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【子どものうつートラウマ】

●子どものうつ病

+++++++++++++++++

うつ病の素因(遠因)は、満5歳から
10歳ごろまでに、つくられるという。

しかもその主なる原因は、離別体験だ
という。

つまり幼少期に親と離別体験を経験した
子どもほど、のちにおとなになって
から、うつ病(抑うつ状態)に
なりやすいということがわかって
いる。

もし今、あなたがうつ病、もしくは
うつ病的な傾向があるなら、まず、
自分の過去をのぞいてみよう。

それがあなたの心を守る第一歩となる。

++++++++++++++++

●幼少期の離別体験

 児童期の喪失体験が、子どもの抑うつ状態と、深く関係しているという(社会精神医学、7;1
14―118)。

 いわく「10歳以前の両親のいずれかと死別体験、もしくは、分離体験という喪失体験が、正
常対象群(9%)に対して、患者群(39%)に有意の差をもって多く認められた。

 しかし抑うつ状態の診断下位群、抑うつ状態の臨床結果とは特異な所見を得られなかった。

 さらに5〜10歳までが、喪失体験が抑うつ状態の素因を形成するための臨界期であろうと
推察した」と。

 わかりやすく言うと、こうなる。

10歳以前に、両親のいずれかと死別、もしくは分離体験をした子どもほど、のちにおとのなに
なってから、抑うつ状態になりやすいということ。

 同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも、報告されている(精神医学、28;387
〜393、1986)。

 精神障害のある39人の患者について調べたところ、「15歳以前で、12か月以上の離別体
験をもった人」は、そうでない人よりも、明らかに関連性があることがわかったという。

 しかもこの報告で、興味深いのは、異性の親(男児であれば、母親、女児であれば、父親)と
の離別体験をもった人ほど、「有意な差」が見られたという。

 さらに報告書は、こう書いている。

 「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連を呈さなかったが、離別体験は家族歴の有無と
有意(exact probability test, p=0.026)の関連をもち、この傾向は、離別の対象が異性の親で
ある際に強いものであった。

 異性親からの離別を体験したものは、家族歴を有する20人のうち、7名(35%)であるのに
対して、家族歴を有さないもの19名では、皆無(0%)であった。

 このことから、うつ病発症に関与していると考えられる幼少期の離別体験は、一部には、家
族員の精神疾患から発生したものである可能性が示された」(北村俊則)と。

 以上を、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)10歳以前に親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(2)異性の親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(3)家族のだれかに精神疾患があった人ほど、うつ病になりやすい。

 かなり乱暴なまとめ方なので、誤解を招く心配もないわけではないが、おおざっぱに言えば、
そういうことになる。そしてこうした調査報告を、裏から読むと、こうなる。

(1)10歳以前に、子どもに、離別体験を経験させるのは、避けたほうがよい、と。

 しかし実際には、たとえば親の離婚問題を例にあげて考えてみると、離婚(離別)そのものが
子どもに影響を与えるというよりは、それにいたる家庭内騒動が、子どもに影響を与えるとみ
るべきである。バーミンガム病院での報告書にも、「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連
を呈さなかった」とある。

 解釈のしかたにも、いろいろあるが、死別のばあいは、離婚騒動で起きるような家庭内騒動
は、起きない。

 だから離婚するにしても、(それぞれの人たちは、やむにやまれない理由があって離婚する
ので)、子どもとは無縁の世界で、話を進めるのがよいということになる。子どもの目の前で、
はげしい夫婦げんかをするなどという行為は、タブーと考えてよい。

 また、この調査結果は、もうひとつ重要なことを私たちに教えている。

 もし今、あなたがうつ病、もしくはうつ病的な傾向を示しているなら、その原因は、ひょっとした
ら、あなた自身の幼少期に起因しているかもしれないということ。(うつ病の原因が、すべて幼
少期にあると言っているのではない。誤解のないように!)

 そこであなたは、自分の過去を、冷静に、かつ客観的に見つめなおしてみる。

 しかし問題は、あなた自身が、そういう過去を経験したということではなく、そういう過去があ
ることに気がつかないまま、そういう過去の虜(とりこ)となって、その過去に操られることであ
る。

 そこでまず、自分の過去を知る。

 もしそのとき、あなたが心豊かで恵まれた環境の中で、育てられたというのであれば、それは
それとして結構なことである。が、反対に、ここでいうような不幸な体験(親との死別体験や離
別体験)を経験しているなら、あなたの心は、何らかの形で、かなりキズついているとみてよ
い。

 しかしそれがこの問題を克服する第一歩である。

 自分の過去を知り、自分の心のキズに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。5年とか
10年とか、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。が、あとは、時間に任せればよい。少
なくとも、自分の(心の敵)がわかれば、恐れることはない。不必要に悩んだり、苦しんだりする
こともない。

 うつ病にかぎらず、心の問題というのは、そういうものである。

 私自身の経験を書いたエッセーが、つぎのものである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 3〜4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声
を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっく
り返したこともある。

私と5歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわ
いよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。

が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ
れることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこ
わくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると
決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。

しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自分を心
のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころになると、自分の
姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということまでわかってく
る。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。

だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で
寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母
に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過
去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと
は言える。

心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さらに同じ
ようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにして、キズ口
は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし
父は、先にも書いたように、3〜4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そ
のときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。

「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。
54歳になった今でも、だ。

心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私の経験から

 私が、自分の過去を冷静にみるようになったのは、私が30歳もすぎてからのことではなかっ
たか。それについて書いたエッセーが、つぎのものである。内容的に一部、ダブるところがある
が、許してほしい。4年前に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を変えるために……】

+++++++++++++++++++++

あなたは本当に、あなたか? 
あなたは「私は私」と、本当にそのように、
自信をもって言えるか?

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●私の不安発作

 ときどき、自分が夜の闇に吸い込まれていくように感じて、言いようのない不安に襲われるこ
とがある。私は夜が苦手。子どものころから苦手だった。そういう不安に襲われると、この年齢
(54歳)になっても、ひとりで寝ることができない。ワイフが床に入るのを待ってから、自分もそ
の床に身をすべらせる。

 夜が苦手になった理由は、父が酒乱だったことによる。私が4,5歳くらいのときから父の酒
グセが悪くなり、父は数日おきに酒を飲んだ。見さかいなく暴れた。ときにはそういう騒動を、お
もしろおかしく見たこともあるが、私には恐怖だった。

父が酒を飲んで暴れるたびに、そして大声で怒鳴り散らすたびに、私と姉は、2階の奥にあっ
た物干し台の陰に身を隠し、それにおびえた。今でも、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわ
いよ」と声を震わせて泣いた自分の声を、よく覚えている。姉は私より、5歳年上だった。

●心のキズにきづいたのは、三〇歳を過ぎてから

 しかし私がこうした自分の心のキズに気づいたのは、私が30歳を過ぎてからだった。それま
では自分の心にキズがあるなどとは、思ってもみなかった。が、今から思い出すと、いろいろな
症状があった。

たとえば私は酒臭い人が大嫌いだった。近くにいるだけで、生理的な嫌悪感を覚えた。赤い夕
日が沈むのを見ると、ときどき不安になった。暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感
に襲われた。カッとなると、すべてを破壊してしまいたいような衝動にかられた。自分を消してし
まいたいような衝動で、そのためときどきワイフに暴力を振るったこともある。

父が母に暴力を振るっていたのを見たことがあるためか、自分の暴力は正しいと思い込んで
いた。そして最大の症状は、ここに書いたように、夜がこわかったということ。

●不安発作の原因

 一度不安発作に襲われると、自分でもどうやって身を守ってよいのかわからなくなる。たいて
いはふとんの中で、体を丸めて、ガタガタ震える。あるいはワイフの体にしがみついて眠る。

しかしそれでも、なぜ自分がそういう発作に襲われるのか、理由がわからなかった。が、ある
夜のこと。私がワイフにふとんの中で、私の子どものころの話を語っていたときのこと。やがて
話が父の酒乱の話しになり、暴力の話になった。そして姉と物干し台で震えていたときの話に
なった。そのときのことだ。突然、私はあの不安発作に襲われた。

 体がガタガタと震えだし、そして自分が夜の闇に吸い込まれていくのを感じた。そして年甲斐
もなく、大声で、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわいよ」と泣き出した。

ワイフは、私を自分の体で包みながら、「あなた、何でもないのよ」となだめてくれたが、そのと
きはじめて私はわかった。私が感じる不安は、あの夜感じた不安と同じだった。そしてそれは
あの夜から始まっていたのを知った。

 赤い夕日が沈むのを見ると不安になるのは、そのころ父はいつも近くの酒屋で酒を飲んでい
たからだ。いつだったか、父が真っ赤な夕日を背景に、フラフラと通りを歩いているのをみかけ
たことがある。そのときの光景が、今でもはっきりと覚えている。

 また私が暗いトンネルが苦手なのは、暗闇がこわいということよりも、何らかの恐怖症が形を
変えたためと考えられる。子どもというのは、一度恐怖症になると、その思考プロセスだけは残
り、いろいろな恐怖症に姿を変える。私のばあいも、暗闇恐怖症が、飛行機事故で今度は、飛
行機恐怖症になったりした。

●私の中の私でない部分

 が、ここで私の中に大きな変化が起きたのを知った。「私は私」と思っていたが、私の中に、
私でない部分を知ったとき、そのときから、本当の自分が見えてきた。私は、私の中の別の私
に動かされていただけだった。

たとえば私が酒臭い人を嫌うのも、赤い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になるのも、ま
た暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感に襲われるのも、カッとなると、すべてを破壊
してしまいたいような衝動にかられるのも、すべて、私の中の別の私がそうさせていることに気
づいた。これは私にとっては、大きな発見だった。この先を話す前に、こんなことがある。

●子どもを見ていて……

 子どもを教えていると、それぞれの子どもが、何らかの問題をかかえている。問題のない子
どもなどいないと言ってもよい。それほど深刻なケースでなくても、いじけたり、すねたり、つっ
ぱったり、ひねくれたり、ひがんだりする子どもは多い。そういう子どもを観察してみると、子ど
も自身の意思というよりは、何か別の力によって動かされているのがわかる。もちろん本人
は、自分の意思で行動していると思っているようだが、別の思考パターンが作動しているのが
わかる。

 原因はいろいろある。たいていは家庭環境や家庭教育。年齢が大きくなるにつれて、学校と
いう場が原因になることもある。私が印象に残っている女の子に、A子さんという子ども(年長
児)がいた。

ある朝、私が園庭でA子さんに、「今日はいい天気だね」と話しかけたときのこと。A子さんは、
こう言った。「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」と。そこでまた私が、「雲があって
も、いい天気だよ」と言うと、さらにかたくなな様子になり、「あそこに雲がある!」と。ものの考
え方がどこかひねくれていた。

で、話を聞くと、A子さんの家は、父子家庭。ある日担任の先生がA子さんの家を訪れてみる
と、父親の飲む酒ビンが、床にころがっていたという。

●いつ、それに気づくか?

が、問題はこのことではない。そういう「すなおでない性格」について、子ども自身がいつ、どの
ような形で気がつくか、だ。が、このことも、問題ではない。問題は、そういう自分であって自分
でない部分に気がつくことがないまま、自分であって自分でない部分に引き回されること。そし
て同じ失敗を繰り返す。これが問題である。

しかしなおす方法がないわけではない。まず、自分自身の中に潜む心のキズがどんなもので
あるかを、客観的に知る。

 私のばあいは、あの夜、ワイフの胸の中で、「姉ちゃん、こわいよ」と泣いたときから、自分が
変わったように思う。それまで心の奥底に潜んでいた「わだかまり」に気づくと同時に、それを
外に吐き出すことができた。

もっともそれですぐすべての問題が解決したわけではないが、少しずつ、そのときからわだか
まりがこわれていった。同じような症状はそれからも繰り返し出たが、(今でも、出るが……)、
そのつど、なぜ自分がそうなるかがわかり、そしてそれに合わせて、症状も軽くなっていった。
 そこで……

●自分を変えるために

(1)もしあなたが、いつも同じようなパターンで、同じような失敗を繰り返すようであれば、自分
さがしをしてみる。どこかにおおきなわだかまりや、心のキズがあるはずである。

(2)あなたの過去に問題があることが問題ではない。問題は、そういう問題に気づくことがない
まま、その過去に振り回されること。ただし、自分の心の中をのぞくことは、こわいことだが、勇
気を出して、それをすること。

(3)心の中のキズやわだかまりは、あなたを、無意識のまま、あなたを裏から操(あやつ)る。
ふつうは操られていることに気づかないまま、操られる。たとえば子どもへの暴力など。親はと
っさに暴力を振るうが、あとで「なぜそんなことをしたかわからない」というケースが多いのは、
そのため。

(4)しかしあなたが自分の中の、「自分であって自分でない部分」に気づけば、そのときから、
この問題は解決する。

(5)同じような症状(反応)が出たとき、「ああ、これは私であって、私でない部分」と自分自身を
客観的にみる。あとは時間が解決してくれる。

 これは私の体験からの報告である。

(追記)

 こうした自分自身の体験を公開するのは、一方で、そういう自分と決別するためでもある。自
分自身を思いきってさらけ出すのも、ひとつの解決方法かもしれない。

なお私のばあい、それ以上に心がゆがまなかったのは、やさしい祖父母が同居していたため
と考えられる。もうひとつは、近くに親類が何人かいて、私のめんどうをみてくれた。ああいう家
庭環境で、もし祖父母や親類が近くにいなかったら、今ごろの私は、どうなっていたか……。そ
れを考えると、ぞっとする。

そういう意味で、よく子どもの非行が問題になるが、私はすべて子どもの責任にするのは、まち
がっていると思う。
(02−9−29)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
傷 トラウマ うつ病 離婚 離別体験 死別体験 子供の心理 バーミンガム病院 恐怖症 
はやし浩司 離別体験 うつ秒 心の問題)



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●茶髪文化

【茶パツと文化】

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

++++++++++++++++

子どもの茶パツが、問題になった。

先日も、ある小学校の先生と電話で、
そんな話題になった。

少し前に書いた原稿を、それについて
書いたものを、拾ってみる。

++++++++++++++++

●子どもの茶パツ

 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理

 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。

裏を返していうと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でな
いか」を、そこらの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。
こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗

で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある。

小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校長に
してみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤとした
風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。…
…らしい。

●まるで宇宙人の酒場!

 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。

身長の高い低い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から
来た生物のような、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国
によって、まるで違う。

アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にし
たら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさ
わしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩い
ていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?

 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 

私にはよくわからないが……。






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【死は厳粛に】

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

++++++++++++++++++

子どもに「死」を、どのように教えたら
よいか。

言うまでもなく、「死」があるからこそ、
「生」のすばらしさがわかる。

++++++++++++++++++

●死を理解できるのは、3歳以後

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。

飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(3歳男
児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言
った子ども(3歳男児)もいた。

子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違
ったものである。3〜7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変
化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。

たとえば母親が臨終を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死
そのものではない。ちなみに小学5年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問して
みたが、8人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考え
る」と言った子ども(女子)がいた。

質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「そ
れは困る」と答えた。

●死は厳粛に

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。

死を茶化してはいけない。もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛に
あつかう。たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように
紙で包んでポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかし
それではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていね
いにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、
子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして、生きることの大切さを

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。





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【子どもの金銭感覚】

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

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子どもにホイホイと、
ものを買い与えてはいけない。

そんなことをすれば、子どもは、
スポイルされるだけ。

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●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●100倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。100円のものな
ら、100倍して、1万円。1000円のものなら、100倍して、10万円と。

つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足
感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満
足しなくなる。中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、
100万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安
易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。

一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを
求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。
しかも徹夜で! 

そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためで
す」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していた
が、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学5年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。

感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。

少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思
い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。





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●トラウマ(精神的外傷)

 心にフタ(lid)をしてはいけない。フタをすれば、その心は行き場をなくし、やがて心そのものを
ゆがめる。

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856―1939、オーストリアの心理学者)は、それをネズ
ミの穴にたとえて言った。「カワネズミの入り口をふさげば、そのカワネズミは、また別の穴から
出てくる。(抑圧された)潜在意識は、別の形となって、その人の心を裏から操(あやつ)る」と。

 そこでフロイトは、そのフタを取り除くために、まず患者自身に、思いつくままを話させた。こ
れがよく知られている、「自由連想法」(free association)という手法である。

これは患者をリラックスした状態におき、患者に自由にしゃべらせることにより、その話の内容
から、患者の心理状態をさぐるという方法である。フロイトは、ささいなことも、不愉快なことも、
さらには恥ずかしいようなことも、すべてしゃべらせた。そして患者の心をふさいでいる「フタ」が
何であるかを知ろうとした。

たとえばノイローゼ患者がいる。このタイプの患者は、自分の心をふさぐ「不愉快なこと」
(unpleasant thing)を、取り去ろうともがくことによって、ノイローゼ状態になることが知られてい
る。問題は不愉快なことがあることではなく、どうしてそれを不愉快に思うか、である。その思い
を封じ込めてしまっているのが、ここでいう「フタ」である。

人間の心は一見複雑のようで、単純。単純のようで、複雑。私は幼児を教えるようになって、い
つしか、幼児には、大声で話させる訓練をするようにした。レッスンが始まると、最初の5〜10
分は、とにかく大声を出させるようにしている。

つまりこうすることで、まず子どもの心を解放させる。フロイトの言葉を借りるなら、「フタを取
る」ということになる。この方法を用いると、簡単な情緒障害なら、その場でなおってしまう。「治
る」という言葉は使えないので、あえて、「なおる」とするが、それに近い状態になる。そして子ど
もの心は一度、解放させてあげると、あとは自らの力で、前に伸びていく。

 さて、その「自由連想法」だが、実のところ、これを自分でするのは、むずかしい。何人かの
高校生に試してもらったが、なれないうちは、「何を思うの?」「どうすればいいの?」という質問
が出てくる。私も自分でしてみたが、「思い」というのは、なかなか形になって出てこない。

そこで私なりに方法を変えてみた。何かマイナスの思い出がトラウマ(trauma、精神的外傷)の
原因になることが多いので、それについて、簡単な作文を書かせてみた。読者の方も、一度、
自分を試してみるとよい。これはいわば、私が考えた「作文連想法」ということになる。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。
(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。

 この質問、正直に答えてみてほしい。そして、答の中に、ある共通点を見出したら、今度はそ
の理由を考えてみる。「なぜ、そうなのか」「なぜ、そうなったのか」と。そのときその原因を、で
きるだけ自分の過去に求めてみるとよい。それがあなたのトラウマということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、ほとんど、どの人も、トラウマの一つや二つはもっ
ているということ。あるいはもっと、もっている。トラウマのない人はいない。だからトラウマがあ
ることが問題ではない。問題は、そういうトラウマがあることに気づかず、それに振りまわされ
ること。そして同じパターンで、同じ失敗を繰り返すこと。

言いかえると、もしあなたが子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じような失敗を繰りか
えすというのであれば、このトラウマを疑ってみる。虐待にしても、暴力にしても、あるいは育児
拒否にしても、だ。さらに夫婦不仲、夫婦げんか、近隣との騒動などなど。そしてそれを知るた
めの一つの方法が、ここでいう、「作文連想法」である。

 そしてこのトラウマというのは、おもしろい性質をもっている。つまりそれが何であるかわから
ない間は、いつまでもあなたを裏から操る。が、ひとたびわかってしまうと、消えることはないに
しても、心のスミに、なりを潜めてしまう。そしてそのあと多少時間はかかるが、やがて問題は
解決する。そういう意味で、自分のトラウマが何であるかを知るのは、とても大切なことである。

ちなみに、私もこの質問に答えてみた。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたこと。
XXXXX(Secret)。
若いとき恋人と別れたこと。

(質問2) 今までで一番、悲しかったことを、三つ書きなさい。
         信じていたXXに裏切られ、だまされたこと。
         親友を、私の不用意な言葉で失ったこと。
         XXXXXX(Secret)

(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
         ウソ
         世間体
         酒
 
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
         XXXタイプの人間。
         だらしなく、XXXXの人間。
         ギャーギャーと騒ぐ軽薄な人間。

(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
         XXXへ、行くこと。
         人にへつらうこと。
         飛行機に乗ること。

(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
         XXの問題。
         環境問題。
         将来への不安。

(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
         XXがあること。
         自分をごまかすこと。
         XXXXX(Secret)。
        
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたときの夜。
飛行機事故。
         アメリカへ、02年10月に行ったときのこと。
         
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
         孤独死。
         絶望。
         ムダ死。
 
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。
         飛行機に乗ること。
         XXXXX(Secret)
         無一文になること。

 自分の回答を読んでも、何となくどこにトラウマがあるか、わかるような気がする。そしてそれ
が今まで、私の心を裏から操ってきた。それが何となくわかるような気がする。正確なものでは
ないかもしれないが、自己分析のためには、役立つかもしれない。
(02−10−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 トラウ
マ 精神分析 子供の心理 フロイト 自由連想法 心的外傷 ノイローゼ 自己分析)

【追記】

 この原稿を書いてから、もう4年になる。早いものだ。

 そこで2006年の7月。もう一度、自分の手法に従って、自分を分析してみる。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。

       頭のボケた兄が、近所の人たちと、トラブルを起こすようになったこと。
       xxにだまされたこと。
       学生時代の恋人と別れたこと。

(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。

       XXが、XX(病気)になったこと。
       自分の不注意で、親友だったxxx君を失ったこと。
       (もうひとつが思い浮かばない)

(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
       
       酒
       タバコ
       コーヒー

(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。

酒臭い女性
       ルールを守らない人たち+ウソつき
       ギャーギャーと騒ぐ人たち

(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。

       人のために文章を書くこと
       郷里へ帰ること
       だらしない生活

(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。

       郷里の問題
       母の問題
       兄の問題

(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。

       xxxxが、xxxxこと
       性格がxxxxxxであること
       いいかげんで、小ズルイこと

(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。

       飛行機事故にあったこと。
       交通事故にあいそうになったこと。
       息子たちが海で溺れたこと

(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。

       マガジンの廃止
       バカになること(認知症になること)
       孤独になること

(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。

       病気との闘い
       孤独
       目的のない生活

(以上、みなさんの参考までに……。)





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【学費】

●奨学金

++++++++++++++

「貸す」のではなく、「与える」のが、
奨学金ではないのか?

日本の奨学金制度は、どこか、おかしいぞ!

++++++++++++++

 子どものいる家庭にとって、教育費の負担は、相当なものである。「負担」というより、「負担
感」と言ったほうが、正確かもしれない。とくに、「幼稚園と大学段階の負担感が、もっとも大き
いとされる」(時事通信)。

 そのため、今度、文科省は、「返還分を所得控除対象とするなどの税制上の対応を求め、卒
業後の返還を支援することとした」という。

 わかりやすく言えば、奨学金を返還する際、その分は、所得分から控除されるという。が、し
かしそんなことで、負担感が、本当に軽減されるのだろうか? 借金は、借金として、そのまま
将来にわたって、残る。

 「奨学金」といえば、つまり欧米で、「スカラシップ」といえば、「ただ金」をいう。しかもそういう
制度が充実していて、アメリカでも、オーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通っている
学生など、さがさなければならないほど、少ない。

 カラクリは、こうだ。

 各企業や団体は、奨学金として、返済不要の奨学金を、学生に提供する。しかしその分だ
け、つまり奨学金として提供した分だけ、各企業や団体は、税控除を受ける。わかりやすく言え
ば、「国に税金を払うくらいなら、学生に奨学金として払った方が、得」という考え方をする。

 各企業や団体にとっても、大きなメリットがある。優秀な学生に、前もって、ツバをつけておく
ことができる。

 日本の奨学金制度は、基本的な部分で、まちがっている。

(1)貧しいから払うという発想ではなく、払う価値のある学生に、無償で与えろ。

 日本の教育には、おかしな平等主義がはびこっている。もともとその能力も意欲もない学生
に対してまで、奨学金を貸与している。そしてその学生たちが、日本の将来を考え、奨学金を
貸与してくれる国に感謝しているかというと、そういうことはない。

 大半(私の印象では、80%以上)は、奨学金を、遊興費に回している。あるいはアルバイトで
得るお金の不足分として、利用している。

 今年度の奨学金貸与人員は109万人と、10年前の2倍以上にもなっている。事業費は96
年度の約2400億円から約8000億円に増加しているという(時事通信)。単純に計算すれ
ば、8000億円÷109万人で、1人あたり、73万4000円となる。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか、意見は分かれる。73万円といえば、遊興費として
は、じゅうぶん。しかし学費としては、絶対的に少なすぎる。73万円で、どうして大学へ通うこと
ができるのか?

 なおアメリカでもオーストラリアでも、子どもたち(高校生たち)は、どこの大学へ入学するかと
いうことよりも、どこでどのような奨学金を得るかを、問題にする。たいていは、学校の学校長
や教師にその推薦権があり、高校での成績や、その子どもの能力、やる気をみて、学校長や
教師が推薦文を書く。

 学校長や教師にしても、必死である。へたに、おかしな学生を推薦してしまったりすると、次
回から、その推薦権を取り消されてしまう。つまりその分だけ、その学校の評価がさがってしま
う。

 もちろん奨学金といっても、ハンパな額ではない。たいていはそれだけで、学生生活のすべ
てをまかなえるほどの額である。が、中には、足りない学生もいる。そういう学生は、銀行で、
(銀行で、だぞ!)、自ら借金をして、それを補う。

 だから学ぶ学生も、必死! 東大のT名誉教授は、HPの中で、こう書いている。「アメリカな
どでは、休み時間になると、教授室の前にズラリと学生が並ぶ。こういう光景は、日本では、見
たことがない」と。

 自分の体を削りながら、大学へ通う……。そういう精神があるから、アメリカの大学生たち
は、よく学ぶ。私の二男でさえ、大学生のとき日本へ帰ってきて、こう言った。

 「アメリカでは、大学生が、アルバイトをするなんて、考えられない。そんな時間は、ない」と。

 日本の奨学金制度は、基本的な部分で、おかしい。現在、官僚たちが、天下りするために使
う持参金(?)が、裏金まで含めると、年間、10兆円にもなるという。もし10兆円もあるなら、全
国、200万人の学生に、500万円の奨学金の奨学金を、無償で与えることができる。400万
人の学生に、250万円の奨学金を無償で与えることができる。

 どうしてそういうふうに、そういうところで、お金を使わないのか?

 「貸与(貸し与える)」ではなく、「供与(ただでくれる)」にする。それが奨学金の基本的な性格
ではないのか。「貸与」なら、何も、文科省がしなくても、銀行に任せればよい。事実、アメリカで
は、そうしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 奨学
金制度 日本の奨学金)

+++++++++++++++

6年前に書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私
が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでに
うんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金
を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者
がふえている。

 1997年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめ
んどうを、あなたはみるか」と。それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、た
ったの19%! 

この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者
たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94
年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化
は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均2
7万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。だからどこの家でも、
子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に灯をともすような生活
を強いられる。

が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 
先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日
中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何を
いまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、
行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。大半の高校生
は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学
を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新
聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私た
ち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。私の話は、すでに一世
代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。

「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろう
か。

(補記)親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万
円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる
親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、
182万円。1999年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

大学生の親、貧乏盛り

 少子化? 当然だ! 

都会へ今、大学生を1人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(99年東京地区
私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。

……となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間
は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、
毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい
うことは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という1銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せ
る!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育てた
くない!」と。「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろい
ろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。
もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくな
い」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。





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●あやしげなカルト教団

+++++++++++++++++

この日本にも、あやしげなカルト教団は、
いくらでもある。

信者を洗脳しながら、金品を捧げさせるというのが、
おおかたのカルト教団のやり方だが、中には、
女性の肉体を、もてあそぶのが目的というのもある。

今度、刑事告訴が検討されている、「S」という団体も、
そのひとつ。

+++++++++++++++++

 今、「S」というカルト教団が、元信者たちによって、刑事告訴が検討されているという。その
「S」という教団は、80年ごろ、韓国で設立された教団だという。毎日新聞によれば、こうある。

 「この集団は、韓国で80年ごろに設立された「S」で、以前は「MS」とも称していた。キリスト
教の聖書を独自解釈し、CM教祖(61)を崇拝の対象としている。CM教祖は韓国で女性信者
に対する性的暴行が表面化した99年に、同国を脱出。その後、強姦容疑で同国の捜査当局
に指名手配された。国際刑事警察機構(ICPO)を通じ、国際手配されており、今春まで中国に
いたとの情報もある」と。

 驚くべきことは、何とこの日本にも、2000人近い信者がいたということ。

刑事告訴を検討しているW弁護士らによると、日本では首都圏や関西の大学生を中心に、約
2000人の信者がおり、6割が女性。国立大や有名私立大でスポーツ、演劇、チアリーダーな
どのサークルと称して、学生を勧誘。「聖書の勉強をしよう」と教義を教えこみ、「従わないと地
獄に落ちる」などとマインドコントロールしたという。

 さらに毎日新聞は、こう報道している。

 「CM教祖は02年ごろまでしばしば来日。千葉県の信者宅などに滞在し、数人ずつ女性信者
を呼び出しては、(健康チェック)と称して、下半身を触るなどの行為を繰りかえしていたという。
教義で服従させ抵抗できなかったことを理由に、準強姦容疑の適用を検討している。W弁護
士は、『強姦されたという5人前後を含め、十数人の女性から性的被害の相談を受けている』
と話している」とのこと。

 何ともポルノチックな教団ではないか。ワイドショーなどの報道によると、入信してくる女性を、
全裸にして、入信式をとりおこなったという。しかし問題は、そのことではない。「大学生を中心
に……」という部分である。

 いまどきの大学生は、そんなにも、バカなのか? しかもこの手のインチキ教団は、ひとつや
ふたつではない。いくらでもある。社会的な問題となった教団だって、多い。にもかかわらず、こ
ういう教団にひかれ、そして餌食(えじき)となっていく。

 バカ!

 利益(りやく)論と、バチ論を並べて信者を洗脳する方法は、カルト教団の常套手段。「信仰
すれば、幸福になれる。金持ちになれる」、しかし「脱退すれば、地獄に落ちる。不幸になる。
死ぬ」と。

 バカ!

 人知をはるかに超越した神や仏が、いちいち人間ごときに、バチなど、与えるものか! もの
ごとは、常識で考えろ! 人知をはるかに超越し、無量無辺に心が広いから、(それに甘えて
もいけないが……)、神といい、仏という。

 バカ!

 それにしても、2000人! まさか韓流映画の影響ということでもないのだろうが、それにして
も、2000人! どうしてこういう怪しげな教団が、モグラ叩きのモグラのように、現れては消
え、そのたびに、おびただしい数の若者たちが、犠牲になっていくのか? いろいろ理由は考
えられるだろうが、私はそのひとつに、低劣なテレビ文化をあげる。

 超能力者だの、占星術師だの、はたまた霊能者だの、そういったインチキな連中を、テレビ
に登場させて、みじんも、恥じない。こういった低劣文化が、いかに多くの子どもたちの心に影
響を与え、ここでいう犠牲者の予備軍を作っていることか!

 これから先も、この種のカルト教団は、ふえることはあっても、消えることはない。理由があ
る。

 こうした教団があるから、信者が生まれるのではない。そういう教団を求める潜在的な信者
がいるから、教団は生まれ、力をもつ。今回、問題になっている「S」というカルト教団は、まさに
その氷山の一角にすぎない。

【付記】

 改めて、人間が原罪的にもつスケベ力には、驚かされる。今、この種の事件が、ほとんど毎
日のように報道されている。

 それにしても……? 全裸になって入信式とは……? これはもう信仰の世界の話ではな
い。ポルノ映画の世界の話である。

++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

++++++++++++++

●ゲームづけの子どもたち

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ
ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(20
00年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティミットドラゴンをフィールドに出
せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。

子どもの言ったことをそのまま書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカードどうし
を戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「かけ勝負」と、
取らない「かけなし勝負」とがある。カードは、1パック5枚入りで、150円から330円程度で販
売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、「今はマジック・
ザ・ギャザリングだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。

カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚
近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊びをする。内容は高度になっ
ている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカ
ードから始まった世代は、同じように遊戯王のカードを集め、今は、マジギャザのカードを集め
ている。そしてそのカードを戦わせながら、遊んでいる。

 浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、多か
れ少なかれハマっているのがわかった。1人がだいたい1000枚近いカードをもっている。中
には1万枚ももっている子どももいるという。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもあるという。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は
質がよくて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、カケをしたり、大会で賞品集めをすることもある。「大会で勝つと、
新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のおとなばかり
だよ」とも。要するにポケモン世代は、大きくなるにつれて、その思考回路はそのままで、より
複雑な遊びに転じているということになる。

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。年間100億円から200億円の市
場になっている。たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている。子どもたちはそのカー
ドを手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値
段も高い。

つまり子どもたちは、商魂たくましいおとなたちによって操られている。しかしこんなことが許さ
れてよいものか。





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●主張訓練法

【BWの指導から(2)】(主張訓練法)

●「NO!」が、はっきり言える子ども

少し前、「YES」「NO」がはっきり言える
子どもについて書いた。

その根拠というか、それが見つかったので
報告します。

+++++++++++++++

心理学には、「行動療法」というのが
ある。

その中のひとつに、「主張訓練法」という
のがある。

これは子どもに、(おとなでも構わないが)、
「YES」「NO」をはっきり言わせることに
よって、
「対人場面における、不安感や緊張感を
軽減する方法」(臨床心理学・ナツメ出版)
である。

もう一度、そのとき書いた原稿をここに
添付しますので、どうか、参考に
なさってください。

+++++++++++++++

今週は、どのクラスでも、「NO!(いや!)」
とはっきり言える子どもの指導をしている。

指導というよりは、訓練。

大きな声で、しっかりと、「いや!」と言わせる。

この簡単な訓練だけで、子どもから優柔不断さが
消える。

+++++++++++++++

 今週は、幼児クラスを中心に、「いや!」とはっきり言う訓練をしている。方法は、こうだ。

 まず、子どもたちがいやがるような、誘いをかけてみる。

私「ゴキブリ・ハンバーグをあげようか」
子「……いらないよう……」
私「だったら、『いや!』とはっきりと言いなさい」
子「いや……」
私「そんな声じゃ、だめだよ。いやだったら、はっきりと『いや!』と言わなくては……」
子「いや!」と。

 つづけて、

私「ねずみのシッポのからあげをあげようか」
子「いや!」

私「シカのウンチのから揚げをあげようか」
子「いや!」

私「ミミズのラーメンはどう?」
子「いや!」と。

 こうしたかけあいを、5〜10回繰りかえすと、子どもたちは、大声で、「いや!」と言うようにな
る。

 そこでさらに、こう問いかける。いやらしい中年オジサンの雰囲気で……。

私「どこかへ連れていってあげようか?」
子「いや!」

私「お菓子を買ってあげようか?」
子「いや!」

私「そんなこと言わないで、車にのってよ」
子「いや!」

私「おもちゃを買ってあげるからさあ」
子「いや!」

私「じゃあ、おじさんのおうちに遊びに来る? お菓子がたくさんあるよ」
子「いや!」と。

 こうした方法は、心理学の世界でも、有効性が証明されている。「YES」「NO」を、はっきりと
言わせることによって、自我の確立を、より、めざすことができる。が、それだけではない。昨
今、子どもを犯罪に巻きこむ事件が、相ついでいる。この方法は、そうした事件に対する、予
防策にもなる。

 もしあなたの子どもに、どこか優柔不断で、グズグズした雰囲気があるなら、一度、この方法
を試してみるとよい。

が、本当は、集団教育の場で、みなが大声を張りあげていうような場面が望ましい。1人、2人
だと、大声を出さない子どもでも、みなが大声を張りあげると、つられて自分も大声を出すよう
になる。

 どこかの見知らぬおじさんが、「お菓子を買ってあげるから、いっしょに来ないか?」と声をか
けたとき、子どもが、最初に「いや!」とはっきり言う。犯罪の防止になるだけではなく、今のこ
うした社会では、とても大切なことだと思う。

【付記】

 この指導法を参観していた母親が、そのあと、こう言った。

 「私なんか、セールスがきても、はっきりと断れないため、よくトラブルに巻きこまれてしまいま
す」と。「私ははっきりと、いやと言うのですが、主人が、優柔不断で、困ります」といった母親も
いた。

 もしそうなら、日ごろから、夫婦の間で、こうした訓練をしておくとよい。

夫「奥さん、おもしろい薬があります」
妻「いりません」
夫「お買い得ですよ」
妻「興味ありません」
夫「奥さん、元気が出ますよ。あのK国製ですから」
妻「いりません。お帰りください」と。

 私たち夫婦も、ときどき、この訓練法を自分たちに試している。私も、若いころは優柔不断な
ところがあった。誘われると断りきれず、ついつい……ということがよくあった。しかし最近は、
ない。

 この訓練法のおかげである。

 なお、教育の場で、この訓練法をしているのは、私のBW教室だけである。(ほかの幼児教
室は、まねするな! ハハハ! 心が狭いかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 返答
訓練法 自我 YES NO はっきり言う子供 はっきりとした子供 行動療法 対人訓練法 
主張訓練法 子供の心理)







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●育てにくい子ども

●育てやすい子、育てにくい子

+++++++++++++++++

親からみて、育てやすい子と、
育てにくい子がいる。

同じ兄弟なのに、兄は、育てやすいが、
弟は育てにくい……というケースも、
少なくない。

+++++++++++++++++

 親からみて、育てやすい子と、育てにくい子がいる。同じ兄弟なのに、兄は育てやすいが、弟
は、育てにくいというケースも少なくない。

 そして親によっては、こう言う親がいる。「子育てが、こんなに楽なものでいいのかと、ときどき
思う」と。一方、そうでない親もいる。「子育てなんて、もうこりごり。二度と子育てなんか、したく
ない」と。

 一般的に言えば、育てやすい子というのは、つぎのようなタイプの子どもをいう。

(1)性質……温厚で、おだやか。すねたり、ひがんだりしない。
(2)性格……ほがらかで、明るい。いつもニコニコ笑っている。
(3)態度……言いたいことを言い、したいことをしている。YES・NOが明確。
(4)生活……規則正しく、よく眠り、よく遊ぶ。
(5)世話……何でもひとりでやってしまうので、手間がかからない。
(6)能力……平均以上の能力があり、とくに教えなくても、自分で学んでしまう。
(7)反応……楽しいことがあると、それをすなおに喜ぶ。
(8)根気……何かに関心をもつと、それに夢中になる。
(9)食事……好き嫌いがなく、何でもよく食べる。
(10)活動……行動的で、何でもテキパキとやりこなす。
(11)対人……だれとでも、心を開き、うちとける。友だちが多い。
(12)感覚……まわりの変化に敏感で、好奇心が旺盛。清潔好き。

 育てにくい子というのは、つぎのようなタイプの子どもをいう。

(1)性質……ささいなことでキレやすく、感情が不安定。
(2)性格……全体的に暗く、何を考えているか、わからない。いじけやすい。
(3)態度……ぐずぐずすることが多く、いつまでもネチネチと気にしたりする。
(4)生活……生活が不規則で、夜中でも起きて、騒いだりする。
(5)世話……何をするにも、手間がかかる。自分では、何もしようとしない。
(6)能力……能力的には、平均以下で、なにかにつけて、みなより遅れがち。
(7)反応……人の心のウラを見るようなところがある。いじけたり、嫉妬しやすい。
(8)根気……ものごとにあきっぽく、集中力がない。単一の遊びしかしない。
(9)食事……好き嫌いがはげしく、わがままで、自分勝手。
(10)活動……内向的で消極的。めんどくさがり屋。命令しなければ動かない。
(11)対人……好き嫌いがはげしく、人との交際を嫌う、
(12)感覚……まわりの変化に鈍感で、不潔なままでも、気にしない。

 ここでは、親の目から見た子どもについて書いた。同じように、教える側からみた、教えやす
い子と、教えにくい子がいる。

 一般的に言えば、教えやすい子というのは、心の状態が外に表れていて、心がつかみやす
い子どもをいう。一方、教えにくい子というのは、いわゆる(何を考えているかわからない子ど
も)をいう。

 で、ここでは、「どうしたらよいか」という問題はさておき、その先について、考えてみたい。つ
まり、あなた自身は、どうだったかということ。あなた自身は、あなたの親からみて、育てやすい
子だったか。それとも、育てにくい子だったか。

 こういう質問をすると、ほとんどの人は、こう答える。「私は、問題なかった」「私は、親からみ
て、育てやすい子だった」と。しかし考えてみれば、それもそのはず。

 自分を客観的に判断するという、自己認識力が育ってくるのは、小学3〜4年生くらいにかけ
てである。それまでは、ない。こんな例がある。

 ひとり、ADHD児と診断された子どもがいた。幼児期から、小学1〜4年にかけて、その多動
性のために、周囲の人たちは、それぞれに、たいへんな思いをした。で、その子どもが、中学2
年生くらいになった。そのころは、もちまえのバイタリィティが、よい方に作用して、クラスでも、
リーダー的な存在になっていた。名前を、U君としておく。

 その子どもにある日、私は、こう聞いた。

私「U君は、子どものころ、学校でもみんなに、迷惑をかけたが、覚えているか?」
U「ううん、ぼくはだれにも、迷惑をかけたことはない」
私「でもU君は、学校の先生に、よく叱られただろ?」
U「ううん、ぼくは叱られなかった。ただ先生やみなが、ぼくだけを、目の敵(かたき)にして、い
じめた」
私「目の敵にした?」
U「ぼくが何も悪いことをしていないのに、いつも、ぼくだけを怒った」と。

 だからほとんどの人は、「自分は、問題はなかった」と答える。あのU君ですら、そうだった…
…という言い方は、U君には、失礼かもしれない。しかしあのU君のおかげで、私の教室も、毎
回、メチャメチャにされてしまった。しかしU君には、その意識は、まったくなかった!

 自分の子どもを知るということは、結局は、自分自身を知るということになる。はたしてあなた
は、どういう子どもだったのか。それを知れば、あなたは自分の原点を知ることができる。

 なお、育てやすい子どもは、全体の40%前後、育てにくい子どもも、全体の40%前後とみ
る。もちろん親の許容性、受忍性の問題もからんでくるので、一概に、どうこうとは言えない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育て
やすい子 育てにくい子)






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●子どもの同性愛(3)

++++++++++++++++

同性愛的傾向を示す子どもは、
少なくない。

そういう傾向があることを知ると、
たいていの親は、あわてる。

しかしこうした同性愛的傾向は、
子どもの世界では、珍しくない。

++++++++++++++++

 同性愛といっても、いろいろある。(1)完全同性愛、(2)両性的同性愛、(3)機会的同性愛
(「心理学」・西東社)。

 完全同性愛というのは、同性の人にしか恋愛感情をもてない人をいう。両性的同性愛という
のは、同性と異性と、その双方に対して、恋愛感情をもてる人をいう。また機会的同性愛という
のは、ある特殊な環境で、過渡的に、同性愛的傾向を示すことをいう。

 子どものばあい、そのほとんどが、この機会的同性愛と考えてよい。

 「フロイトによると、人間の性愛の対象は、成長の過程で、自己→同性→異性と変わってい
く。したがって思春期における同性愛的感情は、むしろ自然なことである」(同書・渋谷昌三)
と。

 たとえば女子高などでは、こうした傾向を示す子どもは、いくらでもいる。(私も、映画館のい
ちばんうしろの席で、女子高校生どうしが、接吻をしているのを、見たことがある。)ほかに、寺
院や刑務所でも、多いという(同書)。

 私自身は、同性に対して恋愛感情をいだいたことはない。が、そのかっこよさに、あこがれた
ことはある。高校生のときは、何といっても、西郷輝彦にあこがれた。加山雄三にあこがれた。
その少し前、つまり子どものころは、長谷川一夫にあこがれた。市川雷蔵にあこがれた。

 こうした同性に対するあこがれは、今でもある。が、それは恋愛感情とは、まったく異質のも
のである。

 ここでいう恋愛感情とは、ズバリ、セックス(性交)を目的とした恋愛感情をいう。つまり自己
から同性、さらには異性へと(あこがれ)の対象が変化するにつれて、そこから徐々に、恋愛感
情が生まれるようになる。

 その過程で未分化のまま、恋愛感情まで発展してしまう状態が、同性愛ということになる。言
いかえると、子どもが同性愛的傾向を示したら、「機会として」、異性との交流の多い環境の中
に、子どもを置くという方法で、対処する。またそのあたりが、指導の限界ということにもなる。
たいていは、そのま、何ごともなかったかのように、その時期を過ぎていく。

 で、いろいろなケースを見聞きしてきたが、ことこの問題だけは、人間の「性(さが)」に関する
ものだけに、なるようにしかならないということ。あとのことは、子どもに任すしかない。またそう
いう目で、一歩、退いて見るしかない。

 この世界には、(正常)という言葉は、存在しない。何がノーマル(正常)で、何がアブノーマル
(異常)なのか、その定義すらない。また定義づけること自体、まちがっている。要は、どこまで
いっても、その子ども(人)自身の、きわめて個人的な問題ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 追記)





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●「日本」の謎

++++++++++++++++++

「日本」がもつ、最大の謎。
それは、日本が、なぜ「日本」なのか。

日本という国の名前を、「ニッポン」と、
音読(中国式の読み方)すること自体、
おかしい。

また、「日本」とは、読んで字のごとく、
「日の本(もと)」、つまり、
「太陽が昇る国」という意味
である。

が、どうして日本が、その
「太陽が昇る国」なのか?

++++++++++++++++++

 私がUNESCOの交換学生で、韓国にいたとき、こんな話を聞いた。話してくれたのは、金素
雲という名前の歴史学者だった。当時の韓国を代表する文化人でもあった。

 「日本の都の奈良は、韓国人が創建した都市だ。韓国から見て、(地の果てにある国)という
意味で、『奈落』とした。『ナラ』という言葉は、今でも、韓国語では、『国』を意味する。

 しかし『奈落』では、まずい。で、そのあと、『落』という文字を、『良』にかえ、『奈良』とした」と。

 私が「証拠がありますか?」と食い下がると、金素雲氏は、笑いながら、こう言った。「仁徳天
皇の墓を発掘すれば出てくるはずです」と。

 で、この話と少し関連するかもしれないが、日本が、なぜ、「日本」なのかという謎がある。わ
かりやすく言えば、いつ、だれが、この国を、日本と呼ぶようになったかということ。

 「日本」という国の名前は、もともとは、「日の本(もと)」という意味である。「太陽が昇る国
(Country of the Rising Sun)」という意味である。となると、おかしなことになる。日本は、自ら、
自分の国を、「太陽が昇る国」と名づけたことになる。

 つまり日本が、その太陽が昇る国であるかどうかは、日本の西側にある国に住んでいる人で
ないとわからないはず。日本人自身が、自らの国を、「太陽が昇る国」と名づけたとするなら、
その視点そのものが、おかしい。(反対に日本が、「日没の国」という名前であったとしたら、ど
うなるのか。そういう視点で考えてみると、わかりやすい。)

もし「日本」という名前を決めた人が、日本人であるとするなら、その人は、きわめて国際的な
感覚をもっていた人ということになる。少なくとも、一歩でも、日本から外へ出たことのある人で
ないと、そういう発想は、わいてこない。

 日本は、その昔、「倭(わ)」と呼ばれていた。「倭の国」とも呼ばれていた。「倭」というのは、
「伽耶※(かや)」(任那の古称。その任那には、日本府が置かれた)の別称でもあった。その
「倭の国」が、いつごろからか、今の「日本」という名前で呼ばれるようになった。

 それについて、韓国の、ある貿易会社の理事(S社P氏)は、こう書いている。P氏は貿易会
社の理事をしながら、一方で、歴史学者としても、知られている。

 「『日本』という国号を創案したのは、7世紀の高句麗僧・道顕である」と。

 つまり日本という名前を考案したのは、韓国人(高句麗人)だった、と。

 たいへんショッキングな意見だが、しかし、この説に従うと、日本がなぜ『日本』なのかという
謎が、解ける。韓国から見れば、日本は、たしかに「太陽が昇る国」である。だから日本は、
「日本」になった?!

 P氏は、こうつづける。「つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで、古代日本の主流階層
は、韓半島(朝鮮半島)から渡った渡来人だった」(同氏著「日本の源流を訪ねて」(サムエ社
刊)と。

 まあ、こうした説は、日本の外では、常識。ここに書いた、「任那の日本府」(正確には「任那
日本府」という)にしても、日本では、あたかも日本が韓国を支配下に置くために設置した、出
先機関のような印象をもって語られている。私も、学生のころ、歴史で、そう習った。しかししか
し韓国では、「ただの使途集団にすぎなかった」というのが常識。

 日本の歴史辞典(「角川新版日本史事典」)ですら、「百済または伽耶が設置した機関とする
説もあるが、倭国が伽耶の安羅国に送りこんだ、使臣集団とする説が有力」※と書いている。

 なぜ日本が、「日本」なのか? そんなことを考えた人は少ないと思う。だいたい日本という国
名を、「ニッポン」と、音読(中国式の読み方)すること自体、おかしい。なぜ日本という国名が、
中国式の読み方になっているのか。日本が、「日(ひ)の本(もと)」であっても、何ら、おかしくな
い。それについては、岩波書店の広辞苑には、つぎのようにある。

 「……大和(やまと)を国号とし、(日本はその昔)、『やまと』『おほやまと』といい、古く中国で
は「倭」と呼んだ。

 中国と修交した大化改新頃も、『東方』すなわち『日の本』の意から、『日本』と書いて、『やま
と』と読み、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった」と。

 中国では、「東方にある国」という意味で、「日本」と書いて、「やまと」と呼んでいたというの
だ。

(マルコポーロの時代には、中国では、日本は、「Chipangu」(「東方見聞録」)と呼ばれていた
らしい(日本大百科事典)。「日本国」を、元の時代には、そう発音したらしい。通説では、それ
が「ジパング」となり、さらに「ヤーパン(JAPAN)」となり、英語式の発音で、「ジャパン」となっ
た。ただしこれについては、諸説が氾濫している。

ここに書いたように、「ジパング」が、Japanとなったという説のほか、「日本」を、南シナで「Jip
enguo」と呼んでいたのが、Japanとなったという説などがある。)

もちろんここに書いたのは、数多くある「日本」説の中の一説にすぎない。しかしこと、この「日
本」にかかわる問題だけに、重大な問題と考えてよい。

 なぜ、日本が「日本」なのか? 考えれば考えるほど、謎が深まる。

(注※)(任那の日本府)……任那日本府は、倭国(日本の前身)の属領もしくは貢納国であ
り、任那地域に一定の経済利得権(おそらく製鉄の重要な産地があった)を持っており、事実
上の属領であったと考えられていた。

しかし、1960年代ごろから、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国で研究が進み、また日本
でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、ヤマト朝廷の任那支配は疑
問視されるようになり、任那日本府については、倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が、任那
地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。

近年、日本特有の墳墓であるとされていた前方後円墳が、任那に相当する地域から相次いで
発見され、その関連性が指摘されている(以上、ウィキペディア百科事典)。

(注※)「伽耶※(かや)」の「耶」は、人偏に、「耶」の字。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
論 任那日本府 任那の日本府 倭 日本の謎 大和 大和朝廷)

【付記】

 日本と韓国の歴史を比較していて興味深いのは、日本では、「献上」となっているところが、
韓国では、「下賜」となっていることが多いということ。

 たとえば日本の歴史で、「朝鮮の使節団が、天皇に宝物を、献上した」というような部分が、
韓国の歴史では、「日王(=天皇)に下賜した」となっているなど。

 考えてみれば、当時の朝鮮(百済、任那、新羅、高句麗)が、日本の天皇に頭をさげなけれ
ばならない理由など、どこにもない。当時の上下関係からすると、「下賜」のほうが正しいという
ことになる。

 私はそのことを、韓国の慶州へ行ったときに知った。バスの窓から、巨大な古墳群が、まる
で海の波のようにつながっているのを見たときのことである。私はそのスケールの大きさに、た
だただ圧倒された。

このことからだけでも、どちらが「上」か「下」かということになれば、明らかに、日本が、「下」。
当時の上下関係を、今ここで論ずること自体、おかしい。






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●同一性の崩壊(子どものやる気)

+++++++++++++++++++++

心の病気のほとんどは、自己同一性の崩壊が
原因で起こると考えてよい。

言いかえると、自己同一性の崩壊さえ回避すれば、
心の病気の予防になる。また自己同一性を確立
すれば、心の病気は「なおる」ということにな
る。

+++++++++++++++++++++

 自分のしたいことを、前向きにしている人は、生き生きとしている。明るく輝いている。そうで
ない人は、そうでない。

 こうした心理的なちがいを、心理学の世界では、「自己同一性」(アイデンティティ)という言葉
を使って説明する。

 「私はこうあるべきだ」「こうしたい」という、自分が心の中に描く自己像を、「自己概念」とい
う。一方、その人には、その人の現実的世界がある。そういう現実的世界における自己像を、
「現実自己」という。

 この自己概念と現実自己が一致している人のことを、「自己同一性(アイデンティティ)の確立
している人」という。このタイプの人は、ものごとに対して積極的で、行動力もある。静かに落ち
ついている。動じない。

 が、何らかの原因で、自己概念と、現実自己が、ズレることがある。

 わかりやすい例で考えてみよう。

(1)Aさん(女性)は、好きで好きでたまらない人と結婚した。
(2)Bさん(女性)は、好きでも嫌いでもない人と結婚した。
(3)Cさん(女性)は、顔を見るのもいやな人と、ハプニングで結婚してしまった。

 この3つのケースで、Aさんは、好きで好きでたまらない人と結婚したわけだから、満足感は
きわめて大きいということになる。毎日、夫が食べる食事を用意するのも、楽しくてならない。

 Bさんは、好きでも嫌いでもない人と結婚したわけだから、満足感もないが、同時に、不満も
ないということになる。

 が、Cさんは、嫌いな人と、ハプニングで結婚してしまった。その結果、毎日の結婚生活が、
苦痛でならない。つまり不満感は、きわめて大きいということになる。毎日、夫が食べる料理を
用意するのも、めんどう。おっくう。

 つまり(自分はこういう男性と結婚したい)という思いが、「自己概念」ということになる。そして
(今、現実に結婚している相手)が、「現実自己」ということになる。

 が、ここでいう自己同一性は、決して安定的なものではない。常に流動的である。

 再び結婚生活にたとえて考えてみる。

 好きで好きでたまらない人と結婚しても、結婚したあと、しばらくしてから、気が変わるというこ
ともある。反対に、それほど好きでもない人と結婚したのだが、そのあと、苦楽をともにするうち
に、相手を愛するようになるということもある。

 反対に、さらに嫌いになって、離婚……ということもありえるが……。

 ともかくも、自己同一性は、かならずしも、不変のものではないということ。日々に流動的であ
り、また変化して当然。たとえば「この道しかない」と思って、その職業についてはみたものの、
2年、3年とその仕事をするうちに、その仕事がいやになることだってありえる。

 そういうとき、いわゆる自己同一性は、危機的な状況を迎える。そしてそういう状態を、「同一
性の危機」と呼ぶ。

 つまりこうした変化に、そのまま適応できれば、よし。そうでなければ、そうでない。こうした変
化は、大きなストレッサーとなって、その人を襲う。つまりそれが心の病気の引き金を引いてし
まう。ときには精神障害の遠因となることもある。

 ……という話は、おとなの世界の話だが、この話は、そのまま、子どもの世界の話としても、
応用できる。

 今、あなたの子どもは、どんな自己概念を抱いているか。そしてその自己概念は、現実の子
どもの姿と一致しているか。

 この1点だけを正確に、かつ、しっかりとみていけば、あなたの子どもの心の問題は、事前に
予防することができる。さらに今、すでに何らかの心の病気をもっているなら、その病気を改善
することができる。

 要するに子どもにとって、重要なことは、子ども自身がしたいことを、夢や希望をもって、その
子そもが、前向きにするということ。やる気や目標も、そこから生まれる。またそういう状態に
子どもを導き、それができる家庭環境を用意するのが、結局は、親の務めということになる。

 まずいのは、親の意向にそって、子どもをミスリードすることだが、それについては、また別
の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
のやる気 やる気 自己同一性 同一性の危機)





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【老人論】

【老後は、どうあるべきか】

+++++++++++++++++

年をとればとるほど、戦わねば
ならないもの。

それが「回顧性」。

人間も、過去ばかりみて生きるように
なったら、おしまい。

半分、棺おけに足をつっこんだような
もの。

この4年間、私は、この問題を、ずっと
考えてきた。

最初は、(老後の準備)を考えた。
しかしやがて、そういう考え方、つまり、
老後を意識した考え方は、まちがって
いることに、気がついた。

++++++++++++++++++

●分岐点は、満55歳前後

 年齢とともに、人は未来をみることよりも、過去をみるようになる。過去をなつかしんで、その
過去に浸(ひた)るようになる。

 心理学などの本によると、その分岐点は、満55歳前後だという。つまりこの年齢を境にし
て、人は、未来をみることよりも、過去をみるようになる。同窓会や同郷会、さらには「法事」に
名を借りた親族会も、この年齢を境に、急に多くなる。

 要するに、満55歳を境に、人は、自らジジ臭くなり、ババ臭くなるということ。が、それだけで
は終わらない。

 回顧性が強くなればなるほど、思考力そのものが退化する。そのためその人は、融通性を
失い、がんこになる。過去を必要以上に美化し、心のよりどころを、そこに求めるようになる。

 つまり回顧性などといったものは、それが肥大化すればするほど、魂の死につながると考え
てよい。過去を懐かしんでばかりいる人は、いくら肉体は健康でも、魂は、すでに半分、棺おけ
に足をつっこんだようなもの。

 そこで重要なことは、自分の中に、回顧性の芽を感じたら、それとは徹底的に戦う。戦いなが
ら、いつも目を未来に向ける。あの釈迦自身も、『死ぬまで精進せよ』(法句教)というようなこと
を言っている。

 わかりやすく言えば、死ぬまで、前向きに生きろということ。

 2年半前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●回顧性と展望性

 過去をかえりみることを、「回顧」という。未来を広く予見渡すことを、「展望」という。

 概して言えば、若い人は、回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い。老人ほど、回顧
性のハバが広く、展望性のハバが、狭い。

 幼児期から少年、少女期にかけて、展望性のハバは広くなる。数日単位でしか未来を見
ることができなかった子どもでも、成長とともに、数か月後、数年後の自分を見渡すこと
ができるようになる。つまりそのハバを広げていく。

 言いかえると、展望性と回顧性のバランスを見ることによって、その人の精神年齢を知
ることができる。つまり未来に夢や希望を託す度合が、過去をなつかしむ度合より大きけ
れば、その人の精神年齢は、若いということになる。そうでなければ、そうでない。

 ある女性(80歳くらい)は、会うと、すぐ、過去の話をし始める。なくなった夫や、
その祖父母の話など。こうした行為は、まさに回顧性の表れということになる。が、こうした回顧
性は、老人の世界では、珍しくない。ごくふつうのこととして、広く見られる。

 一方、若い人は、未来しかみない。時間は無限にあり、その未来に向かうエネルギーも、
永遠のものだと思う。それは同時に、若さの特権でもあるが、問題は、そのハバである。

 自分の未来を、どの範囲まで、見ているか?
 1年後はともかくも、20年後、30年後は、見ているか?

 いくら展望性があるといっても、それが数か月どまりでは、どうにもならない。「明日も
何とかなる」では、どうにもならない。

 そこで、このことをもう少しわかりやすくまとめてみると、こうなる。

(1) 回顧性と展望性のハバが広い人……賢人
(2) 回顧性のハバが広く、展望性のハバが狭い人……老人一般
(3) 回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い人……若い人一般
(4) 回顧性と展望性のハバが狭い人……愚人(失礼!)

 (1)〜(3)は、比較的、わかりやすい。問題は(4)の愚人である。

 過去を蹴(け)散らし、その場だけの享楽に身を燃やす人は、ここでいう愚人というこ
とになる。

 このタイプ人は、過去に対して、一片の畏敬(いけい)の念すらない。同時に、明日の
こともわからない。気にしない。その日、その日を、「今日さえよければ」と生きる。健康
も、またしかり。

 暴飲暴食を繰りかえし、今だけよければ、それでよいというような考え方をする。もち
ろん運動など、しない。まさにしたい放題。

 で、問題は、どうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。一歩話を進め
ると、どうすれば、子どもがもつ展望性のハバを、広くすることができるかということ。

 ためしに、あなたの子どもと、こんな会話をしてみてほしい。

親「あなたは、おとなになったら、どんなことをしないか?」
親「そのために、今、どんなことをしたらいいのか?」
親「で、今、どんなことをしているか?」と。

 以前、こんな女の子がいた。小学3年生の女の子だった。たまたまバス停で会ったので、
近くの自動販売機で、何かを買ってあげようかと提案したら、その女の子は、こう言った。

 「私、これから家に帰って夕食を食べます。今、ジュースを飲んだら、夕食が食べられ
なくなるから、いいです」と。

 その女の子は、自分の未来を、しっかりと展望していた。で、その女の子で、もう一つ、
印象に残っていることで、こんなことがあった。

 正月のお年玉として、かなりのお金を手にしたらしい。その女の子は、それらのお金を
すべて貯金すると言う。

 そこで私が、その理由を聞くと、「お金を貯金して、フルートを買う。そのフルートで、
音楽を練習して、私はおとなになったら、音楽家になる」と。

 一方、そうでない子は、そうでない。お金を手にしても、すぐ使ってしまう。浪費して
しまう。飲み食いのために、使ってしまう。

 少し前だが、タバコを吸っている女子高校生とこんな会話をしたことがある。

私「タバコって、体に悪いよ」
女「知ってるヨ〜」
私「ガンになるよ」
女「みんな、なるわけじゃ、ないでしょう……?」

私「奇形出産のほとんどは、タバコが原因でそうなるっていう話は、どう?」
女「でも、そんな出産したという話は、聞かないヨ〜」
私「みんな、流産という形で、処置してしまうから……」
女「結婚したら、やめるヨ〜」

私「で、タバコって、おいしいの?」
女「別においしくないけどサ〜。吸ってないと、何となく、さみしいっていうわけ」
私「だったら、やめればいいじゃん」
女「また、病気にでもなったら、そのときはそのとき。そのとき、考えるわ」と。

 先の「フルートを買う」と答えた子どもは、ハバの広い展望性をもっていることになる。
しかしタバコを吸っていた子どもは、ほどんど、その展望性のハバがないことになる。

 こうしたちがいが、なぜ起きるかと言えば、結局は、私の説く「自由論」に行き着く。「自
らに由(よ)る」という意味での、自由論である。

 それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。しかし結局は、子
どもは、(自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとれる子ども)にする。展望性のハバ
の広い子どもになるかどうかは、あくまでもその結果の一つでしかない。
(040125)(はやし浩司 回顧 展望 老後論 自由論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 ちょうど57歳のとき、私も、中年期クライシスなるものを経験した。今から思うと、あのとき
が、回顧性と展望性が、自分の中で交差するときではなかったと思う。その前後、私の考え方
が、急速にうしろ向きになっていったのを覚えている。

 そのとき書いた原稿が、つぎのものである。かなり暗い内容だが、少しがまんして読んでほし
い。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しかし同時に、「い
いのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまできているのに、それに
気づいていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年期クライシ
ス」という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ病)のク
ライシス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のクライシスもあ
る。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、遠い未来の
話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうなる。それがまた、中
年期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづいている。そ
れに仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、もう用なしな
のか」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あまり私の存在をアテ
にしていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住むわ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろう。が、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくのが、自分で
もわかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見ていない。それが自分
でも、よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれないなら、お前
たちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何かにつけ
て、未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろうか?」と
考える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の中年期クライシスを
まとめると、こうなる。

(6)健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(7)精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(8)家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(9)老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(10)責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不振、頭重
感、抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう状態を、総合し
ていう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心をだます
ことも必要なのかもしれない。

 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくもないのに、わ
ざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よく言われる、
「微笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこやか。いつも満足そう
に、笑っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであっても、いつも、ニコ
ニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。会話が、まったくといってよ
いほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。ある先輩
は、ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、簡素化
する」と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎたら、広い土
地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶということ。ムダ
に、広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、難題であ
る。心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残っている。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若いころの私
だったら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もうしない。「どうでも
勝手に思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはいかない。責
任を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかしても、偽っても、生
きていくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……と、今、
勝手にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)

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同じころ、書いたのがつぎの原稿である。

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●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立てるこ
とを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれる。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省するこ
とを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含まれる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのどちら
もハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い回顧
性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度のハバをも
っているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定することができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているなら、
展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。しかし
いつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかりいるという
のであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つまり
満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者のB・ボ
ナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、ある飲
食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジーロン(メ
ルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南オーストラリア
州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍人ら
が建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまった。
私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という思いが、
その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯したこと
になる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死ぬまで……」
などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を回顧
することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりすぎるのは、
よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「いと
おしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美しさと
いうか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、どういう
わけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。生き
ることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望性のハバ
を広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあって、冬
であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっているだろうか。
今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると思う。しかし二
〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の荒野の中を、前に向
って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠されてい
るように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれば、また
ゆっくりと考えてみたい。
(040201)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 しかし私は、まちがっていた。やがてそれに気がついた。人は年をとっても、コンパクトに生き
る必要はない。またコンパクトな生き方をしてはいけない。

 何も、自ら好き好んで、死ぬための準備など、する必要はない。最後の最後まで、自分をま
っとうさせる。

 そうした変化を自分の中で感じたのが、つぎの原稿を書いたときである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●小さく生きる人、大きく生きる人

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老人になると、小さくなっていく
人と、大きくなっていく人がいま
すね。

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 人は、人、ぞれぞれ。生き方も、人、それぞれ。最近、老人観察をつづけている。このところ、
老人の生き様が、気になって、しかたない。それについては、少し前にも、書いた。

 で、大別して、老人になればなるほど、より小さく生きる人と、より大きく生きる人がいることが
わかる。その間にあって、(その日、その日を、ただ生きている人)もいるが、そういう老人は、
ここでは考えない。

【より小さく生きる人】

 より小さく生きる人は、生活そのものを、コンパクトにしようとする。しかしそれはそれで賢明
なことかもしれない。欧米人でも、高齢化すればするほど、そういう生き方をするのが、ふつう
のようである。

 たとえば、住環境を縮小したり、人間関係を整理したりするなど。収入も減り、健康にも自信
がなくなれば、それは当然のことかもしれない。

 しかしそれにあわせて、自分という人間そのものまで、小さくしてしまう人がいる。わかりやす
く言えば、より自己中心的になる。

 より利他的な生き方をする人を、人格のより完成した人とみるなら、より自己中心的になると
いうことは、それだけ、人格が後退したとみる。より自己中心的になれば、やがて、自分のこと
だけしかしなくなる。自分さえよければというような、考え方をするようになる。

 たとえば世間的な活動には、まったく参加せず、個人的な趣味だけしかしないという老人は、
少なくない。で、このタイプの老人にかぎって、少しでも、自分の生活圏が侵されたりすると、猛
烈に反発したりする。

【より大きく生きる人】

 これに対して、自分の生活を、より大きくしようとする人がいる。「大きい」といっても、住環境
を拡大したり、新しい人間関係を求めるというのではない。ある男性は、いつも口ぐせのよう
に、こう言っている。

 「私は今まで、こうして無事に生きてくることができた。それを最後には、社会に還元するの
が、私の最後の務めである」と。すばらしい生き方である。

 つまりこのタイプの人は、より、利他的になることによって、人格の完成度を高めようとする。
ある女性は、80歳をすぎてからも、乳幼児の医療費、完全無料化のための運動をつづけてい
た。「どこからそういうエネルギーがわいてくるのですか?」と私が聞くと、その女性は笑いなが
ら、こう言った。「私は、ずっと保育士をしてきましたから」と。

 その人の人生は、その人のもの。だから他人がとやかく言ってはいけない。最近の私は、「と
やかく思ってもいけない」と、考え始めている。仮にあなたの隣人が、優雅な年金生活をしてい
たとしても、それはその人の人生。批判したり、批評したりすることも、いけない。

 反対の立場で言うなら、他人にどう思われようが、気にすることはない。

 大切なことは、私は私で、納得のできる老後の道をさがすこと。あくまでも、私は、私。が、こ
れだけは、言える。

 愚かな人からは、賢明な人がわからない。しかし賢明な人からは、愚かな人がよくわかる。同
じように、人格の完成度の低い人からは、完成度の高い人はわからない。しかし完成度の高
い人からは、、完成度の低い人がよくわかる。

 それはちょうど、山登りに似ている。低いところにいる人は、高いところから見る景色がどん
なものか、わからない。しかし高いところにいる人は、低いところにいる人が見ることができな
い景色を見ることができる。

 そしてより広い景色を見た人は、きっと、こう思うだろう。「今まで、こんな景色を知らなかった
私は、愚かだった。損をした」と。

 ……といっても、それはあくまでも、相対的なもの。こんなことがあった。

 私が、地域の公的団体の主催する講演会で、講師をしたときのこと。少し自慢げに、恩師の
T先生にそのことを話したら、T先生から、すかさず、一枚の写真が送られてきた。その写真と
いうのは、T先生が、「中国化学会創立50周年記念」で、記念講演をしているときの写真だっ
た。しかも添え書きには、「中国語でしました」とあった。

 T先生は、いつも私が見たこともない世界で、仕事をしている。だから私ができることといえ
ば、先生の言葉の断片から、その見たこともない世界を想像するだけでしかない。そのT先生
から見れば、私の住んでいる世界などというものは、まるでおもちゃの世界のようなものかもし
れない。

 そうそう、もう一人、別の恩師は、こうメールを書いてきた。その恩師も、世界を舞台に、あち
こちで、講演活動をしている。いわく、「林君、田舎のおばちゃんたちなんか、相手にしていては
だめだ」と。

 ずいぶんときつい言葉である。そのときは、「そんなことを女性たちが聞いたら、怒るだろう
な」と思った。しかし同時に、「そういうものかなあ?」と思った。その恩師にしても、私の世界を
はるかに超えた世界で、仕事をしている。

 まあ、このところ、私の限界も、はっきりしてきた。「私の人生は、こんなもの」と、心のどこか
で、ふんぎりをつけるようになった。だから後悔はしないが、しかしこれで私の人生が終わった
わけではない。

 できれば、これから先、ここに書いた、(より大きく生きる老人)になりたいと願っている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ちょうど上の原稿を書いたころ、こんな原稿も書いた。

内容が少しダブるかもしれないが、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●過去と未来

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、40
歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、
悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が
半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20
年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしか
ない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はしてい
るが、ここでいう前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてでき
た。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが、表に出てくるのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいる。が、同時に、そ
ういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進」という言葉を使って、「日々に前進することこ
そ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。

わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをは
さむのは許されないことだが、私もそう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前
向きに生きるところにある。過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

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前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だ
った。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほ
ど雇うほどまでになった。

が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから2年後に他
界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。

「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげた
ような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。「それも、私がどこにあるか忘れてしまっ
たようなものです。値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚
いた。

「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。「長い
間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女
性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。

数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数10万年など、マバタキのよ
うなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。しかし数10万円で
は、パソコン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大きい。モーゼがシナイ山で十戒
を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど前のこと。たったの6000
年である。それ以前の数10万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたとい
うのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こす
ようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではな
い。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパ
ダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからな
いが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。同じようなことは
子どもたちの世界でも、よく経験する。

たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。そう
いうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎
晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。もしそういう人がい
れば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさ
らに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。が、何も私は、そういう女
性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そうい
う生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとして、
尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。

しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値もそこから生まれる。もっと言
えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。……つまり、
そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。

「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているの
だろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」
と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになっ
た。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに
なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かにな
るだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこと
もある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

そして昨年(05年)の1月に、つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心に残る人たち

 個性的な生き方をした人というのは、それなりに強く印象に残る。そしてそれを思い出す私た
ちに、何か、生きるためのヒントのようなものを与えてくれる。

 たとえば定年で退職をしたあと、山の中に山小屋を建てて、そこに移り住んだ人がいた。姉
が中学校のときに世話になった、Nという名前の学校の先生である。その人が、ことさら印象に
強く残っているのは、郷里へ帰るたびに、姉が、N先生の話をしたからではないか。

 「N先生が、畑を作って、自給自足の生活をしている」
 「半地下の貯蔵庫を作って、そこできのこの栽培をしている」
 「教え子たちを集めて、パーティを開いた」など。

 ここまで書いたところで、つぎつぎと、いろいろな人が頭の中に浮かんでは消えた。

 G社という出版社で編集長をしていた、S氏という名前の人は、がんの手術を受けたあと、一
度、元気になった。その元気になったとき、60歳になる少し前だったが、自動車の運転免許証
を手に入れた。車を買った。そしてこれは、あとから奥さんから聞いた話だが、毎週、ドライブ
を繰りかえし、なくなるまでの数年間、1年で、10万キロ近く、日本中を走りまわったという。

 またS社という、女性雑誌社に勤めていた、I氏という名前の人は、妻を病気でなくしたあと、
丸1年、南太平洋の小さな島に移り住み、そこで暮らしたという。一時は、行方不明になってし
まったということで、周囲の人たちはかなり心配した。が、1年後に、ひょっこりと、その島から
戻ってきた。そしてそのあとは、何ごともなかったかのような顔をして、10年近くも、S社の子会
社で、また、健康雑誌の編集長として活躍した。

 で、それからもう20年近くも過ぎた。山の中に山小屋を建てて住んだNという先生は、とっく
の昔に、なくなった。G社の編集長をしていたS氏も、なくなった。女性雑誌社に勤めていたI氏
は、私が知りあったとき、すでに50歳を過ぎていた。私が、25歳のときのことだった。だから
今、生きているとしても、80歳以上になっていると思う。

 I氏からは、あるときまでは、毎年、年賀状が届いた。が、それ以後、音信が途絶えた。住所
も変わった。

 そうそうG社という出版社に、Tさんという女性がいた。たいへん世話になった人である。その
Tさんは、G社を定年で退職したあとまもなく、大腸がんで、なくなってしまった。

 その葬式に出たときのこと。こんな話を聞いた。

 そのとき、私は、そのTさんにある仕事を頼んでいた。その仕事について、ある日の昼すぎ
に、電話がかかってきた。Tさんが病気だということは知っていた。が、意外と、明るい声だっ
た。Tさんは、いつものていねいな言い方で、私の頼んだ仕事ができなくなったということをわび
た。そして何度も何度も、「すみません」と言った。

 そのことを葬儀の席で、Tさんをよく知る人に話すと、その人は、こう言った。「そんなはずは
ない。Tさんが、あなたに電話をしたというときには、Tさんは、すでに昏睡状態だった。電話な
ど、できるような状態ではなかった」と。

 おかしな話だなと、そのときは、そう思った。あるいはそういう状態のときでも、ふと、意識が
戻ることもあるそうだ。Tさんは、そういうとき、私に電話をかけてくれたのかもしれない。

 親類の人たちや、友人は別として、その生きザマが、印象に残る人もいれば、そうでない人も
いる。言うなれば、平凡は美徳だが、平凡な生活をした人は、あとに、何も残さない。だからと
いって、平凡な生活をすることが悪いというのではない。「私らしい生きザマ」とは言うが、しかし
それができる人は、幸せな人だ。

 たいていの人は、世間や家族、さらには親類などのしがらみに、がんじがらめになって、身動
きがとれないでいる。いまだに「家」を引きずっている人も、少なくない。そういう状況の中で、そ
の日、その日を、懸命に生きている。

 それにこうした個性的な生きザマを残した人にしても、私たちに何かを(残す)ために、そうし
たわけではない。私たちに何かを教えるために、そうしたわけでもない。結果として、私たち
が、勝手にそう思うだけである。

 ただ、こういうことは言える。

 それぞれの人は、それぞれの人生を懸命に生きているということ。悲しみや苦しみと戦いな
がら、懸命に生きているということ。その懸命に生きているという事実が、無数のドラマを生
み、そのドラマが、そのあとにつづく私たちに、ときに、大きな感動を残してくれるということ。

 で、かく言う私はどうなのかという問題が残る。

 ここ数か月以上、私は、「老人観察」なるものをしてきた。その結論というか、中間報告とし
て、ここで言えることは、私は、最後の最後まで、年齢など忘れて、がんばって生きてみようと
いうこと。

 ときに、「生活をコンパクトにしよう」とか、「老後や、死後に備えよう」などと考えたこともある
が、それはまちがっていた。エッセーの中で、そう書いたこともある。まだ、その迷いから完全
に抜けきったわけではないが、私は、そういう考え方を捨てた。……捨てようとしている。

 つまりそういう生きザマを、こうした人たちが、私に教えてくれているように思う。私たちはそ
の気にさえなれば、最後の最後まで、何かができる。それを教えてくれているように思う。

 N先生……私自身は一面識もないが、心の中では、いつも尊敬していた。
 S氏……そのS氏が、私にエッセーの書き方を教えてくれた。
 I氏……いっしょに健康雑誌を書いた。……I氏の実名を出してもよいだろう。I氏は、主婦と生
活社の編集長をしていた、井上清氏をいう。健康雑誌の名前は、『健康家族』という雑誌だっ
た。その名前を覚えている人も、中にはいると思う。

 そしてTさん。電話では、自分の病状のことは、何も言わなかった。それが今になって、私の
胸を熱くする。私は、そのTさんの葬儀には、最後の最後まで、つきあった。藤沢市の会館で葬
儀をし、そのあと、どこかの火葬場で、火葬にふされた。アメリカ軍の基地の近くで、ひっきりな
しに、飛行機の爆音が聞こえていた。私は、Tさんが火葬されている間、何度も何度も、その飛
行機を見送った。

 遠い昔のことのようでもあるし、つい先日のことのようにも思う。みなさん、私に生きる力を与
えてくれてありがとう。私も、あとにつづきます!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●終わりに……

 老後の敵、それはここに書いた「回顧性」ということになる。その回顧性を感じたら、すでにあ
なたも、老人の仲間入りをしたということになる。

 もし、それがいやなら、つまりジジ臭くなったり、ババ臭くなるのがいやだったら、回顧性とは、
戦うしかない。

 私は死ぬまで、現役。あなたも、死ぬまで、現役。いつまでも、若々しく、前向きに生きてい
く。

 繰りかえすが、毎日、過去をなつかしみながら、仏壇の金具を磨きながら日を過ごすようにな
ったら、その人も、おしまい。そういうこと。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 回顧
性と展望性 展望性と回顧性 老後 老後の問題)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【付記】0608月06日

 生き様の問題は、どこまでいっても、その人個人の問題。仮にその人の生き様が、あなたの
意見とはちがったものであったとしても、私たちは、それについて、何も言ってはいけない。干
渉してはいけない。

 同じように、それぞれの老人が、それぞれの生き方をしていたとしても、私たちは、それにつ
いて、何も言ってはいけない。干渉してはいけない。

 人は、みな、それぞれ。

 ここで私は、「人は、老後を、どう生きるべきか」というテーマで、エッセーを書いた。しかしこ
のエッセーは、決して、他人のために書いたのではない。あくまでも、自分のために書いた。

 そして最初から読んでくれた人には、わかってもらえたと思うが、私はこの数年間だけでも、
自分の考え方が、大きく変化したのを知っている。

 (老後に備えて、コンパクトに生きよう)という考え方から、(それに疑問をもつ考え方)。そして
今は、(老後になっても、前向きに生きることこそ、大切という考え方)に変わってきた。

 が、ここで結論が出たわけではない。

 この問題だけは、そのウラで年齢がからんでくるだけに、今、ここで結論を出すことができな
い。この先、年齢とともに、考え方が、変わってくることもありえる。事実、この原稿を読んでくれ
た恩師のT先生は、こう言った。

 「(私の意見は)、若い人の考え方で、老人向きではありませんね」と。

 尊敬する先生の意見だけに、その言葉は、私の胸に、ズシリと響いた。

 これからもこの問題については、考えつづけてみたいと考えている。




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●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性がとくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサイ
ト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。さらには、そういう若者が結婚し、
子どもをもつ。そういうこともある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、1円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわかりませんでした」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はや
し浩司 ピーターパン シンドローム)





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【子どもの評価】

特集【子どもの評価】

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W県のある小学校で、こんな事件が起きた。

その学校の、あるクラス(2年生、児童数23人)
の1学期の通知表について、父母たちが、「評価が
きびしすぎる」と、先生に抗議をしたというのだ。

そこで学校側(教師)が、評価をしなお
し、再評価をしたところ、今度は、父母たち
が、「子どもたちが不信感を抱く」(読売新聞)
と、それを受け取るのを拒否したという。
(06年8月8日)。

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W県のある小学校で、こんな事件が起きた。

その学校の、あるクラス(2年生、児童数23人)の1学期の通知表について、父母たちが、
「(ほかのクラスより)、評価がきびしすぎる」と、学校側に抗議をしたというのだ。

そこで学校側(教師)が、評価をしなおし、再評価をしたところ、今度は、父母たちが、「子ども
たちが不信感を抱く」(読売新聞)という理由で、それを受け取るのを拒否したという。

 「同小によると、2年生は2クラスあり、通知表は担任が、国語や算数など、計6教科を30項
目に分けて、A〜Cの3段階で絶対評価をつけることになっていた。50歳代の女性教諭が担
任するこのクラスでは、最高評価のAが、1人平均3・6個だった」(同新聞)という。

 この事件について考える前に、子どもを評価する方法について、書いてみたい。よく知られて
いる方法に、偏差値というのがある。

●偏差値

 子どもを評価するとき、その尺度にするのが、(1)絶対評価と、(2)相対評価であある。

 絶対評価というのは、一定の基準をもうけ、たとえば、「90点以上を取ったら、成績は、A。8
0点以上を取ったら、成績は、Bとする」というもの。

 これに対して相対評価というのは、たとえば100人の生徒がいたとすると、「上位1〜10位
は、A。11〜20位は、Bとする」というもの。

 この相対評価を、さらに数学的に処理して、精度の高いものにしたのが、偏差値ということに
なる。

 平均点を50点に修正して、その50点を基準に、プラス・マイナス何点……というようにして、
その子どもの点数を決める。

 その偏差値を求める公式は、日本人が考えたものだという。が、それはさておき、個人の偏
差値を計算するためには、まず、(標準偏差)を求める。(一応、標準偏差を求める数式を、こ
こに書いておく。)

【標準偏差】

 

X=個人の得点
M=その年齢集団の平均点
N=受験者数

たとえば平均点が40点、SDが、10点であれば、30〜50点の範囲に、3分の2の子ども(受
験者)が入っていることを示す。わかりやすく言えば、平均点プラス・マイナスSDの範囲に、3
分の2の子ども(受験者)が入っていることを示す。

 さらにこの標準偏差が10、平均が50になるように、数学的に変換したのが、(偏差値)という
ことになる。その偏差値は、つぎのようにして、求める。

【偏差値】

 

  SS=個人の偏差値
  SD=標準偏差
  X =個人の得点
  M=その年齢集団の平均点

 たいへんむずかしい計算のように思う人がいるかもしれないが、公式さえコンピュータに一度
入力しておけば、あとはコンピュータが瞬時に、偏差値をはじき出してくれる。今は、そういう時
代である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 標準
偏差 偏差値 絶対評価 相対評価 子供の評価 成績)

●親の抗議(?)

もう一度、なぜ親たちが、学校側に抗議をしたかについて、読売新聞から、そのまま引用す
る。

「同小によると、2年生は2クラスあり、通知表は担任が、国語や算数など、計6教科を30項目
に分けて、A〜Cの3段階で絶対評価をつけることになっていた。50歳代の女性教諭が担任す
るこのクラスでは、最高評価のAが、1人平均3・6個だった」(同新聞)という。

 それぞれの子どもが、それぞれ30項目について評価を受けるわけだから、A、B、Cを均等
に分散するなら、1人平均、10個のA、10個のB、10個のCという成績をもらうことになる。

 しかしその担任は、「1人平均3・6個のAしか、与えなかった」という。

 つまりその分、BやCをもらう子どもが、多くなったということになる。

 しかし、だ。はっきり言おう。こんなことで、どうして親たちが、抗議をするのか! また抗議を
しなければならないような問題では、ない!

 30項目というが、実際には、それぞれの項目について、正確に評価するなどということは、
不可能! 絶対に不可能! ふつうは、その子どもを大ざっぱに見て、あとは、「多分、この項
目はこうだろうな……?」というような評価のしかたで、点数をつける。

 で、その先生は、1人平均3・6個のAしか、子どもに与えなかった……。そこでそのクラスの
親たちが、それに抗議をした。中学生や高校生なら、まだ話もわかる。しかし子どもといって
も、小学2年生!

 こうした抗議をすることで、親たちは、子どもをかばったとでも思っているかもしれない。が、こ
うした抗議をすることによって、先生(学校)と、子どもたちの間の関係は、こなごなに破壊され
る。

 それによる被害のほうが、私は、よっぽど、深刻だと思う。へたをすれば、今後、教室での授
業そのものが、なりたたなくなってしまう。

 私はこの記事を読んだとき、私自身が経験した話をいくつか思い出した。それをここに紹介
する。今回の事件とは、直接関係ないが、何かの参考になれば、うれしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を知る親・知らない親】

●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。

「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子
どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のこととい
うか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。

ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。
自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることであ
る。そしていつも同じ失敗を繰りかえすことである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【学校の先生が許せない!】

●汝自身を知れ

 自分を知ることはむずかしい。本当にむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、
自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。
もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。か
なり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いこ
とに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」

 学校の先生に、「どうしてうちの子(小4男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親が
いた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、
「掛け算の九九をもう1度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。

掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間に
は、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、そ
れで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明する
のはたいへんだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているよう
で、つらい」と。私もその気持ちが、よく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 

が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、
1人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小1男子)が、おもらししたのを皆が笑っ
た」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議
に行くから、一緒に行ってほしい」と。

もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられ
た。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかとい
うこと。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チッ
クにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。

●ギスギスでは教育はできない

学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそ
んなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。

また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりな
がら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられ
る。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題
にする。

●子どもを知るのが子育ての基本

 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを
知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかし
い。

たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際
には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気
がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなた
が愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはい
けない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●過関心は百害のもと

 私自身も、こんな失敗をしたこともある。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。

いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ど
も(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学2年生のとき、学校で
ウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。

教育は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息
を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。

へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●抗議、そして再評価?

話をもとにもどすが、「成績のつけ方がきびしすぎる」と抗議した親たち。子どもたち自身が自
分で考えて、そう抗議するのなら、まだ話がわかる。どうして親たちが、そんなところへ出てくる
のか? その前に、何を基準に、親たちは、「きびしすぎる」と判断したのか?

 中学生だと、成績(内申書)が、高校入試の合否に大きくかかわることもある。しかし今回の
事件では、子どもといっても、まだ小学2年生!

 もっともだからといって、こうした抗議をしたい親たちを責めているわけではない。報道には書
かれていないが、親たちには、何か別の言い分があるのかもしれない。ここまで問題がこじれ
るというのは、それ以前にもいろいろあったとみるほうが、自然である。つまり、それまでの不
信感や不満が、積もりに積もって、こうした事件につながったとも考えられる。表面的な部分だ
けをみて判断するのは、危険なことでもある。

 で、それはそれとして、学校側は、親たちの抗議を受けて、成績を再評価しなおしたという。
が、ここでも問題が残る。

どうして再評価したのか? その先生は先生なりに、ある信念をもって、そういう成績をつけた
のかもしれない。「私は、私のクラスの子どもたちに、もっとがんばってほしいと思いましたか
ら、きびしい成績をつけました」と。

 が、抗議を受けたとたん、再評価? ……考えてみれば、これもおかしい。

 相対評価といっても、決して、絶対的なものではない。たとえばふつうの学校ではトップクラス
の子どもでも、進学校へ入ったとたん、中位以下になるということも、ある。もちろん、その反対
のこともある。

 だったら、それはそれでよいのではないのか? 国公立の大学のばあいは、各高校からあ
がってくる内申書について、その点数を補正して使っている。そういうデータをしっかりともって
いる。「A県のA高校は、平均偏差値は、59点。D高校は、43点」と。そのデータに照らしあわ
せて、つまり内申書の内容を、一度、補正した上で、その子どもの学力を評価している。

 「となりのクラスはともかくも、うちのクラスは、うちのクラスで、絶対評価をしてみました。その
ため成績のつけ方が、きびしくなりました」でも、よいのではないのか?

●先生も、たいへん!

 あなたという親は、平均して、2人前後の子どもを育てている。しかし2人といっても、子どもを
育てるのが、いかにたいへんなことかは、あなた自身も、よく知っているはず。そういう子ども
を、23人も押しつけて、「もっとしっかり、めんどうをみろ」「しっかり、評価しろ」は、ない。実際
には、無理。不可能。

 つまりこれが学校教育の限界ということにもなる。

 が、一方に、この日本には、信仰とも言ってよいほどの、学校神話がある。学校万能主義、
学校絶対主義も、そこから生まれた。つまり親たちは、学校の先生を、(人間)と見る前に、神
様か仏様のように思ってしまう。先生に無謬性(むびゅうせい=1点のまちがいも、汚れもない
こと)を求めてしまう。

 それに今回の事件には、「?」と思う部分がないわけではない。

 親たちは「もうひとつのクラスより、成績のつけかたがきびしい」と言って抗議をしたという。な
らば、どうして、それがわかったのかという疑問である。

 それがわかるためには、まずクラス全員の子どもたちの成績を知らなければならない。つぎ
に、もう1つのクラス全員の子どもたちの成績を知らなければならない。どうして、またどうやっ
て、親たちは、それを知ったのだろうか?

 それを知るためには、たいへんなエネルギーと、時間が必要である。親のほうばかりを、一
方的に責めるようでつらいが、それを想像するだけで、私は、息がつまる。こんなエッセー(中
日新聞掲載済)を書いたことがある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【勉強だけできればいいの!】

●基礎教養

 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。

ある母親は娘(小2)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研
究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、
クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。

そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があっ
た。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信
じ、それだけに狂奔する。Rさん(35歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て

 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫は
ある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小2男児)の教育
には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も4つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語
教室、それに水泳教室、と。

水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパン
ク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の1か月の給料
でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だ
がコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?

 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。
それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をた
いらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾ってい
る女性のようでもある。

「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にし
てみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った

 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんか
ら子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。

最近、子ども(小2男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接し
てみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、
キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、ま
ちがいなく非行化する。

●私は超能力者?

私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どうい
う問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のよう
だ」と言われるが、30年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。

方法は簡単。まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そして
その子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校
3年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれ
を思い出しながら、親に話せばよい。

そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまっ
た。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる

 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、そ
の子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話しても
ムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のし
ようがない。

それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。
もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。たが
いの間に感ずる距離が、あまりにもある!

Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。
よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一
杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。

このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がない。ないから、成績がさがった
らさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子ども
の指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれな
いと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【受験ノイローゼ】

●受験ノイローゼ

 子どもが受験期を迎えると、受験ノイローゼになる親は多い。子どもではない。親がなる。あ
る母親はこう言った。「進学塾の光々とした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼりました」
と。「家でゴロゴロしている息子(中2)を見ただけで、気分が悪くなり、その場に伏せたこともあ
ります」と言った母親もいた。

 親が受験ノイローゼになる背景には、親自身の学歴信仰、それに親自身の受験体験があ
る。「信仰」という言葉からもわかるように、それは確信を超えた確信と言ってもよい。学歴信仰
をしている親に向かって、その信仰を否定するようなことを言うと、かえってこちらが排斥されて
しまう。

「他人の子どものことだから、何とでも言えるでしょ!」と。話の途中で怒ってしまった母親もい
た。私が、「これ以上ムリをすると、子ども自身が、燃え尽きてしまう」と言ったときだ。

 また受験体験というのは、親は自分の子どもを育てながら、そのつど自分の体験を繰りかえ
す。とくに心の動きというのは、そういうもので、子どもが受験期を迎えるようになると、親自身
がそのときの心を再現する。将来に対する不安や、心配。選別されるという恐怖。そしてそれ
を子どもにぶつける。

もっと言えば、親自身の心が、極度の緊張状態におかれる。この緊張状態の中に、不安が入
り込むと、その不安を解消しようと、一挙に情緒が不安定になる。

 「受験ノイローゼ」と一口に言うが、それは想像を絶する「葛藤」をいう。そういう状態になる
と、親は、それまで築きあげた家族の絆(きずな)すら、粉々に破壊してしまう。家族の心を犠
牲にしながらも、犠牲にしているという感覚すらない。小学5年の女児をもつある母親はこう言
った。

「目的の中学入試に合格すれば、それですべてが解決します。娘も私を許し、私に感謝するは
ずです」と。その子どもは毎晩、母親の前で、泣きながら勉強していた。

 その受験ノイローゼにはきわだった特徴がいくつかある。そのひとつ、ふつうの育児ノイロー
ゼと違うところは、親自身が、一方でしっかりと自分をもっているということ。たとえば人前で
は、「私は、子どもが行ける中学へ入ってくれれば、それでいいです」とか、「私はどこの学校で
もいいのですが、息子がどうしてもS高校へ入りたいと言っているので、何とか、希望をかなえ
させてやりたい」とか、言ったりする。

外の世界では、むしろ温厚でものわかりのよい親を演じたりすることが多い。

 もちろん育児ノイローゼに似た症状も出てくる。育児ノイローゼの症状を、まず考えてみる。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞……どこかぼんやりとしてくる。うつろな目つき、元
気のない応答など。

(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)……同じことを考えたり、繰り返したりする。

(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)……ものごとに興味がみてなくなる。

(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)……朝早く目が覚めたり、眠っても眠りが浅い。

(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)……不注意による事
故が多くなる。

(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)……万引きをしてつかまったりする。
衝動的に高額なものを買ったりする。同じものを、あるいは同じようなものを、同時にいくつか
買う。

(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)……ささいなことが頭から離れず、それ
が苦になってしかたない。

(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)……怒っている最中は、自分のしていることが絶対正しいと思うことが多い。ヒ
ステリックに泣き叫んだりする。

(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)……人と会うだけで極端に疲れる。家の中に閉じこも
る。

(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。……過食症や拒食症になる。体重
が極端に変化する。

(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)……ささいなことで、
相手に謝罪の電話を入れたりする。自分のしていることが客観的に判断できなくなる。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●受験ノイローゼ

 受験ノイローゼも、ノイローゼという意味では、育児ノイローゼの一種とみることができる。し
かし育児ノイローゼに見られない症状もある。先に述べたように、「自分をしっかりもっている」
のほか、ターゲットが、子どもの受験そのもの、あるいはそれだけにしぼられるということ。

明けても暮れても、子どもの受験だけといった状態になる。

むしろ子どもの受験以外の、ほかのことについては、鈍感になったり、無関心になったりする。
育児ノイローゼが、生活全体におよぶのに対して、そういう意味では、限られた範囲で、症状
がしぼられる。が、その分だけ、子どもの「勉強」「成績」「受験」に対して、過剰なまでに反応す
るようになる。

 毎日、書店のワークブックや参考書売り場へ行っては、そこで1〜2時間過ごしていた母親が
いた。あるいは子どもの受験のためにと、毎日、その日の勉強を手作りで用意していた母親も
いた。しかしその中でもナンバーワンは、Tさんという母親だった。
 
 Tさんは、私のワイフの友人だった。あらかじめ念のために書いておくが、私はこういうエッセ
ーを書くとき、私が直接知っている母親のことは書かない。書いても、いくつかの話をまとめた
り、あるいは背景(環境、場所、家族構成)を変えて書く。それはものを書く人間の常識のよう
なもの。そのTさんは、私が教えた子どもの母親ではない。

 そのTさんは、子どもが小学校に入ると、コピー機を買った。それほど裕福な家庭ではなかっ
たが、30万円もする教材を一式そろえたこともある。さらに塾の送り迎え用にと、車の免許証
をとり、中古だが車まで買った。そして学校の先生が、テストなどで採点をまちがえたりすると、
学校へ出向き、採点のしなおしまでさせていた。

ワイフが「そこまでしなくても……」と言うと、Tさんはこう言ったという。「私は、子どものために、
不正は許せません」と。

 こういう母親の話を聞くと、「教育とは何か」と、そこまで考えてしまう。そのTさんは、いくつ
か、Tさん語録を残してくれた。いわく、「幼児期からしっかり子どもを教育すれば、東大だって
入れる」「ダ作(Tさんは、そう言った)を二人つくるより、子どもは一人」と。

Tさんの子どもが、たまたまできがよかったことが、Tさんの受験熱をさらに倍化させた。いや、
もっともTさんのように、子どものできがよければ、受験ノイローゼも、ノイローゼになる前に、あ
る程度のレベルで収めることができる。が、その子どものできが、親の望みを下回ったとき、ノ
イローゼがノイローゼになる。

●特徴

 受験ノイローゼは、もちろんまだ定型化されているわけではない。しかしつぎのような症状の
うち、5個以上が当てはまれば、ここでいう受験ノイローゼと考えてよい。

あなたのためというより、あなたと子どもの絆(きずな)を破壊しないため、あるいはあなたの子
どもの心を守るため、できるだけ早く、あなた自身の学歴信仰、および自分自身の受験体験に
メスを入れてみてほしい。

○子どもの受験の話になると、言いようのない不安感、焦燥感(あせり)を覚え、イライラした
り、情緒が不安定になる。ちょっとしたことで、ピリピリする。

○子どもがのんびりしているのを見たりすると、自分の子どもだけが取り残されていくようで、
不安になる。つい、子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ってしまう。


○子どもがテストで悪い点数をとってきたり、成績がさがったりすると、子どもがそのままダメに
なっていくような気がする。何とかしなければという気持ちが強くなる。

○同年齢の子どもをもつ親と話していると、いつも相手の様子をさぐったり、相手はどんなこと
をしているか、気になってしかたない。話すことはどうしても受験のことが多い。


○子どもが学校や塾へ言っているときだけ、どこかほっとする。子どもが家にいると、あれこれ
口を出して、指示することが多い。子どもが遊んでいると、落ちつかない。

○子どものテストの点数や、順位などは、正確に把握している。ささいなミスを子どもがしたり
すると、「もったいないことをした!」と残念に思うことが多い。

○テスト期間中になると、精神状態そのものがおかしくなり、子どもをはげしく叱ったり、子ども
と衝突することが多くなる。たがいの関係が険悪になることもある。

○明けても暮れても、子どもの学力が気になってしかたない。頭の中では、「どうすれば、家庭
での学習量をふやすことができるか」と、そればかりを考える。

○「うちの子はやればできるはず」と、思うことが多く、そのため「もっとやれば、もっとできるは
ず」と思うことが多い。勉強ができる、できないは、学習量の問題と思う。

○子どもの勉強のためなら、惜しみなくお金を使うことが多くなった。またよりお金を使えば使う
ほど、その効果がでると思う。今だけだとがまんすることが多い。(以上、試作)
(02―9−30)※

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【親が過去を再現するとき】(中日新聞東掲載原稿より)

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日
も、中学1年生をもつ父母が、2人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「1学期の期末
試験で、数学が21点だった。英語は25点だった。クラスでも40人中、20番前後だと思う。こ
んなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。2人とも、表面的には穏やか
な笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思った
ら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働か
ない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。

そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装
置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズ
レは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(2001年)によれば、中学生で、いやなことが
あったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、39・1%しかいなかった。

これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、78・4%。
子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは
親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの6・8%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければな
らない先生が、たったの6・8%とは! 

先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、
同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。

どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたと
て、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさな言い方だが、私
の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。

が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろう
か。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもって
いるなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。

あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみる
とよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親
子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静
に見つめてみるとよい。

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【子育て狂騒曲】

●「あなたの教育方針は何か」

 ある日1人の母親が4歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、30歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、1年間ドイツの音楽学校に留学して
いたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。

しかしその母親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来
像をどう考えているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?

 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週1回の音楽教室ではないか」と、その音楽教室
の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれ
これ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に
帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち

 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言う
のでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じ
ない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、
それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」

 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人

 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。

会うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこ
かインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃
げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。
「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったら
どうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。

私が「息子さん能力とは関係ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ち
ゃんとうちの子をA高校に入れてみせる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あ
まりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ…
…」と。
(02−9−30)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●終わりに……

今回は、親の問題点ばかりを、指摘した。私の文を読んでくれる人の大半が、その親である。
そういうことを考えると、こうしたエッセーは、マガジンに載せないほうがよい。それはよくわかっ
ている。

 が、私は、決して、あなたや、学校に子どもの成績のつけ方で抗議をした親たちを責めてい
るのではない。まただからといって、学校の先生たちに問題がないと言っているのでもない。

 先にも書いたように、こうした事件の背景には、報道には書かれていない(何か)がある。そう
いう(何か)を知らないまま、一方的にどうのこうのと書くことは許されない。

 それにもし親と教師の間に、もう少し別の信頼関係があったなら、こうしたことは、笑い話です
んだかもしれない。つまり笑い話ですまなかったという点に、今回の事件の特異性がある。

 本当の犠牲者は、親と、先生の間にいる、子どもたちということになる。これから先、親と教
師は、どうやって信頼関係を取り戻していくのだろう。そしてその間にあって、子どもたちは、ど
う振る舞っていくのだろう。

 親に対しても、また当事者である先生に対しても、何とも言えない、ある種の(やりきれなさ)
を感じたのは、決して、私だけではないと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
ノイローゼ 受験ノイローゼ 育児問題)
15514




検索文字(以下、順次、収録予定)
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て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司