倉庫21
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●完ぺき主義

●ミス、まちがいを許さない親たち

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俗にいう、「完ぺき主義のママ」たちは、
子どもの、ミスや、ささいなまちがいを、
許さない。

あるいは、子どもがミスや、まちがいを
おかしたりすると、ことさら大げさに、悩んだり、
それを問題にしたりする。

そのため、子どもは、萎縮する。
萎縮するだけならまだしも、
その成長過程で、脱ぐべきカラを脱げないため、
問題を先送りすることになる。

しかし、これがこわい……。

+++++++++++++++++++

 子どもは、その過程で、それぞれ、カラ(殻)を脱ぎながら、成長する。それはよく、昆虫の脱
皮にたとえられる。(たとえているのは、実はこの私だが……。)

 たとえば満4・5歳から、満5・5歳にかけて、子どもは、たいへん生意気になる。親や先生に
対しても、口答えをするようになる。

親「新聞をたたんでちょうだい!」
子「自分のことは、自分でしな!」と。

 この時期は、ちょうど、(幼児期)から(少年、少女期)への移行期にあたる。この時期を通し
て、子どもは、幼児というカラを脱いで、少年、少女へと成長していく。

 「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)がはっきりとしてくる。人格の核(コア・アイ
デンティティ)が確立してくる。「私」という意識がはっきりとしてくる。

 が、この時期、親の威圧、強圧、過関心、過干渉が日常化すると、子どもは、いわゆる(いい
子)のまま、過ぎてしまう。つまりカラを脱げない、あるいは脱がないまま、体だけが、大きくなっ
てしまう。

 親は、「いい子だ」「育てやすい」と喜んでいるが、これはとんでもない誤解。先日も、ハキがな
く、オドオドし、見るからにおとなしい自分の子どもをさして、「うちの子は、すばらしい子どもで
す」と言っていた母親がいた。

 しかしそういう子どもが、将来、どうなるか?

 大きく分けて、二つの道をたどる。

 そのまま、ナヨナヨとした性格のまま、それにふさわしい人生を送るタイプ。もうひとつは、カラ
を脱がなかったツケを、やがて払うタイプ。さまざまな問題行動の原因になることも多い。とくに
対人関係で、障害が出ることが多い。はげしい家庭内暴力につながるケースも、少なくない。

 だから、……というわけでもないが、子どもはその時期々々において、脱ぐべきカラは脱いで
おく。あるいは、脱がせておく。たとえば、ウソ、ごまかし、盗みにしても、それを繰りかえしなが
ら、子どもは、やがて常識豊かな人間へと成長していく。

 子どもの成長には、(ワル=悪)も大切な肥料と考える。子どもは、(ワル)をしながら、おとな
の世界からの自立を模索する。

 そこで親は、そうした行為を見たり知ったりしたときには、それなりに叱ったり、注意したりし
ながらも、別の心では、それを許す。「ああ、この子は、自立しつつあるのだ」と。子どもを、トコ
トン、追いつめたり、責めたりしてはいけない。ほどほどのところで、手を引く。引きながら、あと
は、子どもの判断に任す。

 この余裕が、子どもの表情を伸びやかにし、明るくする。

 が、ときどき、こんな相談がある。「うちの子は、サイフからお金を盗んで、使います。どうした
らよいでしょう?」と。

 こういうとき親によっては、絶望感(?)にさいなやまれ、被害妄想もからんで、子どもの将来
を大げさに心配したりすることがある。しかしこのとき重要なのは、「どうすれば、そういうことを
やめさせられるか」ではなく、「どうすれば、子ども自身を、考えて行動できる子どもにすること
ができるか」、である。

 やめさせる方法は、簡単である。家の中で、お金の管理を徹底すればよい。しかし、それで
問題が解決するわけではない。家の中で盗むことができなければ、外の世界で盗むだけ。

 そこで子どもには、考えさせる。が、ガミガミ叱ったのでは、子どもに考えさせることはできな
い。中には、叱られじょうずな子どもがいる。何かを叱ったりすると、さも反省していますという
ような様子をして見せて、頭をうなだれたりする。さらには、即座に土下座して、頭を床にこすり
つける子どももいる。

 しかしそういう子どもは、何も考えていない。考えていないから、反省もしない。むしろ、ますま
す小ズルくなるだけ。つまり叱っても、意味がない。ばあいによっては、逆効果。

 子どもが(ワル)をしたときほど、親は冷静になる。静かに子どもに語りかける。この語りかけ
が、子どもを成長させる。子どもを、常識豊かな子どもにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 子どもの叱り方 しかり方 盗み 万引き ウソ 虚言 ごまかし インチキ 親の対
処法)





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●「ただの人」(ハイデッガー)

【今を生きる】

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今を生きる。
口で言うのは簡単なこと。
しかしその「今」を生きることは、
たいへんなこと。きびしい。

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●いつか死ぬ。だから生きる。

 病気があるから、健康のありがたさが、わかる。同じように、死があるから、生きることのあり
がたさが、わかる。

 もし病気がなかったら、健康のありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 もし死がなかったら、生きることのありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 しかし病気も、そして死も、できれば、避けたい。病気はまだしも、死は、その人の(すべての
終わり)を意味する。つまり人は、死によって、すべてをなくす。「私」という自分のみならず、こ
の宇宙もろとも、すべてをなくす。

●生きることの不安

 ……そう考えることは、たいへん不安なことである。つまり死ぬことを考えると、不安でならな
い。しかしその不安が、「今」を生きる、原動力となる。「かぎりある人生だからこそ、今を懸命
に生きよう」と。

 こうした死生観、それにつづく「不安」を説いたのが、あのドイツのマルティン・ハイデッガー(1
889〜1976)である。ハイデッガーは、フライブルク大学の総長をしていたとき、ナチス支持
の演説をしたことで、戦後、批判の矢面(やおもて)に立たされた。そういう側面は別として、彼
が残した業績は大きい。実存主義の骨格を作ったと言っても過言ではない。

 ハイデッガーの説いた、「存在論」、「実存論」は、その後、多くの哲学者たちに、大きな影響
を与えた。

●不安との戦い

 で、話を少し、もどす。その不安を感じたとき、どうすれば、人は、その不安を解消できるか。
つまり生きることには、いつも、何らかの不安がともなう。それはたとえて言うなら、薄い氷の上
を、恐る恐る、歩くようなもの。その薄い氷の下では、いつも「死」が、「おいでおいで」と、手招
きしている。そういう不安を、どうすれば解消することができるか。

 そういう点では、実存主義は、たいへんきびしい生き方を、人に求めるていることになる。今
を生きるということは、「私は私であって、私にかわるものは、だれもいない」という生き方のこ
とをいう。

 たとえば地面を歩くアリを見てみよう。

●私しかできない生き様

 あなたがある日、その中のアリを一匹、足で踏みつけて殺してしまったとする。しかしそれで
アリの世界が変わるということはない。アリの巣はそのまま。いつしかそのアリの死骸は、別の
アリによって片づけられる。そのあと、また何ごともなかったかのように、別のアリがそこを歩き
始める。

 そういうアリのような生き方をする人を、ハイデッガーは、「ただの人」という意味で、「das M
ann」と呼んだ。わかりやすく言えば、生きる価値のない、堕落した人という意味である。

 今を生きるということは、だれにも、自分にとってかわることができないような生き方をするこ
とをいう。社会の歯車であってはいけない。平凡で、単調な人生であってはいけない。私は、ど
こまでも私であり、私しかできない生き方をするのが、「私」ということになる。

●宗教

 少しわかりにくくなってきたので、話をわかりやすくするために、こうした生き様の反対側にあ
る、宗教を考えてみる。

 ほとんどの宗教では、「あの世」「来世」を教えることによって、この世を生きる私たちの不安
を、解消しようとする。「あの世がちゃんとあるから、心配するな」と。

 つまりほとんどの宗教では、死後の世界を用意することで、「死」そのものを、無意味化しよう
とする。実際、あの世があると思うことは、死を前にした人たちにとっては、それだけでも、大き
な救いとなる。あの世に望みを託して、この世を去ることができる。

 しかし実存主義の世界では、あの世は、ない。あるのは、どこまでも研ぎ澄まされた、「今」し
かない。が、そうした「今」に、耐えられる人は、少ない。私が知る人に、中村光男がいる。

●中村光男

 一度だけ、鎌倉の扇が谷の坂道で、すれちがったことがある。中村光男の自宅は、その坂
道をのぼり、左側の路地を入ったところにあった。恩師の田丸先生が、小声で、「あれが中村
光男だよ」と教えてくれた。私は、それを見て、軽く会釈した。

 その中村光男は、戦後の日本を代表する哲学者であった。ビキニ環礁での水爆実験の犠牲
となった、第5福竜丸事件以来、反核運動の旗手として活躍した人としても、よく知られている。

 その中村光男ですら、死ぬ1週間前に、熱心なクリスチャンであった奥さんの手ほどきで、洗
礼を受け、クリスチャンになったという。何かの月刊誌にそう書いてあった。

 私はそれを知ったとき、「あの中村光男ともあろう人物が!」と驚いた。つまり「死」は、それ
ほどまでに重大で、深淵である。だから今の私には、実存主義的な生き方が、はたして正しい
のかどうか、わからない。またそれを貫く自信は、ない。

●あの世はないという前提で生きる

 だがこれだけは言える。

 私は、今のところ、「あの世」や「来世」は、ないという前提で生きている。見たことも、聞いた
こともない世界を信じろと言われても、私にはできない。だから死ぬまで、懸命に生きる。私で
しかできない生き方をする。

 あの世というのは、たとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たればもうけものだが、しかし最
初から、当たることを前提にして、予算を立てるバカはいない。

 その結果、いつか、死ぬ。私とて、例外ではない。で、そのとき、あの世があれば、もうけも
の。なくても、私という(主体)がないのだから、文句を言うこともない。

●そこで私は……

 そのハイデッガーは、1976年に死去している。私がこの浜松で、結婚し、ちょうど二男をもう
けたころである。彼の死が、全国ニュースで報道された日のことを、私は、つい先日の日のよう
に、よく覚えている。その少し前の1970年に、あのバートランド・ラッセルが死んでいる。実存
主義の神様と言われる、(実存主義の神様というのも、矛盾した話だが……)、ジャンポール・
サルトルは、1980年に死んでいる。

 みんな、どんな気持ちで死んだのだろうと、今、ふと、そんなことを考えている。

 そうそう中村光男だが、田丸先生の家の前の家に住んでいた。で、彼が死ぬ1週間前に、ク
リスチャンになった話を田丸先生にすると、田丸先生は、どこか感慨深げに、ポツリとこう言っ
た。「あの中村さんがねえ……」と、

 田丸先生も、それを知らなかったらしい。

 このエッセーをしめくくるために、最後に一言。

●ドラマにこそ、価値がある

 こうしてみなが、それぞれ一生懸命に生きている。その生きることから生まれるドラマにこそ、
私は、価値があると思っている。実存主義であろうと、なかろうと、そんなことは構わない。だれ
が正しいとか、正しくないとか、そんなことも、構わない。

私は、そのドラマにこそ、人間の生きることのすばらしさを感ずる。
(06年6月15日の夜に……)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ハイ
デッガー サルトル ジャンポール・サルトル バートランド・ラッセル 実存主義 はやし浩司 
存在論 実存論)


●【das Mann】

++++++++++++++

ただの人で、終わるのか。
あるいは、ただの人でない人生を送るのか。

それはそれぞれの人の勝手。

他人がとやかく言うべき問題ではない。

しかし……。

++++++++++++++

 ハイデッガーは、その人がいなくても、別のだれかが、その人のかわりができるような生き様
をしている人のことを、どこか軽蔑の念をこめて、「das Mann」と呼んだ。「ただの人」という
意味である。

 わかりやすく言うと、こうなる。

 私が私であるためには、「私」でなければならないということ。私がいなくても、ほかのだれか
が私のかわりをしてくれるだろうというような生き方をしている人には、「私」は、ないということ。

 そういう意味では、平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。仮にその人がいなく
ても、社会は、何も困らない。その人のかわりができる人は、いくらでもいる。

 そこで実存主義の世界では、「私」の追求こそを、何よりも重要視する。「私らしさとは何か」
「私らしくあるためには、どうすればよいのか」「私が私であるためには、私はどうあればよいの
か」と。

 つまり「死」という限界状況の中で、とことん、今というときを燃焼させて生きる。それが「私」と
いうことになる。

 一方、宗教の世界では、むしろ「私」を捨てさせ、信仰に身を寄させることで、その人の心の
救済をはかる。「私」は、むしろ、敬遠(けいえん)される。一方、「私」がある人は、信仰そのも
のができない。信仰するためには、みなに、同化しなければならない。仏教で言う、「異体同
心」という言葉も、そこから生まれた。

 体は別々でも、心はひとつという意味である。

 どちらの生き方が正しいのかは、私にはわからない。またどちらの生き方を選ぶのかは、そ
れぞれの人が決めることである。

 ただ実存主義の世界には、宗教の世界でするような、布教活動というのは、しない。もとより
そういう活動は、なじまない。つまり、他人の生き様には、干渉しない。「どうぞ、ご勝手に!」と
いう姿勢を貫く。

 私は私という生き様は、どこまでいっても、私は私なのである。

 ただの人であっても、またただの人でなくても、どうせ死ねば、みな、同じなのだから……。

 ……という生き方は、あまりにも、さみしい。「私」が死ねば、この宇宙もろとも、すべてが消え
るという考え方は、(実際、そうなのだろうが)、あまりにも、さみしい。

 そこでどうだろう、こう考えては……?

 私たちは、「私」を超えた、大きな生命の流れの中で生きている、と。たとえて言うなら、私
は、波間に浮かぶ、泡のようなもの。その泡は、生命というおおきな波のうねりの上にある。
「私」はただの泡かもしれないが、それは同時に、おおきなうねりの一部である。泡は消えて
も、うねりは、なくならない。

 おおきなうねりは、うねるたびに、これまた無数の泡をつくる。そしてこれまた無数のドラマを
作っていく……。

 それについては、以前、こんな原稿を書いた。そのまま添付する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●業(ごう)

 仏教の世界には、「業(ごう)」という言葉がある。「悪業」「善業」というような使い方をする。

 この「業」について、私のような凡人が、軽々しく論ずることは、許されない。この一語につい
てだけでも、仏教学者たちは本を書くほどである。

 業……「広辞苑」には、こうある。「行為。行動。心や言語の働きを含める。善悪の業は、因
果の道理によって、のちに必ずその結果を産むというのが、仏教および、多くのインドの宗教
の説」と。

 ついでに、「日本語大辞典」のほうでは、こうなっている。「仏教で、身・口・意(しん・く・い)(身
体・言葉・心)によって成す善悪の行為。カルマ。のちの世にある結果をもたらす前世の行為」
と。

 それを「業」と言ってよいのかどうかは知らないが、最近になって、私は、その「業」らしきもの
を、よく感ずる。

 まず生命そのものが、大きな流れの中で、つながっている。それは大海原(うなばら)のうね
りのようなもの。もしその中に「私」がいるとするなら、そのうねりの中でざわめく、小波(さざな
み)程度のもの。

 いくら「私は私だ」と叫んでも、髪の毛1本、私が設計したわけではない。その大海原は、数十
万年という、気が遠くなるほどの昔からつづいているし、私が死んだあとも、何ごともなかった
かのように、さらに永遠につづいていく。

 が、その中で、私は懸命に生きている。その懸命に生きるという行為そのものが、私の前の
時代に生きた人から、そしてつぎの時代に生きる人に対して、何かの橋渡しをすることにすぎ
ない。私は、それが「業」ではないかと思う。

 仏教学者の人が、この解釈を読んだら、吹きだして笑うかもしれない。

 しかし私は残念ながら、「生命」の永遠性は認めても、「個」の永遠性は認めない。私個人に
ついて言えば、私に、前世などあるはずもないし、来世などあるはずもない。「私」が死ねば、
私もろとも、この大宇宙すら、消えてなくなる。

 しかしここで私が、何かの「善」をなしておけば、その善は、つぎの世代に伝えることができ
る。もちろん「悪」をなせば、その悪も、何らかの形で、つぎの世代に残ることになる。

 親子関係というせまい範囲の話ではない。人間全体という、もっと広い世界の話である。

 つまり「私」自身が、前の世代の人たちのなした、「悪業」や「善業」を、そのままひきついでい
ることになる。私の中には、私であって私である部分と、私であって私でない部分が、広く混在
している。

 その(私であって私でない部分)こそが、まさに、「業」のなさせるわざということになる。たとえ
て言うなら、今、韓国や中国では、反日運動が燃えさかっている。彼らが反日的であるというの
は、よくわかる。

 しかし戦後の生まれの私が、どうしてそういう反日運動を見ながら、不愉快な思いをしなけれ
ばならないのか。本来なら「私は関係ない」と逃げることだって、できるはず。が、彼らは、戦前
の植民地時代をむしかえしながら、日本を非難する。攻撃する。

 それも考えてみれば、先に述べた、「大海原のうねり」のようなものかもしれない。私を超えた
ところで、人間社会全体が、その「うねり」の中にある。

 そこで仏教ではさらに、「因果を断つ」という言葉を使う。

 そのうねりの中に、つぎの世代に伝えてはならないものを感じたら、その段階で、その流れ
を、断っておく。反日感情についていうなら、もう私たちの時代でたくさん。うんざり。だから、
今、それを解決しておく。

 先のアジアカップ杯のときもそうだ(04年)。決勝戦は、中国の北京で行われた。中国人側サ
ポーターたちは、「(日本人を)殺せ!」「殺せ!」と叫んでいた。

 しかしそのサッカーをしている選手たちは、私よりさらに戦争とは無縁の、私たちのつぎの世
代の人たちである。私は、その光景を見ながら、何とも、申し訳ない気持ちにすらなった。

 そう言えば、話は少しそれるが、私の恩師にTK氏という人がいる。もうすぐ90歳になる人だ
が、ごく最近まで、内科医をしていた。そのTK氏に、私が、こんな話をしたことがある。

 「香港や台湾へ行っても、日本人だとわかると、高額な値段を吹っかけてきます。それで私は
英語だけをしゃべり、ハワイ人だと言います。すると、値段が、すべて半額程度になります」と。

 その話を聞いて、TK氏は、こう言った。「みんな、私たちが悪いのです。そういう話を聞くと、
戦争を遂行した私たちとしては、申し訳ない気持ちになります」と。

 そういう人もいる。が、その一方で、「Y神社を参拝しないような政治家は、政治家としての資
格はない」などと、どこまでも時代錯誤的な、はっきり言えば、ノーブレインな政治家もいること
も、これまた事実。仏教的な「業」の知識が少しでもあれば、絶対に出てこない言葉である。

 で、話をもどす。

 この「業」だが、大切なことは、善業を重ねるということ。しかも「私」という世界を超えて、それ
をするということ。

 人が見ているとか、見ていないとか、そういうことは、関係ない。人に認められるとか、認めら
れないとか、そういうこととも関係ない。善業を重ねたところで、社会的に成功者になるとはか
ぎらない。「業」というのは、そういう意味で、「私」をはるかに超えている。もっと言えば、人間全
体の問題ということになる。

 何ともむずかしい話になってしまった。が、簡単に言えば、私たちは懸命に生きながらも、そ
の生きるという行為を、私だけのもので終わらせてはいけないということ。心のどこかで、人間
全体のことも考えながら、生きなければならないということ。

 それが「業」ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 業 
善業 悪業 カルマ 因果応報)

【付記】

 善人が必ずしも、成功するわけではない。同じように、成功している人の中には、結構、悪人
も多い。むしろ現実の世界では、こうしたケースが、多い。

 まじめに、コツコツと生きている人が損をし、貧しい生活をしている。その一方で、悪いことを
し放題している人が、豪勢で、よい生活をしている。「いつか、いいこともあるだろう……」と信じ
て生きる人ほど、その結果が現れてこない。「いつか、バチが当たるぞ……」と思う人ほど、ス
イスイと、楽な生活をしている。

 こういう現象だけをとらえて、「業」を考えてはいけない。

 「業」というのは、個人を超えた、はるかに大きな生命の(うねり)のようなものをいう。個人と
いうのは、そのうねりの上ではじける、波のアワのようなもの。小さなアワだけを見て、うねりの
価値を決めてはいけない。

 中には、「私」という個人を超えて、大きなうねりのために生きている人だって、いる。貧しい
生活をし、有名でもなく、損ばかりしていても、人類全体、生命全体のことを考えて、生きている
人もいる。

 それを善業と呼び。そういう人こそ、善人と呼ぶにふさわしい。

 善業、悪業を考えるときは、そんなことも、頭のすみに置いておくとよいのでは……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 因果
応報 善業 悪業 うねり 泡 アワ)





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●保健室登校

【掲示板より】(ある女の子の、保健室登校)

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掲示板にこんな書き込みがあった。
ある学校で、1人の児童(女児)を
世話している、先生からのもの。

以前からのメールのやり取りを通して、
私が知っている範囲で、私のほうで、
少し内容を補った。

+++++++++++++++++

【Sより、はやし浩司へ】

今日までで、(私が担当している、Mさんが)、急激に変わってきました。そして新たな問題が出
てきました。

私は、いろいろな副次的な問題が起きてくるだろうと予想していたので、あまり気にはならない
のですが、養護教諭は、そうではありません。

養護教諭は、「私は専門のカウンセラーだから」と言いますが、どうしても、すべてを信用できな
いでいます。イヤミがひどく、「私には、問題もなく、とってもいい子なのに!」と、言うばかりで
す。

これは愚痴ですね。すみません。で、本題です。

保健室入り口に木の柱があります。その柱に、私の名前が、ハサミのようなもので、強くひっか
いて書いてあり、その横に、「○○のばか」と彫られていました。

Mさんは私のあとをおいかけてきて、よく、保健室隣りの更衣室までついてきます。きっとその
とき、Mさんが書いたものだろうと思います。

私のあとを追いかけて、更衣室まで一緒に来るとき、いろんな子がついてくるときがあります。
ADHD児、クラスの児童などなど。それがどうも、Mさんには、不満なのかもしれません。

その養護教諭は、「この子(=Mさん)には、二面性があります。かまってやれば、嬉しそうな顔
をするけど、そういう様子をして見せるのは、私(=養護教諭)に、○○先生(=私)がうるさ
い。何とかしてほしいという訴えているからです。○○先生もよくやってくださっています。あなた
が悪いのではありませんが、分離不安なら、私がめんどうをみます」と。

Mさんが、分離不安であることは、もちろん、この先生もよく知っているはずです。が、Mさん
が、保健室に行くたびに、「忙しい忙しい」と、ほとんどMさんの世話をしませんでした。たとえば
私がいないときは、Mさんに、忙しいから教室へ行ってなさいと、廊下に出したりします。だれも
Mさんのめんどうを見ないからこそ、私がついていたのですが・・・・。

私はこう思います。Mさんは、心のバランスをとっているのではないか、とです。ものすごく頑張
り屋なところがあり、私のことを受け入れ始めた時に、他の子に邪魔され、むかむかしたので
はないでしょうか。嫉妬のような感情です。

そこでこうした悪口を、こっそり書くことで、自分の心の中の不満を、解消してるんじゃないか
な?と。もしそうなら、これくらいのことは何でもありません。だって、Mさんは、家でも、母親
に、受け入れてもらえないんですから。

が、このように養護教諭に言われると、また学校で、学校の方針とは違った方向に、私は、行
きそうになってしまいます。

「私はカウンセラーだから!」「いらぬことは言うな」という養護教諭。それとも、私が、まちがっ
ているのでしょうか。

下にも書きましたが、Mさんが、ここにきて、急に「保健室に行く」と言わなくなりました。「無理
なら保健室行く?」と聞くと、「ここ(=私の教室)がいい」と言います。このMさんの言葉と、養
護教諭とは、関係があるでしょうか。無理をさせないようにとしてきたつもりなのですが、どこか
で無理をさせていたのでしょうか。

しかし、私の悪口を書いたのが、Mさんではなく、他の子だったらどうでしょうか。それもまた、
あれこれと考えてしまいます。

今までの経緯を、もう少し、お話しします。

以前の不登校の状態から、今は、保健室で1日を過ごすようになりました。養護教諭も同じ部
屋で、私といっしょに仕事をしています。私はMさんと、折り紙を折ったり、ごっこ遊びをしたり、
漢字を学習したりしています。そういうときのMさんは、とてもいい笑顔を見せます。私も、ずっ
とつきっきりで、Mさんを指導しています。

が、教室には全く行けません。時々、「(教室へ)行ってみる」と、Mさんが自分から言うので、教
室へ向かうと、その途中で、「恐い」「○○さんがああ言った」「みんながいる。恐い」「気持ちが
悪い」「担任の先生が恐い」などと言い出したりします。

毎朝、無理にはがすようにお母さんと引き離し、Mさんは、泣いてお母さんと、別れます。「ママ
がバイバイって言ってくれなかったー」から始まり、そのあとは、とお母さんの悪口。「ママはこ
んなにひどい」と、です。

この状態を段階を1とするなら、2の段階はこうです。

朝、学校の靴箱のところで、なんとかお母さんと、泣かないで離れる。午前の4時間の内、私が
付き添うのは3時間。その間中、教室前の廊下で過ごしています。

担任はそれをいやがっているようですが、私と一緒に廊下で、授業。そういうときMさんは、
時々、教室の中の様子をうかがったりします。私も時々、いっしょに教室の中に入り、「入れる
かな〜?」と、たまに声をかけたりします。

が、Mさんは、「気持ち悪い」「無理」とか言います。下痢も頻繁に訴えたりします。Mさんの訴
えることについては、全部聞くようにしています。「無理しなくていいのよ。気持ちが悪ければ保
健室でもいいのよ。お腹が痛ければトイレにいけばいいのよ」と。

ほかにMさんが、悪口を言われていると言ったようなときには、「つらかったねー」となだめた
り、教室に入りたくなさそうなときには、「廊下でノートを広げればいいのよ」と。少しでも教室に
入ることができたときには、「すごいねー。がんばったねー」と、抱いたりします。

それをしていると、全体の1時間分くらいは、教室へ入れるようになります。担任へも「無理は
やめましょう。きっといつかは入れますよ」と話したりしています。

午前中は、赤ちゃん言葉を使うことが多いようです。時間がたち、教室に入れるころになると、
「こんなのできない〜!」などなど、文句がたくさん出るようになります。でも、つぎの瞬間、「は
っ!」と、私の顔色をうかがったりします。・・・そのときは、家では、お母さんに厳しく言われて
いるのかなと感じましたが。

そこで軽くたしなめると、Mさんは、えへへ・・・と笑ったりします。

休み時間は、教室の前では嫌だというので、子どもの少ないところへつれていきます。休み時
間中、抱きしめてあげたりします。ほかの先生がその場を通りかかり、先生に、「ア〜甘えてる
〜」と言われても、Mさんは、「いいもん!」と答えたりしています。

授業開始前にMさんを説得し、、教室前へ連れて行くこともあります。が、私のあとを追いかけ
るばかり。トイレまでついてきます。

が、学校側の指示で、Mさんから離れ、本来の業務にもどるようという話が出たので、授業中
は、1時間の中で、行き来しながら、少しずつ離れるようにしています。(5分〜10分間隔くらい
です。)

苦労して、3時間かけて、やっと入った教室。みんなと同じようにドリルをし、先生の列に並ぶ。
が、担任から一言。「申し訳ないですが、先生、今こんな事をしている場合じゃないんですよ。
○○体験の絵と文をかかせてください。掲示するのに困るんです」と。

私にとっては、なんとも悲しい言葉。やはり担任の先生は、何も分っていないのか・・・・。

ただ、Mさんのまわりの子どもたちの態度が、少し変わってきたように感じます。私も、普通に
みんなと接するようにしています。子どもたちも、Mさんと私に慣れてきたような感じです。が、
Mさんにしてみれば、不満気味。算数教えて!と、私を、ほかの子どもたちと、取り合いになる
こともあります。

ここで事件発生(?)

段階3、行動は同じでも、「気持ち悪い」「○○さんがああいう、こういう」「だってさー・・・だもん」
「ママね・・・・」という言葉は、極端に減ってきました。とくにママの話はしなくなりました。

そして段階4、今日の事です。

朝、家から近所の上級生と徒歩で登校してきました。自分で教室へ行き、朝の準備をしたあ
と、Mさんは、私が来るのを玄関で待っていました。

「今日、ひとりで来れたよ!」というMさんが奉公するものですから、「頑張ったねー!」と、Mさ
んを抱き、一緒に教室へ行きました。が、そのあと、「今日は先生はどこの教室?」「行っちゃ
嫌だ」と、私を放しません。「先生が、行くなら、私も廊下」と、だだをこねました。

わがままが出てきたようです。はやし先生が言っていたとおりです。できないことはできません
ので、よく話して聞かせ、「休み時間にはこれるけど、ここではダメだよ」と話し、「無理なら保健
室でもいいよ」と言ったのですが、Mさんは、「保健室は行かない。ここにする」と言うばかりで
す。そんなわけで、4時間ほとんどを、私の教室で過ごすことになりました。

が、3クラスの合同の一斉自習があり、Mさんのクラスも含めて、回っていくと「ここにずーっと、
いてぇー」を繰りかえします。あるいは、「気持ち悪い」「目が痛い」などと、そのときも、訴えまし
た。Mさんは、「ふーって、(息をかけてくれると)治るんだよ」と言って、私のスキンシップを求め
てきます。私がMさんにさわっていると。Mさんは、安心したのか、落ち着いてきました。

担任とは相変わらずです。担任の授業だと、Mさんは、教室に入りにくいようです。そんな状態
が、今、つづいています。

【はやし浩司からS先生へ】

 このタイプの子どもの指導には、とにかく、根気が必要です。ばあいによっては、1〜2年単
位の根気比べになります。幼児のときは、とくに、そうです。

 しかし現在小学2年生ということなので、年齢的には、もうそろそろ、自己管理ができるころに
さしかかっています。これから先、大きな変化が見られるかもしれません。あと一息というところ
では、ないでしょうか。

 ただ、担任の先生を一方的に責めることもできません。ご存知のように、先生も、忙しいで
す。現実問題として、Mさんのことに、今のSさんのように気を配るということは、不可能のよう
に思います。上からは、課題をこなせと言われる。一方、親たちからは、もっとしっかりとめんど
うをみろと言われる。先生も、たいへんです。

 Mさんは、たしかに、仮面をかぶっていると思います。二面性があるというよりは、仮面だと
思います。(いい子)ぶることで、自分の立場をとりつくろっているのですね。悲しい子どもの心
です。

 が、あなたの前では、少しずつ、仮面をはずしつつある。そんな感じがします。ありのままの
自分をさらけ出しながら、あなたとの信頼関係を、確かめようとしている。そんな感じがします。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいところは、Mさん自身でもどうにもならない、もうひと
つ奥の、別のMさんが、Mさんを、裏から操っているという点です。ですから、Mさんに、言葉と
して、あれこれ諭(さと)しても、あまり意味がありません。(言うべきことは、言わなければいけ
ませんが。またその程度で、終わるようにします。)

 Mさん自身も、自分でも、どうしていいのか、わからないでいるからです。また、まだ、自分を
客観的に見ることができることができません。母親の威圧的な過干渉、育児拒否などによっ
て、ほかの子どもたちよりも、そういう面の発達が、つまり人格の核形成が、遅れがちになって
いることも考えられます。

 ふつうは、小学3年生くらいになると、自我が急速に発達し、自己管理能力ができてくるもの
ですが、Mさんのばあい、1〜3年、それが遅れる可能性があります。

 Mさんのように、他人との良好な人間関係を結ぶことができない子どもは、(1)攻撃的なった
り、(2)服従的になったり、(3)同情的になったり、(4)依存的になったりします。

 Mさんのばあいは、(3)と(4)の混合したパターンで、それが現れているのではないでしょう
か。気持ち悪いと訴えるのは、あなたに同情をしてもらうため。あなたのあとを追いかけるの
は、依存的になっていることを示します。

 でも、意外とこういうケースでは、(私たちがしてやっている)という思いと、(子どもがしてもら
っている)という思いの間には、大きなギャップがあるから、注意してください。

 私は、もう少し年齢の低い子どもたちを相手に四苦八苦した経験が、たくさんあります。が、
去っていくときは、みなさん、淡白なものです。親も、子どもも、です。若いころは、それだけで
落ちこんだりしたものです。

 ですから、(してあげている)という意識が、どこかにあったら、今のうちに、消しておくことで
す。無我とは言いませんが、それに近い気持ちで、Mさんと、接することです。これはあとで自
分がキズつかないための予防策のようなものです。

 今の私には、この程度のアドバイスしかできません。どうか、お許しください。前回も書きまし
たが、最近、私は、こうした指導をしていませんし、また指導を断るようにしています。体力がと
ても、つづかないからです。つまり、もう偉そうなことは、言えなくなりました。

 S先生の苦労というか、努力には、本当に頭がさがります。今回も掲示板に書きこみをしてい
ただき、私の方が、勉強させてもらっているような感じです。ありがとうございました。

 それでもよければ、自己開示、もしくは、うさ晴らしのためでも結構ですから、また何でも書き
こんでみてください。同じような問題をかかえた、多くの親や先生たちの、参考になると思いま
す。

 では、今日はこれで失礼します。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 保健
室 保健室登校 集団恐怖 回避性障害)

【S先生より、はやし浩司へ】

早速のお返事、ありがとうございます。

「根気」という言葉、身にしみて感じます。

今回、自分が予想していたよりも、ものすごいスピードで、Mさんが変わってきて、私の方に、
「喜び」といった感情が湧いてしまったということがあります。そして同時に、「これはMさんが、
頑張りすぎているせいだ」「もしそうだとするなら、どこかできっと・・・」と、思ってしまったわけで
す。

少々、自分のペースが乱れてしまったのですね。だから担任や、その他の先生にも、感情的に
なってしまったのですね。反省しています。

子どもには、感情で対応しない。これは鉄則でしょうね。全くの素人で、不安が多い中での今回
のこと。はやし先生のお返事で、冷静になれそうです。

実は、私にも小学生の子どもが2人います。私の子供との関わりは、「感情で接しない」「対等
の人間として扱う」です。

・・・例えば子どもたちのものでも、許可を得てから見たり使ったりする。ましてや黙って、カバン
を開けない、など。・・・・そして「愛情はあげるだけのもの」と考えています。絶対にお返しにこ
のくらいしてくれたって、とは思わない。

これは、私の両親から受けた教育の全く逆のことです。私は、親の恩を押しつけられて、育て
られました。だからここでは、ブレません。ここまでに強くなるまで、大変でした。今は笑い話で
すが、私の反抗期はたいへんなものでした。

以上、余談でした。私も熱いタイプですね(笑)。

そうですね。どこかに、「これだけしてやっているんだよ」という気持ちがあったと思います。Mさ
んにも、他の先生にも。

そういえば、私も子供の頃、熱い先生に必死に指導されても、う〜ん?、と思った経験がありま
す。どうも、社会人をやった後、教職の世界に入ったせいか、先生をみては「あなたのような先
生がいるから!!!」と、怒鳴りたくなってしまったのだと思います。

「おまえはダメな人間だ!」「いい人間に拍手をしろ!」「声が小さい!」と。答えを間違えただ
けで、何もそこまでしなくても・・・・というような先生でした。そして授業中、必ず誰か泣いていま
した。私も、です。私が悪いのだから叱られて当然・・・と。

長々と申し訳ありません。お返事は結構です。(変な意味ではありません。)ただ、本当に「うさ
晴らし」をしてしまいました。すっきりしました。こんなつたない文章ですが、読んでいただいて、
そして救っていただいて感謝しております。

お忙しい中、本当に本当にありがとうございました。







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●親不孝(家族自我群)

●親不孝を悔やむ人

+++++++++++++++++

親子の縁は、絶対と、説く人は多い。
それもそのはず。

人間も、あの鳥類と同じように、
ある時期、それを「敏感期」と呼ぶが、
親子の関係は、本能に近い部分にまで、
脳の中に、刷り込まれる。

それが親子の(縁)をつくる。

心理学の世界では、それを
「家族自我群」と呼ぶ。

その自我群にがんじがらめにされ、
もがき、苦しんでいる人は、多い。

その苦しみを、心理学の世界では、
「幻惑」「幻惑作用」と呼んでいる。

ふつうの苦しみではない。
それはまさに、身を引きちぎるような
苦しみと言ってよい。

++++++++++++++++++

 「私は、親不孝者でした」と、悔やんでいる人は多い。「親にさんざん苦労をかけながら、その
恩がえしができなかった」と。

 日本では、ことさら親孝行がもてはやされる。親孝行を売り物にしている倫理研究団体も、い
くつかある。その中には、何十万人という会員を集めているのもある。

 そういう風潮の中で、多くの日本人は、親孝行を美徳とし、その一方で、親孝行をしない者
(?)を、「人間のクズ」と、排斥する。

 それが日本の文化だから、私は、それを受け入れるしかない。まただからといって、私は、親
孝行を否定しているのではない。

 ただこうした風潮の中で、親孝行ができなかった人、あるいは親孝行をしなかった人が、自
分で自分を責めるケースも、少なくない。さらにそれが進んで、自分を否定してしまう人もいる。
自分で自分のことを、人間のクズと思いこんでしまう。

 子どもの世界でも、これに似た現象が、よく起きる。

 たとえばある子どもが、親に、小さいころから、「いい大学へ入りなさい」「いい大学へ入らな
ければ、いい生活ができない」と、さんざん言われつづけたとする。そういう子どもが、そのまま
その(いい大学)は入れれば、問題はない。

 しかしその(いい大学)は入れなかったとしたら、その子どもは、どうなるのか? その子ども
は挫折感から、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまう。

 こういう状態になると、子どもは、現実に適合できなくなり、「現実検証能力」を失うと言われて
いる。自信喪失から自己嫌悪におちいることもある。わかりやすく言えば、ハキのない、ナヨナ
ヨとした人生観をもつようになってしまう。

 私も、幼稚園で働くと母に告げたとき、母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまっ
た。私は、母の声を聞いたとき、どん底にたたき落とされたように感じた。たいへんなことをして
しまったと感じた。実際には、それから十年以上、私は、外の世界で、自分の職業を隠した。

 私たちは、ともすれば、子どもに向かって、「こうあるべきだ」と、言いがちである。しかしそう
いう言葉の裏で、子どもに、別の負担を課してしまうことがある。そしてその負担を感じて、こど
も自身が、自らを追いこんでしまう。冒頭に書いた、親孝行もその一つということになる。

 つまり子育てを、ある一定のワクの中で考えると、どうしても、そのワクを子どもに押しつけよ
うとする。そしてその結果、そのワクが、子ども自身を押しつぶしてしまうことがある。しかもた
いていは、そういうふうにしながらも、親自身に、その自覚がない。

 ……ということで、いきなり結論。

 こうした押しつけは、慎重に。それから一言。いくらあなたの子どもが、親不孝の息子や娘で
あっても、その息子や娘が苦しむようなことだけは、避けたい。そのためにも、親は、いつも、
無条件の愛をつらぬく。見かえりを求めない。そういうサバサバした生き方が、子どもの未来
を、明るくする。つまりそういう未来を用意してあげるのも、親の務めということになる。

 子どもが、「私は親不孝者」と、自ら苦しむような状況だけは、つくってはいけない。
(040223)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親孝
行論 孝行論 家族自我群 親不孝 親は絶対 親絶対 親絶対教)

+++++++++++++++++++
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を
書きました。
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●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、『許して忘れる』の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。

先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミック
に入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」
と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる 親子論)

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。

「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むの
ですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってく
る。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってく
る。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親子
の絆 親子論 生きる源流 家族 家族の喜び)




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●母親・3態

【母親、三態】(改)(060617)

++++++++++++++++

母親にも、いろいろある。
すばらしい母親が大半だが、
しかし、そうでない母親も多い。

日本は、総じて見れば、母系社会。
したがって、日本人は、総じて見れば、
どこか、総マザコン的。

その母親について……。

++++++++++++++++

●独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにしてきた、
どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自分勝
手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっかけで、溺
愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一生か
かって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちるのを楽しみに
している」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。そし
て私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親のエ
ゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男性(5
5歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなっている。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性が、
悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男性にこう言
うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族自我
群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、それを表現す
る。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をいう。肉体
を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立するために、精神の完
成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてかかる傾向
が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親や母親は、多
い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの自立や
独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子どもは、自ら、罪悪
感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口答えす
るようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、人間の発達という基準でみるかぎり、ごく
自然な(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? いまだ
に「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、学校教育に武士
道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の子どもだ
けは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育てはおかしいと考
えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、あなたは、(自然な
形での子どもの姿)を見失う。


●子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、親は
子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の支配
下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつかな
い。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、親自身は、
それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子どもが、自
立し、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、子どもを、ほとんど外出さ
せなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、ひ弱な
子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。反発して、
自立していく子どもを、7とするなら、自立できない、ひ弱な子どもになっていくのが、3。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。そ
の年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子どもは、自立
をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自分を確
立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、その子どもが、
家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして子ども
は、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)されることに
なる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳をすぎても、親の
サイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料の、サラリーマンだっ
た。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、してはいけない
ことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう言っ
た。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自身の精神
的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの進学
問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみてよい。一
見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女性)をお
いかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置かれた現実を理
解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。ここで、あなたの代償的過保護度を
チェックしてみよう。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているかどうか。
何か、おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないかどうか。それを反省してみる。そ
れと同時に、あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反省してみる
とよい。


●子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカで……」と
言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少ない。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そうは思え
ない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、子ど
も思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じていた。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。明らか
に、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそこを駐車
場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車場にしたらよい
のではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるようにな
る。

(9)自信喪失
(10)判断力の低下
(11)自我の喪失
(12)現実検証能力の喪失
(13)強度な依存性(服従性)
(14)基底不安をもちやすい
(15)常識ハズレの行動
(16)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、「早くも
って来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お客さんが、帰ってしま
うでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、私には
くれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてしまうので
しょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズつけ
ます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあつかいを受
けながら、兄が、母のその呪縛から、自分を解き放つことができないでいることです。ベタベタ
の依存性がついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくなってしまってい
ます」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思っているなら、そ
れはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結婚であっ
たとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。子ども
の側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことはない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけでよい。少し
時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。実に不愉快な、しかも卑怯な言い方であ
る。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、自分
の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしてはいけない
言葉である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 個人
化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力 (はやし浩司 家庭教育 育
児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て マザコン マザーコンプレックス 内的促し ボ
ーエン 親の呪縛 言葉の虐待)
(040612)(060617)





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●壮絶な家庭内暴力

+++++++++++++++

東京都に住んでいる、Eさんという
母親が、長男の家庭内暴力に
苦しんでいる。

父親と、二男とは、そのため別居。
疲れきったEさんは、「死んでしまいたい」
とまで思うようになったという。

+++++++++++++++

E様へ

拝復

 パソコン上で原稿を書くと、どこかに記録が残ってしまいます。それがいつか、思わぬところ
で、表に出てきてしまうことがあります。それでここでは、「E様」とします。お許しください。

 また、同じような問題をかかえている、ほかの多くの親たちの参考と励みになるよう、一部、E
様からいただいた相談内容を、引用させていただきますが、どうか、ご了解の上、お許しくださ
い。

 E様からのメールを、要約させていただきます。

++++++++++++++++

【Eより、はやし浩司へ】

 2年前に相談したことがある、東京都のEです。

 現在、兄は、高校1年生、弟は、中学2年生です。以前は、父親と私、子ども2人で、生活して
いました。

 その兄、つまり長男のことです。

 中学3年になるころから、暴力がはげしくなり、「こんな俺にしたのは、お前だ」と、私を殴った
り、蹴ったりします。タバコを吸い始め、髪の毛も茶色に染め始めました。3年の中ごろから、
学校へも、ほとんど行かなくなりました。

 学校の先生から、「排除」という言葉が出てきたのも、そのころです。長男を、学校から排除
するというのです。それで長男の荒れは、ますますひどくなりました。

 そこで父親(私の夫)と、二男は、近くにアパートを借りて、別居。現在は、私と、長男だけが、
いっしょに暮らしています。食事は、私が作り、毎日、父親と二男に届けています。

 長男の暴力はひどいですが、一線だけは守ってくれているようです。今のところ、指の骨折程
度ですんでいます。

 一応、単位制の通信高校に通っていますが、ほとんど学校へは行っていません。昼夜が逆
転し、夜中に起きてきて、私に、「食事を作れ」「こうなったのは、お前のせいだ」「弟は、お前と
別れて、よくなっただろ」「お前は、この家から出て行け」と、蹴ったりします。

 私の精神はボロボロで、自殺願望も生まれてきました。

 『許して、忘れる』という先生から教えてもらった言葉を口ずさみながら、何とか、それに耐え
ていますが、本当にこれでいいのでしょうか。一言、アドバイスをしてください。
(東京都・Eより)

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Eさんの転載許可がいただけましたので、
Eさんからのメールを、ほぼそのまま、
ここに紹介します。

上記の内容とダブりますが、お許しください。

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【Eより、はやし浩司へ】


+++++++++++++++++++++++++++

転載許可がいただけましたので、Eさんからのメールを、
そのまま紹介させていただきます。(6・21)
Eさん、ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++++++++

【Eより、はやし浩司へ】

2年ほど前、当時小学6年生だった。次男の不登校のことでご相談した事がある者です。
長男は、当時、中学2年生でした。

その長男が中3になり、中1とし、弟は同じ中学校に入学してきましたが、そのときもまだ、弟
の学校恐怖症がつづき、学校へは、行けない状況にありました。

そのことで長男は友達から、弟のことで、いろいろとつらいことがあったようです。

家でゴロゴロと寝ている弟をみて登校していく長男でしたが、6月の運動会が終わったあたりか
ら、変わってきました。

タバコを、学校帰りに、友達と吸ったり、不良なんだとわざと見せるような行動をとるようになり
ました。

深夜徘徊をしたり、学校から排除されるようなことを先生に言われたりし、しのともあって、友達
も、みんな長男から、引いてしまったようです。孤立してしまいました。

2学期からはほとんど学校へは行かず、受験も拒否。

髪は茶髪、金髪、弟へのプロレスごっこと称しての暴力もはじまり、それを止めないといって弟
は、容赦ない暴力を私へ向けてきました。

去年の12月に主人と次男は隣町のマンションへ、出て行きました。

次男は中学も変わり、中1の3月までは不登校でしたが、中2になり4月からはまだ1日も休む
ことなく楽しく登校できているようです。

長男は卒業式にも出席することなく、一応単位制の通信高校に入学はしましたが、ほとんど登
校していません。

昼夜が逆転し、夕方ぐらいに起きてきて、夜中にわたしを起こし、飯を作れとか、耳元で、わざ
と、うるさい音楽を流したりと、嫌がらせがつづいています。

『お前がこんなにしたんだ、お前が出て行けば俺はよくなる! ○○(次男)もお前から離れた
からよくなっただろう』と、蹴ったり殴ったりします。

それでも手加減はしてくれているようで、いままで病院へ行ったのは右手小指の骨折だけで
す。
私も学校へ行けだとか、昼夜が逆転していることを、なおしなさいとか、言わないようにしていま
す。

次男へは毎日夕食を運んでいます。

自分を高めなければ精神がボロボロになってしまって、自殺願望が強くなるばかりです。
許して、許して忘れるの先生のお言葉を毎日、念仏のように口ずさみ、耐えています。
やがて時間が解決してくださると・・・

先生、それでいいのでしょうか、何も言わず、待つことがいちばんなんですよね。
もし、それでよけでば、それでよしとお答えくだされば、とても強い力になります。

孤独に閉鎖された中で戦う私に、後押ししてくださいませんでしょうか。
どうか、よろしくお願いします。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家庭
内暴力 親への暴力)


【追伸、Eより、はやし浩司へ】

長男のことについての相談のお返事、ありがとうございました。
ブログへの掲載はかまいません。

昨日も、長男が、弟は、おたくっぽくてかっこ悪いというので、そんなことないよ、かっこいいよと
いったことに腹を立て、殴ったり、ものをこわしたり、網戸を破ってそれにライターで火をつけよ
うとしました。

私はそれに驚き、集合住宅でもあるし、火を出したら大変だと、脅す大河をそれだけはいけな
いと叫びました。

私が嫌がる事はわざとやるので、ソファーも火をつけたり、(すぐ消える程度)していたので、私
がまず、家を出なければと急いで家を出ました。

そして一晩帰宅しませんでした。
長男へはメールで、「火をつけたり、暴力が続くとお互い傷つくし、自分も他人も取り返しのつ
かないことになったら大変だから、暴力が治まるまで帰りません。何がそんなに哀しいのか
な・・・みんな、大河を愛しているよ、それはいつまでも変わりません。」
と送りました。

警察の少年サポートセンターの方が暴力からは逃げてください、受けたそのときに家を出てく
ださい、毎日連絡は入れてください、と指導されました。

私も、どうしていいやら家を出て実家に帰ったものの、心配でなりません。
今は荷物を取りに帰宅しています。

次男へ食事も運べませんし、夫がコンビニの弁当を買ってきているようです。
2〜3日したら帰宅しようとは思いますが、どうなんでしょうか。

火をつけたり、そんなまねごとでも危険な事は、許すわけにはいきません。

私は内科でデパスとメイラックスという、不安を取り除くお薬を処方してもらい、寝る前に飲んで
います。

メイラックスと言う薬は次男も、G大病院思春期外来で処方され、飲んでいました。
長男に、飲ませてはどうでしょうか。

とても、病院に一緒に行ってくれる状態ではありません。
長男が苦しんでいるのはわかります。
だから、強がって仮面をかぶって外に出るのもわかります。
不良になりたがるのも、よくわかります。

私も、そんな格好を非難する言葉や、世間体が悪いだとか、罵るような事を言ってしまいまし
た。

反省しています。

それなのに、今からでも大丈夫でしょうか、母と子の関係を修復できるでしょうか。  

今回はご返答ありがとうございました。
私は「許して忘れて、諦める」を念頭に、がんばって母親をやっていきます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Eさんへ】

 家庭内暴力の背景には、つぎのような素因があると考えてください。ざっと、急いで書きあげ
たので、不備があるかもしれません。

(1)子ども自身の、うつ病。(心の病気)
(2)子ども自身の人間関係調整機能の喪失。(基本的信頼関係の構築の失敗)
(3)子ども自身の自己管理能力の欠落。(幼児性の持続。わがまま)
(4)子ども自身の二重人格性。(自分とは別の自分による暴力行為)
(5)子ども自身の欲求不満。(性的欲求不満も含まれる。)
(6)子ども自身の生育上の問題。(乳幼児期に「いい子」で通ってしまった。)
(7)下の弟との関係。(「兄」であることから受ける重圧感。欲求不満)

 が、何よりも大きな素因は、(8)自己嫌悪から発生する、自暴自棄的自虐性です。

 このタイプの子どもは、自分の中にある、(自己嫌悪感)を解消したくても、それができないジ
レンマに陥っていることが多いです。自己管理能力のしっかりしている子ども(人)は、それを、
うまく処理できるのですが、それができません。

 それで弱い母親に対して、「こんなオレにしたのは……!」という言葉が出てきます。つまり自
分で、自分を嫌っているわけです。(嫌う)というよりも、みなに嫌われているもどかしさ、本当の
自分を認めてもらえないつらさ、それを(暴力)にかえていると思ってください。

 だから本当に、母親であるあなたを嫌っているというわけではありません。形こそ、少しいび
つですが、暴力的な(甘え)と理解すれば、よいかもしれません。

 もちろんその(甘え)の中には、さまざまな要因がつまっています。

 ここにあげた(人間関係調整機能の喪失)も、そのひとつです。つまり人間関係がじょうずに
調整できない子どもは、依存的になったり、服従的になったり、同情的になったりしますが、他
者に対して攻撃的になったりします。

 お子さんは、最後の攻撃型タイプということになります。(攻撃型タイプも、他者に対して攻撃
的になるタイプと、自分に対して自虐的になるタイプがあります。)

 が、心理状態は、いつも、孤独で、心の中に空虚感を覚えていると理解してください。つまり
心の中は、さみしいのです。そのさみしさを、埋めるために、あなたに対して暴力を振るってい
るのです。

 ……と書くと、どうして?、と思われるかもしれませんね。

 実は、あなたはお子さんのことを思ったり、心配してはいますが、そのつど、同時に、お子さ
んを、突き放すような言動をしているからだと考えてください。これは無意識のうちに、そうして
いるのがふつうです。

 子どもの心というのは、そういう意味では、たいへん敏感です。あなたのささいな言動から、
それをさぐり当ててしまいます。

 そこであなたのお子さんは、ギリギリのところまでしながら、あなたの心を試そうとします。ギリ
ギリのところです。

 家庭内暴力を起こす子どもは、いつもその限界の内側で暴れます。あなたが言う(自制)とい
う言葉は、それを言います。「これ以上のことをしたら、おしまい」という、その一歩手前で、暴
力を止めます。

 これはお子さんの中に、もう一人の別のお子さんがいて、それを制御しているためと考えれ
ば、わかっていただけると思います。つまりそのつど、もう一人のお子さんが、「もう、やめてお
け」「そのへんで、ストップしろ」と命令をくだしているわけです。

 それで「指の骨折程度」ですんでいるわけです。

 つまりあなたのお子さんがしていることは、典型的な、「家庭内暴力」ということになります。で
すから、今は、つらいかもしれませんが、(お気持ちは察しますが)、問題としては、とくに変わ
った問題ではないということです。

 少なくとも、まったく同じような状況で、引きこもりを起こす子どもよりは、立ちなおるのがずっ
と楽ですし、立ちなおったあと、むしろ、かえって常識豊かな人間になります。

 私はそういう子どもの例を、何十例も見てきました。ですから、決して希望を捨てず、あきらめ
ず、短気を起こさず、前に向かって進んでください。必ず、一過性のもので終わります。そして
みな、なにごともなく、終わっていきます。

 『許して、忘れる』……これは何も、まちがっていません。今こそ、あなたの愛というよりも、深
い人間性が、子どもによって確かめられているのです。わかりますか? 

 親が子どもを育てるのではありません。親は、子育てで苦しみながら、子どもによって育てら
れるのです。

 そこでつぎのことに注意してみてください。

(1)突き放すようなことは言わない。 

 一方でお子さんのことを心配しながら、他方で、お子さんを突き放すようなことを言ったり、し
たりしていませんか? たとえば、「ごめん、ごめん」と口で言いながら、少し、お子さんの機嫌
がよくなると、「もう、あなたなんかイヤ」とか言う、など。

 これは究極の状態ということになりますが、「私はもう殺されてもいい。それでも、私はあなた
を見捨てませんからね」という状態になったとき、あなたのお子さんは、はじめて、あなたに安
心感を覚えるようになります。

 あなたにその覚悟はできていますか。が、あなたには、その覚悟は、まだできていない。「殺
されるのはいやだ」「世間体が悪い」「子育ては、もうこりごり」と。

 あなたのお子さんは、そのスキをついて、家の中で暴れます。満たされない愛への欲求不満
を、あなたにぶつけてきます。ですから、あなたはつぎの言葉だけを、子どもの前では、繰りか
えします。

 「ごめんなさい。お母さんが、悪かった」「どんなことがあっても、私はあなたを愛しつづけま
す」と。何があっても、最後の最後まで、その言葉を繰りかえします。これはまさに、壮絶な根く
らべです。

(2)子どもも苦しんでいる。

 あなたには想像できないかもしれませんが、あなたのお子さんも、そういうあなたを見なが
ら、苦しんでいます。あなたが苦しんでいる以上に、お子さんも苦しんでいるということです。(今
のあなたには、想像できないかもしれませんが……。)

 あなたは、お子さんにとって、最後の(心の拠り所)です。砦(とりで)です。その拠り所を、自
分で破壊しながら、お子さん自身は、自分でそれをよしとはしていないのです。愛する人(=あ
なた)をキズつけながら、それをしている、自分が苦しいのです。

 自己嫌悪から自暴自棄になるのは、そのためと考えてください。

 しかも自分に関することが、すべてうまくいかない。中学校の友人たちには嫌われる。高校へ
も進めなかった。何をしてよいのかわからない。何をしたいのかもわからない。家族もバラバラ
になってしまった。(現実の自分)と、(自分が頭の中に描く自分)が、一致せず、混乱している。

 それは思春期のお子さんにしてみれば、たいへんな苦しみということになります。

 今のお子さんの心理状態は、そういう状態であると考えてください。つまりあなたが、それをま
ず、理解します。その上で、「あなたも苦しんでいるのね」と、子どもを暖かく包んであげます。

(3)心の病気と考えてください。

 できれば、一度、心療内科を訪れてみてください。今ではすぐれた薬も開発されていて、お子
さんの(突発的なキレ)(異常なこだわり)(うつ症状)などにも、すぐれた効果があります。

 心の病気といっても、脳の機能的な障害ですから、おおげさに考えないこと。決してお子さん
が、このまま人格障害者になるとか、そういうことではありません。いわば、一過性の、はげし
い熱病のようなものです。

 しかも、確実になおる見込みのある熱病です。今までの私の経験からしても、今が山で、18
歳ごろまでには、ウソのように落ち着いてきます。先にも書きましたが、引きこもりを起こすタイ
プよりは、ずっと回復も早く、予後(その後の経過)もいいです。

(家庭内暴力を起こすタイプを、「プラス型」というなら、引きこもりを起こすタイプは、「マイナス
型」ということになります。まったく正反対の症状ですが、原因も、対処の仕方も、同じです。)

 ですから、薬で落ち着かせる部分については、薬に頼ります。あなた自身が、カプセルの中
に入ってしまわないで、他人に任すところは、任せます。

 私はドクターではありませんが、心療内科のドクターも、「うつ病」に準じて、治療を開始する
はずです。

 ただこのときも、注意しなければならないことは、たとえ心療内科へ連れていくとしても、(突き
放すような言動)は、タブーだということです。施設へ入れるとか、入院させるとか、そういう話
は子どもの前では、ぜったいに、してはいけません。

 少し前、子どもの立場で、自分の心の状態を語ってくれた青年がいました。(私のBLOGなど
に書いておきましたが、ご覧になってくださいましたか? マガジンでも取りあげたことがありま
す。)

 このBLOGの中で、「じじさん」というのは、その青年を批判した男性のことをいいます。内容
はわからいませんが、多分、その男性は、その青年を、「引きこもりは、怠け病だ」とでも言っ
たのではないかと思います。それでその青年が、反発しました。

+++++++++++++++++

【宮沢KさんのBLOGより転載、転載許可済み】

● 引きこもりは、病気だ!

お気楽にやっていきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
癌の治療に手を出したようなものでしょう。
引きこもりの一部は精神科の病気、
それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい。タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
そのように病気病気言うから病気に甘えて
薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないでは? 」

じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って、言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど、
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか、
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

●引きこもり者更生支援施設依存症の親

IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って、
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ!

この施設がどういう人たちがやってて、
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では、
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方で、おおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた。

どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

+++++++++++++++++++++

★今日は最後に怠け者へ一言★

じじさんの言ってた、
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ。


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれば、IM
スクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。

++++++++++++++++++++

【再び、Eさんへ……】 

 ここで宮沢Kさんが、書いていることは、何かの参考になると思います。宮沢KさんのBLOG
は、今のあなたのお子さんの立場で、自分の過去の経験を語っています。あとでそのBLOG
のアドレスを添付しておきますので、一度、あなたも、のぞいてみられたらよいかと思います。

 ともかくも、『許して、忘れる』ですよ。

 あなたがこれを乗り切ったとき、あなたはすばらしいものを手にするはずです。つまり(真の
愛)がどういうものであるかを、知るはずです。今は、その試練のとき。あなたのお子さんは、
あなたにそれを教えるために、今、そこにいます。

 決して短気を起こさず、決してあきらめず!

 そうそうあなたの自殺願望ですが、これは育児にかぎらず、介護に疲れた人も、みな覚える
ものです。あなた自身も、一度、心療内科で、精神安定剤を処方してもらうとよいかもしれませ
ん。

 私も、姉に教えられて以来、女性用の精神安定剤をのんでいますが、よくききます。

 なお、あなたからのメールを、こちらで一度手なおしして、私のマガジンに掲載したいのです
が、その許可をいただけませんか。あなたであることは、ぜったいわからないように、書き改め
ます。

 よろしくお願いします。

【宮沢Kの風・BLOG】

 ここに書いた宮沢KさんのBLOGです。子どもの立場がよくわかり、Eさんの参考になると思
います。

http://kenjinokaze.livedoor.biz/archives/50669992.html

 どうか、めげないで、がんばってください。必ず解決する問題ですから。約束します。

(つづきは、Eマガのほうで。7月26日号、掲載予定)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの家庭内暴力で苦しんでいるEさんへ、

 基本的には、心の病気と考えますが、この(病気)にいたるまでに、さまざまな原因や理由
が、そこにからんでいると考えてください。

 糸が複雑にからむようにからんでいるため、それを解きほぐすのは、容易なことではありませ
ん。それこそ、乳幼児期からの糸がからんでいることもあります。

 ついでながら、乳幼児期から、(いい子)で通ってきた子どもほど、思春期を迎えるころから、
この家庭内暴力も含めて、さまざまな問題行動を起こすことがわかっています。

(そういう点でも、子どものころから、(何を考えているかわからない子ども)ほど、心配な子ども
ということになりますね。)

 で、その家庭内暴力を起こす子どもの行動には、一定のパターンがあります。

(1)限界状況の把握

 家庭内暴力を繰りかえす子どもの最大の特徴は、自ら、無意識のうちにも、限界状況を設定
するということです。つまり子どもは、「これ以上のことをしたら、おしまい」という、その限界ギリ
ギリのことまではします。が、しかしそれ以上のことはしません。

 (自分に対する怒り)を、(家族)にぶつけているだけだからです。つまり本当に相手(あなたと
いう親や兄弟)を憎んでいるから、暴力行為を繰りかえしているのでないということです。(自分
でも、自分をどうしたらいいかわからない)という思いを、(怒り)に変えているだけなのです。

 そういう点では、わがままな子、あるいは、俗な言い方をすれば、「甘ったれた子」ということ
になります。それだけ、人格の核形成(コア・アイデンティティ)の遅れた子どもということになり
ます。

(2)自虐的な愛の確認

 家庭内暴力を起こす子どもは、完ぺきな愛を、家族、なかんずく母親に求めようとします。完
ぺきな愛です。「どんなことをしても、自分は許されるのだ」「愛で包んでもらえるのだ」という
愛、です。

 その点、マザーコンタイプの子どもの心理に似ています。で、その完ぺきな愛を確認するた
めに、暴力行為を繰りかえします。

 が、暴力行為を加えられるほうは、たまったものではありません。当然のことながら、(子ども
を愛したい)という気持ちと、(子どもから離れたい)という気持ちの間で、はげしく葛藤します。

 その葛藤の間げきをついて、子どもは暴れます。たとえば親が、「病院へ一度、行ってみよう
か?」「そんなに私(=母親)が嫌いなら、私は、この家から出て行こうか?」「ひとりでアパート
に住んでみる?」などという言葉を口にすると、突然暴れ出す子どもが多いのは、そのためで
す。

 子どもは、その一言に、大きな不安を覚えることになります。

(3)二面性

 家庭内暴力を起こす子どもについて、多くの親たちが、「どうして?」と悩んでしまうのが、二
面性の問題です。

 はげしく暴れながらも、それが収まったようなときには、別人のようにやさしくなったり、親をい
たわったりします。

 実はそうした二面性は、暴力行為を繰りかえしている最中でも、それがあります。ある男性
は、こう言いました。彼は高校時代から青年期にかけて、その家庭内暴力を繰りかえしまし
た。

 「親を殴りつけている間も、もう1人の、別のぼくが自分の中にいて、『やめろ』『止めろ』と叫
んでいた」と。

 そこで私が、「では、どうしてそのとき、暴力をやめなかったのだ?」と聞くと、その男性は、こ
う言いました。

 「やめようと思っても、もう1人の自分が、どんどんと勝手に怒ってしまった」「途中でやめる
と、かえって、自分がへんな人間に見られるようで、できなかった」「自分でも、どうしようもなか
った」と。

 で、その男性のばあい、家庭内暴力をやめるきっかけになった事件があったそうです。

 ある夜のこと。その男性は、いつものように自分の母親を殴ったり、蹴ったりしました。で、そ
のあとのこと。その男性が、いつものように家を出ようとしたところ、(本当は出るつもりではな
く、庭先にあるガレージの二階に行こうとしたのですが)、母親がその男性を追いかけてきて、
「出て行かないで」「どこへも行かないで」と、泣きながら懇願したそうです。

 それを見て、その男性は、自分にそんなことまでされて、なおかつ、「出て行かないで」と泣き
叫んだ母親に、自分が求めていたものが、それだったと気がついたというのです。以後、その
男性は、それまでの男性とは別人のように、穏やかになっていったそうです(母親談)。

(4)緊張状態

 子どもが暴れるメカニズムは、つぎのようです。

 基本的に、子どもの心は、極度の緊張状態にあると考えます。この緊張状態が、日常的に
悶々とつづいています。

 この緊張状態の中に、不安(将来への不安、現実への不安、孤独への不安など)、心配(将
来への心配)などが入りきんでくると、それを解消しようと、心の緊張状態が、一気に倍加しま
す。

 それが突発的な暴力行為へと発展します。

 ですから、このタイプの子どもについては、(1)緊張状態の緩和を心がける、(2)不安や心
配ごとを持ちこまないということになりますが、ふと言った言葉が、キーワードになり、それが子
どもを激怒させるということも、少なくありません。

 これはある年長児の女の子の例ですが、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と声をかけた
だけで、激変し、あるときは、母親に向かって、包丁まで投げつけたといいます。

 そこで対処のし方ということになります。

 今ではすぐれた薬もあり、またこうした心の病気に対する理解も深まってきましたから、決し
て、ひとりでは、悩まないこと。本人は、なかなか行きたがらないかもしれませんが、よく説得し
て、一度、心療内科の医院を訪問してみることが、第一です。

 つぎに子どもが暴れだしたら、説教したり、自分の意見を述べたりするのは、タブーと心得ま
す。かえって火に油を注ぐようなことになりかねません。ですから、「ごめんなさい」とだけ言い、
それを、どんなことがあっても、繰りかえします。子どもが意見を求めてきたようなときでも、「ご
めんなさい」とだけ言って、それですまします。

 「子どもが暴力行為を始めたら、家から出て、逃げろ」と教える指導員もいるようですが、私
は、反対です。

 そのときはそれですむかもしれませんが、つぎのとき、それが理由で、また暴力が始まること
が多いからです。「この前の夜は、ぼくを捨てて、家を出て行ったではないかア!」「どうして、オ
レを捨てたア!」とです。

 それまでに苦労してつくりあげた、親子の信頼関係を、破壊することにも、なりかねません。
親のほうには、そのつもりはなくても、子どものほうが、そう感じてしまいます。
 
 Eさんの息子さんが、ソファにライターで火をつける行為も、「火をつけて家を燃やしたい」から
ではなく、「オレをひとりにしておくと、オレはたいへんなことをするぞ」「だからオレをひとりにす
るな」ということを、あなたに伝えたいからです。またそう解釈すると、あなたのお子さんの心理
が、より理解できるのではないでしょうか。

 この問題の根底には、根深い、相互の不信関係(基本的不信関係)がからんでいます。そし
てそれは、どこかにも書きましたが、子どもが、乳幼児期に始まります。

 本来なら、子どもは、親に向かって、言いたいことを言い、したいことをしながら、そのつど自
分を発散しながら成長するのが、好ましいのですが、それができなかった。それが回りまわっ
て、子どもの心を、ゆがめてしまった。それが今、はげしい暴力行為となって、家庭の中で起き
ている。現状を解説すれば、そういうことになります。

 で、家庭内暴力を経験した子ども(おとな)は、みな、こう言います。

 「あんなことをしたのに、親は、自分を見捨てなかった」「それが自分を立ちなおらせるきっか
けになった」と。

 反対に、そうでないケースも、少なくありません。親のほうが、根をあげてしまい、子どもを施
設へ送ったりするようなケースです。それぞれの親には、それぞれの、やむにやまれない事情
もあるのでしょう。が、それをするのは、最後の最後。またそれをしたからといって、この問題
は、解決しません。

 さらに二番底、三番底へと、子どもは、落ちていきます。

 しかし心の病気と考えれば、気も楽になるはずです。しかも、この病気だけは、必ず、なおり
ます。そういう病気です。ですから、どうか、短気だけは起こさないでください。ただ家庭内暴力
にかぎらず、どんな(心の病気)もそうですが、1年単位の時間はかかります。それは覚悟して
おいてください。

 許して、忘れる。あとは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、対処する」で
す。静かな無視、暖かい無視を大切に。ほどよい親でいることに心がけます。

 もちろん、「こんなことでは、落ちこぼれになってしまう」とか、「がんばれ」などと、子どもを、脅
したり、励ましたりするのは、タブーです。かえって子どもの心を窮地に追いこんでしまうことに
もなりかねません。

 つまり、その度量の深さによって、あなたのお子さんへの愛情の深さが決まります。子どもを
投げ出したとき、あなたは、親として、はげしい敗北感を味わいます。ですから、決して、投げ
出さないこと。

 谷が深ければ深いほど、そのあと、あなたと息子さんは、すばらしい親子関係を築くことがで
きます。それを信じて、前に進んでください。

 いくつか、役にたちそうな原稿を、ここに添付します。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【アルバムの効用】

 子育てをしていて、苦しいことや悲しいことがあったら、アルバムをのぞくとよいですよ。ある
いは、アルバムを、家の中心に置いてみてください。

 アルバムには、私たちが想像する以上の力があります。理由は簡単です。そこには、楽しか
ったとき、うれしかったときが、凝縮されているからです。

 ぜひ、Eさんも、一度、ためしてみてください。それだけで、心が軽くなるはずです。お子さんへ
の、愛情も、それで取りもどせるはずです。ひょっとしたら、お子さん自身も、です。

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原稿を一作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

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●子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!)

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。

ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃ
んだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なの
だ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男
児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まず
いない。

哺乳ビンを見せながら、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい
「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、
子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、
「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長
児にならないとわからない。

が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理
解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思
議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。

つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、
写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。
が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や
母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子ども
にとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じ
たショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これ
がぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。

それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。

ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そしてそのあと、
つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は
気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよ
い。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アル
バム アルバムの効用 アルバムのすばらしさ 心を癒すアルバム)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親の口グセが子どもを伸ばすとき

●相変わらずワルだったが……  

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そういう性質を
利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 昔、私が勤めていた幼稚園にどうしようもないワルの子ども(年中男児)がいた。友だちを泣
かす、けがをさせるは、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カバンを投げつ
けたりしていた。どの先生も手を焼いていた。

が、ある日、ふと見ると、その子どもが友だちにクレヨンを貸しているのが目にとまった。私は
すかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい子だね」と。数日後もまた目が合ったので、私
はまたほめた。「君は、やさしい子だね」と。それからもその子どもはワルはワルのままだった
が、しかしどういうわけか、私の姿を見ると、パッとそのワルをやめた。そしてニコニコと笑いな
がら、「センセー」と手を振ったりした。

●子どもの心はカガミ

 しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなたはよい
子だ」という「思い」が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸び始める。

 正直に告白する。私が幼稚園で教え始めたころ、年に何人かの子どもは、私をこわがって幼
稚園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「いやな子ども」と
思った子どもだった。つまりそういう思いが、いつの間にか子どもに伝わってしまっていた。人
間関係というのは、そういうものだ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。つま
りあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あなたをよい人だと思うようになる。いやな
人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思うようになる。

一週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、二か月となる
と、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。思いというのは、長い時間をかけて、必ず相手
に伝わってしまう。では、どうするか。

 相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私のばあいは、「どうせこれから一年もつ
きあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職場を楽しくする
ためにも、必要だった。もっともそれが自然な形でできるようになったのは、三〇歳も過ぎてか
らだったが、それからは子どもたちの表情が、年々、みちがえるほど明るくなっていったのを覚
えている。そこで家庭では、こんなことを注意したらよい。

●前向きな暗示が心を変える

 まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」を口グセ
にする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、だめな子」と思
っているなら、なおさらそうする。

最初はウソでもよい。そうしてまず自分の心を作りかえる。人間関係というのは、不思議なもの
だ。日ごろの口グセどおりの関係になる。互いの心がそういう方向に向いていくからだ。が、そ
れだけではない。相手は相手で、あなたの期待に答えようとする。相手が子どものときはなお
さらで、そういう思いが、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 その家には四人の男ばかりの兄弟がいたのだが、下の子が上の子の「おさがり」のズボンや
服をもらうたびに、下の子がそれを喜んで、「見て、見て!」と、私たちに見せにくるのだ。ふつ
う下の子は上の子のおさがりをいやがるものだとばかり思っていた私には、意外だった。そこ
で調べてみると、その秘訣は母親の言葉にあることがわかった。

母親は下の子に兄のおさがりを着せるたびに、こう言っていた。「ほら、あんたもお兄ちゃんの
ものがはけるようになったわね。すごいわね!」と。母親はそれを心底、喜んでみせていた。そ
こでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、あるいは何かよいニュースが
あるたびに、「見て、見て!」「聞いて、聞いて!」と、あなたに報告にくるだろうか。もしそうな
ら、それでよし。そうでないなら、親子のあり方を少し反省してみたほうがよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 前向
きな働きかけ 強化の原理 子どもを伸ばす 伸びやかな子供 親の口癖 口ぐせ))


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日
も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期
末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと
思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には
穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室
に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動
かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。

親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわか
る。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」
と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったと
き)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転して
いるのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)というこ
と。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷
静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあ
なたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しな
いためでもある。

受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
の再現 過去の再現 過去を再現する親たち)





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●評論家のウソ

+++++++++++++++++

教育評論家は、ウソが、好き。
そんなエッセーを、またまた、
読んだ。

私も、その評論家のハシクレだが、
そのウソには、いつも注意している。

もちろん、事実を、伏せて書くことは
ある。

しかし、それとウソとは、ちがう。

+++++++++++++++++

 教育評論家は、ウソが好き。自分の説を、美談で飾る。ウソで飾る。そういう例は、多い。最
近も、新聞で、こんなエッセーを読んだ(C新聞、6月)。

 夫は、日本人。妻は、デンマーク人。3人の、子持ち。

その中の長男(小3)のこと。みながデンマークに住んでいるときには、よく家事を手伝った。食
後も皿洗いも、日課としてしていた。

 が、日本へやってくると、その皿洗いをしなくなった。デンマーク人の母親が、理由を聞くと、
長男は、こう答えたという。

 「皿洗いをしていると言うと、友だちにバカにされた」「日本では、男は皿洗いをしないと言わ
れた」「だから、もう皿洗いはしない」と。

 エッセーを要約すると、そういう話になる。しかしこの話は、どうも、できすぎ。それに不自然。
要するに、「日本人は、皿洗いをしない」「男尊女卑的な思考プロセスがまだ残っている」「それ
が子どもの世界にまで、影響を与えている」ということを、その評論家は、言いたかったらしい。

 しかし、これはいつの時代の話のことか?

 いろいろな調査結果を見ても、50代、60代以上の男性は、たしかに家事をしない。しかし2
0代、30代の若い夫をみると、このところ、家事を手伝う人がふえている。私がした調査でも、
35%前後の若い夫のばあい、炊事、洗濯、育児などの家事を積極的に手伝っていることがわ
かっている。

 (同じく、35%の夫は、何もしないが……。残りの30%は、ほどほどに家事をしたり、しなか
ったりという状態らしい。)

 しかしこれとて、もう5、6年前の調査である。最近は、家事を手伝う夫は、もっとふえている
はず。

 「日本では、男は皿洗いをしない」と子どもが、その長男に言ったというが、疑問の第一。最
近の子どもが、そんなことを言うだろうか?

 つぎに、子どもの世界でも、家事が、よく話題になることはある。しかし家の手伝いをよくして
いる子どもほど、みなに、尊敬される。「お前、すごいなあ」という言葉は出てくるかもしれない。
が、「バカにされた」とは? これが疑問の第二。

 さらに家庭における習慣というのは、自分が他人の家庭をのぞいたり、あるいは反対に、他
人が自分の家庭に入り込んできてはじめて、比較できるもの。子どもどうしの会話くらいで、影
響を受けるものではない。

 そんなことは、家庭教育の、イロハ。

 反対のことを考えてみれば、そんなことはすぐわかる。

 もしあなたの子どもが、家事の手伝いをしないことで、(しないことで、だぞ!)、友だちにバカ
にされたとする。すると、あなたの子どもは、その日から、家事の手伝いをするようになるだろ
うか。しかし、そんなことはありえない。

 昔、日本へやってきた、オーストラリアの留学生などは、その家のホストが、「皿洗いはしなく
ていい」と言ったそうだが、しかしそのあと1年以上も、その皿洗いをつづけた。身についた習
慣というのは、そういうものである。

 ……などなど、まだいろいろ書きたいが、「できすぎている」という点で、この話は、ウソと断定
していよい。

 ただ教育的なエッセーでは、事実を隠して書くということはある。とくに批判的な原稿を書くと
きはそうで、それは当然のことである。地名や、家族構成を変えたりする。父親の職業を、変え
ることもある。2つの話を、1つにすることもある。

 しかしそれと、ウソとはちがう。

 以前、書いた原稿を、ここに添付する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 評論
家のウソ 嘘 嘘をつく評論家 評論家の美談)


++++++++++++++++++

●教育者が口にする美しい話は疑え!

教育者が美談を口にするとき

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話
がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやって
きて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。

理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そ
のタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(2000年夏、H市で
の教育講演)。

しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、
「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充は
どうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレ
ントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

 15年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持
って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテ
レビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。

そしてその結果だが、何とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その約一年後、その学用品がどう使われているか、二人の教師が現地まで見に行った。
が、大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学
校の倉庫に眠っていたという。

理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆
を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう
話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか
しい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取り
あげられ、その後、映画にもなった。

しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食
べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを
捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから五〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君に
こう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。

そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならない
と思い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、
ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。

その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人な
らすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学二年生には、ない。仮にあったとして
も、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も…
…。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先
生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。

原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出て
いた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、
そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立
つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。

その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、そ
の教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した
らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい
話で自分の説話を飾りたがる。

※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がも
てはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北
京第三三中学校教師談)。

それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、
その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。

あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語
は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタ
レントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
者の美談 虚言 美談に注意 教育評論家の美談)





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●スケベ力

+++++++++++++++

スケベ力には、ものすごいものがある。

それも、そのはず。

スケベ力は、あらゆる生きる力の、
原動力になっている。

そのため、そのスケベ力を抑えることは、
不可能と言ってもよい。

もし人間から、(動物でもよいが)、
そのスケベ力を奪ってしまったら、
人間は、その時点で、絶滅することになる。

スケベ力が悪いと決めてかかっては
いけない。

大切なことは、そのスケベ力を、
どう、コントロールするか、だ。

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●ビデオショップ

 おととい、近くのビデオショップへ、DVDを借りに行った。いつも行く店である。

 が、ふと見ると、カウンターの横に、カーテンがおろしている部屋があるのに気づいた。「?」
と思い、何の気なしに中をのぞくと、そこはスケベDVDの山!

 驚いた。私は、その店に通うようになって、もう3年近くになる。が、そんな部屋があることさ
え、気づかなかった。(これは、本当だぞ!)

 で、中に入ってみると、その部屋が、ふつうのDVDを並べてある部屋と同じくらいか、それ以
上に広いことを知った。これにも驚いた。

 たまたまDVDを棚へ戻しにやってきた店員に、「今一番の、人気ものはどれ?」と声をかける
と、店員は、すかさず、「ナンパもの」と言って、そのコーナーを指さしてくれた。

 見ると、「ナンパ」という文字のつくDVDが、そこには、ズラリ!、とあった。

 私は、その中から、「素人・ナンパ・中出し(X)」というタイトルのDVDを手に取った。

 素人の女をナンパし、コンドームなしで、体内で射精までするというDVDである。

●フロイトとユング

 フロイトは、人間がもつ、(人間にかぎらないが……)、あらゆる生きる力の根源に、(性的エ
ネルギー)があると説いた。性的エネルギーこそが、人間の生きる原動力というわけである。

 一方、ユングは、(生的エネルギー)があると説いた。

 「性」と「生」のちがいだが、どちらが正しいということを議論しても、あまり意味はない。

 健康なときは、(性的エネルギー)が、人間を支配する。しかし病気になれば、今度は、(生的
エネルギー)が、人間を支配する。たとえば、死ぬか生きるかというような大病の状態になれ
ば、だれしも、「生きたい」と願うようになる。と、同時に、そういうときというのは、性(セックス)
への興味は、ほとんどゼロになる。

 どちらが原点にあるかと言えば、ユングが言ったように、(生的エネルギー)のほうが、原点に
あるということになる。フロイトが言った、(性的エネルギー)は、その(生的エネルギー)の上に
ある。

 もっとわかりやすく言えば、生きているからこそ、セックスをしたくなる。

●ナンパ 

 私とて「男」だから、ふつう程度のスケベ心はある。(こんな弁解をするのも、おかしなことだが
……。)

 だからそういうDVDに興味がないわけではない。若いころは、その類(たぐい)のビデオ、さら
に若いころは、そういうスケベ本を、よく見た。しかし今は、DVD。

 そのDVDを、別の場所でビデオを選んでいたワイフに渡すと、ワイフは、けげんそうな顔をし
た。で、しばらくそれを見つめたあと、こう言った。「こんなの、借りるのオ?」と。

私「オー、久しぶりにナ」
ワ「私は、見ないわよ」
私「自分のパソコンで見るから、いい」と。

 私は、ほかに、戦争もののDVDを、2本、借りた。

●ナンパ

 若い男が、街角で、若い女に声をかける。恐怖心をもたせないように、あれこれ、気をつか
う。それが私にも、よくわかった。

男「ひとり?」
女「うん……」
男「今日は、暑いね」
女「うん……」
男「学校は休み?」
女「午後から、サボちゃったア」と。

 こうして男と女は出会い、たがいの会話をからませる。

男「お願いがあるんだけど、いいかな?」
女「何?」
男「お小遣いも、少しだけど、出すよ」
女「……」
男「プライベートな話を、聞くだけ……」と。

●若い女

 そのDVDには、5人の女たちが、順に登場する。年齢は、一応、18歳以上の女ばかりという
ことになっているが、それは「?」。

 1人の女は、「高校生よ」と言った。18歳の高校生もいないわけではないので、それはそれで
よいのかもしれない。しかしどう見ても、高校1年生か2年生(?)。

男「どこから来たの?」
女「○○」
男「じゃあ、新幹線で来たの?」
女「うん……」と。

 その若い女は、新幹線を使って、東京まで、やってきたらしい。わざわざナンパされるために
(?)。

 そしてお決まりの会話。

男「親は、(ここへ来ていることを)、知っているの?」
女「知っているわけないわよ」と。

●パターン

 5人の女たちが、ほとんど同じパターンで、やがて最終的には、男たちと、体をからませてい
く。それをまとめると、こうなる。

(第1ステージ・警戒と説得)

 先に書いた会話が、それにあたる。男は、女を警戒させないように、細心の注意を払う。ひと
つひとつ、女の気持ちを確かめながら、つぎの会話へと、話を進めていく。

(第2ステージ・じゃれあい)

 男が女のもちものや、服、下着について、あれこれ話しかける。それに答えて女は、ケタケタ
と笑いながら、「これはア……」「うん、そう」とか答える。

 こうして少しずつ、男は、その場の気分をもりあげていく。

 この段階では、まだ女のほうに、理性というか、自己管理能力が残っている。男に向かって、
「顔を出さないで」「乱暴にしないで」「写すのはいいけど、下着だけよ」とか、言う。

(第3ステージ・崩壊)

 が、ある一線を超えると、女のほうが、突然、大胆になる。男の方が、「すてきな乳首だね」と
か、何とか言って、乳首を口にふくむ。あるいは、下着の中に手を入れる。

 とたん、女の顔からは、笑みが消える。苦痛に満ちた顔つきになる。そのとき、……つまりそ
の瞬間、女は、「女」になる。

 理性と、自己管理能力が、その瞬間、崩壊する。羞恥心も消える。それはまさに「瞬間」。「ウ
フ〜ン、アア……」と目を閉じたとたん、そうなる。

 女が、男のペニスを口に含み、あとは、男たちのなすがままに、身を任せる。

 そのDVDには、先にも書いたように、5人の女たちが別々に登場する。が、どの女も、まった
く同じパターンで、男たちと遊び始めるのには、驚いた。

男「顔を(DVDに)出してもいい?」
女「いい……」
男「中で、出しても(射精しても)いい?」
女「うん、出して……」
男「何をしたい?」
女「お尻の穴をなめさせてエ!」と。

●人間の向こうの人間

 男たちもそうなのだろうが、女たちは、みな、自分で考えて、自分の意思で行動していると思
っているにちがいない。しかしこうして5人の女たちの行動パターンを並べてみると、どれも同じ
であることがわかる。

 まったく同じ。

 つまりその同じであるという部分が、(人間)ということになる。

 ちょうど、顔には目が2つあり、手には、指が5本あるように、人間の心の内部には、みな、同
じ(性的エネルギー)がある。

 男にしても、そうである。

 男は、女の体に興味をもつ。乳首を見れば、その乳首に唇をこすりつける。あるいは女の陰
核を、口で吸う。

 つまり男にしても、自分を超えたところにある、(人間)によって、動かされている。動かされて
いると気づかないまま、動かされている。

 それに応じて、女も、動かされていると気づかないまま、動かされている。

●性病は? 妊娠は?

 一度、理性と自己管理能力が崩壊すると、女は、まさに動物的な「メス」へと変身する。あれ
ほど、「顔を(DVDに)出さないで」と言っていた女でも、途中で、「顔を出しても、いい」と言い出
す。

 ブラジャーの端を見られただけで、「イヤ!」と言っていた女が、その10数分あとには、足を
大きく広げて、男たちのなすがままに、身を任せる。

 驚いたのは、「中出し」、つまり、膣の中での射精。DVDのタイトルにもなっている。3〜4人
の男たちは、かわるがわる、女の体をもてあそぶ。つぎつぎと、女の体の中で、射精する。コン
ドームは、もちろん、なし!

 私はそれを見ながら、「病気になったらどうするんだろう?」「妊娠したら、どうするんだろ
う?」と考えた。「今では、HIV(エイズ)の心配だってあるのに……」とも。

 しかし女の表情を見るかぎり、そんな心配など、どこ吹く風。陶酔感に浸りきっているといった
感じ。なまめかしい、うめき声。ア〜ンア〜ンと、泣き声に近い声。それを、絶え間なく、あげつ
づける! が、それだけではない。

男たちの射精が終わったあと、1人の女は、自分の膣に指を入れ、その指についた男の精液
を、おいしそうに、なめた!

●同一性の崩壊

 (自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、強い。(おとなも、そうだが…
…。)

 しかしその両者が不一致を起こすと、そこで同一性は、危機的な状態に立たされる。さらにそ
の状態が、長くつづくと、自我は、やがて崩壊し始める。精神的にもたいへんもろくなる。同時
に、情緒も、不安定になる。

 自分でも何をしたのか、それがわからなくなる。何をすべきかのかも、わからなくなる。

 こうなると、子どもの心には、大きな隙間(すきま)ができる。わかりやすく言えば、(スキ)がで
きる。そのスキをねらって、誘惑が入りこむ。

 その女たちを見ながら、(女の子たちと言ったほうが正しいかもしれないが)、私は、こう思っ
た。

 「スキだらけ」と。「夢も希望もない。夢も希望もないから、目標もない。だから遊ぶ」と。

 先にも書いたように、一人の高校生は、新幹線を使って、東京まで、やってきた。わざわざナ
ンパされるために、だ。今は、そういう時代なのか? 決して、(ヤラセ)でないことは、DVDを
見ればわかる。演技で、できることと、できないことがある。ウソで言えることと、言えないことが
ある。

 私にも、それくらいの区別はできる。

●所詮、無

 しかし、射精にせよ、オルガスムスにせよ、その前に儀式としてするセックスにせよ、すべて、
所詮、「無」である。

 わかりやすく言えば、私たちが毎日する、小便や大便と同じ。どこもちがわない。「便」と同じ
にすることに抵抗がある人は、「食欲と同じ」と考えたらよい。

 小便のばあいでも、がまんしている間は、苦しい。しかし一度出してしまえば、その前までの
苦痛は、ウソのように消える。消えてなくなる。

 同じように、性欲も、一度、排泄(?)してしまえば、あとには、何も残らない。ばあいによって
は、男は女の体を、女は男の体を、見るのも、いやになる。

 つまり、最初から、「無」。「便」や「食欲」と同じように、「無」。

 それに気づいてしまえば、あとは、はやい。

●心を求めて……

 男にも更年期があるという。年齢的には、50〜55歳前後だという。そのせいかもしれない。
このところ、若い女の体を見ても、どこか(肉のかたまり)といった感じがしてならない。

 が、今は、その年齢をすぎて、やや「男」を取り戻しつつある……というのが、現在の私の状
態である。

 だから、そういうDVDを見ながら、それなりに、男として、私の体が反応したのは事実であ
る。

 しかしやはり、「無」は「無」。トイレで小便をするのとまったく同じように、それ以上の反応は、
私にはなかった。

 で、スケベとは何か……ということになれば、そこには、(心の問題)がからんでくる。また(心
の問題)がからまないスケベには、意味がない。つまり意味のないスケベをするほど、私は、暇
ではない。

 もちろん若い女と体をからませてみたいという欲求も、ないわけではない。しかしそこに至る
プロセスというか、道のりには、ものすごい距離感を覚える。エネルギーも、つづかない。その
距離感を覚えただけで、自ら、遠ざかってしまう。あきらめてしまう。

●結論

 はからずも、私は、若い男と女の生態を、そのDVDで知ることができた。頭の中では、「そう
いうものだろう」とは思っていたが、そこに映し出された男と女は、まさに、生(なま)の男と女で
ある。

 わかりやすく言えば、どこかのジャングルで、動物たちの生態を見せつけられたような感じ…
…。

 私も若いころは、それなりにスケベだった。セックスも好きだった。しかしそれはいつも、男の
側から見たスケベだった。

 しかし今は、女の側から見たスケベも、理解できるようになった。あるときなどは、「女も、人
間だったのだ」と、へんに感心したこともある。もっと言えば、男も、女も、同じ。どこもちがわな
い。

 ただ男は、ストレートに、セックスへ入るのに対して、女には、それなりのお膳立てが必要、と
いうこと。このわずかなちがいが、男と女の(ちがい)を際だたせる(?)。無数のドラマも、そこ
から生まれる。

 が、ちがいがないわけではない。そうしたDVDにしても、男たちは見るだろうが、女たちは見
ない。つまりそこに(男)と(女)の、ちがいが、凝縮されている。(それとも、女も、そういうDVD
を見るのだろうか?)

 ……一度でたくさん。二度と見たくない。そんなDVDだったが、私には、よい勉強(?)になっ
た。いろいろ考えさせられた。若い男や女を見る目が、少し変わったような感じがする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性 
男の性 女の性 性的エネルギー)

(付記)

 あらためて私は、「性」のもつ力の、ものすごさを知った。

 男が「中出し」をすれば、女は、妊娠する。その可能性は高い。いくら排卵日を避けたとして
も、いつもうまくいくとはかぎらない。

 しかしある一線を越えると、女は、まさに「メス」になる。その「メス」になったとき、女からは、
知性や理性、それに判断力が消える。

 こう断言することは、危険なことかもしれない。「私は、ちがう!」と、怒る女性もいるかもしれ
ない。もしそうなら許してほしいが、しかし、だからといって、「メス」になることを、私は、まちが
っていると言っているのではない。

 人間というのは、人間である前に、動物である。だから人間が、本能の世界で、動物になった
ところで、何もおかしくない。

 ただ、ふつうなら、(つまり、ほどほどの知性や理性が残っているなら)、知りあって1時間もた
たないような男と、セックスなどしない。膣の中での射精まで、許しはしない! 繰りかえすが、
それで妊娠したら、その女はどうするのか!

 こうした女たちは、特別の女と見るべきなのだろうが、しかしそういう雰囲気もなかった。見る
からに、「素人」という感じだった。

 ……そんなわけで、ますます私は、こう思うようになった。「性のもつ力、つまりスケベ力に
は、ものすごいものがある!」と。






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●老齢期の知的能力

+++++++++++++++

先日、A幼稚園のH理事長に
会ったとき、理事長が、一枚のグラフ
を私に見せてくれた。

「ほかの幼稚園では見せないように」
とのことだった。

そのグラフを見せながら、理事長は、
「判断力は、年齢とともに、衰える
ことはない。

むしろ、判断力は、老人になれば
なるほど、ますものだ」と、教えて
くれた。

+++++++++++++++

 心理学の世界にも、「流動性知能」という言葉と、「結晶性知能」という言葉がある。

 流動性知能というのは、臨機応変にその場の状況に応じて、学習しながら、身につける知能
をいう。たとえば外国へ行って、その国の言葉を覚えるのが、それにあたる。

 結晶性知能というのは、自分のした経験や体験を、結晶化させた知能をいう。わかりやすく
言えば、時の流れとともに、熟成される能力ということになる。判断力もそれに含まれる。

 流動性知能は、児童期から青年期にかけてピークを迎えるが、結晶性知能は、老年にいた
るまで、一貫して、上昇しつづける(ホーン、ほか)。

 つまりH理事長が言ったように、判断力は、年をとればとるほど、ましていくということになる。

 ただし、それには条件がある。当然のことながら、結晶性知能を維持するためには、それな
りの努力をしなければならない。それは何も、結晶性知能にかぎったことではない。流動性知
能にしても、それなりの努力をしなければ、宝のもち腐れで終わってしまう。

 外国へ行って、その国の言葉を覚えるにしても、それなりの努力をしなければならない。同じ
ように、結晶性知能を磨くためには、やはりそれなりの努力をしなければならない。当然であ
る。

 では、どうしたらよいのか?

 体(肉体)の健康と、脳みそ(知的能力)の健康は、日々の鍛錬(たんれん)のみによって、維
持される。たとえば運動をしたり、ジョギングをしたりして、体の健康を維持することができるよ
うに、脳みそもまた、それを刺激することによって、その健康を維持することができる。

 それを怠れば、体の健康も、脳みその健康も、ない。怠ったとたん、その時点から、体の健
康と、脳みその健康は、低下する。

 以前、こんな原稿を書いたことがある。何かの本で発表しようと思って書いた原稿だが、内容
が内容だけに、ボツにした。

+++++++++++++++

●子どもの自我

 ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その
30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。話そのものがかみあわない。どこかヘラ
ヘラしているだけといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。

「パチンコでは半日で5万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が
積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どももいる。

フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方向性を決
めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、(1)生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にす
る)、(2)ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、(3)創造的(将来に
向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、(4)自制心が強く、善悪の
判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、(1)物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉を
よく口にする)、(2)考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占い
や手相にこる)、(3)一時的な快楽を求める傾向が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動
が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわ
からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。
それが「結果」として表れてくるからだ。

先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この30年
間の生きざまの結果でしかない。

 帰りぎわ、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてくださ
い」と言ったが、私は「ハア」と言っただけで、何も答えることができなかった。

++++++++++++++++

 ここでいう「自我」とは、「私は私」という意識のことをいう。自我の発達がすぐれている子ども
は、「YES・NO」の意思表示がはっきりとしている。ハツラツとしていて、表情も明るい。

 そこでもう一度、フロイトの自我論に耳を傾けてみよう。

自我が強い子どもは、(1)生活態度が攻撃的、(2)ものの考え方が現実的、(3)創造的、(4)
自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、(1)物事に対して防衛的、(2)考え方が非現実的、(3)一時的
な快楽を求める傾向が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動が多くなる、と。

 この理論を、反対に読むと、そのまま脳みその健康論としても、応用できる。つまり、(1)生
活態度が攻撃的、(2)ものの考え方が現実的、(3)創造的、(4)自制心が強く、善悪の判断に
従って行動できれば、その人(子ども)の脳みそは、健康であるということになる。

 反対に、(1)物事に対して防衛的、(2)考え方が非現実的、(3)一時的な快楽を求める傾向
が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動が多くなれば、その人(子ども)の脳みそは、健康
ではないということになる。

 そこであなたの脳みその健康度を、チェックしてみよう。

【脳みその健康度チェックテスト】

問1

 あなたは何か新しいものを見たり聞いたりすると、それに興味を示すか? それとも、「めん
どうだからいや」と、それから逃げてしまうか?

問2

 あなたは頼れるのは、私だけと考える傾向が強いか? それとも、いつも何か神秘的な力に
あこがれ、占いやまじないに頼る傾向が強いか?

問3

 あなたは誘惑に強く、自制心が強いほうだと思うか? それとも誘惑に弱く、一時的な快楽を
求める傾向が強いか?

問4

 あなたはいつも社会のルールをきちんと守るほうか? それともその場その場で、適当にル
ールを破って生活をすることが多いか?

 もしこのテストを、子どもに応用してみるなら、(あなた)の部分を、(あなたの子ども)という言
葉に置きかえてテストしてみるとよい。

 このテストで、より前者のようであれば、あなた(あなたの子ども)の脳みそはそれだけ、健康
ということになる。そうでなければ、そうでない。

 その脳みその健康は、「考えること」のみによって、維持される。それについても、以前、こん
な原稿を書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
健康度チェックテスト)

+++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もい
れば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。

「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰りかえすことをいう。こういう状態
になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを、講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしてい
る。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)

で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中
で、それをさかのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗
北感を感じた。「私はこの20年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進
歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。

さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。こ
わいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰りかえすことだ。

もう、こうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失
礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし
犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だか
ら犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。

何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんど
ん繰りかえしていく。どんどん繰りかえして、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

+++++++++++++++

 しかし実際問題として、(考える)というのは、能力の問題ではなく、習慣の問題である。それ
はちょうど、健康論に似ている。

 健康は、日々の体の鍛錬のみによって、維持される。しかしそれは努力の問題ではなく、習
慣の問題である。

 わかりやすく言えば、脳みそにせよ、健康にせよ、それを鍛錬する習慣が、日常的にあるか
どうかということ。それがあれば、その結果として、それらの健康は維持される。

 たとえば私は、今のところ、健康である。成人病とは無縁である。ではなぜ、私がそうである
かといえば、理由は、はっきりしている。

 私はこの35年間、自転車通勤を欠かしたことがない。片道、7キロ、往復、14キロの道のり
だが、その間には、1キロ前後のダラダラ坂もある。夏の暑い日も、冬の寒い日も、汗を流しな
がら、そこを通っている。

 それがここでいう(習慣)である。

 つまりそういう習慣を、自分の生活の中で作ること。それが体の健康と、脳みその健康を守
る。

 最後に、一言。

 旭ヶ丘幼稚園のH理事長が見せてくれたグラフは、最後のところ、つまり老齢期の終わりのと
ころで、ストンと、下にさがっている。つまり判断力が、突然、下に落ちている。それについて、
私が、「?」というような表情をしてみせたら、H理事長は笑いながら、こう教えてくれた。

 「認知症か何かになると、こうなりますよ」と。

 そういうこともある。(ゾーッ!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢
期 判断力 結晶性知能 流動性知能 思考力 脳の健康 脳の健康力)

【付記】

 はっきり言おう!

 ものの考え方が、防衛的、依存的、保守的、非現実的であり、快楽主義的な傾向が強いとい
うのであれば、その人の脳みそは、それだけ、非健康的であると考えてよい。

 神秘主義も、そうだ。たとえばカルト教団に身を寄せる人は、それだけ、非健康的であると考
えてよい。占いや、まじないを信ずる人も、そうである。

 脳みそという、頭の内部の問題であるだけに、外からは、わかりにくい。また、それだけに、
だまされやすい。どこかのオバチャンに、もっともらしいことを言われたりすると、それなりに信
じてしまう人は多い。

 老人について言うなら、老齢期を迎えても、前向きに積極的に生きて人もいれば、現実世界
から離脱していく人もいる。前者は、「活動性理論」(フリードマンとハヴィガースト)、後者は、
「離脱理論」(カミングとヘンリー)によって、説明される。

 「私は老人だから……」と、「ダカラ論」で自分を正当化しようとする人は、それだけ脳みそ
が、非健康的であることを示す。

 脳みそが健康な人は、肉体の健康と同じように、ものの考え方が積極的、独立的、かつ現実
主義的である。またそういう自分をめざして、がんばらなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
健康論 健康な脳)

【付記2】

 昨今、「脳年齢」という言葉に代表されるように、脳みその(でき・ふでき)は、知能的な能力の
みによって判断される傾向が強い。

 しかしそれ以上に大切なのは、「脳みそ」の健康度である。

 いくら頭がよくても、どこかのカルト教団の研究室で、毒薬を作る研究をしていたのでは、何
も、ならない。脳みそそのものが、非健康的であることを示す。

 これから先、「脳みその健康」について、さらによく考えてみ
たい。







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【子どもを伸ばす法】

●子どもをよい子にする方法

+++++++++++++++++

意外と簡単なのが、子どもをよい子に
する方法。

つぎの3つを守れば、あなたの子どもは、
まちがいなく、そのよい子になる。

+++++++++++++++++

 意外と簡単なのが、子どもをよい子にする方法。つぎの3つを守れば、あなたの子どもは、ま
ちがいなく、そのよい子になる。

(1)よい人間の見本を、子どもに見せる。
(2)(子どものしたいこと)と、(していること)を、一致させる。
(3)子どもを使う


(1)よい人間の見本を、子どもに見せる。

 子育てというのは、子どもを育てることではない。子育てというのは、子どもに、子どもの育て
方を教えることをいう。

 「父親というのはこういものだ」「母親というのはこういものだ」と。さらに「家族というのはこう
いうものだ」「幸福な家庭というのはこういうものだ」と。

 その中のひとつに、「よい人間の見本を見せる」というのもある。

 子どもをよい子にしたかったら、まず、親が、その見本を見せる。誠実で、まじめで、勤勉で、
約束を守る人間の姿である。ウソやごまかしではいけない。そういう親の姿を、日常的に見せ
る。見せるだけでは足りない。子どもの体の中に、しみこませておく。

(2)(子どものしたいこと)と、(していること)を、一致させる。

 (したいこと)を、(している)子どもは、強い。夢や希望もそこから生まれる。目標も、生まれ
る。

 そういう子どもは、誘惑にも強い。だからまちがった道には、入らない。

 たとえて言うなら、愛しあった末、結婚した夫婦がそうである。そういう夫婦は、たがいに生き
生きとしている。何かの苦労があっても、それを共に乗り越える力をもっている。

 が、そうでない夫婦は、そうでない。誘惑にも弱い。基盤も軟弱だから、こわれやすい。

 そこで重要なことは、子どものしたいことを、子どもができるように、仕向けてやること。子ども
が「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それは、すばらしいことよ」「いっしょに、畑
に苗を植えようね」と、子どもを励ます。

(3)子どもを使う

 子どもというのは、使えば使うほど、よい子になる。社会性や生活力が身につくことはもちろ
ん、忍耐力も、養われる。

 子どものばあい、忍耐力というのは、(いやなことをする能力)をいう。

 子どもをドラ息子、ドラ娘にすれば、やがて苦労するのは、子ども自身ということになる。

+++++++++++++++++++++++

 以上の3つに関する原稿を、ここに添付します。

+++++++++++++++++++++++

●仲のよいのは見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
の仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ
 
 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついて
いる。安定している。これを、アイデンティティ(自己同一性)という。が、ときとして、その両者が
かみあわなくなるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。地元のサ
ッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題がからんできた。ま
わりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなかった。4
年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。A君は、相対
的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。が、
こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の危機」
というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母親が、A君にこ
う言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロの
サッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。いわゆる
(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。が、そこで悲劇が
止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代
償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組
み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、
同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だれでも
ない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むよう
になる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプの子ど
もに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。みなに
恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 子どもを伸ばす鉄則。(子どもがしたがっていること)と、(していること)を一致させる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 同一性の崩壊 同一性の危機 自己同一性 現実自己 自己概念)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

(子どもが伸びるとき)

●伸びる子どもの4条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。(1)好奇心が旺盛、(2)忍耐力がある、(3)生
活力がある、(4)思考が柔軟(頭がやわらかい)。

(1)好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、
身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多
才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。
何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。
反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」
とか言ったりする。

(2)忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。

たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがら
ずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望
をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こん
な子ども(小三女児)がいた。たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげよう
か?」と声をかけると、こう言った。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子ども
を忍耐力のある子どもという。この忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できな
い)→(いやがる)→(ますますできない)の悪循環の中で、伸び悩む。

(3)生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹
の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれ
ばできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン
(アメリカの詩人、「自然論」の著者、1803〜82)も、『教育に秘法があるとするなら、それは
生活を尊重することである』と書いている。

(4)思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。

もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは
「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな
子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、(1)あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする
(好奇心をますため)。また(2)「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝い
はさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる
(忍耐力や生活力をつけるため)。

そして(3)子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場では、「アレッ!」と思うような意外
性を大切にする。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いこと
による。マンネリ化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言
えない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 よい
子の条件 よい子にするほ方法)






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●私論

【私の過去】

++++++++++++++

私が高校生になるころには、
私の家は、まさに火の車。

表向きはともかくも、家計など、
あってないようなものだった。

この状態は、私が、大学生に
なってからもつづいた……。

++++++++++++++

●貧乏

 私が高校生になるころには、私の家は、まさに火の車。家業は自転車屋だったが、月に、4
〜5台も売れればよいほう。ときには、数台ということもあった。

 あとはパンク修理で、何とか、その日を食いつないでいた。が、そのパンク修理とて、毎日あ
ったわけではない。一日の大半は、祖父も、父も、兄も、することもなく、店先と奥を行ったりき
たりしながら、過ごしていた。

 祖父は、すでに病気がちで、現役から引退していた。祖母は、二階にあった物干し台ですべ
って腰を打ってからといもの、そのときすでに、寝たきりの状態だった。

 父は、酒を飲みすぎて、すでに肝臓を悪くしていた。兄は、子どものころから、今でいう自閉
症で、そのため、母は、兄を、家の中に閉じこめたままにしていた。

 私にとっても、人生の中で、一番、つらい時期だった。

 言い忘れたが、私には、もう1人、姉がいた。5歳年上の姉で、そのときは、G市にある洋裁
学校を卒業し、家の中で、縫製の仕事をしていた。稼ぎは、それほど、多くはなかったと思う。

●父の酒乱

 貧乏というのは、慢性疾患に似ている。いつ止(や)むともなしにつづく、痛みをともなった慢
性疾患である。が、それだけではない。よどんだ空気、重苦しい空気、それが口をふさぐ。おま
けにあの独特の臭い。木にしみこんだ、腐った油の臭い。

 その私は、自転車屋の仕事を、まったく手伝わなかった。手伝おうという気持ちも、起きなか
った。すでにそのとき、私の目から見ても、自転車屋という私の家の商売は、もうどうしようもな
いところまで行ってしまっていた。

 それまでの長いいきさつも、ある。おまけに父は、今でいうアルコール依存症だった。酒を飲
まない日には、借りてきた猫の子のように、静かで、おとなしかったが、酒が口に入ると、様子
が一変した。

 肝臓を悪くするまで、つまり私が中学3年生くらいまでは、2、3日に一度は、酒を飲み、家の
中で暴れた。

 ふつうの暴れ方ではない。食卓のテーブルをひっくり返し、障子やガラス戸を、容赦なくこわし
た。父が発する大声や、ものをこわす音は、おそらく近所中に聞こえていただろう。が、私は、
気にしなかった。

 私の家には、「恥」という言葉すら、もう、なかった。

●大学生に……

 私はいつも母に、こうおどされた。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」と。しかしその言葉ほ
ど、私に恐怖心を与えるものはなかった。

 私はいつしか、あの郷里のM町から逃れ出ることだけを考えていた。「ふるさと」という思い
は、とっくの昔に消えていた。

 さらに大学入試が近づくと、母は、こう言い出した。「大学は、国立でないと、行くな。お金がな
い」と。

 それについては、何も母に言われなくても、よくわかっていた。母は、私が、外に出て行くの
を、何よりも恐れていた。「地元に残って、私のめんどうをみろ」というようなことまでは言わなか
ったが、言われなくも、それが私には、よくわかった。

 具体的には、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」と言った。耳にタコができ
るほど、よく言った。

 その私が、倍率、8・6倍のK大学に合格した。今では考えられないような倍率だが、当時
は、どこの国立大学も、同じようなものだった。私たちの世代は、団塊の世代と呼ばれている。
中学校でのクラス数も、1学年上が、5、6クラス。私たちの学年からは、11クラスもあった。し
かも1クラス、55人前後。まさに寿司詰め!

●仕送りは、1万円だけ

 当時、下宿代が、9000円前後だったと思う。4年生のときには、1万2000円になってい
た。

 が、実家からの仕送りは、4年間を通して、月に1万円だけ。学費と、足りない分は、アルバ
イトで稼ぐしかなかった。が、試験期間中になると、そのアルバイトもできなかった。私は、朝と
夕に出される下宿の食事だけで、生き延びたこともある。

 その1万円も、母は、「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれた、相互金融救済制度をつかっ
て、工面していた。1万円といっても、当時の大卒の初任給が、4〜5万円の時代だったから、
それなりの高額であったことには、まちがいない。

 こうして私は、大学を卒業するまで、貧乏が当たり前の生活をした。今になってみると、それ
がよかったのか、悪かったのか……。中には、「若いころに、貧乏を経験しておくといい」と言う
人もいるが、その貧乏にも、程度というものがある。それに期間というものがある。

 私のばあい、中学生になるころには、「ジリ貧」を感じていた。ジリジリジリと、家が貧乏になっ
ていくのが、私にも、よくわかった。

 が、父も兄も、なすすべもなく、それに耐えるだけ。祖父は、道楽でオートバイをいじっている
だけ。母は母で、おかしな迷信ばかり信じて、そのときすでに私とは、まったく会話がかみあわ
なかった。今でも家の中には、仏壇のほか、4〜5種類の神棚が祭ってある。

 私のばあい、その期間が長すぎた。多情多感なあの思春期という時代にしてみれば、それは
「一生」と言えるほど、長すぎた。

●実家への仕送り

 プライド? そんなものは、どこにもなかった。店は、M町という田舎町だったが、その町の中
心部にあった。その町の中心部で、父は、先にも書いたように、酒を飲み、大声をあげて、暴
れた。

 だれの目にも、私の家が、そういう家であることは、よくわかった。私ができることといえば、
居直って生きるだけ。「今だけだ」と、自分を慰めて、生きるだけ。

 私は、そんなわけで、あのM町については、今も、「ふるさと」という思いは、まったく、ない。
帰りたいと、思ったこともない。

 ただ私が、ワイフと結婚する前から、収入の約半分を、実家へ仕送りをしていたのは、それ
をするのが、私の義務と感じていたからにほかならない。「ふるさとを捨てた」という自責の念が
あったためかもしれない。

 何も、好きこのんで、そうしていたわけではない。

 そういう思いの中で書いたエッセーが、つぎのエッセーである。これは中日新聞に発表した記
事だが、ほかの記事とちがって、大きな反響があった。それを紹介する。

++++++++++++++++

●父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の
父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒屋で酒
を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。

そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から
帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を
飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も52歳。1人、2人と息子を送り出し、今は三男が、高校3年生になった。のんきな子
どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを20人も呼んで、パーティを開くという。「が
んばろう会だ」という。

土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう
聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。

すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私に
は私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友
だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。

「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子の
さんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が30歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、ど
こか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じ
がした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。

40歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商
売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよ
りも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。

「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたことも
ある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。

叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったの
だろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからう
しろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うし
ろには誰もいない。そんなことも多い。

ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、い
つも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、
黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独な
ど、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。
いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。

「パパ、ありがとう」と。

そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

+++++++++++++++++

 この中で、「叔父が……」という話を書いた。これについて、その叔父の息子、つまり従兄弟
(いとこ)から、「Jストアに店を出したのは、父ではない。このぼくだ。(だから父のことを悪く書
かないでほしい)」という、抗議の電話をもらった。

 それについては、私は知らなかった。叔父といっても、私にとっては、父親のような人だった
から、悪口を書いたという思いは、私にはなかった。

 それに私は子どものころから、商売というのは、そういうものだと、わかっていた。勝った、負
けたは、当たり前。負けたからといって、どうと思うこともないし、私は、何とも思わなかった。つ
まり叔父をうらんだことは、一度も、ない。

 それに勝ったと思ったところで、そんな思いは、長くても、1世代もつづかない。今度は、自分
が、だれかに追われる立場になる。あとは、その繰りかえし。

●貧乏という心のキズ

 そんなわけで、私の心には、無数のキズがついている。貧乏という、キズである。そのキズ
が、具体的に形となって現れているのが、今の私の不安神経症ではないか? いつも何かに
追われているという強迫観念、それが、心のどこかにある。

 悪夢も、よく見る。

 たいていはどこかの旅先にいて、そこでバスや電車に乗り遅れるという夢である。あるいはホ
テルで荷物の整理をしているうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。そんな夢である。

 で、おそらく私は、死ぬまで、そういう夢から解放されることはないだろうと思う。だからといっ
て、そういう自分の過去を、うらんでいるというわけではない。そののち、いろいろな人と会っ
た。知りあった。

 そういう経験を通してみると、ほとんどの人が、形や内容こそちがえ、みな、何らかの心のキ
ズをもっている。心のキズをもっていない人はいない。そしてそれぞれの人が、そのキズを背
負いながら、懸命に生きている。それがわかった。

 こうした私の過去は、決して私だけのものではない。むしろ、私など、まだ幸福なほうだった
かもしれない。

 そのあと、今のワイフに恵まれた。3人の健康な息子たちにも恵まれた。結婚してからは、そ
れほどぜいたくな生活はできなかったが、ほどほどに、自分の人生を楽しむことができた。今
も、こうして自分の人生を、思う存分、楽しんでいる。

 が、ひとつだけ言えることは、私がしたような経験は、私、ひとりでたくさん。息子たちには、そ
ういう思いだけは、させたくないということ。今も、そのつもりで、がんばっている。

 そういう私を知ってか知らずか、息子の1人は、よくこう言う。「パパは、何でも、お金で解決し
ようとする」と。

 私は、そう言われたとき、ふとこう思う。「何を、生意気なことを! 私の気持ちを話したところ
で、お前たちに、理解できるものか!」と。

 しかしその(思い)を伝えたくて、今朝、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 私の
過去 過去 貧乏論)






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【子どもの受験】(学歴信仰)

【あせる親たち】

●親は、なぜあせるか?

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自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、
言いようのない不安にかられる。かられるまま、
子どもに向かって、こう言う。

「勉強しなさい!」と。

なぜ、親たちは、自分の子どもが受験期を迎えると、
そうなるのか? おかしくなるのか?

ある母親は、こう言った。「頭の中では、いけない
とわかっているのですが、どうしても、あせりを
覚えてしまいます、と。

なぜか?

どうしたらよいのか?

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●不安の内容

自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、言いようのない不安にかられる。自分の子ども
は、だいじょうぶかしらという心配が、そのまま、その不安となって結びつく。自分の子どもが選
別されるという恐怖感もある。

 ある母親は、そうした不安感をこう表現した。

 「夜、進学塾のビルが、こうこうと明かりをつけているのを見ただけで、カーッと頭に血がのぼ
るのを感じました」と。

 また別の母親は、こう言った。「子どものテスト期間になると、お粥しか、のどを通りません」
と。その母親の髪の毛は、ぼうぼう。ほんの数年前の、あの優雅な表情は、もうどこにもなかっ
た。

●過去を再現する親たち

親たちは、自分の子どもの子育てをしながら、そのつど、自分の過去を再現する。無意識のう
ちにも、再現する。

たとえば自分の子どもが幼児のときは、自分自身が幼児であったころの自分を、親の目を通し
て、再現する。これを心理学の世界でも、「世代連鎖」と呼んでいる。「世代伝播(でんぱ)」とも
いう。つまり子育てというのは、本能ではなく、学習によって繰りかえされる。

わかりやすく言えば、親は、自分が受けた子育てを再現しながら、今度は、自分の子どもに対
して、同じような子育てを繰りかえす。よく知られた例に、虐待や暴力がある。しかし世代連鎖
は、何も、虐待や暴力にかぎったことではない。

 同じように、自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、自分の受験時代をそこで再現す
る。言いようのない不安感というのは、実は、自分自身が自分の受験期に覚えた不安感をい
う。

 そしてさらにその不安感は、そのまた親、つまり自分自身の両親から、植えつけられた不安
感をいう。こうして過去をどんどんとさかのぼっていくと、その不安感は、さらにそのまた親たち
から植えつけられたものであるということがわかる。

●明治の昔から……

日本は、明治の昔から、今に見る、日本独特の学歴社会をつくりあげた。一部の「学卒」と呼
ばれる超特権階級が、日本を支配する一方、残りの多くの民衆は、いわゆる(もの言わぬ従
順な民)として、飼いならされていった。

 「飼いならす」という言い方は、不適切な言い方に聞こえるかもしれない。が、富国強兵政策
の国では、そういう人間こそ、「民」として、あるべき民の姿だった。国からの命令とあれば、喜
んで命を捨てていく、従順な民である。その結果が、日清戦争であり、日露戦争ということにな
る。

 これらの戦争では、おびただしい数の若者たちが、その犠牲となっていった。

 つまり簡単に「学歴社会」とは言うが、その歴史の中には、おびただしい数の人間の血がし
みこんでいる。もちろんその学歴社会を通して、一般の人たちは、不公平社会をいやというほ
ど、見せつけられている。

 徹底して優遇される「学卒」組。かたや、徹底して冷遇される、「無学歴」組。江戸時代からの
身分制度が、それに拍車をかけた。親たちが今、感じている不安は、それほどまでに「根」が
深い。

●自分の子どもの受験競争に狂奔する母親たち

さらに結婚と同時に、職場を去り、家庭に入る女性には、それなりの大きなストレスがある。挫
折感がある。加えて「女は家事と育児」という、伝統的な慣習もある。しかし母親といっても、そ
の前に人間である。その人間が、家庭という環境に、みな、順応できるというわけではない。

 いつしか母親たちは、子育て、なかんずく、自分の子どもの(でき・ふでき)に、生きがいを見
出すようになる。あるいは、そこに自分自身の生きがいを傾けることになる。

 それは壮絶な戦いと言ってもよい。概して言えば、父親より、母親の方が、子どもの受験競
争に狂奔しやすいという理由は、そこにある。しかも、そこに、母親独特の、本能的な母性愛が
からむことがある。虚栄心や嫉妬心がからむことがある。

 これは当然の帰結ということになるが、しかし危険な側面もはらんでいる。母親がもつ、本能
的な母性が、母親自身の理性をつぶしてしまうことがある。またそういうケースは、ゴマンとあ
る。

 わかりやすく言えば、自分の子どもの受験競争に狂奔するあまり、自分自身を見失ってしま
う。

 ライバルの母親の娘(年長児)を、人の目を盗んで、足蹴りにしていた母親がいた。(これに
ついて書いた原稿があるので、このあとに、添付しておく。)

●代償的愛

愛にも、いろいろある。本能的な愛もあれば、真の愛もある。が、もうひとつ、代償的愛という
のもある。

 「代償的愛」というのは、私が考えた言葉だが、つまりは、愛もどきの愛をいう。一見、愛に見
えるが、しかし、決して、愛ではない。自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利用するた
めの愛、と考えるとわかりやすい。

 ここでいう子どもの受験競争に狂奔する親が、その一例である。「子どものため」「子どもの
将来のため」と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分のエゴを、子どもに押
しつけているだけ。結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用し
ているだけ。

 中には、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに託す例もある。さらには、子ども自身
を、先にも書いたように、自分の虚栄の道具として、利用するケースもある。

ライバルの母親の子どもを、自分の子どもが、打ち負かす(?)。このタイプの母親にとって
は、それが何よりも痛快、ということになる。

 つまりは、代償的な愛というのは、親の、一方的な思いこみによる愛をいう。

●うちの子にかぎって……

親というものを、総合的にみると、ひとつの共通点があるのがわかる。つまりどの親も、「うちの
子にかぎって……」という、ものの考え方をする。それをベース(基礎)として、自分の子育てを
考える。自分の子育てを組み立てる。 

 「うちの子にかぎって、引きこもりや、家庭内暴力など、起こすはずはない」「うちの子にかぎ
って、燃え尽きたり、荷卸し症候群にかかったりするはずはない」「情緒障害や精神病になるは
ずがない」と。

 それもそのはず。

 どんな子どもでも、幼児期の子どもを見れば、その悲惨な将来を予測させるような部分は、ど
こにもない。この時期の子どもは、あどけない。愛くるしい。従順で、親の言うことにすなおに、
従う。

 中には、「子どもは、教育によって、どうにでもなる」と言った母親がいる。「幼児期からしっか
りと教育すれば、東大だって入れるはず」と言った母親もいた。

 が、その子どもも、思春期を迎えるころから、大きく変化する。崩れ始める。子どもは子ども
でなくなり、1人の人間として、自分のめざめる。が、そうなり始めても、それに気がつかない親
のほうが、多い。

 「うちの子にかぎって……」「こんなはずはない……」「まだ何とかなる……」「どうして……?」
と。

●家庭が修羅場

 そういう意味では、親というより、親であることは、因果な仕事(?)である。どんな親でも、自
分が子育てで失敗するとは、思っていない。あるいは、失敗してみて、そのときはじめて、それ
が失敗であると気がつく。

 さらに親子関係が崩壊した状態になっても、失敗と気づかない親も多い。

 毎日、毎晩、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘。憩いの場であるはずの家庭が、まさに修
羅場。もちろん親子関係は、とっくの昔に崩壊。たがいの間には会話もなければ、心の通いあ
いもない。廊下ですれちがっても、あいさつすら、しない。

 そういう状態になっても、まだ「うちはだいじょうぶ」とがんばる。「まだ、何とかなる」とがんば
る。

 ある母親は、こう言った。

 「あの子が、目的の学校にさえ入ってくれれば、それでいいのです。そのとき、あの子は、私
に感謝してくれるはずです」と。

●受験ノイローゼ

 子どもの受験にからみ、自分自身が、受験ノイローゼになる親は、少なくない。症状として
は、うつ病に準じて考える。症状も、似ている。

 ある母親は、こう言った。

 「うちの子が、学校のテストで、98点を取ってきた、どうしたらいいでしょう」と。

 98点という点数は、決して悪い点数ではない。(マイナス2点)ということだから、どこかで小さ
なミスをしたにちがいない。で、私は、「何でもありませんよ」と言ったのだが、その母親は、一
歩も、ひきさがらなかった。「こんなことで困ります!」と。

 こうして受験ノイローゼになった母親は、ささいな問題点をとりあげ、それをことさら大げさに
問題にして悩んだりする。

 いくつかの特徴がある。

(1)誇大視性(ささいなことを、大げさに悩んだり、心配したりする。)
(2)不和随行性(デマやうわさに、左右されやすくなる。)
(3)狂奔性(明けても暮れても、考えるのは、子どもの受験のことばかり。)
(4)盲目性(客観的に、自分の子どもの姿を見ることができなくなる。)
(5)狂信性(学歴信仰に陥り、学歴こそ、すべてと考える。)
(6)闘争性(ライバルの子どもに、はげしい憎悪の念や嫉妬心をいだく。)

 あとは、お決まりのノイローゼ。そしてそのノイローゼにともなう、心的、および身体的症状。
不眠、食欲不振(あるいは過食)からはじまって、頭痛、腹痛、さらには、情緒不安、精神不安
へとつながっていく。

●破壊される親子関係

親が受験ノイローゼになるのは、親の勝手。しかし子どもこそ、たいへんな迷惑。が、それだけ
ではすまない。

 たいていこの時期を通して、親子の関係は、粉々に破壊される。

 最初は、親の指導や親の言うことに従っていた子どもも、その親に、疑問をいだくようにな
る。親のウラに隠された親の意図を見抜くようになる。そしてやがてお決まりの家庭内騒動。そ
れを繰りかえしながら、親の関係は、こわれていく。

 が、子どもの受験ノイローゼになった親には、それがわからない。わからないばかりが、親子
関係よりも、子どもの受験のほうを、優先させてしまう。ある母親は、こう言った。

 「あの子が目的の中学校へ入ってくれれば、それでいいのです。私は、そのために、犠牲に
なってもいいのです」「あの子が目的の学校に入ってくれれば、あの子も、私のことを理解してく
れるはず」「感謝してくれるはず」と。

 しかし一度こわれた親子関係は、二度と修復されることはない。ほとんどのばあい、親子は、
そのまま断絶していく。

仮に受験でうまくいったとしても、それで親に感謝する子どもは、いない。ぜったいに、いない。
むしろ、親に対して、はげしい憎悪の念をもつようになる。

ことの深刻さを考えたら、はるかにこちらのほうが深刻。が、このタイプの親には、それすらわ
からない。が、さらに問題は、つづく。

●独特の価値観

はげしい受験競争を経験した子どもほど、独特の価値観をもつようになることは、よく知られて
いる。

 人間の価値ですら、学歴や、点数で評価するのも、そのひとつだが、ほかにも、いろいろあ
る。

 命の価値ですら、金銭的な数字に置きかえて判断する。損得だけで、人間関係を考える。相
対的な評価だけで、自分は幸福だと思ったり、不幸だと思ったりする。

 親に対しても、「親の恩も、遺産しだい」と。

 つまりは、独特の価値観をもった、冷たい人間になる。が、当の本人ですら、それに気づくこ
とはない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うからである。

 しかし結局は、一番、損をするのは、その子ども自身ということになる。

 私の知人の中にも、定年退職をしたあとも、退職前の学歴や職歴(肩書き)を、そのまま引き
ずっている人がいる。そのため一般の社会に同化できず、孤独で、さみしい人生を送ってい
る。

 このタイプの人は、あなたの周囲にも、1人や2人は、かならずいるはず。

●変わる入試問題

しかし教育のほうだって、何も、こうした現状を前にして、手をこまねいて、おとなしくしているわ
けではない。

 現在、教育は、欧米化をめざして、どんどんと変わってきている。教育の自由化もそのひとつ
だが、受験体制、さらには、入試問題そのものも、大きく様変わりしてきている。

 いわゆる受験塾では、対処できない問題になりつつある。

 学校における内申書を重要視しながら、入試問題も、たとえば、総合的な判断力をみるもの
へと、変わりつつある。

 わかりやすく言えば、(できる・できない)よりも、(より深く考えられる。考えられない)という視
点で、子どもを判断する。

 その一例として、こんな問題がある。

 環境の変化についてのさまざまなデータを、グラフや表で見せながら、「あなたは、これらの
データを見て、どう考えますか。200字以内で、自分の意見を書きなさい」(H市内N高校中等
部入試問題)と。

 こうした傾向は、そのまま高校入試、さらには、大学入試へとつづいている。

●では、どうするか?

簡潔に言えば、親自身が、賢くなること。これにまさる解決方法は、ない。賢くなる……、つまり
親自身が、自分で考えて行動する。

 それはたとえて言うなら、荒野の一軒家で、夜の闇におびえながら、ビクビクしているようなも
の。わずかの物音に驚き、ものの気配におびえる。

 しかしそんなところに住みながらも、物音の正体を知り、ものの気配といっても、思い過ごしで
しかないことを知る。夜の闇がこわければ、電灯をつければよい。ついでに戸締りも厳重にす
ればよい。

 賢くなるというのは、そういうことをいう。

 人間(動物)の宿命として、バカからは、バカがわからない(失礼!)。自分がバカであること
にさえ、気づかない(失礼!)。しかしそのバカは、脳みその問題ではない。努力の問題であ
る。

 が、そのバカな人たちから一歩、抜き出てみると、あなたをとりまく世界は、一変する。あなた
がそれまでいた世界が、あたかも、サルの世界のように見えてくる。そして、同時に、あなたに
も、何が大切で、何がそうでないかがわかるようになる。子どもの教育が、今、どうあるべきか
が、わかってくる。

 つまりそういう形で、自分を昇華させながら、問題を解決する。

 その第1歩として、この原稿を書いてみた。

 あなたをよりよく知るための、その参考になれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
ノイローゼ 子供の受験 受験勉強 育児ノイローゼ 子供の受験に狂奔する親たち)

++++++++++++++++++++

中日新聞紙上で発表した原稿を、3作、
転載します。

++++++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。

この嫉妬というのは、恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一
つと言える。それだけに扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。

その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園
に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ない
じめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母
親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だった
ということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(3歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、80歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言って
笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小3女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが1年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、クラスの人気者。背
が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子ども
には見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最
近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中2)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その子どもが迎えにきた
ら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。

その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、もの隠し
はウソのように消えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 いじ
め 子供のいじめ いじめ問題 嫉妬)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生意気な子どもたち

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学3年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、1年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。

冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼稚園児のとき、彼の問題点
を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。「あなたは黙って、息子の勉強
だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」と。母親自身が、先生を先生と
も思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほかにも、私はいろいろな経験を
した。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校1年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小6女児)もいた。やは
りクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。

官庁にも銀行にも、そして政治家のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、
出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはいけない。いや、ふつうの人は
だませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにすれば自分がよい人
間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。一人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中児)が、包丁
を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。

話を聞くと、どうやら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わりないのです
が、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のようになって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園や保育園
などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多い。柔和でおとなしく、静
かで、その上、従順だ。

しかもたいてい繊細な感覚をもっていて、頭も悪くない。ほとんどの先生は、「ものわかりがよ
く、すなおなよい子」という評価をくだす。

しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはその「よい子」を演じながら、その分、
大きなストレスを自分の中にため込む。そしてそのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏
腹に、心はいつも緊張状態にあって、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。

ふつうの激怒と違うのは、子ども自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的に
そうなる。表情も、冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、それに苦労
を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいないし、いわんや幼児で
は、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よくできた子」という印象を受けたら、
それは仮面と思って、まずまちがいない。つまり表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じような様子
を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人のようであると感じた
ら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。

あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断する。運
動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子どもとみる。不安定
な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多い食生活に
こころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症状をこじらせないよう
に、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は外の世界では、がんばっているの
だ』と思いなおして、温かく包んであげること。叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静
に言いながらも、その範囲にとどめること。

このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線をこえて、あなたに危害を
加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわてないこと。ピアノのレッスンについて
は、もちろん、もう何も言ってはいけません」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 スポイ
ルされる子供たち 受験戦争の弊害)




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●輪廻(りんね)

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社会科の
勉強で使ったような歴史の年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未来へと、ちょう
ど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書
きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、未来は
そのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も
繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)
ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、やがて過去とつなが
り、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というもの
が、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のご
とく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きもない。話す言
葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行っ
てみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じよ
うな生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。しかしその
アリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪廻思想へと、発展
した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会では、
古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、数年単位
で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れが、グル
グルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れてい
く。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒頭に書い
たように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年表である。しかし
ここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未来を考
えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私あたちは、過去、現在、未来のとらえかたを、
見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身は、
一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生
誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称(仏の生まれ変わりたち)によって、書かれた
経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。

 (それについて書いた原稿は、このあとに添付しておく。)
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
真理が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。






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【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。いわく「妻が、新興宗教の
T仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。長い手紙だった。その手
紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。たいていは夫が知らないうちに妻がど
こかの教団に入信するというケース。最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超える
と、急に、おおっぴらに信仰するようになる。そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信す
るか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。すでにその前から
バラバラ、つまり危機的な状況であったということ。それに気がつかなかったのは、夫だけとい
うことになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自
分の勢力を伸ばす。しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈
迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べ
ている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの
やり方ではない。ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与え
た。死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、というこ
とをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のため
に、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村
元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの書かれ
た経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。そしてそれぞれが
宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」
と主張している。それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということ
は別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批
判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。(だからといっ
て、仏の心に甘えてはいけないが……。)そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分
から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだ
ろうか。バチなど与えるだろうか。ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目
をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、
そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時
点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。すでに
その前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。あ
るいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。そういう人でも、つぎの鉄則だけは守って
ほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02−7−24)

【注】
 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。話し言葉のまま
と言ってもよい。もともと吟詠する目的で書かれた文章である。それが法句経の特徴でもある
が、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。寺の僧侶が読む経典にしても、ほとん
どの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。肝心の中国人が聞いてもわからないの
だからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうや
うやしく読みあげる。そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。日本の仏教のお
かしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非
仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた仏教ではない)を唱え
ていたが、それが世界の常識。こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本
ということになる。

たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、
来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。むしろ法句経の中には、釈迦が来世を
否定しているようなところさえある。法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。そういう意味
では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。「チベット密教そ
のもの」と主張する学者もいる。

チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩を
たいているところを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教
の儀式ではない。釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって、完全な清浄を得たいと願
っても、それによっては清らかな心とはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、
内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろう
か。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教)





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【日本人の生活】

●生活が苦しい

++++++++++++++++

このほど、厚生労働省が、
国民生活基礎調査の調査結果
なるものを公表した。

それによると、国民の、
何と、56%が、生活が苦しいと
訴えているという。

ゾーッ!

++++++++++++++++

●月額48万円?

 このほど、厚生労働省が、国民生活基礎調査の調査結果なるものを、公表した(06−06−
29)。

(05年5〜7月期に、所得については、全国約6800世帯について、世帯については、約4万
5000世帯について、それぞれ調査)

 それによれば、2004年度の1世帯あたりの平均所得は、前年比、0・1%増の、580万40
00円だったという。

 話を先に進める前に、まず一言!

 580万4000円、だってエ?!

 月額になおすと、12で割って、48万円強。本当にそうだろうか?、というのが、私の実感。

 あくまでも平均値だから、超高額所得者や、高額所得者が、その一方で、平均値をおしあげ
ていることは、容易に察することができる。
 
 が、48万円もあれば、それなりの生活ができるはず。

 オーストラリアやニュージーランドでは、月額20万円もあれば、かなり裕福な生活を楽しむこ
とができる。アメリカでは、2000万円も出せば、豪邸が買える。

 何かが、おかしい? どこかが、おかしい?

●目一杯の生活

 ときどき昼の番組で、「家計簿診断」というような番組が、放送される。ホームエコノミストが、
一般家庭からの依頼を受けて、その家庭の家計簿を診断するという番組である。

 つい先日見たのには、こんなのがあった。

 夫と妻の収入は、あわせて、40万円弱。しかし毎月、家計は赤字だという。で、調べてみる
と、11万円程度の家のローン。毎月、2〜3万円の車のローン、などなど。

 妻は趣味で集めている小物に、おしみなくお金を使っている。家の中は、その小物だらけ。

 言い忘れたが、夫は、32歳。妻は33歳。子どもは、7歳と5歳の女児2人。家のローンにつ
いては、完済するまでに、あと35年近くも残っているという。夫は、「満70歳のとき、完済です」
と、苦笑いをしていた。

見ると、家は、丘の上に建った、ほどほどの邸宅という感じだった。もちろん新築。車は、2台。
うち1台は、大型のバン。大型のバンは、家族のドライブ用だという。

 家計診断でよく知られた女性が、大型冷蔵庫の中をのぞくと、食品の山。中には、腐った野
菜まで!

 若い夫婦が、まさに、目一杯の生活をしているのが、それでわかる。しかしこれが今の、おお
かたの夫婦の生活様式と考えてよい。

●世帯に関する調査

 現在、65歳以上の老人だけで住んでいる高齢者世帯は、800万世帯を超えているという
(同調査)。(全国の世帯数は、約4700万世帯。)「800万世帯」と言われてもピンとこない。
が、計算上では、17・7%となる。約20%!

 ところで、若いころ、外国を旅行していたとき、こんなことを教えてくれた人がいた。

 「街角に職を求めて浮浪者が立ち並ぶようになったら、失業率は、20%を超えたとみてよ
い」と。1960年代中ごろの韓国が、そうだった。

 つまり高齢者世帯が、20%近くになったということは、あなたのまわりにも、さがさなくても目
立つほど、高齢者世帯がふえたということになる。私の近所でも、あそこも、ここもというほど、
目立つようになってきた。

 その一方で、18歳未満の子どもがいる家庭は、たったの、26・3%! 4世帯に1世帯にす
ぎない。これも、少子化の一端と考えてよい。そのうち、子どもがいる家庭よりも、高齢者世帯
のほうが、多くなる。

●所得層 

 今回の調査では、所得に応じて、つぎの5段階に分けたという。

(1)第一世帯……209万円以下
(2)第二世帯……372万円以下
(3)第三世帯……574万円以下
(4)第四世帯……893万円以下
(5)第五世帯……それ以上

 こうした統計をみるとき、一番注意しなければならないことは、どの層が、一番、多いかという
こと。そういう意味では、平均値などというものは、まったく、あてにならない。先にも書いたよう
に、年収が1000万円の人と、年収が100万円の人がいたとすると、その平均値は、550万
円ということになる。

 その550万円をもって、「日本人の平均月収は……」と話を進めると、とんでもないことにな
る。問題は第5世帯だが、先ごろ娘の誘拐事件に巻きこまれた美容整形外科医のばあい、日
収(日収だぞ!)だけでも、数百万円もあったという!

 また550万円あるから、それなりの生活ができるとは、かぎらない。

 言うまでもなく、それにもろもろの税金がそこから引かれる。日本全体が、国際的な標準から
しても、欧米の約2倍程度の、高コスト社会になっている。

 わかりやすく言えば、食品の価格も、家の価格も、欧米の約2倍の価格になっている。理由
など、今さら言うまでもない。つまりその分だけ、お役人たちの生活費を、私たち一般庶民が負
担しているということになる。

●ぜいたくが当たり前

 一方、私たちの時代と比較するのも、ヤボなことだが、今では、ぜいたくが当たり前の時代に
なってしまった。

 若い人たちが、「ふつうの生活」というときは、先に、家計簿診断で登場した家族がしているよ
うな生活をいう。つまり何もかも、ひととおりそろった、ぜいたくな生活をいう。

 何が、家のローンだ!
 何が、車のローンだ!

 私はその番組を見ながら、その一方で、今の若い人たちのぜいたくぶりに、あきれた。言い
忘れたが、娘2人には、個室があてがわれていた。冷蔵庫は、大型。居間には、しゃれたソフ
ァと、棚。棚には、洋酒も並んでいた。

 家はともかくも、どうしてドライブ用に、大型のバンなのか!

 つまり最近の若い人たちは、「ふつうの生活」というものを、まず頭の中に描き、それに合わ
せて、無理やり、現実をそれに合わせてしまう。収入とか、家計というのは、そのあとに考え
る。

 これでは、いくらお金があっても、「生活は苦しい」(報道)、ということになる。

●レベルをさげられない?

 話はぐんと現実的になるが、今どき、ボットン便所など、口に出しただけで、笑われる。しかし
ボットン便所は、生活の原点でもある。すべては、ここから始まる。

 私たちの時代には、そうだった。それがやがて水洗トイレになったが、「水洗」といっても、水
で便を流すだけ。ボットン便所は、ボットン便所。便所は、臭いままだった。

 が、今はちがう。新婚当初から、近代的なシャー付きトイレ。においの「ニ」の字もしない。し
かも今では、芳香剤は当たり前。小学生ですら、用をたしたあとには、スプレーで臭いを消し
て、トイレを出る。

 冷暖房完備のトイレすら、珍しくない。

 こうした生活を一方でしながら、「生活が苦しい」は、ない。もし苦しいというなら、何をもって、
苦しいというのか。どこが、苦しいというのか。

 苦しかったら、レベルをさげればよい。トイレが、再び、ボットン便所になったところで、しかた
ないではないか。自動車だって、軽自動車でじゅうぶん。冷蔵庫も、収入に見あった小型のも
のよい。

 ……というのは、少し、言い過ぎかもしれない。自分でも、よくわかっている。わかっている
が、総合的に判断すれば、そういう社会や若者たちを作り出してしまったのも、結局は、私たち
の責任ということになる。

 いや、私はすでに20〜30年も前から、こうなることがわかっていた。

●ジジバカ、バババカ

 孫が生まれると、まず、ジジ様とババ様がやってくる。かけつける。そして孫を見て、手をかけ
る。時間をかける。ついでにお金もかける。

 20〜30年前の当時ですら、ピアノ教室へ通うのは、当たり前。どこの家にも、場違いなほ
ど、大きなピアノが置いてあった。

 そしてやがてゲームの時代。

 新しいゲーム機器が店に並ぶと、ジジ様、ババ様たちが、孫のためにと、それを買い求め
る。1台、2〜4万円もする、ゲーム機器である。

 こんなこともあった。

 夏場になると、青い顔をして、ハーハーとあえいでいる中学生がいた。理由を聞くと、「クーラ
ーのない部屋では、勉強ができない」と。

 あるいは、レッスンの途中で、「家に帰る」「タクシーを呼んで」と叫んだ女の子(小5)がいた。

 あとで母親に理由を聞くと、「うちの子は、よそのトイレでは、便(大便)をすることができない
からです」と。

 当時私は、何かのエッセーでこう書いた。「こういう子どもたちが、おとなになったら、どうなる
か」「親になったら、どうなるか」と。

 その結果が、今である。

●数字どおりなら……

 厚生労働省が公表した数字どおりなら、580万円も年収があるなら、みな、裕福な生活がで
きるはず。

 あのK国と比較するのもヤボなことだが、あのK国では、労働者の平均月収は、(月収だ
ぞ)、1〜2ドル。日本円で、100〜250円程度。

 それでも、何とか、人間は生きていかれる。

 が、この日本では、そうではない。どこかがおかしい。狂っている。

 その(おかしな部分)については、これからよく考えてみることにするが、私は、このままでは
引きさがらない。

 あと6〜7年もすれば、私の家庭も、その高齢者世帯になる。加えて、年収209万円以下の
第一世帯になる。そうなってから、あわてたのでは、遅すぎる。今のうちに、何とか、しておかね
ばならない。

 これは、私にとっても、切実な問題である。

【付記】

 今回の調査で、高齢者世帯のほとんどが、年金と貯金の取り崩しで生活をしていることがわ
かった。

 一般サラリーマンにしても、どういうわけか、手にする年金は、年々、減っている。私のような
自営業者は、国民年金ということになるが、もとあらアテにしていない。(アテにできない。)

 そこで貯金ということになるが、老後になるころには、子どもたちの教育費、親の介護費など
で、ほとんどの人たちは、大半の貯金を使い果たしてしまっている。

 さあ、どうしよう?、……と考えたところで、この話は、おしまい。要するに働けるだけ働いて、
あとは、パッと死ぬ。結論を先に言えば、そういうことになる。

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