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●子育て自由論

●己こそ、己のよるべ

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自由とは、「自らに由る」ということ。
つまりは、自分のことは、自分でする。

勝手気ままに、好き勝手なことを
するのを、自由とは言わない。

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 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由 己に由る)





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●カルト

●カルトの洗脳

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カルトに洗脳された人たちは、
それこそ、とんでもないことを
言い出す。とんでもないことをする。
その前に、とんでもない
ことを信ずる。

以前、死んでミイラ化した人を、
「まだ生きている」とがんばった
教団がいた。

洗脳のこわさは、そこにある。
カルトのこわさは、そこにある。

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 「洗脳」といっても、何も「脳を洗う」わけではない。ふつう、洗脳というのは、つぎのような方法
を使って、なされる。

 私たちは、日常生活の中で、無数の(思い込み)をもっている。それを(ビリーフ)という。たと
えば、「納豆は体によい」「誠実であることこそが、他人とうまくつきあう方法である」「兄弟は仲
よくしたほうが、よい」などなど。

 これらのビリーフを分類していくと、たとえば(1)生活に関するもの、(2)健康に関するもの、
(3)行動に関するもの、(4)生き方に関するものなどに分けられる。(ほかにもいろいろある
が、それは問題ではない。)

 そこで洗脳する側、つまりカルト教団は、だれかをつかまえると、周辺の、どうでもよい分野
から、このビリーフを、自分たちにとって、都合のよいビリーフに置き換えるところから始める。
簡単に言えば、あたりさわりのない部分から、その人のビリーフを、つぶすところから始める。

 「納豆といっても、遺伝子操作でできた納豆は、まだ安全が確認されていません」
 「ときに、正しい生き方をすると、他人と、摩擦を引き起こすこともありますよ」
 「兄弟といっても、他人の始まりですから……」と。

 本人自身も、それほど深く考えたことがない。そういう分野から、その人のビリーフをつぶして
いく。本人が、不安ごとや心配ごとをかかえているときは、さらに効果的である。その分野を、
集中的に攻撃する。

 「夫婦の仲がうまくいかないのは、あなただけの問題ではありません。あなたがた夫婦には、
夫婦になる前からの問題があったのです」
 「あなたがずっとお金で苦労しているのは、あなたのせいではありません。人には、それぞ
れ、運、不運というものがあります」と。

 さらにほとんどのカルト教団では、本人をノーブレインの状態にするため、同じ題目や念仏を
何度も繰りかえさせる。簡単な歌を歌わせるところもある。つまりこうした状態を20〜30分も
繰りかえしていると、その人の思考は停止状態になる。

 それは心地よくも、甘美な世界である。こうした状態を、「ラポール」と呼ぶ。

 本人がそういう状態になったとき、周囲の者たちが、いっせいに、その人に向かってこう言
う。

 「A先生は、仏様です」
 「A先生は、釈迦の生まれ変わりです」
 「あなたは、選ばれた、すばらしい人です」と。

 まさに催眠状態でそう叩きこまれるから、本人は、それを信じてしまう。最初はそれに抵抗し
ようとするが、しかしそれにも限度がある。やがて周囲の人たちの言っていることを、受けいれ
てしまう。

 この段階で、「あなたはキツネだ」と吹きこまれると、本当にキツネのようにピョンピョンと座っ
たまま踊り出す人もいる。それとくらべたら、「A先生は仏様です」ということを信ずることなど、
何でもない。

 こうしてカルト教団は、無数のビリーフを、自分たちにとって都合のよいビリーフに置きかえた
あと、その人の根幹部分、つまり生きザマの分野のビリーフまで、自分たちにとって都合のよ
いビリーフに置きかえてしまう。

 これが洗脳である。

 人にもよるが、ここにも書いたように、何か大きな不安ごとや心配ごとをかかえた人ほど、短
時間に洗脳される。それだけ心に大きな穴があいているからである。

 今の今も、この洗脳は、日本中のいたるところでなされている。そして今の今も、無数のカル
トが、人知れず、闇の世界で活動し、勢力を伸ばしている。あなたやあなたの子どもが、いつそ
の犠牲者になってもおかしくない。今は、そういう状況である。

 こうしたカルトに対抗するゆいいつの手段は、私たち自身が、賢くなることでしかない。常に考
え、自分の常識とくらべて、おかしいものは、おかしいと声をあげる。その勇気でしかない。

 ますます巧妙になるカルト。「洗脳」というものがどういうものであるかを知ってほしかったか
ら、ここで思いつくまま、洗脳について書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 洗脳
 カルト)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えること

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「考える」ことの重要性。

それこそが、人間が人間であるという
証(あかし9といってもよい。

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 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅
(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、
「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ
天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるい
は、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いこと
を、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実
のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工し
て言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからた
いていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少な
くない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙二先生も、「日本の教育の欠
陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。

私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の英知は、その宗教すらも超える力をもって
いる。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし自らの足で立つところにこそ、人間が人間
であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみ
ついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間は
やがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの
参考意見にすぎないが……。





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●好かれる人間性

●好かれる子ども

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アメリカのある学者が、大学生を
対象として調べたところ、

好ましい性格、つまり人に好かれる
性格は、

(1)誠実であること、
(2)正直であること、
(3)理解力があること、だそうだ。

(アンダーソン:「性格心理学」・ナツメ社)

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 アメリカのある学者が、大学生を対象として調べたところ、好ましい性格、つまり人に好かれ
る性格は、

(1)誠実であること、
(2)正直であること、
(3)理解力があること、
(4)忠実であること、
(5)信用できること、だそうだ(アンダーソン:「性格心理学」・ナツメ社)。

 これは大学生を対象としてなされた調査だが、小中学生の間でも、ほぼ、同じとみてよい。
(もちろん、おとなの世界でも、である。)

 古い原稿だが、以前書いた原稿を、そのまま紹介する。

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子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きる哲学

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誠実に生きる。
……それが自然な形で、できるようになったとき、
その人を、善人と、人は呼ぶ。

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 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。

もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、それ
が「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよ
い。

人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決し
てむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に
問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や
倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たと
えば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな知っている。そういうのを常識という。

この常識があるから、人間は過去数一〇万もの間、生きるのびることができた。またこの常識
にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。

しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い
人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもって
いる。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、
静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誠実
論 誠実)

 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

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音楽を聴いて、美しいものを見て、
よき人たちと交際して、
自分にすなおに生きる。

それから生まれる心地よさこそが、
私たちがもつ、「常識」ということに
なる。

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 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで
汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」
だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついていた。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができなかった。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。

が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」
と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だか
ら私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

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【すばらしい人たち・2人の知人】

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「すばらしい」と思える人に出会うのは、
それだけでもラッキーなことと考えてよい。

めったにあることではない。

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●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏
という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともす
ばらしい人を2人あげろと言われたら、私は迷わず、この2人をあげる。

この2人ほどすばらしい人を、私は知らない。この2人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうす
れば人は、そういう人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいの
か、それを考えさせられる。

 この2人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることながら、
だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの言
っていることが、そのままその人たち。

楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでく
れる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさら
け出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、
心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られ
たくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生
きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の4タ
ヌキというタイトルで、4人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国
大統領の第2夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優
の女性の4人である。(「タヌキ」という言葉は、私が使ったのではない。週刊誌にそう書いてあ
った。)

4番目の演劇俳優の女性は別としても、残る3人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔風
の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いかに
して他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きている。まさにそういう感じの人たちであ
る。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくな
る。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。

ときどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思っていても、
それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう2度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。

もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲れさ
せたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。つまり
日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人
の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。

しかし原点は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではな
い。中には滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そうい
うことをする人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はな
い。あくまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。

その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善良なる生き物なので
ある。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。

無理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して
深追いをしない。

その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物は今
の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、
それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をす
ると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能とし
てもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。それは性欲や
食欲のようなものかもしれない。

本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人
間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能
からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじ
めて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またな
らねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。たがいに話しこめば話
しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別
れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔
で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした2人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その2人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし1人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。しかし2
人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚い
た。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。

「なぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その
共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は
前向きな努力をする。

私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレタ
ーを書いたとする。そのばあいも、どこかからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思
なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++

最後に、もう1作。
日付を見ると、(03年)とある。

4年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++

●誠実論

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
10万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、2つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、2つも3つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。

もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことになっ
てしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、この世
は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないということにな
るのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。

本当の私は、もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決
めている。それはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達す
るには、まだまだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、
そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。
(03−1−11)





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●子どもの受験

●合格発表

++++++++++++++++

昨日、市内のN高校中等部の
入試の合否発表があった。

しかし生涯において、これほどまでに
肝をつぶした合否発表はなかった。

++++++++++++++++

 ジリジリと時間だけが過ぎる。
 コチコチと、時計の刻む音。
 しかし電話はない。
 パソコンを何度も開くが、
 そのメールも、ない。

 ……

 昼過ぎになっても、ない。
 なんとも言えない、絶望感。
 閉塞感。
 「やっぱりダメだったのか」という思い。
 それがだんだんと重く心にのしかかる。

 合否通知は、とっくに届いているはず。
 まっさきに、それを私に知らせて
 くれるはず。

 しかし、……ない。

 自分の子どもだったら、まだ、あきらめもつく。
 しかしKさんは、ちがう。

 落ちるはずのない子ども。
 落ちてはならないはずの子ども。

 そんな思いで教室へ着くと、
 留守番電話にそれが入っていた。

 Kさんの親からのもので、
 「合格しました!」と。

 とたん、体中から、力が抜けた。
 ヘナヘナとその場に、体を沈めた。

 「よかった」と思った。
 心底、そう思った。

 そしてそのまま、折り返し、Kさんに電話。

 「おめでとう!」と。

++++++++++++++++++

 子どもの受験競争で、失敗する親というのは、たいていパターンが決まっている。子どもがも
っている勉強のリズムを、破壊してしまう。平気で、破壊してしまう。

 はっきり言おう。子どもに、勉強のリズムをつくるのは、たいへん。時間がかかる。根気も必
要。それこそ半年単位の時間がかかる。

 しかし破壊するのは簡単。が、親には、それがわからない。「5年生になったから、進学塾へ
移ります」とか何とか言って、私の教室を去っていく。子どもの意思など、まるで無視。とたん、
そのリズムは、破壊される。

 子どもには、それぞれ、子どもの能力というものがある。決して平等ではない。その能力を見
極めたら、それにすなおに、従う。「やればできるはず」と思うのではなく、「やってここまで」と思
う。その余裕が、子どもを伸ばす。

 Kさんは、夏休みの間、どこかの進学塾の夏期講習を受けた。そのとき、Kさんは、母親にこ
う言ったという。「私は私のやり方をする。林先生(=私)のところだけでじゅうぶん」と。

 つまりKさんは、その時点で、背水の陣を敷いたことになる。私は私で、Kさんの母親に、こう
言った。「任せてください」と。

 Kさんは、人格的にも、人間的にも、すぐれた子どもである。子どもというより、おとなに近い。
私をさして、「林先生は、いやし系」と言ったこともある。私は、それをよい意味にとらえた。私は
それに答えて、Kさんのために、3人だけのクラスを用意した。能力的に恵まれた子どもだけを
集めて、たがいに刺激しあう雰囲気を用意した。

 それが私のやり方だった。

 だから、Kさんには、何としても合格してほしかった。それは私自身の「力」が試される場所で
もあった。Kさんは、学校だけの勉強で、何とか、それを乗り切った。もちろん、入試内容に合
わせて準備をした。それは私の仕事である。どことどこを縫い合わせればよいか、それだけを
考えて私は指導した。

 はっきり言おう。子どもを点数でおどしたり、勉強で追いまくって指導するのは、簡単なこと。
そこらの大学生にだって、できる。しかしその子どものもつ自立性を大切にし、その子どもが自
らの意思で学習するようにしむけるのは、至難のわざ。Kさんの両親にしても、大きな賭けだっ
たにちがいない。

 いや、反対に、あちこちの塾にひっかき回されるうちに、ダメになっていく子どもは多い。世の
親たちはそれを知らない。親があたふたとするから、子どもも、それにつられて、あたふたとし
てしまう。それはたとえて言うなら、多重債務に追われて仕事をするようなもの。仕事そのもの
が、手につかなくなる。

 しかし一度、こうなると、結果は、明白。ズルズルと成績だけが、さがってしまう。おとなの世
界とちがって、やりなおしがきかない。1年は、あっという間に、過ぎてしまう。親が気がついた
ときには、子どもの受験勉強そのものが終わっている。それだけに、親は、慎重の上に、慎重
であったほうがよい。

 今年も、「6年生になったから、進学塾へも通うようにしました」「家庭教師をつけることにしま
した」という子どもがいる。しかしそういう親に対して、私は無力でしかない。「どうぞ、ご勝手に」
とまでは思わないが、遠まわしな言い方で、「どうか慎重に」とだけ伝える。子どもの受験勉強
で、親が先頭に立って、それで成功したという例は、ほとんどない。私はそういう失敗例を、うん
ざりするほど、経験してきている。

 つまり、親は、「もっと……」「さらに……」と無理をする。この無理が、かえって子どもをつぶし
てしまう。リズムを破壊してしまう。成績がさがるだけならまだしも、心までつぶしてしまう。親子
の人間関係まで、破壊してしまう。

 ともかくも、Kさん、おめでとう!

 よかった! 本当によかった! プラス、ありがとう!

+++++++++++++++

同じような原稿を以前、書いた
ことがある。

+++++++++++++++

子どもの受験勉強

●C氏の言葉

 進学塾では、(できる子ども)を求める。そういう子どものほうが、教えるのも楽だし、それに
経営的にも、メリットがある。

 一方、(できない子ども)は、教えるのもたいへん。それにそういう子どもが多ければ多いほ
ど、塾の評判はさがる。が、それだけではない。(できない子ども)ほど、動きがはげしい。少し
成績があがれば、すぐどこかへ移ってしまう。あがらなければあがらないで、すぐまたやめてし
まう。

 たとえば小学校の高学年や中学生で、すでに(できない)状態になっている子どもは、その段
階で、すでにかなり、キズついている。こじれている。学習態度も悪い。たいていは無気力にな
っている。自信をなくしていることも多い。

 さらにどこかでつまづいているから、それを補充しようとすると、このタイプの子どもほど、そ
れをバツととらえる。だからますます勉強が、できなくなる。

 さらに問題は、つづく。(できない子ども)が、多少できるようになっても、親は、「効果があっ
た」とは言わない。「当たり前」とか、「やはりうちの子は、やればできるはず」と思う。そう思っ
て、無理を重ねる。効果がなければないで、ある日、突然、フイと塾をやめていく。

 ……ここまでの話は15年近く、進学塾の講師をしたことのある、C氏(43歳)が、私に話して
くれたことである。C氏は、今、まったく別の仕事をしているが、私にこう言った。「進学指導なん
て、もうコリゴリです」と。わかる、その気持ち!

●子どもの心

 少し前、残り勉強が話題になった。ときの文部省が、音頭を取った。学力の足りない子ども
は、学校で残り勉強をさせるというものだった。しかしこうした試みは、確実に失敗する。理由
は、明白。子どもは残り勉強を、自分のためとは、とらえない。ここでいう「バツ」ととらえる。

 またこの段階で、残り勉強を教えてくれる先生には、絶対に感謝などしない。「自分のため」と
いう自覚すら、ない。

 残り勉強が、「自分のため」と理解するためには、その前提として、子ども自身が、「もっとで
きるようになりたい」という意欲がなければならない。その意欲も、また希望もない子どもに、
「あなたには、残り勉強が必要だ」と言っても、理解など、できるはずもない。喜んで勉強など、
するはずもない。

 これは進学塾についても、同じ。「うちの子は、塾に通う必要がある」と思うのは、親の勝手だ
が、子ども自身は、そうは思っていない。そういう状態で、子どもを進学塾に通わせても、効果
がない。ないばかりか、かえって、親子のパイプを、破壊してしまう。

 ある母親が、高校生になった娘に、「あんたはだれのおかげで、ピアノを弾けるようになった
と思っているの? ママが、毎週、高い月謝を払って、あんたをピアノ教室へ連れていってあげ
たからよ!」と言ったときのこと。その娘は、こう叫んだという。「いつ、だれが、あんたにそうし
てくれと頼んだア!」と。

 こうした意識のズレは、とくに子どもの受験勉強では、起こりやすい。親は、「子どものため」
と考えるかもしれないが、子どもは、そうは思わない。「いらぬおせっかい」と、とらえる。

●誤解と幻想

 この世界には、誤解と幻想がある。

 その第一。「やればできるはず」という幻想。たとえば親が、本屋へ行き、中学入試問題集を
手にしたとする。そのとき自分の子どもが、小学6年生だとすると、「うちの子に、できないはず
はない。うちの子だって、小学6年生だ」と考える。

 そこでその問題集を、買う。家で、子どもにやらせる。しかし子どもは、できない。とたん、親
は、大きな不安感に包まれる。しかしこのとき、「問題集がおかしい」とか、「自分の子どもにそ
の能力がない」とか思う親は、まずいない。ほとんどの親は、「うちの子ができないのは、やらな
いからだ」「小さいときから、勉強をしていないからだ」「やればできるはず」と思う。

 だから親は、進学塾の門をたたくとき、弁解がましく、必ず、こう言う。「今まで、あまり勉強さ
せませんでしたから……」「伸び伸びと遊ばせてきましたから……」と。

 そして家では、お決まりの親子げんか。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。

 第二に、進学塾へ行けば、安心という幻想。勉強というのは、リズムの問題。そのリズムがあ
るかないかで、できる、できないが決まる。が、親には、それがわからない。進学塾だけで足り
ないと思うと、今度は、家庭教師をつける。さらにそれでも足りないと思うと、また別の塾にも通
わせる。

 こういうことを安易に繰りかえせば、その子どものリズムは、決定的なほどまでに、破壊され
る。しかしその深刻さに、気づく親は、少ない。それはたとえて言うなら、多重債務をかかえ、い
くつかのサラ金業者に追いまくられるようなもの。あたふたしている間に、何がなんだか、わけ
がわからなくなってしまう。

●では、どうするか?

 進学塾を利用するにしても、その内容やレベルよりも、「リズム」を大切にする。よい進学塾
には、そのリズムがある。そしてそのリズムに子どもが乗ったら、そのリズムを大切にする。

 たとえば週2回のレッスンがあれば、それを。定期的な試験があれば、それを、ひとつのリズ
ムにする。こういうリズムの中で、子どもの勉強グセを作っていく。

 一方、そうでない進学塾は、リズムがバラバラ。突然思い立ったようにテストをしてみたり、思
い立ったように、むずかしいワークブックを渡したりする。あるいはやらなくてもよいようなとき
に、特別レッスンをしてみたり、それほど用もないのに、親を呼びつけたりする。

 講師の言っていることも、メチャメチャ。どこかおかしい。チグハグ。ささいなことを、ことさら大
げさに問題にしてみたり、トンチンカンなことを言ったりする。ある研究会に顔を出したときのこ
と。1人の塾教師(幼児教室の講師)は、さも自信たっぷりに、こう言った。

 「幼児の心を知りたかったら、自分でオムツをしてみればいいです。老人用のオムツがありま
すから、それをしてみればいいです。それで幼児の心がわかります」と。

 とんでもない意見だが、その人は、すごく真剣だった。

 つぎにもちろん、子どもの能力とレベルをわきまえること。よく進学塾では、「今年はXX人、S
S高校に入学しました」などと発表する。しかし同時に、それ以上の数の子どもが、受験に失敗
している。そういった事実を、客観的に見る。

 進学塾へ入って、成績を伸ばす子どももいるが、かえってさげてしまう子どももいる。むしろ、
さげる子どものほうが多い。それもそのはず。進学を目的にした塾では、できる子どもに合わ
せて授業を進める。できる子ども方が、冒頭に書いたように、経営的に大切。だから、それは
当然のことではないか。

 無理をしても意味がないばかりか、かえって逆効果だということ。……こう書くと、「ではあきら
めろということか?」と言う人がいるかもしれない。それには、私は明確に答える。「そう、あきら
めなさい」と。

 勉強にかぎらず、こうした子どもの問題には、必ず、二番底、三番底がある。「今が最低」と
親は思うかもしれないが、無理をすると、さらに二番底、三番底へと、子どもは落ちていく。だ
から「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親があきらめると、その時点から伸び始める。反対に、
「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と親が、がんばればがんばるほど、子どもの成績はさが
る。最後に、10年ほど前に私が経験した、M君(中3男子)のケースを書く。

●M君のケース

 M君が、私の教室にきたのは、小学6年生になってからだった。このM君のばあいは、教え
ることよりも、リズムをつくるのがたいへんだった。私がやっとのことで、リズムをつくっても、親
が介入してきて、それをことごとく破壊してしまった。

 たとえば簡単なワークブックを1日、1枚すると決めたとする。で、そういうリズムが軌道にの
るまでには、最低でも数か月はかかる。(数か月だ!)が、そのリズムができる前に、親がやっ
てきて、「このワークブックもやらせてほしい」「今度、D中学校を受験することにしたので、その
入試問題もやらせてほしい」と言ってきた。

 中学へ入ってからも、この状態は変わらなかった。私はカセットテープを聞きながら、毎日英
語を書かせるという指導を始めた。この学習とて、やはり数か月単位の、根気のいる作業が必
要である。

 が、それについても、「今度、K塾にも入ったから」とか、「ときどき親類のお兄ちゃんに勉強を
みてもらっているから」と、破壊していく。

 結局M君は、最後まで、自分のリズムをつかむことができなかった。中学3年生になるころに
は、私の教室へきても、ただ眠っているだけ。そんなとき、私を心底、失望させる事件が起き
た。

 ある日母親がやってきて、こう言った。「今度、S塾にも行かせることにした。ついては先生の
ところと時間が合わないので、今、週2回きているが、週1回にしてほしい」と。私が何と答えて
よいかわからないでいると、突然会話をはぐらかし、「アーラ、先生、センスのよいシャツを着て
らっしゃいますのねエ」と。

 私が、やっとの思いで、「もしそうなら、今日で、私の教室をやめてほしいのですが」と言うと、
その母親は、かなり驚いて様子で、こう言った。「うちの子は、楽しんできています。あなたにう
ちの子をやめさせる権利はないでしょう」と。

 M君は、親にひきずり回されているだけだった。もちろん自分のリズムなど、もっていない。
言われるまま、親に従っていた。そののち、M君が、どうなったか。今さら、ここに書くまでもな
い。しかしこうした失敗は、実に多い。何割かがそうであると言ってもよい。

 あなたも一度、あなたの子どもがどんなリズムをもっているか。あるいはもっていないか、そ
れを冷静にみてみたらよい。
(030830)




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【病識と自己認識】

++++++++++++++++++++++

脳のCPU、つまり中央演算装置が狂うと、
「自分は病気である」という意識は、当然、
なくなる。

「私は正常だ」と思いながら、おかしな行動を
繰りかえす。おかしな行動を、おかしいとも
思わない。

CPUが狂うということは、そういうことを
いう。

++++++++++++++++++++++

●病識

 アルコール依存症か何かになり、大声で怒鳴ったり、暴れている人に向かって、「あなたは、
おかしい」と言っても、意味はない。そういう人ほど、ますます、いきりたつ。「おかしいとは、何
だ! このヤロー!」と。

 同じ精神疾患でも、病識があるかないかで、軽重が決まるという。「私は今、病気である」と認
識することを、「病識」という。病識のある人は、まだ軽いとみる。

 数日前、近くのケアセンターへ行ったときのこと。ヘルパーさんに頼んで、しばらくその部屋の
老人たちの様子を観察させてもらった。老人といっても、千差万別。それを「個性」といってよい
かどうかはわからないが、それぞれの老人は、強烈な個性を放っていた。頭のボケ方は、けっ
して一様ではない。

 が、その中でも、タチがわるいのが、病識のない人たちだそうだ。ヘルパーさんが、そう言っ
ていた。自分では、「私は正常」と思いこんでいるから、他人の説得には、耳を傾けない。自分
で自分をコントロールしようともしない。自分勝手な行動を繰りかえす。

 そこで私は、ハタと気がついた。話が少し脱線するが、こういうことだ。

●自己認識力

 ADHDの子どもがいたとする。そういう子どもに向かって、「みなが、迷惑するから、静かにし
ていてください」と注意しても、意味はない。自分を客観的に判断する能力そのものがない。こ
れを教育の世界では、自己認識力という。「自己意識」というときもある。

 が、そんな子どもでも、小学3〜4年生を境に、急速に、その自己認識力が育ってくる。つまり
自分を客観的に見る目が育ってくる。「こんなことをすれば、みなに嫌われる」「どうすれば、み
なとうまくやっていくことができるか」と。

 そしてやがて、自己管理能力が育ってくる。自分で自分をコントロールするようになる。

 が、それ以前の子どもには、それがない。つまり自分で自分をコントロールする前に、自分が
どういう人間であるか、それを知ることすらできない。

 この「自分がどういう人間であるか知ることができない」というのは、どこか、先に書いた、「病
識」と似ていないか?

 さらにこんな話もある。

●2つの脳みそ

 これは私がどこかで講演をしているときに気がついたことだが、こんなことである。

 講演をしているときというのは、2つの脳みそが、同時進行の形で、働く。ひとつは、講演内
容について考えている脳みそ。これを脳みそAとする。もうひとつは、その自分を、別のどこか
でコントロールしている脳みそ。これを脳みそBとする。

 脳みそAは、講演をしながら、話の内容を考える。が、それだけでは、講演はできない。そこ
でもうひとつの脳みそBが、別のところから私を管理する。「残り時間は、あと20分」「そろそろ
結論に話をつなげろ」「この話は、省略しろ」「聴衆の反応がよくないから、おもしろい話を入れ
ろ」と。

 ここでいう脳みそBが、私を客観的に判断する能力、つまり自己管理能力ということになる。
これがないと、講演そのものが、バラバラになってしまう。支離滅裂になってしまう。実際、数度
だが、そういう経験もしている。風邪か何かをひいていて、脳みその活動が鈍っていたときのこ
とである。そのときは、講演をしながら、自分でも、何を話しているかわからなくなってしまった。

 そこで最初の話に、もどる。

●自己管理能力

 たとえばカッとなって、激怒したばあいを考えてみよう。そういうとき、自己管理能力のすぐれ
ている人は、その場で、自分をコントロールしようとする。怒りを自分でしずめ、してよいことと、
してはいけないことを、的確に判断する。そうでない人を、自己管理能力の弱い人という。

 EQ論(=人格完成論)でも、自己管理能力を、人格の完成度をみるための、ひとつの重要な
バロメータ(尺度)にしている。自己管理能力のある人を、人格の完成度の高い人といい、そう
でない人を、そうでないという。それはさておき、自己管理能力ができるためには、まず、自分
が今、どういう状態なのかを知らなければならない。

 これが自己認識ということになる。精神疾患について言えば、病識ということになる。つまり、
教育の世界でいう「自己認識」と、精神疾患でいう「病識」とは、同一のものということになる。そ
の「認識」があってはじめて、人は、自分で自分を管理できるようになる。

 ずいぶんと乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、反対に、その「認識」のない子どもや、「病
識」のない精神疾患患者に、あれこれ説教しても意味はない。意味がないばかりか、かえって
逆効果になることが多い。

●自分を知る

 そこで問題は、どうすれば、(そのとき)、自分のことを客観的に知ることができるかというこ
と。たとえばカッと激怒したようなとき。あるいは、アルコール依存症の人が、泥酔状態になっ
たようなとき。それは、可能なのか。それとも、不可能なのか。

 たとえば私にしても、たしかに、私の中には、もう一人の私がいる。何かの拍子に出てきて、
私の脳みそを、優勢的に支配する。

 そのときのことだが、そのとき私は、もう一人の私のほうが、正しいと思う。それまでの私は、
仮の私であって、本物の私ではないと思う。ときにどちらの私が本当の私なのか、わからなくな
るときもある。

 ただ幸いなことは、どちらの私になっても、たがいの記憶はしっかりと残っているということ。さ
らにもう一人の私になっても、本来の私、つまり99%の時間を支配する私が、部分的に残って
いること。その本来の私が、もう一人の私を、コントロールしようとする。

 おかげでというか、かろうじて、私は、(ふつうの生活)を営むことができる。ふつうの夫、ある
いはふつうの父親として、家族をまとめることができる。もしそのとき、ふだんの私の記憶をなく
してしまったり、あるいは、完全に別人になってしまったとするなら、私は、多重人格者=人格
障害者ということになってしまう。

 で、そういう自分を振りかえってみると、もう一人の自分になったときというのは、たしかに、こ
こでいう病識がない。たしかに「私は正しい」と思いこんでいる。思いこんだまま、あれこれと判
断をくだそうとする。

●だれにもある現象?

 たしかに、そういうときの私は、おかしい。再び冷静になったときに、それがわかる。はっきり
言えば、そういうときの私は、病気なのだ。……というような現象は、実は、最近、だれにでもあ
るということを知った。程度の差はあるものの、だれにでもある。精神的にはきわめて安定して
いると思われる、私のワイフにもある。

 たとえば口論したようとき、ワイフは、別人のようにがんこになる。私が「逆らうな!」と言うと、
「何も、逆らっていないわよ」と言って、私に逆らう。つまりその時点で、ワイフはワイフで、もう
一人の自分になっている。ふだんは、やさしくて、すなおな女性なのだが……。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。そのことは、病識のない何かの精神疾患をか
かえた人を見ればわかる。認知症になった老人を見ればわかる。

 ついでに一言。

●カルト

 カルトにハマっている信者を見ると、明らかに脳のCPUが、いかれているのがわかる。とんで
もないことを口にしながら、それがとんでもないことであるという認識すらない。反対に、まとも
なことを言う人を、とんでもないと位置づけてしまう。たとえば私が書いた、『ポケモンカルト』(三
一書房)という本は、その世界の人たちによって、「トンデモ本」と評価されている。(おかげで、
その本は売れたが……。)

 さらに最近では、テレビで堂々と、とんでもない意見を述べているオバチャンがいる。「あなた
の背中には、ヘビがついている。毎日、シャワーで、20回、背中をこすりなさい」と。

 そういうバカげた説教をするほうもするほうだが、聞くほうも聞くほうだ。若い女性(タレント)な
どは、涙を流してまで、それを喜ぶ。

 こうした現象も、ここでいう「病識」がないことによって起こる。

【付記】

 たまたま今、母を、ケアセンターに送り出したところ。母は、今年、90歳になる。その母に、
「(センターで)友だちができたか?」と話しかけると、母は、こう言った。「できん。みんな、年寄
りばかりや」と。

 自分が最高年齢者であることを、すっかりと忘れてしまっている。あるいは、それがわからな
い。

 それを聞いて、ワイフが笑った。迎えに来ていた、センターの人も笑った。母は、まるで自分
のことがわかっていない。自分だけは、まだ小娘のつもりでいるらしい。ハハハ。本当に、ハハ
ハ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●人間の脳(病識)

+++++++++++++++++

人間の脳も、ずいぶんといいかげんなもの。
それを強く感ずるのは、射精前の脳みそと、
射精後の脳みそ、だ。

射精前には、あれほどまでに狂おしく見える
女性の体も、射精後には、ただの肉にかたまりになる。

医学的にはあれこれと説明されているようだが、
この際、そんな説明など、どうでもよい。

一度射精してしまうと、では射精前の私は、
いったい、何だったのかということになる。
それが問題なのだア!

+++++++++++++++++

 女性のことは知らない。しかし男性のばあい、(私のように、「濃い男」のばあいと考えてよい
が)、射精前の私と、射精後の私は、180度というか、まるで別人のようにちがう。

 射精前には、あれほどまでに狂おしく見えた女性の体が、射精後には、ただの肉のかたまり
になる。おおげさなことを言っているのではない。これは本当だ。

 たとえば射精前には、一晩中でも、舌の先で女性の体をなめていたいと思う。(これは若いと
きの話だが……。)しかしそれが絶頂に達し、射精をすると、その思いは、一変する。本当に一
変する。

 ここで(肉のかたまり)と書いたが、そのとおり。たがいに愛情が行きかっていればそういうこ
ともないのだろうが、それがないと、まったくの(肉のかたまり)になる。精肉店で見る(肉のか
たまり)と、それほど、ちがわない。

 そこで射精前の私と、射精後の私とでは、どこがどうちがうのかということになる。それについ
ては、医学的な立場で、あれこれと説明されている。何しろ本能にかかわる部分なので、その
メカニズムは複雑怪奇。

 それはそれとして、では、心理学的にはどうなのか。

 少し前、私は、「病識」について書いた。「私は病気である」と認識することを、病識という。精
神疾患をもった人では、その病識がある、なしで、軽重が決まる。病識のない人は、一般的
に、重いとみる。病識のある人は、一般的に、軽いとみる。

 では、性欲はどうなのか? わかりやすく言えば、射精前の男は、どうなのか? 「女性を抱
きたい」と思うのは、性欲のなせるわざであるとしても、そのとき、それが本能に根ざした性欲
によるものであると、冷静に判断することができるものなのか? 精神疾患にたとえるなら、
「病識」として認識できるものなのか?

 反対に、病識について理解できない人(男性)は、射精前の自分を思い浮かべてみるとよ
い。ムラムラと性欲が自分の体を支配したとき、それを冷静に、「これは本能によるものだ」と、
判断できるなら、それはそれでよし。そうでないなら、病識も似たようなものだと思えばよい。

 わかるかな? この複雑な話?

 つまり私が書きたいことは、病識のない精神疾患をもった患者に、「あなたは病気だ」と言っ
ても意味はない。自分では、病気とは思っていない。むしろ正常と思っている。へたな言い方を
すると、「オレは病気ではない」と、かえって相手を怒らせてしまう。

 脳のCPU(中央演算装置)が狂っているためである。

 同じように、射精前の男は、本能によって、そのCPUが狂う(?)。冷静に考えれば、つまり
射精後の立場で考えれば、女性の体といっても、男のそれと、それほどちがわない。乳房にし
ても、関取(相撲)の乳房のほうが、見方によっては、女性の乳房よりは、よっぽど美しい。脂
(あぶら)がのっている。しかし女性の乳房には感じても、関取の乳房には感じない。なぜだろ
う?

 半面、女性の性器は、ウンチや尿の出口に近いところにある。射精前の男は、狂おしいまで
の魅力を、そこに感ずる。これも冷静に考えればおかしなことだ。が、そのときは、それがわか
らない。たとえばセックスに夢中になっている男に、(女でもよいが)、「君たちは、本能によって
狂わされているだけだよ」と話しても意味はない。かえって、相手を怒らせることになるかもしれ
ない。

 ……と考えていくと、私たちは、ひょっとしたら、生活のあらゆる場面で、病識のないまま、生
きているのかもしれないということになる。

 身近な例では、ファッションがある。名誉欲、物欲、食欲などもある。「いい車に乗ってみた
い」「いい家に住みたい」というのも、本当は、病識のない病気(?)なのかもしれない。その意
識がないから、わからないだけ。

 さらに大きな例としては、カルトがある。戦後生まれた新興宗教は、多かれ少なかれ、カルト
的色彩をもっている。そのカルトにしても、一度、それにハマると、自分がわからなくなってしま
う。つまりここでいう病識がなくなる。

 他人から見ればおかしなことでも、当人たちにとっては、ごくふつうのこととなる。死んでミイラ
になった人を、「まだ生きている」とがんばったカルトがあった。足の裏を見るだけの、その人の
人生がすべてわかると教えたカルトもあった。さらに教祖の髪の毛を煎じて飲むだけで、霊力
が備わると教えたカルトもあった。

 このことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。

 たとえばカード遊びがある。いまだにカード遊びは全盛期のままだが、そういう遊びをしてい
る子どもに向かって、「そんな遊びはつまらない」と言っても、意味はない。子どもたちは、その
カードで遊びながら、ハッピーな気持ちになったり、落胆したりする。

 つまり子どもたちには、その病識がない。病識がないまま、カード遊びに、夢中になってい
る。

 同じようなことが、おとなの世界についても、言えるのではないか。「私は正常だ」「ふつうの
人間だ」と思っていても、病識(?)がないから、そう思っているだけ、と。

 金銭欲にしても、そもそも、マネーが一般社会で流通し始めたのは、この日本では、江戸時
代の中期と言われている。それ以前には、金銭欲といっても、金銭そのものが、なかった。

 日本人がこうまで、「マネー」「マネー」と言い出したのは、戦後のことである。現在の中国を見
れば、戦後の日本がどういう国であったかがわかる。それまでは、日本人は、それほどマネー
には、執着心をもっていなかった。私が子どものころには、まだ「盆暮れ払い」というのが、残っ
ていた。

 借金があっても、盆か、暮れ(年末)に払えばよいというのが、それである。社会全体が、実
にのんびりとしていた。

 ここで結論。

 わかりやすく言えば、私たちは、病識のないまま、無数の心の病気に侵されているのではな
いかということ。何か、おかしなことをしながら、それをおかしいとも思わず、それをつづけてい
る? その例として、きわどい話で恐縮だが、射精をテーマに考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 病識
 カルト 子供の心理)



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●古典的な教育ママ

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21世紀になって、7年目。
中国のS市から一時帰国した女性(日本人)が
こんな話をしてくれた。

「中国の母親たちを見ていると、30〜40年前の
日本を思い出させます」と。

++++++++++++++++++

 30〜40年前。その当時の日本には、こんな教育ママがいた。幼稚園児に掛け算の九九を
暗記させ、それでもって、「うちの子は算数ができる」と喜んでいた。そんな教育ママである。

 当時の日本といえば、「勉強さえできればいい」と考えている親は、少なくなかった。勉強、第
一。成績、第一。すべてが勉強にはじまって、勉強に終わる。

 学校の先生に対する評価にしても、「宿題をたくさん出してくれる先生は、いい先生」「びしび
しとしぼってくれる先生は、いい先生」と。

 こんな事件もあった。

 ある小学校のある教室の先生が、ときどき、生徒を連れて、となりの公園へ子どもたちを連
れていった。野外授業である。その先生は、「昆虫博士」と呼ばれるほど、虫のことに詳しかっ
た。

 が、それに「待った」をかけたのが、ほかならぬ母親たちである。「そんなことをしていたら、勉
強にさしさわりがある」と。(現在、こうした野外活動は、校長に承認されたもの以外は、禁止に
なっている。)

 またほんの10年前のことだが、このS県の小学校で、こんなこともあった。その小学校に、
身体に障害のある子どもが入学することになったときのこと。親たちが連合して、その入学を
阻止しようとした。やはり「そういう子どもが入ると、子どもたちの勉強にさしさわりが出る」と。

 この話は、事実である。当時、地元のテレビでも、大きく報道された。

 まさに古典的な教育ママということになる。そういう古典的な教育ママが、中国には、ゴロゴロ
しているという。それをさして、その女性は、「中国の母親たちを見ていると、30〜40年前の
日本を思い出させます」と。

 しかしこの日本で、ここでいう古典的教育ママが、いなくなったわけではない。無学、無知、無
教養が、こうした古典的教育ママの共通点といってもよいが、それに加えて、恵まれない結婚
生活が拍車をかける。「子どもこそすべて」という思いが、子どもにすべてを託す。果たせなか
った自分の夢、希望、目的などなど。中には、「子どもの将来など、教育によって、どうにでもな
る」と錯覚している親もいる。

 で、そのあとのことは、推してはかるべし。多くの悲喜劇は、こうして生まれるが、その悲喜劇
を繰りかえしながら、日本人も少しずつだが、賢くなっていく。その道は、まだまだ遠い。

+++++++++++++++

以下は、5年前に書いた原稿
(中日新聞発表済み)です。

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●受験ノイローゼ

 受験ノイローゼも、ノイローゼという意味では、育児ノイローゼの一種とみることができる。し
かし育児ノイローゼに見られない症状もある。先に述べたように、「自分をしっかりもっている」
のほか、ターゲットが、子どもの受験そのもの、あるいはそれだけにしぼられるということ。明け
ても暮れても、子どもの受験だけといった状態になる。

そしてその半面、子どもの受験以外の、ほかのことについては、鈍感になったり、無関心にな
ったりする。育児ノイローゼが、生活全体におよぶのに対して、そういう意味では、限られた範
囲で、症状がしぼられる。が、その分だけ、子どもの「勉強」「成績」「受験」に対して、過剰なま
でに反応するようになる。

 毎日、書店のワークブックや参考書売り場へ行っては、そこで1〜2時間過ごしていた母親が
いた。あるいは子どもの受験のためにと、毎日、その日の勉強を手作りで用意していた母親も
いた。しかしその中でもナンバーワンは、Tさんという母親だった。
 
 Tさんは、私のワイフの友人だった。あらかじめ念のために書いておくが、私はこういうエッセ
ーを書くとき、私が直接知っている母親のことは書かない。書いても、いくつかの話をまとめた
り、あるいは背景(環境、場所、家族構成)を変えて書く。それはものを書く人間の常識のよう
なもの。そのTさんは、私が教えた子どもの母親ではない。

 そのTさんは、子どもが小学校に入ると、コピー機を買った。それほど裕福な家庭ではなかっ
たが、三〇万円もする教材を一式そろえたこともある。さらに塾の送り迎え用にと、車の免許
証をとり、中古だが車まで買った。そして学校の先生が、テストなどで採点をまちがえたりする
と、学校へ出向き、採点のしなおしまでさせていた。ワイフが「そこまでしなくても……」と言う
と、Tさんはこう言ったという。「私は、子どものために、不正は許せません」と。

 こういう母親の話を聞くと、「教育とは何か」と、そこまで考えてしまう。そのTさんは、いくつ
か、Tさん語録を残してくれた。いわく、「幼児期からしっかり子どもを教育すれば、東大だって
入れる」「ダ作(Tさんは、そう言った)を二人つくるより、子どもは一人」と。

Tさんの子どもが、たまたまできがよかったことが、Tさんの受験熱をさらに倍化させた。いや、
もっともTさんのように、子どものできがよければ、受験ノイローゼも、ノイローゼになる前に、あ
る程度のレベルで収めることができる。が、その子どものできが、親の望みを下回ったとき、ノ
イローゼがノイローゼになる。

●特徴

 受験ノイローゼは、もちろんまだ定型化されているわけではない。しかしつぎのような症状の
うち、五個以上が当てはまれば、ここでいう受験ノイローゼと考えてよい。あなたのためという
より、あなたと子どもの絆(きずな)を破壊しないため、あるいはあなたの子どもの心を守るた
め、できるだけ早く、あなた自身の学歴信仰、および自分自身の受験体験にメスを入れてみて
ほしい。

○子どもの受験の話になると、言いようのない不安感、焦燥感(あせり)を覚え、イライラした
り、情緒が不安定になる。ちょっとしたことで、ピリピリする。

○子どもがのんびりしているのを見たりすると、自分の子どもだけが取り残されていくようで、
心配になる。つい、子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ってしまう。

○子どもがテストで悪い点数をとってきたり、成績がさがったりすると、子どもがそのままダメに
なっていくような気がする。何とかしなければという気持ちが強くなる。

○同年齢の子どもをもつ親と話していると、いつも相手の様子をさぐったり、相手はどんなこと
をしているか、気になってしかたない。話すことはどうしても受験のことが多い。

○子どもが学校や塾へ言っているときだけ、どこかほっとする。子どもが家にいると、あれこれ
口を出して、指示することが多い。子どもが遊んでいると、落ち着かない。

○子どものテストの点数や、順位などは、正確に把握している。ささいなミスを子どもがしたり
すると、「もったいないことをした!」と残念に思うことが多い。

○テスト期間中になると、精神状態そのものがおかしくなり、子どもをはげしく叱ったり、子ども
と衝突することが多くなる。たがいの関係が険悪になることもある。

○明けても暮れても、子どもの学力が気になってしかたない。頭の中では、「どうすれば、家庭
での学習量をふやすことができるか」と、そればかりを考える。

○「うちの子はやればできるはず」と、思うことが多く、そのため「もっとやれば、もっとできるは
ず」と思うことが多い。勉強ができる、できないは、学習量の問題と思う。 

○子どもの勉強のためなら、惜しみなくお金を使うことが多くなった。またよりお金を使えば使う
ほど、その効果がでると思う。今だけだとがまんすることが多い。(以上、試作)
(02−9−30)





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●過干渉という虐待

●虐待と過干渉(子どもの受験競争の宿命)

+++++++++++++++

虐待には、強烈な過干渉がともなう。
反対に、強烈な過干渉は、虐待と
考えてよい。

つまり多かれ少なかれ、過干渉には
虐待がともなう。もちろん程度の差は
あるが……。

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 小学1〜2にかけて、ツッパリ始めた男児がいた。言動が粗暴になった。「ウッセー」「テメエ」
と。

 しかしその子どもが、数年もたつと、今度は、キバを抜かれたように、おとなしく、穏やかにな
った。「?」と思っていると、原因は、母親にあることがわかった。母親は、ふつうの母親ではな
かった。

 一度怒り出すと、それこそ手元にあるフライパンを投げつけるような女性だった。大声で暴
れ、怒鳴り散らした。数軒おいた近所にも聞こえるような怒鳴り声である。その子どもは母親に
反発することもできず、萎縮した。結果、ここでいう、おとなしく、穏やかな子どもになった。

 しかしこれは仮面。放置すれば、つぎのステップへと進む。やがて精神を病み、もっと深刻な
問題をかかえるようになる。が、母親にはそれがわからない。少しでも成績がさがったりする
と、容赦なく、子どもを叱った。叱ったというより、怒鳴りつけた。

 塾も、半年単位で、頻繁に変えた。そのたびに、その子どもは、従順にそれに従った。そんな
ある日、私のところへやってきた。母親が、そばについていた。母親は、「来年は、(中学)受験
だから、何とかめんどうをみてほしい」と言った。うわさとはちがい、穏やかな言い方だった。

 こういうばあい、母親という女性は、みごとなほどまでに、仮面をかぶる。もし知らない人が見
たら、できのよい、やさしい母親と思ったかもしれない。が、どうも様子がおかしい。子どもの表
情も、どこか不自然。

 そこで母親に退席してもらい、私は一対一で、その子どもと話しあうことにした。

私「苦しいのか……」
子「……」
私「あのね、ここへくるのがいやだったら、いやと言えばいいよ」
子「……」
私「今、この教室は、満員だからとか、何とか言って、断ってやるよ」
子「……」
私「また、君がその気になったら、来ればいいから」と。

 とたん、その子どもの目から、大粒の涙が、ポロポロとこぼれた。しかしそのとき、ドアを蹴る
ようにして、母親が教室に入ってきた。そして子どもの顔を見るやいなや、大声で、怒鳴った。

 「どうして、泣くの!」「泣くことないでしょ!」と。

 私は、子どもの顔だけを見ながら、こう言った。「また、縁があったら、おいでよ。そのときは、
いつでも待っているよ」と。

 虐待には、強烈な過干渉がともなう。反対に、強烈な過干渉は、虐待と考えてよい。つまり多
かれ少なかれ、過干渉には虐待がともなう。もちろん程度の差はあるが……。

 多分、その母親は、こう思っているにちがいない。「私は、だれよりも、息子を愛している。こう
して子どもの将来を心配するのは、子どもを愛しているという証拠」と。

 しかし子どもを受験で追いこみ、点数や順位だけを見て、子どもを怒鳴ったり、脅したりする
のは、過干渉というより、虐待。「こんなことでは、A中学校にはいれない」「あんたの将来はな
い」と脅すのは、立派な虐待である。

 その虐待を繰りかえしながら、虐待をしているという意識すらない。

 結果、どうなるか。成績がさがることなど、まだよいほう。やがて精神を病み、不登校を繰り
かえすようになる。家の中に引きこもるようになる。この子どものばあい、あのまま、つまり小学
1、2年生のときのように、ツッパッてしまったほうが、まだよかったのかもしれない。が、それ以
上に、母親の過干渉のほうが強かった。

 先は見えている。こうした仕事を40年近くもしていると、子どもの近未来が、手に取るように
わかるようになる。予言とか、予測とか、そういうあいまいなものではない。わかるものはわか
るのであって、どうしようもない。

 しかしこういうケースでは、私のような立場のものが、あれこれアドバイスしても、意味はな
い。母親自身が、聞く耳をもっていない。「私が正しい」「私のすることは、ぜったいに正しい」と
いう確信のもと、私の言葉を、そのまま払いのけてしまう。中には、反対にかみついてくる母親
だっている。

 「他人の子どもだと思って、よくもまあ、言いたいことを言うものだ」と言った、母親すらいた。
私が、「受験は、あきらめたほうがいい」とアドバイスしたときのことである。

 つまりこうして母親たちは、そして親たちは、失敗する。「失敗」という言い方は適切でないか
もしれないが、ともかくも、そういった状態になる。が、ここで問題が終わるわけではない。その
時点になっても、自分で自分のことに気づく親は、まずいない。

 たいていは、「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちのいじめが原因だ」と騒ぐ。私には、そこま
でわかる。わかるから、そういう母親とは、かかわらないようにしている。かかわりたくない。行
き着くところまで行って、親は、自分で気がつくしかない。

 これは子育てというより、子どもの受験競争がもつ宿命のようなものである。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※

【受験の魔力】(特集)

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子どもの受験が、なぜ、そしてかくも、
世の親たちを狂わすのか?

これは極端な例かもしれないが、
息子(中3)が、受験に失敗した夜、
自殺を図った母親すらいた。

これはウソでは、ない。
私自身が身近で見聞きした、本当の
話である。

子どもの受験の失敗がきっかけとなって、
離婚騒動が起きたケースとなると、
それこそゴマンとある。

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 子どもの受験が、なぜ、そしてかくも、世の親たちを狂わすのか? これは極端な例かもしれ
ないが、息子(中3)が、高校受験に失敗した夜、自殺を図った母親すらいた。その母親は「交
通事故で……」と言っていたが、自殺に失敗し、そのあと、1週間ほど、病院に入院した。

 もっとも、(子どもの受験の失敗)と、(母親の自殺未遂)を、短絡的に結びつけて考えるの
は、正しくない。育児ノイローゼが高じて、受験ノイローゼになるケースは少なくない。ほとんど
のばあい、その背景には、母親自身の心の問題がある。

 さらに子どもの受験が失敗したことがきっかけとなって、夫婦の間がおかしくなるケースとなる
と、これまた多い。離婚騒動に発展したり、本当に、そのまま離婚してしまうケースも少なくな
い。なぜか?

 「子育て」とはいうものの、そこには、それぞれの人生観、哲学、生き様が、すべて集約され
る。親自身が生まれ育った環境も、大きく影響する。そういったものが、子どもの受験勉強に
対する考え方のちがいとなって、えぐり出される。

母「あなたは、子どもは伸びやかにとは言うけど、それでは、子どもは生きていかれないのよ」
父「そんなことはない! 健康であれば、それでいい!」
母「あなたは、世間のきびしさが、わかっていないのよ!」と。

 そして私のような者に対しては、こう言う。

母「うちの夫は、学歴がないため、苦労をしています。だから息子には、そんなみじめな思いを
させたくありません」と。

 何か、おかしい。どこか、おかしい。しかしほとんどの親たちは、そう思いながらも、子どもの
受験に振り回されてしまう。が、本当の被害者は、子ども自身。それを忘れてはいけない。

 自分がもつ不安や心配を、子どもにぶつけるのは、親の勝手。自分が果たしえなかった夢や
希望を、子どもに求めるのも、親の勝手。そして子どもとの間では、日夜、はげしい親子戦争
を繰りかえす。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。

 つい先日には、勉強(?)が原因で、10歳の少女が、父親に殺されるという事件が、起きて
いる。

 亡くなったのは、宮城県K市に住む、10歳の少女。TBS・Newsによれば、「勉強すると言っ
たのに、しなかったので、父親に手足をロープで縛り上げられた上、自宅の庭の小屋の梁につ
ながれ、およそ25分間放置されたという。

 少女がぐったりとしたため、病院に運ばれ、治療を受けたが、4日後に死亡したという(1月2
6日)。

 何とも痛ましい事件だが、だれがこういう父親を笑うことができるだろうか。責めることができ
るだろうか。程度の差こそあれ、世の親たちはみな、似たようなことをしている。しながら、「私
は問題ない」「うちの子にかぎって」と思いこんでいる。

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今までに書いた原稿を
ここに掲載します。

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●教育カルト

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学歴信仰は、立派なカルトである。

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教育者が教育カルトにハマるとき  
●教育カルト  
 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信
奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。この教育カルト
にハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右脳教育」と言いだ
す。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。
  親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋
章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。

「○×式教育法」などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうす
る。宗教だってそうだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。

 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教
育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわから
ない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけよう
とする。これがこわい。

●自分勝手な教育法 
 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、
小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性
など。

これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てくる。自
分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはまちがっ
ている」と言う。

はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにすら気づ
かなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法
で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教
育を変えます」と。あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて
続々と東大の赤門をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。

自分の教育法だったら、おこがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲
目性こそがまさに教育カルトの特徴と言ってもよい。

●脳のCPUが狂う?

私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、
「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや
すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。

それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、先にも書いた攻撃性だ。

一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで
きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す
る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式
の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論する
というよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。

 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ
うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●進学塾が金儲けに走るとき

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ズバリ言えば、金儲け。ビジネス。
そこには、教育の「キ」の字の理念もない。

それがわかっていても、親は、子どもを
進学中に託す。

++++++++++++++

●学費を「ガクヒ」で落とす進学塾 C

 進学塾の月謝は、平均して2万〜2万5000円(月刊「私塾界」99年)。しかしこの額では、
決してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。

入会金、教材費、光熱費、模擬テスト代、特訓講座費、補講費などが、「万」単位で、次々との
しかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の進学塾は、そういう支払いをカモフラ
ージュするために、「ガクヒ」という名目で引き落とす。親が通帳を見ても、学校の「学費」なの
か、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。まだ、ある。

どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡は前もって、
目立たない方法で生徒にしておき、お金は自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し込ん
だつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」と言われる。

●結局は金儲け

 こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾も同じ。はっきり言えば、親や子どもの不安を逆手
にとって、金儲けをする。たとえばたまたま今日、この原稿を書いている日に、この地域の進学
塾のチラシが新聞折込で入っていた。

この静岡県では、高校入学が人間選別の節目になっているが、その入学も、このところ約6
0%の合格者が学校の推薦で決まる。それについて、そのチラシにはこうある。そのまま書く。

「中3、冬期講習。内申点だけで合格できるほど、入試は甘くない。実力伯仲の入試では、トッ
プ高校はもちろん、各高校、それぞれの受験生の間で、ほんの一題、わずか一点をかけた熾
烈な争いが繰り広げられている」と。

「甘い」とか「甘くない」とか、そこらの進学塾に判断してもらっては困る。それこそ、いらぬお節
介!

 ……とまあ、こう書くと、進学塾のあくどさばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、
人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他人を蹴落としてでも……」、あるいは「他人に蹴落と
される前に……」と親は考えて、子どもを進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみ
に利用して、それを金儲けにつなげる。

現在ある進学塾の現状は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾の経営者に言わせ
れば、「親は信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということにな
る。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。

●塾のもつ矛盾と錯覚

 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人
たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるにはある。しかしそういう塾でも、
「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、
「塾教育は、矛盾と錯覚の上に成り立っている」と結論づけている。

矛盾というのは、今言った、ジレンマをさす。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大
切なものであると思いこんで、教えることだ」そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。

●「この時期だけだから」

 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況、それにエリートの凋
落に見られる価値観の変化。それに中高一貫教育に見られる、制度の改変。これらが今、急
ピッチで進んでいる。そういう中、したたかな進学塾は、対象学年をより低年齢化させ、週2日
の学習を、週3日や4日にふやしたりしている。金集めを、さらに巧妙化させている。

親たちは、そういう事実を知りながら、「この時期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらに
それを逆手にとる。もうそこには、「教育」という概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつな
げる。「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いてもムダです。
そもそもそういうものを塾に期待していない。

生徒集めのチラシにしても、4色を使ったカラフルで豪華なものでないと、生徒は集まりませ
ん。親は親で、子どもをお客様感覚で迎えてあげないと、文句を言う。そういう目でしか、教育
をながめていないのですから」と。

●塾の偽善、合格発表

 毎年その時期になると、新聞の一面を借り切って、高校の合格者の名前が発表される。「S
高校、230名合格。A高校、153名合格。B高校、八九名合格!」と

その下には、小さい字でこう書いてある。「これらの合格者数の中には、夏期講座、冬期講座
および模擬試験だけの参加者の人数は含まれていません」と。

進学塾としては、精一杯の誠意を演出したつもりなのだろうが、こういうのを偽善という。少し前
までは、講座や模擬試験に参加した生徒まで合格者に加えていた。それをマスコミがたたいた
から、こういうことを書くようになった。事実、こうした合格者の陰で、いかに多くの、それ以上の
数の子どもたちが不合格で泣いていることか! もしこうした進学塾の経営者に、良心のひと
かけらもあるなら、こんな宣伝は、不合格した子どもやその親に申し訳なくてできないはずだ。
進学塾も少しは自分に恥じたらよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生意気な子どもたち

+++++++++++++++

はげしい進学競争の陰で、
心をゆがめる子どもも少なくない。

+++++++++++++++

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学3年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、1年、飛び級をしているという。しかしおとなをおとなとも
思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえている。

問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえるか、
である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼
稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。「あ
なたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」と。

母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほか
にも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも1番という進学校に通う、高校1年生だった。あるいは面と向かっ
て私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとなになったら、あんた
より、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小6女児)もいた。やはりクラスでは、1、2
を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見
かけの人間味にだまされてはいけない。

いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにす
れば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究してい
る。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●頭のよい子ども

++++++++++++++++++

その一方で、頭のよい子どもがいる。
本当に頭がよい。

そういう子どもを見ると、反対に、
受験勉強とは何か、考えさせられてしまう。

++++++++++++++++++

 人間の能力は平等ではない。平等でないことは、しばらく子どもたちに接してみるとわかる。
たとえば頭。頭のよい子どもは、本当に頭がよい。そうでない子どもは、そうでない。遺伝子そ
のものが違うのではないかとさえ思うときがある。

数年前に、東京のS中学に入ったD君(小6)も、そしてそのあと同じようにS中学へ入ったN君
(小6)も、そうだった。

小学4年を過ぎるころには、中学レベルの勉強をしていた。小五のときは、英語も勉強してい
たが、進学塾では中学2年生と一緒に勉強していた。しかもその進学塾でも、トップクラス。

このタイプの子どもは、教科書と参考書だけを与えておけば、自分で学習してしまう。「わから
ないところがあったら、聞きにきなさい」という指導だけで、じゅうぶんである。20年ほど前に教
えたことのあるMさん(年長児)も、そして15年ほど前に教えたことがあるH君(年長児)も、そ
うだった。

幼稚園児や保育園児で、箱の立体図(見取り図)をほぼ正確に模写できる子どもは、まずいな
い。40人、あるいは50人に1人、それらしい箱を描く子どもはいるが、あくまでも「それらしい
箱」である。しかしMさんもH君も、その箱を描いた! もしあなたの子ども(園児)が、箱の立
体図を正確に描くことができたら、数百人、あるいはそれ以上の中の一人と、喜んでよい。

 こういう恵まれた子どもの特徴は、目がいつも輝いていて、それでいて目つきが静かに落ち
着いているということ。ジロリと見つめられると、威圧感すら覚える。このタイプの子どもは、子
どもだからといって安易に扱ってはいけない。実際には、扱えない。接していると、子どもであ
ることをつい忘れてしまう。O君(小3)という少年もそうだった。

彼は中学一年生の教科書すら自分で理解してしまった。あるとき私がふと、「二つの辺の長さ
とその間の角度がわかれば、その三角形の面積は計算できるよ」と独り言を言ったら、やさし
い声でこう言った。「先生、ぼくにそのやり方、教えて……」と。

 こういう頭のよい子どもに出会うと、その子ども自身が、人類の財産のように思ってしまう。実
際私のところを巣立っていくときは、私はこう言うようにしている。「君の頭は、君のものであっ
て、君のものではない。みんなのために使ったらいい」と。

が、残念ながらこの日本では、こういう子どもを伸ばす機関がない。理解もない。このタイプの
子どもにとっては、ふつうの学校へ行くことは、まったく勉強ができない子どもが学校へ行くのと
同じくらい、苦痛なのだ。先にあげたD君もそうだった。幼稚園児のとき遊戯などをさせると、ブ
然としていた。私も最初の数週間は、何か問題のある子どもだと誤解していた。が、彼にして
みれば、そういうことをすること自体、耐えられなかったのだ。

 日本でこのタイプの子どもが唯一生きる道があるとすれば、都会の進学校と言われる学校
へ入ることでしかない。しかし結果からみると、結局は日本の受験勉強に巻き込まれ、受験と
いう方法でしか、力を伸ばせない。そしていつか日本の部品として、社会の中に組み込まれて
しまう。これはたとえて言うなら、絹の布で鼻をかんで、そのまま捨てるようなものだ。日本の教
育には、こういう矛盾もある。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを信ずる

++++++++++++++++

あなたを、そして子どもを、受験競争の
魔力から守る方法は、ただひとつ。

子どもを信ずる。

それしかない。

++++++++++++++++

 子どもを信ずることは難しい。「信じたい」という思いと、「もしかしたら……」という思いの中
で、親は絶えず迷う。子育てはまさに、その迷いとの闘い。

が、その迷いにも、一定のパターンがあるのがわかる。そこでテスト。あなたの子ども(小学
生)が、寝る直前になって、「学校の宿題がやってない」と言ったとする。そのとき、あなたは…
…。(1)「明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝させる。(2)子どもと一
緒に、宿題を片づけてあげる。睡眠時間が多少短くなることは、やむをえないと思う。

 そのパターンは、子どもが生まれたとき、あるいは子どもを妊娠したときから始まる。たとえ
ば子どもに四時間おきにミルクを与えることになっていたとする。そのとき、子どもが泣いてほ
しがるまで、ミルクを与えない親もいれば、時間がきたら、ほしがらなくてもミルクを与える親も
いる。子どもがもう少し大きくなると、こんなこともある。

子どもが「したい」と言うまで、動かない親もいる。反対に何でもかんでも、子どもが望む前に、
親のほうから用意してあげる親もいる。「ほら英語教室よ」「ほら体操教室よ」と。

 一度こういうパターンができると、あとは一事が万事。それ自体が生活のリズムになってしま
う。こんなこともあった。ある母親からの相談だが、いわく、「うちの子(小3男児)に、夏休みの
間、洋上スクールを体験させようと思うのですが、どうでしょうか」と。

そこで私が、「本人は行きたがっているのですか」と聞くと、「それが、行きたがらないので困っ
ているのです」と。またこんなことも。やはりある母親からのものだが、その母親の息子(高3)
が、受験期だというのに、ビデオを借りてきて見ているというのだ。母親は「心配でならない」と
言っていたが、心配するほうがおかしい。おかしいが、一度そのパターンにハマってしまうと、
それがわからなくなる。

 さて冒頭のテスト。(1)を選んだ人は、子ども信頼型の親ということになる。「うちの子は立派
だ」「うちの子はすぐれている」という思いが、親をしてそういう親にする。一方、(2)を選んだ人
は、心配先行型の親ということになる。「何をしても、うちの子は心配だ」という思いが、親をして
そういう親にする。当然、その影響は子どもに出てくる。

信頼型の親の子どもは、伸び伸びとしている。表情もハツラツとしている。行動力も好奇心も旺
盛で、何かにつけて積極的だ。しかし心配先行型の親の子どもは、それにふさわしい子どもに
なる。長い時間をかけてそうなる。親は、「生まれつきそうだ」と言うが、生まれつきそういう目で
見ていたのは、親自身なのだ。それに気がついていない。では、どうするか。

 もし心配先行型の親なら、あなた自身の心を作り変える。一つの方法として、「あなたはよい
子」を口ぐせにする。子どもの顔を見たら、そう言う。そしてそれを数か月、あるいはそれ以上
の間、続ける。最初はどこかぎこちない感じがするかもしれないが、あなたがそれを自然に言
えるようになったとき、同時に、あなたの子どもは、その「よい子」になっている。子どもを「よい
子」にしたかったら、まず子どもを信ずる。たいへん難しいことだが、それをしないで、あなたは
あなたの子どもを伸ばすことはできない。





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●動機づけの四悪

+++++++++++++++

子どもの学習は、動機づけに始まり、
動機づけに終わる。

勉強を好きにさせる方法は
難しいが、嫌いにさせる方法なら、
いくらでもある。

+++++++++++++++

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)無理、(2)強制、(3)条件、(4)比較の四つがある。
これを、『動機づけの四悪』という。

 まず(1)無理。その子どもの能力を超えた無理をすれば、子どもでなくても、学習意欲をなく
して当然。よくある例が、子どもに難解なワークブックを押しつけ、それで子どもの学習意欲を
そいでしまうケース。

子どもの勉強は、「量」ではなく「密度」。短時間でパッパッとすますようであれば、それでよし。
……そうであるほうが好ましい。また子どもに自分でさせる勉強は、能力より一ランクさげたレ
ベルでさせるのが、コツ。ワークやドリルなど、半分がお絵描きになってもよい。答が合ってい
るかどうかということよりも、「ワークを一冊、やり終えた」という達成感を大切にする。

 (2)強制。ある程度の強制は勉強につきものだが、程度を超えると、子どもは勉強嫌いにな
る。時間の強制、量の強制など。こんなことを相談してきた母親がいた。「うちの子は、プリント
を二枚なら、何とかやるのですが、三枚目になると、どうしてもしません。どうしたらいいでしょう
か」と。

私は「二枚でやめることです」と答えたが、その通り。このタイプの母親は、仮に子どもが三枚
するようになればなったで、「今度は四枚しなさい」と言うに違いない。子どももそれを知ってい
る。

 (3)条件。「この勉強が終わったら、△△を買ってあげる」「一〇〇点を取ったら、お小づかい
を一〇〇円あげる」というのが条件。親は励ましのつもりでそうするが、こういう条件は、子ども
から「勉強は自分のためにするもの」という意識を奪う。そればかりではない。子どもが小さい
うちは、一〇〇円、二〇〇円ですむが、やがてエスカレートして、手に負えなくなる。「(学費の
安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってくれ」と、親に請求した子ども(高一男子)
がいた。そうなる。

 最後に(4)比較。「近所のA君は、もうカタカナが書けるのよ」「お兄ちゃんは、算数が得意な
のに、あなたはダメね」など。こういう比較は、一度クセになると、日常的にするようになるか
ら、注意する。子どもは、いつも他人の目を気にするようになり、それが子どもから、「私は私。
人は人」というものの考え方を奪う。

 イギリスでは、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』と言う。

子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、親のできることにも限界があるというこ
と。ではどうするか。もう一つイギリスには、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』という格言もある。
つまり子どもに勉強をさせたかったら、勉強は楽しいということだけを教えて、あとは子どもに
任す。たとえば文字。いきなり文字を教えるのではなく、いつも子どもをひざに抱いて、本を読
んであげるなど。

そういう経験が、子どもをして、「本は楽しい」「文字はおもしろい」というふうに思わせるように
なる。そしてそういう「思い」が、文字学習の原動力となっていく。子どもの勉強をみるときは、
「何をどの程度できるようになったか」ではなく、「何をどの程度楽しんだか」をみるようにする。






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●学歴信仰

●すさまじい学歴信仰

++++++++++++++++

古典的教育ママ。
その代表格がEさんだった。

私のワイフの知人でもあった。

私が20代のころ知った女性だが、
その女性は、私に強烈な印象を
与えて、つい先日、この世を
去っていった。

+++++++++++++++

 すさまじいほどのエネルギーで、子どもの教育に没頭する人がいる。私の記憶の中でも、そ
のナンバーワンは、Eさん(母親)だった。

Eさんは、息子(小三)のテストで、先生の採点がまちがっていたりすると、学校へ行き、それを
訂正させていた。成績がさがったときも、そうだ。「成績のつけ方がおかしい」と、先生にどこま
でも食いさがった。

そのEさん、口グセはいつも同じ。「学歴は人生のパスポート」「二人のダ作を作るより、子ども
は一人」「幼児期からしっかりと教育すれば、子どもはどんな大学でも入れる」など。具体的に
はEさんは、「東大」という名前を口にした。そのEさんと私は、昔、同じ町内に住んでいた。Eさ
んは、私の家に遊びにきては、よく息子の自慢話をした。

 息子が小学五年生になると、Eさんは息子を市内の進学塾に入れた。それまでEさんは車の
免許証をもっていなかったが、塾の送り迎え用にと免許を取り、そして軽自動車を購入した。さ
らに中古だったがコピー機まで購入し、塾の勉強に備えた。

この程度のことならよくあることだが、ここからがEさんらしいところ。息子が風邪などで塾を休
んだりすると、Eさんは代わりに塾へ行き、授業を受けた。そして教材やプリント類を家へもって
帰った。ふつうならそういうことは人には言わないものだが、Eさんにとっては、それも自慢話だ
った。

私にはこう言った。「塾の教材で、私が個人レッスンをしています」と。息子のできがよかったこ
とが、Eさんの教育熱に拍車をかけた。それほど裕福な家庭ではなかったが、毎年のように、
国外でのサマーキャンプやホームステイに参加させていた。一式三〇万円もする英会話教材
を購入したこともある。

 息子が高校一年になったときのこと。私はたまたま駅でEさん夫婦と会った。Eさんは、満面
に笑顔を浮かべてこう言った。「はやしさん、息子がA高校に入りました。猛勉強のおかげで
す」と。

開口一番、息子の進学先を口にする親というのは、そうはいない。私は「はあ」と答えるのが精
一杯だった。ふと見ると、Eさんの夫は、元気のない顔で、私から視線をはずした。Eさんと夫
が、あまりにも対照的だったのが心に残った。

 Eさんを見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。あるいはEさんの人生とは何か、
そこまで考えてしまう。信仰しながらも、自分を保ちながら信仰する人もいれば、それにのめり
込んでしまう人もいる。Eさんは、まさに学歴信仰の盲信者。が、それだけではない。

人は一つのことを盲信すればするほど、その返す刀で、相手に向かって、「あなたはまちがっ
ている」と言う。あるいはそういう態度をとる。自分の尺度だけでものを考え、「あなたもそうであ
るべきだ」と言う。それが周囲の者を、不愉快にする。

 学歴信仰が無駄だとは言わない。現にその学歴のおかげで、のんびりと優雅な生活をしてい
る人はいくらでもいる。あやしげな宗教よりは、ご利益は大きい。その上、確実。そういう現実
がある以上、子どもの受験勉強にのめり込む親がいても不思議ではない。しかしこれだけは
覚えておくとよい。Eさんのようにうまくいくケースは、一〇に一つもない。残りの九は失敗する。
しかもたいてい悲惨な結果を招く。学歴信仰とはそういうもの。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●徳化する学習産業

++++++++++++++

法外な教材を売りつける
教材会社は少なくない。

そういう会社が、あなたの
弱みを、虎視眈々とねらっている。

++++++++++++++

 ある教材会社の主催する説明会。予定では九時三〇分から始まるはずだったが、黒板に
は、「一〇時から」と書いてある。しばらく待っていると、席についた母親(?)の間からヒソヒソ
と会話が聞こえてくる。

「お宅のお子さんは、どこを受験なさいますの」「ご主人の出身大学はどこですか」と。サクラで
ある。主催者がもぐりこませたサクラである。こういう女性が、さかんに受験の話を始める。母
親は受験や学歴の話になると、とたんにヒステリックになる。しかしそれこそが、その教材会社
のねらいなのだ。

 また別の進学塾の説明会。豪華なホテルの集会ルーム。深々としたジュータン。漂うコーヒー
の香り。そこでは説明会に先だって、三〇分間以上もビデオを見せる。内容は、(勉強している
子ども)→(受験シーン)→(合否発表の日)→(合格して喜ぶ子どもと、不合格で泣き崩れる母
子の姿)。しかも(不合格で泣き崩れる母子の姿)が、延々と一〇分間近くも続く! ビデオを
見ている母親の雰囲気が、異様なものになる。しかしそれこそが、その進学塾のねらいなの
だ。

 話は変わるがカルト教団と呼ばれる宗教団体がある。どこのどの団体だとは書けないが、あ
やしげな「教え」や「力」を売りものにして、結局は信者から金品を巻きあげる。このカルト教団
が、同じような手法を使う。まず「地球が滅ぶ」「人類が滅亡する」「悪魔がおりてくる」などと言
って信者を不安にする。「あなたはやがて大病になる」と脅すこともある。そしてそのあと、「ここ
で信仰をすれば救われます」などと教えたりする。人間は不安になると、正常な判断力をなく
す。そしてあとは教団の言いなりになってしまう。

 その教材会社では、中学生で、年間一二〇万円の教材を親に売りつけていたし、その進学
塾では、「入試直前特訓コース」と称して、二〇日間の講習会料として五〇万円をとっていた。
特にこの進学塾には、不愉快な思い出がある。知人から「教育研修会に来ないか」という誘い
を受けたので行ってみたら、研修会ではなく、父母を対象にした説明会だった。しかも私たちの
ために来賓席まで用意してあった。私は会の途中で、「用事があるから」と言って席を立った
が、あのとき感じた胸クソの悪さは、いまだに消えない。

 教育には表の顔と、裏の顔がある。それはそれとして、裏の顔の元凶は何かと言えば、それ
は「不安」ではないか。「子どもの将来が心配だ」「子どもはこの社会でちゃんとやっていけるか
しら」「人並みの生活ができるかしら」「何だかんだといって日本では、人は学歴によって判断さ
れる」など。こうした不安がある以上、裏の顔はハバをきかすし、一方親は、年間一二〇万円
の教材費を払ったり、五〇円の講習料を払ったりする。しかしこういう親にしても日本の教育そ
のものがもつ矛盾の、その犠牲者にすぎない。一体、だれがそういう親を笑うことができるだろ
うか。

 ただ私がここで言えることは、「皆さん、気をつけてくださいよ」という程度のことでしかない。こ
うした教材会社や進学塾は、決して例外ではないし、あなたの周囲にもいくらでもある。それだ
けのことだ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あきらめは悟りの境地

+++++++++++++++

どうすれば、私たちは、私たちの、
そして子どもの心を守ることが
できるのか?

+++++++++++++++

 子育てをしていると、「もうダメだ」と、絶望するときがしばしばある。あって当たり前。子育てと
いうのは、そういうもの。親はそうい絶望感をそのつど味わいながら、つまり一つずつ山を乗り
越えながら、次の親になっていく。

そういう意味で、日常的なトラブルなど、何でもない。進学問題や不登校、引きこもりにしても、
その山を乗り越えてみると、何でもない。重い神経症や情緒障害にしても、やはり何でもない。
山というのはそういうもの。要は、どのようにして、その山を乗り越えるかということ。

 少し話はそれるが、子どもが山をころげ落ちるとき(?)というのは、次々と悪いことが重なっ
て落ちる。自閉傾向のある子ども(年中女児)がいた。その症状がやっとよくなりかけたときの
こと。その子どもはヘルニアの手術を受けることになった。

医師が無理に親から引き離したため、それが大きなショックとなってしまった。その子どもは目
的もなく、徘徊するようになってしまった。が、その直後、今度は同居していた祖母が急死。葬
儀のドタバタで、症状がまた悪化。その母親はこう言った。「もう何がなんだか、わけがわから
なくなってしまいました」と。

 山を乗り越えるときは、誰しも、一度は極度の緊張状態になる。それも恐ろしいほどの重圧
感である。混乱状態といってもよい。冒頭にあげた絶望感というのがそれだが、そういう状態
が一巡すると、……と言うより、限界状況を越えると、親はあきらめの境地に達する。

それは不思議なほど、おおらかで、広い世界。すべてを受け入れ、すべてを許す世界。その世
界へ入ると、それまでの問題が、「何だ、こんなことだったのか」と思えてくる。ほとんどの人が
経験する、子どもの進学問題でそれを考えてみよう。

 多かれ少なかれ日本人は皆、学歴信仰の信者。だからどの人も、子どもの進学問題にはか
なり神経質になる。江戸時代以来の職業による身分意識も、残っている。人間や仕事に上下
などあるはずもないのに、その呪縛から逃れることができない。

だから自分の子どもが下位層(?)へ入っていくというのは、あるいは入っていくかもしれないと
いうのは、親にとっては恐怖以外の何ものでもない。だからたいていの親は、子どもの進学問
題に狂奔する。

「進学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、足元からすくわれるような不安感を覚えます」と
言った母親がいた。

「息子(中三)のテスト週間になると、お粥しかのどを通りません」と言った母親もいた。私の知
っている人の中には、息子が高校受験に失敗したあと、自殺を図った母親だっている!

 が、それもやがて終わる。具体的には、入試も終わり、子どもの「形」が決まったところで終
わる。終わったところで、親はしばらくすると、ものすごく静かな世界を迎える。それはまさに
「悟りの境地」。つまり親は、山を越え、さらに高い境地に達したことを意味する。

そしてその境地から過去を振り返ると、それまでの自分がいかに小さく、狭い世界で右往左往
していたかがわかる。あとはこの繰り返し。苦しんでは山を登り、また苦しんでは山を登る。そ
れを繰り返しながら、親は、真の親になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
 子どもの受験競争 受験勉強)




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●スキンシップ

●行きづまったら抱け!

子どもの心がつかめなくなったとき

+++++++++++++++

スキンシップには、魔法の力がある。

まさに、魔法。子どもの心を溶かす、
そんな力である。

+++++++++++++++

●スキンシップは魔法の力 

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう30年ほど
前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。

アメリカのある自閉症児専門施設の先生の講演だが、そのときその講師の先生は、こう言って
いた。「うちの施設では、とにかく『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。
その施設の名前も先生の名前も忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思
ったことが、たびたびある。言いかえると、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心
の問題」があるとみてよい。

 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。
許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら
丸太を抱いているような気分になる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと
身を寄せる。

さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じになることが
ある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じ
ですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうでないときは悪
い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

●大切な「甘える」という行為

 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。

「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えること
ができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中
に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。

私「今日はいい天気だね」
子「いい天気ではない」
私「どうして?」
子「あそこに雲がある」
私「雲があっても、いい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●先手を打って自分を守る

 このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方をする。誰かに親切に
されても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。ものの考え方がいじけ、すなおさ
が消える。「あの人が私に親切なのは、私が持っている本がほしいからよ」と。自分からその人
を遠ざけてしまうこともある。

あるいは自分に関心のある人に対してわざと意地悪をする。心の防御作用と言えるもので、そ
の人に裏切られて自分の心がキズつくのを恐れるため、先手を打って、自分の心を防衛しよう
とする。そのためどうしても自分のカラにこもりやすい。異常な自尊心や嫉妬心、虚栄心をもち
やすい。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチになることもある。こだわりが強くな
り、お金や物に執着したりする。完ぺき主義から、拒食症になった女の子(中3)もいた、などな
ど。

 もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方の
どこかに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題
になる。その危険性は高い。

●行きづまりを感じたら、抱く

 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき
である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら
くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も
安定する。

(参考)

●抱かれない子どもが急増!

こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。

さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。






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●アルバムについて

子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!)

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

+++++++++++++++

あなたはアルバムがもつ、
不思議な力を知っているか?

+++++++++++++++

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を
学ぶ。

ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃ
んだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なの
だ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長
男児)もいた。

ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺
乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らな
い」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、
子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、
「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長
児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世
界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれた
が、このアルバムには、不思議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。

つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、
写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。
が、それだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未
来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見る
ようになる。

それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私は
あのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときの
ことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだった
と思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。

最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アル
バムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑ってい
ることもあった。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがす
がしい表情をしているのに、私は気がついた。

そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもア
ルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。
 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。
 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。
 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。




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●親の口癖

親の口グセが子どもを伸ばすとき

+++++++++++++++

子どもは、あなたの口ぐせどおりの
子どもになる。

長い時間をかけて、そうなる。

だから日ごろの口ぐせを大切に!

+++++++++++++++

●相変わらずワルだったが……  

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そういう性質を
利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 昔、私が勤めていた幼稚園にどうしようもないワルの子ども(年中男児)がいた。友だちを泣
かす、けがをさせるは、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カバンを投げつ
けたりしていた。どの先生も手を焼いていた。が、ある日、ふと見ると、その子どもが友だちに
クレヨンを貸しているのが目にとまった。私はすかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい
子だね」と。

数日後もまた目が合ったので、私はまたほめた。「君は、やさしい子だね」と。それからもその
子どもはワルはワルのままだったが、しかしどういうわけか、私の姿を見ると、パッとそのワル
をやめた。そしてニコニコと笑いながら、「センセー」と手を振ったりした。

●子どもの心はカガミ

 しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなたはよい
子だ」という「思い」が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸び始める。

 正直に告白する。私が幼稚園で教え始めたころ、年に何人かの子どもは、私をこわがって幼
稚園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「いやな子ども」と
思った子どもだった。つまりそういう思いが、いつの間にか子どもに伝わってしまっていた。人
間関係というのは、そういうものだ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。つま
りあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あなたをよい人だと思うようになる。いやな
人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思うようになる。

一週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、二か月となる
と、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。思いというのは、長い時間をかけて、必ず相手
に伝わってしまう。では、どうするか。

 相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私のばあいは、「どうせこれから一年もつ
きあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職場を楽しくする
ためにも、必要だった。

もっともそれが自然な形でできるようになったのは、三〇歳も過ぎてからだったが、それからは
子どもたちの表情が、年々、みちがえるほど明るくなっていったのを覚えている。そこで家庭で
は、こんなことを注意したらよい。

●前向きな暗示が心を変える

 まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」を口グセ
にする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、だめな子」と思
っているなら、なおさらそうする。最初はウソでもよい。そうしてまず自分の心を作りかえる。

人間関係というのは、不思議なものだ。日ごろの口グセどおりの関係になる。互いの心がそう
いう方向に向いていくからだ。が、それだけではない。相手は相手で、あなたの期待に答えよう
とする。相手が子どものときはなおさらで、そういう思いが、子どもを伸ばす。こんなことがあっ
た。

 その家には四人の男ばかりの兄弟がいたのだが、下の子が上の子の「おさがり」のズボンや
服をもらうたびに、下の子がそれを喜んで、「見て、見て!」と、私たちに見せにくるのだ。ふつ
う下の子は上の子のおさがりをいやがるものだとばかり思っていた私には、意外だった。そこ
で調べてみると、その秘訣は母親の言葉にあることがわかった。

母親は下の子に兄のおさがりを着せるたびに、こう言っていた。「ほら、あんたもお兄ちゃんの
ものがはけるようになったわね。すごいわね!」と。母親はそれを心底、喜んでみせていた。そ
こでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、あるいは何かよいニュースが
あるたびに、「見て、見て!」「聞いて、聞いて!」と、あなたに報告にくるだろうか。もしそうな
ら、それでよし。そうでないなら、親子のあり方を少し反省してみたほうがよい。





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●就眠儀式

●誠司(孫)の就眠儀式(ベッド・タイム・ゲーム)

++++++++++++++++++

乳幼児には、毎晩、眠る前に、同じ儀式を
繰りかえすという習性がある。

これを、日本では「就眠儀式」という。
英語では、「ベッド・タイム・ゲーム」という。

誠司の就眠儀式について、二男がこんな
ことを書いている。

二男のBLOGより。

++++++++++++++++++

【次男のBLOGより】

誠司を寝かせるのはいつも僕の役割なのだけれど、子供の生活の中に、何かひとつでも「パ
パ」じゃなきゃだめっていうことがあるのは、とても嬉しい。子供って、ルーティーンが大切だっ
て言うけど、いつも誠司が寝るときのルーティーンは、カソリック教会の儀式顔負けの物と化し
てきている。以下が誠司の「儀式」。

8:45PM

パジャマに着替え、なぜかキャッチボールをする。これをしないと後の儀式へと移行できない。

8:55PM

歯磨き、おしっこ。

8:57PM

くまのぬいぐるみ、シッピーカップに入った牛乳、小さなおもちゃ(日替わり)を持ってベッドへ入
る。必ずこの3品。

8:58PM

2冊本を読む。一冊目は日替わりだが、2冊目は彼が2歳ぐらいの時から読んでい
る「Good Night Moon」という本。

9:05PM

「ふるさと」と「誠司の子守唄」を歌う。必ずこの二曲。

9:08PM

キス、そしていつもの決まり文句。「Keep the door open. Don't turn off the light(ナイトライトの
こと).」就寝。

……というのが彼の儀式。順番を間違えたり、きっちりこの手順どおりにやらないと、最悪の場
合一晩中ベッドで泣き叫ぶことになったりもする。原発を運転するがごとく、このルーティンをこ
なすのが、ポイントだ。子供っていうのはおもしろい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の
問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症
による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず
眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」ともい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。

このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたりする。ま
ずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消してしまうような
行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが不安定になる
こともある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で10時間15分。年長児で10時間である。最低でもその睡眠時間は確保す
る。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、20〜30%はいる。日中、生彩のな
い顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだか
と思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、スー
ッと眠ってしまうので、区別できる。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【愛知県のR子さんより、はやし浩司へ】

こんにちは、先日は講演すごくよかったです。
ありがとうございました。
ホームページもとても充実していますね、びっくりしました。 先生が作ったのですか?

はっきりわかりました。
自分は「マズイ」ぞっと、思いました。
お話の中心は幼稚園に通う子どもの年齢だったのですが、
上の子は八歳で男、下の子は四歳で女です。
下の子は特に問題はないと思うのですが、
(上の子は)保育園の時からなんですけど嫌な事をいやと言わないみたいです。
だからたたかれたりしても、怒らないし、やり返したりしないみたいで、
保育園では年下の子には人気があったようですが
(なにしても怒らない優しい子だったようです)

園長先生にもこのままだといつか爆発するよ!っといわれました。
本人に聞いたこともあるのですが。(嫌な事されても言わないから)
「遊びだからいいんだ!」っと言っていて? 大人みたいっと思っていました。

家ではものすごくいやだーと泣くし妹とよく喧嘩をするし、
パパがあきれてうるさがるくらいの大声で泣きます。
でも、小学校に通ってもどうもたたかれたり、しているみたいで、
帽子のゴムをきられてしまったり、まあふざけているうちはいいんですけど、
エスカレートしたら困るなと思っています。

私が小学校の時に三、四年の頃いじめられていて本当にいやで、
先生にそれらの子と、別なクラスにして欲しいっとお手紙をだしたりしました。
クラスが変わってからは明るい人生でしたが、あの時のようになったら
困るなーと心配になります。

私が情緒不安定で怒りっぽいし、だから安心できなくって
どっしりとできないのかなぁーっと思いました。
人の顔色をうかがうように、上手い事を言ってくれるのもそうなのかぁー。
っと思いました。
それをやはり私が自覚して気をつけるようにしないとだめなんだなぁー
つくづく思いました。まったく
自分の母親やパパから、よくそこがあんたの悪い所だよ、よくないよっとは言われても
実際に私の悩みの答えがそこにあるとは思わなかったです。

「子供がおびえるようになるよ。」っと母に言われても
私は「?」なんで???
「だってイライラが爆発してしまうと、、、
子供が忙しい時にあーでもないコーでもないとなると。
爆発しちゃうもん。」「反省はしているけどさー。」って感じでしたが。。
先生の言っていることがあんまりにも当たっているのでびっくりでした。

大泣きをしている時、ママを求めてぶそくりながらもわざとキーキーないている時は
「わかっているから」っと言って抱きしめてあげるようにしてはいます。
でも忙しくって大半は
パパは「いいかげんにしろ」っと怒鳴るまでほって置いてしまいます。
あまえているのか、あまったれているのか?
いまだに赤ちゃんの火がついたように泣いている時
どうやった安心できるのかと思ってしまいます。

パパもD君を怒りすぎて悪かったっと思っています。
太陽のお母さんになりたいのですが、大地の母になりたいのですが、
現実はそうもいかず。反省
でもお話を聞く事はやっぱりいい事ですよね、知らない事いっぱいあるし
そうなんだ-っと思うことが出来たし。
今回ぎくっと特にしてしまったので、いきなり長いメールになってしまったのですが。

下の子は上の子を見ているのか甘え上手です。
両方ともとっても可愛くって大好きです。

「勉強は何故しないといけないの?」っといつも上の子に聞かれます。
「K子ばっかり遊んでいてずるい」っと
宿題をする時間より遊んでいたいから、だっと言っています。

私は「知ることは面白いよ、字が読めれば本人の好きなプラモデルが自分で作れるし、
恐竜の本も自分で読めるよ」とは言ってみても、わかんないっと言っています。
できたとかやれるようになった喜びをいっぱい感じて欲しいし、と思うのですが

私は勉強が嫌いで高校でもう勉強はまっぴらご免って感じでした。
二〇歳の頃仕事をしながら宅建の勉強をした時に覚える事が面白いと思いまして、
あーもっと前に気が付いてやっていたらなぁーっと思いました。

去年はパソコンの勉強を会社でさせてもらい、朝早起きをして勉強する一年でした。
教室が夜の六時から八時週二回だったので子どもたちが寂しかったかも?
でも充実していました。

大泣きをしている時いまさら恥ずかしいんだけど、どうしたらいいのでしょうか?
勉強は何故しないとっと聞かれた時の私の返事はマズイでしょうか?
夜寝る時には「D君が大好き、D君だーいじ、D君ちゃん大丈夫。ママや
パパがいるからね」っと、言っているのはかえって良くないのかしら?
安心できるかなぁっと思ってたまに言ったりするのですが、

学童保育に行っていてもどーも、いい子みたいでおとなしいようです。        
家ではくそババーとか言っているし、威勢はいいのに。
でもそれは私の情緒不安定が悪かったのには参りました。

今先生の講演を聴けたきっかけを忘れずにしようと思いました。
ありがとうございました。
パパにも聞かせてやりたかったなぁと思いました。
二人で聞けばもっとD君について話ができるから。

またメールします。

(愛知県T市・R子より)

+++++++++++++++++++++++

【R子さんへ、はやし浩司より】

 メールから浮かびあがってくるご家庭は、とてもすばらしいですね。どこか全体にほのぼのと
して、それでいて活気があって。R子さんの、生き生きしたママぶりが、目に浮かんできます。ま
ったく問題ないですよ。順にご質問について、考えてみます。

●いやなことを、『いや』と言わないこと……長男、長女は、総じてみれば、神経質な子育てを
してしまうため、その分、子どもも萎縮し、(あるいは無理をするため)、どうしても意思表示が
へたになります。いやなことがあっても、「いや」と、はっきり言うことができないわけです。しか
し「がまん強い子」と誤解してはいけません。このタイプの子どもは、ストレスを内にためやす
く、そしてその分だけ、心をゆがめやすくなります。ひねくれる、いじける、ぐずる、つっぱるなど
の症状があれば、要注意です。

 しかし一度、そういった行動パターンができると、なおすのは容易ではありません。ただしここ
で誤解していけないのは、そのパターンはだれに対しても、同じというのではありません。子ど
もは相手によって、パターンを変えますので、一部分だけをみて、それが子どものすべてと思っ
てはいけません。家の中で見せる様子と、友だちとの世界で見せる様子が、大きく違うというこ
とはよくあります。A君に見せるパターンと、B君に見せるパターンが、大きく違うということもよく
あります。

 だから一部だけを見て、「うちの子はダメ」とか、「心配だ」と思ってはいけません。もちろん威
圧的な過干渉や、神経質な過関心が日常化すると、子どもの心は内閉しますが、(あるいは反
対に粗放化することもあります)、そういうケースでは、全体に行動や言動が萎縮します。もし
そうなら、それは子どもの問題ではなく、親の問題だということです。

●「いつか爆発するよ」と言われたこと……多分、園長先生は、「ストレスがたまると、それが心
をゆがめ、それがあるとき臨界点を超えて、爆発することもある」という意味で言われたのだと
思います。

 一般に、ふつうでない家庭状況で育てられた子どもは、大きく分けてつぎの二つの経過をた
どります。ひとつは、そのままのパターンでおとなになるタイプ。もうひとつは、その途中で、ゆ
がんだ自分を、自ら、軌道修正しようとするタイプ、です。

 たとえば親の過干渉で、精神そのものが内閉したような子どものばあい、そのまま内閉した
ままおとなになるタイプと、その途中で、そうした自分を一度リシャッフルするタイプがあります。
リシャッフルといっても、ふつうのリシャッフルではありません。心に受けたキズが大きければ
大きいほど、あるいはあとになればなるほど、はげしいリシャフルのし方をします。はげしい暴
力をともなう家庭内騒動に発展することも珍しくありません。子どもの成長ということを考えるな
ら、一見、扱い方がたいへんなように見えるかもしれませんが、後者のほうが、好ましいという
ことになります。

 もちろんR子さんのケースがそうだと言っているのではありません。これも一般論ですが、幼
児教育の世界では、「いい子」ほど、心配な子どもなのです。親に向かって、「ババア」とか、「ク
ソババア、早く死んでしまえ」と言う子ども、あるいはそういうことが言える子どものほうが、正常
だということです。子どもの口が悪いことを、あまり深刻に悩まないこと。言いたいだけ言わせ
ながら、相手にしないようにします。相手は、子どもなのですから。

●イライラすることについて……約72%の母親が、子育てでイライラしています(日本女子社
会教育会・平成七年調査)。そのうち、7%は、「いつもイライラする」と答えています。だから、
ほとんどの母親は、子育てをしながら、イライラしていると考えて、まちがいないようです。R子
さんだけが、例外ではないということです。
 
 そこで大切なことは、そのイライラを、自分の範囲にとどめ、それを子どもにぶつけないこと。
……と言っても、子育てはいちいち考えてするものではありません。子育てはいわば、条件反
射のかたまりのようなものです。たいていの母親は、「頭の中ではわかっているのですが、いざ
その場になると、つい……」と言います。子育てというのは、そういうものです。あまり自分を責
めないように。子どもにも適応能力があるので、その能力を信じてください。情緒不安もある一
定の範囲なら、子どものほうがそういう親でも適応してしまいます。

 子育てをしていて、イライラしたら、子育てそのものから離れる方法を考えます。少し無責任
な言い方かもしれませんが、ときには、「なるようになれ!」と、子育てそのものから離れるよう
な「いいかげんさ」も大切だということです。またそのほうが、子どもも羽をのばすことができ、
かえって子どもの表情も明るくなります。

●「赤ちゃんが火がついたように怒る」について……かんしゃく発作が疑われます。時期的に
は、もうそろそろ落ちついてくるものと、思われます。自意識(自分の意思)で、コントロールす
るようになるからです。ただこのタイプの子どもは、興奮性だけは残りやすく、そのため年齢が
大きくなっても、緊張したりすると、声がうわずったり、反対におどおどしたりすることがありま
す。興奮させないように。食生活の面で、カルシウム分やマグネシウム分の食生活が、この時
期、たいへん効果的ですので、一度、ためしてみてください。

●甘えじょうず……心の開いている子どもは、甘えじょうずです。甘え方が自然で、親のほうが
やさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中にしみていくのがわかります。R
子さんのお子さんは、「甘えじょうず」ということですので、心の問題はないとみます。このままス
キンシップを大切にして、お子さんたちが心を開いてきたら、それをいつもやさしく包んであげ
てください。一般に愛情豊かな家庭に育った子どもは、ぬいぐるみを見せたりすると、ほっとす
るようなやさしさを見せます。

●「どうして勉強しなければいけないの?」について……R子さんの答え方は、満点です。視線
がお子さんの目の高さにあるのが、よくわかります。コツは、言うべきことはしっかり言いながら
も、あとは「時」を待つということです。その場で、「わかんない」とか言って、反応がなくても、あ
せってはいけません。子どもと接するときのコツは、言うべきことは言いながらも、そのときは、
わからせようと思わないこと。

イギリスの格言に、『子どもの耳は長い』というのがあります。もともとの意味は、「子どもはおと
なのヒソヒソ話でも聞いてしまうから、注意しろ」という意味ですが、私は勝手に、「子どもの耳
は長く、耳に入ってから脳に届くまで時間がかかる」と解釈しています。参考にしてください。

●寝る前の愛情表現……心安らかな眠りは、子どもの情緒の安定のためには、とても重要で
す。欧米では、「ベッドタイムゲームの時間」として、たいへん大切にしています。日本でも就眠
儀式といいますが、子どもは毎晩、眠りにつく前、同じ行為を繰り返すという習性があります。

まずいのは、子どもをベッドへ無理に追い込み、電気を消してしまうような、乱暴な行為です。
子どもの情緒が不安定になることがあります。R子さんのやり方でよいと思います。概して言え
ば、日本人は、元来スキンシップの少ない民族です。遠慮せず、ポイント的に濃厚な愛情を表
現してみてください。ベタベタの愛情表現がよいわけではありません。要するに、子どもを安心
させるようなスキンシップを大切にします。

●「いい子みたいでおとなしいようです」について……内弁慶外幽霊というのですね。

 以上です。R子さんの子育てで、参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 幼児
の就眠儀式 就眠儀式 ベッドタイムゲーム ベッド・タイム・ゲーム)






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【自己実現】

++++++++++++++++++

かつて三男と同じ部屋に、K君という三男の
「部屋っ子」がいた。

「部屋っ子」というのは、寝食をともに
する仲間のことをいう。航空大学では、
2人1組で、同じ部屋に寝泊りする。

そのK君が、北海道の帯広分校で訓練中、
悪ふざけをしてしまった。そしてそれが
理由で、退学処分になってしまった。

ちょうど、今から1年前のことである。

++++++++++++++++++

●自己実現

 自分はこうあるべきだという概念を、「自己概念」という。一方、そこには、現実の自分がい
る。現実の自分を、「現実自己」という。

 たとえば、「私は、有名人になりたい。みなに、その力を認めてもらいたい」と、自分のあるべ
き姿を描く、その姿が、自己概念。しかし現実は、きびしい。だれからも相手にされず、またそ
の力もない。これが現実の自分。つまり現実自己。

 この自己概念と、現実自己が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンテティ)という。自
己が一致している人は、強い。見た目にも、安定している。わかりやすい例では、サッカーに夢
中になっている子どもがいる。その子どもは(サッカーをしたい)という思いを、(サッカーをして
いるという現実)と一致させている。

 このタイプの子どもは、どっしりとしている。落ちついている。

 が、何らかの理由で、この自己概念と現実自己が、不一致を起こすことがある。卑近な例と
して、不本意な結婚をした女性を例にあげてみよう。今流行の、(できちゃった婚)でもよい。
「結婚はしてみたものの……」という状態の女性である。

 このタイプの女性には、毎日の生活が苦痛でならない。夫と顔をあわせるのも、つらい。料理
をしていても、身が入らない。つまりその女性にしてみれば、自己概念と現実自己が、不一致
を起こしていることになる。

 そのため、精神状態は不安定。毎日が、一触即発。ささいなことで、夫婦喧嘩になることも多
い。

 そこで人は、(そして子どもでも)、自己概念と現実自己を一致さえようとする。自分があるべ
き姿に、自分を近づけようとする。そのプロセスを、「自己実現」という。

●K君

かつて三男と同室に、K君という三男の「部屋っ子」がいた。「部屋っ子」というのは、寝食をとも
にする仲間のことをいう。航空大学では、2人1組で、同じ部屋に寝泊りしながら、合宿生活を
する。

そのK君が、北海道の帯広分校で訓練中、悪ふざけをしてしまった。そしてそれが理由で、退
学処分になってしまった。

ちょうど、今から1年前のことである。

 そのときK君は、ボナンザという飛行機を、単独で操縦していた。飛行機というのは、空を飛
んでいるときは、自動車の運転よりも楽と言われている。広い海で、ボートを走らせるようなも
のかもしれない。

 そのときK君は、何を思ったか、カメラを手にすると操縦席を離れて、うしろの席に移動してし
まった。そしてそこから窓の外の景色を、そのカメラでパチパチと撮り始めた。

 が、そのとき、教官たちが乗った監視用の飛行機が、K君の乗った飛行機の、後方下から近
づいていた。万が一の事故に備えるためである。

 それにK君は気がつかなかった。同時に、ゆっくりとだが、K君の乗った飛行機は、大きな円
を描いて、コースから右にそれ始めた。「?」と思った教官の乗った飛行機が高度をあげてみ
ると、操縦席には、だれもいない。

 つまりそれが理由で、K君は、退学処分になってしまった。

●自己実現

 「サッカー選手になりたい」と思うのは、夢であり、希望である。そして努力に努力を重ねて、
その子どもが、プロのサッカー選手になったとする。

 単純に考えれば、その子どもは、ここでいう(自己概念)と(現実自己)を一致させたことにな
る。つまり自己の同一性を、確立したことになる。

 が、それで自己実現が、完成したということにはならない。自己実現とは、(結果)ではなく、あ
くまでも、そこに至る、(プロセス)をいう。自分が描いた像に向かって、まい進努力していく、そ
の姿をいう。

 わかりやすい例で考えると、好きで好きでたまらない男性と結婚したから、その女性が、それ
で自己の同一性を確立したということにはならない。結婚と同時に、また別の道がその前に現
れる。妊娠、出産、育児とつづくかもしれない。

 つまり自己実現は、目標を達することではなく、そのつど、自分の中に自己概念を描きなが
ら、それに向かって、前に進んでいくことをいう。自己実現に、ゴールはない。

●再びK君

 K君は、理事会の決定で、退学処分を受けることになった。そのときの様子を、息子は、自分
のBLOGの中で、つぎのように書いている。そのまま紹介する。

 『……最後に写真を撮ってくれと言うので、ファインダーを覗き込んだ。シャッターを押すまで
の瞬間、K太の笑顔が哀しみに沈んでいくのを見た。カメラを顔から離すと、もういつもの笑顔
にもどっていた。

 せめてもの餞別をと思い、みなでK太のパイロットシャツに寄せ書きをした。それを空港で冗
談交じりに渡すと、K太も冗談交じりに受け取る。その姿を、最後まで見届けられずに僕はうつ
むいてしまった。最後の言葉は、なぜいつもあんなにチープなのだろう。もっと何か気の利いた
ことは言えないのだろうか。初めて見る同期の涙を、今日はたくさん見た。

 部屋に帰ると、もうそこには誰もいない。本棚も机もベッドも、からっぽだ。自分の半分がなく
なってしまったように、身体の内側が寒い。K太のイスに座ってみた。ここからK太は、どんな風
に僕を見ていたのだろう。どんな苦しみと戦いながら、どんな夢を描きながら過ごしていたのだ
ろう。僕は3ヶ月間も一緒の部屋にいたのに、何も知らない。

 沖縄の太陽、K太。退学が決まってからの君は、ひどく落ち込んでいた。それを見るのが辛く
て、うまく話しかけることもできず、部屋を空ける時間が多くなった。後半3ヶ月の訓練は特に辛
かったが、部屋に帰るといつも笑顔でいれた。君のおかげで、乗り切ることができた。どんな誘
いにも嫌な顔ひとつせず乗ってくれたK太。それなのに僕は、君の姿を、最後までちゃんと見届
けることができなかった。

 二人で、たくさん新しいことを成し遂げたよね。ヘッドオンスタイルに、作曲に。ジュージャンに
お湯ジャン、二人で同時に曲を流したり、杯が乾くと「ドスン」したり、二人で作ったルールがこ
の部屋にはあふれている。本当に楽しかった。辛いなんて感じる暇を、二人して与えなかった。
僕とK太だからできたのかな。いや、違う。K太なら、誰とでもそうなれる。それは君の、他の人
にはない才能だ。今君は失意の底に沈んでいることだろう。ゆっくりでいい。少しずつ浮上して
いこう。少しずつ、自分のいい部分を再発見していこう。そしてまた、走り出そう。前へ進もう。
進んでほしい。

 君の分まで、僕は頑張らない。君の分は君の分だ。その報いも、すべて君のもの。もう一度
空の上で会おう。果たせなかった約束を果たそう。

 負けるな、頑張れ。』

●返り咲き

 K君は、そののち、どのように考え、どのように行動したかは、私にはわからない。しかしK君
には、K君の(自己概念)があった。そしてそれをあきらめなかった。自己概念に現実の自分を
近づける努力を怠らなかった。根性を忘れなかった。

 つぎの一文を読めば、読者のみなさんも、自己実現というものが、どういうものか、わかって
もらえるはず。

 息子の07年2月1日のBLOGには、こうある。

 『……おとといだったか、もと部屋っ子だったK太から、メールが入った。航大入試に合格し
た、という吉報であった。帯広の終了間際で退学を命ぜられた彼だが、その後再び航大受験
を決意し、文字通り0からのスタートを切った。どんな心境で、この10か月間を乗り越えてきた
のだろう。僕には想像することも出来ない。長く、険しい道だったに違いない。彼は辛そうな顔
一つ見せることなく、いつも笑顔で明るく接してくれた。そして、一度は失ってしまったパイロット
への切符を、再び手にした。その情熱に、僕は感動した。

 彼は航大至上、他に例を見ない学生となった。生きる伝説となった。それはまさに、奇跡。彼
のメールの最後に、「うかうかしていると、左席取っちゃうよ!」という一文があった。つまり、航
大を卒業するのは遅くなるかもしれないが、機長になるのは君たちよりも早いかもよ、という意
味。

彼の勢いなら、もしかしたらそれも可能かもしれない。彼は僕の系列の後輩になる。これから、
厳しくも楽しい航大生活をもう一度やり直せるのはうらやましく思う。心から、おめでとうと言い
たい。そして、お疲れさん。ちょっと回り道しちゃったけど、それがまた、K太の力の源になるは
ずだよ。頑張れ!

 ちなみに彼も、実は浜松出身。』と。

 K君は、再び、パイロットの道に返り咲いた。が、それで彼は、自己実現を完成させたわけで
はない。今度は、「左席(=機長席)を取る」と。つまり自己実現は、そのつど、そのプロセスの
途中でなされるもの。

 わかりやすく言えば、死ぬまで、私たちは常に、自己概念を描き、それに向けて、現実の自
分を一致させながら、生きていく。ゴールは、ない。つまりは、それが「生きる」ということにな
る。

 久々に、三男のBLOGを読んで、感動した。

 おめでとう、K君。




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●日本人のズルさ

【小ズルイ日本人】

●ある表彰式での珍事

+++++++++++++++++++

どこかの県の、どこかの団体で、
このほど、ある表彰式が行われた。

その表彰式でのこと。

たまたま最優秀賞(県知事賞)に選ばれた
中2の女子が、何かの理由で、式に欠席。
出席できなかった。

が、ここからが、珍事!

どこかの県の県知事よ、
どこかの団体の主催者よ、
恥を知れ!

主催者側は、表彰式に、その中2の
女子とは、縁もゆかりもない、
また面識もない、まったくの別人の女子を立て、
替え玉表彰式を行った(07年1月)。

++++++++++++++++++++

 どこかの県……といっても、この静岡県のことだが、この静岡県のある団体(=○○連盟)
が、先日、ある会場で、表彰式を行った。最優秀賞は、県知事賞。その県知事賞に、Y市に住
む、ある女子(中2)の作品が選ばれた。

 名誉ある賞である。

 その表彰式での珍事。まさに珍事。

 その女子の名前を、IYさんとしておく。そのIYさんが、何らかの事情で、その表彰式に出席で
きなかった。それはそれでしかたのないこと。が、ここからが、とんでもない話!

 団体側は、それではまずいと判断したのだろう。同じ日本人だから、その心情は、わからぬ
わけではない。が、である。団体側は、あろうことか、まったくの別人を代理に立て、その表彰
式を行った。わかりやすく言えば、替え玉表彰式。ただの替え玉表彰式ではない。

替え玉として表彰式で表彰されたのは、IYさんとは、縁もゆかりもない、まったくの別人。IYさん
が、代理を依頼した人でもない。もちろん、それまでに面識があった女子でもない。

 この表彰式に驚いたのが、同じくその表彰式に出席していた、父母の人たち。IYさんを個人
的によく知る人も、多くいた。

 この替え玉表彰式で、いちばんキスついたのが、ほかならぬIYさん自身。事情をよく知る人
の話では、「もう、○○道をやめよう」とさえ漏らしているという。わかるか、団体のみなさん? 
あなたがたのインチキで、今、一人の女子が、大きくキズついている。それまで何年もかけて
やってきた、○○道の練習を、やめようとしている。あなたがたにとっては、ささいなインチキか
もしれないが、子どもの世界では、そういうインチキは、通用しない。

 IYさんが、出席していなかったら、それはそれでしかたのないことではないか。正直に、「今日
は、事情により、IYさんは、出席できませんでした」とか、何とか言って、式をすませればよかっ
た。またそうであっても、何も、団体のメンツをつぶしたことにはならない。

 日本人は、こういう式では、形やかっこうばかりを、重んじる。江戸時代、あるいはそれ以前
からつづいている悪習のひとつである。そして、その一方で、「正直である」ことを、犠牲にして
いる。もっといえば、「あるがままに生きる」ということを、犠牲にしている。

 こういう例は、多い。いまだにこの日本中に、亡霊のようになって、はびこっている。結婚式に
しても、はたまた葬式にしても、見栄とメンツの張りあい。そうでない式もふえてきたが、ほとん
どがそうではないかと言えるほど、まだ多い。中には、替え玉親族を立てて、結婚式や葬式を
行う人もいる。またそういう替え玉を用意するサービス会社も、現実にある!

 (こういうのも人材派遣というのか?)

 が、今回の替え玉表彰式は、子どもの世界で起きた。IYさんをだましただけでは、すまない。
会場にいた、多くの父母たちをもだましたことになる。もっと言えば、これほどまでに、県知事賞
なるものをけがす行為もない。

 繰りかえすが、私たち日本人に欠ける道徳性とは何かと聞かれれば、それは「正直」。欧米
では、親は、子どものときから、子どもに、「正直でいなさい(Be honest.)」と徹底的に教え
こんでいる。かたやこの日本では、子どもに向かって、「正直でいなさい」と教えている親を、私
は、見たことがない。聞いたこともない。

 むしろ事実は逆で、他人と争って角を立てるよりは、ナーナーで生きなさいと、親は教える
(?)。親自身も、そう思っている。

++++++++++++++++++

ここまで書いて、「飛騨の昼茶漬け」の
話を思い出した。

その原稿を添付します。

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●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、こう
言った。

AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘った
という。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫がBさんに向
かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。

それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃな
い!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直
な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと
めた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があいさつ
言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。相手が
断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。

そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り
方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」とい
う言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では
何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。

私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。ある
いはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」
は、ない。

つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。Aさ
んは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受け
入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけれ
ばならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!

私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感
じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
(はやし浩司 都会 田舎 意識の違い)

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同じような原稿ですが、
別の機会に書いたものです。

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●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし
道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている
かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先
へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太
子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、日本人とオーストラリア人とでは、寛容度がまったく違うということを思い知らされ
た。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

++++++++++++++++++

 さあ、あなたも正直に生きよう! あるがままをさらけ出しながら、生きよう! 世間体? 見
栄? メンツ? 「恥」? ……もう、そんなものと決別して生きよう。

 その第一歩として、先に書いた表彰式を笑おう。笑って、自分の心の中から、ウソを消そう。
ハハハ! バカめ!


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●恥の文化

++++++++++++++++

「恥」を、ことさら美化する人たちが
ふえてきた。

「恥こそ、日本人の美徳である」と。

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親が子どもをだますとき  
●世間体を気にする人 
 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(57歳)を病院から連れ出し
てしまった妻(51歳)がいた。

あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかしい」と言って、小さな雑貨店をがんばり続けた女
性(85歳)もいた。(85歳だぞ!)

気持はわからないわけではないが、しかし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をとるよ
うになる。S氏(81歳)もそうだ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人がか
けつけてみると、S氏は受話器をもったまま玄関先で倒れていた。

隣人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしい
から、どうかそれだけはやめてくれ!」と。

●日本の文化は、恥の文化? 
 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。

日本人は、世間体をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして世間体を
気にする人には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざます
ら、いつも他人と比較しながら決める。そしてその結果、周囲の人よりよい生活であれば安心
し、そうでなければ不安になる。それだけではない。

こういう尺度をもつ人は、自分よりよい生活をしている人をねたみ、そうでない人をさげすむ。
が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめることになる。

先の雑貨点を営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってき
た。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏も、自分より
先に死んでいった人たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑っていた。

●息子の土地を無断で転売

 こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気にしたも
のになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間体を飾る道具
に利用されることも多い。たとえばYさん(70歳女性)がそうだ。

Yさんは言葉巧みに息子(42歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま息子に無
断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、「先祖を守るた
めに親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を守るのは子どもの義務
だ」とも。

Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。もちろんそれで親子の縁は切れた。息子はこう
言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行動は、おかしい。お
かしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、これだけは言える。

 恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっかくの、
それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、それも皮肉
なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。

(補記)

 世間体を気にする恥を、「外に向う恥」とするなら、自分に対する恥は、「内に向う恥」というこ
とになる。

 外に向う恥が、いかに、愚劣なものであるかは別として、大切なことは、自分に対する恥を忘
れないこと。他人が見ているとか、見ていないとか、あるいは他人が気がついているとか、いな
いとか、そういうことは、関係ない。

 先の原稿(=「ある表彰式での珍事」)の中で、私は、「恥を知れ」と書いたが、それは自分自
身に対する恥のことをいう。どうか、誤解のないように。






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