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●すなお論

●子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あと
はその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすで
に備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かの
ことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫
理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえ
ば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、み
んな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、
生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きて
いくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まり
たいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たか
った。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識
論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて、書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる
のはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばら
れて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと
感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00
年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でな
らない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の
子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」
「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他
人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに
過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もい
る。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをも
うけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を
受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころ
には母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだ
が、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えてい
る。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで
大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そ
してその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なこと
でもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押し
つける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質
を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基
本である。
(はやし浩司 安易な常識論)



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●心の抵抗力

【子どもの世界・携帯電話】

●子供向け携帯電話

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子どもに携帯電話は、是か非か?

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 今ごろ、こんなことを論じても意味は、ほとんどない。すでに携帯電話は、おとなの世界では
もちろんのこと、子どもの世界でも、社会的に認知され、(あたりまえの道具)になってしまっ
た。このあたりの高校でも、携帯電話をもっていない高校生は、クラスに1人か2人……という
程度にすぎない(筆者、2002年ごろ、調査)。

 最近では、セキュリィティ上の理由から、小学生の間で、測位システム(GPS)機能つきの携
帯電話も、普及してきた。

 これに対して、「不要だ」「それがあれば安全だと、過信しやすい」「授業中にかかってきて、
授業を妨害する」などの、反対論も多い。

 一方、長距離通学の子どもをもつ父母の間からは、「必要だ」「ほかに安全を確保する手段
がない」などの意見が続出。結局、全体としてみれば、私立小学校では、携帯、OK、公立小学
校では、携帯、NOというのが現状のようである(参考、読売新聞)。

 で、こうした議論は、あたかも浜辺に打ちあげる波のように、そのつど、わき起きてきては、ま
た消える。私が子どものころには、漫画があった。漫画是非論である。

 すでに当時、手塚治が活躍していたが、私が住んでいたG県では、「漫画禁止令」なるもの
も、出された。「学校では、漫画を読んではいけない」と。

 それからテレビ是非論、さらにはビデオ是非論、テレビゲーム税非論、インターネット是非
論、そして携帯電話是非論へと、つづいた。

 で、結果としてみると、こうした時代の流れには、私たちおとなは、無力でしかないということ。
いろいろ騒いではみるが、しかしその流れを止めることはもちろんのこと、内部に立ち入ること
すらできない。つぎの世代はつぎの世代の人たちが、自分たちで決めていく。

 携帯電話にしても、その(流れ)の中にある。今では、電車の中でも、ワイワイ、ギャーギャー
と騒ぐ中学生や高校生は、ほとんどいない。みな、電車に乗ったとたん、携帯電話を開き、
黙々と、メールを打ち始める。

 私たちの世代にとっては、異様な光景だが、彼らにしてみれば、ごく当たり前の、ごく日常的
な光景である。そういう彼らに対して、「おかしい」「まちがっている」と、いったい、だれが言える
だろうか。

 テレビが急速に普及し始めたころも、そうだった。(今でもそうだが……)、テレビやテレビゲ
ームが理由で、外で遊ぶ子どもが、めっきりと減った。一時は、それが塾通いのせいだと言わ
れたが、実際には、農村部の子どもほど、家の中に閉じこもる時間が長いこともわかった。

その結果が、今、である。

 テレビにせよ、ゲームにせよ、携帯電話にせよ、(あたりまえの道具)になってしまった。今さ
ら、こうした(流れ)を逆行させることはできない。冒頭にも書いたように、是非を論じても、意味
がない。

 GPS機能付携帯電話にしても、「子ども自身が自ら考えて安全を守るという意識が薄れる」と
いう意見や、「子どもにもプライバシーというものがある。子どもの人権が守れない」という意見
もあるようだが、それは、少し考えすぎではないのか。私の知る範囲でも、そのGPS機能付携
帯電話をもっている子どもは、多い。しかしもの珍しさが目立ったのは、当初だけ。今では、話
題にもならない。

 ある程度の方向性は、おとなたちが作ってやらねばならない。それは当然だが、しかしそれ
にも限界がある。10人のうち、7〜8人が、抵抗したところで、2〜3人が、そのルールを破れ
ば、それでおしまい。抵抗を繰りかえす子どものほうが、かえって仲間はずれにされてしまう。

 テレビゲームやカードゲームに、その例をみるまでもない。

 では、私たちおとなは、どうすればよいのか。これからも、こうした問題は、そのつど、わき起
きてくる。その(流れ)は、加速されることはあっても、減速されることはない。つまり各論をいく
ら論じても、意味はない。で、総論として、どう考えたらよいのか。

 ひとつには、子ども自身に、(自ら考える力)を、幼児期から養っておくこと。その方法につい
ては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※1)。

 つぎに重要なのは、子ども自身に、(心の抵抗力)をつけておく。その方法についても、すでに
何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※2)。が、何よりも重要なの
は、おとなの私たちが、生きザマを、子どもたちに見せておくということ。それを棚にあげて、つ
まりそういうことをしないで、子どもたちの世界ばかり心配しても、意味はない(原稿を、あとで
添付※3)。

 ともかくも、こうした2つの力が子どもにあれば、子どもは、自ら自分を守っていく。自分の進
むべき方向を定めていく。

 が、それでも問題が起きてしまったとしたら……。

 それについては、各論として考えるしかない。そういった(当たり前の道具)を介して非行問題
が起きたとしたも、非行問題は非行問題として考えるしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 携帯
電話 GPS機能付携帯電話 時代の流れ)

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いくつか、以前書いた原稿を
添付しておきます。

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 子育て自由論(中日新聞掲載済み)

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※1【子育て自由論】

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

※2【心の抵抗力】

●夢のない子どもたち

 ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い衝撃
を与えた。

 どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸にされ
た」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。

 こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブローのよう
に、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねかえってくる。

 そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になって、それ
を打ち消す。が、焼け石に水!

 そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」と思っ
て、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国
の小学生3226人を対象に、04年度調査)。

 子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているというのは、
もはや幻想でしかない。

 が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。

 私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の世界で
も、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、すてきな
仕事ね」と言ってあげる。

「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」と。

 こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子どもをさらに前
向きに、ひっぱっていく。

 つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずかしいこと
ではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気づいていない。

 「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「もっと勉強
しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。

 こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定な状態
になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで起きた
学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?


●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!

 心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。

 たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶悪犯罪
の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。

 こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはたとえて
言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性病にしても、そ
れらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。

 そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言ってもよい。
つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。 

 が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせること
が、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。それが幼児
教育、と。

 決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とくにこれか
らの日本では、そうだ。

 で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいのか?

 方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。そうい
う環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っていて、どうし
て子どもを考える人間に育てることができるだろうか。

 ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのような番組
があげられている。

 ロンドンxxx(テレビ朝日系)
 水xx!(フジテレビ系)
 クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
 めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。

 こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来はない(失
礼!)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

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※3【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
抵抗力 4割の善 四割の善 子どもの世界 子供の世界)



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●恐怖症

●私設施設での怪死事件(?)

 名古屋市にある、I・Mという、自称「メンタル・スクール」で、1人の男性(26歳)が、怪死し
た。

 NEWS−iは、以下のように伝える。

 「先月(4月)、引きこもりの人たちが暮らす名古屋の民間施設で、入所していた26歳の男性
が死亡した事件で、愛知県警は施設の代表ら7人を、逮捕監禁致死の疑いで逮捕しました。

 逮捕されたのは、NPO法人(I・Mスクール)の代表で、SG容疑者(49)や、施設の従業員ら
合わせて7人です。

 調べによるとSG容疑者らは、先月14日、26歳の無職の男性を東京の自宅から名古屋の
施設に車で連れていく際、体を床に押さえつけたり、手錠やロープなどを使って拘束したほか、
施設に着いてからも、柱に鎖でつなぐなどして、4日後に死亡させた逮捕監禁致死の疑いがも
たれています。

 この施設は1991年にSG容疑者が、不登校や引きこもりの人たちを、共同生活を通して更
生させようと設置しました」と。

 さっそくI・Mスクールを、ヤフーで検索してみる。が、肝心の施設についてのページがない。H
Pの管理者が、早々と、関連ページを削除してしまったらしい。

 私の推測によれば、息子の引きこもりで困った家人が、I・Mスクールに連絡して、強制的に
入居させようとした過程で起きた事件ということになる。よく似た事件に、Tヨット・スクール事件
というのがあった。あれも、そういえば、名古屋市を舞台として起きた事件ではなかったか。

 ほかに、不登校の子どもを、罵倒(ばとう)してなおす(?)という女性も、名古屋にはいる。

 いろいろいきさつはあるのだろうが、全体としてみると、心の病気を、みなが、軽く考えすぎて
いるのではないか。とくに引きこもりについては、そうである。一見すると、怠け病(そんな病名
はないが……)に見える。そのため、まわりの者たちが、「何とかなる」「そんなはずはない」と
無理をする。その無知と無理解、そして無理が、積もり積もって、こうした事件へとつながる。

 SGという女性の顔は、報道記事などに添付されているが、そのSGという女性に、どれだけ
の基礎知識があったのか、はなはだ、疑問である。T・ヨットスクールの指導者にしても、また不
登校の子どもを、罵倒してなおすという女性にしても、そうである。

 熱病で苦しんでいる子どもに向かって、あたかも水をぶっかえるような対処法が、(理屈の上
では、熱を冷ますのだから水、という論理は成りたつが……)、果たして子どもの心の更生につ
ながるといえのだろうか。

 子どもが引きこもりを引き起こすまでには、長いプロセスがある。そしてそのプロセスは、子
どもが生まれたときから始まる。

 そうしたプロセスを無視して、いきなり……という対処法は、メチャというより、無謀、無謀とい
うより、デタラメと考えてよい。

 また別の機会に書いてみたいが、たとえば引きこもりをなおす(?)にしても、5年単位の時の
流れが必要である。そのためには、家人の根気と努力、それに愛情が必要である。苦しい戦
いかもしれないが、その戦いなくして、子どもを立ちなおさせることはできない。

 今回の事件は、まさにT・ヨットスクール事件の再現を思い起こさせる。これから先、I・Mスク
ールの内情が、明らかにされるだろう。それを待って、またこの問題を考えてみたい。

+++++++++++++++

私の経験を書いた原稿を
1作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

+++++++++++++++

子どもが恐怖症になるとき

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れ
た。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように
感じた。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐
怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。

これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐
怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、次
の三つに分けて考える。

(1)人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度
の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意
力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行ったような場所で
も、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)な
どの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなど
の症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。これはある子ども(小一男
児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始めるという。親から相談が
あったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにある、トンネルらしいということ
がわかった。

その子どもは閉所恐怖症だった。実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができな
かった。それと関係があるかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりする
と、ぞっとするような恐怖感を覚える。

(3)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見せただけ
で、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、一五人に一人はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原
因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多
い。

これも私のことだが、私は三〇歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。
高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができ
るためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症に
なり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。

無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心
が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、神経症
と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速度が五〇キロ前後を超える
と、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手
のひらがびっしょりと汗をかいていた。

が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、
克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状
態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。
そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。






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●ガールフレンドの妊娠

【掲示板への相談より】

++++++++++++++++++++

Nさんの息子さんは、今年、大学に入学しました。
しかしつきあっていた、1歳年上の女性が、
妊娠してしまったというのです。

現在、妊娠6か月。

Nさん夫婦は、息子さんたちの交際に反対していま
した。相手の女性の両親にも、何度もその旨を
伝えていたといいます。

しかし息子さんは、ときどき、相手の女性の家に
連泊。相手の女性の両親は、息子さんがそうすることを、
むしろ歓迎するようなところがあったといいます。

また相手の女性には、それ以前につきあっていた男性
との間にできた、1人の子どもがいます。

その子どもは、現在、満1歳。

そのNさんからの相談です。
掲示板でのやりとりを、そのままここに転写します。

Nさんは、今、落胆のドン底にいます。
みなさんの中で、同じような経験をなさった人が
いれば、どうか連絡してください。

Nさんにとって、何かの助けになれば、
うれしいです。

++++++++++++++++++++


【Nより、林へ】

2月に相談にのっていただいた、元高3息子の母です。
息子の彼女は18歳。1歳の子持ち。

その後、私は林先生のおっしゃる通りにして、頑張ってきました。
息子はなんとか大学に合格して(彼女の家のそば)、卒業もできました。
先生のおかげです。ありがとうございます。

息子は2時間半かけて大学に毎日通っています。彼女のところに行かなくなりました。
大学での女友達もできたようです。先生のおっしゃる通りだと思っていました。
そして、息子も「彼女とは終わった」と言いました。

ところがです、先週、彼女の母親から電話がありました。主人がでました。「娘とは終わったよ
うですが、携帯代その他もろもろのお金を立て替えている。話もあるので、その旨、伝えてほし
い。」とのことでした。

主人は「はじめから認めてないつきあいなので、電話あったことは伝えてきますが、後は息子と
話し合ってください」と言ったそうです。

また、今日電話あり、主人がでました。「息子さんから連絡がない。娘は妊娠6ヶ月です」と。

主人は「始めからずっと反対していると言っていたのに、あなたが2人の仲をあおってきた。携
帯代も払わないでくれ、交通費を出すのもやめてくれ、下宿先も教えないでくれ、といったの
に、あなたと娘さんがすべてしたのです。話し合いは息子としてくれ。一切知りません。」と言っ
たそうです。

今いる彼女の子どもも、元の彼からは、認知してもらっていないと聞いています。
主人も私も息子にすべて任せるつもりです。半分巣立っているのだから・・・
おかしいでしょうか?!
無責任でしょうか?!

でも、今までこんなにも息子と息子の彼女とその親に振り回されてきたのです。息子の1番大
事なときにでも、夜中でも「きて」と言われれば、息子は飛んでいきました。それで4日も帰って
こないことしばしばです。 私達親は、つらかったです。
まだ未青年だけど、巣立ったものとして、本人に任せてよいでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。教えてください.


【林より、Nへ】

まゆっくりと考えてみますが、妊娠の件は、フィクションではないかと思います。
きわめて重要な妊娠の話をさておいて、その前に、どうでもよい携帯電話の立替代の話を
請求してくるということは、どう考えても、不自然です。

私が相手の親なら、先週の電話で、開口一番、妊娠の話をしたと思います。

6か月もたっているというのでは、日数もおかしいですね。
まだつきあっているころに、すでに妊娠のことはわかっていたはずですから?

2月にNさんから相談があったときには、妊娠3か月目だったということになるわけです……。
相手の女性は、それに気づかなかったのでしょうか。

息子さんと連絡をとって、そのあたりの事情というか、様子を一度、確認なさって
みてはいかがでしょうか。

ご主人の態度は、立派です。支持します。こういうときは、夫婦が一丸となることです。
たじろいだり、不協和音を相手に見せてはいけません。どんなときも、毅然と、あなたの
ご主人の言ったとおりの態度と姿勢で臨みます。ここが重要です。

息子さんの年齢には、少し負担が大きすぎる事案かと思います。内部では、息子さんを
支え、外部に向かっては、「息子と解決してくれ」と主張なさることが、何よりも
賢明です。

本当に6か月なら、(私はウソだと思いますが)、中絶もできません。仮に妊娠が
本当であるとしても、認知の立証義務は、女性の側にありますから、ここは今、しばらく
様子を見られたらいかがでしょうか。息子さんの子であるという証拠を相手がもってくるまで、
否定つづけるのが、正攻法です。今のところ、打つ手はありません。

またあとでゆっくりと考えて返事を書きます。


【Nより、林へ】

ありがとうございます。
今日の朝方息子は酔って帰ってきました。
彼女のことを言うと、すでに妊娠のことは、2月には知っていたそうです。その時は結婚も考え
たそうですが、またいやになり、おろす事を2人で考えたそうです。

彼女の親はその時点で知っていたそうです。それを告げると、「そうなの?!」とだけ言ったそ
うです。

どうして、妊娠がわかった時点で、彼女の親は、こちらに言ってくれなかったのでしょう?
彼女から3月の終わりに、「別れよう」と言ったそうです。「子供は1人で育てる」と。
彼女の親が妊娠6か月まで言わなかったのは、養育費をこちらに請求するためなのかもしれ
ません。

今までずっと私たち親が、「交際をやめてください」ということを、ずっと言ってきました。
彼女の元彼との間にできた、17才のときに生んだ子供も認知してもらってないそうです。

息子には、入学の前日に「もし、今の彼女との間に子供でもできたらお前との縁は切る」と主人
がいいました。だから息子は、何も言えなかったと、今になって言います。
息子は今、彼女もおなかの子どもも死ねばいい。うざい。と言います。
あまりにも甘いです。

弁護士を立てて話したほうがいいでしょうか?!
私は主人の意見に従おうと思っていますが、息子があまりにも幼すぎて、らちがあかないよう
にも思えます。
お忙しいのに申し訳ございません。よろしくお願いいたします。


【林よりNへ】

そうでしたか……。

この際、責任のなすりあいをしても意味がありませんので、運命は運命として、
受け入れるしかないと思います。(もちろん、そんなことは相手に伝える必要
はありませんが……。あくまでも、こちら側の心づもりとして、です。)

運命というのは、それをのろったとき、悪魔に変身します。しかし受け入れて
しまえば、悪魔は向こうから退散していきます。

あなたのかわいい孫が誕生するのです。生まれ方には、少し問題がありますが、
孫は孫です。

法律的には、あなたのほうにも言い分はあるでしょうが、養育費ということに
なると、拒否はできません。弁護士を立ててくるのは、先方のほうですから、
相手がそう出てきたときに、はじめて、こちらも弁護士に相談してみたら
どうでしょうか。今は、こちらから動くべきときではありません。

息子さんと、向こうの女性と、話し合って解決するのが、何よりも第一です。

親のあなたたちに養育費の支払い義務はありませんので、そういう話があったても、親として
は、きっぱりと、拒否することです。

息子さんに、支払能力がないことは常識ですから、相手も強くは言えないはずです。
ただ、息子さんが、大学を卒業したあと、収入が入るようになった段階で、
養育費の問題は出てくると思います。その覚悟はしておく必要があります。

金額などは、そのとき弁護士双方で、調停でもすればよいかと思います。家事調停なら、
家庭裁判所で、当事者どうしでもできます。

弁護士……ということになると、話がおおげさになりますし、しこりも残ります。
当事者どうしで、円満に解決なさるほうが、賢明かと思います。

また、認知の問題も出てくることでしょう。しかし息子さんは、この問題から
逃げることはできません。

だったら、前向きに受け入れていくしかありません。

なお後日の係争のため、こちら側の言い分などについては、
証拠が取れるものについては、きちんと証拠を取っておくことをお勧めします。

電話なども、すべて録音されることを、お勧めします。

また息子さんと相手の女性との会話についても、
きちんと何らかの方法で、録音しておくことです。息子さんには、
そうお伝えください。

これからは、そうしてください。

親として、こちらから出る幕はありませんので、
相手から何かの動きがあるまで、動く必要はありません。

あとは親どうしでお金で解決するという方法もありますが、
それも一考してみてください。慰謝料、養育費の請求放棄などの
念書は、取っておきます。

苦しいご心中は察しますが、この際、冒頭にも書いたように、
運命を受け入れるのが、その苦しさから逃れる唯一の方法かと
思います。

1人の人間が、もうすぐ、この世に誕生するのですから……。

親というのは、子どもたちの尻拭いばかりさせられるものですよ。

ただ息子さんには、「お前には、人間として責任がある」と、はっきり
言っておくことは重要です。この問題だけは、息子さんにも、逃げる
ことはできません。そういう自覚だけは、しっかりともってもらいます。

ともかくも、相手の出方を、しばらく静観することしか、今のところ、
どうしようもないように思います。そのときがきたら、その覚悟をして
対処します。今は、そういう状況だと思います。

以上、参考までに……。

はやし浩司


【Nより、林へ】

ありがとうございます。

向こうから何か言ってくるまで静観します。
養育費の問題もわかりました。

ただ、息子は、他人ごとのように考えているようです。
彼女もおなかの子についても、死ねばいいなどとばかなことをいいます。
だからこそよけいに息子には、正面から向きあってもらいます.

息子が入学前に主人が「もし、今の彼女との間に子供でもできたら縁を切る。そしてお前への
援助(学費など)一切打ち切る。それを頭に置いて行動しろ」と、伝えていました。
息子は今日「だから言わなかった」と言いました。

今後、息子への親としての対応も考えていかねばなりません.
あのように言い切った以上、息子には一応制裁を親として与えるべきでしょうか?
1人暮らしをしてもらうとか・・・。

未成年だけど、大人として扱い、自立してもらう。
どうでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。
読んでいただきありがとうございました。


【林よりNへ】

 Nさんのご家庭では、(おどし)が、親子の会話の基本になっているようで、気になります。

 「縁を切る」とか、「学費を打ち切る」とか、そういう極端な言い方は、親子の間ではあまりしな
いほうがよいかと思います。あるいは長い過程の中で、そういう言い方になってしまったのでし
ょうか。

 おどしても、聞かない。だからますます強いおどしをかける。この悪循環が、どこかで始まって
しまったのかもしれませんね。しかしここは、冷静になってください。

 まずもって心配されるのは、Nさんが、息子さんの言い分だけしか聞いていないということで
す。息子さんは、「相手の女性が、別れると言った」「子どもはひとりで育てると言った」と言って
いるようですが、本当にそうでしょうか。ひょっとしたら、相手の女性は、相手の親たちには、別
のことを言っているかもしれません。

 ですからこちら側だけの言い分を相手にぶつけてしまうと、こうした事案は、こじれてしまいま
す。ですから、ますます冷静になってください。

 客観的に見ますと、その女性の最初の子どもは、その女性がどこかで遊んでいてできた子ど
もということになります。しかし息子さんとの間にできた子どもは、相手の親たちが公認のもと、
しかも息子さんが、その相手の家に出入りしている間にできた子どもということになります。

 「結婚する意思はなかった」と言っても、それは通らないかもしれません。あなたたちから見る
と、交際に反対していたのに、相手の親たちが勝手に、息子をかどわかしたということになりま
す。しかしひょっとしたら、相手の親たちは、そうは思っていないかもしれません。息子さんが、
相手の親たちに、どのような接し方をしていたのかは、あなたたちには、わからないわけです
から……。

 息子さんは、あなたたちにウソは言っていないと思います。しかしすべてを話しているとも、思
われません。

 そんなわけで、まず、当事者どうし、つまり息子さんと、相手の女性と、冷静に話しあう機会と
場所を、つくるようにし向けるのが、最善かと思います。

 お気持ちは理解できますが、「縁を切る」とか、「学費を止める」とか、さらには、「制裁する」と
いう話は、今、すべきではありません。またそれにこだわったところで、問題は解決しません。
この問題の基本には、あなたたち夫婦と、息子さんとの間で、長い時間の中で作られた、深
い、不信感があります。

 私の印象では、あなたの夫は、かなり権威主義的な、つまり古風な、親風を吹かすタイプの
父親ではなかったかと思います。もしそうなら、そうした父親に追いつめられていった、息子さ
んの気持ちが私には、よく理解できます。

 ……とまあ、あなたたちを責めるようなことばかり書きましたが、(子どもができてしまった)と
いう事実は、それくらい責任の重い話だということです。半分は、生まれてくる子どもの立場で、
ものを考えなくてはいけません。そういう子どもを、「うざい」とか、「死んでくれればいい」などと
いうのは、言語道断です。

 仮にあなたの息子さんが、(それにあなたたち夫婦も)、この問題からうまく(?)逃げ切ったと
しても、後味の悪さだけが残り、その後味の悪さは、息子さんにも、あなたたちにも、死ぬまで
ついて回るでしょう。

 だったら、前にも書いたように、この問題は、前向きに考えていきます。逃げるのでなく、正面
からぶつかっていきます。それこそ、相手の女性の子どもを、相手の女性が育てないというの
なら、引き取るぐらいの覚悟はもちます。(だからといって、こちら側から、それを申し出る必要
はありませんが……。)

 またそういう覚悟ができたとき、Nさんたちは、運命を受け入れたことになり、今の悶々とした
苦しみから解放されることになります。

 今こそ、息子さんと、冷静に話しあってみてください。おどすのではなく、冷静に、です。おた
がいに感情的になってしまったので、話しあいにもなりません。ですから、話し方としては、「あ
なたも苦しんでいると思うけど、どうしたらいいの? お父さんも、お母さんも、協力できる面が
あれば、協力する」というような言い方をします。

 「あなたの問題だから、あなたが解決しなさい」という言い方では、息子さんは、もっと突っ張
ってしまうかもしれません。

 あなたたちと息子さんの関係がよくわかりませんが、私の印象では、すでに断絶状態から、
修復不可能に近い段階まで進んでいるように感じます。が、これを機会に、もう一度、親子の
つながりを、取り戻すことができるかもしれません。

 あなたたち夫婦が、相手の親の立場ではなく、相手の女性の立場でもなく、生まれてくる子ど
もの立場で話をすれば、息子さんも、静かに話を聞いてくれるはずです。息子さんには、養育
費を払えとか、払わなくてもいいという話をするのではなく、当然、払うべきだという話し方をし
ます。

(だからといって、こちら側から、今、それを相手に申し出るという必要はありません。あくまで
も、人間として、1人の父親としての自覚と、責任を感じてもらいます。)

 十字架としては、少し大きすぎる十字架ですが、だれしも、この種の十字架の1本や2本は、
背負って生きているものです。しかしその十字架も、相手の両親や、女性のことを考えるなら、
何でもないものかもしれません。相手の女性は、18歳という若さで、これから先、2人の子ども
を育てていかねばなりません。

 欧米だったら、養子制度が発達していますから、今の段階で、養子縁組ができますが、この
日本では、それもままなりません。

 そんなわけで、もしあなたにその勇気と度量があるなら、つぎに相手の親から電話がかかっ
てきたら、「一度、娘さんと会って話をしてみたい」「息子にも、よく言い伝えておくので、息子と
娘さんが話しあう機会と場所を、提供したい」と言ってみてください。どこまでも穏やかに、冷静
に、かつ相手を責めることなく、です。

 決して、「私たちには責任はない」と、はね返してはいけません。もちろんこれらの話は、相手
から何らかのアクションがあってからのことですが……。

 今の状況は、当事者みなが、それぞれに追いつめられて、たがいにキズつけあっている。私
には、そう見えてなりません。ただ時期が、5年から10年、平均的な恋愛より、早かったという
だけのことです。

 なお法律的には、あなたがた両親には、養育費の支払い義務はありません。相手の両親に
も、請求権はありません。養育費を請求できるのは、子どものみ。子どもが未成年のときは、
親がその請求権を代行します。つまり相手の女性だけが、請求権を代行できます。しかし話し
あいの過程で、(取り決め)として、相手の女性が、あなたがた夫婦に、保証人になるように求
めてくる可能性はあります。(現に今、息子さんには支払能力はありませんので……。)

 もしそうならば、つまりあなたがたが保証人になれば、その結果として、たとえば息子さんか
らの養育費が2回程度、延滞したりすると、保証人のあなたがたに支払い義務が生ずることに
なります。

 私も法科の学生でしたが、今は、この程度にしか、わかりません。まちがっているかもしれま
せんので、そのときは、弁護士に相談してみてください。

 ともかくも、息子さんと相手の女性の話しあいを、何よりも優先させてください。それが第一歩
です。


【Nより、林へ】

いろいろとありがとうございます。

昨夜、私の同級生の弁護士に相談しました。
はやし先生と同じことをおっしゃいました。
ただ、息子は学生なので卒業してから支払能力発生になる、しかし、学生の間もアルバイトで
稼げるのなら支払能力ありになる、ということでした。

息子と話し合いました。と、言っても息子は、ほとんど無言でしたが・・・(昔から話し合いのとき
は無言になります。)
今までに息子は検診費として4万円払ったそうです。その時は結婚まで考えていたそうです。

その後、彼女から別れ話がでたそうです。で、おろす話を2人でしたそうですが、そのままにな
ってしまったそうです。

主人は、「人間としての誠意をみせろ。でないとおまえとの今後の関係を考える。生まれる子供
は一生会うつもりは無い」と言いました。私も承諾しました。

でも、この言葉はきつかったかもしれませんね。

息子は彼女と2人で話し合うと言いました。
私たち両親も同席するのがいいのでしょうか?
でも、彼女の顔をみるのもいやですが・・・。

同級生の弁護士は、2人で話し合いがつかないのな、両親をまじえて、それがだめなら家庭裁
判所で調停するのはどうかと言いました。でも、それは相手が何か言ってきてからのこと、との
こと。(はやし先生の意見と同じです)

去年の夏から一変、辛い日々、息子のことは口にチャックをし、大学に合格するまではと、見
守り続けてきました。彼女の親たちには振り回され、嘘をつかれ・・・。

息子には妊娠はさせてはいけないと、彼女ができてからずっと言いつづけてきたのに・・・・。や
っと巣立ってもらおうと、この7月に下宿するまではと思い、頑張ってきたのに・・・。

最後にこのような結果になり、私は立ち直れそうにもありません。でも、そんな息子に育てたの
は、私たち両親なのですね。

この状態を受け入れるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
息子と顔を合わせるのも辛いのです。
でも、頑張ります。


【林から、Nへ】

息子さんに任せるしかないようですね。

息子さんを責めたり、おどしたりしないように!

こうなってしまったのですから、受け入れて、
前に進みましょう!

それから自分を責めないこと。どこかで歯車が狂って、
それが悪循環となって、今の状況を作っただけです。


【Nから、林へ】

ありがとうございます。

以来、息子は全然、帰ってきません。
何度メールを送っても、返事もありません。
こちらの心配はどうでもいいようです。息子はそういう子です。

だから、主人は息子の態度に誠意がない限り、こちらは息子にたいして協力はしないと言って
います。
まずは息子の様子をみて、息子に任せます。

あちらの親も、1度こちらがつっぱねたので、連絡あるかどうかわかりません。
まずは息子に任せます。
で、間に誰か立ててあちらと話あうかもしれません。

ありがとうございます。


【林より、Nへ】

息子さんは、必ず帰ってきます。
許して忘れ、許して忘れ、
いつ帰ってきてもよいように、
窓をあけ、掃除だけはしておきます。

今こそ、Nさんは、親としての
真の愛情をためされているのですね。

めげないでください。

息子さんを信じて、許して、忘れる、ですよ。

いつか必ず笑い話しになりますよ。

では、

掲示板の記事を、そのまま
マガジンに載せますが、許してくださいね。

同じような問題をかかえている人は
たくさんいます。みんなで力を合わせて
いっしょに、がんばりましょう。

読者からの反応があれば、お知らせします。
力になってくれると思います。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 未成
年の子供の恋愛 妊娠 出産 養育費問題 養育費)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補記】

●親子の断絶

++++++++++++++++++

Nさんが、息子のことで悩んでいる。
苦しんでいる。

それは理解できる。しかし同じように
その息子も、苦しんでいる。

決して息子を肯定せよということではない。
しかしあなたには、その息子の悩みや、
苦しみが理解できるだろうか。

++++++++++++++++++

 Nさんから、息子の問題について、続報が届いている(「はやし浩司の掲示板」)。それをその
まま、ここに紹介する。

 これを読むとき、もちろん第一義的には、Nさん自身の悩みや苦しみを、理解する。しかし同
じように、息子自身も悩んでいる。苦しんでいる。つまり善良な人たちが、たがいに、キズつけ
あい、悩み、そしてキズつけあっている。それを理解する。

 で、あなたには、この書きこみを読んで、息子の叫び声が聞こえるだろうか。「お母さん、この
苦しみから、ぼくを救ってよ!」と。

 もしここでNさんが、息子との絆(BOND)を断ち切れば、息子は、まちがいなく、奈落の底へ
と落ちていく。今、Nさんは、その正念場を迎えつつある。がんばれ、Nさん! 息子がどうであ
れ、あなたは『許して、忘れる』。それを貫く。

 どんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、『許して、忘れる』。真の親の愛は、あな
たの手の届くところにある。そこであなたを待っている。がんばれ。Nさん、それにあなたの手
が届いたとき、あなたの息子は、変わる。本当の自分を前に出す。

 それがわからなければ、アルバムを出して見たらよい。息子が幼児期、少年時代の写真を
見たらよい。

 それを信じて、がんばれ!

【Nより、林へ】

ありがとうございます。

息子は夜中に帰ってきました。

彼女と会っていたのかと思いましたが、友達と遊んできたようです。(許せないです)
今朝、起こすと、怒鳴り声で、「うるさい!」と叫ぶ。で、そのまま私は仕事に出かけ、帰ってくる
と、使うはずの商品券5000円が、なくなっていました。息子は、部屋にそれを包んで箱だけ残
して・・。

夕方、帰ってきた息子に問いただすと、「昼飯代くれなかったから取っただけ」と・・・。

中学時代からしょっちゅう、うちのお金を盗んできた息子。そのつど怒りましたが、バイトを始め
た今でも、手持ちがなくなると平気でこんなことをします。

彼女と会うと言っていたのに、会わずに帰ってきました・・・。

いろんなことから逃げて、人の物を勝手に盗み、自分さえよければ、今だけよければそれでい
い。バイトもしょっちゅう変わり、バイト先の人にも怒られました。

いくら親に何を言われても平気。

こんな息子だからこそ、今回のこと(女友だちが妊娠したこと)は、本当に向き合ってもらいた
いです。
きちんと十字架を背負って。

許して忘れ、いつ帰ってきてもいいようにしておく・・・。
それは、本当につらいことですね。

高校時代、「家を出たい」と、ずっと言ってた息子。資金面で我慢させてしまいました。
今、逆に私は、3月に下宿させればよかった・・・と後悔しています。
今は、早く下宿させたいと思っています・・。

昨日も今日も息子と話し合いできずに終わってしまいました。
冷静に落ち着いて、母親として話し合いたいのですが・・・。

親としての真の愛情を与えられるよう、しばらく息子の態度をみます。
ありがとうございます。

+++++++++++++++++

 「形」としては、家庭内暴力に似ている。またそれに準じて、子どもの心理を考える。Nさんの
息子は、ギリギリのところで、Nさんという母親の限界を確認しながら、(無意識ではあるにせ
よ)、Nさんを痛めつけている。苦しめている。

 息子自身も、自分でも、どうしたらよいのか、わからないでいる。そのため自己嫌悪から、自
暴自棄へと、走りつつある。もしここでNさんが、その絆(BOND)を断ち切れば、息子は、先に
も書いたように、奈落の底へ落ちていく。

 息子もそれがわかっているから、今、懸命にふんばっている。「そんなことをすれば、かえっ
て親に嫌われるだけ」と、ふつうの人だったら、そう考えるだろう。しかし息子は、嫌われること
によって、自己主張している。心理学の世界では、(2匹のヤマアラシ)という言葉を使って、そ
れを説明する。

 寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づけると、
たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラシは、一晩中、穴
の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

 この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と接触す
ることによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。しかし今のNさ
んと、Nさんの息子を見ていると、そういう感じがする。

 たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別れるこ
ともできない……。

 息子の立場で言えば、こうだ。

 「今まで、何度も何度も、SOSのサインを出してきたのに、お父さんも、お母さんも、わかって
くれなかった」と。

 Nさんにしてみれば、息子が甘ったれた人間に見えるかもしれない。バイトを転々としたの
も、不満かもしれない。しかし息子にしてみれば、何をやっても、うまくいかない。自分のしたい
こととちがう。父親や母親からは、何をしても、頭から否定される……。おどされる……。どこか
に自分がいるのだが、どうしても、それがつかめない。

 それが転じて、Nさんの息子は、どこか暴力的だが、そういう方法で、自分を取り戻そうとして
いる。模索している。やり方としては、幼稚だが、息子には、それしか方法が、思いつかないの
だ。

 あえて言うなら、今、こういう状態になっている親子は、決して、少なくない。全体の何割かが
そうであると言ってよいほど、多い。

 だから今のNさんにすべきことは、ただひとつ。

 「あなたにどんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、私は、へこたれませんからね。
あなたをとことん愛しますからね」という態度を貫くこと。Nさん自身も気がついているが、人を
愛するということ、つまり『許して忘れる』ということは、それほどまでに過酷で、つらい。きびし
い。

 そのきびしさを、私は、「第二のお産」と呼んでいる。

 それができたとき、親は、真の愛にたどりつくことができる。

 負けてはだめですよ。Nさん、がんばれ! その「愛」さえあれば、息子は、必ず、立ちなお
る! 私はそういう事例を、何十例も見てきた。ウソではない。だから、がんばれ! 私を信じ
て、がんばれ!

 迷ったり、袋小路に入ることはあるかもしれないが、息子にだけには、そんな弱みは、見せて
はいけない。あなたは堂々と、息子を信じ、愛せよ。『許して、忘れよ』。それを息子が肌で感じ
たとき、ひょっとしたら、あなたはこの世にいないかもしれない。10年先かもしれない。20年先
かもしれない。

 しかしそれでも、あなたは、今のあなたを貫く。コツは、暖かい無視。商品券ぐらいのことで、
ガタガタしてはいけない。無視して、お金の管理だけは、しっかりとする。

 私は今まで、本能的愛、代償的愛、そして真の愛について、何度も書いてきた。生まれた赤
ん坊に頬ずりをして、「かわいい」「かわいい」というのが、本能的愛。

 子どもの受験勉強に狂奔するような親が感ずるのが、代償的愛。「子どもため」を口実にしな
がら、結局は、自分の心のスキマを埋めるために、子どもを利用しているだけ。

 そして真の愛。今のNさんには、それがわからないかもしれない。しかし今、Nさんは、その真
の愛の一歩、手前にいる。

 そこは実に、おおらかで、心豊かな世界。5000円くらいの商品券で、カリカリするようなこと
もない。が、今、ここで息子を突き放してしまえば、Nさんは、せっかくのチャンスを逃すことにな
る。

 Nさん、いいですか! 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。それを忘れて
はいけませんよ。今、あなたの息子は、あなたに真の愛というのがどういうものであるかを、命
をかけて、教えようとしている。

 あなたはそれを学べばよい。すなおな気持ちで、それを学べばよい。親意識など、クソ食ら
え! 親の威厳など、クソ食らえ! あなたは、もっとバカな親になればよい。とことんバカな親
になればよい。1人の人間として、息子の前に立ち、泣きたいときは、すなおに泣けばよい。あ
やまるべきことは、すなおにあやまればよい。まず、あなたが全幅に心を開いて、胸の中のあ
りったけの気持ちを、語ればよい。

 あとは、時間が解決してくれる。「愛」には、魔法の力がある。「時」には、心を癒す、これまた
魔法の力がある。

 負けてはだめですよ。くじけたら、だめですよ。ここが正念場ですよ!!!!

 がんばれ、Nさん!!!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 真の
愛 親の真の愛 本能的な愛 代償的愛 はやし浩司 親子の正念場 はやし浩司 第二の
お産 第二の出産)







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●万引き

【掲示板への相談より】

●子どもの万引き

++++++++++++++++

Mさん(母親が、息子(9歳)の
盗癖(?)に悩んでいます。

それについて、少し考えて
みます。

++++++++++++++++

【Mさんより、林へ】
 
長くなりそうなので、こちらに書かせていただきましたが、住所氏名は不要でしょうか。
小学4年生の息子のご相談をさせていただきます。

ここ2〜3週間の間に、複数の店で万引きをしているようなのです。

家のお金も持ち出して品物を買い、部屋に隠していました。お恥ずかしいですが、お金がない
ことに私はすぐに気づきませんでした。本屋から帰った時の様子がおかしかったので、強引に
手提げ袋の中をみると、ビニールのかかったままの漫画本が、何冊もありました。

主人が問いただすと、ああいえばこういう式のウソをつき、泣き、最終的に「間違えて持って帰
った」というようなことを言いました。

主人と一緒に本屋さんに謝罪に行きましたが、自分が盗ったとは認めていないので、とにかく
悪いことをしたと思っているように見えないのです。その後、ほかの品物について聞こうとする
と、激しく泣いて怒り、逆ギレというかそういう状態になります。

お金のことになると、まず「勝手に財布の中をみないで」と。部屋の中もみないでと言います。こ
ういうことは今まで言ったことはありませんでした。

今とにかく主人と悩んでいることは、もう1軒のお店のものも盗ったようなのですが、それとお金
のことも含めて、きちんと「自分がやった」と認めて欲しいのです。が、その話を持ち出すと泣い
て荒れて、話にならないことです。

認めてくれれば、私達はもちろん許すし、きちんとお店に謝ることができます。なるべく早く謝ま
らなければと思っています。そうしたいのです。そのために今現在私達はどうすればいいので
しょうか。

昨夜は、あまりにシャーシャーと、悪びれない態度なので、初めて主人に激しく叱られた息子で
す。私は「悪いことをした時は謝らないといけないね。大事な○○君だから、なにか思い出した
ことがあったらいつでも言ってね」と言い、それは冷静に聞いてくれました。

最近わがままがきつくなってきた息子。問題、原因は私の今までの息子への態度であるとわ
かっています。先生のHPを読ませて頂いて再確認するまでもなく、私の一貫性のない態度、感
情のままの対応。息子が泣いて物にあたる姿は、私そのもののようです。

自分の意見が通らないとわがままをいう姿も私です。「お母さんはぼくの言うことを信用してくれ
ない」と主人に言ったそうです。こんな私になにかできることがあるのでしょうか。

【林より、Mさんへ】

万引きは、この時期の子どもの熱病のようなものです。
一応はしかりながらも、とことん、……という状況まで、子どもを追いつめてはいけません。
おどしたり、子どもが泣き出すほどまで、責めたててはいけません。

泣いたときには、耳は閉じたと考えてください。

冷静に、どこまでも冷静に。

こうした事案には、二番底、三番底があります。追いつめすぎると、
今度は、子どもは、その二番底、三番底……へと落ちていきます。

万引き程度では、すまなくなるということです。

また返事を書きます。

今しばらく、お待ちください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

はやし先生
お忙しいところ早速の回答ありがとうございました。
盗ってきたものの量の多さ、シャーシャーとした態度に、ついこちらもなにか
言いたくなってしまうのですが、こらえます。またよろしくお願いいたします。

【林より、Mさんへ】

もうひとつ可能性として考えられるのは、
万引きをしてきたのではなく、おうちの方のサイフなどから、
直接お金を盗んで、買ってきたのではないかということです。

量が多いときは、まず、それを疑います。

家庭内でのお金の管理を徹底することで対処します。

【Mさんより、林へ】

家のお金も持ち出しています。子どもの財布にあるはずのない大金が
入っていたので。そして、たとえば本屋さんでは本を1冊は買い、あと何冊かを
持って帰るという風にしていたようです。

あともう一軒の店でも、少し買っては、同時にほかのものを持って帰り、それを私などに
プレゼントと言ってくれたりしていました。

その時から少しおかしいとは思っていました。今日も、おそらく盗んだであろうところの
折り紙で、私に色々折ってくれました。悲しい気持ちで、ありがとうと言って、それを
受け取りました。

【Mさんより、林へ、追伸】

数日前小4の息子の万引き、お金持ち出しで相談させていただいたものです。
お忙しいのにたびたび失礼します。

月曜以来、子どもに盗ったらしい品物やお金のことは聞いていません。

ここ数日、毎日の日課のようだった私の小言をやめ、子どものペースでやりたいように
やらせていました。やはり情緒不安定な感じで、時々、だだっこのようになりますが。
今朝、子どもが私の財布からお金を抜いていたことがわかったのですが、
私が大変うかつなことをしてしまいました。

まず、うっかり目につくところに財布を置いて寝てしまいました。
朝おきて気がついてみると、財布の中から、数千円がなくなっています。

子どもが別の部屋にいる間に子どもの財布をみると、そのお金が入っていました。
そして私はそのお金を自分の財布にもどして、子どもに聞いてしまったのです。

「お母さんの財布触った? お金しらない?」と。

あとで夫にたしなめられました。先日子どもはお父さんに財布の中を見られた時
激しく泣いて、ちゃんと話ができませんでした。何も言わずお金はそのままに
しておくべきでした。

今朝はその後、子どもがお金がないのに気づき、表情は一変するものの、お父さんとそのまま
朝食→その間に私が財布にお金を戻す→子どもがまたお金を確認→財布以外のかばんに隠
す、という具合で、今、そのお金は子どものかばんの中にあり、今日は多分お友達の家にそれ
を持ってでかけるでしょう。

どうかどうか、お店でそのお金で買い物するだけにして帰ってきてほしい。
お父さんだけでなく、お母さんにも財布をチェックされたと思っている子ども。
何回やってしまったかはわかりませんが、買っても買っても、さらに盗みまでしても、
満たされてない子どもの心を思うと、母として申し訳なさで胸がいっぱいです。

夫は「何があっても、子どもを疑ったり責めたりするような表情をみせたり、言葉に
したりしないようにしよう」と言われました。でも、私は今までいっぱいいろんなことで
責めてきたような気がするのです。

許してあげたいけれども、打ち明けてもらえるのはいつなのか、不安です。

【林より、Mさんへ】

だから、お金の管理だけは、しっかりとします。
徹底的にします。

万引きしないように、家でお金を盗ませるという話は、
筋が通っていません。

もう息子さんは、万引きはしません。だからお金の管理だけを徹底的に
なさることです。

あと通帳、カードも。もうそろそろそういう知恵が
働く時期になっています。

また何があっても、子どものかばんの中、サイフの
中は、のぞいてはいけません。

あなたが老後になり、立場が逆転したときのことを
考えてください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

お忙しいところお返事ありがとうございます。
拙い文章ですみませんでした。

>万引きしないように家でお金を盗ませるという話は筋が通っていません

「万引きしないように家でお金を盗ませる」ために、わざと財布を見えるところに
置いたのではありません。

テーブルに出しっぱなしで寝て、しまった、私のミスでした。昨夜は祖母が泊まりに
きていたのでそういうことはしないだろうと、私も気が緩んでいました。
結果的にはお金を盗ませたことになってしまいました。
私の本気が足りなかったです。

そして、お金はそのままにしておいた方がいいと判断したのでしたが。

「万引きしないなら家のお金を盗んでもいい」とは決して思っていません。
なので、おっしゃる通りに管理を徹底します。

マガジンも、じっくり読ませていただいています。
たびたびすみませんでした。
ありがとうございました。

【林より、Mへ】

誤解した点はおわびいたします。

すみませんでした。

++++++++++++++++++++

【Mさんへ】

 お子さんを、H君としておきます。

 H君は、日常的に、たいへん不安定な心理的状況にあるものと思われます。それについて、
いくつかの原稿を書いたことがありますので、ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいに
は、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られると、トイレに
逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入
って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、も
し目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければ
ならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家
庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちもの
を検査せよ」という意見があった。

しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの中など、のぞけるものではない。私
など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイフ
を取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それを
してはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 逃げ
場 子どもの逃げ場 子供の逃げ場)

++++++++++++++++++

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。いわく、
「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子ど
ものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足り
ない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってくれないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だ
が、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほう
だ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうこと
だ!」と。その子ども(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなか
った。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ7
割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸
ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズまるけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさ
またげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過関
心 親の過関心 過干渉 神経質な子育て)

+++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題
をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と
決めつけて、無理をする人がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものこ
とは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受
け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非
行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 万引
き 悪循環 巣立ち 二番底)

++++++++++++++++++

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による
虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これら
のウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言に
ついては、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な
要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症に
よる症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつ
く)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを
言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処す
る。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな
家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思
い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化さ
せないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 神経
症 心身症 子どもの虚言 空想的虚言 妄言 子どものウソ 子供の嘘)

++++++++++++++++++

 ここに添付した原稿が参考になればうれしいです。

 H君にとって今、一番重要なのは、安定した、心豊かな家庭環境です。それを用意するの
は、容易なことではありませんが、Mさんは、すでにそれに気づいておられます。

 あとは、結局は、自分との戦いということになりますね。

 どうか、がんばってください。

 では、今日は、これで失礼します。



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●心を支える3つの物語

【心を支える、3つの物語】
2006年5月期、講演レジュメ(要旨)より

●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。
(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。

+++++++++++++++++++

  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自分の描い
た自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件ですね。
  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」ということになりま
す。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性をもたない
「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、子ど
もの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしくお願いしま
す。

+++++++++++++++++

【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】

●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その
先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子ども
は、その抵抗力も強くなります。
 
***************************

●同一性の危機(1)

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的(2)

 夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)

 同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)

 同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分(5)

 同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)

 暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)

 おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 


●自虐的攻撃性(8)

 攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って
攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで
勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」と
いう場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポー
ツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)

 「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱(13)

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強(15)

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)

 これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題(17)

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●同一
性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●
子どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを
伸ばす三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロ
の時代●大学生の問題●自我の同一性と役割形成)


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【文明の衝突】

++++++++++++++++

中国や、韓国で吹き荒れている、反米、
反日運動。

なぜ、今なのか?

それをただ単なる、民族主義の高揚に
よるものと考えると、ますますわけが
わからなくなる。またそう考えたと
ころで、解決策には、結びつかない。

++++++++++++++++

●日本も中国も同じ(?)

 前にもどこかで書いたが、ドイツ人のロシア嫌いには、相当なものがある。一部のドイツ人
が、そうであるというのではない。総じてみれば、みな、そうなのである。

 そういうドイツ人を見ていると、ふと、こう思う。私たち日本人から見ると、ドイツ人もロシア人
も、同じなのに、と。

 しかし同じことが、私たち日本人についても、言える。ヨーロッパの人たちから見ると、日本人
も中国人も同じ。区別できない。だから日本人はともかくも、中国人が日本人を嫌っているとい
う話を聞くと、ヨーロッパの人たちは、みな、こう思うにちがいない。

 私たちから見ると、日本人も中国人も、同じなのに、と。

 なぜか?

●生理的な嫌悪感

 つまり、なぜ、こうした、好きとか嫌いとかいう反応が、生理的な部分で起きてしまうのか。そ
の理由として、よくあげられるのが、民族意識であり、歴史認識の問題である。とくにドイツとロ
シアは、数世紀にまたがって、あるいはそれ以前から、たがいに戦ってきた。

 しかしこのことだけでは、なぜ中国人が、今、日本を嫌っているのか、その説明がつかない。
韓国人にしても、そうである。たしかにこの100年の間に、日本と中国、日本と韓国は、不幸な
戦争を経験した。それは事実である。しかしそれ以前はといえば、日本は極東のアジアの島国
として、中国とも韓国とも、それなりに、仲よくつきあっていた。

 ドイツとロシア、日本と中国、それに日本と韓国は、どこか同じようで、同じではない。そのち
がいは、どこから生まれるのか。

 実は、ここに「文明の対立」の問題がある。

 ヨーロッパは、言うまでもなく、西欧文明圏に属している。一方、ロシアは、スラブ文明圏に属
している。「文明」というのは、民族意識の上にあって、意識として意識されない意識をいう。い
わば無意識下の、帰属意識ということになる。相互帰属意識と言ってもよい。

 で、この日本について言うなら、日本は、敗戦時までは、中国や韓国と同じ、儒教文明圏に
属していた。細部はともかくも、マクロな見方をすれば、そうである。独特の集団意識、上下意
識、帰属意識、相互依存意識、先祖崇拝意識など。そういった意識は、儒教文明圏から生ま
れた、共通の意識と考えてよい。

●アメリカ型西欧文明を受け入れた日本

 が、日本は、アメリカという国に、一度は、すべてを焼き払われてしまった。同時に、それまで
もっていた儒教文明圏の中でもっていた、帰属意識まで、焼き払われてしまった。そしてその
かわりに、いわゆるアメリカ型西欧文明を、移植されてしまった。

 日本人というよりは、日本は、つまり、全体として、敗戦と同時に、儒教文明圏から脱し、アメ
リカ型西欧文明圏へと、移動したことになる。

 このことを如実に例として示しているのが、イタリアを観光旅行する日本人たちである。数年
前だが、イタリアに住む友人(オーストラリア人)が、こんなメールをくれたことがある。

「日本人には、2種類ある。ひとつは、ガイドのもつ旗について、ゾロゾロと観光旅行する日本
人。年配者に多い。もうひとつは、個人、もしくは数人ずつのグループをつくり、自由気ままに
旅をする日本人。若い人たちに多い」と。

 こうしたちがいは、30年前、40年前には、さらに、きわだっていた。

 香港へ来る日本人たちは、みな、ガイドがもつ旗を先頭に、ゾロゾロと並んで旅行をしてい
た。しかし香港へ来るヨーロッパ人たちは、みな、それぞれが単独で行動をしていた。

 こうしたちがいを見ただけでも、戦後、日本は、大きく変わったと言える。そのちがいをすべて
文明のちがいによるものだと言い切るには、少し無理があるかもしれない。が、しかしつぎのよ
うな事実を知れば、みなさんも、私の意見に同意するだろうと思う。

●日本人は、半分は、欧米人?

 ためしにあなたの子どもにこう聞いてみるとよい。

 「あなたは、アジア人か、ヨーロッパ人か」と。

 すると、ほとんどの子どもは、こう答える。「アジア人ではない」「半分、ヨーロッパ人だ」と。事
実、自分をアジア人と思っている子どもは、まず、いない。「君の肌だって黄色いではないか」と
言うと、「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ」と答える(テレビのある討論番組より)。

 ここまで書いたところで、私がこの先、何を書きたいか、もうおわかりのことと思う。つまり日
本人は、アメリカ型西欧文明圏の世界にいる。一方、中国や韓国は、昔も、今も、儒教文明圏
の世界にいる。

 こうした文明の対立は、それぞれが離れているときは、起きない。たがいに接しているところ
で起きる。ドイツとロシアがそうである。そして日本と中国がそうである。日本と韓国がそうであ
る。

 しかし日本とヨーロッパ、日本とロシアの間では、起きない。たがいに離れているからである。
が、ヨーロッパは、スラブ文明圏との対立のほか、アフリカ文明圏、さらにはアラブ文明圏とも
対立している。が、インドを中心とする、インダス文明圏とは対立していない。たがいに離れて
いるからである。

 かなりおおざっぱな、かつ乱暴な説明に聞こえるかもしれないが、そのあたりまで踏みこまな
いと、現在の日中関係、日韓関係を、うまく説明することができない。

 もちろん、日本は、完全にアメリカ型西欧文明圏に属したわけではない。この日本の中にも、
まだ儒教文明圏の亡霊のようなものは、残っている。そしてそれが時おり、顔を出して、世間を
騒がす。

 最近では、日本の文化がもつ「形」や「情緒」こそが、日本の顔だと説く本が、大ベストセラー
になっている。これなどは、いわば、行き過ぎたアメリカ型西欧文明に対する、反作用とも理解
できる。

 一方、中国や韓国の内部にも、アメリカ型西欧文明を受け入れようとする動きがある。儒教
文明圏といっても、決して、儒教一色ではない。アメリカ型西欧主義を取り入れた日本も、儒教
文明圏にいる中国も韓国も、どこか、まだら。

 そういった現象はあるものの、しかし全体としてみると、日本は、アメリカ型西欧文化圏に属
し、中国や韓国は、儒教文明圏に属する。

 この文明のちがいが、対立となって、先鋭化している。それが中国や韓国の、反米、反日運
動の底流にある。

●アリの世界

 ……という私の話を、あなたは、とっぴもない意見だと思うだろう。しかしついでにこんな話も
しておきたい。

 10年ほど前だが、アリの研究では、日本で何本かの指に入るという研究者から、直接、こん
な話を聞いたことがある。

 アリというのは、穴の中に住み、地面をはっている、あのアリである。あのアリには、巨大な
縄張りがあって、それぞれの種族が、日本列島を、何分割かに分けているという。その最前線
では、熾烈(しれつ)な、国境闘争を繰りかえしているという。

 驚いて私が、都市部ではどうですかと聞くと、その研究者は、こう言った。山の中だろうが、町
の中だろうが、それは関係ありません、と。その最前線が、ときに都市部の中央部を横切るこ
ともあるという。

 どこでそういう知識と知恵が働くのだろう。いや、アリ自身は、無意識なまま、たがいに戦って
いるにちがいない。

●帰属意識

 では、こうした文明圏を理解するためには、どうしたらよいのか。それをさらにみなさんにも理
解してもらえるように、私は、人間のもつ相互帰属意識を、つぎの7つの段階に分けてみた。

 家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

 5番目から下の、「文明意識」「人間意識」「生命意識」というのは、現在は、ほとんど無意識
下にあるとみてよい。相対的に、意識のレベルがあがったときはじめて、その姿を現す。

 たとえば少し話がSF的になるが、もし他の天体から、見るからに気味の悪い宇宙人が地球
を攻めてきたようなばあいを想定してみよう。その宇宙人は、人類を滅ぼし、地球を支配しよう
としている。

 恐らく人間は、民族や、国を忘れて、その宇宙人と戦うにちがいない。

 さらにもし、これまた別の天体から、機械じかけの宇宙人が、私たち生物を襲い始めたような
ばあいを想定してみよう。人間は、今度は、その気味の悪い宇宙人とも手を組んで、その機械
じかけの宇宙人と戦うにちがいない。

 つまり民族や、国を忘れて、宇宙人と戦う意識の底流にあるのが、6番目の、「人間意識」と
いうことになる。さらに気味の悪い宇宙人とも手を組んで戦うという意識の底流にあるのが、7
番目の、「生命意識」ということになる。

 では、文明意識は、どうかということになる。その例として、まずあげられるのが、十字軍であ
る。

 かつてヨーロッパのキリスト教徒たちは、ある時期、国や民族を忘れて、十字軍という名前の
軍隊を、イスラエルに向けて送った。名目上は、聖地奪回だったかもしれないが、それは同時
に文明と文明の対立であったとも考えられる。

 国が侵されたとき、その国の人たちは、国を守るために立ちあがる。
 民族も、そうだ。そして同じように、自分たちが属する文明圏に危機感をいだいたとき、その
文明に属する人たちは、立ちあがる。

 ここから先は、まさにSFの世界の話ということになるが、宇宙人が地球を攻めてきたような
ばあいには、地球人は、地球を守るために、立ちあがる。アメリカ映画にも、そんなような映画
があった。『インディペンデンス・デイ』という映画が、それである。

●終わりに……

 で、なぜ今、韓国で、反米、反日なのか? 中国の人たちは、どうして戦後の日本を受け入
れることができないのか。

 その答は、私は、文明のちがいにあると考える。またそう考えることによってのみ、彼らがも
つ、反米、反日感情を理解できる。彼らは、生理的な部分で、日本がもつ文明に対して、嫌悪
感を覚えている。そしてそれを、反米、反日感情へと結びつけている。

 なおアメリカの文明を、あえてアメリカ型西欧文明としたのは、いわゆるヨーロッパの西欧文
明とは、どこか異質なものであることによる。事実、ヨーロッパ人は、アメリカとは、常に一線を
引いている。

 ご存知の方も多いと思うが、総じてみれば、ヨーロッパ人は、アメリカを嫌っている。オースト
ラリア人にしても、そうだ。私が知るかぎり、アメリカが好きだというオーストラリア人は、1人も
いない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 帰属
意識 儒教文明 アメリカ型西欧文明)

【注】この原稿は、私の考えが、まだ半熟の状態で書いたもの。この問題については、近く、さ
らに掘りさげて考えてみたいと考えている。

 なお「文明の衝突」論者として、よく知られた学者に、サミュエル・ハンティントン(1927〜)が
いる。彼は、儒教文明にせよ、イスラム文明にせよ、西欧文明の優越性を認めておらず、その
ため、いつかこの2大文明が、西欧文明と大衝突をすると予測している。

 そうなってはいけないが、今、世界は、そのハンティントンが予測したとおりの道筋をたどって
いるというのは、不気味なことではないだろうか。つまり私の考えでは、その前哨戦が、今、日
本と中国、日本と韓国の間で、行われているということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 文明
の衝突 儒教文明 西欧文明 イスラム文明)

【補足】

 日本も、「愛国心」とか、「国を愛する心」とか、そんな了見の狭いことを言っていないで、どう
だろう、このあたりで、愛文明心とか、愛人間心、さらには愛生命心とか、言ってみては?

 「愛地球心」でも、よい。しかしこれは愛知万博(05年)のテーマにもなっていたので、ここで
は考えない。(二番煎じは、いやですね!)




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●いじめ

【掲示板への書き込み記事より】

++++++++++++++++++

20歳の男性から、
こんな書き込み記事がありました。

若者の暴力について、です。

++++++++++++++++++

【20男さんより、林へ】

はじめまして。 掲示板には名前は書かないほうがいいので、ここでは、「20歳男」と名乗りま
す。

相談と言ったらいいのか、伝えたい事と、質問したい事があります。

最近の若者はよくキレると言われ、実際その通りだと思います。では昔はどうだったのだろう
か?、と言う質問です。

また、人を殴ったりしても罪悪感を覚えない若者には、外見上の共通項があるのか。あるとし
たらどんな姿か、ご存知でしょうか。

自分は男の20歳で、(年齢的には、もっと下に見えるそうですが)、
癖毛で長髪、運動する時など、紐で後ろに縛ります。身長163cm程。
少なくとも現代の若者からすると、髪型が笑われます。(自分もついこの前まで高校生でし
た。)

しかし、顔の造詣自体は、目付きが鋭く、オタクの様に気持ち悪がられるより前に、暴力沙汰
に近そうと、怖がられる事もあります。

若者自身がカッコイイと思っている髪形は、スポーツ刈り、普通の短髪、ジェルで短髪を逆立て
たものなどがあります。

こちらが歩いているだけで殴りかかってくるのは上記の、ジェルで短髪を逆立てた小奇麗な外
見の若者です。また殴られはしないものの、このタイプの男は、学校でも乱暴だったような記憶
があります

しかし自分はそういう、若者同士から好評価を得られる髪形ではなく、癖毛で長髪で、ただ伸
ばしているだけです。長髪を紐で後ろに縛っています。

その自分の風貌が目に付いたのでしょう。先日健康のために公園を走っていると、笑われな
がら、缶を投げつけられたり、殴られたりと言う事がありました。被害届を出しました

年代が上の方には分りづらいかもしれませんが、自分のただ伸ばしているだけの長髪は、年
代が上の方には不良、あるいはカッコ良い、音楽をやっている人間と見られる事があります。

しかし今の若者からすると、それはカッコ良い髪型と言う訳でもなく、攻撃の対象(暴力沙汰の
対象)になる事もあります

自分には、男としての魅力だとかは余り無いのでしょうし、それが殴りやすかったり、絡まれや
すかったりする原因なのだと思います。

自分に絡んでくる若者は雄であり、恐らく若い女性だったら、自分が殴られるのを目撃しても、
止めようとはせず、通り過ぎていくことでしょう。(その女性が高校生だとしたら、通報してくれた
りする姿が、自分には、想像できません)。

性的に、どういう人間が魅力的なのかという基準について、どうこう言いたいのではなく、外見
の良し悪しの基準が、ひとつの原因となって、人に襲われるという事もあるということです。

その基準は全ての人間に共通というわけではなく、若者同士の間でだけかけられる見方なの
だと思います。キレた小奇麗な若者は、年代が上の人が見れば、普通の明るい少年に見える
かもしれません。

若者は2極化しています。誰かを殴りながら、その人を、ゴミの様に扱うのもいます。では昔は
どうだったのだろう?、と疑問に思い、こうして、聞きたくなりました。

昔は今よりもマトモな時代だったのでしょうか?

++++++++++++++++++++

 この青年は、今、他人から受ける暴力について、悩んでいる。公園の中を走っているだけで、
笑われたり、缶を投げつけられたりすることもあるという。殴りかかられたこともある。

 そこでこの青年は、その原因として、自分の風貌(ふうぼう)ではないかと書いている。そして
同時に、そういう暴力行為をする人間には、一定の共通点があるかどうかと、私に聞いてきて
いる。

 一見、淡々と自分のことを書いているが、その青年の立場に立って考えてみると、これはた
いへん深刻な問題と言ってよい。へたをすれば、その青年は、人間不信から、自暴自棄に陥
(おちい)ってしまうかもしれない。その青年の置かれた環境は、あまりよくないらしい。それは
よくわかるが、そういう環境しか知らず、その中でもがいている、その青年は、かわいそうです
ら、ある。

 が、決して同情しているのではない。むしろ私は、そういう環境をよいことに、その青年を、理
由もなく、笑ったり、缶を投げつける連中が、心底、許せない。なぜそんなことをするのかという
ことを聞く前に、私でも、そういう連中を、叩きのめしたい衝動にかられる。暴力には暴力という
考え方は正しくないが、しかし暴力でしか、そういう連中に、自分の非を認めさせる方法はない
のではないか。

 そう、弱いものいじめほど、卑怯なものはない。ただこれだけは、覚えておくとよい。人は、い
じめられれば、いじめられるほど、何が大切で、何がそうでないかを知る。一方、いじめる側の
人間は、ますます人生の真理から遠ざかり、遠い、遠い、回り道をすることになる。つまらない
人生を送ることになる。時間を無駄にすることになる。

 気がついたときには、人生も終わっている……。そうなる可能性はたいへん高い。

 だから、そういう連中は、反対に、笑ってやればよい。心底、軽蔑してやればよい。しかしそ
れには、ひとつ、条件がある。そういう連中を笑えるほどまでに、自分自身を高めなければなら
ない。それをしないと、自分自身も、結局は、ズルズルと、そういう連中の仲間に引きずりこま
れてしまう。

 愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまうということは、この
世界ではよくある。つまり批判したり、嫌ったりするだけでは、問題は、解決しない。

 が、自分を高めれば、やがてそういう連中が、餌を求める山猿に見えてくる。ゴミをあさる、カ
ラスに見えてくる。そういう形で、そういう連中と決別する。そういう自分と決別する。同時に、そ
ういう環境と、決別する。

 それがその青年には、できるだろうか?

【はやし浩司より、20歳男さんへ】

 私の時代にも、暴力事件は、ありました。今よりも、もっと多かったかもしれません。しかし1
対1の関係というよりは、集団対集団という関係のほうが多かったように思います。

 ある高校の連中が、突然、となりの学校へ押し入って、そこで相手の連中と殴りあうというよ
うな暴力行為です。また私が入った高校では、上級生が、下級生を暴力でしごくというようなこ
とが、慣例として、なされていました。

 先生たちは、見て見ぬふりをしていたのではなかったのかと、今にして思うと、そういう感じが
します。そのほうが、学校としては、都合がよかったからです。生徒が、先生に対して、おとなし
くなり、従順になるからです。

 そういう意味では、昔の暴力の方が、わかりやすかったかもしれません。まだ戦後のドサクサ
が残っているような時代でしたから……。

 しかしあなたの今、置かれている環境は、ふつうではないですね。心がすさんでいるという
か、殺伐(さつばつ)としているというか……。まるで暴力映画を、地でいくような世界のような感
じがします。

 で、私が今、アドバイスできることと言えば、できるだけそういう世界とは、早く、縁を切りなさ
いということ。でないと、あなた自身も、そういう世界に巻き込まれてしまう。その危険性は、た
いへん高いです。

 何か、自分を高める方法はありませんか? 目標はありませんか? 夢や希望は、ありませ
んか? もしあれば、そういうものに向かって、今は、まっしぐらに進むべきときです。そういう
連中にかかわりあっている暇は、ないはずです。

 はっきり言えば、キレる子どもに定型は、ありません。もちろん髪型で区別するということは、
できません。しかし心がゆがんだ子どもには、共通の症状、つまり俗に言う、ツッパリ症候群と
いうのはあります。独特の歩き方、すさんだ目つき、拒否的態度などなど。

 しかし彼らとて、精一杯、そういう形で、自分の(顔)をもとうとしているのですね。何もとりえが
ないものだから、暴力で訴えることによって、自分の存在感を作ろうとしている。そういう点で
は、あわれな人たちです。あなたから見て、目立つ髪形をするのも、その存在感をアピールす
るためのものと考えてよいです。

 今のあなたに、そういう人たちを、かわいそうと思うだけの余裕はないかもしれません。しかし
あなたが、自分を高めれば、いつかすぐ、そういう目で、そういう人たちを見ることができるよう
になります。あるいは相手にしなくなる。

 私は、少し前、T氏という男性と、2時間ほど、あることで話しあいました。T氏というのは、多
分、明日(15日)、ワールドカップ代表選手として、選ばれる人です。その男性と話しているとき
のこと。私は、その途中で、何度も、その男性のもつ人格の完成度に驚きました。

 「この人は、私より、30歳近くも若いのに、何という完成度!」と。

 T氏は、昨年のアジアカップ杯では、初戦から、最後の北京でのあの優勝戦まで、ずっと活躍
した人です。つまりそこにいたるプロセス、そして幾多の国際試合が、T氏をして、そういうT氏
にしたのですね。

 別れるとき、「すばらしい人生を歩んでおられますね」と声をかけると、T氏は、はにかみなが
ら、「ぼくには、スポーツ(サッカー)しかできませんから」と笑っていました。しかしひとつのこと
をやりとげた人というのは、そういう人を言うのですね。

 20歳という年齢は、すばらしい年齢ですよ。その上、あなたは若いのに、すでに自分を静か
に見つめる目をもっている。今の若い人たちには、なかなかない(目)です。それを信じて、そ
れがたとえかなわぬ夢であっても、あなたはあなたで、ただひたすら前に進む。進むことに、意
味があるのです。

 結果があっても、なくても、です。あるいは結果は、必ず、あとからついてくる。

 私はよく「山登り」という言葉を使います。あなたはあなたで、どんな小さな山でもよいから、登
ってみる。そうするとですね、不思議なことに、意外と、視野が広い。「あんな低い山……」と思
って登ってみても、実際に登ってみると、遠くに、太平洋や、富士山が見えたりして……。

 そしてそれまで自分がいたところが、驚くほど低いところにあったのがわかる。山登りという
のは、そういうものです。

 ここに書いたT氏にしてみれば、この日本中が、足元の小さなゴミのように見えるかもしれま
せん。ひょっとしたら、日本の総理大臣すらも、足元でうごめく、小さな人間に見えるかもしれな
い。そういう人を、人格の完成度の高い人といいます。

 でね、私はそのT氏と別れたあと、こう思いました。「いったい、自分は、この50年間、何をし
てきたのだろう」と。自分という人間が、どこまでも、つまらない人間に見えてきたからです。何
かをしてきたつもりなのに、その何かが、何も残っていない……。それに気がつくのが、私のば
あい、30年、遅かった!

 しかし今のあなたなら、それができる。こう言うのは自分の敗北を認めるようでつらいです
が、あなたがうらやましい! 私があなたの年齢のときには、私の心の目は、盲目だった。た
だがむしゃらに、人を蹴飛ばしながら、生きていた。

 自分のことしか考えていなかった。自分の利益しか考えていなかった。私は、そういう意味で
は、盲目でした。人の心が、まるで見えなかった。

 だから何も残っていないのです。が、あなたは、盲目ではない。自分につけられた心のキズを
通して、相手の心を冷静に見ようとしている。これはとても、すばらしいことなのですね。

 さあ、あなたも勇気を出して、一歩、前に進んでみよう。前に山があれば、その山に登ってみ
よう。それができたとき、今のあなたがかかえる問題は、自然消滅の形で、あなたの前から消
えているはずです。

 笑われても、缶を投げつけられても、また殴られても、……いや、あなたがどんな小さな山で
もよい、その山に登れば、だれもあなたに対して、もう、それができなくなりますよ。

 「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
の悩み いじめ 暴力)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【追記】


●ある青年の苦悩(2)

++++++++++++++++++

私のHPの掲示板で、ある男性と
2度ほど、やり取りをした。

20歳の男性である。

その男性は、今、自分とは何かを、
懸命に模索している。

++++++++++++++++++

【20歳男性より、林へ……】

>愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまう

たしかに、そう思います。(そもそも、自分に缶を投げたり、殴りかかってきたのは)、見ず知ら
ずの人間でした。もし自分が中年の男性だったら、分かりません。そういうことをしなかったか
もしれません。が、自分は、童顔で高校生に見えて、そのため、対抗意識を持たれたのでしょ
う。)そんな人間の事をいつまでも恨んでいても、こちらの時間が消えていくだけです。

しばらくその現場には、近づかないようにするなどのことはしなければなりませんが…。
今、自分はそう言う人間の事を考えている場合でもありませんし、余裕ができても、関りたい相
手とも思えません

前の投稿では書ききれませんでしたが、自分は高校を2年で辞め、現在20歳です。それまで
のずっと学校に、朝から晩まで、通いづめの生活に疲れて、何もしなくなってしまったのです。
ただ家に帰って、寝るだけの生活でした。

高校での勉強は、中学と変わらない内容です。そういった勉強に、3年も使う事に、馬鹿馬鹿し
さと言うか、「なんでまた3年同じ事をやって無駄にしなければいけないんだ…」と思い、疲れま
した。

女性とつき合いを持とうと考えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったりしまし
た。(異性交遊の校則など、守らなくてもどうという事は無かった程度の校則ですし、そのほう
が健全、というか、健康でいられると思います。付き合いをしている人も居ました。)

職員からは気軽に頭を叩かれもするし、生徒と言うのは叩かれやすいよう、頭を少し前に傾け
る事が習慣になっています。そんな所を見られたくは無いなと思い、誰かとつき合いを持つな
ど、できませんでした

今でも、小学校から高校までの生活が、良い勉強になったとは、どうしても思えません。

正直に書けば、自分の知っている学校と言うのは、大した事をやっていませんし、今までの人
生を思い出した時に、「この少ない量の勉強に、人生の大半が、十数年も時間が使われてき
たんだな」「えっ?これだけに今までの人生を取られてたの!?」「で、何だったのだろう」と思
い、どうしても空しくなります。もちろん、人と遊んでいる時はありましたし、楽しかったのです
が。

自分にとって結果的には、途中で、何年間も何もしない時期が続いたのは、これから先、何か
の原動力になると思います。乱暴ですが一度自分でぶち壊して、何かが必要だという時期が
訪れるまで待ちたかったのです。

あのまま大学に行っていれば、まだ高校に行っていたその頃のままの、どこか惨めな自分が
続いただろうと思います。働いていたとしても、いつも止めたい止めたいと思ったまま、何かを
していたはずです

高校を辞めてからは、ワザと家の窓を割り、それによって「自分の空間」を得ました。わがまま
を押し通す事によって、この年齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです。ノブも鍵付に変
えました。今までの自分の家なら、鍵付に変えるといっても、一笑に付されて終わっていたでし
ょう。

もう、何もしないで過ごそうか、とも思っていましたが、何時までも親だけが稼いでいるような状
態では、やがて路頭に迷う事になります。

高校を辞め、大学も行かず、働きもせずに、誰とも口を利かない生活が続くうち、一日中頭の
中に怒りが満ち、痛みのようなものが続くようになり、自分は知能が低下してるんじゃないだろ
うかと不安になりました。頭が変になりそうになりながら、部屋に居ながら、知らない道で迷った
ような感覚に陥り、急に誰かと話をしたくなったりしました。

結局、今までの人生で誰が頼れるか、誰となら居ても良いか、許せるのか。そしてこちらを許し
てくれるのかということになると、やはり、親でした

親にも自分の考えている事を話し、以前よりも自然に居られるようになった気がします。
自分は彼らにはもうどうとも思われていないんだろうな、と思いながら話したのですが、両親は
自分をまだ好いてくれていました。


家に彼ら親が居るから、何かをする気になります。これから資格でも取って大学に行こうかと
思いますが、やれると思います。

うまくは書けませんが、「必要になったから、納得できる。やりたくなった」と思います

返信してくれた事、ヒトシ君の話をしてくれた事、(自分が中2の時はとてもそんな事は言えない
人間した)、つぎの言葉を、送ってくれたこと、ありがとうございました

>「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この青年は、(恐らく)、親に言われるまま、つまり自分というよりは、親に先導されるまま、小
学校、中学校へと進み、そして高校へ入った。

 しかしある日、ハタと自分に気がついた。「自分は何か?」「何をしているのだろう?」と。

 その疑問が、彼の行く手をふさぎ、ついでその青年を、混乱させた。心理学で言えば、役割
混乱に近い状態になった。

 こウシタケースは、ケースとしては、少なくない。現在、何割かの中学生や高校生がそうでは
ないかと思えるほど、多い。夢や希望がないから、当然、目標もない。目標もないから……とい
うより、目標をもてないから、悩む。苦しむ。

 よく誤解されるが、「よい高校へ入る」「よい大学へ入る」というのは、子どもにとっては、目標
とは、なりえない。それを目標と思っているのは、親だけである。「入ったからどうなのか」という
部分が、どこにも、ないからである。

 この書き込みを読んで、いくつか気になることがある。その青年は、こう書いている。「この年
齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです」「ノブも鍵付に変えました。今までの自分の家な
ら、鍵付に変えるといっても、一笑に付されて終わっていたでしょう」と。

 ということは、それまでは、親は、自由に、その青年の部屋へ出入りしていたことになる。

 そこでその青年は、「ワザと家の窓を割った」ということになる。これだけではよくわからないと
ころもあるが、その青年なりに、そうしたやり方で、両親に、抵抗したことになる。その時期は、
その青年が、高校を中退した時期と重なる。壮絶とまでは言えないかもしれないが、かなりは
げしい家庭内騒動があったことは、容易に察しがつく。

 つまりこうしてその青年は、自我の混乱から、自我の確立へと、自ら、足を一歩、踏み出し
た。抑圧への反発は、たとえば、校則への反抗にも、見られる。「女性とつき合いを持とうと考
えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったりしました」と書いているのが、それで
ある。

 しかしその青年は、かろうじてというか、最後の最後のところで、自らの足で、ふんばってい
る。もしこの段階で、親がその青年を見放すようなことがあれば、その青年は、そのまま奈落
の底へと落ちていったであろう。

 しかし両親も、耐えた。その青年は、短い言葉だが、「両親は自分をまだ好いてくれていまし
た」と、すなおな気持ちで、そう書いている。そしてそれが、今、希望の光となって、彼の進むべ
き道を照らしている。

 「資格をとって、大学を受験し……」と。

 こうした一連の流れをみると、すでにその青年は、苦しかったトンネルを抜けつつあるのがわ
かる。まだ完全に抜けたわけではないが、あとは、時間の問題。「立ちなおる」という言い方は
適切ではないかもしれないが、やがて立ちなおる。すでにそのコースに入っている。

 あえて言うなら、こういう青年のほうが、のちのち、常識豊かで、かつ、心豊かな人間になる。
今のその青年には、それがわからないかもしれない。しかしいつか、たとえば、その青年が、4
0代、50代になったとき、それがわかるはず。

 むしろ何も考えず、何も迷わず、スイスイと受験勉強を勝ち抜いてきたような子どもほど、ど
こかおかしな人間になる。いびつな人間になる。だれしも、道に迷うのはいやなことだが、しか
し、その迷いが、その人間を育てる。

 以前、尾崎豊の『卒業』について、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
添付する。

【林より、20歳男性さんへ】

 今、貴君がしている経験は、決して無駄にはなりません。やがて貴君の人生の中で、燦然(さ
んぜん)と輝くことでしょう。

 それが青春です。わかりますか? それが青春です! 私もタイプは、少しちがいますが、今
の貴君と同じように、もがきました。本当に苦しみました。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。

「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、
そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻
とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。

大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふら
つき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。

それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向か
って、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかっ
た」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が2億円もあるようなニュースキャスターが、
「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。

いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄
金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思
いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBS
ソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも
含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、
まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中二
女子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「ど
うせ実現しないから」と。もう一人の中学生(中二男子)は、「それよりもお金がほしい」と言っ
た。そこで私が、「では、今ここに一億円があったとする。それが君のお金になったらどうす
る?」と聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。

ほかに五人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来に
ついて、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意
識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。

料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をして
いる女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、11人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよ
うであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。

 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。
十三、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
十四、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
十五、施設または設備を損壊する行為。
十六、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつあるとみてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
期の苦悩 悩み 青年の心理)






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●占星術

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今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。しかし占星
術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それがある。興味深い
のは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、神の
意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやすく言えば、太
陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら万物は、一体となっ
て、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体として連
動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、男の精子
が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例がないわけで
はない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、
生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イスラムの世界で
も、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術では、出産日で
はなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星
術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを
参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物という
単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよ
い。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業による
もの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住む
アリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。サ
ソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、100光年も先へ行
けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、もっと、変わる。星位とい
う概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イコー
ル、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ
いと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知
ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。占
星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占星術の
世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが一体として、
統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。とくに占星
術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つまり、その
ドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性による。意
識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それを
超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。笑って無視す
れば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっぱに言
えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的なパワーを盲信
するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によっても、
ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存
在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせ
ることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、
宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係
によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。どこかに
は、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。ただ歴史的
には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国でもあったよ
うだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、日本人
は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それについて研究
したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、私の認識不足
によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発展し
た。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい
(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということに
なる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、そ
の年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、全盛期を迎
えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔を出さ
ない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義
と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。あの忌まわしいO
真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体は、表向きは、なり
を潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れて
はならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその信仰は、神秘
主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、いくら
かの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。つまり「異常
な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)





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●復古主義

●復古主義の台頭

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最近、気になるのが、復古主義。

混沌(こんとん)とした世相を背景に、
もう一度、過去に復帰しようという動きである。

武士道復活論は言うにおよばず、
その分野の書籍が、書店の店頭に、
ズラリと並んでいる。

中には、100万部単位で売れている
本もある。

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 復古主義ほど、誘惑的な響きをもつ言葉はない。それ自体が、歴史の中で、妥当性を、裏書
されている。新しいことに挑戦するよりは、過去を踏襲したほうが、安全。無事。それに何も、
考えなくてもよい。

 そこで復古主義を唱える人たちは、「伝統」という言葉を高くかかげる。それをかかげて、「控
えおろう」と、私たちに容赦なく迫ってくる。理由など、必要ない。「過去において、そうだったか
ら」というだけで、自ら、それを正当化してしまう。

 が、ここでひとつ、大きなまちがいを犯す。

 その第一は、過去を全体として見ないこと。もっと言えば、自分たちにとって都合の悪い部分
については、目を閉じる。そしてその(よい点)だけにスポットをあて、拡大視する。この手法
は、よく、カルト教団が、信者をだますために使う手法に、似ている。

 たとえば武士道にしても、それ自体がもっていた陰の部分は、あえて見ようとしない。封建時
代において、いかに庶民が、その武士道とやらに苦しめられたか、もっと言えば、刀を振りまわ
す連中が、いかに恐ろしい存在であったかということについては、あえて触れようとしない。

 そういう陰の部分を見ようとしない。

 その武士道について以前、書いたのが、つぎの原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新渡戸稲造が書いた、『武士道』(明
治32年)である。新渡戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、知らない人
はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治40年)に書いたり
している。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業したあ
と、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新渡戸稲造も、『武士道』の中
で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもって、命
をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新渡戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化していた。
サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」というのは、
あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚(り
ょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の裏で、いかに多
くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、ま
だ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得でき
る。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」「名誉」
「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」それに、それか
ら生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もある。し
かし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部分」と言っ
てもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じたまま、武士道を、
一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代風に言え
ば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べるものが
なくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さんする
人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私などは、武士
道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠実、忠義、孝行、克
己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではないか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして戦後
の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算をしてこ
なかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」がある。最近
もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、この後者の
考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについては、これからも
追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげられ
た、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、私やあな
たも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない私やあな
たが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおしてみてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新渡戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ育った人
物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京女子
大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリート中のエリート。時の
権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新渡戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 何もこうした復古主義は、今に、始まったことではない。歴史の中でも、そのつど、現れては
消える。ひとつの例を出そう。

 江戸時代の末期、日本に国学が生まれた。国学というのは、日本思想の原点を求める学問
と考えてよい。つまり仏教や儒教が日本へ入ってくる以前の日本人の思想はどうであったか、
それを知るための学問と考えてよい。

その国学の祖としてよく知られているのが、契沖(けいちゅう)である。契沖は、万葉集にとくに
焦点をあて、そこに日本人のルーツを求めようとした。

 この流れは、やがて賀茂真淵らを経て、本居宣長によって、完成される。本居宣長は、『古事
記伝』全44巻を、書き残している。

 こうした国学の動きは、現代に見る、日本の復古主義の動きそのものと言ってよい。アメリカ
型西欧文化の隆盛に危機感をいだいた人たちが、それをよしとせず、さまざまな形で、復古主
義を唱え始めた。先に書いた、武士道復活論も、そのひとつである。

 しかしこうした復古主義は、同時に、危険な側面をはらんでいる。歴史には、流れというもの
がある。そのときどきの万人が、意識することもなく、無数の事実を積み重ねていく。それがこ
れまた無数に集まって、ひとつの流れをつくる。歴史となる。その流れへの反発エネルギー
が、時として、過激な活動へと結びつく。……結びつきやすい。

 国学の流れも、やがて平田篤胤(あつたね)らによる、あの過激な尊王攘夷運動へとつなが
っていったことを、忘れてはならない。

 たしかに今の日本の世相は、混沌(こんとん)としている。どこもかしこも、ボロボロ。それは
認める。しかしだからといって、なぜ、今、復古主義なのか。なぜ、復古主義に、みなが、耳を
傾けるのか。幸か不幸か、ともかくも、戦後、日本は、アメリカ型民主主義を受け入れ、西欧文
明を、そのまま取り入れてしまった。

 今に見るこの日本が、その結果である。

 ここで私たちは、オールターナティブ(択一的)な選択に迫られる。今までにも何度も書いてき
たが、日本は、戦前までの日本のような、もう一度、儒教(中国)文化圏にもどるのか。それと
も、西欧文明圏の一員として、西欧文明を、より積極的に取り入れ、完成させるのか、と。

 しかし、どちらを選択するかという問題ではないのかもしれない。その中間があっても、おかし
くない。しかし今の若い人たちを見るかぎり、その(流れ)は決まっている。今さらどう叫んだとこ
ろで、(一部の人たちがそれを叫ぶのは勝手だが)、日本は、戦前の日本には、もう戻らない。
戻れない。

 が、もしそれを戻そうとするなら、それ相当の歴史的エネルギーを爆発させなければならな
い。それが今すぐ、暴力行為や破壊行為に結びつくとは考えていないが、復古主義を唱える人
たちは、その一方で、そうした火種を作っていることを忘れてはならない。あるいは若者たちの
心の中に、爆薬をつめていることを忘れてはならない。

 私の印象では、こうした復古主義は、一部の学者の意見にすぎないように見える。しかしそ
れに対して、それを批判する勢力、たとえば私のような意見を述べるものがあまりにも、少な
い。へたをすれば、このまま、日本は、その復古主義に押し切られてしまう可能性すら、ある。

 そうでなくても、今の今でさえ、あの封建時代を美化する人たちが多いのは、本当に驚きでさ
えある。江戸時代という時代がどういう時代であったかを知るためには、今のK国を見ればわ
かる。世界の歴史の中でも、類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だったのが、あの江
戸時代なのである。

 武士という為政者の立場で、江戸時代を見てはいけない。その武士に支配された、庶民とい
う立場で、江戸時代を見なければいけない。

 で、今、私たちが注意しなければならないのは、こうした復古主義が、どこでどのような形で、
過激な闘争へとつながっていくかということ。まさかこの私が暗殺されるようなことはないにして
も、そういう動きにつながっていく可能性はないとも言えない。

 だまって復古主義の隆盛を見過ごすのか。それとも、みなで力を合わせて、復古主義を叩く
のか。そのあとのことは、みなさんの判断ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 復古
主義 復古主義の台頭 武士道 封建時代の清算)

注:時間の関係で、かなり乱暴な意見を書いてしまったようです。あくまでも、参考意見のひと
つとして、お考えください。この問題(原稿)は、これから先、もう少し煮詰めてから、書き改めて
みたいと考えています。(06年5月16日)

【皮肉】

 どうせ復古主義に浸(ひた)るなら、どうだろう、万葉の時代にまで、復古してみたら? それ
こそ本物の日本人のルーツではないのか?






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●娘の外泊

【思春期の子ども】

●娘の外泊

++++++++++++++++++++

かわいかった子どもも、思春期を迎えると、
人が変わったかのように、大きく、その心がゆらぐ。

フロイロの自我構造理論によれば、その内的エネルギー、
つまり「イド」が、活発化する。

イドは、元来、欲望のかたまりで、無秩序。無節制。
快楽原理にみによって、その人を、裏から操る。

+++++++++++++++++++

 娘(中3)の外泊に苦しんでいた母親がいた。叱れば叱るほど、逆効果。ますます堂々と外泊
をするようになった。親子の間の会話も消えた。そういう娘をもった母親から、久しぶりに、掲
示板(相談コーナー)に書き込みがあった。

 それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++++

【MFさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。あれから林先生のアドバイスどおり、「そうだ、(ボーイフレンドという)、娘には私
以外にも心配してくれる人がいるんだ。私が一人で、やきもきしなくていいんだ。先生の言うと
おりしばらく娘のことは、忘れよう」と思いました。

そこで私は、今までしたかったガーデニング、アロマセラピーを始めました。これが楽しいで
す。ガーデニングをしながら、まいた種がいつ芽を出すか毎日毎日、観察をして芽が出た時
は、とても嬉しかったです。

娘が生まれた時のことを思い出したりしました。

で、その娘は、5月2日に、泣きながら帰ってきました。理由を聞くと、A君(ボーイフレンド)が、
「おまえが帰ったら死ぬ」と言って、帰してしてくれなかったということでした。

私は、娘の話を聞き背中をなでてあげました。

その日の夕方に、娘はAと話し合いに行くと言ってまたでかけ、次の日の朝、帰って来ました。

娘は、「A君の誕生日の5月20日が終わったら、毎日この家で暮らすから、それまで、A君の
家と自分の家を、行ったり来たりするから。」と言いました。

主人と私は、「そうなんだ。そうしたいんだ。」と思い、了解の返事をしました。

娘は、明るくたくさんの話をしてくれるようになりました。

娘が小6の時、次男が誕生したのですが、その時のことを、
「今は、なんとも思ってないけど、Kちゃんが生まれてから、私がもらうパパとママの愛情が、K
ちゃんにいってしまってとてもいやだった。許せなかった。」と、話してくました。

私は、「あなたは、そう思ってたんだ。これからは、たくさんの愛情をあなたに注がなくちゃね。」
と。

娘は、笑っていました。

娘は、いつ私が娘のことを受け入れてくれるのか、それを待っていたような気がします。

林先生もよく言っていますが、私も娘に育てられてるんだなーと、そのとき、実感しました。娘は
この家にいると、生きていけないと感じたらしく、何もかもいやになって、家を出たようです。娘
は、体を張って私たちに訴えてくれたことを、今になってみれば、感謝しています。

娘を信じて一人で立ち上がるまで、何年かかっても見守っていきます。

今は、私の頭の上にあった雲が、なくなったような感じです。

本当にありがとうございました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性的エネルギー論

+++++++++++++++++

自分の中に潜む、
生きる力。
その原動力は、性的エネルギーであると、
あのフロイトは、説いた。

それが正しいかどうかは、知らないが、
しかしその性的エネルギーには、
ものすごいものが、ある。

あなたは、その性的エネルギーを、
うまくコントロールできるか?

+++++++++++++++++

●先生の先生が(?)

 つい先日、このS県で、教育委員会の指導主事が、ハレンチ事件を起こして、警察に逮捕さ
れるという事件が起きた。携帯電話で知りあった女子と、ホテルで、(いかがわしい行為)(新聞
報道)をしたという。

 そういう事件があると、マスコミや世間は、まるで鬼の首でも取ったかのように、騒ぐ。はしゃ
ぐ。そして非難する。「先生の先生が、そんなことをするなんて!」(C新聞記事)と。つまり理性
や、自己管理能力がふつうの人以上にあるはずの人が、そういうことをするということは、信じ
られない、と。

 しかし本当に、そう言い切ってよいのだろうか。そういう視点だけで、こうした事件を考えてよ
いのだろうか。

 もちろん、中学生という子どもを相手に、そういう行為をすることは許されない。しかしこの事
件を、(人間)という視点で考えるなら、人間が原罪としてもつ欲望の力は、それほどまでに強
力、ということにもなる。

 もっと言えば、人間が、原罪的にもつ欲望の力は、理性によるコントロールの範囲を超えて
いる。そうした力を、あのフロイトは、自我構造理論の中で、「イド」という言葉を使って説明し
た。

●性的エネルギー

 イドというのは、性的エネルギーのかたまりと考えるとわかりやすい。快楽原理のみに従い、
無秩序、無節制に、その人の心を裏から操る。

 そのイドをコントロールするのが、「自我」ということになる。「私は私」という意識である。この
「私は私」という意識が、イドを抑え込む働きをする。言うなれば、自分の中に潜む、ジャジャ
馬、もっと言えば、邪悪な悪魔を飼いならす力ということになる。

 しかしそれは容易なことではない。子どもについていうなら、思春期というその年齢までに、自
我をそこまで確立させるということ自体、容易なことではない。むしろ現実は、逆で、多くの親た
ちは、子育てをしながら、その自我を平気で破壊するようなことをしている。

 子どもの中に、「私は私」という意識を育てようとしない。そればかりか、それを破壊しながら、
破壊しているという意識すらない。「そら、ピアンのレッスンだ」「そら、英語のレッスンだ」と。子
ども自身が、自分で何をしたいのか、何をすべきなのかを、知る前に、親が、親がもつ価値観
を子どもの前に、ぶらさげてしまう。(もちろん、MFさんが、そうであったと言っているのではな
い。誤解のないように!)

 中には、子どものほしがるものを、先に、先に……と与えてしまう親がいる。たとえば新しいテ
レビゲームが、発売になったりすると、それを買い求めるために、祖父母が並ぶ。親が並ぶ。
「孫の喜ぶ顔が見たいから」「子どもが喜ぶ顔が見たいから」と。

 こうして多くの子どもたちは、欲望のウズの中で、夢や希望が何であるかもわからないまま、
したがって目標をもつこともなく、思春期を迎える。この時期、イドは肥大化し、活性化する。そ
のイドがもつエネルギーというか、パワーは、相当強力なものである。いかに強力なものである
ことは、すでに、みなさん、ご存知のとおり。

 ハレンチ事件を起こした、教育委員会の指導主事のような例は、まさに氷山の一角。つまり
この事件を裏から読むと、「指導主事ですらそうなのだから、いわんや思春期の子どもたちを
や……」ということになる。

●距離感

 では、「私は私」とは、何かということになる。

 それは距離感をいう。

 たとえばだれしも、たった数時間で、億万長者になれるとしたら、その話に興味をもつだろう。
方法としては、銀行強盗がある。現金輸送車の襲撃がある。しかし、そういうことをしてみたい
という(思い)と、実際の(行動)との間には、(距離)がある。

 この距離感の短い人を、自己管理能力の弱い人という。この距離感の長い人を、自己管理
能力の強い人という。

 「私は私」という自我の確立の進んでいる子どもは、その距離感が長い。心の中で、そう思っ
たとしても、それを実行に移すには、かなりのエネルギーを消費しなければならない。そのエネ
ルギーを感じて、その一歩手前で、心にブレーキをかける。たじろいで、その先へ進むのをや
めてしまう。

 が、その距離感の短い子どもは、それをそのまま、アクセルを踏んでしまう。行動に移してし
まう。

●やがてあなたの子どもも……

 幼児をもつ母親や父親たちは、みな、穏やかな顔をしている。そして中学生や高校生の非行
問題を見聞きしたりすると、「うちの子にかぎって……」とか、「うちの子は、だいじょうぶ」と思
う。

 それもそのはず。この時期の子どもたちは、天真爛漫(らんまん)、まさに天使のような表情
をしている。親の指示にも、すなおに従う。悪とは無縁の世界に住んでいるかのようにも、見え
る。

 しかしそれがその子どもも、やがて大きく変化する。今の子どもの様子を、5年後、10年後
の姿と思ってはいけない。とくに思春期になると、子どもは、一変する。ここに書いたように、イ
ドの力が活性化する。個人差もあるのだろうが、それは、ものすごいパワーと考えてよい。

 そのパワーが、やがてすぐ、子どもの心を裏から、あやつるようになる。で、そのとき、そのパ
ワーが、適切に発散されれば、それでよし。そうでなければ、その子どもの心、そのものを、大
きくゆがめる。

 もちろん、関心内容も、行動内容も、大きく変化してくる。総じてみれば、子どもの非行の原
動力となっているのも、このイドを考えてよい。(ただしフロイトは、そう説いたが、それにつづく
ユングは、「性的エネルギー」ではなく、「生的エネルギー」と説いた。生きる力こそが、その源
泉にあると説いた。念のため。)

●では、どうすればよいのか? 

 こうした変化、つまり思春期というのは、どの子どもも経験するものであり、その変化のし方
は、まさに千差万別。ひとつとて、定型はない。

 あなたがそうであったからといって、あなたの子どももそうであると考えるのは、まちがい。あ
るいは先にも書いたように、「うちの子はだいじょうぶ」と、高をくくるのも、まちがい。

 あなたの子どもは、あなたの子どもとして、思春期を向かえ、変化していく。で、そのとき、ポ
イントは、2つある。

 ひとつは、それまでに、どうやって子どもの中に、自我を確立させていくかということ。そしても
うひとつは、イド(性的エネルギー)は避けられないものだとするなら、そのイドを、どうやって適
切に発散させていくかということ。

 方法、つまり各論については、すでにあちこちで私が書いてきたとおりだが、自我の確立につ
いては、子どもの中に、夢や希望を育てることで対処する。目的がしっかりと定まれば、先に書
いた、(距離感)が生まれる。この距離感が、子どもをして、より自己管理能力の高い子どもに
する。

 また「適切に発散させる」ということは、子どもの存在感を、何らかの形で用意するということ
になる。そのために、私は、「一芸論」を説いてきた。「これこそ私」という一芸を、子どもにもた
せる。

 その一芸が、性的エネルギーを、発散する場所として機能するようになる。

 これらの原稿については、以前、書いたものを、このあとに添付しておく。

【はやし浩司より、MFさんへ】

 今の対処のし方で、正解です。

 こうした問題は、「今以上に、悪くしないことだけを考えながら、子どもの様子を、数か月単位
でみる」が、大原則です。

 無理をすれば、子どもは、さらに、二番底、三番底へと落ちていきます。

 このことに気づいた今、MFさんには、もう迷いはないはず。5年後、10年後には、笑い話に
なりますから、今のまま、進んでください。いつかあなたは、娘さんにこう言うのです。

 「あなたも、あのころ、ずいぶんとお母さんに、心配をかけたわね」と。

 すると娘さんは、こう言います。「そうね、ごめんなさい」と。

 今のMFさんには、わからないかもしれませんが、(また、それを奨励するわけではありませ
んが)、こうした非行(?)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かで、世間の道理がよくわか
る子どもになります。

 それを信じて、どうか、この時期を乗り切ってみてください。方法は簡単。川の流れに乗って、
川を下るように、時の流れに、静かに身を任せばよいのです。あとは、時間が、この問題を解
決してくれますよ。

 では……。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考】

●三種の神器

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

(補足)子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの一芸論

 Sさん(中1)もT君(小3)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケー
トで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子
どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その
子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、10年後。ひ
ょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金を
稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(2歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学2年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)もそ
うだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学1年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向
かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれる
ものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そう
いう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつし
かいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」とい
う状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期の子どもの心理 子供の思春期 思春期の子供 子供の心理)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ついでに、子どもの中に、「私は私」という
意識を育てるためには、子どもを自由にする。

「自由」とは、もともと、「自らに由(よ)る」と
いう意味である。

それについて書いたのが、つぎに原稿です。

どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++

子育て自由論(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





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●子育て格言

【子育てポイント】

●ぼんやりする

 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と
いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい
うのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ
を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし
ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい
うニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし
いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。

++++++++++++++++++++++
●子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++++++++

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 睡眠
不足 子どもの睡眠不足 子供の睡眠不足


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●ハングリー精神を大切に
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 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
ものやる気 子供のやる気 やる気 やる気を引き出す)


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●小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
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子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな
ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子
どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小
二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても
らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし
まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り
にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容
そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ
にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答
えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その
ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校
生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな
くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と
度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな
たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する
のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

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●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの小遣い 子供の小遣い 小遣いの与え方 小遣い100倍論)


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●子どもは目を見て、判断する
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 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢
い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ
うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され
た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ
あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ
い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ
フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな
しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの
歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ
り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの
子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出
てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい
るだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす
ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣
によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問
題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの見方 考え方 子供の見方 考え方 賢い子供 子供の目つき)


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●考える子ども(中日新聞掲載済み)
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人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ
ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚
園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石
の赤ちゃんをさがしている」と。

その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為
かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、
パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 考え
る 思考と情報 思慮 子供の思慮 子供の思考力)

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●叱るテーマはひとつ
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 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの
ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと
つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい
けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切
だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ
たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを
待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格
言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな
ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると
きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧
感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。
私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと
見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱
れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 叱り方のコツ 叱る 子どもを叱る)

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●子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
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子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて
しまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。

「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結果が悪く、子どもが落ち
込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの理解を示してあげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 伸ばし方)


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●居なおり論
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 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで
もなれ」「勝手にしろ」と。

私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえば子どもの夜尿症にして
も、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッコをしたければしろ。あ
と何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そういうことは、子どもの
世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この
スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安
心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。

……と、どこか、『風が吹けば、オケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学
の世界にも、フリップ・フロップ理論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている
(=フリップ・フロップ状態)ときというのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころ
んでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ
ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する
に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。
それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 行き
詰ったときの子育て論 育児論)


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●たくましさは、緊急時をみる
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 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その
つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ
や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ
た。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには
友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が
別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛
んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ
わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす
かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ
た。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで
きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。
母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし
てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども
を、たくましい子どもという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 たくま
しい子供 たくましい子ども 緊急時の子ども)


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●あせりは禁物
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 子育てをしていて、(1)あせり、(2)イライラ、(3)子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引
く。それは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子ど
もは勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病ん
で、うつ病になる。が、それだけではすまない。

親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしくなる。では、どうするか? あなたはあなたで、
子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自分の生きがいを見つける。が、それでも「勉強
を……」ということなら、プロに任せたほうがよい。多少、お金を出しても、そのほうが、結局は
安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ
る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間
体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの
が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い
くつが自分に当てはまるだろうか。

(6)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子ど
もを叱ってしまう。
(7)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題
があるように見える。
(8)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える
だけで、夜も眠られないときがある。
(9)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ
もおおげさに子どもを叱ってしまう。
(10)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家
にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、3〜4個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ
い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を
引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど
もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、
あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育
てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の
中までメスを入れてみる。

この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根は深い。このことについて
は、また別のところで考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親の
不安 親の情緒不安)


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●親とのつきあいは、如水淡交
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 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。
数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しかしこの方法も、ひ
とつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、できるだけ身近でない人
のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題がある。理由はいく
つかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」と
いう、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、
おかしい。そのため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもない
ことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 20前、30年前には、まだ気骨のある教師
がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師もい
た。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっているうち
に、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先生た
ちが萎縮してしまっています」と。

こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先生が、そ
れなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもできない。私にしても、
一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今は、むしろ同情する側に回って
いる。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が抜ける場所です」と、こっそりと話してく
れた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろん、しつけから、道徳、さらには家庭問
題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほかならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(15)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して
個人的な問題や、相談はしない。
(16)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちも
タブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言っ
てはならない。
(17)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子ども
の名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。
(18)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。
(19)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にから
まれると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。
(20)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざか
る。見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。でき
れば、どこか「穴」にこもるとよい。
(21)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、
へたに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだ
けは、何としても避ける。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 父母
間の交際 父母どうしのつきあい 父母の交際)


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●表情は豊かに
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表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれた。
「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。

少し前に書いた原稿を掲載する。

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スキンシップ
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 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いている。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならないだろ
う。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分け
て考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップ
への誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ
が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合
で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ
うだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

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 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「すな
お」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、うれしそうな
顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくると、それが一致しなく
なる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症状が進むと、心と表情が遊離し
始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子どもは、抱
くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、さらに呼吸のリ
ズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさが、
子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、子どもというのは、そうでなけ
ればならない……という前提で、考える。もしそうでないというなら、……。いろいろな問題が考
えられる。

 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただい
ま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あなたの子ども
は、すばらしい子どもということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの表情 子供の表情 表情のない子ども 表情の乏しい子供 表情の豊かな子供 表情の
豊かな子ども)


+++++++++++++
●「何とかしてくれ」言葉
+++++++++++++

 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア〜、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。

幼児「先生、オシッコ!」
私 「オシッコがどうしたの?」
幼児「オシッコがしたい」
私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」
幼児「ここでは、いやだ」
私 「どこでしたいの?」
幼児「トイレへ行きたい!」
私 「だったら、最初からそう言おうね」と。

 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア〜」「足が痛いイ〜」など。幼児や子どもだけで
はない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、年をとった
からね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。

 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言葉を
使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあっている。ま
たそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子どもに向かって、「産んで
やった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに対して、「産んでいただきまし
た」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたいくらでもいる。ともに自立できない、つま
りは依存型親子ということになる。

 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよい。も
のごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人もふえてき
た。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さらには家族をぎく
しゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、またほとんどの家庭で起
きつつあるといってもよい。

 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほしい」と
たがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりやすさではないの
か。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にしたら、「それがどうなの?」と
言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そして親自身も自立する、第一歩と考
えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの依存性 子供の依存性 依存型社会 甘えの問題 親の恩着せ 何とかしてくれ言葉)





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【自己開示・自分をさらけ出して生きる】

●ある母親からの相談より

++++++++++++++++++

子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。

++++++++++++++++++

【Fさんより、はやし浩司へ(1)】

掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。

私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。感情に
まかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。

ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。

学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の部分し
か見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にして、悪態ばかり
つきます。

学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞き出し
ていたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、無理難題
を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。

あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異常な
のは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子にしてしまった
私。

息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならないよ
うに、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてないでいます。本
当の自分もよくわかりません。


【Fさんより、はやし浩司へ(2)】

 掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご助言を胸
に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不安です。

まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、行かな
い、と言っています。

遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまくいきませ
ん。

お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。

その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物はし
たようですが……。) 

怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時ですが、ダダ
こねがひどい。

たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強く言い出
すようになりました。

以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことはありません。
ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。

今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝かしつけ
ました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探るような雰囲気に
なってしまいます。

私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。子ど
もがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫にも「すべて
をさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。

うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がったりしま
す。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。

ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。

 
【はやし浩司より、Fさんへ】

 Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」「いい家庭
を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦しめてしまっていま
す。

 息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これまた強
すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。

 前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありません。一
応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげさに考えないこ
と!

 おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言うこと
に、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」と聞き役に
回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでいます。

 子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。

 そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに恐れて
いるのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌われるのですから
……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思います。子育てをし
ながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回り回って、今の育児姿勢
になっていると考えられます。

 ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに嫌われ
ても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということになります。

 ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないでいる
……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、一貫性
がありません。

 そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。

 子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさず、(こ
こが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして力いっぱい、抱
いてあげてください。

 たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水の中に魚
を逃がす要領で、子どもの体を放します。

 決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そうします。

 子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたときも、そ
うです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。ぐいと抱いて
あげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はありません。

 ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!

 私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気がつきまし
た。クソ食らえ!、と。

 それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるようになりまし
た。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それができるようにな
りますよ。

 ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どうでしょうか。
いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしいと言えばよいのです。

 「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、ショックでした
か?)

 ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、あなたが
心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょうか? 

 お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、肝に銘
じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまごまとしたことは、
あまり気にしないで、子どもに任せなさい。

 原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自身の幼
児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意識の強い
家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。

 さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったことも考えら
れます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。

 一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自分の
過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみます。勇
気を出して、自分の過去と対峙してみてください。

 もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしないこと。
過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめなさい! こ
の世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考えた格言ですが、あき
らめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはずです。

 「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!

 そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さんは、すで
に親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親はさみしい思
いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。

 あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にします。そ
れでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談なさるとよいでし
ょう。今では、すぐれた薬があります。

 あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つぎからつぎ
へと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」ことだけを実ながら、あ
とは、前向きに生きていきます。

 では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
の悩み 育児ノイローゼ 子供の問題 育児問題)

【補記】

●自分をさらけ出して生きる

++++++++++++++++++++

自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。

そのことは、子どもの世界を見ればわかる。

子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。

いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。

このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。

だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。

そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。

心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。

しかし本当の問題は、母親にある。

母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。

が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。

もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。

だから……。

もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。

心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。

方法は、簡単。

まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。

したかったら、YES!
したくなかったら、NO!

自分をすなおに表現してみよう。

自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをい
かに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引き継が
れる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに成人
になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をしているか知ら
ない。

 しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのことを思い出
してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれない。「交番へ
届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」と言うべきだった。それ
で終わるべきだった。

 多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるがままの
(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになってしまう。私は
私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが仮面であるとわかって
いても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。

 それでよいのかもしれない。

 ただこれだけは、書いておきたい。

 自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、自由とい
う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 仮面
 コアアイデンティティ 人格の核 さらけ出し すなおな人間 はやし浩司 世間体 見栄 体
裁 虚栄)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【参考】

●虚栄

 「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」という(日
本語大辞典)。

 英語では、「vanity」という。

 しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、感じ方が、ちが
う。なぜだろう?

 ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、人間がもつ
原罪のひとつとして、それを強く戒めている。

 小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。

 Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく自慢する、(4)無
価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。

 だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英語
で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちがいを犯したかのよ
うにさえ思うこともある。

 そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。

 「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネックレスを買
い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。

 しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うのは、虚
栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれば、詐欺(さぎ)
ということになる。

 が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、なくなる。
「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。もっと言えば、
「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少なくない。

 Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフの中に、札
をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。その間に、1000円札
を詰めていくという。

 そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、お金
を払うという。

 それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そういう女性で
す。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。

 そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ〜?」と思ってしまう。あわれと
いうより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするようになる。しかも80
歳を過ぎても、それをつづける。

 自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」ということは、その
時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、生きていることに
は、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に毒されると、生きていると
いう実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ごすことになる。

 あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そういう生き方
を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリスト教のことは、よくわ
からないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」と言うのではないか。

 一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚栄
 vanity)

+++++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。

+++++++++++++++++

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテストに、こ
んなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。

(4)そのままテレビを見ている絵。
(5)お母さんを手伝う絵。
(6)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建て前では、(2)
が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。

ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答のな
い問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「この世界ので
きごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわるのか」と笑
っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。

当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれ
た。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なの
は、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 本音
と建て前 子供の本音)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●疲れる子どもたち

 本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この二つを使
い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子どもほど、「学校」
という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、そうでない。

 もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。ないが、A
君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがまない。しかしB君
のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心がゆがむこともある。

 自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむずかし
いことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性は、たえ
まない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それができるわけがない。
私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番へ届ける!」と言ったら、
私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人の目」を感じているから、そう言う
にすぎない。

 ……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。たとえば
ある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言ったとする。
しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方と、どこも違わな
い。

 が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC君は、
何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよい。親は、こう
言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。

 かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言われ、他
方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ届けろ」と言わ
れ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。「同じ」とは言わない
が、「似ている」。

 こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。が、そう
でない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく……。しかしそれ
はきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐えかねて、非行に走
ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そこまで進まなくても、自分の
中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。

 それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よい子
ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子ぶっている
子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということになる。

●本音で生きる

 子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかるときが
ある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんどの人は、その子
ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身は、どうだったか。さ
らには、あなた自身はどうかということになる。

「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが妻なら、夫
や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここでいうような「いい子」
ぶってはいないだろうか。

 が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、あなた
は、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみるとよい。あ
なたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫や、子どもまでも疲
れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾ることはない。気負うことはな
い。ごまかすこはない。ありのままでよい。

 一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイフだ
けを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。そしてそのサ
イフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、わかりやすい人生を
送ることを意味する。

 そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、先生、お金
がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B君には、まだ自分を
取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後に、B君にこう言った。

 「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし今は、そう
いうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交番に届けるように
している。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よいことをしているとか、悪
いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要するに気負わないこと。

 しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一度、拾っ
たお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。その気持ちのよ
さは、お金では買えないよ」と。
(030319)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補記】

虚栄について、B君からの返事】

In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very 
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being 
rather silly.

オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは思わな
い。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。

Being 2 faced is another matter. That can get you despised. 

2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。

However there different levels of being 2 faced.

しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。

For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty, 
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be 
despised by people who see this.

たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、その裏で、
その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。

On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to 
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people 
who see this will understand and see it as not causing unnecessary 
social friction.

一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとしても、
それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解し、不要な社
会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。

So maybe Australia is not that much different to Japan.

そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。

Cheers,

バイ

Bより






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【中学校での講演】

++++++++++++++++

先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。

で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。

そこでそのレジュメは、ボツ!

そこで改めて、考えなおしてみる。

(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)

++++++++++++++++

●初恋

 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。女の子
といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。私も、からか
った。

 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、すてきな人
だった。

 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほうばか
り見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だけが、いつも、
虹色に輝いていた。

 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。

 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家にも電話
はあったが、家ですると、親に見つかる。

 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それはもう、
死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と電話を
すると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。

 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。

 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。

 「何か、用?」と。

 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっただ
け。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。

●フェニルエチルアミン

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

●リピドー(性的エネルギー)

 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、つま
り、「性的エネルギー」である。

 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、1856
〜1939)である。

 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギー」(日
本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、より広く、生
命エネルギーのことを言った。

 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。

たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすのは、口
愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にかられるの
は、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、男根期の固
着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)

 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。

 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。

●性的エネルギー

 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだことがあ
る。

 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それまでのズン
胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、売れ行きが爆発
的に伸び、今のコカコーラになったという。

 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動力となっ
たのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、出会い系とか何
とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?

 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうであって
も、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、基本的には、異
性との関係で生きている。つまりスケベだということ。

 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後世
へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点になってい
る。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はいないし、もしス
ケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。

 問題は、そのスケベの中身。

●善なるスケベ心

 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。昔、産
婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。

 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った感情を
もっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、ゾクゾクと感
じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。

 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが女性に求
めるのは、体ではなく、心だ」と。

 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかもしれな
い。

 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。

 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。私は若
いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気のない世界だ
った。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のかたまりのような人
間だった。

 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えない。そし
てそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東光氏も、昔、
私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連続で、青春時代がな
かったと、こぼしていた。

 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気にした
り、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、それぞれが、つ
ぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、道徳にせよ、あくまで
も、その結果として生まれたに過ぎない。

 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じること
はない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当然、スケベであ
る。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなければ、死んでいるかのど
ちらかである。

 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!

●自我構造理論

 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配下に
ある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。

一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快楽原理と
戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心の
どこかにしまいこんでしまう。

 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明でき
る。

 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギ
ーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もな
い。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。

 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性であ
る。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。

●イドと自我の戦い
 
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強け
れば、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。

 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。

 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)

 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、
(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、
(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いや
り、(5)人間関係の5つをあげた。)

 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。

●教師という仮面

 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。
おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、も
のを考える。接する。

 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。し
かしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こん
なことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまう
ということは、危険なことでもある。

 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。

 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じている
と、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、
つづけることはできない。

●自己管理能力

 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこ
にあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我
のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ
上、すばらしい人)という。

 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こ
んな話を書きたい。

●思春期に肥大化するイド

 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。

 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒
い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。

 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車が
いないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。

 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほ
ど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、と
たんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。

 なぜか?

 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロと
した欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力
が低下する。

 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすば
らしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。

●では……

 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。

 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければ
ならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ド
ロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力と
なっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。

 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」
「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。

 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなも
の。

 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつ
ける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分
が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)
というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のような
もの、ということになる。

 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということ
になるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり
繰りかえす……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)

●エスの人

 さらに話を進めたい。

フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エス
の人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。い
つもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(6)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(7)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(8)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(9)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(10)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南
オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、
州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか
何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言
えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということにな
る。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のお
ける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてき
た。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところか
ら始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が
青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待
つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以
外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店
員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟
成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ている
が、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、
いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本
では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロ
ジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか
(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。

●友人との信頼関係

 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかし
その(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々
の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となっ
て、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不
倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関
係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中
には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、
より賢くなっていく。

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自
我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかしあいにく
と、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分
が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」
と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるようだが、
ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向くまま、思いつく
まま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

●シャドウ

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、そ
れが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、それがよいこと
だと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけでは
ないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。そして
それが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。「何だ、お
母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえ
って、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりするこ
となどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、しか
しではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のものに
してしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであれば問題は
ない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていのばあ
い、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だけを、子ど
もが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1
人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。
つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、
親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、
それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけないで、どう
して子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。

●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。

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【子どもの心の発達・診断テスト】(以下のテストを会場で実施)

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPの
ほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)


***************************

●順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(13)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(14)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)

●終わりに……

 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私で
あって、私でない部分」によって、動かされている。

 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それ
ができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人を
そうでないという。

 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけな
い。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期 自我構造理論 中学生)

●おまけ

 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。




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●ニート族

●ニート族の60%は、部活動の経験なし(?)

++++++++++++++++

何かの新聞の見出しに、
こんな記事が載っていた。

「ニート族の60%に、
部活動の経験、なし」と。

その記事は、そのまま、
見過ごしてしまった。

心のどこかで、「?」と
思いながら……。

++++++++++++++++

 このS県では、中学校については、部活動には、一応、全員が、参加することになっている。
義務ではないが、そうなっている。が、特別の事情のある子どもについては、部活動が免除さ
れる。高校生については、公立、私立を問わず、自由参加が原則になっている。

 見出しに、「部活動の経験なし」とあるから、そのまま読めば、小学校、中学校、高校を通し
て、部活動の経験がないということになる。しかし、そんな子どもはいるのだろうか?

で、この記事を一読すると、「部活動を経験しない子どもは、ニート族になる可能性が高い」と
いう印象をもってしまう。ここでいくつかの疑問が、わいてくる。

 ほかの県のことは知らないが、仮に、ある県では、部活動に参加するかしないかは、子ども
の意思に任されていたとする。そのため、部活動に参加しない子どもが、60%、いたとする。
すると、この調査結果は、まったく意味がないことになる。

 「ニート族を調べたら、50%が、男子だった」というのと同じくらい、おかしい。「病気の子ども
を調べたら、50%が男子だった」というのでも、よい。

 しかしこのS県に関していえば、一応、100%の子どもが、何らかの部活動を経験しているこ
とになる。何らかの事情があって、部活動を免除してもらっている子どもは、正確に調査したわ
けではないが、中学生で、10%前後ではないか。

 そこで、その(10%)という数字の上に、(60%)という数字をのせてみると、こういうことにな
る。

 「部活動を免除してもらった10%の子どものうち、60%がニート族になる」と。

 が、ここでまたまた別の疑問が生まれる。

 そもそも何らかの事情で、部活動を免除してもらう子どもというのは、その前提として、何らか
の「事情」をもっている。「どうしても集団になじめない」とか、「体力的に問題がある」とか、な
ど。そういう子どもをもつ親から、私はそういう相談を、よく受ける。

 だから部活動をしないと、ニート族になりやすいと考えるのは、短絡的すぎる。部活動に参加
できない子どもは、それ以前から、もともとニート族になるような要素をかかえている子どもとい
うふうにも、考えられる。

 ニート族というのは、「not in education,employment or training」、略して、「NEET」。つ
まり「就学も職業訓練もしていない若年層の無業者」をいう。

 つまり「部活動をしなかったから、ニート族になった」と考えたらよいのか、「そもそも、その素
地は、就学前からあった」と考えたらよいのか、それがよくわからない。個人のレベルでそれを
考えてみれば、わかる。

 たとえばA君(中1)という子どもがいたとする。

 彼は最初、テニス部に入りたかった。もともと運動は得意ではなかった。しかしテニス部は満
員。抽選ではずれて、バスケット部へ回された。しかしA君は、背が高くなかった。反射神経も、
よくなかった。

 そこでA君は、毎日、重い足を引きずるようにして、学校へ通うようになった。「部活をやめさ
せてほしい」「変えてほしい」と、何度も担任の教師に訴えたが、聞き入られなかった。で、断続
的に不登校。あわてた両親が、担任と部活動の指導教師に相談。やっとのことで、A君は、部
活動を免除された。

 ……というようなケースは、多い。で、こういうケースのばあい、部活動が先で、A君はA君の
ようになったのか、それとも、A君は、もともとそういう子どもであったから、部活動になじめなか
ったのかということになる。その判断が、たいへんむずかしい。

 というのも、対人恐怖症、集団恐怖症、さらには回避性障害をもった子どもというのは、決し
て少なくない。そしてそういう傾向は、すでに幼児期のときから始まる。

 このタイプの子どもというのは、学校という集団教育にさえ、なじむことができない。いわん
や、体育系の部活動となると、さらになじむことができない。そういう子どもは、ここでいう「部活
動の経験なし」という部類に属する子どもになる可能性は、たいへん高い。

 ……とまあ、いろいろ考える。

 で、結論から先に言えば、「では、部活動をきちんとできるようにすれば、ニート族になるの
を、予防することができる」というふうに考えるのは、まちがっている。この調査をした人は、お
そらく、そういう先入観をもって、調査をしたのではないのか。

 というのも、この種の論法は、すでに30年近く前から、よく耳にするからである。つまり「だか
ら、部活動は子どもにとって、重要だ」と。そのことを裏づけるために、どこかの団体が、こうし
た調査をして、「ニート族の60%に、部活動の経験、なし」という数字をはじき出した(?)。

 それに、だれも、(子どもも、そうだが)、なりたくて、ニート族になるのではない。それぞれの
人は、(子どもも、そうだが)、そうであることに、人知れず、悩んでいる。苦しんでいる。ある男
性(30歳)は、そのニート族だが、その男性の母親が、こんな話をしてくれた。

 その男性は、子どものころから、集団活動や訓練が苦手だった。遠足といえば、子どもは喜
ぶはずと考える人が多いかもしれないが、その男性は、遠足が苦痛だった。運動会も苦痛だ
った。

 もともと、ある心の問題をかかえていた。

 で、20歳をすぎてからも、職にもつかず、訓練学校にも通わなかった。その男性には、2人
の弟がいたが、その2人の弟は、大学を出て、結婚をした。そういう兄弟や兄弟夫婦たちと正
月に顔を合わせたあと、その男性は、自分の部屋で、おいおいと泣いていたという。

 「ぼくは、兄貴なのに、何一つ、兄貴らしいことをしてやれない……」と。

 ニート族というと、怠けた人間に思う人も多いかもしれない。事実、客観的に見ると、そう見え
なくもない。しかしそういう若者たちがかかえる問題の根は、もっと深い。ここでいうように、部
活動と短絡的に結びつけて考えられるほど、単純な問題ではない。

 が、この日本では、「集団教育」に、どういうわけか、異常なほどまでに、こだわる。集団にな
じめないことを、「おくれる」とか、「落ちこぼれる」とか、いう。むしろ、個人が個人として生きて
いくことすら許さない。また個人で生きていくとしても、その道は、たいへん限られている。しかし
ほんの少しだけ視点を変えて、もし、「集団のほうが、おかしい」「問題がある」と考えたら、どう
なるのか。

 それがわからなければ、この過密すぎるほど過密な、社会を見たらよい。この忙しすぎるほ
ど、忙しい、社会を見たらよい。これが本当に、人間にとって、あるべき環境なのだろうか。

 何割かの子どもが、そういう集団になじめないからといっても、何も、おかしくない。むしろ大
切なことは、そういう子どもが、何割かの確率で生まれるということを前提にして、もっと多様性
のある社会を用意することではないのか。

 今のように、学校だけが道であり、学校を離れて道はないという社会のほうが、まちがってい
る。

 まわりくどい言い方をしたが、「ニート族は悪」であるという発想が、どこか、見え隠れして、ど
うも、この調査結果には、抵抗を覚える。少し前には、「フリーター撲滅論」まで、あった。(撲滅
だぞ!)

さらに一言、つけ加えれば、こうした調査結果が、部活動推進派の教師を、ますます勢いづか
せることを、私は、心配する。そしてその結果、ますます重い足をひきずりながら学校へ通う子
どもがふえることを、私は、心配する。

 もちろんだからといって、部活動を否定しているのではない。ただ私は、子どもによっては、
部活動そのものが、過負担になるケースもあるということ。それを言いたかった。

 以上、私は、その新聞の見出しを読んだだけなので、ここに書いたことは、まちがっているか
もしれない。そういう前提で、このエッセーを読んでほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 部活
動 ニート ニート族 NEET)


【補足】

 この私の意見に対して、実際、引きこもりを体験したことのある、宮沢K氏が、トラックバック
してくれました。

 転載許可がもらえましたので、それをそのままここに転載させてもらいます。

【宮沢K氏のBLOGより】

●引きこもりは、病気だ!

お気楽にやってきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

 不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
 癌の治療に手を出したようなものでしょう。
 引きこもりの一部は精神科の病気、
 それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい☆ミ凸ヽ(^-^) タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
 そのように病気病気言うから病気に甘えて
 薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
 それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないでは? 」

 じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

引きこもり者更生支援施設依存症の親

 IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

 精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ(▼ω▼怒)

この施設がどういう人たちがやってて
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

 親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方でおおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた C=(^◇^ ; 
どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

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 ★今日は最後に怠け者へ一言★

 じじさんの言ってた
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

 やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

 ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

 これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ
(▼O▼メ)


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれば、IM
スクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。
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