倉庫28
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●巣立ち

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岐阜県在住の、Yさん(母親)より、
こんな相談があった。

「高校2年の息子と、断絶状態にあるが、
どうしたらいいか」と。

メールには、「転載、引用、お断り」と
あったので、詳しくは、紹介できない。

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 岐阜県のF市に住む、Yさんという方より、こんな相談があった。家族構成は、わからない。

 Yさんは、目下、Yさんの、高校2年生になる息子と、断絶状態にあるという。それについて、
「どうしたらいいか」と。

 メールには、「転載、引用、お断り」とあった。私のほうで、簡単にまとめてみる。

(1)朝食を食べないで学校へ行く。用意しても無視する。
(2)ときどき、学校をサボって、部屋の中に引きこもってしまう。
(3)部屋の中で、何をしているかわからない。
(4)小遣いがあると、ヒーローものの人形を、買い集めている。
(5)夕食も、ひとりで食べる。家族との接触を避ける。
(6)会話は、ない。話しかけると、すぐけんかになってしまう。
(7)けんかといっても、一方的にキレてしまい、会話にならない。
(8)「(中学時代)、行きたくもない塾に行かされた」と、Yさんを責める。
(9)「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Yさんを責める。
(10)無気力状態で、勉強をしない。成績はさがった。
(11)中学2年生ごろまでは、いい子で、Yさんに従順だった。
(12)中学生のころには、成績もよく、クラスでもリーダー的な存在だった。

 子どもは小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。(ほとんどの親は、それに気がつか
ないが……。)この時期、たいていの親は、「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と
考えて、子どもの心を見失う。あるいは「親離れ」というものが、どういうものかさえ、わかってい
ない。

 ただ「親離れ」といっても、一次直線的に、親離れしていくのではない。ときに幼児ぽくなった
り、ときに、妙におとなびてみたりを繰りかえしながら、徐々に親離れしていく。これを「ゆりもど
し」と呼ぶ。

 女児であれば、この時期を境に、父親との入浴をいやがるようになる。男児であれば、学校
でのできごとを話さなくなったりする。同時に、第3世界(子供どうしの世界)が、急速に拡大す
る。相対的に第1世界(家族の世界)が、小さくなる。

 そのあと、子どもは、思春期に入り、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。自我
(私は「私」でありたいという意識)が強くなってくると、「私さがし」を始めるようになる。

 そのとき自己概念(私は、こうでありたいという自己像)と、現実自己(現実の自分)が一致し
ていれば、その子どもは、たいへん落ちついた様子を見せる。自己の同一性(アイデンティテ
ィ)が、確立されているからである。

 が、この両者が不一致を起こすと、子どもは、(おとなもそうだが)、ここに書いたように、精神
的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。これを「同一性の危機」と呼ぶ。わかりやすく言
えば、心が、スキマだらけになる。誘惑に弱くなり、当然、非行に走りやすくなったりする。

 それは、たとえて言うなら、嫌いな男性と、いやいや結婚した女性の心理に似ている。あるい
は不本意な仕事をしている男性の心理に似ている。

 こうした状態が慢性的につづくと、それがストレッサーとなって、子どもの心をゆがめる。それ
から生まれる抑うつ感が、うつ病などの精神病の引き金を引くこともある。それはたいへんな
抑うつ感といってよい。決して、安易に考えてはいけない。

 Yさんの息子は、メールを読むかぎり、小中学生のころは、親に従順で、(いい子)であったよ
うである。Yさんも、それに満足していた。そして多分、世間で起きているような子どもの非行問
題を横目で見ながら、「うちの子は関係ない」「うちの子は心配ない」と思っていたはずである。

 が、そんな子どもでも、ある時期から、急変する。その時期は、ここにも書いたように、内的な
性的エネルギーが急速に肥大化する、思春期ということになる。

 大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)引きこもり型がある。症状はまったく反対だが、引きこもり
型でも、突発的にキレて、大暴れすることも、珍しくない。

 Yさんの息子について、いくつか気になる点は、過去の問題をとりあげて、被害妄想的に、そ
れを親の責任にしていること。「行きたくもない塾に行かされた」「こんなオレにしたのは、お前
だ」という言葉に、それが集約されている。

 しかしこうした言葉を、Yさんに浴びせかけるようであれば、まだ症状は軽いとみる。この段階
で、対処のしかたを誤ると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落ちていく。はげしい家庭内
暴力を繰りかえしたり、あるいは数年単位の引きこもりを繰りかえしたりするようになる。(ご注
意!)

 で、こういう症状が出てきたら、鉄則は、ただ1つ。

(1)今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えながら、1年単位で様子をみる。
(2)進学、学習は、あきらめて、なるように任す。高校中退も念頭に入れる。
(3)「がんばれ」「こんなことでどうするの」式の励まし、脅しは、タブー。
(4)キレる状態がはげしければ、一度、心療内科で相談してみる。

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以前書いた原稿を、1作、
ここに添付しておきます。

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●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
 
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 問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない家庭はない。いわんや、親の願いど
おりに育っていく子どもなど、さらに、いない。つまり子育てというのは、そういうもの。またそう
いう前提で、子育てを考える。

 Yさんの息子のケースでは、遠くは、母子間の信頼関係が、じゅうぶん育っていなかったこと
が考えられる。心配先行型の子育て、不安先行型の子育てだった可能性は、じゅうぶん、考え
られる。あるいはそれ以上に、Yさん自身の過関心、過干渉があったことも、考えられる。子ど
もの心を確かめないまま、子育てをしてきた。親のリズムだけで、子育てをしてきたかもしれな
い。

 だからYさんの息子は、思春期に入るまでは、(いい子)だった。子どもの側から見れば、(い
い子)であることによって、自分の立場をとりつくろってきた。が、ここにきて、一変した。Yさん
にとっては、つらい毎日かもしれないが、それも巣立ちと考えて、親は、1歩、退くしかない。

 子どものことは、子どもに任す。もしYさんの心が袋小路に入って、悶々とするようなら、つぎ
の言葉を念ずればよい。

 『許して、忘れる。あとは時の流れに任す』と。

 子育てというのは、基本的には、そういうもの。あるいはYさん自身は、どうであったかを考え
てみるのもよい。あなたは、あなたの親に対して、ずっと(いい子)であっただろうか。たいてい
の人は、「私には問題がなかった」と思っているが、そう思っているのは、その人だけ。

 先にも書いたように、子どもは、小学3、4年生を境に、急速に、親離れをする。しかし親は、
それに気がつかない。親が、子離れするようになるのは、子どもが高校1、2年生になったこ
ろ。

 「このクソババア!」と叫ばれて、はじめて親は、自分に気がつく。そして子離れをする。それ
はさみしくも、つらい瞬間かもしれない。しかしそれを乗り越えなければ、子どもは子どもで、自
立できなくなってしまう。

 忘れていけないのは、Yさん自身も苦しいかもしれないが、それ以上に苦しんでいるのは、子
ども自身だということ。その子どもが今、懸命に、Yさんの助けを求めている。が、肝心のYさん
自身は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 こんな状態で、どうしてYさんの息子が、Yさんに、自分の悩みや苦しみを、心を開いて話すこ
とができるだろうか。

 先にも書いたが、こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態を、決して「最
悪」と考えてはいけない。むしろ事実は逆で、Yさんの息子は、まだじゅうぶん立ちなおることが
できる状態にある。悪い面ばかり見るのではなく、息子のよい面もみる。ほかの子どもよりは、
独立心がおう盛で、かつ自分の人生を、真剣に考えている。親は、自分の(常識)の範囲だけ
でものを考えようとするが、一度、その常識をはずして考えてみることも、大切なのではないだ
ろうか。

 「あなたは、あなたの道を行けばいい。それがどんな道であっても、お母さんは、あなたを信
じ、支持するからね」と。

 今、Yさんの息子が待っている言葉は、そういう言葉ではないだろうか。





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●UFO

秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……

 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは別。信ず
るも信じないもない。私は生涯において、3度、UFOを目撃している。1度は、ワイフと一緒に
目撃している。(あとの2度については、目撃したのは私だけだから、だれにも話したことがな
い。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、こう
してものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。ここにはウソ
は書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑われる。損になる
ことはあっても、得になることは何もない。

事実、「林君も自分の仕事を考えたら、そういうことは人には言わないほうがよいよ」とアドバイ
スしてくれた人もいる。それはわかっているが、しかしあえて書く。

●不可解な体験

 オーストラリアに留学していたときのこと。あと1か月ほどで、日本へ帰るというときのことだっ
た。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビーチ・ハウス(海
の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチ・ハウスは、ローンという港町の手前、10キロ
くらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあたりには、「グレートオーシャンロ
ード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在していた。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンドイッチをも
って、ピクニックにでかけた。「ビクトリア州の最南端にある、オッツウェイ岬(Cape Otway)に行
こう」ということになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出かけたと思う。あともう少し
で、オッツウェイ岬というところで、ちょうど昼食時になったのを覚えている。小高い山の中に入
って、私たちは車の上に座って、そのサンドウィッチを食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッシュ(や
ぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、100メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車の外
へ出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言ったわけではな
いが、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、点々と生えている
ような殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。

たしか、「オッツウェイ岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこかにあったよ
うに思う。私たちは地面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。そして地面に顔を
あてたのだが、そこで記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面から顔を離
すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会話はなかったと
思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベイという
港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちはそのひとつの
レストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗といったほうが正確かもし
れない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の両親
の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、こう切り
出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、30分もかから
なかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に2人とも眠ってしまった。そんな感じだった。あるい
は眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔を離した。覚え
ているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町で、夕食
を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走っても、1時間は
かからない。が、アポロベイへ着いたときには、外はまっ暗だった。時刻にすれば、夜の7時に
はなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後1時か2時だったと思う。それ以上、遅い時刻
ではなかった。が、そこからアポロベイまで、1時間はかからない。距離にしても、30キロくらい
しかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた! どう考えても、
その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように感じたら
しい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞いた。D
君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写真などを、そ
のつど届けてくれた。1枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、そこには、ハバが数1
00メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメラマンのコメントによると、写
真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから5,6年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコミで伝えら
れるようになった。いわゆる、「誘拐(アダプション)」というのである。私はあの日のあの経験が
それだとは思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理的に説明することができない。

簡単に言えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったということにな
る。そして同時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間も! しかし現実
にそんなことがあるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度だって、何の記憶もないま
ま、瞬間に眠ってしまったことなど、ない。電車やバスの中でもない。寝つきは悪いほうではな
いが、しかし瞬間に眠ってしまったようなことは、一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査されたのかも
ね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちがあの夜見
たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去
るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えて
いった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。

つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに気づいた。そのときは、
黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメ
ラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、
そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。つぎの
原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++

以下の原稿は、中日新聞の発表した
ものです。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私とワイフの2人で、そ
れを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ25年近くも前のことで、「ひょっとしたら…
…」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の12時を
過ぎていた。そのときだ。

何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかっ
た。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数
をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたという。

が、それを5、6個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むよう
に、夜空よりさらに黒い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思ったの
は、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対
の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真
を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝って
いた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人で
もある。私とワイフは、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同
じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくない
し、第一ウソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も3冊書いたし、宗教論に関する本も5冊書いた。うち4冊は中国語
にも翻訳されている。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。
(02−10−21)※

(追記)私は宇宙人が、この地球の近くにいると聞いても、驚かない。みなさんは、どうですか?
 そんなことを考えていると、秋の夜、星空を見あげるのも、楽しくなりますね。まあ、「林もとき
どき、バカなことを書くものだ」とお笑いくださればうれしいです。そうそう私とワイフと見たUFO
ですが、新聞記事に書いたあと、2人、同じものを見たという人が、連絡をとってきました。この
話は、またいつか……!






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●親子断絶

●親子の根くらべ

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Sさん(四八歳母親・浜松市在住)から、こんなメールが
届きました。
 
「親子断絶のトンネルから、やっと抜け出たような気持ちです。
重苦しい、よどんだ空気から解放されたような喜びを感じます。
やっと我が家にも、親子の会話が戻ってきました」と。

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●子育ては根競(くら)べ

 子育てはまさに、根競べ。小さい根競べ、大きい根競べ。それが無数につづいて、またまた
大きな根競べ。まさにその連続。しかし恐れることはない。愛さえあれば、何も恐れることはな
い。愛さえあれば、必ず、勝つ。勝って、鉄のようにかたまった子どもの心でも、必ず溶かすこ
とができる。

 まったく会話のない父子がいた。現在、父親は今、満50歳。息子は満25歳。もとはといえば
家庭騒動が原因だが、そのまま家族の歯車そのものが狂ってしまった。その父子は、息子が
中学生になるころから、まったく会話をしなくなってしまった。

いっしょにテレビを見ているときも、食事をしているときも、父親のほうは、それなりに何かを話
しかけるのだが、息子のほうは何も答えなかった。父親の姿が見えたりすると、息子は、その
ままスーッと姿を消したりした。はじめのころは、「何だ、その態度は!」「うるせエ〜」というやり
取りもあったが、それもしばらくすると、消えた。

 やがて息子は、お決まりの非行コース。ときおり外出しては、そのまま何時間も帰ってこなか
った。外泊したこともある。真夜中に花火をあげて、近所の人に苦情を言われたこともある。コ
ンビニの前でたむろしたり、あるいは友人のアパートにあがりこんで、タバコを吸ったり、ときに
はシンナーも吸ったりした。親子の間は、ますます険悪なものになっていった。

 が、そのとき父親は、仕事の過労も重なって、1か月入院。そのときから、父親のほうに、大
きな心の変化が生まれた。息子が高校1年生のときだった。それまでは息子のこととなると、
すぐカリカリしていたが、まるで人が違ったかのように穏やかになった。「一度は、死を覚悟しま
したから」と、母親、つまりその父親の妻がそう言った。

 が、一度こわれた心は、簡単には戻らない。息子は相変わらず非行、また非行。やがて家の
中でも平気でタバコを吸うようになった。夜と昼を逆転させ、夜中まで友人と騒いでいることもあ
った。茶パツに腰パン。暴走族とも、つきあっていた。高校へは何とか通ったが、もちろん勉強
の「ベ」の字もしなかった。学校からは、何度も自主退学をすすめられた。

しかしそのつど、父親は、「籍だけは残してほしい」と懇願した。ときどき爆発しそうなときもあっ
たが、父親はそういう自分を必死に押し殺した。あとになって父親は、こう言った。「まさに許し
て忘れるの、根競べでした」と。

 息子は高校を卒業し、専門学校に入ったが、そこは数か月でやめてしまった。そのあとは、
フリーターとして、まあ、何かをするでもなし、しないでもなしと、毎日をブラブラして過ごした。母
親のサイフから小づかいを盗んだり、父親の貯金通帳から勝手にお金を引き出したこともあ
る。しかし父親は、以前のようには、怒らなかった。ただひたすら、それに耐えた。

父親は、息子の意思でそうしているというよりは、心の病気にかかっていると思っていた。「こ
れは本当の息子ではない。今は、病気だ」と。そうアドバイスしたのは私だが、この段階で、「な
おそう」と考えて無理をすると、このタイプの子どもは、つぎの谷底をめざして、さらに落ちてし
まう。今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処する。

 そうして1年たち、2年がたった。この段階でも、親子の間は、いつも一触即発。父親が何か
を言おうとするだけで、ピリピリとした緊張感が走った。息子は息子で、ささいなことでも、何で
も悪いほうに悪いほうにとった。しかしそれでも父親はがんばった。まさにそれは、血がにじみ
出るような根競べだった。

「息苦しい状態がつづきましたが、やがて、息子がいても、いなくても、気にせず、自分たちの
生活をマイペースでできるようになりました。それからは多少、雰囲気が変わりました」と。

 私はいくつかのアドバイスをした。その一つ、何をしても、無視。その一つ、「なおそう」と思う
のではなく、今の状態を悪くしないことだけを考える。その一つ、ただひたすら許して、忘れる、
と。

 無視というのは、息子が何をしても、気にしないこと。生活態度がだらしなくなっても、ムダな
ことをしても、親の意思に反することをしても、気にしないことをいう。子どもの存在を忘れるほ
どまでになればよい。

 今の状態を悪くしないというのは、「今のままでよい」と、あきらめて、それを受け入れることを
いう。ここにも書いたように、この段階で無理をすると、子どもは、つぎのどん底をめざして、ま
っしぐらに落ちていく。

 「許して忘れる」は、英語では、「フォ・ギブ(与えるため)・アンド・フォ・ゲッツ(得るため)」とい
う。「愛を与えるために、許し、愛を得るために忘れる」ということ。その度量の広さこそが、親
の愛の深さということになる。

 父親はそれに従ってくれた。そしてさらに1年たち、2年がたった。息子はいつの間にか、24
歳になった。突然の変化は、息子に恋人ができたときやってきた。父親は、その恋人を心底喜
んでみせた。家に招いて、食事を出してやったりした。それがよかった。息子の心が、急速に
溶け始めた。穏やかな表情が少しずつ戻り始め、自分のことを父親に話すようになった。父親
はそれまでのこともあり、すぐには、すなおになれなかった。しかし息子が自分の部屋に消えた
あと、妻と抱きあってそれを喜んだという。

 こうしたケースは、今、たいへん多い。「こうしたケース」というのは、親子が断絶し、たがいに
口をきかなくなったケースだ。そしてその一方で、子どもは親のコントロールのを離れ、そこで
非行化する。しかしこれだけは覚えておくとよい。

「愛」があれば、必ず、子どもの心を溶かすことができる。そして子どもは立ちなおる。で、あと
は根競べ。まさに根競べ。愛があれば、この根競べは、必ず、親が勝つ。それを信じて、愛だ
けは放棄してはいけない。ただひたすら根競べ。

 今まで無数のケースを見てきたが、一度だって、この方法で、失敗したケースはない。どう
か、どうか、私の言葉を信じてほしい。今、その息子は、運送会社で、倉庫番の仕事をしてい
る。母親はこう言った。

「とにかく息子の前では、夫婦で仲よくしました。そういう姿は、遠慮せず、息子に見せました。
息子に安心感を与えるためにです。それがよかったのかもしれません。もともと息子の様子が
おかしくなったのは、夫に愛人ができたことによる、家庭騒動が原因でしたから……」と。


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●負担は少しずつ減らす

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子どもに課負担による症状が
見られると、親は、あわてて
負担を減らそうとする。

そのときのコツが、これ。

『負担は、少しずつ、減らす』。

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 ときに子どもは、オーバーヒートする。子どもはまだ後先のことがわからないから、そのときど
きで、あまり考えないで、「やる」とか、「やりたい」とか言う。しかしあまりそういう言葉は信じな
いほうがよい。子どもが、音楽教室などへ行くのをしぶったりすると、「あんたが行くと言ったか
らでしょ。約束を守りなさい」と叱っている親を、よく見かける。が、それは酷というもの。

 で、慢性的な過負担がつづくと、やがて子どもの心はゆがむ。ひどいばあいには、バーントア
ウトする。症状としては、気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念
が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴える
ようになるなどが、ある。もっともこれは重症なケースだが、子どもは、そのときどきにおいて、
ここに書いたような症状を薄めたような様子を見せることがある。そういうときのコツがこれ、
『負担は、少しずつ減らす』。

 たとえば今、2つ、3つ程度なら、おけいこ塾をかけもちしている子どもは、いくらでもいる。音
楽教室に体操教室、英会話などなど。が、体の調子が悪かったりして、1つのリズムがおかしく
なると、それが影響して、生活全体のリズムを狂わせてしまうことがある。そういうとき親は、あ
わててすべてを、一度にやめさせてしまったりする。A君(小二)がそうだった。

 A君は、もともと軽いチックがあったが、それがひどいものもらいになってしまった。そこで眼
科へ連れていくと、ドクターが、「過負担が原因です。塾をやめさせなさい」と。そこで親は、そ
れまで行っていた塾を、すべてやめさせてしまった。とたん、A君には、無気力症状が出てき
た。学校から帰ってきても、ボーッとしているだけ。反応そのものが鈍くなってしまった。

子どものばあい、突然、負担を大きくするのもよくないが、突然、少なくするのもよくない。こうい
うケースでは、少しずつ負担を減らすのがよい。おけいこごとのようなものについても、様子を
みながら、少しずつふやす。ひとつのおけいこが、うまく定着したのを見届けてから、つぎのお
けいこをふやすというように、である。そして減らすときも、同じように数か月をかけて、徐々に
減らす。でないと、たいていのばあい、立ちなおりができなくなってしまう。

 A君のケースでは、そのあと、無気力症状が、1年近くもつづいてしまった。もし負担を徐々に
減らしていれば、もっと回復は早かったかもしれない。さらにしばらくして、こんなこともあった。

以前のような子どもらしい活発さをA君が取り戻したとき、親が、「もう一度……」と、音楽教室
へ入れようとしたことがある。が、それについては、今度はA君は狂人のようになって暴れ、そ
れに抵抗したという。もちろんそのため、A君は、勉強全体から遠ざかってしまった。今も、も
う、それから数年になるが、遠ざかったままである。

 子どもというのは、一見タフに見えるが、その心は、ガラス玉のようにデリケート。そしてこわ
れるときは、簡単にこわれる。もしそれがわからなければ、あなた自身はどうなのか。あるいは
どうだったかを頭の中に思い浮かべてみるとよい。あるいはあなたならできるか、でもよい。た
いていその答は、「ノー」である。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの役割を認めてあげよう

++++++++++++++++

心の抵抗力。それが子ども自身を
守る。

その抵抗力をつけるためには、
子どもの方向性を見定め、それに
従う。

いわゆる目的をもった子どもは、
強い。その強い子どもにする。

++++++++++++++++

 それぞれの子どもには、それぞれの役割がある。自然にできる方向性といってもよい。その
役割を、親は、もっとすなおに認めてあげよう。

 よく誤解されるが、「いい高校へ……」「いい大学へ……」というのは、役割ではない。それは
目的ももたないで、どこかの観光地へ行くようなもの。行ったとたん、何をしてよいのかわから
ず、子どもは、役割混乱を引き起こす。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なのは、子どもの夢
や希望に沿った言葉で、その子どもの未来を包んであげるということ。

 「そうね、花屋さんって、すてきね。おうちをお花で飾ったら、きっと、きれいね」と。

 そして子どもといっしょに、図書館へ行って花の図鑑を調べたり、あるいは実際に、花を栽培
したりする。そういう行為が、子どもの役割を、強化する。これを心理学の世界では、「役割形
成」という。

 つまり子どもの中に、一定の方向性ができる。その方向性が、ここでいう役割ということにな
る。

 が、親は、この役割形成を、平気でふみにじってしまう。子どもがせっかく、「お花屋さんにな
りたい」と言っても、子どものたわごとのように思ってしまう。そして子どもの夢や希望をじゅうぶ
ん聞くこともなく、「あんたも、明日から英語教室へ行くのよ!」「何よ、この算数の点数は!」と
言ってしまう。

 一般論として、役割が混乱すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。心にすき間が
できるから、誘惑にも弱くなる。いわゆる精神が、宙ぶらりんの状態になると考えると、わかり
やすい。

 そこで「いい高校」「いい大学」ということになる。

 もう何年か前のことだが、夏休みが終わるころ、私の家に、二人の女子高校生が遊びにき
た。そしてこう言った。

 「先生、私、今度、○○大学の、国際関係学部に入ることにしました」と。

 ○○大学というのは、比較的名前が、よく知られた私立の大学である。で、私が、「そう、よか
ったね。……ところで、その国際カンケイ学部って、何? 何を勉強するの?」と聞くと、その女
子高校生は、こう言った。

 「私にも、わかんない……」と。

 こういう状態で、その子どもは大学へ入ったあと、何を勉強するというのだろうか。つまりその
時点で、その子どもは、役割混乱を起こすことになる。それはたとえて言うなら、あなたがある
日突然、男装(女装でもよいが……)して、電車の運転手になれと言われるようなものである。

 ……というのは、少し極端だが、こうした混乱が起きると、心の中は、スキだらけになる。ちょ
っとした誘惑にも、すぐ負けてしまう。もちろん方向性など最初からないから、大学へ入ったあ
とも、勉強など、しない。

 子どもの役割を認めることの大切さが、これでわかってもらえたと思う。子どもが「お花屋さん
になりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね。じゃあ、今度、H湖で、花博覧会があるから行き
ましょうね」と話しかけてあげる。

 そういう前向きな働きかけをすることによって、子どもは、自分でその役割を強化していく。そ
してそれがいつか、理学部への進学とつながり、遺伝子工学の研究へとつながっていくかもし
れない。 

 子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(040219)

【追記】

●こうした役割形成は、何も、大学へ進学することだけで達成されるものではない。大学へ進
学しないからといって、達成されないものでもない。それぞれの道で、それぞれが役割形成を
する。

 昔は、(いい大学)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意識が、それを支
えた。

 大学を卒業したあとも、(いい会社)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意
識が、それを支えた。

 しかしいまどき、エリート意識をふりかざしても、意味はない。まったく、ない。今は、もう、そう
いう時代ではない。

 今、子どもたちを包む、社会的価値観が大きく変動している。まさにサイレント革命というに、
ふさわしい。そういうことも念頭に置きながら、子どもの役割形成を考えるとよい。

 まずいのは、親の価値観を、一方的に、子どもに押しつけること。子どもは役割混乱を起こ
し、わけのわからない子どもになってしまう。

●誘惑に強い子どもにする。……それはこの誘惑の多い社会を生きるために、子どもに鎧(よ
ろい)を着せることを意味する。

 この鎧を着た子どもは、多少の誘惑があっても、それをはね返してしまう。「私は、遺伝子工
学の勉強をするために、大学へ入った。だから、遊んでいるヒマはない。その道に向かって、ま
っすぐ進みます」と。

 そういう子どもにするためにも、子どもが小さいときから、役割形成をしっかりとしておく。

 ここにも書いたように、「何のために大学へ入ったのか」「何を勉強したいのかわからない」と
いう状態では、誘惑に弱くなって、当たり前。もともと勉強する目的などないのだから、それは
当然のことではないか。

(はやし浩司 役割 役割形成 役割混乱 自我 自己同一性)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●K県のRさんより

+++++++++++++++++

K県のRさんより、メールが届いた。
息子たちと断絶状態にある。どうしたら
いいかという相談があった人である。

+++++++++++++++++

【Rさんより、はやし浩司へ】

以前、高校1年の息子と断絶状態にあると相談したものです。マガジンの方を読みました。あり
がとうございました。

あれから私の子供時代の記憶をたどっていきました。自分ができなかったことを、息子にさ
せ、して欲しかったことをしてやり、きっと子供にとっては、自分の行く先々を先回りして、寄り
道さえも軌道修正している、うっとおしい親だったのではないかと思っています。

子供のことも振り返り、今思えば何度もSOSを発信していたのに、単なる愚痴のようにとらえ
てしまっていました。

上の子(現在、高3)が、中学校に入学してから、次男(現在、高1)は、次第に素行不良にな
り、次男は中学に入学したとき、(そのとき長男は中3)、「お前はあの○○の弟だろう」と言わ
れて、嫌な思いをしていたようです。

長男は高校に1年通いましたが、学校についていけず退学。その後通信制の高校に入学、バ
イトなどをし、不規則な生活で、普通ではない家庭でした。

長男(キレやすい)とは、派手に何度ももめました。食卓も一緒に囲めない、顔も合わせない、
深夜徘徊はするという状態が続き、なるようにしかならないとあきらめてからは、彼もいくらか
落ち着き、(でも今でもキレやすいですが)、卒業後の就職のことを考えるまでになりました。こ
れからは歩いていく子供のうしろ姿を応援しながら、見ていけるように努力したいと思います。
いつの日かまた会話ができる日が来るのを待ちながら.……。

相談にのっていただき本当にありがとうございました。もっと早くに先生のHPを知っていれば
長男のときも、ここまでこじれずに済んだかも知れません。これからもここを愛読させていただ
きたいと思います。

【はやし浩司よりRさんへ】

 「どこの家庭も似たようなものですよ」という言い方は、適切ではないかもしれません。しかし
あえて言えば、どこの家庭も似たようなものです。

 親子が仲よく、静かに会話をしあっている家庭など、今という時代には、さがさなければなら
ないほど、少ないです。つまり親子というのは、もともとそういうものだという前提で、こうした問
題を考えてください。

 1日のうち、一言、二言、会話があれば、まだよいほうです。あいさつさえ交わさない親子も、
珍しくありません。要するに、子どもには期待しないこと。

 が、子どもが、幼児や小学生のころは、そうでない。どんな親も、「うちの子にかぎって」とか、
「うちの子は、だいじょうぶ」とか、思いこんでいます。「休みには、どこかへ行こうか」と声をか
けると、喜んでついてきます。

 しかしその歯車が、どこかで狂う。狂って不協和音を流し始める。最初は、小さな不協和音で
す。その不協和音が、どんどんと増幅し、やがて手に負えなくなる。が、その段階でも、それに
気づく親は、まずいません。「まだ、何とかなる」「まさか……」と思う。思って無理をする。子ども
の心に耳を傾けない。

 親にしてみれば、あっという間の短い期間かもしれませんが、子どもにとっては、そうではあり
ません。その(あっという間)に、子どもの心は、親から離れていく。本当に、あっという間です。
が、親のほうは、過去の幻想にしがみつく。「そんなはずはない」とです。

 しかし大きく見れば、それも巣立ちなのですね。いつまでも、「パパ」「ママ」と言っているほう
が、おかしいのです。またこの日本では、(学校)というコースからはずれることイコール、(落ち
こぼれ)と考える傾向があります。が、そういう(常識)のほうが、おかしいのです。

 そんなことは、ほんの少し、目を世界に向ければ、わかることです。日本の(常識)は、決し
て、世界の(常識)ではありません。

 だから今のままでよいですよ。コツは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、
静かに様子を見る」です。あとは、『許して、忘れ、時を待つ』です。これを繰りかえしてくださ
い。

 あなたの子どもは、あなたの深い愛情を感じたとき、必ず、あなたのところに戻ってきます。
そのときのために、今のあなたができることは、部屋の掃除をして、窓をあけておくことです。

 そして大切なことは、あなたはあなたで、自分の人生を生きる。前向きに、です。こうした問題
は、あなたが前向きに生き始めたとき、自然消滅の形で、解決します。ですから、こう宣言しな
さい。

 「あなたたちはあなたたちで、勝手に生きなさい。私は、私で勝手に生きるからね。ついでに
あなたたちの分まで、がんばってやるからね」と。

 子どもといっても、いつか、あなたを1人の人間として、評価するときがやってきます。そのと
き、その評価に耐えうる人間であればよし。そういう自分をめざします。

 あとは、どういう状態になっても、あなたはあなたの子どもを信じ、支えます。おかしな(常識)
にとらわれないで、子どもだけをしっかりと見つめながら、そうします。

 幸いなことに、あなたの子どもには、それ以上の問題はないようです。今どき、不登校など何
でもない問題です。またキレやすいという部分については、思春期の病気のようなものです。神
経が過敏になっていますから。心の緊張感がとれないで、苦しんでいるのは、子ども自身で
す。

 相手にせず、あなたはあなたで勝手なことをすればいいのです。相手にしたとたん、それが
子どものためではあっても、子どもは、それに反発します。まあ、何と言うか、そういうときという
のは、被害妄想のかたまりのようになっていますから。心理学でも、そういった状態を、「拒否
反応」と呼んでいます。そういうときは、何を言ってもムダと心得ることです。

 「親である」ということは、たいへんなことです。だったら、親であることを忘れてしまえばいい
のです。「私は親だ」という気負いがある間は、子どもは、あなたに対して心を開くことはないで
しょう。

 こんな原稿を書いたのを、思い出したので、ここに添付します。

+++++++++++++++++

【親が子育てで行きづまるとき】

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の2人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし
た。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。

息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になん
て、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。

私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーション
もとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプ
リントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時
間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。

仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの
子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。

そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りな
く振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。

もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望
を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にする
ということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行
好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あ
るいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の3つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかも
しれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。

とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた
「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたし
てその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるい
は子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべて
が集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++

 今のRさんには、たいへんきびしい意見かもしれませんね。わかっています。しかしこれで冒
頭に書いた、「どこの家庭も似たようなものですよ」の意味が、わかっていただけたものと思い
ます。

 今の今も、実は、「これではまずいなあ」と思われる親子がたくさんいます。しかし私のような
立場のものが、それにとやかく口をはさむのは、許されません。相手が相談してくれば、話は
別ですが、それまでは、わかっていても、わからないフリをする。そういう世界です。

 そういう意味では、もっと、多くの人の、私のマガジンを読んでほしいと願っていますが、それ
とて、相手の決めることですね。

 これからも、末永く、ご購読ください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の断絶 会話のない親子 思春期の子ども)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【付録】

【親子の断絶が始まるとき】 

●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って…
…」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き
くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくな
い」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目を
そむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返
す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げ
て行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休ま
る場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(学
外研・98年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リズムの乱
れ。

(1)権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考
える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。

「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のも
と、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいと
ころしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の
前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。

(2)相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配
だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの
だ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがあ
る。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを
「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけ
れば、そうでなくなる。

(3)リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思
い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている
姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、(1)あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっく
りと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩
いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということ
にもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語
する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし
ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の
前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、
仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。

親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さん
が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」
子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

●リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が4拍子で、子ども
が3拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、2つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば4時間おきにミルクを与えることに
なっていたとする。そのとき、4時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの口
に押しつける親もいれば、反対に4時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親もい
る。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英
語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかな
か行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなにな
ってからも、だ。

ある女性(32歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の
男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを
変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容
易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな
い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬
していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と
答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、「母親のようになりたくない」は、71・5%であっ
た。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの
中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約4
5%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか
「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか
遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)

●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診
断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの
心の中を知るのが、このテスト。


Q1 あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。


Q2 学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。


Q3 「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは…
…。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。

★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
Q4 何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。


Q5 休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。

(評価)
15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的




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●アイドリングする母親たち

【不完全燃焼】

++++++++++++++++++++

ある日、母親は気がつく。
子どもから、「ババア」と呼ばれたとき。
夫に、浮気の兆候が見られたとき。

「今までの私は、いったい、何だったの」と。

++++++++++++++++++++

●母親から「女」へ

 ある日、母親は気がつく。子どもから、「ババア」と呼ばれたとき。夫に、浮気の兆候が見られ
たとき。「今までの私は、いったい、何だったの」と。

 結婚によって、家庭に押し込められた女性の閉塞感には、相当なものがある。女性は家庭
に押し込められると同時に、それまでの夢や希望、それに目的、さらにはキャリアまで犠牲に
する。

 もちろん中には、「家庭に入ること」に、何ら疑問をもたない女性もいる。妻や、母親であるこ
とに徹して、それなりに幸福に暮らす。いろいろな調査結果をみても、約25%前後の女性が、
そうであるとみてよい。

 そういう女性は別として、つまり大半の女性は、家庭に押し込められることによる不満を、何
らかの形で、代償的に解消しようとする。育児に没頭するのが第一だが、それが高じて、子育
てそのものを生きがいにする人も多い。

 この時期、『子どもは、母親の芸術品』という。私が考えた格言だが、母親は、自分のもてる
ものすべてを、子どもに懸(か)けてしまう。子どもは、まさに母親の芸術品となる。

 が、やがてその子育ても一段落してくる。子どもも小学3、4年生になると、そのころを境に、
急速に親離れを始める。それまでは、「ママ、ママ……」と言い寄ってきた子どもも、この時期を
過ぎると、母親を敬遠し始めるようになる。そして、こう言う。「このクソババア」と。

 そのとき母親は、ハッと我にかえる。気がつく。「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と。
が、それで終わるわけではない。

 この時期にもなると、たいていの夫婦は、倦怠期という、どこか空気のよどんだような時期を
迎える。仕事ばかりしていて、自分を振り向かない夫。セックスをしても、どこか事務的? どこ
かいいかげん? 

 外で仕事をする夫には、チャンスはいくらでもある。誘惑も多い。同僚と飲み食いするうちに、
「バーかクラブへ行こうか」となる。それなりに発散できる。が、妻には、そういうチャンスさえ、
ない。夫が許さないというよりは、妻自身が、そうして遊ぶことに、大きな罪悪感を覚える。その
罪悪感が、自らの体をしばる。

 悶々とした毎日。自分を燃やしたくても、その場すら、ない。

 そうした女性の心理を、たくみに表現したのが、R・ウォラーの書いた、『マジソン郡の橋』であ
る。

+++++++++++++++++

 3年ほど前、埼玉県のRYさんという
方から、メールをもらった。

 それについて書いたのが、つぎの原稿
です。合わせて、『マジソン郡の橋』につ
いても、書きました。

+++++++++++++++++

●子どもの自立

 ある母親(埼玉県U市在住のRYさん)から、こんなメールが届いた。 

「私には二人の子どもがおります。
一番上の娘が中学2年生、下の男の子が小学校の4年です。
とても優しい子ども達に恵まれ毎日幸せに暮らしています。
 
私は自分の子どもに、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を
自分で考えて歩いてゆける人間に育って欲しいと思っていますが
子どもの自立のために、何かよいアドバイスがあれば、いただけませんか。

いくら頭で考え、子どもの人生や価値観を尊重しようと思っても、
実際問題として、日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます。
馬鹿な親ですが、自分の子どもには苦労をさせたくない、
社会に適応し、まわりの人とうまくやって欲しい……と
おろかな望みを抱いてしまいます」と。

 この母親のメールを読んで、最初に感じたことは、「これは子どもの問題ではなく、母親自身
の問題」ということ。その母親自身はまだ気づいていないかもしれないが、母親自身が、自分
の住む世界で、窒息している。

 以前、こんな原稿(中日新聞経済済み)を書いた。

++++++++++++++++++++++++

【母親がアイドリングするとき】 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(32歳)もそうだ。

結婚したのは24歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、20歳のころ、一度だけ電撃に
打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何
となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、2人の女の子がいたが、下
の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医
療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの
資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。

++++++++++++++++++++++

【RYさんへ】

 それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、アメリカ人の生きザマを見ていると、実
に自由を謳歌しているのがわかります。それだけにきびしい世界を生きていることになります
が、そういうアメリカとくらべると、日本の社会は、まさに「ぬるま湯社会」ということになります。

 この「ぬるま湯」の中で、人生の入り口で権利を得た人は、たいていそのままずっと、その権
利をなくすことなく保護されます。それがRYさんが、おっしゃる、「日本の社会は目立つものは
排除する社会に思えます」ということではないでしょうか。社会そのものが、見えない糸で、がん
じがらめになっています。

 たとえば私の友人のユキコさん(31歳女性、日系人・アーカンソー州リトルロック在住)は、
今、アメリカで、老人福祉の仕事をしています。日本でいう公務員ですが、こう言っています。
「アメリカでは、公務員といっても、どんどん自分から進んで何かをしていかないと、すぐクビに
なってしまう。また自分で何かアイディアを出したり、新しいことをしたいというと、上司が、もっと
やれと励ましてくれる」と。

 本当は、ユキコさんは、もっと過激なことを言っていますが、日本の社会の現状とは、あまり
にもかけ離れているため、ここでは控えめにしました。ユキコさんは、「社会のしくみそのもの
が、そうなっている。日本のように、上から言われたことだけをしていれば、安心という考え方
は、通用しない」とも言っていました。

 こうした傾向はオーストラリアにもあって、私の友人の多くは、生涯において、何度も職そのも
のを変えています。またそういうことをしても、不利にならないしくみそのものが、できあがって
います。あのヨーロッパでは、EU全体で、すでに大学の単位は共通化されていて、どこの大学
で学んでも、みな同じという状態になっています。

 世界は、どんどん先へ行っている。アメリカだけでも、学校へ行かないで、家庭で学習してい
る、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもは、現在、200万人を超えたと推計されてい
ます。もっと世界の人は、自分の人生を、子どもの人生を、自由に考えている。あるいは自由
という基本の上に置いている。日本人の悪口を言うのもつらいですが、この程度の自由を、
「自由」と思いこんでいる、日本人が、実際、かわいそうに見えます。

 RYさん、これはあなたの子どもの問題ではありません。あなた自身の問題です。あなたが魂
を解き放ち、心を解き放ちます。そしてあなた自身が、大空を飛びます。それはちょうど、森へ
やってくる、鳥の親子連れと同じです。子どもの取りは、親鳥の飛び方を見て、自分の飛び方
を覚えます。あなたが飛ばないで、どうして子どもが飛ぶことができるでしょうか。

 「自分の子どもには苦労をさせたくない。社会に適応し、周りとうまくやって欲しい」ですか
あ? しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのでしょうか。私は、一片の魅力も感
じません。しかたないので、そういう人生を、私も送っていますが、しかし心意気だけは、いつ
も、そうであってはいけないと思っています。

RYさんが言う「社会」というのは、戦前は、「国」のことでした。「お国のため」が、「社会のため」
になり、「お国で役立つ人間」が、「社会で役立つ人間」になりました。今の中国では、「立派な
国民づくり」が、中国の教育の合言葉になっています。日本も、中国も、それほど違わないので
はないでしょうか。

 今、行政改革、つまりは日本型官僚政治の改革は、ことごとく失敗しています。奈良時代の
昔からつづいた官僚制度ですから、そう簡単には変えることができません。それはわかります
が、この硬直した社会制度を変えないかぎり、日本人が、真の自由を手に入れることはないで
しょう。

今の今も、子育てをしながら、RYさんのように悩んでいる人は多いはずです。小さな世界で、こ
じんまりと、その日を何とか無事に過ごしている人には、それはわからないかもしれません。
が、しかしこれからの日本人は、そんなバカではない。「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)に、
みなが、気がつき始めている……。

 これは子どもの問題ではないのです。RYさん、あなた自身の問題なのです。ですからあなた
も勇気を出して、一歩、足を前に踏みだしてみてください。何かできることがあるはずです。そし
てあなた自身をがんじがらめにしている糸を、一本でもよいから取りのぞいてみるのです。

 私は母ではない!
 私は妻ではない!
 私は女ではない!
 私は、一人の人間だア!、と。

 いいですか、RYさん、母として、妻として、女として、「私」を犠牲にしてはいけませんよ。自分
を偽ってはいけませんよ。あなたはあなたの生きザマを、自分で追求するのです。それが結局
は、あなた自身の子育て観を変え、あなたの子どもに影響を与えるのです。そしてそれが、
今、あなたが感じている問題を解決するのです。

 家庭は、それ自体は、憩いの場であり、心や体を休める場です。しかしそれを守る(?)女性
にとっては、兵役の兵舎そのもの※。自分の可能性や、夢や希望、そういうものをことごとく押
しつぶされ、家庭に閉じ込められる女性たちのストレスは、相当なものです。(もちろん、そうで
ない女性も、約25%はいますが……。)仕事をもっている男性には、まだ自由は、あります
が、女性には、それがない。

 だから家庭に入った女性たちほど、自由を求める権利があるのです。その中の一人が、RY
さん、あなたということになります。

 私たちは、ともすれば、自分の隠された欲求不満に気づかず、そのはけ口を子どもに求めよ
うとします。子どもを代理にして、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに果たさせようと
するわけです。しかしそんなことをしても、何ら解決しないばかりか、不完全燃焼の人生は、不
完全燃焼のまま終わってしまいます。

子どもにしても、それは負担になるだけ。あるいは子どもがあなたの期待に答えれば、それで
よし。しかしそうでなければ、(その可能性のほうが大きいのですが……)、かえってストレスが
たまるだけです。あるいはそれがわかるころになると、あなたも歳をとり、もうやり返しのできな
い状態になっているかもしれません。

 だから私は、「これはRYさん、あなた自身の問題だ」と言うのです。さあ、あなたも勇気を出し
て、その見本を、子どもに見せてやってください。

 「私は、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を自分で考えて歩いているのよ。あんたたち
も、私に見習いなさい!」とです。それは、とっても、気持ちのよい世界ですよ。約束します。

※「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
(J・ハーマン)。

+++++++++++++++

ついでに3年前、こんな詩を
書きました。

これは自分のことです。

+++++++++++++++
 
●人生

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
どこにいるのかさえ、わからない。

それはきびしく、険しい道。
頼れるものは何もない。
そこにはいつも、ひょうひょうと
かわいた風が舞っている。

ふと振りかえると、
そこには一本の細い道。
あちこちで曲がりくねって、
より道ばかり。

進んだつもりが、またもとの道?
何かをしてきたようで、
残っているものが、何もない?
そんな道を見ながら、ただ、ため息。

その先に、ゴールはあるのか。
あるいはゴールはないのか。
それすらわからない。
しかし立ち止まることもできない。

今できることは、とにかく前に
足を踏みだすこと。
今できることは、とにかく懸命に、
草をかき分けてみること。

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
しかし、とにかく前に進むしかない。
迷っている時間は、もう、私にはない。

++++++++++++++++

 この原稿の中で、私は、「不完全燃焼症候群」という言葉を使った。しかしその不完全燃焼感
を覚えることくらい、人生において、つらいことはない。晩年になればなるほど、そうである。

 そこで人は、つぎの2つのうちの、どちらかの道を選択する。(1)バカになりきるか、それと
も、(2)完全燃焼をめざすか。

 バカになりきるというのは、つまりは、何も考えないことをいう。与えられた現状に満足し、そ
れをよしとして、受けいれてしまう。よい例が、カルト教の信者たちである。カルト教でなくても、
どこかの宗教団体の狂信的な信者たちでもよい。

 彼らは、一見、思慮深い人のように見えるかもしれない。が、頭の中は、カラッポ。自分の思
想など、どこにもない。人間ロボットになりながら、ロボットになっているという意識すらない。

 誤解していはいけないのは、情報と思考は、まったく別のものということ。もっている情報がい
くら多くても、自分で考えることのできない人のことを、「カラッポ」という。英語では、「ノー・ブレ
イン」という。恩師の田丸先生は、「昆虫のような頭」と表現していたが、それでもよい。

 そこで人は、考える。「どうすれば自分の人生を、まっとうできるか」と。つまりこの時点で、完
全燃焼を目ざす。たった一度しかない人生だから、またその人生には、限りがあるから、私は
私として、自分の人生を生きる。とことん、生きる。

 つまり(生きる)ということは、(いかにすれば、自分を完全燃焼させるか、それを考えること)
ということになる。

 これには、男性も女性もない。

 ただ、むしろ女性のほうが、それに早く気づくという点でラッキーかもしれない。男性のばあ
い、自分がリストラされたり、定年で退職したときに、それに気づくことが多い。「オレの人生
は、何だったのかア!」と。

 さあ、あなたも思い切って、アクセルを踏んでみよう。アクセルを踏んで、前に出てみよう。…
…と書いたところで、この話は、おしまい。





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【子育てポイント】

+++++++++++++++++

以前書いた、「子育てポイント」を
少し、書き改めてみました。

+++++++++++++++++

●はだし教育を大切に!

 子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを
始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの
か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな
たは料理をするのに、困るはず。

 子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども
は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを
見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。
そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。

 またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
 

●言葉教育は、まず親が

 親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言
葉が育つというのだろうか。そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがき
ます。あなたは外でバスを待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっ
ていますか。先生に会ったら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。

 こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力
が身につくというのか。ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子ど
もは、約30%はいる。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ気
がついても、手遅れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の問
題は、親の問題であって、子どもの問題ではない。


●正しい発音を大切に

 文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。
「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける
子どもは、ほとんどいない。「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向
かって、「まちがっているわよ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。

 地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味
ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文
が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。

 子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども
もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。

 なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に
入れながら、子どもの発音を考えるとよい。


●同年齢の子どもと遊ばせる

子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい
けない。

 今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな
風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。こう書くと、「子分の子ども
がかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、子どもは子分になること
で、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったことがない子どもは、同時
に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。

 またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな
く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。ブランコを
横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによっては、相手
をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「いじめ」に
なる。

 子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ
けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。


●ぬり絵のすすめ

 一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして
おくとよい。

 子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり
絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。ちなみ
に、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。実際、
一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。

 また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約50%とみる。(別に正しいもち方というのはな
いが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、30%。残り、20%の子どもは、
たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めたら、
一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛筆を
かませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。


●色づかいは、なれ

ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな
い子どもは、そうでない。

 たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、
冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと
みる。

 なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去35
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満
4歳から6歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化すること
がある。

ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。しかしそういう子
どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようになる。今、色づか
いがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。

 ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ
とではない。


●ガムをかませる

 アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。
で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。

 その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への
血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。

 コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低30分はかませるように
指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。

 またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。


●マンネリは知能の敵

 人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約10万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化とと
もに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。

 このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激
教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす
く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。

 ……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。

(3)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ
で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが
な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ
るだろ!」と。

(4)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ
めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を
示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、
ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。

 家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台
の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。


●抱きながら本を読む

 「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日
本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き
に伸ばす。

 満4・5歳(=4歳6か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し
かし決して、ムダではない。子どもは、伸びるとき、1次曲線的に、なだらかに伸びるのではな
い。ちょうど階段を登るように、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子
どもは、1歳半から2歳にかけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度
に開花するようにである。

 同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と
いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の
カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し
ているとみる。

 もしあなたの子どもが、満4・5歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子ど
もには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう
することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分
で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども
は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好
きになる。
 

●何でも、握らせる

 ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子
どもが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しな
いだろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ
る。が、それだけではない。

 最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる
とよいという説もある。たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。2個
のボールがペアになっていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジ
アへ行ったとき、それを買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたように
は、いまだに回すことはできないが……。)

 それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。

 なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が
旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと
しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり
する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ
ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。


●才能は見つけるもの

 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、2歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、そ
の子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始めた。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子
どもを側面から支える。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉
強でつまずくと、そのままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見
つけ、その才能を用意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

 これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの
ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、
だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。


●何でもさせてみる

 子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい
のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。

 たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく
……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来
のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の
生徒たちに対しては、そうしている。

 威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り
すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え
るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か
な子どもほど、要注意!


●幼児教育は、種まき

 幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え
る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。

 言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。

 ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字
(左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え
方では困る!」と。

 その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き
な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ
タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で
きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。

 要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。


●えびで鯛(たい)を釣る

 『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく
とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が
ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。

 A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小2クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった
ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ
るようになった。そして半年もすると、小3レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君を
小3クラスへもどした。

 が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ
らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで
(鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし
れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。

 ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また1学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、1度失敗
すると、2度目は、ない。


●やなぎの下には……

 何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、2度目はない。子ども自身が、それに応じなく
なる。

 たとえばAさんは子ども(小5男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、
親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症
状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。

 ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った
が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し
た。

 一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理
は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも
早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって
しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。

 『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、2度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗
する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強
は組みたてる。


●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。
本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な
ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、
うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子
育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。

だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分は、あなたがいくらがんばって
も、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」部分を、いかに多く知ってい
るかで、親の親としての度量が決まる。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親
ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失
う。失敗する。一方、「うちの子のことがわからない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとす
る親ほど、子どものことを知っている。だから、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。





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●基本的信頼関係(社会関係)

++++++++++++++++

親子は、信頼関係が、どこまで
できているかによって、決まる。

「決まる」ということは、信頼関係
がすべて、ということ。

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 小学校4、5年生の子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、全員、ニヤニ
ヤ笑いながら、「嫌いだヨ〜」と答える。幼稚園の年長児でも、そうだ。

 しかし年中児くらいになると、恥ずかしそうに、「好き」という子どもが現れる。どうやらその年
齢あたりを境にして、子どもたちは、本音と建前を使い分けるようになるようだ。

 言うまでもなく、人間の信頼関係は、さらけ出しと、受け入れで決まる。この2つが相互にあっ
て、その基盤の上に、信頼関係が築かれる。もし、この2つが不十分なら、その上に成りたつ
信頼関係は、軟弱なものになる。

 さらけ出し……あるがままの自分を、そっくりそのままさらけ出すことをいう。思ったことを言
い、したいことをする。悲しかったら、悲しいと言う。つらかったら、つらいと言う。きれいごとを
言ったり、自分を飾ったりしない。へつらったり、愛想をよくしたりしない。あるがままを、さらけ
出す。

 受け入れ……相手が何を言っても、また何をしても、それを全幅に受け入れる。その典型的
な例は、母と子の関係に、みられる。子どもがウンチをしても、小便をしても、母親というのは、
それを自分のものとして、受け入れる。

 ここで大切なことは、自分がさらけ出すとき、そのとき自分が、どう感ずるかである。相手に
安心感を覚えれば、よし。あるがままをさらけ出そうとしたとき、「相手が、自分のことを悪く思う
のではないか」「へんに思うのではないか」と思うようであれば、さらけ出しはできない。

 そこで登場するのが、基本的信頼関係である。生後まもなくから、とくに母子の関係で、この
基本的信頼関係ができている人は、こうしたさらけ出しが、自然な形で、できる。そうでない人
は、そうでない。人間関係が、どこか、ぎくしゃくしやすい。

 それはそれとして、つぎの問題は、どの人に対して、どの程度まで、さらけ出しをし、受け入
れをするかである。

 夫婦や、親子の関係を100とする。結婚を目的とした恋人関係も、それに近い。深い友人関
係や、師弟関係も、それに準ずる。こうした関係で、反対に、言いたいことも言えないとか、した
いこともできないというようであれば、すでにその関係は、危機的な状態にあるといってもよい。

 そこで冒頭の話。

 小学生たちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞く。この段階で、子どものほうは、私と
の絶対的な信頼関係を求めていない。またそういう関係に、ない。だから、「嫌いだヨ〜」とウソ
を言う。もちろんその背景には、「文化」もある。そういうことをあからさまに言うことについて、
文化的な抵抗感がある。

 だからそれを聞く私のほうも、肯定的な答など、最初から期待していない。ウソを言うだろう、
あるいは自分の本心を隠すだろうということを、知りつつ、そういう質問をする。こうした関係
を、基本的信頼関係に対して、基本的社会関係という。「基本的社会関係」というのは、私が考
えた言葉である。

●基本的社会関係

 私はいくつかの仮面をかぶっている。教師としての仮面。評論家としての仮面。そして日常的
にも、無数の仮面をかぶっている。

 もしその私が、赤裸々な自分をさらけ出したら、社会生活そのものがいとめなくなる。たとえ
ば容姿のすばらしい母親から、何かの子育て相談を受けたとする。そのとき私は、「あなたの
肌はすてきですね」と内心で思ったとしても、それを口にしてはいけない。「あなたの胸やおしり
は、すてきですね」とか、さらに「あなたと一度、セックスしてみたい」などとは、さらに言ってはい
けない。

 つまりそこに、さらけ出しの制約が生まれる。私はその母親の相談にのりながらも、その母
親と信頼関係を結ぶつもりはない。母親とて、それを求めていない。だからいつものように、つ
まりは通りすがりの人として、その母親を軽くあしらう。母親の求めているものだけを与えて、そ
れで別れる。

 これが基本的社会関係である。こうした関係は、人間が社会的生活をつづける間は、いたる
場所、いたるときに起こる。また起きたからといって、それが問題というわけではない。私たち
は、ごく日常的に、仮面をかぶる。かぶって当然である。

 が、問題がないわけではない。

 ときとして、この基本的社会関係が崩れたり、誤解されることがある。さらには、こうした関係
に、限界を感ずることもある。実のところ、今の私がそうである。

 こういう仕事をしていると、無数の親たちから、いろいろな相談をもちかけられる。大半が若
い女性(母親)である。以前は電話での相談が多かったが、電話による相談は、すべて断って
いる。それにかわって今は、インターネットになった。

 が、当然のことながら、インターネットでは、顔が見えない。見えない分だけ、感情(心)がつ
かめない。それに、何人かの人から同時に相談を受けていると、だれがどの人か、わからなく
なる。……なってしまう。一番つらいのは、「先月、相談しました、○○県のAです。そのあと、あ
の問題は……」というようなメールをもらったとき。懸命に記憶をたどらなければならない。

 そこで私はさらけ出しの問題にぶつかる。相手は自分の問題をさらけ出してくる。しかしそれ
を受ける私はそれを全面的に受け入れているわけではない。ここがものの売買とは、違うとこ
ろである。そこでそれを受ける私としては、いつも何かしら、不完全燃焼のまま、相談に答え、
そして別れる。

 そこでいくつか、心の実験をしてみた。私は、一人の女性にお願いして、自分の心をさらけ出
してみた。……みることにした。すてきな女性だった。F市に住むMさんという方だった。私はこ
うしてインターネットをするようになってはじめて、その女性に、こう頼んでみた。「写真を送って
くれませんか」と。

 しかしこのあとのことは、その女性の了解を求めていないので、私は、何も書くことができな
い。ただ、その女性は、私の趣旨理解してくれ、写真を送ってくれた。が、そのとき私が受けた
衝撃は、ものすごいものだった。白黒の映画の中で、一本の花だけが、真っ赤になっている…
…そんなシーンを見たような衝撃だった。

 そう、それは生まれてはじめて、女性に会ったような気分だった。インターネットの中で、生ま
れてはじめて「女」を感じてしまった。母親と呼ばれる女性たちには、ごく日常的に会っているの
に、そのとき感じた新鮮さは、いったい何だったのか。

 それはひょっとしたら、私が感じていた悶々とした閉塞感に、風穴があいたためではないか。
私は改めて、自己開示について考えなおしてみた。

●自己開示

 自分をどの程度まで、相手に開示できるか。それでその人との親密度を知ることができる。

(自己開示度1)自分の生年月日程度を開示する。
(自己開示度2)家族や、親類程度のことを開示する。
(自己開示度3)夫婦生活や、子どもの成績などを開示する。
(自己開示度4)夫婦生活や自分の過去、性体験などを開示する。
(自己開示度5)自分の犯罪歴、精神的な病や、性的性癖を開示する。

 この点、愛しあう男女は、自己開示度が高い分、信頼関係を結びやすい。素っ裸になり、狂
おしいほどに相手を求め、そして同じことを、相手に許す。夫婦であることのすばらしいさ、セッ
クスのすばらしさは、ここにある。

 言いかえると、夫婦でありながら、また親子でありながら、自己開示度が低いということは、そ
もそも家族が、家族として機能していないということになる。が、それはさておき、では、他人と
の関係は、どうなのかという問題がある。

 こうして考えてみると、自己開示度5まで開示できる相手というのは、きわめて限られることが
わかる。私にしても、ワイフや家族をのぞいて、ほんの数人ではないかと思う。もっと厳密に
は、2、3人の友人でしかない。

●個人的な問題

 私は、そういう意味では、閉塞的な人間である。子どものころは、自己開示ができなかった。
わかりやすく言えば、他人には、簡単には、心を開かなかった。……開けなかった。よく「浩司
は、商人の子だからなあ」と言われた。愛想はよく、だれにも好かれようと、へつらったからだ。
しかしそれは本当の自分ではなかった。本当の自分は、もっと別のところにいた。

 このことは社会人になってからも、同じだった。さらに結婚してからも、同じだった。今のワイ
フと結婚してからも、隠しごとばかりだった。自分の家族関係などは、あまり話さなかった。が、
幸運にも、そのあと、私は幼児教育をするようになり、子どもと接触するようになった。そしてそ
ういう子どもを見ながら、私が何であるかを、思い知らされるようになった。

 つまりは、「自分さがし」ということか。

 私はある日、思い切って、自分をさらけ出してみた。自分の過去を語ってみた。そのとき私が
最初に考えたのは、「相手がどう思うとかまわない」という居なおりだった。「どうせ2人の人に、
よい顔はできない」(イギリスの格言)と。

 しかしそれはすがすがしいほど、気持ちのよいものだった。そこでさらに自分をさらけ出して
みた。さらに気持ちよくなった。……あとは、この繰りかえし。私はいつしか、自分をさらけ出す
ことで、私の中の私が、何であるか、わかるようになった。

 もちろん気まずいこともあった。後悔することもあった。不用意なさらけ出しで、相手をキズつ
けてしまったこともある。そういう失敗もあるが、そういう流れの中で、私は、自分らしく生きるこ
とのすばらしさを学んだ。

●みなさんへ

 さあ、みなさんも、勇気を出して、自分をさらけ出してみよう。
 あなたはあなただ。あなたにどんな問題があったとしても、
 それはあなたの責任ではない。あなたが恥じるべきことではない。

 指が5本、あるように。体が空気を吸って吐き出すように、
 あなたはあなたであって、あなたではない部分がある。
 そのあなたでない部分が、あなた自身を見えなくしている。
 そこではあなたは、本当のあなたが何であるかを知るために、
 自分をさらけ出してみる。「これが私だ。どこが悪い!」と。

 飾ることはない。見栄やメンツ、虚栄を張ることもない。
世間体という、他人の目を気にすることもない。あなたはあなただ。

それでその相手があなたを嫌うなら、その相手とは、それまで。
あなたに失望したりするようなら、その相手とは、それまで。
しかし本当の妻や夫、家族や友人は、それでも残る。
残ったとき、そこを基盤として、たがいの真の信頼関係ができる。

【追記】

 なんともまとまりのない文書ですみません。このつづきは、もう少し冷静になったとき、考えま
す。ボツにしようかと考えましたが、記録として残すことにしました。考えてみれば、私はこうして
マガジンを発行することによって、さらけ出しをしているのかもしれません。読者のみなさんは、
こうした文章を読んで、どのような印象をもちますか?





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【「自由」について】

++++++++++++++++

昨日、あるところで講演をしたとき、
少しだが、私の「自由論」を話した。

サルトル、ボーボワールという、どこか
古典的な哲学者の名前も出した。

しかし、今、サルトルとかボーボワール
という名前を知っている人は、どれほど
いるだろうか。

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●自由の限界

 いくら「私は自由だ」と叫んだところで、その「私」には、無数の糸がからんでいる。父親として
の糸、夫としての糸、家族の一員としての糸、男としての糸、社会的人間としての糸、さらには
人間そのものとしての糸。

 行動の自由はともかくも、魂の自由となると、自らを、その「糸」から解放させるのは、容易な
ことではない。たとえば私がもっている、「意識」にしても、「私の意識」と思い込んでいるだけ
で、本当は、だれかによって作られたものかもしれない。

 よい例が、カルト教団の信者たちである。

 彼らは、みな、一様に、満ち足りたかのような笑みを浮かべている。本当は、思想を注入され
ているだけなのに、それを(自分の思想)と思い込んでしまっている。中には、常識はずれな行
動を平気でする人もいる。

 ためしにそういう人たちに、こうたずねてみるとよい。「あなたたちは、自分で考えて行動して
いますか」と。すると彼らは、まちがいなく、こう答える。「私たちは、自分の意思で、行動してい
ます」と。

 今の私は、カルト教の信者とはちがうと思っている。しかし、実際には、それほどちがわない
のかもしれない。

 加えて本能の問題もある。

 先週も、ある温泉に泊まったが、実に無防備な温泉であった。近くに露天風呂があったが、
のぞこうと思えば、いくらでものぞけた。そこには、素っ裸で入浴している女性たちがたくさんい
たはず。

 近くに行けば、素っ裸の女性たちを見ることができたかもしれないが、結局は、私は、その場
所をわざと遠回りをして、避けた。

 つまり女性の裸に興味をもつのは、本能がそう思わせるだけであって、決して、「私」ではな
い。私が見たいと思うのではなく、私ではない「私」が、私にそう思わせただけ。

 ……こう考えていくと、自由を問題にする前に、どこからどこまでが、(私の意識)であり、どこ
から先が、(作られた意識)なのか、わからなくなってくる。

 さらに加齢とともに、ボケの問題も、それに加わる。

 頭のボケた人を見ていると、自分がボケたことすら、気がついていないことがわかる。つまり
ボケといっても、程度の問題。「私はボケていない」と思っている私やあなたにしても、すでにボ
ケは、始まっているのかもしれない、などなど。

 そこで、あのジャン・ポール・サルトル(1905〜1980)。サルトルは、1938年に『嘔吐(は
きけ)』という本を発表している。その中で彼は、「すべてが消えうせたあと……淫乱な裸形だけ
が残った」というようなことを書いている。

 私自身は、そんな気分になったことはないが、理屈の上では、理解できる。

 私が今、この目で見ているものにしても、「見ている」と思っているだけで、実は、脳の後頭部
にある、視覚野に映し出された映像を、脳みそが感知しているに過ぎない。しかも、見ているも
のといっても、ある特定の波長の中にある、光の映像でしかない。

 そこにものがあるのか、ないのかということになれば、本当にあるのだろうか。今の今も、パ
ソコンの画面をこうして眺めながら文字を書いているが、パソコンと私の間には、酸素分子や
窒素分子がぎっしりと詰まっているはず。しかしそういうものは、見えない。分子の密度というこ
とを考えるなら、パソコンを構成している金属やプラスチックの分子と、ほとんどちがわない。

 見えているもの、聞えているものだけをもとに、自分を組み立てていくと、とんでもない袋小路
に入ってしまう。つまり私たちが言うところの意識には、そういう危険な側面が隠されている。そ
ういう危険な側面を知らないまま、いくら魂の自由を説いても、意味はない。

 むずかしい話はさておき、自由に生きるということは、それ自体、不安と孤独との戦いである
と断言してもよい。頼れるものは、私だけという世界である。サルトルが説いた「実存」という世
界は、そういう世界をいう。だからみな、こう言う。「(実存の世界では)、一寸先は闇である」と。

 わかりやすく言えば、明日さえ、どうなるかわからない。さらに「私は自由だ」といくら叫んだと
ころで、やがて「死」という限界の中で、人は、その自由を、すべて奪われる。つまり究極的な
自由というのは、存在しないということになる。そこでサルトルの場合は、『存在と無』(1943)
という言葉を使って、実存がもつ限界を打ち破る。

 昨日の講演では、それについて話した。もっとも、主題は、「子育て講演」だったから、私の子
育て論の中に、それを織り交ぜただけだが、ともかくも、それについて話した。が、本当のとこ
ろ、自分でも、よくわかっていない。わかっていないことを話したわけだから、無責任といえば、
無責任。

 そんなわけで、これからはしばらくもう一度、「自由」について、集中的に考えてみたい。今朝
が、その第一歩ということになる。





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●子育てのすばらしさ

+++++++++++++++++

子育ては、ただの子育てではない。
子どもは、ただの子どもではない。

親は、子育てを通して、その子どもから
貴重なものを学ぶ。

+++++++++++++++++

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのような
ものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自
分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあ
ざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さ
を見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」
を教えられる。

いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私
のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲
を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてく
れる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか
る。

子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。





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●自由が育てる常識 

+++++++++++++++

私たちが求める常識といったものは、
外の世界にあるのではない。

私たちの中にある。中にあって、
私たちに見つけてもらうのを、
静かにまっている。

+++++++++++++++

 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしまうこと
を、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数10万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身につけ
た。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を傾けてみれ
ばよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここちよい響きとなって心
にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、不快な響きとなって心にか
えってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口には
なるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもというのは、常識
をよくわきまえている子どもということになる。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、ガンプの母親
はこう言っている。「バカなことをする人を、バカと言うのよ。(頭じゃないのよ)」と。その賢い子
どもにするには、子どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由というのでは
ない。つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きて
いくということ。

しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことでもある。頼れるのは自分だ
けという、きびしい世界でもある。言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきび
しさに耐えること、ということになる。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えること
ができる子どもにするということ。

もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で静かに自分を見つめることがで
きるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の表現を
借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがかかっている。あ
るいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃いて捨てるほどい
る。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。だから自分を静かに見つめるなどという
ことは、夢のまた夢。

親たちも、利口な子どもイコール、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境
の中で、子どもはますます常識はずれの子どもになっていく。人間としてしてよいことと、悪いこ
との区別すらできなくなってしまう。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしているという意
識そのものが薄い。だからどんどん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反するもの
であっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは同じ。そう
いう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中から、心豊かな
常識をもった人間が生まれてくる。





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●過去を再現する親たち

++++++++++++++++

私たちは無意識のうちにも、過去を
引きずりながら生きている。

つまり私であって私でない部分に、
いつも引きずられながら生きている。

++++++++++++++++

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に
襲われる。

受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。

実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。…どこかの試験
会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほと
んどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが
刻々とすぎる…。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親
に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのも
のが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではな
い。

こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬してい
ない」と答えた中高校生は、55%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生は、8
0%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、子ども
の心は親から離れる。

 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会
場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩く
ようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あ
せってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だ
が、私の魂は解放された!

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、
その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それ
で問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみ
てほしい。





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【今を生きる】

++++++++++++++++++

今を生きる。
口で言うのは簡単なこと。
しかしその「今」を生きることは、
たいへんなこと。きびしい。

++++++++++++++++++

●いつか死ぬ。だから生きる。

 病気があるから、健康のありがたさが、わかる。同じように、死があるから、生きることのあり
がたさが、わかる。

 もし病気がなかったら、健康のありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 もし死がなかったら、生きることのありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 しかし病気も、そして死も、できれば、避けたい。病気はまだしも、死は、その人の(すべての
終わり)を意味する。つまり人は、死によって、すべてをなくす。「私」という自分のみならず、こ
の宇宙もろとも、すべてをなくす。

●生きることの不安

 ……そう考えることは、たいへん不安なことである。つまり死ぬことを考えると、不安でならな
い。しかしその不安が、「今」を生きる、原動力となる。「かぎりある人生だからこそ、今を懸命
に生きよう」と。

 こうした死生観、それにつづく「不安」を説いたのが、あのドイツのマルティン・ハイデッガー(1
889〜1976)である。ハイデッガーは、フライブルク大学の総長をしていたとき、ナチス支持
の演説をしたことで、戦後、批判の矢面(やおもて)に立たされた。そういう側面は別として、彼
が残した業績は大きい。実存主義の骨格を作ったと言っても過言ではない。

 ハイデッガーの説いた、「存在論」、「実存論」は、その後、多くの哲学者たちに、大きな影響
を与えた。

●不安との戦い

 で、話を少し、もどす。その不安を感じたとき、どうすれば、人は、その不安を解消できるか。
つまり生きることには、いつも、何らかの不安がともなう。それはたとえて言うなら、薄い氷の上
を、恐る恐る、歩くようなもの。その薄い氷の下では、いつも「死」が、「おいでおいで」と、手招
きしている。そういう不安を、どうすれば解消することができるか。

 そういう点では、実存主義は、たいへんきびしい生き方を、人に求めるていることになる。今
を生きるということは、「私は私であって、私にかわるものは、だれもいない」という生き方のこ
とをいう。

 たとえば地面を歩くアリを見てみよう。

●私しかできない生き様

 あなたがある日、その中のアリを一匹、足で踏みつけて殺してしまったとする。しかしそれで
アリの世界が変わるということはない。アリの巣はそのまま。いつしかそのアリの死骸は、別の
アリによって片づけられる。そのあと、また何ごともなかったかのように、別のアリがそこを歩き
始める。

 そういうアリのような生き方をする人を、ハイデッガーは、「ただの人」という意味で、「das M
ann」と呼んだ。わかりやすく言えば、生きる価値のない、堕落した人という意味である。

 今を生きるということは、だれにも、自分にとってかわることができないような生き方をするこ
とをいう。社会の歯車であってはいけない。平凡で、単調な人生であってはいけない。私は、ど
こまでも私であり、私しかできない生き方をするのが、「私」ということになる。

●宗教

 少しわかりにくくなってきたので、話をわかりやすくするために、こうした生き様の反対側にあ
る、宗教を考えてみる。

 ほとんどの宗教では、「あの世」「来世」を教えることによって、この世を生きる私たちの不安
を、解消しようとする。「あの世がちゃんとあるから、心配するな」と。

 つまりほとんどの宗教では、死後の世界を用意することで、「死」そのものを、無意味化しよう
とする。実際、あの世があると思うことは、死を前にした人たちにとっては、それだけでも、大き
な救いとなる。あの世に望みを託して、この世を去ることができる。

 しかし実存主義の世界では、あの世は、ない。あるのは、どこまでも研ぎ澄まされた、「今」し
かない。が、そうした「今」に、耐えられる人は、少ない。私が知る人に、中村光男がいる。

●中村光男

 一度だけ、鎌倉の扇が谷の坂道で、すれちがったことがある。中村光男の自宅は、その坂
道をのぼり、左側の路地を入ったところにあった。恩師の田丸先生が、小声で、「あれが中村
光男だよ」と教えてくれた。私は、それを見て、軽く会釈した。

 その中村光男は、戦後の日本を代表する哲学者であった。ビキニ環礁での水爆実験の犠牲
となった、第5福竜丸事件以来、反核運動の旗手として活躍した人としても、よく知られている。

 その中村光男ですら、死ぬ1週間前に、熱心なクリスチャンであった奥さんの手ほどきで、洗
礼を受け、クリスチャンになったという。何かの月刊誌にそう書いてあった。

 私はそれを知ったとき、「あの中村光男ともあろう人物が!」と驚いた。つまり「死」は、それ
ほどまでに重大で、深淵である。だから今の私には、実存主義的な生き方が、はたして正しい
のかどうか、わからない。またそれを貫く自信は、ない。

●あの世はないという前提で生きる

 だがこれだけは言える。

 私は、今のところ、「あの世」や「来世」は、ないという前提で生きている。見たことも、聞いた
こともない世界を信じろと言われても、私にはできない。だから死ぬまで、懸命に生きる。私で
しかできない生き方をする。

 あの世というのは、たとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たればもうけものだが、しかし最
初から、当たることを前提にして、予算を立てるバカはいない。

 その結果、いつか、死ぬ。私とて、例外ではない。で、そのとき、あの世があれば、もうけも
の。なくても、私という(主体)がないのだから、文句を言うこともない。

●そこで私は……

 そのハイデッガーは、1976年に死去している。私がこの浜松で、結婚し、ちょうど二男をもう
けたころである。彼の死が、全国ニュースで報道された日のことを、私は、つい先日の日のよう
に、よく覚えている。その少し前の1970年に、あのバートランド・ラッセルが死んでいる。実存
主義の神様と言われる、(実存主義の神様というのも、矛盾した話だが……)、ジャンポール・
サルトルは、1980年に死んでいる。

 みんな、どんな気持ちで死んだのだろうと、今、ふと、そんなことを考えている。

 そうそう中村光男だが、田丸先生の家の前の家に住んでいた。で、彼が死ぬ1週間前に、ク
リスチャンになった話を田丸先生にすると、田丸先生は、どこか感慨深げに、ポツリとこう言っ
た。「あの中村さんがねえ……」と、

 田丸先生も、それを知らなかったらしい。

 このエッセーをしめくくるために、最後に一言。

●ドラマにこそ、価値がある

 こうしてみなが、それぞれ一生懸命に生きている。その生きることから生まれるドラマにこそ、
私は、価値があると思っている。実存主義であろうと、なかろうと、そんなことは構わない。だれ
が正しいとか、正しくないとか、そんなことも、構わない。

私は、そのドラマにこそ、人間の生きることのすばらしさを感ずる。
(06年6月15日の夜に……)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ハイ
デッガー サルトル ジャンポール・サルトル バートランド・ラッセル 実存主義 はやし浩司 
存在論 実存論)




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●教師のニヒリズム

【子育てで親が行きづまったとき】

+++++++++++++++++

「もうダメだ」と思うときは、
どんな親にもある。

子育てというのは、そういうもの。

+++++++++++++++++

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。

どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかす
がい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫
婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。

もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでいるこ
とのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことな
いから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やった
わ!」と。

話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴任を悲しむ
はずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(33歳)は、夫婦でも別々の寝室で
寝ているという。性生活も数か月に1度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を
楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。

この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさ
に考える必要はない。つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほど
ほどのところで、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、
夫婦や家族、親子関係を正常にする。

ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。そ
れはまさに、「智恵の言葉」だ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【教師が10%のニヒリズムをもつとき】

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どんなに全力投球をしても、
さいごの10%だけは、自分のために
とっておく。

それが教育。決して、100%の
全力投球をしてはいけない。

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●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金八先生』というのがある。武田鉄也氏が演ずる金八先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。またそういう先生を期待しては
いけない。それはちょうど刑事ドラマの中で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうよう
なものだ。ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこ
でどうすればよいのかと聞くと、「明日、娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげて
あやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、1時間分ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。浜松市内で
歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんなこともあっ
た。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。

たまたまその子ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送
した。で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だ
ろうと思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケ
ースがついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの10%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども
 
一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か弱
い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるようだ
ったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また親
は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしい覇気がない。動作も不自然で、
ぎこちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も一〇〇ま
で自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を35年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。

……つまりそこまでわかっていても、私は黙って見送るしかない。それもまさしくニヒリズムとい
うことになる。






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●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と
並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年の
ことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、2
07大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやり
とりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなもの
もあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前
面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験
生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可され
たり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業に
ついていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられます
から、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッション
ズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOと
は(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行って
いるというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能
力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない
新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトよ
り)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めること
を目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる
「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数を
かけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来
の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学
がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようであ
る。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課し
たり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれを
もとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノ
をいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビューを行うも
ので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主
催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大
学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、
大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されま
す。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入
試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これ
からの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ
現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用するこ
とについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入
試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)






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●悪玉親意識

【バケツの底の穴】

+++++++++++++++++

フロッピーディスクを整理していたら、
こんな相談が出てきた。

そのときは相談してきた方の立場になって、
それなりに返事を書いたつもりでいる。

しかし、記憶というのは、いいかげんな
もの。「そういうことがあったな」という
程度には、思い出せるが、そこまで。
もし偶然であるにせよ、その相談を見ることが
なかったら、私は、そんな相談があった
ことすら、思い出すこともなかっただろう。

+++++++++++++++++

 何枚かのフロッピーディスクを、整理していたら、こんな相談が出てきた。パソコンからパソコ
ンへの原稿の移動には、私は今でも、フロッピーディスクを使っている。

 まず、そのときの相談を、そのままここに転載する。当時、相談をしてきた方から、転載許可
をもらった記憶だけは残っている。

+++++++++++++++++

【YDより、はやし浩司へ】

以前にもご相談させていただきましたYDです。 今回は私と実父とのことで、ご相談お願いし
たいと思いました。 

18歳のときに、私は、今の主人とつきあい始めました。そのときは、私が進路未定の状態だっ
たので、私たちの交際は、猛反対されました。 

 幼稚だった私は当時、交際を隠し続けていたのですが、結局、親が知るところとなり、私は家
を飛び出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体の不調が
始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしまし
た。(主治医の先生によると「おびえ」という症状との見解でした。)

 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎたころ、実母が亡くなり、家の敷居をまた
ぐになりましたが、実父との関係は、今でも修復されないままでいます。

 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちを、私には話せるようで、愚痴聞き役のような感じ
でした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。しかし私の話より、
自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思います。そのせいか、
私は心のどこかで、父を軽蔑していると自分では思っています。
 
 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力実家に
は近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと(私を)大事にしてくれ」と訴
えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引き付きあうところが有り、自分と合
わない人間とは付きあわないところがあります。主人の気持ちも考えると、どちらにも強く言え
ないでいます。 

 このお正月に母のお墓参りに行きましたが、場所が北海道と遠いこともあり、また車で行くと
いうこともあり、雪も降ったあとだったので、詳しい日程が立てられないまま行きました。

 結局、予定より2日も余裕ができたので、叔父達に会いに行くことができましたが、事前に詳
しく連絡を入れていなかったことで、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりました。

父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月という
時期だから、余計に考えるべきだった。自分(父)が何も知らないで勝手に決めすぎだ」と言わ
れましたが、今回は行き当たりばったりで、皆に迷惑をかけたのは確かだと、自分では思って
います。 

 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言われた
くないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまった結果だと、
自分では思っています。 

 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行動す
べきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格を考える
と、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーションを取れるよ
うにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。

 また、私たち家族が出向くことによって父が、叔父達に「よろしくお願いします」「お世話になり
ました」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にその必要があるの
なら父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会を見ないまま家庭に入っ
た身として常識に欠けているのか判断ができずにいます。まず何から改善すべきか見出せな
い現状です。

 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか? 聞かせていただ
けるととても嬉しいです。

++++++++++++++++++

 今回は、この相談について考えるのが目的ではない。私自身の記憶についてである。冒頭に
も書いたように、この相談を見つけたのは、偶然である。フロッピーディスクを整理していたら、
この相談が出てきた。

 ここで相談してきた人を「YDさん」としたが、もちろん仮名である。こうした記録を残すときに
は、名前はもちろん、住所、さらには、その人自身とわかるような部分については、すべて書き
改めるようにしている。

 だから今となってみると、YDさんといっても、どこのだれだか、わからない。文面に、「以前に
も……」とあるから、当時は、何度もメールをやり取りした人のようである。しかしどうしても、思
い出せない。なぜだろうと思う前に、自分で自分を信じられなくなってしまう。はっきり言えば、
自分がこわい。

 わかりやすく言えば、私の脳みその底に穴があいているような感じがする。記憶そのもの
が、その穴から、どんどんとどこかへ漏れていく。記憶だけではなく、知識もそうだ。とくに新し
い記憶や知識ほどそうではないか。

 発達心理学の世界では、(本当は「老化心理学」と呼ぶべきかもしれないが)、満55歳前後
を境として、人は、急速に回顧主義を傾くことが知られている。未来を展望するより、過去を回
顧することのほうが、多くなるというわけである。

 しかし実際にはそうではなくて、その年齢ごろになると、新しい記憶や知識ほど、どんどんと
忘れてしまい、その結果として、古い記憶や知識だけが脳みその中に残るからではないのか。
つまり加齢とともに、古い記憶や知識だけが、ますますクローズアップされるようになる。回顧
主義に陥るのは、あくまでも、その結果ということになる。

 もし私が、YDさんからの相談を、20代のころ受けていたとするなら、私は、折につけ、YDさ
んの相談を思い出していたかもしれない。しかしその相談を受けたのは、50代の今。だから記
憶に残ることもなく、そのまま忘れてしまった。

 回りくどい言い方になってしまったが、今回のこの事実は、私に重要な教訓を与えた。要する
に、(バケツの底の穴)ということになるが、その(穴)があることを知っているのと、知らないで
いるのとでは、老後の生きザマに大きな差が出てくる。

 つまりそういう(穴)があることを知り、穴から漏れ出る以上に、記憶や知識を、脳みその中に
注入していかねばならない。そういう作業を怠ると、やがて頭の中はカラッポになるばかりでは
なく、先にも書いたように回顧主義ばかりが強くなってしまう。それこそ毎日、仏壇の金具を磨
きながら日々を過ごすような、そんな生き方になってしまう。

 ……といっても、50歳を過ぎてから、新しいことを始めるというのも、勇気のいることである。
60歳を過ぎれば、なおさらである。どうしてもものの考え方が、保守的になり、後退的になる。
しかしなぜ人はそうなるかといえば、ここに書いた、(バケツの底の穴)で、説明がつく。

 記憶そのものが、残らない。残っても、すぐどこかへ消えてしまう。知識も、そうだ。だからこ
そ、人も50代、60代になったら、それまで以上に、新しい経験をし、知識を補充していかねば
ならない。(バケツの底の穴)が防ぎようのないものであるとするなら、そこから漏れ出る以上
のものを、補ってやる。それしかない。

 今回、YDさんからの相談を読んで、別の心で、その思いを強くした。

++++++++++++++++

当時のことを思い出すために、
YDさんからの相談を、自分の
原稿集の中で、検索してみた。

で、さらに驚いたことに、この相談を
もらったのは、(06年 FEB)とある。

つまり今年の2月!

私はたった9か月前のことすら、
もう忘れてしまおうとしている!

ついでにそのときYDさんに書いた
返事を、そのままここに載せる。

+++++++++++++++++


●「家族」とは何か?

 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しかし一度、
歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることがある。ふつうの苦
しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。

 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我群」と
呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に近い部分に
まで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易なことではない。

 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛される。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となって生まれ
る。

 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、親
子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生まれた
が、親を絶対視する子どもは、少なくない。

が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私は「悪玉
親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人ということにな
る。こういう人は、「親に向かって、何てことを言うのだ!」「恩知らず!」「産んでやったではな
いか!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったではないか!」というような言葉
を、よく口にする。

 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、上下
意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」というのも、
それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはずの、親類の人た
ちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。

 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」を口に
する人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもない。観念的な
(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。

 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は家族
がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、良好な人
間関係を保っているばあいのみ、という条件である。

 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その人を苦
しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自らに「親捨て」と
いうレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。

 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のばあい、
鳥類とは違い、生後、0か月から、7〜8か月くらいの期間を経て、この刷りこみがなされるとい
う。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。

 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、まず、自
分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でもない。もちろん
あなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、(刷りこみ)という作
用によるものだということを知る。

 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それをコントロ
ールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深い底から、あ
なたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思っていても、そう思うのは、
あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。

 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人と同棲
を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書いている。ま
た実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。
 
 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強烈なものである。

 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、安穏
に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につきあって生
きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここでは考えない。

 (2)の方法を、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの原因
が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかしくはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の知れな
い、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。

 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけだが、
それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分自身が、だれか
に依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存性の原因としては、Y
Dさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではないか(?)。

 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立していれ
ば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「おまえはダメな子」
式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつづけてきたように思う。

 そのことにYDさん自身が気がつけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると思わ
れる。

 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘れたほう
がよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではない。いわんや、郷
里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについてたとえYDさんの父親
が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。それこそまさに、悪玉親意
識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親のほうこそ、幼稚と言うべきであ
る。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付しておく。

【YDさんへ……】

 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。

 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求めてく
るまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのないことです。また
どうにもなりません。

 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケラと笑っ
てすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。

 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっている
と、前に進めなくなります。

 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいはその原因と
なっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天上高くいる神なら、
そう考えると思いますよ。

 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あなたの父
親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。だから、あな
たの父親は、親失格ということになるのです。

 そんな父親に義理立てすることはないですよ。

 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あなたの夫の
ところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。あなたの夫が、
「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいのです。

 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。

 では、今日は、これで失礼します。

 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに返事を書
いておきます。お許しください。


【YDさんより、はやし浩司へ】

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私が返事を書いた、翌日、
YDさんより、こんな
メールが届いた。

++++++++++++++++++

はやし先生

先ほど楽天日記を読ませていただきました。

心が楽になりました。ありがとうございまいた。

家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームページから
勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の良い情報
ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。

先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付きあい始めた当初は自分
でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。

父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が何か悪い
ことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるのもよくあることで
した。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと思ってもらえないかもしれ
ないという恐怖心は強かったと、今になると思います。

それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分析でき
ずにいますが・・・。

「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのですが、終
わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。私が父の愛
情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていないから私は自
分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。

その反面、(私は中学生でしたが)、当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されている」
のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに始まってい
たんでしょう・・・。

自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋がりがう
まく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではないかと焦ってい
ます。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大切にすべきだ」と強
く言われる事で、自分を見失ってしまいました。

父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安ですがお
時間を割いて頂きありがとうございました。

追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆境のとき
は夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話をしてくるものに
はわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人の伝統的な良き妻の
像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませていただきこの事を思い
出しました。 

個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。
長々と読んでいただきありがとうございました。

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悪玉親意識についての原稿を
添付しておきます。

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●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

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もう1作……

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●子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。

 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。

 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。

善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと
子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識
というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことを
いう。

 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識
は禁物である。あればじゃまになる。

親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから…
…」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人
は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この
上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらには
たがいを断絶させる。

 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意
識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなも
のがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。

 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。
(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑 はやし浩司 家庭教育 
育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 悪玉親意識 善玉親意識 親
風を吹かす親 上下意識)

【付記】

 今回、ここまでの原稿を再読してみて、いくつか気がついたことがある。

 そのひとつは、ここでいう「悪玉親意識」というのは、(親子の間)だけの話ではないというこ
と。

 悪玉親意識、つまり親風を吹かす人は、あらゆる場面で権威主義的なものの考え方をする。
たとえば弟や妹に対しては、兄風、姉風を吹かす。甥(おい)や姪(めい)に対しては、叔父風、
叔母風を吹かすなど。

 あらゆる場面で上下意識が強く、そのわずかな(差)の中で、人間の優劣を決めてしまう。

 で、本人は、それでそれなりにハッピーなのかもしれない。また多くの場合、その周囲の人た
ちも、それを認めてしまっているから、それなりにうまく(?)いく。兄風を吹かす兄と、それを受
け入れる弟との関係を想像してみればよい。

 こうした上下意識は、儒教の影響を受けた日本人独特のもので、欧米には、ない。ないもの
はないのであって、どうしようもない。はっきり言えば、バカげている。この相談をしてきたYDさ
んの父親にしても、ここでいう悪玉親意識のたいへん強い人だということがわかる。「親は親
だ」「親は偉い」という、あの悪玉親意識である。YDさんは、父親のもつその悪玉親意識に苦し
んでいる。

 が、ここで話が終わるわけではない。

 今度はYDさん自身の問題ということになる。

 現在、YDさんは、父親の悪玉親意識に苦しんでいる。それはわかる。しかしここで警戒しな
ければならないことは、YDさんは、自分の父親を反面教師としながらも、別のところで自分を
確立しておかないと、やがてYDさん自身も、その悪玉親意識を引きついでしまうということ。

 たとえば父親が、亡くなったとしよう。そしてそれからしばらく時間がたち、今度はYDさん自身
が、なくなった父親の立場になったとしよう。すると、今度は、YDさん自身が、なくなった父親そ
っくりになるという可能性がないわけではない。

 ユングが使った「シャドウ」とは少し意味がちがうかもしれないが、親がもつシャドウ(暗い影)
は、そのまま子どもへと伝播(でんぱ)していく。そういう例は、多い。ひょっとしたらあなたの周
辺にも似たようなケースがあるはず。静かに観察してみると、それがわかる。

 で、さらに私は、最近、こういうふうに考えるようになった。

 こうした悪玉親意識は、それ自体がカルト化しているということ。「親絶対教」という言葉は、
私が考えたが、まさに信仰というにふさわしい。

 だからここでいう悪玉親意識をもつ親に向かって、「あなたはおかしい」「まちがっている」など
と言ったりすると、それこそ、たいへんなことになる。だから、結論から先に言えば、そういう人
たちは、相手にしないほうがよい。適当に相手に合わせて、それですます。

 実は、この私も、そうしている。そういう人たちはそういう人たちの世界で、それなりにうまく
(?)やっている。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておいてやるのも、(思い
やり)というものではないか。つまりこの問題は、日本の文化、風土、風習の分野まで、しっかり
と根づいている。私やあなたが少しくらい騒いだところで、どうにもならない。最近の私は、そう
考えるようになった。

 ただし一言。

 あなたの住む世界では、上下意識は、もたないほうがよい。たとえば兄弟姉妹にしても、名
前で呼びあっている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよいという調査結果もある。

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼びあうよりも、「ヒロシ」「アキコ」と呼びあうほうが、兄弟姉妹
は仲がよくなるということ。

 夫婦についても、同じように考えたらよい。





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●よくある子どもの問題


●子育て相談より

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以前、「ファミリス」という雑誌に書いた
原稿が見つかった。

私のHPのほうでも紹介しているが、もう
一度、ここに再掲載する。

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(1)子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それを
あたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経
症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症
状をともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。

 どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけ
を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めた
り、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。


(2)勉強の遅れ

Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)

A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。

 日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。

 さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。

 否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。

 相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。

 さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。


(3)好きになれない

Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。

A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。

 子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。

 ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、1856〜1939)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記憶」と
私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではないが、しこりはしこ
り。心のゆがみのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめられ
た記憶は、そのつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏からあ
やつる。もしあなたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、この
わだかまりをさぐってみたらよい。

 望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。

 今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、7%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。

 あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。

 親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。このタイプの親は、友として子どもの横を歩くことだけを
考えて、あとはなりゆきに任せればよい。10年後、20年後には、あなたは必ず、すばらしい親
になっている。


(4)落ちつきがない

Q 参観授業で見ても、騒々しく、落ちつきがありません。家でも集中力がなく、ワーワーと騒ぐ
だけで、勉強もほとんどしません。(小一男)

A 騒々しい子どもがふえている。「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。ADHD児のほか、思考が乱
舞してしまう子どももいる。いろいろな原因が考えられているが、ひとつに、テレビやテレビゲー
ムがあげられる。瞬間的に、めまぐるしく変化する画面は、右脳を刺激するが、一方、左脳の
働きをおろそかにする。論理や分析、つまり「ものごとを静かに考えて判断」するのは、その左
脳である。

 それはさておき、こうした問題が子どもにあったとしても、今は、それ以上、こじらせないこと
だけを考えて、小学三、四年生になるまで様子をみる。そのころになると自意識が発達し、子
どもは、自分で自分をコントロールするようになる。「こういうことをすれば、みんなに迷惑をか
ける」「嫌われる」「損をする」「先生に注意される」と。それ以前の子どもは、自分が騒々しいと
いう意識すらない。

 ある中学生(男子)は、こう言った。低学年児のころは、落ちつきがなく、学校の先生もたいへ
んだった。しかし「ぼくは、何も悪くなかった。みんながぼくを目のかたきにしただけ」と。おとな
でも、自分の姿を客観的に知ることはむずかしい。いわんや、子どもをや。

 むしろ問題は、無理な指導や強制的な指導、さらには、暴力をともなった威圧的な指導が、
症状をこじらせてしまうこと。せっかく自意識が発達しても、そのため子ども自身が、立ちなお
れなくなってしまう。

 子どもを指導するときは、言うべきことは繰りかえしながら言い、あとは時を待つ。そして少し
でも、言ったことが守れるようになったら、それをほめる。かなり根気のいる作業だが、このタイ
プの子どもと接するときは、まさに根気との勝負。家庭でも、決して短気を起こしてはならない。

 が、悪いことばかりではない。言動が活発な分だけ、好奇心も旺盛で、生活力もある。苦手な
分野もあるが、しかしその分、学力もある。中学生になるころには、かえってよい成績を示すよ
うになることも珍しくない。子どものよい面を信じながら、あとは子どもに合わせた生活を組み
たてる。「30分座って、5分くらい勉強らしきことをすればよし」「勉強と遊びが、ごちゃまぜにな
ってもよし」と。繰りかえすが、このタイプの子どもは、叱っても意味がない。子ども自身の力で
は、どうにもならない。

 問題のない子どもはいない。だから問題のない子育ても、ない。子育てというのはそういうも
の。そういう前提で考える。しかしそれから生まれるドラマが、子育てをうるおい豊かにし、親子
のきずなを太くする。平凡は美徳だが、平凡からは何も生まれない。…そう考えながら、子育
てを前向きにとらえる。


(5)反抗的な態度

Q 最近、子どもの態度が反抗的になってきました。一触即発という状態で、どこかピリピリして
います。(小五女)

A よく誤解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張状態がと
れないことを、情緒不安という。その緊張状態のところへ、不安や心配が入ると、それを解消し
ようと、精神が一挙に不安定になる。情緒不安というのは、あくまでも症状。
 その症状としては、攻撃的暴力的になるプラス型、ぐずったり引きこもったりするマイナス型、
ものに固執する固着型などがある。

 そこで子どもが情緒不安症状を示したら、まず、原因が何であるかをさぐる。慢性的なストレ
スや欲求不満など。ある子ども(小6男児)は、幼児期に読んだマンガの本を大切そうにもって
いた。ボロボロだった。そこで私が、「これは、何?」と声をかけると、「どうチョ、読んではダメだ
と、言うのでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりである。原因は父親にあった。父親
は、ことあるごとに、その子どもをこう、脅していた。「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ。毎
日、3時間は勉強しなければならないぞ」と。子どもの未来をおどすのは、タブー中のタブー。
それはそれとして、こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 子どもが思春期の第二反抗期にさしかかると、子どもの情緒はたいへん不安定になる。そこ
で大切なことは、家庭では、子どもが体を休め、心をいやすことができるようにすること。方法
としては、子どもの側からみて、親の視線をまったく感じないようにするのがよい。あれこれ説
教をしたり、気をつかうのは、かえって逆効果。また家の中で、態度が横柄になり、言葉づかい
が乱暴になるなど、生活習慣が乱れることもあるが、「ああ、うちの子は、外の世界で、がんば
っているからだ」と、大目に見るようにする。「親に向かって、何よ!」式に、頭ごなしに叱っては
いけない。

 なお子どもは、小学三年生くらいを境にして、急速に親離れを始める。学校であったことを、
親に話さなくなったり、女児だと、父親といっしょに風呂に入るのをいやがったりするようにな
る。ただその親離れは、ある日を境に、急にそうなるのではない。日々に、おとなぶったり、反
対に、幼児のようになったり、それを繰りかえしながら、数年をかけて、親離れする。

 しかし症状が、ある範囲に収まっているなら、親は、こうした親離れを喜ばねばならない。子
育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもの反抗をすべて容認せよと
いうわけではないが、一方で、「ああ、うちの子は、自分の道を歩み始めている…」と思いなお
し、一歩、引きさがる。そういう姿勢が、子どもを自立させる。中学生になっても、「ママ、ママ」
と、親に頼る子どものほうが、おかしい。
 

(6)口が悪い

Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男)

A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。

 乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え
るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の
基礎になる。)

 たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その
とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。

 つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために
は、必要なことでもある。

 むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる
ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。

 N君(小五)という、静かでおとなしい子どもがいた。従順で、これといって問題はなかった。し
かし私はある日、彼のノートを見て、びっくりした。そこには、首のない人間や、血だらけになっ
てもがき苦しむ顔、ドクロなどが描かれていた。原因は、父親の神経質な過関心だった。

 言いたいことを言う。思ったことを言う。それができるから、家庭という。あの『クレヨンしんち
ゃん』の中にも、母親のみさえが、義理の父親に向かって、こう怒鳴るシーンがある(V16)。
「ひからびた、ゆで玉子頭」と。そういうことが自由に言いあえる家庭というのは、それだけで
も、すばらしい家庭(?)ということになる。

 私も、よく生徒に、「クソじじい」と言われる。そこである日、こう教えてやった。

私「もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて、教えて」
私「でも、お父さんや、校長先生に言ってはだめだよ。約束するか?」
子「するする…」
私「ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。
 それからというもの、私のニックネームは、美男子になった。生徒たちは私を見ると、うれしそ
うに、「美男子! 美男子!」と。私は一応、怒ったフリをするが、内心では笑っている。
 

(7)親のトラブル

Q このところ親どうしのトラブルが原因で、憂うつでなりません。言った、言わないが、こじれ
て、抜きさしならない状態になっています。

A 親どうしのつきあいは、如水淡交。水のように、淡く、無理なくつきあうのがよい。つきあうと
しても、できるだけ学校の行事の範囲にとどめ、個人的な交際は、必要最低限にとどめる。ほ
かの世界と違って、間に子どもがいるため、一度こじれると、この種の問題は、とことんこじれ
る。親によっては、たいへん神経質な人がいる。神経質になるのが悪いというのではない。そ
れは子育てにまつわる宿命のようなもの。人間にかぎらず、どんな動物でも、子育をしている
間は、たいへん神経質になる。そこでこうしたトラブルを避けるために、いくつかの原則があ
る。

 (1)子どもの前では、学校や先生の批判はもちろんのこと、ほかの親の批判は、タブー。子
どもが先生の悪口を言っても、「あなたのほうが悪い」「そんなことは言ってはいけない」と、たし
なめる。相づちを打ってもいけない。相づちを打てば、今度はあなたが言った言葉として、広ま
ってしまう。それだけではない。子どもは、先生の指示に従わなくなってしまう。そうなれば教育
そのものが成りたたなくなってしまう。

 つぎに(2)子どもどうしの間でトラブルが起き、先生に相談するときも、問題だけを先生に話
し、あとの判断は、先生に任せる。相手の親や子どもの名前は、できるだけ出してはいけな
い。先生は、教育のドクター。判断するのは、あくまでも先生。それともあなたは病院へ行っ
て、自分で診断名をつけたり、治療法を決めたりするとでもいうのだろうか。

 また(3)子どもどうしのトラブルがこじれたときには、まず、あなたのほうから頭をさげる。こ
の世界には、『負けるが勝ち』という、大鉄則がある。先にも書いたように、間に子どもがいるこ
とを忘れてはいけない。大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。またそういう状
態を、用意してあげること。だから負けるが、勝ち。あなたが先に「すみません」と頭をさげれ
ば、相手も、「いいんです。うちも悪いから…」となる。そういう謙虚な姿勢が、子どもの世界を
明るくする。

 が、それでもこじれたら…。先生に問題の所在だけを告げ、一度、引きさがる。これを「穴に
こもる」という。穴にこもって、時間が解決してくれるのを待つ。そしてその間、あなたはあなた
で、子どものことは忘れ、したいことをすればよい。

 ふつう、それほど深刻な問題でないときは、一にがまん、二にがまん、三、四がなくて、ほか
の親に相談と決めておく。ほかの親というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親のことをいう。
そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」というような話で、たいていの問題
は解決する。


(8)帰宅拒否

Q 学校からってくるとき、道草をくってばかりいます。家の中でも、どこか憂うつそうで、あいさ
つをしても返事をしません。(小五男)

A 疑うべきは、帰宅拒否。家庭が、家庭としての機能、つまり体を休め、心をいやすという機
能を果たしていないことを疑う。そこでテスト。

 あなたの子どもは、学校から帰ってきたとき、どこでどのようにして、心や体を休めているだ
ろうか。あなたのいる前で、平然として、休めていれば、よし。しかしあなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げていくとか、好んでひとりになりたがるというようであれば、まず家庭のあり方を反省
する。その一つ、『逃げ場を大切に』。

どんな動物にも、最後の逃げ場がある。子どももしかり。子どもは、その逃げ場に入ることによ
り、体を休め、心をいやす。たいていは自分の部屋ということになるが、その逃げ場を親が平
気で荒らすようになると、子どもは、別の場所に逃げ場を求めるようになる。トイレの中や犬小
屋、近くの電話ボックスの中に逃げた子どもなどがいた。さらにこじれると、家出ということにな
る。

 子どもが逃げ場へ入ったら、追いかけて説教したり、叱ったりしてはいけない。いわんや部屋
の中や、机の中を調べてはいけない。コツは、逃げ場から子どもが出てくるまで、ただひたすら
根気よく待つこと。

これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立
場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そのときあ
なたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれに耐えられる
だろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとか
いう次元の話ではない。子どもの人格を尊重するためにも、また子どもの中に、「私は私」とい
う考え方を育てるためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所と心得る。

 また子どもに何か問題が起きると、「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちがいじめた」と騒ぐ
人がいる。そういうこともたしかにあるが、しかし家庭が家庭としての機能を果たしていれば、
問題は問題となる前に解決するはず。そのためにも、ここでいう家庭の機能を大切にする。

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむ。「絶対的」というのは、疑い
をいだかないという意味。その家庭がぐらつくと、子どもは心のより所をなくし、情緒が不安定
になる。攻撃的になったり、理由もなく、ぐずったりする。ものに固着することもある。神経症に
よる症状(腹痛、頭痛、チック、吃音、爪かみ、髪いじり)を伴うことが多い。ある女の子(小一)
は、鉛筆のハシをいつもかじっていた。


(9)父親の無関心

Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。

A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ
ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。ある女の子(小五)は母親に、こう言った。「どう
してあんなパパと、結婚したの。もっといい男の人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考
えれば、母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは存在していなかったことになるのだ
が…。

 そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ
は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?

 これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約三〇%の夫は、家事をほとんどして
いない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。

 そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊
女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対
のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ
ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。

 こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(三二歳)
は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、
その女性の母親にあった。

 母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性
(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?

 これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約三〇%の若い夫は、育児はもちろん、炊
事、洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。

 …というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。


(10)友だちの問題

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子どもが、
よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めるとしても、行為
のどこがどう悪いかにとどめるという意味。コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」など
と、相手の名前を出さないこと。言うとしても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近
所の人が迷惑をする」と、行為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、そ
の子どもから遠ざかるようにしむける。

 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を迫ること
になる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あなたとの間に、深
刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格そのもの。友を否定すると
いうことは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あつかい
方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということを繰り返しな
がら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。よくあるケースは、(門限を破る)→(親に叱られ
る)→(外泊するようになる)→(また親に叱られる)→(家出する)→(さらに親に叱られる)→
(集団非行)と。

が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手の子ども
を、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、もっていってあげ
てね」と。

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを耳にし
たとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。相手の子ど
もを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属する。あとはそれ
をうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経
験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。むしろこの
時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとなになってから問題を
起こすことが多い。だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながら
も、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こ
して、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ちてい
く。
 
 
(11)子育ての指針

Q 子育ての情報が多すぎて、どう子育てをしたらいいか、わかりません。指針のようなものは
ありませんか。

A 子育てには、四つの方向性がある。まず未来を見る。子どもに子ども(あなたからみれば
孫)の育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育て
るのですよ」「こういうふうに、子どもを叱るのですよ」と。見せるだけでは足りない。幸せな家庭
というのは、どういうものか、夫婦というのは、どういうものか、それを子どもの体にしみこませ
ておく。

 つぎに自分の過去をみる。もしあなたが心豊かで、満ち足りた幼児期、少年少女期をすごし
ているのなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたの性格は、どこかがゆがんでいるとみ
る。ひがみやすい、嫉妬しやすい、いじけやすい、意地が悪い、冷たいなど。そういうゆがみを
知るために、自分の過去を冷静に見る。そしてよい面は、子どもに伝え、そうでない面は、あな
たの代で切る。子どもの代には、伝えない。

 三つ目は、あなたの子育てを、できるだけ高い視点から見る。最初は、近所の人や親類の人
の子育てと比較してみるのもよい。そしてそれができるようになったら、世界の子育てと、自分
の子育てを比較してみる。「日本の子育ては…」と考える。その視点は高ければ高いほどよ
い。まずいのは、小さなカラにこもり、その中で、独善と独断で、ものの考え方を先鋭化するこ
と。これをカプセル化と呼ぶ人もいる。親は、一度このカプセルの中に入ると、何をするにも、
極端になりやすい。

 最後に、あなたの心の中をのぞいてみる。子育ては、ただの子育てではない。たとえばある
母親は、自分の子どもが生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。私の命と交
換に、うちの子の命を助けて」と願ったという。こういう自分の命すら惜しくないという、まさに至
上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 それだけではない。あなたは家庭という小さな世界であるにせよ、子どもに対して、神の愛
や、仏の慈悲を、そこで実践できる。それはまさに崇高な世界といってもよい。子どもの問題を
ひとつずつ克服しながら、神々しいほどまでに、すばらしい人になった母親は、いくらでもいる。

 こうして自分の子育てを、いつも四つの方向から見るようにする。未来を見て、過去を見る。
上から見て、心の中を見る。

 最後に、親が子どもを育てるのではない。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越
える。そういう苦労を繰りかえすうちに、ちょうど稲穂が実り、頭をたれるように、姿勢が低くな
り、人間的な丸みや深みができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育
てる。それに気づけば、あなたは子育てのプロ。もう道に迷うことはない。





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●希望論

●希望と落胆

++++++++++++++++

希望と落胆は、ある一定の周期をおいて、
交互にやってくる。

希望をもてば、そのあとには、必ず
落胆がやってくる。しかしそこで終わる
わけではない。

朝のこない夜はないように、落胆の
あとには、これまた必ず希望がやってくる。

++++++++++++++++

 最近、何かと落ちこむことが多くなった。失敗(?)も重なった。調子も悪い。何をしても、空回
りばかりしている。

 で、そういうときというのは、おかしなもので、自分の書いた原稿に慰められる。つまり自分で
書いた原稿を読みながら、自分を慰める。今朝もそうだ。ふと自分に、『私たちの目的は、成功
ではない。失敗にめげず、前に進むことである』と言い聞かせたとき、それについて書いた原
稿を読みたくなった。

検索してみたら、3年前に書いた原稿が見つかった。

++++++++++++++++++

【私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである】

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に
転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで
知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。
小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてその
あと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)
(03―1―1)





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●マザコン

●マザコン型人間

+++++++++++++++++

マザコンタイプの男性(夫)は多い。
女性にもいる。

そのマザコン、つまりマザーコンプレックス
が高じたものが、「親絶対教」ということに
なる。

21世紀になった今でも、この日本には、
親絶対教の信者は、多い。

+++++++++++++++++

 親が子どもに感ずる愛には、3種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。こ
のうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆ
る溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。

 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとな
になるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていは
げしい家庭内暴力をともなう。

 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとな
になっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。

このマザコンタイプの人の特徴は、(1)マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。
(圧倒的に母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)

それはちょうど溺愛ママが、溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的か
つ犠牲的に、母親に尽くすことを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛
ぶりを他人に誇示するのに似ている。

 つぎに(2)自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化
しようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう
前提を自分の中につくる。

そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価することが多い。これを「誇
大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。「私の母は、○○のとき、こう言って、
私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たちが、よく自分たちの指導者を誇大視す
ることがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の美徳」と説く人は、たいていこのタイプの
男性とみてよい。

G氏(54歳男性)もそうだ。何かにつけて、10年ほど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれ
かが批判めいたことを言おうものなら、猛烈にそれに反発する。あるいは自分を悪者にしたて
ても、死んだ母親をかばおうとする。

 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは
夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし
悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親
をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。

反対に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そも
そも結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を
出すことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰りかえし。






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【親絶対教について】

+++++++++++++++++

親絶対教というのも、カルトのひとつ。
自ら親絶対教を信ずるのは、その人の
勝手だが、しかしだからといって、それを
自分の子どもに押しつけてはいけない。

+++++++++++++++++

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな
い。

Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁い
だ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫
婦、それに1男1女の3世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、
そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。

しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われていま
す。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりには
できないのです」と。しかしこれも問題ではない。

Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、
跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥
や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、そ
の間、横になって休むこともできません」と。

たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言って
いるそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと
でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったと
いう事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だ
った。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前
ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも
のだ。で、私はこう思う。

日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの
地方の、○○民族とそれほど違わない。

もちろん伝統や文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今は
もう、そういうものを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その
人の勝手だが、それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私
たちはその世界まで、立ち入ることはできない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。

実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れて
も、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思う
のですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言って
いるの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。

排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学
者もいる。

 信仰のし方としては、

催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)な
ど。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬
を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団
体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それ
については謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言っ
てはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみ
や苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。

「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したと
き、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればす
るほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
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の特徴 カルト カルト信仰の特徴)







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