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【新しい教育の提言】

●新しい日本の流れ
 
 日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、その転
換期にあるとみてよい。

 今までは、(追いつき、追い越せ)教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育は、通
用しない。それはもう、だれの目にも、明らかである。

 と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、つまり、
自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしながら、あちこちで
世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。

 世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。

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★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインシュタイン)

★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)

★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)

★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス)

★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)

★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)

★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)

★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)

★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)

★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)

★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)

★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)

★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)

★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)

★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)

★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト)

★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)

★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)

★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)

★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)


【考察】

●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、
未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を
ふつう、好む」という言葉である。

 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して
いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天
才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。

 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。
たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。

 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。

 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明した
らよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバチ
と飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし黙ってしまった。

 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)

●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の
持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い
た。

 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学校教
育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。

 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。

 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。

 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、そこに
ある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇や
職場環境が、基本的に違う。

 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経
営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもある。
もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄えて
いる。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされるか
と、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。(ほ
とんどの幼稚園が、そうではないか?)

 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のいる
家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。し
かも、その先は、まさに絶壁!

 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生
まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう
した緊張感を、人為的につくるしかない。

 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校
の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り
ている間に生まれる。


●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな
ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい
う言葉。

この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳
すべきかで、意味がまるで変わってくる。

「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。

 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。

 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。

 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。

 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。

 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、30年とは!

 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。


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【新しい教育】

 教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないことは、言
うまでもない。

 その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。

 それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければならな
い。

 将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する人
材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちらかの立場
で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。

 そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考えて
みよう。


●アメリカの小学校

 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。

たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりす
る。

 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。

まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めること
ができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかな
ものです」と笑った。

もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一
年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教
えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウ
チャ)などによって、親は補助されている。

驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での教育を
重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっ
ていた。

 授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが
日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいく
つか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。

 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。

アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。

 ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞれのク
ラブに通っている。

 運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもある。そ
してそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかなわれている。

【後書き】

内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(17)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(18)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(19)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(20)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(21)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(22)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(23)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(24)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。

この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

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(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(343)

●The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインシュタイン)

 「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、これまた抽
象的で、わかりにくい概念もない。

 そこでアインシュタインの言葉。

The important thing is not to stop questioning. 

 アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」と。

 つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子どもが何かの
ことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほほう、それはおもし
ろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。

 たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。つまり
「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにすること」を考えれば
よい。

 むずかしいことではない。

 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時期にさしかか
る。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、はかる。そして
その結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的なものの考え方をするこ
とができるようになる。

 この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。

 この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことができる。が、
そうでなければ、そうでない。

 私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆくてなら
ない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころできた方向性の、
燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、しかし、一度、この時期
にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの時期にできた方向性は、一度
できると、それ以後、なかなか変えることはできない。

 昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。「総合的
な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそれとして評価され
なければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)である。

 そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことでもよい。

 日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカでは、
「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そういう部分か
ら、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方そのものを考えなお
す。

 それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。


【付録】

●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Cache」より)

It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer. 
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだけだ。) 

The physicist's greatest tool is his wastebasket. 
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is 
as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもないと思う
生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)

It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this but 
have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it is the 
unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰り返さ
れてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定したことは一
度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、宗教的なものがあると
するなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造について、無限の崇拝の念
でしかない。

We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful muscles, 
but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、筋肉はあ
るが、人間性はない。

Fantasie ist wichtiger als Wissen. 

If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German and France 
will declare that I am a citizen of the world. If my theory should prove to be untrue, then 
France will say that I am a German, and Germany will say that I am a Jew. 
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私が世界市民で
あると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がまちがっていると証明される
なら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私をユダヤ人と呼ぶだろう。

Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of genius-
-and a lot of courage--to move in the opposite direction. 
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごとを進めるため
には、転載的なひらめきと、勇気が必要である。

Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds. 
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。

The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little child entereing a 
huge library. The walls are covered to the ceilings with books in many different tongues. The 
child knows that someone must have written these books. It does not know who or how. It 
does not understand the languages in which they are written. But the child notes a definite 
plan in the arrangement of books--a mysterious order which it does not comprehend, but 
only dimly suspects. 
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、巨大な図書
館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書かれた本でおおわれてい
る。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。しかしだれが、どうやって書いたか
までは、わからない。それらが書かれた言語も理解できない。しかし子どもは、本の並び方の
中に、一定の秩序があることに気がつく。つまり、神秘的な秩序だ。はっきりとわかるわけでは
ないが、おぼろげながら、疑うことはできる。

The important thing is not to stop questioning. 
重要なことは、問うことをやめないことだ。

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. 
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。

The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。

Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one 
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。

It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem, to solve it 
and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group destroys the spirit of 
society and leads to its intellectual impoverishment. 
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、じゅうぶんで
はない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神を破壊し、社会を、知的な
貧困へと導くことになる。

A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。

I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is more important 
than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world. 
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネーションは、知識
よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、世界をかけ回る。

True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist. 
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられるものであ
る。

The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art 
and science. 
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化学の源泉で
ある。

I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics to be an 
exclusively human concern without any superhuman authority behind it. 
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こそが、人
間唯一の関心ごとであると考える。

Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not sure about the 
former. 
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして私は、その前
者である宇宙については、あまりよく知らない。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。

Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life on Earth as 
much as the evolution to a vegetarian diet. 
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。

Creativity is contagious. Pass it on. 
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。





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【代理ミュンヒハウゼン症候群】

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●器用でない心

 Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……ということができるほど、人間の
心は、器用にはできていない。

 こんな事件があった。

 ある母親は、表面的には、やさしく思いやりのある母親を演じながら、その裏で、当時、中学
生だった長男を虐待していた。冷酷、無視、冷淡、拒否的な育児態度など。暴力といっても、言
葉の暴力。それを毎日のように、長男に、浴びせかけていた。

 「お前なんか、早く死んでしまえ」
 「用なし」
「役立たず」
 「お前のような親不孝者は、地獄へ落ちる」と。

 こういうのを代理ミュンヒハウゼン症候群という。ミュンヘハウゼンというのは、18世紀にい
た、男爵の名前に由来する。「ホラ吹き男爵」としても、よく知られている。

このタイプの母親は、たとえば息子が病院へ入院したりすると、医師や看護婦の前では、神様
のようにやさしい母親を演じてみせたりする。背中をやさしくさすってみせたりする。そういうこと
が平気でできる。他人の視線を気にしたとたん、豹変する。

 で、その母親には、もう1人、娘がいた。

 長男とは、10歳近く年齢が離れていたせいもある。が、その娘が、30歳になるころから、母
親の態度が変わり始めた。娘氏はこう言う。

 「私が30歳になるころまでは、母とは割りと良好な人間関係でした。が、そのうち、母の私に
対する態度が変わってきたのを感じました。情け容赦ないというか、冷酷になりました」と。

 理由や事情は、いろいろあるのだろう。親でも、長男に対する育児姿勢と、二男に対する育
児姿勢が微妙にちがうということは、よくある。しかしそれはあくまでも、誤差の範囲。

 冒頭に書いたように、「Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……というこ
とができるほど、人間の心は、器用にはできていない」。母親にしても、長男に対する育児姿勢
と、娘に対する育児姿勢が、大きくちがうということは、ありえない。

 その母親は、長男を虐待しながら、やがてその一方で、娘を、まるで奴隷のように、使い始め
た。

 「私は結婚して、家を出た身分です。でも、そんな私に、ときどき、『うちにきて、庭掃除をしっ
かりしろ』などと、母は電話をかけてきます。

 そこで私が実家に帰ると、今度は、別人のようにしおらしい顔をして、『お前がいると、助か
る。ありがたいことだ』などと言います。母の心が、さっぱり理解できません」と。

 ここに書いた話は、新潟県に住んでいるUさんという女性からのメールを、まとめたものであ
る。

 しかしつぎのように考えると、その母親の心が理解できるのではないか。

 その母親は、長男や娘に対してですらも、心を開くことができない。新潟県という土地柄もあ
って、親意識、家父長意識が、ことさら強いのかもしれない。ものの考え方が、権威主義的。そ
の母親は、私がいう親・絶対教の信者かもしれない。

 その母親が、なぜ長男を虐待したかについては、わからない。しかしその虐待するという精
神構造が基礎にあって、今度は、娘を奴隷のように使うようになった。一見、バラバラに見える
育児姿勢だが、その精神構造までほりさげて考えると、それが一つの基盤につながっているの
がわかる。

 自分の支配下に入った長男は虐待し、自分の支配下に入らなかった娘については、同情・
依存という手段で、娘を自分の支配下におこうとした。こういうケースは、よくある。決して珍しく
ない。

 さらにその原因はといえば、母親自身の精神的欠陥、あるいは情緒的未熟性によるもので
ある。

 私はUさんに、つぎのような返事を書いた。

 「とてもかわいそうだと思いますが、あなたのお母さんは、子どもを愛せないタイプの女性の
ようですね。

 原因はわかりません。たとえば望まない結婚であったとか、望まない子どもだったとか、そう
いうことがあるのかもしれません。

 さらにその原因は、お母さん自身の不幸な生い立ちがあるのかもしれません。

 ともかくも、今、あなたのお母さんは、あなたの兄に対しては、攻撃的虐待。そしてあなた自
身に対しては、依存し、同情を求めながら、あなたを支配下におこうとしています。

 こういうケースは、多いです。そこにも、ここにもあるというほど、多いです。

 先日も、埼玉県の女性から、『母は、私の前では、数歩、歩くのも苦しそうな様子を見せます
が、私がいないところでは、スタスタと歩いています。駅でそれを見かけたときは、別人かと思う
ほど、驚きました』と。

 つまり埼玉県のその女性の母親は、弱々しい老人を演ずることで、その女性を、自分の支配
下におこうとしたのですね。

 実は、代理ミュンヒハウゼン症候群を示す親というのは、もともと子どもも含めて、他人と良
好な人間関係を結べない人と考えてよいのではないでしょうか。それが変質して、そうなる?

 もう少し、この問題については、別の角度から深く考えてみたいですが、そのように考えていく
と、あなたも、あなたのお母さんの心理状態が理解できるのではないでしょうか。

 そういう意味では、心のさみしい、かわいそうな人ということになります」と。

 ……と書きながら、こんな問題もある。

 実は、その代理ミュンヒハウゼン症候群だが、一方で、義父母を虐待しながら、世間的に
は、やはり神様のように演じている女性(嫁)もいるということ。

 しかし虐待されている義父母は、その女性(嫁)が、こわくて、それを他人に話すこともできな
い。

 そんな事例も、私のところには、伝わってきている。とても、恐ろしい話ではないか? ホン
ト!
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群)





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【宗教について】

+++++++++++++++++

宗教について。

以前、書いた原稿を読みなおしている。

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霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなけ
ればならない。

数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難
のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約70〜8
0%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。

「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。で、それはそれとし
て、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。また
この出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の
運勢占いには、毎日100万件ものアクセスがあるという(2001年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を180度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじの
ようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たるか
もしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけも
の。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないの
だから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけ
もの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的
にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足り
ない小さなもの(?) 

 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様
や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。

ただここで言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるという
こと。人間として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様
や仏様のほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(1)

私の思い出

 小学1年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃ
が、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇
の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私
にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多い。が、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でま
かせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった25年前には、
「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらの
ほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ
んな子ども(小5男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(2)

教育と宗教

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

たとえば親鸞の『回向論(えこうろん)』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(3)

地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、
身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。

他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが
言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判さ
れている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。

しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批
判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではな
い。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということ
が地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまで
わかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。

ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生…
…」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何
とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人
間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努
力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう
考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(4)

子どもの世界

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。1人の子ども(小
3男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったから
だ」と。

そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家
の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んで
きた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、
ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。1人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、
シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。

そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと
思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会
話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(5)

宗教とは

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。

 今、この時点においても、日本だけで23万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美
容院の数(20万)より多い(2000年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの
信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その
懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、
前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから
考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(6)

孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されな
い。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されな
い。

……あなたは、そんな孤独を知っているか? もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自
分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわかれ
ば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あな
たの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数10万
年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、
どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出し
てみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこま
でも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみ
る。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで
心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かに
する。

一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。静かに
自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言えばよ
い。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、
逃れることができる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(7)

常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、
あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の
心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして
今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけるこ
とはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心
に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻ら
ない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけて
みた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本
当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝
たい」と。

 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだ
った。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワ
イフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ご
まかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手が
あなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができな
いから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認
め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をは
ったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのよ
うに見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最
初の一歩となる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(8)

再び孤独について

 私は子どものころから、愛想のよい人間と言われてきた。しかしそれは仮面。本当の私は、
人嫌いで、むずかしがり屋で、わがまま。自分勝手で、傲慢(ごうまん)。だから友だちの数は、
少ない。本当に心を開いて、何でも話せる人というのは、ワイフくらいしかいない。あとは郷里
にいる姉。そういう意味では、私は、実にさみしい人間。孤独な人間。

 そんな私だから、ときどき、こう考える。もしワイフや姉がいなくなったら、私はどうなるか、と。
第一に、私は生きる力をなくすだろう。第二に、今のような精神状態を保つことはできなくなる
だろう。第三に、……?

 私の知人のI氏(51歳)は、妻を病気でなくしたあと、自(みずから)も精神病院へ入ってしまっ
た。約6か月入院していたが、そのあと、別人のようになってしまった。私との関係は、ここで切
れたが、それから数年たって消息を聞くと、I氏はそのあと、全国を旅して回ったという。I氏には
暗くて、苦しい六か月だったに違いない。

これに似た話だが、昔、長谷川一夫という俳優がいた。日本人で彼の名前を知らない人はい
なかった。そういう俳優だったが、妻が死んだあと、そのあと数か月で、自分も死んでしまっ
た。毎日、毎晩、妻の仏壇の前で、彼女の死を悲しんでいたという。

 私たちはひとりでは生きられない。仮にあなたが巨億の富を手にして、あらゆる権力を手にし
たとしても、ひとりだったら、孤独に打ち克つことはできない。たいした富もない、権力もない私
がこう結論づけるのは、危険なことだが、こんなことは常識。少し頭を働かせば、だれにだって
わかる。

 そこで改めて、生きる意味を考える。私たちは、どうして生きているか、と。あるいはどうすれ
ば、生きることにまつわる孤独から、自分を解放することができるか、と。あるいはそもそも生
きる意味など、考える必要はないのか、と。「あるがままを生きて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それでいい」と言う人もいる。「そのときはそのときだから、ジタバタしても、しかたないではない
か」と。

実のところ、私もできれば、そうしたいと思っている。今は、今なりに、結構、ハッピーなのだか
ら、それでよいではないか、と。しかしこういう生き方は、あとでドンとツケが回ってくるのではな
いかと、それがこわい。

 こうした恐怖感から逃れるために、ひとつの方法としては、宗教がある。神や仏に身を寄せて
しまえば、それはそれなりに楽になれる。実際には、同じ信仰をする仲間どうしが、たがいに慰
めあい、いたわりあうことで、楽になれる。しかし今の私には、それもできない。いや、とても残
念なことだが、いまだかって、そういう宗教にめぐりあっていない。

 ああ、私は神や仏にすら、見放された人間なのか。ああ、私はそこまで孤独な人間なのか。
私はこの孤独から、いったいどうすれば逃れることができるのか。


【付記】

 以上の原稿は、私が、4年ほど前に書いた原稿である。一部「?」と思う部分もないわけでは
ないが、そのままここに再掲載してみた。

 4年前というと、書いたことは覚えているが、内容までは覚えていない。しかし読んだとたん、
内容がそのままスーッと頭の中に入っていく。それもそのはず、これらの文章は、(私自身)だ
からである。

 その結果として、今の私がいる。




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●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子
のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。

といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張し
たり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊
になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症タイプの子どもなどがいるが、それにつ
いてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になる。が、それはごく自然
な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくな
ることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になり
やすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会
経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけ
んかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう
変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうこと
によって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子ど
もの心に大きな影響を与える。

家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマ
イナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめ
させるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とく
に保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注
意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむず
かしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせ
る。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえな
い。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●分離不安(プラス型とマイナス型)

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張
状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒
が不安定になる。

で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずったりするタイプの子
どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を解消しようとする動
き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、後者をマイナス型と
して考えるようにしている。

 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使
うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分
離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混
乱状態)になったりする。

年長児についていうなら、程度の差もあるが、15〜20人に一人くらいの割で経験する。

その子どもを調べていたときのことだが、症状が、(1)興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプ
と、(2)オドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。

そのときワーワーと外に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態にな
る子どもを、「マイナス型」とした。

 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれ
るタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すように
なるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えるこ
とができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識
ハズレになりやすいなど。

 ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラ
ス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。

いじめについても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプ
をマイナス型に分けるなど。また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引き
こもってしまう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状
を別とすると、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。

 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん
役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。




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●子どもの神経症

子どものおねしょと、ストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキ
ドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発にな
る。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」につい
ても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私が
それを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやか
な子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。
その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)

同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということも
ある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場
所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、また
ストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、
言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。
 
子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反
省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。

一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭
環境を用意する。たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自
身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。

子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのも
のを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、
対処法ということになる。





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【主義の限界】

++++++++++++++++++++

なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?

わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。

よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。

しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?

なぜか?

++++++++++++++++++++

●教育論の限界

 教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら高尚な教育
論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。

 こんな例で考えてみよう。

 私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書くこともあ
るが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。

 私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。

 教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、子どもを
もつ親は、こう言う。

 「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。

 これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限界があ
ることを知る。

●主義の限界

 資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定のとこ
ろまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越えると、とたん
に、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。

 なぜか?

 こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。

 「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中学に入
れることなのです」と。

 つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主主義
という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、何とかし
てくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。

●強者の論理vs弱者の論理

 こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、その場
をしのいでいる。ごまかしている。

 遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ドラッカー
(1909〜)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたためしがない。

 理由は、簡単である。

 こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、とり
あえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だからである。

 それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。しかも
不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)を、論理とし
て、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一杯。明日の生活を心配
しながら、不安な毎日を送っている。

 そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きていかれな
い。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、ことごとく否定してい
く……。

●教育の世界でも……

 高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そこで
は、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。

 「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
 「点数こそ、すべて」
 「人間の勝ちも、それで決まる」と。

 しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決まってこう
言う。

 「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。

 わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な教育論
を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、その格差を、
肌で感じ取っている。

 「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、外車
を何台も乗り回している人もいる。

 その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をいう。そして
私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。

●民主主義の限界

 民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知のとお
り。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。「こんなこと
で、本当に政治が変わるのだろうか」と。

 このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そしてまた中
央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。

 で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生きていく
だけで、精一杯。

 もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。

 欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」を生
きていくだけで精一杯という国もある。

 そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界ということ
になる。

●弱者の論理

 こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義を作ら
ねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから対立する。

 これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。

 「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
 「勝てば、官軍」
 「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。

 講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こうすれば、
あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、集まる。

 現実の世界は、そこにある。

 しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ども」と
いっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、その限界を、毎
日のように感じている。

●主義の限界

 つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主義にせ
よ、資本主義の限界ということにもなる。

 もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、それぞれ
を否定するのも、おかしい。

 大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者は弱者
で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにしても、それを「お
かしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうものに身を寄せている人を、
「まちがっている」と言ってはいけない。

 そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。

 それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書いたよう
に、ボロボロになってしまう。

 なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こんなところ
にあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 主義
 主義の限界 民主主義)





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【善と悪】

+++++++++++++++++

明日、講演先で、「善と悪」について
少し話す。

前に書いた原稿をさがしていたら、
こんな原稿が見つかった。

4年間に書いた原稿である。

+++++++++++++++++

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、『善と悪は、神の右手と左手である』という。善
があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということ
らしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ
が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪
は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも
つ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の
邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし
れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ
うな問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。

はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすれば
よいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小3)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。

「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、その
ときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思というこ
とになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。

言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よい
ことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、
自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、
しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか
は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ
れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ
の「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。

もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習
慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」というこ
とになる。
(02−10−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 善と
悪 善悪論 子どもの倫理 倫理規範 子供の倫理 規範)


++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。

日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。

目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われ
るとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ
「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰りかえすが、人は、
自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。






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【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)







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●自己概念

+++++++++++++++

あなたは自分を、どうあるべきと、
考えているだろうか。

どうあったらよいかと、考えて
いるだろうか。

それが自己概念である。

+++++++++++++++

 自分の姿、立場、位置を正確に把握することは、とても重要なことである。他人の目を意識
せよということではない。(自分)というものを、客観的に知るということ。それは(私)を知るため
の、第一歩ということにもなる。

 「私はどういう人間なのか」「社会からは、どう見られているのか」「どういう立場にあるのか」
と。

 その自己の概念を知るためには、3つの方向性がある。

(4)自分の容姿、姿、態度、姿勢(自分の姿は、他人には、どう映っているか)
(5)自分の社会的地位、立場(自分は、どういう立場にあるか)
(6)自分の義務、責任(自分は、他人に何をするように期待されているか。何をすべきか)

 こうした概念を、正確にもてばもつほど、自分というものが、よくわかってくる。で、そのばあい
でも、自己中心的な人ほど、それがわからない。私が思っている私(自己概念)と、他人の中の
私(現実自己)の間に、ズレが生じてくる。

 よい例として、定年退職したあとまで、それまでの学歴や経歴をぶらさげて、いばっている人
がいる。そういう人は多い。とくに何らかの権力の座についた人ほど、そうではないか。いつま
でたっても、その亡霊から抜け出すことができない。

 このタイプの人は、定年によって、地位や肩書きをすべて失ったにもかかわらず、それにしが
みつくことによって、自分の権威を守ろうとする。しかし実際には、何もできない、ただの老人。

 いや、老人であることが悪いというのではない。その亡霊にしがみつけば、しがみつくほど、
自分を見失うということ。周辺の人たちと、同化できなくなってしまう。

 私が、このタイプの人を知ったのは、30歳くらいのときのことではなかったか。遠い親戚にあ
たる知人の家に遊びに行ったときのこと。その男性(当時65歳くらい)は、私にこう言った。

 「君は、何をしているのかね?」と。

 そこで私が「幼稚園で働いています」と答えると、「もうすこし、まともな仕事ができんかね。学
生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事には、つけなかったんだろう?」と。

 その男性は、定年まで、ある学校の校長をしていた。私は当時、すでに、「何、言ってるん
だ。自分は、ただの退職者のくせに」と思ったのを覚えている。

 現実の(彼)は、年金で遊ぶ、ただの退職者にすぎない。そういう現実が、まったくわかってい
ない。が、それだけではない。いつまでも過去の肩書きにぶらさがっていると、結局は、さみし
い思いをするのは、その人自身ということになる。

 こうした例は、母親たちの世界にもある。

 ずいぶんと前の話だが、つまり、まだバブル経済、まっさかりのころの話だが、こんな話を聞
いた。

 その銀行の寮(ある都市銀行のH支店・家族寮)では、夫たちの地位に応じて、妻たちの地
位も決まるという。妻たちの年齢や学歴は、関係ない。何かの女性会議の席でも、支店長の妻
が中央にすわり、つづいて、次長、部長、課長……と並ぶのだそうだ。

 廊下ですれちがうときも、相手が地位の高い夫をもつ妻だったりすると、道をあけなければな
らない、と。

 さらに上司の子どもと同じ学校は、受験しないなどという不文律もあるとか。うまく両方が、合
格すればよし。しかし上司の子どもが落ちて、自分の子どもが合格したりすると、さあ、たいへ
ん! ……ということで、そんなことにも気をつかうとか。

 そういう世界も、現実に、ある。バカげているが、当の本人たちには、そうではない。大まじ
め!

 つまりこうした悲喜劇も、つまるところ、(自己概念)と、(現実自己)のズレから生まれる。

 ……で、私のこと。

 以前、ある小さな会合で、7〜8人の男たちが、国際政治を論じていた。どの人も、商店主と
か、小さな町工場の経営者だった。

 私はその話を聞きながら、「そんなことを論じても、マスターベーションにもならない(失礼!)」
と思ってしまった。が、すぐに、それは私自身のことだと、気がついた。

 私は、こうして、子育てを論じ、人生を論じ、ついで同じように、国際政治を論じている。

 しかし、だれも、私を相手にしていない。あえて言うなら、私がしていることは、犬の遠吠え、
そのもの。社会的影響力は、かぎりなくゼロに近い。つまり私のもっている(自己概念)と、(現
実自己)は、大きく、ズレていることになる。

 ワイフだって、ときどき、こう言う。「あなた、日本の心配もいいけど、来月の家計も少しは、心
配してね」と。私が出している電子マガジンなどは、ワイフに言わせれば、まさに、道楽……と
いうことになる。

 考えてみれば、なんともさみしい世界だが、これが私にとっての現実ということになるのだが、
しかし目的がないわけではない。

 こうしてモノを書いていると、それ自体が、ボケ防止になる。それに毎日、新しい世界を知るこ
とは、実のところ、楽しい。未開の荒野をひとりで歩くようなスリルさえ感ずる。だから私にとっ
ては、決してムダではない。

 現実の自分がどうであるかをしっかりと知っていれば、あとは何をしようが、それは私の勝手
ということになる。現実の自分がそうであるからといって、必ずしも、それにこだわらなければな
らないということもない。

 自分を知るということは、本当に、むずかしい……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
概念 現実自己)

【補記】

 同じように、自分の子どもの(概念)を正確にとらえることは、むずかしい。問題のある子ども
を、「問題がない」と思いこむのも、反対に、問題のない子どもを、「問題がある」と思いこむの
も、結局は、子どもの(現実)を性格にとらえていないことになる。

 子どもの姿を、正確にとらえることも、子育てにおける、重要なテーマの一つかもしれない。





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【同一性の危機】

【自分をつかめない子ども】

+++++++++++++++++++++

目的(?)の学校には入ってはみたものの、
自分をつかめない子ども。
そんな子どもが、ふえている。

Dさんの娘さん(中3)も、ひょっとしたら、
そんな子どもかもしれない。

こんな相談が届いている。

+++++++++++++++++++++

【Dさんより、はやし浩司へ】

久しぶりにメールを送らせていただきます。お元気でいらっしゃいますか?
 中3になる娘のことで、最近思うことがあります。

娘は現在、地元の私立女子中学校に通っていますが、高校は他へ行きたいと言うのです。理
由を聞くと、元々どうしてもその学校へ行きたかったわけではないとか、小学校時代の友人と
同じ高校へ行きたかったとか、今の学校に不満は無いが、このまま居続けるのはイヤだとか
言います。

 志があって他へというのなら、私は応援するつもりですが、娘の場合はどうも違うようです。中
途半端な気持ちで他校へ行ったところで、同じことの繰りかえしになるのではと心配です。

このまま今の学校に通っていても不登校になると思うなどと、脅かしてもきました。これには呆
れましたが、大きなことを言っては、実行できずに終わる娘です。部活もロクに活動をしていな
いような部を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢は妄想めいた事ばかり。

 私には甘えに思えてなりません。やりたいようにやらせ、本人が痛い思いをするのもいい経
験では、とも思うのですが、迷っています。

 はやし先生のご意見をお聞かせいただけるとありがたいです。お忙しいところ申し訳ありませ
んが、どうぞよろしくお願いいたします。
(長崎県・DIより)


【はやし浩司より、Dさんへ】

 こんにちは!

 以前、似たような相談を受け、それについて書いた原稿がありますので、それをまず、ここに
添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【非行のメカニズム】

 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。

【第一期・遊離】

 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。

 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。

 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。

 この状態を、「同一性の危機」という。

 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。

一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。

 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。

【第二期・崩壊】

 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。

「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。

 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向かう。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何を
すべきなのか」、それがわからなくなる。

【第三期・混乱】

 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。

 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。

【第四期・非行】

 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。

(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型

 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。

 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。

 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。

 以上が、非行のメカニズムということになる。

 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。

 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。

 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。

 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。

 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。

 だから……。

 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。
(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー

 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。

 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。

 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。

 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。

 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。

 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。

 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。

 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)

+++++++++++++++++++++

少し前、こんな相談がありました。再掲載します。

+++++++++++++++++++++ 

【E氏より】

甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。

とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。

やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 

【はやし浩司より】

●消去法で

 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。

 バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起き
ない、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回
避性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。

 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。

 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。

こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。

さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。

こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。

●教育と医療

 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。

 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。

 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。

 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。

 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。

 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。

 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。

 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。

 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)

 ですから安易に考えないこと。

●二番底、三番底へ……

 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)

 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。

 では、なおすために、どうしたらよいか?

 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。

●家庭にあり方を疑う……

 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。

 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。

 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。

 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 
「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。

 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。

 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。

 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。

 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)

 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。

 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【Dさんへ、はやし浩司より(2)】

 少し話が脱線するかもしれませんが、同一性の
危機について、別の角度から書いたのが、つぎの
原稿です。

 どうか、参考にしてください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ
 
 日本人は、日本がどうあるべきだと思っているのか。どうあったらよいと考えているのか。

 日本人が、日本人として、したいことと、日本が今、進んでいるべき道が、一致していればよ
い。問題は、ない。心理学の世界にも、アイデンティティ(自己同一性)という言葉がある。

 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついて
いる。安定している。これを、アイデンティティという。が、ときとして、その両者がかみあわなく
なるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。地元のサ
ッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題がからんできた。ま
わりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなかった。4
年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。A君は、相対
的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。が、
こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の危機」
というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母親が、A君にこ
う言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロの
サッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。いわゆる
(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。が、そこで悲劇が
止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代
償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組
み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、
同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だれでも
ない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むよう
になる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプの子ど
もに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。みなに
恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 これは子どもの世界の話である。

 で、日本人も、今、私の印象では、その「同一性の危機」の状態にあるとみてよい。(日本人
として、したい道)と、(進んでいる道)が、一致していない。そのため日本人全体が、今、たい
へん不安定な心理状態にある。

 民主主義国家として、平和と自由を愛する国民になるのか、それとも、復古主義的な流れの
中で、武士道に代表される過去の日本にもどるのか。Y神社を参拝して、戦前の軍神たちに頭
をさげるのか。つまりはわけのわからない状態の中で、混沌(こんとん)としている。

 だから中国や韓国で、反日運動が起きても、「どうしたらいい……」と、ただ右往左往するだ
け。自分の主張すら、ない。ないから、声をあげることもできない。

 では、どうするか。

 私は、もう過去の日本とは決別をして、自由と、平和と、平等の三つを旗印にかかげ、国際
化のうねりの中で、まっしぐらに前に進むしかないと思う。その向こうにあるのは、かつて200
年前にカントが提唱した、世界国家である。コスモポリタンである。

 はからずも今朝(4・21)、オーストラリアのハワード首相が、日本との間で、FTA(自由貿易)
協定を結ぼうと提唱したというニュースが、飛びこんできた。オーストラリアは、イラクの自衛隊
を保護するために、オーストラリア軍を派遣してくれた。

 そういう国もある。(Advance Australia!)

 そういう国の存在を信じて、前に進む。それこそが、まさに日本のアイデンティティの確立に
つながる。

 ついでに一言。よく「アイデンティティ」という言葉を使って、「武士道こそが、日本人が誇るべ
き、アイデンティティだ」と説く人がいる。

 しかしそもそも言葉の使い方が、まちがっている。そういう人は、アイデンティティというのは、
個性のことだと思っている。さらに言えば、武士道など、日本人が誇らなければならない精神で
も、なんでもない。

 わずか数%の、為政者たちが、刀を振りまわして、大半の民衆を虐(しいた)げてきた。その
中で生まれた、自分勝手な論理と精神訓、それが武士道である。あえて言うなら、官僚道、役
人道ということになる。

 自分たちの先祖は、その大半が、武士とは無縁の、町民や農民であった。そういう立場を忘
れて、150年たった今、自分が武士にでもなったつもりで、武士道をたたえるのは、どうかと思
う。少なくとも、私はついていけない。

 もちろん文化は文化だし、歴史は歴史。だからそれなりに尊重はしなければならない。が、そ
れを今、もちだす必要は、どこにもない。改めて日本の「柱」にしなければならない理由など、ど
こにもない。

 私たちが進むべき道は、前にある。うしろではない。

 日本人の心を、発達心理学にからめて、考えてみた。
(はやし浩司 日本人 アイデンティティ 自己同一性)

(追記)

 農業問題もあるが、オーストラリア、シンガポールと、自由貿易協定を結べば、それ自体が、
韓国、中国にとっては、たいへんな脅威になる。

 日本には、ほかに、ブラジルがある。インドがある。アメリカも、カナダもある。EUもある。

 日本は、決して孤立していない。

 去年、オーストラリアの友人(国防省勤務)が、メールで私にこう書いてきた。(このことは、当
時のマガジンに原稿として書いた。)

 「ヒロシ、日本が、K国に攻撃されたら、オーストラリアは、自動的にK国を攻撃することになっ
ている。安心しろ」と。日本とK国の間の緊張感が、極度に高まっていたときでもある。

 私はそのメールをもらったとき、どういうわけか、涙が出るほど、うれしかった。そういう心が、
今回の、オーストラリア軍のイラク派遣へと、具体的につながっている。日本の自衛隊を守るた
めに、だ。

 韓国のN大統領よ、日本は、決して世界から、孤立なんかしていないぞ! バカめ! 孤立さ
せたいのは、N大統領、実は、あなた自身ではないのか! 中国で反日運動が起きたとき、イ
の一番に、「これで日本の安保理入りは、流れた」と喜んだのは、どこのどなたでしたか? 私
たち、日本人は、それを忘れないぞ!

 ……とまあ、たがいに、敵意を育てていてもしかたないですよね。しかしね、N大統領、日本
人も変わりましたよ。どうか戦前の日本人のイメージのままで、今の日本人を見ないでくださ
い。くれぐれも、よろしくお願いします。

 やがていつかすぐ、日本と韓国が、FTA協定を結ぶことになると思います。そういう時代は、
すぐそこまできています。そういう共通の目標に向って、いっしょに、前に進もうではありません
か。
(050421)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Dさんへ(3)】

 で、いよいよ本論ということになります。

 まず、現在の娘さんの心理状態を知るために、
以下の原稿を読んでくだされば、うれしく思います。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自己の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス 子
供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Dさんへ(4)】

 Dさんのメールを読んでいて、まず感じたことは、全体に、親のエゴばかりが目立つというこ
と。娘さんは、当初から、その私立女子中学校を望んでいたのでしょうか?

 あるいは、「そこへ行け、行け」と、たきつけたのは、ひょっとしたら、Dさん自身ではなかった
のではないでしょうか?

 「志」……なんて、おおげさなものを、この時期の子どもに期待する方が、おかしいです。今の
娘さんの心理状態は、その前の段階で、自分をつかめないでいるのです。「自分でも、どうした
らいいかわからない」といった状態です。

 理由を言えば、Dさん自身が、子どもの前に立ち、手を引くことだけしかしてこなかった。つま
り娘さんの気持ちを、そのつど、確かめることをしてこなかった。つまりは一方的に、押しつけ
てきただけ。それが積み重なって、今の状態になったと考えられます。

 今からでも遅くありませんから、娘さんの横に立ち、友として、娘さんの相談にのることです。
(友として、です!)娘さんの心には、今、ポッカリと穴があいていますから、誘惑にもたいへん
もろくなっています。どうか、お気をつけください。

 で、つぎのことに注意します。

●一過性の迷いなのか、本気なのか、見極めること。

 こうしたケースは珍しくありません。で、たいていは一過性の迷いのまま、やがて子どもの心
は落ちついていきます。

 一過性のものであれば、暖かく無視する……という方法で、対処します。

 が、本気で、そのほかに随伴症状が見られたら、転校などは、娘さんに任されるとよいでしょ
う。

「大きなことを言っては、実行できずに終わる娘です。部活もロクに活動をしていないような部
を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢は妄想めいた事ばかり。

 私には甘えに思えてなりません。やりたいようにやらせ、本人が痛い思いをするのもいい経
験では、とも思うのですが、迷っています」(Dさんからのメール)というような見方では、娘さん
は、あなたに対して、心を開くことはないでしょう。

 頭から、「大きなことを言っては、実行できず」とは?
 「部活もロクに活動をしていないような部を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢
は妄想めいた事ばかり」とは?

 さらに「本人が痛い思いをするのもいい経験では、とも思うのですが」とは?

 率直に言って、「これが親の言う言葉かな?」(失礼!)と思いました。

 おそらく、娘さんが幼いときから、Dさんは、過干渉ぎみ、過関心ぎみで、娘さんとのリズムが
合っていなかったのではないかと思っています。今も、そのリズムがかみあわないままでいま
す。

 どこかあなた自身、少し親意識が強すぎませんか? 今ここで、舵取りを誤ると、娘さんは、
このまま二番底、三番底へと落ちていきます。たいへん微妙な段階です。

 仮に「痛い思い」をしそうであれば、それをカバーするのが、あなたという親の役目ではないで
しょうか。言うべきことは、「また何かあったら、お母さんがあなたを守ってあげるから、心配し
なくてもいいのよ」です。

 さらにひょっとしたら、娘さんが、その私立女子中学校をやめたら、困るのは、あなたなので
はないでしょうか。あなたは娘さんの気持ちよりも、親のメンツ、世間体を気にしているのかもし
れません。

 もしそうなら、親子の断絶も、時間の問題かもしれませんね。(あなた自身も、親意識の強
い、権威主義的な家庭環境で、育てられている可能性も大きいです。ご自身の過去を、冷静
に、振りかえってみてください。)

 なお、気うつ的な状態になると、症状的には、生活態度がだらしなくなり、全体として、怠けて
いるような様子をしてみせるようになります。ですから表面的な症状だけを見て、「怠け」とか、
「甘え」とか、そういうふうに決めてかかってはいけません。

 本来なら、娘さんは、年齢的にも、ハツラツと、明るい表情で、生き生きとしているべきときで
す。が、それが本人も、できない。つまり、一番苦しみ、もがいているのは、娘さん自身だという
ことです。なのに、家に帰ると、母親のあなたから、ガミガミと言われる。冷たくあしらわれる。
「甘えだ」「怠けている」「部活もロクにできない」と。

 私があなたの娘さんなら、「このクソババア!」と叫んで、家を出ますよ! (ホント!)

 ともかくも、ここは、こうしてください。

(1)娘さんのよき聞き役に回ること。(これが重要です!)
(2)転校も考えてやること。(失敗するとわかっていても、です。)
(3)先に書いた、自己の同一性を、娘さんの中に作ってあげること。
(4)一方的に、親の価値観を、娘さんに押しつけないこと。

 一過性の(迷い)のようなものであれば、それほど、深刻に考える必要はありません。ただ、
いただきましたメールの内容からすると、すでに娘さんは、軽い気うつ状態から、うつ症、ある
いはうつ病的になっているのではないかと心配されます。「不登校を起こす」と娘さんは言って
いるようですが、決して、安易に考えないこと。本当に、そうなる可能性は、大です。

 やりたいこともできず、悶々としているより、やってみて失敗するほうが、気分もずっと楽で
す。後悔もしません。私なら、子どもを信じて、本人のやりたいように、させますが……。

 以上です。どうか、参考にしてください。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自分
をつかめない子ども 子供の転校 転校問題 中学生の心理 迷う子供)





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●ホルモンと脳障害

 環境ホルモンが、脳に微細障害を与えるらしいということは、今では常識である。微細障害と
いうのは、目では見えないほどの障害という意味である。そしてこの障害が、今、話題になって
いる、ADHD(attention deficit hyperactivity disorder・注意欠陥多動性障害)にも関連してい
るという(福島章氏「子どもの脳があぶない」・PHP)。

もちろん微細障害の原因は、ホルモンだけではない。「(妊娠六〜七ヶ月から、生後一年くらい
までの間に)、子どもの脳に、感染、外傷、酸素欠乏、栄養不足、有害物質、中毒などの悪影
響が加わると、脳の形成や発達に異常が起こる」(同書、二六頁)ということだそうだ。

 福島章氏は、ある少年犯罪者の例をあげ、「この少年の人並みはずれた攻撃性と、性衝動
は、胎児期に(母親に)与えられた、黄体ホルモン製剤によって、彼の脳がふつう以上に、《男
性化》されたためではないか?」と書いている。黄体ホルモン製剤は、天然の女性ホルモンを
まねてつくられた、化学物質である。

 ……何ともおどろおどろしい話である。というのも、今では環境ホルモンは、ありとあらゆる場
所に侵入していて、もはやそれと無縁であることは、不可能になってしまったからだ。北極に住
むアザラシですら、汚染されている。そうした環境ホルモンが、生態系そのものあり方を崩し、
環境すら今までとは、違ったものにしつつある。子どもの脳への影響は、ほんのその一部に過
ぎない。

そこで私たちは、親として、どのように考えたらよいのだろうか。いや、考えれば考えるほど、不
安が募(つの)るばかりで、その先が見えてこない。こうした感覚は、恐らく、読者の皆さんも、
同じではないかと思う。そこで私は、つぎの三つのことを提案する。

(1)子育ては、「自然」と旨(むね)とする。「自然を旨とする」というのは、生活の基盤を、過去
一〇〇年はどうであったか、その前の一〇〇年はどうであったかという視点で見なおすという
こと。こと環境ホルモンということになれば、食物に注意する。

(2)この問題を考えるときは、「うちさえよければ……」という論理は通用しない。あなたの子ど
もはたとえ無事でも、そのまた子ども(孫)はどうかという問題につながってくる。自分の子ども
が障害をもつのはつらいが、孫が障害をもつのは、もっとつらい。孫のことで苦しむ、あなた自
身の子どもの姿を見るとことは、言うなれば、ダブルパンチということになるのか。ある母親が
そう話してくれた。そこでおかしいと思ったら、どんどんと戦っていく。電話や手紙、あるいはメ
ールで、抗議する。 

(3)問題をもった子どもや、その親に、心から温かく接する。新約聖書の中にも、こんな一節が
ある。

 「他人の悲しみや苦しみを、痛み嘆く人は、幸いだ。なぜなら、彼らは、心安らかに、慰められ
るだろうから(Blessed are those who mourn, for they will be comforted.)」、「慈悲深い人は、
神に祝福されるだろう。なぜなら彼らは、慈悲を与えられるだろうから(Blessed are the 
merciful, for they will be shown mercy.)」(Matthew 5-9)と。

 訳は私がつけた。クリスチャンの人が読んだら、怒るかもしれない。私がもっている聖書は、
アメリカ人の友人のJimがくれたもの。Ryrie版の分厚い聖書だ。表紙には、金文字で私の名
前が入っている。こんなことはどうでもよいが、その人の価値は、相手の立場で、いかにその
悲しみや苦しみを共有できるかということで決まる。それができる人は、人間としての価値があ
る。できない人は、そうでない。

それはわかるが、むずかしいことだ。今の私には、とてもできそうもない。できないが、しかしそ
ういう温かい心を忘れたら、この問題は、絶対に解決しない。またそういう温かい心さえあれ
ば、いかに環境ホルモンで、子どもたちの脳や心が侵されても、こわがるものは何もない。
 
 こう書くと、人間には救いがないということになるが、決してそうではない。このエッセーを書く
ときに読んだ、『子どもの脳があぶない』(福島章氏著)の中には、こんな記述があちこちにあ
る。その一つを、引用してみる(同書、三〇ページ)。

 「早幼児期脳障害児は、その障害による適応不全の上に、思春期の心身の変化と動揺が重
なって、たまたま非行に陥ることがあるが、成人後には心身ともに安定するので、適応障害が
起こりにくくなる。また、非行的なサブカルチャに接触して、逸脱した価値観に染まった脳障害
のない青年よりも、そのようなものと無縁の状態で、偶発的・衝動的に事件を起こした脳障害
児のほうが、青年期を脱すると、非行から足を洗いやすい」と。

福島氏は、「問題を起こすのは、思春期だけで、成人になれば落ちつく」「かえってふつうの子
どもより、非行から足を洗いやすい」と。福島氏のこの言葉は、私たちにとって、大きな励みに
なる。
(02−11−3)





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【子どもの問題】

●心の混乱

 自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、長女
のときは、とくにそうだ。

 それについては、何度も書いてきた。

 問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。

 実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。

 自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なものであ
る。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかといえば、そ
こに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。

 私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥する。
あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、許さない。こ
れは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれない。

 だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いようのない
恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、その人
自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん笑ったり、
軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、今度は、逆の立
場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。

 同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意識である
にせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりしているからであ
る。

 では、どうするか?

 要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、今度
は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。

 だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。

 何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、と。もし、
そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、今度は、あなた自
身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。

 こんなことを言う親がいた。

 「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」と。

 もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に対し
て、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そういう子ど
もが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。

 また私にこう言った、経営者がいた。

 「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活をする
のは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然のことで
す」と。

 さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言ったことに対し
て、だ。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」と。

 「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。

 言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、思った
りすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむことにな
る。

 ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえし
ていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判断していたか
らである。

「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校しか出ていないんですってねえ」
と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S高校の卒業生だったこともある。

 だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 他
人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。

 こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖書の中
にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are 
the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というのがある。

 この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日ご
ろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、その苦
しみから救われる」ということになる。

 自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、コース
からはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみるとよい。

【補記】

 あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、林さん
のような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。

 私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらないと、
やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。

 「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくたちの生き方
は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの世界では、林さんの
ような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、ならないのです。

 おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだったん
だ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから内心では、『あ
の林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期待感をもつわけです。

 しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の生きザ
マを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間ですから……」
と。

 コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、いつもそ
のコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかくも、自分の子
どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。

 親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってしまう」と
言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生きザマが、否定さ
れるのがこわいのだ。

 子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、子ども
の心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうあるべきなのだ
が……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【親の悩み、そして苦しみ】(子どもが不登校児になったとき)

++++++++++++++++++

子どもが不登校児になると、
たいていの親は、その時点で、
狂乱状態になる。

この狂乱状態が、子どもの不登校を、
さらに悪化させる。

昨日も、埼玉県に住んでいる、
Rさん(母親)という方から、
そういう相談のメールをもらった。

同じような事例で、以前、書いた
原稿を、そのまま、ここに掲載する。

+++++++++++++++++++
●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)

注:ケトン性低血糖症

ケトン性低血糖症はインスリンが高い結果おこる低血糖症の場合以外の原因でおこる低血糖
症をいう。低血糖症とは、一般に乳児、幼児では血糖値が40mg/dl以下のものをいう。早朝空
腹時、または感冒などの発熱がきっかけになりやすく、また、夕食を食べずに寝た次の日の
朝、発症することが多い。1歳半くらいから見られる。男子に多く、低出生体重児、または新生
児期に何らかの問題があった子どもに、多く見られる傾向がある。

症状としては、嘔吐を伴う朝(空腹時)の低血糖があり、このときけいれんを起こすことがある。
頻回に吐く。ぐったりして元気がなく、顔面は蒼白になったりする。普通の状態のときには血糖
は異常はない。知能の遅れはないがが、身体的な発育は少し遅れたり、体重の増加がよくな
い子どもが多く見られる。低血糖があり、尿検査をすると尿の中にケトン体という物質がたくさ
ん出てくる。(以上、IM小児科医院のHPより転載。)

*******************************

【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものというほうが正しい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわるか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴え、行けなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(15)攻撃型(他人に乱暴になる)
(16)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(17)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(18)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(19)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(20)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(21)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。




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【性同一性障害ートランスセキュシュアリズム】

【女児願望の男児(?)】(06年7月改作)

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して、性
同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化 性同一性障害 社会的性差 ジャンダー)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【女児願望の男児(?)】【追加原稿】

 この相談について、少し前(06年6月)、子どもの性同一性障害について、書いた。

 それについて、補足しておきたい。

 臨床心理学(ナツメ出版)の中で、松原達哉氏は、つぎのように書いている(要約)。

「小児期に現れる性同一性障害は、自分の肉体的な性に対して、強い苦痛を抱き、反対の性
になりたいとか、自分は反対の性であると主張するものである。

 男児がままごと遊びなどで、女役をしたがったり、人形で遊んだり、女性服を着たがったりす
る。行動が女性的になる。

 女児は、スポーツや乱暴な遊びに興味を示すようになる。男女ともに、自分と同じ性の服装
を強要されたり、ほかの子とちがう行動により、いじめられることなどのことから、登校を拒否
する子どももいる。

 男児では、4歳以前のことが多く、7〜8歳ごろに社会的な葛藤を起こしやすい。また思春期
以降になると、同性愛的傾向を示し始める」と。

 こういう表現は適切ではないかもしれないが、私は、「濃淡」という言葉を使って、性意識を説
明している。

 「濃い男」「薄い男」「薄い女」「濃い女」と。

 濃い男というのは、いわゆる男っぽい男をいう。薄い男というのは、「男」としての輪郭(りんか
く)のはっきりしない男をいう。その反対が、薄い女、濃い女ということになる。

 このうち、同性愛的な傾向を示す男や女は、その分だけ、薄い男、薄い女ということになる。

 で、その程度には、当然のことながら、個人差がある。が、濃い男であろうが、薄い男であろ
うが、その人自身がそれに納得しているなら、それはどこまでいっても、その人個人の問題と
いうことになる。他人がとやかく言うべき問題ではない。

 もし薄い男や薄い女が、葛藤するというのなら、それは本人自身の問題というよりは、そうし
た事実を受けいれない、社会との軋轢(あつれき)の問題ということになる。つまり社会のほう
にこそ、問題があるということになる。

 そも、「性同一性障害」は、「障害」なのかという問題もある。もし「障害」というのなら、何をも
って、だれに対して障害なのかということになる。

 こうした性同一性障害がさらに進行すると(?)、自分の性を、手術的な方法を用いて、変換
しようとすることもある。こうした強い願望をもつ男女を、「性転換症」とか、「性転換願望症」と
か、呼んでいる。

 実際、性転換の手術を受ける男女は、少なくない。が、それとて、どこまでいっても、その人
個人の問題である。

 ただ、子どもをもつ親にとっては、そうでない。冒頭にあげた、ATさんもその1人である。自分
の子どもに、その傾向を見たとき、ほとんどの親は、あわてる。混乱する。

 いくら頭の中では、「個人の問題」とわかっていても、いざ、自分の子どもがそうではないかと
いう疑いをもったときの、親の気持ちには、特別なものがある。

 が、しかしこの問題だけは、どうしようもない。松原氏も、「ホルモン療法や、性転換手術など
により、性を再建する治療を受けるものもいるが、長期的な経過については不明である」と述
べている。

 わかりやすく言えば、根本的な治療法(?)は、ないということになる。が、こんなことは、自分
にあてはめて考えてみれば、だれにでもわかること。

 私は、自称、その「濃い男」である。同性愛にはまったく関心がない。興味もない。その私が、
もしだれかに、「お前は、おかしい。男と女をそういうふうに区別してはいけない。同性愛にも、
少しは興味をもて」と言われたとしても、私は困る。はたして私は、そのとき、どうように反応す
るだろうか。

 私は多分、こう叫ぶにちがいない。「放っておいてくれ。お前には、関係のないことだ。私がそ
れでいいと思っているのだから、それでいいではないか」と。

 「濃い男」にせよ、「薄い男」にせよ、それはあくまでも相対的なもの。私より濃い男は、いくら
でもいる。もちろん薄い男もいる。女性についても、しかり。

 が、教育的な立場では、ものの見方が、少しちがってくる。

 この分野で、ものを考えたことがないので、あくまでも私の推察でしかないが、こういうことは
言える。

 男には、女性恐怖症というのがある。私も経験している。幼稚園で働くようになったころのこと
である。幼稚園へやってくる母親たちが、みな、たいへん恐ろしい存在に見えた。

 で、当時の私は、相手を、「お母さん」と呼んだだけで、そのとたん、その女性から、「女」が消
えたのを覚えている。女性であるはずなのに、「女である」という意識しなくなってしまった。つま
りそれくらい、母親たちには、いびられた!

 で、もし1人の男の子が、たいへん(恐ろしい母親)をもったとしたらどうだろうか? その男の
子は、母親恐怖症から、女性恐怖症になり、ついで、「女」に興味をなくすようになるかもしれな
い。

 症状的には、性同一性障害と似たような症状を示すようになるかもしれない。

 もっともこういうケースのばあいは、(ゆがんだ性意識)という形となって現れやすくなる。ロリ
ータ・コンプレックス(ロリコン)というのも、そのひとつ。おとなになってからも、成人の女性と、
交際することができなくなったりする。そういうことはあるが、(恐ろしい母親)をもつことイコー
ル、性同一性障害、とういうことではない。

 もっとも、それについても、人には、さまざまな性意識というのがある。まさに千差万別。女性
のスカートの下をのぞきたいと願っている男もいれば、大きな尻で顔をおしつぶされてみたいと
願っている男もいる。

 「性」そのものが、人間の生きる原動力となっているというから(フロイト)、この問題だけは、
安易に考えることはできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 トラン
スセキュシュアリズム 子供の性同一性障害 同性愛 同一性障害)






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【勉強嫌い】

【子どもの学習指導】

●子どもの集中力

++++++++++++++++

パッパと始めて、サッサと終わる。
その間、わき目もふらずに勉強する。
作業する。

そういう力を集中力という。

この集中力を養うためには、幼児期が
勝負。

短時間で、濃密な学習をする。
そういった訓練を、週に1度ほどする。
10分とか、20分とかいう、短時間で
よい。

それが子どもの集中力へとつながる。

ダラダラとしたダラ勉は禁物。
かえって、子どもからやる気を奪って
しまう。

++++++++++++++++

 何か作業を与えても、熱くならない子どもというのは、多い。小学1年生レベルでみても、10
人のうち、3〜4人はいる。

 するでもなし、しないでもなし……というような状態で、時間ばかり、かかる。「ここまでしない
と、終わらないよ」と、軽い脅しをかけても、ニヤニヤと笑っているだけ。症状としては、つぎの
ようなものがある。

(1)ダラ勉、フリ勉、時間つぶし

 強制的な学習、あるいは、無理な学習が日常化しているため、学習に対する反応が、きわめ
て鈍い。ある子ども(6歳児)は、夏休みの間、午前中の2時間、いろいろな勉強をすることにな
っているという。

 しかし幼児に2時間は、無理。私の教室(BW)では、50分間のレッスンをするが、私だから
こそ、できること。またそういったレッスンをするためには、その何倍もの時間をかけて、準備
をしなければならない。

 平均的な幼児だったら、30分が限度。しかも30分のうち、10分程度、勉強らしきことをした
ら、よしとする。それですます。

(2)頭が熱くならない

 ダラダラと時間ばかりつぶす。そのため、頭が熱くなることがない。ジョギングにたとえて言う
なら、走るでもない、歩くでもないといった感じ。道草ばかり食って、前に進まない。

 平均的な子どもは、ここ一番というとき、カッとなって、その作業に夢中になったりする。しかし
このタイプの子どもには、それがない。熱くなるということ、そのものがない。ほかの子どもたち
が、先を争って作業をするようなときでも、柔和な表情を浮かべて、知らぬ顔をしている。あと
をのんびりとついていく。

(3)競争心、闘争心に欠ける

 「勝つ」「負ける」という感覚そのものが、弱い。あるいは負けても、平気。競争心、闘争心が
なく、最初から、万事、あきらめムード。

 では、どうすればよいか。以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもが勉強から逃げるとき 

++++++++++++++++

やらせればできるはず……と考えたら、
STOP!

中には、「うちの子をもっと、しぼって
ください!」と、頼む親だっている。

しかしこの方法では、子どもは、伸びない。

++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。

いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しか
しその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マン
ガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。

このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなく
てもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかり
かいて時間をつぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ
ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い
親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワ
ークブックを持ってきた。

見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたも
のばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるように
なると思っていたらしい。

案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題
を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問し
かしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易
でない。

●意欲を奪う五つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)過
関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過剰期待
(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも親が先に決め
てしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ
は誤解。

『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこな
い、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度な勉強
をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては誤解と
までは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでなけれ
ばやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ
ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。

そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行っ
てからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時
間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ
ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

(参考資料)

静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が……

30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。


●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か
ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには
「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育
はそういう方向に向かって動いている。

そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあ
り方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体
が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受けいれない。

たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになった。し
かし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あん
なヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校
には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそう
いう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの勉強グセ 勉強嫌い 勉強を避ける子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを本好きにする法

子どもの方向性を知るとき 

++++++++++++++++

子どもを伸ばす最大のコツは、
子ども自身が伸びる方向性に沿って、
子どもを伸ばす。

無理をしない。その一言に尽きる。

++++++++++++++++

●図書館でわかる子どもの方向性
 
子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自由
に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。

サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。
そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。

その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理
をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツが
ある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、1〜2年、レベルをさげる。親というのは、どうして
も無理をする傾向がある。6歳の子どもには、7歳用の本を与えようとする。7歳の子どもに
は、8歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。
本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買っ
てあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本
にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの
前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。

子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のば
あいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがう
まくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあし
で、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。

まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む
意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が
あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。

親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」
子「……わかんない」
親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」
子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、
どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その
内容について絵をかかせるとよい。

本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。
そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら読んでいる子
どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じに
なる。

さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵
をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもな
い。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤
字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字
好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。

たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なか
なかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかお
いしい』『なかなかなきやまない』」と。

こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、
作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に三人はい
る。

(付記)
●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときに
は、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流
れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読
み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多
い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。
たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと
りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」
「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決して
その本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。

意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フラン
ス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならし
ばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の方向性 図書館の活用方法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強に向かわせる法

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし
その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。

反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合って
いるということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後3か月で約80%の子どもが物置にしていることがわか
った。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あ
るいは低学年児のばあい、机はまだいらない。

たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識する
のではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向
かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。

(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。

(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ
じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、
どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た
いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ
ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

(詳しくは、「はやし浩司の書斎」に具体的な配置図とともに、書いてあります。どうか、ご覧にな
ってください。)

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども
は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ
ともある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
部屋 子供の学習環境 動機付け 子供部屋のあり方)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの個性を伸ばす法

教育が型にはまるとき
●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういうときも私
は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、ど
うして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意され
た。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願す
ると、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほう
がよい」と。

そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。書き
順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってし
まった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張
られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生
(小三担当)は、こう話してくれた。

「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違えば、スペルも
違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール(文法やスペル)ではな
く、中身です」と。

●「U」が二画?

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が10年ほど前、この浜松市であった。その会
議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり2画と決まりました。同じようにMとW
は四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、こ
の日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。今か
ら思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろくな
い。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの
文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピュータの時代に、ハ
ネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこに
あるのか。

「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほど、子ども
の個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで
よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。

オーストラリアでは、すでに10年以上も前に小学3年生から。今ではほとんどの幼稚園で、コ
ンピュータの授業をしている。10年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーディス
クで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒が、常
時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、ハネ
だ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちら
か一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活
習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、3〜4歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが悪い
というのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用にはできてい
るが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。

(付記)

●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。
それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな
いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが
美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、
勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝
えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。

(参考)

●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調査)によれ
ば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)のうち、53%が、
「しない」と答えている。

この割合は、参加国32か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本
は中位よりやや上の8位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。

無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は29%! 文部科学省は、「わからない
ものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せてい
る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
人の型 型にはめる教育 子供の個性)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強好きにする法

子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生

 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に創刊時
からかかわり、その後「知恵遊び」を10年間ほど、協力させてもらった。

「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、当時
毎月47万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指導にか
かわってきた。

バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全10巻)や、
「まなぶくん・幼児教室」(全48巻)なども手がけた。

14年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も毎
月27万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長の大塚K氏が、横浜のアメリカン
ハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校一
年生だった。

●さて本題

 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私
はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を
聞いてもらうのは、そのあとだ。

で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、「ワークやドリルなど、半分はお
絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいいかげんなものはな
い」とも書いた。

そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見をもらっ
た。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言うのだから、ま
ちがいない。

●平均点は六〇点

まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の
次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定
して、プロット(構成)を立てる。

その年齢の子ども上位10%と下位10%は、対象からはずす。残りの80%の子どもが、ほぼ
無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が60点ぐらいになるような問題を考える。

幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、教
科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少
しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえな
いかもしれないが、25年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その後、
東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい

 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないこ
とかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、
私としてはつらい。……つらかった。

私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よりも大切にした。同じ迷路の問題で
も、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそこにまぜた。たとえ
ば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっているとか。あの「幼児の学
習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月300枚以上の原案をかいていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学
ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの学習 子供の学習 勉強嫌い 子どもの集中力 子供の集中力 学習指導 勉強指導 
学習机 はやし浩司 子供の勉強グセ 勉強癖 やる気 やる気論 子供を伸ばす法 子供の
伸ばし方 家庭学習 子供の方向性)





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●子どもの記憶

++++++++++++++

子どもの記憶について、
あのフロイトは、こう言っている。

「言葉や観念によって思い出そうと
することもあるが、意識しないまま、
自分が経験したことを、態度や動作
で、それを表現する」と。

このことには、いくつかの重要な
意味が隠されている。

++++++++++++++

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。つまり幼児期記憶の回
想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけなく、むしろその回想する
体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復する」(「フロイト思想のキ
ーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 わかりやすく言えば、自分が経験したことを、態度や動作で表現するということ。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれ
て育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといっ
た様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、そ
の場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれ
ば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、
「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。

幼いときから、たとえば親に抱かれて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の
状況や情景を、心の中で再現する。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本
を見ただけで、それを好意的にとらえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、
無理に本を読まされて育ったような子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見
て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい
犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりそ
の子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)という
ことになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく
日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。

たとえば、電話の相手によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自
分より目上の人だとわかると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上
にペコペコする。一方、目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったり
してみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンで
あったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝する
と、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見る
と、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは
家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもっ
てつながっている。

(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→(無意識のうちに
も、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関係を判断する)
→(水戸黄門が痛快)と。

言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人は、自分の価値観を再確認しているのか
もしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおもしろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表
面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。

たとえば何らかの学習をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、
(そのことが全体として、どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えな
がらする。そしてその印象がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。先にあげた
例で言うなら、子どもに絵本を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よし。逃げ腰に
なるようであれば、失敗、ということになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転移ならよし。
悪い転移には気をつけろ」ということになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿
勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸
びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。

一度子どもがうしろ向きになってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必
要になる。たとえば小学校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるとい
うことは、ほぼ絶望的であると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あ
まりにも手前ミソということになるかもしれないが……。
(02−10−30)(06−07−24改)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の記憶 幼児の記憶 前向きな姿勢)




検索文字(以下、順次、収録予定)
BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチエックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司 子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はやし浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司