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●日本の仏教

++++++++++++++++++

日本の仏教には、いくつかの謎がある。

その第一。なぜ、日本にある仏像は、
どれも例外なく、古代インドのそれではなく、
古代ギリシアの服装をしているのか。

その謎を解く、ひとつのカギがまたまた
見つかった。

++++++++++++++++++

 アフガニスタンの中部にあるバーミヤンで、このほど、5〜6世紀ごろの塔院跡や、高さ3メー
トルはあったとみられる、立仏像のひざ下部が発見されたという。

 発見したのは、UNESCO(国連教育科学文化機構)。

 アフガン考古保護協会のゼマリアライ・タルジ代表は、「7世紀にバーミヤンを訪れたとされ
る、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)が、『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃(ねはん)像が
近くにあるかもしれない」と話しているという(中日新聞06−09−25)。

 が、この記事の中で、私の目をひいたのは、つぎの部分である。

 「……しっくいで覆われた主仏塔側面の柱状の装飾部分には、ギリシア文化の影響を受けた
植物の葉の彫刻が施されていた」と。つまり「ギリシア文化の影響を受けた装飾が施されてい
たという。

 バーミヤン遺跡というのは、一般には、5〜8世紀の造営とされているが、それ以前との説も
ある。アフガニスタンの首都カブール、西約240キロのところに、それはある。

 以前から、このバーミヤンで、インドから伝わってきた仏教と、古代ギリシア文明が融合した
という説はあった。日本の仏像が、どれも、古代インドの服装ではなく、古代ギリシアの服装を
しているのも、そのためと考えてよい。

 ただ私が調べた範囲では、ここに書いた、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)は、バーミヤンまでは
来ていない。現在のチベットあたりまで来て、引きかえしているはずである。それはともかくも、
三蔵法師は、インドまでは行っていない。これは動かしがたい事実である。

 つまり私たちが今、この日本で「仏教」と呼んでいるものは、原型をとどめないほどまでに、そ
の過程で、加工されたものと考えてよい。釈迦経典と言われているものについても、釈迦滅
後、何百年もたってから、そのときどきの仏教徒によって書かれたり、編纂されたものである。

 つまり、日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなった
が、東大の中村名誉教授も、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ
山脈の北を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教
とは異質のものである、と。

 たしかにおかしな点も多い。たとえば、インドでは男性だったカノンが、日本では「観音様」と
いう女性になっている。

ここに書いたように、日本の仏像が、(ガンダーラの仏像もそうだが)、古代インドの服装ではな
く、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシアの服装を身につけている。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこと、など
など。

釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが多い。そう
いうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。さらに総じてみれ
ば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それが中国の土着宗教と結
びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人もいる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。た
だ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、し
かしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがい
まで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見
ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つま
り人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、02年6月)と。

しかし、だ。何もおおげさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識で
はないのか。ほんの少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。そ
れにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、
そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」と。

しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかった! 
その教授は、経典に、自説をこじつけたにすぎない。

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれ
があるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦が
もっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、
どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほし
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 古代
インド 古代ヘレニズム バーミヤン 大乗非仏説 中村元 日本の仏教)

【付記】

 過去を盲目的に踏襲するのは、正しくない。私たちは、そのつど、事実に照らしあわせ、歴史
を修正していかねばならない。

 たとえば仏像にしても、京都や奈良にある仏像が、絶対に正しいというわけではない。考古
学も進んでいることなのだから、衣装を、古代インドのそれに合わせて、仏像を作るということ
も、これからは重要なことではないのか。

 同じように、私たちが釈迦経典と呼んでいるものについても、もし「仏教」を信仰するというの
なら、一度、原点にたちかえって考えてみる必要があるのではないだろうか。




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●荒れる子ども

++++++++++++++++++++

掲示板に、つぎのような相談が寄せられた。

友だちに乱暴する、ウソをつくなど、母親の
Nさんは、そういう子どもを、「どうしたら
いいか」と。

++++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。小1の男の子のことですが、この4月に小学校に入学してから、問題ばかり起こ
すようになりました。

4月は、授業妨害と教室から飛び出す。(言葉尻を捉えて、面白いことをいう。叱られたら、我
慢できない。)

5月は、特定の子を嫌って、言葉の暴力を浴びせかける。(その子に非はありません。)

6月は、いじめっ子に応戦する形で、暴力を振るう。(棒で応戦。)

7月は、架空の話を作り上げ、特定の子供を犯人扱いする。(そのことは何のつながりもありま
せん。)

9月は、授業妨害。また作り話をして特定の子を犯人扱いする。自分で傘を壊しておきながら、
嘘の出来ごとをでっちあげる。

入学してから、チックを指摘されたので、余程、抑圧されているのかと思い、厳しく叱らず諭す
形で接してきましたが、嘘をつくようになってからは、相当厳しく叱るようになり、それがアダに
なったのか、嘘の頻度が増してしまいました。

チックは軽くなっています。

対処のしようがなく、とりあえず、嘘はすぐ見ぬくようにし、なぜ嘘ついたのか聞き、そのあと
に、オモチャの禁止など、罰をあたえるようにしています。

本には、嘘をついてはいけないと思うけど、ついてしまう、などと気になることも言います。

どういう教育をしたらいいのでしょうか?

家でくだらない嘘をつく事は無視すればいいのですが、学校で人に迷惑をかけてはいけないと
思い、悩んでおります。

よろしくお願いします。

【はやし浩司よりNさんへ】

 いろいろな症状が複合しているように思います。多動性、衝動性、虚言癖、かんしゃく発作な
ど。授業妨害がはげしいようであれば、ADHD児の心配もあります。

 環境的には、極端な甘やかしと、極端なきびしさ。この2つが同居していたことが疑われま
す。一方できびしくしながら、結局は、子どもの言いなりになってしまうような環境です。

 虚言癖については、妄想性の虚言癖(空想的虚言癖)が疑われます。これも極端にきびしい
家庭環境、親の威圧的な過干渉、息を抜けないような過関心が原因ではないかと疑われま
す。虚言癖については、このあとに、関連の原稿を添付しておきます(注※1)。参考にしてみ
てください。

 しかしそれ以上に心配されるのが、子ども自身が、心のより所を見失ってしまっていることで
す。自分でも何がなんだか、わけがわからないまま、それに振りまわされているといった感じで
す。

 Nさんのお子さんがそうだというのではありませんが、あたかも脳が乱舞しているかのような
印象を受ける子どもが、今、ふえています。私は、映像文化の影響、脳の微細障害説などを、
疑っています。

 このタイプの子どもは、やたらと頭の回転だけは速く、言動がめまぐるしく変化していくという
特徴があります。それについての原稿も、このあとに添付しておきます(注※2)。(さらに詳しく
お知りになりたいときは、私のHPで、お読みください。随所で、取りあげています。)

 で、小学1年生ということですから、まだ自己意識もじゅうぶん、育っていません。つまり自己
管理能力も、じゅうぶんではないということです。ですから、おとなを相手にするようにして、あ
れこれ説教しても、あまり意味はありません。言うべきことは言いながら、今は、時の流れを待
つしかありません。

 脳が乱舞しているような部分については、小学2年生を過ぎるころには、落ち着いてきます。

 また仮にADHD児であっても、自己意識が育ってくると、自分で自分を管理するようになりま
すから、小学3、4年生を境に、急速に落ち着いてきます。

 妄想的虚言癖については、家庭環境を猛省します。過度な過関心、過干渉になっていないか
を、反省してみてください。暴力、威圧などは、この際、厳禁です。へたをすれば、子どもの中
にもうひとつの心を作ってしまいます。

 子どものウソについては、そのつど、ていねいにそれをつぶしていきますが、しかし罰(ばつ)
は、好ましくありません。おそらく今の状態では、いくら叱っても、効果はないと思ってください。
叱られたとき、罰がこわいから、それらしい雰囲気を表現するだけです。

 で、とりあえず落ち着かせるためには、(1)白砂糖などの甘い食品を一掃する。(2)Ca、M
g、Kの多い食生活、つまり海産物中心の献立に切りかえる。(3)ばあいによっては、カルシウ
ム剤を投与する。(4)リン酸食品を避けるという方法をとってみてください。

 食生活を変えるだけでも、このタイプの子どもは、劇的に変化するはずです。徹底すれば、1
週間ほどで、効果が出てきます。これについても、簡単な原稿を、このあとに添付しておきます
(注※3)。とりあえずしてみるということで、参考になると思います。

 また最後に、こうした子どもの問題では、すでにNさんは、そうなさっておられるようですが、
『負けるが勝ち』と考えて、いつもこちらから頭をさげるようにします。これは、あなたの子ども
自身のためです。

 繰りかえしますが、この種の問題は、どうあせったところで、今は、どうにもなりません。が、
時期(小学3、4年生ごろ)がくれば、急速に症状は収まってきます。それまでに無理をしたりし
て、症状をこじらせないことが大切です。こじらせればこじらせるほど、長引くということです。

 ADHD児については、その心配があるなら、小生のHPをご覧になってください。またその心
配があるなら、一度、専門のドクターに相談なさるとよいかと思います。学校のほうでも紹介し
てくれるはずです。今では、副作用もほとんどない、よい薬が開発されています。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司 

注※1
子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小4)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまか
に話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど
逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。
落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小2)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。

が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたびたび続いた。「宿題ができな
かった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなか
った。そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えること
にした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒
を疑うのか!」と。

そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。「まずい」と思っ
たが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。
●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

注※2
子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。

動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然
神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。そ
の間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちら
の頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、1クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

注※3

●砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメ
リカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分
泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の
抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ
チゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ
シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考え、砂糖断ちをしてみるとよい。子
どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。

たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっと
りとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわ
らかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保
つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶
いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰
を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンク・フードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 荒れ
る子ども 荒れる子供 脳が乱舞する子供 空想的虚言 虚言癖 子供のウソ 子供の嘘 子
どもの嘘)

【Sさんより、はやし浩司へ】

私が少し神経質で威圧的な性格であり、自分もその事を自覚していますので、叱る時と褒める
時のメリハリをつけるように心がけてきました。

それが、極端な甘やかしと、極端なきびしさなのかと思いました。

子供は確かに頭の回転が速く、礼儀正しく、大人の前ではいい子ちゃんを装っている節があり
ます。ですから学校で注意を受けた時は大変驚きました。

先生や周囲の人に嫌われないように、迷惑にならないようにと指示するようになり、毎日「今日
はどうだった?叱られなかった?」と聞いていました。

今日からある程度は大目に見て、少し自由にさせて、寝る前に童話や伝記を読んでやるように
します。

学校の事は本人から話すまで聞かないことにします。
甘いものはあまり食べない子供ですが、砂糖をなるべく排除します。

禁止にしているゲームは30分位の時間を切って解禁してやります。

虚言以外の行動は一度やってからはやらないので、ADHDは考えていませんでした。
なるべく外に連れ出して遊んでやる。

習い事を二つ行かせていますが一つにして本人の好きな事をやらせます。

これで落ち着かなければ心療内科の受診も考えます。

有難うございました。
おかげで何とかやっていく道筋が見えたような気がします。





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●心気症

●不安

++++++++++++++++

80歳をすぎた近所の女性が、
数日前、救急車を呼んだ。

あとで理由を聞くと、便に
大量の血が混ざっていたからだという。

その女性は、自分が、がんになったと早合点して、
そうしたらしい。

しかし、がんではなかった。シロだった。ただ単なる、
切れ痔にすぎなかった。

++++++++++++++++

 私は知らなかったが、近所に住む女性が、救急車を呼んだという。今年、80歳になる女性で
ある。

 あとで人づてに理由を聞くと、便に大量の血が混ざっていたからだという。その女性は、それ
をがんと早合点してしまったらしい。が、病院での検査の結果は、シロ。がんではなかった。た
だ単なる切れ痔にすぎなかったという。

 最初、この話をワイフから聞いたとき、私は笑ってしまった(失礼!)。その女性のような心気
症の人(=大病ではないかと、そのつど、大げさに悩む人)は多い。実は私もその1人だが、し
かし便に血が混ざっていたくらいでは、救急車は呼ばない。

 しかもその女性は、80歳だという。

私「80歳になっても、死ぬのがこわいのかねエ?」
ワ「何歳になっても、こわいみたいよ」
私「そういうものかねエ」と。

 そう言えば、私の母も、89歳になり、足が思うように動かなくなったとき、それを治せない医
師を、「ヤブ医者」と言って、怒っていた。姉が、「89歳にもなれば、みんなそうよ」と懸命になだ
めていたが、母には、理解できなかったようだ。

 この問題には、つまりその人の生死にかかわる問題には、年齢は関係ないようだ。老齢にな
ったからといって、死に対する恐怖感がやわらぐということはない。考え方が変わるということも
ない。

 むしろ現実は逆で、老齢になればなるほど、「生」に執着する人は、多い。ほとんどの人がそ
うではないか。中に、「私はいつ死んでもいいですよ。覚悟はできていますよ」などと言う人がい
るが、たいていは、そう言いながら、かっこつけているだけ。本心でないと考えてよい。

 「死」を受け入れるということは、たいへんなことである。

 イギリスのBLOGから、「死」について書いた賢人たちの言葉を、集めてみる。

★I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will inevitably 
come. And then - I go on to the next thing, whatever it is. One doesn't luckily have to 
bother about that.

私は借りてきた時間の中で、召喚のための小部屋で待ちながら、生きている。それは避けられ
ないもの。で、それから私は、どうあっても、つぎの部屋に行く。幸運にも、人は、それで心をわ
ずらわす必要はない。
Agatha Christie, "An Autobiography"(アガサ・クリスティ「自叙伝」)


★I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes place 
every day.

友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日起きていることなのだから。
Albert Camus

★To the well-organised mind, death is but the next great adventure.

よく準備された心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない。
Albus Dumbledore

★Even in the desolate wilderness, stars can still shine.

人に見放された荒野のようなところでも、星はまだ、輝いている。
Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi (青い自由、白い望み?)

★A Lizard continues its life into the wilderness like a human into heaven. Our fate is 
entirely dependent on our life

とかげは、野生の中に向かって生きつづける。人間が天国に向かって生きつづけるように。
我々の運命は、私たちに生命に完全に支配されている。
Andrew Cornish

★This existence of ours is as transient as autumn clouds. To watch the birth and death of 
beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning in the sky. 
Rushing by, like a torrent down a steep mountain.

我々の存在は、秋の雲のように、一時的なもの。人の生死を見るということは、踊りの動きを
見ているようなもの。人生というのは、空に光る稲妻の閃光でしかない。あるいは、急な山を下
る急流のようなものでしかない。
Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

★100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased.

私たちのうち100%は死ぬ。そのパーセンテージがふえるということは、ない。
C.S. Lewis, "The Weight of Glory"

★Who chants a doleful hymn to his own death?

だれが、自分の死に際して、悲しげな賛美歌を歌うだろうか。
Shakespeare

★We are here to laugh at the odds and live our lives so well that Death will tremble to take 
us.

私たちは、おおいに笑い、楽しく生きるために、ここにいる。そうすれば死は、私たちを連れ去
るのを、躊躇(ちゅうちょ)するだろう。
Charles Bukowski

★All God does is watch us and kill us when we get boring. We must never, ever be boring. 

★すべての神は、私たちをずっと見ていて、私たちがいつ、生きるのに飽きるかを見ている。
だからそれゆえに、私たちは決して、自分の人生に飽きてはいけない。
 Chuck Palahniuk, "Invisible Monsters"

 人生が瞬間的なものなら、80歳になるのも、瞬間にやってくる。若い人たちからみれば、老
後は、ありえないほど遠い未来に見えるかもしれないが、その老後は、瞬間にやってくる。それ
がわからなければ、自分の過去をみることだ。

 少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、「私は生きた」という実感をもっている人は、きわ
めて幸福な人だと思う。もし少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、それが何のためにある
かといえば、その「生きる実感」をつかむためにある。

 その「実感」が、灯台となって、それからのその人の人生の歩む道を、照らす。

 で、この年齢になってますますはっきりとわかってきたことがある。それは青春時代というの
は、人生の出発点ではないということ。青春時代は、人生のゴールそのものであるということ。
それはちょうど、あのサケが、最後には自分の生まれた源流をさかのぼり、そこで死を迎える
ようなもの。

 しかし悲しいかな、少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、その最中にいる人には、それ
がわからない。「人生は永遠」と考えるのはまちがってはいないが、「永遠」と思うあまり、その
時代を浪費してしまう。

 しかしその時代は、1回ポッキリで終わる。……終わってしまう。「まだ先がある……」と思っ
て、人は、生きていく。が、先は、ない。ないから、その日、その日を、悶々とした気分で過ご
す。

 それが不完全燃焼感となって、心をふさぐ。悔いとなって、心をふさぐ。老後になればなるほ
ど、それがより鮮明になってくる。

 冒頭に書いた女性だが、今回は、シロだった。が、この先、何年、生き延びることができると
いうのだろうか。5年だろうか。10年だろうか。体の不調が起きるたびに、ビクビクしながら生
きていくにちがいない。「生きる」といっても、死を先に延ばすだけの人生。明日、その死がやっ
てくるかもしれない。明日はだいじょうぶでも、あさって、やってくるかもしれない。

 では、どう考えたらよいのか。どう死をとらえたら、よいのか。生きることを考えたら、よいの
か。

『友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日起きていることなのだから』と書いた、Albert Camus。『よく準備された心には、死
は、ただ単なるつぎの冒険でしかない』と書いた、Albus Dumbledore。

 彼らの言葉の中に、その答につながるヒントがあるように、私は思う。






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●受験塾の弊害

【ゆがむ、子どもの心】

●子どもの心

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どこかの進学塾に入ったとたん、心がゾッとするほど冷
たくなる子どもというのは、たしかにいる。

10人のうち、3〜4人は、そうではないか。さらにその
うちの1人くらいは、手がつけられなくなるほど、冷たく
なる。

「手がつけられない」というのは、指導の限界を超える
子どもをいう。

自分勝手でわがまま。異常なまでのジコチュー。ものの
考え方がドライ。人間の優劣まで、テストの点数や能力
だけで判断してしまう。

「あいつはバカだ」「こいつはアホだ」と、平気で言いだ
す。

中には、教室へ入ってきたとたん、「ああ、今日は、こ
の教室を学級崩壊させてやる!」と叫んで、一人で、騒
ぎまくる子どもさえいる。

親は、「おかげで、やっと気構えができました」と喜ん
でいるが、とんでもない、誤解!

小学校の4〜6年という、まさに心ができるその時期に、
こういう経験をする子どもは、不幸である。

いつになったら、親や社会や、そして進学塾の自称、
教育者たちは、それに気がつくのか?

+++++++++++++++++++++++++++

 少し前、Yさんという方から、メールをもらった(あとに添付)。それについて、私の掲示板のほ
うに、こんな書き込みがあった(10月6日)。

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●中学受験の塾  

biglobe配信の「子育て最前線の育児論byはやし浩司」を、拝読しております。
「06年10月2日(No786)」を拝読し、思わず共感してしまい、投稿させて頂きました。

中学受験について、Yさんのメールが載っていましたが、将に、「同感!」
です。

子供は、小4男子ですが、今年から、塾に行き始めました。
たまたま、同級生が3年生から通っていたので、"一緒に"という気軽なつもりで、大手進学塾
にしました。

私の塾に対する調査不足だったのですが、入ってみて、勉強の進度、宿題の量、毎回のテス
ト、など、スゴイものでした。

私自身が中学受験経験者なので、自分のころと比較してしまい、"ここまでやらないと、今の中
学受験は受からないのか?!"と、非常に驚きました。

こんな状況を3年間も続けるのか?と、ビックリしながら、テストの成績が悪くて落ち込む子供
のため、分からない問題を説明し、宿題を一緒に見てあげたり。。。の日々を数ヶ月過ごしまし
た。

その成果が出たのか、毎回のテストが、60〜70点くらい取れるようにはなったのですが、子
供の様子が変になり始めました。

その1:チック症状(目の異常なまばたき)
その2:勉強の拒否、
が現れました。

勉強の拒否については、毎日やるテキスト(算数の小問形式10題)でがあるのですが、「やり
なさい」というと、数時間(2時間近くでも)、机の前に座ったまま、鉛筆も持たず、黙ってジッとし
ているのです。

その時は、数時間も粘る根性に、スゴイと思うやら、あきれるやら、怒りをおぼえるやら。。。い
ろいろでした。

このままでは、受験というより、勉強そのものが嫌いになって、問題だ!
人間は、いくつになっても勉強して、自分を成長させるものだというのが持論(私自身も、まだ
まだ勉強中)なもので・・・。

さらに、人間性が崩壊する!と感じ、受験を止めようと決心しました。

が、本人と話をしてみると、近所の中学ではなく、知人のお兄ちゃんが行っている私立校に行
きたいとのこと。。。
本人が、そう言うのであれば、と、いろいろ探しました。

じっくり探せば、ちゃんとありました。

小さな個人塾ですが、先生とお話をして、私が通っていた塾に近い雰囲気があり、"ここなら"と
思い、行き始めました。

大手塾と違い、スケジュール通りに進まなかったり、たまには、授業の半分くらい雑談で終わっ
たりしているようですが、ダジャレで、地名を覚えさせようなど、先生の工夫が感じられ、変えて
よかったと思っています。

大手塾と違い、先生の目も行き届き、落ち着いてきました。成績順でのクラス替えが無いた
め、クラスメートとも仲が良いといった感じです。

受験にクラスメートと仲が良い必要は無いという意見もあるかもしれませんが、塾に行くのが楽
しい方が、楽しくないより良いと思っています。

時々、行きたくない(塾が嫌というより、単に、遊びたい)という発言は出ますが、それは、子供
ですから。。。

以前行っていた大手塾は、大人でも、会社で、ここまで毎回査定されたら、行きたくなくなるな
ぁ、という感じでした。

まだまだ、5年、6年と先が長いので、今後どうなるか分かりませんが、本人次第と思っていま
す。

Yさんのお子さんのように、自主性が付いてくれれば嬉しいのですが、「他人に負けたくない」で
はなく、「自分に負けたくない」の精神で、勉強(その他、何事にもですが)に臨んで欲しいもの
です。

つい感想を述べたくて、長々と書いてしまい、お忙しいところ、すみませんでした。

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【Yさんからのメール】

以前、いただいたYさんからのメールを、
そのまま掲載します。
(マガジン、06年10月2日号より)

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【Yさんより】

こんにちは。
今朝は、涼しかったですね。
秋の虫たちの声が心地いい朝でした。

先日は、延長レッスンしていただきありがとうございました。
お礼が遅くなってしまいすみませんでした。

先生の今朝のブログ拝見いたしました。
息子の受験のことでは、迷うことばかりです。

私個人のことですが、今年は子ども会の役を仰せつかり、
この夏休みは、子ども会の運営、夏祭り大会の準備など、
かなりハードでした。

このことが、多分(?)よかったと思う、いや、思いたいのですが、
息子の受験から、私自身かなり関心がそれていたと思います。
いわゆる、「夏休み中、受験勉強に奔走する親」にならなくてすむ状態でした。

よいほうに解釈すれば、本人に任せていました。

そんなとき、同級生の受験生のお母さん二人と、お話しする機会があり
考えさせられることがありました。

●A男君のおかあさん

「うちでは、勉強をしないから、今度から家庭教師もつけることにした。
それでも心配だから、日曜日の午前中は、夫に勉強をみてもらっています」

「学校の宿題もたくさんあって、本当に大変。」

「もう、毎日毎日こんなことで疲れちゃう。下の娘の時も
こんな思いをするのかと思うと、いやになっちゃう」

●B子さんのおかあさん

「今の成績では無理と、進学塾の先生に言われて、ついでに特訓教室に
申しこんできたわ。週2コースと週3コースがあって、週3コース
にしました」

「B子は、もう、どこの学校でもいいって言い出してしまって
困ってるの」

「毎晩、勉強しなさい、いやの、親子げんかばかり」

私は、それを聞いて、言葉を失いました。
「子どもの人生だから、子どもに任せるしかないから〜〜。」
などと、あやふやな受け答えをしながらも、少々焦る自分が、そこにいました。

そこで、このA男さんとB子さんとの会話を、そのまま息子に話してみました。
そして、感想を聞いてみました。

息子「私は、自分でやりたいから。勉強している横で、監視されたり
ぼくの意見も聞かないで夏期講習やら模試やら決められたら、絶対にイヤだ!!」

「自分がどうしなきゃいけないか自分が一番よくわかってるから、
いちいち言われたら、やる気なくすよ。」

「親にそんなことされたら伸びるモンも伸びないよ。
私だったら耐えられない。」

……と、息子は、かなりはっきりとした口調で意見を言いました。

親が考えているよりも、多分子どもは真っ正面から、
受験に立ち向かっているのだと思いました。
そりゃあ、冷静に考えてみれば
子ども自身の方が緊張しているのは当たり前なのですよね。

実際、息子も仲良しのK君に誘われて夏期講習を受けてきました。
息子に聞いてみると、5日間で、かなり中身が、ぎっしりでした。

毎回、テストがありました。ベスト10は名前が張り出されたようです。
1日目、周りの状況にかなり驚いたようで、どこか気おくれしたと言っていました。
しかし、これが2日目、3日目と尻上がりにやる気が出てきて
ベスト10に名前が載るまでになりました。

うれしいことですが、こんなやり方は5日間ぐらいが限界だな。と
正直、思いました。

ですが、発見しました。
自分を発揮できる力がついてきていると、いうことです。

私は、本当に「BWのおかげだな」と思いました。
年が上の子どもたちから学習の姿勢を学び、物事をよく考える力
をつけていただいたことです。
とにかく「前向きにやろう!」という気持ちが、あふれて見えるのです。

「これは、何年もかけて、はやし先生やほかのBWの子どもさんから
学んで培ったことだな」と思いました。
そして、学習させられるという意識ではなく
「自分は今学習すべき時。自分は負けたくない。だからがんばる。」
と、いうことがよく判断できるまでに、成長しているなと思いました。

息子は「ぼくは、やるときはやるんだからねっ!!」 と、
そんなことを言いたげな様子でした。

で、夏休みも終わりに近づく頃こんな会話をしました。

私「夏期講習どうだった?」
息「結構、刺激になったよ。できる人いっぱいいたしね」
私「でも、いつもいつも順番つけられて勉強するのってどう?」
息「まあ、いつもいつもはイヤだね。でも、たまには刺激になっていいかも」
私「あの塾に通っている子は、1年間とか2年間、毎回やってるんだよ」
息「ぼくは、遠慮する。BWがいいよ。なんか安心する」

S中の説明会には約1500人が来ていたそうです。
単純にその半分(半数は保護者)が受験するとしても
かなりなモノです。

親子共々緊張していた帰り道、BWの前を通ったとき
ちょうどはやし先生と出くわしました。

息「ヘンなおやじ。(失礼!)だけど、癒し系だね。
なんか緊張とれたみたい。はっはっはっ。」

と、そんなことを言っていました。

私自身、正直、焦ります。
本当に、これでいいのかな……と。
周りのお母さんの話やら説明会の人数やら
色んな情報が入ってくるたびに焦ります。

でも、何とか踏みとどまることができているのは
やはり、はやし先生のマガジンや、子どもたちへの対応の仕方などの
影響がかなり大きいと思います。

思春期にさしかかり、息子への対応が以前より難しいなあ〜。
と思うこともしばしばです。

そんなときは 「自分が6年生の時はどうだったであろう」と
考えるようにしています。
何だか、もう一度、子ども時代を疑似体験しているような
そんな気持ちになります。

秋は、私のテニスクラブの試合や子どもたちの学校行事も
目白押し、もちろん子ども会の仕事も…。

息子に負けないように私は私の持ち場で精一杯がんばろうと思っています。

また、いろいろとご助言ください。

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 進学塾の弊害は、何も、(できる子ども?)たちだけに現れるのではない。当然のことながら、
(できない子ども)たちも、大きくキズつく。自らに、(自分はダメ人間)というレッテルを張ってし
まう子どもも多い。

 成績で順位をつけられ、その順位に従って自分の席が決まる……。今、このあたりの進学塾
では、みな、そうしている。大きな進学塾では、成績によって、さらにAクラス、Bクラスと分けら
れている。BクラスからAクラスにあがる子どもには、大きな励み(?)になるかもしれないが、
それと同じ数の子どもが、もがき、苦しむ。自信をなくす。親に叱られる。

 こういう世界で、数か月も過ごせは、子どもは、どうなるか? 半年とか、1年も過ごせば、ど
うなるか? 

 おそらく、どの子どもも、進学塾の中では、借りてきたネコの子のように、おとなしく静かにし
ているのだろう。しかし私のところでは、様子が、急変する。私を、「テメエ」「コノヤロー」と呼ん
でみたりするようになる。中には、突発的に、力任せに、バッグなどで、私を殴りつけてくる子ど
もさえいる。

 何とかなだめて静かにさせるが、この時期の子どもの心は、ゆがむときには、そこまでゆが
む。

 が、気がつかないのは、親だけ。「やっと受験に対する気構えができました」と喜んでみせる。

 そういう親に対して、私は、何と答えればよいのか。「そうですね」とも言えないし、「そうでは
ありませんよ」とも言えない。

 しかし本当の悲劇は、そのあとにやってくる。

 仮に受験にうまくいっても、一度、砂漠のようになってしまった心は、もとには、もどらない。生
涯にわたって、もどらない。もちろん受験に失敗すれば、その後遺症は、深く、いつまでも残
る。

 あえて告白しよう。

 私の二男は、中学2年生のときに、受験勉強を放棄してしまった。「受験勉強なって、くだらな
い」と。しかしそれに対して、私は返す言葉がなかった。まさに、その通りだからである。

 さらに三男は、学部2位という成績で、横浜のY大に入学しながら、その大学を中退してしま
った。やはり、同じようなことを言った。「Y大へ入ってくるような連中は、みな、おかしい」と。そ
れに対しても、私は返す言葉がなかった。まさに、その通りだからである。

 現在の受験競争の中では、どこかおかしな子どもでないと、勝ち残れないしくみになってい
る。またそういう子どもほど、スイスイと、この受験競争を勝ち抜いていく。まともな思考力をも
った子どもほど、その途中で、どんどんとふるい落とされていく。

 それともあなたが、もし、あなたの学力(能力や知力ではない、学力)に順位がつけられ、そ
れでもって席が決まるような世界に押し込められたら、それに耐えることができるだろうか。つ
まりそういうことが平気でできる子どもでないと、生き残ることができない。

 家畜の訓練でも、そんなバカなことはしないぞ!

 で、現在、多くの研究者たちが、「これではいけない」と考え始めている。つまり入試制度、試
験問題の内容、あり方について、考え始めている。恩師の田丸先生も、その1人である。

 たとえばアメリカでは、成績だけでは、ハーバードやMITのような有名大学には、入れない。
絶対に、入れない。学校長の推薦文が必要である。つまり人間的な面での完成度を、より問題
にしている。

 そういうしくみが完成されるまでには、まだまだ長い道のりがあるが、しかしやがて日本も、そ
うなる。またそうならなければならない。

 このままでは、日本の社会は、ますますゆがんでしまう。おかしくなってしまう。

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もう15年ほど前に書いた原稿ですが、
ここに1作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

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●生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学3年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、1年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼
稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。

つまり「よけいなことは言うな」と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、あ
る総合病院の医師だった。ほかにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも1番という進学校に通う、高校1年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小6女児)もいた。やは
りクラスでは、1、2を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見
かけの人間味にだまされてはいけない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだま
せない。彼らは頭がよいから、いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることがで
きるか、それだけを毎日、研究している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

++++++++++++++++

もう1作、原稿を添付します。
(中日新聞掲載済み)

過負担、過過信が、子どもの心をゆがめる
こともあるという、その1例として、
読んでください。

++++++++++++++++
●発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。1人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中児)が、包丁
を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。

話を聞くと、どうやら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わりないのです
が、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のようになって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園や保育園
などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多い。柔和でおとなしく、静
かで、その上、従順だ。しかもたいてい繊細な感覚をもっていて、頭も悪くない。ほとんどの先
生は、「ものわかりがよく、すなおなよい子」という評価をくだす。

しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはその「よい子」を演じながら、その分、
大きなストレスを自分の中にため込む。そしてそのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏
腹に、心はいつも緊張状態にあって、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。ふつう
の激怒と違うのは、子ども自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的にそうな
る。表情も、冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、それに苦労
を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいないし、いわんや幼児で
は、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よくできた子」という印象を受けたら、
それは仮面と思って、まずまちがいない。つまり表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じような様子
を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人のようであると感じた
ら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。

あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断する。運
動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子どもとみる。不安定
な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多い食生活に
こころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症状をこじらせないよう
に、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は外の世界では、がんばっているの
だ』と思いなおして、温かく包んであげること。叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静
に言いながらも、その範囲にとどめること。

このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線をこえて、あなたに危害を
加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわてないこと。ピアノのレッスンについて
は、もちろん、もう何も言ってはいけません」と。

+++++++++++++++++++++

 ここに書いた、(生意気な子ども)については、よく覚えている。名前をX君といった。で、この
事件があった直後、母親を、教室へ呼んで、話をしようとした。とたん、その母親は、怒ってしま
った。怒ったというより、不機嫌な顔をして、私をずっとにらんでいた。

 「あんたごときに、偉そうなことを言われる筋合いではない」といった雰囲気だった。

 で、そのあと、何の連絡もないまま、X君は、そのまま私の教室をやめてしまった。

 そのあとの消息は、聞いていない。

 またここに書いた、(包丁を投げつけた子ども)は、そのあとも、数年、私の教室に通ってくれ
た。名前を、Zさんと言った。そのZさんについてもう1作書いた原稿がある。それを紹介する。
この話の中に出てくる、(娘)というのは、そのZさんのことをいう。

 今回の話とは、直接関係ないが、何かの参考になれば、うれしい。

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●親の心は、子の心

 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。

 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。

 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。

 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。

言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいも
のと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、
自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というよ
り、あえて伝える必要はない。

あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子という
のは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと

いうことになる。


【Yさんからの追伸】

+++++++++++++++++

以上の原稿をYさんに送りましたら、
さっそくYさんから返事が届きました。

紹介させてもらいます。

+++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

はやし先生


おはようございます。
また、雨ですね。
明後日は、私のテニスの地区大会。
明明後日は、幼稚園の運動会。
休日ですが、忙しくなりそうです。


メールありがとうございました。
みなさん同じ場所で同じように悩んでおられるのですね。
元気が出てきます。


最近の娘のクラスの出来事です。
今月末に野外訓練が予定されています。
それに伴って、部屋決め・グループ決め、仕事分担など
人間関係にかかわるたくさんの決定事項があったようです。


クラスの中で、以前から少々浮いている状態のA子さんという子がいました。
ここ数日にわたる、A子さんへの風当たりはかなり激しかったようです。
主張するタイプの子数名が、「A子はくさい」だの「キモイ」だの
「一緒の部屋になるなんて死んでもイヤだ。」だの……。
容赦ない言葉の攻撃があったようです。


娘は、クラスの中では特にリーダー的な存在ではありませんが
自分の許容に大幅に外れることがある時にはそれを許すことができません。
だからといって、自分の考えを皆の前で主張することもできないので
この、よくないクラスの流れを「どうしたらいいだろう…。」と
毎日のように悩んでいました。


A子さんへのあまりにもひどい攻撃を見つけたときには
後から、そっと「今の、大丈夫だった?」と何度か
言ってあげていたようです。


娘 「でも、A子さん何にも言ってくれないんだよね。悪口言われても
   そんなにイヤではないのかな…。」

私 「そんなにあからさまに悪口言われたら誰だってイヤだと思うよ。
   あなたにそっと優しい言葉かけてもらってすごくうれしいと思っていると
   思うよ。」

娘 「だけどね、あんまりA子さんをかわいそうがるのも私としてはいやなんだ
   よね。 だって、ちょっとA子さんに失礼な気がするし…。」


まあ、こんなような会話をここのところ毎日毎日しています。


娘は、毎年担任の先生から言われる言葉があります。
「リーダー性がつけばもっといいですね。」
「穏やかで友達も多い。友人関係がきわめて良好です。」

上の、2点はいつもの決まり文句のように先生から言われていることです。

私自身が子どもの頃は、児童会活動・クラブ活動等集団があれば
リーダーのような仕事をしていたので、娘のような立場の
子どもがよく理解できなくて、正直物足りないなあ と思って
いました。

でも、娘が高学年になった頃から私の娘に対する考えもかなり変わりました。
この子のいいところは、「友達に対して威圧感を感じさせないところだ。」
と、言うことです。
大事なことです。
「いつも目立って活躍する子と同じくらいあなたは重要なポジションだよ。」
と娘に言ってやります。
「そっと、さりげなく友達を救う。(救う!は大げさかもしれませんが)」
娘から教えてもらったことです。


受験は確かに目の前にある大きな目標でありストレスです。
ですが、学校である日々の出来事や家族との会話や人間関係など
そんな一見つまらなそうで地味に見える優しさの積み重ねこそが
最後には、「豊かな一生。」と思えるような気がします。


でも、はやしせんせい!  実際に受験は避けて通れないモノで
できれば合格してほしい。
そんな考えが先行するときもあります。
だから、焦るのです。不安なのです。
こんな気持ちが交差する日々です。


親が、しっかり地に足つけて「最後の砦」に
ならなければいけませんね。

最近娘は受験に対してこんなことを言います。
娘「私ってのんびりしてるよね〜。
 こんな、楽な生活している受験生いないよね〜。」

・・・・・と、です。

これは、私にとってはうれしい言葉です。
まさに、娘が自分自身を叱咤激励している言葉だと受け取れるからです。
受験も勉強も自分のことだ。さあ! やるぞ!と、思っているのでしょうね。
ですが、本当にの〜〜んびりで、ため息が出てしまいます。(笑)
(これが本音かもしれませんが)



先日見学させていただいたKZさんは上のおねえちゃんが
幼稚園から娘と同級生です。
実は、娘をずっと見ていて「どこかいい塾にでもいっているのかな」と
感じていたそうです。
娘を見て、そう思ってくれるとはうれしいことですね。


さすが、BWです!!!



秋も深まってきましたね。
季節の変わり目、お体には気をつけてくださいませ。




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●DV(ドメステック・バイロレンス)

【ドメスティック・バイオレンス】

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家庭内暴力、称して、「ドメスティック・バイオレンス」。
略して、「DV」。

「配偶者(たいていは夫)、もしくは、恋人からの暴力」
をいう。

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●夫婦喧嘩のリズム

 周期的に夫婦喧嘩を繰りかえす人がいる。(私たち夫婦も、そうだが……。)その夫婦喧嘩に
は、一定のリズムがあることがわかる。【安定期】→【緊張期】→【爆発期】→【反省期】というパ
ターンで、繰りかえされる。

【安定期】

 夫婦として、何ごともなく、淡々とすぎていく。朝起きると、夫がそこにいて、妻がそこにいる。
それぞれが自分の持ち場で、自分勝手なことをしている。日々は平穏に過ぎ、昨日のまま、今
日となり、今日のまま、明日となる。

【緊張期】

 たがいの間に、おかしな、不協和音が流れ始める。夫は妻に不満を覚える。妻も、夫に不満
を覚える。忍耐と寛容。それが交互にたがいを襲う。何か物足りない。何かぎこちない。会話を
していても、どこかトゲトゲしい……。ピリピリとした雰囲気になる。

【爆発期】

 ささいなことがきっかけで、どちらか一方が、爆発する。相手の言葉尻をつかまえて、口論に
なったり、言い争いになったりする。それが一気に加速し、爆発する。それまでの鬱積(うっせ
き)した不満が、口をついて出てくる。はげしい口答え。もしくは無視、無言。

【反省期】

 爆発が一巡すると、やがて、反省期を迎える。自分の愚かさを、たがいにわびたり、謝ったり
する。が、それも終わると、今度は反対に、相手に、いとおしさを覚えたりする。たがいに安定
期より、深い愛情を感ずることもある。心はどこか落ち着かないが、「これでいいのだ」と、たが
いに納得する。

 これが夫婦喧嘩のリズムだが、そのうちの【爆発期】に、どのような様相を示すかで、それが
ただ単なる夫婦喧嘩で終わるのか、DV(ドメスティック・バイオレンス)になるかが、決まる。

●ドメスティック・バイオレンス

 東京都生活文化局の調査によれば、

   精神的暴力を(夫から)受けたことがある人……55・9%
   身体的暴力を(夫から)受けたことがある人……33%、ということだそうだ。
 (1997年、女性からの有効回答者数、1553人の調査結果)

 DVの特徴は、大きくわけて、つぎの2つがあるとされる(渋谷昌三・心理学用語)。

(1)非挑発性……ふつうならば攻撃性を誘発することのないことに対して、攻撃性を感ずるこ
と(同書)。
(2)非機能性……攻撃しても、何の問題解決にもならないこと(同書)と。

 わかりやすく言うと、DVが、ふつうの夫婦喧嘩と異なる点は、攻撃される側にしてみれば、夫
が、どうして急に激怒するか、その理由さえわからないということ。またそうして夫が激怒したか
らといって、問題は何も解決しないということ。もともと、何か具体的な問題があって、夫が激怒
するわけではないからである。

 ではなぜ、夫は、理由もなく(?)、急激に暴力行為におよぶのか。

 私は、その根底に、夫側に自己嫌悪感があるからではないかとみている。つまり妻側に何か
問題があるから、夫が暴力をふるうというよりは、夫側が、はげしい自己嫌悪におちいり、その
自己嫌悪感を攻撃的に解消しようとして、夫は、妻に対して、暴力行為におよぶ。(もちろんそ
の逆、つまり妻が夫に暴力をふるうケースもあるが……。)

 ただ暴力といっても、身体的暴力にかぎらない。心理的暴力、経済的暴力、性的暴力、子ど
もを利用した暴力、強要・脅迫・威嚇、否認、責任転嫁、社会的隔離などもある(かながわ女性
センター)。

 アメリカの臨床心理学者のウォーカーは、妻に暴力をふるう夫の特徴として、つぎの4つをあ
げている(同書)。

(1)自己評価が低い
(2)男性至上主義者である
(3)病的なほど嫉妬深い
(4)自分のストレス解消のため、妻を虐待する、と。

 これら4つを総合すると、(夫の自己嫌悪)→(自己管理能力の欠落)→(暴力)という構図が
浮かびあがってくる。

 実は私も、ときどき、はげしい自己嫌悪におちいるときがある。自分がいやになる。自分のし
ていることが、たまらなくつまらなく思えてくる。ウォーカーがいうところの、「自己評価」が、限り
なく低くなる。

 そういうとき、その嫌悪感を代償的に解消しようとする力が、働く。俗にいう『八つ当たり』であ
る。その八つ当たりが、一番身近にいる、妻に向く。それがDVということになる。

 が、それだけではない。その瞬間、自分自身の問題をタナにあげて、妻側に完ぺき性を求め
ることもある。自分に対する、絶対的な忠誠と徹底的な服従性。それを求めきれないと知り、あ
るいはそれを求めるため、妻に対して暴力をふるう。

 こうした暴力行為は、本来なら、その夫自身がもつ自己管理能力によってコントロールされる
ものである。自己管理能力が強い人は、自分を管理しながら、そうした暴力が理不尽なもので
あることを知る。が、それが弱い人や、そうした暴力行為を、日常的な行為として見て育った人
は、そのまま妻に暴力をふるう。

 マザコンタイプの夫ほど妻に暴力をふるいやすいというのは、それだけ、妻に、(女としての
理想像)を求めやすいということがある。

 で、自己管理能力を弱くするものとしては、その人自身の精神的欠陥、情緒的未熟性、ある
いは、慢性化したストレス、精神的疾患などが考えられる。うつ病(もしくはうつ病タイプ)の夫
が、突発的にキレた状態になり、妻に暴力をふるうというケースは、よく知られている。

●対処方法

 妻側の対処方法としては、(あくまでも通常の夫婦喧嘩のワクを超えているばあいだが)、そ
の雰囲気を事前に察したら、

(1)逆らわない
(2)口答えしない
(3)「すみません」「ごめんなさい」と言って逃げる、に尽きる。

 決して口答えしたり、反論したり、言い訳をしてはいけない。夫が心の病気におかされている
と考え、ただひたすら、「すみません」「ごめんなさい」を繰りかえす。この段階で、反論したりす
ると、それが瞬時に、夫側を激怒させ、暴力につながる。

 で、DVも、冒頭に書いたように、4つのパターンを繰りかえしながら起きるとされている。(学
者によっては、【緊張期】→【爆発期】→【反省期】の3相に分けて考える人もいる。)つまりその
緊張期に、どうそれを知り、どう夫をコントロールするかが重要ということ。

 方法としては、気分転換ということになる。要するに、「内」にこもらないということ。サークル
活動をするのもよし、旅行をするのもよし。とくにこのタイプの夫婦は、たがいに見つめあって
はいけない。たがいに前だけを見て、前に進む。

 ただこの世界には、「共依存」(注※)というのもある。暴力を繰りかえす夫。それに耐える
妻。その両者の間に、おかしな共依存関係ができることもある。

 ここでいう【反省期】に、夫が、ふだん以上に妻にやさしくする。一方、やさしくされる妻は、「そ
れが夫の本当の姿」と思いこんでしまう。こうしてますますたがいに、依存しあうようになる。夫
の暴力を、許容してしまうようになる。

 DVは、夫婦という、本来は、何人も割って入れない世界の問題であるだけに、対処のしかた
がむずかしい。今では、DVに対する理解も進み、また各地に、相談窓口もふえてきた。

 この問題だけは、決してひとりでは悩んではいけない。もし夫の暴力が、耐え難いものであれ
ば、そういう相談窓口に相談してみるのもよい。

なおこの日本では、『配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律』も、2001
年度から施行されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 DV 
ドメスティック・バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力 暴力行為 ドメスティックバイオレンス)


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共依存について書いた原稿を
添付します。

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注※……共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック
バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為 ドメスチック バイオレンス)

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DVとは関係ありませんが、
人間関係の複雑さを教えてくれるのが、
つぎの人からのメールです。

参考までに……。

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【親子の確執】

************************

現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。

転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。

このメールの中でのポイントは、2つあります。

子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。

旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。

NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。

みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。

***********************

【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって
私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生
経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を
聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも
ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌
山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ
めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東
京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな
たに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も
体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴
き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親
の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展
したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ
ったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流
産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい
ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな
ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が
さめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家
のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…
などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ
というふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京
を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで
いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの
でした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思
います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩
にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした
りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ
んな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が
ありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生
意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ
と苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ
り、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣
いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった
のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし
て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ
うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷
いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など
など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に
は、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて
はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私
は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を
選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など
と。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた
よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我
が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の
関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼
はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環
からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変
わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ
ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための
本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな
い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問
題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ
ない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」
の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり
愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい
ます。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている
間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識
にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう
に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ
うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ
た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん
ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に
帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助
手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された
ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの
ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ
と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう
になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を
しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの
立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん
とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って
いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに
なりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより





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●家族自我群

 「家族自我群」という「束縛」に苦しんでいる人は、多い。もう6、7年前のことだが、ある会合
で、1人の母親が、こう言った。「盆や、正月が近づくと、憂鬱(ゆううつ)になります」と。

 30人くらいの母親がいた会場だった。私が「どうしてですか?」と聞くと、「盆や正月には、実
家へ帰らねばなりません。私は、それがいやでなりません」と。

 するとこの話を聞いていたほかの母親たちも、「私も」「私も」と、言い出した。5〜7人はいた
のではなかったか。

 私はてっきり、夫の実家のことだと思ってしまった。が、話をよく聞くと、そうではなかった。母
親たちは、自分の実家へ帰るのが、「苦痛だ」と言った。

 理由は、さまざまだった。「父親のそばにいるだけで、息が詰まりそうになる」「自分の居場所
がない」「親孝行を請求してくる」などなど。中でも1人、とくに印象に残ったのは、こう言った母
親がいたことだ。

 「親は、自分の価値観を、問答無用式に押しつけてきます。時代も変わったし、ものの考え方
も変わったのだから、もう少し、今の時代に合わせてほしいです」と。その親は、ことあるごと
に、その母親に、「先祖(=自分という親のこと)を大切にしろ」と言っているそうだ。

 こうした家族であるがゆえに発生する束縛感、あるいは呪縛(じゅばく)感を、「家族自我群」
と呼ぶ。本能の部分にまで刷り込まれている束縛感であるために、ひとたび人間関係がこわ
れると、今度は、それが重圧感となって、その人を苦しめる。

 ふつうの重圧感ではない。ギシギシと音をたてて、その人の心を押しつぶす。しかも一瞬たり
とも、その重圧感は止むことがない。いつも心の外側にぺタリと張りついて、はがれることがな
い。

 憂うつといえば、これほど、憂うつなことはない。

 が、一方、親側のほうは、「伝統」という言葉を使って、自分を正当化する。だから強い。「慣
わし」「習慣」「因習」という言葉を使うこともある。「昔からそうしているから、子どもは、それに
従うのが当然」と。

 さらに……。

 最近だが、こんな話も聞いた。

 その女性(50歳くらい)の両親は、現在、奈良県に住んでいるのだが、このところ両親とも、
認知症の傾向が見え始めたという。そのため、デリケートな会話ができなくなってきたという。

 とくにその女性の母親は、人の話を聞かない。聞かないまま、一方的に自分のことだけをし
ゃべり、そのまま電話を切ってしまう、とか。

 「以前は、子どもたちのことを、まだ相談できましたが、今は、その相談すらできません」と。

 こうなると、家族自我群は、ますます重圧感をともなって、その人を苦しめるようになる。「こ
れから先のことを考えると、憂うつでたまりません。親類の中にも、うるさい人がいて、ああでも
ない、こうでもないと干渉してきます」「最近では、親のめんどうをみるのは娘の義務だから、そ
れなりの覚悟しておくようにと言われました」と。

 こうした問題も、良好な親子関係、親戚関係があれば、まだ救われる。苦労も、苦労でなくな
る。が、それがないと、ここに書いたように、呪縛感をともなった重圧感となって、その人を苦し
める。

 そこで私たちは、どうすればよいのか。

 ひとつは、親としてというより、1人の人間として、自分の子どもが、自分に対して、どのような
意識を作りつつあるか。あるいは今、もっているかを、冷静に判断するということ。

 決して大上段に構えて、「私は親だから当然」「お前は子どもだから当然」と、ものごとを決め
つけて考えてはいけない。つまるところ、親子関係も、一対一の人間関係で決まる。親であるこ
とに甘えてはいけない。親の威厳を押しつけてもいけない。あくまでも一対一の人間関係とし
て、親子を考える。

 でないと、あなたはそれでよくても、あなたの子どもは、それで苦しむ。そうした不要な苦し
み、(まさに不要な苦しみということになるが)、それを子どもに与えないようにするのも、親の
義務ということになる。

 あなたの子どももいつか、社会に巣立つときがやってくる。そのとき、あなたの住む家が、あ
なたの子どもたちの羽を休める古里になっていれば、よし。またそういう「実家」を、あなたは、
子どもたちのために、今からめざし、準備しておく。


●盗品の山?

 1年ほど前のこと。友人に誘われて食事にでかけたときのこと。ふと立ち寄った家の中を見
て、驚いた。

 何と、そこは盗品の山(?)。

 スーパーなどで使う押し車やカゴ、卸し市場で使う台車、それにプラスチック製の箱まであっ
た。その箱には、「xx製菓」というロゴまで入っていた。

 あとで友人にそのことを話すと、「そうでしたか……」「気がつきませんでした……」と。

 たぶんその人は、どこかへ買い物にいくたびに、そこで使う押し車や箱を、そのままもって帰
っていたらしい。万引きとは少し意味はちがうが、しかしそれに近い。

 で、それからというもの、私はそういうものを見つけるのが目ざとくなった。が、同時に、そうい
うものがある家の人は、信用しなくなった。一事が万事。そういうことが平気でできる人というの
は、それなりの人でしかない。

 ワイフは、これについて、今朝、こう言った。

 「名誉や肩書きは、その人を飾る勲章のようなものだけど、盗品というのは、その人をおとし
める刺青(いれずみ)のようなものね」と。

 数年前だが、こんなエッセーを書いたことがある。

 ある女性(70歳くらい)だが、近所の家から植木鉢を盗んできては、それを自分の家に飾っ
ていた女性である。

 しかし、だ。

 盗んできた植木鉢を見て、その人は、本当に、その花の美しさを愛(め)でることができるとい
うのだろうか。私なら、その植木鉢を見るたびに、自分の邪悪な心を見せつけられるように感
じ、とても花の美しさどころではなくなってしまう、と思う。

 つまり(盗んできたという邪悪な心)と、(花の美しさ)が、その時点で、頭の中でショートしてし
まう。

 古い原稿だが、こんな原稿を見つけた。この中で、Uさんというのは、ここでいうその「ある女
性」のことである。

++++++++++++++++++++

●しつけは普遍

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人
格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。

たとえばUさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかし
くなってきた。

近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。
人はそれを、Uさんが老人になったせいだと話していたが、実のところUさんの盗みグセは、T
さんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけ
の気力があった。

しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例
するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときに
は、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそ
れを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。




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●意識

+++++++++++++++

日本人がもっている意識というのは、
決して、普遍的なものではない。
世界の常識でもない。

そんなことを思い知らされる日々が、
このところ、つづいている。

+++++++++++++++

 オーストラリア人たちとつきあっていると、彼らは、しばしば、とんでもない質問をぶつけてく
る。

 日本の山々を見ながら、「木々が密集しているが、どうして日本では、そんなふうに、木が生
えるのか?」とか、「どうして、日本の卵は、白いのか?」とか、など。

 ふだん、私たちが考えたことがないようなことを、彼らは考える。

 オーストラリアでは、一部の地域をのぞいて、(あくまでも私が知る範囲の知識だが、ビクトリ
ア州東部の、ブルーマウンテインから南にかけての地域)、木というのは、まばらに生えるもの
といのが、常識になっている。

 また「どうして卵は、白いのか?」という質問に対しては、「我々は、白人(ホワイト・マン)だか
ら」と答えてやった。

 昨日は、地元のバス会社の旅行パックを利用して、長野県のほうまで行ってきた。が、その
間中、若いガイドが、しゃべりっぱなし。「みやげもの日本一は、どうのこうの」とか、「浜松の名
物は、どうのこうの」とか。旅行に関係のない話ばかり。

 「よくもまあ、こうまでおしゃべりができるものだ」と思うほど、よくしゃべる。

 その間中、オーストラリアの友人たちが、「今、何と言っているのだ」と。で、私は、こう言って
やった。

 「意味のない、すずめのおしゃべりだ」と。ついでに、オーストラリアではどうかと聞くと、「もし
オーストラリアなら、みな、ガイドに向かって、『座って、口を閉じろ』と言うだろう」と。

 加えて、前の座席に座った2人の女性も、たがいにしゃべりっぱなし。合計で、8時間以上
は、しゃべっていた。それを見て、私が、「オリンピックの新記録だ」と笑うと、オーストラリア人
たちも笑った。

 のどかで、平和な旅行だったが、私たちがもっている意識というのは、決して普遍的なもので
もなければ、世界の常識ではない。それを改めて、思い知らされた。つまり意識というのは、作
られるもの。しかも、その意識というのは、やがて種々雑多な日常的な騒音の中に埋もれてし
まって、その輪郭(りんかく)さえ、わからなくなる。

 たとえば昨日も、日本語が話題になった。「日本語には、漢字(中国語)も含めて、3000字
以上ある」と話すと、みな、驚いた。「どうやって、そんなにたくさんの文字を覚えるのか」と。あ
るいは、彼らは、みな、割り箸(ばし)を、割らないまま、それでもって食事をする。私が「割れ」
と教えても、「(割らないほうが)、使いやすい」と。

 日本人にとっては、何でもないことでも、彼らにはそうでない。(もちろんその逆も、あるが…
…。)

 大切なことは、そういう意識の違いというのは、たがいに、認めあうこと。自分たちのもつ意識
を、決して、押しつけないこと。要するに、彼らがしたいように、させてやる。そしてその中から、
学ぶべきものがあれば、学ぶ。つまりこうして、何が正しくて、何がそうでないかを知る。

 自分たちのもつ意識を、絶対に、過信してはいけない。いつも疑って考える。その操作を誤る
と、偏屈で、狭小な人間になってしまう。今回も、改めて、それを思い知らされた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●老人扱い

++++++++++++++++++++

「私は老人だから……」と、大切にされることを
要求する、日本人。

「私は老人ではない」と、老人扱いされることを
拒否する、オーストラリア人。

同じ老人なのに、どうしてこうまで生き様が
ちがうのか?

++++++++++++++++++++

 オーストラリア人たちをあちこち案内していて、気がついたことがある。その中には、80歳前
後の人たちが、何人かいる。

 私は、そういう老人たちの前向きな生き方、考え方を見て、驚いた。本当に、驚いた。だれ
も、老人臭くない。つまり自分たちは、老人とは、思っていない。

 好奇心はおう盛。何か新しいことを発見するたびに、「どうしてだ?」「なぜだ?」と、質問をた
たみかけてくる。

 たとえば小さな食堂へ入っても、のれんを見つけて、「これは何だ?」「何のために、こんなも
のをつりさげておくのか?」と。「本当に、日本のそばでいいのか?」と私が聞くと、「日本では、
日本のものを食べたい」と。姿、形は、80歳前後かもしれないが、中身は、まるで、子ども。子
どもの遠足のように、そのつど、はしゃぎ、騒ぐ。

 日本人は、自ら、老人になっていく。あらかじめ(老人)の形をつくり、その中に、自分をあて
はめていく。「老人というのは、こういうものだ」と。そして「さも自分は、できた人間でございま
す」というような様子をしてみせる。

 一方、オーストラリアには、老人の形、そのものがない。……といっても、その(ちがい)を説
明するのは、むずかしい。ただここで言えることは、「老人だったら、どこの国の老人も同じ」と
考えるのは、明らかにまちがっているということ。

 どうして、こういう(ちがい)が生まれるのか? 

 ひとつには、彼らの生き様が、ストレートであること。裏、表が、ない。まったく、ない。

 たとえば私の家で食事をすませたあとも、みな、さっと立って、洗いものをしてくれる。男も、
女も、だ。当初はそれに面食らったが、彼らにしてみれば、それが自然な行為なのだ。いつも、
自分たちの家では、そうしている。それを、そのまま、私の家でする。

 だからそうしてもらう私のほうは、彼らのしたいままにさせておく。オーストラリア人というの
は、したいことはする。したくないことは、しない。そのあたりの白黒が、はっきりしている。

 決して、儀礼でするとか、義理でするとか、かっこうをつけてするとか、そういうことをしない。
ひとりはかなり金持ちの人だが、破れた靴下を、平気ではいている。そういうことを、何とも思っ
ていない。

 だからつきあっていても、気が楽。初対面の人もいるが、何十年来の友人のように、心が行
きかう。私も、言いたいことを、言う。そのまま言えばよい。「今朝はワイフが、頭痛がすると言
っている」などと言うと、みなが、ワイフに気をつかってくれる。

 日本では、老人は、自ら老人になっていく。またそうであることが美徳とされている。しかしオ
ーストラリアでは、(老人)という意識が、まるでない。その(形)すらない。

 私は、今、その(事実)に強い衝撃を受けている。

 ……そう言えば、私の叔母の1人などは、電話をかけてくるたびに、弱々しい声で、「おばち
ゃんも、年を取ったからねエ……」と言ってくる。「だから、何とかしてくれ」ということなのだろう
が、こと、オーストラリア人については、そういう言葉そのものがない。発想もない。坂道や階段
などで、へたに彼らの腕を取ろうものなら、「私はだいじょうぶ」と、かえって、こちらの手を払い
のけてしまう。

 老人扱いされることそのものに対して、強い拒絶反応を示す。

 私は、今、老人としての、新しい生き方を、考え方を、彼らを通して、学びつつある。これは私
にとって、すばらしい体験といってもよい。

で、今朝は、これからその中の2人を、中部国際空港まで送っていく予定。

 では、みなさん、おはようございます。私も、がんばります。

【提言】

 「老人」という、わけのわからない、プラス、意味のない言葉を、廃語にしよう!






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【いじめ】

+++++++++++++++++++++

いじめの問題は、いじめそのものを問題にしても、
あまり意味はない。

なぜ、いじめが起きるか。その奥にまでメスを入れ
ないと、この問題は解決しない。いつまでもつづく。

いじめというのは、あくまでも、表面に現れた症状。
その症状を見ながら、言うなれば、対症療法ばかりを
繰りかえしても、根本的な解決には、結びつかない。

+++++++++++++++++++++

●北海道で起きた、ある事件

 昨年(05年)、北海道で、1人の女の子が自殺した。何通も、遺書を残しての自殺だった。し
かも、自殺をした場所が、学校の教室だったという。場所が場所だけに、たいへんショッキング
な事件だった。その女の子には、女の子の何かの思いがあって、そうしたのだろう。

 で、そのあと、学校側が、そのいじめを把握していたかどうかが、問題になった。当初、「知ら
なかった」と言っていた学校側。それに対して遺族側は、「遺書にそう書いてあったのだから、
知っていたはず」と反駁(はんばく)した。

 そのあたりの詳しいいきさつは知らないので、これ以上のコメントは、しようがない。遺族(家
族)の無念さを思いやるにつれ、たいへん痛ましい事件であることには、ちがいない。こういう
事件は、あってはならないことだし、また二度と、あってはならない。

 で、その上でというか、この事件からは一歩退いた上で、(いじめ)について考えてみたい。な
ぜいじめは起きるのか。またどうしてこういう事件が起きるのか。

●いじめを把握するのは、不可能

 まず、率直な意見として、子どもどうしのいじめだが、それを学校側、つまり教師がそれを把
握するのは、不可能と言ってもよい。たとえば10人の子どもたちが、集団でワイワイと言いあ
っていたとする。

 ごくありふれた、どこにでもある光景である。そういう中で、どれがいじめで、どれがそうでな
いか、それを見分けるのは、不可能と言ってもよい。笑いあっているから、いじめでないとは、
言えない。深刻な雰囲気だから、いじめとも、言えない。遊びかもしれないし、悪ふざけかもし
れない。

 仮にいじめであるとしても、いじめる側は、それをいじめと意識していないばあいが、多い。ズ
ケズケとものを言う子どもは少なくない。さらに今度は、受け取る側の問題もある。「キモイ」と
言われて気にする子どももいれば、そうでない子どももいる。さらにここにも書いたように、その
場の雰囲気もある。

 もろもろの要素が複雑にからみあって、いじめはいじめになる。こうした事件につながる。

●どこからが学校の責任か

 で、そのいじめについて、どの程度以上が学校側、つまり教師の責任で、どの程度以下が、
学校側、つまり教師の責任でないかという判断も、むずかしい。いじめといっても、暴力的なも
のもあれば、無視、冷淡、もの隠し、仲間はずれにするといういじめもある。いろいろある。さら
にいじめる側にしても、それをいじめと意識しているばあいはなおさら、先生の目を盗んでする
ことが多い。

 またいじめられている子どもにしても、仕返しを恐れたり、「いじめられる自分が悪いのだ」と
自分を責めることによって、かえって口を閉ざしてしまうケースが多い。もちろん親に話すという
こともない。

 そこでたいていのばあい、……というより、ほとんどのばあい、親が自分の子どもの異変に気
づいてから、あわてて対処するということになる。不登校もそのひとつだが、その前兆症状とし
て、いろいろな神経症(心身症)による症状を示す。それを親が感じて、「どうも、うちの子はお
かしい」「先生に相談してみよう」ということになる。

 実際、いわゆる「いじめ」という「いじめ」のほとんどは、親からの相談や通報によって、発覚
する。99%以上がそうではないか。ということは、こといじめに関しては、(1)親自身がいつも
子どもの様子の変化を把握していなければならない、(2)学校(先生)と親の関係を、風通しよ
くしておかねばならない、ということになる。

 しかしだからといって、それでいじめがなくなるわけではない。

 たとえばこんな例がある。

●ピリピリとした雰囲気

 かなり前のことだが、一度だけ、私の幼児教室で、知能テストを実施したことがある。アメリカ
の権威あるテストを、そのまま翻訳して、使ってみた。で、そのテスト結果をみながら、私は、点
数をつけ、それをグラフ化した。が、これが大失敗だった。

 それまで和気あいあいとしたムードだった親たちの様子が、一変してしまった。私がつけた点
数にしても、「どうしてうちの子が、こんな点数なのだ」「どうしてあの子が、うちの子より、いい点
数なのだ」「うちの子は、先生に、1年以上も世話になっているのに、成果が出ていないのは、
どういうわけだ」となった

 まるでハチの巣をつついたような騒ぎになってしまった。言うなれば、それまで静かだった池
に、大きな石を投げ入れたような感じといってもよい。

 で、その後遺症は、それからもずっとつづいた。というより、その時点を境に、教室の運営さ
えむずかしくなってしまった。

 ……ということが、実は、日常的に子どもの世界で起きている。とくに受験期が近づくと、ピリ
ピリとした雰囲気になる。1人か2人、あるいはさらに数人が、その先頭にたって音頭を取るよ
うになる。

 たいていは頭が切れる、成績のよい子どもである。口も達者で、はきはきしている。が、どこ
か心が欠けている。自分勝手でわがまま。ものの考え方が、自己中心的。リーダー格だが、だ
からといって、友だちに好かれているわけではない。

 このタイプの子どもが、えてして、教室に、独特の緊張感をもたらす。ピリピリとした感じにな
る。

 いじめも、こうした雰囲気から生まれると考えてよい。

●受験競争の弊害(?)

 現状では、いじめというのは、起こるべきして起こる。しかも、それを助長しているのが、受験
競争であり、それに狂奔する親たちである。そう断定してしまうのは危険なことかもしれない
が、その可能性は、ないとは言えない。

 その時期を迎えると、親も子どもも、どこか雰囲気がおかしくなってくる。殺伐(さつばつ)とし
てくる。「心豊かな教育」などという言葉は、どこかへ吹き飛んでしまう。

 が、皮肉なことに、ほとんど親たちは、自分の子どもがピリピリすればするほど、それを喜
ぶ。反対に、自分の子どもが、のんびりとした様子を見せようものなら、「こんなことではだめ
だ」と、子どもを叱る。親自身が、受験競争の弊害の恐ろしさを知らない。こんなこともあった。

 1人、たいへん頭のよい子ども(小6・女児)がいた。「頭がよい」というのは、勉強がよくでき
るという意味である。そういう子どもを、親はたいへん喜んでいたが、しかし親は、その子ども
のもつ、心の冷たさには、気づいていなかった。

 ぞっとするほど、冷たかった。表面的には、明るく、ハキハキした子どもだったが、友だちの
価値まで、成績で決めてしまうようなところがあった。平気で、「あいつはバカだ」「あいつはアホ
だ」と言っていた。

 で、そのことを母親に告げようとしたことがあるが、私は会ったとたん、何も言えなくなってしま
った。その母親自身も、やはりぞっとするとほど、心の冷たい人だった。それを知ったとき、私
が言おうとしたことは、そのまま、喉の奥に引っこんでしまった。

 こういうケースは、たいへん、多い。

 つまりこうして加速度的に、いじめの温床が作られていく。

●学校だけを責めるのは、酷(?)

 北海道で起きた事件は、たいへん痛ましい事件である。そのことには、まちがいない。そうい
う形で自分の娘をなくした親にしてみれば、その心痛はいかばかりか。それを思うと、この私で
すら、いたたまれない気持ちになる。しかもそれが、事故ではなく、いじめが原因ということな
ら、なおさらであろう。

 が、しか、しその一方で、学校側だけを責めるのも、私は酷だと思う。もちろん学校側に責任
がないと言っているのではない。あるいは、こうまで問題がこじれてしまった背景には、私たち
が知らない、何かの事情があるのかもしれない。

ただあえて学校側を擁護するなら、意図的にウソをついたというよりは、こと問題が、ほかの子
どもたちにからむ問題であるだけに、できるだけ穏便にすませようとする学校側の意図が働い
たとも考えられる。

 「だれがいじめた」「どうしていじめた」ということになれば、当然、子どもたち自身が被告人に
なってしまう。私がその場にいた教師なら、それだけは何としても避けたいと願うだろう。

 ……と書きながら、私が言えるのは、ここまで。先にも書いたように、私には、その内情がよく
わからない。新聞に報道された事実だけで、判断をくだすことも、これまた危険なことである。
ただ最後に、一言だけつけ加えるなら、その子どもを取り巻く環境が、もう少し風通しのよいも
のであったら、この種の事件は、防げたかもしれないということ。

 その子どもが、親や先生に、そのときの気持ちや状況を、そのまま訴えることができたとした
ら、親や先生も、適切に対処できたかもしれない。つまりそういう環境がなかったということも疑
われる。というのも、実際問題として、先生自身が、子どもの世界に入りこんで、いじめを発見
するというケースは、きわめてまれだからである。

 ほとんどのばあい、親からの相談などで発覚する。あるいは何か、具体的な事件が起きてか
ら発覚する。

 そこで重要なことは、つまりこの種の事件の再発を防ぐためには、(風通し)をよくするという、
その一語に尽きる。親と学校側の風通しが大切であることは言うまでもないが、子どもと親、子
どもと学校の風通しをよくする。

 つまり子ども立場でいうなら、親にも、先生にも、何でも言いたいことを言い、相談したいこと
を相談できるという環境ということになる。それがとどこおったとき、この種の事件は、起きる
(?)。

 どうしてそれができなかったのか。考えれば考えるほど、今回のこの事件は、たいへん残念
な事件ということになる。




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●乳幼児の記憶

 新生児や、乳幼児にも、記憶はある。科学的にそれを証明したのは、ワシントン大学のメル
ツォフ(発達心理学)らである。しかもその記憶の量と質は、私たちが想像するよりも、はるか
に濃密なものであると考えてよい。

 その一例として、野生児がいる。生後直後から、人間の手を離れ、野生の世界で育てられた
人間をいう。よく知られた野生児に、フランスのアヴェロンで見つかった、ヴィクトールという少
年。それにインドで見つかった、アマラ、カマラという二人の少女がいる。

 アヴェロンの野生児についていえば、発見されたときは、推定12歳ほどであったが、死ぬま
での40歳の間に覚えた単語は、たった3つだけだったという。またインドの2人の少女は、完
全なまでに動物の本性と生活条件を身につけていたという。

感情表現もなく、おなかがすいたときに怒りの表情。肉を食べたとき、満足そうな表情を見せた
以外、生涯、ほほえむこともなかったという。

 この野生児からわかることは、乳幼児期の記憶、なかんずく、生活環境が、きわめて濃密な
形で、その人間の人格形成に影響を与えているということ。またその時期にできた、いわゆる
人格の「核」というのは、その後、生涯にわたって、その人のまさに「核」となって、その人の生
きザマに影響を与えるということ。

 私たちは新生児や乳幼児を見ると、そのあどけなさから、「こういう幼児には記憶などあるは
ずがない」とか、あるいは、自分自身の記憶と重ねあわせて、「人間の記憶が始まるのは、4、
5歳の幼児期から」と考えやすい。しかしこれは誤解というより、まちがいである。

 子どもは生まれたときから、そして乳幼児期にかけて、ここにも書いたように、きわめて濃密
な記憶を、脳の中にためこんでいく。しかも重要なことに、人間は、自分の子育てをしながら、
自分が受けた子育てを、再現していく。

これを私は、勝手に「人格の再現性」と呼んでいる。子育てを再現するというよりは、その人自
身の人格を再現するからである。

 わかりやすい例でいえば、たとえば自分の子どもが中学生になると、ほとんどの親は、言い
ようのない不安や心配を覚える。しかしそれは自分の子どもの将来についての不安や心配と
いうよりは、自分自身が中学時代に覚えた不安や心配である。将来に対する不安、人間が選
別されるという恐怖。それを自分の子どもを通して、親は再現する。

 私も、最近、こんな経験をしている。

 昨年、孫が生まれた。二男の子どもである。二男は、インターネットで、子育ての様子を伝え
てくれるが、その育て方を見ていると、二男は恐らく、自分では、自分は自分の子育てをしてい
るつもりかもしれないが、どこかしこというより、全体としてみると、私が二男にした子育てと同
じことを繰りかえしているのがわかる。

 こうしたことからも、つまり現象面から見ても、新生児や乳幼児にも、記憶がしっかりと残って
いることがわかる。そういう意味では、ワシントン大学のメルツォフらの研究は、それを追認し
ただけということになる。

 さてここが重要である。

 あなたはあなたの子どもの記憶を、決して安易に考えてはいけない。子どもが泣いていると
き、あるいはひょっとしたら眠っているときでさえ、子どもの脳は、想像を超える濃密さで、その
ときの状況を、記憶として蓄積している。そしてそれがそのまま、その子どもの人格の核となっ
ていく。

 これに対して、「私は自分の記憶を、4、5歳くらいまでしか、たどることができない。だからそ
れ以前は、記憶はないのではないか」という意見もある。しかしこれについては、もう一度、は
っきりと否定しておく。

 記憶は、記銘(脳の中に記録する)、保持(その記憶を保つ)、そして想起(思い出す)という
操作を経て、人間の記憶となる。ここで重要なことは、想起できなからといって、記憶がないと
いうことではないということ。事実、脳の中心部に辺縁系と呼ばれる組織があり、その中に海馬
(かいば)という組織がある。

 この海馬には、ぼうだいな量の記憶が保持されている。が、その記憶のほとんどは、私たち
の意識としては、想起できないことがわかっている。いわば担保に取られた貯金のようなもの
で、取り出すことはもちろん、使うこともできない。しかしそしてそうした記憶は、無意識の世界
で、その子どもを、そして現在のあなたを、裏から操る……。

 繰りかえすが、新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。
(030614)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 記憶
 幼児の記憶メルツォフ 野生児 ビクトール アマラ タマラ 子どもの記憶 記銘 保持 想
起)

+++++++++++++++++
これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。
+++++++++++++++++

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学1年生をもつ父母が、2人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「1学
期の期末試験で、数学が21点だった。英語は25点だった。クラスでも40人中、20番前後だ
と思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。2人とも、表面的に
は穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。

行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩
まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわから
ない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものば
かり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(2001年)によれば、中学生で、い
やなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、39・1%しかいなかった。これに対し
て、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、78・4%。子どもの意
識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテに
していない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの6・8%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければな
らない先生が、たったの6・8%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、
子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子
どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。

あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみる
とよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親
子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静
に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
と子ども 親に相談する子供 先生に相談する子供 内閣府の調査)





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●上下意識

++++++++++++++++++++

オーストラリアには、日本でいう「上下意識」
というのが、まったく、ない。

ないものはないのであって、どうしようもない。

「兄が上で、弟が下」とか、「夫が上で、妻が下」
とか、そういう意識は、まったくない。

それだけではない。

親子の間でも、それがない。親も子どもも、対等。
まったくの対等。

それを知るにつけ、では日本人がもつ、この
「上下意識」は何かと、しばしば考えさせられる。

+++++++++++++++++++++

 この数週間だけで、中部国際空港(セントレア)と浜松の間を、何往復したかわからない。オ
ーストラリアの友人や家族を迎えに行ったり、送っていったり。それぞれが別々の行動をしてい
る。彼らの言葉を借りるなら、「Follow the nose(足の向くままに)」となる。

 そういうオーストラリア人たちを見ながら、ワイフが、こう言った。「私、すばらしい勉強をした
わ」と。

私「何を?」
ワ「老後の生き方よ」
私「そうだな」と。

 オーストラリアには、日本でいう「上下意識」というのが、まったく、ない。ないものはないので
あって、どうしようもない。「兄が上で、弟が下」とか、「夫が上で、妻が下」とか、そういう意識
が、まったくない。

それだけではない。

親子の間でも、それがない。親も子どもも、対等。まったくの対等。それを知るにつけ、では日
本人がもつ、この「上下意識」は何かということになる。

 たとえばこんなことがあった。

 1人の女性(80歳)には、5人の子どもがいる。私の友人の母親である。母と息子という関係
になる。が、その2人、たがいにまったく、干渉しようとしない。母は母、息子は息子という雰囲
気である。そこで私のほうが、質問をした。

 「オーストラリア人の親というのは、息子が何をしても、何も言わないのか?」と。

 するとその母親は、「しない」「それは彼の人生だから」と。そこでさらに具体的に、「たとえば
離婚問題が起きたときはどうか?」と聞くと、それについても、「息子たちが判断すること」と。

 どうであっても、親は、その結果だけを知り、それに納得し、それを受け入れるということらし
い。子どもたちの生活には干渉しない。同時に、子どもたちには、干渉させない。それがどうや
らオーストラリア流の親子関係ということになる。

 が、この日本では、離婚問題ひとつとっても、かならずと言ってよいほど、そこに親が割って
入ってくる。親のほうが、大騒ぎするケースも少なくない。少し前だが、息子夫婦の離婚問題
で、毎晩のように電話をかけてきた知人(70歳くらい)がいた。

 相談内容は、要するに、「出て行く嫁には、財産を分けたくない。そのためには、どうすれば
いいか」ということだった。が、私の答は、簡単。「財産を分けてやるべきだ」「息子さんの問題
だから、息子さんに任せばいい」だった。が、そんなことは言えない。

その知人には、その知人の意識がある。日本的といえば、実に日本的。その意識の世界にま
で踏みこんで、ものを言うのは、たいへん危険なことである。へたをすれば、人間関係そのも
のまで破壊してしまう。だからどうしても、あいまいな返事になってしまう。

 事実、そのあとその知人は、ことあるごとに、私のことを、「冷たい男だ」と言いふらしていた。
「相談したのに、親身になって、相談にのってくれなかった」と。

 が、それがもしオーストラリアだったら、どうだろう。息子夫婦の離婚問題に、親がクビをつっ
こむということ自体、考えられない。息子夫婦の相談にはのるだろうが、「こうしろ」とか、「ああ
しろ」とかいう、干渉はしない。言うなれば、「友」としての親子関係が、確立している。意見を言
うとしても、「友」としての立場で、ものを言う。

 これについては、ほかのオーストラリア人たちも、みな同意見で、逆に私のほうが質問されて
しまった。「日本では、どうして親が、子どもの離婚問題に、クビをつっこむのか(=干渉するの
か)?」と。

私「日本では、子どもは、家の財産、親の財産という考え方をする」
オ「それは、おかしい(リディキュラス)」
私「わかっているが、大きな流れの中では、それに抵抗するのは、むずかしい」
オ「離婚するとか、しないとかは、あくまでも、子どもの問題」
私「そうはいかない。日本では、いまだに、家と家の結婚と考える人が多い。親のプライドがキ
ズつけられたと考える人も多い」
オ「オー、ノー」と。

 こうした(ちがい)を支えるのが、いわゆる(上下意識)ということになる。「親が上で、子が下」
という上下意識。親自身が、その意識をもつこともあるが、子どももそれをもつ。親に隷属する
ことが、子としての美徳と考えている人も多い。そしてそれがなお性質(たち)の悪いことに、こ
の日本では、半ば、カルト化している。

 が、オーストラリア人たちは、どの年代の人も、「私は私」「あなたはあなた」という生き方をし
ている。年齢に関係ない。私のワイフは、それを発見した。

ワ「老人だからといって、老人臭く生きなければならないというのは、おかしいわ」
私「そうだ。本当に、そうだ」
ワ「あのJさんだけど、あと20年生きて、100歳まで生きるってよ」
私「100歳?」
ワ「体をきたえるため、週3回、往復10キロも、散歩しているんだってエ」
私「老人扱いしてはいけないということだね。ぼくたちより、はるかに気が若い」
ワ「そうね」と。

 人間に上下など、ない。こんなわかりきったことでも、わからない人は、多い。意識というの
は、そういうもので、一度、心の中で形成されると、それを改めるのは、容易なことではない。
その意識を基礎に、あらゆる方向に、自分の思想や哲学を載せてしまう。そしてそれが回りま
わって、日本独特の上下意識、さらには親子関係、夫婦関係をつくりあげてしまう。

 ただ一言、このエッセーに注釈を加えるとしたら、こういうことになる。

 今回、私たちが世話をした、オーストラリア人一行は、南オーストラリア州に住む、ドイツ系の
家族が中心だったということ。約半数が、ドクターやその家族たちである。同じオーストラリア人
でも、どの国からの移民かによって、考え方がちがう。もちろん中国や、東南アジアからの移民
も多い。

 そういう人たちも含めて、「オーストラリア人は……」と、ひとまとめにして論ずることは、危険
なことである。また日本でも、このところ、上下意識、つまり権威主義は、音をたてて崩壊し始
めている。

 ともあれ、日本が進むべき道は、まだまだ遠い。私は、それを感じた。





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●絶望論

 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破壊さ
れるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。

 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、足元を
すくわれるような絶望感を味わうにちがいない。自分が何であるかさえわからない絶望感と言
ってもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにいるかさえわからな
い。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突するという大げさな話は
別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど人々は何らかの形で、日々に、
その絶望感を味わう。

 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。社会情
勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。

人間には、希望もあるが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは
絶望は生まれないが、希望は絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、その
中から懸命に希望を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となっていく。

 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗って、
宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をはずす。そし
てハッピーエンド。

 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。ハッピー
エンドで終わることなど、10に1つもない。たいていは何とかしようともがけばもがくほど、その
ままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりから小さな希望を見出し、
それにしがみついていく……。

 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思うから、絶
望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、「今」をそのま
ま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやすく言えば、そのつど、
「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することはない。

 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気になっても、
結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれても、これまた
結構、と。少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、
絶望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、虚妄(き
ょもう)ということになる。

いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれないが、「絶望は虚妄であ
る」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(1881〜1936・中国の作家、評論家)である。彼
は、こんな言葉を残している。

『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)

 が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そのまま受
け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるのか。あるいは
死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについては、私はまだよくわ
からない。が、こんなことはあった。 

 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽にな
れると思うのは、立派な希望だよ」と。

私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つまり、絶望したら、死ぬのだろうね」と言ったときのこと
だ。

しかしもし、絶望が虚妄であるとするなら、「死ねば楽になれるという希望」もまた、虚妄というこ
とになる。つまり「死に向かう希望」など、ありえない。もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、
決して希望ではない」ということになる。この点からも、N君の言ったことは、まちがっているとい
うことになる……?

 もう一度、この問題は、頭を冷やして、別のところで考えてみたい。
(02−12−20)




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●受験期の心がまえ

 子どもの受験は、受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。こ
んな中学生(女子)がいた。

 「ここ一番!」というときになると、決まって、「私は、どうせダメだもん」と言って逃げてしまうの
だ。そこである日、理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試に落ちたもんね」と。
その中学生は、7、8年前の失敗を、まだ気にしていた!

 が、実は、そのように気にしたのは、その子ども自身ではない。まわりの親たちが、気にし
た。それをその子どもが見て、自分でも気にするようになった。

 この時期の子どもには、まだ「受験」「合格」「不合格」を、客観的に判断する能力は、ない。
たとえば子どもが受験で失敗し、不合格になったとき、不合格がどういうものであるかを教える
のは、まわりの親たちである。子どもはその様子を見て、不合格というのが、どういうものであ
るかを知る。

 ある母親は、息子(年長児)が、S小学校の入試に失敗したあと、数日間、寝こんでしまった。
また別の夫婦は、それがきっかけで離婚騒動を起こした。そのあと幼稚園を長期にわたって
休んだ親もいるし、何と、自殺を図った親もいる。子どもは、そういう親たちの動揺を見て、不
合格というのが、どういうものであるかを知る。……知らされる。

 そこで子どもの受験は、合格を考えて準備するのではなく、不合格を考えて準備する。そして
そのときこそ、親の真価が試されるときと、覚悟する。仮に失敗しても、それは親の範囲だけで
とどめ、その段階で、握りつぶす。そして振り向いたその顔で、子どもには明るいこう言う。「さ
あ、これからどこかでおいしいものを食べてこようね」と。そういう姿勢が、子どもの心を守る。
親子のきずなを守る。
(02−12−20)

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●受験は淡々と

 人間が人間を選別する。受験の基本は、ここにある。しかしそれは恐ろしく、非人間的なこと
でもある。それゆえに、受験期の子どもをもった親は、理解しがたい恐怖感と、そして不安感を
覚える。

 こうした子どもの受験戦争に巻きこまれ、精神をおかしくする親も、少なくない。とくに長男、
長女のときは、そうなる。「学校の定期テストのたびに、お粥しかのどを通りません」と言った母
親がいた。「進学塾の明かりを見ただけで、血がカーッとのぼるのを感じました」と言った母親
もいた。

 しかしこうしたときこそ、親が親である、その本分を試される。たいていの親は、「子どもを愛
しています」と言うが、本当のところ、それが「愛」であるかどうかは、疑わしい。子どもを自分の
支配下において、子どもを思いどおりにしたいという愛を、代償的愛というが、ほとんどの親
は、代償的愛をもって、子どもを愛していると錯覚する。しかし代償的愛は、代償的愛。真の愛
ではない。

 たとえば子どもが、学校のテストで悪い点をとってきたとする。家の中でも元気がない。そうい
うとき、あなたは何といって、子どもに声をかけるだろうか。「何よ、この点数は!」と、あなたは
言うだろうか。あるいは「こんなことで、どうするの!」と、あなたは言うだろうか。ほかにもいろ
いろな言い方があるが、英語酷では、こういうとき、「TAKE IT EASY!」と言う。日本語に訳
せば、「気楽にしな」という意味になる。

 この話をある会合ですると、ひとりの母親が笑いながら、こう言った。「そんなこと言えば、うち
の子、本当に、何もしなくなってしまいます」と。一方、子どもは子どもで、こう言った。「もしもう
ちの親がそんなことを言ったら、いよいよ見放されてしまったかと、かえって不安になる」と。そ
う言ったのは中学生だが、それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。しかしこれだけは言え
る。「勉強しなさい!」と子どもを叱るのは、親の勝手だが、しかしその言葉ほど、親子の間に
ヒビを入れる言葉はない。反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが作った夕食の料理をみて、あなたの夫が、「何だ、こんな料理。まずいぞ。六五点
だ。平均点以下だ!」と言ったら、あなたはそれに耐えられるだろうか。が、それだけではすま
ない。

 あなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」と言えば言うほど、その責任は、親がとらねばな
らない。今、大学生でも、親に感謝しながら、大学へ通っている子どもなど、さがさなければな
らないほど、少ない。お金を渡せば、そのときだけ、「ありがとう」と言うかもしれないが、本当に
感謝しているかどうかは、わからない。中には、「親がうるセ〜から、大学へ行ってやる」と豪語
(?)する高校生すら、いる。

 そんなわけで、子どもの受験は、淡々とすますのがよい。親のためでもあるし、子どものため
でもある。さらに親子の絆(きずな)を守るためでもある。この日本では、受験競争は避けては
通れない道だが、その受験戦争で、家族の心がバラバラになってしまったら、それこそ、大失
敗というもの。また家族の心を犠牲にするだけの価値は、受験競争には、ない。
(02−12−20)





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●依存性

●保護と依存

++++++++++++++++++

依存性の強い人は、独特の言い方をする。
『だから何とかしてくれ言葉』というのが、
それである。

たとえば空腹になったときでも、「〜〜を
食べたい」とは、言わない。

「おなかがすいたア〜」と言う。つまり
そう言いながら、相手に向かって、「だか
ら、何とかしてくれ」と訴える。

++++++++++++++++++

 日本語の特徴と説明する人もいる。しかし依存性の強い人は、独特の言い方をする。『だか
ら何とかしてくれ言葉』というのが、それである。

 たとえば空腹になったときでも、「〜〜を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア〜」と
言う。つまり、そう言いながら、相手に向かって、「だから、何とかしてくれ」と訴える。

 同じように、水がほしいときは、「のどがかわいたア〜」と。トイレに行きたいときは、「おしっこ
オ〜」と。

 子どもの世界では、よく見られる会話だが、しかし子どもの世界だけとは、かぎらない。おとな
の世界でも、そして年配者の世界でも、よく見られる。

 たとえば、「私も、年を取ったからねエ〜」というのが、それ。つまり「私も年を取ったから、何
とかしろ」と。

 最近でも、私は、ある知人から、こんなハガキをもらった。暑中見舞いの最後に、こう書き添
えてあった。「静岡まで行けばいいですか?」と。つまり「静岡まで行けば、そこまで迎えに来て
もらえるか」と。

 私をその知人を、招待した覚えはない。何かの会話のついでに、そんなようなことを話したの
を、誤解されたらしい。それはともかくも、それを読んで、『だから何とかしてくれ言葉』を使うの
は、子どもだけではないと知った。

 もっとも、私の兄などは、若いころから、その『だから何とかしてくれ言葉』を、よく使った。

 新しいテレビがほしくなると、電話をかけてきて、「近所の人は、みんな、衛星放送を見てい
る」「うちのテレビは映らない」と。

 今は、半分以上頭がボケてしまったが、それでも、『だから何とかしてくれ言葉』をよく使う。

 「ラジカセがこわれたア」
 「冬になると、寒い」
 「今のメガネは、よく見えない」と。

 こうした依存性は、一度身につくと、その人の生き方そのものになってしまう。だれかに依存
して生きることが、あたりまえになってしまう。が、その人自身の責任というよりは、半分以上
は、まわりの人たちの責任と考えてよい。まわりの人たちが、そういう環境を作りあげてしまう。

 子どもの世界でも、依存性のたいへん強い子どもがいる。しかしその子どもが問題かという
と、そうではない。よく調べていくと、そういう子どもの親も、また依存性の強い人であることが
わかる。自分が、依存性が強いから、子どもの依存性に、どうしても甘くなる。あるいは、それ
に気づかない。

 反対に、このタイプの親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、(かわいい子)イコール、
(いい子)としてしまう。だから子どもの依存心だけを問題にしても、あまり意味はない。そうなる
背景には、親自身の情緒的な欠陥、精神的な未熟性があるとみる。つまり、それだけ、「根」は
深い。

 で、ついでに、私の兄のことだが、現在は、グループホームに入居している。個室が与えら
れ、三食、昼寝つき。おやつもついているし、ときどき遠足にも連れていってもらえる。しかし兄
にしてみれば、それが当たり前の生活になっている。

 が、グループホームといっても、大学生の生活費並みの費用がかかる。具遺体的には、毎
月12〜3万円プラス、諸経費、小遣い、治療代などなど。合計で、15万円ほど、かかる。

 そういう兄だが、もちろん、私に対して、ただの一度も、礼など言ってきたことはない。むしろ
逆に、あれこれと不平や不満ばかりを並べる。またまわりの人たちも、間接的だが、私に対し
て、「もっと、しっかりとめんどうをみろ」というようなことを言う。

 依存する側と、依存される側。それが長くつづくと、(実際、もう30年以上もつづいているが…
…)、それが当たり前になってしまう。そしてそれを前提に、みなが、ものを考える。今では、兄
自身の依存性を問題にする人は、だれもいない。「めんどうをみるのは、弟の責任」と、決めて
かかってくる。(私だって、いつボケるか、わからないぞ!)

 そんなわけで、子どもに依存心をもたせると、子ども自身も苦労をするが、そのツケは、回り
まわって、最後には、親のところにやってくる。家族のところにやってくる。

 だから……というわけでもないが、子どもには、依存心をもたせないほうがよい。いや、その
前に、あなた自身は、どうか。それを疑ってみたほうがよい。もしあなたが依存性の強い人な
ら、あなたの子どもも依存性の強い子どもになる。その可能性は、きわめて高い。

 では、どうするか?

 その第一歩として、『だから何とかしてくれ言葉』を耳にしたら、すかさず、こう言い返してやっ
たらよい。

 「だから、それがどうしたの?」と。

 一見冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、そのほうが、子どものため、あなた自身のた
め、ということになる。

(付記)

 子育ての目標は、子どもを自立させること。欧米流に言えば、「よき家庭人として、自立させ
ること」。

 その一語に尽きる。

++++++++++++++

依存性について書いた原稿を
1作、添付します。

++++++++++++++

【日本人の依存性を考えるとき】 

●森S一の『おくふろさん』

 森S一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。

日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独
特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子ど
もに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では
昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が
旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。

親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するように
なる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないと
いうより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。
そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服
でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。

そこであなたの子どもはどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とか
してくれ言葉」というのが、それである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言
わない。「お腹がすいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こう
いう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学4年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森S一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ…
…」と泣くのは、世界の中でも日本人くらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日
本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)
●夫婦別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(2001年)。

それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は42・1%で、反対した人
(29・9%)を上回った。前回調査(96年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。

さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれ
ば、肯定派は計65・1%(前回55・0%)にあがったというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が68・1%と男性(61・8%)よ
り多く、世代別では、30代女性の86・8%が最高。

別姓問題に直面する可能性が高い20代、30代では、男女とも容認回答が8割前後の高率。
「姓が違うと家族の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の52・0%が「影響がない」と
答え、「一体感が弱まる」(41・6%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が66・0%で、
「影響はない」の26・8%を大きく上回った。

調査は01年5月、全国の20歳以上の5000人を対象に実施され、回収率は69・4%だっ
た。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の
姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は18・2%にとどまったという。






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●親子の絆

【親子のきずなを深める法】

親子のきずなが切れるとき 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国1
5%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・98
年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけない
と考えている高校生が、ダントツに少ない。

こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家O
氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうな
のか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進ん
でいるということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダだった
わね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなくす。いや、その程
度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、さらには親子のきずなそ
のものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「85%」という数字は、まさにその結果である
とみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校3年生だった。R氏は
あちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費が難
しくなった。

そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘はそれに応じなかっ
た。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの義務を果たして
よ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻まで、「生活ができな
い」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。「家族っ
て、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と
いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を
変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽に
やりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテス
トの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。
この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を
起こす。   


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【子どもの心が離れるとき】 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手一つで、育てら
れました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。

はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI
氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。50歳も過
ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとした
ら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれな
い。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、それぞれ3、4行
目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。

子どもを育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを
日本では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りす
ればするほど、子どもの心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はた
ったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。

私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。

ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさ
い」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%
 日本の若者のうち、55%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の自立 子どもの自立 生活 自立 子どもの依存心 依存性 子供の依存心 依存性 親に
依存する子供)





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●学習性無気力

++++++++++++++++++

状況をコントロールできるかどうかで、
その子どもの(やる気)は、決まる。

「いくらやっても効果がない」「何も
変わらない」となれば、子どもでなく
ても、やる気をなくす。

ひょっとしたら、今の私が、そうかも
しれない。

++++++++++++++++++

 「教育」のこわいところは、一方で(できる子)をつくりながら、そのまた一方で、(できない子)
をつくってしまうこと。つまり(できない子)は、悶々とした毎日を送りながら、やがて、(やる気の
ない子)へと、つくられていく。

 それが悪循環となって、(やる気のない子)は、さらに(できない子)へとなっていく。

 こういう状態を、発達心理学の世界では、「学習性無気力」と呼ぶ。皮肉なことに、自ら学習し
ながら、無気力になっていくという症状をいう。わかりやすく言えば、「何をやっても、オレはダメ
な人間」と思いこむことによって、だんだんやる気をなくしていく。無気力になっていく。

 話は飛躍するが、子どもというのは、状況を変える力を身につけてはじめて、やる気を覚え
る。つまり自分のしたことで、状況が変わる。変わるのを見ながら、達成感を覚える。それが子
どものやる気につながる。わかりやすい例で考えてみよう。

 A君(中2)は、夏休み前に、決心した。「夏休みの間、勉強でがんばって、成績をあげよう」
と。

 そこで進学塾の夏期講習に通いながら、毎日、そのほかに4〜5時間の勉強をした。それま
での彼の勉強量にすれば、考えられないほどの勉強量である。

 が、夏休みあけの実力試験では、その成果は、まったく出なかった。得点は少しあがった
が、かえって順位はさがってしまった。(ふつう、こうした成果は、成果が出るとしても、数か月
おいて出てくるものだが、A君には、それがわからなかった。)

 とたん、A君は、やる気をなくしてしまった。「ぼくは、やっぱり、ダメな人間」と、自らレッテル
を、張ってしまった。

 ふつう学習性無気力に陥ると、つぎのような症状が現れるという(山下富美代著「発達心理
学」)。

(1)環境へ働きかけようとする意欲が低下する。
(2)学習する能力が低下する。
(3)情緒的に混乱する。

 山下富美代氏は、本の中で、興味ある実験を紹介している。

 体をしばった犬に電気ショックを与えつづけると、最初のころは、犬も、それからのがれようと
暴れたりするが、やがてあきらめて抵抗しなくなる、と。ショックを与えても、うろたえるだけで、
逃げようともしなくなる。セリグマンという学者のした実験だそうだ。

 つまり犬は、体をしばられているので、逃げ出すこともできない。そこで犬は、「何をしてもダメ
だ」ということを学ぶ。それが、ここでいう学習性無気力症状ということになる。

 子どもの世界で言えば、先に書いた、「もの言わぬ従順な民」ということになる。

 A君の母親は、A君に、「あきらめてはだめ」「もう少しがんばってみたら」と声をかけたが、A
君は、やる気そのものをなくしてしまっていた。机に向かって座ってはみるものの、ぼんやりとし
たまま、ときには何もしないまま、眠ってしまったりした。どこからどう、勉強に手をつけてよい
かさえわからなくなってしまった。

 A君の心の様子に変化が見られるようになったのは、秋になってからである。A君の母親が、
「勉強」という言葉を口にしただけで、A君がカッとキレるようになってしまった。「うるさい!」と
怒鳴って、母親に、ものを投げつけることもあった。それまではどちらかというと静かな子ども
だった。A君の母親は、それに驚いた。

 ……というケースは、多い。もちろんここに書いたA君というのは、架空の子どもである。また
学習性無気力といっても、そんなに簡単になるものではない。1年とか、2年とか、長い時間を
かけてそうなる。ひょっとしたら、今の、あなた自身が、そうであるかもしれない。

 こうした学習性無気力は、何も、勉強だけにかぎった話ではない。軽い例では、無関心があ
る。政治的無関心、社会的無関心、人間的無関心などなど。私などは、女性に対して、まったく
といってよいほど、自信がない。ワイフはときどき慰めてくれるが、私は自分では、「私ほど、女
性にモテない男はいない」と思っている。今のワイフについてでさえ、ときどき、「どうしてこんな
私のような男といっしょにいるのだろう」と思うことさえある。

 その結果、こと女性のこととなると、無気力になってしまう。

 これも学習性無気力の1つかもしれない。私は、若いころ、ドン底にたたきつけられるような
失恋を経験している。それが原因で、自信をなくしたのかもしれない(?)。

 そこで……というわけでもないが、ほとんどの親たちは、自分の子どもを(伸ばす)ことしか考
えていない。それはそれで大切なことだが、しかし同時に、やり方をまちがえると、かえって逆
効果になることもあるということ。そのひとつが、ここでいう学習性無気力ということになる。そ
れがひどくなると、荷卸し症候群、さらには、燃え尽き症候群へと進む。

 子どもを伸ばすコツは、「?」と感じたら、思い切って、手を引く。その割り切りのよさが、子ど
もの心を救う。「やればできるはず」「もっとできるようにしたい」と感じたら、自分の心にブレー
キをかける。子どもを追いこめば、追いこむほど、子どもは袋小路に入ってしまう。子どもを無
気力にする危険性はぐんと高くなる。

 ここに書いたA君のケースでも、親が、「結果なんか、気にしなくてもいい。あなたはよくがん
ばった。それでいい」というような言い方をしていたら、A君は、学習性無気力に陥らなくてすん
だかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学習
性無気力 無気力な子ども 無気力な子供)





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