倉庫17
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●ほめる

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子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!

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●灯をともして引き出す

 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。

 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。

 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。

●脳内ホルモンが脳を活発化させる

 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。

 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。

ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。

●子どもをほめるときは本気で

 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。

 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。

 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。

●「先生、肩もんでやるよ。」

 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。

 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。

 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。

 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。

 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。

 私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●ほめる(2)※

●明るい4人兄弟

 Gさんの家には、男の子ばかり、4人の子どもがいます。が、どの子も、屈託なく、明るい。伸
びやか。その秘訣は、すぐわかりました。母親が、上の子どものお下がりを、下の子どもに与
えるとき、いつもこう言うのです。

 「あら、あなたも、Aちゃん(すぐ上の兄)のが着られるようになったわね。大きくなったわね」
と。

 母親がまず、それを心底喜んでみせる。それを受けて、下の子どもたちが、「大きくなった」と
喜ぶのです。そういう雰囲気を、母親が、無意識のうちにも、つくりあげていたのです。

●不思議なパワー

 子どもを伸ばす最大の鉄則、それは、子どもをほめることです。スキナーという学者は、ほめ
ることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向
きに伸ばしていくと説明しています。

さらに最近の研究によれば、ほめることによって、脳内で、カテコールアミンというホルモンが
分泌され、それが、子どもの集中力(ノルアドレナリン)や思考力(ドーパミン)を活性化させるこ
ともわかってきました(澤口俊之「したたかな脳」)。

 ほめることには、私たちが想像する以上の、ものすごいパワーがあるようです。が、いくつか
条件があります。

●ほめる条件

 ほめるとしても、努力とやさしさ。この2つは遠慮なく、ほめます。顔やスタイルは、ほめない。
頭については、時と場所を慎重に選んで、ほめます。顔やスタイルは、ほめれば、関心がそち
らばかりに向いてしまうということになりかねません。頭については、ほめすぎたため、かえって
うぬぼれてしまうというケースも、少なくありません。

 また当然のことですが、ほめるときには、心底、その気になってほめます。ウソや体裁では、
効果がないばかりか、かえって逆効果。子どもは、親の心の隠された意図(シャドウ)を、敏感
に読み取ってしまいます(ユング)。

●学習面では……

 たとえば子どもの学習。子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばす、です。苦手な分野、
不得意な分野には、目をつむります。

 こうすることで、先に書いた、カテコールアミンという脳内ホルモンの分泌を促し、脳を活性化
させることができます。

 1科目が伸びたら、ほかの科目もつられて伸び始める……という現象が、子どもの世界で
は、よくあります。これを「相乗効果」と呼んでいますが、「うちの子は学習面ではどうも……」と
思ったら、1科目なら1科目だけを、集中的にほめて伸ばします。

●好意の返報性

 が、それでも、よくこんな質問を受けます。「子どものほめ方が、わかりません」と。しかし答え
は簡単。まず、本心で、自分の子どもをいい子と思うことです。不安や心配は禁物。本心で、で
す。

英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがあります。あ
なたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのことをいい人だと
思っているもの。心理学の世界ではそれを、「好意の返報性」という言葉を使って説明していま
す。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとします。相手
の好意には、好意でもってこたえようとします。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ば
します。親が、「…うちの子は、ダメ…」と思っていて、どうして子どもが伸びることができるでし
ょうか。

 もうおわかりですね。「うちの子は、すばらしい」と、まず信ずること。心ができれば、ほめ方
は、自然と、あとからついてきます。
(はやし浩司 相乗効果 ノルアロレナリン カテコールアミン 脳の活性化)

【補記】

 子どものやる気、思考力に、脳内ホルモンが、関係している。昔から『好きこそ、もののじょう
ずなれ』と言うが、好きなことをしていると、脳内で、カテコールアミンというホルモンが分泌され
る。

 このカテコールアミンには、ノルアドレナリンとドーパミンの2種類があるが、そのうちノルアド
レナリンは、注意力や集中力と関係があり、ドーパミンは、思考力に関係があるとされる。

 カテコールアミンが分泌されると、脳が覚醒状態になるという。そしてその結果、脳の機能そ
のものが活性化される。

 教育の世界には、「相乗効果」と呼ばれる、よく知られた現象がある。たとえば英語なら英
語、1科目が伸び始めると、とくにほかの科目を勉強したわけでもないのに、数学や国語まで、
伸び始めるという現象である。この現象に、ここに書いた脳内ホルモンの働きを重ねてみる
と、なぜそうした現象が起きるのか、うまく説明できる。

 そこで重要なことは、子どもを伸ばそうと考えたら、どんな分野でもよいから、ひとつのことを
楽しんでさせるようにすること。その前向きな取り組みが、子どもの脳を活性化させる。その結
果として、子どもは、ほかのあらゆる分野で、伸び始めるようになる。

まずいのは、不得意な分野や苦手な分野を、子どもに押しつけるような行為である。逆の相乗
効果(?)が働いてしまい、子どもは、今度はあらゆる面で、伸び悩むようになってしまうかもし
れない。
(はやし浩司 子供の集中力 子供の思考力 子どもの集中力 カテコールアミン ノルアドレ
ナリン ドーパミン)

【注、ノルアドレナリン】

ホルモンとして副腎から血液に放出され、また、シナプス伝達の間にノルアドレナリン作動性ニ
ューロンから放出される神経伝達物質である。それは、ストレス・ホルモンの1つであり、注意と
衝動性(impulsivity)が制御されている人間の脳の部分に影響する。アドレナリンと共に、この化
合物は闘争あるいは逃避反応を生じさせて、心拍数を直接増加させるように交感神経系を動
かし、脂肪からエネルギーを放出し、筋肉の素早さを増加させる。(Wikipedia フリー百科事典
より転載)。





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【常識論】

【常識が偏見になるとき】 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長
二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識論
 はやし浩司 教育評論 教育論)






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【意識】

●Common Sense

 自分がもっている「Common Sense」ほど、あてにならないものはない。日本語では、「常
識」と訳すが、私たちが日常的に言うところの「常識」とは、かなり意味がちがう。日本語でいう
「常識」というのは、ふつうの人が、ふつうの生活するための、基本的な知識をいう。

が、英語でいう「Common Sense」というと、一般的な人が、共通してもっている認識を意味
する。あえて訳すと、「共通認識」ということになるのか。研究社の「アプローチ英和辞典」では、
Common Senseを、「良識、常識」と訳している。

 だから日本語で、「あの人は常識のない人だ」と言うときは、「あるべき知識のない人」という
意味で、そう言う。一方、英語で、「あの人はCommon Senseに欠ける人だ」と言うときは、
どこかに、「あの人は変人だ」というニュアンスをこめて、そう言う。「sense」という単語を、「感
覚」という意味のほか、「思慮」「分別」(同辞典)と訳すのは、そういう理由による。

 その「Common Sence」だが、国によって、民族によって、さらに個人によって、その内容
が、すべてちがう。それが如実に現れるのは、「裸」「性」に対する考え方である。

 もう30年以上も前になるが、スウェーデンの性教育教会の会長の通訳をして、全国を回った
ときのこと。こんな話を聞いた。名前は忘れない。エリザベス・ベッテルグレン女史といった。

 ベッテルグレン女史は、こう言った。大学で、何の講義だったかは忘れたが、実際に、1組の
男女が、素っ裸で、セックスの実演をしてみせるということもあるそうだ。(大学の授業の中でだ
ぞ!)教官がその場で、「A君とB子さん、前に出てきなさい」というような指名をする。もちろん
2人とも学生である。前もって打ち合わせなどしない。いきなり、である。

 で、2人はみなの前に出てきて、裸になり、マットの上で、抱き合ってみせる。それを見なが
ら、教官が、「こうすればいい」「ああすればいい」と指導するという。

 当時の私には、信じがたい話だった。(今でも信じがたいが……。)しかしベッテルグレン女
史は、「それがどうしたの?」というような雰囲気で、私に、その話をした。

 またこんな話も、最近、聞いた。去年、私の家に2組のオーストラリア人の夫婦がホームステ
イした。その1組の夫婦の娘が、現在、フィンランドで建築学の勉強をしているという。北欧は、
建築学の分野で、世界をリードしている。その娘が、こんな話を伝えてきたという。

 フィンランドでは、みな、サウナに入る。どこでも男女混浴が当たり前。老若男女の区別はな
い。その娘も、20歳と少しだが、みなといっしょにサウナに入っているという。もちろん素っ裸
で、である。

 さらにオーストラリア国内にも、ヌーディスト村があちこちにあるという。そういうところでは、家
族ぐるみで参加するのが常識だそうだ。だからもちろんその中には、10代の息子や娘もい
る。20代の息子や娘もいる。そういう人たちが、平気で……というより、「それがどうしたの?」
という雰囲気で、ヌードでいることを楽しむという。

 が、こういう話を聞くと、日本人なら、だれしも、「まさか!」「とんでもない!」と考えるにちがい
ない。つまりそのように考える基盤になっているのが、ここでいう「Common Sense」というこ
とになる。日本で、もし、中年の男性が、10代の女の子といっしょに、素っ裸で、サウナに入っ
たら、どうなるか。それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみたらよい。

 これは「裸」「性」に対するCommon Senseということになるが、実は、私たちの意識には、
こうしたCommon Senseが、無数にからんでいる。わかりやすい例でいえば、「家族観」「仕
事観」「人生観」などなど。それらすべてに、からんでいる。

●2つの教訓

 このことは、つぎの2つの教訓を意味する。

 ひとつは、まず自分が、どのようなCommon Senseをもっているかを、知ること。それが第
一歩。

 もうひとつは、そのCommon Senseが、本当に普遍的なもので、大切なものかどうかを、
疑ってみること

 あのアインシュタインは、こうしたCommon Senseは、「その人が18歳までにもった偏見
のかたまり」であると、看破(かんぱ)している。アインシュタインのような頭のよい人だからこ
そ、それに気がついたのかもしれない。なるほどと思うと同じに、ドキッとする。

 話を先に進める前に、私がした経験を話しておきたい。

 私がオーストラリアにいたときのこと。あるとき、ある友人の家に、夕食に招かれた。イギリス
系のごくふつうの家族だった。が、驚いたのは、その夕食のあとのときのことだった。ふと気が
ついてうしろを見ると、友人の父親が、エプロンをかけて、食器を洗っているではないか!

 私は、すっとんきょうな声をあげて、こう叫んだ。「ああ、男が皿洗いをしている!」と。今でこ
そ、笑い話にしかならないが、当時は、本当に驚いた。心底、驚いた。つまりそのとき私の頭の
中には、「男が皿を洗う」という、Common Senseが、なかったことになる。

 こういうのを、Common Senseのズレという。こうしたCommon Senseのズレは、日常
生活の中でも、よく経験する。たとえば私は、冠婚葬祭の場で、それをよく感ずる。結婚式にせ
よ、葬式にせよ、私のもっているCommon Senseと、ほかのひとたちのもっているCommo
n Senseが、大きくズレているのを、よく感ずる。

 はっきり言えば、私は、日本式の結婚式にせよ、日本式の葬式にせよ、そういったものに、ど
れほどの意味と価値があるのか、いまだによくわからない。あの「盆供養」にしても、もとはとい
えば、アフガニスタンにあった土着宗教の行事に由来する。それをアフガニスタンでは、「ウラ
バン」と言っていた。ウラバンが、中国へきて、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、「盂蘭盆会(え)」に
なった。「盂蘭盆」は、「ウラバン」の当て字である。釈迦仏教が中国へ伝わる過程で、本来の
釈迦仏教とは縁もゆかりもない盆供養が、アフガニスタンで、混入したことになる。

 そういうことを知ってしまうと、当然のことながら、盆供養についてのCommon Senseも、
ちがったものになってしまう。それが意識のズレとなって、自分にもはっきりとわかるときがあ
る。

 ただここで誤解しないでほしいのは、だからといって、盆供養がまちがっているとか、無意味
だとか言っているのではない。盆供養を通して、死者を思い慕うことは、何もまちがっていな
い。それぞれの人は、それぞれの思いをもって、死者を供養する。

 それにそれがたとえアフガニスタンの土着的な宗教的行事であったにせよ、仏教と、何か通
ずるものがあったからこそ、現在に生き残ったと考えられる。で、もう一言つけ加えるなら、盆
供養を大切だと思うのも、また思わないのも、その人の勝手だということ。

 えてしてこの日本では、そうした風習になじまない人を、ことさら排斥する風潮がある。「日本
人なら、盆供養をすべきだ」と、押しつけがましく迫ってくる人も少なくない。あるいは、「親の供
養をしないようなものは、人間のクズだ」と言う人さえいる。

 結婚式についても、同じ。もっとも、それは儀式というよりは、パーティのようなもの。もっと言
えば、遊び(?)。深刻に考えなければならないようなものでもない。しかしCommon Sense
のズレを感ずることは、少なくない。

 しかしこうして考えていくと、いったい、何が本当で、何がそうでないか、それがわからなくなっ
てくる。が、同時に、それをしないと、つまり自分のCommon Senseが何であるか知らない
と、その先に、本物の自分を見ることができなくなる。私たちは、本来的に、偏見のかたまり(ア
インシュタイン)なのである。その偏見を取り去ること。つまりは、それが自分を、自由に向かっ
て、解放するための第一歩ということになる。

【追記】

 冠婚葬祭に関して、よく「ベキ論」「ダカラ論」「ハズ論」をふりかざして、何かと迫ってくる人が
いますね。あれはいやですね。本当に、いや。何かの考えに基づいてそう言うなら、まだしも、
そういう人にかぎって、頭の中は、カラッポ。あるいは脳ミソそのものが、硬直してしまってい
る。

 10年、いや、30年、40年、一律のごとく、同じ意見を言う。そういう人を見ると、「この人は、
いったい、何を学んできたのだろう」と思うことがあります。が、そういう人にかぎって、「私は絶
対、正しい」という信念(?)をもっている。だからよけいに、やりにくいですね。過去を踏襲する
ことが、「絶対」と考えている(?)。

 そうそう、「伝統」という言葉も、そこから生まれたのですね。伝統を背負っていれば、その人
は強くなれる。何も考えなくても、です。しかし考えてみれば、伝統ほど、いいかげんなものもな
い。人間をしばる道具、あるいは方便として使われることもあります。

 言うなれば、伝統と呼ばれるものこそ、アインシュタインが言った、「偏見のかたまり」なのか
もしれません。どうして女性が、土俵にのぼってはいけないのでしょうか? どうして女性が天
皇になってはいけないのでしょうか? 考えてみれば、おかしなことだらけですね。みんなで、
笑いましょう! ハハハ!
(はやし浩司 ウラバン 盂蘭盆 伝統 偏見 伝統 伝統論 意識 意識論)






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●伝統

++++++++++++++++++

伝統とは、何か?

統一化された、行動規範か?
それとも、偏見のかたまりか?

++++++++++++++++++

 つい先日まで、皇位継承問題にからんで、「伝統」という言葉が、よく使われた。しかし伝統と
は、何か? それがよくわからない……。

 人間にかぎらず、あらゆる動物は、同じような思考や行動を繰りかえしていると、脳ミソの中
に、思考回路(パターン)というものを、つくる。たとえば目の前にある茶碗を取るときも、それを
いちいち考えて行動する人はいない。さっと手がのびて、茶碗を手でつかむ。

 こうしたパターン化は、生活のあらゆる部分で、定着する。つまりそうすることで、人は、日常
の生活を、なめらかにすることができるようになる。

 同じように、毎年、同じような、しきたりを繰りかえしていると、そこに一定のパターン(形式)
ができるようになる。以前考えたことを、再び考えなおすよりも、以前考えたことはそのままにし
て、そのつぎのことを考える。そのほうが、楽だからである。よい例が、各地でなされる「祭り」
である。

 毎年、同じようなことを繰りかえすなら、過去を踏襲したほうが、楽。何も考えることなく、祭り
ができる。

 こうしたパターン(形式)が、積み重なって、「伝統」となっていく。

 伝統が悪いと言っているのではない。伝統があるからこそ、人間の生活は、スムーズに流れ
ていく。「去年、こうしてうまくいったから、今年も……」となる。が、もちろん弊害もある。

 伝統そのものが、個人の自由な発想をしばることもある。阻害することもある。たとえばこの
浜松という、もうすぐ100万都市になるような都市の中でも、少し郊外に行くと、いまだに長子
存続的なものの考え方をする人がいる。「お前は長男だから……」と、親は子どもを縛り、「私
は長男だから……」と、子どもは親に縛られる。

 もっと広い世界では、伝統が、革新的な思想や行動を弾圧する道具として、機能することもあ
る。たとえばヨーロッパで花を咲かせた18世紀の啓蒙思想運動がある。その反動として、その
あと、19世紀はじめに、フランスでは、中世の伝承をしようとする、いわゆる「伝統主義」が、生
まれたことはよく知られている。そのときどきに起こる、自由主義や科学主義にするどく対立す
ることも、珍しくない(参考、「広辞苑」)。

 現在の日本でも、武士道なるものを振りかざす復古主義が見られる。こうした動きも、そうし
た反動のひとつと考えられなくもない。

 つまりこういうケースでは、「伝統」という言葉を使って、それを安易に肯定することは、たいへ
ん危険なことでもある。

 広辞苑には、こうある。

 伝統……(1)系統をうけ伝えること。また、うけ伝えた系統。(2)(traditon)伝承に同じ。また
特にそのうちの精神的核心または脈絡、と。

 では、何が、善玉伝統で、何が、悪玉伝統なのか?

 私という個人をみたときも、その年代によって、伝統に対する考え方が変化してきているのが
わかる。全体としてみると、若いときは、伝統を忌み嫌い、中年のころは、妥協し、老年に近づ
くにつれて、どこか保守的になる。しかしこうして総じてみると、伝統と呼ばれるものは、すべて
悪玉的な要素があることがわかる。反対に、善玉的な伝統とは何かと聞かれると、即答に困っ
てしまう。

 要するに、人間は、めんどうなことが嫌い。もっと言えば、考えることが嫌い。それが年齢とと
もに加速して、やがて伝統にしがみつくようになる。わけのわからない未来に自分を賭けるより
も、過去の栄華に一抹の期待を寄せる。少なくとも、伝統に従っていれば、失敗する可能性
は、より少ない。

 で、今、多分、皇室の皇位継承問題には、一応のケリがついたらしい。「伝統」という言葉が、
突然、姿を消した。今では、妊娠数か月で、胎児の排泄物を調べて、男児か女児かわかると
いう。礼宮殿下に男児が生まれるという確信をもったからこそ、「伝統」という言葉が消えたとみ
るのが、正しい。つまり、再び、日本人は、考えることを放棄した。結局は、楽な道を選んだ。

 しかしこれだけは言える。あくまでもこれは私の心情でもあるが、人は、伝統にしがみつくよう
になったら、おしまい。そこで進歩は、停滞する。明日は今日と同じ。来年は、今年と同じという
人生に、どれほどの意味があるというのか。もしそうなら、その人は、死んだも同然。長生きす
るかどうかは、何も、年齢だけの問題ではない。話が脱線ししそうなので、この話は、ここまで。
(はやし浩司 伝統 伝統とは 伝統論 保守主義 復古主義)





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●教育の自由化

++++++++++++++++++++

アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。

アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。

++++++++++++++++++++

 アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。1859〜1952
年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考え、哲学を教育の場
で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。

 彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。それ
以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なことを教えること
が教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。その方向性に、デューイ
は、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、アメリカには、農業、工業など、
実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。

 どうして教育は、実用的であってはいけないのか?

 一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」とい
う教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山では、毎
日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流のアカデミック
教育が混入した。

 それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。

 が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミックな
教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリカ流実用主義
的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。

 日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。
それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられていた
からである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたちの中で、将
来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校における英語
教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。

 数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その方式こそ
が、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行という名目の、読
経、写経。

 なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を暗
記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえばスペイン
の小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという(スペイン在住
の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フランス革命について勉
強をしているとのこと。

 こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?

 デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」という、
ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にならない概念に
は、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそういう幻想を、教育
にいだいてはいけない。

 アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。そのテ
ーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小切手の使い
方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容となっている。

 重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。

 日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以来
の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩も、抜け
出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そういう子どもを
嫌う傾向すらある。

 何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子どもを、優
秀な子どもと言ってよいのか?

 ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイかと言え
ば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書教育の上
で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うなら、歌舞伎という
舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、おのずと、無理がある。

 どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。

 今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方がありがたく
いただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進国で、どの国
が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定であって、中国や
韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえしている。検定も、国定も、ど
こもちがわない。

 自由なる教育こそが、日本を発展させる。

 これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえば、そこ
に自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースクール)をはじめ
として、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。もちろん失敗も多い
という話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、アメリカの原動力にもなって
いる。

 ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100年間の間に、
日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省庁が、戦後こぞ
って欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに背を向けた。なぜ
か? どうしてか? 

 われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)

【付記】

 韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。「日本
には、もう、そんなものは、ありませんヨ〜」と。「そんなものを使っている国は、全体主義国家
だけだヨ〜。ハハハ」と。

 気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。

 それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オーストラリアに
も、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をするのは、純然たる民間
団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史については、検定してはいけ
ないことになっている(南オーストラリア州など)。

 自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、自由化
すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、その子どもた
ちがつくるのだから。

 で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっこい。も
しそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっているはず。ちがいます
か?

 さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く人もい
る。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。

 本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?

 もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史ということに
なれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長〜イ。日本だって、中国の歴史の
一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観をいうのですね。少
なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。

 日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、こうなる。も
とから、かないっこない。

 日本***************(15)
 中国************************************
*******************(55)

 日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、意識
革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでいく。そのた
めの意識革命。

 それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ……。
(つぶやきでした。)

  
Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

●義務教育について。

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義務教育の「義務」って、どういう意味?

+++++++++++++++++

 義務教育の「義務」というのは、子どもに対しての義務をいうのではない。親は、親がもつ教
育権(親権)を、国に預ける義務があるという意味での、義務をいう。

 そもそも満18歳未満の子どもに、法的義務は存在しない。もし法的義務が存在するなら、学
校へ行かない子どもは、処罰されることになる。しかしどうやって処罰するのか?

 昔は、「オレの子の教育は、オレがする」と言って、子どもを学校へ渡さない親がいた。そうい
う親は、義務教育違反として、処罰された。それなら話がわかる。

 が、その「義務」が誤解され、「子どもは、学校へ行く義務がある」というふうに理解されるよう
になった。しかしそれはまちがい! もしそれを言うなら、「権利教育」と言ったほうが、正確か
もしれない。「子どもは、学校で教育を受ける権利がある」と。

 今度、政府内で、「義務教育年数を撤廃する」という動きが出てきた。「幼稚園から義務教育
にする」とか、「高校3年まで義務教育にする」とか、そういう話になっているようだ(06年3
月)。

 高校3年まで義務教育にするという話は、まだわかるが、しかし幼稚園まで義務教育化する
というのは、どうか? 何のために? どうして? 幼稚園教育を無料化するための方便という
ことなら、賛成だが、しかし現実には、不可能。幼保一元化がやっと軌道にのったばかり。私
立幼稚園は、今、どこも、経営を立てなおすために、四苦八苦している。

 むしろ話は逆で、確たる裏づけがあるわけではないが、4歳児では、週2〜3日、幼稚園へ行
けばじゅうぶん。5歳児でも、週3〜4日、幼稚園へ行けばじゅうぶん。それよりも家庭教育を
充実させたほうがよい。何でもかんでも、学校という発想が、幼稚園教育のレベルまで押し下
げられたら、それこそたいへん!

 あのね、みなさん! 子どもを育てるのは、親の権利なのですよ! 自分の子どもと、楽しい
思い出を、たくさんつくる。それは親の権利なのですよ! どうしてそんな権利を、自ら放棄す
るようなことを、するのですか!

(付記)

 私立幼稚園の経営ボーダーラインは、園児200人とされている。200人を切ると、とたんに
経営が苦しくなる。しかし今、少子化と幼保一元化の嵐の中で、私立幼稚園は、経営を立てな
おすため、どこも四苦八苦。義務教育にしたところで、経営が楽になるわけではない。むしろ現
場の教師に、負担ばかりがふえる。

 さらに一言つけ加えるなら、今まで、私立幼稚園だからこそできた、(自由な教育)が、そこで
終わることを意味する。現在、ほとんどの私立幼稚園では、自分の幼稚園の特殊性を出そう
と、それぞれが工夫プラス苦労をしている。日本に残された自由教育の最後の砦(とりで)、そ
れが私立幼稚園ということになる。

 そういう私立幼稚園を、政府は、どうしようと考えているのか? 疑問ばかりが残る!





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●娘の反抗期

●ある相談から

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わがままな娘に手を焼いている……
そんな相談がありました。

M県M市にお住まいの、MTさん
(母親)からのものです。

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【MTより、はやし浩司へ】

17歳の娘は私たちから見ると、わがままです。一緒に生活していた時、ご飯は一緒に食べ
ず、食べたいときに部屋へもっていって食べたり、自分の都合で、親に送り迎えを急に頼んだ
りし、散々振り回されてきました。

中学一年の半ばから不登校になり、わたしの子育てにも問題があったと、色々反省もさせられ
ました。でもよかれと思って、本人の希望もあって通っていたフリースクールはやめ、通信高校
も定時制高校も、一学期間だけ通ってやめてしまいました。

高校に行き始めた頃からケータイ代を払うためバイトを始めましたが、たいした稼ぎもないの
に、一時は何万ものケータイ代を未納していました。自分に見合ったケータイの使い方をしたら
という私の話に耳をかしません。

最近は家を出て彼氏の家にころがりこんだかと思えば、一人暮らしをすると、嬉しそうに報告し
てきたり・・・。金銭感覚がまともではないような気がするのです。うちではお金をあげず、貸して
います。が、もうそれもしていません。家にいなければ振り回されることがないのでホッとする反
面、外でなにしているのか・・・。このままほっといていいのでしょうか?

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 17歳といえば、体も心も、もうおとな。それがわからなければ、あなた自身のときのことを思
い出せばよい。つまりこの年齢の子どもに対しては、親としてできることは、ほとんど、ない。ま
た親として何かをしようと、親が気負えば負うほど、逆効果。子どもの目には、それが重荷とな
って、映る。

 MTさんの娘について言えば、現在、猛烈な速度と勢いで、おとなの世界に向けて、心の準備
をしている。今までの自分を、すべてかなぐり捨てるかのように、して、である。しかし皮肉なも
のだ。

 どこのだれが、自分の子どもが、(わがままな子)になると、想像して、子育てなどするだろう
か。あどけない顔。子どもらしい、しぐさ。「パパ」「ママ」と言って、あなたの胸に飛びこんでくる
子ども。その子どもがやがて、「ケータイ代を払うために、バイトをする」ようになるとは!

 しかし現実は、現実。そこにあるのが、厳然たる現実。親に残された選択は、ただひとつ。そ
の現実を、受けいれるか、それとも、その現実を拒絶するか。MTさんは、こう迷っている。「家
にいなければ振り回されることがないのでホッとする反面、外でなにしているのか」と。

 では、どうするか? どうしたらよいか? 答は簡単。子どもは、信じて、信じて、信じぬく。ど
んなに裏切られても、信じぬく。決して短気を起こしてはいけない。子どもへの愛情を断ち切っ
てはいけない。子どもがいくら断ち切っても、親は、断ち切ってはいけない。迷うことはあるかも
しれない。しかし断ち切ってはいけない。

 もしそれができなければ、毎日、子どもに向かって、こう念ずればよい。「許して、忘れる」と。
何があっても、「許して、忘れる」と。その度量の深さが、あなたの親としての、子どもへの愛の
深さということになる。

 その愛があれば、子どもは、必ず、(必ず、だ)、あなたのもとに戻ってくる。5年後か、10年
後か、それはわからない。しかし20年を超えることは、ない。

 今、MTさんの娘は、もがいている。苦しんでいる。表面的な反抗とは裏腹に、自分でもどうし
てよいかわからず、悩んでいる。その答がわからないから、親のMTさんに、(わがまま)をぶつ
けている。わかりやすい例に、(家庭内暴力)がある。形こそ、少しちがうが、その心理は、同
じ。つまり(わがまま)をぶつけながら、MTさんの、親としての愛情を確かめている。

 だからMTさんのすべきことは、ただひとつ。どんなに裏切られても、決して、娘を見放さな
い。あとは、その根くらべ。じっとがまんの根くらべ。MTさんは、娘に、こう言えばよい。「あなた
には、負けないわよ」と。「あなたがいくら私を嫌っても、私は、あなたを嫌わないからね」と。

 こういうケースでは、親は、子どもの悪い面ばかりが気になるもの。妄想も、ある。しかしこと
金銭感覚については、そういう子どもにしたのは、MTさん、あなた自身。生まれながらにして、
金銭にルーズな子どもなど、いない。

 それに「ご飯は、いっしょに食べない」ということにしても、理由は、はっきりしている。いっしょ
に食べたくないから、食べない。それだけのこと。子どもを責める前に、どうしていっしょに食べ
たくないか、その心をさぐってみたらよい。

 MTさんは、口うるさくないか? 小言を言い過ぎていないか? あれこれ指示ばかり与えて
いないか? 心配や不安だけを、子どもにぶつけていないか?

 今どき、親子、仲よく食事をする子どもなど、いない。会話の消えた家庭など、ゴマンとある。
廊下ですれちがっても、たがいに目をそむけあう親子となると、もっと多い。同居しながら、30
年以上、会話らしい会話をしたことがない親子さえ、いる。

 子どもに期待しないこと。MTさんの理想像を、子どもに求めないこと。押しつけないこと。MT
さんは、MTさんで、前向きに生きる。1人の人間として、前向きに生きる。そういう姿を見て、
娘は、あなたを1人の人間として、再評価する。つまりMTさんにとって重要なことは、そうして
再評価されるに足りる親になること。あとは、子どもの判断に任す。

【MTさんへ】

 今のMTさんには、つらい毎日かもしれませんが、ケースとしては、よくあるケース。珍しくも何
ともありません。娘さんは、(自分のしたいこと)が、何であるかも、よくわからないのでしょうね。
どこへ行ったらよいのか。何をしたらよいのか。それがわからないでいるのです。

 あなたにも、その年齢のとき、そういうことは、ありませんでしたか? 実は、私にはありまし
た。「学校」という世界で、何となく押し出されて、おとなにはなったのですが、おとなになったと
たん、そこに自分がいないのを知りました。

 今、ほとんどの子どもたちが、同じような悩みをかかえて、苦しんでいます。この日本では、何
も考えないで、おとなしく勉強だけしている子どものほうが、生きやすいのかもしれませんね。
勉強しかしない。勉強しかできない。勉強だけがすべてという子どもです。そういう子どもほど、
受験競争を、スイスイと勝ち抜いていく。親は、「いい子だ」と喜びますが、私には、お化けにし
か見えません。

 まともな子どもなら、悩みます。苦しみます。不安もあるだろうし、将来への心配もあるでしょ
う。しかし見方によっては、娘さんは、たくましい子どもということになります。その(たくましさ)
を、評価してやろうではありませんか。

 冒頭に書きましたように、17歳では、もうどうにもなりません。子どもというより、人格をもっ
た、1人の人間だからです。前にも書きましたが、子どもの巣立ちは、いつも美しいとは、かぎ
りません。親と、ののしりあいながら巣立っていく子どものほうが、多いくらいです。

 だから当然、(MTさんは、どうは思っておられないでしょうが……)、だからといって、子育て
に失敗したとか、親として失格などと、考えてはいけません。あなたはあなたで、懸命に子育て
をしてきたわけですから、それでじゅうぶんです。繰りかえしますが、ケースとしては、珍しくも何
ともありません。

 そういえば、同じような相談が、ある父親から、つい先日もありました。その相談は、私のHP
の、掲示板のほうに書きこんでありますから、また一度、そちらのほうも、のぞいてみてくださ
い。参考になると思います。励まされると思います。

 わかりやすく言えば、あなたの娘さんがまちがっているのではなく、今の日本の教育制度の
ほうが、おかしいのです。学校以外に道はなく、学校を離れて道はないという、その制度そのも
のに、です。

 本来なら、もっと人間のもつ多様性にあわせて、多様化したコースを用意しなければならない
のに、それをサボってきた、教育制度のほうこそ、おかしいのです。そういうことも頭のどこか
に入れて、あなたの娘さんを、理解するようにしてみてください。

 その父親からの相談のときも書きましたが、コツは、子どもの横に、友として立つようにする
ことです。友として、です。親意識など、もうこの際、捨てなさい。くだらないです。

 なお、こういう時期は、あっという間にすぎます。そしてあなたの娘さんが、22〜4歳になるこ
ろには、今の問題は、笑い話になります。私のごく近い知りあいの中には、こんな人もいます
よ。

 長男は、高校2年生のときに、無免許でバイクに乗り、事故。そのまま高校から退学処分。
二男は、暴走族に。その下に娘さんがいたのですが、この娘さんは、何とか高校だけは出まし
たが、親からみて、きわめて不本意な男性と結婚。結婚式も隠れてするような結婚でした。

 しかし今、3人も、すばらしい家庭を築いています。その知人の家には、毎週のように孫たち
が集まり、華やかで明るい笑い声が絶えません。

 人生というのは、そういうものです。ですから、子どものことは、許して忘れる。あとは窓をあ
け、ふとんを暖めて、子どもの帰りを待つ。どんなことがあっても、子どもを信じて、子どもの帰
りを待つ。それが親としての最後の努めということになるでしょうか。決して、あきらめてはいけ
ません。決して愛情の糸だけは、切ってはいけません。まさに根くらべです。それだけは、大切
に!

 あとは、静かに流れる時間が、問題のすべてを解決してくれます。





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●虐待

●人間不信

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K氏は、子どものころ、
母親に虐待された。

その後遺症は、今も
残っているという。

そのため、K氏は、
今も苦しんでいるという。

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 K氏(今年、45歳くらい)は、子どものころ、実の母親に虐待されたという。虐待といっても、
言葉の暴力、無視、冷淡など。

 「このあたりでは、『ちょうらかす』と言いますが、つまり、いつもからかわれました。夜、小便を
漏らしたりすると、母は、それをみなに見せ、『ほら、Kが、おしっこ漏らした』『見てやってくださ
い。あのKが、おしっこを漏らした』と、みなの前で笑うのです」と。

 母親の精神年齢は、かなり低かったようだ。「たとえば、何かあると、すぐどこかへ隠れてしま
うのです。そこで私が泣きながら、母親をさがしていると、ちょうどよいころを見計らって、『ほ
ら、母ちゃんはここだよ』と言って、現れるのです。つまりそうして私が、母をさがすのを楽しん
でいたのですね」と。

 一事が万事。こうしてK氏は、母親不信に陥ってしまった。が、その後遺症は、今も、つづく。
私に、こう言った。

 「いいですか、林さん。母親を信ずることができないということは、もうだれも信ずることができ
ないのと同じです。今の女房と結婚して、もう20年近くになりますが、その女房ですら、いまだ
に信ずることができません。何があっても、すぐ疑いの目で見てしまうのです。それは女房にと
っても、さぞかし、つらいことだろうと思います」と。

 母親に裏切られしものよ、
 汝は、心の不完全燃焼感と戦いながら、
ただひとり、孤独の海を、
 あてもなく、さまよいつづける。

 つかまる浮き木もなく、
 汝は、人間不信という十字架を背負いながら、
 暗くてさみしい闇の世界を、
 目に涙を浮かべながら、さまよいつづける。

 心理学の世界では、K氏のような心理状態を、「基本的不信関係」という言葉を使って説明す
る。決して、特殊なケースではない。何割かの人がそうでないかと思えるほど、多い。つまり乳
幼児期に、親、とくに母親との間で、基本的信頼関係を結ぶことができなかった子どもは、それ
以後、この「基本的不信関係」で悩む。そしてその後遺症は、一生、つづく。

 言うなれば、心の傷。本能的な部分にまで、それが及んでいるから、簡単には、癒(いや)さ
れない。つまり、この問題は、それくらい根が深い。

私「戦後の一時期は、そういう時代だったかもしれません」
K「私は、戦後の人間ではありません」
私「当時は、まだ、戦後のあのドサクサを引きずっていましたから……」
K「親も、何も考えず、子どもを産んでいたような時代だったかもしれませんね」
私「まさに粗製濫造の時代だったということです」と。

 私自身は、昭和22年生まれの、戦後の人間だが、私は、あの戦争をうらんでいる。あの戦
争を起こした人間、あの戦争を遂行した人間、すべてだ。おかげで私を含めて、私たち、何の
罪もない人間が、どれほど、その後遺症で苦しんだことか。

 私が高校生のときのことだったと思う。私の母が、あまりにも私に、「産んでやった」「育てて
やった」と、恩を着せるものだから、私は、ある日、母に、こう叫んだことがある。「だれが産ん
でくれと、いつ、どこで、あんたに頼んだア!」と。

 母にしてみれば、戦後のあの時期は、そういう時代だったかもしれない。苦労の連続だった
かもしれない。私はそれに反発したわけだが、しかし私のその怒りは、戦争全体に向けられた
ものだったかもしれない。

 今にして思えば、そう思えなくもない。

 K氏の戦いは、今もつづく。K氏は、こう言う。「親孝行という言葉がありますね。私は、あの言
葉を聞くと、笑い出してしまいます。一応、世間的には、いい息子を演じていますが、内心で
は、いつも、『あのクソババア』と思っています。母が死んでも、一滴も涙は出ないでしょう。それ
が自分でもよくわかっています」と。

 この世の中には、いろいろな親子関係がある。私やあなたがそうであるからといって、そうで
ない人たちを批判したり、非難したりすることは許されない。そのK氏も、親類の人たちとの板
ばさみで苦しむことがあるという。

 「林さんが言う、『ダカラ論』『ベキ論』というのがありますね。あれはいやですね。『お前は子ど
もだから……』『親は親だから……』と、親類の人たちは、平気で迫ってきます。『子だから、親
を思っているはず』とか、『子だから、親のめんどうを見るべき』とか。人間関係を、形でしかみ
ない。あれはいやですね」とも。

 そのK氏の母親は、数年前、脳梗塞を起こして、倒れたことがある。幸い軽くてすんだが、方
向感覚がなくなってしまったという。ときどき家の中でも、迷子になることもあるという。K氏にし
てみれば、「知ったことか」ということになるが、世間は、それを許さない。

 「親子関係が良好なら、金銭的援助も苦にはならないのかもしれませんが、私のばあいは、
ちがいます。たとえ1万円でも、母に渡すくらいなら、ドブへ捨てたほうがましです。そういう気持
ちが、林さんには、わかりますか」と。

 親子であるがために、その確執も深い。昔、学生時代、刑法の教授が、こんな話をしてくれた
のを、覚えている。日本の刑法では、尊属殺といって、親殺しのばあいは、ふつうの殺人罪より
も、一級、重い刑罰が科せられていた。

 それについてその教授は、こう言った。「親殺しは、刑罰が重い。それはわかる。しかしそれ
を裏から読むと、親であるがゆえに、やむにやまれず殺したという事情が多い。その事情は、
ふつうの殺人よりも、重くて深い。それを考えると、親殺しの刑罰を重くしているのは、妥当かど
うか、疑わしい」と。

 その結果だが、尊属殺、つまり両親や祖父母などの祖先にあたる親族を殺したものに対し
て、重罰を加えるという規定は、1973年に、最高裁により、違憲と判断され、刑法200条から
削除された。当然のことである。

 今は、もう『ダカラ』論や、『ベキ』論で、ものを考える時代ではない。何度も書いているが、親
子関係も、つきつめれば、一対一の人間関係。その内容は、人間関係で、決まる。親も、そし
て子も、親子であるという関係に甘えてはいけない。甘えて、好き勝手なことをしてはいけな
い。世の中には、親をだます子もいるが、反対に、子をだます親もいる。子を虐待する親もい
る。そういうことを忘れてはいけない。
(はやし浩司 親孝行 親孝行論 基本的不信関係 尊属殺 親殺し 虐待 人間不信)





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【家出】

●14歳で家出

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14歳で家出。15歳の男子(男性?)との
同棲生活?

そんな女子(女性)をもつ親から、
以下のような相談がありました。

(掲示板より)

++++++++++++++++++++

はじめまして。よろしくお願いします。
長女 14才についてどうか相談にのって頂きたく、メールをしました。

長女がおかしいなと思うようになったのは、中1の2学期が終わる頃でした。
学校でクラスメートに、「上級生にいじめられている」とうそを言って、そのことが先生にまで伝
わり問題になったことです。それについては、後で本人からうそをついたと、正直に私に言って
きました。そのときから、部活もやめてしましました。

中2の秋から、ある男子生徒ですが、A君という子につきまとわれて迷惑していると、担任の先
生や、周りの友人に相談していたそうです。担任先生からこの件で電話をもらい、A君が評判
の悪い子であること、長女に危害がおよばないように気をつけてください、ということでした。先
生も学校で気をつけて見て下さったり、私たちも本人と相談し、送り迎えを、1、2度しました。

同じ頃、友人とトラブルがあったこともあり、なぜか長女は、そのA君に友人とのトラブルを相談
していたのです。それが原因でクラスで孤立。A君と交際をしはじめました。それから摂食障害
で入院、その後は不登校となりました。夕方近くになると遊びにいきたいと言う長女に対して、
私は、許して遊びに行かせることができませんでした。長女のつらい気持ちは、理解している
つもりでいましたが・・。

次の日1/21、長女は、そのA君宅に家出をしました。向こうの両親とも話しをし、迎えにいき
ましたが、帰っては、きませんでした。

主人は、これ以上長女の精神状態が悪化しないようにこのまま様子をみようと言い私も同意し
ました。

週に1度程度は、帰ってきますが、数時間後、また出て行きます。こちらからは、話しかけてい
ません。本人が言ったことに、うなずくことしか言っていません。

3/14 再度A君の両親に会ったところ、A君の両親が、「来月、引っ越しします。S(長女)ち
ゃんもつれていきたいのですが・・・。Aと結婚させたいのです。」と。
主人は、「長女は、なにもかもわかった上で、こういう交際ををやっているんだと思います。長
女を信じているので、本人が決めてもいいと思います。」と言ってかえってきたそうです。

が、先日、長女が帰って来たとき、長女は、「今更、世話になっているのに、帰りたいから帰る
というわけには、いかない。引っ越しを機に、家に帰って来たい。Aの母親も15才の時に家出
をして今のお父さんと結婚したんだって。だから、私の気持ちが、よくわかると言って家に帰ら
ないでいいよと言ってくれるんだけど、本当のこといえないんだ。」と言いました。つまり家に戻
りたいが、それをA君にすなおに話せないというのです。

このまま、どんなことがあっても私は、長女の帰りを待っているべきでしょうか? 向こうの両親
と話しあうべきでしょうか? よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりFTさんへ】

 先ほど、電話で、だいたいのことは話しました。A君に対する熱病も、やや冷めかかった状態
なので、2人の間に割って入るには、今がチャンスかもしれません。方法はいくつか考えられま
すが、お母さん(=あなた)と娘さん(以下、Sさんとします)の2人で、相手の両親もしくは、父親
と話し合うのが、最良かと思います。

 できればなごやかな状況で、話し合うのがコツです。一歩退いて、負けるが勝ちと思い、話し
合います。争わず、常識論を淡々と話します。

 生活力のない15歳の男と、14歳の女が、結婚状態に入ることは、常識の範囲を超えていま
す。それをすなおに相手の親に話せばよいでしょう。

 で、こういうケースでは、Sさんを、(1)責めない(「あなたは、〜〜が悪い」と責めること)、
(2)励まさない(「がんばれ」「がんばれる」式の励ましをしないこと)、(3)脅さない(「こんなこと
で、どうするの」式の脅しをしないこと)の、3大鉄則を、厳守してください。Sさんの心は、常に、
緊張状態にあると判断してください。したがって、いつも、一触即発の状態です。ささいなこと
で、突発的に錯乱状態になることもあります。

 本来なら、心療内科で、精神を安定させる(=精神の緊張感をとる)薬剤を処方してもらうの
が、よいと思いますが、電話によれば、それもむずかしいとのこと。そこで電話で話しましたよう
に、あなた自身が、心療内科(内科でもよい)で、薬を処方してもらい、それをSさんに分け与え
るという方法があります。それはいかがでしょうか?

 また家に戻ってきたら、Sさんの居場所をしっかりと確保することです。ここに書いた三大鉄
則を守り、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。Sさんの心の問題が
からんでいるため、半年単位の忍耐が必要でしょう。1か月や2か月で、心の状態が改善する
などということは、ありえません。そういう前提で、対処します。

 最後に、ここが重要ですが、どんなことがあっても、最後の最後でも、愛情の糸だけは切らな
いようにしてください。どんなことがあっても、です。(その点、お父さんのほうに、どこか冷めた
ところがあるように感じました。どうか、お父さんも、最後の最後でも、愛情の糸だけは切らない
ようにお伝えください。)

 その「糸」は、Sさんにとっては、最後の砦(とりで)のようなものです。その糸を切ったら、それ
こそSさんは、再び、糸の切れた凧のような状態に戻ってしまうでしょう。今からでも、じゅうぶん
間に合います。

 あとは、暖かい無視と、ほどよい援助。「求めてきたときが、与えどき」と、心得てください。そ
して問題が起きたら、『許して忘れる』だけを心の中で念ずる。そしてここが重要ですが、その
あとは、(時の流れ)に任せます。時間が解決してくれます。2年では無理かもしれませんが、
遅くとも5年後には、笑い話になります。それを信じて、前向きに考えてください。

 それぞれの人間には、無数の糸がからんでいます。その糸が、その人の進むべき道を決め
ていきます。人は、それを「運命」と呼びますが、その運命について、少し前、こんなことを書き
ました。

 悪魔(不幸)というのは、(決してFTさんが不幸というのではありません。誤解のないよう
に!)、それを恐れたとき、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。しかしそれを笑い飛
ばしたとき、シッポを巻いて、あなたから退散していきます。

 今、重要なことは、くだらない親意識など捨てて、ついでにプライドも捨て、Sさんの友として、
Sさんの横に立ってみてください。それだけで、Sさんに対する態度が大きく変るはずです。

 以上ですが、このつづきは、4月28日号のほうで、もう一度、考えさせてください。今夜は、こ
れで失礼します。

はやし浩司

【付記】励ましは、なぜ悪いか

 前向きに、伸びつつある子どもに、「がんばれ!」式の励ましは、それなりに効果がありま
す。しかし落ち込んでいる子どもに向かって、「がんばれ!」式の励ましは、効果がないばかり
か、かえってその子どもを、窮地に追い込んでしまうことにもなりかねません。

 落ち込んでいる子どもは、落ち込んでいる子どもなりに、苦しみ、もがいているのです。「がん
ばりたくても、がんばれない」というジレンマに陥っているのです。そういうとき、たとえ家族から
でも、「がんばれ!」と言われると、その子どもは、ますます、どうしてよいかわからなくなってし
まうというわけです。

 わかりやすい例で考えてみましょう。

 たとえばあなたが、学校のテストで、よい点数を取ってきたとします。そのときそれを見て、あ
なたの母親が、「よくがんばったわね。これからもがんばりなさいよ」と言ったとします。

 あなたは、その言葉を、すなおな気持ちで、聞くことができるはずです。

 しかし反対に、あなたが予想していたよりも、悪い点数だったばあいは、どうでしょうか。あな
たなりにがんばったけれど、しかし、点数が悪かったというようなばあいです。あなたは落ち込
んでいます。で、そういうとき、たとえ家族でも、「がんばれ!」と言われても、あなたはそれをす
なおな気持ちで、聞くことはできないと思います。

 英語では、こういうとき、「Take it easy!」と言います。「気を楽にしなよ」という意味です。
そういう言い方なら、まだわかりますね。

 それについて書いた原稿が、つぎの2作の原稿です(中日新聞掲載済み)。どうか参考にして
ください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親子のきずなが切れるとき】 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国1
5%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・九
八年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけない
と考えている高校生が、ダントツに少ない。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個
人主義が、ますます進んでいる」(評論家O氏)と論評する人がいる。

しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうなのか、ということについ
て、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進んでいるということはあり
えない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダだった
わね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなくす。いや、その程
度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、さらには親子のきずなそ
のものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「八五%」という数字は、まさにその結果であ
るとみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校3年生だった。

R氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学
費が難しくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘
はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの
義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻ま
で、「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏は
こう言う。「家族って、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と
いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を
変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽に
やりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテス
トの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。
この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を
起こす。   
(はやし浩司 親子の断絶 絆 親子断絶)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手一つで、育てら
れました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I氏
の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。

しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまっ
た。50歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。
ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったの
かもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田Sという人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、それぞれ三、四
行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。
 
 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はた
ったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。

いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリー
ハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、
懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6
年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【子どもへのおどし】

FTさんへ

+++++++++++++++++++++

子どもをおどす……。おどす意識がないまま、
おどす。

決して、FTさんを責めているのではありません。
しかしそのつもりはなくても、いつの間にか、
子どもをおどしてしまっている。

そういうケースは、少なくありません。

しかしそういうおどしが日常化すると、
子どもの心は、FTさん、あなたから
確実に離れていきます。

あるいは、その瞬間、あなたの子どもは、
あなたに反発する。拒否反応を示す。
突発的に、キレた状態になる。

FTさんの掲示板への書きこみを、もう一度、
ここで再検証してみたいと思います。

まず、FTさんからの、書きこみを、
ここに転用させていただきます。

文体は、少し、私のようで、整えさせて
いただきました。

++++++++++++++++++++

【FTより、はやし浩司へ】

+++++++++++++++++++

14歳で、家出。A君という、15歳の男子
と同棲生活を始める。それについて……。

+++++++++++++++++++

あれから、林先生の意見を参考に、主人と話し合いました。しかし、主人は、何か言うとすぐ切
れてしまう長女の精神状態を優先的に考え、「本人が帰って来るまで待つ」という考えを変えま
せんでした。

長女とも、今後のことで話し合いをしようと連絡をとったのですが、長女は、「わっかた。明日、
帰る」と言いつつ、結局は、帰ってはきませんでした。

4月6日 

私は、長女の通う中学校の担任の先生と会い、長女の今後について話し合いました。先生
は、つぎのように、言ってくれました。

 「彼女の将来を考えるとこのままでは、いけないと思います。私からA君宅に行って、彼女とA
君に話をしてもいいです。彼女からは、私のところに、時々メールがきます。そのメールのやり
とりの中で、私が迎えに来てくれたら、学校へ行ってもいいよと言っていますよ」と。そんなよう
な内容です。

 先生は、「私が、彼女を迎えに行ってもいいです」とも、言ってくれました。

 その時、私はとそんなことをしたら長女が、「自分は特別だ」と思いこむと思ったので、先生に
そのことを言いました。

 「特別なことをしてるんですから、そう思ってもいいんです。根本的な解決にはなりませんが、
きっかけを作ってあげたら彼女は、学校に来ると思います。」と。

 私は、すぐに返事はできなかったので、後で返事をするということにして、その日は、帰ってき
ました。

 林先生、学校の先生、小児科の先生の意見を参考に考えた結果、私は、長女にメールで、
こう連絡しました。

 「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選ぶ時がく
るね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年しかないんだ
よ。やり直してみてはどうか?」と・・。

 それに答えて、長女からの返事は、「わたしだって自分のことちゃんと考えてる。迎えにくるよ
うなことしたら死んでやる」でした。

 私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 それを言うと、また、長女は、きれてしまいました。

 長女と話し合えないので
次の日、A君の両親に連絡をとり話し合いをしました。
(その話し合いには、主人が行きました。)

 主人は「この3ヶ月、様子を見ていたけれど、長女が帰ってこないので、帰るように少しずつ
でも促して、協力してほしい」と、お願いしてきたそうです。

 長女は学校の先生に連絡をとり、(いつかわかりませんが・・・)、今日4月10日から学校へ
行くことにしていました。

 朝、帰ってきて、茶髪を黒く染め、だらしのない制服姿をし、サンダルをはき、そのまま、学校
へ行きました。

 それを見て、私にできることは、何か?、と考えてしまいました。

 長女の死んでやるという言葉に負けていました。長女の抵抗にひるむことなく時には、強い態
度も必要。時には、長女が学校へ行く気になったのであれば、それを全面的に協力する姿勢
も必要であると・・。

 主人とは、なかなか意見があいませんでした。

 このような状況の中、私に責められても、主人は声を荒げることもなく、ただ、私の話を聞き、
わが子の帰りを待っていました。

人間、窮地に立たされた時、本当の自分が姿が現れると・・・・まさに、私の姿は醜い姿でした。

 誰になんと言われようとわが子を信じて待つという主人の姿は、私には、まねのできない姿で
した。

これからも再び、主人に寄り添い生きていけそうです。
長女のことはまだまだかかりそうですが・・・
今日は、これにて・・・・

+++++++++++++++++++++++++

 まずFTさんの文面の中の、気になる2か所をあげてみたいと思います。FTさんは、娘さん
(長女)にこう言っています。

(1)「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選ぶ時
がくるね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年しかないん
だよ。やり直してみてはどうか?」と・・。

(2)私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 FTさんは、娘さんに向かって、「来年になったら……」と期限をつけて、娘さんの気持ちを追
いこんでいます。そしてさらに娘さんを追いつめるかのように、「いくら親のことがいやでも…
…」「あとたった1年しかないんだよ」と。

 つまりそうしなければ、「やり直しがきかなくなるよ」と。

 また2つ目のところでは、「人間って、本当に、いつ死ぬかわからないよね」と。私はこの文章
を読んだとき、昔、私の母がよく言っていた言葉を思い出しました。私の母は、いつも、口ぐせ
のように、こう言っていました。

 『いつまでもあると思うな、親と金。ないと思うな、運と災難』と。

 あるときまでは、私は、「そうかなあ」と思っていましたが、やがて、私の母は、そう言いなが
ら、「親である、自分を大切にしろ」と言っているのに気がつきました。つまり「親の私は、いつ
までも生きているわけではないのだから、大切にしろ」と。

 FTさんは、「自分は、いつ死ぬかわからない」と言いつつ、その一方で、娘さんに、極限的な
恐怖を与えています。FTさんは、それに気づいているのでしょうか。

 こういうときは、では、どう言ったらよいか。それを順に考えてみます。

 まず、「1年」と期限を切ったことについてですが、こうした状況にある娘さんに対しては、期限
を切ることは、かえって逆効果であるということをまず、理解してください。こういうときは、反対
に、こう言います。

 「人生は、長いのだから、あせらなくてもいいのよ。若いころの1年や2年、何でもないのだか
らね。のんびりやったらどう。静かに考えて、自分なりの結論を出してね。お母さんは、親とし
て、あなたの結論に従うわ」と。

 また「自分は、いつ死ぬかわからない」ではなく、こう言います。

 「私は、あなたの分まで、がんばるわ。死ぬなんて、とんでもない! 私は、うんと長生きし
て、あなたが幸福になるのを、ちゃんと見届けるわ。私のことは心配しなくていいのよ。あなた
はあなたで、自分の人生を、思う存分、楽しめばいいのよ。お母さんは、応援するわよ」です。

 つまりFTさんは、娘さんを、言葉で極限まで追いつめながら、最後に、「自分は、いつ死ぬか
わからない」と、絶壁から、つき落すようなことを言っています。だから、娘さんは、その言葉を
聞いて、キレたと考えられます。この時期の子どもは、親が考えているよりは、ずっと感覚が繊
細で、とぎすまされています。

 そしてここが重要ですが、こうしたFTさんの言葉に対して、だから娘さんは、「死んでやる」と、
これまた極限的なおどしで、返してきています。FTさんは、それを「娘側からのおどし」と理解し
ていますが、おそらく、娘さんには、その意識はないでしょう。追いつめられたから、しかたなし
に、そう言っているのかもしれません。

 「あと1年しかない」「それまでに立ち直らなければ、あとはない」と、おどすFTさん。それに答
えて、「死んでやる」と、おどす娘さん。まさに言葉の応報といった感じです。しかも母子が、同
レベルになってしまっている!

 ……と、この問題の解決には、何ら役にたたないことを書いてしまったようですが、(おどし)
の意味がわかってもらえれば、幸いです。これは最近、ある予備校の前で見た、ポスターの話
ですが、そこには、こうありました。

 「この1年で、君の一生は、決まる!」と。

 これは励ましなのでしょうか? それとも、子どもたちを予備校へ通わせるための、おどしな
のでしょうか。私は、(おどし)ととりましたが、この種の(おどし)は、親たちも、日常的にしてい
るのではないでしょうか。

 親としては、子どもにその自覚をもってもらい、追いつめられた緊張感の中でがんばってほし
いと思ってそう言うのでしょうが、しかし言い方をまちがえると、(あるいは、子どもに、それだけ
の重圧をはね返す力があればよいのですが、そうでなければ)、かえって子どもを、窮地に追
いこんでしまうことになりかねません。

【FTさんへ、はやし浩司より】

 私の印象では、「何とか、自分の娘を、自分のワクの中に取りこもうとする母親」と、「何とか
そのワクから逃げ出そうとする娘」の、はげしい葛藤劇を見ているような感じがします。

 今のFTさんには、たいへんつらいことを言うようですが、いわゆる代償的過保護と言われる
過保護家庭で、その末期に、よく見られる葛藤劇です。(代償的過保護については、一度、「は
やし浩司 代償的過保護」で検索してみてください。)

 ですから、ここまできたら、FTさん自身が、決断をくだすしかないでしょう。

(1)助けを求めてくるまで、手を出さない。
(2)暖かい無視。
(3)何があっても、許して忘れる、と。

 そしてここが重要ですが、FTさんは、娘さんのことを心配しているようで、実は、自分が感じて
いる不安や心配を、娘さんにぶつけているだけです。はっきり言いましょう。

 学校へ行かないからといって、その人間がダメになるということは、ありません! ダメになる
と思いこんでいるのは、FTさん、あなただけですよ。そうしたあなたの気持ちは、「いくら親がい
やでも、あとたった1年しかないんだよ。やり直してみてはどうか?」という言葉の中に集約され
ています。

 FTさんは、こう言っています。「いくら、あなたという娘が、私という親を嫌ったとしても、私は
構わない。しかしあなたに残された時間は、あと1年しかない。やり直すなら今しかない」と。(こ
れは先にも書きましたが、立派な、おどしです!)

 こういう問題では、まず(水が、どう流れているか)を知ります。つぎに、(どう水が流れていく
だろうか)を知ります。そして最後に、それがわかったら、あとは、水が流れるように、その水の
流れに従います。

 つまりものごとは、なるようにしかならないのです。その間に、FTさんが、いくらがんばっても、
どうにもなりません。今が、その状態だと思います。また無理をすればするほど、娘さんはとも
かくも、FTさん自身の健康にも、被害が出てくるようになります。

 中学3年生というと、FTさんから見れば、子どもかもしれませんが、(もちろん個人差はありま
すが)、見方によっては、もうじゅうぶんすぎるほど、立派なおとなです。ですから、信ずるところ
は信じて、またやるべきことはやりながらも、あとは、その(水の流れ)に任せてみてはどうでし
ょうか?

 こうした問題は、やがて、水がその流れ先を求めて落ち着くように、落ち着きます。そのとき
あなたは、こう思うでしょう。「ナンダ、何でもなかったではないか!」と。

 で、今は、学校の先生に相談し、その先生の努力に期待するしかないと思います。(FTさん)
→(先生)→(娘さん)というパイプを通して、娘さんとのつながりをもちます。FTさんにしてみれ
ば、今が最悪の状況と思うかもしれませんが、この種の問題には、さらに、二番底、三番底が
あります。

 現在は、相手の男性の家にいますが、その家にもいられなくなったとしたら、あなたの娘さん
は、どうなるか。どうするか。それをほんの少し、考えてみてください。この種の問題は、「まだ、
以前のほうがよかった」ということを繰りかえしながら、二番底、三番底へと、落ちていきます。

 たとえば今は、その男性の家にいますが、その家からも家出。そこで不特定多数の男性の
家を転々とするようになったら、あなたは、どうしますか? 私の知人の中には、外国人男性と
性交渉をもち、HIVに感染。エイズを発症した子ども(中2、当時)もいますよ。

 コツは、「今の状況をなおそう」と考えないこと。「今の状況を、これ以上悪くしないことだけを
考えて、半年単位で様子をみる」です。これについては、前にも書きましたので、ここでは省略
しますが、決して、あせってはいけませんよ。

 たいへん苦しい気持ちは、よく理解できますが、今は、忍耐のときです。幸いなことに、娘さん
を、どっしりと見据えているご主人が、あなたのそばにいます。また親身になって、娘さんのこと
を心配してくれる先生がいます。決して、あなたは1人ではありません。そういう人たちに身を
寄せれば、今は苦しいかもしれませんが、この問題は、乗り切れるはずです。

 ……あとは、10年後に視点を置いてみてください。こうした問題は、親子の絆(きずな)だけ
大切にしておけば、必ず、笑い話になります。「あなたは、たいへんだったのよ」「お母さん、心
配かけて、ごめんね」と。

 それをどうか信じて、あとは、あなたはあなたで、前に向かって進んでいけばよいのです。娘
さんのことは、少し忘れたほうがよいかもしれませんね。

 では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 家出 子どもの家出 子供の家出 娘の家出)





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●Let’s it be.

●流れる水

+++++++++++++++++

水が、自然と流れる場所を求めて
流れていくように、人生もまた、
自ら流れる場所を求めて、流れて
いく。

+++++++++++++++++

 いろいろあった。すったもんだの騒動もあった。しかし人生というのは、水が自然と流れる場
所を求めて流れていくように、流れていく。そしてその流れた先で、やがて落ちつく。

 私の兄は、現在、グループホームで、生活をしている。母は、姉の家で同居生活をしている。
兄はともかくも、母は、自分の家を絶対に離れないとがんばっていた。しかし足腰が立たなくな
り、大便や小便をもらすようになると、自分なりに観念したのか、姉の家に落ちついた。

 姉も、見ちがえるほど、明るくなった。体重もふえたという。私も、母が、姉の家に入ったとい
うその夜、はじめて、心安らかに、朝まで、ぐっすりと眠ることができた。

 大切なことは、流れに任すこと。その流れに逆らえば、角が立つ。無理をすれば、どこかでそ
の歪(ひず)みが出る。騒動になる。この数年間の経験で、私は、それがよくわかった。

 兄が、近所でトラブルを起こすようになったのは、今から、ちょうど4年ほど前のこと。ゴミをそ
のあたりにまき散らす。自動車のナンバーに落書きをする。植木鉢の葉先を、指で摘んでしま
う、など。しかし火遊びをするようになって、さすがの姉も、音(ね)をあげた。

 一度は、近所の旗を、ライターで火をつけて燃やしてしまったことがある。放火である。で、私
が兄を、とりあえずということで、引き取った。心療内科へ通いながら、介護保険の申請を出し
た。

 が、母は、それを許さなかった。毎日のように電話をかけてきて、私や姉に、兄を返せと言っ
てきた。母も、すでに、現実を理解する能力をなくし始めていた。放火事件のことを話しても、
「うちのJ(=兄)は、そんなことはしない!」と、がんばった。

 しかしその母も、2度、3度と倒れた。病院へ入った。そのころから、足腰が立たなくなった。
姉は、母が、水道を出しっぱなしにする、ガスコンロをつけっぱなしにすると、そのつど心配し
た。悩んだ。

 が、そうした私や姉の心配や悩みなど、どこ吹く風。母は、相変わらず、私や姉を口汚く罵倒
した。ボケもかなり進み始めていた。気丈な人だが、老いには勝てない。それで今のような状
態になった。落ちついた。

 悪魔はそれを恐れたとき、牙(きば)をむいて、あなたに襲いかかってくる。しかしそれを笑っ
たとき、悪魔は、尻尾を巻いて、あなたから退散する。姉はともかくも、私は笑った。

 兄が暴れて、ラジカセをこわしたときも、廊下で糞をもらしたときも、笑った。ボケた兄は、飼
っているペットのようなもの。本気で相手にしてはいけない。相手にしても、しかたない。

 その姉の家へ、今日、長男と2人で行ってきた。36年ぶりという雪が、3月の末だというの
に、降っていた。突然の訪問で、姉も予定していなかった。連絡してから行くと、姉もあれこれ
気をつかうだろうということで、そうした。

 姉は家にいた。母も、今日はデイサービスもなく、家にいた。姉が預かっている孫の女の子も
そこにいた。家中が、明るい笑い声で満ちていた。私はそれを見て、目頭が熱くなった。うれし
かった。

 これからもまだ、いろいろあるだろう。問題は、何一つ、解決していない。しかし水が、自然と
流れる場所を求めて流れていくように、人生もまた、その場所を求めて流れていく。流れた先
で、やがて落ちつく。

 ジタバタしても、いけない。あせっても、いけない。なるようになる。なるようにしかならない。人
にはそれぞれ、無数の糸がからんでいる。その無数の糸が、その人の進むべき方向を決め
る。

 それを「運命」というのなら、だれにも、その運命はある。どうにかなる問題であれば、それと
は戦う。ふんばる。それは当然だ。しかしどうにもならない問題もある。老後の問題、親子の問
題、介護の問題、病気の問題、子どもの問題、夫婦の問題などなど。こちらが求めなくとも、こ
うした問題は、向こうから、クモの糸のようにあなたにからんでくる。

 今、その運命の糸にからまれて、苦しんでいる人も多いと思う。袋小路に入って、どうしたらよ
いか、わからないまま、もがいている人も多いと思う。しかしときには、その運命に身を任せて
みることも大切なことではないのか。自分の運命を、すなおに流れの中に置いてみる。

 あとのことは、その運命が決めてくれる。時間が解決してくれる。あなたは静かに、その運命
に身を任せればよい。逆らわず、静かに、淡々と……。
(はやし浩司 運命 運命論 運命とは) 

++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
あまり関係のない話かもしれませんが、
参考までに……。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++

【袋小路から抜け出る法(レット・イット・ビー!)】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守
ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないの
か。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでい
ることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたこ
とないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やった
わ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(3
3歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に1度あるかないかという程
度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託
がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築
こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受けいれてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおおげ
さ考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵(wisdom)の言葉」だ。
 





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●善人論

●拾ったお金は、交番に!

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子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と
聞くと、みな、すかさず、「交番に届けます」と
答える。

が、昨日、私は、ふと、こう思った。

「日本では、そうかもしれないが、では、外国では
どうなのか?」と。

+++++++++++++++++

 子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と聞くと、小学生だと、みな、「交番へ届ける」と
答える。幼児だと、「パパやママに預ける」と答える。

 が、昨日、私は、ふと、こう思った。「日本では、そうかもしれないが、では、外国では、どうな
のか?」と。日本にあるような交番のある国は、少ない。そこでアメリカにいる息子に電話をし
て、確かめてみた。

 私が、「アメリカでは、どうしているのか?」と聞くと、息子は、しばらく考えたあと、こう言った。
「めったにお金は落ちていないから……」と。

 そこで息子の嫁に聞いてもらった。嫁は、生粋(きっすい)のアメリカ人である。「日本では、子
どもたちに、拾ったお金は、交番(POLICE BOX)に届けるようにと教えているが、アメリカで
はどうなのか?」と。

 するとしばらく考えた様子だったが、こう言った。「アメリカでは、みな、そのままもらってしま
う」と。

 どうやら、「拾ったお金は、交番に」というような教育は、アメリカでは、していないようだ。もっ
ともアメリカは、万事、自己責任の国。お金について言えば、落とした人が悪いということになる
(?)。

 「そういうものだろうな」と考えてみたり、「そういうものかな」と考えてみたりする。

 で、その私だが、何度か、お金を落としたことがあるが、一度とて、戻ってきたためしがない。
近くの交番へ問いあわせたこともない。最初から、あきらめてしまう。「どうせ、戻ってこないだ
ろう」と。

 問題は、お金を拾ったときだ。サイフでもよい。

 これはあくまでも私のばあいだが、サイフだったら、一番近くにある店に届けるようにしてい
る。……というより、ここ数回、どういうわけかコンビニの前ばかりで拾っている。それで、その
ままコンビニへ届けるようにしている。

 その前は、一度、高校生のサイフを拾ったが、中を確かめると、学生証のほか、コンドーム
が2個入っていた。小銭もいくらかあったが、私はそれを、落ちていたところにあった自動販売
機の上にのせた。交番までは、歩いて5〜600メートルほどの距離があった。

 「どこのバカが、コンドームの入った高校生のサイフなど、わざわざ交番へ届けるか!」と、そ
のときは、そう思った。

 「拾ったお金は、もらってしまえ」とは、立場上、私は、言えない。遺失物横領罪に該当する。
しかしそれが国際的な常識であるとするなら、無理に善人ぶるのも、どうかと思う。そこで以
前、子どもたちとこんな会話をしたことがある。

 「いくらなら、もらってしまうか? またいくらなら、交番へ届けるか?」と。

 つまり交番へ届けるにしても、金額の問題があるだろう。100円や200円なら、もらってしま
うだろう。しかし10万円や20万円ともなると、やはり良心がとがめる。で、その結果だが、子ど
もたち(小学校の高学年児)たちは、こう言った。

 「1000円や2000円くらいなら、もらってしまう。それ以上のときは、パパかママに渡す」と。

 まあ、このあたりが、常識的な見解ということになる。ただ私のばあい、こういうことがある。

 自転車で走っていると、ときどき、サイフらしきものが落ちているのを見かけるときがある。し
かしそういうとき、最近の私は、わざと見て見ぬフリをして、その場を通り過ぎるようにしてい
る。サイフを拾うのもよいが、そのあとのことを考えると、わずらわしい。

 そういう私でも、若いころは、こまめに落とし主をさがして、それを渡していた。マニュアルどお
り、交番へ届けたことも何度かある。が、そうした行為をすることに、どれほどの意味があるの
か。たいていのばあい、「はい、ありがとう」ですんでしまった。が、かといって、サイフを自分の
ものにするのも、いやなこと。自分の人間性が腐る。

 しかしアメリカでは、「もらってしまう」と。

 そういう生き方のほうが、わかりやすい。スッキリしている。あるいは思い切って、そういうル
ールを作ればよい。「10万円までは、拾った人がもらってよい」「10万円以上のときは、警察
か交番に届ける」とか何とか。

 まあ、むずかしい話はさておき、サイフを拾ったときほど、その人がもつ善と悪の、心の境目
が試されるときはない。自分のもっている道徳心や倫理観が、どの程度のものか、そのときわ
かる。

 さて、あなたなら、どうする? 道を歩いていたら、10万円が入った財布が落ちていた。近く
には、だれもいない。さあ、どうする? 本音で、一度、この問題を考えてみてほしい。


【付記】

 私は、幼児や小学生を教える立場上、子どもたちには、「拾ったお金は、まず、パパかママに
渡しなさい。あとのことは、パパかママに任せなさい」と教えている。「もらってしまいなさい」と
は、決して、教えていない。念のため! (しかしこの教え方は、責任逃れのようで、少し、ズル
イかな?)

【付記2】

 こわいのは、無理に善人ぶること。無理に善人ぶれば、その裏で、人は、もうひとつの別人
格をつくる。ユングが説いた「シャドウ」というのが、それである。

 よくある例は、牧師や僧侶、それに教師が、善人ぶること。セックスの話などを、ことさら嫌っ
て見せたりする。あるいは「自分は悪とは無縁の人間です」というような態度をして見せたりす
る。

シャドウというのは、いわば邪悪な心のかたまりのようなもの。つまり仮面をかぶる人は、自分
の邪悪な部分をそのシャドウに押しこめることによって、善人であるというフリをすることができ
る。自分は善人であると信じこむことができる。あるいは自分をだますことができる。

 しかしそういう仮面(ペルソナ)を一度かぶると、やがて、本当の自分がわからなくなってしま
う。わからなくなってしまうだけではなく、そのシャドウを、一番身近にいる人が、受け継いでしま
う。

 牧師や僧侶、あるいは教師の子どもが、ときとして世間を揺るがすような大事件を起こすこと
がある。その一例として、佐木隆三の書いた、『復讐するは我にあり』をあげる学者がいる。(こ
れについては、以前にも書いたので、ここでは省略する。)こうした子どもは、自分の親のシャド
ウを、そのまま引き継いでしまった子どもと考えられる。

 しかしシャドウはシャドウ。その人の影のようになって、いつもその人につきまとう。つまりわ
かりやすく言えば、無理に善人ぶっても、意味がないということ。人間は、自然体で生きるのが
よい。あるがままの姿をさらけ出して生きるのがよい。

 「牧師だから……」「僧侶だから……」、そして「教師だから……」という理由だけで、無理をし
てはいけない。無理をして仮面(ペルソナ)をかぶってはいけない。

もし善人になる方法があるとするなら、あるいは善人になりたいと願うなら、それはまさに日々
の行いの中から生まれる。長い時間をかけて、熟成される。牧師や僧侶、それに教師になった
とたん善人になるということは、絶対に、ありえない!

 が、もしあなたが何も考えず、ごく自然に、拾ったサイフやお金は、持ち主のものと考え、さら
に何も見返りを求めず、交番に届けるようであれば、あなたはすばらしい人と考えてよい。しか
しそんな人は、今の日本に、いったい、何%いるだろうか?

【付記3】

 今日も、H大医学部の教授のセクハラ問題が新聞に載っていた(4月4日)。報道によれば、
学内で処分される前に、自ら辞職してしまったということらしい(※)。

 その教授も、一応、表面的には、すぐれた人格者ということになっていたのだろう。またそうで
なければ、H大の教授は、勤まらない。

 しかしいかに能力的にすぐれた人物でも、そのままイコール、人格者というわけではない。む
しろ現実は、その逆ではないのか? 「教授」「教授」と、あがめたてまつられているうちに、こ
のタイプの人は、自分を見失ってしまう。人格を磨く機会と場所を、見失ってしまう。

 ユングの理論を借りるなら、教授という仮面をかぶることで、邪悪な部分を、シャドウに閉じこ
めたまま、自らを人格的にもすぐれた人間であると、錯覚してしまう。しかし本物の善人ではな
い。だからこうした事件を、起こす。

 セクハラの内容がどういうものであったかについては、何も報道されていないので、よくわか
らない。しかし自ら辞職したということなので、それ相当なことをしたのだろう。この事件は、「脳
科学者」という肩書きをもつ教授が起こしたということでも、たいへん興味深い。その教授は、
脳の構造については熟知していたのかもしれないが、脳の機能については、そうではなかった
ということになる。

このつづきは、もう少し情報を集めてから書いてみたい。

【付記4】

 よくふだんは善良ぽく見える人が、何かの事件を引き起こしたりすると、「魔がさした」などと
いう言葉を使って、それを説明する人がいる。

 「ふとした油断が原因で、そういう事件を起こした」という意味で、そう言う。しかしそういう人
は、もともと善人ではなかったという前提で考えると、この「魔がさした」という言葉の意味がよく
わかる。

 もっと言えば、自分が心のどこかに閉じこめておいた邪悪な部分が、ふとしたきっかけで、顔
を出した。そしてその人を、ウラから操った。その結果、事件を引き起こした。つまりそう考える
と、うまく説明ができる。

【注※】ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 「脳科学者のS口俊之・H大大学院医学研究科教授(47)が、大学職員へのセクハラ(性的
嫌がらせ)を理由に、諭旨解雇処分を通知された問題で、H大は3日、S口教授が1日付で自
主退職したと発表した。

 独立行政法人化後の人事規定の盲点を突かれ、処分逃れを許す羽目になった。

 S口教授は、セクハラ審査の終盤の3月18日に退職願を提出。大学側は23日に処分を伝
えた。従来なら人事院規則により退職願の受理を保留できたが、法人化で、職員は非公務員
となり、『雇用解約を申し入れた日から2週間を経過すると雇用関係は終了する』との民法の
適用対象となった。

 一方、教育公務員特例法は処分通知から2週間の異議申し立て期間を認めており、多くの
国立大は法人化後も人事規定に同じ定めを設けたという。このため、処分確定には2週間が
必要で、職員から通知前に退職願が出ると、退職が先に成立し、処分できなくなる」と。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ)




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●男と女

●男の中の女、女の中の男

+++++++++++++++++

男と女のちがいとは何か?

若い人は、その(ちがい)を、
明確に感じ取ることができる。

しかしその(ちがい)も、年と
ともに、薄れ、やがてわからなく
なる。

+++++++++++++++++

 「(男は男に作られ)、女は女に作られる」と言ったのは、たしか、ボーボワールではなかった
か。心理学の世界にも、「役割形成」という言葉がある。生まれたときは同じでも、その後、環
境の中で、男は男に育てられ、女は女に育てられるというわけである。

 ただ大脳生理学の分野には、脳内ホルモンのちがいが、男と女を作り分けるという説もあ
る。だから、男が男になり、女が女になるというのは、環境のせいだけとも言えないのかもしれ
ない。

 事実、男の中にも、女性的な部分はあるし、女の中にも、男性的な部分はある。それに子ど
もの世界を観察していると、幼児〜小学3、4年生ごろまでは、男も女も、ない。容姿や服装を
のぞいたら、(ちがい)をさがすほうが、むずかしい。

 それが思春期を迎えるころから、急速に変化する。男は女を意識し、女は男を意識する。そ
の意識が、たがいに自らを、ちがった存在として、際(きわ)だたせる。とくに性的な存在として
の異性には、強烈なものがある。

 私も、高校生のときだが、図書館で女体の解剖図を見ただけで、体中が燃えるように熱くな
り、そのまま動けなくなってしまったのを覚えている。さらに自転車に乗っていたときのこと。前
を歩く女性の足を見ただけで、ペニスが勃起してしまったのを覚えている。

 ほかにも無数にこうした経験をしたが、こうした経験は、私だけのものではない。男なら、み
な、共通して経験することである。つまりこうして男は男になり、女は女になっていく。

 が、それで男の中の女が消えるわけではない。女の中の男が消えるわけではない。あのユ
ングも、「アニマ」「アニムス」という言葉を使って、それを説明している。

 アニマというのは、男の中にある女性的な部分が、イメージ化したもの。アニムスというの
は、女の中にある男性的な部分が、イメージ化したものをいう。

 たとえば男は、男でありながら、自分を全幅に包んでくれるマドンナ的な女性に、あこがれを
いだく。一方、女は、女でありながら、自分を雄々しく保護してくれる、野性的で力強い男性に、
あこがれをいだく。つまりともに、そういうイメージを心の中で、描く。

 が、ときとして、そのイメージは、破壊される。あるいは満たされないときもある。そういうとき
は、代償的に、男は自らマドンナ的になり、女は自ら野性的になったりする。

 私も子どものとき、小学3年生ごろのことだったと思うが、人に隠れて人形を抱いて寝ていた
ことがある。女の子といっしょに遊ぶということさえ考えられない時代だった。私は人形を抱い
て寝ることで、私は、やさしい母親を演じていたことになる。

 反対に、女でありながら、女らしさをまったく感じさせない子どもも、少なくない。自ら女である
ことを拒否しているかのような子どもである。女あつかいをしただけで、バシッと足蹴りを入れ
てきたりする。

 が、これらはすべて、若いころの話。若い人の話。

 男にも更年期というのがあるという話は、よく聞く。その更年期の影響かどうかは知らない
が、私も、50歳を過ぎるころから、男と女の区別ができなくなって、困ったことがある。女性に、
まったく色気を感じなくなってしまった。と同時に、自分が男であることを、忘れてしまった。で、
あるとき、こう思った。

 「今なら、混浴風呂に入っても、女性と、平気で話をすることができるだろうな」と。

 が、それは一時的なものだった。またこのところ、女性は女性として、意識できるようになって
きた。それはそれでよかったと、内心では思っているが、もちろんその意識は、以前よりは、弱
い。週刊誌に出てくるような若い女性のヌードを見ても、何も感じない。ときにただの肉のかた
まりのようにさえ思うこともある。で、こうして考えてみると、男とは何か、女とは何か、ますます
わからなくなってくる。

 まあ、結論から先に言えば、性的な部分をのぞいて、男と女を区別することのほうが、おかし
いということ。まちがっている。男と女は、どこもちがわない。

そこで重要なことは、そういう前提で、ものを考えること。もし男であることや、女であることで、
そこに社会的な差別があるなら、社会のしくみのほうを、変えていく。

 たとえば女性には、妊娠、出産、育児といった、女性特有の負担がある。それはしかたない
としても、そうした負担で、女性が社会的に不利にならないよう、社会のしくみのほうを、変えて
いく。

 フロイトの性俗説によれば、男と女のちがいが、人間のありとあらゆる生活に影響を及ぼし
ているという。それもそうだろう。人間がなぜ生きるかといえば、その第一の目的は、子孫存続
のためである。そのことはほかの、動植物を見ればわかる。

 しかし性俗説だけがすべてではない。ユングもそう唱えて、フロイトから決別したが、私も、そ
う思う。人間が人間であるためには、こうした性俗説から解放されなければならない。人間は、
ほかの動植物とはちがう。同じ部分があるとしても、それを超えなければならない。

 ということは、私もようやく、その性俗説から解放されつつあるということか。相手が男である
とか、女であるとかいうことは忘れて、一人の人間として、見ることができるようになりつつあ
る。

 それはそれで悪いことではないと思うのだが……。しかしそれもつまらないなという未練もな
いわけではない。この先のことは、もう少し年を取ってから、書いてみたい。
(はやし浩司 性差 ジェンダー アニマ アニムス 男女の違い)






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●適応能力vs対処能力

+++++++++++++++++

子どものほうが、適応能力は高い。
しかしその分だけ、環境や他人からの
影響を受けやすい。

成人になれば、適応能力は低くなるが、
それぞれの分野における対処能力は
高くなる。

適応能力と対処能力は、反比例の関係にある。

+++++++++++++++++

 新しい環境にその人を置いてみたとき、子どもであればあるほど、適応能力は高い。私は
『子どもは水』という格言を考えたことがあるが、それは、そういう意味で言った。

 が、子どもであるほど、その分だけ、環境や他人からの影響を受けやすい。当然といえば、
当然である。たとえば日本には、『今鳴いたカラスが、もう笑った』という言い方がある。子ども
の心の変化のすばやさを言ったものだが、それは同時に、子どもの心というのは、環境の影
響を受けやすいことを意味する。

 雰囲気が変わっただけで、子どもは、その影響を受ける。

 が、加齢とともに、環境適応能力は、低下する。が、その分だけ、それぞれのばあいに対処
する能力、つまり対処能力は高くなる。夫婦げんかをしていても、電話がかかってくれば、その
場で気分を入れ替え、電話の相手と、にこやかに(?)対処するというような芸当ができるよう
になる。

 反対に子どものばあいには、それができない。ひとつのできごとが、そのまま脳全体を支配
する。こうした現象を、レヴィンという学者は、「パーソナリティの分化度」という言葉を使って、
説明した。

 つまり「子どもの脳は、それだけ柔軟にできている分だけ、たがいに影響を受けやすい」と。

 では、その分だけ、おとなの脳は、子どもの脳よりすぐれているかといえば、そうとは言えな
い。対処能力がすぐれる分だけ、脳の柔軟性が失われる。そのため、つぎのような症状が現
れる。

(1)ものごとへの固執化
(2)行動、思考の単一化
(3)融通性の喪失
(4)適応能力の喪失など。

 ある老人(今年80歳くらい)は、定年退職してから約25年になるが、生活パターンは、まった
くと言ってよいほど、変わっていない。趣味も、盆栽だけ。とくにここ10年は、家の中に引きこも
ってばかりいる。訪れてやってくる人も、ほとんどいない。

 こういう状態になると、脳の柔軟さが失われるだけでなく、対処能力そのものも衰えてくる。わ
かりやく言えば、がんこで偏屈になる。

 もっともこういう例は、いわば例外。ふつうに考えれば、適応能力と対処能力は、反比例の関
係にある。






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●性格検査(Y・G性格検査)

++++++++++++++++++++

自分はどんな性格か? 

それを知るために考案されたのが、
矢田部・ギルフォード性格検査法。

「Y.G性格検査法」ともいう。

一度、あなたはどんな正確か、
ここで自己診断してみるとよい。

++++++++++++++++++++

 人間の性格を、12の尺度に分けて、それぞれどんな性格であるかを知る。その検査法が、
谷田部・ギルフォード性格検査法(Y・G検査性格検査法)である。

 それぞれ12の尺度について、あなたは、どの位置にあるか、自己診断してみるとよい。でき
れば、職場など、より多くの人に参加してもらい、相互に比較してみるとよい。

*********Y・G性格検査法(簡略版)***********

(1)抑うつ性なし +++++   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++++   情緒不安定
(3)劣等感なし  +++++   劣等感強し
(4)神経質でない +++++   神経質
(5)客観的    +++++   主観的
(6)協調的    +++++   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  +++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++++   活動的
(9)のんきでない +++++   のんき
(0)思考的内向  +++++   思考的外向
(1)服従的    +++++   支配的
(2)社会的内向  +++++   社会的外向

 (注……それぞれについて、1〜5点の、5段階評価)

 (1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。
 (5)〜(7)は、社交性をみる。
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。
 (0)〜(2)は、主導的かどうかを。それぞれ、みる。 

 ちなみに私自身(=はやし浩司)を、自己診断してみると、こうなる(?)。


(1)抑うつ性なし +++●+   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++●+   情緒不安定
(3)劣等感なし  +●+++   劣等感強し
(4)神経質でない +++●+   神経質
(5)客観的    ++●++   主観的
(6)協調的    +++●+   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  ●++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++●+   活動的
(9)のんきでない +●+++   のんき
(0)思考的内向  ++++●   思考的外向
(1)服従的    +++●+   支配的
(2)社会的内向  ++●++   社会的外向

 これでみると、それぞれの合計点は、つぎのようになる。

(1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。 ……13ポイント(平均 2・6)
 (5)〜(7)は、社交性をみる。    …… 8ポイント(平均 2・6)
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。    …… 7ポイント(平均 2・3)
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。…… 7ポイント(平均 3・5)
 (0)〜(2)は、主導的かどうかをみる。……12ポイント(平均 4・0)

 このY・G性格検査法によれば、(平均値を3とすると)、私は、情緒の安定性、社交性、衝動
性は、平均的。内政的ではなく、支配性が強く、社会的外向性が強いということになる。(少し、
甘いかな?)

 こんど教室の生徒たちの性格を、これで検査してみようと考えている。その結果は、また後
日、報告したい。
(はやし浩司 子供の性格 性格テスト 性格判断 子どもの性格 谷田部・ギルフォード性格
検査 はやし浩司 性格検査法 Y・G性格検査法 性格検査テスト法)





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●夫婦の信頼関係

++++++++++++++++++

自分の心のスキ間を埋めるための、
自分勝手な、つまりは自分本位な
愛のことを、代償的愛という。

ストーカーが見せる、ストーカー的な
愛を思い浮かべればよい。

しかしそんな愛では、夫婦の間に、
信頼関係など、できるはずはない。

++++++++++++++++++

 自分の心のスキ間を埋めるための、自分勝手な、つまりは自分本位な愛のことを、代償的愛
という。本来、「愛」というのは、いかに相手の人の立場になって、その心を共有できるかによっ
て、その深さが決まる。が、代償的愛には、それがない。どこまでも自己中心的な愛をいう。

 ストーカーが見せる、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。が、それは「愛」ではない。支
配欲、依存性、情緒の不安定性、精神的な未熟さを補うために、一方的に、相手を、自分の支
配下に置いて、自分の思いどおりにしようとする。

 が、当の本人には、それがわからない。

 代償的愛をもって、それを真の愛と錯覚してしまう。あるいは、誤解する。相手がいやがって
逃げ回っているにもかかわらず、それは自分が悪いのではなく、相手が自分を理解していない
せいだと、勝手に解釈する。

 ……というような話は、前にも、何度も書いた。

 そこで最近、こんな話を聞いた。その話について……。

 ある男性(今年80歳くらい)だが、片時も離れず、妻のそばにいるという。たとえば妻がトイレ
に入ったりすると、そのトイレのドアのところに立って、妻がトイレから出てくるのを待っている
のだという。

 もちろん妻がひとりで、買い物に行くのさえ、許さない。許さないというより、ついていく。その
ため妻は、ここ20年ほど、友人たちとの旅行すら、していないという。
 
異常なまでの依存性と言ってもよい。が、当の男性にも、言い分がある。その男性は、こう言っ
た。「自分は、心筋梗塞を起こしたことがある。バイパス手術を受けて、何とか生活できる状態
だが、そのため、妻がいないと不安でならない」と。

 一般論として、代償的愛は、加齢とともに、依存性、支配欲へと変化しやすい。つまり年を取
れば取るほど、より妻(夫)に依存するようになり、妻(夫)を、より自分の支配下に置こうとする
ようになる。

 では、なぜ、そうなるかと言えば、答は簡単。

 そもそも、夫婦間に必要な、信頼関係そのものがない。先の男性にしてみれば、若いころ
は、不倫のし放題。妻は、家政婦か女中のような存在でしかなかった。その男性は、「誠実」と
いう言葉とは、無縁の世界に住んでいた。

 こうした現象は、子どもの世界でも見られる。よく知られた例としては、分離不安がある。母
親の姿が見えなくなっただけで、狂乱状態になり、母親のあとを、泣き叫びながら追いかけたり
する。

 何かのきっかけで、母子間の信頼関係にヒビが入ったとき、そうなる。母親が、数日間、病気
で入院したとか、遊園地で迷子になったりしたとか、そういうことが原因で、分離不安になること
も珍しくない。

 必ずしも、母親の側に、愛がなかったから、そうなったということだけではない。

 が、子どもは、それを「捨てられた」と思いこんでしまう。妄想、あるいは誤解ということになる
が、子どもには、まだ、そこまで理解できない。つまり子どもは、「また捨てられるかもしれない」
と思うことで、極度の不安状態に置かれる。「捨てられるかも?」というのは、子どもにとって
は、恐怖以外の何ものでもない。その恐怖感が、子どもをして、分離不安に駆りたてる。

 同じように考えていくと、こうした代償的愛の結果、極端な依存性、あるいは支配欲の背景
に、夫婦間の不信感があると考えられる。しかもその不信感は、妻が不倫をしたとか、あるい
は夫の信頼感を裏切るようなことをしたとか、そういうことが原因で起こるのではない。夫自身
の生活態度が原因で起こる。

 昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。同じように、自分が不誠実だと、相手も不誠実
だと思う。そしてより相手を疑うようになる。その誤解が、自ら、たがいの信頼関係に、ヒビを入
れていく。

 夫婦にかぎらず、相手がだれであるにせよ、信頼関係などというものは、一朝一夕にせきる
ものではない。長い時間をかけて、少しずつ熟成される。しかしその信頼関係は、いわば、ガラ
スの箱のようなもの。ほんの少しの衝撃を加えただけで、すぐこわれてしまう。また一度、こわ
れると、その修復は、たいへんむずかしい。

 たとえば不倫を例にあげて考えてみよう。

 若い人は多分、不倫というのは、内心の問題と安易に考えやすい。私もそう考えていた。「バ
レなければ、それでいい」と。あるいは、ただ単なる排泄と考える人もいる。そしてそれほど深
い考えもなしに、一時の、甘い、肉体関係に、心をまどわす。

 しかしその代償は、大きい。当の本人は、「自分さえ、黙っていれば、妻(夫)には、バレない」
と思うかもしれない。「妻(夫)さえ気がつかねば、生活は、変わらない」と考えるかもしれない。

 が、その代償は、大きい。自分自身の中の(誠意)を、それによって、破壊してしまう。つまり
自分で、自分の中に、自己不信の芽を作ってしまう。今さら言うまでもないことだが、自分すら
信じられない人間が、どうして他人を信ずることができるだろうか。

 だから不倫をしている夫(妻)ほど、自分の妻(夫)を疑う。ここでまさに『泥棒の家は、戸締り
が厳重』という現象が、起きる。自分がそうだから、妻もそうではないかと疑ってしまう。

 もちろん信頼関係は、それだけで決まるものではない。乳幼児期の「基本的不信関係」が、
長く、尾を引くこともある。さらに先に書いた、乳幼児期に経験した分離不安が、成人になって
からも、再現されることもある。夫婦の信頼関係といっても、その中身と、それができあがる過
程は、千差万別。決して、単純なものではない。

 だから今、冒頭にあげた男性が、なぜそうなのかということについて、安易な解釈を加えるこ
とはできない。ひょっとしたら、心筋梗塞という病気がもつ特有の不安感が原因でそうなったの
かもしれない。あるいはその男性には、若いころから、心気症だったのかもしれない。

 しかしこれだけは言える。

 今、あなたは、自分の夫(妻)に対して、絶対的な信頼感を覚えているだろうか。「絶対的」と
いうのは、「疑いすらもたない」という意味である。

 もしそうなら、あなたたち夫婦は、すばらしい夫婦と言える。また今まで、すばらしい人生を送
ってきた人と言える。率直に言えば、うらやましい!
(はやし浩司 夫婦の信頼関係 代償的愛 分離不安 夫婦 信頼)

【付記1】

 知人の中にも、妻に隠れて、不倫を重ねている男性がいる。今は、それなりに結構楽しそう
な雰囲気だが、しかしそのツケを払うときは、必ず、やってくる。「人間不信」というツケである。

 しかしこのツケほど、恐ろしいものはない。それはいつか、やがて、悔いても悔いきれないほ
どの重圧感となって、その人を襲う。(あるいは、それを感ずることもないほど、軽薄な人生の
まま、生涯を終えるかもしれない。)

 その覚悟ができているなら、出会い系サイトでも何でもよいから、そういうところで知り合った
女や男と、不倫を重ねるがよい。愛人を作るのがよい。

【付記2】

 老齢に近づけば近づくほど、人は、前向きに生きなければならない。ある賢者は、こう言っ
た。

 「夫婦はたがいに手を取りあって、前だけを見て進む。決して、見つめあってはいけない」と。

 もし冒頭に書いた男性が、別に生きがいをもっていたら、こうまで妻のほうに視線を向けるこ
とはないだろう。仕事でも何でもよい。それがないから、つまり妻のほうに、視線を向けすぎて
いる。その結果として、それが異常なまでの依存性となってしまった。

 「老後の生きがい」……これもまた、大きな、かつ重大な問題である。これについては、また
別の機会に考えてみたい。

【付記3】

 夫婦の信頼関係というものは、つねに自分と戦いながら、つくりあげるもの。あくまでも(自
分)だ。

 それは決して、楽なことではない。

 たとえばともに楽しい生活をしたからといって、できあがるものではない。ともに苦労を分かち
あうことによって、信頼関係が生まれるという人もいるが、どうも、それだけではないように思
う。

 今は、この程度にしかわからないので、この問題についても、また別の機会に考えてみた
い。

【教訓】

(1)不誠実な人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。
(2)不誠実なことをしている人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。






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●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。このスキン
シップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」な理由によ
り、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」と
いうのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味である。
そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベイビ
ー」という言葉を使った。

 (1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子どものこと
を、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」の表現
ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能面のように無
表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能面のように
無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。そのままというより、
こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私はSさんが、泣いていることが
わかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育園へ預け
ました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられたということ
になる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすらしないとし
たら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。それだけではな
い。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかってき
た。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ球、大食細胞
を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳児が、母
親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラクチンなど)が刺激
され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍数が、自
分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親のほうが、子ども
に合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何か別の作用が働いて
いると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象が、よく
見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。たとえば母親が体を丸
めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、右を向いて眠っていたりす
る。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべきように
育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。するとそのと
き、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それがスキンシップであ
る。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めてきたとき
が、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとするのはよくないが
(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じてやる。間を置かない。そ
してぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小魚を放す
要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事情があ
る母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊かな心をはぐく
む。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 母子相
互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケースもあ
る。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキンシップとは、
分けて考える。






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【子どもを伸ばす】

++++++++++++++++++

子どもを信ずる。
これは子育ての基本。
同時に、子育てのテーマ。

++++++++++++++++++

●役割の感知

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、その期待にこたえようと、無意識のうちに
も、自分の中のよい面を、表に出そうとする。よい面を見せようとする。子どもを伸ばすときは、
こうした子どもの心理を、うまく利用して伸ばす。

たとえば母親が、「うちの子はすばらしい」と、そう思ったとする。するとその子どもは、母親の
期待にこたえようと、無意識のうちにも、自分のすばらしい面を感知し、自らそれを伸ばそうと
する。そういう意味では、子どもの心というのは、親の心を映す、カガミのようなものと考えてよ
い。

 ところで心理学の世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、そうであるようにと、
とくに教えなくても、やがて男の子らしくなっていく。同じように女の子は、女の子らしくなってい
く。

 無意識のうちにも、子どもは自分の役割を感知し、それに合わせて、自分を形成していく。そ
のために、子どもは、男の子らしくなり、女の子らしくなる。

 そこでここでは、もう一歩、この問題を、踏みこんで考えてみる。

●自己形成で作られる人格

 たとえば学校の校長を考えてみる。

 長い間、教職という立場にあり、そして校長にまでなった人を見てみる。そのとき、校長と呼
ばれる人には、ある共通点があるのがわかる。そのほとんどが、人格者で、かつ高邁(こうま
い)な思想や哲学をもっている。

 それは校長という要職にある間に、親や生徒の期待にこたえようと、その人自身が、自ら努
力した結果とみてよい。もちろん中には、演技で、人格者のフリをする人もいる。校長にかぎら
ない。が、しかしそういう人は長つづきしない。やがて自己矛盾を起こし、そういった要職に耐
えられなくなる。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばサッカーの試合がある。その選手がいくらすばらしいプレーをしてみせようとしても、
観客がゼロでは、やる気そのものが、生まれてこないだろう。しかし観客席が満員になり、熱い
声援を受ければ、その選手は、その期待にこたえようと、自分の力を、無意識のうちにも、十
二分(ぶん)に発揮するようになるかもしれない。

 つまり子どもにかぎらず、私たちは、いつも、他人が自分をどう思っているかを、敏感に感知
し、自分がどうあるべきかを判断する。意識してそうするばあいもあるが、たいていは無意識の
まま、それをする。そしてそれに応じて、自分のあり方を決めようとする。わかりやすく言えば、
他人が、自分に対してもっているイメージ、つまり(他者的自己概念)を、自分のイメージとし
て、無意識のうちにも、自分の(自己概念)として受けいれようとする。

●社会的自己

 たとえばあなた自身のことで、考えてみてほしい。

 あなたの周囲には、あなたのことを、すばらしい人と思っている人もいれば、そうでない人も
いる。

 そういうときあなたは、自分のことをすばらしいと思っている人の前では、自然な形で、あなた
のすばらしい面が表に出てくるのを感ずるだろう。やさしくなったり、おおらかになったりする。

 反対に、そうでないときは、そうでない。自分のことをいやな人だと思っている人の前では、
(あなたはそれを無意識のうちにも、敏感に感知しているわけだが……)、ついつい自分の中
のいやな部分を表に出してしまう。冷淡になったり、無愛想になったりする。

 もちろんその相手といっても、個人のときもあるが、集団のときもある。

 あなたを暖かく迎えてくれる集団の中では、あなたは自分の中のよい面を、前面に出そうとす
る。しかしあなたを拒否する集団の中では、自分がそう望んでいるわけではないのに、自分の
中のいやな部分を表に出してしまうことがある。

 こうして子どもは、そして人は、自分の中に、「社会的自己」を形成していく。家族の中におけ
る自己、園や学校という世界における自己、そして友人の世界における自己など。

 おとなであれば、職場における自己、趣味の会における自己などがある。

 こうした社会的自己というのは、決して、1つではない。わかりやすく言えば、みな、ちがう。そ
れぞれの場面において、みな、ちがう。あなたが10の集団と接しているなら、10の社会的自
己をもつことになるし、20の集団と接しているなら、20の社会的自己をもつことになる。

 ただ、自分を拒否したり、否定したりする集団については、あなたは、それから、これまた無
意識のうちにも、遠ざかっていくかもしれない。こうした経験は、私もよくする。

●私のケース

 たとえば子どもを教えていて、その子どもの親が、子どもを通して、私に対して、どのようなイ
メージをもっているか、それがわかるときがある。

 そのイメージが、よいものであればよいが、そうでないときは、とたんに居心地が悪くなる。ザ
ワザワとした胸騒ぎが起こることもある。当然のことながら、教えようという熱意そのものがわ
いてこない。しかしそうした状態は、長つづきしない。長くつきあっていると、(よい教師でいよ
う)という思いと、(それができない自分)との間で、自己矛盾を起こしてしまう。それは、心理的
には、ものすごいストレッサーとなって、私を襲う。つまりこうして私は、その親や子どもから離
れようとする。

 が、個人にせよ、集団にせよ、その重要なカギを握るのは、だれかということになる。

 言うまでもなく、それは、その人が、もっとも大切に感じている個人であり、集団ということにな
る。子どもについて言えば、「親」ということになる。

 つまりここで冒頭の話にもどる。ここでは子どもについて、考えてみる。夫と妻という関係でも
よい。

 子どもというのは、(あるいは妻というのは)、常に、親が、(あるいは夫が)、自分に対してど
のようなイメージ(他者的自己概念)をもっているかを、無意識のうちにも、感知する。そしてそ
のイメージに合わせて、自己概念を作りあげようとする。

 親が、(あるいは夫が)、子どものことを、(あるいは妻であるあなたのことを)、よい子(人)だ
と思っているなら、(よい妻であると思っているなら)、自然と、子どもは、(あなたは)、そのよい
妻に向けて努力するようになる。

 こうした現象は、心理学の世界では、「好意の返報性」という言葉を使って説明されている。
『相手は、あなたが相手のことを思うように、あなたのことを思う』という、イギリスの格言もあ
る。

 が、その反対のケースもある。子どもの世界について、考えてみる。

●親のイメージどおりになる子ども

 親が、自分の子どもに対して、悪いイメージをもっていたとする。「うちの子は、何をしてもダメ
だ」「心配だ」と。

 こういうケースのばあい、いくら親が表面的にはそうでないと演じてみせても、子どもはそれを
敏感に察知してしまう。ユングという心理学者は、それを「シャドウ」という言葉を使って説明し
たが、そのシャドウを、子どもは、無意識のまま、そしてそっくりそのまま、受けついでしまう。
「受けつぐ」というよりは、そのまま、自分のイメージとして受けいれてしまう。

 つまり子どもは、ますますその親にしてみれば、望ましくない子どもになってしまう。そしてあと
は、お決まりの悪循環。(親にしてみれば、ますます心配な子どもになる)→(子どもは、ますま
すその心配な子どもになる)、と。

 では、どうするかだが、答はもう出ているようなもの。

●子どもを信ずる

 子育てをしていて、何がむずかしいかといって、実は、自分の子どもを信ずることぐらい、む
ずかしいことはない。日々が、その戦いと言ってもよい。もっと言えば、子育てイコール、いかに
子どもを信ずるか、その戦いということになる。

 ときには、希望をもち、ときには落胆し、その繰りかえしをしながら、親は、子どもを育てる。し
かしそのときでも重要なことは、どんなことがあっても、子どもを信ずるということ。これは子育
ての最後の砦(とりで)のようなもの。それを崩したら、もうあとがない。

 さらに一言、つけ加えるなら、信ずるといっても、仮面ではいけない。仮面ではいけないことに
ついては、すでにここに書いたが、他人ならともかくも、子どもや、夫婦は、その仮面では、だま
せない。だから心の底から、濁(にご)りなく、子どもを信ずること。

 それにもうひとつ、条件がある。

 あなたが自分の子どもを信ずるとしても、それを子どもに押しつけてはいけない。過剰期待
や過負担ほど、子どもを苦しめるものはない。またそうした押しつけによって、反対に、子ども
が、その(いい子)を演ずるように、しむけてはいけない。

 無理や強制がつづくと、今度は、子どものほうが仮面(ペルソナ)をかぶるようになる。が、こ
れについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 社会
的自己 自己概念 仮面 ペルソナ 子供の心理 幼児の心理)

+++++++++++++++

3年前に書いた原稿を
ここに添付します。

この原稿の中で、「二面性」という
言葉を使いましたが、
本当は、「多面性」という言葉の
ほうが、正しいかもしれません。

+++++++++++++++

●人間の二面性

 人間には、二面性がある。

 たとえば私は、こんな話を聞いたことがある。ベトナム戦争から帰ってきたオーストラリア人兵
士から聞いた話である。クリスという男だったが、こう言った。

 「みんな戦場からサイゴンに帰ってくると、女を買いに行くんだ。買うといっても、セックスが目
的ではない。女を買って、一晩中、女のおっぱいを吸っているんだ」と。

 テレビなどで戦車の上に陣取っている兵隊を見ると、私たちは、「たくましい」とか、「かっこい
い」と思うかもしれない。しかしそれは外に向った、表の顔。そういった兵士にも、もう一つの顔
がある。赤ん坊のように、女性のおっぱいを吸いつづけたのが、その顔である。

 実は、こうした二面性は、子どもにも広く、見られる。それが好ましいことなのかどうかという
議論はさておき、外の世界でがんばり、その分だけ、家の中では、ぐずったり、乱暴したりする
子どもは、いくらでもいる。ときには、まったく別人のように振る舞う子どももいる。こうした違い
は、園や学校での参観日などを通してみると、よくわかる。

 ある女の子(年長児)は、幼稚園では何をするにもリーダーで、先生も一目、置いていた。学
習面でも、運動面でも、その女の子にかなう子どもは、いなかった。しかしその母親は、私にこ
う言った。「家では、何もしてくれないんですよ。ぐずってばかりいます。それにここだけの話で
すが、いまだにおねしょをしているんですよ」と。

 もしあなたの子どもが、参観日などで、「がんばっている」「家の中での様子と違う」と感じた
ら、家の中では、思いっきり、手綱(たづな)を緩(ゆる)める。このとき、家の中でも引き締める
ようなことがあると、子どもは行き場、つまり心の調整の場をなくしてしまう。家の中で、退行的
な様子(全体に幼稚ぽくなり、生活習慣がだらしなくなる、約束や規則が守れないなど)が見ら
れても、大目に見る。

 また、こうした二面性を、悪いことと、決めてかかってはいけない。ここにも書いたように、こう
した二面性があるからこそ、外の世界でがんばれる反面、自分の心を調整することができる。
心理学の世界には、「補完」という言葉があるが、たがいに補完しあうこともある。とくに責任あ
る地位や、立場にある人ほど、この二面性は、強く現れる。

 話は、ぐんと、生臭くなるが、学校の教師によるハレンチ事件は、あとを絶たない。このH市
でも、男子生徒にいたずらを繰りかえしていた教師、更衣室にカメラをしかけて盗撮していた教
師、女子生徒の下着を盗んだ教師などがいる。こういう事件が明るみに出るたびに、学校も、
また親も、そして生徒も、「まさか!」と驚く。「あの教育熱心な先生が、どうして!」と。

 しかしここが問題なのである。こうした教師は、仮面の部分では、たしかに優秀な教師かもし
れない。そのように外の世界で、振る舞っている。しかしそれはあくまでも外の顔。だからこそ、
別のところで、心の調整が必要となる。(だからといって、ハレンチ事件を起こしてよいと言って
いるのではない。誤解のないように!) いつも立派な教師のままでは、気がヘンになってしま
う。

 問題は、どうやって自分の心を調整するか、である。似たような話だが、いつも緊張にさらさ
れている医師や弁護士ほど、(リッチということもあるが)、秘密交際クラブで遊んでいるという。
もう少し身近な例では、こんな話もある。

 T君(中学生)の父親は、H市でも、1、2を争う、有名ホテルのコック長をしている。そこで私
がある日、そのT君にこう聞いた。「君はラッキーだね。毎日、うちでもおいしいものばかり食べ
ているの?」と。

 するとT君は、こう言った。「パパは、家では、まったく料理しないよ。それにパパは、いつもお
茶漬けばかり食べている」と。

 以前は、「教師、聖職論」というのがあった。そのためその反動形成(本来の自分とは反対
の、別の人格者を作ること)から、自己矛盾におちいり、自己嫌悪から、自己否定にまで走って
しまう教師も少なくなかった。しかし今は、そういう時代ではない。今でもときどき、「聖職論」を
論じる人がいる。が、そもそもそういったことを論じるほうがおかしい。教師といえども、ふつう
の人間(ふつうの人間であることが、悪いというのではない。また教師をバカにしているのでも
ない。誤解のないように!) 肩の力を抜いて、気楽にやればよい。二面性があるにしても、そ
の二面性は、できるだけ近いほうがよい。

 さてあなた自身はどうだろうか。あなたにとって、外の世界で見せる仮面の部分は、何か。一
方、あなたにとって、本質的の部分は、何か。大切なことは、どんな人間にも、こうした二面性
があるということ。また、あって当然ということ。社会生活が複雑になればなるほど、人間は、そ
うなる。こうした現象を、大脳生理学の分野では、「脳の分化」という言葉を使って、説明する。
わかりやすく言えば、人間は、それぞれの場面に応じて、それぞれの自分をもっているというこ
と。

そうした理解も、実は、子育てでは必要なことかもしれない。
(030720)

【注】こうした二面性を、心理学の面で鋭くとらえたのが、ユングである。さらに詳しく勉強してみ
たいと思う人は、ユングの「ペルソナ論」「アニマ論」を、ひも解いてみるとよい。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 聖職
論 補完 人間の多面性)




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【夫婦の信頼関係】(2)

+++++++++++++++++

夫婦の信頼関係というものは、
作られるものではない。
熟成されるもの。

「疑わない」「不安に思わない」。

それが夫婦の信頼関係。

+++++++++++++++++

●「信ずる」という言葉

 「信ずる」という言葉ほど、自己矛盾に満ちた言葉はない。よい例が、若い人たちの会話。

男「オレを信じろ」
女「あなたを信じているわ」と。

 こういう会話をすること自体、相手を疑っていることになる。疑ったり、不安に思っているから
こそ、そういう会話をする。本当に信じあっていたら、そういう言葉そのものを使わない。

 夫婦も、同じ。夫婦の間で、「オレを信じろ」「あなたを信じているわ」などという会話をするよう
になったら、夫婦も、お・し・ま・い!

 しかしその信頼関係が、大きくゆらぐことがある。ウソ、インチキ、ごまかしに始まり、その先
に、浮気があり、不倫がある。どちらか一方が、他方に、それを感じたとき、信頼関係は、そこ
で大きくゆらぐ。

 で、最近、私は、こんなことに気づいた。話はぐんと、ミクロ的になるが、こんなことだ。

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のところにやっ
てきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつけるようにして、そこ
に残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカートを置い
たら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスがあれば、浮
気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。A
ならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞うということは
できない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことができる人と
いうのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベルに応じて、「自我の
人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、どこまでいっても超自
我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エ
スの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。完全
に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。超自我
の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの人は、いくらが
んばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エスの
強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南
オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、
州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか
何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言
えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということにな
る。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のお
ける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてき
た。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところか
ら始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が
青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待
つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以
外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店
員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟
成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ている
が、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、
いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本
では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロ
ジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか
(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。

●夫婦の信頼関係

 夫婦の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかし
その(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々
の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となっ
て、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不
倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関
係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中
には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、
より賢くなっていく。

●では、どうするか?

 そこでもし、あなたの夫(妻)が、その(信頼に足る人ではない)というばあいは、どうしたらい
いかということになる。

 とくに、一度、裏切られた経験をもつ妻(夫)なら、そうであろう。が、このばあいでも、あなた
の夫(妻)をつくるのは、あなた自身だということ。それを忘れてはいけない。仮にあなたの夫
(妻)が、フロイトが言うところの「エスの強い人」であるなら、長い時間をかけて、あなたの夫
(妻)を、「超自我の強い人」に、改変していく。

 方法は簡単。あなたという妻(夫)が、その手本を見せればよい。たとえば2人で横断報道に
さしかかったとき、あなたの夫(妻)が、「だれもしないから、信号を無視して渡ろう」と言っても、
あなたはがんとして、それを拒(こば)めばよい。

 駐車場に空きがないとき、あなたの夫(妻)が、「あそこに空き地があるから、あそこに止めよ
う」と言っても、あなたはがんとして、「あそこは駐車場ではないから、だめ」と、それを拒めばよ
い。

 そうした積み重ねが、あなたの人格をつくり、やがてその人格が、あなたの夫(妻)を動かす。
あなたを、あなたの夫(妻)が認めるようになったとき、あなたの夫(妻)も、わなたという妻(夫)
にふさわしい夫(妻)になる。もしあなたの夫(妻)があなたを裏切るようなことがあれば、あなた
の夫(妻)は、あなたというより、あなたの誠実さを裏切った後悔の念で、苦しむはず。

 B君が、私を感化したのと同じような現象が起きるはず。

●北海道のKHさんへ

 夫婦の信頼関係について考えてみました。

 夫の不倫に悩んでおられる様子がよくわかります。しかしここで重要なことは、「だから信頼
関係が保てなくなった」と、自分の気持ちを投げ捨てることではなく、今の状態を、乗り越えるこ
とによって、さらに前に進むことです。

 あの親鸞(しんらん)も、『回向(えこう)論』の中で、こう言っています。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』と。

 この言葉を、今の状況に当てはめて考えてみると、こうなります。

 つまりですね、たがいに誠実な夫婦が、よい信頼関係を築けるのは当然のことではないか。
しかしそうでない夫婦こそ、それに気がついたとき、さらによい信頼関係が築けるもの、と。

 あなたの誠実さに触れたとき、あなたの夫は、自分のしてきた行為に、心底恥じることになる
でしょう。苦しむのです。そしてその苦しみが、さらにたがいに深い、夫婦の絆(BOND)をつく
る基礎になるのです。

 要は、あなたにそれを許す、度量があるかどうかという問題になります。そしてあなたが言っ
ているように、「別れることもできない」というのであれば、ここはサッパリとあきらめて、つまり
ジクジクものを考えないで、ここに書いたようなことを実践してみては、どうでしょうか。

 あなたの夫にではなく、あなた自身に、負けてはだめですよ!!!
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 夫婦
の信頼 夫婦の信頼関係 夫婦の問題 不倫 浮気 はやし浩司 自我の人 超自我の人 
エスの人)







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●今を生きる

【コンパクトな生活?】

++++++++++++++++

人は老人になればなるほど、
コンパクトな生活をめざすべきと、
ある人が言った。

そのときは、「なるほど」と、
納得した。

しかし、……
コンパクトな生活だと!
何が、コンパクトな生活だ!
バカ言うな! 

++++++++++++++++

●コンパクトな生活

 10年ほど前、ある知人が、私にこう言った。「林君、人はね、老人になればなるほど、コンパ
クトな生活をめざすべきだよ」と。

 彼が言う「コンパクトな」というのは、「こじんまりとした」という意味である。そのとき彼は、あと
数年で、60歳の定年退職を迎えようとしていた。

 そしてまた最近、別の知人がこう言った。何でも、その知人は、何かの講演会に行って、同じ
ような話を聞いてきたらしい。

 「ぼくは、その講演会を聞いて、感動したよ。すばらしい講演会だった。つまりね、人はね、老
齢に近づいたら、身辺を整理して、生活をコンパクトにしなければいけない。生活空間を小さく
して、支出を抑える。健康を大切にして、できるだけ長生きをすることを考える」と。

 ……というわけで、最近、「コンパクト」という言葉を、よく耳にするようになった。

●それが理想の姿なのか?

 私の周辺には、そのコンパクトな生活を実践している老人が、何人かいる。「何人か」というよ
り、ほとんどが、そうである。

 毎日、近くの空き地へやってきて、何かをするでもなし、しないでもなしといったふうに、一日
を過ごしている老人。一日中、部屋にこもって、趣味三昧の老人。同じく一日中、庭いじりをし
ている老人などなど。

 見るからに、質素な生活をしている。静かな生活をしている。が、あるとき、私は、疑問に思っ
た。「果たして、それでいいのか?」と。つまり、それが老人の生き方として、あるべき、理想の
姿なのか、と。

 答は、やがて、「NO!」に傾いてきた。

●老人風生活

 実は、私も、そうした考え方に、少なからず、影響を受けた。体力や気力の衰えを感じ始めて
いたこともある。それに合わせて、そのころ、収入も、減少し始めていた。

 で、コンパクトな生活とは、何か、それを模索するようになった。

 常識的な考え方としては、(1)生活範囲を狭くする、(2)交際範囲を限定する、(3)支出を抑
え、質素な生活を旨とする、(4)無理をしない、(5)野心を捨て、(6)健康を大切にする、など
がある。

 で、冒頭に書いた知人などは、定年退職する少し前、自宅と自宅周辺にもっていた土地を売
り払い、郊外に、小さな家を建て、そこへ移り住んでしまった。つぎの知人は、反対に、市内に
小さなマンションを買い、そこへ移り住んでしまった。「そのほうが、便利だから」というのが、そ
の理由である。

●まだまだ現役

 ところで、最近、私の心境は、大きく変化しつつある。コンパクトな生活を目ざしたくても、それ
ができない状況に追いこまれてしまった。

 第一に、頭のボケた兄の介護費用の問題がある。現在、兄は、グループ・ホームに入居し
て、それなりに優雅な生活を送っている。しかしグループ・ホームでは、それなりの費用がかか
る。「都会へ大学生を送ったのと同じくらいの費用がかかる」とよく言われるが、それくらいは、
かかる。

 つぎに長男が、「もう一度、専門学校へ入って、勉強したい」と言いだした。そうするように勧
めたのは、私だが、今年から、ともかくも、その専門学校へ通うようになった。その費用も、まさ
に「大学生」なみにかかる。

 実のところ、私も、それまでは、心のどこかで引退を考えていた。「できるだけ長く働こう」とは
思ってはいたが、何をするにも、どこか遠慮がち。ものを買うときですら、「あと何年もてばい
い」というような考え方をするようになっていた。

 が、それが許されない状況になってきた。とたん、闘志が、モリモリとわきあがってきた。

●生きることを消耗しているだけ

 年齢を意識して生活することぐらい、バカげたことはない。たとえばこの日本では、「長生きを
したほうが勝ち」という、おかしな風潮すらある。そういう考え方をしている老人は、多い。

 しかし長生きをしたからといって、それがどうだというのか。先にも書いたが、それがあるべき
老人の姿なのか。理想の姿なのか。「3年、よけいに長生きすれば、息子夫婦に、家を建てて
やれる」と言った老人もいた。3年分の年金で、新築の家が買えるというのだ。

 それはそれで結構なことだが、しかしその人自身は、それでよいのか。……と考えていくと、
こうした生き方は、(果たして、それを「生き方」と言ってよいかどうか、わからないが……)、む
しろ生きるということに対して、背を向けた生き方ということに気づく。

 つまり生きているのではなく、生きていることを、日々に、消耗しているだけ。

●今は、今しかない

 重要なことは、前向きに生きること。「前向きに生きる」というのは、攻撃的かつ積極的に生き
るということ。もう少しわかりやすく言うと、「今日できることは、今日する」「今できることは、今
する」ということになる。

 「明日はない」と思う。今、あるのは、「今」だけ。「今」は今しかない。そう考えて行動する。つ
まりそういう生き方を目ざしていくと、やがて自分から、年齢的な思考性が消えていくのがわか
る。その「今」に、年齢など、関係ない。

 たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 仕事を終えて家に帰ると、もう夜の8時半になっていた。それから夕食を食べ、一息ついたこ
ろ、ワイフが、ビーズの話をした。「真珠のビーズが足りない……」と。このところ、私たちは、ビ
ーズに凝(こ)っている。

 そこで私が、「じゃあ、これから、そのビーズを買いにいこう」と声をかけると、ワイフは、こう
言った。「これからア?」と。「まだ、間にあう。買いに行こう」と。

 ……ということで、私たちは、そのビーズを、買いに行った。

●今を生きる喜び

 「明日があるから、明日に回す」というのは、うしろ向きな生き方ということになる。つまりほと
んどの老人たちは、ものごとを先送りすることによって、今を消耗する。無益に消耗する。そし
てそれを正当化するために、回りまわって、「コンパクト」という言葉を使う。

 もしそのとき、「(ビーズを買いにいくのは)、またでいいや」とか、「今度、その近くへ行ったと
きでいいや」と思ったとしたら、うしろ向きな生き方ということになる。そしてほとんどの老人たち
がするように、コタツに入って、そのまま寝そべってしまったとしたら、それも、うしろ向きな生き
方ということになる。

 が、「明日はない」と思って行動したら、どうなるだろうか。いや、明日など、意識するほうがお
かしい。明日は明日で、必ず、やってくる。明日がやってきたら、そのときは、そのときで、また
別に考えればよい。別に行動すればよい。

 ビーズを買って家に向こうとき、私が、「何でも、今できることは、今しよう」とワイフに声をか
けると、ワイフは、こう言った。「あなたといると、疲れるわ」と。それはそうかもしれないが、そ
の(疲れ)こそが、今を生きる人間に与えられる勲章のようなもの。その(疲れ)が、(生きる喜
び)となって、すぐかえってくる。

●コンパクトな生活?

 年を取ったからといって、何も、コンパクトな生き方をする必要などない。人は、死ぬまで、生
きる。それが明日、死ぬことになろうとも、そのときまで生きる。

 その生きることに遠慮してはいけない。年齢など、毛頭、考える必要はない。

 もし私やあなたが健康で、したいことができるなら、今、それをすればよい。私の知人の中に
は、60歳を過ぎて、新しい幼稚園を設立しようとがんばっている人がいる。すでに関東から静
岡県にかけて、5、6園の幼稚園をもっている。

 別の知人は、88歳を過ぎて、自宅の庭の端に、総杉の木づくりの離れの部屋を建てた。さら
にまた別の知人は、このあたりの自治会長を数期務めたあと、とうとう公民館の新築をなしと
げた。年齢は聞いていないが、もう70歳を過ぎているのではないか。

 そういうすばらしい老人たちがいる。あなたの周囲にも、そういう老人たちがいるはず。つまり
手本とすべき老人というのは、そういう人たちをいう。

 コンパクトな生活! そんな生活を目ざしてはいけない。反対に、そういう生活を目ざしている
老人たちを見てみることだ。小市民的で、つまらない。自分勝手で、自己中心的。そういう生活
をしている老人を、決して、手本としてはいけない。

 そこで、あえてもう一度、繰りかえす。コンパクトな生活? そんな生活など、クソ食らえ!

●生きる原点に!

 若いころは、何かの歌の歌詞にもあったように、「♪何もこわくなかった」。しかし今は、ちが
う。ふと気がつくと、まわりは、こわいものだらけ。しかしそれは、おかしい。仮にそうであるとし
ても、どうして、それをこわがらなければならないのか?

 メンツや世間体にこだわる必要はない。先週も、ある人たちと会食をしながら、こんな話をし
た。

 私が浜松に来たころのこと。私には、収入がなかった。そこで私は小さな張り紙を作って、そ
れをワイフと2人で、電柱に張りつけて回った。「翻訳します」という張り紙である。

 そのおかげで、私は、いくつかの会社の翻訳の仕事を、専属的にできるようになった。

 で、その話をしながら、「今の若い人たちに、それができますかねえ?」と声をかけると、ある
小学校で教頭をしているその男性は、こう言った。「できないでしょうね」と。ついで、「私もでき
ません」と。

 しかし、なぜ、できないのか? つまりそこに(こわさ)があるからではないのか?

 が、生きることに、制約はない。メンツも世間体もない。若いころの「今」も今なら、今の「今」
も、今。その「今」をこわがる必要はない。むしろたとえば定年退職前の肩書きや地位にこだわ
って、その「今」をこわがるほうが、おかしい。中には、定年退職してから20年近くもなるという
のに、退職前の肩書きにこだわって、いばり散らしている人もいる。

 それが生きていくために必要なことなら、電柱に張り紙でも何でもして、仕事を取ってくればい
い。電柱に張り紙をするにが違法なら、別の方法を考えればよい。それが生きるということであ
り、生きることの原点は、そういうところにある。

 昨夜、家に帰ってから、私は、ワイフにこう言った。「死ぬことなど、もう考えない。死ぬまで、
ぼくは、生きるよ」と。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 今を
生きる 生きる原点)

++++++++++++++++

数年間に書いた原稿を、2作
ここに添付します。

中日新聞、金沢学生新聞に発表
した原稿です。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい
た……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちに
はすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一
杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪その人はどこにいる。私
たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」と。

それから30年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを
感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きること
そのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエール
はこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四
節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」
と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に
生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしか
ない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれ
ない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。







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【母親論】

【時には母のない子のように】

++++++++++++++++++

寺山修司は、こう歌う。

♪時には母のない子のように
 だまって海を見つめていたい……
  
+++++++++++++++++++

寺山修司は、こう歌う。

  ♪時には母のない子のように
   だまって海を見つめていたい
   時には母のない子のように
   ひとりで旅に出たい
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
  
  ♪時には母のない子のように
   長い手紙を書いてみたい
   時には母のない子のように
   大きな声で叫んでみたい
   だけど心はすぐ変わる
   母のない子になったなら
   だれにも愛を話せない

   hu hu hu……

 その寺山修司だが、たいへんな母親をもっていたそうだ。その母を知る人は、みな、異口同
音に、こう言う。「寺山修司の母親は、こわい人だった」と。俳優のM氏もその1人で、NHKの
テレビ番組の中で、そういう趣旨の発言をしている(06年4月19日)。その番組の中には、「鬼
ババ」という文字さえ、かいま見えたように記憶している。

 寺山修司という人は、母親の虜(とりこ)になりながら、その呪縛から逃れ出ることができず、
かなり苦しんだ人らしい(同番組、M氏談話)。そうした思いが、この「時には母のない子のよう
に」という歌詞の中に、表現されているという。

 改めて、その歌詞を検証してみる。この歌は、私が大学3年だったか、4年のときに、大ヒット
した歌である。どこかさみしげな、それでいて、どこか退廃的な感じのする歌だった。

 で、寺山修司は、「♪時には母のない子のように……」と歌い、そのあと2番で、こうつづけ
る。「♪大きな声で叫んでみたい」と。

 しかし家族、なかんずく母子の間で形成される、「自我群」は、そんな甘いものではない。本能
に近い部分にまで、それは刷りこまれる。ふつうの人間関係ではない。だから寺山修司は、こ
う歌う。

 「♪だけど心はすぐ変わる」と。

 つまり母からの呪縛から逃れたい。しかしそう思ったとたん、自分は、その母に引き戻されて
しまう、と。実際、寺山修司の母親は、「ものすごい女性」(同、テレビ番組)だったようだ。

 嫁が気に食わないという理由で、寺山修司の結婚式には列席しなかったという。また寺山修
司の死後は、青森県に自宅に、寺山修司の記念館まで用意したという。生涯にわたって、寺山
修司の母親は、寺山修司の上に君臨していた(?)。

 で、問題は、この歌の歌詞の、最後の部分。「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せ
ない」という部分である。

 いろいろな解釈ができるのだろうが、私はこう解釈する。つまり、母にすら愛を拒否されてし
まったら、もう自分は、だれも信じられない人間になってしまう。もしそういう人間になってしまっ
たら、もうだれも、愛せなくなってしまう、と。

 そういう例は、実際に、多い。よく知られた例としては、虐待児がいる。実の母親に虐待され
つづけた子どもである。

 そういう子どもでも、児童相談所などに保護されると、「ママのところに帰りたい」と泣き叫ぶと
いう。保護されること自体を、「罰」と誤解する子どももいる。そこで相談所の相談員が、「また
ひどいめにあうのだよ」と説得すると、ある子ども(小学生)は、こう言ったという。

 「今度は、ちゃんと、いい子になるから、家に帰して」と。

 悲しき子どもの心である。その子どもにしてみれば、どんなひどい母親でも、母親。たった1
人の母親。そんな母親を、自ら否定してしまえば、その子どもは、心のより所をなくしてしまう。
そういう例も、ないわけではない。

 実の母親に30年以上にわたって、裏切られ、だまされつづけた男性(50歳)がいる。どう裏
切られ、だまされつづけたかは別として、その男性は、こう言う。

 「母親すらも信じられないというのはですね、もう、だれも信じられないということになるのです
ね。とくに、女性は、ね。が、それではすみません。だれも信じられないということは、それ自
体、たいへん孤独なことです」と。

 その男性は、結婚して、25年近くになるが、いまだに自分の妻すら、信じられないという。そ
の男性にとっても不幸なことだが、妻にとっても、不幸なことと考えてよい。

 だから寺山修司は、歌詞の1番と2番を、こう結ぶ。

 「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せない」と。

 その番組の最後の部分で、寺山修司の母親が、インタビューに答えて、こう言っていた。レポ
ーターが、「寺山修司がなくなって、どういうふうに思っておられますか」というようなことを聞い
たときのこと。母親はこう言った。

 「なくなってはいません。ここに、いないだけです」と。

 その寺山修司は、昭和58(1983)年5月、47歳の若さで、肝硬変で死んでいる。それを察
した寺山修司は、生前、「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分」と言い
残している。

 しかしその墓を、寺山修司の母が、八王子市の高尾霊園に建てた。そしてそのあと死んだ母
親も、その墓に入った。生涯にわたって母親の呪縛に苦しんだ寺山修司は、死んでからも、墓
の中で、母親の呪縛に苦しんでいるのかもしれない。
(はやし浩司 寺山修司 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 母子論 母と子)

++++++++++++++++++

母親は、母親であることをよいことに、
決してその立場に甘えてはいけない。

時として、母親は、生涯にわたって、
子どもを苦しめつづける存在ともなりえる。

さらに、母親といえども、いつか子どもに、
人間として評価されるときが、やってくる。

たとえ子どもにされなくても、後の世の
人々によって、評価されるときが、やってくる。

そうした視点で書いたのが、つぎの原稿です。
数年前に書いた原稿です。

++++++++++++++++++

【野口英世の母親】

●母シカの手紙

 2004年に新1000円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そうい
う人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」(1912年(明治45年)1月23日)(福島県耶麻郡猪苗代
町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそく
ありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願している。

 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮状や帰
国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリカを
代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と書い
ています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそうだ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を
訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、あ
なたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。

たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、あるア
メリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせることに無頓着な民
族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。事実、野口英世記
念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっしょに写っている母
シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自分が親になってみる
と、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いておく。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワイフと
いっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがない。大卒の初
任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれたと
きも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって帰った。母
にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母を責めているの
ではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわけで
もなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実家での
法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そういう
行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、20〜30万
円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子ど
もは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などな
ど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。

「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなか
った」
「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。それ
は、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろ
う。

文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できな
かったかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめん
どうをみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさに
そうした板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。

現に今、その母シカをたたえる団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした
人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、
書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元気か?」と様子を聞く
だけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持
ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 野口
英世 英世の母 シカ 野口英世の母親論)

【補記】

 寺山修司の母親が、なぜに、今に言われる母親として評価されるようになってしまったか。

 実は、そのヒントは、寺山修司の母親の、遍歴の中に、あるのではないか。その遍歴を箇条
書きにしてみる(参考、ウィキペディア百科事典)。

(1)寺山修司の生年月日は、実際の生年月日と戸籍上の生年月日が、異なっている。
(2)父親は警察官だった。寺山修司は、母はつの長男として誕生。
(3)9歳のときに、空襲で焼け出され、それまで住んでいた青森市から、現在の三沢市に移
る。父親の兄の経営する食堂の2階に住む。
(4)父親が、セレベス島で戦病死する。
(5)終戦
(6)母親のはつは、米軍のベースキャンプで働く。
(7)寺沢修司、古問中学校に入学。青森市で映画館を経営する母の叔父に預けられ、青森市
内の中学校に転校。
(8)母親は、寺沢修司を青森に残したまま、九州の米軍キャンプに移る。

 私はこの遍歴の中に、なぜ寺山修司が寺山修司になったかという、その謎を解くヒントが隠さ
れているように思う。息子を青森に残したまま、自分は、青森の米軍基地から、九州の米軍基
地に移ったという。女性の、はつが、である。

 それがどういう意味をもつのかは、わかる人にはわかるはず。それについては、もう少し寺
山修司について資料をあつめてから、書いてみたい。




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【損論】

●人間的完成度

++++++++++++++++++

損をすることは、悪いことばかりではない。
「損」が、その人の心を広くする。

反対に、損をしない人とがんばっている人は、
心が狭い(?)。

++++++++++++++++++

 私たちの世代をさして、「両取られの人生」と評する。上からは、親に金を取られ、下からは、
子どもたちに、金を取られる。

私たちの前の世代の人たちは、息子や娘から、お金を取りながら、生計を立てていた。一方、
私たちのつぎの世代の人たちは、20歳になっても、30歳になっても、親のスネをかじって、生
計を立てている。

 だから、両取られ!

 で、そういう私の個人的な人生を振りかえりながら、私は、ふと、こう思う。「損をすることは悪
いことばかりではない。その『損』が、その人の心を広くする」と。

 話は少しそれるが、たとえば何かのことで、人にだまされたとき、だまされたほうの人間は、
おおまかに言えば、つぎの2つのうちの、1つの道を選ぶ。

(1)だまされたことを、受け入れる。
(2)だまされた分だけ、復讐する。

 「受け入れる」というのは、「自分はバカだった」とあきらめることをいう。「復讐する」というの
は、今度は、自分がだます側に立ち、だれかをだますことを考えることをいう。

 この2つは、いわば極端なケースで、もちろんその間のケースもある。また同じ人でも、ケー
ス・バイ・ケースということも、ある。

そのだまされるということには、いつも、「損」がともなう。その損については、金銭的な損のほ
か、時間的な損、精神的な損、知的、能力的な損などがある。

 私も、過去、多くの人にだまされた。(だましたことはないと思うが、それはわからない。)で、
私のばあいは、だました相手には、声をあげて、抗議し、そのあと、その人と絶縁するという形
で、それを乗り越えてきた。「自分がバカだった」と自覚することは、その分だけ、自分が賢くな
ったことを意味する。

 ところで、その「損」についてだが、最初から損を覚悟で行動する人たちもいる。ボランティア
活動をする人たちである。心理学の世界では、こうした行為を総称して、「援助行動」と呼んで
いる。

 この援助行動は、高度に知的な動物だけがなしうる、特別な行動だという。人間のほか、サ
ル、ゾウなども、援助行動的な行動を見せることがあるという。言いかえると、援助行動の有無
が、その人の、人間的完成度の程度を示すと言っても過言ではない。

 反対に、援助行動は何もせず、自分だけの世界に閉じこもり、小さく生きている人は、それだ
け、人間的完成度の低い人とみてよい。

 そこで最初の話にもどるが、私はいつしか、損をすることが、その人の人間的完成度を高め
るひとつの方法だと考えるようになった。損を恐れてはいけない。損をしたからといって、他人
を責めたり、自分を責めてはいけない。大切なことは、損をしたあと、自分の心の中に充満す
るモヤモヤを、どう処理していくか、だ。

 そこで考えてみれば、子育てというのは、それ自体が、その「損」のかたまりのようなもの。も
ちろん(だまされた)という意識はない。(損をした)という意識もない。つまり最初から、無私。
最初から、損得を考えて子育てをする人は、いない。(損得を考えてする人もいるが、それは邪
道!)

 こうした子育てでの意識を、何かのことで損をしたとき、応用することはできないものだろう
か。あるいは、何かのボランティア活動をするときのように、あらかじめ、損をすることに対し
て、ある程度の心の準備をしておくことはできないものだろうか。そうすれば人は、損をしなが
らも、その損を、そのつど、自分の血や肉としていくことができる。

 その援助行動だが、一度、どこかで援助行動を経験した子どもは、そのつぎには、より自然
な形で、援助行動ができるようになるという。また援助行動の多い人ほど、他人との共感性が
強くなり、責任感も強くなることがわかっている。さらに男性より、女性のほうが、援助行動が多
いということもわかっている。これは多分に、女性が、妊娠、出産、育児という苦しみを経験して
いるためではないか。

 まあ、むずかしい話はさておき、人生には、損はつきもの。得をすることもあれば、損をする
こともある。大きく生きようと思えば思うほど、その損も大きくなるということ。そして損を重ね、
その損をじょうずに乗り切った人ほど、より人間的な完成度の高い人になれるということにな
る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 援助
行動 ボランティア ボランティア活動 損)





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●イドの世界

+++++++++++++++++

楽天BLOGに、私は毎日、日記を
書いている。そのBLOGに、毎日、
5〜10件の書きこみ(トラックバック)
が、ある。

今のところ、100%、スケベ・サイト
からのものである。

++++++++++++++++++

 楽天BLOGに、私は毎日、日記を書いている。日記といっても、エッセーのようなものだが、
そのBLOGに、毎日、5〜10件もの、書きこみがある。「書きこみ」というよりは、リンク先が張
りつけられる。すべて、スケベ・サイトへのリンクである。

 本来、トラックバックというのは、だれかが書いた記事に対して、「こういう関連サイトがありま
すよ」「こちらのサイトも参考にしてくださいよ」と、そのリンク先を、張りつけることをいう。

 たとえば私が自閉症について、何かのエッセーを書いたとする。するとそれを読んだ人の中
で、同じように自閉症について考えている人が、リンク先を張りつけてくる。こうして日記と日記
がリンクされ、それぞれの日記が、全体として、ちょうどネックレスのようにつながり、人の輪が
できる。

 が、ここにも書いたように、トラックバックといっても、私のエッセーとは、まったく関係のないも
のばかり。こうなると、いったい、トラックバックとは何かということになってしまう。新手のスパ
ム・メール、そのもの(?)。

 あのフロイトは、人間の心は、(イド)(自我)(超自我)の3つの相互作用によって機能すると
説いた。

 イドというのは、無意識かつ衝動的な世界のことをいう。いわば心のエネルギーの倉庫のよう
なもの。そこには人間の欲望が、ドロドロと渦を巻いている。

 自我というのは、そうしたイドをコントロールし、より現実に即した思考や行動をするための意
識をいう。イドのなせるままにしておいたら、人間社会はメチャメチャになってしまう。

 超自我というのは、その自我のさらに上部に君臨し、高い道徳観や倫理観で、自我をコントト
ロールする意識をいう。私たちが「良心」とか「良識」、「知性」とか「理性」とか呼んでいるのは、
この超自我のことをいう。

 自我は、イドと超自我の間にあって、いわばその両者を調整する機能をもつ。イドが強いとき
には、それを戒(いまし)める。かといって、超自我が強すぎると、円滑な人間関係が結べなくな
ってしまう。ときには、自我は、超自我をコントロールする。

 こうしたフロイトの理論に当てはめて考えてみると、こうしたトラックバックをリンクしてくる連中
というのは、まさに欲望の命ずるまま、衝動的に行動しているのがわかる。インターネットという
文明の利器を利用しながら、脳みそは、昆虫レベル。一片の道徳観もなければ、倫理観もな
い。

 「あなたの童貞を買います」
 「外交官の妻が、さみしがっています」
 「完全無料の、出会い紹介」
「セレブな女性の、性を満足させるのは、あなた」などなど。

 そのつど文面を変えているが、同一人物からのトラックバックと考えて、ほぼまちがいない。
誤字、脱字だらけ。文章は、稚拙(ちせつ)。

 本来ならこうした(イド)を、(自我)がコントロールしなければならない。しかしその自我が軟
弱。自我そのものが、確立していない。わかりやすく言えば、人間性がいいかげん。チャランポ
ラン。あわれな連中である。原因は、乳幼児期から少年期にかけて、不幸にして不幸な育児環
境で育てられたためと考えてよい。

 もちろん超自我であるのがよいというわけでもない。超自我が強すぎると、先にも書いたよう
に、他人と円滑な人間関係が、結べなくなる。ときにはハメをはずし、その範囲で、バカ話もす
るする。そうした行為は、人間には重要なことなのである。

 それにしても、こうしたトラックバックには、うんざり! 毎日、そのトラックバックを削除するの
も、このところ、めんどうになってきた。文句も言いたいが、こういう連中は、相手にしないほう
がよい。(もうすでに、こうして相手にしているが……。)もともとまともな連中ではない。どんな
ワナをその先にしかけて待っているか、わかったものではない。

 まあ、あえて言うなら、フロイトが説いた、「イド」、あるいは「エス」というのが、どういうもので
あるかを知るためには、よいサンプルである。こういうことを平気でできる連中というのは、そ
れをコントロールする自我の発達が、未熟と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
 超自我 イド)

【補記】

 子どもの教育を考えたら、同時に、その子どもの(自我)が、どのように育っているかを判断
するのがよい。

 「私は私」と考えて、自分の欲望をコントロールする力を、自我という。

 自我が強固な子どもは、自分のしたいことがはっきりとしている。善悪の判断が正確で、YE
S、NOを、しっかりと表現できる。

 反対に自我の軟弱な子どもは、優柔不断。何を考えているかわからない。そのときどきの雰
囲気に流され、自分でも何をしたいのか、よくわかっていない。

 こうした方向性は、すでに4、5歳前後には完成している。この時期、自我が強固な子ども
は、そのままの状態で、少年少女期を迎える。そうでない子どもは、そうでない。

 たとえば私は教室で、わざとまちがえてみせたり、ズルイことをしてみせたりする。自我が強
固な子どもは、そうした私のまちがいや、ズルに、強烈に反応する。中には、怒って、顔を真っ
赤にする子どももいる。子どもは、そういう子どもにする。

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を、いくつか、
添付します。

++++++++++++++++++

●子どものバイタリティ

 おかしな時代だと思う。今の世の中、どこかナヨナヨした子どもほど、できのよい子どもという
ことになっている。一方、バイタリティがあり、どこか腕白(わんぱく)な子どもほど、できの悪い
子どもということになっている。

私自身が腕白だったこともある。今の世相を見ていると、どこか自分が否定されてしまうこのよ
うにすら感ずる。反対に、数は少ないが、私の子ども時代を思い起こさせる子どもに出会った
りすると、どこか心がほっとする。心がなごむ。

 子どもが本来的にもつバイタリティは、大切にする。たとえば最近、多動性児(ADHD児)が
あちこちで問題になっている。が、問題になるのは、「教える側の立場」で問題になるだけで、
子ども自身がもつバイタリティということを考えるなら、むしろあとあとその子どもにとっては、よ
い方向に作用することが多い。

(ADHD児のばあい、自意識が芽生える小学三〜四年生を境として、その症状は急速に収ま
ってくる。自意識の中で、自分をコントロールするようになるからである。そしてそれとちょうど
反比例する形で、今度は持ち前のバイタリティが、その子どもを前向きにひっぱっていく。どこ
か周囲に鈍感なところもあるが、現代社会というワクの中では、むしろその鈍感さが、よいほう
に作用するということもある。むしろこうした世の中では、繊細な子どもほど、生きにくいので
は?)

 このバイタリティを悪と決めつけてはいけない。たとえば子どもに作文を書かせたとする。そ
のとき、多少字がめちゃめちゃでも、また乱暴でも、さらに文法や書式がおかしくても、子ども
が自分の気持ちをそのまま表現するようであれば、よしとする。そういうおおらかさが、子ども
の表現力を高める。運動面や生活面については、さらに言うまでもない。

 このバイタリティは、自我の発達と深くからんでいる。教育の世界で自我というときは、「つか
みどころ」のことをいう。自我の発達した子どもは、外から見ても、「この子はこういう子だ」とい
うつかみどころがはっきりしている。わかりやすい。

たとえば「こうすればこの子は怒るだろうな」とか、「こうすればこの子は喜ぶだろうな」というこ
とが、わかりやすく、その分、教える側も教えやすい。反対に自我の発達の遅れている子ども
は、どこかグズグズしていて、どういう子なのか、それがわかりにくい。柔和な表情を浮かべて
従順な様子を見せるから、「いいのかな……?」と思いつつも、少し無理をしたりすると、それ
があとで大問題になったりする。

 その自我は、本来、あらゆる動物も、そし人間も、生まれながらにして平等にもっているもの
と考える。そのため「育てる・育てない」という視点からではなく、「引き出す・つぶす」という視点
で考える。

子どもはあるがままに、あるべき環境で育てれば、その自我の強い子どもになる。そうでなけ
れば、そうでない。が、つぶす方法(?)はいくらでもある。強圧的な過干渉、異常な過関心、溺
愛、過保護など。何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。子どもの側から
みて、つかみどころのない親の心は、子どもをかぎりなく不安にさせる。まさに『親の情緒不
安、百害のもと』ということになる。

 ここにも書いたように、バイタリティの旺盛な子どもは、今の世界では、周囲から白い目で見
られることが多い。しかしそういうときでも、子どものバイタリティを信じ、表面的には、「すみま
せん」と謝りつつも、決してそれを悪いことと決めてかかって、つぶしてはいけない。このタイプ
の子どもは、いつか必ず、何らかの形で、自分の道を極める。それを信じて、前向きに子育て
をしていく。
(02−1−13)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 軟弱
な子ども 子供の意思 子供の自我)
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