【子どもの反抗】
【ある相談より】
Q:3歳の息子ですが、このところ反抗がひどくて困ります。どう対処したらよいでしょうか。(静
岡県G市・MK)
第一反抗期
あなたの子どもに、第一反抗期は、あったか?
外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という※。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。
子どもは、この反抗期をとおして、親に対して、絶対的安心感をもつことができるようになる。
どんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだという安心感である。この安心感 が、親と子どもの間の信頼関係の基本になる。ここでいう「絶対的」というのは、疑いをいだか ないという意味。
よく誤解されるが、子どもが親に反抗することは、悪いことではない。悪いのは、子どもがそ
の反抗心を自分の心の中に、おし隠してしまうことである。俗にいう、「いい子ぶる子ども」とい うのは、それだけ自我の発達※が遅れるのみならず、親も含めて、人と信頼関係が結べない 子どもとみる。
このタイプの子どもは、自分の心を守るために、さまざまな特殊な行為(問題行動)を繰りか
えすことが知られている。
●異常な依存心……だれかにベタベタに甘える。だれかれなく、愛想がよくなり、こびを売るよ
うになる。しかし心を開けないため、孤独。不安。他人に対して愛想がよくすることにより、身の まわりに、「自分は愛されている」という環境をつくろうとする。
●引きこもり……人との接触を断ち、自分の世界に閉じこもる。人と接すると、必要以上に気
をつかい、神経疲労を起こしやすい。不登校の原因となることもある。つまり人との関係を断ち きることによって、身の保全をはかろうとする。
●異常な敵対心……行動が攻撃的になり、自分以外のすべてのものは、「敵」と位置づけて、
排斥したり、否定したりする。非行、集団非行に走るケースも多い。攻撃的に相手を否定する ことで、自分の優位性を保とうする。
●異常な隷属心……たいていは親に対してだが、その人に異常なまでに隷属する。隷属する
ことによって、身の保全をはかる。このタイプの子どもは、必要以上に相手にへつらったり、ペ コペコする。
これらの行為は、子どもによって、さまざまに変化する。しかし共通しているのは、信頼関係が
結べないことによる、不安と孤独、焦燥と心配を解消するため、自分の心を守ろうとしている点 である。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。
そこであなたの子どもチェック。
あなたの子どもは、2〜4歳の第1反抗期のとき、あなたという親に対して、好き勝手なことを
し、また言っていたか。あなたは親として、それを許していたか。もしそうなら、それでよし。しか しもしあなたの子どもが、あなたの前でいい子ぶったり、反抗らしい反抗もしないまま、今に至 っているなら、かなり注意したほうがよい。これから先、ここでいうような問題行動を起こす可能 性は、たいへん高い。あるいはすでにそれは始まっているかもしれない。
子どもというのは、それぞれの時期に、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。反抗
期はまさにそのカラを脱ぐ時期と考えてよい。それぞれの時期にうまくカラを脱げなかった子ど もは、あるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。たいていは激しい摩擦と、軋轢(あつれき)を 引き起こす。たとえば家庭内暴力を起こす子どもも、こうしたメカニズムで説明できることが多 い。
だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親としてそれ
をたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた視点で子 どもを見るようにする。
(03―03―03)
※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張 状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不 安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり (マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。
表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的 な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。
※……「自我」というのは、要するに、その子どもの「わかりやすさ」をいう。教える側からみる
と、「つかみどころ」ということになる。自我の発達している子どもは、何を考え、何をしたいか が、外から見ても、たいへんわかりやすい。したいことをし、言いたいことを言う。YES、NOを はっきりと言う。一方、自我の軟弱な子どもは、それがわからない。何を考えているかすら、わ からないときがある。どこか仮面をかぶったような感じになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 反抗
子供の反抗 反抗的な子供 反抗的な子ども 反抗期 反抗期の考え方)
Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司
【子どもの反抗について、Sさんからの相談より】
はやし先生
(前略)
さて、今日のメルマガに、
(以下引用)だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親
としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた 視点で子どもを見るようにする。
※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張 状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不 安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり (マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。(こ こまで引用)
うちの場合は反抗期も十分あったのに(今でも喧嘩になると『このくそ婆!』とかいうのです
よ!)。
結局小さい頃のその時期に私がその反抗を押さえつけていた(許してやらなかった)ことに発
端があるわけで、反抗しそこなったことが今マイナス型として現れているなら、この今のマイナ ス型の時期も自我を形成していると考えていいんでしょうか?
母親ばかりのせいではない、と自分を慰める一方、どこの家庭もそうでしょうが、母親が子供
にかかわる時間は膨大に多い。そのこどもとの時間を楽しめるときと、楽しめないときがあり、 それも仕方がないと思いながら、、、。
すみません。ここ2,3日ホルモンのバランスが悪いらしく非常に情緒が不安定で(私は周期的
にこういうことがあるのですが)誰とも話したくなく、また、周りのすべてに対し攻撃的になってい ます。鬱症状というわけです。
友人に話しても、母親はみな多かれ少なかれそういうことがあるようです。
C新聞にも、卵巣機能の低下によるホルモンのバランスの崩れで、二〇代から四〇代の女性
が更年期障害の症状を訴えるケースが多いという記事が出ていました。専門医に相談するべ しと。
でも実情は、お医者様は男性が多く、その症状を訴えても、『それくらいガマンできないか?』と
か『ジャー薬飲んでみる?』という程度のリアクションで、もう二度と相談するか!という結果に なるのが常なのです。(私も友人もそうでした)
私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでしまい
そうですので、今はやめました。
とりあえず自分が情緒不安を周期的に持っている、ということだけキモに銘じ、そういう時はな
るべくヒトと接触を持たないように今は心がけています。
++++++++++++++++++
S様へ
自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわかる
ほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というようなことが書いて ありましたが、そこまで進む人も少なくありません。
若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いにあるリ
オへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブラジルは、 貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、そういう人たちを 見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子どもたちが、どこからと なく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印象に残っているのは、バスから おりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)
その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私はそういう子
どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いました。「子どもを育て る力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。
しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、これ
またひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっとおとなになっ てからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが……。)「ひどい」と か、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなのですね。
私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」「育ててや
った」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませんが、そういう言葉 の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とうとう爆発。私が高校生のと きだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼んだ!」と、母に叫んでしまいま した。
で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧し
さなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったことはありませんで した。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。ですから歩くたびに、キュッキ ュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。ですから近所の家に、それがついたと き、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年生のときです。
貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。……と考え
ていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかということになる と、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧しそうでしたが、見た感じ は、本当に楽しそうでした。
一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵まれた生活
をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、どうもそうではないよ うな気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなくてもよいようなことばかり、一 生懸命している? そんな感じがします。
さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。
乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、い
わゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自分を、あるが ままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、全幅に受け止めてくれ る。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかな い」という意味です。
この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子どもは、そ
の「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。ばあいによって は、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりすうようになります。おとな の世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前ですが、家族の世界では、本来、こう いうことは、絶対に、あってはいけません。
おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざいな態度を
する。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そういうことが、「一定 のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。
これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。悪い言葉
を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、子どもを、抑え つけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したいことをさせながら、しか し軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だということです。
また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝ています。
で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、そういうとき、よく ワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」と言うと、「あんたでし ょ!」と、言いかえしたりしたからです。
しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に出し、泳ぐと
きのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすったり、吐いたりしていま す。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、しかしそれも、ここでいう「さらけ 出し」なのですね。
そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安心感を
もとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。
幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、ご存知
のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子どもをほめた り、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのが わかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。
しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、私との
間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」ということかも しれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に入っていく……。そ んな感じになります。
一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「すなおさ」が
ありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひねくれる。いじける。つ っぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを閉じてしまいます。極端な例 では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。
が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこで、ショ
ーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマアラシが、体を 暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキズつけてしまう。しかし 離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところで、暖めあう。自分の位置を決 める……。
このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそこで
は、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、また引っ込 む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、ちょうどよいところ で、自分の位置を決める……。
このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られているの
が、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症などがありま す。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障害にまで発展し ます。
が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といいます。相
手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。Sさんが、ご指摘 なのは、このあたりのことなのですね。Sさんの問題を、もう少し整理してみると、こうなります。
(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。
たしかにそういう親は、多いし、Sさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。いまだに親
の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす人もいます。しか し問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおらかな愛情」の中で、それ ができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身が気にしないケースもあれば、軽 く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。
そこで今度は、親自身の問題ということになります。
不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんでいませ
ん。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子どもに対して します。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育てが、どこかぎこちな くなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負い先行型、心配先行型、不安 先行型の子育てをすることもあります。
そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもしれません
が……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなさに気づくわけです。「私はどうして 自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくると、今度は、原因をさ がし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私をこんな親にしたのは、私の両 親が悪いからだ」と、です。
「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでし
まいそうですので……」と、Sさんは、書いておられます。実のところ、私も、同じように、悩んだ ことがあります。
が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べていく
だけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今から思えば、貧 乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よかったという思いもあ ります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向けられていったと思います。
今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけています。
「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親が不幸だっ たのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義名分もない、メチ ャメチャな戦争だったのです。
ということで、自分なりに処理しました。そこでSさんの件ですが、「(親を恨んでしまいそうな
ので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、Sさんは、どこかよい子ぶろうと している。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きになったのは、かなり深い部 分で、Sさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられるからです。むしろ、これはすばら しいことなのです。
実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世代に伝えて しまうところにあります。もし仮にここでSさんが、自分の心を抑えてしまうと、今度また、同じ失 敗を、Sさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教育の世界では、「世代連鎖」と か、「世代連覇」とか言います。
これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってしまいま
す。
しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、入りま
す。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮することはありません。 そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親から受け継いだも の)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。
私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そういう意
味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、何かにつけ て、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振るったことも、しばし ばあります。
しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであっては
いけないことに気づきました。
さて本題ですね。長い前置きになりました。
残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。「自
我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世界では、 「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界では、「つか みどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいいま す。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイナスの自我)という考え方には、 なじみません。
で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我ということ
にはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そがい)」という ことになるかもしれません。しかしSさんのお子さんのばあい、むしろ、今、不登校という形であ るにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることからして、強烈な自我があると考 えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿は、最後に張りつけておきますから、 また参考にしてくいださい。
以上、こうしてSさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみてください。
過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、と。
つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないというこ
と、です。Sさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。その「事実」だけを 見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくということです。悩んだところで、過 去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切なことは、その「今」を、懸命に生き ていく。結果は、必ず、あとからついてきます。
お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、Sさんも、もう
気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向かって、さりげな く、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。
「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き勝手なこ
とをしなさい」と。
「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思ったとしたら、
Sさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、親子の信頼関係は 結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずSさんのほうが子どもに向かって、さらけ 出しをしなければなりません。
で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。いくら金銭
的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子どもの心がゆが むことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、もしですよ、Sさんの子ど もたちが、そのことをSさんに教えようとして、今の問題(問題という言い方も好きではありませ んが……)をかかえているとしたら、見方も変わってくるのではないでしょうか?
Sさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、Sさんとは、見方も違うかもしれませんが、人間
が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がします。ほんのすぐ そばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それがあのブラジルの子ど もたちです。
だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中で、いつ
も幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強だの、進学だ のと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしまった。そして勝手 に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだしてしまった。そして新しい問 題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子どもたちが、今の日本の子どもたちより 不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本の子どもたちが、ブラジルの子どもたちよ り、幸福だとは、とても思えないのです。
この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立ちかえ
って考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になってしまいました が、また投稿してください。喜んで返事を書きます。
+++++++++++++++
【子どもの自我がつぶれるとき】
●フロイトの自我論
フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展 望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行 動できる。
反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや 占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。
一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自 我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない 子どもといった感じになる。
●自我は引き出す
その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき 環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。
反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力 や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれ ると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その 影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。
●要は子どもを信ずる
人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質 は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかし い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育 ての原点はここにある。
(参考)
●フロイトの自我論
ジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)は、自我の強弱によ
って、人の様子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめて考えてみたのが、次の表で ある。
自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理現
象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神分析)な ど。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自我 自我論 子供の心理 子供の自我 ジークムント・フロイト)
【子どもの人格論】
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【子どもの心の発達・診断テスト】
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【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)
●社会適応性
子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。
(13)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。
(7)いつも喜んでするようだ。
(8)ときとばあいによるようだ。
(9)いやがってしないことが多い。
(14)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……
(7)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(8)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(9)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)
(15)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。
○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)
(16)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。
○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)
(17)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。
○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
(18)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……
○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)
***************************
( )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
( )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
( )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
( )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
( )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
( )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
( )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。
これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
***************************
順に考えてみよう。
(1)共感性
人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。
つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。
その反対側に位置するのが、自己中心性である。
乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。
が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世 間体意識へと、変質することもある。
(2)自己認知力
ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。
この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔 不断。
反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多 い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。
(3)自己統制力
すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。
たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。
が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓 子をみな、食べてしまうなど。
感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い 子どもとみる。
ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。
(4)粘り強さ
短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。
能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。
集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。
この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。
(11)楽観性
まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。
それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること もある。
簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。
ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。
たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。
先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。
冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。
(12)柔軟性
子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。
この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。
一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある 子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。
朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。
いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。
何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。
先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。
症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
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EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化 された概念で、日本では「情動の知能指数」「心の知能指数」と訳されている(Emotional Ed ucation、by JESDA Websiteより転写。)
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【EQ】
ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。
(7)自己管理能力
(8)良好な対人関係
(9)他者との良好な共感性
ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。
自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。
○行動面の管理能力
行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな い。
たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その 時点で、これまた迷うかもしれない。
精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ に含まれるかもしれない。
もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。
そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」 という思いと戦わねばならない。
さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい 子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。
こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その 人の人格の完成度を知ることができる。
この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。
○精神面の管理能力
私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。
精神的な欠陥もある。
私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。 (私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな い。)
具体的には、パニック状態になってしまう。
こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。
そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。
たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面 にすわりこんでしまうこともある。
そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度 は、低いということになる。
○感情面の管理能力
「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。
この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、 快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。
つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の いてしまう。
しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。
私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情 的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒 したのを、見たことがない。)
一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。
が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。
で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。
また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。
(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 管理
能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の完成)
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++はやし浩司
●まず、はじめに……
+++++++++++++++++
人には、(本当にすばらしい人)と、
(見かけ上、すばらしい人)がいる。
そうした(ちがい)は、どこから、
どう生まれるのか?
また、どうすれば、その(すばらしい
人)になれるのか?
+++++++++++++++++
●Bという女性教師
ありのままを書く。
私が昔勤めていた幼稚園に、Bという女性教師がいた。当時年齢は50歳くらいではなかった
か。
そのBという女性教師が、ある午後、職員室へ飛びこんできて、こう言った。はき捨てるような
言い方だった。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。
Bという女性教師は、そういう教師だった。言いたいことを、スケズケと言った。私も、2度ほ
ど、何かのことで意見を言うと、「生意気、言うんじゃないよ!」と、平手で、頬を殴られたことが ある。
で、そういう教師の話をすると、おおかたの人は、「何という教師だ!」と、思うにちがいない。
「教師として、あるまじき人間」と。
私もそう思っていた。ごく最近まで、そう思っていた。しかしBという教師は、いつも本音で生き
ていた。知的レベルは、それほど高くなかったが、その教師の教育論には、一種独特のものが あり、何かと参考になった。
●自我構造理論
一方、その私はどうかというと、心の奥深くでは、同じように思うこともある。しかしそう思った
とたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。
こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明でき
る。
私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギ
ーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もな い。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。
そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性であ
る。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。
そこでこの自我構造理論を、Bという女性教師に当てはめて考えてみると、こうなる。
イドの世界では、その女性教師は、いつも何かの見かえりをもとめて、その母親の子どもと
接していたことになる。多くの人は、「教師」というと、聖職を意識し、「聖職であるなら、そういう ことは考えないはず」と思うかもしれない。
しかし教師といっても、ふつうの人間。ばあいによっては、ただの人間。あなたやあなたの夫
(妻)と、どこもちがわない。またそうであるからといって、まちがっているということにもならな い。
Bという女性教師は、それを自然な形で(?)、ありのままの自分を表現したにすぎない。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。
●イドと自我の戦い
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強け
れば、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。
同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。
EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、
(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、 (1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いや り、(5)人間関係の5つをあげた。)
つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
(言うべきか)(言うべきでないか)ということになると、Bという女性教師は、そういうことを、職
員室という場では、言うべきではなかった。たとえそう思ったとしても、だ。つまりその分だけ、B という女性教師は、人格の完成度が、低かったということになる。
が、その一方で、こういう問題も、ある。
●教師という仮面
教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。おおかた
の人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、ものを考え る。接する。
そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。し
かしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こん なことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまう ということは、危険なことでもある。
ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。
そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じている
と、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、 つづけることはできない。
そこでふと我にかえって、自分に気づく。そしてはき捨てる。
「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。
●自己管理能力
もしそのとき、Bという女性教師が、自我の力で、イドを抑えこんでしまっていたとしたら……。
外見上は、すばらしい教師のままでいられたかもしれない。私たちに対する印象も、それほど 悪くしないで、すんだかもしれない。
で、この(ちがい)こそが、つまりは、(真の人間性)ということになる。
人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこ
にあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我 のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ 上、すばらしい人)という。
さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こ
んな話を書きたい。
●思春期に肥大化するイド
昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。
私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒
い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。
その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車が
いないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。
最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほ
ど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、と たんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。
なぜか?
それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。
思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロと
した欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力 が低下する。
言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすば
らしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。
●では……
ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。
最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければ
ならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ド ロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力と なっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。
そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」
「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。
イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなも
の。
そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつ
ける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分 が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私) というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のような もの、ということになる。
つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということ
になるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり 繰りかえす……。
冒頭の話にもどす。
Bという女性教師だが、今は、他界して久しい。が、私には、強烈な印象を残して、この世を
去っていった。
その教師を思い出しながら、今でも、ときどき、ふとこう思う。
「あの先生のように、本音をむきだしにして生きることができたら、私ももっと気楽に生きるこ
とができるのになあ」と。
……どうやら私はまだ、どこかで仮面をかぶったまま生きているらしい。心のどこかではその
教師を否定しながら、その一方で、あこがれに似た気持ちをいだく。
今の私には、(本当にすばらしい人)になるのは、とても無理だと思う。ホント!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)
++++++++++++++++++++
以前書いた原稿を
再掲載します。
++++++++++++++++++++
【子どもの人格論】
●社会適応性
子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。
(7)共感性
(8)自己認知力
(9)自己統制力
(10)粘り強さ
(11)楽観性
(12)柔軟性
これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
順に考えてみよう。
(7)共感性
人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。
つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。
その反対側に位置するのが、自己中心性である。
乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。
が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世 間体意識へと、変質することもある。
(8)自己認知力
ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。
この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔 不断。
反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多 い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。
(9)自己統制力
すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。
たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。
が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓 子をみな、食べてしまうなど。
感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い 子どもとみる。
ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。
(10)粘り強さ
短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。
能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。
集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。
この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。
(11)楽観性
まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。
それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること もある。
簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。
ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。
たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。
先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。
冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。
(12)柔軟性
子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。
この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの人格 子供の人格論)
●子どもの意地
こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。
そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。
レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう 一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。
「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人 は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない が……。)
教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。
ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また 「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。
がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。
++++++++++++++++++
心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。
よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。
ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。
こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。
一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子 どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。
一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)
友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。
【子ども診断テスト】
( )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
( )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
( )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
( )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
( )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
( )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
( )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。
ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 社会
適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)
【善と悪】
●昆虫のような脳みそ
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。
「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前
は、いったい、何様のつもり?」と。
たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、い
つも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしま った。しかし、私にも、言い分がある。
いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪
は神の右手』と説く。しかし平等ではない。
善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れ
ば、どんな人でも、やがて善人になれる。
しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期
までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の 心の奥底に潜む。
それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。
仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとす
る。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、 翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人 の支配下に置かれるようになるかもしれない。
悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって
考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということ も、珍しくない。
この点でも、善と悪は、平等ではない。
恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もあ
る。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく 知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわ してしまう」と。
T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争
の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆 弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だ が、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところ から生まれた(?)。
「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをし
ないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦って はじめて、人は、善人になれる。
その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」
という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」とい うタイトルのもあった。
あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし
誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力 をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすば らしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。
だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもっ
た人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとた ん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。
このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのもの
は、即、削除してしまったが……。)
で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。ラ・マンチャの
男。ハハハ。
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4年前に書いた原稿を、ここに添付します。
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善と悪
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善が
あるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということら しい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。
トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪 は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも つ。
子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦 うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の 邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。
たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐 車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止 まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこ れ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。 かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか ら、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を 得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思 う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪 への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子 どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言 った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう か。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分 の判断に従って行動しようとする意思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。
一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということ
になる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。
もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ の「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは 考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、 「神の力」ということになる。
(02−10−25)※
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●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。 小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本 当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目 の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると か、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ 「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自 分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。
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【四割の善と、四割の悪】
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの 世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校 の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放 り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話 が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい 人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」 と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問 題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あ
なたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれ と闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、 君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せる
か」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでた さが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、 大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
●教育基本法改正案要旨
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今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。
少し皮肉をこめて、「キホン」と表記する。
それについて一言。
+++++++++++++++
国があっての国民と考えるか、国民あっての国と考えるか……。それによって、教育キホン
法の内容は、大きく変わってくる。
この日本では、奈良時代の昔から、「国あっての国民」と考える。国民、つまり「民」などという
ものは、言うなれば、国の財産。モノ。それとも奴隷(?)。
本当に日本は、民主主義国家か? 民主主義国家と言えるのか? それを示す試金石が、
教育キホン法ということになる。
が、今度閣議了承された、教育キホン法(教育キホン法改正案要旨)なるものは、相も変わ
らず、美辞麗句。抽象的文句の羅列(られつ)。官僚の作文。どこかの教授が、「ヘタクソな作 文」(中日新聞)と評していたが、まったくの同感。あのリンカーンは、ゲティスバーグ(Gettysb urg)という南北戦争の激戦地に立って、こう言った。
AND THAT GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE AND FOR THE PEOPLE
SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH.(人民の、人民による、人民のための政府は、この 地上から消え去ることはない)と。
「SHALL NOT PERISH」というのは、もう少し正確には、「私は、消さない」という意味にな
るが、ともかくも、そう言った。
これをこの日本でもじると、こうなる。
「官僚の、官僚による、官僚のための政府は、この日本から消え去ることはない」と。
どうして国民の側に立った教育キホン法が、この日本では、生まれないのか。できないのか。
国民に向かって、「ああしろ」「こうしろ」と言うくらいなら、まず自分たちのほうが、「ああします」 「こうします」と言えばよい。
たとえば前文には、「我々日本国民は……貢献することを願う」とあるが、いつどこで、その
我々が、そういうことを願ったのか。勝手に、そういうことを決めつけてもらっては困る。
もし書くとしたら、「子どもの教育では、自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一
丸となって、子どもたちの未来のために、それを希求します」とか何とか。自分の立場で、そう 書けばよい。
あるいは「教育の多様性を認め、不公平社会を是正するため、個人のそれぞれの才能に応
じた教育をめざします」でもよい。
さらに「愛国心は、世界の常識」などと、いまだに言っている政治家がいるのには、驚く。(教
育キホン法改正案要旨では、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛 するとともに……」となっている。念のため。)
日本では「愛国心」と訳すが、あの英語の「Patoriotism(ペイトリアチズム)」という単語にし
ても、もともとは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に 由来する。)「郷土や家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもな っている。国ではない。郷土だ、家族だ!
が、この日本では、そこに「国」という言葉を入れる。なぜか? その理由など、今さら、説明
するまでもない。
そんなわけで、私は、今回の教育キホン法なるものは、チラッとしか読んでいない。
今回の要旨では、国旗、国歌については触れていないが、それについても、あえて言うなら、
こうなる。
愛国心に関してだが、国旗はともかくも、国歌を歌ったから愛国心があるとも、歌わなかった
ら、愛国心がないということにもならない。日本のK首相は、『君が代』の「君」は、国民のことだ と説明したが、『君が代』の「君」は、だれが考えても、「天皇」をさす。官僚主義国家、つまり王 政国家のもとでは、天皇という「王」は、絶対的な存在かもしれないが、それをよしとしない人が いたとしても、何も、おかしくない。
(注)外国では、あの明治維新を、「Meiji Restoration」(王政復古)」と翻訳しているぞ。
それは愛国心の問題ではない。主義の問題である。その主義ということになれば、たとえ国
でも、個人の主義にまで干渉することは許されない。
が、もしそれほどまでに、愛国心を、形として表したいというのなら、K国のように、バッジ制に
すればよい。胸に、バッジをつけて、それを表す。そのほうが、ずっとわかりやすい。
しかしこのばあいも、バッジをつけたから愛国心があるとも、バッジをつけなかったから、愛
国心がないということにもならない。
そんなこと、いちいち役人ごときに指示されなくても、もし目の前で、他国の連中に、郷土が
荒らされ、家族が殺されれば、だれだって武器をもって立ちあがる。愛国心などというものは、 「形」の問題ではない。言葉の問題でもない。国旗や国歌の問題でもない。もちろんバッジの問 題でもない。心の問題だ。
「国を愛しましょう」と言うくらいなら、その第一歩として、「汝の隣人を愛しましょう」と言ってみ
たらどうか。私など、その隣人すら、愛することはできない。そんな私が、どうして国という、実 体のない存在(?)を、愛することができるのか。
バカも休み休み、言え!
だいたい、「愛」という言葉の意味すら、わかっていないのでは?
……ということで、教育キホン法に対する、批評は、おしまい。ここ数日、10人近い教師や親
たちと、いろいろ話したが、教育キホン法など、話題にもならなかった! ホント!
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愛国心について、以前書いた原稿を
ここに添付します。
(中日新聞にて発表済み。)
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家族の心が犠牲になるとき
●子どもの心を忘れる親
アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。
アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小
2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣 き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか?
●明治以来の出世主義
日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。 カナダやフランスでもそうだ。
が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿 題がある」と言えば、すべてが免除される。
●家事をしない夫たち
2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻
が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が担当している ケースは、わずか1%でしかなかったという。
子どものしつけや親の世話でも、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%(たった
の3%!)前後にとどまった。その一方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求 める必要がある」と考えていることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。
「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、40代、50代には、リンゴの皮す
らむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に 困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。
仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。 それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、 家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を 平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。
●家族主義
かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。
あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。
たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」 という意味の単語に由来する。)
「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米というより、世界の共通の理念にもなってい
る。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼 らのいう愛国心(※2)になっている。
●変わる日本人の価値観
それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと ばかりではない。99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、4 0%の日本人が、「家族」をあげた。
同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化 である。
そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て を変え、日本を変え、日本の教育を変える。
※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい う(2001年11月)。
※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国 心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注目して ほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 愛国
心 教育基本法 国旗 国歌)
●批判ばかりしていてはいけないので……
私なら、つぎのような教育キホン法改正案を考える。
++++++++++++++++
(前文)
自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一丸となって、子どもたちの未来のため
に、それを希求します。
子ども個人の才能を引き出し、認め、個人のそれぞれの才能に応じた教育ができるように、教
育の多様化を認める教育環境をめざします。
不公平社会や社会的格差を是正するため、社会的不正義、不平等、不公正を容認しない教
育環境をめざします。
親たちが安心して子どもを教育機関に任せられるよう、教育内容の充実と、教員の資質向上
を図り、父母への教育費の負担を軽減するために、常に努力いたします。
また政府ならびに教育機関に関与する者たちは、子どもたちの見本、手本となるように、豊
かな人間性と創造性のある文化人となるよう、まい進努力いたします。
+++++++++++++++++
ついでながら、今回閣議決定された「教育キホン法改正案」の前文は、つぎのようになってい
る。(2006年4月27日、公表。原文のまま。)
+++++++++++++++++
我々国民は、民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉
の向上に貢献することを願う。
公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継
承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るた
め、この法律を制定する。
+++++++++++++++++
以上!
●親の不安(感情の発達)
【不安なあなたへ……】
●子どもの心がつかめない(?)
+++++++++++++++++
心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。
この問題について、考えてみたいと
思います。
+++++++++++++++++
どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。
事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。
「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校
中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。
さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。
先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかな
か返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとの こと。
「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてる
よ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。
ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝っ
て、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじ ゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違 う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。
先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたと
いうのです。
それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生
は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひど く当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。
初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。
まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのか
わからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついている としたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を 聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。
・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしている
ようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈 託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。
私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。
これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほし
い。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。
で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたもの
なの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2) 拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」 と言いました。
「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞
けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか 分らなくって」と。
私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。
最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりまし
た。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、 最近ではしていない事にも気付かされました。
で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係につい
ての問題です。
私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園
でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生 も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見 る」とこんこんと言われました。
人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見
る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄 養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしてい ました。
小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、
当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもな く、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。
が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練
習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。
一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんと
かやっていけていましたので・・・・。
現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、
なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるの か、あまりよい印象は与えていないようです。
そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。
私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうと
の思いで話しました。
先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今
さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やは りあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」と のこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。
先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しで
も見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いなが ら話を聞くようにしているのですが。。。
長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に
信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。で も、努力しようね」と、言いました。
A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、
大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子 と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。
私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っています
が、行き詰まってしまっています。
本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスを
お願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)
【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】
メール、ありがとうございました。
まず、最初に、一言。
この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。
まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのこ
とです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、 結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじ め)の問題では、よくあることです。
B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でも
ない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考え る必要は、まったくありません。
思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようにな
ります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発にな り、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。
ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高
まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から 自立しようとします。
ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのよう
に、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?) のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。
それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うので
しょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男 の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)
もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が
結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼 関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。
この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展してい
きます。
そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。
が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。
ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外
では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることで す。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。
大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを
理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さ ら、手遅れですから……。)
あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩
むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジン の購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジン でもよく取りあげていますので、参考になると思います。
で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P
子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感 じです。
ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多
分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐら いの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと 思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3〜5本 も買える時代です。
いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、
そういう問題ではないのです。
さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、
こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘 が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに 考えてはいけません。
またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけま
せん。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わ かりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのこ とです。
多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん
病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)
あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの
口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになりま す。
P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP
子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきこと は、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今 は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありま せん。
またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最
悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番 底へと落ちていきますよ! これは警告です。
反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さん
が、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうします か。
ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。
だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その
中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。 子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。
P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあな
たが、割って入るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あ なた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。
とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未
熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。
で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオ
です。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなた に求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像では ないでしょうか。
最後に、もう一言。
こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し
訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B 子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。
あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて!
体は、あとからついてきますよ!
すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの虚言 子供の虚言 盗み)
+++++++++++++++
いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。
+++++++++++++++
【信頼関係】
たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。
たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。
この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。
子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの 世界。これを第三世界という。
子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での 信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基 本となる。だから「基本的信頼関係」という。
が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。
乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関 係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。
つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。
●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼
関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【感情の発達】
乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感 情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。
年齢的には、私は、以下のように区分している。
(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。
(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。
(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。
子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。
年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん で、授業を参観にきていた。
私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が 終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。 「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。
この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。
で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え てみればわかる。
あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生 だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。
ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。
話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ う言う。
「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、 「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
感情 人間的感情形成 感情形成期)
Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司
【不安なあなたへ】
埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、 サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲 気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。
子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不 安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗 り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性 ができてくる。私が最近、経験したことを書く。
横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ ればいいが」と思った。
そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と 言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒 ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして も、六時間……」と。
三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ リジリと過ぎる。
で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一 周! ギョッ!
……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間 を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着 く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。
不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。
その母親は、こう訴えている。
●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。
小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子 どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。
その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。 子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば あいは、それが友人関係に向いた。
こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の 子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし まうのでは……」と。
親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど も自身は、それを楽しんでいる。
そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発 するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)
……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。
●ふつうこそ、最善
朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。
賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。
自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。
●ものには二面性
どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手 を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。
基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限 定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ ばならないと思う)など。
ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。
しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」 だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。
一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題 が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。
●自然体で
とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり をしながら、自分の情緒を安定させている。
そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した りしてはいけない。
この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親 の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子 ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。
子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ 親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと で考えてみればよい。
もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。
●自分の価値観を疑う
常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか 押しつけ的になる。
「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。 何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。
権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。
またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら れた」というのだ。
子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親 子」というワクを超えた、一人の人間である。
●価値観の衝突に注意
子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは 母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母 は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三 歳のときだった。
しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職 業をみなに、話すことができなかった。
●生きる源流に
子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。
若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい 仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子 は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお もしろさがある。)
私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる 問題から、解放される。
●子どもを信ずる
子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。
「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子 だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、 一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。
【ASさんへ】
メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、 「わだかまり」ではないかということです。
ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので はないかと思われます。
こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな かったことが考えられるということです。
いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的 な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味 です。
これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから です。
さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の子ど
もすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信頼関 係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子どもに 対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなります。 子どもへの不信感も、その一つというわけです。
あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に 心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という ことになります。そうでなければ、そうでない。
しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て については黎明(れいめい)期の国ということになります。
では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用 います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を 知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。
しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。
さらに具体的に考えてみましょう。
あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、 不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。
こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな たが考えているより、深いということです。
そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して いるのではないかということです。
このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。
(1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然 ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き になります。
といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一 度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一 度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど も自身は、どうかということです。
子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と いうわけです。
だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。 たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。
しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利 はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。
しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。
そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自 分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま す悪くなっていきます。
話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に もつ、第一印象が重要です。
最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい 嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た がいの人間関係をよくしていきます。
そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪 い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと 信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。
あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、 それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま す。
もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前 の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち とつきあうようになります。
今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。
(4)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと 喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。
(5)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あ
なたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子ども はあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をど こかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切 りたくない」という思いが、行動を自制するということです。
(6)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不 思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの 子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。
以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、 わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 さらけ
出し 子育て不安 育児ノイローゼ)
●伝統論
●伝統とは?
++++++++++++++++++++
今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。
その教育基本法改正案の前文には、
「……伝統を継承し……」とある。
しかし、伝統とは何か?
そも、伝統とは、継承すべきものなのか?
++++++++++++++++++++
日本では常識でも、外国へ行くと、そうでないというような事例は、よくある。たとえば日本で
は、「自然を愛します」と言うと、その言葉自体が、美しい響き放つ。
しかしアラブ諸国など、砂漠の国へ行くと、そうではない。そういう国々で、「自然を愛します」
などと言おうものなら、「お前はバカか」と言われる。彼らにとって自然とは、砂漠をさす。
同じようなことを、私は、ブラジルでも経験した。
日本では「緑を大切にしましょう」と子どもたちに教える。しかしブラジルの人たちにとっては、
緑、つまりジャングルは、まさに恐怖に満ちた暗黒の世界。大切にすべきものではなく、戦うべ き相手ということになる。少なくとも、30年前には、そうだった。
私はそう言ったことはないので、実際にはどうかは、わからない。しかしブラジルで、「緑を大
切にしましょう」などと言おうものなら、同じように、「お前はバカか」と言われたかもしれない。
そうそう今、思い出したが、昔、こんな記事を何かの本で読んだことがある。黒澤明の『影武
者』という映画を、アラブのどこかの国で上映したときのこと。英語では、「影武者」を、「シャド ウ・ウオリアー(陰の武士)」とでも訳すのか。アラビア語でも、同じように訳したのだろう。その ため最後の最後まで、アラブの人たちは、その映画が理解できなかったという。
それもそのはず、「影」は、「日陰」を表す。彼らにしてみれば、「影」はまさしく、「オアシス」を
意味する。日本語的に考えれば、「影武者」は、「オアシス戦士」とでもなる。「どうしてそのオア シス戦士が、悪いのか」と。
そこで本題。
今度、教育キホン法改正案なるものが、閣議了承された(06年4月)。その前文に、「……伝
統を継承し……」うんぬんとある。
しかし伝統とは、何か? ここでは視点を変えて、英語で考えてみる。伝統は、英語では、「tr
adition」と訳す。反対にtraditionは、「伝統」と訳される。
しかし今、アメリカ人や、オーストラリア人に、「traditionを代々継承することは大切なこと」と
言うと、やはり、「お前はバカか」と言われるにちがいない。英語の「traditon」という単語には、 日本語でいう「伝統」という意味も含まれるが、そのほかにも、慣習、しきたり、伝説、言い伝え という意味も含まれる(研究社、アプローチ英和辞典)。
つまりそれらをひっくるめて、「tradition」という。
そこでもし教育キホン法改正案に、こう書いてあったとしたら、あなたはどのように感ずるだろ
うか。
「……慣習、しきたり、伝説を継承し……」と。
あなたは多分、「?」と思うにちがいない。「バカか」と思うかもしれない。つまり日本では常識
でも、外国ではそうではないということはよくあるが、これもその一例ということになる。そこでも う少し具体的に、たとえば、前文に、「先人たちの知恵を生かし」とか、「歴史的遺産を大切にし て」とか書いてあれば、話もわかるのだが……。
それにしても、「伝統を継承し」とは、何をさすのか? すこしうがった見方をすれば、「天皇制
の維持」を意味するとも、考えられなくはない。こうしたあいまいな言い方というのは、官僚たち が得意とする、お家芸でもある。
あいまいな文章のまま、一度、何かのお墨つきをもらい、あとは自分たちの解釈で、自由勝
手に料理する。この教育キホン法改正案もそうである。閣議了承、さらには国会通過というお 墨つきさえもらえれば、あとは自分たちで、自由勝手に解釈できる。拡大解釈でも何でも、よ い。そのつど、「教育キホン法の精神にのっとり……」とか、何とでも言える。
で、改めて考えてみる。
伝統とは、継承しなければならないものなのか、と。そも、伝統とは、何か。いろいろな解釈を
する人は多いが、私には、よくわからない。たとえば伝統的文化という言葉がある。
日本で、伝統的文化と言えば、歌舞伎や相撲などをさす。別に破壊しろとまでは言わない
が、それを守るか守らないかは、つまり維持するかどうかは、一般庶民である。一般庶民が、 その(流れ)の中で決めることであって、政府ではない。もちろんお役人でもない。
もしそれが天皇制の維持を意味するものであり、そのための布石として、前文で、「伝統を継
承し」と言うのであれば、私は「?」マークをいくつか、つけたい。いや、何も、私は、天皇制に反 対しているのではない。もし国民の大多数が、それを望むなら、それはそれで構わない。私も、 それに従う。それが民主主義である。しかしもしそうだとするなら、こんなあいまいな書き方をす るのではなく、すなおに、「天皇制を継承し」と書けばよい。
どうして、そうしないのだろう? 何か、まずいことでも、あるのだろうか?
……などなど、いろいろと考えてしまう。
話をもとにもどすが、伝統とは、何か? 私には、よくわからない。さて、みなさんは、どうか?
【親の影、子どもの心】
+++++++++++++++++++
親がもつ影、それがそのまま子どもの心と
なる。
いくら親が仮面をかぶっても、子どもは、
それを見抜く。見抜いて、自分の心と
してしまう。
子育てのこわさは、実は、ここにある。
+++++++++++++++++++
掲示板に、こんな書きこみがあった。それをそのまま、ここに転載する。
++++++「はやし浩司のHP」掲示板より++++++
信頼関係・・・その信頼関係についてですが、娘の出産後、異常なまでの神経質な状態が続い
ていたことは確かです。子どもが2か月くらいまでは、まだ覚えていますが、その後1才くらいま での間、正直、記憶がありません。
少し思い出しましたが、出産した病院が異常に母乳にこだわる病院でした。たくさんの勉強を
入院前、入院中も押しつけられました。出産前は、子どもなんてほっておけば自然に育つ わ!、なんていいかがんな考え方をしていましたが、そこで、完全に否定されました。
完全母乳と、「断乳」ではなく「卒乳」というプレッシャーの中で、子どもが自分からいらないよ、
と言うまで与え続けなさいというものでした。
が、2才を過ぎてもやめられない子どもにイライラし、でも我慢、我慢・・・・と。しかし、体がつい
ていきません。そろそろ・・と考え、無理やり引き離しました。当然、子どもは異常なまでに、泣 き続けました。
そんな娘でしたが、「保育園で頑張っているのだから」と、一貫性のない気持ちが顔を出し、泣
く姿に負け、またおっぱいを吸わせてしまいました。常に、自分が働いているのが悪いのだか ら・・・という負い目がありましたが、でも、自分の夢もありました。当時の育児休暇は一年間だ け。それ以上ということになると、退社するしかありませんでした。
そして、常に(今も)、私の心にあるものは、「悪い母親像」です。他の、近所の母親などのひど
い所、悪いところばかり、見ていました。それに自分の母親も。そういう見方が、いつもあって、 私は心でこう言っています。「なんてひどい母親たち、絶対にあんな風にはならない」って。「な んて低レベルな親たち。。。。」とも。
「こうなりたい」ではなく、「こうなりたくない」ばかり。とくに自分の母親のようには、なりたくないと
思っていました。
私の母親は、私を産んだあと、2か月で復帰し、基本的に父親の母(つまり私の祖母)によっ
て、私は育てられました。やがて2才年下の弟が生まれ、2か月の産休中、保健婦さんが、弟 の健診に来たとき、私について、「心配だ、欲求不満状態ですよ」と言ったそうです。
幼稚園児のときから、私は鍵っ子。家に帰っても、家には、誰もいません。夏休みになると、私
は、母の実家、父の実家と転々。「明日は○○が見てくれるって、助かるわー」などと、何度も ため息を漏らされたこともあります。
愚痴を言われるたび、いい子でいなきゃって思いました。毎晩のように、行った先々がお化け
屋敷になる夢を見ていました。楽しい思い出もたくさんあるはずなのに、なぜこんな事しか覚え ていないのでしょうね。おかしいですね。
今、長女も同じ気持ちだとすると・・・心が痛いです。まともな育児を受けてなかったから、今、う
まく、子どもを育てられないのでしょうか。・・・これも母親のせいにしてしまいますね。つくづくイ ヤになってしまいます。子どもの事が心配だ、と言いながら、一番心配しているのは自分のこと で、また、自分という母親なのですね。
未熟な親と指摘され、それについては、思い当たるところがあります。
まだ、小学生か、中学生のままのような感じです。親に、もっと抱きしめて欲しかったのに、と
か、よく思います。
よく買い物の立ち話で、こんなことを言う親がいますね。「まだ夏休み! うちの子、はやく学校
いってくれないかしら」と。そんなことを聞くと、「私がいつもお母さんのそばにいることを、お母さ んは嬉しいと思っていたのに・・・お母さんは、嬉しくなかったのかしら?」と。そういう思いが、ま だ自分の中で、消化できていません。
こんなこと、思っていたらいけないと考えています。
もう、やめます。「あのようになりたくない」じゃなく、「こんな人になりたい」に切り替えて。自分が
変われば自然とついてくるような気がします。
++++++++++++++++++++
【書きこみをしてくださった、Pさんへ、はやし浩司より】
Pさんのことというより、あなたの書きこみを読んで、自分のことをあれこれ考えました。私も、
ごく最近、気がついたのですが、私という息子は、私の母には、重荷でしかなかったように思い ます。
私が幼児のころは、たしかに私の母は、私を、でき愛しました。ベタベタでした。しかしそれは
本当に私を、受けいれてくれていたからではありません。私を利用して、自分の心のスキマを 埋めていただけなのですね。
私が反抗期を迎え、母に反抗するようになると、その母は、どんどんと変化していきました。
が、そうした変化にしても、そのときはわかりませんでした。今、こうして自分の過去を冷静に みていくとわかる……という変化です。いつしか私は母に嫌われるようになっていました。が、 そのときは、母を、みじんも疑いませんでした。いつでも母は母であり、私のことを、心底、気に かけてくれているのだと、そのときは、そう思っていました。
そこでどうでしょう、「母」という言葉がもつ幻想を、捨てるのです。「母」というと、神様か、仏
様のように思う人も多いですが、それはまさに幻想です。幻想そのものです。極端な例です が、子どもを虐待する、(虐待ママ)と呼ばれる母親たちがいます。そういう母親を見ていると、 その思いを強くします。
だからといって、そういう母親を責めているのではありません。そういう母親はそういう母親
で、苦しんでいます。自分の中に潜んで、裏から自分を操る、自分でない自分に、苦しんでいま す。
で、その幻想さえ捨ててしまえば、……といっても、それは簡単なことではありませんが、それ
ができれば、母親といえども、1人の人間として、見ることができるようになります。しかしそれ は同時に、つまりそうすることは、自分という(私)のためでもあります。
私たちもその(親)ですが、親であるという立場に、決して甘えてはいけません。ともすれば、
(親である)という立場に甘え、子どもの心を見失ってしまいます。しかしいつか必ず、自分も、 1人の人間として評価されるときがやってくる。そういう前提で、自分の、親としてのあり方を考 えます。
私たちの世界では、あなたのような母親を、「気負いママ」と呼んでいます。「いい親でいよう」
という気負いが強い親をいいます。「いい家庭を作ろう」「すばらしい子育てをしよう」と。が、気 負いばかりが強くて、結局は、親子の関係をぎくしゃくしたものにしてしまいます。
なぜ、そうなるかと言えば、あなた自身に、しっかりとした(親像)が、脳の中にインプットされ
ていないからとみます。率直に言えば、不幸にして不幸な家庭で、育てられた。繰りかえします が、子育ては本能ではなく、学習によってできるようになります。
自分が親に育てられたという経験、つまり学習があってはじめて、今度は自分が親になった
とき、自然な形で、自分の子育てができるようになります。が、それがないと、どこか、かたよっ た子育てをするようになります。
極端に甘い親とか、極端にきびしい親というのは、たいていこのタイプの親と考えて、まちが
いはないようです。
が、こういうばあいでも、決して、自分を責めてはいけません。自分の親を責めても、いけま
せん。みな、そうなのですから……。
幸福な家庭で、何ひとつ、不自由なく、親の豊かな愛情に恵まれて育てられた人の方が、は
るかに少ないのですよ。みんな、それぞれ、何らかの問題をかかえている。問題のない人な ど、いません。
ただここで重要なことは、仮にあなたの過去がそうであるからといって、それをそのまま子ど
もに伝えてはいけないということです。それを私たちの世界では、「世代連鎖」とか、「世代伝 播」とか呼んでいます。子育てというのは、世代から世代へと、連鎖しやすいという意味です。 つまりそれに気がついたら、あなたという親の代で、それを断ち切ります。
その点では、すでにあなたは、それに気づいている。自分をや自分の過去を冷静に見つめる
目を、すでにあなたは、もっている。だからあなたは、すでにすばらしい親になったのです! わかりますか。あなたはすばらしい親になったのですよ!
それに気づけば、あとは時間が解決してくれます。今すぐというわけではありませんが、「時」
には、そういう力があります。ちょうど畑にまいた種のようなものです。今すぐというわけにはい きませんが、やがて芽を出し、実を結びます。
決して、あせらないこと。時の流れの中に、静かに、身を任せることです。
ねっ、よい親になるって、意外と簡単なことだと、思いませんか? あとは、子どもを育てよう
などという意識は捨てて、子どもに、子育てのし方を見せるつもりで、子育てをつづければよい のです。
「あなたが親になったら、こういふうに子育てをするのですよ」「家庭とは、こういうものですよ」
「夫婦というのは、こういうものですよ」と。そしてこう思います。「私が、その見本を見せてあげ るから、しっかりと、よく見ておくのですよ」と。
そうそう、私もあるとき、自分の母親を見て、こう思いました。「何だ、ただの女ではないか」
と。しかしそう思ったとたん、気が楽になりました。それまでは、「母」という幻想にとりつかれ、 母が、その幻想に反したことをするたびに、腹を立てていました。「そんなはずはない」と、で す。
以上ですが、何かの参考になれば、うれしいです。では、おやすみなさい。
(06年5月1日)
【世界の教育格言】
●種を蒔いたように……
As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばなら
ない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの 親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子ども のほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。
●引いて、発(はな)たず
孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が
残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、そ の矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。た とえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、か えって子どものためにならない。
●子どもは人の父
The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節であ
る。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子ど もは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を 見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのです よ」と。それが子育て。
●食欲がないときに……
『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこ
ない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と 言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子 どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよ い。
●忠告は密かに……
Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代
ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行 為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味で ある。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。
●教育の秘法
あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教育に秘法
があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を 育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なこ とを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活 を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。
●かわいくば……
『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農
政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず よいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という 意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。
●最初に受けた印象が……
First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切
ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといって も、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学 校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。
●玉、磨かざれば……
『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。
脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極 の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じよう に考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、 人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言え る。
●馬を水場に……
A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くこ
とはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸 ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生ま れ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をして も、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。
●ビロードのクッションより……
It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカ の随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはな らない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場と なる。またそうでなくては、いけない。
●教育は、母のひざに始まり……
I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap
and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼 年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響 は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っ ても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言って いる。
●ふつうの価値
「ふつうこそ最善」という言葉がある。どこかの哲学者が言った言葉である。
今朝は、改めて、それについて考える。
たとえば健康。
この健康の価値は、ふつうでなくなったときに、わかる。が、それまでは、わからない。それを
当たり前のこととして、その価値を見失ってしまうからである。
最近見た、テレビの報道番組の中に、こんな1シーンがあった。ある難病にかかった男性の
ことだが、その男性は、テレビのレポーターに向かって、泣きながら、こう叫んでいた。
「もう一度、生きたい。もう一度生きて、自分の人生を、一(いち)からやりなおしてみたい」と。
60歳くらいの男性ではなかったか。
「ありがとう」「ありがとう」と言いながら死んでいく人がいる。しかしその一方で、「悔しい」「悔
しい」と言いながら死んでいく人もいる。
そうしたちがいは、どこから生まれるのだろう。
私はその男性の言葉を聞きながら、ふと、こう思った。「この人は、若いころから、どういう人
生を歩んできたのだろう?」と。私がその男性に感じた不完全燃焼感には、ものすごいものが あった。
つまりは、そのときどきで、そのときどきを、完全に燃焼させて生きるか、そうでないかのちが
いということか。しかし自分を完全燃焼させるというのは、たとえ一時でも、容易なことではな い。
●T選手
昨夜、今度のワールドカップの出場選手のメンバー表が、発表された。その中に、Tさんの名
前が、筆頭にあった。うれしかった。
で、先日、何かのことで会って別れるとき、私が、「すばらしい人生を歩んでおられますよ」と
言うと、謙遜して、「スポーツしかできませんから……」と。
昨年のアジアカップ杯では、全戦に出場し、優勝まで、なし遂げた人である。Tさんは、私たち
の知らないすばらしい世界、想像もつかないほど濃い世界を知っている。それがうらやましい。
Tさんの前では、一度とて、サッカーの話をしたことはない。ないが、私は、心底、Tさんを尊敬
している。
(Tさんへ、もしこの原稿が目にとまったら、この林も、あなたの隠れファンだということを、どう
か忘れないでくださいよ!)
++++++++++++++++++
ふつうの価値について、以前、書いた
原稿の中から、いくつかを集めてみます。
++++++++++++++++++
【親が子どもを許して忘れるとき】
●苦労のない子育てはない
子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。
よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。
親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊 事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。
しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。
●子どもは下からみる
賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。
私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど 人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水 泳選手だったという。
私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と 叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。
私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から 二男を助け出すところだった。
●「こいつは生きているだけでいい」
以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と 思いなおすことで、乗り越えることができた。
私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点 から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。
●子育ては許して忘れる
子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では 「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。
同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思 う。が、ある日。その意味がわかった。
私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。 許して忘れてしまえ」と。
つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛 の深さが決まる。
もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども をあるがままに認めるということ。
子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。
難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。
※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる 許して、忘れる ふつうの価値 ふつうこそ最善)
【子育て段階論】
●『まいた種のものしか、実はならない』
『まいた種のものしか、実はならない』は、イギリスの格言。日本でも同じように、『蛙(かわ
ず)の子は、蛙』とか、『ウリのツルに、ナスビはならぬ』とかいう。
こう書くと、『トビがタカを生む』とか、『青は藍(あい)より出でて、藍より青し』とも言うではない
かと言う人もいる。まあ、そういうことも、たまにはあるが、しかしふつうは、『まいた種のものし か、実はならない』。
子育ては、つぎの四つの時期に分けて考えるとよい。
●子育て段階論
(第一期)(夢と希望の時期)……乳幼児期から小学校入学前までの時期をいう。この時期は、
親は、子どもにかぎりない夢や希望を託す。それが悪いというのではない。この夢や希望があ るから、子育てもまた楽しい。少しボールを蹴っただけで、「将来は、サッカー選手に」、少しお もちゃのピアノの鍵盤をたたいただけ、「将来は、ショパンコンクールに」と親は考える。
しかしこの時期、それが過剰期待になってはいけない。親の夢や期待が過剰になればなる
ほど、子どもにとっては、重荷になる。その重荷が、子どもの伸びる芽すら、押しつぶしてしま う。
またこの時期、子どもの得意分野と不得意分野が、少しずつ分かれ始める。そのときコツ
は、不得意分野をどうこうしようと考えるのではなく、得意分野をより伸ばすようにすること。そ れを「一芸」というが、子どもの一芸は大切にする。
中には、「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、
坂をころげ落ちるかのように成績がさがる。だから子どもの一芸は大切にする。子どもを側面 からささえるのみならず、生来の仕事につながることも多い。さらに時期、才能の芽が見えてく るが、その才能は、つくるものではなく、見つけるもの。無理につくろうとしても、たいてい失敗 する。
ときに戦場のようにもなり、イライラすることも多い。あたふたとするうちに、その日が終わっ
たというようにして、日々はすぎていく。
(第二期)(落胆と抵抗の時期)……子どもが小学校へ入ってから、受験勉強に入るまでの時
期をいう。この時期、親は、そのつど落胆を味わいながらも、それに抵抗する。子どものできが 悪かったりすると、「そんなハズはない」「うちの子はやればできるハズ」と、考える。たまによい 成績をとってきたりすると、「やっぱりそうだった」と、自分を納得させる。
この時期は、親の方にも、心の余裕ができる時期でもある。乳幼児期の雑務から解放され、
子育ても一段落する。親が再び活動的になり、外に目を向けるようになる。またこの時期は、 子どもがちょうど親離れする時期に重なる。が、それに合わせて親も子離れをすればよいが、 それがむずかしい。親は自分から離れていく子どもを、一方で喜びながら、一方でさみしく思っ たりする。親自身の心も、この時期、揺れ動く。
日々はそのつど平凡に流れる。朝、起きると子どもがそこにいる。私もそこにいる。子どもは
子どもで、勝手なことをし、親は親で勝手なことをする。そんな感じで流れる。しかしこの時期、 子どもは、それまで親がもっていた夢や希望を、ちょうどキャベツの葉のように、一枚ずつはぎ 取りながら成長していく。
(第三期)(地獄と絶望の時期)……子どもが受験期を迎え、受験の結果が、出されるまでの時
期をいう。この時期、親は無意識のうちにも、自分の受験時代を再現する。選別されるという 恐怖、将来への不安。もっとも親がそれを感ずるのは、親の勝手。しかしそれを子どもにぶつ けてはいけない。
が、たいていの親は、その恐怖や不安を、子どもにぶつけてしまう。「もっと勉強しなさい!」「こ
んな成績では、いい中学に入れないでしょ!」と。
この時期以前は、日本のばあい、親子関係が外国のそれとくらべても、とくに悪いということ
はない。しかしこの時期を境に、日本では、親子関係は急速に悪化する。最初は小さなキレツ だが、それがやがて断絶へと進む。
今、中学生でも高校生でも、たがいに信頼しあい、慰めあい、助けあっている親子など、さがさ
なければならないほど、少ない。その原因がすべてこの受験勉強にあるとは言えないが、受験 勉強が原因でないとは、もっと言えない。
が、それだけではすまない。この「受験」には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。それまで
は美しく、どこか華やいでいた母親も、この時期に入ると、血相が変わってくる。子どものテスト 週間になっただけで、「お粥しかのどを通りません」と言った母親がいた。「進学塾の明かりを 見ただけで、カーッと頭に血がのぼりました」と言った母親もいた。
そして受験が近づくと、親は、いよいよ狂乱の時期へと突入する。たかが子どもの受験と笑っ
てはいけない。子どもが入試に失敗したあと、自殺を図った母親だっている。夫婦関係がおか しくなり、離婚騒動になるケースとなると、いくらでもある。子どもの受験という、あの独得の緊 張感が、それまで家族の中でくすぶりつづけていた火種に火をつけるからである。
そしていよいよ子どもの受験……。親は狂乱し、子どもはその中で、悶絶する。程度の差も
あるが、この時期の親は、合理的な判断力すら失う(失礼!)。私は以前、『受験家族は、病人 家族』という格言を考えた。
受験生がいる家族は、大きな病気をかかえた病人のいる家族と思えばよい。みながみな、どこ
かピリピリしている。安易ななぐさめや、はげまし、さらには興味本位の詮索(せんさく)はタブ ー。言い方をまちがえると、かえってその家族を苦しめることになる。その家族の気持ちになっ て、そっとしておいてあげることこそ、大切である。
日々は、まさに緊張と一触即発の状態ですぎていく。暗くて重苦し毎日がつづく。
(第四期)(あきらめと悟りの時期)……まさに地獄のような受験期を抜け、一段落したあと、子
どもが巣立っていくまでの時期をいう。やがて親は、少しずつだが冷静さを取り戻す。そしてこ う思うようになる。
「いろいろやってはみたけれど、やっぱり、あんたはふつうの子だったのね。考えてみれば、
何のことはない。私だって、ふつうの人間ではないか」と。
親はあきらめの境地に達するわけだが、あきらめることは悪いことではない。あきらめること
により、親は子どもの本当の姿を見ることができる。「まだ何とかなる」と思っている間は、それ が見えない。子どもも心を開かない。「やっぱりあんたはふつうの子だったのね」と、親がそう思 うことで、子どもは、その重荷から解放される。そしてそのときを出発点として、親子という上下 意識のある関係から、「友」という対等の関係へと、その関係が、質的に変化していく。
●親子関係を大切に
要するに、親はいつ、どこで、『まいた種のものしか、実はならない』という事実を悟るかという
こと。しかしあえていうなら、その時期は早ければ早いほどよい。親子といえども、その基本は 一対一の人間関係。子育てには、山もあれば谷もある。とくに子どもが受験期を迎えるころに は、その山や谷は大きく深くなる。が、これだけは、ここに書ける。
この日本では、子どもの受験は避けては通れないものかもしれないが、しかしそれには親子の
人間関係まで破壊する価値はない。またたかが受験(失礼!)のことで、親子関係を破壊して はいけない。それはちょうど、ドロの玉を包むのに、絹のハンカチを使うようなものだ。いや、子 どもの受験に狂奔する親にしても、結局は、大きな流れの中で、踊らされているに過ぎない。 「私は私」と思っているかもしれないが、「私」そのものが、流されているから、自分ではそれが わからない。
●終わりに……
「ふつうの家族」「ふつうの子育て」「ふつうの子ども」には、すばらしい価値がある。賢明な親
は、ふつうの価値をなくす前に気づく。そうでない親は、なくしてから気づく。仮に気づくとして も、ほとんどの親は、その前に大きな回り道をする。が、ふつうの価値に気がついてしまえば、 何でもない。すべての問題は解決する。そして日々はまた平穏、無事に流れ始める。それはお おらかでゆったりとした世界。まさに悟りの境地。だから、私はこの時期を、あえて、「悟りの時 期」とした。
ここでいう「子育て段階論」は、あくまでも一般論。しかし大多数の親が、多かれ少なかれ通
る道でもある。ひょっとしたら、あなたとて例外ではない。そんなことも考えながら、子育て段階 論を頭の中に入れておくと、道に迷ったときの地図のように、あなたの子育てで役にたつ。
(02−10−28)
●ふつうの価値(2)
●ふつうこそ、最善
ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。賢明な
人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。
そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。それま
ではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったことがある。その ため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと歩いている人が信じら れなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それまでとは違って見えたことはな い。
子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。できるな
ら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値がわかる。平凡 は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の中で光り輝くのは、 平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。
今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、つら
い。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、それは喜びに 変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。
こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦労も知
らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に入れておくとよい。
子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの成長を
望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と望みながら、同 時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその子育てが終わると、とたん に、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れが、容赦なく、あなたを責め始め る。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。それは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよ い。
私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく過ごす
ことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、何と味気なく、 つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てがほぼ終わりかけたときに 気づいた。
子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値がある。そ
のときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う私も、偉そうなこ とは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさに愚かな人ということにな る。
●子育ては目標さがし
「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはない。そのと
きどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態で、どうして子育てが できるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを聞いて、言いようのない不安 にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、と。
目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心の地
図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広ければ広い ほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。
問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に対し
て、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受けた子育てが 最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そして自分だけの子ども 観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと。
そういう点では、「私の子どものことは私が一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、正し
い」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。この世界には、そういうジンクス(=悪い縁起) がある。つまり心の地図を広くするためには、謙虚であればあるほど、よい。
そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒントとし
て、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立させることこそ、ま さに子育ての目標である、と。
これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよき家庭
人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリアでも、カナダでも、 ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、私が直接、確認した。フラン ス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導するのですか?」と聞いたときのこと。 「そんなのは、常識です」と。
日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。歴史は
歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代の圧制暴君 たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、殺されたこと か! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖政治の時代だっ た。それを忘れてはならない。
話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会から、
能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そして出世 主義社会から、家族主義社会へ。
地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。そしてそ
の地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」ということになる。
●限界を知る
子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
らともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほ ど、子どもを苦しめるものはない。
そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思い
なおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなもの」とあきらめる。その思いっきりの よさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、その時点から、子どもは前向きに伸 び始める。
もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い 方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。
あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。
もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態度は 大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学に……」と 思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA中学に……」とな る。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」となる。
……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま う親があまりにも多いということ(失礼)。
さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親があまりにも多いということ(失礼!)。ま
たそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりにも多いということ(失礼)。それを避けるた めにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。限界を認める。親としては、つらい作業だ が、その度量の深さが、親の愛の深さということになる。
(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。
ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、自分のわが
ままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠した。先生にほ められたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。
私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その 男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。
しかしその男の子は、それを父親には言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなる
ことを、その男の子はよく知っていた。
しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら 親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。
●仮面に注意
もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよい。それ
は、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、いない。「でき がいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結果として決まること で、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。
ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先生の
指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこんだ。たしか に優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。
小学五年生のときのこと。これから夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのこ
とを心配していた。私が「そんな先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その 女の子にしてみれば、それが彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろ それを喜んでいるふうだった。「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望み をかなえさせてあげたいです」と。
しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害(過食、
拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引きこもるように なってしまった。
こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、それに気
づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、親がそう思 うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの子ども
は、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。
(6)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくできる。マナ
ーもわきまえている。人前では礼儀正しい。
(7)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の指示
に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。
(8)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、ぐずったり
することも少なく、独立心が旺盛にみえる。
(9)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現することが少
ない。万事にがまん強い。
(10)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このまま優秀な
まま、おとなになっていくと思うことが多い。
子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければならな
い。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。もちろん 子ども自身の問題もある。
仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子どもとみる。しかしそれと
て、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに問題があったとみる。子 どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲求不満が、その背景に あったとみる。
しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子どもの
心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。その時期は早 ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……というより、なおす のは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうからである。そういう覚悟で、 時間をかけて対処する。
しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう言っ
た。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩連続でと まることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰ってきます」と。
この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているという。そ
のため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、本当に多 い。
そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、いいか
げんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさいほど自己主張 し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいなら、むしろそれを喜ん だらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、そういうもの。そうであるべ き。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。
(03−1−20)
●親の不安
●いろいろな問題
【K市在住の、TUさんよりの相談】
突然のメールでご迷惑をおかけします。
1年前ほど、息子の通う学校で、先生の講演を聴く機会がありました。相談に乗って頂けない
かと思い、思い切ってメールしました。
息子は今小学2年生です。その息子の勉強の勧め方と、日々の関わり方で、少し困っていま
す。
最近になり、宿題が増えてきました。内容も量も、1年生のときより増えてきました。どうも、宿
題をごまかして適当にやろうとしているようです。
そのことで、先日ひどく叱ってしまいました。叱り方が感情的になってしまい、息子もかなりショ
ックだったようで、勉強のことになると辛くなるようです。「そんな、言いかたをしないで!」と言 います。
息子も人の話を聞けない子で、授業中でも、勝手に騒いでしまうことがあるようです。そのこと
もあり、ついきつく注意することが多いです。
このままいくと、勉強についていけなくなるのではと不安です。勉強も私が見るより、塾へ行か
せたほうがいいのではと思ってしまいます。
このままでは親子関係にも亀裂が入ってしまうのではないかと不安です。あと、人の話が聞け
ない子への効果的な関わり方でアドバイスがあったら頂けないでしょうか?
+++++++++++++++++++++++
多くの母親たちが、同じような問題をかかえ、悩んでいる。そういう意味では、典型的な悩み
の一つ(失礼!)ということになる。
順に整理してみよう。
(8)家では、あまり勉強しない。
(9)適当にごまかすようになった。
(10)叱り方が過激になってきた。
(11)授業中の態度が、よくない。
(12)勉強についていけなくなるのではと、心配。
(13)塾へ入れるのは、どうか?
(14)親子関係がこわれるのではないかと、不安。
●家では、あまり勉強しない。
子どもが受験期になると、親は、言いようのない不安にかられる。
もともと子育てというのは、そういうもの。親は、無意識なまま、自分が受けた子育てを、その
まま繰りかえす。
将来への不安、選別されるという恐怖。自分自身が子どものころ感じた(心)を、自分の子ど
もを通して、再現する。TUさんも、子どものころ、そういう不安や恐怖を感じた。……というより も、そういう不安や恐怖を、TUさんの親たちから、植えつけられた。
それが今、TUさんの心の中で、再現されつつある。そしてそれが「うちの子は、あまり勉強し
ない。どうしたいいのか」という心配になって、現れてくる。
そこでTUさんも、「なぜ、自分が、そういう不安にかられるのか?」と、自分自身に、問いかけ
てみるとよい。
理由はいくつかある。
その第一は、日本全体がもつ、学歴社会。さらには、江戸時代からつづく、身分意識。さらに
は日本人独特の、集団意識。それらが混然一体となって、「コースからはずれると、こわい」と いう恐怖感をつくりあげる。
TUさんが今、感じている不安感の原点は、そこにある。
もっともそれに自分で気づくのは、簡単なことではない。TUさんにかぎらず、こういった意識と
いうのは、心の奥深いところに巣をつくっている。そのため、なかなか、姿を現さない。姿をつ かめない。
さらに、「学校での勉強は絶対」という、学校神話もある。
しかしならば、自分にもう一度、問いかけてみることだ。
「どうして中学1年で、一次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」「どうして中学2年
で、二次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」と。
あなたはこうした素朴な質問に、答えることができるだろうか。あるいはあなたの子どもが、
あなたにそう聞いたとしたら、あなたは、何と答えるだろうか。
アメリカでは、公立の小学校でも、学校の先生と親たちが、相談して、勝手にカリキュラムま
で決めている、そういう(自由)を見せつけられると、「では、日本の教育は何か?」となる。「私 たちは、どうしてこうまで学校の勉強にこだわらなければならないのか?」となる。
(入学する学年まで、アメリカでは、学校ごとに、自由に決めているぞ! 「うちの小学校では、
満4歳から入学させる」と、PTAが決めれば、それでもOK! アーカンソー州ほか。)
TUさんは、その前提として、「学校での勉強はできなければならないもの」と思いこんでいる。
私は、それを「学校神話」と呼んでいる。
TUさんは、(家で勉強しない)→(遅れてしまう)→(受験競争に負けてしまう)と、心配してい
る。TUさんの気持ちを、こう決めてかかるのは、失礼なことかもしれないが、おおかた、まちが っていないと思う。
そこで登場するのが、学歴社会。
この日本では、学歴のある人は、その恩恵を、たっぷりと受けることができる。とくに、公的な
資格に保護された特権階級、官僚、公務員の世界に、それをみることができる。ここ10年で、 エリート意識が急速に崩壊しつつあるとはいえ、なくなったわけではない。残っている。
そういった不公平を、親たちは、日常的に、いやというほど、見せつけられている。
本来なら、そういった不公平があれば、それと戦わねばならないのだが、そこは、日本人。私
たちには、独特の、隷属意識がある。「おかしいから、なおそう」と思う前に、「あわよくば、自分 も……」「せめて自分の子どもも……」と考える。
だから日本の社会は、少しもよくならない。いつまでも繰りかえし、繰りかえし、つづく。
そこで、TUさんは、「あまり勉強しない」と悩んでいる。
しかし、本当にそうだろうか? もし仮にTUさんの息子が、学校から帰ってきて、毎日、1時
間、勉強したら、TUさんは、それで満足するだろうか。今度は、TUさんは、「せめて2時間… …」と思うようになるかもしれない。親の欲望には、際限がない。こんな例もある。
先日も、「やっとうちの子が学校へ行くようになりました。しかし午前中で帰ってきてしまいま
す。何とか、給食までみなと、いっしょに食べさせたいのですが、どうしたらいいか」と相談して きた、親がいた。
私は、それについて、こう返事を書いた。
「午前中、2時間だけで帰ってきなさい。『3時間目。4時間目はしなくても、いいのよ』と言って
あげなさい。そのとき、ついでに、『よくがんばったわね』と言ってあげなさい。
もしあなたの子どもが給食まで食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何と
か、午後の勉強も受けさせたい。どうしたらいいか』と。しかしそれこそ、親の身勝手というもの です。いつまでたっても、あなたの子どもの心は休まることはないでしょう」と。
学校という強制キャンプで、5〜6時間もしぼられてきた子どもが、その上で、さらに家での宿
題である。それがいかに重労働であるか、それがあなたにわからないはずがない。一度、そう いう視点で、TUさん自身のこことして考えてみるとよい。つまり「私なら、それができるか?」 と。さらには、「私は、子どものころ、どうだったか?」と。
もしそうなら、つまりTUさんが、子どものころ、勉強好きで、学校の宿題をきちんとし、親の言
いつけをハイハイと守っていたとしたら、TUさんは、今ごろは、すばらしい学歴をもち、特権的 な階級で、気楽な生活をしているはず(失礼!)。それならば、何も、問題は、ないはず。あな たの子どもも、そうなる。
かなり、きついことを書いたようだが、この問題はいつも、「自分ならできるか?」「自分が子
どものときは、どうだったか?」という視点で、考えてみるとよい。
●適当にごまかすようになった。
小学校の低学年の子どもで、一日、30分前後、家で、勉強すれば、すばらしいこと。15分で
もよい。大学受験生がするような、受験勉強的な勉強を、小学2年生の子どもに期待しても、 無理。ヤボ。不可能。
さらに子どもは、9〜10歳前後から、親離れを始める。この時期、幼児がえりを起こしたり、
反対に、おとなのまねをして見せたりしながら、子どもは、おとなになる準備を始める。子ども あつかいをすると怒るくせに、ときどき母親のおっぱいに触れたがったりする。これを私は、 「揺りもどし現象」と、勝手に呼んでいる。
女の子では、父親との入浴をいやがったり、裸を見られたりするのを、いやがるようになる。
男の子も、性意識に、このころ急速に芽生えようになる。
同時に、子どもどうしの世界が、大きくふくらんでくる。それまでは、家庭を中心とした世界
が、子どもの世界だったのが、学校を中心とした第二世界。さらに、友だちを中心とした、第三 世界へと進む。(ゲームの世界もあり、私はこれを「第四世界」と呼んでいる。)
当然、親子の関係も、その分だけ希薄になる。
が、親が、子離れをするようになるのは、子どもが、中学生から、高校生にかけてのこと。こ
の時期、親は、「どうしたら子離れできるのか」と悩む一方で、子離れできない自分にいらだつ ことも多い。TUさんの悩みも、そのあたりにある。
子どもが適当にごまかしたら、親も、適当にだまされたフリをして、自分の心をごまかす。
いいかげんであることが悪いというのではない。子どもは、(おとなもそうだが)、このいいか
げな部分で、羽をのばす。羽を休める。
まずいのは、ギスギス。『親の神経質、百害のもと』と覚えておくとよい。過関心、過干渉も、
それに含まれる。
●叱り方が過激になってきた。
それだけ親のほうの心が、緊張状態に、置かれているということ。
よく誤解されるが、情緒不安定な状態を、情緒不安定というのではない。心が緊張状態にあ
る。あるいは心から緊張状態がとれないことを、情緒不安という。
この緊張状態の中に、不安や、心配ごとが入ると、それを解消しようと、心は一挙に不安定
になる。感情が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。
だから第一に考えるべきことは、どうすれば、その緊張状態から、自分を解放するかと言うこ
と。
いろいろ方法はある。(1)逃避型(その問題から逃げる)、(2)受容型(あきらめる)、(3)戦
闘型(その問題と戦う)、(4)防衛型(それに対抗するための思想を高める)、など。
それぞれの方法を、バランスよく、自分の心の中で調合しながら、心の緊張感を取りのぞく。
逃避するのが、悪いわけではない。たまには、子育てを忘れる。忘れて、好き勝手なことをす
る。子どもというのは不思議なもので、親がカリカリしたからといって、伸びるものではない。反 対に、何もしなくても、伸びる。
つぎに「うちの子は、こんなものだ」とあきらめる。あなたがごくふつうの女性であるように(失
礼!)、あなたの子どもも、またふつうの子ども(失礼!)。
ふつうであることが悪いわけではない。この(ふつうの価値)は、それをなくしたとき、はじめて
わかる。賢明な親は、それをなくす前に気づく。愚かな親は、それをなくしてから気づく。
つぎに大切なことは、自分の心や思想を、理論武装すること。視野を高め、教養を広くする。
夜のバラエティ番組を、夫といっしょにゲラゲラと笑って見ているような家庭では、困る(失 礼!)。
当然のことながら、自分の心の奥で巣をつくっている、旧来型の学歴信仰、学校神話などと
も、戦う。しかしこのばあいは、それに対抗しうるだけの、理論武装をしなければならない。
コマーシャルになって恐縮だが、そのためにも、どうか、どうか、はやし浩司のマガジンを購
読してほしい。
●授業中の態度が、よくない。
いろいろなケースが疑われる。心配なケースとしては、ADHD(集中力欠如型多動性)の問
題もある。
しかし今、(イメージが乱舞する子ども)が、ふえているのも事実。乳幼児期に、テレビを見す
ぎた子どもほど、そうなるという研究結果もある。10年ほど前から、右脳教育という言葉が、さ かんに使われるようになったが、乳幼児への不自然な右脳教育は、できるだけ慎重であった ほうがよい。テレビは、その右脳ばかりを刺激する。
ほかに、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説、食生活のアンバ
ランスによる脳間伝達物質の過剰分泌説なども、とりあげられている(シシリー宣言※)。
といっても、小学校に入学してから、それに気づいても遅い。
この時期に大切なことは、(今の症状をよりこじらせない)ことだけを考えて対処する。そして
その一方で、子ども自身がもつ、自己意識を、うまく育て、それを利用する。わかりやすく言う と、自分で考えて、行動させるようにする。
たとえばADHDにしても、小学3、4年を境にして、見た目には、急速にその症状が落ちつい
てくる。子ども自身が、自分をコントロールするようになるからである。
もし学校での騒々しさが目立ったら、こんこんと、繰りかえし、言って聞かせるのがよい。あと
は、しばらく時間を待つ。
●勉強についていけなくなるのではと、心配。
この不安は、だれにでもある。が、これは日本人独特の意識といってもよい。つまり、その
「根」は、深い。
日本人は、集団からはずれるということを、極端にこわがる。恐れる。それはたとえて言うな
ら、動物社会における、(群れ意識)に似ている。「みんなと同じことをしていれば安心」というの が、それ。
が、この(群れ意識)には、二面性がある。
一つは、(群れからはずれたら、不安)という意識。もうひとつは、(群れからはずれるものを、
許さない)という意識。この二つが、相互から相、重なって、日本人独特の群れ意識をつくる。
言いかえると、自分自身の中の群れ意識と戦うためには、(自分の確立)と同時に、(他人の
確立を許す)という意識を、自分の中に育てなければならない。
恐らく、こうした群れ意識というのは、その中に、どっぷりとつかっている人には、わからな
い。こうした群れ意識というのは、一度、自分自身が、その群れから離れてみてわかる。ある いは、群れの中にいる人たちに、排斥されてみてわかる。
少し話がおおげさになってきたが、日本人独特の、(遅れる意識)というのは、そういう群れ意
識の中から生まれている。
そういう群れ意識を理解して上で、もう一度、あなた自身に問いかけてみてほしい。
「学校に遅れる」「勉強に遅れる」というのは、どういう意味なのか、と。昔は、「後(おく)れる」
と書いた。いやな言葉だ。
どうして日本人は、遅れることを、こうまでこわがるのか? どうして、遅れたら、それがいけ
ないのか? どうして、遅れてもよいと、居なおることができないのか?
あわてて大学を出て、あわてて会社に入社して、その結果、あわてて人生を送って、それでよ
いのだろうか?
今までの日本人は、国策として、そういう日本人に育てられてきた。戦前の「国のため」意識
が、「社会のため」意識にすりかえられた。「社会で役だつ人」「立派な社会人」意識になった。 その結果、いわゆる会社人間、企業人間が生まれた。私の同世代の中には、会社の発展の ために、命をかけて仕事をしてきた人は、いくらでもいる。
それが悪いというのではない。今の日本の繁栄は、こうした人たちの努力と犠牲(失礼!)の
上に成りたっている。
しかし、今、同時に、それではいけないという考え方も、浮かびあがってきている。TUさんは、
恐らく、そのハザマで、もがき苦しんでいる。
●塾へ入れるのは、どうか?
私も基本的には、その塾を経営している。塾というよりは、小さな教室である。
で、こういう質問をもらうと、私は、どこまで自分を殺さなければならないかという問題にぶつ
かる。迷う。それにつらい。そういう意味では、TUさんの質問は、少なくとも、私には、「?」であ る。私は何と答えたらよいのか。
まさか「うちの教室へおいでなさい」とも書けないし、「塾へは行かないほうがいい」とも、書け
ない。
同じように、以前、電話で、こう言ってきた母親がいた。「うちの子を、K式算数教室か、あなた
の教室に入れようかと迷っていますが、どちらがいいですか」と。
で、私はこう言ってやった。「うちは、10問出しますが、K式のほうは、9問(ク・モン)しか出し
ませんから……」と。いつか仲間のI先生が、教えてくれた言い方である。
それに日本人は、学校だけが、勉強の場だと思っている。しかしこれほど、島国的な発想も
ない。
ドイツでも、イタリアでも、そしてカナダでも、課外授業のほうが主流になってきている。アメリカ
では、日本の塾のように、学校設立そのものが自由化されている。もちろんアメリカにも塾はあ る。「ラーニング・センター」と、ふつう、そう呼ばれている。さらにEU諸国(ヨーロッパ)では、大 学の単位は、全土で、ほぼ、共通化された。
どこの国のどこの大学で勉強しても、同じという状態になった。
こういう事実を、いったい、どれだけの日本人が知っているのか? 文部科学省が発表す
る、大本営発表だけを鵜呑みにしてはいけない。官僚たちは、権限と管轄にしがみつき、自分 たちに都合の悪い情報を、決して公開しない。
が、ひょっとしたら、TUさんは、私を、それ以上の人間とみて、こういう質問をしてきたのかも
しれない。一人の塾教師としてではなく、それを超えた人間として……?
そうだとよいが、そういうことは、あまり期待していない。
だから、この質問には、あえて答えない。いつか、別のところで、一つのテーマとして、考えて
みたい。
●親子関係がこわれるのではないかと、不安。
親子関係でも、こわれるときには、こわれる。しかもそれをこわすのは、子ども。しかもその
子どもは、親の生きザマを見て、こわす。
だから親は親で、き然として生きる。それしかない。「あんたなんかに嫌われても、かまわな
い」「あんたは、あんたで、勝手に生きなさい」と。
親の側が、「こわれるのでは?」と心配すればするほど、立場が逆転する。親のほうが、子ど
もの機嫌をとったり、子どもにコビを売ったりするようになる。
しかしそれこそ、本末転倒。それについては、参考になる原稿を、このあとに添付しておく。
要するに、親は親。子どもは子ども。どこか溺愛タイプの母親ほど、子どもに嫌われるのを、
こわがる。しかし親に嫌われて困るのは、子ども。それを忘れてはいけない。
つまりこの問題も、日本人独特の子育て観と深くからんでいる。
日本人は、自分の子どもを、一人の人間としてではなく、いわばペットとして育てる(失
礼!)。そしてベタベタの依存関係をつくりながら、それを親子の太い絆(パイプ)と誤解する。 たがいに犠牲になることを、美徳と考える。
しかし親子というのは、皮肉なもの。親というのは、子どもに嫌われないようにすればするほ
ど、嫌われる。嫌われても構わないという生き方をすればするほど、かえって尊敬される。子ど もは、長い時間をかけて、親の心の裏側まで、見抜いていまう。
それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。
あなたが尊敬できる親というのは、あなたの歓心を買い、ベタベタと機嫌をとってくる親だろう
か。それとも、「私は私」と、き然とした生き方をしている親だろうか。
つまり親も、いつか、対等の人間として、その生きザマを、子どもに問われるときがやってく
る。必ず、やってくる。そのとき、それに耐えられるような親になっているか、どうか。そういう立 場になったときの視点で、ものを考えてみればよい。
親子の関係など、気にしないこと。あるいは「こわれるもの」「こわれて当然」と考えること。10
年後、20年後のことはわからないが、そのとき、親子の関係がこわれていなかったら、もうけ もの。そう考えて、居なおる。
もう、子どもは小学2年生なのだから、あなたはあなたの人生を、前向きに生きればよい。母
ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の人間として……。母親は、子どもを妊娠し、出産す る。そういう意味では、母親は、子どもに対しては、犠牲的な存在かもしれない。しかし、母親 も、一人の人間として、自分の人生まで、犠牲にしてはいけない。
●ではどうするか?
否定的なことばかり書いていてもしかたないので、「では、どうしたらいいか」ということについ
て考えてみる。
(7)家では、あまり勉強しない。
この時期は、まだ「勉強は楽しい」という意識を育てる。無理、強制、条件(〜〜したら、小遣
いをあげる)、比較(A君は、何点だったのと聞く)は、禁物。
これから先、子どもは、過酷なまでの受験競争を経験する。そういうとき最後のキメテとなる
のが、忍耐力。
まだこの時期は、その忍耐力を養うことを考える。まにあう。
なお子どもの忍耐力は、(いやなことをする力)をいう。テレビゲームやサッカーを、一日中し
ているからといって、忍耐力のある子どもにはならない。子どもを忍耐力のある子どもにするに は、子どもを家事の中に巻きこみながら、使う。『子どもは使えば、使うほど、いい子』と覚えて おくとよい。
そういう力、つまり(いやなことをする力)があってはじめて、将来、あの苦しい受験勉強を通
り抜けることができるようになる。
(8)適当にごまかすようになった。
親は、子どもを最後の最後まで、信ずる。それが親。だまされたとわかっていても、とぼけ
る。そしてあとは許して、忘れる。
仮にあなたの子どもが、あなたのサイフからお金を盗んで使っていたとしても、一応は叱りな
がらも、子どもを信ずる。「だれだって、それくらいのことはする」「うちの子だって、そういう経験 をしながら、おとになる」と。
そして仮にそのお金で、あなたの誕生日プレゼントを買ってきたとしても、一応、あなたは喜
んだフリをする。
もしお金を盗まれるのがいやだったら、管理をしっかりとすればよい。そういう方法で、対処
する。
それともTUさん、あなた自身は、どうか? あなたは何もごまかしていないか? 交通ルール
だって、しっかりと守っているか。交差点で、黄信号になったら、しっかりと車を止めているか。 ショッピングセンターでは、いつも、駐車場に車を止めているか。
さらに友だちとの約束は、しっかりと守っているか。人に誠実か。借りたお金を、いつもきちん
と返しているか。
もしそうなら、それでよし。あなたの子どもの心がゆがむことは、絶対にない。が、そうでない
なら、つまりあなた自身が、どこか小ズルイ人であるなら、それはあなたの子どもの問題ではな い。あなた自身の問題である。
あなたはひょっとしたら、自分のいやな面を見せつけられるようで、子どもが、ズルイことをす
るのが許せないのとちがうだろうか(失礼!)。人間というのは、自分がもついやな面をだれか に見せつけられると、カッとなりやすい。もしそうなら、やはり、これはあなた自身の問題という ことになる。
(9)叱り方が過激になってきた。
育児ノイローゼの初期症状も疑ってみる。心の緊張感をとるように、努力する。
こうした緊張感は、あなた自身にとっても、また子どもにとっても、よくない。しかしこうした問
題は、何とかしようともがけばもがくほど、アリがアリ地獄に落ちるように、かえって深みにはま ってしまう。
では、どうするか。
あなたも、一人の人間として、自分の進むべき道を模索する。そうでなくても、これから先、子
どもの問題は、つぎからつぎへと起きてくる。だから子育てとは別に、つまり子育てを離れた世 界で、自分の生きザマを確立する。
そのときコツがある。できるだけ、自分の中の「利他」の割合を大きくする。そしてその一方
で、「利己」の割合を、小さくする。「利己」が大きければ大きいほど、かえって袋小路に入って しまう。つまり何かの方法で、他人のために働くようにする。具体的には、ボランティア活動が ある。
ボランティア活動をすすんでする人たちの、あの内からわきでるような神々しさ、あなたも感じ
てみるとよい。それがその人の、人間的な大きさということになる。
また、子どもの耳は、長い。(英語で『子どもの耳は長い』というときは、別の意味で使うが…
…。)叱っても、その音が脳に届くまでには、時間がかかる。言うべきことは言いながらも、あと は、子どもの判断に任せる。
(10)授業中の態度が、よくない。
子ども自身は、「よくない」とか、「悪い」とか、思っていない。もう少し年齢が大きくなるのを待
つ。もう少しすると、先に書いた自己意識が育ってくるので、それをうまく利用する。
あとは、学校の先生には、低姿勢でのぞむこと。「うちの子が、みなさんに迷惑をかけしてい
るようで、すみません」と。
(11)勉強についていけなくなるのではと、心配。
現実問題として、中学一年生で、掛け算の九九が、満足にできない子どもは、全体の1〜2
0%はいるとみる。
国立の大学に通う大学院生(文科系)でも、小学校で習う、分数の足し算、引き算ができない
学生は、30〜40%(※2)もいる。
悲しいかな、これが日本の教育の現実である。いいかえると、今は、そういう時代だというこ
と。オールマイティな頭でっかちの子どもより、一芸に秀でた子どものほうが、生きやすいという こと、。またこれから先、そういう時代になるということ。
定年退職したあとも、大卒の学歴をぶらさげて生きている人は多い。しかしこれからは、もう
そういう時代ではない。
たまたまTUさんの子どもは、小学2年生ということだから、この年齢あたりが、その分かれ道
ということになる。
アカデミックな学習態度を身につけて、いわゆる日本の学歴社会に順応していくか、あるいは
それに背を向けて、サブカルチャの道を進むか。
もし勉強に遅れが目立ってきたら(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)、「勉強をさせ
る」のではなく、あなた自身が、自分で勉強するつもりで、子どもをその雰囲気の中に巻きこん でいく。そういう姿勢が、子どもを勉強好きにする。
(12)塾へ入れるのは、どうか?
一度、子ども自身の心を確認してみること。すべては、ここから始まる。
(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安
そういう不安があるなら、もうすでにこわれ始めている。人間関係というのは、そういうもの。
よく若い男が、女に、「お前を信じているからな」と言うことがある。しかしそう言うということ
は、すでに相手を疑っているということになる。
本当に相手を信じていたら、そういう言葉は出てこない。同じように、「親子関係が、こわれる
かもしれない?」と不安になっているようなら、すでにこわれ始めているとみる。
「母親の役目はここまで。あとは父親の役目」と、割り切ることはできないのか。いつまでも母
性世界だけで、子どもを育ててはいけない。とくに、相手は、男児。それともあなたは、自分の 子どもを、マザコンタイプの冬彦さんにしたいのか?
今、若い男性でも、そして結婚してからの夫でも、このタイプの男が多い。多すぎる。
結婚してからも、何か自分のことでニュースがあったりすると、妻に話す前に、実家の母親に
電話したりする。当の本人は、そうすることが、親孝行の息子と誤解している。そしてお決まり の、美化論。親を美化することによって、自分のマザコンぶりを、正当化しようとする。
「私の母は、立派な人だ。だから私が、こうして尽くすのは、当たり前。子どもの義務」と。
なぜこれほどまでに、この日本で、マザコンタイプの男がふえてしまったか? その原因の一
つに、TUさんが今、感じているような不安がある。そしてその不安の根源は、日本の文化その ものに深く根ざしている。
【TUさんへ】
かなりきびしいことを書きました。自分でも、わかっています。
しかしこの問題は、TUさんだけの問題ではありません。広く、ほとんどの母親たちが、共通し
て悩んでいる問題です。
私の返事は、本文の中に書いておきました。しかしこれだけは忘れないでください。
今、あなたの子どもは、あなたに考えるテーマを投げかけているのです。子育ての問題。教
育の問題。日本の社会や文化の問題など。
そこで大切なことは、こうしたテーマについて、あなた自身が考え、自らの結論を出すということ
です。
本文の中で、「あなた自身はどうだったか」と書きましたが、それはまさしく(あなた)自身を知
るきっかけとなるはずです。
そういう視点、つまりあなたが子どもを育てるのではない。あなたの子どもが、あなたという人
を育てるために、そこにいる。そういう視点で、子どもをみます。
あなたが「私は親だ」と思っている間は、決してあなたの子どもは、あなたに対して心を開くこ
とはないでしょう。あなたに何も教えないでしょう。しかしあなたがほんの少しだけ、子どもと対 等の立場にたち、謙虚になれば、あなたの子どもは、あなたに心を開くことになります。
メールを読むかぎり、あなたは、どこか権威主義的な、親意識の強い方だと思います。もしそ
うならなおさら、つまらない親意識など捨てて、子どもに、こう話してみてはどうでしょうか。
「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった。おもしろくないもんね」「学校の宿題なん
てね、適当にやればいいのよ。あなたは学校でがんばって、疲れているんだから、家の中で は、休めばいいのよ。ごくろうさま」と。
あなたの子どもは、目を白黒させて驚くかもしれません。しかしそのあと、あなたの子どもは、
心を開いて、いろいろ言うでしょう。
いいですか、親子の絆(きずな)というのは、そういうものです。心を開きあわないで、どうして
絆を太くすることができるでしょうか。
この絆の問題については、また追々、私のマガジンのほうで書いていきます。まだマガジンを
購読なさってくださっておられないようなので、ぜひ、ご購読ください。いつまで、このエネルギー がつづくかわかりませんので、早い者勝ちです。今なら、無料。お得です。ホント!
では、今日は、これで失礼します。メールの引用、転載など、ご了解いただければうれしく思
います。
なおこの原稿は、マガジンの6月30日号のほうで、掲載するつもりです。そのときまでにまた
推敲に推敲を重ねておきますので、またそちらのほうを、お読みいただければうれしく思いま す。ご都合の悪い部分などあれば、至急、お知らせください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 子どもの勉強 子供の勉強 子どもの学習 子供の学習 勉強をしない子ども
勉強をしない子供 家庭での勉強)
●やる気
+++++++++++++++++++
このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。
気力の減退。
それについて、記録する。
+++++++++++++++++++
東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、地の気
(飲食物)が、合体して、人精となる。
この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精神の
精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見かけると、「精 が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳にしないが……。)
だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な運動
を繰りかえすのがよいということになる。
が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」によれ
ば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、帯状回(動機 づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊藤正男)。
さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に大きく
関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナリンは、集中 力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。
つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。
で、私の今の状態は、どうか?
何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというより、むなし
さが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、ひとりで戦っているよ うなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!
実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学の教
授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、どういう 意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)
そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。私のし
ていることは、どうせ、その程度。
そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。
だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほかの面で
は、やる気はある。気力はある。
今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の掃除も
した。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしにしただけ。しかし こうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」という思いは、強くもつ。 それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを相手にしていると、気持ちよい。
……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿を書くこ
とにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)
+++++++++++++++++
以前、書いた原稿を添付します。
+++++++++++++++++はやし浩司
●知識と思考
知識は、記憶の量によって決まる。
その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知
記憶と手続記憶に分類される。
認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。
で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運 動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参 考、新井康允氏)。
でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ て、その価値が決まる。
たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを 判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。
これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階 で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。
この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳という
ことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起 こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。
こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。
で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」 というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値 判断)なども総合的に作用するという。
少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が 高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。
もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 知識
思考 記憶 記憶のメカニズム)
Hiroshi Hayashi+++++++++はやし浩司
●思考について
当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえに
われあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル (「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を 書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。
ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことでは
ない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせなが ら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子ど もたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。
もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間の レッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそ うでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなる と、思考にもいくつかの特徴が表れる。
●ループ性……10年一律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観
など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手
が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方
が極端になったり、かたよったりするようになる。
こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢
的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰 えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。
で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでに どのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構 造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると 考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
について デカルト パスカル)
●善人と悪人
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道路に人が倒れていた。
苦しそうである。
そういうとき、あなたは、倒れていた人を、
無視して、通りすぎることができるか?
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●倒れていた男
一度だけだが、私は、こんな光景を見た。神奈川県のK市に行ったときのことである。ワイフ
と2人で歩いていると、10数人の人たちが、円陣をつくって、そこに集まっていた。見ると、中 央には、1人の男性が倒れていた。
男性の年齢は、50歳くらいではなかったか。
みなは、何やらたがいに話しあいながらも、その男性を見ているだけであった。声をかけると
いったふうでもなかったし、救急車を呼ぶというふうでもなかった。私とワイフは、その一群の人 たちをうしろのほうから見ながら、そしてその集団を避けるようにして、そのままその場を離れ た。
男は、酔っ払っていたのか? それとも何かの急病だったのか? それはよくわからなかっ
たが、私たちにとっては、旅先でのできごとだった。
が、もし、その男が、私の近所で倒れていたとしたら……。おそらく、私はその男に声をか
け、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。
●ニヒリズム
人の心の原点には、ニヒリズムという、悪魔が住んでいる。言うなれば、(冷たい残忍な心)と
いうことになる。
そのニヒリズムが、ときとして、心の奥から、顔を出す。たとえば、今朝の中央N報(韓国系新
聞社)によれば、今年、K国の食糧事情が悪化するかもしれないという。90年末の食糧危機 の再来になるかもしれないという。
そういうニュースを読んでいると、ふと、自分の心の中で、そのニヒリズムが、顔を出すのが
わかる。「ザマーミロ」とまではいかないが、「知ったことか」という思いが、顔を出す。苦しむの は、罪もない一般庶民たちということは、よくわかっている。しかしそうした理性は、こういうばあ い、どこかへ行ってしまう。
私の心がおかしいのか? それとも、私だけではなく、こうしたニヒリズムは、みな、もってい
るのか? もしみながもっているとしたら、そのニヒリズムは、心のどこから、どのようにして、 生まれるのか?
●生きる力の、プラスとマイナス
前向きに生きていく。これを(プラスの生きる力)という。しかしその生きる力には、もうひとつ
の作用がある。
(他人を蹴飛ばしてでも生きる)という、マイナスの生きる力である。たとえばこんな状況を考
えてみよう。
あなたは沈没船から、あやうく、小型のボートに乗り移ることができた。九死に一生を得たよ
うな状況だった。
小型ボートの定員は、40人。しかしすでに、50人以上もの人たちが乗っている。ボートは今
にも沈みそうである。しかも明かりひとつない、夜の、真っ暗な海。
そのときボートの手すりにだれかが手をかけた。見ると、一人の女性である。その女性は、
かよわい声でこう言った。「助けて……」と。
映画『タイタニック』の1シーンを、想像してもらえばよい。
もしそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか? その女性を助けるだろうか?
それとも、無視するだろうか? その女性を助けあげれば、ボートは、ボートごと、沈んでしまう かもしれない。
そこでもしあなたが、その女性を無視して、下を向いたとする。(映画『タイタニック』の中に
も、そういうシーンがあったように思う。)それが(マイナスの生きる力)ということになる。
●表と裏
ニヒリズムを悪と決めつけるのは、どうかと思う。このニヒリズムがあるからこそ、人は、平常
心を保つことができる。
さらにこんな例で考えてみよう。
あなたは町の郊外に、大型のショッピングセンターをつくった。超大型のショッピングセンター
である。センターそのものが、ひとつの町のようになっている。
毎日、多くの買い物客で、にぎわっている。あなたはその成功に酔いしれ、自分の偉大さを
確認する。
しかし心のどこかでは、罪の意識も感じている。あなたがそのショッピングセンターを作った
おかげで、それまで近くにあった、多くの零細商店が、閉店に追いこまれた。しかしそのとき、 あなたは、こう思うにちがいない。
「この世界は、食うか、食われるかの、弱肉強食の世界。いちいち、そんなことを心配してい
たら、生きていかれない」と。「へたに温情を示していたら、今度は、自分が食われてしまう」と も。
つまり(プラスの生きる力)は、いつも、(マイナスの生きる力)と、ペアになっているのがわか
る。もしこのとき、(マイナスの生きる力)イコール、ニヒリズムと考えるなら、ニヒリズムは、生き る力そのものということになる。
少なくとも、ニヒリズムを否定してしまうと、その人は生きていかれなくなってしまう。
●受験というニヒリズム
さらによい例が、受験というニヒリズムである。
合格する人たちに、ワク(定員)があるばあい、1人の受験生が合格するということは、同時
に、別のところで、1人の不合格者を作りだすことになる。しかしその不合格者のことを心配し ていたのでは、受験そのものが、できなくなる。
そこで合格したとたん、ほとんどの人は、不合格で落ちた人のことは、忘れてしまう。心のスミ
で、ふと、その人を思い浮かべることはあっても、それを自ら打ち消してしまう。「私のせいでは ない」と。そしてあなたはあなたの道を歩き始める。
つまり私たちの生活から、こうしたニヒリズムを取り去ることはできない。それはわかるが、た
だこういうことは言える。
そのニヒリズムを決して、野放しにしてはいけないということ。それが必要であるとしても、最
小限におさえること。そういった努力を怠れば、まさにこの世は、闇と化す。
●ニヒリズムとの闘い
学生時代に見たミュージカルに、『ヘアー』というのがあった。私は、シドニーのキングスクロ
スにあった劇場で、それを見た。
そのミュージカルの中で、1人の女の子が、こう歌う。「どうして、人々は、残忍になれるの…
…?」と。その女の子は、戦争という残忍さを頭に置きながら、そう言った。
言うまでもない。ニヒリズムが、極限化すると、それはそのまま残忍化する。さらに放置すれ
ば、悪魔化する。
そこで私たちは、生きることを考えるときは、同時に、ここに書いた、(マイナスの生きる力)
を、念頭に置かねばならない。そのことがわからなければ、先に書いた、ショッピングセンター を思い浮かべればよい。受験勉強を思い浮かべればよい。
常に、(生きる力)には、ニヒリズムがともなう。
そのニヒリズムを、理性でコントロールできる人を、善人といい、そうでない人を、悪人という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ニヒリ
ズム 善人 悪人)
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