倉庫16
目次へ戻る メインHPへ

●Imagine(イマジン)

+++++++++++++++

イタリアのトリノで
冬期オリンピックが始まった。

開会式をテレビで見た。
よかった。感動した。

+++++++++++++++

 イタリアのトリノで、第20回、冬季オリンピック大会が、開かれた。その開会式の模様を、テ
レビで見た。よかった。

 さすがイタリア。ローマ時代からの歴史の重みと、自信を感じた。何といっても、深みがちが
う。スケールがちがう。よかった。感動した。

 聖火が登場する直前、オノ・ヨーコが、詩を読みあげた。つづいて、イタリア人の歌手が、英
語で、「♪IMAGINE」を歌った。よかった、感動した。涙が出た。

 ひとつの国家的行事の中で、国として、「♪IMAGINE」を歌うというのは、それ自体、勇気の
いること。世界中のほとんどの国々が、おかしな民族主義に毒されて、「我が民族は……」と、
自分勝手なことばかり言っている。そういう中での、「♪IMAGINE」である。

 「イタリアって、おとなだなあ」というのが、私の第一印象。「EUという形で、ヨーロッパを1つに
まとめたという自信の表れかなあ」というのが、私の第二印象。「アジアでオリンピックがあった
としても、どこも、こんな歌は、歌わないだろうな」というのが、私の第三印象。「日本なら、どう
か?」……オノ・ヨーコが、日本人だったとは言いたくない。彼女自身も、そう思っていないだろ
う。

 日本とか、日本人とかいう感覚を、彼女に求めるのは、失礼というもの。だいたい、アメリカに
は、アメリカ人というのは、いない。東京に、東京人というのは、いない。それと同じ。みな、移
民。移住者。いるとすれば、アメリカインディアンということになるが、アメリカインディアン、イコ
ール、アメリカ人と思う人は少ない。

 一方、この日本は、どうか。……と考えていくと、少し憂うつになる。日本はともかくも、まわり
の国々は、そのおかしな民族主義に毒された国ばかり。韓国にせよ、K国せよ、中国にせよ、
不幸なことに、極東アジア全体が、そういうおかしな民族主義に侵されている。

 「日本だけはちがう」と思いたいが、それが、どうも自信がもてない。日本の中にも、結構、お
かしな民族主義に毒されている人は、多い。「我が民族は、すぐれている」と思うのは、その人
の勝手だが、「だから他民族は、劣っている」と考えるのが、ここでいう「おかしな民族主義」と
いうことになる。

++++++++++++++++++++

「♪IMGINE」について以前書いた
原稿を、添付します。

++++++++++++++++++++

●プロローグ

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。
それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。
みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。
ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近い
のでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、その
ニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

+++++++++++

●愛国心について考える

……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年八月一五日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新
聞(八月一六日)を見ると、こんな記事があった。「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・田中
英道・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教科書」が、愛媛県で公立中学校でも採
択されることになったという。採択(全会一致)を決めた愛媛県教育委員会の井関和彦委員長
は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦
争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)
と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば
中国やK国などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。日本では、「愛国心」と、そこ
に「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オーストラリア人も、「国」など、考
えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。この単語は、ラテン語の「patri
ota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日
本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という
意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。こ
の戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは
愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。ここに日
本人と欧米人の、大きなズレがある。つまり体制あっての国と考える日本、民あっての体制と
考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを知ってか知らずか、あるい
はそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国心は世界の常識だ」などと
言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定する
のか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くら
い)がいた。このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃
木希典(のぎまれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さ
えも、「国を支えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要
に美化したり、歪曲してはいけない。先の大戦にしても、三〇〇万人もの日本人が死んだが、
日本人は、同じく三〇〇万人もの外国人を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされ
たわけでもない。日本人が日本国内で、ただ一人殺されたわけでもない。しかし日本人は、進
駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき三〇〇万人の外国人を殺した。日本
の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英霊たちによって殺さ
れた外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であ
り、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えること
もなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の
立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分
たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本
人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首
領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりか、数十万人の
日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するものは、容赦なく
投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。し
かしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ
人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と
呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日
本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから五〇年。いまだにK国は日本にわびることもな
く、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。
そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。
そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児
どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなく
なってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を
保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の
経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイ
ツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの
非を謝罪した。(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たち
の非を認め、謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中
でさえ、EU(ヨーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがた
い事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればす
るほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえた
らどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心
といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私た
ちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子ども
に向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょ
う! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16記)





目次へ戻る メインHPへ

●子どもが生まれるともらえる給付金

++++++++++++++++++

児童手当は、いくらか、ご存知ですか?

++++++++++++++++++

【育児給付金】

子どもが生まれると、各種の給付金を受け取ることができる。それらには、(1)出産育児一時
金、(2)出産手当金、(3)育児休業給付金、(4)児童手当がある。

●出産育児一時金

 これは健康保険から支給されるもの。子ども1人あたり、30万円。妊娠4か月を過ぎていれ
ば、流産、死産でも支給される。

●出産手当金

 勤めている女性が、妊娠、出産で仕事を休み、給料がもらえなかったばあいに、支給され
る。退職しても、6か月以内に出産すれば、支給対象になる。支給される金額は、日給の6割。

●育児休業給付金

 男女を問わず、育児休暇をとっている間に、給料がまったく支払われないか、休業前の8割
未満になったばあいは、「育児休業給付金」が、もらえる。支給金額は、休業前の給料の3割。

●児童手当(後述)

 これらの手当金のほか、各地方自治体では、以下のような助成金制度をもうけている。

【子育て支援・助成金】

 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような
子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる
方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。

●私立幼稚園就園奨励費

 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭
 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)
     (国と自治体から)
 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場
       申請書を提出する。
     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)

●児童手当

 資格……小学校3学年修了前
金額……月額5000円
     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)
 届け出先……各市町村村役場

●児童扶養手当

 資格……ひとり親
 金額……第1子……4万1880円
     第2子……プラス5000円
     第3子……プラス3000円
 届け出先……各市町村役場

●児童育成手当

 資格……ひとり親
 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)
 届け出先……各市町村役場

●特別児童扶養手当

 資格……身体障害者1級手帳の子ども
 金額……月額5万1550円
 届け出先……各市町村村役場
 

 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。

 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。

 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。

 方法としては、私のこのページをそのままコピーして、相談窓口で、順に説明を求めるとよ
い。
(はやし浩司 育児給付金 児童手当 扶養手当 休業給付金 児童育成手当 出産手当金)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●教育ローン

島根県にお住まいのHさんから、子どもの教育ローンの相談があった。

「都会へ子どもを送ると、いったい、どれくらいのお金がかかるか。うちは、裕福ではないので、
心配だが、どうしたらいいか。みなさんは、どんな教育ローンを利用しているか」と。

 そこで私なりに調べてみた。

 国の教育ローンには、つぎに3つがある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)
(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)
(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 ほかに、教育ローン(中央労働金庫)や、教育資金融資制度(財形貯蓄)がある。

(1)郵貯貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、現在貯蓄額の範囲内で、最高200万円まで。つまり200万円以上の郵便貯金
がないと、この融資は受けられない。詳細は、簡易郵便局をのぞく、全国の郵便局で。


(2)教育一般貸付(国民生活金融公庫)

 融資額は、生徒(学生)一人当たり、200万円以内。ただし給与所得者については、年収が
990万円以内、事業所得者については、年収が770万円以内の人にかぎる。返済期間は、
原則として、10年以内。詳しくは、全国の国民生活金融公庫へ。


(3)年金教育貸付(年金福祉協会)

 融資額は、生徒(学生)1人あたり、100万円以内。厚生年金保険または国民年金保険の加
入期間が、10年以上の被保険者にかぎる。詳細は、各都道府県の年金福祉協会、または年
金資金運用基金の相談窓口へ。

 そのほか、労金の「教育ローン」は、中央労働金庫に出資している人が融資を受けられるも
のだが、最高額は、500万円。返済期間は、最長で10年。詳しくは、中央労働金庫の窓口
で。

 教育資金融資制度(財形貯蓄)は、財形貯蓄に加入している人が対象。財形貯蓄残高の5
倍以内、10万円から最高450万円まで融資を受けられる。詳しくは、独立行政法人・雇用能
力開発機構まで。
(はやし浩司 教育ローン 教育資金 融資制度 郵貯貸付 教育一般貸付)

++++++++++++++++

 現在、高校入学から、大学卒業まで、1人あたり、約1000万円(970万円)の学費が必要で
ある(「国民生活金融公庫・03年調査」)。が、これですむはずがない。ないことは、親なら、み
な、知っている。

 2人で、2000万円。3人で、3000万円。昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。こういう現状を知れば知るほど、親は子どもをも
うけなくなる。つまり少子化は、ますます進む!

【島根県のHさんへ】

 お子さんが、中二と、小六ということですから、今は、とにかく貯蓄額をふやすしかないと思い
ます。上記(1)(2)(3)を合わせて借りれば、とりあえずは、500万円まで確保できます。

 で、子どもが大学を卒業したら、子ども自身にその返済を負担させます。……といっても、今
の大学生のほとんどは、「子どもを大学まで出すのは、親の義務」と考えていますので、ご注意
ください。

 そこで大切なことは、そういう意識を、子どもにもたせないようにすることです。わかりやすく
言えば、「勉強しなさい!」と、子どもには安易に言わないこと。「勉強しなさい!」と、子どもを
責めるのは親の勝手ですが、いつか、その責任を、親が取らされるということです。

 ほかに、安易に、「宿題はやったの?」「こんな成績で、どうするの!」と、子どもには、言わな
いことです。ある女子高校生は、こう言ったといいます。父親が事業に失敗して、大学への進
学をあきらめてほしいと言ったときのこと。

 「今までさんざん勉強しろ、勉強しろって言ってきたクセに、今になって、もう勉強しなくていい
って、どういうこと。親として、ちゃんと責任を取ってよ!」と。

 今は、そういう時代なのですね。ご注意ください。








目次へ戻る メインHPへ

●親のシャドウ

++++++++++++++++++++

親が感じている不安を、子どもは、敏感に
察知する。そして先手を取る形で、子どもは
親の不安を、そのまま具現化する。

不登校が、そのよい例である。

++++++++++++++++++++

 もう20年になるだろうか。こんなことを相談してきた、母親がいた。何でも6歳になる娘が、そ
の母親が心の奥底で思っていることを、そのまま口にしてしまい、こわいというのだ。

 たとえばその母親が、内心で、「親(義母)のことを、汚い」と思っていると、娘のほうが、先
に、「おばあちゃん、汚いから、あっちへ行っていて!」と言う。あるいは、予定していなときに客
が来たとする。そのときその母親が、同じく内心で、「こんな時間に来て!」と不愉快に思ってい
ると、娘のほうが先に、「こんな時間に、来ないで」と言ってしまう、など。

 その母親は、それを「こわい」と言う。

 こうした例は少なくない。子どもは、親がつくるシャドウ(陰の隠された心)を、敏感に読み取っ
てしまう。そしてそれを口にする。

 最近でも、こんな例があった。

 ある母親の子どもが、神経症による症状をいくつか示していた。最初は、その神経症につい
て、どうしたらよいかという相談だった。しかしその娘(6歳)は、このところ、朝になるとぐずり、
幼稚園へ行くのをいやがるようになったという。

 そこでその母親は、「不登校児になったら、どうしましょう……」と。

 (Nさんへ、あなたのことを書いて、ごめんなさい。決して、あなたを責めているのではありま
せん。一般論として、どうか、お読みください。)

 こういうケースのばあい、娘のほうが親の心を敏感に読み取り、それを先取りする形で、不登
校児になる可能性は、たいへん高い。つまり子どもの不登校児になる状態を、親自身が先に
作っているということになる。わかりやすく言うと、こうなる。

(親が、うちの子は不登校児になるのではないかと心配する)→(それが親の隠された心となっ
て、シャドウをつくる)→(子どもがそのシャドウを読み取る)→(子どもが先に、そのシャドウを
先取りして、具現化する)→(子どもが不登校児になる)。

 またその途中の過程においても、子どもが何か、不登校につながるような兆候を見せたりす
ると、このタイプの母親は、それに対して、過剰反応をしやすくなる。その過剰反応が、子ども
の心理状態を不安定にする。そしてそれが悪循環となって、子どもの不登校へとつながってい
く。

 たとえばある朝、あなたの子どもが、突然、「今日は、学校へ行きたくない」と言ったとする。

 そのとき、「うちの子は、不登校児になるはずはない」と信じている母親、あるいは不登校な
ど考えたこともない母親は、「あら、そう。どこか体のぐあいでも悪いの」と笑ってそれをすます。

 しかし心の奥底で、「うちの子は、不登校児になるかもしれない」と、日ごろから不安に思って
いる母親は、そのとたん、パニック状態になる。「そら、不登校だ!」と。

 そのパニック状態が、子どもの心理状態を、一気に悪化させる。そして本当に、その子どもを
して、不登校児にしてしまう。

 そこで「不登校児になったらどうしましょう……」と相談してきた母親に、私は、こう言った。

 「そんなことは、考えないことです。お子さんを信じて、つまり疑わないで、今は、今で、子ども
の神経症だけを考えていきましょう」と。

 その神経症にしても、「なおそう」と考えないこと。今の状態を、これ以上悪くしないことだけを
考えながら、数か月単位で様子をみる。なおそうと考えて、子どもの心をいじると、症状はさら
に悪化して、二番底、三番底へと落ちていく。

 さて、あなたは今、どんなシャドウをもっているだろうか。そしてそのシャドウは、子どもに、ど
んな影響を与えているだろうか。それをほんの少しだけ、ここで考えてみるとよい。

 ついでながら、4年前に書いた、「不登校児についての相談」についての原稿を、ここに添付
する。

++++++++++++++++++++++++

●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)


【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわったか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(8)攻撃型(他人に乱暴になる)
(9)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(10)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(11)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(12)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(13)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(14)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 なお、前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考にしてくださ
い。
(はやし浩司 不登校 学校恐怖症 不登校児 シャドウ 学校へ行かない子供)

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え
るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささ
いなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を
かかえてしまう。


●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市A幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)





目次へ戻る メインHPへ

●過去と未来

++++++++++++++++

青春時代の私が、
自分の子ども?

……ふと、今、
そんなことを
考えた。

++++++++++++++++

 先日、大学の同窓会があった。そこで1人の男性に出会った。静かな男性だった。学生時代
も、ほとんど、言葉を交わしたことがない。大学を卒業したあとも、そのまま。会ったこともな
い。が、記憶にないわけではない。その男性は、学生時代も、静かな男性だった。

 名前を、NU君としておく。学生時代から、近寄りがたいような気品をただよわせていた。36
年後の今、さらにそれにみがきがかかって、紳士以上の紳士になっていた。そのNU君を、
今、頭の中で思い浮かべてみると、不思議な錯覚にとらわれる。つまり記憶というのは、ずい
ぶんといいかげんなものだ。

 現在のNU君を、「父親」とするなら、学生時代のNU君は、その「息子」といった感じがする。

 ただ現在のNU君は、髪の毛もかなり薄くなり、がっしりと太っている。肌の色も、日焼けして
黒くなっている。もし別の場所で出会ったら、私は、その男性が、大学の同窓生とはわからない
ないだろう。よく見れば……つまりあのNU君だと思ってよく見れば、NU君だとわかる。目の周
辺だけは、だれでもそうかもしれないが、昔のままのNU君である。

 その2人のNU君が、頭の中で、今、混在している。36年前のNU君と、数か月前のNU君
が、である。で、そういう2人のNU君を思い浮かべながら、改めて、親子とは何か、時の流れと
は何かと、考える。

 繰りかえすが、現在のNU君を、「父親」とするなら、学生時代のNU君は、その「息子」といっ
た感じがする。2人のNU君がいて、1人は父親であり、もう1人は、その息子ということになる。

 しかしこの感覚は錯覚というだけでは、片づけられないのではないか。つまり人は、ある年月
の幅を越えると、自分自身が、自分の青春時代の父親になるということ。その年月というの
は、昔から言われているように、30年ということになる。もともと「世」という漢字は、「十」が三
つ集まってできた漢字と言われている。「十十十」で、「世」というわけである。

 「世代」という言葉も、そこから生まれた。人は、30年で、ちょうど1世代、世代が代わる。子
どもは親になり、その親は、ちょうどその子どもと同じ年齢の子どもをもつ。

 で、そのNU君のことを思い浮かべながら、「では、私はどうか?」と考える。今の「私」を「父
親」とするなら、学生時代の「私」は、今の「私」の息子ということになるのか、と。

 ただ私自身のこととなると、そこには連続性がある。だから、どこからどこまでが、父親で、ど
こからどこまでが息子かということは、よくわからない。しかしそういう視点で見ると、学生時代
の私が、今の私の息子に見えなくもない。不完全でだらしなく、いいかげんで、つまらない。そ
んな息子である。

 たいへん飛躍した考え方で、「?」と思う人もいるかもしれないが、そんなわけで、私は「親と
は何か?」「息子(娘)とは何か?」と考えていくと、自分でもわけがわからなくなってしまう。もっ
と言えば、「親」とか、「子」とかいう言葉を使って、時間的な感覚だけをもって、人間関係を区
切るほうがおかしいのではないか、と。

 私たちはものごとを、あまりにも、時間的な、つまりは3次元的な世界で考えすぎるのかもし
れない。よい例が、過去と未来である。過去など、どこにもない。未来も、どこにもない。あるの
は、「今」という現実だけなのに、私たちは、観念の世界だけで、過去や未来を、どんどんとつく
りあげてしまう。そしてそれを、あたかも現実の世界のようにとらえてしまう。

 少し前、「♪明日があるさ」というような歌がはやった。「過去があるから、現在がある」と説く
人も少なくない。

 が、この(時間的な壁)を取り払ってしまうと、今、そこにあるのが、(現実)であり、その(現
実)こそが、(すべて)ということになる。私という人間についていうなら、私は、どこまでいって
も、今の私なのである。

 私の中には、(かつての私)がいるように感ずるかもしれないが、それは脳ミソの中で信号化
された、記憶という作用によるものにすぎない。

 話が混線してきたので、先のNU君の話にもどる。

 一度、脳ミソの中に記憶として、情報が蓄積されると、時間的な判断は、できなくなる。たとえ
ば10年前に見た夢も、昨夜見た夢も、記憶の中では、等距離にある。ときどき、「どちらの夢
が古い夢なのだろう?」と考えることはあるが、そう考えたところで、それはわからない。

 同じように、今、NU君のことを思い浮かべると、たしかに2人のNU君がいるのがわかる。1
人は学生時代のNU君。もう1人は、同窓会で会った、あの紳士のNU君。その2人が、記憶の
中では、別人、つまり、子と親の関係に思えてくる。

 これは不思議な感覚である。今まで、私が感じたことがない感覚である。少しおおげさな言い
方に聞こえるかもしれないが、その(不思議さ)の中に、ひょっとしたら、この時空を越えたとい
うか、(生きる)ことにまつわる謎を解く鍵(かぎ)が隠されているかもしれない。そんな気がす
る。

 ……今、NU君のことを思い浮かべながら、私は、そんなことを考えた。
(06―02−21)

【補記】

 過去から今、そして未来へという、時間的な連続性が、理解できるようになるのは、幼児のば
あい、4〜5歳前後からと考えてよい。それまでは、過去は、すべて「昨日」。未来は、すべて
「明日」である。

 この年齢のころから、「明日」「昨日」が理解できるようになり、それが発展して、「あさって」
「おととい」がわかるようになる。さらに5歳児になると、カレンダーが理解できるようになる。曜
日もわかり、月もわかるようになる。さらに年もわかるようになる。

 では、そうした概念は、自然に発生するものかというと、それはちがう。多分に教育的なもの
と考えてよい。たとえば幼稚園では、年中行事を追いかけることが、保育の柱になっている。つ
まり教育者自らが、無意識のうちに、子どもたちに、「過去」「未来」の概念を、植えつけてい
る。

 その結果が、私たちおとなである。「未来はある」「過去はある」と説きながら、そこに何も疑
問を覚えない。しかし未来にせよ、過去にせよ、それらはどこにもない。「ある」と思いこんでい
るだけである。

 ウソだと思うなら、あなたの目の前の世界を、自分の目で、静かにながめてみることだ。そこ
にあるのは、「現実」という世界だけである。汚れた壁、古びた写真、静かに回りつづける時
計、電気、床の上にころがっている電話機などなど。

 この無数の現実が、「時間」というエネルギーによって、連続性をもって変化しているにすぎな
い。それはたとえて言うなら、動いている車から、外の世界をながめているようなものである。

 車に乗っている人は、あたかも外の世界が動いているように思うかもしれない。しかし実際に
動いているのは、車のほうである。そしてその車を動かしているのが、ガソリンというエネルギ
ーなのである。同じように、この現実を動かしているのは、時間というエネルギーなのである。
決して、荒唐無稽(こうとうむけい)なことを言っているのではない。「時間はエネルギーである」
というのは、宇宙物理学の世界では、常識である。

 が、その感覚を理解するのは、むずかしい。江戸時代の日本人に、「地球は丸い」「ここか
ら、東へ東へと、どんどんと先へ進んでいくと、またここに戻ってくる」と話したところで、当時の
人たちには、理解できなかったであろう。

 私たちは、あまりにも常識的な常識に、とらわれてしまっている。

 で、私はときどき、幼児たちを教えながら、こう考える。カレンダーを使って、曜日を教えたり、
時計を使って、時刻を教えたりすることが、本当に正しいことなのか、と。こうした知識は、現代
社会を生きていくには、不可欠なものかもしれないが、同時に、脳の中に、別の概念をつくりあ
げてしまう。

 過去、未来という概念である。

 その結果、親はもちろんのこと、子どもまでもが、「未来のために、今を犠牲にする」というこ
とに、あまりにも無頓着になってしまう。その一例が、受験勉強である。「幼稚園教育は、小学
入試のため。小学校教育は、中学入試のため。中学校教育は、高校入試のため……」と。

 この感覚は、子どもが社会へ入ってからもつづく。そしていつか、気がついたときには、もう先
は、ない。そのとき、その人は、こう考える。「何のための人生だったのか」と。

 そして「過去」という概念は、その反射的効果として生まれる。未来のために、今を犠牲にし
て生きてきた人は、その副産物として、自分の中に、過去をつくりあげていく。以前、こんなこと
を言った母親がいた。

 自分の息子が、高校入試に失敗したときのことだ。

 「先生、みんな、ムダでした。小さいときから、体操教室や算数教室、それに音楽教室にも通
わせましたが、みんなムダでした」と。

 その子どもが、今、そのとき、健康であり、数学が得意であり、ピアノを楽譜を見ただけでひ
けるようになっていたにも、かかわらず、だ。

 さらにこのことは、50代、60代になると、よくわかる。端的に言えば、未来のためにいつも、
今を犠牲にして生きてきた人ほど、過去にこだわりやすい。過去の栄華や、業績にこだわりや
すい。肩書きや身分や地位にこだわりやすい。

 そういう意味では、未来に対する概念と、過去に対する概念は、紙の表と裏のようにつながっ
ている。

 しかし、未来など、どこにもない。過去など、どこにもない。そう考えると、(それが理解できる
ようになると)、ものの考え方が一変する。ついでに人生観も一変する。

 重要なことは、「今」というこの「時」を、懸命に生きることである。その結果として、つぎの「今」
は必ずやってくる。そして振りかえったとき、そこに記憶として、すばらしい思い出が残る。

++++++++++++++++

6年前に書いた原稿(中日新聞
掲載済み)を、ここに掲載して
おきます。

++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。

これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの
周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来な
どというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中
で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。

++++++++++++++++

ほかにもいくつか、原稿を書きました。
内容がダブりますが、どうかお許しく
ださい。

++++++++++++++++

●休息を求めて疲れる

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言
でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八十八か
所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないの
か?」と。

 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。名誉
や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというの
か。私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。だから○○部長の名前で稼
いだ一〇〇万円も、幼稚園の講師で稼いだ一〇〇万円も、一〇〇万円は一〇〇万円。問題
は、そのお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組
織に、義理立てをしなければならないのか。

 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分
の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。幼稚園は小学校の入学
のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。
社会へ出てからも、そうだ。子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを
途中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終
わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試
験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しかし実際そのテストが終わると、その気力も
消えてしまった。どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望
が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八十八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人は四国八十八か
所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日とい
う結果は明日になればやってくる。そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけは
してはいけない。

++++++++++++++++++++++++

●「今」を知らない子どもたち

 私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと二人で、車で日本一周をするつもりです」と。し
かし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。

 日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視する。
「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。

しかし大切なのは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。こうした結果を大切にする
考え方は、日本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。その一つが、「未来」のた
めにいつも「今」を犠牲にするという生き方。たとえば幼稚園は小学校入学のため、小学校は
中学校や高校の入学のため、さらに高校は大学入試のため、大学は就職するためと考える親
は多い。そう考えるのは親の勝手だとしても、子どももまた、そういう生き方を身につけてしま
う。そしていつまでたっても「今」がつかめなくなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリ
スには、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「いつか楽になろうなろうと思ってがんばっ
ているうちに、疲れてしまい何もできなくなる」という意味である。

 一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そのまま
一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。

たとえば今、一〇日間の休暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」をそ
のまま楽しむ。……楽しむことができる。しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇が終わって
からの仕事を考える。子どももそうだ。子どもが学校から三日間の休日を与えられたとする。
そして子どもが家でブラブラしていたとする。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こん
なことでいいの!」と。つまり日本人は休みを休みとして楽しむことすらできない。別の友人は
こう言った。「一〇日も休みをもらっても、過ごし方がわらない」と。こうした生き方は、よく「仕事
中毒」という言葉で説明されるが、そんな簡単なことではない。根は深い。

 さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても旅か
ら帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のようなものだ。試
験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」とか、「旅行しよう」と
か考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。

あなたにもそういう経験があると思うが、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩きする。し
かしその抑圧から解放されると、同時に夢も消える。いや、その前に健康がそれまで続くかど
うかさえわからない。命だってあぶない。そんなあやふやな「未来」に夢を託してはいけない。
夢があるなら、条件をつけないで、「今」始めることだ。繰り返すが、結果は必ずあとからついて
くる。

+++++++++++++++++++

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くの
に、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行っ
たこともある。一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方
を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。その
ときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、た
いていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころは
みなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。しかしある夜のこと、ふと
「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだ
れもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、
横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。それはおもしろい
実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失
礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、一三〇〜一五〇%くら
いになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなと
きには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなってい
る格言である。その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に
飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから三〇年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度
成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような
人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。しかし今、多くの仲間や知
人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人
生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなこと
は、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔して
いるかもしれない。そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験
が、商社をやめるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。





目次へ戻る メインHPへ

●遊離

++++++++++++++++++

心(情意)と、表情が、遊離する。
教える側から見ると、何を考えて
いるかわからない。

そういう子どもは、要注意。一見、
「いい子」に見えるが、いろいろな
問題を引き起こす……・

++++++++++++++++++

 昨日、Nさん(母親)としばらく話しあう。Nさんは、このところ、自分の子どもが不登校児にな
るのではないかと悩んでいる。もうすぐ、小学校に、入学して、1年生になる。

私「その心配は、ないですよ」
N「どうしてですか?」
私「私の長年の経験から、それがわかります」
N「でも、今でも、幼稚園へ行きたがらなくて、困っています。朝になると、グズって、たいへんで
す」
私「それには、もうひとつ、別の要因が働いているからです」と。

 学校恐怖症になって、不登校児になっていく子どもには、大きな特徴が、ひとつある。それ
が、(心と表情の遊離)である。つまり心(情意)と表情が、不一致を起こす。教える側からする
と、何を考えているかわからない子どもといった状態になる。

 いやがっているはずなのに、ニタニタと笑っている。ニンマリとした笑みを浮かべている。全
体に、静かで、おとなしい。一見、できがよい子に見える。先生の指示にも、従順で、問題を起
こすこともない。

 が、基本的には、人間関係を、うまく結ぶことが苦手。苦手だから、一歩、退いたところで、自
分の世界を守ろうとする。心理学でいうところの防衛機制のひとつと考えてよい。

 それに対して、心(情意)と表情の一致している子どもは、外から見ても、わかりやすい。いや
だったら、「イヤ!」と、はっきりと言う。したいことがあれば、「シタイ!」と、はっきりと言う。自
分の意思を明確に表現するから、何を考えているか、それがよくわかる。

 Nさんの子どもは、そういうタイプの子どもだった。「だから、不登校児にはなりません」と。

 が、Nさんは、心配そうだった。

私「グズるのは、ストレス発散のひとつの方法と考えてあげてください」
N「では、どうすればいいのですか?」
私「グズるだけ、グズらせながら、暖かく、無視します。ほどよくグズらせれば、そのあとは、静
かになります」
N「でも、心配です」
私「Nさんの子どものケースは、あくまでも、赤ちゃん返りのこじれたケースと考えてください。赤
ちゃん返りが、そのまま不登校につながるということはありません。赤ちゃん返りは、時期がく
れば、症状的には、外からはわからなくなります」と。

 親子の間に、確固たる信頼関係、これを「基本的信頼関係」と言うが、その信頼関係があれ
ば、子どもは、本来、赤ちゃん返りも起こさないし、ここでいう「遊離」も起こさない。その信頼関
係は、子どもが生後直後の0歳から1、2歳児前後までの間に確立される。

 何をしても許されるという絶対的な安心感。何をしても許すという絶対的な愛情。これが基盤
となって、その上に、「基本的信頼関係」が築かれる。「絶対的」というのは、「疑いすらもたな
い」という意味である。

 が、その信頼関係がゆらぐことがある。たとえば母親が、病気で入院したとか、何らかの事
情で、母親から、強制的に離されたとかなど。もちろん虐待や暴力、育児拒否や冷淡、無視な
どがあれば、信頼関係そのものが、築かれなくなる。

 このタイプの子どもは、他人とのかかわりが、たいへん苦手。集団の中に入っただけで、気
疲れを起こしてしまう。神経症による症状、たとえば自家中毒(嘔吐)や、爪かみ、夜尿、潔癖
症(手洗い)などの症状を示すことも多い。そこでこのタイプの子どもは、他人に対して、(1)攻
撃型になったり、(2)同情型になったり、(3)依存型になったり、(4)服従型になったりする。つ
まりそういう形で、自分の心を守ろうとする。

 先に書いた「いい子」というのは、いい子ぶることで、外の世界との摩擦や衝突を避けようと
する。だから、疲れる。本来の自分を、さらけ出して生きることができないからである。

 が、Nさんの子どもは、そうではない。ふだんは、明るく、伸びやかである。言いたい放題のこ
とを言い、したい放題のことをしている。一時的に、情緒が不安定になるが、その原因となる緊
張感は、愛情飢餓、もしくは弟への嫉妬が原因とみてよい。

私「幼児の指導を36年もしてくると、瞬間、幼児を見ただけで、その幼児には、どんな問題が
あり、これから先、どんな問題を引き起こすか、手に取るようにわかるものです。よくものに書く
ときは、『1時間も教えればわかる』と書きますが、本当は、瞬間です。それでわかります」
N「心配ないでしょうか……?」
私「心配ありません。が、むしろ心配なのは、お母さん自身が、今、そのように心配していること
です。子どもは、その心配ごとを、そのまま、受け継いでしまいます。つまりですね、『うちの子
は、不登校児になるのではないかしら?』と心配しているとですね、その心配を先取りする形
で、本当に不登校児になってしまいます。だから、そんなことは考えないこと。『うちの子は、だ
いじょうぶ』という安心感が、子どもの心を安定させます」と。

 こうした現象は、ユングが説いた、「シャドウ論」によっても、説明される。つまり親の心の陰に
できたシャドウは、ときとして、そのまま子どもの心になってしまうことがある。

 だから親は、まず、自分の子どもを信ずること。中には、「信じられない」とこぼす親もいるか
もしれないが、信ずること。「うちの子は、いい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。子どもの
表情を明るくする。

私「ですから不登校のことは、もう考えないこと。私がだいじょうぶと言えば、だいじょうぶ。お子
さんが信じられなければ、私を信じなさい。それならできますね」
N「できます」
私「じゃあ、この問題は、もう解決したのも同然。あとは、私に任せなさい」と。

 Nさんは、そのまま帰っていった。しかしあえて一言。Nさんが、そこまで不安になるのは、Nさ
ん自身が、実は、Nさんの両親と、ここに書いた、「基本的信頼関係」と築いていないからとみ
てよい。理由はわからない。しかしNさん自身が、ひょっとしたら、不幸にして、不幸な乳幼児期
を経験している。そういうことはじゅうぶん、考えられる。

 この基本的信頼関係がなぜ重要かといえば、乳幼児期にできた親子の信頼関係が基本とな
って、つまりそれを応用する形で、その子どもは、幼稚園や保育園の先生との間に信頼関係を
築くことができる。さらに応用して、今度は、友人との間に、信頼関係を築くことができる。

 さらに夫や妻との間に、信頼関係を築くことができる。もちろん、今度は、生まれてきた子ども
との間に、信頼関係を築くことができる。だから「基本的」信頼関係という。

 言いかえると、Nさんがもちこんできた悩みというのは、実は、Nさんという母親自身にあると
いうことになる。その可能性は、きわめて高い。

 Nさんへ、またいつでも相談においでください。お待ちしています。







目次へ戻る メインHPへ

●親子の断絶


++++++++++++++++++++

高校2年生に娘との会話が、途切れて
2年になる。どうしたらいいかという
相談をもらった。

++++++++++++++++++++

 高校2年生になる娘との会話が途切れて、2年になる。どうしたらいいかという相談をもらっ
た。I県に住む、父親からのものだった。

 「今が、大切な時期で、もっと会話をふやさねばならないというあせりばかりを感ずる」「しかし
何を言っても、話を聞いてくれないばかりか、いつも一触即発の状態。娘はカッとなって、とき
に手当たり次第、そこらにあるものを、私に投げつける」「どうしたらいいか」と。

 断絶状態になると、ほとんどの親は、こう言う。「幼児のころは、いい子でした」「あのころの子
どもは、どこへ行ってしまったのでしょうか」と。

 しかし子どもは、どこへも行ってはいない。あなたのそばにいる。あなたのそばにいて、あな
たの助けを待っている。

 こう書くと、「エッ!」と思われる人も多いかもしれない。しかしあなたの子どもは、あなたのそ
ばにいる。子ども自身、自分でも、どうしたらよいかわからないでいる。が、もうひとりの(自分)
が、そのつど顔を出して、あなたに抵抗する。

 ここで誤解してはいけないことは、ほとんどの親は、「子どもが変わった」と言う。しかし子ども
は変わっていない。何も変わっていない。変わったのではなく、別の子どもが、ちょうど本当の
子どもをさえぎる形で、本来の子どもを、抑え込んでしまっていると考える。このことは、いわゆ
る(心のゆがんだ子ども)を観察していると、よくわかる。

 たとえば、ひがみやすい子ども、いじけやすい子ども、ねたみやすい子ども、つっぱりやすい
子どもなど。このタイプの子どもと話していると、もとの子どもの上に、もうひとり、別の子ども
が、のかかっているように感ずることがある。本来の子どもが、すなおに自分自身を出せなく
て、もがき苦しんでいるのを感ずることがある。

 「本当の私は、こうではない」「本当の私を、認めてほしい」と。

 人間の心は、そうは簡単に変わらない。変えようとして、変わるものでもない。変わったように
見えるのは、別の心が生まれ、本来の心を抑え込んだり、じゃましたりするからである。

 反対のこともよくある。たとえばもともと邪悪な心をもっていた人がいたとする。平気でウソを
つく。小ズルイことをする。そういう人が、あるときから、何かのきっかけで、善人ぽくなること
は、よくある。しかしそれで邪悪な心が消えるわけではない。邪悪な心は、そのまま残る。その
人が、一見、善人ぽく見えるようになるのは、その人自身が、もうひとつ別の心で、自分をコン
トロールするようになるからにほかならない。

 だからあなたの子どもは、そこにいる。そこにいて、あなたの助けを待っている。

 この相談をしてきた人のケースでも、(転載の許可がもらえなかったので、詳しくは書けない
が……)、父親としてすべきことがあるとするなら、一に忍耐、二に忍耐、三、四も忍耐というこ
とになる。

 相手は、あなたの子どもである。あなたがすべきことは、子どもが、幼いこどもだったころの
本来の子どもを信じ、静かに時の流れに身を任すことである。あせって、何かをすればするほ
ど、こういうケースでは逆効果。子どもは、ますますあなたから遠ざかっていく。静かに、時を待
つ。

 この年齢の子どもは、外からは計り知れないほど、複雑な心の葛藤(かっとう)を繰り返す。
将来への不安、心配、恐怖などなど。人間関係も複雑になる。そうした混乱を、ときには、すべ
て親にぶつけてくる。中には、「どうして私なんか、産んだのよ」と叫ぶ子どもさえいる。

 が、けっして、あせってはいけない。そっと見守る。暖かく見守る。この世界には、『暖かい無
視』という言葉がある。暖かく無視する。

 が、それでも何かを伝えなければならないことがあるとするなら、私は「トイレ通信」を勧め
る。

 これはトイレの中に、メモ用紙のようなものを置いて、たがいに連絡を取りあうという方法であ
る。「元気か? 快便か?」というメモでもよい。

 フロイトの肛門期説を応用した、通信方法である。人には、ちょうど便を外に排出したいとい
う本来的な願望があるように、心にたまったゴミを、外に吐き出したいという、本来的な願望が
ある。それをうまく利用する。わかりやすく言えば、ウンチをしたあとというのは、人は、すなお
に自分の心を表現できる。スッキリしたという快感が、そのまま、心をすなおにする。

 返事があってもなくても、かまわない。そのメモに、あなたは、あなたの「愛」を書きつづる。
「元気か」「無理するな」「困ったことはないか」など。

 効果がなくて、ダメもと。しかしこれをつづけていると、かたまった心も、やがてゆるんでくる。
そして子どものほうから、何かを書いてくるようになる。時期には個人差もあるだろうが、数か
月単位でつづけてみる。ぜひ、一度は、ためしてみてほしい。

 また親子の断絶が始まったら、『アルバムを部屋の中央に置く』(中日新聞掲載済み)という
方法もある。それについては、前にも書いたので、その原稿をこのあとに添付しておく。参考に
してほしい。

 要するに、乳幼児期の、あなたの子どもを信ずること。繰り返すが、あなたの子どもは、そこ
にいて、あなたの助けを待っている。

++++++++++++++++++++++

●アルバムをそばに置く

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子
ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみ
れば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真
を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。

ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺
乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らな
い」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後
からとみてよい(※)。

このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、す
べて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」
という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛
躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということに
なる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小5男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真
にとって残す人は、まずいない。

アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書いた
ように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども
時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐
ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、
いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母
ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ
た。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を
しているのに、私は気がついた。

そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもア
ルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。
(はやし浩司 アルバムの効用 トイレ通信 親子の断絶 会話のない親子 親子断絶)





目次へ戻る メインHPへ

●老人論

●老人はどうあるべきか

++++++++++++++++

義理のいとこ(従兄弟)が、隣に住む
老人とのトラブルに、悩んでいる。

その話を、ワイフが、朝食のあと、私
にした。

++++++++++++++++

 老人の世界には、(まだらボケ)と言われる、ボケ方がある。ほどほどに正常なときと、そうで
ないときが、交互に、しかしランダムに、現れるという。そういうボケ方である。

 義理のいとこの名前を、N氏としておく。今年、42歳になる。そのN氏の隣に、今年80歳くら
いになる老夫婦が住んでいる。夫のほうは、定年で退職するまで、県の出先機関に勤めてい
たという。妻のほうは、ごく最近まで、市内で、ブテイックの店を経営していたという。隣に住む
老夫婦の夫を、X氏としておく。

 X氏には、娘が1人いたが、今は、兵庫県に住んでいる。結婚して以来、この浜松(静岡県)
へは、ほとんど戻ってこないという。

 そのX氏が、ことあるごとに、N氏に、苦情を訴えてくるという。「お前が、うちの植木鉢を倒し
た」「お前が、うちの塀を壊した」と。最近では、「お前が、除草剤をまいたから、うちの野菜が大
きく育たない」「お前の息子が石を投げたから、ガラスが割れた」と。さらに「うちの玄関に置い
ておいたサイフがなくなった。お前が持っていったのだろう」とも。

 もちろんN氏には、まったく身に覚えがない。そこであれこれと反論をすると、そのときは、結
構、まともなことを言うという。会って話している感じでは、ふつうの人に見えるという。しかしお
かしな点がないわけではない。

 たとえばN氏が、そうした苦情に立腹し、X氏の家に行くと、いつもX氏は、ニコニコと笑いなが
ら、まるで客でも来たかのように、N氏に応対するという。「こちらが怒っているということが、理
解できないようだ」と、N氏は言う。「自分がどういう状況に置かれているか、まるでわかってい
ないようだ」とも。

 まだらボケの老人が、近所の人に、「うちの息子が、私の金を盗んだ」「うちの嫁は、食事を
食べさせてくれない」などと言うという話は、よく耳にする。しかしその矛先(ほこさき)が、つまり
被害妄想の矛先が、他人に向くこともあるらしい。が、その矛先を向けられた他人こそ、えら
い、迷惑!

 相手がボケ老人とわかっていれば、それなりに対処もできる。が、このまだらボケという症状
は、ときにボケるというだけで、それがわからない。一応、ひとりで生活はできるし、言うことも、
まとも。理屈もしっかりと通っている。

 が、そのN氏にも、がまんできない事件が起きた。

 ある日、自宅の横の草を刈っていると、一か所、黒く燃えた部分があることに気づいた。50
センチ四方の大きさだったという。「まさか?」と思って見ると、明らかに放火したあとだった。1
メートル先には、N氏の自宅の物置小屋がある。そこへ火がつけば、そのまま家全体に、火が
燃え移っていたかもしれない。

 N氏は、放火だと思った、その直後に、「あのX氏のしわざ」と確信したという。それ以前にも、
こうした事件が、たてつづけに起きていたからである。

 夜中に牛乳ビンが投げつけられ、屋根瓦が割れた。
 小石が投げつけられ、駐車場のガラスが割られた。
 N氏の息子の自転車のタイヤに、前後、同時に穴をあけられた、などなど。

 が、しかしそのときは、放火だった。いたずらでは、すまされない。そこでN氏は、警察に電話
をした。N氏は、ワイフにこう話したという。

 「放火したというよりは、警察に調べてもらったら、どこかで焚き火をした燃えカスを、箱か何
かに入れてもってきたようですね。黒く炭になった木片の下をほじってみたら、枯れた草が出て
きました。

 が、ここが、老人の浅知恵というか、理由がよくわからないのですが、わざわざ、反対側に住
んでいる隣人の住所と名前の書いた、ハガキが横に並べてあるのです。つまり、放火を、反対
側に住んでいる隣人のしわざに見せかけようとしたのですね。

 ふつうなら、そんなこと、しないでしょう。そこでそのハガキを、その反対側に住む隣人に見せ
ましたら、そのハガキというのは、ゴミとして、捨てたものだということがわかりました。

 X氏は、そのゴミとなったハガキを拾ってきて、反対側に住む隣人のせいにしようとしたので
すね」と。

 が、この話には、つづきがある。

 X氏の妻は、ここにも書いたように、ごく最近まで、市内でブテイックの店を経営していた。そ
のせいか、体のほうは弱くなったが、頭のほうは、しっかりとしている。

 で、別の日、たまたまN氏が、そのX氏の妻に道で出会ったとき、X氏の妻を呼びとめ、こう話
したという。

 「このあたりに放火魔がいるという、うわさです。うちもやられました。どうか、お宅も気をつけ
てください」と。そして黒く燃えた部分を、その妻に見せた。しかし妻は、まさか自分の夫が、そ
んなことをしたとは思っていない。「こわいことですねえ」「うちも気をつけます」と言っていたとい
う。

 で、N氏は、こう話をつなげた。「実は警察にも来てもらい、現場を検証してもらいました。で
ね、燃えカスの中に、竹を燃やしたカスがあったというのですね。細い、笹竹という竹です。きっ
と犯人は、枯れた笹竹をもってきて、それを燃やしたのでしょうね」と。

 N氏は、X氏の裏庭に、その笹竹が生えていることを知っていた。X氏の妻もそれを知ってい
た。しかしX氏の妻は、何も反応を示さなかったという。

 が、ここからが、老人の浅知恵。

 それから数日後のこと。先の燃えカスのあった場所にN氏が行ってみると、あたり一面に、笹
竹をこまかく切った断片が、まいてあったという。だれが何のためにまいたかは、一目瞭然。X
氏は、自分の犯行であることを、ごまかすために、そのあたりに笹竹の断片をまいた。N氏は、
その放火が、X氏によるものだと、さらに確信した。

 しかし証拠がない。あれば、放火未遂で、X氏を訴追できる。……ということだが、相手は、老
人。頭のボケた老人。そんな老人を相手にしても、しかたない。

N氏は、ワイフにこう言ったという。「80歳もすぎて、そういうことをする老人がいるということ自
体、信じられません。老人といえば、人生の大先輩。大経験者。しかも老い先は、長くない。老
人には、老人らしい、もっと別の生き方があるはず」と。

有吉佐和子は、「恍惚の人」という本の中で、こう書いている。「長い人生を営々と歩んで来て、
その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」
と。

 X氏の話は、まさにそれを改めて思い起こさせた。「人間は、何のために生きたことになるの
か」と。

 そこで重要なことは、ボケないように努力することも重要だが、人は、死ぬまで、日々、未来
に向かって、邁進(まいしん)していかねばならないということ。一日とて、怠ってはいけない。怠
ったとたん、その日を境に、その人の人格は、後退し始める。何度も書くが、それは健康論に
似ている。

 究極の健康法というものがないのと同じように、「悟りの境地」などというものは、ない。「悟っ
た」と、うぬぼれたとたん、その日を境に、その人の人格は、後退し始める。あの釈迦が、そう
言っている。「精進(しょうじん)」という言葉も、そこから生まれた。

 ワイフは、こう言った。「でも、そんなX氏のような人でも、死ねば、仏様ということになるのでし
ょう。おかしいわね」と。

 そう、大乗仏教では、そう教える。「死んだ人は、みな、仏」と。しかし本当に、そう考えてよい
のか。あるいはそういう考え方に甘えて、精進することを忘れてしまってよいのか。たとえばあ
なたの周囲にいる老人を、見回してみてほしい。

 中には、すばらしい老人もいる。人生の手本としたいような老人もいる。しかし残念なことに、
大半の老人たちは、そうではない。「年上である」というだけの権威主義にひたって、威張り散
らしている老人さえいる。ひょっとしたら、あなたの親だって、そうかもしれない。年をとれば、そ
れなりに人格の完成者になるというのは、幻想でしかない。むしろ、今の若い人たちより、つま
らない人間になっていく老人だって少なくない。

 大切なことは、そういう老人を見ながら、自分の老後のあり方を、学習していくことではない
か。どうあるべきなのか。また、どうあったらよいのか、と。ただX氏のばあいは、ボケという、本
人自身でも、どうにもならない問題をかかえ、X氏は、今のX氏になった。いくらがんばっても、
脳みそそのものが、うまく機能しなくなったら、おしまい? そういう問題もあるが、しかしそれで
も、前に向かって精進していく。私は、それが生きることではないかと思う。

+++++++++++++++++

ついでながら、ちょうど3年前に
書いた原稿を、ここに添付して
おきます。

+++++++++++++++++

【未来と過去】

●回顧と展望

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、40
歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、
悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が
半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20
年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしか
ない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はした
が、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後四、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた
経典である。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教で
ある。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そう
いう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。わかりやすく言えば、仏の境地な
ど、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私も
そう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去で
はない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だ
った。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほ
ど雇うほどまでになった。が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあっ
て、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父
がなくなってから2年後に他界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば
二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したとい
う。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、2000円とか3000円
とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚
いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。
「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数1
0万年など、マバタキのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビル
が建つ。しかし数10万円では、パソコン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大き
い。モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年
ほど前のこと。たったの6000年である。それ以前の数10万年の間、私たちがいう神はいっ
たい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こす
ようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではな
い。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパ
ダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからな
いが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。同じようなことは
子どもたちの世界でも、よく経験する。たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と
泣きついてくる親や子どもがいる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわ
んや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが…
…)、さらに困る。もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。
不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。が、何も私は、そういう女
性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そうい
う生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとして、
尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値
もそこから生まれる。もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそ
こから生まれる。……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる
目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考
えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまで
わかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに
なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、よ
り賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古
い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)





目次へ戻る メインHPへ

●離婚問題

+++++++++++++++++

離婚の最大原因といえば、
(1)不倫、(2)借金、(3)暴力。
この3つ。

言いかえると、この3つがなければ、
夫婦は夫婦として、まだがんばれる。

+++++++++++++++++

 私たち夫婦も、過去において、何度か離婚の危機に立たされたことがある。しかしそのつど、
結局は、離婚しなかったのは、たがいに離婚をすれば、何も残らないことを知っていたからで
ある。

 名誉も、地位も、それに金もない。わかりやすく言えば、私のような貧乏人が離婚して、どうな
る? 家族しかいない私たち夫婦が、離婚して、どうなる? 何が残る?

 離婚の危機に立たされるたびに、私は、こう考えた。「このままのほうが、まだ、まし」と。離婚
したからといって、それで問題が解決するわけではない。今以上に、状況がよくなるわけでもな
い。むしろ、状況は、かえって複雑になるだけ。悪くなるだけ。「だったら、離婚はしない」と。

 が、そのつど、もし、どちらかに、不倫、借金、暴力があれば、状況は、おのずと変わってい
ただろう。とくに不倫は、たがいの信頼関係を、粉々に破壊する。絶対的な安心感があっては
じめて、夫婦は、夫婦でいられる。家族は、家族でいられる。「絶対的」というのは、「疑いすら
いだかない」という意味である。

 が、一度、どちらかが不倫をすると、そうはいかない。そのときから、たがいに、たがいを疑っ
てみるようになる。こんな事例がある。

 その男性は、最初の妻と、恋愛の末、結婚した。最初の妻を、妻Aとしておく。しかし5年も過
ぎるころから、その男性は、職場の女性と不倫関係になった。そしてしばらくの間、離婚騒動を
繰りかえしのち、最初の妻とは離婚。しばらくして、その職場で知りあった女性と再婚。再婚し
た女性を、妻Bとしておく。

 よくある話である。

 で、その妻Bであるが、それでめでたしめでたしというわけにはいかない。夫は、相変わら
ず、同じ職場で働いている。その職場にいる夫から、たとえば「今夜は、残業で遅くなる」という
電話が、かかってきたとする。それだけで、妻Bは、不安になる。

 それもそのはず。自分たちが不倫関係にあったとき、夫が、妻Aに、そう言って電話をかけて
いたのを、何度も耳にしていたからである。妻Bは、「もしや……?」と思い、不安になる。夫
が、出張ともなれば、なおさらである。不倫関係にあったとき、夫の出張にあわせて、妻Bも、
会社を休み、夫と、よく旅行をした。

 つまり妻Bは、妻Aから「妻の座」を奪ったそのときから、今度は、自分が、妻Aの立場に立た
されることになった。

 ここでいう夫婦の信頼関係というのは、そういうものをいう。妻Bにしてみれば、自分の夫は、
かつては、そういう形で、妻Aをだましていた。だから自分が妻になったからといって、それで安
心はできない。妻Bが、「ひょっとしたら、夫に、また新しい愛人ができたのでは……?」と疑う
ようになったとしても、何も、おかしくはない。

 しかしこの不信感が、実は、シャドウとなって、夫婦の中にキレツを入れるようになる。妻Bの
頭の中に、「離婚」という言葉が横切るようになったら、もうおしまい。あっという間に、離婚は、
現実のものとなる。

 夫の側からそれを考えれば、よくわかる。

 妻Bは、夫を疑っている。夫が、「残業だよ、残業。本当に残業だよ」「浮気じゃないよ」と言っ
たところで、妻Bは、それを信用しない。つまりこの時点で、たがいの心の間に、かたくて厚い
壁ができる。その壁が、夫を遠ざける。

 だから、こういう形で、離婚した夫婦(とくに男性)は、やがて離婚、再婚を繰りかえすようにな
る。私が知っている、ある医師は、この10年の間に、3回も、結婚、離婚を繰りかえしている。
(3回だぞ!)現在の妻は、同じ病院で働いていた元看護婦。4人目の妻である。

 心理学の世界では、マザコンタイプの男性ほど、結婚生活は、長つづきしないと言われてい
る。それはマザコン的であるためというよりは、常に、妻の中に、マドンナ的な理想像を求める
ためと考えられている。

 しかし理想的な女性など、いない。自分の母に代わるような女性など、いない。どんなことをし
ても、許してくれる、そんな女性など、いない。だからこのタイプの男性は、やがて、理想の女性
を求めて、女性から女性へと、渡り歩くようになる。結果的に、浮気しやすくなり、離婚しやすく
なる。

 話がそれたが、夫婦の間の信頼関係などとういうものは、簡単にはできない。「愛している」
「愛しているわよ」と言いあう程度では、できない。それこそ血がにじみ出るような苦労を共にし
て、はじめて、できる。

 こと浮気心について言えば、それはだれにでもある。ない人は、いない。私にだって、ある。
雑誌や映画で見かけた男性や女性、街でかいま見た男性や女性。そういう人たちに浮気心を
いだくことは、よくある。

 しかしある年齢に達すると、そういう女性と、体をこすりあわせてみたいという欲望よりも、そ
の切なさを、楽しむようになる。そう、それは実に切ない。心の中で、「あなたを抱いてみたい」
といくら思っても、それを口にすることはできない。そ知らぬ表情を浮かべながら、そのままだ
まって見送る。その切なさが、また、たまらない。

 では、どうすればよいのか?

 答は簡単。ほどほどのところで、あきらめればよい。「まあ、こんなものだ」と納得すればよ
い。夫や妻に、たいしたものを求めたところで、どうしようもない。割り切るところは割り切る。あ
とは、たがいに好き勝手なことをして生きればよい。

 それが夫婦ではないのか。

 そうそう、私のワイフは、いつもこう言っている。「あなたね、あなたがだれかとの浮気を想像
するのは、あなたの勝手だけど、相手の女性にも、男性を選ぶ権利があるのよ。それがわか
っているの!」と。

 ハイ、まさにそのとおり。

++++++++++++++++++

少し前に書いた、原稿を、ここに
添付しておきます。

マザコンタイプの男性は、浮気しやすい?

そんな視点で、もう一度、あなた自身(夫)を
観察してみては、どうでしょうか?

++++++++++++++++++

●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは
思ってはいけない。一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に
見えることもある。わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(Aさんとしておく)は、聖母に見えた。高校時代、隣のクラスの女の子だっ
た。おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。その上、理知的で、分別もある人に見えた。が、そ
の女性が、別の世界では、まったくの別人? 男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのAさんな、高校生のとき、草むらで、男とセックス
をしていたぞ。自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと
見た」と。

 それでも私は、信じなかった。「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをして
いたのだろう」とか。「Aさんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。別の友人が、こう言った。「ぼくは、あのAさん
と、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、Aさんは、すでに処女ではなかった」と。

 私は「ヘエ〜」としか、言いようがなかった。私がAさんにもっていたイメージとは、あまりにも、
かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、Aさんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってAさんというのは、マドンナだった」
友「あのAさんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、Aさんの、どこを見ていたんだ
い?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。そして好意を寄せる女性
を、マドンナ化する傾向が強い。日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母とい
う。少しニュアンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。とくに夫に
聖母化されると、妻は、困る。これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高い
という。もちろん浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、
1回以上の浮気をしているという。この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。日本には、宗
教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、
女性を渡りあるく傾向が強い。新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女
性は、ぼくの理想の女性ではない」と。だから離婚しやすい。浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。こ
のタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。女性を聖母化する分だ
け、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている
自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。つまり
Aさんは、私の前では、聖母を演じていただけ? しかしそう考えると、すべて、つじつまが合
う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。母親を絶対化する分だ
け、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私
にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。しかし当時の私は、ワ
イフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!

(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺ
きな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な
女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻
であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、
あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。
(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)

 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……
と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、
親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。男も女も、ちがわない
というのも、その一つ。どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。みんな、そ
のフリをしているだけ。そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、
聖母も娼婦もいない。……ということで、この話は、おしまい。

●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 母系社会というより、母子関係の是正
をしないまま、子どもは、おとなになる。つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがあ
る。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめ
かしく踊る。観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージ
する。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよ
い。セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけ
られても、その場で、照れて見せるだけ。どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、
マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。あるいは母親としての理想像
を、相手の女性や妻に求める。そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。このことは、子どもた
ちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。(反対に、ナヨナヨ
した男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)そういう男の子は、女の子に対して、ストレ
ート。こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこ
と。一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手
に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。「おい、セックスをさ
せろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたように思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好
きと言えば、好き。一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。そこで私が「じゃあ、彼女
は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチをしないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、B・シールズ(当時のアメリカの大女優)のウンチなら、みんなの前で食べてみせ
ることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、お
かしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れて
くれる女性を求める。そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめや
すい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。いろいろ問題が起きてくる。離婚率
や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。夫が望むような妻にならなければならないから」
と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばなら
ない。いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、
今、その父親不在の家庭が多い。あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、
少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言っ
た。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が
理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのときは、「だらし
ない男もいるものだ」と思った。
(はやし浩司 マザコン 聖母 マドンナ 離婚率 離婚 不倫 浮気)




目次へ戻る メインHPへ

●アイデンテティ

●顔のない自分

++++++++++++++++

だれしも、自分の顔がほしい。
その顔を求めて、自分を模索する。

地位でも名誉でも財産でもよい。
あるいは、自分の過去でも先祖でもよい。

顔があれば、人から無視されることもない。
それなりの人と、認めてもらうことができる。
しかし、もし、自分から、その顔がなくなったら……。

++++++++++++++++

 非行少年と呼ばれる子どもたちがいる。しかしその非行少年から、「非行」を奪ってしまった
ら、その少年は、(もちろん少女も)、どうやって生きていけばよいのか。勉強もダメ。運動もダ
メ。彼らは、非行を繰りかえすことで、自分の顔、つまり存在感をつくっている。

 だからそういう子どもに向かって、「あなたはそんなことをすれば、みなから嫌われるだけだ」
と、諭(さと)しても、意味はない。彼らは、嫌われたり、恐れられることによって、自分の顔を保
とうとする。

 ……という話は、何度も書いてきた。顔のない子どもは、ここに書いたように、(1)攻撃的に
なるタイプ、(2)同情を求めるタイプ、(3)依存的になるタイプ、(4)服従的になるタイプなどに
分類される。

 実は、おとなもそうで、わかりやすい例で言えば、カルト教団がある。

 ふつうカルト教団の内部では、信者たちは、指導者に対して、徹底した服従を誓う。誓うとい
うより、日ごろの信仰活動を通して、そう教えこまれる。しかしそれは信者にとっては、甘美な
世界でもある。徹底した服従と引きかえに、信者たちは、完全な保護を手に入れる。神でも仏
でもよいが、そうした絶対的なものに包まれる。

 で、ときどき、ふと、こう思う。あのK国だが、あのK国の国民たちは、飢餓状態にありながら
も、結構、心の中は、平安ではないか、と。何でもかんでも、その頂点にいる金xxにすべてを預
けることによって、自分自身は、何も考えなくてすむ。仕事をするときも、何かの勉強をするとき
も、「金xx様のため」と、心に念ずればよい。それで心が、ずっと軽くなる。

 つまり彼らは、「服従という顔」「依存という顔」をもつ。カルト教団の内部の人たちは、本当に
仲がよい。信じられないほど、仲がよい。信者どうしが、ときとして、兄弟以上の兄弟、親子以
上の親子になることがある。この親密感こそが、カルトの魅力でもある。

 同じように、暴走族のグループを見てみよう。外からの様子はともかくも、内部の仲間たち
は、仲がよい。団結力も強い。外の世界以上に、そこには、暖かい温もりもある。彼らは彼らな
りに、たがいを守りあうことで、自分の顔をもとうとする。

 そこで、では、私はどうかと考える。私には、顔があるか。あるとするなら、それはどういう顔
か、と。

 実のところ、最近、その顔が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。こうして文を、毎日、ヒ
マを見つけては書いているが、それは同時に、「こんなことをしていて、何になるのだろう」とい
う迷いとの戦いでもある。少し前のことだが、こうメールで書いてきた人がいる。

 「自己満足のためだけに書いて、何になる。君の書いている文章など、学問的には、一片の
価値もない」と。

 事実そのとおりだから、反論のしようがない。また反対の立場だったら、私も、そう思っただろ
う。そういってきた人は、「林君、君のために、あえて言う」と、冒頭に書いていた。私を非難す
るというよりは、親切心から、そう言った。

 私には、学者としての顔は、ない。まったくない。名誉も地位もない。そればかりか、このとこ
ろ、知力の衰えを、よく感ずる。「今さら……」というあきらめの念も、生まれてきた。

 そういう私だから、もし今、若ければ、私は、攻撃的な方法で、自分の顔をつくろうとしたかも
しれない。はっきり言えば、非行少年たちの心が、手に取るようにわかる。理解できる。

 ここまで書いて、また、あの尾崎豊を思い出した。「♪卒業」という歌を思い出した。つぎの原
稿(中日新聞発表済み)は、その「♪卒業」について、書いたものである。

++++++++++++++++++++

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBS
ソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも
含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、
まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「ど
うせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。
そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と
聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だ
った。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。
このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーに
はメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転して
くれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られな
いから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(二〇〇一年八月静岡県版)。それをまとめると、次
のようであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

九、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
十、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
十一、施設または設備を損壊する行為。
十二、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

++++++++++++++++++

 新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこうを
しなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優等生
のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずかしくあっ
てはいけないのか」と。

 顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、
どうやって生きていけばよいのか。

 あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの人
たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうこともこと
もある。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類
の人間」ということになる。

 しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そういう
ホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あきれ
るのか。私には、よく理解できない。

 そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以
前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか
も、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S
君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

++++++++++++++++++++

 これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になるととも
に、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静かに
観察してみたい。
(はやし浩司 個人化 アイデンティティ コアアイデンティティ コア・アイデンティティ 顔 顔の
ない子供 ペルソナ 仮面 はやし浩司)






目次へ戻る メインHPへ

●人間関係

+++++++++++++++++

1人の人と、1つの人間関係ができあ
がるまでには、いくつかのプロセスが
ある。

出会い→観察→近接→親近感→
時間的熟成→衝突と和解→信頼関係の
熟成→人間関係、と。

一朝一夕にできあがるものではない。

+++++++++++++++++

 1人の人と、1つの人間関係ができあがるまでには、若い男女がよく見せる、電撃的な恋愛
で始まるような関係は別として、いくつかのプロセス(段階)がある。決して一朝一夕に、できあ
がるものではない。

(1)出会い(どこで出会うか)
(2)相互観察(たがいに観察する)
(3)近接(近づく)
(4)親近感の表現(気持ちの表現)
(5)時間的熟成(相互に親近感を表現しあう)
(6)衝突と和解(対立と融和)
(7)信頼関係の熟成(たがいに疑うことのない関係)
(8)人間関係(夫婦関係)

 他人のばあいは、この中でも、(5)の時間的熟成が重要である。1年や2年では、足りない。
私も若いころ、相手を早々と信用しすぎたため、よく失敗した。時間的熟成なくして、人間関係
はできあがらない。

 もちろんその反対の例もある。

 たとえばよく誤解されるが、血のつながりがあるから……というだけでは、こうした人間関係
はできない。むしろ、時間的推移の中で、破壊されていくケースのほうが、多い。同じ兄弟、姉
妹でも、他人以上に他人のようになってしまった例は、いくらでもある。

 また(血のつながり)に甘えて、それだけをもって、相手をしばったり、相手に自分の考えを押
しつけるのも正しくない。押しつけるほうは、その人の勝手かもしれないが、押しつけられるほう
は、たまったものではない。ときに、「もう、いいかげんにしてくれ!」と叫びたくなることもある。

 夫婦の関係も、同じように考えることができる。が、その中でもとくに重要なのが、(7)の信頼
関係の熟成ではないか。「どんなことがあっても、裏切られない」「どんなことがあっても裏切ら
ない」という確固たる基盤があって、信頼関係は、その上にできあがる。

 それは絶対的なものであって、この絶対性が失われた状態では、信頼関係は、成りたたな
い。「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。しかもその信頼関係は、10
年とか20年とかいう年月を経て、はじめてできあがる。1年や2年、あるいはその程度で、でき
ると考えているとしたら、それは(まやかしの信頼関係)と断言してよい。

 よい例が、若い人たちの会話。

女「私を信じて」
男「俺は、お前を信じているからな」と。

 たがいに信じていないから、そういう会話をする。たがいに信じていたら、「信ずる」「信じて」
という言葉すら、出てこない。

 が、その人間関係は、自然にできあがるものではない。そこには苦労と努力がともなう。たと
えて言うなら、人間関係は、芸術作品のようなもの。どんな芸術作品になるかは、その人の苦
労と努力による。毎日たがいに遊びほけながら、楽しい生活をしているからといって、人間関
係ができあがるものではない。いわんや、悪事をいっしょに働いたからといって、できあがるも
のではない。

 よい例が、暴力団の世界である。

 一見、深い信頼関係により、結束力が強い世界に見えるが、その基盤は、弱い。その弱さ
を、「恐怖」で補っているだけ。「指を詰める」という独特の作法に、それが集約されている。つ
まり信頼関係をつくりあげるためには、誠実と誠意、加えて善意が、不可欠と考えてよい。

 言いかえると、たがいに誠実と誠意、それに善意をたがいに貫く。その結果として、ここでいう
人間関係ができあがる。友人関係や夫婦関係にとどまらない。親子関係とて例外ではない。
「親だから……」「子だから……」と、(血のつながり)だけに甘えていては、人間関係はできあ
がらない。反対に、親子でも、他人以上に冷え切ってしまった親子となると、この世界には、ゴ
マンといる。

 ……かく言う私にしても、振りかえってみると、友人という友人が、ほとんどいない。私のワイ
フにしても、信頼関係が本当にできているかといえば、それは疑わしい。3人の息子もいるが、
親子関係にしてもそうだ。

 こうなってしまった原因のほとんどは、私にあるわけだから、だれかを責めるわけにはいかな
い。しかし今、自分の半世紀を振りかえってみると、私は、実に不誠実な人間であったように思
う。他人に対しても、また自分に対しても、だ。その結果が、今の私ということになる。

 言いかえると、こうした生きザマというのは、思春期や青年期から始まるのではない。もっと
以前と考えてよい。私の経験では、幼児が幼児期から少年少女期へ移行するころからではな
いかと思う。つまりもし教育に、本当の目的があるとするなら、こうした生きザマの基礎の基礎
をつくることではないか。

 私のケースでいうなら、私は、精神生活という意味では、きわめて貧弱な家庭環境で生まれ
育っている。小ズルイ世界で、それを当たり前として、生きていた。

 が、もしあの時期を、もう少し心豊かな環境で過ごすことができたら、今の私はもう少しちがっ
た私になっていただろうと思う。同じように、今、子どもたちを、豊かな精神生活で包むことがで
きたら、それが結局は、その人の真の財産となるということ。ただ私のばあい、環境がそうであ
っても、自分で努力して改善することもできた部分もあったはず。すべてを、環境にせいにする
のは、正しくない。が、私のばあいは、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。

恐らく私はこのまま、死ぬまで、孤独という無間地獄の世界で、もがき苦しむことになる。自業
自得と言えばそれまでだが、実のところ、そういう自分が、本当になさけない。
(はやし浩司 人間関係 信頼関係 脱孤独論)





目次へ戻る メインHPへ

●子どもの学習意欲

+++++++++++++++++++

日・米・中・韓の4つの国の子どもたちの
学習意欲についての調査結果が、発表され
た。

それによると……

+++++++++++++++++++

 このほど、日・米・中・韓の4つの国の子どもたちの意識、意欲についての調査結果が公表さ
れた(060302・中日新聞)。

 それによると、

★成績の向上(よくなること)を希望する子ども

日本  ……33・2% +++
アメリカ……74・3% +++++++
中国  ……75・8% ++++++++
韓国  ……73・8% +++

(日本青少年研究所・05年調査)

 こうした傾向がみられることは、すでに5、6年前から、教育関係者の間では、常識だった。
数年前のことだが、ある中学校の校長が、こう話してくれた。

 「勉強でがんばって、いい高校へ入りたいと思っている子どもは、半分もいませんよ。6割くら
いの子どもは、部活か何かでがんばって、推薦で高校へ進学したいと考えていますよ。で、「進
学指導の先生が、『もう少し勉強でがんばって、A高校への進学をめざしたら?』と声をかえた
りすると、『あんな高校へ入って、勉強で苦労したくない』と答える子どもが、ふえてきました」
と。

 同じようなことは、私も経験している。少し前までは、小学校の高学年児の入会も認めていた
が、やる気を引き出すだけでも一苦労。それまでに、やる気そのものを、跡形もなくつぶされて
しまっている子どもも、少なくなかった。

 つまりそうした常識が、今回の調査で、はからずも裏づけされたということになる。最近の日
本の子どもたちは、そういう意味では、飽食状態にある。きびしさがないというか、緊張感に欠
ける。が、それだけではない。

 で、これは私自身の感想だが、反対にこういうこともある。

 以前は、……といっても、10年とか20年前のことだが、勉強が苦手な子どもを教えていて
も、なかなか効果があがらなかった。学校の勉強のほうが、先へ、先へと進んでしまったからで
ある。

 ところが、最近は、そうではない。少し教えるだけで、見た目には、メキメキとできるようにな
る。ほんの少しだけ、自信をもたせるような指導でじゅうぶん。つまりその分だけ、学校におけ
る子どもたちの学力が、低下しているということになる。

 さらに私の教室は進学塾ではないが、ここ10年、年を追うごとに、進学率というか、有名高
校や有名大学への進学率が、飛躍的によくなってきている。20年前、30年前には、OBで、
東京のT大や京都のK大へ入る子どもはほとんどいなかった。しかし最近では、当たり前のよ
うに入っていく。何割かの子どもたちは、国立大学の難関学部へと進学していく。

 わかりやすく言えば、それだけライバルが少なくなったということになる。つまり幼児期に、方
向性だけをつけてやると、あとは、自分でそのまま伸びてくれる。方向性というのは、つまりは、
(やる気)ということになる。

 一方、こんな問題もある。

 私の教室では、3、4年生ごろから、個別レッスンに入る。(個人レッスンではない。)子どもの
能力とやる気に合わせて、それぞれ、独学で勉強できるように指導する。この年齢になると、
一斉に同じことを教えるということができなくなる。できる子どもと、そうでない子どもに(差)が
現れてくるからである。

 そういう方法で、1年も指導すると、学校でする勉強の2、3年分を自分で終えてしまう。小学
4、5年生で、中学2、3年レベルの学習をしている子どもは、私の教室では、珍しくない。(ウソ
じゃないぞ!)

 本来、学校での勉強もそうであるべきではないのか。いまだに悪しき平等主義にしばられて、
できる子どもの頭をたたくようなことを、平気でしている。つまりせっかくやる気があっても、学
校教育が、制度として、その芽を摘んでしまう。

 子どものやる気を引き出す方法の鉄則は、ただひとつ。

『伸びる喜びに灯をともして、能力を前に引き出す』である。

 「ほう、君は、こんなこともできるの!」「すごいね。これは5年生でもできない問題だよ!」と。
ウソではいけない。子どもといっしょに、それを喜び、そして心底から、それをほめる。教える側
がやる気をもって、子どもたちといっしょに、教え、学ぶことを楽しむ。

 進学塾が常套手段としているような、恐怖を与えて、成績でおどしながら勉強させるという方
法は、邪道中の邪道。そういう方法は、一時的には効果があっても、決して長つづきしない。か
えってその受験競争が終わったとき、反動として、子どもは勉強しなくなることが多い。それば
かりか、燃え尽きてしまったり、荷卸し症候群におちいってしまう子ども少なくない。

 しかしそれにしても、33・2%とは!! わかりやすく言えば、向学心に燃える子どもは、3分
の1もいないということになる。これでいいのかなあ、日本! 


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●キレる子ども

++++++++++++++++

キレる子どものキレ方には、いくつ
かの特徴がある。

M県に住む母親より、こんな相談が
あった。

「うちの子は、キレると、手に負え
なくなります。狂人のようになって
暴れます。どうしたらいいでしょう
か?」と。

子どもは、小学1年生の男児。

++++++++++++++++

 突発的に錯乱状態になり、激怒することを、「キレる」という。そのキレ方には、つぎのような
特徴がみられる。

(1)原因不明(非刺激的刺激による激怒)
(2)目的不明(非生産的激怒)
(3)限界設定(一定限度内での激怒)

 わかりやすく言えば、ささいなことで、ふつうは理由とも言えないような理由を理由として、突
然激怒する。激怒したからといって、どうなのだという目的がわからない。そして「それ以上した
らおしまい」という限度ギリギリのところで、暴言を吐いたり、暴力を振るったりするということ。

 似たような症状は、家庭内暴力と言われる暴力を、家人に向かってする子どもにも、見られ
る。このタイプの子どもも、病的なほどまでに敏感に家人の心を読み取り、その限界スレスレ
のところで、暴力行為を繰りかえす。

 ある女の子(年長児)は、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、突然、錯乱
状態になった。近くにあった包丁を、母親に向かって投げつけたという。

 また別の男の子(小3)は、先生のデスクの前で、並んで立っているときに、突然、錯乱状態
になった。ギャーと大声を出して、暴れ、近くにあった机をひっくりかえしてしまった。

 こうした子どもたちに共通して見られる症状としては、ふだんは、もの静かで、ものわかりの
よい子どもといった印象を受けるということ。親や先生の指示に、従順に従う。しかし自分から
積極的に行動したり、自分の意思を明確に表示するということは、ない。まわりの人たち(親や
教師)から見ると、「何を考えているかわからない子ども」といった印象を与えることが多い。

 そこでその受けた印象のまま、つまり「ものわかりのいい子どもだ」という印象のまま、あれこ
れ無理をすると、突然、キレる。それはあたかも内部にたまったガスの圧力が限界点(臨界
点)に達して、ものが爆発するさまに似ている。

 また先にも書いたように、何らかのキーワード、あるいはささいな雰囲気の変化が、引き金と
なることが多い。それが何であるかについては、それぞれの子どもによって、千差万別で、定
型がない。別の子ども(年中男児)は、母親が拒絶的な態度を示しただけで、錯乱状態になっ
て暴れた。(ただしこの時期は、かんしゃく発作として、片づけられることが多い。)

 このタイプの子どもの精神状態は、慢性的に緊張状態にあるとみる。つまり心を外の世界に
向かって、開くことができない。心を許して、ありのままの自分をさらけ出すことができない。そ
の緊張状態のところへ、何かの不安や心配ごとが入りこむと、精神状態は、一気に不安定に
なる。それがここでいう「キレる」という状態に結びつく。

 で、さらにその原因は何かというと、乳幼児期における、育児の失敗と考えてよい。親子の間
で、基本的な信頼関係そのものが、できあがっていない。ほとんどの親は、そういう現象的な
結果だけをみて、「どうして?」「どうしたらいいの?」と悩むが、その原因は、親自身にある。ま
ず、それに気づくこと。

 このタイプの子どもは、先にも書いたように、外の世界では、「いい子」を演ずる。仮面をかぶ
る。それは意識的なものというよりは、無意識的なもので、そうすることによって、自分を自ら、
外界の世界から守ろうとする。「いい子」でいれば、叱られたりすることもない。防衛機制のひと
つと考えられる。

 では、そうするか?……という問題になるが、ここにも書いたように、この問題は、根が深い。
だからほとんどの子どもは、そうした(心の問題)、つまり(心を開けないという問題)を、生涯に
わたってもちつづけることになる。「三つ子の魂、百まで」というよりは、「0歳児の魂、百まで」と
いうほうが、正しい。

 したがって対処法は、限られてくる。

(1)その問題には触れない。とくにキーワードに反応するときは、そのキーワードには、触れな
い。
(2)スキンシップを濃密にし、親子の心の交流を、緊密にする。その時期は早ければ早いほ
ど、よい。拒否的態度、否定的な育児姿勢は、禁物。
(3)心の緊張感をほぐすためには、日常的に、ひとり、ぼんやりできるような時間をふやしてや
るのがよい。時間きざみ、分きざみの、こまかいスケジュールなどは、用意しない。学校(幼稚
園)から帰ってきたあとは、のんびりさせる。このタイプの子どもは、外の世界では、「いい子」
を演ずる。その分だけ、気疲れを起こしやすい。
(4)CA、MG、Kの多い、つまり海産物を中心とした食生活に切りかえる。白砂糖の多い食品
や、燐酸食品類は、避ける。

 で、ひとたびキレたあとは、幼い子どもであれば、抱きかかえるようにして、その衝動的な怒
りが消えるまで、待つ。この段階で、はげしく叱ったり、威圧してはいけない。それを繰りかえす
と、ますます症状が悪化し、やがて、親や教師の手に負えなくなる。だからできるだけ初期の段
階で、親は、自分の子育ての失敗をすなおに認め、それ以上、症状を悪化させないことだけを
考えて対処する。

 この問題は、症状をこじらせればこじらすほど、長引くが、適切な対処を繰りかえせば、思春
期が終わることには、外からはわかりにくくなり、子どもは、そのまま落ちついていく。決して今
の状態を最悪とか、一生つづくと考えて悲観してはいけない。

 キレたとき、暴れまわって手に負えなくなったようなケースについては、また別のところで考え
る。
(はやし浩司 キレる子ども 錯乱状態 突発的に激怒する子供)





目次へ戻る メインHPへ

●私論

●朱に交われば赤くなる……

+++++++++++++++++++

中国の故事に、『朱に交われば赤くなる』と
いうのが、ある。

しかしその恐ろしさを知っている人は、
いったい、どれだけいるだろうか?

+++++++++++++++++++

 私は、子どものころ、本当に、小ズルイ人間だった。よく言えば、要領のよい子どもだった。
悪く言えば、その場その場で、他人をだますというより、自分をごまかすのが、平気だった。そ
んな子どもだった。自分でも、それをよく知っている。

 すべてを戦後のあの時代のせいにするわけにはいかない。というのも、同じような時代に生
まれ育ちながら、私のようでない人も多いからである。が、あえて言うなら、当時は、そういう時
代だった。とくに私のまわりには、家庭教育の「か」の字もなかった。

 道路にお金が落ちていれば、「モ〜ライ(=貰う)」と言って、自分のものにした。警察署に届
けるとか、届けないとか、そんなことは、考えもしなかった。

 その私が、この年齢になって、変わったかというと、それは疑わしい。私は、基本的には、小
ズルイ人間である。自分でも、それがよくわかっている。前にも書いたが、こんなことがあった。
その原稿を、そのまま紹介する。日付を見ると、2002年の11月になっている。それから4年
もたつのに、私は、いまだに同じことで悩んでいる。

+++++++++++++++++++

●本当の私

 私はもともと小ズルイ男で、今も、それが自分の中にしっかりと残っている。すべてをあの戦
争の責任にするわけではないが、私が過ごした幼児期というのは、戦後の混乱期。まさにドサ
クサのころで、秩序があるようで、なかった。そういう時代だった。親たちも食べていくだけで精
一杯。家庭教育といっても、その「キョ」の字もなかった。

 その私が一見、まじめそうな顔をして生きているのは、そういう自分を必死になって押し殺し
ているからにほかならない。一度幼児期にできた「自分」を消すことは、私の経験からしても不
可能だと思う。ふと油断をすると、すぐ表面に出てきてしまう。ただ私のばあい、それが「盗み」
とか、「暴力」とか、そういう反社会的な面で出てこないだけ、ラッキーだった。出てくるとするな
ら、「お金」と「女性」についてだ。

 まず、「お金」。たとえば道路でサイフを拾ったりすると、それをどうするかでいまだに、悩んだ
り苦しんだりする。しかしそういう自分がいやだから、つまりあとで、あと味の悪い思いをするの
がいやだから、何も考えず、交番に届けたり、近くの店に届けたりしている。自分の行動パター
ンを決めて、それに従っている。

 つぎに「女性」。私の青春時代は、まさに「女に飢えた時代」だった。高校生のときも、デートを
しただけで先生に叱られた。そうした欲求不満が、私の女性観をゆがめた。イギリスの格言に
も、『抑圧は悪魔をつくる』というのがあるが、まあ、それに似た状態になった。結婚前は、女性
を「おもちゃ」ぐらいにしか考えていなかった。女性の気持ちなどまったく無視。セックスの対象
でしかなかった。

が、ある事件を契機に、そういう「女遊び」をまったくやめたが、今でも、そういう思いはたしか
に残っている。ふと油断すると、女性が「おもちゃ」に見えるときがある。(しかしこれは本能に
よるものなのか、自分の意識によるものなのかは、よくわからない。たとえば男というのは、射
精する前と、射精したあとでは、女性というより、女性の肉体に対する関心が、180度変わる。
射精する前には、ワイフでもたしかにおもちゃに見える。しかし射精すると、その思いは完全に
消える。なぜか?)

 話を戻す。こうした小ズルさがあるから、反対に、他人の小ズルさが、よくわかる。相手が、
自分でもしそうなことをすると、それがすぐわかる。先手をとったり、それから身を守ったりす
る。そういう意味では役にたっている。が、それがよいのか悪いのか? 人を疑うのは、あまり
気持ちのよいものではない。しかしこういうことは言える。

私のワイフは、同じ団塊の世代だが、人を疑うことを知らない。純朴と言えば聞こえはよいが、
実際には無知。そのため今まで悪徳商法の餌食(えじき)にされかかったことが、何度となくあ
る。おかしな料理器具や、アワ風呂発生器や、あやしげな生協活動や、はたまた新興宗教な
どなど。私が「やめろ」と言わなければ、今ごろはかなりの損をしていたと思う。

 そんなわけで私が今、一番恐れているのは、やがて気力が弱くなり、自分の本性がそのまま
モロに外に出てくること。そうなったとき、私は実に醜い人間性をさらけ出すことになる。すでに
今、その兆候が現れ始めている?
 
 そこで私は今、つぎのことに心がけている。どんなささいなルールも守る。ワイフが、「そんな
こといいのに……」とあきれるときもあるが、とにかく守る。そのルールが正しいとか正しくない
とか、そういうことは判断しない。一応社会のルールになっているときは、それを守る。

 あるいはどんな少額でも、お金はごまかさない。レジなどで相手がまちがえたときは、おつり
が多くても少なくても、(少ないときは当然だが……)、即、申告する。お金は借りない。貸さな
い。もちろん交通ルールは守る。黄色になったら、どんなばあいでも、止まる。自転車に乗って
いても、それは守る。そういうことを自然にしている人から見れば、「そんなこと当然のことでは
ないか」と笑われるかもしれないが、私はそうしている。そうしながら、つまり、自分の行動パタ
ーンを、できるだけわかりやすくしながら、自分の邪悪な部分を目覚めさせないようにしてい
る。

++++++++++++++++++++++

●私の限界

 数年前のことだが、こんなこともあった。

ある文具店で、文房具をいくつか買った。頭の中で計算しながら、1000円を出すと、若い女
性の店員が、300円余りのおつりをくれた。私は瞬間、「?」と思った。思いながら、数歩、歩い
てしまった。

 私の計算では、おつりは、100円もないはず。

 そこで振りかえりながら、「あのう……」と言いかけると、その店員のうしろに、もう一人、年配
の女性が立っていて、こう言った。「今、全品、2割引セールをしています」と。

 私は、それを聞いて笑った。店員も笑った。しかしそこに私の限界がある。つまり数歩、歩い
たというところに、私の人間的な限界がある。本来なら、それに気づくと同時に、振りかえり、お
金を返すべきだった。しかし私はそのおつりを握ったまま、数歩、歩いた。歩いてしまった。

 どうしてあのとき、私は数歩、歩いてしまったのか?

私は、瞬間だが、子どものころのように、「モ〜ライ」と思ってしまった。「得をした」と思ってしま
った。その小ズルイ自分と戦うために、数歩、歩いてしまった。

●朱に交われば……

中国の故事に、『朱に交われば、赤くなる』というのが、ある。人は、そのつきあう相手によっ
て、善人にも悪人にもなるという意味である。つきあう相手からの影響を無視することはできな
いということだが、この故事には、もうひとつの意味がある。

つきあう相手によって、自分の中の邪悪な部分が、えぐり出されることもあるという意味であ
る。

たとえば、今、私の周辺ではこんなことが起きている。その相手の名誉にもかかわる問題だか
ら、詳しくは書けない。しかし大筋では、こんな話である。

私の近くに、X氏(60歳くらい)という男性がいる。かなりの経営的な手腕をもっている人で、こ
の世界では、「成功者」と呼んで、さしつかえのない人である。

その人は、見るからに小ズルイ人で、やることなすこと、一貫している。で、その人と会っている
と、ふと、子どものころの私が、そこにいることを知る。話が合うというか、話がはずむ。「それ
はおもしろいですね」「一度、やってみましょうか」と。

それだけではない。そのX氏は、私を平気でだます。だますといっても、それほど大げさなこと
ではない。口がうまいというか、その程度。ウソもよくつく。で、そのX氏とつきあう私はどうかと
いうと、私も、そのX氏に対してだけは、平気でウソをつく。ごまかす。

だから、ここ数年、私は、そのX氏と会うのを避けている。会ったあと、いつも不愉快な思いを
するからである。言うなれば、X氏は、私の心を写すカガミのようなもの。そのカガミに写る私の
心は、いつも醜くて、うす汚い。

 私が言う、『朱に交われば赤くなる』というのは、そういう意味である。そしてその故事のもつ
意味の恐ろしさというのを、強く感ずるようになった。つまり私の中には、自分でもいやになる
部分が、ある。そのいやな部分が、同じようにいやな部分をもった人に出会うと、えぐり出され
てしまう。

 これは心理学的にも、おもしろい現象だと思う。

 だから最近では、このタイプの人とは、努めて、つきあわないようにしている。避けるようにし
ている。もう少し正確に言うと、『朱に交われば、自分の中の朱が、えぐり出される』ということ
か。今の私は、それがこわくてならない。

+++++++++++++++++

もう1作、こんな原稿を紹介します。
3年ほど前に書いた原稿です。

+++++++++++++++++

●不愉快な気分

 たまたま私は、その日、二つの経験をした。

店で、3000円のものを買った。5000円札を出したので、おつりは2000円ということになる。
が、店の女性は、私におつりを、7000円もくれた。(話をわかりやすくするために、消費税など
の、こまかい数字は省略した。)

 「あのう……」言いかけたが、その女性の手を見ると、1万円札がしっかりと握られている。私
は「?」と思った。思ったとたん、言葉がひっこんでしまった。5000円札を渡したのに、どうして
……と考えているうちに、わけがわからなくなってしまった。そういうとき、「今、渡したのは、50
00円札です」と言うと、かえって話が、混乱してしまう?

 店から出るとき、何とも言えない不快感が心の中に充満した。「どうして正直に言わなかった
のだ」と、自分で自分を責めた。しかしその女性は、たしかに一万円札をもっていた。私が500
0円札だと思っていたのは、1万円札だったのか。それとも、途中で、その女性は、別の札とも
ちかえたのか。私とて、すべてを見ていたわけではない。

 その不快感は、ずっと消えなかった。ふつうなら、「得をした」と喜んでよいはずだが、そういう
感覚は、なかった。「いいのかなあ?」と思っている間にも、足は、どんどんと、その店から遠ざ
かってしまった。

 同じ日の夜。今度は、こんな経験をした。

 夜、帰るとき、車の列を横切って、向こう側の車線に出ようとしたときのこと。そのとき、ワイフ
が車を運転していた。私たちは信号のない十字路にいた。が、半分ほど車を出したところで、
車が反対方向から、何台かやってきた。私たちは、車の列の中で、立ち往生してしまった。

 とたん、横の車が、はげしくクラクションを鳴らした。「どけ!」という意味である。一度や、二
度ではない。何度も鳴らした。ワイフが頭をさげたが、それでも、クラクションは、鳴りつづい
た。助手席にいた私が体を乗りだしてその車を見ると、運転していたのは、27、8歳の若い女
性だった。

 やがて車の流れが切れ、私たちは反対車線に出たが、私は、何とも言えない不快感に襲わ
れた。ワイフは、「しかたないわよねえ……」と笑っていたが、私は、車から飛び出し、その女性
を怒鳴りつけたかった。

 たまたまその日は、私の精神状態がよくなかったのかもしれない。どこかピリピリしていた?
 が、そのままにしておくわけにはかない。夜、家に帰ると、ワイフにこう切り出した。

私「今日、お前がぼくに渡してくれたお金はいくらだった?」
ワ「旅費とお弁当代で、1万9000円だったわ。バッグの一番外のポケットに入れておいたわ」
と。

 そこで私は、おつりの話をした。するとワイフは、「じゃあ、いくら使ったか明細を言ってよ。そ
れで計算できるわ」と。

 で、その結果、ワイフはこう言った。「やっぱり、あなたは、1万円札を渡したのよ。自分で50
00円札と思いこんでいただけよ。でなと、計算が合わないもん」と。

 「ああ、よかった」と思ったとたん、胸の中のしこりが消えた。そしてつづいて、あの女性の話
をした。

私「お前は、ああいう女性を、どう思う?」
ワ「ああ、あの人ね。せっかちな人ね」
私「それだけ?」
ワ「それだけよ」
私「ぼくは、車から出て行って、怒鳴りつけてやりたかった」
ワ「あんな人、相手にしなければいいのよ」
私「そのあと、気にならなかったか?」
ワ「すぐ忘れたわ」
私「ぼくには、それができない。いつまでも気になる」
ワ「そうね。あんたは、そういう人ね」と。

 なぜ人間は、不愉快になるか。自分で自分を不愉快にすることもある。反対に、他人が自分
を不愉快にすることもある。私はその日、同時に二つの経験をした。しかしこうした不愉快は、
心の健康にもよくない。

 では、どうするか。もっとも、その日は、疲れていた。それでささいなことが気になった? 注
意力も、欠けていた。それでそういうことになった。しかし、私が感じた不快感は、まったく同質
のものだった。何でもないようなことだが、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 一方は、自分で作りだした不快感。もう一方は、他人から与えられた不快感。その二つが同
質? 意識の上では、別の不快感かもしれないが、脳の中へ入ると、同じものになってしまう?
 あるいは、脳は、そこまでは区別できない? 

それはちょうど、たとえて言うなら、食べ物が胃袋に入るようなものか。フランス料理と日本料
理を別々に食べても、胃袋の中へ入れば、みな、同じ。もう区別できない?

私「人間の感情なんて、単純なものだね」
ワ「……何の話?」
私「いいの。どうせ、お前に話しても、お前には理解できないから……」
ワ「わけのわからないことを、言わないでよ」
私「ぼくと、お前とでは、脳ミソの質が違うということ」と。

 しかしその日は、よい経験をした。このつづきは、また別の日に考えてみたい。







目次へ戻る メインHPへ

●教師論

【雑務に悲鳴をあげる教師たち】

+++++++++++++++++++

家庭での子どもへの教育力が、低下している
という。

このほど北海道(北海道道庁?)は、
青少年育成運動推進指導員らを対象にして、
アンケート調査をした(05年8月、267人
を対象に実施し、うち154人が回
答)。

その結果、「低下している」と。

+++++++++++++++++++

●家庭の教育力の低下

 青少年の指導や育成に当たっている人の9割が、「家庭でのしつけなど、子供への教育力が
低下している」と感じていることが、北海道のアンケート調査でわかったという(毎日新聞・06・
03・06)。

 この調査は、「調査は青少年育成の現状と課題を探るのが目的で、05年8月に青少年育成
運動推進指導員ら、267人を対象に実施し、うち154人が回答した」(同)ものだという。

 それによれば、

 家庭での教育力低下について、

   まったく、そのとおり……48%
   ある程度、そのとおり……46%、など。

 具体的に感ずる課題としては、

   あいさつや規則正しい食生活など基本的な生活習慣……84%
人に迷惑をかけないなどの社会的規範      ……78%、など。

 理由としては、

   子供を過保護や過干渉にする親の増加……72%
しつけの仕方が分からない親の増加 ……56%、など。

 青少年の非行防止策としては、

   家庭でのしつけや教育の充実     ……73%
家庭、学校など関係機関の連携強化  ……60%
インターネット上の有害な情報規制  ……61%
子供への声かけなど地域住民の意識高揚……61%、など。

 そこで北海道は、今回の調査結果を、現在進めている「道青少年保護育成条例」の改正に
反映させる方針だという。

 しかし……???

 「家庭での教育力の低下」とはいうが、ここでいう「教育」というのは、何をさすのか。子どもを
どのような子どもにする教育を意味するのか、私には、よくわからない。まさか子どもを、従順
で、ものわかりがよく、静かな子どもにするのが教育、と考えているわけでもないだろう。

 過保護、過干渉という言葉を使っているが、過保護、過干渉が、子どもの非行と、どういう関
係があるのか。その因果関係が、よくわからない。関係があるとするなら、甘やかし、でき愛、
あるいは親自身の自己管理能力の欠落など。それらが混然いったいとなって、子どもの非行と
結びつく。このあたりに、もう少し、切りこんだ指摘をしてほしかった。

 あいさつや規則正しい生活を子どもに強いたところで、非行を防止できるわけではない。5、
6年前のことだが、東海地方のG県では、「朝食運動」なるものを推進した。「朝食を、家族いっ
しょに食べる」という運動である。またS県でも、時を同じくして、「あいさつ運動」なるものを推進
した。ともに県をあげての推進運動である。

 「朝食運動」にしても、現実には、不可能。夫を職場に送り出し、子どもたちの世話をしたあ
と、子どもたちに朝食を食べさせる。母親がやっと一息つけるのは、子どもたちが学校へ出か
けたあとのこと。共働きの家庭も、多い。朝の食堂は、どの家庭でも、まさに戦場。

 「あいさつ運動」にしても、あいさつなど、したければすればよい。したくなければ、しなくてもよ
い。外国では、目と目を合わせたその瞬間、スマイル(ほほえむ)のが、習慣になっている国が
多い。あいさつができるようになったからといって、非行を防止できるというものでもない。

 どこかトンチンカンな調査だが、その調査結果をもとに、「道青少年保護育成条例の改正に
反映させる」というところが、恐ろしい。勉強不足も、よいところ(失礼!)。

 本当に子どもの非行を防止したかったら、(1)社会にはびこる不公平感を是正すること。(2)
多様性のある、フレキシブルな社会をめざすこと。つまり多様な価値観を平等に認める社会を
めざすこと。(3)「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」という、今の硬直した教育制
度を見なおすこと。そしてここがいちばん重要だが、なぜ子どもが非行に走るのか、また非行
に救いの道を求めるのか、その心理状態を、もっと詳しく分析する必要がある。

 表面的な現象だけを見て、モグラたたきのように、非行だけをたたいても、意味はない。

 さらに「家庭、学校など関係機関の連携強化」を求めている指導員が多いが、これには驚い
た。これ以上、学校に、何を押しつけるのか。家庭教育の指導まで押しつけてはいけない。学
校というのは、「教育」をするところである。子どもに勉強を教え、子どもの人格の完成をめざす
ところである。その学校に、「しつけ」から、果ては、「家庭教育」まで押しつける。そのおかしさ
に、私たち日本人が、まず気づかねばならない。

 今、現場の教師たちは、悲鳴をあげている。ある女性教師はこう言った。「授業中だけが、や
っと息が抜ける時間です」と。とくに生活指導の教師は、本来、教育とは関係のない家庭問題
で、毎晩遅くまで、悪戦苦闘している。授業と授業の間の空き時間にしても、以前は、週に5〜
7時間はあったが、今は、2〜3時間がやっと。教師たちは、あまりにもいそがしい。

 こんなところにも、「学校万能主義」というか、「学校神話」という亡霊が、いまだにはびこって
いる。つまり「何でもかんでも、めんどうくさい仕事は学校に」という発想そのものが、まちがって
いる。

 きびしい批評をしてしまったが、ひとつだけ、おおいに賛同する部分がある。「インターネット
上の有害な情報規制」という部分である。

 私も、インターネットをこうして利用しているが、とくに子どもたちに対して、もっと情報規制を
すべきと考える。今では検索するだけで、そのものズバリの性交写真が、いとも簡単に手に入
る。ちなみにヤフーの検索で、「性交写真」を検索してみたところ、瞬時に、30800件もヒットで
きた。トップから、「熟女玉乱」→「エロ動画無法地帯」→「無料で見られるサイト一覧」とつづく。
  

 こうした悪質サイトには、開くだけで、ウィルス(スパイウエアなど)が侵入してくるところも多い
という。雑誌などには、そう書いてある。だから私自身は、中身を見たわけではないが、どのサ
イトにも、そのものズバリの写真が掲載されているはず。

 もっと知恵をしぼれば、何とか、なるはずだが、結局は、そういうものを求めるおとながいる
以上、どうにもならないだろうということ。つまりは、おとなの問題ということになる。

 最後に、「家庭での教育力をどうするか」という問題について。

 答は、簡単。私のマガジンを読めばよい。親たちがもっと、賢くなればよい。これは私から、
読者へのコマーシャルということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。(学校によっては、1週間に、平均して3時間程度というところも
ある。文科省の指導に従えば、週1時間程度になるが、学校ごとに、やりくりをして、3時間程
度を確保している。なお、中学校では、平均して7〜8時間程度の、空き時間がある。浜松市
内)

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学
指導 詰め込み教育)

++++++++++++++++++++

 今後は、こうした習熟度別教室は、一部の抵抗もあるだろうが、学校内で定着していくものと
思われる。実際には、当初は、どこか遠慮がちに始まった習熟度別授業だったが、市内の小
学校を中心に、新たな単元が始まるたびに、簡単なテストをして、そのあと、クラス分けをする
ところがふえてきた。

 もちろん、問題点がないわけではない。

 教師の負担もさることながら、こうした習熟度別授業は、親たちに、少なからず、ショックを与
えている。たとえば習熟度別授業を参観してきた、ある母親は、こう言っている。学校の帰り
道、親たちはみな、進学塾はどうしようと、そんな話ばかりしていました、と。

こうした習熟度別授業は、平等主義を貫いてきた学校教育に、大きな変化をもたらすことはも
ちろんのこと、子どもたちの間で、差別化を生む可能性もある。それをどう克服していくか、こ
れからの大きな課題になるものと思われる。


●過酷な職場

+++++++++++++++++

学校の先生たちが、悲鳴をあげている。
あなたには、その悲鳴が聞こえるだろうか?

+++++++++++++++++

 教育は、重労働である。とくに、小学校教育は、そうである。

 たとえば水泳指導したあと、生徒たちといっしょに着替え、つぎの時間には、クラスで算数を
教えなければならない。

 そのためかなりの体力と気力を、必要とする。

 で、現実問題として、この浜松市でも、55歳をすぎて教師をしている、女性教師は、ほとんど
いない。女性教師のばあい、たいていの教師は、50歳前後に退職していく。「水泳指導ができ
なくなったら、教師はやめる」というのが、一つの目安になっているという。

 学校の教師のばあい、50歳少し前に、管理職に向うかどうかが、決まる。管理職になれば、
学級担任からはずされるが、それは校長と教頭、教務主任のほか、あと1名程度。そこでもっ
と、女性教師を管理職に回せばよいということになるが、これもむずかしい。

 浜松北部の、旧HK市のばあい、小学校は18校あるが、去年まで、女性校長は3人いた。し
かし2人、退職したので、現在(05年度)は、1人のみ。

 そうでない教師は、学級担任をつづける。が、50歳過ぎてからの、学級担任は、きつい。男
性教師にとっても、事情は、同じ。

 ますます拡大する教師の仕事。今では、家庭問題にまで教師が駆り出される時代である。
「子どもが警察につかまった。いっしょに行ってくれ」「子どもが家出をした。いっしょにさがしてく
れ」と。

 本来なら、教師は教育に専念すべきである。またそれをもって「教師」という。しかし雑務、雑
務の連続。これでは、本来の教育がおろそかになって当然。「これでいいのか」と疑問をもつの
は、私だけではないと思う。


●家庭問題が、そのまま学校に!

++++++++++++++++++++

 以前、荒れた学校が、問題になった。
しかし今は、問題になっていない?

実は問題になっていないのではなく、
荒れた学校が、当たり前になってしまった。

++++++++++++++++++++

 今どき、荒れた学校を問題にする人はいない。教師も、父母も、そして評論家も。それが当
たり前の現象になってしまったからである。

 しかし「荒れ」は「荒れ」でも、以前とは、少し質が変わってきた。H市で小学校の校長をしてい
るN氏は、こう話してくれた。

 「以前は、荒れというと、暴力事件を言いました。しかし今は、少し質が変わってきたように感
じます。つまり今は、家庭問題が、そのまま学校へ持ちこまれるようになりました。

 家庭騒動、親の離婚、貧困などなど。親の心の問題が、そのまま持ちこまれることもありま
す。引きこもり傾向を示す生徒がいたので、家庭訪問をしたら、親が出てこない。つまり親自身
も、引きこもってしまっているのですね。

 そういう子どもが、学校の内部で、いろいろな問題を引き起こします。最近の荒れは、そうし
て起こるものが多いです」と。

 ついでに言うと、その校長も、あの「金P先生」を、鋭く、批判していた。「ああいうありもしない
教師像を、マスコミが勝手につくり出すから、かえって、現場は混乱してしまうのです。

たとえばあの番組の中で、非行グループが、自転車のチェーンを振り回したとしますね。すると
つぎの日には、本当にそのチェーンをもって、学校へ来る生徒が出てきたりします」と。

 金P先生については、私も、たびたび批判してきた。ああいう教師を見て、「教師とは、こうあ
るべきだ」と考えるとしたら、それはまちがい。よくテレビドラマの中で、警官と悪党が、ピストル
でバンバンと撃ちあうシーンがある。

 それと同じくらい、金P先生の世界は、ありえない。たとえば金P先生は、非行少年の家の中
にあがりこみ、その少年の父親といっしょに、酒を飲んで、人生論を語りあったりする。

 しかしそれが教師のあるべき姿なのか。そこまでしてよいのか。あるいは、それこそまさに、
教師の(おごり)ではないのか。いや、その前に、体力そのものが、つづかない。20〜30人も
の子どもを相手にすることだけでも、重労働である。その上での、教育である。

 その金P先生について書いた原稿が、つぎのものである(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++++++

教師が10%のニヒリズムをもつとき 

●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金P先生』というのがある。武田T也氏が演ずる金P先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょうど刑事ドラマの中
で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなもの。ドラマとしてはおもしろいが、現
実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。

私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、「明日、
娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげてあやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、一時間ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。

浜松市内で歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんな
こともあった。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。たまたまその子
ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送した。

で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だろうと
思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケース
がついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの一〇%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども

 一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か
弱い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるよう
だったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また
親は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしいハキがない。動作も不自然で、ぎ
こちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も100まで
自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を30年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。……つまりそこまでわかっていても、私は黙
って見送るしかない。

それもまさしくニヒリズムということになる。

++++++++++++++++++++++

 熱血教師が悪いというのではない。しかし一つまちがえば、熱血教師は、子どもの問題にせ
よ、家庭の問題にせよ、さらにその問題をこじらせてしまう。その教師の独断と偏見、思いこみ
と早とちりが、かえって騒動を大きくしてしまうこともある。

 反対の立場で考えてみればわかる。

 ある日、突然、子どもの問題にかこつけて、あなたの子どもが通う学校の教師が、ズカズカと
あなたの家にあがりこんできたら、あなたは、どのような反応を示すだろうか。いくらあなたの
家庭に問題があったとしても、あなたはこう言うだろう。「失敬だ」と。

 話が脱線したが、こうした「荒れ」もあって、学校の教師は、ますます疲れる。ある女性教師
(小学校)は、はからずも、私にこう話してくれた。

 「授業中だけが、心と体を休める場所です」と。

 こうした現実を、どれだけの親たちが、知っているだろうか?

(付記)

 参観日に参観授業を見てきた親の中には、よく、こう言う親がいる。「すばらしい授業でした。
先生も、あそこまで教材を用意して、授業をしてくれるとは、思ってもみませんでした」と。

 しかしそれは、参観日だから、である。「参観日のあと、数日は、何もやる気が起きません」
と、その(疲れ)を訴える教師が多いことも、忘れてはいけない。





目次へ戻る メインHPへ

●心気症

++++++++++++++++++

ささいな病気を、ことさら大げさに
考えて、心配する。不安になる。

「もしや……?!」と思って、悩む。

そういうのを「心気症」という。

何を隠そう、私がその心気症なのだア!

++++++++++++++++++

 病気でもないのに、自分の心身のささいな変調にこだわり、苦痛を訴える症状を、心気症と
いう(「心理学用語辞典」・かんき出版)。

 つまりささいな病状を、ことさら大げさに考えて、あたふたと心配する。「もしや……!?」と思
うこともある。つまり「がんではないか?」と。そういう症状を、心気症という。

 「心気症」という用語があるほどだから、かなり一般的な症状と考えてよい。不安神経症、あ
るいは強迫神経症の仲間と考えてよい。とくに病気と結びついた不安神経症、あるいは強迫神
経症を、「心気症」という。

 程度の差もあるのだろうが、何を隠そう、私が、その心気症なのだ。実は、数日前もあった!

 夜中に目が覚めると、のどが乾いたようになって、痛い。が、よく観察してみると、右側の奥
歯が痛い。ズーンとした痛み。その痛みが、のどから、上の歯のほうまで、響く。

 その奥歯は、治療して、金冠がかぶせてあるはず。指を口の中に入れて、その歯をさわって
みる。が、さわった感じでは、どうということはない。もっと奥のほうから痛みが骨のほうに伝わ
っている。そんな感じがする。

 「風邪で、歯が痛むというようなことはあるだろうか?」と、最初は、そう考えた。しかしそんな
ことはありえない。

 夜、ふとんの中で、暗い天井を見あげながら、いろいろ考える。考えては、それを打ち消す。
「しかし……。もしや……?」と。

 数年前に、脳腫瘍で死んだ、友人のことを思い浮かべる。その彼は、こう言っていた。私が、
「ぼくも、よく頭痛に悩むよ」と言うと、「林、何を、バカなことを言っているんだ!
あのな、脳腫瘍の痛さは、想像もつかん痛さだよ」と。

 どんな痛さだろうと考えながら、口の中から伝わってくる痛さに、静かに耐える。眠れないほど
の痛さということでもないが、しかし安眠できるような状態でもない。

 「しかし、初期症状というのもあるだろう。初期症状のときは、それほど、痛くないのかもしれ
ない。だんだんと痛くなって、やがて耐えきれなくなる……」「このまま、痛みがどんどんひどくな
ったら、どうしよう?」と。

 横を見ると、ワイフが軽い寝息をたてていた。起こすのも悪いと思って、じっとそのままにして
いる。10分、20分……。と、そのとき、ワイフの寝息が止まった。モゾモゾと体を動かした。す
かさず、話しかけた。

 「なあ、風邪みたいだよ……」
 「風邪……?」
 「なあ、歯が痛いよ……」
 「薬をのんだら……?」
 「うん……」と。 

 私は起きあがって、台所へ行くと、バナナとジュースをお湯に溶かしたものをもってきた。枕
元にはいつも、薬が一式、置いてある。湿布薬に頭痛薬、睡眠薬に精神安定剤、そのほかも
ろもろの漢方薬にハーブなどなど。もちろん風邪薬も置いてある。

 「どれにしようか?」
 「風邪薬にしたら?」
 「でも、歯が痛い……」
 「だったら、バッファリンがいいんじゃない?」
 「うん、……ノーシンではだめだろうか?」
 「じゃあ、それにしたら」
 「うん」と。

 私はバナナを食べながら、ジュースを飲んだ。時計を見ると、午前4時を少し回ったところ。
時計を見ながら、粉薬を口に入れた。

 「なあ、がんじゃないだろうか?」
 「どうしてがんなの?」
 「骨の奥が痛い……」
 「どんなふうに?」
 「ズーン、ズーンと痛い」
 「きっと虫歯よ」
 「だって、ちゃんと治療したところだよ」
 「金冠の中で、虫歯になることだってあるわよ」
 「そうかなあ……?」と。

 この世界には、骨まで腐るという、恐ろしいがんもあるそうだ。詳しい病名は知らないが、昔、
そんな病気になった女性の映画を見たことがある。私はそれかもしれないと思った。思いなが
ら、「ああ、これでぼくも死ぬ……」と思った。

 「このまま死んだら、どうしよう?」
 「死なないわよ」
 「どうして?」
 「バカねえ、虫歯で死んだ人の話なんか、聞いたことないわよ」
 「虫歯かねえ……?」
 「虫歯よ。ハーッて息を吐いてみたら」
 (ハーッ)
 「……おかしいわね、虫歯臭くないわよ」
 「だろ、虫歯じゃあ、ないよ」と。

 不安で、心臓がドキドキするのがわかった。いやな気分だ。ただほかに風邪の症状もあった
ので、それに希望をつないだ。「風邪だ、風邪だ。これは風邪による症状だ」と。しかし風邪で
歯が痛くなったという話は、聞いたことがない。そう考えたとたん、また不安になった。

 で、その朝は結局、そのまま起きた。ふだんならそのまま書斎に入って原稿を書くのだが、そ
んな気は起きなかった。「まだ、やりたいことはあるのに……」「まだ、58歳じゃ、ないか」「がん
とわかっても、ぼくは治療しない。そのままオーストラリアへ行く」などと、あれこれ考える。

 が、しばらく体を起こしていると、痛みがやわらいできた。薬がきいてきた。

 こういうとき、私のような心気症の人間は、頭の中で、2人の人間が戦うような状態になる。ボ
クシングで言えば、デス・マッチのようなもの。どちらか一方が死ぬまで、戦う。

 「風邪だ、虫歯だ! お前は、バカだ。いつもの取り越し苦労だ!」
 「何だと! 油断していると、命取りになるぞ。これはがんだ。がんの初期症状だ!」
 「前にも、似たような痛みがあったではないか。虫歯の治療のときを思い出してみろ!」
 「あったかもしれないが、その歯は、たしか神経を抜いているはず」と。

 「何でもない!」という私。「がんだ」という私。そういう2人の私が交互に現れては、消える。お
まけにのども、痛い。のどの奥に痰がからんでいる感じ。何度も、うがいを繰りかえす。

 これは生への執着によるものか、それとも死がもたらす絶望感との戦いによるものなのか。
……わけがわからない状態で、朝を迎え、その日が始まった。

 「どう、具合は?」と、のんきな様子で、ワイフが起きてきた。「起きたら、痛みが収まってき
た」と私。「でしょ、心配ないわよ」とワイフ。

 そのときになって、恐る恐る、手鏡をもってきて、口の中をのぞく。「もし、大きな病変でもあっ
たら……」と、不安になる。心臓の鼓動が高まる。が、押しても引いても、歯はビクとも動かな
い。(動くはずもないが……。)とくに変わった様子もない。

 歯間ブラシを歯と歯の間に入れてみる。「がんなら、出血があるはずだ」と。以前、どこかの
病院で、ドクターがそう言っていたのを思い出していた。「がんだとね、組織が破壊されますか
ら、出血があるはずです」と。

 しかし出血はなかった、が、よく見ると、金冠の下、つまり歯ぐきと、金冠の間のすき間に、小
さな薄茶色の穴が見えるではないか! 虫歯! そうだ、虫歯! 歯の側面から、虫歯になっ
ていた!

 とたん、安堵感で、胸のつまりが消えた。「ナーンダ、虫歯だア!!」と。

 「虫歯だよ、これは!」
 「でしょ、だったら、歯医者へ行ってきたら?」
 「うん、そうだな。風邪の様子をみてから行くよ」
 「そうね」と。

 で、その日は、歯医者へ行かなかった。昨日も、行かなかった。で、そのまま今日になった。
時計は、午前8時、少し前。あれからも、ずっと、ズーン、ズーンとした痛みが、ときおり、つづ
いている。これから行きつけの歯医者に電話をして、そこへ行くつもり。

 しかし心気症というのは、いやなもの。いつも早合点と、取り越し苦労。この繰りかえし。とき
どきこう思う。「死神よ、そんなにぼくをいじめるなら、さっさと殺しに来い!」と。

 が、ひとつだけ、変化がある。若いころとくらべると、「死」への恐怖感が、変わってきたという
こと。若いころは、一度心気症になると、居ても立ってもおられなかったが、つまりそのままあ
わてて病院へ駆けこんだものだが、今は、ちがう。

 「勝手にしろ」という、どこか投げやりな気持ちも生まれてきた。「まあ、今まで健康に生きてこ
られたのだから、文句はないだろう」と、自分をなぐさめる気持ちも生まれてきた。多少、「死」
への覚悟もできてきたということか。

 そして今。私は、改めて健康で生きている自分が、うれしい。「今日こそは、悔いのない人生
を、思う存分生きてみる」と、そんな思いさえわいてくる。心気症というのは、悪いばかりではな
いようだ。
(はやし浩司 心気症 不安神経症 強迫神経症)

【追記】

 やはり虫歯だった。金冠の中の詰め物が、欠けていたという。そこから虫歯が進んだらしい。

 で、その治療中、正確には、麻酔をかけられ、歯科助手の若い女性が、歯の間の歯石を取
ってくれている間、不思議な経験をした。

 それはうっとりとするほど、気持ちのよいひとときだった。カリコリ、カリコリと、歯石を削る音
がする。そのたびに、その女性の胸が、頭に触れる。強いライトが、春の陽気を思わせる。縁
側で日なたぼっこをしているような気分にさせる。

 そのときだ。私の目の中に、女性の性器が、超リアルに浮かんできた。最初は、まぶたの模
様が、強いライトで、そう見えたのかと思った。しかしそのうち、それがより鮮明になってきた。
たしかに女性の性器だった。何度も確かめたが、女性の性器だった。

 いつものような卑猥(ひわい)感は、まったく、なかった。もちろん美しいとか、美しくないとか、
そういう感じもなかった。ただどういうわけか、女性の性器が、至近距離で、超リアルに見えて
きた。どうリアルだったかということについては、ここには書けないが、ともかくも、リアルだっ
た。

 あるいはひょっとしたら、胎児のころの記憶が、麻酔の作用で、呼び起こされたのかもしれな
い。……しかし、胎児はまだ目が見えないはず。

 麻酔のせいだろうか? それとも私に頭にときおり触れる女性の胸のせいだろうか? それ
とも強いライトのせいだろうか? 私は、半分、夢を見ていたのかもしれない。ともかくも、それ
は不思議な経験だった。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「きっと麻酔のせいよ」と言った。そしてこう言っ
た。「あなた、そんなことマガジンに書いてはだめよ」と。

 「しかしね、これは不思議な経験だ。だれかが書きとめておかないといけない。きっと、同じよ
うな経験をしている人は、多いはずだよ」
 「でも、へんね。どうしてそんなものが見えたのかしら?」
 「女性だとね、きっと、ペニスか何か、そんなものが見えてくるのかもしれないね」
 「そんなこと、ないわよ。絶対に!」と。

 春は近い。そのあと家に帰ると、強い睡魔に襲われた。それはまちがいなく、かけられた麻
酔のせいだと思う。コタツに入ると、そのままウトウトと眠ってしまった。

【補記】

●強迫神経症(こだわり)

 何かのことで不安になると、その不安が、ペッタリと頭にくついてしまう。そしてその不安を消
すために、(そんなことでは決して消せないのだが)、何か儀式的な行為を何度も何度も繰りか
えすようになる。

 子どものよく見られる、手洗いぐせ(潔癖症)も、そのひとつ。「手にばい菌がついた」「手のば
い菌が、取れない」などと言って、手を洗ってばかりいる。トイレから帰ってきた父親に対して、
「パパは、きたないからさわらないで!」と泣き叫んだ子ども(年長女児)もいた。その子ども
は、手の皮膚が破れるほどまでに、暇さえあれば、繰りかえし、石鹸をつけて手を洗っていた。

 こうした症状を、強迫神経症という。心理学の本などによると、不安神経症のひとつに位置づ
けられている。大きなちがいは、何かの儀式的行為をともなうこと。宗教の世界でも、同じよう
なことを経験する。

 ある女性は、毎日3〜5時間、仏壇の前に座って、念仏を唱えていた。また別の女性は、同じ
ように、目をさましているときは、手に数珠を握って、それを指先でクルクルと、何やら呪文の
ようなものを唱えながら、回していた。そうすることによって、不安を紛らわしているというより
は、そういう行為そのものが、やめられないといったふうであった。念仏を唱えていた女性は、
「やめると、バチがあたって、地獄へ落ちる」と本気で信じていた。

 こうした症状を示す子どもの特徴としては、何かのものやことに対して、(こだわり)をもつこ
と。その(こだわり)の内容は、そのときどきによって、変化することもある。母親が、ベッドの位
置をほんの少し動かしただけで、「精神状態がおかしくなってしまった」(母親談)子ども(中学
男子)もいた。

 この先のことはよくわからないが、今では、(こだわり)を和らげるための、新しい薬も開発さ
れているとのこと。症状があまりひどいようであれば、一度、心療内科か精神科のドクターに相
談してみるとよい。
(はやし浩司 手洗い癖 潔癖症 強迫神経症 不安神経症 こだわり はやし浩司 子供の
こだわり)





目次へ戻る メインHPへ

●連鎖と応報

+++++++++++++++

子育ては、親から子へと、連鎖する。
それはよく知られた事実だが、
もうひとつ、「応報」という事実もある。

その応報について……。

+++++++++++++++

 たとえばあなたが今、あなたの子どもを、虐待したとする。いろいろな虐待のし方がある。とも
かくも、虐待したとする。

 すると、その虐待されたあなたの子どもは親になったとき、そのあなたの子どもは、その子ど
も(あなたからみれば、孫)に対して、同じような虐待をするようになる。あるいはその可能性
は、たいへん高い。

 それを育児の世界では、「世代連鎖」という。「伝播(でんぱ)」という言葉を使う人も多い。

 ここで重要なポイントが1つある。

 虐待される子どもの立場で考えてみよう。当然のことだが、親に虐待されて、それを喜ぶ子ど
もは、いない。で、ふつうなら、そういう親の虐待を受けながら、子どもは、親を反面教師とし
て、その反対に親になろうとすることが考えられる。「私は、親に虐待されて、いやな思いをし
た。だから、自分が親になったら、自分の子どもに対しては、虐待をしない」と。そう心に誓った
ところで、おかしくない。

 しかしその反面教師には、限界がある。いつか私は「つっかい棒」という言葉を使ってそれを
説明した。そのつっかい棒(=気力あるいは緊張感)がある間は、反面教師は反面教師として
機能する。しかしそのつっかい棒がはずされたとき、その人は、反面教師そのままの人間にな
る。そういう例は、たいへん多い。

 私にも、こんな経験がある。

 私が高校生のときの、英語の教師は、まさに詰めこみ主義そのものの教え方をした。明けて
も暮れても、そればかり。あとは試験と成績。それに順位。生徒たちを競わせながら、それをし
た。

 私はそういう授業を受けながら、「私が教師だったら、こういう教え方はしない」「こういう教え
方をする」などと、毎日のように考えていた。つまり私はその英語の教師を見ながら、その教師
を反面教師として、別の教師像を頭の中で、作りあげていた。

 が、である。

 この浜松市にやってきて、ある進学塾で講師のアルバイトをするようになったときのこと。私
は英語を担当したが、ある日、自分の教え方を知って、がく然とした。何のことはない。私の教
え方は、あの高校時代の、あの英語の教師の教え方そのものだったのである。

 私が高校生のときは、そのつっかい棒があった。「あんな教師にはならないぞ」という気力と
いうか、緊張感があった。しかしその教師から別れて、大学生になり、社会人になったとき、そ
の緊張感が消えた。つっかい棒が消えた。とたん、私は、反面教師そのものになっていた!

 ここでいう「連鎖」は、そういう過程を経て、親から子へと、代々、連鎖する。あるいはしやす
い。それはよく知られた事実であり、子育ての世界では、常識にもなっている。

 が、もうひとつ忘れてはならない事実がある。それが「応報」である。しかも、こちらのほうが、
ひょっとしたら、あなたにとっては、より深刻な問題と考えてよい。

 こんな例を、あなたは耳にしたことがないだろうか。親を虐待する、子どもの話である。決して
珍しくない。

 わかりやすく言えば、こういうことになる。

 親が子どもを虐待したとする。たとえば子どもが不用意に便をもらしたとする。それに激怒し
て、親が、子どもをはげしく叱り、体罰を加えたとする。子どもは泣きながら、それにあやまり、
「もうしません」と約束する。が、また数日もすると、同じ失敗をする。あるいはそれを繰りかえ
す。親は、ますますはげしく子どもを叱る。

 が、いつか、親子の立場は、逆転する。必ず逆転する。若い親にこんなことを言っても、ムダ
かもしれない。どの親も、「私は死ぬまで、健康だ」「だれにも迷惑をかけない」「それだけの財
産は、残しておく」「子どもの世話にはならない」などと思っている。中には、「私だけは、ボケな
い」と思いこんでいる人もいる。

 しかし加齢とともに、「老い」は、必ず、やってくる。例外は、ない。それがわからなければ、あ
なたの周囲の人たちを見回してみることだ。今は、老後の世界は、別世界と思っているかもし
れない。が、あなたの目に映る老人たちこそが、あなたの未来である。

 で、その逆転したとき、ここで「応報」という現象が起きる。つまりあなたは子どもにしたのと同
じことを、今度は、その子どもにされるようになる。あなたが子どもを虐待すれば、あなたが老
人になったとき、今度は子どもがあなたを虐待するようになる。あるいはその可能性は、たい
へん高い。

 あなたが老人になって、便をもらしたとする。するとあなたの子どもは、ことさらそれをいやが
り、嫌い、あなたを叱る。叱るだけならまだしも、あなたに体罰を加える。「また、もらしたのね。
何度言ったら、わかるの!」と。

 だから……。この先は、もう書く必要はないと思う。あとは、それぞれ個々の問題ということに
なる。

 子育てというのは、そういうもの。頭の中で考えてするものではないということ。子育てという
のは、だれしも、自分の体の中にしみこんだものを、無意識のうちに、繰りかえしているだけ。
そのひとつが、ここでいう「連鎖」と「応報」ということになる。

 こわ〜い、ですね、この話は! ホント!
(はやし浩司 子育て連鎖 連鎖 伝播 応報 因果応報)






検索文字(以下、順次、収録予定)
BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでください はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチエックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司 子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はやし浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司