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【子どもの力・あれこれ】

●計算力と「数」の力

子どもにとって、計算力と、「数」の力は、別のものと考えてよい。たとえば(3+4=7)は、計算
力があればできる。しかし「7は、5と□」という問題は、計算力だけでは、カバーできない。ほ
かに「3と□で、6」「□は、3と4」など。小学1年生の問題だが、それができる子どもは、スラス
ラとできる。しかしできない子どもは、何度説明しても、できない。それがここでいう「数」の力と
いうことになる。
(はやし浩司 子供の計算力)


●「遊び」を大切に

自動車のハンドルでも、「遊び」があるから、運転できる。その「遊び」がなく、ギスギスだった
ら、運転できない。子どもの勉強も、その運転に似ている。多くの親たちは、「勉強」というと、
机に向かって黙々とするものだという偏見と誤解をもっている。しかしそれは大学の研究者の
ような人がする勉強であって、少なくとも、子どもの勉強ではない。小学校の低学年児だった
ら、30分机に向かって座って、10分、勉強らしきことをすれば、よしとする。


●子どものリズムをつかむ 

子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする
子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1〜2分、休んだりする。勉強にとりかかるま
でに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それ
ぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。


●ささいなミスは、許す

たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わな
い。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にし
たときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ば
す。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつん
でしまうこともあるので注意する。


●テーマは、一つ

子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示
を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりか
ねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視す
る。作文の内容だけを見て、判断する。


●子どもを伸ばすのは、子ども

子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念な
ことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだや
かで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子ども
どうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そう
いう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸び
る。
(はやし浩司 子供の冴え)


●冴(さ)えを伸ばす

子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。こ
の時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多
く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いつ
いてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子ども
にとっては、望ましいことではない。


●一歩手前で、やめる

子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページく
らいしそうだったら、7〜8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしな
い。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子ど
もの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本
山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。


●バカなフリをして伸ばす

おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけな
い。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の
立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリを
して、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになった
ら、しめたもの。


●集中力も「力」のうち

よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」とい
う質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中
力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導の
し方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力
のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。
(はやし浩司 子供の集中力)


●一貫性

内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。
権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にそ
の一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義
のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間
関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親である
こと。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。
(はやし浩司 一貫性)






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●老人介護の問題

+++++++++++++++++++++

介護の問題が、ますます深刻になってきている。
そしてその悲鳴は、いたるところ、今では、ど
こかからも聞こえてくる。

しかしこれは、決して他人の問題ではない。
あなたの近未来の問題である。

+++++++++++++++++++++

 老人と同居している家庭は、多い。しかしそれ以上に、老夫婦だけとか、老人ひとり住まいの
家庭も多い。事情は、100の家庭があれば、100、ちがう。1つとて、同じ、家庭はない。

 痴呆老人をかかえている家庭。
 病弱な老人をかかえている家庭。
 何かの精神的な病をもつ老人をかかえている家庭など。

 わがままな老人をかかえて四苦八苦している家庭も、多い。さらに介護費用や、世話の負担
にあえいでいる家庭もある。遺産問題、介護の分担で、息子、娘たちが、醜い争いをしている
家庭となると、ゴマンとある。

 私のところに寄せられる相談やメールを読んでいると、この問題が、いかに深刻なものか
が、わかる。しかもこの問題だけは、だれしも、避けては通れない。老人の問題とは言うもの
の、それは、あなたや私たち自身の問題でもある。

 あなたも、いつか、かならず、その老人になる。その上、さらに深刻なことに、もうすぐ、3人に
1人が老人という世界が、やってくる。そうなったとき、あなたは、この問題を、「私には関係な
い」と、はたして、そう言い切ることができるだろうか。

 で、今、その老人の介護で苦労している人は、みな、こう言う。

 「ときどき、ふと、死んでしまいたくなることがある」
 「自分が老人になったら、みんなに迷惑をかける前に、死にたい」
 「生きているのがいやになることがある。気がついてみたら、フラフラと、道路の真ん中を歩
いていたことある」と。

 まだ、40代、50代の若い女性たちが、そう言う。つまりここに、老人介護のもつ深刻さがあ
る。それがいかに重労働であるかは、老人介護をしたことがあるものでないと、わからない。そ
れを、「先の見えない介護」と表現した女性(40歳くらい)もいた。

 しかしなぜ、こうまで、老人介護が、介護をする人たちに、負担をかけてしまうのか。

 第一に考えられるのは、家族そのものがもつ、重圧感。心理学の世界でも、「幻惑」という言
葉を使って、それを説明する。子どもは、生まれながらにして、親子の絆(きずな)を、本能的な
部分で、刷りこまれてしまう。

 最近の研究では、人間にも、鳥類に似た、刷りこみ(インプリンティング)がなされることがわ
かってきた。この刷りこみが、生涯にわたって、その人の親子関係の基本をつくる。そして一
度、その刷りこみがなされると、その介護の問題を合理的に考えることすら、できなくなる。本
能に近い部分にまで、深く、しっかりと刷りこまれるからである。

 本来なら、親はそのつど、じょうずに子離れをしながら、子どももまた、じょうずに親離れでき
るように、仕向けなければならない。しかしこの日本では、ベタベタの親子関係をむしろ奨励す
るようなところがある。またそういう親子関係であればあるほど、よい親子と評価する。

 もっとも、良好な親子関係を築いている家庭も、ないわけではない。たがいに尊敬しあい……
というような家庭である。しかしそんな家庭は、今では、さがさなければならないほど、少ない。

 とくに介護の重圧感に苦しむのは、実の息子や娘ではなく、義理の息子や娘である。直接的
な血縁がないだけに、介護をしながらも、大きなジレンマに襲われる。ある女性は、義理の母
親に、毎日のように、罵倒(ばとう)されている。

 「お前は、ワシの財産目当てに、息子と結婚したのだろ!」
 「息子を、横取りしやがって、このヤロウ!」と。

 多少のボケがあるとは言え、そんな言葉を、義理の母親から毎日のように浴びせかけられた
ら、だれだって、気がヘンになる。が、そういう呪縛から逃れることもできない。「私は、まるで義
理の父母の世話をするために、今の夫と結婚したようなものです」「家政婦以下? それともホ
ームヘルパー?」と言った女性もいた。

 しかしそのときでも、夫の暖かい愛情や理解があれば、まだ救われる。しかしそういう家庭ほ
ど、夫は無関心。理解もない。「家庭の問題は、妻の仕事」と逃げてしまう。妻が、義父や義母
のことで、相談をもちかけただけで、怒りだしてしまう夫も、少なくない。

 夫自身が、親絶対教の信者、もしくは、マザコンであるなら、なおさらだ。

 そこで追いつめられた女性は、もがき、苦しむ。が、先にも書いたように、それは、まさに「先
の見えない苦しみ」。明日が今日よりよくなるという保証は、どこにも、ない。ないばかりか、明
日は、今日より、確実に悪くなる。

 本音を言えば、「介護なんて、こりごり」「あんなクソジジイ、クソババアなど、早く死んでしま
え」ということか。しかしそれを口に出したら、お・し・ま・い! 

 だからがまんする……。「死にたくなる」という思いは、そういうところから生まれる。

 ……と考えていくと、この問題は、実は、私たち自身の問題であることに、気づく。

 あなたも、私も、確実に、老人になり、老後を迎える。ふつうどおりに健康であれば、例外は、
ない。で、そのとき、あなたは、自分自身の老後を、どのように考えているだろうか。

 こんな例がある。

 老人になればなるほど、住み慣れた場所に、住みたがるものだという。が、年齢には勝てな
い。その女性は、今年、85歳になった。ボケもさることながら、気位が高く、がんこ。その程度
のことなら、どんな老人でも、そうかもしれない。が、ここに、その老人特有の、人生観や価値
観がからんでくる。

 ある老人は、「老人ホームへ入ることを、恥」と考えていた。また別の老人は、地元から都会
へ出て行く仲間たちを、「負け組み」と、いつもあざ笑っていた。

 こういう老人が、老人用の施設に入ったり、自分の住んでいる地域を離れて、別の地域に住
むようになるということは、敗北を認めるようなもの。自己否定につながることもある。

 だから、動かない。絶対に、動かない。ある女性は、東京から、京都に迎えに来た息子夫婦
に対して、こう叫んだという。「私を京都から連れ出すなら、殺してからにしろ。さもなくば、電車
に飛びこんで、死んでやる」と。

 マンガのような話だが、当の本人たちにとっては、深刻な話である。かといって、放置しておく
こともできない。老人によっては、徘徊(はいかい)、放火などの病癖をもっていることもある。
近所の人たちに迷惑をかけているケースとなると、さらに多い。

 で、あなたや私が、そういう老人にならないという保証は、どこにもない。むしろ、そういう老人
になる可能性は、きわめて高い。

 では、どうすればいいのか。どうあるべきなのか。

 オーストラリア(南オーストラリア州)では、すでに一定のコースができあがっている。

 健康な間は、働く。55歳前後の定年期を迎えたら、老人は、町中のマンション(フラット)に移
る。近隣の人たちが、その老人のめんどうをみる。さらに病弱になれば、老人ホームへ入居す
る。そこで、最期のときを、迎える。

 ほとんどの人たちがそうしているから、それが一つのコースのようにも、なっている。仮に息
子や娘が町の中にいても、同居はしない。近くのマンションに住む。「子どもたちに迷惑をかけ
たくない」という配慮からではなく、「自分の親たちも、そうしてきたから」という考え方をする。

 ごく自然な形で、みな、そうしている。

 が、この日本には、そういうコースすら、まだない。冒頭にも書いたように、家庭によって、事
情が、みな、ちがう。老人や老人介護に対する考え方も、みな、ちがう。それに日本独特の、伝
統や土着文化がからんでくる。家庭によっては、事情がこじれにこじれ、何がなんだか、わけ
がわからなくなってしまっているというケースも、少なくない。

 そこで私たちは、自ら、自分たちの老後がどうあるべきかについて、考えておかねばならな
い。このばあいでも、「老後は、息子や娘たちの世話になる」と、もしあなたが考えているなら、
そういった考え方は、今すぐ、捨てたほうがよい。世話になってはいけないと言っているのでは
ない。

 しかしこうした安易な依存性こそが、やがて、ジワジワと、真綿でクビをしめるかのように、あ
なたの子どもたちを苦しめ、結局は、あなた自身も、それで苦しむことになる。

 さらにもしあなたが、老後を、老人ホームで暮らすことは恥ずかしいことだとか、老後は、孫
の世話でもしながら……と、考えているなら、そうした考え方も、今すぐ、改めたほうがよい。

 もちろん息子や娘たちのほうから、「めんどうをみる」と言ってくるときは、話は別である。しか
しそのときでも、どこかに一線を引いておかないと、あなたの子どもたちを苦しめ、結局は、あ
なた自身も、それで苦しむことになる。

 はっきり言おう。介護保険制度など、アテにならない。ならないことは、現状をみれば、わか
る。介護保険制度は、すでに破綻している※。介護を必要としている人が、その制度を受けら
れるようなしくみになっていない。それこそ、寝たきりのような、要介護4か5くらいにならない
と、施設にも入れない。

 しかし人は、いきなり、そういう状態になるのではない。5年単位、10年単位で、そうなる。そ
ういう状態になったときのことを、今から、考えておく。

 が、若いあなたにとっては、ずっと先の話かもしれない。で、とりあえずは、こんなことに注意
したらよい。

 どうすれば、役にたつ老人になれるか。どうすれば、健康な老人になれるか。そしてどうすれ
ば、新しい価値観をもつ老人になれるか。それを考える。考えながら、自分の老後を組み立て
ていく。

 日本人の約3分の1が、老人になる時代は、もう、すぐそこまできている。どうしてそんな時代
に、若い人たちに向って、「私たちのめんどうをみてほしい」などと、言うことが、私たちに、でき
るだろうか。
(はやし浩司 老人介護)

※注……多くの病院が、今、急性期病院を選択している。そのため、こうした病院では、長期
入院ができないしくみになっている。それこそ応急処置だけをして、そのまま患者を家に帰して
しまう。あとは在宅治療ということになる。

 しかしその一方で、こういう手間のかかる(?)老人は、介護施設には入れない。その結果、
結局は、こうした重度の病気をもった老人は、二重、三重の負担となって、家族に重くのしかか
ってくる。

 知人の義理の父親は、2日おきに、腎透析を受けている。認知症もかなり進行している。しか
しそういう老人を、引き受けてくれる病院もなければ、介護施設もない。おかしなことだが、介
護施設で受けいれてくれる老人は、一応、健康な老人にかぎられている。が、介護を必要な老
人で、健康な老人というのは、いるのだろうか。

 また介護度によって、支給上限額が決められている。

 要支援 …… 6万5800円
 要介護1……16万5800円
 要介護2……19万4800円
 要介護3……26万7500円
 要介護4……30万6000円
 要介護5……35万8300円

 額だけながめると、手厚い保険制度に見えるかもしれない。しかし今、認定基準は、ますます
きびしくなってきている。よほどひどくないと、要介護1にも、認定されない。が、その一方で、要
介護5クラスの老人ともなると、とても、この額では、足りない。

 さらに慢性的な病気をもっている老人ともなると、介護施設への入居そのものを断られてしま
う。もちろん、病院へも、入院できない。これでは、いったい、何のための介護制度かということ
になる。





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●好き嫌いのはげしい子ども

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福井県にお住まいの、Hさん(母親)から、
「うちの子は、好き嫌いがはげしくて困ります」
という相談をもらった。

それについて、考えてみたい。

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 好き嫌いが、はげしい子どもがいる。このタイプの子どもは、それだけ、心の寛容性に乏しい
子どもということになる。このタイプの子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(1)相手のささいな言動に、敏感。そのささいな言動に左右されやすい。
(2)そのささいな言動に、理由をこじつけ、自分を正当化する。
(3)嫌い方がはげしい一方、好きになると、徹底的にその相手を偶像化する。
(4)感情の起伏が、全体としてはげしい。いつも心が不安定で、動揺しやすい。
(5)相手の言葉にキズつきやすく、悶々と悩んだりする。
(6)とくに批判的な言葉には、異常なまでに敏感に反応する。
(7)敵、味方の区別を、はっきりと分けて行動する。
(8)嫌いな相手には、攻撃的になりやすく、暴言をあびせかけたりする。
(9)他人との良好な人間関係が結びにくい。
(10)自分を、すなおに、さらけ出すことができない。仮面をかぶりやすい。

 この時期、好き嫌いがはげしいというのは、好ましいことではない。こうした好き嫌いが、一定
の限度を超え、とくに人間関係で支障をきたすようになったケースを、境界型人格障害(O・カ
ーンバーグ)と位置づける学者もいる。

 原因のほとんどは、乳幼児期の母子関係にあるとみる。

 子どもの側からみて、絶対的な安心感を得られない家庭環境に育つと、子どもの心は、さま
ざまな形で、ゆがみやすい。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。この絶対
的な安心感があってはじめて、子どもは、自分のすべてをさらけ出すことができる。

 言いたいことを言い、したいことをする。一見、態度は横柄だが、それだけ、子どもの心は落
ちついているとみる。

 しかしその(絶対感)がゆらぐと、子どもの心は、不安定になる。とくに0歳〜2歳期までに、一
度、こうした不安感が形成されると、それが基底不安となって、生涯にわたって、その子どもの
人格に影響を与えるようになる。

 で、好き嫌いのはげしい子どもは、教える側からしても、指導のしにくい子どもということにな
る。特定の教師を理想化し、偶像化して、徹底的に服従したかと思うと、今度は一転、ちょっと
したことで、徹底的に嫌い始めたりする。ときに、はげしい絶望感を覚え、自暴自棄になること
もある。「すべて(オール)か、ゼロか(ナシング)か」という状態になる。

 で、子どもがこういう症状を見せたら、できるだけ早い時期にそれに気づき、(10)に書いた
ことを参考に、自分を、すなおにさらけ出させるようにする。ありのままの自分を、まず、さらけ
出させる。

 好き嫌いをはっきりさせることと、すなおに自分をさらけ出すことは、一見、矛盾しているよう
に見えるが、まったくの別問題。このタイプの子どもは、ここにも書いたように、人前では、仮面
をかぶりやすい。いつもどこかで、本当の自分を押し殺してしまうようなところがある。

 好き嫌いがはげしいのは、それだけ、こだわりの強い子どもとみる。この時期、こうしたこだ
わり(がんこ、自閉傾向、固執、固着)が見られたら、何らかの心の病気の前兆症状ととらえ
て、警戒する。

 幼児期であれば、とくに母親の心暖かい愛情を大切にする。もう少し大きくなれば、スポーツ
などをとおして、自分の感情を発散させる。ワーワーと大声で騒いだり、笑うのも、効果的。(私
の教室では、そうして指導している。)
(はやし浩司 好き嫌いの激しい子供 好き嫌いのはげしい子ども O・カーンバーグ さらけ出
し 基底不安 はやし浩司)




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●運命論

 それぞれの人には、それぞれ、無数の糸がからんでいる。家族の糸、兄弟姉妹の糸、親類
の糸、地域や国の糸。さらに健康や病気の糸、生い立ちや環境の糸などなど。

 こうした無数の糸が、その人にからみあって、その人の進むべき道や方向性を決めている。
私は、それを「運命」と呼ぶ。

 これについては、もう何度も書いてきた。そこでここでは、もう一歩、話を進める。

 こうした個人というワクを超えて、無数の個人が、これまた集団となって、全体の運命を決め
ることがある。海にたとえるなら、大きなうねりのようなもの。個人というのは、そのうねりの上
に浮かぶ、草のようなものでしかない。

 この大きなうねりを「業(ごう)」という。

 この業は、その人個人を超えたところで、その人の運命を左右する。で、この業のこわいとこ
ろは、つまりは、その人個人の力では、どうにもならないということ。だから、必ずしも、善人
が、幸福になれるわけではない。一方、悪人が、不幸になるというわけでもない。

 人によっては、生まれながらにして、不幸のかたまりのような人は、いくらでもいる。いくらが
んばっても、いくらもがいても、不幸だけが、つぎからつぎへとやってくる。

 その一方で、悪いことをし放題。人をだますのは、朝飯前。そんな人でも、結構、豪勢、よい
生活をしている。そういうケースも、これまた多い。

 そこで大切なことは、そうした表面的な一部だけを見て、業を判断してはいけないということ。
運命を判断してはいけないということ。

 が、その業にせよ、運命にせよ、受けいれてしまえば、意外と、何でもない。人が、なぜ、業
や運命を前にして、もがき、苦しむかと言えば、それを受けいれるのを、こばむからである。
「そんなはずはない」「まだ何とかなる」「どうして私だけが……」と。

 「これが私の人生だ」と割りきってしまえば、自分自身を、業のうねりや運命の流れの中に、
静かに、自分を置くことができる。が、それができないとき、人は、業や運命をのろい、不平、
不満をならべ、もがき、苦しむ。

 だからといって、業にせよ、運命にせよ、それが業だ、運命だといって、あきらめろということ
ではない。人間の生きる美しさは、そうした与えられた業や、運命と戦うところから生まれる。
生きる尊さも、そこから生まれる。無数のドラマも、そこから生まれる。

 しかしやはり、どうにもならないこともある。私という個人を超えた部分で、他人がからんでくる
ときだ。それが近親者であれば、なおさらである。そういうとき、自分をのろっても、しかたな
い。不平や不満を並べても、しかたない。

 こうした不平や不満には、連鎖性がある。つぎからつぎへと、不平や不満が、並ぶ。一つの
問題を解決したからといって、それで不平や不満が終わるわけではない。大本(おおもと)の、
問題が、何も解決していないからである。

 では、どうするか。

 業にせよ、運命にせよ、一見、個人をはるかに超えた、大きな力のように見える。どうにもな
らないように見える。しかし、それは、あくまでも、そう見えるだけ。たとえて言うなら、暴力団の
親分のようなもの。もっと言えば、悪魔のようなもの。

 一見、強そうで、こわく見えるが、その実、気は小さく、ビクビクしている。自分が弱いことを知
っているから、虚勢を張って、強く見せているだけ。
 
 そこで、こうした業や、運命と戦うには、(戦うというほど、大げさなものではないが……)、
日々のほんのささいなところから、業や、運命に、小さな「根」を打ちこんでいけばよい。

 それを「善根(ぜんこん)」という。

 小さな約束を守る。小さな誠意を守る。まじめに生きる。ルールを守る。無理をすることはな
い。今、そこにある心を大切にする。

 そうした日々の積み重ねが、月となり、月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格
となる。そうした人格が、運命を変え、そうした無数の運命が集まって、うねりとなり、今度は業
すらも、変える。

 「善根」があれば、もちろん「悪根」もある。

 そこで善悪論ということになる。よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしな
いから、善人というわけでもない。人は、悪と戦ってはじめて、善人になる。

 あなたの周囲に、その悪根を感じたら、私たちは、その悪根とは、戦わねばならない。見て見
ぬフリをするのも、そのまま悪をのさばらせるのも、結局は、その悪根と同罪ということになる。
が、それだけではすまない。

 こうしたズルさは、あなた自身の運命を狂わすだけではなく、今度はそれが悪業となって、つ
ぎの世代の人や、周囲の人を巻きこんでいく。そうした人たちすらも、不幸にする。根が深いだ
けに、その不幸の根も深い。

 朝食をとりながら、ここまで話したら、ワイフが、私にこう聞いた。「そういうときは、どうすれば
いいの?」と。

 答は簡単。実にシンプル。

 「それに気がつけばよい」と。

 多くの人は、自分の業や運命にすら、気がつかない。気がつかないまま、それに作用され
て、右往左往する。しかしそれに気がつけばよい。「悪魔」という言い方は適切ではないかもし
れないが、わかりやすいので、その言葉を使う。

 悪魔は、いつも善人の顔をして、あなたに近づいてくる。あなたの味方であるかのようなフリ
をして、あなたに近づいてくる。しかしそのとき、あなたがその正体を見破れば、悪魔は、向こう
のほうから、あなたから遠ざかっていく。コソコソと、シッポを巻いて、逃げていく。

私「悪魔に呑(の)みこまれてしまうと、自分がどこにいるかさえ、わからなくなってしまうよ。そし
て本来なら、悩まなくてもよいような問題で、悩んだり、苦しんだりするようになるよ」
ワ「悪魔は、気が小さく、おく病なのね」
私「そうさ。だからそれを感じたら、『お前は悪魔だ』と言ってやればいいのさ。そうすれば、自
分の心の中から、それは出て行く。自分からね……」と。

 何とも観念的な話になってしまったが、もしあなたが心のどこかで、ふと、自分の不幸を感じ
たら、この話を思い出してみてほしい。きっと、あなたの心も軽くなるはずである。
(はやし浩司 運命論 業 悪業 悪魔論)





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【親絶対教】

●親絶対教の信者 

 私より年配の人と話しているとき、よく、こんなことを感ずる。

 「この人に、私が考えていることを説明しても、はたして理解できるだろうか?」と。

 たいていのばあい、「理解できそうもないから、やめよう」と思って、口をつぐんでしまう。しか
しこれは、あくまでも、私の問題。

 今度は、反対に、相手の人が、私に対して、そう思うときがあるかもしれない。「こんな話を、
林にしても、ムダ。どうせ、林なんかには、理解できないだろう」と。

 しかし私には、そうした相手の心が、わからない。『知らぬが仏』というか、わからないから、
平気でいられる。しかしもし、相手がそう考えていると知ったら、多分、大きなショックを受ける
だろう。

 そこで私は、最近は、「理解できないだろう」とわかっていても、一応、その相手には、言うだ
けのことは言ってみるようにしている。そのときは理解できなくても、相手の脳ミソのどこかに残
って、いつか役にたつかもしれない。親切心からそうしているのではない。自分をごまかすの
が、いやだから、そうする。

 最近も、ある女性と話をした。60歳少し前の女性だが、話を聞いていると、完全なマザコン。
何かにつけて、「お母さん」「お母さん」と、80歳を過ぎた母親を、絶対視しているのがわかっ
た。

 ふつうマザコンというと、男性を思い浮かべるが、女性のマザコンもいる。しかも男性よりも、
性質(たち)が悪い。このタイプの女性にとっては、自分の母親は、宗教者が信ずる本尊のよう
なもの。絶対視するのは、かまわないが、いつも、母親に無謬性(むびゅうせい=一点のまち
がいもないこと)を求める。
 
 しかしその母親が少し、このところ、ボケてきた。そのため、その女性は、あたかも本尊が否
定されたかのような状態になっている。情緒がきわめて不安定。このタイプの女性にしてみれ
ば、「母親がボケるなどということは、絶対にあってはならないこと」。その大ジレンマに苦しん
でいる。

 そこで私は、ふと、こう言ってやった。「理解できるだろうか」という不安感は覚えたが、しかし
だまっていることもできない。

 「あなたは、かなりマザコンタイプの女性のようですね。お気づきですか?」と。

 すると、その女性は、私の言葉に猛烈に反発した。「私の母は、すばらしい人です! 私はマ
ザコンではありません!」と。

 やはり、その女性は私の言ったことを理解できなかった。しかし胸の中を、スーッと風が通り
抜けるのを、私は感じた。

 しかしその女性にとって、それに気がつくことは、今の状況から抜け出す、第一歩になる。で
ないと、いつまでも、悶々と悩むことになる。さらに、仮にやがてその母親がなくなったりする
と、そのショックから立ちなおれなくなる可能性すら、ある。残りの人生を、母親の墓参りか、法
事のためだけに過ごすようになるかもしれない。

 そしてそうすることが、子どもの義務であり、親孝行のカガミであると、思うようになるかもしれ
ない。心理学的にいえば、親への強度の依存性が、そうした儀式に、形を変えているだけ。し
かしこのタイプの人に、それを説明しても、理解できない。

 一般論からすれば、親絶対教の信者というのは、精神的に未熟で未完成。精神的に自立で
きていない人とみてよい。こうした精神構造を、「甘えの構造」(土居健郎氏)と呼んでいる人も
いる。

 それはさておき、今度は、反対の立場で、私たちは、いつも脳ミソを開いておかねばならな
い。私が知っていることよりも、この世の中には、私が知らないことのほうが、はるかに多い。
その知らないことを、相手の人が、教えてくれるときがある。

 たとえばだれかが私に、「林、お前は、マザコンだな」と言ったとする。批判されるのは、だれ
にとっても、いやなものだ。が、大切なことは、そういう人の意見にこそ、よく耳を傾けること。相
手の人が、それを言いやすい人間にならなければならない。

 相手の言うことに耳を閉ざすのも、悪いことだが、相手をして、口をつぐませるのも、同じくら
い、悪いことと考えてよい。

++++++++++++++++++++++++
 
以前書いた、「親絶対教」の原稿を
少し、手なおして、お届けします。

++++++++++++++++++++++++

【親・絶対教】

++++++++++++++++++++++++

「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

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●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人
が乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、し
みこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多
い。しかしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親
の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえ
ない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」と
いう概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。
親自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲にな
っている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、自分のためととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私は思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、
それなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲にな
る子ども。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまく、いく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない』とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
粗末にしているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をして
いるようだが、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、
親・絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやる
からな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子
が、泣きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容
易ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、
「あなたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができな
い……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、
私一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばさ
れてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、
親・絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦
い」というのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子
どもを自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強
要してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

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以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

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●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(76歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容を、
まとめると、こうなる。

 その男性(43歳)は、その母親(76歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期までは、
ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つようにな
った。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

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今でも、親風を吹かす人は多いですね。
しかしもうそんな風を吹かすのは、
やめにしましょう。いかがですか?

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●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
(はやし浩司 親像 親絶対教 親・絶対教 親風 親意識 封建制度 先祖崇拝)






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●基本的信頼関係

【よりよい親子関係のために……】

●さらけ出し

 たがいの信頼関係を結ぶためには、たがいに(さらけ出し)、そしてそれを、たがいに(受け
入れ)なければならない。

 この(さらけ出し)と、(受け入れ)があってはじめて、その上に、信頼関係が、結ばれる。

 ここで「たがいに」という言葉を使ったが、それは一方的なものであってはいけない。相互的
なものでなければならない。たとえば親子の関係で、考えてみよう。

 たとえば母親が、子どもの前で、プリプリと、ガスを放出したとしよう。これはいわば、母親の
(さらけ出し)になる。

 そのときその臭いをかいだ子どもが、「ママ、臭いよ! こんなところでしないで!」と叫んで
笑えば、子どもは、それを(受け入れた)ことになる。

 一方、今度は、子どもが、ガスを放出したとする。同じように母親が、「臭いわねえ。こんなと
ころでしないで!」と子どもを叱り、子どもも、ヘラヘラと笑ってすませば、(さらけ出し)と、(受け
入れ)が、できたことになる。

 わかりやすいので、ガスを例にあげたが、私がいう(さらけ出し)と、(受け入れ)とは、こういう
ことをいう。

●さらけ出しの障害

このさらけ出しは、ここにも書いたように、相互的なものでなければならない。しかしそのさらけ
出しが、たがいにうまくできないときがある。何らかの障害があって、どこかで心にブレーキを
かけてしまうようなばあいである。私は、その障害として、二つのものを考える。

その二つというのは、物理的障害と、精神的障害である。何だか、理科の学習のようになって
きたが、ほかによい言葉が、思い浮かばなかったので、この言葉を使う。

 物理的障害というのは、たとえば親側の威圧、権威主義、あるいは育児拒否、冷淡、無視
で、子どもの側から、さらけ出しができないことをいう。母親の中に潜む、何かのわだかまり
や、こだわりが原因となることが多い。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったと
か、など。家庭騒動や、経済問題、健康問題が、「わだかまり」になることもある。

 この物理的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

 精神的障害というのは、母親自身の心に問題があって、子どもの側からの(さらけ出し)を、
受け入れることができない状態をいう。あるいは母親自身が、自分をさらけ出すことができない
状態をいう。

 母親自身が、不幸にして不幸な家庭に育てられた、など。そういう意味で、子育てというの
は、世代を超えて、親から子どもへと、連鎖しやすい。母親自身が、子どものころ、その親に、
何かの理由があって、自分をさらけ出すことができなかった。だから今度は、自分の子どもに
対して、自分をさらけ出すことができない……というようにである。

 この精神的障害が、子どもの(さらけ出し)の障害になる。

●母子関係の不全
 
 母子関係の不全が、子どもにいかに大きな影響を与えるか。今さら、ここで改めて言うまでも
ない。

 たとえば乳幼児期の母子関係の不全が、そのあと、子どもの心のみならず、身体の発育に
も、深刻な影響を与えるということがわかっている。たとえば乳児院や孤児院での、子どもの死
亡率が高いなどの事実は、以前から、指摘されている。

こうしたことから、J・ボウルビーらは、「母親の愛情は、子どもの精神衛生の基本である」と説
いた。

 さらにR・A・スピッツや、W・ゴールドファーブらは、知的な発育にも、悪影響があることを指
摘している。

 ここで問題になるのは、母子関係は、ここに書いたとおりだが、では、父親と子どもの、父子
関係はどうかということ。

 これについては、母子関係と、父子関係は、平等ではない、つまり同じ親子関係でも、異質
のものであるというのが、通説と考えてよい。

 母親というのは、妊娠期間の間、子どもを、自分の体内に宿す。そして子どもが生まれたあと
も、乳を与えるという意味で、子どもの「命」を育てる。つまり母子関係は、その当初から絶対
的なものであるのに対して、父子関係は、あくまでも「(精液)一しずく」の関係でしかない。

 フロイトも、そうした父子関係を指摘しながら、「血統空想」という言葉を使って、母子関係と父
子関係の基本的な違いを説明している。

 つまり自分と母親との関係を疑う子どもはいない。しかし自分と父親の関係を疑う子どもは、
多い。「私(ぼく)は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではないぞ。私(ぼく)は、もっと血筋の
いい父親の子どもかもしれない」と。こうした空想を、フロイトは、「血統空想」と名づけた。

 わかりやすく言えば、母子関係は、その当初から、絶対的な関係で始まる。しかしそれに比
較して、父子関係は、不安定な関係で始まる。だから、ここでいう(さらけ出し)と、(受け入れ)
は、母子の間では、きわめて自然になされるのに対して、父子の間では、そうではないことが
多い。

 (だからといって、母子の関係が絶対であるとか、父子の関係は、そうでないと言っているの
ではない。現実に、約七%の母親は、自分の子どもを愛することができないと、人知れず、悩
んでいる(※1)。一方、母親以上の愛情を、子どもの感じている父親も少なくない。しかし総合
してみれば、母子の関係は、父子の関係より、濃密であり、その絆(きずな)は、太い。)

 たとえばウンチを考えてみる。「自分のクソは、いい臭い」と言ったのは、あのソクラテスだ
が、母親にとって、自分の子どものクソは、(自分のクソのクソ)ということになる。だからほとん
どの母親にとって、赤ん坊のウンチは、自分のウンチと同じということになる。

 しかし父親が、母親と同じ心境になるためには、いくつかのハードルを越えなければならな
い。その「越えなければならない」という部分が、母子関係と、父子関係の違いということにな
る。
(はやし浩司 ボウルビー 血統空想 母子関係 基本的信頼関係 スピッツ フロイト)

●基本的信頼関係

信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。

絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。

 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。

 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。

 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。

 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。

●基底不安

 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。

 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。

 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。

 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。

 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。
(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)


●人間関係を結べない子ども(人)

人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。

(5)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。
(6)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。
(7)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。
(8)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。

 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●子どもの仮面

 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。

 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。

 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。

 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。

 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。

 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。

一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。

たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。

いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。

 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。

●仮面をかぶる子どもたち

 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。

 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。

先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。

 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。

先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。

 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。

●心の葛藤

 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。

 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。

 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。

 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。

一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。

こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。

 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。

●神経症から、心の問題

ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。

子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。

(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。 
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。 
●たとえば不登校

こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。

しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。 
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 
 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

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【参考】

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。

親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返してい
るうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。

(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、
子どもの様子をみる。

(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあ
ますまで、何も言わない、何もしないこと。

(4)生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とく
に子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部
屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

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●自己診断

 子育てにおいて、母子関係の重要性については、今さら、改めて言うまでもない。そしてその
中でも、母子の間で構築される「基本的信頼関係」が、その後、その子ども(人)の人間関係の
みならず、生きザマにも、決定的な影響を与える。まさに「基本的」と言う意味は、そこにある。

 そこで子どもの問題もさることながら、親である、あなた自身が、その基本的信頼関係を構築
しているかどうかを、一度、疑ってみるとよい。

 あなたは自分の子どものときから、いつも自分をさらけ出していただろうか。またさらけ出す
ことができたただろうか。もしつぎのような項目に、三〜五個以上、当てはまるなら、ここに書い
たことを参考に、一度、自分の心を、冷静に見つめてみるとよい。

 それはあなた自身のためでもあるし、あなたの子どものためでもある。

○子どものころから、人づきあいが苦手。遠足でも、運動会でも、みなのように楽しむことがで
きなかった。今も、同窓会などに出ても、よく気疲れを起こす。
○他人に対して気をつかうことが多く、敬語を使うことが多い。気を許さない分だけ、よそよそし
くつきあうことが多い。
○ひとりで、静かに部屋の中に閉じこもっているほうが、気が楽だったが、ときどきさみしくなっ
て、孤独に耐えられないこともあった。
○いつも他人の目を気にしていたように思う。そして外の世界では、いい子ぶることが多かっ
た。無理をして、精神疲労を起こすことも、多い。
○夫(妻)や子どもにさえ、自分の心を許さないときがある。過去の話や、実家の話でも、恥ず
かしいと思うことは、話すことができない。
○言いたいことがあっても、がまんすることが多い。その反面、他人の言った言葉が、気にな
り、それでキズつくことが多い。
○自分は、どこかひねくれていると思う。他人の言葉のウラを考えたり、ねたんだり、嫉妬(しっ
と)することが多い。
○子どものころから、親に対しても、言いたいことが言えなかった。どこか遠慮していた。親や
先生に気に入られることばかりを、考えていた。

●勇気を出して、自分をさらけ出してみよう!

 もしあなたがここでいう「信頼関係」に問題がある人(親)なら、勇気を出して、自分をさらけ出
してみよう。

 まず、手はじめに、あなたの夫(妻)に対して、それをしてみるとよい。言いたいことを言う。し
たいことをする。身も心も、素っ裸になって、体当たりで、ぶつかってみる。何も、セックスだけ
が、さらけ出しということにはならないが、夫婦であることの特権は、このセックスにある。

 そのとき大切なことは、自分をさらけ出すのと同時に、夫(妻)の、どんなさらけ出しにも、寛
容であること。つまり受入れること。「おかしい……」とか、「変態とか……」とか、そういうふうに
考えてはいけない。

 あるがままを、あるがままに受入れて、あなたがた夫婦だけの問題として、処理すればよい。

 で、こうした夫婦の絆(きずな)を、伸ばす形で、つぎに精神面でのさらけ出しをする。思った
ことを話し、考えたことを伝える。

 これは私のばあいだが、私は、ある時期まで、講演をするたびに、ものすごい疲労感を覚え
た。そのつど、聖人ぶったりしたからだ。自分を飾ったり、つくったりしたこともある。

 しかしそれでは、聞きに来てくれた人の心をつかむことはできない。役にもたたない。

 そこでは私は、講演をしながら、その講演を利用して、自分をさらけ出すことに心がけた。あ
りのままの自分を、ありのままに話す。それで相手が、私のことを、「おかしい」と思っても気に
しない。そのときは、そのとき。

 自分に居直ったわけだが、そうすることで、私は自分にすなおになることができた。そう、もと
もと、私は、どこかゆがんだ人間だった。(今も、ゆがんでいる?)私のこうした生きザマが、ギ
クシャクした親子関係で悩んでいる人のために、一つの参考になればうれしい。

【注】この原稿は、W小学校区の教員研修会のための資料として書き始めたものです。まだ公
表できるような段階ではないかもしれませんが、マガジンにこのまま掲載します。時期をおい
て、また書き改めてみます。

(※1)実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約
200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感
じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待しているこ
とがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

同じく妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をして
いるという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成
し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2
点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494
人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。




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【思春期の男子】

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男子は、どのようにして、性にめざめるよ
うになるのか。

私の経験をまじえながら、それについて書
いてみたい。

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●私の個人的な体験

 私の個人的な体験が、そのまま、すべての男子に当てはまるとは、かぎらない。しかし私が、
ごく平均的な男子だったとするなら、私の個人的な体験を話すことは、男子をもつ親、とくに母
親たちにとって、何かの役に立つかもしれない。

 そんな視点で、「男子が性にめざめるころ」について、書いてみたい。しかし内容が内容だけ
に、そのまま書くわけにはいかない。それに当時と今とでは、時代もちがう。環境もちがう。くわ
えて、私が生まれ育った環境は、それほど、恵まれたものではなかった。戦後のあのドサクサ
が、まだ色濃く残っていた時代でもある。

 私は、小学3、4年生ごろまで、平気で女湯に入っていた。銭湯での、話である。一応、男湯
の脱衣所から銭湯にはいるものの、隣の女湯のほうに、母や姉がいたりすると、番台の前を
すりぬけて、女湯の方へ走っていったりした。

 が、当然のことながら、そこでは、卑猥(ひわい)な感じは、まったく覚えなかった。今、頭の中
をさがしても、思い出として残っているシーンは、何もない。

 むしろ、あるとき、湯船の中央に、ポッカリと、だれかがした大便が浮かんでいたのは、よく覚
えている。私が、小学2、3年生のころではなかったか。

 それともう一つ、これは鮮明に覚えているが、だれかが、立ったまま、体を前にかがめて髪の
毛をゆすいでいるところ。その女性の尻が、ちょうど、私の目の高さのところにあった。私は、
その女性の性器を、まじまじと見てしまったわけだが、美しいものを見たという覚えはない。くし
ゃくしゃのシワだらけ……といった印象をもった。

 あとは、ない。

●お医者サンごっこ

 が、そんな私だが、別のところでは、女子の体に興味をもつようになった。当時は、(今もそう
だが)、そうした遊びは、「お医者サンごっこ」と呼ばれていた。患者にみたてた女子を裸にし
て、その女子の体のあちこちを調べた。

 最初に私が、それをしたのは、小学3,4年生くらいのときではなかったか。相手の女の子
は、小学1、2年生だったと思う。まわりに、3、4人の男子だったか、女子だったか、よく覚えて
いないが、いたように思う。記憶の中では、黒い影のようになっている。

 私は、その女の子の股(また)に指を入れたが、しかし、その指が、耐えられないほど、臭くな
ったのを覚えている。そんなわけで、女性器に対する第一印象は、あまりよくなかった。

●初恋

 初恋をしたのも、そのころ。同じクラスの、Aさんという女の子が、好きになった。と、言って
も、「好き」という感覚が、まだよく理解できなかった。その女の子を独占したかった。その女の
子に関心をもってほしかった。その女の子が、ほかの男と親しげに話していたりすると、言いよ
うのない、胸騒ぎを覚えた。

 そんなわけで、私のAさんに対する行為は、かなりいびつなものだった。私に関心を示さない
Aさんに対して、私は、意地悪をした。無視したり、わざとAさんが、いやがることをしたりした。

 あるときは、Aさんのいないときに、Aさんのノートに落書きをしたこともある。恐らくAさんは、
なぜ私がそういう行為をするのか、理解できなかっただろうと思う。私の脳裏に焼きついている
Aさんは、私にいじめられて、シクシクと泣いているAさんである。

 もちろん性的好奇心というのは、男子のばあい、女性器そのものに集中する。私も、そうだっ
た。しかし初恋した相手の女性器に興味をもったわけではない。女性器に興味をもつことと、
女の子に恋をするという行為は、別々のものである。心の中で融合するということは、なかっ
た。恋は恋であり、女性器は女性器であった。

●貧弱な時代

 しかし当時は、情報源が、決定的に不足していた。町の本屋にしても、その種の本を置いて
ある店はなかった。あったとしても、上半身ヌードの写真の載っている雑誌程度。しかしその雑
誌を盗み見することで、かなりの興奮状態になることができた。

 当時の私は、女性器よりも、女性の豊かな胸のほうに、興味をもった。

 そんな時代だったが、いくつかの事件(?)が、あった。

 どこかの病院へ行ったときのこと。待合室で並んでいると、隣の席にすわった女性が、赤ん
坊に乳を与え始めた。私はそのとき、心臓が止まるのではないかと思うほど、ショックを受けた
のを覚えている。小学6年生くらいのころではなかったか。

 つぎに、こんなこともあった。

 私が、ひとりで風呂に入っていると、突然、近所の女性が、「いっしょに、はいるよ」とか何とか
いって、湯船に飛びこんできた。私が中学1年生のときのことで、その女性は、まったくといって
よいほど、そういうことに無頓着な人だった。

 そのとき、その女性は、20歳前後。今でも、名前も知っている。ときどき会うこともある。大き
な胸が、強烈すぎるほどの衝撃を私に与えた。私は、勃起したペニスを隠すのに、たいへんな
苦労をした。

 で、そのあとも、1年周期くらいの間隔で、好きな女の子ができた。が、デートをしてみたいと
思ったことはあるが、しかしセックスまでは考えなかった。そういうのを、あとになって、「プラト
ニックラブ」と呼ぶということを知った。

●恋とセックス

 恋が、セックスと一致するようになるのは、男子のばあい、もう少しあとではないか。私の経
験では、高校生から、大学生にかけてのこと。そのころになると、恋イコール、セックスと考える
ようになる。

 で、女子に初潮があるように、男子にも、射精がある。時期的には、男子の射精は、女子の
初潮よりも、1、2年ほど遅れるということらしい。私のばあいも、はじめての射精は、中学1年
のころではなかったか。

 近所に、たいへんスケベな女の子がいた。年齢は、10歳くらいだった。私より、3、4歳、年
下だった。その女の子が、ある日、いっしょにテレビを見ていると、私のパンツの中に手を入れ
てきた。

 その女の子にしてみれば、ただの遊びだったかもしれない。子どものころ、その女の子とは、
ときどき、お医者サンごっこをしたこともある。私はその女の子の、するままにしていた。が、そ
のとき、突然、意識が、スーッと穴の中に落ちて行くように感じた。

 とたん、下半身がドクドクと、波打っているのがわかった。それまでに感じたことのない快感だ
った。が、射精したとまでは、思っていなかった。ただそのとき、その女の子が、こう言ったの
は、覚えている。「おしっこを漏らしたア?」と。

 以来、どれだけ射精を繰り返したかは、覚えていない。高校生になるころは、毎晩ではなかっ
たか。簡単な空想だけで、ペニスは勃起し、しばらく刺激を与えると、そのまま射精した。

 それがとても、気持ちよかった。甘ったるい、体が溶けるような陶酔感というのは、そのとき
覚える感覚をいう。が、それは決して許されるべき陶酔感ではない。男子が射精するときは、
いつもそこに「女」を想定する。モノとしての、女である。そのため、いつも、射精するときは、あ
る種の罪悪感を覚える。「してはいけないこと」という罪悪感である。

 たとえばのぞき見という行為がある。銭湯で、入り口に立つと、ときとして、女湯のほうの脱衣
所で、衣服を脱いだ女性を見ることがある。しかしのぞきは、悪いこと。頭の中では、それがわ
かっている。しかし、見たい……。それが、姿を変えて、罪悪感に変化する。

 ……こうして、私は、思春期を迎え、性にめざめた。が、これはあくまでも、男子のばあい。女
子については、よく知らない。わからない。

●まとめ

 で、そういう自分を、客観的にまとめてみると、こうなる。

(1)女性器に強い関心をもつ。
(2)女性の体、とくに乳房に、強い関心をもつ。
(3)関心をもっただけで、勃起が始まる。
(4)こうした関心は、恋心とは、まったく無関係。
(5)男子のばあい、射精には、いつも罪悪感がともなう。
(6)最初の射精は、夢精で始まることが多い。
(7)一度、射精の陶酔感を覚えると、毎日でも、オナニーをするようになる。
(8)そうした思いが、積もりに積もって、いよいよ実行(初体験)ということになる。

 そこであなたの子どもが、思春期を迎えたら、こんなことに注意したらよい。

(1)罪悪感をもたせないようにする。……子どもの性的な好奇心を、笑ったり、茶化したりしな
い。
(2)ごく自然な行為として無視する。……見て見ぬフリというか、暖かく、包みこむように、無視
する。もちろん、親のほうから助長する必要はない。

 あとのことは、子ども自身が自分で考え、決めて、行動する。人間の遺伝子の中には、あな
たの指導を超えた、プログラムがすでに組みこまれている。それに静かに従う。

++++++++++++++++

子どもに嫉妬する、母親について
書いた原稿を、添付します。

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●愛

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昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。あるいは嫁
いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、「お前をの
ろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋をしまし
た。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バッグの中
からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こんな女のどこが
いいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間として、子
どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずることが多
い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっしょに料理を
したり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子どもを位
置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親が子ども
に感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだいているかを、知
ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どうだっただ
ろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もどきの
愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいとい
う愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種類の親と考えてい
い。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になったり、事故
にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそが、愛
の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と言った
ら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということになるのか
な。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い分ける
ことはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっているだけ
かもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自信がない。
だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。するとワ
イフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それでいいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。しかし私
には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がもっている愛は、
マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたようなものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解してい
る。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気がつくかというこ
と。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出た娘
に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、「私は息
子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただより深い愛
が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、そうい
うものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、今、本当
にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけているだ
けかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行していく
かということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)





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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。
(はやし浩司 子どもへの愛 子供への愛 エロス ストーゲイ アガペ ルダス マニア プラ
グマ 子供を愛せない親 愛せない母親 はやし浩司)




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【家族自我群による幻惑(板ばさみ)】

+++++++++++++++++++

なぜ、親子関係は、特殊なのか。
独特の親意識は、なぜ、生まれるのか。
独特の子意識は、なぜ、生まれるのか。
そしてその意識の中で、なぜ、親は苦しみ、
子は、苦しむのか?

+++++++++++++++++++

●敏感期をとおしてなされる、刷り込み(インプリンティング)

 家族であるということにより、人は、生まれながらにして、特殊な意識を、いわば本能に近い
形で、脳の中に、刷り込まれる。人間にも、鳥類に似た、刷り込み(インプリンティング)がある
ことが、最近の研究でも、わかってきた。この刷り込みのなされる時期を、「敏感期」と呼んでい
る。

 こうして親子の間には、本能に近い関係ができあがる。「切っても、切れない関係」が、できあ
がる。

 しかしここで誤解していけない点は、2つある。

(1)刷り込みによってできる人間関係は、あくまでも子どもの側から、親に対してのものである
ということ。(これに対して、同時期を通して、親側にも、同じような刷り込みがなされるという説
もある。)

 少なくとも、コンラット・ローレンツが発見した、刷り込みというのは、そういうものである。最初
に聞いた、音を、自分の親の声と思い込んだり、最初に見たモノ(生き物でなくてもよい)を、自
分の親と思い込んだりする。

 この刷り込みをとおして、子どもは、自分の親を、絶対的な存在としてとらえるようになる。
が、親側にも、それと同じだけの刷り込みがなされるとはかぎらない。わかりやすく言えば、子
どもが親を絶対的と思うほど、親は、子どもを絶対的と思うということはないということ。

 親なしでは、子どもは生きていかれないが、「親だから、子どもを愛しているはず」という常識
(?)は、あくまでも、一般論にすぎない。

 この意識のズレが、さまざまな問題の原因となることがある。あとに書く、ある息子の話が、
その一つである。

(2)こうした刷り込みがなされるためには、ごく平均的な、育児環境が必要不可欠であるという
こと。刷り込みがなされる段階で、親側に、育児拒否、冷淡、無視、愛情不足、家庭騒動など
があると、刷り込みそのものが、じゅうぶん、なされないことがある。

 「子どもだから、親のことを慕っているはず」という常識も、あくまでも、一般論にすぎない。

●強烈な幻惑

 こうしてなされる刷り込みには、強烈なものがある。ここに書いた、「本能に近い関係」という
のは、それをいう。

 一度、その刷り込みがなされると、その人は、「子」として、生涯にわたって、がんじがらめに
拘束される。こうした「自我意識」を総合して、「家族自我群」という。

もちろん親子関係が、それなりに良好であれば、問題はない。ベタベタの親子関係であろう
が、あるいはまた淡白な親子関係であろうが、それはそれとして、家族自我群は、家族をまと
め、団結させる原動力となる。

 しかしひとたび、親子関係が変調してくると、こんどは、その家族自我群が、その親子(とくに
子ども)を、苦しめる元凶となる。子どもは、悶々とした苦しみの中で、まさに悶絶する。これを
「幻惑」という。わかりやすく言えば、「板ばさみによる苦悩」ということになる。

 こうした例は、多い。

 ある父親(65歳前後)には、収入がなかった。それで、ときおり息子(40歳前後)の会社まで
やってきて、金をせびった。息子は、そのつど、いくらかの金を渡して、父親を帰した。

 そこへ叔父(父親の弟)が、割って入ってきた。「子なら、ちゃんと親のめんどうをみろ」と。

 しかしその息子には、それができなかった。その理由も、言えなかった。

 父親が一度、息子の家に泊まったときのこと。結婚して間もないころのことだった。父親は、
息子がいないときに、息子の妻(嫁)を、うしろから抱きあげ、レイプしてしまった。息子が、妻
(嫁)から、その話を聞いたのは、事件があってから、1年くらいたってからのことだった。

 息子の妻(嫁)は妻で、自分にスキがあったことに、苦しんでいた。話せば話したで、夫は不
快な思いをするだろう。だから1年近くもだまっていた。が、その父親が、そのあとも、たびた
び、息子の家に寝泊りするようになった。金もせびるようになった。それで、ある夜、妻(嫁)
は、意を決して、すべてを息子(夫)に話した。

 「あなたのお父さんだったから、抵抗できなかった……」と。

息子は息子で、その話を妻(嫁)から聞いたあと、毎晩、寝る前になると、熱にうなされるような
症状が出るようになった。苦しんだ。そういう状態が、10か月近く、つづいた。

 「他人なら、この野郎!、と殴って、しまいにすることができますが、親となると、そうはいきま
せん。日中は、それを忘れていることができるのですが、夜になると、それを思い出し、苦しみ
ました」と。

 そうした事情も知らず、叔父は、息子に「親のめんどうをみろ」と。

●意外な展開

 その息子は、「母にだけは……」と思い、機会があれば、母にそのことを話すつもりでいた。
が、その日は、すぐやってきた。

 息子の実家が、台風で被害を受けた。かなりの補習費が必要になった。その大半を、負担す
るように、母親が、息子に言ってきた。息子が30歳くらいのときのことだった。

 が、息子の実家への思いは、すでに消えていた。「被害を受けた部分を取り壊せばいい」「家
を半分の大きさにすればいい」と、息子は、主張した。が、これに対しても、叔父が口をはさん
できた。

 「先祖を守るのは、子孫の義務だ。実家の補習ひだ。借金をしてでも、金を出せ」と。

 しかしその息子は、その叔父との縁も、切りつつあった。叔父は、あちこちに多額の借金をか
かえていた。そのときすでに、隠し子(愛人との間にできた子)がいることも、周知の事実になり
つつあった。軽蔑すべき人間ではあっても、とても尊敬できる人間ではなかった。

 そこで息子は、母親に、話した。

 「実は、妻の○○子が……、おやじに……」と。

 息子は、その話を聞いて母親が激怒するかと思った。父親に対して、だ。しかし母親の反応
は意外なものだった。

 母親は、息子にこう言った。「うちの父ちゃん(父親)が、そんなことするはずがない。○○子
さん(妻の名前)の、作り話に決まっている。○○子さんは、結婚したときから、私や父ちゃん
(夫)を嫌っていたから、そういうウソを平気で言う。そんな女なんかとは、サッサと、離婚してし
まいなさい!」と。

 その息子は、自分の中で、母親との関係も、音を出して崩れていくのを感じた。そこで「そん
なことを言うなら、ぼくは、母さんとの縁を切る」と迫った。が、母親は、こう言って、高笑いした
という。

 「親子の縁などというものは、切れるもんじゃないのよ。切れるものなら、切ってごらん。ハハ
ハ」と。

 その一言で、息子は、母親との縁を切った。

●母の死別

 それからさらに数年後。母親の死は、突然、やってきた。

 父親(息子の父親)が、二階の寝室へ行ってみると、母親は鏡台を前に、伏せたまま、死ん
でいたという。くも膜下出血だったという。

 「その朝は、町内の会合があるとかで、化粧をするため、二階へあがっていきました。なかな
か下へおりてきないので、見に行ったら、もう死んでいました」と。

 あっけない死だった。

 が、その死が、これまた息子を苦しめた。家の改築費をしぶったことに合わせて、その前の
数年間、一度も、実家には帰っていなかった。それまでは、盆暮れには、必ず、実家へ帰り、
墓参りをしていた。

 息子は、自分が、母親を殺してしまったかのように、感じた。葬儀のときも、重く、暗い気分
が、悶々と息子の心をふさいだ。妻がレイプされた話を聞いて以来、精神安定剤は、欠かせな
い薬になっていた。ときどき、うつ病の薬ものんでいた。

 そんな葬儀の席で、またあの叔父が、親戚の人たちを前にして、こう宣言した。息子の了解
など、まったく、なしに、だ。

 「これからは、この△△男(息子)が、父親と、この家のめんどうをみる!」と。そして繰りかえ
し、息子を、なじった。

 「お前は、盆にも正月にも、帰らなかったというではないか。この親不孝者め!」と。

 父親も、母親も、息子から、毎月、5〜8万円の仕送りを受けていることを、だれにも話してい
なかった。もちろん、叔父にも。そのかわり、ことあるごとに、母親は、弱々しい声で、叔父たち
に泣き言を話していた。

 「私の両親というのは、そういう人です。お金もないのに、財産家ぶって、虚栄の世界だけで
生きてきたような人たちです」と。

●幻惑(板ばさみ)

 それでその息子の、幻惑が収まったわけではない。父親が生きている間は、その幻惑は、
悶々とつづく。

 それは恐ろしいほどの重圧感と言ってよい。息子は、こう言う。「この重苦しさは、それを経験
したものでないと、わからないでしょうね。一日とて、気が晴れることはありません。その父親
も、このところ、急速に足腰が弱くなってきました。それに、頭も少しボケてきました。

 施設に入れるといっても、まだ介護申請がとれないので、月に17〜8万円もかかります。か
といって、私の家に連れてくることもできません。妻は、おやじの顔を見ただけで、体に震えを
覚えると言っています。

 しかしあの実家に置いておくわけにもいきません。このところ、何かと、近所の人たちに迷惑
をかける事件もふえてきています。それで、お金がなくなると、今でも、会社の前までやってき
て、私に金をせびります」と。

 こうした幻惑、つまり、「親である……」「子である……」という、板ばさみ状況の中で、もがき
苦しんでいる人は、多い。本当に、多い。世の中の、何割かの家庭で、同じような現象が起き
ていると言っても、過言ではない。

 しかしこれは「子」である、あなたの問題ではない。やがて「親」になる、あなたの問題と考え
たほうがよい。

 親は親であり、子は子である。しかしその親子関係で、重要なことは、親は親として、いつ
か、子どもを、あなたがもつ家族自我群から解放してあげねばならないということ。これは親の
義務といってもよい。

 わかりやすく言えば、刷り込みに甘えてはいけない。いつまでも、ベタベタの親子関係に甘え
てはいけない。

 子どもがある年齢に達したら、子どもが、じょうずに親離れできるように、親のほうが、それを
促し、励ましてやらねばならない。そしてそれ以上に重要なことは、親は親として、しかし親であ
ることを忘れ、自立していかねばならない。

 でないと、結局は、家族自我群にせよ、幻惑にせよ、こうした「本能に近い関係」は、子どもを
苦しませることになる。
(はやし浩司 家族自我群 幻惑 刷り込み 敏感期)

【補足】

●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オーストリ
ア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学賞受賞者)という学
者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなかった。最初
に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調べたのを覚えてい
る。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、「そ
んなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、新生
児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛情の絆
(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビーが使い出した
言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、肉体
的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児症候群」
と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離れて育て
られた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・かんき出
版)。

(10)身体発育の不良
(11)知能の発達の遅れ
(12)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(13)社会的発達の遅滞
(14)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(15)睡眠不良
(16)協調性の欠如
(17)自発性の欠如と依存性
(18)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、似たよ
うな症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、そのキズは、
一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(やりなお
しのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題であることに気
づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、多い。言いかえる
と、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、そのまま、引きずっている
ことになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦しん
でいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳幼児期にあ
るかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)に苦し
んでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)があると書い
た。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られた部分)は、
(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、それは(あ
なた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも他人のことを考え
ているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られてき
た。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという問題であ
る。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れば知る
ほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということになる。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだったかを、
ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあなた自身を知る、
一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、この原稿
は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティング 刷りこ
み)




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【子どもが環境に影響されるとき】(子どもと環境) 

●オムツがはずせない子ども

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。4歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。

6歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんし
てしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。

原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば
昔の布オムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚
が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・98年)。「根
拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せているスポンサ
ーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、そ
れを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

●流産率は39%!

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。

その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい……? 実
際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階は5〜
7%)。流・死産率でも6階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。

マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての
居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの影響を受け
る。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着すぎる。

オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率が、4〜
6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。

実際、オーストラリアでは、92年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎
年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、
その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着
用を義務づけている。

が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていない? 
信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに10〜40%(日本上空で10%)
も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出る
ようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外
線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。
(はやし浩司 子供の排便異常 排便障害 紙おむつ 紙オムツ)

++++++++++++++++++++

ついでに、子どもの欲求不満について

++++++++++++++++++++

●子どもの欲求不満

 欲求不満に対する、子どもの反応は、一般的には次の三つに分けて考える。

 (1)攻撃、暴力タイプ……欲求不満やストレスが日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。
突発的にカッとなることが多く、弟を逆さづりにして、頭から落とした子ども(年長男児)がいた。
そしてその攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する。乱暴になる)と、裏に隠れるタイプ(いじめ、
動物への虐待)に分けて考える。

 (2)退行、依存タイプ……理由もなく、ぐずったり、赤ちゃんぽくなる(退行)。あるいはネチネ
チと甘える(依存性)。優柔不断になることもある。このタイプの子どもは、いわゆる「ぐずな子
ども」という印象を与える。

 (3)固着、執着タイプ……いつまでも同じことにこだわったり、あるいは特定のもの(毛布の
切れ端、ボタン、古い雑誌、おもちゃ)に執着する。情緒的な不安定さを解消するための、代償
的行為(心を償うためにする代わりの行為)と理解するとわかりやすい。オナニー、髪いじり、
指しゃぶり、爪かみも同じように考える。

 子どもがこうした症状を見せたら、まず愛情問題を疑ってみる。親や家族への絶対的な安心
感がゆらいでいないか。親の愛に疑問を抱いていないか。あるいは下の子どもが生まれたこと
などで、その子どもへの愛が減っていないか、など。

ここで「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味。はげしい家庭内騒動、夫婦不仲、
日常的な不安感、無理な学習、きびしいしつけなどが原因となることもある。よく誤解される
が、子どもにとって愛情というのは、落差の問題。

たとえば下の子どもが生まれると、上の子どもが赤ちゃんがえりを起こすことがある。そういう
とき親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっています」と言うが、上の子にしてみれば、
今まで100の愛情を受けていたのが、50に減ったことが、不満なのだ。特に嫉妬に関する問
題は、慎重に扱うこと。これは幼児指導の大原則。

 こうした欲求不満が原因で、情緒が不安定になったら、スキンシップをふやし、子どもの心を
安心させることに心がける。叱ったり説教しても意味がない。脳の機能そのものが、変調して
いるとみる。

また似たような症状に、「かんしゃく発作」がある。乳幼児の抵抗的な行動(突発的なはげしい
怒り)をいう。たいていはささいな刺激が引き金となって、爆発的に起きる。デパートなどで、ギ
ャーギャーと泣き叫ぶのが一例。

原因の第一は、家庭教育の失敗とみる。ただし年齢によって、症状が違う。1歳前後は、ダダ
をこねる、ぐずる、手足をバタバタさせるなど。1歳半を過ぎると、大声で泣き叫び、その時間
が長くなる。満2歳前後では、言葉による抵抗、拒絶が目立つようになる。自分の体をわざと傷
つけることもある。

こうしたかんしゃく発作が見られたら、家庭教育のあり方そのものを反省する。権威主義的(押
しつけ)な子育てや、強圧的(ガミガミ)な子育てになっていないかなど。「わがまま」と決めつけ
て、叱っても意味がない。あるいは叱れば叱るほど、逆効果。あとは欲求不満に準じて、対処
する。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【再び、Aさんへ】

 この時期、子どもに何か問題が起きると、親は、その原因を子どもの中に求めようとします。
そして、子どもを、なおそう(?)として、叱ったり、説教したりします。しかしこうした育児姿勢
は、正しくありません。

 原因のほとんどは、まず、家庭環境、とくに、Aさん自身にあると考え、まず、自分を見つめな
おしてみてください。あなたは、N君のウンチを臭いと言いますが、本当に、そうでしょうか?

 私も結婚当初は、ワイフの腸内ガスの臭いがいやでした。しかし35年もいっしょにいると、そ
うでなくなりました。今では、自分のそれと同じように、認め、納得できるようになりました。「臭
いな〜」とか言って、フトンをはたいて、終わりです。

 ですから、Aさんも、あまり深刻に考えないで、もう少しおおらかに考えてはいかがでしょうか。
この時期の子どもは、みんな臭いですよ。ウンチ臭、口臭、体臭、汗臭などなど。生理が始まっ
たばかりの女児などは、本当に、臭いです。ウンチの臭いなど、何でもありません。子どもたち
は、よく話題にはしますが、本気で、気にしているふうでもないようです。

 数週間前ですが、市内の中学校の廊下に、ウンチが落ちていたことが、子どもたちの間で話
題になったことがありました。多分、トイレに間にあわなかった、女子が、その途中でもらしたの
ではないかと思います。

 よくあることです。

 が、それでも気になるようでしたら、それはN君の問題ではなく、Aさん、あなた自身の心の問
題ということになります。あなたは、自信をもって、「私は、N男を愛している」と言うことができま
すか。

 そうであるなら、それでよし。もしそうでないなら、今からでも間にあいますから、もう一度、あ
なた自身の愛を、確認してみてください。方法は、簡単。

 「許して、忘れる」です。あとは、ほどよい親に心がけ、暖かい無視を繰りかえします。

 かなりきついことを書きましたが、どうか、許してください。あなたとN君のためと思い、書きま
した。
(はやし浩司 子供の大便 大便のしつけ うんち ウンチ 大便を漏らす)

【Aさんより、はやし浩司へ、返信】

お返事ありがとうございました。
私には、実の兄(37歳)と弟(30歳)がいます。

兄は知的障害者で、父と母は、兄のことでケンカばかりしていました。
私自身も小学校5年生の時、兄のことで、いじめられたり、
中学に入ってからも、兄と同じ学校に通うのが苦痛でした。

高校卒業と同時に一人暮らしをはじめ、今の主人と知り合い3年後に結婚し、すぐに息子を授
かったのです。

とても嬉しくて可愛くてしかたありません。
ですが、大きくなるにつれて、実の弟から顔が兄に似ていると言われたのがきっかけで・・・
どうしても必要以上に干渉していた自分がいました。

先生のアドバイスを最後まで読ませていただいて、
私は息子を押さえつけていたんだと。
兄は兄、息子は息子なのに。。。

ほんとうに窮屈な思いをさせてしまって。
先生、私はいつも息子を監視していたかも知れません、
だから息子も私の目をきにして何も言えなかったのだと・・・
自分の素直な気持ちを声に出して言えるように
静かに見守っていきたいです。

ありのままの息子を受け入れ、スキンシップもしっかりしていきたいです。
「まだ遅くはない」という先生の言葉に、とても救われました。

ほんとうにありがとうございました。




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●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなってくる。
これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それがわか
っていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰にな
り、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって何も話せ
なくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行くだけ。勉
強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思うのは、当時、心
のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが起きて、日本中が、こ
なごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり否定的になっていたようであ
る。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校生は、
同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に入るこ
ろから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子ども自身が
もてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そのため
大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、「拡
散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこかの大学
の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を生きることが
でいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊びが大好きだった。
そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失敗だけは、
してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子どもが、「〜〜になりた
い」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、いい。すばらしい仕事だ。そ
の仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、自分の
進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立することができる。
(はやし浩司 役割混乱)




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●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みなが、自
分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、すなおにさ
らけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。しかし
自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、好ましいと
いうことになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」を意
識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入ってしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係している
のが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だから私は絶
対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさらに肥大化し、そ
の返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、自意識
過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきたすよう
になる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君が混乱状
態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B君の顔は、どこか
ひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたりがり屋
で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人と
みてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることがで
きる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけたとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そうね」
と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的に、自意識の
過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立することになる。あ
とは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)





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●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ありのままの自分

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、その人は、
心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがったりする
と、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させられ、毎晩その
男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(6)理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(7)そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(8)自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(9)いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(10)自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康のために
は、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ近いほ
ど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶるようになった
ら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分をさら
け出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、生活のリズム
そのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気がつくのが
むずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分でなかったこ
とを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが巻きつ
いている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサリの一本、一
本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分が見えてくるのは、そ
のあとである。




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【原因錯誤】

++++++++++++++++++

ときとして、私たちは、問題の本質を
忘れ、方向性を見失うことがある。

そして本来、問題でない問題に、右往左往
し、時間をムダにする。

++++++++++++++++++

 まず、こんな問題。

【問】

 ある山の中に、オオカミが住んでいました。が、その女の子は、どうしても、隣村の、おばあち
ゃんのところへ、お菓子を届けなければなりません。

 そこで一番仲のよい、A君に、いっしょに、行ってくれるように頼みました。でも、A君は、「いそ
がしいから、いやだ」と言いました。

 しかたないので、女の子は、ひとりで、隣村まで行くことにしました。

歩いていくと、途中で、鉄砲をもったおじさんに、出会いました。女の子は、おじさんに、「オオカ
ミはいる?」と聞きました。すると、おじさんは、「たった今、撃ち殺してきたから、もういないよ」
と、ウソを言いました。

 女の子は、それを聞いて安心して、山の中を歩いていきました。しかしそこへオオカミがやっ
てきて、その女の子を食べてしまいました。

 この話の中で、一番、悪いのは、だれですか?

+++++++++++++++

 こうした問題を出すと、「隣のA君だ」「いや、ウソを言ったおじさんだ」とか、おとなたちは、考
える。中には、「女の子の親は、何をしていたのだ」「いや、女の子が悪い。危険だとわかって
いて、わざわざ、隣村に行くほうが、おかしい」と。

 しかし子どもたちは、単純にこう答える。

 「一番悪いのは、オオカミだよ」と。

 つまり私たちは、大本(おおもと)の原因を忘れ、枝葉末節のところで、不要な議論を繰りか
えす。こういう例は、日常生活の中でも、よく経験する。

 こんな例が、新聞の投書欄に載っていた。

 ともに認知症の、年老いた両親が、一個の弁当を取りあって、けんかばかりしているという。
「オレのを、お前は食べてしまった」「冷蔵庫に残しておいたのを、あんたが食べた」と。

 その弁当というのは、地域のボランティア活動をしている女性が、格安で、毎日届けてくれる
ものである。2個では、あまるということで、1個にした。

 認知症ということもあるのだろう。その老夫婦には、弁当を届けてもらえるというありがたさ
が、もう理解できない。それはわかるが、ともに老い先、長くない。けんかをしているヒマなど、
ないはず。たかが弁当のことで!

 で、こういう話を聞くと、「私は、だいじょうぶ」と思う人も多いかと思う。しかしこれと同じような
ことが、国際社会でも、起きている。

 たとえばあさって(9・13)から、K国の核問題を処理するために、6か国協議が始まる。K国
は、かねてから、「核兵器開発は、日本を対象にしたもの」と、内外で、公言している。

 日本にとっては、危険きわまりない国である。しかし状況は、韓国にとっても、同じ。本来な
ら、韓国は、もっと危機感をもってよいはずだが、このところトンチンカンな国際政治ばかり、展
開している。在韓米軍の削減を自ら申し出たかと思えば、イラクからの韓国軍の撤退まで開始
した、など。

 そしてあろうことか、反日、反米運動を、その水面下で展開している。金xxは、何百万人もの
(同朋)を餓死させ、何十万人もの(同朋)を、政治犯として処刑している。その金xxの、肩をも
つようなことばかりしている。「悪いのは、日本だ」「アメリカだ」と。

 本当のオオカミは、だれなのか。それすら、わかっていない。

 さて、先の老夫婦のケースだが、本当に悪いのは、「加齢」である。「老いること」である。もち
ろんその老夫婦には、そんなことは理解できない。だれかが説明したところで、納得もしないだ
ろう。

 が、では、私たちは、そういう問題とは無縁であるかといえば、それは疑わしい。いつも原因
を正しく見極めながら行動しているかといえば、さらに疑わしい。問題の本質を忘れ、どうでも
いいようなことで、振り回される。そういうことは、多い。

 これを、「原因錯誤」という。原因そのものを、錯誤してしまうことをいう。

 理由は、いくつかある。無知、無理解、情報不足、経験不足など。独断や偏見、誤解や思い
過ごしも、原因錯誤を引き起こす。

 子育ての場でも、よく経験する。

 以前にも書いたが、かん黙症の子どもについて、「幼稚園の教師の指導が悪い。うちの娘が
こうなったのは、あの教師が原因だ」と、幼稚園へ怒鳴りこんできた父親がいた。「うちの中で
は、ふつうに話している。しかし幼稚園では、何も話さない。どうしてだ!」と。

 あるいは母親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。しかし母親自身は、
それに気づいていない。「どうしてうちの子は、グズなのでしょう」「もっと、ハキハキさせる方法
はないでしょうか」などと言って、相談してくる。

 ほかに、ADHDの初期症状を示した子どもを、はげしく叱りつづけた親や、学校恐怖症にな
った子どもを、「わがまま」と決めつけて、無理やり学校へつれていった親などもいる。

 さらに夏場になると、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを、子どもに食べさせる親がい
る。そういうものを一方で食べさせておきながら、「うちの子は、小食で困ります」は、ない。缶ジ
ュースにしても、そうだ。体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60
キロのおとなが、4本、飲む量に匹敵する。おとなでも、4本は飲めない。

 さらに大きな問題では、受験競争がある。なぜ、この日本に受験競争があるかといえば、歴
然とした、不公平社会があるからにほかならない。この不公平社会を放置したまま、受験競争
の弊害をいくら説いても、意味はない。

 少し、話はそれるが、こんな例もある。

 あるとき、ある神社に一人の母親がやってきて、こう言った。「うちの子の病気が治ったの
は、ここの神様のおかげです」と。そしてその場で、100万円の入った袋を差し出した。

 そこで神主が、理由を聞くと、こう言った。「先日、息子の病気が治るようにと、ここで願(が
ん)をかけました。その願がかなったので、お礼に来ました」と。

 しかしこのばあいでも、本当に病気を治したのは、神様ではない(失礼!)。病院の医師であ
る。しかしこうしたものの考え方になれている人は、そういう論理では、ものを考えない。病気に
なっても、また事故にあっても、原因は、もっと別のところにあると考える。

 そう言えば、10年ほど前、ある受験塾の経営者がこんな話をしてくれた。「目的の高校や、
大学へ入学したとしても、私たちのところへ礼を言ってくる親や子どもは、まず、いません」と。

 だからといって、受験塾の経営者の肩をもつわけではない。しかし受験塾といっても、親身に
なって子どもの勉強を教えている先生は、多い。

 しかしそういう親や子どもでも、神社などには、お礼に行く。受験を指導してくれた先生のとこ
ろへは、行かない。考えてみれば、これも、原因錯誤のひとつということになる。

 が、こうした原因錯誤は、すべてが、無知と無理解によって、起こる。それで害がないばあい
もあるが、深刻な害をおよぼすばあいもある。

 21世紀になった今でも、子どもの病気を、手かざしや、祈念で治そうとする親もいる。原因を
冷静に見つめる思考力さえ、ない。そこで、だれだったか忘れたが、こう言った哲学者がいた。

 『無知は、罪悪なり』と。

 つまり無知であることは、それ自体が、罪悪であると。決して、無知であることに、甘んじてい
てはいけない。
(はやし浩司 原因錯誤 無知と罪悪 無知は罪悪 無知 誤解 情報不足)





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●老人を、どう相手にするか

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佐賀県にお住まいの、UTさん(女性)
より、こんなメールが、届いています。

「がんこで、聞き分けのない義父を、もて
あましている。どうしたらいいか?」と。

佐賀県といえば、男尊女卑傾向が強い県
として、全国にもよく知られている(?)。

++++++++++++++++++

 脳梗塞や損傷、機能低下などにより、脳にダメージを受けると、部位によっては、人格そのも
のが変わってしまうということもある。

 たとえば、

大脳皮質全般……失見当識、
上側頭回、下前頭回……失語症、失読症、
海馬を含む、側頭葉内側面……記銘力低下、健忘症
前頭葉、前頭頂……注意障害、半側空間無視
前頭葉……実行機能障害ほか。

(以上、「臨床心理学」日本文芸社より)

 老齢になればなるほど、何らかの脳機能障害があるとみる。こうした変化は、多かれ少なか
れ、どんな老人にも共通して見られる。老人と同居したことのある人なら、だれでも知ってい
る。

 要するに、がんこになり、かたくなになり、融通がきかなくなる。それに加えて、精神面での変
調が、より顕著になってくる。日常的な喪失感、抑うつ感、閉塞感、無気力感、空虚感などな
ど。病気の心配も、絶えない。

 私も、生まれながらにして、祖父母との同居生活を経験している。そういう生活を思い起こし
てみて、一つ、気がついたことがある。それは、私自身の母についてもそうだが、「老人は、相
手にしない」という鉄則。

 陰でいくら、批判や批評はしても、本人の前では、何も言わない。一応、従ったフリをして、や
りすごす。どうせ相手にしても、わかってもらえるような人たちではない。わかってもらったところ
で、どうしようも、ない。老人は、老人として、そっとしておいてやるのも、思いやりというものか。
ルールというよりは、エチケットのようなものかもしれない。

 たとえば少し前、私は、私の母は迷信深かったと書いた。しかしそういう迷信に反発したの
は、私が高校生になるころまでで、それ以後は、無視するようにした。私の価値観が、どこまで
も私個人の価値観であるように、母の価値観は、どこまでも母の価値観である。

 一方が、一方的に、相手の価値観を否定することは、許されない。いわんや、老人には、そ
れまでに積み重ねてきた、人生がある。それが正しいとか、まちがっているとか、そういうことを
判断すること自体、まちがっている。してはならない。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみるとよい。

 ある父親は、苦労に苦労を重ねて、息子の学費を用意し、大学を卒業させた。どこかに犠牲
心があったのかもしれない。その父親は、こう言った。

 「先生は、子どもに恩を着せてはいけないと言うが、どうしてそれがいけないのか、私には、
理解できない。それなりの苦労をしたという事実を、息子にもわかってほしい。見返りがほしい
というのではない。ほんの少しでもいいから、心から『ありがとう』と言ってほしい」と。

 私も、人一倍、苦労をした(……と思う。)今のこの日本では、息子3人を、それぞれ一応の
大学を卒業させるということは、たいへんなことだ。

 しかしそれを(苦労)と思うか、(生きがい)と思うかで、気持ちも、ずいぶんと変わってくる。
で、ときどき、私はこう思う。

 もし、息子たちがいなければ、私は、こうまで仕事の面で、がんばらなかっただろうな、と。現
に今も、そうである。

 三男が大学を卒業するまで、まだ1年半もある。その1年半について、私は、どうしても、元気
でいなければならない。そういう思いがあるからこそ、私は、運動を欠かさない。脳梗塞や心筋
梗塞にも、気をつかっている。体重も、適性体重にまで、減らした。

 苦労は苦労だが、ふと気がつくと、息子たちが、私を生かしてくれているのを、知る。この気
持ちは、ワイフも、同じである。

 今年の正月のころだったか、体の調子が悪かったことがある。そのとき、通勤途中の坂道を
自転車で登るのが、苦しかった。私は、ペダルを一回こぐごとに、(少し、大げさに聞こえるかも
しれないが)、息子たちやワイフの名前を、一人ずつ、心の中で叫んだ。歯をくしばって、がん
ばった。

 しかしそれを(苦労)としてしまうと、どこかに犠牲心が残ってしまう。「オレは、お前たちのた
めに、やってやった」と。この(やってやった)という思いが、子育てをゆがめる。親子の間に、
大きなキレツを入れることもある。

 子育ては、無私。どこまでも、無私。損得の計算を入れること自体、まちがっている。

 ……と書いても、現実には、その損得を考えながら、子育てをしている人は多い。古い世代
に近い人ほど、そうではないか。

 が、そういう人に向っても、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。その人には、そ
の人の、今度は、歴史的背景というものがある。

 封建時代の日本においては、子どもは、まさに「家」の財産だった。人間ではなく、財産。もっ
と言えば、モノだった。あの七五三の祝いも、そういう観点から生まれた風習である。「家」あっ
ての、「子ども」だった。

 そういう封建時代の亡霊を引きずっているからといって、それはそれとして、しかたのないこ
とかもしれない。だからといって、私たちの生きザマが正しいと証明されたわけでもない。その
証明がなされていない以上、相手に向って、「まちがっている」とも言えない。

 大切なことは、人、それぞれということ。

 実は、こうした見方は、老人を相手にするとき、とくに重要である。いくら心の中で、「あなたは
おかしい」と思っても、それを口にしてはいけない。相談をしてきたUTさんにしても、そうかもし
れない。聞き分けがないならないで、そういう老人に、みなが、合わせていくしかない。

 「わからせてやろう」とか、「わかってもらおう」と考えると、こちら側にストレスがたまる。たまる
ばかりではなく、家庭の中そのものが、おかしくなってくる。嫁・姑戦争に代表されるように、そう
した騒動を繰りかえしている家庭となると、ゴマンとある。

 こう言うのもおかしな話かもしれないが、私は、老人の扱い方が、たいへん、うまい。子どもの
ときから、そういう面では鍛えられている。コツは、ただ一つ。老人に合わせて、ヘラヘラしてい
ればよい。適当にあしらって、もちあげておけばよい。私のばあいは、それで小遣いがもらえ
た。

 子どももそうだが、老人も、本気で相手にしてはいけない。相手にするということは、自分も、
その老人と、同レベルであることを意味する。

 そう、ここが重要なポイントだと思う。

 同類は、同類を呼ぶというか、高潔な人のまわりには、高潔な人が集まる。しかし愚劣な人
のまわりには、愚劣な人が集まる。若いときは、いろいろな集団の中に身を置き、それなりに
いろいろな経験をすることも重要かもしれない。

 しかしある程度の年齢になったら、(私の実感では、50歳を過ぎたら)、人を選ぶ。親類だと
か、近親者だとか、そういうワクを離れて、人間として、人を選ぶ。でないと、とんでもない回り
道をすることにも、なりかねない。

 私の印象では、UTさんが、義父の言動を気にするということは、すでに、無意識のうちにも、
その義父のレベルにまで、自分をさげているのではないかということ。このことは、たとえば、そ
の義父が死んだあとに、わかる。いや、自分ではわからないかもしれない。他人の目で見てい
ると、それがわかる。

 自分が老人になったとき、それまでさんざん批判してきた両親や、義理の両親以下(失礼!)
になってしまう人は、多い。それには理由がある。

 そういう老人を批判はしても、その中から、何もつくりあげなければならない。決して、批判だ
けで終わってしまってはいけない。そうでないと、いつの間にか、同類か、さもなければ、それ
以下になってしまう。

 「うちの義父は、だめだ」「うちの義父は、わがままだ」と言うのは、しかたないとしても、では、
自分はどうあるべきか。それを同時に考えていく。そしてそれが自然な形でできるようになった
とき、UTさんは、義父を乗り越えることができる。

 ヘラヘラと笑って、相手にしない。そうなる。

【補足】

 老人にもいろいろある。学ぶべきものを感ずる老人と、そうでない老人である。

 私の知っている人の中にも、若いころは、女遊びばかりしてきた老人がいる。愛人も、何人
かいた。その愛人との間に、子どもまでつくった。見た感じは、悪くない男性だが、小ずるい男
だった。誠意のひとかけらもない男だった。

 で、今、その老人が、家族との間で、さまざまな問題を引き起こしている。そういうのを見てい
ると、そうした問題は、必然的な結果であるとしか思いようがない。

 そこで重要なことは、そういう老人とは、つきあわないこと。接しないこと。でないと、いつの間
にか、その老人のもつ、シャドウ(ユング)を、引きついでしまう。「私はちがう」「私は、ああいう
老人にはならない」と、いくら強く念じても、いつの間にか、そのシャドウを引きついでしまう。

 で、話を聞くと、その老人のまわりには、これまたそれらしい人たちが集まっているのを知る。
他人の不幸を、酒のサカナにして、笑いあっている。そんな人たちである。

 一方、学ぶべきものを感ずる老人もいる。会って話をしているだけで、こちらまで崇高な気分
になってくる。そういう老人である。

 だから人も、50歳を過ぎたら、つきあう相手を選ぶ。これは自分の人生をムダにしないため
には、とても重要なことだと思う。





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