、みんな、ムダに終わりました」と。……ムダ?

 さらにそれが高じてくると、子どもに向って、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出して
やった」となる。が、それについては、もう、何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 話をもどす。

 概していえば、日本人は、民族学的な視点からしても、依存性のたいへん強い国民である。
日本人独特の集団意識、ムラ意識などに、その例をみる。「みなで渡れば、こわくない」という
発想を共にもつ。つまりそれだけ日本人は、独立心が弱く、さらにその分だけ、(自由)というも
のがどういうものであるか、それを知らないでいる。自由とは、もともとは、「自らに由(よ)る」と
いう意味である。

 ……以上、思いついたまま、メモ風に書いたので、どこかチグハグな感じがしないでもない。
雑感として、ここに記録する。(07年3月9日)

+++++++++++++++++

つぎの原稿を書いてから、もう4年に
なる。

同じ、(依存性)をテーマにした原稿だが、
そのままここに紹介する。

+++++++++++++++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、K国について話しあったが、その女性は、こう言った。「アメリカが何とかし
てくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。一見、なごやかな世界に見え
るかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。総じて言えば、日本人が
もつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が結集したものとみてよい。
「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌
われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン性)
を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればあるほど、
美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、まずない。だれ
かが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代
の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界から
みて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が
国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」)

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ついでにもう1作。
中日新聞発表済み。

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●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最
後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に
居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手が
つけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





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●交流分析

 人とのかかわり方を見て、その人の性格を分析しようというのが、「交流分析」。たとえば、事
業か何かで失敗した人がいたとする。

 その人との濃密度にもよるが、そのとき、その人への接し方には、さまざまなパターンに分か
れる。

 精神分析学者のバーンは、つぎの3つに分類した。

(1)親の心(P)
(2)おとなの心(A)
(3)子どもの心(C)

 「そんなことでは、ダメでしょ」「ちゃんとがんばりなさいよ」と、親の立場で、叱ったり励ましたり
するのが、親の心(P)。「失敗はだれにでもある」「では、こうしたらどうかな」と、冷静に判断し
て、理性的に解決策を考えたりするのが、おとなの心(A)。「ワー、どうしたらいいの」「あなた
はこのままダメになってしまう」と、子どものように、取り乱して、相手を責めるのが、子どもの
心(C)ということになる。

 子どもの心(C)が、悪いというわけではない。ときには、子どもの心(C)にかえり、自然や芸
術に感動することも必要。またおとなの心(A)が、よいというわけではない。おとなの心(A)が
強すぎると、権威主義的なものの考え方をするようになったりする。

 大切なのは、「バランス」(バーン)。

 この3つの心をじょうずに使い分け、そのつど、臨機応変に対処していく。たとえばみなで、楽
しく騒ぐときは、いっしょに騒ぐ。しかし必要に応じて、威厳を保ち、相手を指導すべきときは、
指導する。それがうまくできる人、つまりほどよくバランスのとれた人を、「協調性のある人」と
いう。人格の完成度の高い人という。

 これら3つの心は、そのつど、微妙に変化する。変化して、当然。たとえば子どもが何かの失
敗をしたとする。お茶をこぼしたときを考えてみればよい。

 そういうとき、ときには、カッと頭に血がのぼり、子どもをはげしく叱ることもあるだろう。また
べつのときには、冷静に、「これからは、気をつけよう」と諭すこともあるだろう。

 そういう変化をコントロールするのが、自己管理能力ということになる。最近の研究によれ
ば、大脳の前頭前野がその管理能力に、深くかかわっているそうだ。

 ……そう言えば、あのフロイトも、(超自我の人)、(自我の人)、(エスの人)という言葉を使っ
て、同じようなことを説明していた。

 ともかくも、人は、他者とのかかわりをもってはじめて、人となる。いくら人格的に高邁(こうま
い)でも、他者とのかかわりをもたない人は、人でないと断言してもよい。交流分析は、その(か
かわり方)をみて、その人の性格を分析する方法と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 交流
分析 バーン 性格 性格論 おとなの心 子どもの心 親の心)


●超自我の人、自我の人、そしてエスの人。

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超自我の人、自我の人、そしてエスの人。

「エスの人」というのは、自分の本能の
命ずるまま、欲望に溺れて生きる人をいう。

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●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エ
スの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。い
つもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府に住んでいる、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人のばあいは、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、相手が、
それなりの(おとな)であるなら、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)

++++++++++++++++++

 バーンが考えた、(1)親の心、(2)おとなの心、(3)子どもの心を、フロイトのこの理論に当て
はめると、親の心は自我の人の心、おとなの心は超自我の人の心、子どもの心というのは、エ
スの人の心ということになる。(必ずしも一致するわけではないが……。)

 「エス」というのは、体の中心部から人間を動かす原動力のようなものを考えたらよい。フロイ
トは、それを「性的エネルギー」と呼んだ。つまり本能のこと。

 いつだったか、私は、「理性(前頭前野)の力で、この性的エネルギーをコントロールすること
は、容易なことではない」と書いた。その気持ちは、今も、変わっていない。つまりその力は、そ
れほどまでに強力なものであるということ。

 だからEQ論でも、人格の完成度を、その管理能力をみて、判断する。自己を管理する能力
の高い人を、人格の完成度の高い人といい、そうでない人を、そうでないという。


●赤ちゃんがえりのあとに……

 下の子どもが生まれると、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よくある。それはそ
れだが、そのとき、上の子どもが、下の子どもに、執拗な攻撃性を示すことがある。

 ふつうの攻撃性ではない。「殺す」寸前のところまでする。そのため、下の子どもが、上の子
どもに、恐怖心さえもつようになることがある。

 ……という話は、この世界では常識だが、今日、こんなメールを、ある女性(埼玉県U市在
住、TEさん)から、もらった。

 その女性は、三人兄弟(上から、兄、自分、妹)の、まん中の子どもだった。兄とは、4歳ちが
い。妹ととは、1歳ちがいだった。いわく……。

 「私は、もの心つくころから、兄にいじめられました。そんな記憶しかありません。父や母に訴
えても、相手にしてもらえませんでした。兄は、父や母の前では、借りてきたネコの子のように、
おとなしく、静かだったからです。

 で、私は毎日、学校から家に帰るのがいやでなりませんでした。兄は、父や母の目を盗んで
は、私と妹を、(とくに私を)、いじめました。何をどういじめたかわからないようないじめ方でし
た。意地悪というか、いやがらせというか、そういういじめ方でした。

 よく覚えているのは、私が飲んだ牛乳に、兄が、何かへんなものを入れたことです。おかしな
味がしたので、すぐ吐き出したのですが、かえって母に叱られてしまいました。『どうして、そん
なもったいないことをするのか!』とです。

 で、私が中学生になったとき、とうとうキレてしまいました。兄ととっくみあいの喧嘩になり、兄
の顔に、花瓶をぶつけてしまいました。そのため兄は、下あごの骨を折ってしまいました。

 たいへんな事件でしたが、それ以後は、兄のいじめは止まりました」と。

 ……と書いて、私は、今、おかしな気分でいる。

 今の仕事を35年近くもしてきたにもかかわらず、こういう問題があることに気づかなかった。
自分の盲点をつかれた感じである。赤ちゃんがえりを起こした子どもについては、よく考えてき
た。が、しかし、その赤ちゃんがえりを起こした兄や姉の下で、いじめに苦しんだ、弟や妹のこ
とについては、考えたことがなかった。

 つまり赤ちゃんがえりを起こす子どもの側だけで、私は、ものを考えてきた。そして赤ちゃん
がえりを起こした子どもについて、「被害者」という前提で、その対処法を書いてきた。しかしそ
の赤ちゃんがえりを起こした子どもは、一方で、下の子どもに対しては、加害者でもあった。

 実際、このタイプの子どものいじめには、ものすごいものがある。ここにも書いたように、(下
の子どもを殺す)寸前までのことをする。そういう意味で、動物がもつ嫉妬という感情は、恐ろし
い。人間がもつ本性そのものまで、狂わす。

 弟を、家のスミで、逆さづりにして、頭から落とした例。自転車で体当たりした例。シャープペ
ンシルで、妹の手を突き刺した例。チョークをこまかく割って、妹の口の中につっこんだ例など
がある。

 このタイプのいじめには、つぎのような特徴がある。

(6)執拗性……繰りかえし、つづく。
(7)攻撃的……下の子を、殺す寸前までのことをする。
(8)仮面性……上の子が、親の前では、仮面をかぶり、いい子ぶる。
(9)計画的……策略的で、「まさか」と思うような計画性をもつ。
(10)陰湿性……ネチネチと陰でいじめる。

 この中で、とくに注意したいのが、(3)の仮面性である。もともと親の愛情を、自分に取りかえ
すための無意識下の行為であるため、親の前ではいい子ぶることが多い。そのため下の子ど
もが、上の子どものいじめを訴えても、親が、それをはねのけてしまう。親自身が、「まさか」と
思ってしまう。

 で、さらに一歩、踏みこんで考えてみると、実は、こうした陰湿な攻撃性をもつことによって、
上の子ども自身も、心のキズを負うということ。将来にわたって、対人関係において、支障をも
ちやすい。こうした陰湿な攻撃性は、外の世界でも、別の形で現れやすい。

 たとえば学校などで、陰湿ないじめを繰りかえす子どもというのは、たいてい、長男、長女と
みてよい。

 そういう意味でも、人間の心は、それほど、器用にはできていない。結局は、その子ども自身
も、苦しむということになる。

 さらにいじめられた下の子どもも、大きな心のキズをもつ。たとえば兄に対してそういう恐怖
心をもったとする。その恐怖心が潜在意識としてその人の心の中にもぐり、その潜在意識が、
自分が親となったとき、自分の子どもへのゆがんだ感情となって、再現されるということも考え
られる。

 実はここに書いた、埼玉県のTEさんも、そうだ。最初は、「上の兄(8歳)を、どうしても愛する
ことができない」という悩みを、私に訴えてきた。その理由としては、TEさん自身の子ども時代
の体験が、じゅうぶん、考えられる。断定はできないが、その可能性は高い。

 何度も今までにそう書いてきたが、決して赤ちゃんがえりを、軽く考えてはいけない。この問
題は、乳幼児期の子どもの心理においては、重大な問題と考えてよい。
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 負の性格 下の子いじめ 攻撃性)


●負の性格

 「負の性格」という言葉は、私が考えた。

 その人がもつ、好ましくない性格を、「負の性格」という。たとえば、いじけやすい、ひがみやす
い、つっぱりやすい、ひがみやすい、くじけやすい、こだわりやすいなど。

 こうした性格は、その人を、長い時間をかけて、負の方向にひっぱっていく。他人との関係
で、いろいろなトラブルの原因となることもある。

 問題は、こうした負の性格があることではなく、そういう負の性格に気づかないことである。気
づかないまま、その負の性格に、操られる。そして自分では気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえす。

 こうした現象は、子どもたちを見ていると、よくわかる。ひとつのパターンに沿って、子どもは
行動しているのだが、子ども自身は、自分の意思でそうしていると思いこんでいる。
 
 ただここで注意しなければならないのは、仮にひがみやすい性格であっても、その子どもが、
いつも、そうだということにはならないということ。

 相手によっては、素直になることもある。明るく振る舞うこともある。そういう意味で、人間の
心というのは、カガミのようなものかもしれない。相手に応じて、さまざまに変化する。

 言いかえると、子どもを伸ばそうと考えたら、この性質をうまく利用する。こうした変化は、子
どもほど、顕著に現れる。そして仮に負の性格があっても、それをなおそうとは考えないこと。
簡単にはなおらないし、また「それが悪い」と決めてかかると、子ども自身も、自信をなくす。

 で、問題は、私たちおとなである。

 こうした子どもの問題を考えていくと、その先には、いつも、私たちがいる。「私たち自身はど
うか?」と。

 考えてみれば、私も、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。そういう負の性格
をいっぱい、かかえている。で、そういう性格が、おとなになってから、なおったかというと、そう
いうことはない。今でも、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。

 ただ、そういう自分であることを知った上で、じょうずにつきあっている。どこか、ふと袋小路
に入りそうになると、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と思いなおすようにしている。「自分を
知る」ということは、そういうことをいう。

 だれしも、二つや三つ、四つや五つ、負の性格をもっている。ない人は、いない。要は、それ
といかにじょうずにつきあうかということ。そういうこと。
(はやし浩司 負の性格 いじけやすい ひがみやすい)


●精神不安

 S県のKKさん(女性)が、精神不安で悩んでいるという。

 「何をしても落ちつきません。夫は『気はもちようだ』と言います。わかっていますが、この不安
感は、どうしようもありません。とくに何か、問題があるというわけではないのですが、不安でな
りません」と。

 不安イコール、情緒不安と考えてよいのでは……? 精神そのものが、不安定になってい
る。そこへ心配ごとや、不安なごとが入ると、情緒は、その心配ごとや、不安なことを解消しよう
と、一気に不安定になる。

 イライラしたり、反対に怒りっぽくなったりする。突発的に、喜怒哀楽がはげしくなったりする。
ささいなことで、激怒することもある。

 こうした症状は、だれにでもあるのでは……? 私は、花粉の季節(毎年2月末〜3月)にな
ると、心身のだるさを覚え、ついで精神状態が、不安定になる。毎年のことだから、このところ
は、自分で自分をコントロールする方法を、身につけた。「ああ、今の自分は、本当の自分では
ないぞ」と。

 幸いにも、ワイフが、きわめて安定した女性なので、そういうときは、すべての判断をワイフに
任す。「お前は、どう思う?」「お前なら、どうする?」と。たいていの問題は、それで解決する。

 あとはCA、MGの多い食生活にこころがける。CAの錠剤も、私には、効果的である。戦前ま
では、CA剤は、精神安定剤として使われていたという。

 もともと私は、基底不安型の人間だから、心配性。そのため、いつも不安とは、隣りあわせに
いる。とくに、今は、いろいろ問題があって、何かにつけて、落ちつかない。

私の欠陥は、いくつかの問題が同時に起きたりすると、パニック状態になること。具体的には、
大きな問題も、小さな問題も、同時に悩んでしまう。

 だからそうなる前に、つまり自分がそうならないように、気をつける。この世界でも、予防こそ
が、最大の治療法なのである。だから、あまり変ったことはしない。「平凡」を感じたら、それが
ベストだと思うようにしている。そしてその状態を、できるだけ長く守るようにしている。あとは、
よく眠る。運動も効果的。

 あまり参考にならないかもしれない。どうか、めげないで、前に向って進んでほしい。






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●刷り込み

●人間の刷り込み

+++++++++++++++++

人間の脳にも、刷り込みがあるという。
生後直後から、数週間の間に、
それがなされるという。

この期間を、「敏感期」と呼んでいる。
親子の関係を築く、とくに重要な時期と
考えてよい。

+++++++++++++++++

●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オーストリ
ア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学賞受賞者)という学
者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなかった。最初
に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調べたのを覚えてい
る。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、「そ
んなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、新生
児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛情の絆
(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビーが使い出した
言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、肉体
的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児症候群」
と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離れて育て
られた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・かんき出
版)。

(19)身体発育の不良
(20)知能の発達の遅れ
(21)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(22)社会的発達の遅滞
(23)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(24)睡眠不良
(25)協調性の欠如
(26)自発性の欠如と依存性
(27)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、似たよ
うな症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、そのキズは、
一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(やりなお
しのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題であることに気
づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、多い。言いかえる
と、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、そのまま、引きずっている
ことになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦しん
でいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳幼児期にあ
るかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)に苦し
んでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)があると書い
た。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られた部分)は、
(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、それは(あ
なた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも他人のことを考え
ているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られてき
た。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという問題であ
る。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れば知る
ほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということになる。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだったかを、
ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあなた自身を知る、
一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、この原稿
は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アタッ
チメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこみ)





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●生きざまの問題

【読者の方より……】

 埼玉県にお住まいの、SY子さんから、こんな質問がありました。

+++++++++++++

毎回楽しみに読ませていただいています。

少し前のマガジンになりますが、カレンダーのお話が載っていて母からの話を思い出しました。

日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでから
働く。だから日曜から始まると・・・。

本当なのかはわかりません。母は他界しているのでどこからその話を知ったのかも分からない
のですが、「だから頑張ってから休む、頑張ってからご褒美がもらえるのよ」と言う話に、納得し
た記憶があります。

先生はこの説、どうお考えになるでしょうか?? 先生のご意見が聞けたらまた勉強になるか
と思います。

+++++++++++++

★日曜日か、月曜日か?

 そこでインターネットを使って、調べてみた。

 西暦1年1月1日は、何曜日だったか? それがわかれば、カレンダーは、月曜日から始ま
るのか、日曜日から始まるのか、それがわかるはず。

 で、私は若いころ、何かの雑誌で、西暦1年の1月1日は、日曜日だったと読んだことがあ
る。もし、そうなら、カレンダーは、日曜日から始まるのが正しいということになる。

 が、しかし実際のところ、本当のことは、よくわからないそうだ。現在のグレゴリオ暦が使われ
るようになったのは、西暦1582年の10月15日以後のこと。(14日以後という説もある。)そ
れ以前は、ユリウス暦が使われていたという。

 ただ、東京天文台の公式見解では、西暦1年の1月1日は、土曜日だったという。

 カレンダーは、月曜日から始まるのか。それとも日曜日から始まるのか。

 ……という議論は、あまり意味がないのでは……?

★文化のちがい

 ここまで書いて思い出したが、こうした「ちがい」というのは、カレンダーだけではない。生活の
あらゆる場面で経験する。

 アメリカ人やオーストラリア人は、包丁やナイフを、押しながら、ものを切る。日本人は、引き
ながら切る。

 同じように、刀で相手を殺すとき、欧米人は、刺しながら、相手を殺す。日本人は、一度刀を
前に出し、引きながら、相手を殺す。

 ヨーロッパでは、車は左側を通行する。これは馬に乗った騎士が、たがいに相手と戦いやす
い位置に自分を置くためである。それを説明したのが、下の図である。

 (日本でも、車は左側を通行する。刀は左側にさして、右手で抜く。そのためすれちがうとき
は、相手を自分の右側に置かねばならない。それで左側を通行するようになった。)

 (馬に乗って、右手で剣をもった姿勢を頭の中で、想像してみてほしい。馬どうしは、たがいに
左側通行になる。)

         ■■●■→
            I      
                 I
              ←■●■■

(●が剣士。■が馬。Iが刀)

 一方、アメリカでは、車は右側を通行する。これは馬車をひっぱる人が、たがいに馬車をぶ
つけないように、すれちがったためである。馬車をひっぱる人は、馬の左側先頭に立つ。たが
いに右側を通行すると、すれちがうとき、たがいに顔を合わせることができる。

          ← ■■■
           ●
 
          ●
       ■■■ →

(●が馬車を引く人、■■■が、馬車。反対だと、たがいにすれちがいにくくなる。それで右側
通行になったという。)

 ほかにもたとえば、日本人は、あいさつをするとき、頭をさげる。これは相手に、「頭を切られ
ても、文句ありません」ということを伝えるためだそうだ。

 一方、欧米では、握手をする。それは、たがいに剣をもっていないという示すためだそうだ。

 それぞれの文化には、さらにその背景となる文化がある。そうした文化が無数に積み重なっ
て、今の文化をつくりあげている。

★日曜日は、安息日

 ……と考えていくと、カレンダーにも、無数の文化が凝縮されていることがわかる。毎日、働
きづめでは、体がもたない。だから日曜日という、安息日をもうけた。この日は、皆が、休息で
きるようにした。

 そう言えば、私がオーストラリアにいたころは、日曜日といえば、メルボルン市内の商店街
は、すべて、店を閉めていた。(最近は、日曜日にも開店している店が多くなったと聞く。)

 一方、日本には、大安、友引、仏滅……などという言い方がある。今でも、それに応じて、そ
の日の行動を決めている人は多い。これは、一つの寺で、たとえば葬式と結婚式が重ならない
ようにするためであった。

 いろいろ、ある。

 で、SY子さんのメール。こう書いてある。

 「日本人は働いてから休む。だから月曜日から始まって最後が日曜日。でも欧米は休んでか
ら働く。だから日曜から始まると……」と。

 しかし本当にそうだろうか。私が知るかぎり、私が子どものころでさえ、日曜日などは、あって
も、ないようなものだった。その前の、つまり江戸時代から、戦前にかけては、盆と正月しか、
休みのない人もいたという。日曜日イコール、休みという考え方が定着したのは、戦後のことで
はないか。

 さらにこのところ、正月の三が日ですら、仕事をする人がふえてきた。私が子どものころに
は、正月の三が日というのは、絶対的な休日になっていた。商店街の「初売り」にしても、たし
か正月の3日の午後か、もしくは4日ではなかったか。

 が、今は、ちがう。どうちがうかは、みなさん、すでにご存知のとおりである。

 便利になったというか、めちゃめちゃになったというか……。曜日というものが、あまり意味を
もたなくなってきた。

★私は、日曜日始まりが、好き

 で、私のばあいだが、やはり、カレンダーは日曜日始まりのものがよい。月曜日始まりのカレ
ンダーをたまに使ったりすると、かえって混乱してしまう。(実は、もう、何度も失敗している。)

 SY子さんは、はたしてどうだろうか? しかしSY子さんのお母さんは、すばらしいお母さんだ
と思う。それが正しいかどうかという問題は、さておき、そういう指導ができる母親というのは、
そうはいない。

 「休んでからがんばる」より、「がんばってから休む」。そのほうが、何となく、合理的である。
私自身も、そういう生きザマのほうが、性(しょう)にあっているような気がするのだが……。

++++++++++++++++

【異論・反論】

 欧米人は、「休んでから働く」という。(本当は、どちらとも言えないのだが……)、ここまで書
いて思い出したのが、『休息を求めて疲れる』という、イギリスの格言である。この格言は、愚
かな生き方の代名詞にもなっている。

 「いつか楽になろう、いつか楽になろう」と思ってがんばっているうちに、気がついてみたら、
自分の人生が終わっていたという生きザマである。

 これについて、以前、一度、原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子ど
もに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車を
かけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++

 この生きザマは、おとなだけのものではない。小学校の勉強は、中学入試のため。中学校の
勉強は、高校入試のため。そして高校での勉強は、大学入試のため……。そういうふうに、
「未来のために現在を犠牲にする」という生きザマを繰りかえしていると、いつまでたっても、そ
の「時」を、自分のものとすることができなくなる。

 さらに、このことは、「生きるために働くのか」、それとも、「働くために生きるのか」という問題
にまで、行きつく。

 その点、欧米人の生きザマは、わかりやすい。彼らの考え方の基本にあるのは、「自分の生
活を楽しむために、お金を稼ぐ」。その前提で、彼らは仕事をする。だから、土日はもちろんの
こと、1、2か月もつづくバカンスでも、目いっぱい、楽しむ。

 一方、日本人は、そうではない。「仕事がある」と言えば、たいていの家事は、免除される。子
どもでも、「宿題がある」「勉強がある」と言えば、家事の手伝いが免除される。仕事第一主義
が悪いというのではない。しかし日本人は、仕事のためなら、家庭を犠牲にすることをいとわな
い。少なくとも、少し前までの日本では、そうだった。

 しかしなぜ仕事をするかといえば、それで得たお金で、家族と楽しく過ごすためではないの
か。お金はお金。どこでどう稼いだかは、問題ではない。が、日本では、その中身も、問題にな
る。

 これは私自身のことだが、私は、若いころ、がむしゃらに働いた。1か月のうち、休みが1日だ
けということも、長くつづいた。が、それでも、私の収入は、大手企業に勤める同年齢のサラリ
ーマンの給料と、ほぼ同額だった。それはそれとして、そのときのこと。私は、ふと、こう思っ
た。

 「サラリーマンがもらう10万円も、私が手にする10万円も、10万円は10万円。何もちがわ
ない」と。

 しかし世間は、そうは見なかった。「大企業から給料としてもらう10万円と、今でいうフリータ
ーが手にする10万円はちがう」と。おかしなことだが、当時は、まだ、そういう風潮が根強く残
っていた。そのころ私に面と向かって、こう言った男性(50歳くらい)さえいた。

 「お前は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にも、つけなかったんだろう」と。

 仕事に、ロクな仕事も、ロクでない仕事もない。あるいは、何を基準にして、仕事をそういうふ
うに、より分けるのか。

 ……というふうに考えていくと、仕事をしたあと、褒美(ほうび)として、休みをもらうよりも、楽
しんでから、仕事をいたほうが、よいということになる。事実、私の年齢になると、ポツポツと、
他界していく人が現れるようになった。

 これは私の姉の友人のことだが、その友人は、死ぬまで、まさに(仕事の虫)。明けてもも暮
れても、仕事ばかりの人生を送っていたという。で、そこそこの財産を作ったが、ある日、車を
運転しているときに心筋梗塞を起こし、そのまま死んでしまった。

 その友人について、私の姉はこう言った。「何のための人生だったのかねえ……?」と。つま
り、仕事、仕事で明け暮れて、その最後にポックリと死んでしまった友人を思い浮かべなら、そ
の友人の人生は、何だったのか、と。

 こう書くと、SY子さんのお母さんの意見を否定することになる。しかしそれもつらい。

 そこで折衷(せっちゅう)案ということになる。

 日曜日から始まるカレンダーも、おかしい。しかし月曜日から始まるカレンダーも、おかしい。
だったら、水曜日から始まるカレンダーを作ってみたらどうだろうか。

 水、木、金、土、日ときて、つぎに、月、火とつづく。考えるだけでも、楽しいではないか。

 こうすれば、仕事も、褒美も半々ということになる。仕事のために、家庭を犠牲にすることもな
いし、反対に、遊んでばかりいて、仕事をしなくなるということもない。

 要するに、ほどほどに仕事をし、ほどほどに人生も楽しむということ。

 何でもないメールだったが、(最初はそう思ったが……)、SY子さんのメールは、たいへん意
味のある、つまり考えさせられるメールだった。

 SY子さん、ありがとうございました。

【補記】

 戦後の日本といえば、日本全体が、基底不安型の国家になっていたのでは……。敗戦によ
って、日本人は、精神的基盤というか、バックボーンをなくしてしまった。

 その結果、大半の人は、「マネー信仰教」というカルトに走った。新興宗教が、雨後の竹の子
のように生まれたのも、この時期である。

 「働いていないと、不安」「せっかくの休みになっても、休み明けの仕事を考えると心配で、ゆ
っくり休むこともできない」と。

 こうして働き蜂が生まれ、仕事中毒の人が生まれた。周囲の社会も、そういう人たちを、「企
業戦士」とたたえた。

 その結果、今に見る、繁栄した国家が生まれたが、心の空白感はそのままだった。「何か、
おかしいぞ」「どこか、へんだぞ」と思いながらも、それが何であるかさえ、わからないままだっ
た。ずるずると生きてきた。現代に至った。

 が、ここにきて、今、日本人の心に、一大革命が起こりつつある。権威の崩壊と、出世主義
の崩壊である。

 それにかわって、新家族主義が台頭してきた。「仕事よりも家族が重要」と考える人は、99
年ごろには、40%(文部省)前後にすぎなかった。が、最近の各種調査によれば、それが80
〜90%までにふえている。

 日本人は、内面社会に、より充実した幸福感を求めようとしている。もっとも、今は、まだ模索
段階で、そこに確固たる信念を見いだしたわけではない。「今までの生きザマは、どこかおかし
いぞ」「まちがっていたのでは?」という思いが、新・家族主義へ走る原動力になっている。

 こうした流れの一方で、過激な復古主義が、勢力を伸ばしつつあるのも、事実。

 江戸時代の武士道をたたえたり、明治時代に入ってからもてはやされた、徳育教育を教育
の柱に持ち出す人も、多い。さらには、戦前の、民族主義を先頭にかかげる人もいる。天皇制
復活の動きも、あちこちに見られる。

 たしかに今の日本の世相は、混乱している。バックボーンをなくした状態というのは、こうした
状態のことをいう。

 しかし、ここで重要なことは、私たちは、前に進むということ。「混乱したから、過去にもどる」
のではなく、「混乱の中から、未来に向かって、何かを生み出す」ということ。言うまでもなく、改
革思想は、こうした混乱期に生まれる。安定期には、生まれない。

 言いかえると、今こそ、そのチャンスということになる。新しい日本を生み出す、好機というこ
とになる。

 さあ、私たちは、失敗にめげないで、前に進もう! 新生、日本のために!

【補記2】

 みながみな、そうではないが、しかし、今、日本へビジネスマンとしてやってくる、あの中国の
人たちの見苦しさは、いったい、何か? おかしいというより、狂っている。

 口を開けば、「マネー」「マネー」。明けても暮れても、「マネー」「マネー」。考えることは、すべ
て、「マネー」「マネー」。まさに金の亡者。体中を札束でくるんだような人ばかり。まるでマネー
という獲物をねらう、ハゲタカのよう。

 しかしその姿は、30年前、40年前の、私たち日本人の姿そのもの。と言うより、今の中国人
たちを見ていると、あのころの日本人を、そのまま思い出す。私たちも、実は、そうだった。

 そう言えば、当時、どこかの会社のカレンダーには日曜日がなく、「月・月・火・水……」となっ
ていた。実のところ、私の家もそうだった。ハハハ。(笑って、ごまかす。)

 決して中国の人を笑っているのではない。私自身の過去を笑っている。ハハハ。得たもの
も、多いが、そのため、犠牲にしたものも、多い。今から思うと、もう少しましな方法で、人生を
楽しむことができたのではないかと思う。

 何か、不便なことがあれば、すぐモノを買って、解決する。そんな世相だった。おかげで、私
の狭い家の中には、モノがあふれ、自由に歩くことさえ、ままならなかった。

 今回の、SY子さんが投げかけてくれたカレンダーの問題には、本当に、いろいろ考えさせら
れる。SY子さん、重ねて、ありがとうございました。






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●兄弟(姉妹)

++++++++++++++

兄弟は、他人の始まりともいう。

親にすれば、どの子も、わが子。
しかし兄弟どうしの間では、
その論理は、通用しない。

中には……というより、その多くは、
他人以上の他人になる。

「兄弟だから……」という、『ダカラ論』
ほど、アテにならないものはない。

+++++++++++++++

 兄弟(姉妹)には、つぎの7つの関係がある。

(8)対立関係(兄弟同士が、対立する)
(9)協調関係(たがいに力を合わせて行動する)
(10)相補関係(たがいに足りないところを補いあう)
(11)競争関係(たがいに競争する)
(12)主従関係(上の子が、下の子を従わせる)
(13)類似関係(たがいに、よく似てくる。まねをする)
(14)依存関係(たがいに、依存しあう)

 「兄(姉)だから……」「弟(妹)だから……」という、ダカラ論は、できるだけしない。良好な兄
弟関係をつくるためには、これは鉄則である。

 たとえば長男が、長男らしくなるのは、日常的に、「あなたは長男だから……」と言われること
による。親は、長男に、長男としての自覚をもたせるためにそう言うが、しかしこうしたダカラ論
は、思わぬところで、その子どもを追いつめることになり、ついで苦しめることになる。

 よく知られた例に、反動形成がある。「あなたは兄だから……」と言われつづけると、子ども
は、本来の自分とは反対側の自分を、自分の中につくりあげてしまう。たとえば弟(妹)の前
で、ことさらよい兄(姉)を演じてみせるなど。

 そこまで行かなくても、仮面をかぶったり、心を偽ったりするようになる。こうした現象が日常
的につづくと、子どもの心は、本来そうである自分から、遊離してしまう。そしてその結果とし
て、兄弟関係を、ぎくしゃくとさせる。

 「兄弟(姉妹)は、仲がよいほうがいい」……というのは、当然であるとするなら、いくつかのコ
ツがある。

●上下意識は、もたない

 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。

●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。
たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄
弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

●差別しない

 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。

●嫉妬はタブー

 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。

●たがいを喜ばせる

 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連
れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買
い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てる
ためにも、重要である。

●決して批判しない

 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。

 いくら兄弟でも、同じように育つというわけではない。たとえば兄が、C小学校で、弟が名門
(こういう言い方は不愉快だが……)のS小学校へというケースは、少なくない。

 そういうとき親は、「兄がひがまないでしょうか?」とよく相談してくる。

 仮にひがむとしても、しかしそういう下地をつくったのは、親自身である。そのことを棚にあげ
て、「ひがまないでしょうか?」は、ない。

 つまりそういう下地を、日ごろから、作らないこと。「あなたはお兄ちゃんだから、がんばってS
小学校へ入ってね」とは、たとえば、言ってはいけない。弟に対しては、「あなたもがんばって、
お兄ちゃんと同じS小学校に入ろうね」とは、たとえば、言ってはいけない。

 兄弟どうしの問題は、たいへん重要であると同時に、デリケートな問題である。決して、安易
に考えてはいけない。
(はやし浩司 兄弟 兄弟の問題 兄弟の育て方 育てかた)
(041124)

【補記】

 ワイフには、ワイフを入れて7人の兄弟(2男5女)がいる。

 その兄弟を見ていて、気がついたことがある。つまりワイフの兄弟は、本当に仲がよい。信じ
られないくらい、仲がよい。

 その秘訣の一つが、長女のE子さんをのぞいて、上下意識がまったくないということ。E子さん
は、ワイフの家族の中では、母親がわりだった。それでどこか家父長意識がある。しかしそれ
でも、仲がよい。(ワイフの母親は。、若くして他界。)

 で、気がついたのは、ワイフの兄弟は、たがいに、ずべて名前で呼びあっているということ。
「兄」とか、「姉」という言葉を、私は、聞いたことがない。

 一方、私が生まれ育ったG県は、何かにつけて、上下意識が強い。あらゆるところに、身分
意識が入ってくる。そのため、兄弟でも、「上の兄」「下の兄」「三番目の兄」というふうに呼びあ
ったりする。序列をつける。そしてその序列に従って、上下関係、つまり命令と服従の関係をつ
くる。

 みながみな、そうではないと思うが、この静岡県とG県を、おおざっぱに比較すると、それだけ
静岡県は、G県と比較すると、開放的ということになる。

 そんなわけで、やはり子どもは、名前で呼んだほうがよい。そのほうが、兄弟(姉妹)は、うま
くいく。が、それだけではない。

 子どもは、自分の立場を無意識のうちにも、自分の役割を形成していく。男の子は男のらし
く、女の子は女の子らしくなっていくのが、それである。

 それを役割形成というが、その役割形成がよいものであれば、問題はない。しかしその役割
形成によって、子ども自身が、不必要な役割をつくり、その重圧に苦しむことがある。

 先日もある女性から、こんなメールが届いた。いわく、「私の兄は子どものころから、長男、長
男と、耳にタコができるほど、言われつづけました。妹がもう1人いますが、兄は、家の跡継ぎ
になるのが当然といったふうに育てられました。家のあとをつぐのは、当然、親のめんどうをみ
るのは、当然、と。そういう兄をみていると、かわいそうです」と。

 いまだに長子相続的な考え方が残っていること自体、おかしなことだ。江戸時代の身分制度
の亡霊そのものといってよい。

 最近になって、江戸時代の武士道を礼さんする人が、たくさん出てきたが、封建時代がもって
いた負の遺産を清算することなく、一方的に、こうした武士道を礼さんすることは、危険なことで
もある。

 あの江戸時代という時代は、世界でも類をみないほど、自由と人権が抑圧された、暗黒の時
代であってことを、忘れてはいけない。人々は、移動することもできず、職業選択の自由もな
く、思ったことも言えなかった……などなど。厳格な身分制度も、その一つ。

 話は少し過激になったが、大切なことは、子どもに上下はないということ。人間に上下はない
ということ。おかしな上下意識は、もう、このあたりで、捨てよう!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 兄弟
 兄弟論)





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●誠実論

++++++++++++++++

「誠実」には、2つの意味がある。

他人に対する誠実。
そして自分に対する誠実。

++++++++++++++++

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
一〇万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、二つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、二つも三つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことに
なってしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、こ
の世は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないというこ
とになるのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。本当の私は、
もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決めている。そ
れはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達するには、まだ
まだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。







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●中教審答申

+++++++++++++++++

中教審の答申が、公表された。
それによれば、

(1)義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設する。
(2)教育長任命時の国の承認制度復活には反対する、だそうだ。

+++++++++++++++++

●教審答申のポイント

 ◇学校教育法◇

・義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する
態度」を新設する。
・義務教育年限は9年の現行通りとする。
・学校は自らの評価制度を設けるべきだとの努
 力義務規定を新設する。情報開示規定も新設する。
・副校長、主幹などの設置規定を新設する。

 ◇教員免許法◇

・免許状の有効期間は10年間とする。
・分限免職処分を受けた場合は免許状失効する。
・更新時の講習時間は30時間程度とする。

 ◇地方教育行政法◇

・教育で著しい不適切行為がある場合、国が
 教育に関する責務を果たすための仕組みが
 必要(教委への勧告・指示権限に関し賛否両論併
 記)。
・教育委員に必ず保護者を含むようにする。
・教委は第三者らによる点検・評価を受けて
 議会に報告する。
・教育長任命時の国の承認制度復活には反対する。
・教委が私学に指導する制度には反対する。
・文化とスポーツの管轄は教委から首長に移
 すことを可能とする。

(以上、毎日新聞 07−03−10)

 今回の中教審のポイントを、さらにしぼると、つぎの2点に集約される。

(1)義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設する。
(2)教育長任命時の国の承認制度復活には反対する。

 ここで重要なのは、「態度」の内容。そしてだれかが、中教審に対して、「承認制度の復活」を
協議するように働きかけたという点。言うまでもなく、その(だれか)というのは、文部科学省の
官僚たちである。

 どうして国=官僚たちは、こうまで国民を束縛したがるのだろう? 「自由」を一方で標榜(ひ
ょうぼう)しながら、やっていることは、(しめつけ)一辺倒。EUにせよ、アメリカにせよ、世界の
教育は、自由化に向けて、まっしぐらに進んでいる。カナダでは、学校の設立そのものが、ほと
んど自由化されている。

 教科書検定にしても、欧米の国々の中で、それをしている国が、どこにある? アメリカで
は、公立の学校ですら、PTAで、自由にカリキュラムを組んでいる。

 これでは外国から見れば、日本もK国も、同じ。区別のしようがない。あるいは、あなたなら、
シリアとクウェートのちがいを言うことができるだろうか?

 が、問題なのは、「我が国と郷土を愛する態度」の「態度」。

 これから文部科学省はこの答申を受けて、したい放題のことをしてくるはず。拡大解釈は、官
僚たちの常套(じょうとう)手段。国歌、国旗の問題にとどまらないだろう。へたをすれば、その
うち、学校の各教室に、天皇、皇后の写真が、並べて飾られるようになるかもしれない。

 だいたい、どういう基準で、またどうして、中教審のメンバーたちが選ばれたか、それすら明
確ではない。「選ばれた」という時点で、すでに、(イエス・マン)だけが選ばれたと考えるのが、
自然である。

 そういう人たちが、文部科学省の意向に沿った答申をし、それを受け取った官僚たちは、「お
墨付きを得た」とばかり、それをもとに、好き勝手なことを始める。

 このやり方は、大正デモクラシーを押しつぶしながら、軍国主義への道を歩んだ、あの時代
に官僚が見せた手法と同じではないか。……と言っても、官僚ばかりを責めるわけには、いか
ない。私たち国民にしても、(考えること)を、放棄してしまっている。賢い国民というよりは、ま
すます愚かになりつつある。どこかのお笑いタレントが、県知事になったとしても、それを何ら
疑問に思わない国民である。

 この国民にして、この国家である。

 いったい、この先、この日本は、どうなっていくのか? 忘れてならないのは、貴族政治にせ
よ、独裁政治にせよ、為政者がまず手をつけるのが、(教育)だということ。戦前の日本も、そう
である。

 あの軍国主義を、先頭に立ち、もっとも過激に日本を先導したのが、ほかならぬ当時の文部
省である。

 あえて評価するなら、「教育長任命時の国の承認制度復活には反対する」という部分。いくら
イエス・マンの集団とはいえ、最後のところで、一縷(いちる)の良心が残っていたということか。




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●欲望一元論

++++++++++++++++++

食欲、性欲、物欲……、
それぞれ形はちがうが、中身は、同じ。
そう考えると、欲望というのが、
どういうものか、わかる。

++++++++++++++++++

 今日、ワイフと、スーパーへ買い物に行った。それまでは、食欲は、ほとんど、なかった。朝
食が遅かったこともある。「昼は、簡単でいいよ」と、私は、2度、3度、そう言った。

 が、その気持ちは、突然、消えた。スーパーの入り口で、焼きそばの実演販売をしていた。濃
いソースが、熱で焼けるにおい。そばが鉄板の上で、油をはじく音。それを見たとたん、ムラム
ラと食欲がわいてきた。

私「昼は、焼きそばにしよう」
ワ「そうね」と。

 それはちょうど、若い男が、(若くなくてもそうだが)、女性のヌードか何かを見たときの気持ち
に似ている。似ているというより、同じ。それまではその気がなくても、女性のヌードをみたとた
ん、ムラムラと性欲がわいてくる。

 ここで私は食欲と性欲を分けて書いたが、形こそちがうが、中身は、同じ。ちがうと考えるほ
うが、おかしい。(おいしそうな焼きそばを見る)→(食欲がわいてくる)。(若い女性のヌードを
見る)→(性欲がわいてくる)。

 この時点で、つまり、おいしそうな焼きそばを見たり、あるいは女性のヌードを見たりしたと
き、その欲望を、うまくコントロールできる人は、意外と少ないのではないだろうか。ほとんどの
人は、そのまま、焼きそばを食べる。そのまま、女性を抱く。

 つまりここで自制心の問題が、生まれる。欲望をうまくコントロールできる人を、自制心のある
人という。そうでない人を、自制心のない人という。わかりやすく言えば、このとき、頭の中で、
本能と理性が、はげしくぶつかりあう。

 この(葛藤)こそが、人間が、人間である証(あかし)ということになる。ほかの動物たちと、ち
がう点ということになる。

 そこで本題。

 食欲、性欲と並んで、物欲というのもある。たとえば、あなたが政府の高官か何かであったと
する。そのあなたの前にある日、建設会社のだれかがやってきて、500万円単位の現金を、
あなたの机に積んだとする。1000万円でもよい。5000万円でもよい。

 ワイロだ。公共事業にからんだ、ワイロだ。あなたはそれを知っている。が、相手の男は、
「あなたの政治資金として使ってほしい」「このことは、私以外、だれも知らない」と言ったとす
る。

そのとき、あなたは、それを断ることができるだろうか? あなたが食欲や性欲をコントロール
できるように、物欲(それを物欲と言ってよいかどうかという問題もあるが……)、その物欲を、
コントロールできるだろうか?

 そこで私は、(欲望一元論)を説く。

 つまり欲望をコントロールする力は、一元的なもの。食欲や性欲をコントロールできる人は、
同じように、物欲をコントロールできる。食欲や性欲はコントロールできないが、物欲はコントロ
ールできる人というのは、いないと考えてよい。あるいは反対に、食欲や性欲はコントロールで
きるが、物欲はコントロールできない人というのは、いないと考えてよい。

 もっとわかりやすく言えば、一事が万事。食欲や性欲をコントロールできる人は、物欲もコント
ロールできる。食欲や性欲をコントロールできない人は、物欲もコントロールできない。

 人間の脳みそは、一見複雑に見えるかもしれないが、それほど、器用にはできていない。

 そこでたとえばある県のある知事を念頭に置いて、ものを考えてみる。どこの知事というわけ
ではない。あくまでも架空の知事である。その知事は、自分の名誉欲、出世欲を満たすため
に、知事になったとする。たまたま知名度もあった。その流れに乗って、知事になったとする。

 うわさでは、いろいろと女性問題も起きているようである。今は離婚しているが、東京にも、ま
た地元にも、それぞれ愛人がいるという。俗な言い方をすれば、女にだらしない。そういうこと
から、その知事は、性欲のコントロールが、甘い人と考えてよい。

 今は、知事になったばかりで、それなりに品行方正だが、そういう知事のところへだれかがや
ってきて、たとえば机の上に、大金を積んだとする。地元の建設会社の社長である。そういうと
き、その知事は、ここでいう自制心を、うまく発揮できるだろうか。

 私の(欲望一元論)に従えば、答は「NO!」ということになる。食欲や性欲にだらしない人は、
同じように物欲にもだらしないと考えてよい。反対に考えれば、知事になるような人は、それな
りに、あらゆる場面で、品行方正でなければならない。またそういう人物を、知事として、選ぶ
べきである。

 繰りかえすが、(女性にだらしない人)が、(ワイロにはきびしい)ということは、ありえない。欲
望というのは、そういうもの。形はちがっても、中身は、同じ。

 もしそういう知事が、現実にいたとするなら、やがて、何年か先には、ボロを出すはず。実
際、そういう知事は、過去にも、何人かいた。よく知られている例として、大阪府の知事をした、
YNがいる。

 見るからにだらしなさそうな顔つきをしていたが、最後は、選挙運動を手伝っていた女性にセ
クハラ行為をはたらき、政界から追い出されている。

 昼の焼きそばを食べながら、ワイフにその話をする。つまり(欲望一元論)の話をする。それ
について、ワイフは、こう言った。

 「若いときは、食欲と性欲は別のものと考えていたわ。物欲も、そう。でも、歳をとると、食欲
や性欲、とくに性欲を客観的に見ることができるようになるのね。そして自分に気がつくのよ。
みな、同じ」と。

 ただ性欲や物欲はともかくとして、食欲だけは、死ぬまでつづく。今の私の母がそうである。
今の母に、食べ物を見せると、それだけで顔つきが、おかいいほど、変化する。目つきそのも
のが変化する。まるで獲物を見つけた動物のような、鋭い目つきになる。

 もともと欲望に対するコントロールが苦手な人だった。それが今、90歳という年齢を超えて、
食欲という形になって現れている。つまり、そういうことはある。

 が、欲望一元論は、欲望一元論。人間がもつ欲望は、もともとは、同じものと考えてよい。




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●自己同一性(アイデンティティ)

++++++++++++++++++

(自分はこうあるべきだ)というのが自己概念。
その自己概念に対して、そこには、
現実の自分(=現実自己)がいる。

この自己概念と現実自己が、どの程度一致しているか。

それが、「自己同一性」の問題ということになる。

「アイデンティティ」の訳語である。

「自己同一性」を、「自我同一性」と書く
研究者もいる。

アイデンティティの確立した子どもは、
どっしりとした落ち着きがある。そうでない
子どもは、そうでない。

いつも将来に対する、ばくぜんとした
不安感に襲われる。自発的、自主的な
行動ができなくなる。

しかしこれは、子どもだけの問題ではない。

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●子どもの問題
 
(自分はこうあるべきだ)(こうありたい)と、自分が心の中に描く自己像を、(自己概念)という。

 たとえて言うなら、恋愛期を思い浮かべてみればよい。恋愛前には、ほとんどの男女は、(理
想の異性)を、頭の中に描く。

 一方、そこには、現実の自分、つまり現実自己がある。いくら理想の異性を頭の中に思い浮
かべても、その前に、理想の異性が現れなければ、どうしようもない。仮に現れても、相手にさ
れるかどうか、わからない。

 もちろん電撃に撃たれるような恋をして、相思相愛で、結ばれるカップルもいる。そういう状態
を、自己概念と現実自己の一致した状態という。

 で、子どものばあい、つぎの4期を経て、アイデンティティを確立する。

(1)人形期
(2)反抗期
(3)模索期(モラトリアム期)
(4)同一性の確立
 
(1)人形期……親の期待に応え、親の希望どおりになろうと努力する時期。年齢的には、〜満
10歳(小学3、4年生)。
(2)反抗期……やがて子どもは、自ら自己概念を描き始める。そして現実の自分とのギャップ
を知り、葛藤する。親からの呪縛感に反抗する。年齢的には、〜18歳前後。
(3)模索期……自己概念に自分を近づけようとしたり、あるいは自己概念そのものを求めて
模索する。年齢的には、〜24、5歳前後。
(4)同一性の確立……(自分のしたいこと)と(自分のしていること)を一致させる。

 ここに年齢を、例としてあげたが、同一性が確立する時期は、それぞれみな、ちがう。中学、
高校生ぐらいのときに、すでに方向性の定まっているいる子どももいれば、30歳を過ぎても、
方向性の定まらない子どももいる。

 ひとつの例をあげて考えてみる。

 A君(年長児)は、クラスでもよく目立つほど、聡明な子どもだった。母親は、「将来は、医者に
したい」と言った。A君も、「ぼくは、医者になる」と言った。

 この時期、子どもは、親の価値観をそのまま受けいれ、親に好かれようと、無意識のうちに
も、親の描く(自己像)を受けいれようとする。

 が、小学4年生になったとき、変化が起きた。A君は、サッカーが好きだった。それまでは、近
所の子どもたちとサッカーをして遊ぶことが多かった。が、母親が、無理やりA君を進学塾に入
れた。週3回の塾である。

 そのため、母親はA君に、「サッカーをやめるように」と言った。A君はそれについて不満だっ
た。が、母親に従った。

 小さなキレツだったが、やがてそのキレツは大きくなった。塾から返されるテスト結果を見て、
母親は、A君を叱ることが多くなった。「こんなことでは、S中学に入れないわよ!」と。A君に
は、それが「こんなことでは医者になれないわよ」と聞えた。

 こうしてA君は、やがて反抗期へと突入していった。それまでは母親に従順だったのだが、そ
の母親に対して暴言を吐いたり、ときには、ものを投げつけるなどの暴力行為を働くようになっ
た。

 何とかA中学に入学したものの、A君の心の中には、挫折感が残ったままだった。母親に反
抗しながらも、その母親の期待に応えられなかったという挫折感。A君は、悶々とした気分で、
毎日を過ごした。

 が、ある日、A君は、遊園地で、数人の男女が、着ぐるみ身を包み、舞台の上で踊っている
のを見た。楽しそうだった。と、そのとき、A君の心の中で、何かが光るのを感じた。最初は小
さな光だったが、やがてその光は、心の中全体を照らすようになった。

 A君は、そのままA高校へと進学した。が、勉強はつまらないものだった。勉強に興味をもつ
ことができなかった。で、親に内緒で、あちこちの養成所の案内書を手に入れた。A君はある
日、その案内書を母親に見せた。「ぼくも、この仕事がしたい」「学校をやめて、養成所に通う」
と。

 母親は、絶望感から、半狂乱になってしまった。父親を巻きこんで、それに猛反対した。が、
A君の意思はかたかった。「ぼくは、どうしても、そこへ行く」と。

 家出寸前のところで、親のほうが、折れた。「そこまで思っているなら……」ということで、親
は、養成所の近くにワンルームマンションを借りてやった。A君は、そのまま高校を中退した。

 で、そのA君だが、現在は、その劇団でも指導的な立場について、活躍している。全国のイベ
ント会場で、踊っている。

 以上が、A君の例だが、どこからどこまでが、人形期で、どこからどこまでが反抗期。さらに
は、どこからどこまでが、模索期かということは、ここに改めて説明するまでもない。A君は、こ
うして自己の同一性を確立した。

●退職者の問題

 しかし自己同一性の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。近くに、こんな知人がいる。

 その知人は、最近定年で退職したのだが、退職してからも、それまでと同じように、かばんを
もって、会社に行く。もちろん会社に行くのではない。行くフリをしているだけ。電車に乗って、
街までは行くのだが、あとは、何をするでもなし、何もしないでもなし。一日をそうして過ごして、
そして夕方には、家に帰ってくる。

 妻や子どもたちには、「職さがし……」と言っていたそうだ。いや、退職直後は、その会社の
子会社の倉庫会社で、倉庫番の仕事をしていたのだが、1週間もつづかなかったという。

 この退職者のばあい、それまでは会社一筋で、仕事をしていた。「一社懸命」という言葉も、
よく使った。が、退職と同時に、その(糸)が切れてしまった。と、同時に、アイデンティティがば
らばらになってしまった。心理学の用語を使うなら、(アイデンティティの拡散)ということになる。

 子どもでも、アイデンティティが拡散すると、心理的にもきわめて不安定になることが知られて
いる。将来に対して大きな不安感をもち、自主的、自発的な行動がとれなくなる。

 その知人も、同じように考えてよい。家にいても、することがない。家族からは、ゴミのように
思われている。(それはその知人の被害妄想のようなものだったが……。)かといって、自分が
したいことすら、はっきりしない。だから当然、自分で何をしてよいのかわからない。心そのもの
が、宙ぶらりんのような状態になる。

 では、どうすればよいのか?
 
 実は、この問題は、私自身の問題でもある。

 ときどき私は、「いったい、私は何をしたいのか」と思い悩むことがある。そこでいくつかそれ
を頭の中で、思い描いてみる。

☆オーストラリアへ移住したい。
☆世界中を旅行してみたい。
☆旅行記を書いてみたい、など。

 しかしそのあとがつづかない。「だからどうなの?」「それがどうしたの?」と聞かれると、返答
に困ってしまう。その前に、生活費の問題もある。健康の問題もある。私が本当にしたいこと、
あるいはすべきことは、もっとほかにあるように思うのだが、それがはっきりとしない。つまり退
職後の自己概念が、どうしても描けない。

 自己概念が描けないのに、どうして、現実の自分を、その自己概念に近づけることができる
のか?

 「有名になりたい」という気持ちは、今でもないわけではない。それにお金は嫌いではない。し
かしそれとて、「だから、どうなの?」と聞かれると、これまたはたと、返答に困ってしまう。

 言いかえると、定年退職をするということは、同時に、どうやって自己概念をもつかという問題
ということになる。それがはっきりしないまま退職してしまうと、ここに書いた知人のようになって
しまう。

 しかし老後は長い。人によっては、退職後、20年とか、30年もつづく。それだけの年月を、
無益に過ごしてしまうというのも、どうか?

 そこで青年期には、模索期(モラトリアム)という時期がある。わかりやすく言えば、(私さがし
の時期)ということになる。この時期を通して、青年は、(私)をさがし求め、その(私)に行きつ
く。

 同じように、退職者にも、模索期(モラトリアム)があってもよいのではないか。……といって
も、青年のように、時の流れに身を任せ、のんびりしていることはできない。残された時間に
は、かぎりがある。青年期とちがい、時間の流れが、速い。あっという間に、1年とか、2年が過
ぎていく。加えて、体力、気力ともに、衰えてくる。

 で、再び、私のばあいだが、実のところ、(したいこと)が、はっきりしない。今まで、生活に追
われるまま、そんなことを考える余裕すらなかった。(したいこと)そのものが、土の中に埋もれ
てしまっている。そんな感じがする。

 そんなわけで、今も、こう考えている。「私は、何をしたいのか」「何をすべきなのか」と。まさに
私は、模索期(モラトリアム)に入ったことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
の同一性 自己同一性 自我同一性 自己概念 現実自己 モラトリアム)





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【基底不安】

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(不安)そのものが、心の病気と考えて
よい。

アメリカの精神医学会の手引書(DSM−IV)
「精神障害の分類と診断の手引き」でも、
(不安が強い人)を、人格障害の人と
クラス分けしている。

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 不安感の強い人は多い。心が安定した状態を、(健康な心)とするなら、(不安)そのものは、
(心の病気による症状のひとつ)と考えてよい。アメリカの精神医学会の手引書(DSM−IV)
「精神障害の分類と診断の手引き」(第4版)でも、(不安感が強い人)を、人格障害者のひとつ
として、クラス分けしている。

 その(不安感が強い人)は、(1)回避性人格障害、(2)依存性人格障害、(3)強迫性人格障
害に分けて考えられている(同、手引書)。

 清水弘司氏の「性格心理学」(ナツメ社)をもとに、自己診断項目を並べてみると、つぎのよう
になる。(本書の中の記述を、自己診断風に、箇条書きにしてみた。)

(1)回避性人格障害

□自分に対する評価が低い。
□自分が傷つくことを恐れて、人との関わりを避ける。
□自己否定的な意識が強い。
□対人関係において、極端に臆病になる。
□その一方で自尊心が強い。
□批判されたり、恥をかいたりするのを嫌う。
□自分を確実に受け入れてくれる場以外には、出たがらない。

(2)依存性人格障害

□自分に自信がない。
□他人への依存心が強い。
□自分で何かを計画して実行することが少ない。
□失敗を他人のせいにする。
□保護を失うことを恐れて、他人に迎合することが多い。
□親しい人が離れていこうとすると、必死にしがみつこうとする。

(3)強迫性人格障害

□極端な完全主義者
□考え方にも行動にも、柔軟性が欠ける。
□規則、順序、予定などを守らないと気がすまない。
□細部にこだわりやすい。
□融通がきかないため、不要な回り道をすることがある。
□他人にも完全主義を強要することが多い。
□他人に仕事を任せられず、自分自身は仕事中毒になりやすい。

 以上の項目に、いくつか当てはまれば、あなたは、人格障害の疑いがあるということになる。
つまりこうしたテストは、自分をさらに知るためのひとつの手がかりになる。

 で、私のばあいだが、自分の過去を振りかえってみたとき、いつも(不安)が、心の基底にあ
ったのがわかる。それがあるときは、回避性障害的な症状となって、外に出てきたり、また別
のときは、依存性人格障害的な症状となって、外に出てきた。強迫性人格障害的な症状となっ
て、外に出てきたこともあるように思う。

 そのときは、そういう自分に気がつくということはなかった。ただ幸いなことに、極端な状態に
なるということはなかった。言いかえると、だれしも、そのときの状況に応じて、そういった精神
状態になるということ。それは肉体の病気に似ている。

 風邪をひいたこともある。食あたりで、下痢をしたこともある。偏頭痛に苦しんだこともある。
つまり人間の心というのも、そのつど、いろいろな病気にかかるということ。だから一部だけを
みて、自分が精神障害者と決めつけるのは、正しくない。

 むしろこわいのは、(病識)、つまり、「自分が病気である」という意識がないケース。このタイ
プの人は、まず、こうした文を読まない。その前に、自分を知ろうともしない。多くは、その知
力、能力そのものに欠ける。

 言いかえると、この文を読み、自己診断をした人は、それだけ症状が軽いということになる。

 さて、あなたは、どうか?

 ついでに言うと、ここでいう(不安)、もしくは(不安感)は、自分の努力で解消できるような生
易しいものではない。心理学の世界にも、(基底不安)という言葉がある。その人の心の奥底
に住みつき、生涯にわたって、その人を苦しめる。

 で、大切なことは、そういう(不安)、あるいは(不安感)があるにしても、それを解消しようと考
えるのでなく、じょうずにつきあうこと。心の傷というのは、すべて、そういうもの。

+++++++++++++++++

過去に、「基底不安」について書いた
原稿をここに収録しておきます。

+++++++++++++++++

●心を許さない子ども

 無視、冷淡、親の拒否的態度は、子どもに深刻な影響を与える。乳幼児期に、心のさらけ出
しができないため、親のみならず、他人と良好な人間関係を結べなくなる。

子どもは、絶対的な信頼関係のある親子関係の中で、心をはぐくむことができる。「絶対的な
信頼関係」というのは、どんなことをしても、また何をしても、許されるという信頼関係である。親
に対して疑いをいだかない安心感をいう。

 この信頼関係が欠落すると、子どもは絶対的な安心感を得られなくなり、不安を基底とした
心理状態になる。これを「基底不安」というが、その不安を解消しようと、子どもはさまざまな方
法で、心を防衛する。(1)服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、(2)攻撃的態度(威圧したり、暴
力で相手を屈服させる)、(3)回避的行動(引きこもる)、(4)依存的行動(同情を求める)など
がある。これを「防衛機制」という。自分の心を守るために働く、無意識下の行動と考えるとわ
かりやすい。

 このタイプの子どもは、孤独と不安を繰りかえしながら、そのつど相手を求めたり、拒絶した
りする。まさに「近づけば遠ざかり、遠ざかれば近づく」の人間関係をつくる。本人はそれでよい
としても、困惑するのは、周囲の人たちである。あるときはベタベタと近づいてきたかと思うと、
つぎに会うと、一転、冷酷な態度をとったりする。親しみと憎しみ、依存と拒絶、密着と離反、親
切と不親切が、同居しているように感ずることもある。

 が、悲劇はつづく。

 他者とのつながりがうまく結べない分だけ、独善的、独断的な行動が多くなる。一見すると主
体的な生き方に見えるかもしれないが、その主体そのものがない。私の印象に残っている女
の子(中2)に、Bさんという子どもがいた。

 Bさんは、がんばり屋だった。能力的には、それほどでもなかったが、そのため勉強も、よくで
きた。親は、そんなBさんを、よくほめた。先生も、ほめた。とくに気になったのは、融通(ゆうづ
う)がきかなかったこと。ジョークを言っても、通じない。このタイプの子どもは、自分だけのカラ
に閉じこもりやすく、がんこになりやすい。

 そのBさんが、ここに書いた、決して心を許さないタイプの子どもだった。そのときまでに、す
でに私のところへ5、6年、通っていたが、いつも心を風呂敷で包んだような感じがした。俗にい
う「いい子」ではあったが、何を考えているか、よくわからなかった。

 決して勉強が好きというわけではなかった。しかしBさんにとっての勉強は、まさに自己主張
の道具だった。(勉強ができる)=(優秀であるという証明)=(みなにチヤホヤされる)というよ
うに、である。ここにも書いたように、一見、主体性があるようで、どこにもない。Bさんは、いつ
も自分の評価を他人の目の中でしていた。

 もうおわかりかと思う。このBさんが、とっていた一連の行為は、自分の心の中の不安を解消
するためであった。勉強という手段を用いて、他人に対して優位に立つことにより、自分にとっ
て居心地のよい世界を、まわりに作るためであった。先にあげた防衛機制の中の、(2)攻撃
的態度の一つということになる。

 Bさんは、勉強がよくできる分だけ、孤独だった。友だちもいなかった。しかも自分より目立つ
仲間は、すべてライバルだった。Bさんの前で、ほかの子どもをほめたりすると、嫉妬心から
か、Bさんは、よく顔をしかめた。が、そのBさんが、ある日、とうとう勉強でつまずいてしまっ
た。最初は「勉強がわからない」と、よくこぼした。つぎに数か月先のテストのことを心配したり
した。親はBさんに頼まれるまま、進学塾をもう一つふやし、家庭教師もつけた。しかしそうす
ればするほど、Bさんの勉強は空回りをし始めた。

 とたん、Bさんは、プツンしてしまった。ふつうの燃え尽き症候群と違うのは、無気力症状は出
てこないこと。別の形で、攻撃的になるということ。Bさんのケースでは、そのまま、本当にあっ
という間に、非行の道へ入ってしまった。髪の毛を染め、ツメにマニキュアをし、そしてあやしげ
な下着を身につけるようになった。と、同時に、私の教室をやめた。しばらくしてから、ほかの
子どもたちに、Bさんが、学校でも札つきのワルになったという話を聞いた。

 Bさんを知る、ほかの母親たちは、こう言う。「えっ? あのBさんが、ですか?」と。実のとこ
ろ、この私ですら、その変化に驚いたほどである。授業中でも、先生を汚い言葉で罵倒(ばと
う)して、部屋から出て行くこともあるという。

 ……では、どうするかということではない。あなたの子どもは、だいじょうぶかということ。あな
たの子どもは、乳幼児のとき(2〜4歳の第一反抗期)から、あなたに対して、好き勝手なことを
していただろうか。わがままというのではない。言いたいことを言い、したいことをしたかというこ
と。もしそうなら、それでよし。しかし乳幼児のとき、どこかおとなしく、仮面をかぶり、手がかか
らない子どもだったとしたら、ここでいう「心を許せない子ども」を疑ってみたらよい。そして今
は、その「いい子」かもしれないが、そのうちそうでなくなるかもしれないと、警戒をしたほうがよ
い。

 心の問題は、簡単にはなおらない。なおらないが、警戒するだけでも、仮に問題が起きたとき
でも、原因がわかっているから、対処しやすいはず。またあなたの子どもが〇〜二歳であるな
ら、これからの反抗期を、うまく通り過ぎることを考える。この時期は、子どもの心を形成すると
いう意味で、きわめて重要な時期である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【「私」論】

++++++++++++++++++

だれも、「私のことは私がいちばん、
よく知っている」と言う。

しかし本当に、そうか?

そう言い切ってよいか?

むしろ(私)をいちばん知らないのは、
私自身ではないのか?

そんなことを知ってもらうため、
「私論」を書いてみた。

+++++++++++++++++

●基底不安

 家庭という形が、まだない時代だった。少なくとも、戦後生まれの私には、そうだった。今でこ
そ、「家族旅行」などいうのは、当たり前の言葉になったが、私の時代には、それすらなかっ
た。記憶にあるかぎり、私の家族がいっしょに旅行にでかけたのは、ただの一度だけ。伊勢参
りがそれだった。が、その伊勢参りにしても、夕方になって父が酒を飲んで暴れたため、私た
ちは夜中に、家に帰ってきてしまった。

 私はそんなわけで、子どものころから、温かい家庭に飢えていた。同時に、家にいても、いつ
も不安でならなかった。自分の落ちつく場所(部屋)すら、なかった。

 ……ということで、私は、どこかふつうでない幼児期、少年期を過ごすことになった。たとえば
私は、父に、ただの一度も抱かれたことがない。母が抱かせなかった。父が結核をわずらって
いたこともある。しかしそれ以上に、父と母の関係は、完全に冷えていた。そんな私だが、かろ
うじてゆがまなかった(?)のは、祖父母と同居していたからにほかならない。祖父が私にとっ
ては、父親がわりのようなところがあった。

 心理学の世界には、「基底不安」という言葉がある。生まれながらにして、不安が基底になっ
ていて、そのためさまざまな症状を示すことをいう。絶対的な安心感があって、子どもの心とい
うのは、はぐくまれる。しかし何らかの理由で、その安心感がゆらぐと、それ以後、「不安」が基
本になった生活態度になる。たとえば心を開くことができなくなる、人との信頼関係が結べなく
なる、など。私のばあいも、そうだった。

●ウソつきだった私

 よく私は子どものころ、「浩司は、商人の子だからな」と、言われた。つまり私は、そう言われ
るほど、愛想がよかった。その場で波長をあわせ、相手に応じて、自分を変えることができた。
「よく気がつく子だ」「おもしろい子だ」と言われたのを、記憶のどこかで覚えている。笑わせじょ
うずで、口も達者だった。当然、ウソもよくついた。

 もともと商人は、ウソのかたまりと思ってよい。とくに私の郷里のM市は、大阪商人の影響を
強く受けた土地柄である。ものの売買でも、「値段」など、あってないようなもの。たがいのかけ
引きで、値段が決まった。

客「これ、いくらになる?」
店「そうですね、いつも世話になっているから、1000円でどう? 特別に勉強(=安く)しておき
ますよ」
客「じゃあ、2つで、1500円でどう?」
店「きついねえ。2つで、1800円。まあ、いいでしょう。それでうちも仕入れ値だよ」と。

 実際には、仕入れ値は、500円。2個売って、800円のもうけとなる。こうしたかけ引きは、
日常茶飯事というより、すべてがその「かけ引き」の中で動いていた。商売だけではなく、近所
づきあい、親戚づきあい、そして親子関係も、である。

 もっとも、私がそういう「ウソの体質」に気づいたのは、郷里のM市を離れてからのことであ
る。学生時代を過ごした金沢でも、そして留学時代を過ごしたオーストラリアでも、この種のウ
ソは、まったく通用しなかった。通用しないばかりか、それによって、私はみなに、嫌われた。さ
らに、この浜松でも、そうだ。距離にして、郷里から、数100キロしか離れていないのに、たと
えばこの浜松では、「かけ引き」というのをまったくしない。この浜松に住んで、30年以上にな
るが、私は、客が店先で値段のかけ引きをしているのを、見たことがない。

 私はウソつきだった。それはまさに病的なウソつきと言ってもよい。私は自分を飾り、相手を
楽しませるために、よくウソをついた。しかし誤解しないでほしいのは、決して相手をだますた
めにウソをついたのではないということ。金銭関係にしても、私は生涯において、モノやお金を
借りたことは、ただの一度もない。いや、一度だけ、10円玉を借りたことがある。緊急ための
電話代だった。

●防衛機制

 こうした心理状態を、「防衛機制」という。自分の身のまわりに、自分にとって居心地のよい世
界をつくり、その結果として、自分の心を防衛する。私によく似た例としては、施設児がいる。
生後まもなくから施設などに預けられ、親子の相互愛着に欠けた子どもをいう。このタイプの子
どもも、愛想がよくなることが知られている。

 一方、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような子どもは、どこかどっしりとしていて、態度が
大きい。ふてぶてしい。これは犬もそうで、愛犬家のもとで、ていねいに育てられたような犬は、
番犬になる。しかしそうでない犬は、だれにでもシッポを振り、番犬にならない。私は、そういう
意味では、番犬にならないタイプの人間だった。

 ほかに私の特徴としては、子どものころから、忠誠心がほとんどないことがある。その場、そ
の場で、相手に合わせてしまうため、結果として、ほかのだれかを裏切ることになる。そのとき
は気づかなかったが、今から思い出すと、そういう場面は、よくあった。

だから学生時代、おかしなことだが、あのヤクザの世界に、どこかあこがれたのを覚えてい
る。映画の中で、義理だ、人情だなどと言っているのを見たとき、自分にない感覚であっただけ
に、新鮮な感じがした。

 が、もっとも大きな特徴は、そういう自分でありながら、決して、他人には、心を許さなかった
ということ。表面的には、ヘラヘラと、ときにはセカセカとうまくつきあうことはできたが、その
実、いつも自分を偽っていた。相手を疑っていた。そのため、相手と、信頼関係を結ぶことがで
きなかった。いつも心のどこかで、「損得」を考えて行動していた。しかしこのことも、当時の私
が、知る由もないことであった。私は、自分のそういう面を、母を通して、知った。

●母の影響

 私の母も、よくウソをついた。で、ある日、私の中に「ウソの体質」があるのは、母の影響だと
いうことがわかった。が、それだけではなかった。私の母は、私という息子にさえ、心を開くこと
をしない。詳しくは書けないが、80歳をすぎた今でも、私やワイフの前で、自分を飾り、自分を
ごまかしている。そういう母を見たとき、母が、以前の私そっくりなのを知った。つまりそういう母
を通して、過去の自分を知った。

 が、そういう私という夫をもつことで、一番苦しんだのは、私のワイフである。私たちは、何と
なく結婚した。そういうような結婚のし方をした。まさにハプニング的な結婚という感じである。
電撃に打たれるような衝撃を感じて結婚したというのではない。そのためか、私たちは、当初
から、どこか友だち的な夫婦だった。いっしょにいれば、楽しいという程度の夫婦だった。

 そういうこともあって、私は、ワイフと、夫婦でありながら、信頼関係を築くことができなかっ
た。「この女性が、私のそばにいるのは、お金が目的だ」「この女性は、もし私に生活力がなけ
れば、いつでも私から去っていくだろう」と。そんなふうに考えたこともある。

同時に、私は嫉妬(しっと)深く、猜疑心(さいぎしん)が強かった。町内会の男たちとワイフが、
親しげに話しているのを見ただけで、頭にカーッと血がのぼるのを感じたこともある。

 まるで他人のような夫婦。当時を振りかえってみると、そんな感じがする。それだけに皮肉な
ことだが、新鮮といえば、新鮮な感じがした。おかげで、結婚後、5年たっても、10年たっても、
新婚当初のままのような夫婦生活をつづけることができた。これは男女のどういう心理による
ものかは知らないが、事実、そうだった。

 が、そういう自分に気づくときがやってきた。私は幸運(?)にも、幼児教育を一方でしてき
た。その流れの中で、子どもの心理を勉強するようになった。私はいつしか、自分の子ども時
代によく似ている子どもを、さがすようになった。と、言っても、これは決して、簡単なことではな
い。

●自分をさがす

 「自分を知る」……これは、たいへんむずかしいことである。何か特別な事情でもないかぎ
り、実際には、不可能ではないか。どの人も、自分のことを知っているつもりで、実は知らな
い。私はここで「自分の子ども時代によく似ている子ども」と書いたが、本当のところ、それはわ
からない。無数の子どもの中から、「そうではないか?」と思う子どもを選び、さらにその子ども
の中から共通点をさがしだし、つぎの子どもを求めていく……。こうした作業を、これまた無数
に繰りかえす。

 手がかりがないわけではない。

 私は毎日、真っ暗になるまで、外で遊んでいた。
 私は毎日、家には、まっすぐ帰らなかった。
 私は休みごとに、母の実家のある、I村に行くのが何よりも楽しみだった。

 こうした事実から、私は、帰宅拒否児であったことがわかる。

 私は泣くと、いつもそのあとシャックリをしていた。
 静かな議論が苦手で、喧嘩(けんか)になると、すぐ興奮状態になった。
 私は喧嘩をすると、相手の家の奥までおいかけていって、相手をたたいた。

 こうした事実から、私は、かんしゃく発作のもち主か、興奮性の強い子どもであったことがわ
かる。

 私はいつも母のフトンか、祖父母のフトンの中に入って寝ていた。
 町内の旅行先で、母のうしろ姿を追いかけていたのを覚えている。
 従兄弟(いとこ)たちと寝るときも、こわくてひとりでは、寝られなかった。

 こうした事実から、私は分離不安のもち主だったことがわかる。

 ……こうした事実を積み重ねながら、「自分」を発見する。そしてそうした「自分」に似た子ども
をさがす。そしてそういう子どもがいたら、なぜ、その子どもがそうなったかを、さぐってみる。印
象に残っている子ども(年長男児)に、T君という男の子がいた。
 
●T君

 T君は、いつも祖母につられて、私の教室にやってきた。どこかの病院では、自閉症と診断さ
れたというが、私はそうではないと思った。こきざみな多動性はあったが、それは家庭不和など
からくる、落ち着きなさであった。脳の機能障害によるものなら、子どもの気分で、静かになっ
たり、あるいはおとなしくなったりはしない。T君は、私がうまくのせると、ほかの子どもたちと同
じように、ゲラゲラと笑ったり、あるいは気が向くと、静かにプリント学習に取りくんだりした。

 そのT君の祖母からいつも、こんなことを言われていた。「母親が会いにきても、絶対に会わ
せないでほしい」と。その少し前、T君の両親は、離婚していた。が、その日が、やってきた。

 まずT君の母親の姉がやってきて、こう言った。「妹(T君の母親)に、授業を参観させてほし
い」と。私は祖母との約束があったので、それを断った。断りながら、姉を廊下のほうへ、押し
出した。私はそこにT君の母親が泣き崩れてかがんでいるのを見た。私はつらかったが、どう
しようもなかった。T君が母親の姿を見たら、T君は、もっと動揺しただろう。そのころ、T君は、
やっと静かな落ち着きを取りもどしつつあった。

 T君が病院で、自閉症と誤診されたのは、T君に、それらしい症状がいくつかあったことによ
る。決して病院を責めているのではない。短時間で、正確な診断をすることは、むずかしい。こ
うした心の問題は、長い時間をかけて、子どもの様子を観察しながら診断するのがよい。しか
し一方、私には、その診断する権限がない。診断名を口にすることすら、許されない。私はT君
の祖母には、「自閉症ではないと思います」ということしか、言えなかった。

●T君の中の私

 T君は、暴力的行為を、極度に恐れた。私は、よくしゃもじをもって、子どもたちのまわりを歩
く。背中のまがっている子どもを、ピタンとたたくためである。決して痛くはないし、体罰でもな
い。

 しかしT君は、私がそのしゃもじをもちあげただけで、おびえた。そのおびえ方が、異常だっ
た。私がしゃもじをもっただけで、体を震わせ、興奮状態になった。そして私から体をそらし、手
をバタつかせた。私が、「T君、君はいい子だから、たたかないよ。心配しなくてもいいよ」となだ
めても、状態は同じだった。一度、そうなると、手がつかられない。私はしゃもじを手から離し、
それをT君から見えないところに隠した。

 こういうのを「恐怖症」という。私は、T君を観察しながら、私にも、似たような恐怖症があるの
を知った。

 私は子どものころ、夕日が嫌いだった。赤い夕日を見ると、こわかった。
 私は子どものころ、酒のにおいが嫌いだった。酒臭い、小便も嫌いだった。
 私は毎晩、父の暴力を恐れていた。

 私の父は、私が5歳くらいになるころから、アルコール中毒になり、数晩おきに近くの酒屋で
酒を飲んできては、暴れた。ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと、人が変わった。そして
食卓のある部屋で暴れたり、大声で叫びながら、近所を歩きまわったりした。私と姉は、その
たびに、家の中を逃げまわった。

●フラシュバック

 そんなわけで今でも、ときどき、あのころの恐怖が、もどってくることがある。一度、とくに強烈
に覚えているのは、私が6歳のときではなかったかと思う。姉もその夜のことをよく覚えていて、
「浩ちゃん、あれは、あんたが6歳のときよ」と教えてくれた。

 私は父の暴力を恐れて、2階の1番奥にある、物干し台に姉と2人で隠れた。そこへ母が逃
げてきた。が、階下から父が、「T子(母の名)! T子!」と呼ぶ声がしたとき、母だけ、別のと
ころへ逃げてしまった。

 そこには私と姉だけになってしまった。私は姉に抱かれると、「姉ちゃん、こわいよ、姉ちゃ
ん、こわいよ」と声を震わせた。

 やがて父は私たちが隠れている隣の部屋までやってきた。そして怒鳴り散らしながら、また
別の部屋に行き、また戻ってきた。怒鳴り声と、はげしい足音。そしてそのつど、バリバリと家
具をこわす音。私は声をあげることもできず、声を震わせて泣いた……。

 声を震わせた……今でも、ときどきあの夜のことを思い出すと、そのままあの夜の状態にな
る。そういうときワイフが横にいて、「あなた、何でもないのよ」と、なだめて私を抱いてくれる。
私は年がいもなく、ワイフの乳房に口をあて、それを無心で吸う。そうして吸いながら、気分を
やすめる。

 数年前、そのことを姉に話すと、姉は笑ってこう言った。「そんなの気のせいよ」「昔のことでし
ょ」「忘れなさいよ」と。残念ながら、姉には、「心の病気」についての理解は、ほとんどない。な
いから、私が受けた心のキズの深さが理解できない。

●ふるさと

 私にとって、そんなわけで、「ふるさと」という言葉には、ほかの人とは異なった響きがある。ど
こかの学校へ行くと、「郷土を愛する」とか何とか書いてあることがあるが、心のどこかで、「そ
れができなくて苦しんでいる人もいる」と思ってしまう。

 私はいつからか、M市を出ることだけしか考えなくなった。M市というより、実家から逃げるこ
とばかりを考えるようになった。今でも、つまり55歳という年齢になっても、あのM市にもどると
いうだけでも、ゾーッとした恐怖感がつのる。実際には、盆暮れに帰るとき、M市に近づくと、心
臓の鼓動がはげしくなる。40歳代のころよりは、多少落ち着いてはきたが、その状態はほとん
ど変わっていない。

 しかし無神経な従兄弟(いとこ)というのは、どこにでもいる。先日もあれこれ電話をしてきた。
「浩司君、君が、あの林家の跡取りになるんだから、墓の世話は君がするんだよ」と言ってき
た。しかし私自身は、死んでも、あの墓には入りたくない。M市に葬られるのもいやだが、あの
家族の中にもどるのは、もっといやだ。私は、あの家に生まれ育ったため、自分のプライドす
ら、ズタズタにされた。

 私が今でも、夕日が嫌いなのは、その時刻になると、いつも父が酒を飲んで、フラフラと通り
を歩いていたからだ。学校から帰ってくるときも、そのあたりで、何だかんだと理由をつけて、
友だちと別れた。ほかの時代ならともかくも、私にとってもっとも大切な時期に、そうだった。

●自分を知る

 そういう自分に気づき、そういう自分と戦い、そういう自分を克服する。私にはずっと大きなテ
ーマだった。しかし自分の心のキズに気づくのは、容易なことではない。心のキズのことを、心
理学の世界では、トラウマ(心的外傷)という。仮に心にキズがあっても、それ自体が心である
ため、そのキズには気づかない。それはサングラスのようなものではないか。青いサングラス
でも、ずっとかけたままだと、サングラスをかけていることすら忘れてしまう。サングラスをかけ
ていても、赤は、それなりに赤に見えてくる。黄色も、それなりに黄色に見えてくる。

 たとえば私は子どものころ、頭にカーッと血がのぼると、よく破滅的なことを考えた。すべてを
破壊してしまいたいような衝動にかられたこともある。こうした衝動性は、自分の心の内部から
発生するため、どこからが自分の意思で、どこから先が、自分の意思でないのか、それがわか
らない。あるいはすべてが自分の意思だと思ってしまう。

 あるいは自分の思っていることを伝えるとき、ときとして興奮状態になり、落ちついて話せなく
なることがあった。一番よく覚えているのは、中学2年になり、生徒会長に立候補したときのこ
と。壇上へあがって演説を始めたとたん、何がなんだか、わからなくなってしまった。そのとき
は、「あがり性」と思ったが、そんな簡単なものではなかった。頭の中が混乱してしまい、口だけ
が勝手に動いた。

 私がほかの人たちと違うということを発見したのは、やはり結婚してからではないか。ワイフと
いう人間を、至近距離で見ることによって、自分という人間を逆に、浮かびあがらせることがで
きた。そういう点では、私のワイフは、きわめて常識的な女性だった。情緒は、私よりはるかに
安定していた。精神力も強い。たとえば結婚して、もう30年以上になるが、私はいまだかって、
ワイフが自分を取り乱して、ワーワーと泣いたり、叫んだりしたのを、見たことがない。

 一方、私は、よく泣いたり、叫んだりした。情緒も不安定で、何かあると、すぐふさいだり、落
ちこんだりする。精神力も弱い。すぐくじけたり、いらだったりする。私はそういう自分を知りな
がら、他人も似たようなものだと思っていた。少なくとも、私が身近で知る人間は、私によく似て
いた。祖母も、父も、母も、姉も。だから私が、ほかの人と違うなどというのは、思ったことはな
い。違っていても、それは「誤差」の範囲だと思っていた。

●衝撃

 ふつうだと思っていた自分は、実は、ふつうではなかった。……もっとも、私は、他人から見
れば、ごくうつうの人間に見えたと思う。幸いなことにというか、心の中がどうであれ、人前で
は、私は自分で自分をコントロールすることができた。たとえばいくらワイフと言い争っていて
も、電話がかかってきたりすると、その瞬間、ごくふつうの状態で、その電話に出ることができ
た。

 自分がふつうでないことを知るのは、衝撃的なことだ。私の中に、別の他人がいる……という
ほど、大げさなことではないが、それに近いといってもよい。自分であって、自分でない部分で
ある。それが自分の中にある! そのことは、子どもたちを見ているとわかる。

 ひがみやすい子ども、いじけやすい子ども、つっぱりやすい子どもなど。いろいろな子どもが
いる。そういう子どもは、自分で自分の意思を決定しているつもりでいるかもしれないが、本当
のところは、自分でない自分にコントロールされている。そういう子どもを見ていると、「では、私
はどうなのか?」という疑問にぶつかる。

 この時点で、私も含めて、たいていの人は、「私は私」「私はだいじょうぶ」と思う。しかしそう
は言い切れない。言い切れないことは、子どもたちを見ていれば、わかる。それぞれの子ども
は、それぞれの問題をかかえ、その問題が、その子どもたちを、裏から操っている。たとえば
分離不安の子どもがいる。親の姿が見えなくなると、ギャーッとものすごい声を張りあげて、あ
とを追いかけたりする。先にあげた、T君も、その一人だ。

 その分離不安の子どもは、なぜそうなるのか。また自分で、なぜそうしているかという自覚は
あるのか。さらにその子どもがおとなになったとき、その後遺症はないのか、などなど。

●なぜ自分を知るか

 ここまで書いて、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「あなたは自分を知れと言うけど、知
ったところで、それがどうなの?」と。

 自分を知ることで、少なくとも、不完全な自分を正すことができる。人間の行動というのは、一
見、複雑に見えるが、その実、同じようなパターンの繰りかえし。その繰りかえしが、こわい。本
来なら、「思考」が、そのパターンをコントロールするが、その思考が働く前に、同じパターンを
繰りかえしてしまう。もっとわかりやすく言えば、人間は、ほとんどの行動を、ほとんど何も考え
ることなしに、繰りかえす。

 そのパターンを裏から操るのが、ここでいう「自分であって、自分でない部分」ということにな
る。よい例が、子どもを虐待する親である。

●子どもを虐待する親

 子どもを虐待する親と話していて不思議だなと思うのは、そうして話している間は、そういう親
でも、ごくふつうの親であるということ。とくに変わったことはない。ない、というより、むしろ、子
どものことを、深く考えている。もちろん虐待についての認識もある。「虐待は悪いことだ」とも
言う。しかしその瞬間になると、その行動をコントロールできなくなるという。

 ある母親(30歳)は、子ども(小1)が、服のソデをつかんだだけで、その子どもをはり倒して
いた。その衝撃で、子どもは倒れ、カベに頭を打つ。そして泣き叫ぶ。そのとたん、その母親
は、自分のしたことに気づき、あわてて子どもを抱きかかえる。

 その母親は、私のところに相談にきた。数回、話しあってみたが、理由がわからなかった。し
かし3度目のカウンセリングで、母親は、自分の過去を話し始めた。それによるとこうだった。

 その母親は、高校を卒業すると同時に、一人の男性と交際を始めた。しばらくはうまく(?)い
ったが、そのうち、その母親は、その男性が、自分のタイプでないことに気づいた。それで遠ざ
かろうとした。が、とたん、相手の男性は、今でいうストーカー行為を繰りかえすようになった。

 執拗(しつよう)なストーカー行為だった。で、数年がすぎた。が、その状態は、変わらなかっ
た。本来なら、その母親はその男性と、結婚などすべきではなかった。しかしその母親は、心
のやさしい女性だった。「結婚を断れば、実家の親たちに迷惑がかかるかもしれない」というこ
とで、結婚してしまった。

 「味気ない結婚でした」と、その母親は言った。そこで「子どもができれば、その味気なさから
解放されるだろう」ということで、子どもをもうけた。それがその子どもだった。

 このケースでは、夫との大きなわだかまりが、虐待の原因だった。子どもが母親のソデをつ
かんだとき、その母親は、無意識のうちにも、結婚前の心の様子を、再現していた。

●だれでも、キズはある

 だれでも、キズの1つや2つはある。キズのない人は、いない。だから問題は、キズがあるこ
とではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振りまわされること。そして同じ失敗を繰り
かえすこと。これがこわい。

 そのためにも、自分を知る。自分が、いつ、どのような形で、今の自分になったかを知る。知
ることにより、その失敗から解放される。

 ここにあげた母親も、しばらくしてから私のほうから電話をすると、こう話してくれた。「そのと
きはショックでしたが、そこを原点にして、立ちなおることができました」と。

 しかし自分を知ることには、もう一つの重要な意味がある。

●真の自由を求めて

 自分の中から、自分でないものを取り去ることによって、その人は、真の自由を手に入れる
ことができる。別の言葉で言うと、自分の中に、自分でない部分がある間は、その人は、真の
自由人ということにはならない。

 たとえば本能で考えてみる。わかりやすい。

 今、目の前にたいへんすてきな女性がいる。(あなたが女性なら、男性ということになる。)そ
の女性と、肌をすりあわせたら、どんなに気持ちがよいだろうと、あなたは頭の中で想像する。

 ……そのときだ。あなたは本能によって、心を奪われ、その本能によって行動していることに
なる。極端な言い方をすれば、その瞬間、本能の奴隷(どれい)になっていることになる。(だか
らといって、本能を否定しているのではない。誤解のないように!)

 人間の行動は、こうした本能にかぎらず、そのほとんどが、実は、「私は私」と思いつつ、結局
は、私でないものに操られている。1日の行動を見ても、それがわかる。

 家事をする。仕事をする。育児をする。すべての行為が何らかの形で、私であって私でない
部分によって、操られている。スーパーで、値ごろなスーツを買い求めるような行為にしても、も
ろもろの情報に操られているといってもよい。もっともそういう行為は、生活の一部であり、問
題とすべきではない。

 問題は、「思想」である。思想面でこそ、あらゆる束縛から解放されたとき、その人は、真の
自由を、手に入れることになる。少し飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、その第1歩が、
「自分を知る」ということになる。

●自分を知る

 私は私なのか。本当に、私と言えるのか。どこからどこまでが本当の私であり、どこから先
が、私であって私でない部分なのか。

 私は嫉妬深い。その嫉妬にしても、それは本当に私なのか。あるいはもっと別の何かによっ
て、動かされているだけなのか。今、私はこうして「私」論を書いている。自分では自分で考えて
書いているつもりだが、ひょっとしたら、もっと別の力に動かされているだけではないのか。

 もともと私はさみしがり屋だ。人といるとわずらわしく感ずるくせに、そうかといって、ひとりで
いることができない。ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」※は、どこかで書いた。私は、そ
のヤマアラシに似ている。まさにヤマアラシそのものと言ってもよい。となると、私はいつ、その
ようなヤマアラシになったのか。今、こうして「私」論を書いていることについても、自分の孤独
をまぎらわすためではないのか。またこうして書くことによって、その孤独をまぎらわすことがで
きるのか。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。しかしそれをしないで、その人は、真の自由を
手に入れることはできない。それが、私の、ここまでの結論ということになる。

●私とは……

 私は、今も戦っている。私の体や心を取り巻く、無数のクサリと戦っている。好むと好まざると
にかかわらず、過去のわだかまりや、しがらみを引きずっている。そしてそういう過去が、これ
また無数に積み重なって、今の私がある。

 その私に少しでも近づくために、この「私」論を書いてみた。
(030304)※

※ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」……寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに
寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけて
しまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離
れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあった。



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●育児不安

●ある母親からの相談より

+++++++++++++

傷つく子どもの心。
しかしそれに気づく親は、少ない。

が、だからといって、親を責めては
いけない。

親は親で、そのつど、懸命に考え、
もがきながら、子育てをしている。

つまりこうして親は、賢くなっていく。
その過程では、いろいろあるだろうが、
それはそれ。

以前、こんな相談があった。

+++++++++++++++++

名はHKと申します。
  
 早生まれで2月の、先月四歳になりました、息子が1人おります。
 F男という名前です。
 
 めぐりめぐってはやし先生のHPにたどり着いた次第でございます。
 どうぞよろしくお願い致します。
 
 まずは息子の事から話します。
 
 2歳になるころにうちのF男にどもりの症状が出ました。
 そのときは1週間くらいで治り、今も全くそういうチックは無く、生活しております。
 
 昔から育児サークルへ行っても私のそばから離れず、神経質っぽく、
 すぐ、よく泣く子供でした。今もちょっと言われただけですぐ泣く子です。

 公園に行っても、お母さんも一緒にというのがもう口癖のようになっていました。
 早生まれで3歳になってすぐ3年保育の保育園へ通わせるようになりました。
 最初のうちは泣きましたが、他にも泣いている子どもがいるので、
 そのまま通わせました。
 
でも思いのほかすぐに泣かずにバスに乗れるようになりましたが、
 いまいち、保育参観なども見ていても、覇気が無く、
 つまらなそうでした。
 
そのうち、お遊戯会などがあり、楽しいというようになりました。
 でも、冬休み明けにまた嫌がるようになり、
 しぶしぶ行くといった感じでした。
 
幼稚園でのお友達も、同じ学年の年少さんとではなく、
 1つ下の、小さい年少さんが5人ほどいるのですが、その子達と遊んでいるようです。
 同じ年少さんは遊んでくれないと言っています。
 
家では、1人で遊ぶ時間もちょっと出てきましたが、
 じっくり1人遊びができなくて悩んでいます。
 ちょっと遊んでも、すぐ「お母さん、一緒に遊ぼう」「遊んで」というのが
 口癖です。私も私で、遊んでやればいいのですが、家事もあったりして、
 少しの合間に遊んであげてもまた次の用事があるときに
 離れるときに泣かれるとやなので、
 遊んであげない事がほとんどです。

 遊んでいても、自分の思うとおりにいかないと、すぐ息子の機嫌が悪くなり泣いたり、
怒ったりして、 
 不安定だなと感じます。
 私もどちらかと言うと、イライラしがちな短気な性格です。
 先生のHPを見ていてこれだと思ったのが、自分がブランコを使っていても、
 自分より強そうな子だと、ニヤニヤしながら貸してしまう、そういうタイプの子です。
 
 先日、2月の保育参観と、役員会の時にむすこの幼稚園での生活の様子で
気になった事があるので、相談したいと思い、メールをさせて頂きました。

家でひとり遊びができないといいましたが、園でもそうみたいでした。
 だいたいの年少さんは、皆それぞれひとり遊びをやりながら
友達とかかわっているといった感じなのですが、
 
うちの子だけ、その日、との時によっても違うのですが、
 この子と思うと、そのこに執拗について回ります。
 ついてこられる子は迷惑そうな感じで、やめて! ついてこないで!と言われても
 ニコニコして、ついて回っています。 
 それはいかがなものでしょうか?

 ひとり遊びができないというのは、私が十分に遊んでやらなかったからでしょうか?
 どうも、相手にされてないようで、
うちの子が入っていっても遊びに入れてくれないので、
 お友達同士が遊んでいる後ろを、まねしてついてまわっいることも多いようです。
 
  
 昔からママ友達5人ほどで集まることが多いのですが、
 自然に子供は10人ほど集まります。
 ほとんど男の子ばかりなのですが、その中でも皆は2階で遊んでいるのに、
 うちの子だけ未だに溶け込めず、ひとりで下でもてあましているといった感じです。

 でも、昔はずっと私のひざの上から離れなかったということを考えると、
離れるだけましと考えているのですが……
 
親としてはもっともっとと欲が出てきてしまうのですね。
 良くないですよね。
 
 私もこういうHPを見れば見るほど、神経質になってしまい、
 あ〜しなければ、こ〜しなければ、今こう言ったら機嫌悪くなりそうとか、
 いちいち考えてしまい、
 自然に息子と接することができなくなってきました。
 
 もっと、ゆっくり、息子を見てやろうと思うのですが、
ちょっとした事がすぐ気になってしまい、
 いちいち考え過ぎてしまいます。
 
自分の悪い癖です。
 先生の話にもあった、息子と2人で歩いていても息子のペースが
遅すぎていつも私が先に立って歩くタイプです。

 父親もそういうタイプです。
 先生のHPを見てからは気をつけています!
 あまり過干渉にならないようにも気をつけています!
 子供と遊ぶのが苦手な方です。
 でも、もう1人子供が欲しいのですが、もう2度も流産していて、
 もうそろそろまた頑張ろうかと思っているところです。
 
 長々と聞いて頂きまして、有難うございました。
 ほんとはもっともっと話したいことが沢山あるのですが、まとまらないので、
 この辺で。
 
 アドバイス、お待ちしております。
 どうか、よろしくお願い申し上げます!
 
    兵庫県H市、HKより

++++++++++++++++++++++++++

【HKさんへ】

HKさんの問題点を整理してみると、つぎのようになる。
 
●2歳になるころにうちのF男にどもりの症状が出ました。
 そのときは1週間くらいで治り、今も全くそういうチックは無く、生活しております。
 
●昔から育児サークルへ行っても私のそばから離れず、神経質っぽく、
 すぐ、よく泣く子供でした。今もちょっと言われただけですぐ泣く子です。
 
●幼稚園でのお友達も、同じ学年の年少さんとではなく、
 1つ下の、小さい年少さんが五人ほどいるのですが、その子達と遊んでいるようです。
 同じ年少さんは遊んでくれないと言っています。
 
●じっくりひとり遊びができなくて悩んでいます。
 ちょっと遊んでも、すぐ「お母さん、一緒に遊ぼう」「遊んで」というのが口癖です。
 
●遊んでいても、自分の思うとおりにいかないと、すぐ息子の機嫌が悪くなり泣いたり、
怒ったりして、 不安定だなと感じます。
 
●私もどちらかと言うと、イライラしがちな短気な性格です。

●家でひとり遊びができないといいましたが、園でもそうみたいでした。
 だいたいの年少さんは、皆それぞれひとり遊びをやりながら
友達とかかわっているといった感じなのですが、
 
●うちの子だけ、その日、その時によっても違うのですが、
 この子と思うと、そのこに執拗について回ります。
 ついてこられる子は迷惑そうな感じで、やめて! ついてこないで!と言われても
 ニコニコして、ついて回っています。 
 それはいかがなものでしょうか?

●ひとり遊びができないというのは、私が十分に遊んでやらなかったからでしょうか?
 どうも、相手にされてないようで、
うちの子が入っていっても遊びに入れてくれないので、
 お友達同士が遊んでいる後ろを、まねしてついてまわっいることも多いようです。
 
●ほとんど男の子ばかりなのですが、その中でも皆は2階で遊んでいるのに、
 うちの子だけ未だに溶け込めず、ひとりで下でもてあましているといった感じです。

●先生の話にもあった、息子と2人で歩いていても息子のペースが
遅すぎていつも私が先に立って歩くタイプです。

●父親もそういうタイプです。
 先生のHPを見てからは気をつけています!
 あまり過干渉にならないようにも気をつけています!
 子供と遊ぶのが苦手な方です。
 でも、もう1人子供が欲しいのですが、もう2度も流産していて、
 もうそろそろまた頑張ろうかと思っているところです。
 
++++++++++++++++++

●HKさんのお子さんのF男君について、考えてみる。

 2歳のときに、吃音(どもり)が出たということから、F男君を包む家庭環境が、どこか神経質
であったことがうかがわれる。子どもの側からみて、全幅の安心感を得られないような状況と
考えられる。

 症状だけをみると、母子分離不安をまず疑ってみるべきでしょう。ギャーッと大声を出して、
親を追いかけるプラス型。ジクジクとして、情緒がきわめて不安定になるマイナス型に分けて考
えます。

 ……と言っても、第1子のばあい、ほとんどの親は、神経質な子育てをする。不安先行型、心
配先行型の子育てである。しかしこれはある意味では、当然のことであって、だからといって、
親を責めることはできない。(HKさんも、自分を責めてはいけない。)

 メールを読んで、気になるのは、親子のリズムが、合っていないこと。どこかにHKさんの「設
計図」があり、HKさんは、その設計図に合わせて、子どもを「作ろう」という意識が強いこと。た
とえば子どもが泣くことについても、「泣いてはだめ」という前提で考えてしまう? なぜ、泣くの
か、あるいは「泣いても、私がガードしてあげよう」という視点が、あまり感じられない?

 子どもが泣くのは、子ども側から、それ自体が親への働きかけとみると同時に、ストレスの発
散をしながら、心の調整(バランス)をとっていると考える。またその前提として、F男君が、やや
情緒が不安定になっているとみる。

 幼児のばあい、情緒不安は、(1)攻撃型、(2)内閉型、(3)固執型に分けて考える。ささいな
ことが引き金となって、(とくに不安、心配)、子どもの心は一挙に不安定になる。不安や心配を
解消するためである。

 「泣く」という行為は、風邪にたとえると、「熱」のようなもの。熱だけを冷ます方法もないわけ
ではないが、しかし熱をさげたからといって、病気がなおるわけではない。同じように、「泣く」と
いう行為だけをみて、それをなおそうとしても、意味はない。ないなばかりか、かえって症状をこ
じらせてしまう。

 F男君のケースでは、乳児期に、何らかの原因で、不安(基底不安)を覚えてしまったことが
考えられる。親自身が、それに気づかないことが多い。軽い置き去り、拒否的態度など。迷子
かもしれないし、無視(親はその気がなくても)、冷淡など。分離不安的な症状、孤立恐怖症的
な症状が、F男君には、みられる。

 こうした不安が基本にあって、いくつかの恐怖症を併発している。対人恐怖症も、その一つ。
仲間と遊べないが、年下の子どもと遊べるというのは、年下の子どもとの世界のほうが、居心
地がよいからである。一般論から言えば、より年下の子どもとの世界を求めるのは、愛情不足
(愛情を求める代償行為)が原因と考える。親にはその自覚がなくても、子どもは満足していな
いということ。

 親のイライラほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。もっとも約70%の母親が、何
らかの形でイライラしているから、だからといって、HKさんは、自分を責めてはいけない。

 しかし疑ってみるべきは、母親自身の欲求不満。家庭に閉じ込められることから発生する不
満、結婚生活の心配、望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。そうい
う欲求不満が、ときとして、イライラに転ずることもある。そういう自分自身の欲求不満を、F男
君にぶつけていないか? 

 ひとり遊びができないのは、あくまでも、その結果でしかない。F男君は、不安なのだ。基本的
に不安なのだ。母子の間に、絶対的な安心感を覚えることができないでいる。絶対的というの
は、「疑いをいだかない」という意味。

●では、どうするか?

 濃密なスキンシップを、大切にする。その前に、HKさん自身の中にある、不安や心配、「うち
の子は問題がある」式の心配を、払拭(ふっしょく)する。そのために、子どもの前では、「あな
たはいい子」を繰り返すとよい。

 方法としては、添い寝、手つなぎ、抱っこをふやす。子どもが求めてきたときは、子どものほう
から、体を放そうというそぶりをみせるまで、力強く、抱く。「もういい?」と、声をかけてあげると
よい。

 とにかく、F男君自身が、いだいているであろう、「不安」と戦うこと。F男君のことではない。あ
なたの不安でもない。F男君の不安である。そのために、F男君には、全幅の安心感を与える
ことだけを考える。まさに何があっても、「許して忘れる」こと。

 HKさんは、「私は短気だ」と言っているが、戦うべきは、その短気ということになる。しかし心
配してはいけない。子どもは、満4歳半くらいから、幼児期から少年少女期への移行期に入
る。このとき、もう一度、子どもの性格そのものを、つくりかえることができる。この時期をのが
してはいけない。最後のチャンスと考えてよい。

 大きな失敗ではないが、しかしHKさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをし、どこかで
F男君の心を置き去りにしてきた。それはそれとして、これからは、それを改める。F男君のうし
ろを、1歩退いて、歩く。これから1年半が勝負と、思うこと。この時期をのがすと、悪い面も、す
べて性格として定着してしまうので、注意する。それこそずっと、ハキのない子どもになってしま
う。

 私のHPを読んで不安になるというのは、むしろよいこと。不安になることを、不安に思っては
いけない。HKさん自身が、自分の問題点に気づき、それを改めようとしているためと考えてよ
い。しかしこの不安も、「私は、子どもを愛している」「子どもが好きだ」「どんなことがあっても、
許して忘れる」と宣言すれば、消える。そしてそのときから、私のHPを、気楽に読めるようにな
る。

(マガジンも発行しています。どうかご購読ください。無料です。)

 こうした問題を考えるとき、大切なことは、何が「原因」で、何が、「随伴症状」かということ。た
とえば分離不安にしても、ひとり遊びができない(孤立恐怖症)にしても、さらには対人恐怖症
にしても、その症状だけを問題にすると、「原因」を見失ってしまう。そして対症療法ばかりを繰
り返しているうちに、かえって症状をこじらせてしまう。

 原因は、ここにも書いたように、子ども自身がもっている、「基底不安」。その不安だけを見す
えながら、親子のあり方を、再構築するとよい。あとの問題は、それが解決すれば、自然消滅
する。

●具体的には……

(11)濃密なスキンシップを与える。とくに子どもが求めてきたときは、いやがらず、力いっぱ
い、抱く。
(12)「あなたはいい子」「すばらしい子」を口ぐせにする。
(13)CA、MG分の多い、食生活にこころがける。甘い食品をひかえる。
(14)HKさん自身の心の問題と戦う。過去を冷静にみつめ、その過去と決別する。何か、わだ
かまりがあるときは、それに気づく。気づくだけで、よい。子どもを育てるのではない。これから
生涯の友を育てるのだと考える。そういう意味で、子どもの横に立ったものの考え方をする。
(15)随伴症状(ひとり遊びができない。よく泣く)は、子どもが安心感を覚え、満足感を覚える
ようになった段階で、消えるので、この際、無視。おおらかに受けとめること。
(16)母子分離不安による症状が強いばあいには、「なおそう」と考えるのではなく、今の状態
を今以上に悪くしないことだけを考えて、こまめに愛情表現を繰りかえします。

 さあ、HKさん、自信をもって、前に進みましょう。あなたはこれから先、子どもと人生を分かち
あうのです。子どもを子どもと思うのではなく、友として、迎えいれるのです。親の気負いなど、
どこかへ捨てなさい。子どもに教えられることを、恥じてはいけません。謙虚になるのです。親
意識も、捨てなさい。あなたの子どもがさみしそうだったら、親友として、そのさみしさを共有す
ればいいのです。そうすれば、あなたの不安も、解消します。約束します。

(HKさんへ)

 以上のように、HKさんからのメール、および、私の返信を、次回のマガジン(xx号、予定)に
掲載しますが、よろしいでしょうか。よろしくご理解の上、ご協力いただけたらと思います。ご都
合の悪い点があれば、改めますので、できるだけ早く、お教えいただけたらと思います。勝手
なお願いですみません。マガジンの購読申し込みは、私のHPのトップページからできます。
(030311)





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●ふつうこそ、最善

+++++++++++++++

ふつうこそ、最善。
ふつうの価値は、それをなくしたとき、
はじめて、知る。

賢い人は、それをなくす前に知る。
愚かな人は、なくしてから、知る。

+++++++++++++++

 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。賢明な
人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。

 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。それま
ではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったことがある。その
ため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと歩いている人が信じら
れなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それまでとは違って見えたことはな
い。

 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。できるな
ら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値がわかる。平凡
は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の中で光り輝くのは、
平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。

 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、つら
い。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、それは喜びに
変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。

こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦労も知
らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に入れておくとよい。

子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの成長を
望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と望みながら、同
時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその子育てが終わると、とたん
に、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れが、容赦なく、あなたを責め始め
る。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。それは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよ
い。

 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく過ごす
ことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、何と味気なく、
つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てがほぼ終わりかけたときに
気づいた。

子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値がある。そ
のときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う私も、偉そうなこ
とは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさに愚かな人ということにな
る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ては目標さがし

++++++++++++

子育てをしながら、常に、
親は、目標をさがす。

子育ては、まさに目標さがし。

++++++++++++

「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはない。そのと
きどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態で、どうして子育てが
できるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを聞いて、言いようのない不安
にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、と。

 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心の地
図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広ければ広い
ほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。

 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に対し
て、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受けた子育てが
最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そして自分だけの子ども
観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと

そういう点では、「私の子どものことは私が一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、正し
い」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。この世界には、そういうジンクス(=悪い縁起)
がある。つまり心の地図を広くするためには、謙虚であればあるほど、よい。

 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒントとし
て、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立させることこそ、ま
さに子育ての目標である、と。

 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよき家庭
人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリアでも、カナダでも、
ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、私が直接、確認した。フラン
ス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導するのですか?」と聞いたときのこと。
「そんなのは、常識です」と。

 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。歴史は
歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代の圧制暴君
たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、殺されたこと
か! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖政治の時代だっ
た。それを忘れてはならない。

 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会から、
能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そして出世
主義社会から、家族主義社会へ。

 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。そしてそ
の地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●限界を知る

++++++++++++++

限界を知ることは、敗北を認める
ことではない。

むしろ限界を知らない親のほうが、
こわい。子育てで失敗する確率の
ほうがずっと、高い。

++++++++++++++

 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
らともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほ
ど、子どもを苦しめるものはない。

そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思い
なおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなもの」とあきらめる。その思いっきりの
よさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、その時点から、子どもは前向きに伸
び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い
方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば
ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ
を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな
さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態度は
大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学に……」と
思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA中学に……」とな
る。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという
こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま
う親があまりにも多いということ(失礼)。さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親
があまりにも多いということ(失礼!)。またそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりに
も多いということ(失礼)。それを避けるためにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。
限界を認める。親としては、つらい作業だが、その度量の深さが、親の愛の深さということにな
る。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、
自分のわがままをとおしていた。

その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠した。先生にほめられたことだけを話
し、叱られたことは話さなかった。

 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その
男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。しかしその男の子は、それを父親には言わ
なかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなることを、その男の子はよく知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら
親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮面に注意

+++++++++++++++

仮面にご注意!

だれしも人前では、ある程度の
仮面をかぶるもの。
しかし仮面は、仮面。

それを脱ぎ忘れたとき、
その人は、自分を見失う。

子どもも、またしかり。

+++++++++++++++

もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよい。それ
は、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、いない。「でき
がいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結果として決まること
で、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。

 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先生の
指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこんだ。たしか
に優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。小学五年生のときのこと。これ
から夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのことを心配していた。

私が「そんな先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その女の子にしてみれ
ば、それが彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろそれを喜んでいる
ふうだった。「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望みをかなえさせてあ
げたいです」と。
 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害(過食、
拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引きこもるように
なってしまった。

こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、それに気づ
かない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、親がそう思う
の分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの子ども
は、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(11)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくできる。マ
ナーもわきまえている。人前では礼儀正しい。

(12)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の指示
に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。

(13)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、ぐずった
りすることも少なく、独立心が旺盛にみえる。

(14)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現することが少
ない。万事にがまん強い。

(15)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このまま優秀な
まま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければならな
い。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。もちろん
子ども自身の問題もある。仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子
どもとみる。しかしそれとて、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに
問題があったとみる。子どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲
求不満が、その背景にあったとみる。

 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子どもの
心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。その時期は早
ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……というより、なおす
のは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうからである。そういう覚悟で、
時間をかけて対処する。

 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう言っ
た。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩連続でと
まることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰ってきます」と。

 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているという。そ
のため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、本当に多
い。

 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、いいか
げんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさいほど自己主張
し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいなら、むしろそれを喜ん
だらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、そういうもの。そうであるべ
き。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●「こまかい指導は、子どもをつぶす」
 
++++++++++++++

子育ては、おおらかに!

こまかいことは、ガミガミ言わない。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

++++++++++++++

★文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や
 書き順は言うにおよばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、
 こまかい指導はしないこと。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、
 ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうまでこだわらねばな
 らない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美
 しさを否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順など
 をしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人がいる。しか
 し文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しく
 ない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコン
 が発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。

 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた
 作文を見て、私はびっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなもの
 がいっぱいあった。そこで私がそのクラスの先生(小三担当)に、「なおさ
 ないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピアの時代
 から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。また
 ルール(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸
 をつけないでほしい。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切な
 ことは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」という思いを、子どもがもつ
 こと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイプの親
 や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に
 今、「作文は大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子ど
 もは少ない。よく日本のアニメは世界一というが、その背景に子どもたちの
 作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれない。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところ
 はなおせばよい。またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子
 どもを勉強好きにする。

 

(補足)もともと「学ぶ」は、「マネブ(まねをする)」に、由来するという。つまり日本では、「先人
のマネをする」が、「学ぶ」の基本になっている。そのひとつが、日本独特の「型」教育。日本人
は、子どもを、型にあてはめることを教育と思い込んでいる。少なくとも、その傾向は、外国と
比べても、はるかに強い。そのよい例が、英語の書き順。

 たとえば「U」は、まず左半半分を上から下へ書き、つぎに右半分を上から下に書いて、底の
部分でつなげる。つまり二画だそうだ。同じように、「M」「W」は、四画だそうだ。こういう英語国
にもない書き順が、日本にはある! 驚くというより、あきれる。ホント!

 そのため、日本では、今でも、先生は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。アメ
リカやオーストラリアでは、先生は、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と授業を進める。こ
の違いは、大きい。またその根は、深い。

 もうトメ、ハネ、ハライなど、もうなくしたらよい。それを守りたいという人に任せて、少なくとも、
学校教育の場からは、なくしたらよい。(もう二〇年前から、私は、そう主張しているのだが…
…。)書き順にしても、それにこだわらなければならない理由など、もう、ない。守りたい人が守
ればよい。守りたくない人は、守らなくてもよい。それよりももっと大切なことがある。その「大切
な部分」を、教えるのが教育ということになる。この「ワンポイントアドバイス」の中では、それを
書いた。

 ただこういう私の意見に対して、「日本語の美しさを君は否定するのか?」という反論もある
のも、事実。とくに書道教育関係者からの反論が、ものすごい。しかしこのアドバイスの中にも
書いたように、「美しい」とか、「美しくない」とか思うのは、その人の勝手。それを他人、なかん
ずく子どもに押しつけるのは、どうか。私は、トメ、ハネ、ハライがあるから文字が美しいとか、
ないから美しくないとか、そういうふうには、思わない。みなさんは、この問題を、どう考えるだろ
うか?


●国語の勉強は、読書に始まり、読書に終わる。アメリカの小中学校へ行って驚くのは、どの
学校にも、図書室が、学校の中心部にあること。(たいていは玄関を入ると、そのすぐ近くにあ
る。)そして小学校の場合、週一回は、「ライブラリー」という勉強がある。これはまさに読書指
導の時間と思えばよい。さらに驚くべきことは、この読書指導をする教師は、ふつうの教師より
もワンランク上の、「修士号取得者」があたることになっている。このあたりにも、日本とアメリカ
の教育に対する考え方の違いが、大きく出ている。もちろん、アメリカには、英語の書き順など
ない。(また書き順と構えなければならないほど、文字の数がない。)※




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●気うつ症の子ども

+++++++++++++++++

元気がない。
ハキがない。
もちろん目標も、目的もない。

そんな子どものことを思い出した。

+++++++++++++++++

 もうあれから五年になるだろうか。夏休みの間だけ、預かってほしいと頼まれたので、私はそ
の子ども(中二男子)を、一か月だけ教えた。そのときの記録が、ファイルの中から出てきた。

A君の症状

●子どもらしいハツラツとしたハキがない。何かを問いかければ、ニンマリと笑ってそれに答え
るが、どこか痛々しい。
●「何が心配だ」と聞くと、「テスト」と答える。頭の中は、テストのことばかりといったふう。「がん
ばって、それでだめなら、いいじゃない」と言うと、「夏休みあけのテストで悪かったら、ガックリ
すると思う。そういう自分がこわい」と。
●「どんな夢を見るの?」と聞くと、「ときどき、こわい夢」と。そこで「どんな内容かな?」と聞く
と、「内容は覚えていない。でも、こわい夢」と。何度問いただしても、「こわい夢」というだけで、
内容はわからなかった。
●「家では、だれがこわい人から?」と聞くと、「お父さん」と。「どうして?」と聞くと、「テストの点
が悪いと、しかられる」と。
●「今、一番、何をしたいのかな?」と聞くと、「写真を撮りたい」と。彼の趣味は、カメラをいじる
ことだった。写真を撮るというよりも、毎日、自分のカメラをみがいていた。カメラは、一五台くら
いもっているとのこと。
●学習は、すべて受け身。私が「〜〜しよう」と声をかけないと、そのままじっと座っているだけ
といったふう。無気力。「最近、大声で笑ったことがあるか?」と聞くと、「あまりない」と。
●「睡眠はどうかな?」と聞くと、「ときどき、朝の三時か四時ごろまで眠られないことがある」
「朝早く、目が覚めてしまうことがある」と。
●「家の中で、一番、気が休まるところはどこかな?」と聞くと、「ふとんの中……」と。「お母さん
はこわくないの?」と聞くと、「お母さんもお父さんの仕事を手伝っているから、家にいない」と。
●「食事はどう?」と聞くと、「このところあまり食べない」と。しかしA君は、ポッテリと太った肥
満型タイプ。水泳部に属しているということだが、筋肉のしまりがない。「結構、太っているんじ
ゃないの? 何を食べているの?」と聞くと、「あまり食べていない」と。この年齢の子どもは、も
う少し身なりに神経をつかうものだが、髪の毛はボサボサ。無精ひげはのび放題のびていた。
強い口臭もあった。

A君の症状で一番気になったのは、ここにも書いたように、ハツラツさがなく、どこかもの思い
げに、暗く沈んでいたこと。ため息ばかりついて、私が指示しなければ、何も自分ではしようとし
なかったこと。一度は、本人が何かをするまで待っていたことがあるが、ほぼ三〇分間、何もし
ないでボーッと座ったままだった。

 こういうケースでも、私はドクターではないから、「診断」するということはできない。夏休みが
終わる少し前、迎えに来た母親に、「負担を軽くしてあげたほうがいいのでは……」と言うと、母
親は笑いながら、「今が、(受験勉強では)一番、大切な時期ですから、あの子にはがんばって
もらわないと」と言った。

 結局、子育てというのは、行き着くところまで行かないと、親は気づかない。たいていの親は、
「うちの子に限って」「まさか……」「うちはだいじょうぶ」と思って、その場、その場で無理をして
しまう。この無理が、子どもをやがて、奈落の底にたたき落としてしまう。私は別れるとき、「こ
の子は、もう勉強についてはあきらめたほうがよい。またそうすることがその子どものために最
善」と思った。思ったが、結局は言えなかった。

 ……それから三年。久しぶりにその子どものうわさを聞いた。今は、私立高校(このあたりで
も、公立高校よりもランクが下と言われるD高校)に通っているということだそうだ。「元気か
な?」と聞くと、彼をよく知っている高校生はこう言った。「うん、あいつは元気だよ」と。私はほ
っとすると同時に、「そんなはずはない」と思った。何か大きな問題をかかえているはず。しかし
それ以上は、聞かなかった。かえってこの時期、不登校でも起こしてくれたほうが、あとあとの
症状は軽くすむ。問題を先送りにすればするほど、症状は重くなり、なおるのに長期化する。
今、青年期に、精神的な問題を起こす子どもが、ものすごくふえている。「ものすごく」としか書
きようがないが、あなたの周辺にも、一人や二人は必ずいるはず。私はそれを心配した。

(子どもの気うつ症)

●親の過負担、神経質な過関心、威圧的な過干渉、価値観の押しつけ、権威主義が、慢性的
につづくのが原因として起こる。
●気うつ症に先立って、神経症を起こすことが知られている。チック、吃音(どもり)、夜尿、頻
尿など。腹痛、頭痛もよく知られた症状である。
●症状としては、ノイローゼ、うつ病に準じて考えられている。

(1)気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷
う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(2)神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日
常活動への興味の喪失)、
(3)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。
さらにその状態が進むと、
(4)ぼんやりとして事故を起こす(注意力欠陥障害)、
(5)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(6)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(7)同じようにささいなことで激怒したり、ぐすったりする(感情障害)、
(8)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(9)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。

要はその前兆をいかにとらえるかだが、これがむずかしい。多分、あなたも、「うちの子はだい
じょうぶ」「私はだいじょうぶ」と思っている。親というのは、そういうもので、自分で失敗し、行き
つくところまで行かないと、わからない。自分では気がつかない。これは子育てが本来的にも
つ、宿命のようなものと考えてよい。




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