倉庫20
目次へ戻る メインHPへ

●価値観について

【寿大学での講演】

++++++++++++++++

今度、ある町の寿(ことぶき)大学で
講演をすることになった。

70歳以上の長老者たちがつくる、
勉強会である。

しかし、私のような若輩(じゃくはい)が、
どうして、そういう人生の大先輩を
前にして、講演など、できるのか?

あれこれ、考える。

++++++++++++++++

 こうした講演で重要なのは、冒頭の部分。お決まりの、「エー、本日はよい日に恵まれまして
……」というようなあいさつは、その瞬間、聴衆の人たちを、白けさせてしまう。

 私のばあい、その場の雰囲気で、つぎの2つのうちのどちらかの方法を選ぶ。

(1)いきなり本題に入る。
(2)少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 若い母親が対象のときは、(1)の方法がよい。講演時間が短いときは、なおさらである。とく
に小さな子どもが同席しているようなばあいには、いきなり、本題へと切りこんでいく。

 そうしないと、20〜30分もしないうちに、ワイワイ、ガヤガヤといった雰囲気になってしまう。

 しかし聴衆の方に男性が多いときは、(2)の方法をとる。男性のばあい、私のような人間が
演台に立ったりすると、「何だ、このヤロウは!」といった表情をする。それが自分でも、よくわ
かる。

 だから少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 寿大学ということなので、当然、(2)の方法で、講演に入るしかない。

【導入】

 「要支援」と、「幼稚園」の話から。

 先日、私が子どもたちに、「君たちは、ヨーチエンだろ。ぼくはヨーシエンだ」と話してやると、
子どもたちはこう言った。「先生、ヨーシエンじゃなくて、ヨーチエンだよ」と。

 そこで私は、「いいや、ぼくは、ヨーシエンだ。もうすぐ、ヨーシエンになるよ。ウンチをしても、
自分のお尻をふけなくなったら、今度は、ヨーカイゴだよ」と。

すると子どもたちは、真顔になって、こう言った。

 「先生、ヨーカイ(妖怪)になるの?」と。

私「そう、ヨーカイだア。ヨーカイ学校といってね、1年生から、5年生まであるんだよ。こわいと
ころだよ」
子「5年生までしかないの?」
私「そう、5年生までしかない」
子「5年生が終わったら、どうなるの?」
私「あの世さ。あの世へ、行くんだよ。いよいよこの世の中から、卒業っていうわけ」と。

【本題】 

 常識論。『世にも不思議な留学記』を話しながら、常識について、話す。人間がもっている(常
識)ほど、あてにならないものはない。常識そのものが、作られた幻想(イルージョン)のような
もの。

 たとえば少し前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦は、毎朝、白いご飯の上
に、ミルクと砂糖をかけて、食べていた。ある朝は、ココアをふりかけて、食べていた。

 そういうのを見ると、自分の頭の中で、バチバチと火花が飛び散るのがわかる。脳細胞どうし
が、ショートするためである。

 私の体験から、そうした話をいくつか、話す。こんなことがあった。

 ある友人の家に、夕食を招待されたときのこと。イギリス人系の家庭だった。食事が終わっ
て、ふとうしろを見ると、友人の父親が、エプロンをかけて、食器を洗っていた。

 私はそれを見て、心底、驚いた。驚いて、声をあげた。「男が、皿を洗っている!」と。

 今でこそ、笑い話だが、当時の私の常識では、考えられない光景だった。また私の家は、岐
阜県の小さな田舎町にあったが、そんなところでも、男が、台所へ入るなどということは、めっ
たになかった。勝手に料理をしていたりすると、よく母にこう言って叱られた。

 「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

 ……その常識について、以前、こんな原稿を書いた。それをもとに、話を進める。

++++++++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。

もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それ
だけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。

日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り出すとき、
「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するの
ですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、
よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本
になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。

++++++++++++++++++

もうひとつ、常識について、
留学記から話を引く。

++++++++++++++++++

【展開】

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学し
ていたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、正規の日本人留
学生は私1人だけ。(もう一人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住
んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手
紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」
と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとは
まったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースというこ
とになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によっ
て、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なこと
は、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう
言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそう
いう時代ではない。あってはならない。

+++++++++++++++++

【締めくくり】

 問題は、講演をどう締めくくるか、だ。

 ただここで誤解してはいけないことは、寿大学といっても、そういうところへ来る人たちだか
ら、決して(老人)あつかいをしてはいけないということ。私の兄のように、頭のボケたような老
人は、来ないはず。

 むしろ逆で、頭のシャキシャキした人の方が多いはず。そういう人たちに、若輩(じゃくはい)
の立場から、何かを伝えたい。

 が、それが説教ぽいものでは、困る。

 どうしようか? どうしたらよいのだろうか?

 ただ今回の講演を通して、寿大学のみなさんの頭の中で、バチバチと火花が飛び散るような
話をしてみたい。それはそのまま脳の活性化につながる。いうなれば、映画『マトリックス』で私
が感じたような衝撃を、私は、寿大学のみなさんにも感じてもらいたい。

 そう言えば以前、どこかの同じような会で、私は、水戸黄門の話をしたことがある。そのとき
も、結構、反響が大きかった。この日本では、水戸黄門ですら批判することは、タブー視されて
いる。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、20%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど痛
快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息
子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあ
ててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を使って
何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪
いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子ども
に頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれな
いが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶっ
た分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツ
が入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生6年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。

すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝るべきだヨ〜」と。これがこの日本の流れで
あり、もう流れを変えることはできない。

+++++++++++++++++

ついでにこんな話もしてみたい。
寿大学のみなさんには、
少しショックが大きすぎるかも
しれない。

当日は、少し内容をやわらかくして
話すつもり。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。

たとえば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おな
かがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのもの
が何とかしてくれるのだろう。

同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、おしっこオ
〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそこまで依存性
の強い民族ということにもなる。

で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。
もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、
子どもの依存心に甘くなる。

もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女
性(65歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう
言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのもの
だから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、
自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そ
んなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を
果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ
れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には
日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことを
してでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成9年には19%にまで
低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である。
(ほかにフィリッピン81%(11か国中、最高)、韓国67%、タイ59%、ドイツ38%、スウェーデ
ン37%、日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。

これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)欧米の人
ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみる
べきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識
論 はやし浩司 寿大学 価値観の衝突 講演要旨)



目次へ戻る メインHPへ

●すばらしい人たち

二人の知人

●二人の知人
 
石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏
という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともす
ばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすばら
しい人を、私は知らない。この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう
人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせら
れる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることなが
ら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの
言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲し
い話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人た
ちということになる。

●自分をさらけ出すということ
 
こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさらけ
出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、心
の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られた
くない、醜いものばかり。つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言え
ば、自分をだましながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の4タ
ヌキというようなタイトルで、4人の女性が紹介されていた。

元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女
性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。4番目の演劇俳優の女性は
別としても、残る3人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。(週刊誌のほうでは、実名と写真
を掲載していた。)

昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、い
かにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがまま
の自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮
がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、ど
んなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目
を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲
れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。人にウソをつかないとか、ゴミを
捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。

つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがて
その人の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点
は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には
滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする
人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも
日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善
良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びる
ことができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしな
い。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをし
ない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物
は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、
それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をす
ると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能とし
てもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。それは性欲や
食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先
が自分かわからなくなる。

が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、そ
の本能からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけ
てはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。
またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。たがいに話しこめば話
しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別
れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔
で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。しかし
二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚
いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこうも共通
点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに書いた
ようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!


(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は
前向きな努力をする。

私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかから
どこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自尊
心 子供の自尊心) 





目次へ戻る メインHPへ

●巣立ち

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかにあな
たから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなたが育てるの
は、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、その子ども自身の
人生を始める。

 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をすくってい
るはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。そのはがゆさ。しかし
親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。

 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会ってい
く。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、私たちが
子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たった一度しかな
い人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。

 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、枯れた
木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるいは「どうしてこ
ういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこにはいない。

 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。

 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらないことも
考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前たちで、自分
の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母親だ。遠慮する
ことはない。

 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさみしさを
ぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの藤子・F・不二雄
の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」(第一八巻・一七六ペー
ジ)というのが、それ。

 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「やっと育
った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始まるが、つぎ
にドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。のび太は、そのグラスを
使って、花の心を知る。

 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しばらくす
ると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポに植木バチをか
ぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。のび太が「きれいに
咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、礼を言う。「こんないい場
所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さんは、ほんとうにやさしくて、たの
もしい男の子だわ」と。

 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。小さなコ
マだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばらしい(一八六ペ
ージ)。そのあと、のび太はこうつづける。
 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲かすん
だね」と。 
 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、いつま
でもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなしが、一人残って
いる……」と。

 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできないの」
 子どもの種「やだあ、やだあ」
 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」
 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」
 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」
 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟たち
と、一緒に飛びたったの」
 子どもの種「こわくなかった?」

 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れると。列
車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっぴりさびしくなっ
て、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海を見たこともあるわ。青く
て、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。のび太さんの、お部屋に飛び込ん
だの」
 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」
 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたんですも
の」

 子どもの種「眠くなっちゃった」
 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」

 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。

 のび太「おおい、だいじょうぶか」
 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」
 のび太「どこへ行くつもり?」
 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。ママに
心配しないでと伝えて」
 のび太「がんばれよ」

 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさわやか
である。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと胸に伝わって
くる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポの親子にしてみれば、
それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太はこう言ってタンポポの種を
見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親としての姿勢のすべてが集約され
ているように感ずる。

 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決して美し
いものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかしそれでも巣立
ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、あなたから巣立
っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜいできることといえば、そ
ういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそうすることで、あなたは子どもの
巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。

 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。それを
心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の巣立ち 巣立ち論 子どもの巣立ち 藤子・F たんぽぽ)




目次へ戻る メインHPへ

●親絶対教(M氏のケース)

【親絶対教について】

++++++++++++++++++++

M県に住む人から、「親絶対教」についての
コメントが届いた。

B氏(42歳)からのものである。

++++++++++++++++++++

【B氏より、はやし浩司へ】

親絶対教を読んで、まったく同感です。

私も田舎の親絶対教の環境に生まれた長男として、精神的に疲れていますが、貴殿の親絶対
教の記事を読んで、なにか心がすっとしました。

知る人ぞ知る「MG」という宗教(?)。その宗教にハマった、親戚一同に、スッポリと囲まれてい
ます。私の父は実業家ですが、いまは些細な家庭内事情でたがいに口もきかない間になり、
別居する羽目になりました。父が経営する会社からも、そのうち追われるのではないかと思っ
ています。

私達夫婦には子供ができませんでしたが、私自身、このままだと精神的に自立できないので
はないかと不安でした。

インターネットで「親絶対」と検索した所、貴殿の記事と出会えました。そこに「真理」があるとい
うことを理解できて、本当に感謝いたします。

まだ人生半ば。なんとかここで、再起したいと思います。

私のような方が他にもたくさん見えると思いますので、ぜひ脱「親絶対教」を、育児の立場だけ
でなく広く世間に広めてください。

ほんとにありがとうございます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

親絶対教について書いた原稿を、もう一度手直しして、
ここに再掲載します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親絶対教】

++++++++++++++++++++++++

「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

04年6月27日
(再構成 06年5月30日)

++++++++++++++++++++++++
          
●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩を、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を、決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。
 
 親に逆(さか)らうのは、もってのほか。
 あなたが一番大切にすべきことは、
 親孝行です。

 親孝行こそが、あなたの人生を明るく照らす、真理です。

 ……というのが、親絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引きつがれている。しかも、その人が
乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれているというより、脳の奥深くに、
しみこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親絶対教の信者となっていく。

 最近の研究では、人間にも、鳥のような(刷り込み)があることが、わかってきた。生後直後
から、数週間にかけて、そうなるという。この時期を、「敏感期」と呼んでいる。もう少し詳しく説
明しよう。

●刷り込み

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 この時期に(刷り込まれたもの)を、子どもは、親として、絶対視するようになる。

 そんなわけで、親を絶対視するのは、その人の勝手だが、だからといって、「親は絶対」と考
えるのは、正しくない。鳥のばあいだが、孵化した直後、人間の姿を見せたり、人間の声を聞
かせたりすると、人間を親と思うようになる。

「産んでやった」という言葉を口にする親は多い。しかしそれはあくまでも結果。生まれる予定
の子どもが、幽霊か何かの姿で、親の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、
話は別。しかしそういうことはありえない。

 少し話が飛躍してしまったが、親絶対教の基底には、「親がいたからこそ、子どもが生まれ
た」という考え方がある。親あっての、子どもということになる。その考え方が基礎になって、親
は子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」とか、「孝行」とかいう概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親絶対教の信者たちは、子どもが親に逆らうことを許さない。口答えなど、もってのほか。親
自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲になっ
ている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 さらにこんな例もある。

 ある母親は、息子から預かった土地の権利書を、勝手に売り飛ばし、それで得たお金を、母
親の実家に貢いでいた。そこで息子が泣きながら、それに抗議すると、その母親は、こう言い
放ったという。

 「私は、自分のために、お金を使ったのではない。(私の)実家のために使った。お前も世話
になったことがあるだろ! 親が先祖を守るために、息子のお金を使って、どこが悪い!」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。だから「親絶対教」という。親絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、「今」という時点から、とらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」「私は、子どものた
めに犠牲になっている」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私はそう思う
が、ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親絶対教の信者であり、その子どももまた、親絶対教であれば、その親子関係は、そ
れなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲になる
子ども。こうした関係では、親子関係も、それなりにうまくいく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない!』とです。

だから話しあいになりません。母は数年前に他界しましたが、法事の費用について文句を言っ
ただけで、姉は、やはり狂ったように怒りだします」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、こ
う言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親絶対教の特徴

 親絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
否定しているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をしてい
るようだが、即刻、そういった活動をやめろ」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、親
絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方、つまり先祖にかこつけて、自分に利益を誘導するような言い方は、卑
怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
 
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやるか
らな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 これに実家意識が加わると、さらに問題が複雑になる。

 ある息子が家を新築したとき、母親が飛んできて、こう言ったという。「自分の家を建てるよ
り、実家を建てなおすのが、先だろ!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容易
ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、「あ
なたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができない
……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、私
一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばされ
てしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、親
絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦い」と
いうのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 一方、親は親で、親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。自分
という(親)を中心にして、ものを考える。そしてその返す刀で、子どもを自分の(モノ)というふう
に、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみてよい。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、幼児教育の世界では、「人工論」という言葉を使って説明
する。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。もちろんいつか、ある女性が私に向かって言ったように、先祖を否定
しているのでもない。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親絶対教を押しつけてはいけないこと。強要
してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論 はやし浩司 家庭教育 育児
 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親孝行 孝行論)

+++++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

+++++++++++++++++++++++

●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(43歳)は、その母親(76歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期までは、
ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つようにな
った。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親絶
対教 親の権威 親風 権威主義の親 親孝行 孝行論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(補記)

●親絶対教・アメリカ事情

+++++++++++++++++

アメリカにも、親絶対教というのが、
あろそうだ。

二男が、自分のBLOGで、そう
書いている。

+++++++++++++++++

父のブログで「親絶対教」なるものについて書かれているのを読みました。子供は親に「生んで
もらった」のだから尊敬すべきだというのが、「親絶対教」の考え方なんだそうです。

が、ここアーカンソーでもこの「親絶対教」が隅々まではびこっていて、特に田舎のほうでは、か
なり露骨な親権威主義が見受けられます(アーカンソー東北部なんか特にひどい)。

所変われど何も変わらず、ということでしょうか。

 誠司にしても、メイにしても、彼らには生まれてくるかどうかなんていう選択はなかった訳です
から、彼らの命というのは僕ら親に、100%の責任があるわけです。

親は子供のために存在し、子供のためにするすべてのことは、親にそうする義務があるからす
る訳です。実際その義務を放棄することは、州法違反になるわけで、その場合親は投獄され、
子供はフォスターケアに送られます。法律だから面倒を見るって訳ではありませんが・・。

 そういえば僕の大学の友達が一人が、ソーシャル・ワーカーとして働いていたんですが、彼女
の仕事は、まさにそういった仕事でした。親の義務を果たしていない人達から親権を剥奪して、
子供をFC送りにする、というかなりストレスが溜まりそうな仕事だったようです。

「事実は小説よりも奇なり」といいますが、本当に行き着くとまで行ってしまったような家族という
のは、ゴロゴロあります。その友達は、いつも色んな人間ドラマに関する話を話してくれました。

今はもうその仕事してないみたいですが・・。

【二男へ】

 同じ「親絶対教」といっても、日本とアメリカとでは、事情も内容も、多少ちがうのではないか
な。

 また「権威主義」といっても、国、それぞれです。

 以前から、お前から話は聞いていましたが、アメリカにも、親絶対強的な雰囲気があるという
のは、たいへん興味深いね。フ〜ンと思ってみたり……。ただアメリカといっても、広いしね。ア
ジア大陸が、スッポリと入ってしまうくらいだから。

 それにいろいろな人種もいるしね。もちろんアジア人も!

 アメリカの中南部というところは、ちょっと、ほかのアメリカとちがうようだね。

 まあ、お前もそういうところで、何かとたいへんだろうけど、『When you are in Roma,
 do as the Romans do.(ローマにいるときは、ローマ人のするようにせよ)』の格言ど
おり、アメリカに合わせるしかないだろうね。

 この問題だけは、根が深いし、この日本では、親絶対教は信仰にもなっているほどだから。
「そうです」「そうです」と言って、相手に合わせて生きる。若い人たちを教育するのは簡単だけ
ど、年配者を教育するのは、ほぼ不可能と考えたほうがいいよね。

 親子の間で、家庭内宗教戦争を繰りかえしている人となると、日本には、ゴマンといるよ。

「親のオレを取るか、嫁を取るか」と、本気で息子に迫っている親だって、いるよ。息子は息子
で、妻に向かって、「オレの親に不満があるなら、お前の方こそ、この家から出て行け」と。

おかしな世界だけれど、日本人にも、それが少しずつ、わかり始めてきたというところかな。
今、日本は、その過渡期の過程にあると思うよ。

 ただ子どもを大切にするということと、でき愛は別だから、注意しよう。

 また何か、具体的なエピソードがあったら、BLOGに書いてほしい。とても参考になるよ。







目次へ戻る メインHPへ

●カルト

●誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハ
プニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめ
て、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから3か月もたったあ
る日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙が
添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、今
すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。

たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れ
ていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そう
いう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定では
ない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誇大
視 誇大視化 巨大視 巨大視化)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【親絶対教について】

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな
い。

Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁い
だ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫
婦、それに1男1女の3世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、
そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。

しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われていま
す。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりには
できないのです」と。しかしこれも問題ではない。

Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、
跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥
や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、そ
の間、横になって休むこともできません」と。

たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言って
いるそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと
でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったと
いう事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だ
った。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前
ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも
のだ。で、私はこう思う。

日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの
地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。もちろん伝統や文化はあるだろう。それは
それとして大切にしなければならないが、しかし今はもう、そういうものを個人に押しつける時
代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その人の勝手だが、それを受け継ぐかどうか
は、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私たちはその世界まで、立ち入ることはで
きない。


●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。

実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れて
も、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思う
のですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言って
るの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。

排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学
者もいる。

 信仰のし方としては、
催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)な
ど。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬
を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団
体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、そ
れについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また
言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の
悲しみや苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。

「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したと
き、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればす
るほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
の特徴 カルト カルト信仰の特徴)






目次へ戻る メインHPへ

●迷信

●ビデオ『陰陽師(おんみょうじ)』を見る

+++++++++++++++++++++++

古いビデオを、ビデオショップで、100円で
売っていた。

『陰陽師(おんみょうじ)』というビデオを買った。
見た。

いろいろ考えさせられた。

+++++++++++++++++++++++

●迷信

 ビデオ『陰陽師』を見た。かなり古いビデオらしい。あまり期待していなかったが、結構、おも
しろかった。「日本のCG(コピュータ・グラフィックス)も、なかなかやるね」というのが、私とワイ
フの共通した感想。

 内容はともかくも、つまりビデオそのものの評論は、さておいて、「迷信」というものがどういう
ものかを知りたい人は、一度は、見てみたらよい。まさに迷信のかたまりのようなビデオ。最初
から、最後まで、迷信、また迷信。

 ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。そのまま引用する。

++++++++++++++++++

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)……古代日本の律令制において、陰陽寮に属した官職の1
つ。律令国家において、陰陽道と呼ばれる呪術・占術を担当する専門家であった。土地の吉
凶を占うことで、遷都などでも、大きな役割を果たした。

有名な陰陽師としては安倍晴明、賀茂保憲などがいる。

平安時代においては権勢を振るったが、その後、宮廷が力を失った時代などを経て、国家的
な保護を完全に喪失。現代社会においては神職の一種として定義されてはいるものの、実態
としては、霊媒や口寄せなどで、高額の祈祷料を請求するものもおり、極めてオカルティックな
存在となった。

+++++++++++++++++

 ビデオを見た私の印象としては、陰陽師というのは、まじない、うらない、それに催眠術を合
体した、祈祷師のような存在ということになる。とくに、催眠術による人心の誘導に、たけていた
のではないか。

 現在でも、ほとんどのカルト(教団)は、催眠術、もしくは催眠術による洗脳をたくみに利用し
ている。

 加えて当時は、(私が子ども時代のときも、それは色濃く残っていたが)、ありとあらゆるもの
が、迷信と結びついていたと考えても、おかしくない。また迷信が、それだけ信じられやすかっ
た時代とも言える。

 この話は以前にも書いたが、自動車販売会社のディーラーが、こんな話をしてくれた。

 ある男性が、新車を購入した。それについて、その男性は、そのディーラーに、車の納入日と
時間、さらに、車を納入する方角まで、指定してきたという。

 「○月○日、x時からy時までの間に、車を届けてほしい。なお車は、一度、北の方角まで走ら
せ、そこから南に向かって、私の家に届けてほしい」と。

 迷信にこだわる人は、そこまでこだわる。が、ビデオ『陰陽師』の中にも、似たようなシーンが
出てきた。宮殿を建てるとき、それに使う材木を、どの方角から運びこむか、と。陰陽師なる男
が、それを帝(みかど)にアドバイスしていた。

 つまり迷信というのは、迷信を口にする人と、その迷信を信ずる人が、ちょうど、キーとロック
のように、一致したとき、パワーを発揮する。たとえばこんな例を考えてみよう。

●ワラ人形

 ビデオの中にも、頭の上にローソクを3本立てて、ワラ人形を木に打ちつけるシーンが、出て
きた。呪(のろ)いを、だれかにかけるためである。

 そこで話をわかりやすくするために、あなたの友人のAさんが、あなたに呪いをかけるため
に、ワラ人形を木に打ちつけていたとしよう。もちろんAさんは、あなたが、苦しむことを願って、
そうしている。

 もしこのとき、Aさんが、そういうことを、あなたの知らない世界で、そうしているというのであれ
ば、あなたは、何も気にしない。何も変化は起きない。

 しかしあなたは、Aさんが、毎晩、そうしていることを知ったときは、どうだろう。しかもAさん
が、そうしているのは、あなたに呪いをかけるためだ、と。

 とたん、あなたは、それを気にし始める。が、もしこのとき、あなたが、迷信をまったく信じない
人だったら、あなたは、それを笑って無視することができる。が、そこまで割り切ることができる
人は少ない。

 あなたはAさんの行為をやがて、気にするようになる。もしあなたが迷信を信じているなら、な
おさらである。

 心理学の世界にも、「自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」というのがある。自分でその
予言を信じているうちに、その予言どおりの世界を、身の回りにつくってしまうことをいう。

 こんな例がある。

 ある女子高校生が、ある日、私にこう言った。「私は、明日、事故を起こす。けがをする」と。

 そこで私が、そんなのは迷信だ。信じてはだめだと言ったが、その女子高校生は、本当にそ
の翌日、事故を起こした。自転車で走っているとき、自転車ごと、壁にぶつけて、腕と足にけが
をしてしまった。

 その女子高校生は、「予言が当たった」と驚いていたが、女子高校生は、予言を信ずるあま
り、無意識のうちにも、自分で事故を起こしただけと考えられる。

 で、もしあなたがAさんの行為を気にし始めたとしたら、どうだろう。体の不調が起こるたび
に、「これはAさんのせいだ」と思うようになるかもしれない。そしてその不調に不調が重なり、
重篤(じゅうとく)な病気になるかもしれない。

 するとますますあなたは、「この災いは、Aさんのせいだ」「Aさんが、ワラ人形を打ちつけてい
るせいだ」と思うようになるかもしれない。

 つまりワラ人形には、それなりの効果があったということになる。

 ビデオに出てくる、安部晴明という陰陽師は、実在した人物だという。平安時代後期の人物と
されている。宮廷に仕え、帝(みかど=天皇)にアドバイスをしたり、政(まつりごと)にあれこ
れ、口をはさんだりしていたらしい。

 そういう点では、陰陽師というのは、ときには、帝の暴走を食い止めたり、反対に、帝が判断
に迷ったようなとき、よき助言者として、帝に客観的なアドバイスを与えていたのかもしれない。
つまりそれなりの存在価値は、あったということになる。

 邦画は、めったに見ないが、最後まで、楽しかった。奇想天外というか、いろいろ考えさせら
れた。で、見終わったあと、両手の指をくねくねとからませながら、ワイフに、あれこれ呪いをか
けるマネをしてみせると、結構、ワイフも、それに乗ってくれた。

 なお現在の今でも、「陰陽師」を語り、それを職業にしている人もいるので、この話は、ここま
で。しかし私は、残念ながら、そういう迷信は、まったく信じない。私を呪い殺したかったら、どう
ぞ勝手に。ワラ人形でも何でも、木に打ちつけて楽しんでほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
成就的予言 預言 予言 自己成就預言 自己成就予言 陰陽師)






目次へ戻る メインHPへ

●性同一性障害

【女児願望の男児(?)】

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

+++++++++

【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して性同
一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化)






目次へ戻る メインHPへ

●夫婦論

【ある離婚】

+++++++++++++++++

ある離婚劇を、間近で見聞きしてきた。

それは、レールの上に乗った電車のようなもの。
あれよあれよと思うまもなく、
離婚劇は進んでしまった。

+++++++++++++++++

 妻は、こう言う。「私の人生を、返してよ!」と。
 夫は、こう言う。「オレだって、仕事で、自分の人生を犠牲にした。家族を支えてきた。何が、
不満なんだ!」と。

 一度、離婚劇がレールに乗ると、離婚劇は、あれよあれよと思うまもなく、進んでしまう。それ
は金属疲労で破壊される鉄板のようなもの。一見、強固に見える鉄板でも、一度キレツが入る
と、あとは、早い。バリッと、裂けてしまう。

 離婚の三大事由はといえば、(1)浮気、(2)借金、(3)暴力と、相場は、決まっている。しか
し離婚にブレーキをかけるものもある。それが、(1)子ども、(2)財産、(3)見栄とめんつと、世
間体。ほかに外国などでは、宗教的な理由で離婚を思いとどまる人もいるが、この日本では、
少ない。

 で、『子はかすがい』とは言うが、同時に、『子は、三界の足かせ』ともいう。子どものために離
婚を思いとどまっている人も多いが、しかし万能ではない。中には、「子どものために離婚す
る」という人もいる。

 つぎに「財産」。定年離婚というのがあるが、夫が定年退職を迎えるから、妻のほうが離婚を
申し出るのではない。夫が、退職により、退職金を手にするから、妻のほうが離婚を申し出る。
「半分は、私のものよ!」と。

 さらに夫側の財産を目当てに、離婚を思いとどまっている妻も少なくない。「夫が死ねば、○
○家の莫大な財産が、自分のものになる」と。

 が、意外と大きなブレーキになるのが、見栄とめんつと、世間体。そういう意味では、男も女
も、生涯、自分を化粧して生きるものなのか? 仮面をかぶって生きるものなのか? が、この
タイプには、2種類ある。

 その仮面を、仮面と意識しながら、結婚生活をつづけるタイプ。もうひとつは、仮面を仮面と
意識しないで、結婚生活をつづけるタイプ。

 前者のほうは、外から見ても、わかりやすい。夫は夫、妻は妻で、それぞれ勝手なことをして
生活している。別々に愛人がいるケースもある。男と女の関係というよりは、いっしょの家にい
る、同居人といった感じ。

 が、問題は、後者のほう。仮面を仮面と意識しないで、結婚生活をつづけるタイプ。夫も、妻
も、いつの間にか、多重人格性をおびるようになる。見た目には仲がよいが、ささいなことで、
大喧嘩になることも珍しくない。仲がよいときと、大喧嘩するときは、たがいに、まったく別人に
なる。

 私がその離婚劇を間近で見聞きしてきた夫婦は、この後者のタイプの夫婦だった。

 外の世界でその夫婦を見てきた人は、みな、こう言う。「仲のよい夫婦だったのに……」と。し
かし内の世界でその夫婦を見てきた人は、みな、こう言う。「たがいに何を考えているかわから
なかった」と。

 が、あるとき気がつく。その夫婦のばあい、妻の方が、先に気がついたらしい。「私は人形み
たい」と。そう、まさに人形。夫の操(あやつ)り人形。

 自分の出世だけしか考えない夫。その夫は、「自分が出世すれば、妻は喜ぶはず」としか考
えない。近所でも、「○○大会社の専務さん」「○○大会社の専務さん」ともてはやされる。通勤
は、いつも、運転手付の大型乗用車。

 しかしあるとき、その空しさに気がつく。そしてそれがキレツとなって、一気に、鉄板を破壊す
る。バリッ、とだ。

 男と女の関係は、所詮、そんなもの。自営業か何かで、ともに苦楽をともにしてきたような夫
婦は別として、男と女の関係は、所詮、そんなもの。結婚によって、同じ電車に乗ってはみる
が、降りる駅は、別々。

 もっと言えば、円満な夫婦は、みな似ている。しかしそうでない夫婦は、千差万別。定型がな
い。さらに離婚した男と女は、みな似ている。つまりこうして離婚劇は、終わる。

 ……その知人が離婚してから、もう1年が過ぎた。で、今は、たがいに、あたかも何ごともな
かったかのように、平和で、のんびりと、生活している。そういう人たちを見ると、「夫婦って、何
だろう」と、改めて、考えなおさせられる。

+++++++++++++++

イプセンの『人形の家』について
書いた原稿を思い出しました。

ここに添付します。

+++++++++++++++

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧する
と、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、た
とえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成
に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もともとは奈良
県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を感
じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘を
愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れるの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。

このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、

このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電撃的に打
たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになったと
きのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でしょ?」
と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦に見え
た。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないのですか?」
と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらしな
かった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前で
は、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副会
長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。

そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反動感情で作られた
愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたとしたら、ということ
だが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人たち
が、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質とな
った女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」。その中でイプ
センは、夫婦は、どういうものか、それを如実に表した。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。夫婦を家庭の基盤に置くなら、そうい
う考え方になる。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。

+++++++++++++++++++++
 
【MRさんよりの返事】

はやし様

早速の返答を、ありがとうございます。

はやし様の言うとおりで、読んでいて、涙が出ました。
私は主人を愛しています。
できれば離婚はしたくないのです。

主人も娘の事で悩んだりはしていますが、私との夫婦関係には何
も問題がないので「幸せだ」と言ってくれています。

私は血の繋がらない親子関係は、難しいと思い込み
主人の親戚たちにも、何とか娘を認めてもらおうと必死でした。

主人の母は主人をとても愛しているので、主人が悩んでいると、私へ
の当たりが強くなります。
「あなたがしっかりしてちょうだい」と・・・。

娘はとても良い子です。
明るくてやさしくて思いやりもあれば、礼儀も正しいです。
娘がずっと欲しがっていたお父さんができたのです。
みんなで仲良く暮らしたいです。

主人には前妻さんとの間に、私の娘より一歳年上の男の子がいます。
まったく面会などはないのですが、その子と比べられるのが
一番イヤで、娘に必要以上に良い子を要求していたのだと反省し
ています。

良い母、良い妻、良い嫁・・・。
頑張りすぎていたのかも知れませんね。

これからは肩の力を抜いて、楽しんで生活したいと思います。

はやし様ありがとうございました。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 離婚
 夫婦 夫婦論 離婚劇 イプセン 1+1=1夫婦論 離婚と子供 離婚と子ども 子どもと離
婚 子供と離婚)



目次へ戻る メインHPへ

●教育の自由化

+++++++++++++++

自由と、社会の多元化は、
相関関係にある。

と、同時に、つまり自由が
ませばますほど、教育もまた
多元化する。……しなければ
ならない。

+++++++++++++++

 かつて官僚たちは、「天皇」という絶対的な権威者を頂点に置くことによって、自分たちの「存
在」を正当化していた。「自分たちは、天皇の命令のみによって行動する、忠実な僕(しもべ)で
ある」と。

 しかしその権威が崩れた。「天皇」という権威である。(今でも、国家的な賞などについては、
ハクづけのため、天皇の前で表彰されることが多い。)

 そこで官僚たちは、民主主義という仮面をかぶった。あたかも選挙で選ばれた議員のために
働くという形をつくりながら、その実、その議員たちを、裏で操っている。こうして今、官僚たち
は、自分たちの「存在」を正当化している。

 日本が、民主主義国家だと思っているのは、おそらく、日本人だけではないのか。たとえばあ
のソ連がなぜ崩壊したかだが、おおざっぱに言えば、ソ連型官僚主義が崩壊したとみるのが
よい。社会主義という(主義)が崩れたのは、あくまでも、その結果でしかない。言い忘れたが、
ソ連は、「社会主義」という仮面をかぶった、官僚主義国家であった。

 そのソ連だが、なぜ崩壊したか? いろいろな説があるが、社会の対立構造を、資本家と労
働者という、一元論でしか、みなかったことが、最大の原因と、私は考える。「資本家は、すべ
て悪であり、労働者は、すべて善である」「労働者こそ、絶対的な権威である」という、どこか間
の抜けた、単純な発想である。

 しかし社会の対立構造は、それほど、単純なものではない。

 小資本の上には、中資本があり、中資本の上には、大資本がある。同じく労働者といっても、
勤勉で能力のある労働者もいれば、そうでない労働者もいる。

 さらに資本家どうしも、多元的な社会構造を形成する。大資本家どうしが、たがいに熾烈(し
れつ)な、戦いを繰りかえすこともある。つまり社会構造は、3次元、4次元……となっている。
そこへ時的変化が加わる。

 ソ連は、こうした社会構造の変化に対応できなかった。それで崩壊した。わかりやすく言え
ば、人間が本来的にもつ、多元性に適応できなかったということ。

 では、今の日本は、どうか? ……という議論は、私のような人間がしても、意味はない。そ
こでもう少しレベルをさげて、今の日本の教育は、どうか? ……というレベルで、ものを考え
てみたい。

 「自由」と「多元的社会」は、たがいに相関関係にある。自由がませばますほど、社会は、多
元化する。

 教育に関していえば、自由のない全体主義国家ほど、教育は一元化される。一本になる。ひ
とつになる。今のK国を、みれば、それがわかる。戦前の日本を、みれば、それがわかる。

 しかし反対に、自由が拡大すればするほど、社会は多元化する。個人の趣味は広がり、嗜
好性も多様化する。そしてそれに応じて、当然のことながら、教育も多元化する。また多元化し
なければ、教育は、社会の変化に対応できなくなる。(ワクに押しこもうとする教育行政)と、(ワ
クに入りたがらない子どもたち)、その間で、はげしい軋轢(あつれき)が生まれる。

 あるいは、社会が伸びる芽そのものを、教育が摘んでしまうことにもなりかねない。
 
 で、もしあのとき、ソ連が、いち早く、社会がもつ多元性に気がついていたら、ソ連の崩壊は
なかったかもしれない。いつまでも、(資本家)と(労働者)という、一元論にしがみついていたか
らこそ、ソ連は、やがて崩壊した。

 ただ私は日本の教育が崩壊するのは、かまわないと思う。崩壊して困るのは、人口のコン
マ、ゼロゼロにもならない文部官僚たちだけである。しかしそれによって、日本の子どもたち
が、宙に浮いてしまうのは、困る。日本の子どもたちが、将来を見失ってしまうのは、困る。

 だからあえて言うなら、日本の文科省は、今こそ、教育の多元化を目指すべきではないの
か。今のように、「学校しかなく、学校しか、子どもの進むべき道がない」ということのほうが、お
かしい。

 さらに少し前までは、主要5教科と言われ、算数、国語、社会、理科、英語だけが、偏重され
ていた。しかしこれもおかしい。

 その(おかしさ)に、まず気がつくこと。オーストラリアの中学校では、たとえば「キャンピング」
という科目が、必須科目になっている(ビクトリア州など)。「どうして?」と理由を聞くと、「砂漠な
どで、ひとりになったとき、生き延びる術(すべ)を身につけるため」と。

 どうして日本の教育には、こうした発想がないのか? いつまでも、今のような一元論にこだ
わっていると、日本の教育は、本当に崩壊する。ここにも書いたように、私自身は、崩壊しても
かまわないと思っている。が、その被害を受けるのは、結局は、子どもたち自身ということにな
る。それだけは何としても、避けなければならない。

 教育の自由化は、今や、当然の流れと考えてよい。そしてもしそれがわからなければ、あの
ソ連を見ればよい。旧東ドイツを見ればよい。

 具体的には……。

(1)教科書検定の廃止
(2)カリキュラム編成の自由化
(3)学校設立の自由化
(4)ホームスクール(フリースクール)の自由化
(5)単位制の導入(同時に、全国的に単位を共通化する。)
(6)クラブ制の導入

 ざっと思いついたまま書いたので、不備はあると思う。しかしそうした方向に向けて、教育を
少しずつでもよいから、自由化していく。

 日本に残った、最後の、ソ連型官僚主義社会、それが文科省であり、今の日本の教育制度
である。そういう視点で、この評論を書いたみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
の教育 教育の自由化 自由な教育)







目次へ戻る メインHPへ

●敬語

●天皇vs天皇陛下

+++++++++++++++++

ある新聞社が、天皇を、「天皇」と呼び
捨てにした。記事を書いた。

それに政府が、かみついた。

「陛下という敬称をつけろ」と。

しかしそんなことを、政府が、国民に
強要するほうが、おかしい。

+++++++++++++++++

 私は、自分の文章を書くとき、敬称や敬語は、ほとんど使わない。それに気づいている人も
多いかと思う。たとえば、天皇がこのH市にやってきたことがある。そのときも、私は、「天皇
が、H市へ来た」と書いた。正しくは、「天皇陛下が、浜松へ、おこしになりました」か(?)。

 本来なら、「天皇」ではなく、「天皇陛下」と書くべきなのかもしれない。しかしこうした敬称や敬
語は、一度、使い始めると、その基準をもうけるのに苦労する。だから私は、相手がだれであ
ろうとうも、敬称や敬語は、使わない。

 が、誤解しないでほしい。敬称や敬語を使わないからといって、その人を軽くみているわけで
はない。悪くみているわけでもない。「人間は、みな、平等である」。

 しかしこういうこともある。

 ふつう二重の敬称をつけることは、相手に対して失礼となる。たとえば、「林先生」と呼ぶの
は、かまわない。しかし「林先生様」とか、さらに「林先生様殿」というのは、かえって失礼とな
る。言われたほうも、何となく、バカにされたような気分になる。

 なお、宗教団体などでは、自分たちの指導者を、二重、三重、さらには四重の敬称をつけて
呼ぶところが多い。(この話は、本当だぞ!) たとえばその指導者の名前が「鈴木」であったり
すると、「鈴木御導師上人様殿」となる。(鈴木・御・導師・上人・様・殿だぞ!)

 で、天皇の話にもどる。私は、子どものころから、天皇を、「天皇」と呼んでいた。しかし「天
皇」という言葉そのものが、日本では、地位を表す名称である。学校で言えば、「校長」、会社
で言えば、「社長」、大学で言えば、「教授」という言葉に、それぞれ当たる。

 その校長に対して、「校長」と呼ぶことは、決して、失礼ではない。「社長」も、そうだ。が、この
日本では、「校長先生」と呼ぶ。(別に、「校長」だけでも、かまわないはずだが……。) 一方、
「社長様」と呼ぶケースは、少ない。「教授先生」と呼ぶケースは、もっと少ない。

 つまり、「校長・先生」「社長・様」「教授・先生」と、肩書きに敬称をつけるのは、二重の敬称と
同じに考えてよいのではないのか。

 しかし私は、子どものころ、「天皇」と呼び捨てにしただけで、(呼び捨てにしているという意識
はなかったのだが……)、父親に殴られた。「陛下と言え!」と。そんなわけで、正直に言えば、
今でも、天皇の問題について論じるときには、ツンとした緊張感を覚える。

 さて本題。

 「陛下」というのは、天皇だけにつけられる、特殊な敬称である。宗教の世界にも、それぞれ
の宗派で、特殊な敬称をつけることがある。それをつけなければ、その世界では、失礼になる
という。しかしそれは、その宗教を信じている人の世界での話。その宗教の世界の外にいる人
には、関係ない。

 天皇についても同じように考えてよいではないだろうか。つまり私は、天皇は、天皇でよいと
思う。昭和天皇は、外国では、ただ単に、「ヒロヒト」と呼ばれていた。それが愛称になってい
た。考えてみれば、これほど失礼な呼び方はないわけだが、しかし、どうして、そういう呼び方
をしてはいけないのか?

 私は個人的には、(当然のことながら)、天皇を、知らない。だから「天皇」という言葉を使うと
きは、いつも、「天皇制」という制度を頭に置いた言い方ということになる。その天皇制につい
て、「天皇陛下制」などと言う人はいない。

 目の前に天皇がいれば、当然、私は、「天皇陛下」と呼ぶだろう。「陛下」と呼ぶかもしれな
い。しかしここにも書いたように、天皇は、そこに、いない。

 だから私にとっては、天皇は、「天皇」でしかない。

 ついでながら、私は、教室では、生徒たちによく、呼び捨てにされる。私のことを、「先生!」と
呼ぶのは、約半数。何割かの子どもは、私を、「林!」と呼び捨てにする。

 だからといって、そんなことで目くじらを立てることはない。「林!」と呼ばれたほうが、私も、
気が楽。こちらも、生徒を呼び捨てにできる。「おい、鈴木!」とか、「おい、佐藤!」とか、な
ど。

 が、私のことを、「先生様」と呼んだ子どもは、いまだかって、1人もいない。

 ……そんなわけで、もし、天皇のことを、「天皇陛下」と言うのがふつうになってしまったら、つ
ぎに今度は、「天皇陛下様」と、「様」をつけて呼ぶようになるかもしれない。「殿」でもよい。戦
前の日本が、そうであったように……。

 ともかくも、こんなことで、いちいち政府が、とやかく言うべきではない。天皇自身だって、それ
を望んでいないだろう。

【補記】

 英語にも、敬称は、あるにはある。「Your Majesty(陛下)」とか、「Your Excellency(閣
下)」とかいうのが、それ。

 しかしそれはその相手を前にしたとき、つまり直接相手に語りかけるときの敬称で、一歩退
いた世界では、こうした敬称は、ほとんどつけない。ブッシュ大統領にしても、マスコミの世界で
は、「ミスター・ブッシュ」である。あるいはほとんどのばあい、呼び捨て。

 私は、それでよいと思うが、反対に、どうして、そうであっては、いけないのか?、ということに
もなる。

が、それでも、そのおかしさがわからないというのであれば、あのK国を見ればよい。K国で
は、金xxの敬称どころか、敬称を言うときのイントネーションをほんの少し言いまちがえただけ
で、政治犯として収容所に送られてしまうという。実際、そういうテレビキャスターが、過去にい
た。

 「陛下という敬称をつけろ」と迫る政府。しかし、その延長線上に、あのK国がある。戦前の日
本がある。それだけは、忘れてはいけない。

++++++++++++++++

ついでながら、「偉い」という
言葉について……。

それについて書いた原稿を、
ここに添付します。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

【「偉い」という言葉を、廃語にしよう!】

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よ
く似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。

「信長は古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業
ができるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……? 
   
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ恐
怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生活
を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

ひとつの例だが、由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなま
ま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの小川は血で染
まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。

家康にしても、その後300年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実は、こ
れまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がは
びこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用さ
れると、とんでもないことになる。

幼稚園を訪れ、そこで会った幼稚園児たちに、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらい
た。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 天皇
 天皇制 呼称について 敬称 敬語 偉人 偉人論 偉い人)






目次へ戻る メインHPへ

特集【子どもの心】

++++++++++++++++++++++

わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。

そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。

++++++++++++++++++++++

【NBさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。

万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したことのあるW市
(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございました。今回はその後、
学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、ご意見いただきたく思いま
す。

息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引きはして
いません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。

ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買ったりしたこ
とが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に(授業はなく校外
学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。

月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というのでは
なく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引きやそれを
問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、私達にとって大
変ショックでした。

そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い方で、対
応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も今は本当に見
守る気持ちでいます。

振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかった私
たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態のまま過
ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。

今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、ゲ
ームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊んだり、
時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってきましたが、
(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達に電話して、遊び
に行ったりしています。

「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言うことも
あります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。

宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手伝いも
全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死なせてしまいまし
た。平気な顔をしています。

それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やかま
しく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びたがるので
す。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなったようです。

外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらいまでは、
ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなってきました。

「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんでいたのに、
いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸にある不満をぶ
ちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁をたたいたり。

今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、ということ
です。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜中の2時を
過ぎていました。

そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以前はそう
ではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を罵るような言
葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、だんだん腹がたっ
てきてしまいます。

夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当にこらえ
性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはない。興奮して泣
いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。

自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪したりし
ます。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫もそう感じている
らしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうことなんでしょう。

万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係して
いるのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々です。

寝るときはもちろん川の字で。

学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と表現
されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、数ヶ月単
位で様子を見なければならないんですね。

なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに興じて
いる様をみていると不安になります。

「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少し、おっ
くうになってきた、今日、このごろです。


【はやし浩司より、NBさんへ】

 息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてください。つ
まり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすらもたない」と
いう意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関係」ということに
なります。

 で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念ながら、息子
さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てをしながら、不安
でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さんは、感じ取ってしまっ
ているわけです。

 つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わってしまっ
ているというわけです。

 こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。「うちの
息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほかの子とは、ちがう」
「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる間は、決して、安穏たる日々
はやってきません。息子さんにしても、そうです。

 もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあなた自
身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。

 ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形としては、つま
り、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、NBさんの管理
下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年児、あるいは、中高校
生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。

 私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい不安状
態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさって
みられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、ドクターに読んでもらう
とよいでしょう。

 今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連の(こ
だわり)症状も、軽減するはずです。

 家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子どもをす
かさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なことは、(2)暖かい
無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間には、干渉しないよう
にします。

 不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉に一
喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子どもの(約束ご
と)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分をコントロールできない
でいるのです。

 で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな…
…?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。すべてが
子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかもしれませんが、
そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思います。

 不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言っているよ
うに、どうか、数か月〜半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深いということ。コ
ツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処す
る」です。

 消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらには三
番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大きくなった
り、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。

 たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてください。
よろしくお願いします。

●掲示板への書きこみから

++++++++++++++++++++++

NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。

小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。

++++++++++++++++++++++

【掲示板への相談より……】

教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持っていま
す。

お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。初
めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削除してくだ
さい。

現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言っても、日替
わりで上から指示されるので、とても不安定です。

Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在は毎
日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。

毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、Mさん
を、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさんは、泣き叫
び後を追いかけます。

道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。それから
は、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、Mさんは、抱
きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。

そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。転んだ
すきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。

そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、「それどうする
の?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂けそうになります。

私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかったんだ
ね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもらうこともあり
ません。でも一応、Mさんの担当なのです。

学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常に、
「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃない!」と言
われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。

私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじしている
と、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。

Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見ただけで
吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、クラスの児童を見
ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいました。

「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラスの児
童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようです。

時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言うので、
一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。

また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」というの
で、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、というような
調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図工だよ! 行け
る!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。

子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行けな
い。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじったりしま
す・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいいですよ。いつ来ても
いいですよー、と言う始末。

はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っちゃった
ー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で12時までしかい
っしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に裏切られ、友達も・・・と
いうような状況ですよね。

お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きました。
最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見ていて恐いくらい
です。

本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)たちも
いたようで、よく殴られたと言います。

そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は男性
で、毎日のように泊まっていくとのこと。

また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶりさえ見
せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっているのに、
宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)

【KU先生へ、はやし浩司より】

 掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも酷似して
いるので、驚きました。

 Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生ま
れつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、幼く見え、
言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)の確立がみられませ
ん。

 はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマイナス
のストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめな人間」と言いま
す。

 ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわいい」「か
わいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ出すと、みなに
いじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママです。

 特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。

(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでしまう。そ
のため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手に封をあけて、
食べてしまったこともある。

(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。それを
毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、弟がそのカ
ードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。

(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。行動
も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の中でじっと待っ
ている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝るときでさえも、かけた
まま。

(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、壁にぶつ
けて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発作を起こして、こわし
てしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の子のようにおとなしく、おだやか
だが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大の字のまま、下へ飛び降りたこともあ
る。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為のために、そうなったと考えられる。

(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「〜〜を食べた
い」というような言い方をしない。「〜〜君は、何も食べなかったから、死んでしまった」「ぼくは、
10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主的な行動ができず、他
人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態度が目につく。

(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。年齢的に
は、4〜5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z君の叔母)が、ぼく
をバカにした」と。

 母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、やさしそ
うな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。私が会ったと
きも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言っていました。

 このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代償的過保
護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、ペルソナ…
…。

 これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてください。

 で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力感)を味わ
います。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができれば、話は別です
が、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになります。

 またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようとすると、
ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父親(夫)が、ひど
いことをしたからだ」と、他人のせいにします。

 ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子どもを、モ
ノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていません。

 で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。夜中中、
車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%のニヒリズム」とい
う考え方です。

 若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。

 決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、自分の
ためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされてしまいます。今の
KU先生、あなたが、そうかもしれません。

 が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは子どもで、
ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、そのキズをもった
まま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服していきます。つまりそういう人
間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながらも、子どもに任すところは、任す。

 あとは、時間が解決してくれます。

 で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状態か
ら解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。一応、母親
の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でないことは、確かなよ
うです。

 (いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき書く、「悲
しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。

 が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性がありま
す。

 また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、かかるか
もしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。しかしあきらめては
いけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あなたの心を試すような行動に
出てくることがあります。

 急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見極めな
がら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根競べ。とことん根
競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。

 「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。

 それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。

 幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。何が大切
かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思い)が、あなたとM
さんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっていると思います。

 ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそういう子ど
もほど、求めて教えてきたようなところがあります。

 しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1〜2時間、接しただけで、ものすごい
疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。

 そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々とした気
持ちで、数日を過ごしました。

 しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめないで、が
んばってください。

 繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に幸いなこ
とです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってください。応援します。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。

( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。

( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。

( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。

( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。

( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償
的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(付記)

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親が見せる一連の症候
を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュン
ヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)




目次へ戻る メインHPへ

●基本的信頼関係

信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。

絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。

 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。

 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。

 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。

 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。

●基底不安

 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。

 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。

 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。

 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。

 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。
(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)


●人間関係を結べない子ども(人)

人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。

(9)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。
(10)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。
(11)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。
(12)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と
同情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。

 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●子どもの仮面

 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。

 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。

 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。

 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。

 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。

 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。

一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。

たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。

いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。

 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。

●仮面をかぶる子どもたち

 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。

 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。

先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。

 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。

先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。

 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。

●心の葛藤

 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。

 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。

 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。

 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。

一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。

こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。

 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。

●神経症から、心の問題

ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。

子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。

(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。 
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。 
●たとえば不登校

こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。

しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。

ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たい
ていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。 
(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。

この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 
 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

++++++++++++++++

【参考】

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。

親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返してい
るうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。

(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、
子どもの様子をみる。

(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあ
ますまで、何も言わない、何もしないこと。

(4)生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とく
に子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部
屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……45%
教師との関係   ……21%
クラブ・部活動  ……17%
転校などでなじめず……14%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++ 

●自己診断

 子育てにおいて、母子関係の重要性については、今さら、改めて言うまでもない。そしてその
中でも、母子の間で構築される「基本的信頼関係」が、その後、その子ども(人)の人間関係の
みならず、生きザマにも、決定的な影響を与える。まさに「基本的」と言う意味は、そこにある。

 そこで子どもの問題もさることながら、親である、あなた自身が、その基本的信頼関係を構築
しているかどうかを、一度、疑ってみるとよい。

 あなたは自分の子どものときから、いつも自分をさらけ出していただろうか。またさらけ出す
ことができたただろうか。もしつぎのような項目に、三〜五個以上、当てはまるなら、ここに書い
たことを参考に、一度、自分の心を、冷静に見つめてみるとよい。

 それはあなた自身のためでもあるし、あなたの子どものためでもある。

○子どものころから、人づきあいが苦手。遠足でも、運動会でも、みなのように楽しむことがで
きなかった。今も、同窓会などに出ても、よく気疲れを起こす。

○他人に対して気をつかうことが多く、敬語を使うことが多い。気を許さない分だけ、よそよそし
くつきあうことが多い。

○ひとりで、静かに部屋の中に閉じこもっているほうが、気が楽だったが、ときどきさみしくなっ
て、孤独に耐えられないこともあった。

○いつも他人の目を気にしていたように思う。そして外の世界では、いい子ぶることが多かっ
た。無理をして、精神疲労を起こすことも、多い。

○夫(妻)や子どもにさえ、自分の心を許さないときがある。過去の話や、実家の話でも、恥ず
かしいと思うことは、話すことができない。

○言いたいことがあっても、がまんすることが多い。その反面、他人の言った言葉が、気にな
り、それでキズつくことが多い。

○自分は、どこかひねくれていると思う。他人の言葉のウラを考えたり、ねたんだり、嫉妬(しっ
と)することが多い。

○子どものころから、親に対しても、言いたいことが言えなかった。どこか遠慮していた。親や
先生に気に入られることばかりを、考えていた。

●勇気を出して、自分をさらけ出してみよう!

 もしあなたがここでいう「信頼関係」に問題がある人(親)なら、勇気を出して、自分をさらけ出
してみよう。

 まず、手はじめに、あなたの夫(妻)に対して、それをしてみるとよい。言いたいことを言う。し
たいことをする。身も心も、素っ裸になって、体当たりで、ぶつかってみる。何も、セックスだけ
が、さらけ出しということにはならないが、夫婦であることの特権は、このセックスにある。

 そのとき大切なことは、自分をさらけ出すのと同時に、夫(妻)の、どんなさらけ出しにも、寛
容であること。つまり受入れること。「おかしい……」とか、「変態とか……」とか、そういうふうに
考えてはいけない。

 あるがままを、あるがままに受入れて、あなたがた夫婦だけの問題として、処理すればよい。

 で、こうした夫婦の絆(きずな)を、伸ばす形で、つぎに精神面でのさらけ出しをする。思った
ことを話し、考えたことを伝える。

 これは私のばあいだが、私は、ある時期まで、講演をするたびに、ものすごい疲労感を覚え
た。そのつど、聖人ぶったりしたからだ。自分を飾ったり、つくったりしたこともある。

 しかしそれでは、聞きに来てくれた人の心をつかむことはできない。役にもたたない。

 そこでは私は、講演をしながら、その講演を利用して、自分をさらけ出すことに心がけた。あ
りのままの自分を、ありのままに話す。それで相手が、私のことを、「おかしい」と思っても気に
しない。そのときは、そのとき。

 自分に居直ったわけだが、そうすることで、私は自分にすなおになることができた。そう、もと
もと、私は、どこかゆがんだ人間だった。(今も、ゆがんでいる?)私のこうした生きザマが、ギ
クシャクした親子関係で悩んでいる人のために、一つの参考になればうれしい。

【注】この原稿は、W小学校区の教員研修会のための資料として書き始めたものです。まだ公
表できるような段階ではないかもしれませんが、マガジンにこのまま掲載します。時期をおい
て、また書き改めてみます。

(※1)実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約
200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感
じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待しているこ
とがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

同じく妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をして
いるという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成
し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2
点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494
人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 不登
校 不登校児 家庭で荒れる子ども 家庭内暴力)






目次へ戻る メインHPへ

●同性愛

●男色(だんしょく)道

 戦国時代から江戸時代、あるいはその前後にも、「男色道」というのは、ごくふつうに、なされ
ていたらしい。

 男色道……つまり、今でいう、同性愛。

 驚くのは、あの織田信長も、それをしていたこと。さらにあの武田信玄も、それをしていたとい
うこと。

 武田信玄にいたっては、ある男性にあてた、ラブレターまで、ちゃんと残っている。

 「どうなっていたんだろう?」と考えたくもなるが、いろいろ考えていくと、今、私たちがもってい
る(常識)のほうが、おかしいのかもしれない、ということになる。

 たとえば天皇家でも、兄と妹が結婚したという例もないわけではない。敏達(びだつ)天皇と、
推古(すいこ)天皇は、ともに、兄と妹の関係だった。(過去には、女性が天皇になった例だって
あるんだぞ!)

 となると、ここでもう一度、私たちの中にある(意識)を疑ってみる必要がある。

 私たちが「常識」と思っていることでも、常識的でないことは、たくさんある。反対に、「非常識」
と思っていることでも、常識的なことは、たくさんある。そういう視点で、ものを考えなおす。

 ……ということで、その同性愛だが、残念ながら、私には、まったく理解できない。「同性愛の
男性にとっては、男性は、私が見る女性のようなものなのだろうな」というところまでは、理解で
きる。が、そこまで。

 反対に、同性愛の男性に近寄られたりすると、心底、ぞっとする。その感覚は、痴漢に襲わ
れた女性のそれに似ているのではないか?

 そういう意味では、私は、自分では、「濃い男」と思っている。つまり男の中でも、濃い男と薄
い男がいる。私は、その濃い方の男に属するということ。いまだかって、男性に興味をもったこ
とは、一度もない。

 が、それでよいというわけではない。

 私のような「濃い男」は、女性の目から見た「男」がわからない。どういう男がモテて、どういう
男がモテないか、それがわからない。「男」として、自分を客観的に見る目が、ないからと考え
てよい。

 つまり私のような「濃い男」にすれば、女性は、みな、女性。攻撃的に奪う相手ではあっても、
いちいち許しを乞いながら、つきあう相手ではない。だから、女性のあつかい方がへた。自分
勝手で、自己中心的。だから女性にモテない。

 自分でも、それがヨ〜ク、わかっている。だから、この分野については、とっくの昔に、あきら
めた。

 で、今、こう考えている。

 しかしそういう自分を中心にして、ものを書いてはいけないということ。少し前も、女児願望の
男児についての、エッセーを書いた。

 若いころの私なら、「それは問題」という視点で、ものを書いたかもしれない。それを相談して
きた母親も、そう思っているにちがいない。

 しかし今は、ちがう。10人、人間がいれば、その感覚は、みな、ちがう。ちがって当然。だか
ら、自分の常識を中心にものを考えて、それを相手に押しつけてはいけない。同性愛の問題
も、その中のひとつ。

 大切なことは、それぞれの人が、自分の常識の中で、楽しく、ほがらかに暮らすこと。そういう
意味では、同性愛者どうしが結婚したところで、何も、問題はない。それでだれかに迷惑をか
けるということがなければ……、という条件つきだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
同性愛について 同性愛 常識 男色道)

【補記】

●男児の性

 男児はいつごろから性にめざめるかだが、小学校に入学するころには、男児は、すでにその
兆候を見せ始める。

 それは何とも言えない、甘美な世界である。女性の乳房や、陰部、そういったものを思い浮
かべたり、想像したりするだけで、体がとろけていくような気分になる。フロイトは、母親に最初
の女性をみると説いたが、私のばあいには、母親には、まったく女性を感じなかった。

 私のばあいは、同年齢の女の子だった。1歳、年上でもダメ。1歳、年下でもダメ。同年齢の
女の子にしか、女性を感じなかった。

 隠れて、女の子の裸の絵を描いて楽しんでいたこともある。私が小学2〜4年生くらいのこと
ではなかったか。

 その私が、射精を覚えたのは、中学生になったころのことだと思う。6年生のときだったかも
しれない。年齢はよく覚えていない。

 近所に、1、2歳、年下の女の子がいて、その女の子といっしょにテレビを見ていたときのこ
と。横にすわった女の子が、私のズボンの中に、手を入れてきた。私が入れさせたのかもしれ
ない。その女の子が、私のペニスをいじり始めた。

 そのときまでにも、そういうことは、何回かあったと思う。私も、その女の子の体の中を、何回
か、のぞいたことがある。

 で、そのとき、体中が燃えるように熱く感じたあと、そのまま気を失うように感じた。ペニスは
はげしく脈動し、私は、そのまま射精をした。が、私は、それが射精だとは思わなかった。その
女の子が、「おしっこした!」と声をあげた。それはよく覚えている。で、あとになって、それが射
精だと知った。

 それからは周期的に夢精が始まり、私は、「男」になった。

 こうした性の変化は、女性の生理と、よく比較される。この時期、女の子も、初潮を経験す
る。

 ただいつも不公平だと思うのは、女の子の生理については、罪悪感もなく、堂々と論じられる
のにたいして、男の子の生理については、いつもそこに罪悪感がともなうということ。陰で論じ
られることはあっても、表に出てこない。

 男の子の射精についても、もっと、オープンに論じられて、よいのではないか。

 で、こんなこともあった。

 中学3年生のときのこと。まだ射精を経験したことがないという友だちがいた。G君という、体
の大きな友だちだった。彼があれこれ、私に相談してきた。

 そこで、私は、そのG君を、学校の屋上へつれて行き、マスターベーションのし方を教えてや
った。ペニスを出させて、「こういうふうに、こするのだ」というようなことをして見せた。

 が、G君のは、いっこうに大きくならない。そこで私が指先でつまんでみると、皮をかぶったま
ま、フニャフニャしている。あとでそれが「包茎」ということを知った。が、そのときは知らなかっ
た。

 「お前のは、へんだな……」、「そうかア?」というような、会話をしたと思う。

 そこで私は、屋上の床をこすって、砂をつくり、その砂で、彼のペニスをまぶし、思いっきり、
上下にこすってやった。その友だちは、何度も「痛い」と悲鳴をあげた。が、私はかまわず、こ
すった。強引に皮をむいてやった。

 それで包茎はなおったが、射精したというわけではない。射精するためには、勃起しなけれ
ばならない。勃起するためには、たとえば女性の裸の写真を見るとか、そういうことをしなけれ
ばならない。しかし、私も、そこまで詳しくはなかった。

 今となってみれば、それもなつかしい思い出。ついでに、さきほど、インターネットを使って、そ
のときのG君がどうなったかを調べてみた。郷里のG県で、ある会社の専務をしているとのこ
と。彼もあの日のことを、忘れていないはず。

 で、みな、男の子は、こうして、それぞれの方法で、おとなになっていく。

 「男」を知らない母親のために、参




目次へ戻る メインHPへ

【やる気論】

+++++++++++++++++

昨夜のサッカーの試合の後遺症か?
あるいは、睡眠不足か?

今朝は、どうも頭が重い。

体の動きが、にぶい。

気力も、あわせて、弱い。やる気が起きない?

+++++++++++++++++

●義理の兄

 義理の兄夫妻が、遊びに来てくれた。夕食をいっしょに、食べた。義理の兄は、会社を経営し
ている。あちこちに土地をもっていて、その上に、賃貸ビルや会社を建てている。「悠々自適」と
いう言葉は、そういう人のためにある。

 驚いたのは、70歳に近いというのに、髪の毛が黒々としていること。おまけにフサフサしてい
る。「染めているの?」と聞くと、「いいや」と。

 私の髪の毛も、フサフサしているが、20〜30%は、もう白髪(しらが)。ワイフなどは、90%
近くが、白髪。

 いろいろ話しているうちに、ひとつ気がついたことがある。それは兄の生き方が、前向きなこ
と。年齢を感じさせない。今は、ハーブ栽培に凝(こ)っているとか。「縁側が、ハーブだらけだ
よ」と言って、うれしそうに笑っていた。

 あとゴルフのクラブを、特注で作らせているとか、など。設計図も自分でひき、材質まで指定
して作るのだそうだ。「それが楽しい」と。

 そういうふうに、前向きに生きている人と話していると、楽しい。自分まで、どんどんと若返っ
ていくのがわかる。

 ところで、(やる気)を引き出すのは、脳内で分泌される、カテコールアミンという物質だそう
だ。

 つまり、何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれが、回りまわって、やる気につながるという。

 兄の脳みその中には、その物質が充満しているらしい。

 以前書いた原稿を、2作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき小学生vs前向きな小学生

私「君は、何をしたい?」
小「何も、ない」
私「何をしているときが、一番、楽しいの?」
小「友だちと、遊んでいるとき」

私「おとなになったら、何をしたいの?」
小「何もない……」
私「してみたい仕事はないの?」
小「あんまり、ない。考えてない」

私「だけど、何か、しなければいかんだろう?」
小「……わからん」
私「もうすぐ、おとなになるよ。目標をもたなくちゃあ……」
小「まだまだ、だよ」

私「じゃあ、なぜ、勉強しているの?」
小「一応、やらなくちゃ、いけないから……」
私「したい勉強は、ないの?」
小「ふん……」と。

 小学6年生のK君(男子)との会話である。

 K君に、問題があるというのではない。夢も、希望もない。もちろん目的もない。今、そういう
小学生が、ふえている。全体の、半数以上が、そうではないか。

 が、親は、「勉強しろ」「いい学校へ入れ」と、子どもを追いたてる。つまり親自身が、子どもの
進路を混乱させている。それに気づいていない。

 一方、今、小説を書くことに、熱中している小学生がいる。5年生のOさん(女子)である。毎
週、何かの小説を書いてきて、私に読ませてくれる。

 そういう小学生は、生き生きしている。目も輝いている。

私「おとなになったら、何になるの?」
小「お医者さん」
私「じゃあ、うんと勉強しなくちゃいけないね」
小「でも、花が好きだから、花屋さんでもいい」

私「また小説、書いてきてよ。読みたいから……」
小「今度は、冒険の話でもいい?」
私「いいよ。ハリーポッターのようなのを、ね」
小「わかった……」と。

 このタイプの子どもは、つぎつぎと、自分のしたいことを、決めていく。多芸多才。ひとつの目
標を決めると、自らコースを設定して、その中に自分を置く。あとは、自身の力で、前に進んで
行く。

 ここに書いた、K君も、Oさんも、実は、架空の子どもである。今までに、私の前を通りすぎた
何人かの子どもを、まとめて書いた。

 で、その分かれ道というか、どうして子どもはK君のような子どもになり、またOさんのような子
どもになるのか。また、いつごろ、その分かれ道はできるのか。

 私は本当のところ、0〜1歳児については、よくわからない。しかしそのころ、すでにその分か
れ道はできると思う。4歳や5歳ではない。2歳や3歳ではない。その前だ。

 となると、そのカギをにぎるのは、母親ということになる。母親が、子どもが進むべき道を決め
る。むずかしいことではない。

 子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、Oさんのようになる。しか
しそうでないとき、子どもは、K君のようになる。

 あるべき環境というのは、心暖まる親の愛情に包まれ、安定し、信頼関係のしっかりした環
境ということになる。そういう環境の中で、静かに、どこまでも静かに育てる。

 それを、生まれた直後から、ほら、英才教育だ、ほら、早期教育だ、ほら、バイリンガルだ…
…とやりだすから、話がおかしくなる。子どもは、親に振りまわされるだけ。振りわされながら、
子どもは、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなってしまう。

 子どもがK君のようになると、親は、あせる。そして無理をする。あとは、この悪循環。子ども
はますます、やる気のない子どもになっていく。

 「友だちと遊んでいるときだけが、楽しい」と。

 そうなってしまってからは、もう手遅れ。子どもの心というのは、そうは、簡単にはできない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 子供 子供のやる気 積極的な子供 消極的な子ども)

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
どうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気のある子供 やる気のない子供 子どものやる気 子供のやる気 やる気論)





目次へ戻る メインHPへ

●子どもの自立

●ウソ、ごまかし、盗み

++++++++++++++

子どもがウソをついたからといって、
トコトン、子どもを追いつめては
いけない。

子どもは、おとなをごまかすことで、
自信をもち、ついで、自立していく。

++++++++++++++

 子どもにとって、(1)ウソ、(2)ごまかし、(3)盗みは、いわば、おとなになるための熱病のよ
うなもの。この3つを通して、子どもは、おとなからの(自立)を学ぶ。「おとなを、してやった!」
という思い、つまり自信が、子どもを自立させる。

 私もときどき、こんなことをする。

 「戦いごっこ」と称して、子どもたちと戦いごっこをする。そのためのコスチュームも一応、一式
すべて、そろえてある。

 この戦いごっこを通して、私は、わざと負けてやる。「痛い、痛い」「参った、参った」「ごめん、
ごめん」と。

 この方法は、母親の威圧で押しこめられてしまったような子どもに、効果がある。どこかおと
なしく、どこかいい子で、どこか自信をなくしたような子どもである。これを1、2回(1、2回でじゅ
うぶん)するだけで、その子どもの表情は、とたんに、見ちがえるほど、明るくなる。

 悪いのは、おとなの優位性を子どもに押しつけること。「おとなは偉い」「おとなはすばらしい」
と。そして子どもに向かっては、「君たちは、おとなには、かなわない」と、その力(?)を誇示す
る。子どもは、自信をなくすだけではなく、服従的になったり、反対に、権威主義的になったりす
る。

 子どもを伸ばすコツ……ときには、子どものレベルまで自分をさげ、子どもに、「バカだ、アホ
だ」と思わせつつ、自信をもたせること。

 この自信が、子どもを伸ばす。

 で、ここに書いた、(1)ウソ、(2)ごまかし、(3)盗みも、同じように考えてよい。それを許せと
いうのではない。しかし、それをしたからといって、神経質になったり、カリカリしてはいけない。
一応、叱りながらも、「子どもというのは、そういうもの」と、一歩退いて考える。この余裕が、子
どもの表情を明るくする。

 子どもは、満1・5歳〜2歳前後から、ウソを覚える。ウソ寝、ウソ泣きが、その代表的なも
の。さらに3〜4歳になると、おとなをごまかすことを覚える。また5〜6歳になり、金銭感覚が
身につくようになると、盗みをするようになる。親のサイフから、お金を抜き取るなど。

 こうして子どもは、自立を学ぶ。

 なお最終的には、「こんな親は、アテにならない」「自分でやったほうがマシ」と思わせること
で、子どもに自立を促す。私も、子どもたち(生徒)が、小学5〜6年生になったら、そういう形
で、子どもを手放すようにしている。

 「こんな先生は、アテにならない」「自分でやったほうがマシ」と。

 それを私は、「卒業」と呼んでいる。それまでが、私の仕事と考えている。子どもたちは、あと
は、自分で伸びていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自立 子供の嘘 虚言 ごまかし 盗み 盗癖 子どもの自立)

(追記)

 反対に、ウソもついたことがない、ごまかしたこともない、ものを盗んだこともないという子ども
のほうが、心配である。(そういう子どもは、いないと思うが……。)

しかし親が、威圧を加えて、子どもがそうすることを許さないケースもある。過関心、過干渉マ
マと言われる親が、このタイプの親である。このタイプの親は、ささいなミスや、まちがいを、お
おげさにとらえて、これまたおおげさに叱ったり、問題にしたりする。

そういう環境に育った子どもが、どうなるか? ……それについては、また別の機会に改めて、
考えてみたい。




検索文字(以下、順次、収録予定)
BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチエックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司 子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はやし浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司