●学校恐怖症
宮城県のEさんよりの相談】
毎回、子育てや人生勉強、毎日の生活の励みとして大切に読ませていただいております。
私は去年の11月終わり頃当時小学6年の息子の不登校について相談させていただき、丁
寧に返事を頂いた者でございます。
その時は息子が治るまで、数年かかるといわれ、ショックを受け、せめて中学からはちゃんと
登校させようと説得しておりましたが、今年4月の入学式は出席したものの、週に1〜2日登校 するといった日々をつづけております。
運動会の練習が嫌で今週からは、まだ登校していません。行きたいけれど行けないと本人は
言っています。登校前は緊張が高まり、とても辛そうです。帰宅したときは疲れきった様子です が、何とか学校へ行ったという達成感があり、少しほっとすると言います。
まだ続けて登校は無理のようですが本人は何とか学校につながっていたいようでもあります。
私もこれがいいことだとは思っていませんが、高校進学もあきらめるという覚悟もできず、本人 も高校の事は気になっているようで、休んでいてもまったく心は休まっていません。
担任の先生はとても理解があり、本人の自由にしてかまわない、いつでもクラスで受け入れ
る雰囲気と体制は作っておくとおっしゃって頂いています。
本人も私も3年生までに、続けて登校できるようになればいいね、と話しています。
このままでは元に戻って、別の底に落ちてしまうのでしょうか。不安で、辛い毎日を送っており
ます。
昨日のマガジンを拝読いたしましたら、私のやり方では、間違っているように思えました。どう
すればいいのでしょうか。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【Eさんへ……】
症状からすれば、「学校恐怖症」かと思われますが、であるならなおさら、そんなに簡単には
なおりません。(昨年11月の返事の内容については、こちらでは記録保存していませんので、 どんなことを書いたか、忘れてしまいました。が、そのときも、そう書いたはずです。)
あなたは子どもの心配をしているのではなく、つまり子どもの将来を心配しているのではなく、
自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけではないでしょうか。
今、あなたのお子さんは、心の病気にかかっています。外からはそれが見えないため、ほと
んどの親は、それを安易に考えますが、そんな簡単なものではなりません。それともあなたは、 熱を出してウンウンとうなされている子どもを見て、「学校へ行こうね」などと言うでしょうか。
学校恐怖症について書いた原稿を、添付します。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
子どもが学校恐怖症になるとき
●四つの段階論
同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状 を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し ている。
これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的
時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくし たのが次である。
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。 学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除 すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ ど移動するのが特徴。
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、 一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで 歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」 と思うことが多い。
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不 安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子 どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう になり、序々にその期間が長くなる。
●前兆をいかにとらえるか
要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪 化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校 へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含め て、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすれ ばするほど、症状はこじれる。悪化する。
※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい る。
またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境 の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日 本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども を外の世界から見た区分のし方でしかない。
(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ
こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加 わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。
●ジョンソンの「学校恐怖症」
「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期 の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。
●学校恐怖症の対処のし方
第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。 あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見 落としてしまう。
しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多い。
ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。 その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り 続けた。
が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて すむかもしれない。
また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」 と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに 電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち に、症状はますますこじれる。
第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈 をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服 装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様 子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる が、こうした行為も避ける。
回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた ら、回復期は近いとみてよい。
要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。
●不登校は不利なことばかりではない
一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児 だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不 登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして 学校へ行かなくなった理由として、
友人関係 ……四五%
教師との関係 ……二一%
クラブ・部活動 ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 学校恐怖症 不登校 登校拒否)
【Eさんへ、再び……】
「3年生までに……」という言い方で、時限を決めて説得しても意味はありません。またそうい
う言い方をすると、かえって子どもを、窮地に追いこんでしまうことになります。(恐らく、幼少期 のときから、そういう条件づけ的な子育て法が、日常化していたのではないでしょうか? もし そうなら、できるだけ改めてみてください。)
「週に1、2度、学校へ行っていた」ということですから、その時点で、「よくがんばっているね」
式のねぎらいが大切だったかと思います。が、あなたは、「つづけて登校する」という意識に、ど こかでこだわっているように思います。
これはEさんの例ではありませんが、子どもがやっとのことで、子どもが学校へ行くようになっ
たケースがあります。しかし行くとしても、午前中だけ。するとその母親は、私にこう言いまし た。「何とか、給食まで、みなと、いっしょに食べてくれるといい」と。
こうした無理(欲望)が、症状を悪化させます。もしその子どもが給食を食べるようになると、
今度は、母親は、「何とか、午後まで……」と言い出すのです。
Eさんは、いかがですか? そういうことはありませんか?
私の印象では、あなた自身の緊張感がつづくかぎり。家庭の緊張感もつづき、ついで、子ど
もの緊張感も、とれません。「学校とは行かねばならないところ」という、強い、信仰にも似た信 念を、あなたは、もっているのではありませんか。それが、あなたのいう、「このままでは元に戻 って別の底に落ちてしまうのでしょうか。不安で、辛い毎日を送っております」という言葉の中に 感じます。
たいへんお気持ちは、よくわかりますが、ここであせっては、かえって症状をこじらせてしまし
ます。子ども自身も、「高校へは行かねばならない」という、重圧感を感じていますし、それに束 縛されています。
そういう重圧感や束縛感の大半も、実は、親が長い年月をかけて、半ば、無意識のまま子ど
もに植えつけてきたものではないでしょうか。
今は、しばらく、静かに回復期を待つしかないようです。もし何かに強いこだわりをもっている
ようなら、一度、心療内科を訪問なさってみてはどうでしょうか。今は、副作用の少ない、よくき く薬もあります。子どもによっては、数日のうちに、ウソのように改善するケースも、私は見てい ます。
しかしそのときでも重要なことは、「それでなおった」とは思わないこと。薬で抑えているだけで
す。ですから基本的には、対処のし方は、同じです。「無理をしなくていいよ」です。
仮に1日、学校へ行きそうな日があったら、「午前中で帰ってきなさいよ」と。週に2、3日、学
校へ行くようになったら、「1日行けば、じゅうぶんよ」と。そういう言い方をします。
できますか? あなたなら、できますか?
実はあなた自身が、学歴信仰というカルトの呪縛から、心を開放しなければなりません。この
問題は、一見、子どもの問題に見えますが、あなた自身の問題だということです。
多分、以前私が書いた返事は、今でも正しいと思います。どうか、もう一度、読んでみてくださ
い。さらに必要なら、グーグルかヤフーの検索エンジンで、「はやし浩司 学校恐怖症」を検索 してみてください。お役にたてる記事をヒットできるはずです。
では、失礼します。
(はやし浩司 学校恐怖症 不登校 学歴信仰)
【読者の方へ】
毎日多くの相談をいただきます。ありがとうございます。
しかしながら、そういう相談に対して、返事を書くとき、いただいた相談内容を、私の原稿の
ほうへ転載しなければならないときがあります。もちろんお名前や住所、家族構成などをこちら で、その方とわからないように改変します。
が、それでも、「転載はだめ」などという返事をいただくと、率直に言って、返事(原稿)そのも
のが書けなくなってしまいます。
そんなわけで、相談があるときは、できるだけ、掲示板か、相談フォームを利用してくださると
うれしいです。そちらのほうへ書いてくだされば、転載許可を求めるという手間もはぶけます し、あとあとのトラブルを避けることもできます。
よろしくご理解の上、ご協力くださいますよう、心から、お願いします。くれぐれも、よろしくお願
いします。
●エディプス・コンプレックス
エディプス・コンプレックス
ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。
テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王 子として育てられる。それがエディプスである。
そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。
そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。
が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。
そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。
この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思 想のキーワード」(講談社現代新書))。
つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ バルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視すると いうことも、これに含まれる。)
私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米 のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるい は女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつ つあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。
つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。
現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、 当たり前になっている。
家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、 まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ な意味において、明確ではない。
少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあい
によっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。
しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多 いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。また親なら子どもを愛しているはず、子ども ならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当て はめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なく ない。
ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ る。
小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、 つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置 いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするは ずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にから れた。
こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ がんだ嫉妬心だ。そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかっ たのを覚えている。
「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)
話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。
●夫婦が仲よすぎるのも考えもの? ひょっとしたら、あなたの子どもは、そういうあなたたち
夫婦を見ながら、さみしく思っているかもしれない。
(はやし浩司 エディプス エディプスコンプレックス ソフォクレスの戯曲 ギリシャ ギリシャ神
話 エディプス 父親への嫉妬)
●性格
●子どもの性格
「?」と感ずる子どもは、少なくない。しかしそれが「性格」「性質」という範囲で、理解できるな
ら、問題はない。
が、そうした「?」が、過度、もしくは極端になって、対人関係で支障をきたすようになることが
ある。心理学の世界では、「パーソナリティ障害」という。子どものばあい、その「?」の部分を 感じたとき、それをていねいに観察することで、将来、起こすであろう人格的な問題を、かなり 正確に知ることができる。
(1)おかしなことを口にする子ども
(2)感情の起伏がはげしい子ども
(3)自分の心の状態を、隠したり、偽ったりする子ども
いろいろなタイプに分類できるが、この中でも、とくに(3)の、いわゆる「何を考えているかわ
からない子ども」が重要。一見すると、おとなしく、従順だが、その実、つかみどころがなく、子 どもの意思が明確ではない。外に現れてこない。
いやだったら、「いや」と言う。うれしいときは、うれしそうな顔をする。幼児教育の世界では、
そういう子どもを、「すなおな子ども」という。しかしそういうすなおな子どもにするには、親側の ほうに、子どもに対する、深い愛情と、忍耐力がなければならない。
で、それを、子どもの方の側から見れば、絶対的な安心感と信頼感ということになる。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
つまりは、家庭が、なぜ家庭であるかといえば、すべては、この一点に集約される。「絶対的
な安心感と信頼感」。それがある家庭を、よい家庭といい、それがない家庭を、そうでない家庭 という。
が、その安心感や信頼感が、何らかの理由で、ゆらぐときがある。夫婦問題、経済問題、病
気、貧困、事故、事件、家庭不和、嫁姑問題など。一時的なものならまだしも、それが慢性的 につづいたりすると、子どもの心は、ゆがむ。
それがここでいう、「?」である。
ただし「?」の内容は、千差万別。しかし大きく分けて考えると、つぎの7つに分けられる。
(1)暴力的、攻撃的(反社会的行動が目立つ)
(2)他人との接触を嫌い、ひとりでいることを好む。(回避的行動が目立つ)
(3)自己中心的で目立ちがりや。態度が大きく、おおげさ(演技性性格)
(4)自分が大切にされないとわかると、機嫌を悪くする(自己愛型行動が目立つ)
(5)母親に極端に依存し、いつも母親から離れたらがらない(脅迫的不安神経症)
(6)空想にふけることが多く、ウソをつく。言い逃れをする(妄想性が強い)
(7)表情がほとんどなく、喜怒哀楽の情をほとんど表現しない。
こうした「?」の行動や言動が見られると、親は、すぐ「子どもをなおそう」と考える。しかし原
因のほとんどは、親の育児姿勢の中、そのものにある。が、親は、それに気づかない。気づこ うともしない。中には、「生まれつき、そうです」と、がんばる親さえいる。
さらに私の経験では、満5・5歳をすぎると、その「?」の部分が、その子どもの性格として定
着してしまうため、「直す」とか、「治す」ということが、たいへんむずかしくなる。つまりは、それ までの子育てが重要ということになるが、しかし気負うことはない。
子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき育て方をされれば、ごく自然な形で、ごくふ
つうの子どもに育っていく。そのことは、野に遊ぶ、動物や鳥たちを見ればわかる。人間も、過 去数10万年という、気が遠くなるほど長い年月を、その動物や鳥たちと同じようにして、生きて きた。ここ100年や200年で、その流れが変わったということは、ありえない。
大切なことは、「あるがままの子育てをする」ということ。まずいのは、そのときどきのおかしな
情報(失礼!)にまどわされて、振りまわされること。たとえば右脳教育がある。すばらしい教育 法かもしれないが、まだその安全性が、じゅうぶん確認されたわけではない。
右脳教育が、まちがっているとは、私にも断言はできない。が、もう少し私たちは、慎重であ
るべきではないのか。たとえば少し前には、(今でもあるが……)、胎教というのもあった。一面 では、効果的であり、それゆえに正しい部分もあるかもしれないが、そのあと、いろいろな弊害 が指摘されるようになった。やり方の問題もある。やはり慎重であるに、越したことはない。
とくに、0歳〜3、4歳にかけてはそうである。静かで、落ちついた環境の中で、親の愛情をた
っぷりとかけながら、育てる。それにまさる育児法は、ない。
先日も、S県在住の母親から、こんな相談が寄せられた。
「生まれてからまもなくから、いろいろな英才教育を試みてきました。乳幼児教室にも、英語
教室にも、運動教室にも通いました。寝る前には、毎晩30分、英会話のカセットを聞かせまし た。ところが1歳をすぎるころから、おかしな行動が目立つようになり、小児科でみてもらうと、 『自閉傾向がある』と診断されました。
現在、もうすぐ、3歳になりますが、ほかの子どもたちとは、ほとんど、遊びません。ときどき
奇声をあげて叫んだりしますが、それ以外のときは、黙々と絵を描いて遊んでいます。どうした らよいでしょうか」と。
……ということで、子どもの性格について書いてきたが、結局は、この問題は、子どもを育て
る親の問題ということになる。仮に自分の子どものどこかに、「?」を感じたとしても、それは子 どもの問題ではない。親の問題ということ。
たとえばここにあげた(1)〜(7)の問題にしても、原因のほとんどは、家庭にある。家庭とい
うより、親にある。そしてこうした親が作った(種)がもととなって、子どもの性格や性質をつくり あげていく。ときに、それが深刻な問題に、つながっていくことがある。先に書いた、パーソナリ ティ障害にしても、その中の1つにすぎない。
(はやし浩司 子どもの性格 性質 子供の性格 性質 パーソナリティ パーソナリティ障害)
(補記)
しかしみんな、よかれと思って、一生懸命やっている。しかしその「一生懸命」が、時として、
裏目に出る。
総じてみれば、子育てというのは、そういうもの。
問題のない子どもはいないし、それゆえに、問題のない子育てというものもない。みんな、そ
れぞれ何らかの問題をかかえている。
そこで重要なことは、(1)愛情だけは見失わずに、(2)「?」と思ったら、勇気を出して、軌道
修正していくということ。「こんなはずはない」「まだ、何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、 二番底、三番底へと落ちていく。
が、それでも、ほとんどの親は、行き着くところまで行かないと、自分で気がつかない。それ
は子育てがもつ、宿命的な問題のように思う。
●老人論
●老人は、なぜ老人臭くなるか
老人が、なぜ老人臭くなるかについては、主に、4つの要素があると思う。
(1)体力の衰え
(2)気力の衰え
(3)知力の低下
(4)社会的環境
歩き方や、姿勢が、特有の症状を示すようになるのは、これはしかたのないこと。また体力と
気力は、密接に連動している。
体力が衰えてくると、気力も衰え、好奇心や、探究心も薄れてくる。
知力については、「老人だから、衰えて当然」と考える人は多い。認知症という恐ろしい病気
もないわけではない。しかしそれなりの訓練をすれば、知力の老化は、かなり防げる。そのこと は、大脳生理学の分野でも、証明されている。
ある女性(83歳くらい)は、何か、自分にとってつごうの悪いことがあると、決まって、「私も年
だからねえ」「覚えていないねえ」と、何でも、年(とし)のせいにしてしまう。しかしそれは、ズル いというより、卑怯(ひきょう)。卑怯というより、自ら人生の敗北を認めるようなもの。しかしこ れほど、見苦しい生き方もない。
子どもが、「ぼくは子どもだから、料理の手伝いはできない」と逃げるのと同じである。
で、問題は、(4)の社会的環境。
老人は老人になるのではなく、環境の中で、自ら、自分を老人に仕立てていく。
私たち日本人は、「老人はこういうものだ」と、あまりにも安易に、その「形」をつくりすぎている
のではないだろうか。そして自ら、その「形」にあてはめることにより、(生きる活力)そのもの を、そいでいく。
しかし人生には、「区分」はない。だいたいにおいて、「区分」などというものは、人間が勝手に
頭の中でつくりあげたもの。とくに日本(東洋)では、青年期とか、壮年期とか、そういうふうに 年齢を区分して考える傾向が強い。それをさらぬ細分化したものが、つぎ。
60歳……(十干(10)と十二支(12)の最小公倍数)還暦
70歳……(人生70古来希なり)古希
77歳……(喜の崩し字が七七七)喜寿
80歳……(傘の崩し字が八十)傘寿
88歳……(米の崩し字が八十八)米寿
90歳……(卒の崩し字が九十)卒寿
99歳……(百引く一が99より)白寿
さらに……
15歳……(15にして学に志し)志学
30歳……(30にして立つ)而立
40歳……(40にして惑わず)不惑
50歳……(50にして天命を知り)知命
60歳……(60にして耳に従う)耳順
70歳……(70にして心の欲するところに従えども矩を越えず)従心
(以上、「飛行船数学」HPより、抜粋)
何かの理由なり、目的があって、こういう(こじつけ)をするようになったのだろうと思う。しかし
こういう考え方があるから、こんな母親が現れる。
私が、「お母さんも、お子さんといっしょに、何かの勉強をしたらどうですか?」と声をかけたと
きのこと。その母親は、こう言った。「私は、もう終わりましたから」と。
大学も卒業し、勉強する時期も過ぎたから、「終わった」と。しかし勉強に年齢制限はない。あ
るはずもない。
その結果として、老人特有の、「発達心理(?)」が、生まれる。「退化心理」と言うべきか。過
去の自分にぶらさがるという、回顧性もその一つ。
60歳になっても、70歳になっても、過去の学歴にぶらさがって生きている人は、いくらでもい
る。ものの考え方が、すべてうしろ向き。これでは、若者たちに嫌われて当然。バカにされて当 然。
若者が何か意見を言ったら、「世界の賢者の中には、こんなふうに言っている人もいるよ」
と、そんな話ができる老人にならなければならない。「老いては、子に従え」は、これからの老 人の生きマザではない。またそんな見苦しい依存性を、美徳としてはいけない!
社会制度としての(年齢)は、必要かもしれない。しかしそれとて絶対的なものではない。たと
えば満6歳で小学校へ入学することになっている。
しかし満7歳でも、8歳でもようではないか。あくまでも、その子どもを見て、判断する。
同じように、定年だってそうだ。あくまでもその人の様子を見て、判断する。
……と考えていくと、年齢による差別というのは、アメリカにおける人種差別と同じように考え
てよいのではないか。男女差別と同じように考えてよいのではないか。つまり、まちがってい る!
そうだ、まちがっている!
……と力んだところで、この話は、おしまい。
(はやし浩司 老人 老人の心理 老後 老後の問題)
【追記】
そこで最近、とくに言われるようになったのが、「プロダクティブ・ジジング」(ロバート・バトラ
ー)。
老人も、より生産的に生きようという考え方をいう。しかしいろいろな統計を見るかぎり、日本
の老人たちは、外国の老人と比べても、生きザマが、うしろ向き(?)。
たとえば日本の老人たちは、概して言えば、「老後を孫の世話や、庭いじりでもしながら生き
るのが理想」と考える。しかし欧米の老人たちは、概して言えば、「子どもや孫から解放され て、自分の好きなことをして生きるのが理想」と考える。
何かの調査で、そういう結果が出たのを覚えている。
が、だからといって、日本の老人の過ごし方が、まちがっているというのではない。またその
部分だけを見て、老後のあり方を決めつけてはいけない。それぞれの国には、そのれぞれの 事情と、時代的背景がある。
しかし今のままでは、日本の将来は、真っ暗。先にも書いたように、やがて人口の3分の1
が、65歳以上の老人になる。つまりは、老人だらけ。
そのとき、今のような手厚い介護制度や医療制度を、期待できるだろうか? もちろん、答
は、ノー。できない。
だからこそ、私たちの年代は、ここでいう「プロダクティブ(生産的)」な生き方をしなければな
らない。そしてそのためにも、自ら「老人」というラベルを、はがさなければならない。
以前、こんな原稿を書いた。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)
私自身の記憶をたどってみる。20代、30代の記憶は、それなりに残っている。しかし40代な
ることからの記憶が、ほとんど、残っていない?
これはどうしたことか?
そこでワイフに相談してみると、ワイフも、「そう言えば、ないわね」と。そしてこう言った。「そ
のころは、子育てで夢中で、自分の思い出をつくるヒマなど、なかったからよ」と。
そのとおり。
私たち夫婦の思い出は、ほとんどない。が、息子たちとの思い出は、ある。つまり私たちとい
うより、親は、子育てをしながら、子どもとの思い出を、自分自身の思い出として記憶する。わ かりやすく言えば、子どもの思い出イコール、親の思い出ということになる。
息子が幼稚園へ入ったとき。息子が小学校に入ったとき。卒業したとき。息子といっしょに、
プールへ行ったとき。旅行したとき。いつもそこには、息子たちがいる。つまりそれが、そのま ま、そのころの記憶となる。
しかし肝心の、私や、ワイフとの記憶が、ない! 私は何をしてきたのだろうとさえ思うことが
ある。
そこで今、子育てがほとんど終わってしまった今、何をしてきたのかと聞かれても、ハタと困っ
てしまう。これといった思い出が、何もないからだ。何かをしてきたはずなのに、思い出という と、一気に、自分たちの青春時代にまでもどってしまう。
そこでしかたないから、息子たちとの思い出にしがみつこうとするが、その息子たちは、もう巣
立ってしまった。三男にしても、身分はまだ大学生だが、休みになっても、ほとんど、家にはい ない。アルバイトにしても、東京や横浜でしている。
ポッカリと、心の中に穴があいたような気分である。
本来なら、私たちは私たちで、自分たちの思い出をしっかりと作っておくべきだった。それは
たとえて言うなら、明けても暮れても、仕事ばかりしていたようなもの。仕事をしたという記憶は あるが、それ以外は、ほとんど、ない。あまりよいたとえではないかもしれないが、それに近 い。
そのころというのは、いつもそこに息子たちがいて、その息子たちのために、毎日生きていた
ような気がする。少年野球の応援に行った。少年野球の付き添いで、キャンプにも行った。登 山もした。旅行にも行った。
しかし私たちが、そうしたいからそうしたというよりは、いつも心のどこかで、ある種の義務感を
覚えたから、そうした。犠牲になったとは思わないが、もう少し、今から思うと、別の生き方も、 あったのではないかと思う。
たとえば私たち夫婦だけなら、ひょっとしたら、30歳の半ばには、オーストラリアへ移住して
いたかもしれない。移住は無理だとしても、数年間は、オーストラリアで、好き勝手なことをした かもしれない。
しかし息子たちのことを考えたとき、それができなくなってしまった。「学校は?」「進学は?」
「勉強は?」と。そんなことを考えているうちに、そうした夢や希望は、しぼんでしまった。
そこで今、私たち夫婦が第一に考えることは、老後を、晩年ととらえるのではなく、子育てか
ら解放された、第二の人生ととらえること。自分たちらしい、心豊かな老後である。そうした生き 方を、英語では、「サクセスフル・エイジング」というらしい。「楽しい老後」という意味か。
しかし、たとえば毎日、庭いじりをしながら、孫の世話をして、のんびりと暮らすというのが、本
当に、あるべき老後かというと、どうもそうではないような気がする。「サクセスフル(成功)」と言 葉からは、そういう生活を思い浮かべるが……。
そこで最近では、さらに一歩進んで、「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」という言葉が
使われるようになった。年齢を考えることなく、老後であっても、さらに前向きに生きるということ をいう。
もちろん体力的な衰えや、知力的な衰えについては、どうしようもない。しかしだからといっ
て、ゼロになるわけではない。私は私だし、あなたは、あなた。60代になっても、70代になって も、そして80代になっても、だ。
だいたいにおいて、老いるという言葉がおかしい。日本人は、「老人」のイメージを自らつくり
あげてしまい、それに合わせて、自分を作ろうとする。つまり日本人は、老いるのではなく、自 ら老いを、自分の中に作っていく。
中には、ひとりで部屋にいるときは、スイスイと歩いているクセに、人の目を気にしたとたん、
弱々しい歩き方をする人もいる。「私も、年をとりました」を、口ぐせにしている老人も、多い。
そこで大切なことは、こうしたまちがったというか、ゆがんだ、老人観を、今、ここでたたきつ
ぶしておくということ。そして死ぬまで、その死を意識することなく、ただひたすらに、前向きに生 きていく。
それがここでいう「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」ということになる。
そうでなくても、やがて、日本人の人口の約25%が、65歳以上という時代になる。4人に1
人が、高齢者という時代である。さらにその先では、人口の約3分の1が、65歳という時代に なる。そういう時代が確実にやってくるのに、私たちは、若い人たちに甘えているわけには、い かない。
だからこそ、ますます「プロダクティブ」な生き方が、重要ということになってくる。社会に対し
て、前向きにかかわりあっていく。
そこで私なりの結論。昔の人の言い方を借りるなら、こうなる。
「今どきの、若いものに負けていられるものか!」と。
(はやし浩司 エイジング プロダクティブ エイジング 生産的な老後)
●「私」論、3つの条件
「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、いつも
「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。
そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。
(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。
しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、変化する。
とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、「私とは何か」と いうテーマについて、思い悩む。
(1)私であるという自覚
「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分のものにす
ることができる。
たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したというのであれ
ば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。
しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のしたかっ
た結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結婚生活は、ギク シャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受けいれることはできなく なる。
同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私である」とい
う自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。
もう少し具体的に考えてみよう。
あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、どこへ
行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。
しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、ときには、
いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、おぼつか ない。
そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。
勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみにも、
注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとする。
しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについては、あき
らめ、受けいれる。
が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、敗北以
外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そういう思いも ある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」と。
が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっかく新し
い服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自信をなくす。そ れが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。
が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、「私」
は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。
もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、恐れら
れればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするようになるか もしれない。
これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、マイナス
型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむようになるかもしれ ない。引きこもりも、その一つである。
私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分で描く
自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。
なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、現実の
自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。そのギャッ プに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。
(私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、第一の
条件ということになる。
(2)私はいつも私であるという連続性
あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。
ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたまま、拷
問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜査官は、敵 意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。
その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、こん
なことを考えた。
「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつうの人な
ら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。
とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしまう。人間
的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人のいる場所を、ペ ラペラとしゃべってしまうにちがいない。
が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるということは、そ
れだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。
そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カメレオン
が自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、ないということ になる。
どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であるため
の、これが第二の条件ということになる。
(3)他者との良好な人間関係
私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、「私」
を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」でありえる。
世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何もしない
わけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を作ることもあ る。
しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、他者と
のかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、他者とのかか わりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。
たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の目を感じ
ない世界で、だ。
こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう少しわか
りやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。
あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはともかく
も、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。が、猿といっ ても、知能は高く、言葉も話す。
しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中に出てく
るような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。
あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。あなた
がもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つまりいくら「私 は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしまう。
私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、はじめ
て、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。
ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」の旅
に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。
その一助になればと思い、この「私」論を書いた。
(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の悩み
自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念 はやし浩 司)
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
私も、「私」について、若いとき、悩みました。
それについて書いたのが、つぎの原稿です(駐日新聞掲載済み)
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●高校野球に学ぶこと
懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。
私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。
●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか
私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。
それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。
つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。
●懸命に生きることに価値がある
そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。
その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。
私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。
いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。
さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。
そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。
Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司
【反動形成と、シャドウ、はやし浩司のケース】
●若い母親と不倫
みなさんは、「はやし浩司」という名前に、どのようなイメージをもっているだろうか。「はやし浩
司」という人間について、でもよい。教育評論をしているのだから、多分、そういう「人間」である と、思っているだろう。……と思う。
まじめで、カタブツで、面白みのない男、と。
実際、それに近いので、私としては、何とも反論できない。しかしこれについては、言いたいこ
とが、山ほど、ある。
先日も、ワイフが、どこか遠慮がちに、私にこう聞いた。
「あなた、若い母親と、不倫したいと思ったことはないの?」と。
それに答えて、私は、こう言った。「いくらでも、ある」と。「……あった」というほうが、正しいか
もしれない。今の私は、母親たちの年齢の人から見ると、許容年齢というワクの外にいる。わ かりやすく言えば、ジジイ。そういうふうに私を見ている母親たちの思いが、私の目を通して、よ くわかる。
●不倫願望
女性だって、不倫願望を秘めている人はいくらでもいる。週刊誌などの統計(あてにならない
が……)、セックスレスの夫婦が、30%近くもいるという(週刊J・0506)。そういう女性は、 悶々とした状態で毎日を過ごしているという(同)。そういう女性たちはみな、程度の差こそあ れ、不倫願望をもっているという。
夫婦でもセックスレスになると、女性の方が、先に、自己嫌悪におちいるそうだ。「女性である
ことを否定されたような気分になる」と。
で、そういう女性、つまりは母親が、では、私のような人間を選ぶかというと、それはありえな
い。ここに書いたように、私は、そのワクの外にいる。年齢も年齢だが、職業がら、母親たちか ら見ると、私は、僧侶か牧師のような立場の人間に見えるらしい。(多分?)
つまりセックスには、まるで関心のない人間に見えるらしい。加えて、先にも書いたように、私
は、もうジジイの仲間!
30代の女性が不倫をするとしても、相手に選ぶ男性は、せいぜい、45〜50歳どまり。20
代の女性なら、せいぜい、30〜35歳どまり。50歳をすぎた私など、そのワクの外。番外。
そうまで自分を卑下することはないと思うが、そういうことも、この年齢になるとわかってくる。
●私が聖人?
で、その私だが、では、本当に、聖人かと聞かれたら、はっきりと、こう答える。「バカめ!」
と。
この世の中に、聖人など、いない。そういうフリをしているだけ。セックスや不倫に興味がない
フリをしているだけ。本当は、みんな、ある。性的エネルギーは、すべての生きる原動力の原 点になっている。あのフロイトも、リピドー論の中で、そう説いている。
思想や思考、哲学を少しくらいもった程度で、その性的エネルギーを消すことは、不可能。コ
ントロールすることさえむずかしい。
が、私は、一応、若い母親たちの前では、聖人らしく振る舞わねばならない。職業がら、スケ
ベそうな顔を見せることはできない。しかし私は、もともとスケベな人間。スケベであることが悪 いなどと、思ったこともない。
このスケベが、この世の中を明るく、楽しくしている。生きる原動力にもなっている。無数のド
ラマもそこから生まれる。
そこで私は、そうしたスケベな部分を、自分から切り離して、別のどこかに隔離する能力を身
につけた。恐らく、僧侶や牧師と呼ばれている人も、そうではないか。学校の教師や、医師も含 めて、先生と呼ばれている人も、みな、そうではないか。たとえば、若い女性の胸をいじりなが ら、ニヤニヤしていたのでは、医師の仕事は、勤まらない。
●反動形成
しかし、ここで、心理学の用語を使うなら、「反動形成」という症状が生まれる。反動形成とい
うのは、本当の自分をおおいかくしているうちに、その反動として、正反対の自分を演ずるよう になることをいう。
僧侶や牧師が、ことさらセックスの話を嫌ってみせるのが、それ。
が、この反動形成でできた部分は、まさにニセの(自分)ということになる。で、そのニセの部
分に、自分で気づいている間は、問題ない。「今の自分は、本物ではないぞ。仮面をかぶって いるだけだ」と。
しかしニセの自分を長く演じていると、どれが本ものの自分で、どれがニセものの自分かが、
わからなくなる。さらに仮面をかぶっていることすら、わからなくなってしまうこともある。
こうした人は、外見上は、すばらしい人に見える。「神様」「仏様」と呼ばれるようになることも
ある。
しかしそんな人間は、いない。人間ならだれしも、食事をし、クソを出す。オナラも出す。もしそ
の人を、高邁(こうまい)な人物に変えるものがあるとすれば、それは、(苦労)である。苦労こ そが、その人を、高める。しかしそれにも、限界がある。
さらにいくら苦労をしたからといって、ここでいう性欲が消えるわけではない。仮に、どこかの
教団に入って、10年や20年、修行したくらいで、神様や仏様などに、なれるわけがない。種族 存続のためにもっている、動物の本能は、それほどまでに強力なものである。
が、反動形成の恐ろしさは、ここで止まらない。
●シャドウ
反動形成をつづけていると、いつしか、別の心のどこかに、そのカスがたまり始める。これが
シャドウである。よくある例としては、人前で、無理に善人ぶっている人が、まったく正反対の別 の人格をもつことがある。
ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)のような、病的な二重人格者は別として、それを薄
めたような人なら、いくらでもいる。あなたのまわりにも、1人や2人くらいはいる。あなた自身 が、そうである可能性も高い。
で、私のこと。
私がそういう二重人格性に気づいたのは、30歳くらいのことではなかったか。職場での自分
と、家庭の中に入ってからの自分が、まるでちがうのに気づいた。ワイフや子どもたちへの接し 方も、明らかにちがっていた。
たとえばセックスは好きだったから、30歳をすぎるまで、朝晩、2回ずつは、毎日ワイフとセ
ックスをしていた。(ウソじゃ、ないぞ!)
40歳になるころまでは、毎日のように、若い母親たちの裸を頭の中で、想像しながら、眠り
についた。そのため、40歳をすぎるころまで、ティシュペーパーは、枕もとの必需品だった。
今でも、ときどき、秘めた思いを切々を感じながら、その母親と会話することは多い。しかし、
今は、その切なさが、これまた楽しい。恋くらいは、したいが、しかし相手も私をそういう目で見 てくれなければ、どうしようもない。相手にだって、男を選ぶ権利がある。私の一存だけで決め ることはできない。
いや、仮に相手のその気があっても、それを確かめる術(すべ)はない。まさか、「私と不倫し
てみたいと思いますか?」と、聞くわけにもいかない。
●行動までの距離
言い忘れたが、(思い)と、(行動)との間には、大きな距離がある。
「不倫をしてみたい」と思うのと、それを実行することの間には、大きな距離がある。その距離
感が、倫理であり、道徳ということになる。私には、かろうじてだが、距離を保つだけの倫理観 や道徳観がある。(本当に、かろうじてだが……。)
が、こんなことは考える。
近くに、私のことをあまり好きでない女性がいたとする。私もその女性を、あまり好きではな
い。そういう関係なら、たがいに割り切って、セックスフレンドには、なれるのではないか、と。
どちらかが一方を、本気で好きになってしまったら、困る。こういう問題は、一度、こじれると、
たがいの家庭を破壊する。
で、話を少し戻すが、私は、自分の仮面に気づいた。そして自分の反動形成にも、気づい
た。邪悪なシャドウができつつあることにも気づいた。
そこで私は、どうしたか?
●自分をさらけ出す
もうお気づきのここと思う。自分自身を、赤裸々に語ることによって、仮面をぬぐ。そしてシャ
ドウを消す。
聖人ぶることだけは、やめたい。つまり、わかりやすく言えば、そのために、この原稿を書い
ている。この文章を読んで、「林も、バカだ」「何も、ここまで自分のことを告白することもあるま い」と思っている人も多いかもしれない。
しかし、私は、あえてありのままの自分を語ることで、その仮面をぬぐことができることを知っ
た。このエッセーは、そういう目的をもって、自分のために書いた。
で、もしあなたも、本当の自分を隠し、その反動として、仮面をかぶっているようなら、そんな
仮面など、一度、脱ぎさってみたらよい。ありのままの自分を、そのままさらけだしてみたらよ い。
そうすることは、自分を知り、自分を取りもどすためには、とても重要なことだと思う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ 反動形成 シャドウ 偽の私 本物の私)
【ポケモンカルト】
私は、7、8年ほど前、『ポケモンカルト』という本を出版した。かつて『人間の条件』という本を
出して話題になった、三一書房から、である。
が、この本は、今でも、その世界の人たちには、(トンデモ本)と呼ばれている。「とんでもない
ほど、バカげた本」という意味である。
なぜ、そういう評価をもらったか? ……それには理由がある。
私は、この本をとおして、カルト教団と呼ばれる、宗教団体を攻撃した。宗教団体というより、
カルトそのものを、攻撃した。だから身に覚えのある団体は、この本に、猛反発した。
しかしこの本は、決して、(トンデモ本)ではない。ないことは、良識ある人に読んでもらえば、
すぐわかる。全部を紹介するわけにはいかないので、その一部を、紹介する。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●謎の集団自殺事件(ポケモンカルトより)
九七年の三月下旬。巨大なすい星が地球に接近してきた。ヘール・ボップすい星である。今
世紀最大のすい星とも言われ、春が終わるころには、巨大な尾を北西の空に見せるようにな った。
このすい星はその前後、数か月にわたって、地上でも観測されたが、そのすい星が去るのに
時を合わせて、アメリカで奇妙な集団自殺事件が発生した。第一報は、九七年三月二七日に もたらされた。毎日新聞は、次のように伝えている。
大邸宅で集団自殺?
【ニューヨーク二六日】
●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外で、二六日午後三時一五分(日本時間二七日午前八
時一五分)ごろ、集団自殺とみられる多数の遺体が発見され、地元のシェリフ(保安官)事務所 は、少なくとも、三九人の男性の遺体を確認したことを明らかにした。
●男性は一八歳から二四歳で、宗教関係者とみられる。カナダのケベック州でも、二二日、宗
教関係者ら五人が集団自殺しており、警察当局は、二つの事件の関連を調べている。
●現場は、サンディエゴの北、三二キロの高級住宅地ランチョ・サンタフェにある豪邸。地元テ
レビ局によると、邸宅は牧場に囲まれ、プールやテニスコートもついている。昨年一〇月から グループが借りて暮らしていたという。近所の人の話によると、邸内には、五〜一〇人程度の 白人の中年男女が暮らしていたという。
●死亡した男性らは、いずれも黒っぽいズボンに、テニスシューズ姿。外傷はなく、手をわきに
そろえ、うつ伏せに倒れていたという。
続く翌二八日の毎日新聞には次のようにある。
(ヘール・ボップとともに旅立つ)
インターネットに"遺書"(米の集団自殺)
●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外のランチョ・サンタフェで二六日発見された、宗教カルト
グループ三九人の集団自殺事件で、グループがインターネットに「遺書」のような声明を残して いたことが二七日、わかった。
●声明は、「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つヘ
ール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」という内容で、空 想科学的色彩の強い同グループが、すい星の接近に触発されて、集団自殺をはかった可能 性が強くなった。
●地元の報道などによると、グループは、『ハイアー・ソース』という名で、ホームページのデザ
インなどを行う、インターネットサービス会社を経営。自分たちも『天国の門』と名づけたホーム ページをもち、教義を詳述していた。
●グループはこの中で、「ヘール・ボップすい星の接近は、我々が待ち望んだ標識だ」と述べ、
あの世へ旅立つ喜びを独自の教義で説いていた。
●一方、警察当局は、同日夕までに、三九人の死者のうち、二一人が女性。一八人が男性で
あったと発表。全員、男性とした前日の情報を訂正した。年齢も二〇歳から七二歳までと幅広 く、メンバーには黒人二人や、ヒスパニック系の人々、カナダ人一人も含まれていた。
●集団自殺は三つのグループに分け、順番にアルコール(ウオッカ)と睡眠薬の服用で行われ
た。いずれも死体の足もとに、スーツケースが置かれ、旅立ちを示唆していた。
この事件について、読売新聞も同じように報道しているが、毎日新聞の記事にない部分を補
足しておく。
●不動産業者によると、いつも宗教的な儀式のようなものが、行われていたという。ランチョ・
サンタフェは、太平洋を見おろす丘陵地帯にあり、「サンディエゴのビバリーヒルズ」とも呼ばれ ている。現場の邸宅はヤシの木に囲まれ、広大な敷地には、テニスコートやプールがあり、ワ ゴン車三台と、トラック一台が止めてあった。(二七日)
●遺体の三九人は、頭から胸にかけて、紫の布をかけて横たわっていた。遺体には女性も含
まれている。邸宅所有者の弁護士は、「借り主は、天使として米中西部に送りこまれたと信じて いる宗教団体で、『WWWハイアー・ソース』と名のっていた」と語った。
●NBCテレビによると、この集団は、二二年前から活動。脱退したメンバーに、二五日、送ら
れたビデオテープの中で、地球を離れ、ヘール・ボップすい星の陰に隠れている宇宙船(UF O)に乗るという別れのあいさつをしている。(二八日)
この事件の特徴は、たいへん科学的な側面をもったカルト教団によって引き起こされたという
ことだ。インターネットを使って、信者を集めたり、教義を説くという点も、今までの方式とはち がうし、すい星とともに、宇宙への旅に出るという発想も、SF的である。新聞記事によれば、 「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」とある。
この新聞記事だけで、彼らの教義の内容を判断することはできないが、この記事からだけで
も、彼らの教義が、いくつかの点で常識に、はずれていることがわかる。
たとえば、宇宙船という「物体」とランデブーするという発想。しかもその宇宙船は、すい星の陰
に隠れているという発想。死体の足もとに、スーツケースが置かれていたという事実。宇宙船 (UFO)とともに、「あの世」へ行くという発想、などなど。私はこの記事を読んだとき、「どうし て、UFOが、隠れなければならないのだ!」と、思わずつぶやいてしまった。
あの世へ行くこともできる宇宙の生命体が、地球人に隠れてコソコソする必要はないし、仮に
霊となって行くのなら、スーツケースは必要、ない。自分たちでスペースシャトルでも買い取っ て、その宇宙船に行くというのなら、まだ話はわかるが、「死んで行く」という発想は、どうにもこ うにも理解できない。
この事件で、三〇数名もの、アメリカ人の若者が、狂った指導者の犠牲者になった。アメリカ
のABC放送は、その教団の周辺の人たちからもインタビューを集めていたが、どの人たちも、 「会えば、感じのいい若者たちでした」と言っていたのが印象的であった。
つまりこういう不可思議な集団自殺事件を引き起こすような連中だから、日ごろから、挙動が
おかしかったかといえば、「そういうことはなかった」という。「会えば、軽くあいさつもしてくれまし たし、教団の内部も案内してくれたこともあります」と、一人の納入業者は答えていた。
この種の事件が起きると、たいていの人は、「頭のおかしな人たちが起こした事件だから」と
いうことで、自分の頭の中を整理してしまう。そして「自分たちは正常だ」と思いなおした上で、 事件があったことそのものを忘れてしまう。事実このヘール・ボップすい星にまつわる集団自殺 事件は、すい星が西の空に消えると同時に、人々の脳裏から消えた。
が、本当に私たちは正常と言えるのだろうか。この種の事件と、無関係と言えるのだろうか。
あるいはこの種の事件は、日本では起きないと言えるのだろうか。また子どもたちはそういうカ ルト教団と、無縁でいられるのだろうか。答えは「ノー」。
すでにこの日本でも、世界を驚愕させるような事件が起きている。地下鉄サリン事件もその中
に、含まれる。小さなカルト教団がからんだ、小さな事件となると、無数にある。「日本だけは別 だ」とか、「日本だけは正常だ」と考えるのは、あまりにも早計である。となると、もう一度、この 集団自殺事件について、考えてみなければならない。
よく知られた事件としては、七八年の一一月一八日に、南米のガイアナで起きた、人民寺院信
徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四人もの信者が、集団自殺をしてい る。なぜ、こんな忌まわしい事件が起きたのか。あるいは起きるのか。なぜか?
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●はびこる暴力(ポケモンカルトより)
このところ子どもたちの遊びが変わってきた。これは憶測でも何でもない。明らかに変わって
きた。幼稚園でも昼休みになると、子どもたちがそれぞれ相手の子どもをキックしたり、殴りあ ったりしている。スキがあれば、先生に頭つきしたり、飛びかかってくる子どももいる。
この傾向は、ドラゴンボールが流行したときから続いているが、今は、原因はもちろんポケモ
ン。子どもたちが身がまえるポーズを見れば、それがわかる。「超能力!」とか「特殊能力!」 と叫ぶ子どももいる。瞬間移動とか、サイコキネシスという言葉も出てくる。
サイコキネシスというのは、特殊能力の一つで、精神的遠隔操作のことをいう。わかりやすく言
えば、念力でものを動かす力のこと。が、何といっても気になるのは、「殺す」「殺せ」という言葉 が、頻繁に出てくることだ。ポケモンどうしの戦いも、たいていは、相手を殺すところまでする。 相手の力を弱まらせて、自分のポケモンとして取り込むという方法もあるが、たいていは殺す。
私「何も殺さなくてもいいのでは」
子「でも、殺すんだよ」
私「殺さなくても、仲間にしたら……」
子「でもね、ポケモンセンターへ連れていけば、生き返る」
私「だったら、はじめから殺さなくてもいいじゃない」
子「でも、戦いだから……」
私「だったら、戦わなければいいじゃない」
子「それじゃ、おもしろくない」
私「おもしろいから戦うの?」
子「そうだよ」
正確には「半殺し」というのだそうだ。死んでいるけど、死んでいない状態をさすが、こういうわ
けのわからない会話が延々と続く。子どもたちは、「戦う」「殺す」という言葉を使うことに、何の 疑問ももっていない。少なくとも、私にはそう見える。そしてその前提で、すべてを考える。
もっとも私が子どもたちに、「君たちの遊びが、ポケモンの影響を受けていると思わないか?」
と聞いても、子どもたちは「ちがうう!」と言う。子どもたちには、影響を受けているという意識 が、まるでない。
サトシが自分では戦わないことについても、子どもたちはこう言う。
私「サトシはずるいと思うよ。自分で戦えばいいのに」
子「サトシはトレーナーだよ。自分では戦わないよ」
私「でも、自分のポケモンが負けると、涙をこぼすよ。涙をこぼすぐらいなら、最初からそんな
戦いをさせなければいいのに」
子「でも、戦わなければ、強くなれない」
私「強くなれなくてもいいじゃ、ない。みんなで仲良くすれば」
この会話は、小学三年生の男児とのものである。ポケモンの中を一貫して流れているのは、
「敵は殺せ」という冷徹な哲学である。ポケモンの中では、サトシも、また相手も、勝つために は、手段を選ばない。ありとあらゆる武器と超能力を駆使して、相手を殺す。とにかく相手をや っつければよい。
ふつう宗教がからむと、戦争は陰湿かつ執拗なものとなる。相手を絶滅させるところまです
る。ともにあるところで妥協するということができないためだ。日本でも、「俺はこの信仰に命を かける」と豪語する、カルト教団の信者はいくらでもいる。カルト信仰というのはそういうものだ し、カルト教団はその上に成り立っている。
子どもたちも日常的に「殺す」「殺される」という言葉を使っていると、考え方が狂信的になっ
てくる。狂信的にならざるをえなくなってくる。もし子どもが途中で、戦うことに無意味さを感じた ら、その子どもはゲームそのものができなくなってしまう。理性や常識は、あればかえってじゃ ま。あるいは心のどこかで「おかしい」と思ったとしても、それを打ち消してしまう。これがその子 どもをますます盲目にする。
私「信仰に命をかけるということはどういうことですか」
信者「御教導様を否定するヤツは許さない」
私「許さないというのは、どういうことですか」
信者「許さないというのは、許さないということだ」
私「……具体的には、どういうことですか。相手を殺すということですか」
信者「あんたがそうとるなら、そうとればよい。そういう意味も含まれる」
カルト教団の信者も、ある一つの前提を作ると、そこから一歩も譲ろうとしない。そのがんこさ
が、信者をますます盲目にする。そしていつの間にか、とんでもないほど常識はずれのことをし ながら、それが常識にはずれていることすらわからなくなってしまう。彼らは彼らの常識の中で 生きている。
あるカルト教団では、子どもの結婚相手すら、教祖に決めてもらっているし、また別のカルト教
団では、敵対するカルト教団の指導者が倒れるようにと、毎晩のように、病気祈願の祈祷会を 開いている。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●孤立する疎外感(ポケモンカルトより)
「ポケモンなんか、しない」という子どももいるにはいる。しかし全体からみると、きわめて少数
派。しかも目立たない。一人静かにひっそりとしている。だからよけいに少数派に見える。
ほかの子どもたちがワーワーとポケモンの話をしているときでも、うつむいたまま、その『時』が
過ぎるのを待っている。へたに「ポケモンなんか、くだらない」とでも言おうものなら、袋だたきに あってしまう。
こうした集団意識は、どの時代にも、またどの世界にもある。戦前の日本は、そういう集団意
識の中で、軍国主義へと突っ走った。日本の受験制度も、学歴信仰も、その一つと言える。長 い物に巻かれていると、安心だし、その上、居心地がよい。
もっと言えば、それは人間が動物としてもっている本能によるものかもしれない。猿も集団で群
れをつくって生活している。たいていの哺乳類も群れをつくっている。さらに魚や虫も、群れを つくっていることが多い。人間だけが例外ということはありえないし、そういう本能があるという 前提で考えると、人間がもつ集団意識というものが、よくわかる。
その集団からはずれるというのは、たいへん勇気のいることである。特に、この日本ではむ
ずかしい。群れからはずれただけで、「変わり者」のレッテルをはられてしまう。この私も、ある 商社をやめて、幼稚園の講師になったとき、そのレッテルをはられた経験がある。
高校時代の担任の教師までもが、「お前だけは、わけのわからない生活をしているな」と私を
冷やかに笑った。ライバルだった連中は、「はやしは気が狂った」と、はやしたてた。そんなわ けで同窓会に出るのをひかえていたら、今度は、「はやしは、行方不明だ」と勝手に騒ぎだし た。世間というのは、そういうものだ。
ブームというは確かにある。私の時代にも、ダッコチャンブームやフラフープブームというの
があった。だから今、ポケモンブームだからといって、それが始まりでもなければ、また終わり でもないと思っている。
しかし日本中のある一定の世代が、ある時期、ある一つのものに熱中してしまうというのは、異
常なことではないか。あるいはそういうブームから離れて生きることについて、居心地悪く感ず るというのも、異常なことではないか。ブームといえるようなものならまだよいが、もしこれがま た、あの戦前の集団意識のようなものにつながったとしたら、異常などと笑ってすますことはで きない。いわんや少数派の人たちが、発言権をなくしたら、それこそたいへんなことになる。
私はその少数派の子どもとこんな会話をしてみた。
私「どうして、君は、ポケモンに興味がないのかな」
子「ママが、(ゲームを)してはいけないというから……」
私「テレビのアニメはどうかな」
子「ママが、見せてくれない」
私「でも、皆から仲間はずれにされないかい」
子「……いいんだ……」
少数派といっても、子どもの場合、自らの意思でそうしている子どもは、少ない。少数派の子
どもは子どもで、内心では「仲間に入りたい」と思いつつ、そういう思いと必死に闘っている。あ るいはそれ以上に、強い、疎外感を味わっているのかもしれない。
私の悪夢の一つに、こんなのがある。その夢の中では、ゾロゾロと高校時代の友人が一方
向に歩いていく。多分、修学旅行か何かの光景だが、皆は、これから観光バスに乗り込むとこ ろだ。
しかし私は、まだ旅館に残っていて、カバンのチェックをしている。が、そのカバンがどこかへい
ってしまっていて、ない。私はあわててあちこちをさがし回るのだが、時間だけは刻々と過ぎて いく……。たいていそのころになると、目がさめる。全身が汗びっしょりになっていることが多 い。少数派の子どもが感じている疎外感も、それに近いものかもしれない。
ここまで書いて思い出したが、以前、ある男性(四〇代はじめ)からこんな相談を受けたこと
がある。その人の妻には、六人の兄弟(男三人、女三人)がいるのだが、全員、BG会というカ ルト教団の信者だというのだ。その人の妻は、一応、その信仰から離れたところにいるのだ が、兄弟たちが集まるたびに、彼らは彼らの儀式を始めるという。
「私はその間、家内と二人で、隣の部屋で、新聞を読んだり、タバコを吸ったりしているのです
が、本当のところ、身の置き場がありません。いつものことですから、もう慣れたとはいえ、自 分もその中に引きずりこまれていくようで、不安です。
本当は引きずりこまれてしまったほうが、気が楽になるのかもしれません。そのほうが家内も
喜ぶと思います。でも、どうしてもできないのです。思想といってもたいしたものではありません が、自分には自分の思想というものがあります。それをこの年齢になって捨てろと言われても、 簡単に捨てられるものではありません。
家内はふだんは温厚な女性ですが、宗教の話になると、顔色を変えます。だから結婚以来、
宗教の話をしたことがありません。宗教の話はできないのです。夫婦の間に、できない話題が あるというのは、それだけでも苦痛なものです」と。
集団から疎外されたものでなければ、その疎外感は理解できない。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●ポケモン現象(ポケモンカルトより)
ポケモンファンの子どもをもつ母親たちに直接会って、いろいろな話を聞いた。子どもたちの
間に起こりつつあうことを知るには、まず母親に聞くのが一番である。その意見をまとめてみる と……。
●中毒化
子どもたちは、今、ポケモンのカードやシールを夢中になって集めている。子どもによって
は、数百枚単位で、それをもっている。そのカードやシールを入れる専用のケースも発売され ている。それについて、ある母親は、こう言った。
「お小づかいをやたらとほしがって困っています。テストの点数がよかったりすると、『小づか
いをくれ』などと、せがんだりします。そしてお金をもつと、一目散に、カードやシールを買いに 行きます。たいした額ではないので、今はおおめに見ていますが、どうしてああまでほしがるの でしょうかねえ」と。
●険悪化
ポケモン攻略法を解説したテレビ番組もある。朝の七時台に放映されているが、ポケモンフ
ァンたちはこの番組を欠かさず見ている。その番組の中では、どうすればカードゲームで相手 に勝てるかなどの必勝法を紹介しているが、この番組を見て、子どもたちの間で、論争が起き ることもしばしばあるそうだ。
あるいは攻略法をめぐって、口論や喧嘩に発展することもあるという。さらに「教えろ」「教えな
い」の言い争いの中で、たがいの友だち関係そのものがおかしくなることもあるという。
別の母親はこんなこともあると、話してくれた。「裏ワザを教えてあげるから、○○をよこせ
と、うちの子は、ものを要求された」と。もっともこういうことは、何もポケモンに限らず、子ども の世界ではよくあることだが、それが今、過剰になりつつある。
●退化
ある母親はこう言った。「あの歌(『ポケモン言えるかな』)が嫌いです。呪文みたいで不気味
です」と。「(ほかの)お母さんによっては、記憶力の訓練にはいいと言っている人もいますが、 私は嫌いです」とも。
また絵についての評判もすこぶる悪い。「うちの子は、ポケモンの絵をすごくこって描くのです
が、ああいうのが絵だと思ってしまうのは残念です。立体性もありませんし、絵としては、とても 見られたものではありません。絵がますますへたになっていくようで、心配です」と。私が「以前 は、女の子が皆、リカちゃん人形の絵を描いたものです」と説明すると、「あれもいやな絵です ね」と、その母親は笑った。
●画一化
「うちへ遊びにくる子どもが、皆、同じことを言うのには驚きました」という報告もあった。「好き
なゲームは、ポケモン。好きなキャラクターは、ピカチュウというように、皆、同じことを言うので す。そしてテレビのアニメの時間になると、あのアニメを、皆が、食い入るように見ているので す。声をかけても誰も返事をしません。
子どもたちが、皆、画一化されていくようで、心配です」と。「ある特定の年代だけとはいえ、そ
の年代の子どもが、ほとんど皆、同じものに興味をもち、同じことをするというのは、危険なこと ではないでしょうか」という意見もあった。
●集団性
その画一化と同じような意見だが、「ポケモンを知らないと、(子どもたちの間で)、仲間はず
れにされるのでは」という意見もあった。
「お兄ちゃんのときは、うちへ遊びに来た子どもで、『何だ、お前のうちには、テレビゲームもな
いのか』と言った子どもがいましたが、今は、それがポケモンなんですね。弟の友だちが来て、 『お前のうちには、何もないのか』って。
そこでポケモングッズをいくつか買って並べておいたら、今度は、ワーワーと喜びました」と。ほ
かに「子どもたちの話を横で聞いていると、まさにポケモン一色。本当にあれでよいのでしょう か」という意見もあった。
●小粒化
たまごっちブームと前後して、ポケモンブームがやってきた。そのことについて、たがいの間
に何かの関係があるのではと指摘した母親もいた。「ともに小さいですよね」と。「小さいという ことは悪いことではないのですが、何かしら、子どもたちの世界がどんどん小さくなっていくよう で心配です。子どもにはもっと大きなものに興味をもってほしいですね」とも。
小さなゲーム機器と、小さなキャラクター。この組み合わせは、ますます子どもの世界を小さく
しているというわけであるが、子どもたちは、今、そういうものを求めている。自分の手の中に 入り、自分の思うようになるものを求めている。そういう意味でも、子どもたちの世界は、たしか に小さくなりつつある。
ポケモンについて、否定的な意見が多いのは事実で、ポケモンを好意的にとらえている母親
はほとんどいなかった。「できればああいうのは見せたくありません」と言いつつ、「しかたあり ませんから」と。私は一連の調査をしながら、母親たちの間に、あきらめというか、ある種の無 力感が漂っているのを感じた。
これは母親たちに限らない。私たちは、たとえばテレビ文化についても、意見を言えるよう
で、言えない。言っても、その意見は、制作の現場には届かないしくみになっている。
たとえば今、低俗なバラエティ番組が毎晩のように東京から流れてくるが、一地方人の立場で
言うなら、私たちは、あまりにも無力でしかない。私たちがせいぜいできることと言えば、テレビ 局に電話で抗議することぐらいでしかない。
が、そういう意見は、まずとおらない。テレビ局は視聴率で動いている。低俗であろうがなかろ
うが、視聴率さえよければ、それでよい。どうもそういうことらしいが、最近でもこんなことがあっ た。
BT氏の番組だったが、こういうのがあった。「人間の反応をみる」というふれこみだったが、
通行人が仮設トイレへ入ると、そのトイレの床が突然上昇し、便器もろとも、トイレの屋根へ押 しあげられるというものだった(九七年秋)。
いわゆるドッキリ番組の種類だが、しかしそのトイレに入ったのは、ごく一般の通行人であっ
た。トイレの中にも、またそのトイレの周囲には、それを取り囲むように、いくつかのアングルか ら隠しカメラもセットされていた。私はすぐそのテレビ局に電話をした。
私「トイレの中にカメラがありますが、入った人が女性だったら、どうしたのですか」
テ「知りませんが、女性は使いませんでした」
私「トイレの中にカメラをしかけるということが、どういうことだか、あなたは知らないはずはない
でしょ」
テ「ちゃんと了解をもらっています」
私「前もってですか、それともあとで、ですか」
テ「ここではわかりませんが、当然、了解をもらって放映したと思います」
私「しかもうんちスタイルの男性を、屋根の上まで押しあげて、それを撮影するということについ
て、あなたたちは良心に恥じませんか」
テ「はあ、やりすぎだとは、私も個人的に思いますが、しかしBTさんの番組ですから」
私「知っています」
テ「B国際映画祭で賞をとった方です」
私「だからどうなんです。だからといって、何をしてもよいというわけではないでしょ」
私にはこういうレベルでポケモンが制作され、そして子どもたちの世界にタレ流されているよ
うにしか思えない。そして今回のような事件が起き、全国で一万人以上もの子どもたちが被害 にあった……!
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●疑似体験(ポケモンカルトより)
たまごっち旋風が、世界をかけぬけた。たわいもない飼育型ゲームだが、一体このゲーム
は、子どもたちにどのような影響を与えたのだろうか。
それがわかるようになるには、もう少し時間がかかるが、この小さなゲーム機の中の、黒い点
の集まりでしかない「電子の生き物」に、子どもたちは夢中になった。誰が見てもぶかっこうな、 どうみても生き物には見えない小さな点の集まりを、子どもたちは「かわいい、かわいい」と、ほ おずりをしていた。そして宝物であるかのように、それを胸に抱き、夜にはふとんをかぶせて休 ませた。
「夜中に食事をほしがったら、どうするのか」と私が聞いたら、「しつけがよいから、夜は静かに
寝る」と。タイマーで、そうセットされているのだから、当然といえば当然だが、しかし子どもに は、それがわからない。
で、それで、つまり、こういう擬似的な生き物を飼育することによって、生き物に対する別の生
命観が生まれたかといえば、そういうことはまったく、ない。子どもたちは、相も変わらず小さな 虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回っている。あるいはたまごっちが終わって、自分で、別 の本物の生き物を飼い始めたという話は聞かない。ポケモンは、このたまごっちと姉妹関係に ある。
こうした疑似体験は、それがよいとか、悪いとか、そういう議論をとおりこして、子どもたちの
みならず、おとなの世界も支配している。いまさら疑似体験をなくすこともできないし、またその 害悪を説いてもしかたない。自動車と同じで、いくら環境破壊の原因になるからといって、自動 車のもつ害悪性を説いても意味がない。私たちがせいぜいできることと言えば、自動車を改良 するとか、できるだけ自動車に乗らないでおくということでしかない。
子どもたちは、ゲームの中であるにせよ、その中で戦い、そしてレベルをあげる。そして自分
が強くなったように感ずる。……らしい。そして一抹の充足感を味わう。
しかし疑似体験は疑似体験。ふつうの常識のある普通の人なら、疑似体験は疑似体験とし
て、現実の世界と区別して考えることができる。が、子どもはそうではない。時に疑似体験の世 界に取り込まれてしまう。そして現実の世界と区別できなくなってしまう。
嘘だと思うなら、一言でよいから、子どもにこう言ってみることだ。「ポケモンなんて、いくらやっ
ても無意味だよ」と。子どもたちは、その一言だけで、興奮し、ムキになって反論してくるだろ う。そしてその様子は、教組を否定されたカルト教団の信者の様子と、たいへんよく似ている。
たいていのカルト教団では、教組や指導者の批判をするだけで天罰があたると教えている。こ
んな手紙をもらったことがある。
何でもその女性の夫が、天罰が当たると、毎日、おびえているというのだ。つまりその人が、こ
とあるごとに、夫の宗教を批判するため、夫は、「そういう女房のために、天罰があたる」と。私 は、一度、その女性と会ったことがある。
私「深刻なようですね」
女性「深刻ですが、はたから見ていると、こっけいでならないのです」
私「しかしあなたの夫は、真剣なんでしょ」
女性「そうです。だから私には、理解できないのです。ほかの面では立派な知性もあると思わ
れるような人が、天罰があたるのではないかと、毎日、ビクビクしています」
私「カルトというのは、そういうものです。教団を批判したり、その教団から離れると、天罰があ
たると、徹底的に信者を洗脳します」
女性「教団の利益のために、ですか」
私「そうです。だいたい、ですよ。心が無限無量に広いから『仏』と言うのです。そういう仏が、批
判されたり、あるいは自分から信者が去ったことぐらいで、相手に天罰など、与えると思います か」
女性「思いません」
私「天罰をあたえるとしたら、その『仏』というのは、仏のツラをした、悪魔です。勇気をもって、
その教団を批判することです」
自分の立場で考えると、それがよくわかる。たとえばあなたが、その仏であったとしよう。絶対
に正しい、仏であったとしよう。そこでもし、そのあなたを理解できない人がいて、あなたを批判 したり、あなたから去ったとしよう。そのとき、あなたはその人に対してどうするだろうか。天罰 を与えて、制裁を加えるだろうか。
あなたは天罰など与える必要もないし、またそんなこと、考えもしない。むしろあなたを理解で
きない相手を、あわれみ、相手の幸せを願って、静かに相手を見守るにちがいない。私は仏で はないが、同じような体験を、教育の場でよく経験する。
いくらこちらが誠意をつくしても、その誠意の通じない生徒がときどきいる。そればかりではな
い。中には、私に悪態をついて、椅子を蹴っ飛ばして、教室を出ていく生徒もいる。そういうと き、いくら経験をつんでいるとはいえ、相手が子どもであることを忘れて、瞬間、「このヤロ ウ!」と思うこともある。
しかしそれはあくまでも瞬間。次の瞬間には、「どうぞご勝手に」という心境になるし、さらにそ
の次の瞬間には、「かわいそうなヤツだ」と思うようになる。しかし絶対に、その子どもの不幸は 願わない。「苦労はするだろうな」とは思っても、「苦労すればよい」などとは思わない。
ゲームの中で疑似体験をし、その疑似体験を、現実と区別できない子どもと、カルト信仰の
中で、自分を見失い、天罰があたるのではないかとビクビクしている人とは、たいへんよく似て いる。そういう人は、「天罰」という空想の世界と、「今」という現実の世界との区別がつかなかく なってしまったのだ。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
この本を書いてから、もう7、8年になる。それ以後、子どもたちを包む環境は、よくなったの
だろうか。あるいは、悪くなったのだろうか。もっと言えば、親たちは、当時と比べて、より賢くな ったのだろうか。それとも、そうではないのだろうか。
私の印象としては、ここ10年、ものを考えない人が、ますますふえているように感ずる。あく
までも、私の印象だが……。
(050616)
【子育て自由論】
●子どもに、子どもの育て方を教える
子どもに子どもの育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。
教えるだけでは足りない。身にしみこませておく。「幸せな家庭というのは、こういうものです
よ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうものですよ」と。そういう「し みこみ」があってはじめて子どもは、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができ るようになる。
●自分の過去をみる
一般論として、不幸にして不幸な家庭の育った人(親)は、子育てがへた。どこかぎこちない。
自分の中に親像のない人とみる。
ある父親は、ほとんどその母親だけによって育てられていた。(父親の父親は、今でいう単身
赴任の形で、名古屋に住んでいた。)そのため父親がどういうものであるか知らなかった? 何か子どもに問題があると、子どもを、容赦なく、殴りつけていた。このように、極端にきびしい 親、あるいは反対に極端に甘い親は、ここでいう親像のない人とみる。
また不幸な家庭に育った人は、「いい親子関係をつくろう」「いい家庭をつくろう」という気負い
ばかりが強くなり、結果として、子育てで失敗しやすい。
もしあなたが自分の子育てのどこかで、ぎこちなさを感じたら、自分の過去を振りかえってみ
る。この問題は、自分の過去がどういうものであるかを知るだけで、解決する。まずいのは、そ の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされること。
●「育自」なんて、とんでもない!
よく「育自」という言葉を使って、「育児とは、育自」と言う人がいる。しかし子育てはそんな甘
いものではない。親は子育てをしながら、子どもに、否応なしに育てられる。
子育てはまさに、山や谷の連続。その山や谷を越えるうちに、ちょうど稲穂の穂が、実るとた
れてくるように、親の姿勢も低くなる。もし「育自」を考えるヒマがあるなら、親は親で、子育てを 忘れて、一人の人間として、外の世界で伸びればよい。そういう姿勢が、一方で、子どもを伸ば す。自分を伸ばすことを、子育てにかこつけてはいけない。
●カプセル化に注意
家庭という小さな世界に閉じこもり、そこで自分だけの価値観を熟成すると、子育てそのもの
がゆがむことがある。これをカプセル化という。
最近は、価値観の多様性が進んだ。また親たちの学歴も高くなり、その分、「私が正しい」と
思う人がふえてきた。それはそれで悪いことではないが、こと子育てに関しては、常識と経験 が、ものをいう。頭で考えてするものではない。
そのため子育てをするときは、できるだけ風通しをよくする。具体的には、ほかの親たちと交
流をふやす。が、それだけでは足りない。いつも「私はまちがっているかもしれない」という謙虚 な姿勢を保つ。そして子どもを、自分を通して見るのではなく、別個の一人の人間としてみる。
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私の子どもは、私と同じように考えているは
ず」と過信している親ほど、子育てで失敗しやすい。
このカプセル化のこわいところは、それだけではない。同じ過保護でも、カプセルの中に入る
と、極端な過保護になる。過干渉も、過関心も、極端な過干渉や、過関心になる。いわゆる子 育てそのものが、先鋭化したり、極端化したりする。
●親の主義に注意
よく「私は○○主義で、子どもを育てています」などという人がいる。しかし「主義」などというも
のは、無数の経験と、試行錯誤の結果、身につくもの。安易に主義を決め、それに従うのは、 危険ですらある。いわんや、子育てに、主義などあってはならない。よい例が、スパルタ主義、 完ぺき主義、徹底主義など。
これについては、以前、こんな原稿を書いたので、ここに張りつけておく。
++++++++++++++++
●子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)
『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは 健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。
いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの 崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ を読みかえると、こうなる。
まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。
徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、 子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。
スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを 求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。
次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ るほとんどの悩みは解消する。
要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけな
い。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自 ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。
子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理
に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四 気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子 育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。
子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。 精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も いけないが、栄養不足もいけない。
子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでも
ないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。
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●あなたは神経質ママ?
雑誌「ファミリス」に掲載済み
●『まじめ七割、いいかげんさ三割』
子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなも
の。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。
たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。とき
にはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たいて いハキがなく、暗く沈んでいる。
ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内閉する。萎縮することもある。(あ
るいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、神経 質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)
●子育ての三悪
子育ての三悪に、スパルタ主義、徹底主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義という
のは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また徹底主義というのは、やることなすことが極 端で、しかも徹底していることをいう。
おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、そればかりをさせるなど。要するに子育ては
自然に任すのが一番。人間は過去数一〇万年もの間、こうして生きてきた。子育てのし方にし ても、ここ一〇〇年や二〇〇年くらいの間に、「変わった」と思うほうがおかしい。心のどこかで 「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。
●こわい完ぺき主義
完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり
子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるな ど。
このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分のエ
ゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用しているだ け。
●子育ての基本は自由
子育ての基本は、子どもを自立させること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはも
ともと、「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、(1)自分で考えさせ、(2)自分で行動 させ、そして(3)自分で責任を取らせる。過干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪 う。
過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子
ども(中三男子)が万引きをして補導されたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件その ものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」という のが、その理由だった。
●家庭はいやしの場に
子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと
変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまり こまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に 座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。このテストで高得点だった 人ほど、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。
●子どもには自分で失敗させる
また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がい
る。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解 決するはずである。
そのためにも「いいかげんさ」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯になるわよ」と言いなが
らも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、子どもは歯をみがくよ うになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行けば、先生に叱られる。 叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげんさが、子どもを自立さ せる。たくましくする。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●ズル休みのすすめ
不登校児をもつ親などと話していて、いつも気になるのは、「学校とは行かねばならないとこ
ろ」という観念で、頭がガチガチにかたまっていること(失礼!)。ときには、「どうしてそこまで学 校にこだわるのか」とさえ思ってしまう。
昔、毛沢東は、『造反有理』と言った。「反抗するものには、理由がある」という意味だが、既存
のコースに反発する子どもには、必ず、それなりの理由がある。頭から、「おかしい」とか、「ま ちがっている」とか決めつけないで、ときには、子どもの言い分にも、耳を傾けてやる必要があ るのではないだろうか。
もちろん勤勉であることは、それ自体は悪いことではない。しかし日本人は、勤勉であること
を美徳とするあまり、もっと大切なものを、見失っているのではないだろうか。そういう思いをこ めて書いたのが、つぎのエッセーである。
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常識が偏見になるとき
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと えば……。
●日本の常識は世界の非常識
★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州 政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、 こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位 (※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。
そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年 調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日 本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職 するまで、最長二七歳まで支払われる。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対 する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文 化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に 話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行 き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身 の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ るべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世 界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない まま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に 行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ とができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。 それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政 治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を 破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ とを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき ではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
●自意識を育てる
小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかりや
すく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。
たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い (自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ る。
ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな る。
そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指 導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。
子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年 生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ ぶさないように指導する。
●幸福な家庭環境で包む
「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ る」と。
つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形 で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格 言は正しい。
まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。 そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。
●親の心は、子の心
親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ 方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。
「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、 娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。
私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。
こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の 経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。
言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいも
のと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、 自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というよ り、あえて伝える必要はない。
あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子という
のは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと
いうことになる。
●家庭の緊張感を大切に
ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切 にする。
しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族 全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。
●温もりのある園を
保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。
まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子 どもをやらないほうがよい。
●園は、先生を見て選ぶ
保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという ような園は、さける。
園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、 よい。
●男児は男児
男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取 っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって いる。
とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ とと決めてかかってはいけない。
●負けるが勝ち
子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、 「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。
理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ れなりに深刻なケースと考えてよい。
さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほかの世界でのことなら、ともかくも、あ
なたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子どもにとって、すみやすい世界を、何よ りも優先する。だから、『負けるが勝ち』。
●我流に注意
子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」
「他人の育児論は役にたたない」と。
子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と 思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない… …」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。
子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。
●二番底、三番底に注意
子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの 世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを 繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。
子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?
そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。
●信仰に注意
よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。
……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊 状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、 行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。
とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集 団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始 めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした りする。
信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。
●機嫌を取らない
親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない ことは、言うまでもない。)
そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの 親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子 どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育 児観は、捨てたほうがよい。
あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた と子どものパイプを太くする。
●いつも我が身をみる
子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。
身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって ほしいです」と。
要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て をするときの、コツ。
●本物を与える
子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」
というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ うする」。
たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。
こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかとい
うこと。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれ ば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。
●親が生きがいをもつ
子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。
伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは 結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言 える。
退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。
●仮面に注意
心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見 られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。
遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト レスをためやすい。
一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。
あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。
●聞き上手になる
子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ レーションする。そうでない親は、そうでない。
親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。
私「最近、元気がありませんが……」
親「うちでは元気があります」
私「何か、問題がありませんか?」
親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。
子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ になる。
●親の悪口は言わない
あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結 果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。
父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家 族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。
●無菌状態に注意
子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、 つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学 ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。
子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も 身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。
●子どもは削って伸ばす
『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも いる。
問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で 考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように なる。
子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。
●「偉い」を廃語に
日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い 人。わかるかな?」と言っていた。
しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、 ほとんど問題にならない。
この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。
そこでどうだろう。もう「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かって
は、「偉い人になりなさい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのよう だが、こうした小さな変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることが できる。
●訓練(指導)と教育は別
この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、 教育ではない。
訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い 込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教 育の最大の悲劇がある。
一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも 訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。
教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。
むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。
●アルバムは見せよう
子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい
思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。 おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見 る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自 分が成長していく、喜びを、その中に見る。
アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。
●ベッドタイムゲームを大切に
子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で
は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。
コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ
たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。
子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。
●冷蔵庫をカラにする
子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう
ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに 菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と 思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。
そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜
半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。
●カルシウムを大切に
子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する
に、海産物を中心とした献立にする。
とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし
たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果 がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。
●歩かせる
子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。
昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ
ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。
ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無
数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知 ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される ためである。
(はやし浩司 子育て格言 育児格言 格言集)
●権威主義
権威主義が、どういうものであるか、それを知りたければ、アメリカとK国のちがいを見れば
わかる。
アメリカのブッシュ大統領が、K国の金xxを、呼び捨てにした。それだけで、P放送は、激怒。
つぎに今度は、アメリカのブッシュ大統領が、MR(ミスター)をつけて、金xxを呼んだ。それ
を、K国内では、「ブッシュが、金先生と呼んだ」と、おおはしゃぎ。(「MR」を、「先生」と翻訳する のも、どうかと思うが……。)
で、今度の南北会談(6・17)では、金xxは、ブッシュ大統領を、「閣下」と呼んだとか(?)。
呼称、一つで、あっちに揺れ動いたり、こっちに揺れ動いたり……。こうした権威主義は、もう
世界のほとんどで、姿を消した。いわゆる水戸黄門の、葵三つ葉の紋章である。ああいうもの を見せつけられて、ハハーと頭をさげる時代は、もう終わった。
が、K国では、まだそれが生きている。
スウェーデンの首相は、自分の執務室まで、自転車通勤をしていた。しかもその話を知った
のは、私が学生時代のときだったから、今から37年前ということになる。「〜〜だから、偉い」 という価値観の愚劣さというか、おかしさというか、もうそろそろ日本も、それらから決別すると きにきていると思うのだが……。
+++++++++++++++++++++++
水戸黄門について、もう、5、6年前に書いた
原稿です。
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教育者が教育カルトにハマるとき
●教育カルト
教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信
奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。この教育カルト にハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右脳教育」と言いだ す。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。
親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋
章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。
「○×式教育法」などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうす
る。宗教だってそうだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。
教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教
育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわから ない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけよう とする。これがこわい。
●自分勝手な教育法
教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、
小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性 など。
これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てくる。自
分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはまちがっ ている」と言う。
はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにすら気づ
かなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法 で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教 育を変えます」と。
あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門
をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、お こがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルト の特徴と言ってもよい。
●脳のCPUが狂う?
私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、
「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。
進学校や進学塾は、この方法を使う。それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから
抜け出ることは容易なことではない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、 先にも書いた攻撃性だ。
一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで
きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式 の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論する というよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。
結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ
うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●日本の常識、世界の非常識
『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ とをすれば、それだけで離婚事由になる。
困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。
「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台
なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争い なら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐すると いうのもおかしい」と。
まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の 庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君 を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え るのが、教育ということになっている。
しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り 出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく 質問するのですよ」と言う。
日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、 などなど。
同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明 したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ い学校という」と。
日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●権威主義の象徴・水戸黄門
権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。
側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげ
る。日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。
オーストラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス
革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。
この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度 か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。
「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。
一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の 仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像 以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。
そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。
そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占め
るほどの大地主であった。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そして その勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつ だが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。
もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。 だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。
権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保 護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな い。
権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの になる。そのため子どもは心を閉ざす。
Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。
こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的で
あること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定す ることになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を 築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。
『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
(付記)
●「花田家の過ち」by渡辺J一
渡辺J一氏が、「週刊新潮」(6・16)に、「花田家の過ち」と題して、なぜ花田家が、こうまでお
かしくなってしまったか、その分析をしている。
そしてその理由の第一として、「『だめだ、相撲以外にやり甲斐のある仕事は、沢山ある。力
士は俺1人でこりごりだから、お前たちは別の道を歩め』そうはねつけていたら、悲劇は起きな かった」(以上、原文のまま)と。
つまり親方が、息子2人を、力士にしたのが、まちがいのもとだった、と。
兄弟の確執(かくしつ)はともかくも、花田家は、バラバラになってしまった。それを渡辺氏は、
「悲劇」と位置づけている。が、いまどき、そんな家庭は、珍しくも、何ともない。親子、兄弟、み なバラバラという家庭など、いくらでもある。
ただ忘れてならないのは、そもそも、この話は、花田家という、庶民感覚からすれば、超特権
階級の、いわば雲の上の人たちの、「悲劇(?)」であること。
明日の生活費をどうしようかと苦しんでいる人も多い。そういう人たちから見れば、(年寄株)
を、3億円で売買しているような人は、やはり、雲の上の人! 悲劇といっても、私たちの悲劇 とは、質がちがう。
で、私は昔から、花田家にかぎらず、相撲界というのは、権威主義のかたまりのような世界と
思ってきた。上下意識もきわめて強い。当然、男尊女卑社会。こうした権威主義は、親子関係 を、破壊しやすい。
たがいの(心)よりも、(権威)のほうが先行する。「父親の言うことは、絶対」「兄は、弟より
上」「妻は、夫にさからうな」など。こうした権威主義は、一度身につくと、一生、その人にまとわ りつく。よほどのことがないかぎり、その人が、新しい価値観に目ざめることは、まず、ない。
花田家も、そういう家庭ではなかったか?
前にも書いたが、子どもが複数いるときは、名前で呼ぶ。「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」という言
い方は、避ける。「さとし」「あつし」でよい。「はな子」「さき子」でよい。そのほうが、統計的にも、 兄弟関係がうまくいくことがわかっている。
「あなたは兄だから……」「あなたは弟だから……」という、『ダカラ論』による位置づけは、ま
さに封建時代の亡霊そのもの。弟はともかくも、兄のほうが、その『ダカラ論』で苦しむケースが 多い。したいこともできず、「家」の犠牲になることも少なくない。
渡辺J一氏のエッセーの中にも、「兄は……」「弟は……」という文字が、たくさん出てくる。2
頁のエッセーだが、数えてみたら、そういうか所が、10か所ほどあった。渡辺J一氏も、かな り、「兄」「弟」という位置づけにこだわっているようだ(?)。
渡辺J一氏は、こう書いている。
「とくに兄が強いならともかく、弟の方が強かった。それだけに兄は弟にコンプレックスを抱
き、『弟は横綱だけど、俺はよく負ける横綱だった』と、自嘲気味にいっているし、弟は、『兄は 相撲道に対して甘かった』と批判している」(同)と。
兄にコンプレックスがあったかどうか? そんなことは、だれにも、わからない。そのように決
めてかかるのは、兄の若乃花に対して、少し、失礼ではないかと思う。それはひょっとしたら、 渡辺J一氏自身の空想ではないのか。あるいは仮にあったとしても、そのコンプレックスは、ま さに『ダカラ論』の中で生まれたもの。
この点、オーストラリアや、アメリカで、そういった上下意識から生まれた、コンプレックスの話
など、聞いたことがない。兄が貧乏で、弟が成功者であったとしても、それはそれとして、だれ も、話題にすらしない。もちろん当人たちも、気にしない。
「兄」「弟」、あるいは「姉」「妹」にこだわるのは、極東の儒教の影響を受けた民族だけであ
る。
花田家の話を聞いていると、「親方」だの、「兄・弟子」「弟・弟子」だの、「今どきねえ……?」
という言葉が、ポンポンと飛び出してくる。昔の徒弟制度そのまま(?)。もう少し、合理的にも のを考えることができないものなのか。
あるいは相撲の世界ではそうであっても、その相撲から一歩離れたら、おかしな上下意識は
もたない。そういうふうには、考えられないものなのか。
人間は、人間を見て、その人間を決める。そんな当たり前のことが、平気でできるようになる
までには、まだまだ道は遠い。渡辺J一氏の書いたエッセーとは、まったく関係ないことだが、 私は、別のところで、ふと、そう感じた。
【子どもを伸ばす格言】(一部)
●いいかげんさの勧め
子育ては『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることが悪いのでは
ない。子どもはそのいいかげんな部分で、息を抜く。伸びる。
たとえば「毎日手を洗いなさいよ」と言いながらも、言うだけにとどめる。仮に病気になったら、
病院へ行けばよい。虫歯だってそうだ。「歯をみがきなさいよ」と言いながらも、適当にしてすま す。虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。子どもは虫歯になって、「痛い」ことを知る。痛いこ とがわかれば、自分でみがくようになる。
……こう書くと、「何て、いいかげんなことを!」と思う人も多いかもしれない。しかし今、あまり
にも、親たちは子育てに神経質になりすぎている。そしてその神経質さが、子育てをゆがめ、 ついで子どもを萎縮させてしまっている。そういう現状を私は知っているから、あえて、常識 (?)に抵抗してみた。
これはずっと先の話だが、今、自己管理ができない大学生がふえている。子どものときから
ずっと勉強しかしてこなかったような、優秀な(?)子どもほど、そうなる。大学生になり、ひとり で生活を始めたとたん、生活が乱れる。三食はすべてコンビニ食。炊事、洗濯はしない。でき ない。睡眠時間も乱れる。そのため、精神そのものを病むようになる子どもも多い。
子どもを自立させるということは、子育てからいかにして、手を抜くかということ。手を抜けば
抜くほど、子どもは自立する。子どもというのは、そういう意味でも、皮肉なもの。たとえば子ど もは使えば使うほど、たくましい子どもになる。生活力も、それで身につく。
一方、子どもは、かわいがればかわいがるほど、スポイルされ、ドラ息子、ドラ娘になる。同じ
ように、親が手を抜けば抜くほど、もっと言えば、いいかげんになればなるほど、子どもは自立 する。
とくに日本では、「子どもをかわいがる」ということは、「子どもをかわいい子どもにする」という
ふうに考える人が多い。無意識のうちにも、そう育てる。そして「子どもに楽をさせること」、「子 どもにいい思いをさせること」が、親の愛の証(あかし)と考えている人がいる。しかし、これは 誤解。まったくの誤解。
あなたが自分の子育てをしていて、心のどこかで、「いいかげんかなあ」と迷ったら、すかさ
ず、「これでいい」と、思いなおす。そういう思いが、子どもを伸ばす。
(02−12−19)
●成長は段階的
子どもの成長は、段階的なもの。何かを教えても、一次曲線的になだらかに伸びるのではな
く、段階的(あるいは階段的)に、トントンと伸びていく。とくに「はじめの一歩」のときは、そうで、 子どもはしばらく(観察)→(蓄積)を繰りかえし、それが一定の臨界点にきたとき、つまりある 日を境に、爆発的に伸び始める。
たとえば何かのおけいこをさせるとき、子どもによっては、最初の数か月は、ほとんど反応を示
さないことがある。教えても教えても、教えたことが、そのままどこかへ消えていくような感じに なる。
よく短気な親は、この(観察)→(蓄積)の段階で、子どもを叱ったりする。しかし叱れば、子ど
もの興味そのものを、そいでしまうことがある。動機そのものを、つぶしてしまうこともある。こ の時期は、一見、伸びが停滞するかのように見えるが、じっと、「待つ」。待って、子どもの中 で、「力」が臨界点に達するのを待つ。待ちながら、一方で、子どもを励ます。ほんの少しでも、 あるいはどんな小さなものでも、進歩が見られたら、ほめる。そういう姿勢が、子どもを伸ば す。
●成長を喜ぶ
子どもを伸ばすコツは、いっしょに成長を喜ぶ。「もうこんなことができるの!」「どんどんいい
子になるわね!」「今度は、もっとすごいことができるわよ!」とか。そこでテスト。
あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、そのつど、あなたに報告にくる
だろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、家庭教育のあり方を、かなり反省したほう がよい。今は小さなキレツだが、やがて断絶ということにもなりかねない。
ある家庭には、四人の男の子がいたが、どの子どもも明るく屈託がない。ふつう下の子が、
上の子のおさがりをもらうのを、いやがるものだが、その家庭ではそうでなかった。下の子が、 お兄ちゃんのズボンをもらったりすると、みんなに「見て!」「見て!」と言って、走りまわるの だ。秘訣はすぐわかった。
母親が、そのおさがりを下の子どもに与えるとき、母親はこう言っていた。「ああら、すごい!
あんたもお兄ちゃんのが、はけるようになったのね。すごい、すごい!」と。
●名前を大切に
子どもの名前は大切に。ことあるごとに、「あなたの名前は、いい名前」を口グセにする。子ど
もの名前が、新聞や雑誌にのったら、それを大切にする。切り抜いてアルバムにしまったり、 高いところに張りつけたりする。
そういう姿勢の中から、子どもは名前を大切にするようになる。そしてそれがやがて、転じて、
子どもの自尊心となる。この自尊心が、子どもを前に伸ばす。
何かのことで、道からはみ出しそうなとき、自尊人が、それを踏みとどまらせる。私とて、本当
は、邪悪な人間かもしれない。が、「はやし浩司の名前を汚したくない」という思いが、いろいろ な場面で、ブレーキとなって働く。たとえばこうしてものを書くときも、「はやし浩司」の署名を入 れるときは、その文には、大きな責任を感ずる。決していいかげんな気持にはなれない。
ためしに、あなたの子どもに、こう聞いてみてほしい。「あなたは、自分の名前が好き?」と。
「どう思う?」と聞くのもよい。そのとき子どもが、うれしそうに、「好きだよ」と言えばよし。そうで ないなら、ここに書いたことを参考に、子どもの名前の扱い方について、もう一度、よく考えて みてほしい。
●喜ばす喜びを
子どもをやさしい子どもにしたかったら、子どもには、喜ばす喜びを教える。たとえばスーパ
ーでいっしょに買い物をするときも、「これがあるとお兄ちゃん、喜ぶわよ」「これを妹の○○に 分けてあげると、○○は喜ぶわよ」と。そのつど、だれかを喜ばすように、しむける。
やさしい子どもというのは、だれかを喜ばすことを知っている子どもということになる。こんな
子どもがいた。
幼稚園でみると、いつもだれかを三輪車に乗せ、そのうしろを押していた。見ると、その三輪
車に乗りたいため、ほかの子どもたちが列をつくって待っていた。そこである日、私はその子ど も(年長児)に、こう言った。「たまには、君の乗った三輪車を、だれかに押してもらったら?」 と。
するとその子どもは、こう言った。「ぼく、このほうが、楽しいもん」と。
実はその子どもというのは、私の二男だが、二男は、本当に心のやさしい子どもだった。今も
そうだ。そういう二男のことを思い出すと、親の私でさえ、心が洗われる。またそういう思い出 が、私の心を豊かにしてくれる。
●スキンシップを大切に
スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。これから先、
科学的研究がさらに進み、やがてスキンシップのもつ、不思議な力が解明されていくだろうが、 しかし現象としては、すでに証明されている。
よく「抱きグセ」が問題になるが、抱きグセは、問題ではない。抱くことによって象徴される、依
存心が問題なのである。しかしその依存心は、スキンシップが多いからつくものでも、また少な いからつかないものでもない。スキンシップと依存心は、まったく別のもの。少なくとも、分けて 考える。
日本人は、もともとスキンシップの少ない(少なすぎる)民族である。南米などを旅するとわか
るが、向こうの親子は、(夫婦も)、本当にいつも、しかも日常的にベタベタしている。こちらが 見ていても、恥ずかしくなるほど、ベタベタしている。で、何か問題があるかというと、そういうこ とはない。
むしろ、スキンシップを受けつけない子どものほうが、心配。心のどこかに大きな問題をかか
えているとみてよい。たとえば心の緊張感がとれないタイプの子どもは、親が抱こうとしても、心 を許さない。許さないだけ、抱かれようとしない。
反対に、心を開き、心を許している子どもは、抱くと、そのまま体を親のほうに、すり寄せてく
る。この話を、ある会合の席で話したら、一人の父親が、こう言った。「子どもも女房も、同じで すなあ」と。
つまり夫婦でも、たがいの心が親密なときは、妻でも抱きごこちがよいが、そうでないときは、
そうでない、と。「夫婦げんかのあとなどは、妻でも、丸太のように感ずるときがあります」とも言 った。不謹慎な話だが、どこは的(まと)を得ている。
そこであなたも一度、子どもを抱いてみてほしい。しばらくして子どもが、あなたの体と一体化
するようなら、それでよし。ふつう一体化すると、呼吸のリズムまで同じになる。が、そうでない なら、スキンシップをふやし、どこかに何かのわだかまりがないかをさぐってみる。
●口グセに注意する
あなたは日ごろ、子どもに向かって、どんなことを言っているだろうか。口グセにしていること
を、少しだけ、思い浮かべてみてほしい。長い時間をかけて、あなたの子どもは、その口グセ どおりの子どもになる。口グセを、決して軽くみてはいけない。理由が、ある。
子どもの心は、カガミのようなもの。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、
あなたを思う』というのがある。つまりあなたがあなたの子どもを、「いい子」と思っていると、あ なたの子どもも、あなたのことを「いい親」と思っているもの。そうでなければそうでない。そして こういうたがいの思いが、長い時間をかけて、たがいの心をつくる。
口グセというのは、まさにあなたの「心」ということになる。そしてその口グセが、よいものであ
れば、それでよし。そうでなければ、今からすぐ、その口グセを改める。とくに、子どもをマイナ スに引っぱるような口グセには注意する。「あなたはダメね」「いつになったら……」「どうしてこ んなことができないの」は、タブー。
●ペットを飼う
もしあなたにその余裕があれば、子どもにはペットを飼わせる。子どもはペットをとおして、多
くのことを学ぶ。犬やネコが代表的なものだが、ウサギ、小鳥、ハムスターなどもある。ペットを ていねいに飼い、心をかよわせている子どもは、どこかほかの子どもと違う。ほっとするような 温かさを感ずる。
が、そのペットが無理なら、温かい素材でできた、ぬいぐるみを与える。私の調査でも、約八
〇%の子どもが、(男女の区別なく、年中児〜小学高学年児)、日常的にぬいぐるみと親しん でいることがわかっている。が、それだけではない。
子どもに母性が(父性でもよいが)、それが育っているかどうかを知るためには、ぬいぐるみ
をもたせてみればわかる。心豊かな環境で、親の愛情をしっかりと受けて育ったような子ども は、ぬいぐるみを見せると、さもいとおしいといった様子で、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せた りする。そうでない子どもは、そうでない。
同じく私の調査だが、約八〇%の子どもは、ぬいぐるみを見せると、心温かい反応を示す。し
かし二〇%の子どもは、ほとんど反応を示さない。中には、ぬいぐるみを見せたとたん、キック したり、放り投げる子どももいる。
●上の子教育を大切に
子どもの心の中でも、嫉妬心と攻撃心は、できるだけいじらないほうがよい。これらのもの
は、原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、そのまま子どもの心をゆがめること にもなりかねない。よくある例が、赤ちゃんがえりという現象。
下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よく知られ
ている。それまでしなかった夜尿症を再び始めたり、あるいは話し方そのものまで、赤ちゃんぽ くなったりするなど。
これは下の子への嫉妬心が、本能的な部分で、子どもの脳をいじるためと考えられる。そうい
うとき、親は、よく、「上の子どもも、下の子どもも、平等にかわいがっています」と言うが、上の 子にしてみれば、平等ということが、不満。それまで一〇〇%受けた愛情が、半分に減ったこ とが問題なのだ。
本来は、そうならないよう、下の子どもを妊娠したときから、少しずつ、上の子教育を始める。
コツは、下の子が生まれるのを、少しずつ、楽しみにさせるようにしむける。「あなたの弟か な? 妹かな?」「生まれたら、いっしょに遊んであげてね」と。まずいのは、いつの間にか、下 の子が生まれたというような状況にすること。
ある母親は、下の子の出産のとき、上の子を立ちあわせたというが、それも一つの方法かも
しれない。参考までに。
●はだし教育を大切に!
子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを 始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな たは料理をするのに、困るはず。
子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを 見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。 そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。
またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
●言葉教育は、まず親が
親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言 葉が育つというのだろうか。
そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがきます。あなたは外でバスを
待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっていますか。先生に会った ら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。
こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力 が身につくというのか。
ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子どもは、約三〇%はい
る。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ気がついても、手遅 れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の問題は、親の問題で あって、子どもの問題ではない。
●正しい発音を大切に
文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。 「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける 子どもは、ほとんどいない。
「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向かって、「まちがっているわ
よ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。
地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味 ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文 が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。
子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。
なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に 入れながら、子どもの発音を考えるとよい。
●同年齢の子どもと遊ばせる
子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい けない。
今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな 風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。
こう書くと、「子分の子どもがかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、
子どもは子分になることで、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったこと がない子どもは、同時に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。
またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。
ブランコを横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによって
は、相手をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「い じめ」になる。
子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。
●ぬり絵のすすめ
一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして おくとよい。
子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり 絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。
ちなみに、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。
実際、一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。
また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約五〇%とみる。(別に正しいもち方というのは
ないが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残り、二〇%の子ども は、たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めた ら、一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛 筆をかませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。
●色づかいは、なれ
ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな い子どもは、そうでない。
たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、 冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと みる。
なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去三〇
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満 四歳から六歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化するこ とがある。ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。
しかしそういう子どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようにな
る。今、色づかいがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。
ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ とではない。
●ガムをかませる
アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。 で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。
その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への 血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。
コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低三〇分はかませるよう
に指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。
またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。
●マンネリは知能の敵
人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約一〇万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化と ともに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。
このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激 教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。
……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。
(1)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ るだろ!」と。
(2)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を 示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、 ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。
家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台 の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。
●抱きながら本を読む
「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日 本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き に伸ばす。
満四・五歳(四歳六か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し かし決して、ムダではない。
子どもは、伸びるとき、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではない。ちょうど階段を登るよう
に、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子どもは、一歳半から二歳に かけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度に開花するようにである。
同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し ているとみる。
もしあなたの子どもが、満四・五歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子
どもには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分 で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好 きになる。
●何でも、握らせる
ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子ど
もが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しない だろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ る。が、それだけではない。
最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる とよいという説もある。
たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。二個のボールがペアになっ
ていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジアへ行ったとき、それ を買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたようには、いまだに回すこと はできないが……。)
それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。
なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が 旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。
●才能は見つけるもの
子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。
子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその 子どもの方向性である。
つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、 その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始め た。
こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。
ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子 どもを側面から支える。
勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉強でつまずくと、そのまま
ズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見つけ、その才能を用意し てあげるのは、親の大切な役目ということになる。
これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、 だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。
●何でもさせてみる
子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。
たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく ……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来 のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の 生徒たちに対しては、そうしている。
威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か な子どもほど、要注意!
●幼児教育は、種まき
幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。
言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。
ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字 (左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え 方では困る!」と。
その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。
要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。
●えびで鯛(たい)を釣る
『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。
A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小二クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ るようになった。そして半年もすると、小三レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君 を小三クラスへもどした。
が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで (鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。
ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また一学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、一度失敗 すると、二度目は、ない。
●やなぎの下には……
何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、二度目はない。子ども自身が、それに応じな
くなる。
たとえばAさんは子ども(小五男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、 親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症 状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。
ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し た。
一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理 は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも 早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。
『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、二度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗 する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強 は組みたてる。
●航海のし方は、難破したことがある人に聞け
イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。 本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。 子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。
しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、 うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。
そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学 ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子 育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。
子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと 大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分 は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」 部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決まる。
「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、
子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のことがわ からない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。だか ら、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。
話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。
●読んだら、聞いて、絵を描かせる
子どもが何かの本を読んだら、(あるいは本を読んであげたら)、そのあとその本について、
絵を描かせるとよい。子どもは絵を描くことで、その本の内容に、自分の考えをつけ加える。批 判力も、そこから生まれる。感想文を書かせるという方法もあるが、年少の子どもには、まだ ムリ。
内容を理解した子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかる絵を描く。そうでない
子どもは、印象に残ったところを中心に、部分的な絵を描く。そして子どもが絵を描き終えた ら、「これは、だれ?」「何をしているの?」と聞いてみるとよい。この方法は、子どもの思考力を 深くするという意味では、たいへん効果的である。
●乱暴な子ども
乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。
(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙 を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を 確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。
(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。 してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども に、よく見られる。
(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず るい感じがするのが特徴。
(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。このタイプの子どもは、その 直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほんの瞬間的で、おさえるとして も、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからどこかピリピリとした印象を与 えることが多い。
(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ る。
乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱 暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。
【S君、小二のケース】
ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった く書けない、など。
そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自 虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる 様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも のが変わった。
そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、 それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。
今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎 盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その 人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」(PHP 新書)と。じゅうぶん考えなければならない説である。
●理屈は言わせる
自己主張と、わがままはちがう。自己主張と、がんこもちがう。子どもをみるときは、これら三
つを、ていねいに見分ける。
その中でも自己主張は、子どもの心の発達には、きわめて重要なものである。(わがままと
がんこについては、また別のところで考える。)子どもが自己主張するときは、(1)言いたいだ け言わせる、(2)聞くべきことは、しっかりと聞くという態度でのぞむ。「親に向かって何てこと言 うの!」式に、威圧でおさえてはいけない。
「お兄ちゃんは、三つもらったのに、どうしてぼくは二つなのか?」は、自己主張。
「僕は、三つでないとだめ。二つはイヤ!」というのは、わがまま。
「青いズボンでないと、幼稚園へは行かない」とがんばるのは、がんこ。
「ママは、この前、○○をくれると約束したが、どうして約束を守ってくれないのか?」は、自己
主張。
「あのおもちゃを、買って、買って」と泣き叫ぶのは、わがまま。
「おもちゃを、なおせ!」と、こわれたおもちゃに、いつまでもこだわるのは、がんこ。
「どうしてお父さんだけは、トイレ掃除をしなくていいのか?」というのは、自己主張。
「お手伝いなんか、いや」と逃げるのは、わがまま。
「いやだ」と言って、部屋に入ったまま、出てこようとしないのは、がんこ。
不合理、不公平、不正義に対して、自分の意見を言うというのが、自己主張ということにな
る。子どもは自己主張をすることにより、道理や正義、倫理や理屈を学ぶ。豊かな常識も、そ こから生まれる。決して、頭からおさえつけてはいけない。
ときとして子どもは、反抗するが、反抗できないほどまでに、子どもをおさえつけてはいけな
い。よく「うちの子は、親の言うことを何でも、はいはいとよく聞いてくれます」と喜ぶ親がいる が、そんなことを喜んではいけない。子どもの人格は、(おとなもそうだが)、いろいろな経験を とおして養われる。生まれつき、あるいは子どものときから、ものわかりのよい子どもなど、い ない。いるとしても、フリをしているか、ムリをしているだけ。そういう前提で、子どもの心を考え る。
●子どもの世界
子どもには、三つの世界がある。家庭を中心とする、家族とのかかわりをもつ世界。これを
第一世界という。つぎに、保育園、幼稚園、さらには学校を中心とする、先生や友人とのかか わりをもつ世界。これを第二世界という。そして家庭や学校から離れて、同年齢の仲間を中心 とする、友だちとのかかわりをもつ世界。これを第三世界という。
最近では、これら三つの世界のほか、ゲームやパソコンを中心とする、バーチャル(仮想現
実)の世界も生まれてきた。これを第四世界というが、これについては、ここではふれない。
子どもがまだ幼いあいだは、第一世界(家庭)が大きく、またそれがすべてである。しかし子
どもが保育園や幼稚園へ通い始めると、やがて第二世界(園や学校)が大きくなり、ついで、外 での第三世界(交友)が大きくなる。と、同時に、相対的に、第一世界が小さくなる。
子どもというのは、それぞれの世界で、まったく別人を演ずることが多い。どの世界の子ども
が、本当の子どもであるかということを考えても意味はない。また一つの世界だけを見て、その 子どもを判断してはいけない。家庭の中では、だらしなくても、学校という世界では、模範生 (?)ということは、よくある。あるいはさらに学校では模範生(?)でも、友だちの間では、陰湿 ないじめを繰りかえし、嫌われているということもある。
こうした子どもの特性を理解したければ、あなた自身はどうであったかを思い出せばよい。あ
なただって、親に見せる姿、先生に見せる姿、それに友だちに見せる姿は、それぞれ別の姿 であったはずである。今の今でも、家庭の中で見せる姿、職場で見せる姿、そして友人に見せ る姿は、それぞれ違っているかもしれない。問題は、こうした違いがあることではなく、そうした 違いを、それぞれの場所で使い分けながら、人は、生活しているということ。
もっともこうした「違い」は少なければ少ないほど、よい。この私でも、仕事をしているときも、
友だちと会っているときも、家族といっしょにいるように、それが気楽にできたらよいと思う。し かし現実には、それはできない。できないから、ときには、疲れる。
……という話はまたの機会にして、結論だけをここに書く。
(1)一つの世界だけを見て、子どもを判断してはいけない。
(2)子どもが大きくなるにつれて、「家庭」はしつけの場から、心をいやし、心を休める「いこい
の場」になることを忘れてはいけない。
(3)子どもの姿を正しく知るためには、(1)子どもが、どんな友だちとつきあっているかを知る、
(4)先生に対しては、「聞きじょうず」になり、子どもの情報を正しく入手する。
このうち、(3)に関連して、自分の子どもが、外の世界で、何かトラブルを起こすと、たいてい
の親は、「うちの子は悪くありません。友だちにそそのかされただけです」などという。そういうケ ースももちろんあるが、そういうときは、まず自分の子どもを疑ってみる。とくに「私の子どもの ことは、私が一番、よく知っている」という親ほど、そうする。自分の子どもを疑うことはつらいこ とだが、あなたの子どもについて言うなら、あなたが知っている面より、知らない面のほうが、 はるかに多い。
また先生に対しては、いつも聞きじょうずになること。先生と自分の子どもについて話すとき
は、自分の子どもでも、他人と思って話す。そういう姿勢があれば子どもを、より客観的に見る ことができる。そして先生も、そのほうが、いろいろ話してくれる。
●幼児の伸びは、階段的
幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を
観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をの ぼるように、トントンと伸びる。
たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きな
い。中にはまったく反応を示さない子どももいる。が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづく と、ある日を境に、突然、別人のように変化し始める(爆発期)。同じようなことはたとえば、言 葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くらいまで、子どもはほとんど言葉を話さない。
しかしある日を境にして、急に言葉を話すようになり、一度話すようになると、言葉の数が、そ
のあと、まさに爆発的にふえ始める。
これをチャート化すると、つぎのようになる。
(蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)
教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教
えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。し かし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、 とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無
理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。文字にしても、満四・五歳にひとつ のターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」ということだけを教えて いく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふきかけながら本を読んであげる とよい。
こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に対して前向きな姿勢をもつよう
になる。
私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そ
うと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟 成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時 がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表 情も、みちがえるほど、明るくなった。
このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきこと
は教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけ ない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習 指導の、大鉄則と考えてよい。
●幼児は、音で文字を読む
文字を覚えたての子どもは、目で見ただけでは、その文字の意味はわからない。この時期、
幼児は、一度、文字を「音」にかえ、その音を自分で聞いて、その文字の意味を理解する。わ かりやすくいえば、この時期の子どもは、黙読ができない。
もう少し専門的に説明すると、こうなる。
右利き児のばあい、約九二%が、言語中枢は、左脳にあるとされる。(右利き児でも、七%
が右脳に言語中枢がありとされ、左利き児のばあいは、五四%が右脳に言語中枢があるとさ
れる。)
まず耳から入った言葉は、左半球の聴覚野に入って、そこで言葉として認識される。そしてそ
の情報はそのまま、隣にある側頭平面にある言語中枢に送られ、そこで言葉として翻訳され る。
一方、黙読として見た「文字」は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。
そこで情報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大 脳連合野に送られる。
ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間的な
関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。文字は、い わゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭連合野の担当ということにな る。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだけでは、まだ文字として、理解される わけではない。さらにその段階から、その文字の形に対応する「音」を、記憶の中から拾いだ し、さらにその音をつなげて、言葉として理解する。
おとなの脳の中では、瞬時にこうした一連の作業がなされるため、音読も、黙読も、同じよう
なレベルで理解されるが、しかし複雑さということになるなら、黙読のほうが、はるかに複雑な 経路をたどることになる。つまり音読と、黙読は、最終的に大脳連合野で理解されるまでに、ま ったく別の経路をたどるということになる。さらにわかりやすく言うと、音読と黙読は、まったく異 質のものであるということになる。
こうした一連の脳の働きは、つぎのような現象によっても、裏づけられる。
たとえば、算数の文章題を、黙読では理解できない子どもがいる。このタイプの子どもは、足
し算の問題なのか、引き算の問題なのかさえわからないため、勝手に数字をあちこちつなげ て、メチャメチャな式を書いたりする。しかしそういう子どもでも、「声を出して一度、問題を読ん でみてごらん」などと指示して、一度、声に出して読ませると、「わかった!」と言って、その問題 を説くことができる。
そんなわけで、子どもが文字を読めるようになったら、今度は、どこかで黙読の練習を少しず
つ始めるとよい。具体的には、「口を閉じて読んでごらん」と指示すればよい。
なお、小学三、四年生になっても、まだ音読のクセが残っているようなら、一度、その問題
を、別の紙に書き写させてみるとよい。音読しないと、文字が理解できない子どもも、同じよう に指導する。
●夢を、子どもに託さない
子どもに夢をもつのは、悪いことではない。この夢があるから、子育ても、また楽しい。しかしそ
の夢が、過剰にふくらんだとき、その夢は子どもを苦しめる。何が苦しめるかといって、親の過 剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
少し前だが、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。「小学校入学をひかえて、あいさつのでき
る子どもにするにはどうしたらいいか」「学校で友だちと仲よくできるためには、どうしたらいい か」、それについて書いてくれ、と。
しかしこんな原稿など、書けない。自分ができないのに、どうして子どもに、それをしろと書くこ
とができるのか。あいさつなど、したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。アメリ カのある地方では、ニコッと笑うのがあいさつになっているし、オーストラリアでは、顔をややか しげながらあいさつをする人も多い。
さらにこんなことを言ってくる親もいる。「子どもには、立派な人間になってほしい」と。
「立派」というのは、社会的名誉や地位のある人をいうのだろう。そこで私はその親に、こう言
った。「子どもに立派になってほしかったら、お母さん、あなたがまずその立派な人になってみ せることです」と。
さらにこんなことを言う親もいる。「夫は、学歴がないため苦労をしています。息子にはそうな
ってほしくないので、何とか学歴をつけさせてあげたいです」と。さらに「私は英語を話せないか ら、子どもには英語を話せるようになってほしい」と。
親は、それぞれの思いの中で、子育てをする。しかし『子どもに夢は託さない』が、子育ての
鉄則。もし「夢」があるなら、親は自分で自分の夢を追求する。自分が過去にできなかったこと を嘆くのではなく、今、できる夢、あるいはこれからできる夢を追求する。そういう前向きな姿勢 が子どもに伝わったとき、子どもは、子どもで自分の夢を追求するようになる。それだけではな い。
親が子どもの人生の中で生きようとすればするほど、親は自分の姿を見失う。そして自分の
時間を、ムダにしてしまう。どこまでいっても、子どもの人生は子どものものであるように、親の 人生もまた、親の人生でなければならない。
●「今」を生きる、二つの意味
「今」を生きるということには、二つの意味がある。一つは、未来のために、「今」を犠牲にして
はいけないということ。もうひとつは、過去を振りかえり、悔やんだり、後悔してはいけないとい うこと。
日本人は、無意識のうちにも、未来のために現在を犠牲にしながら生きている。たぶんに仏
教の影響だと思う。子どものときから、幼稚園は小学校へ入るため、小学校は中学校や高校 へ入るため。そして高校は大学へ入るためと教えられている。だから社会へ入ってからも、こ の考えから抜け出ることができない。たまの休みでも、その休みを楽しむ前に、休みが終わっ てからの仕事のことを心配する…
…。
同じように、過去に振りまわされてはいけない。よく「私は、若いとき、もっと勉強しておけばよ
かった」とこぼす人がいる。しかしもし、そう思うなら、今、すればよい。勉強するのに、時期な ど、ない。早いも、遅いもない。さらに深刻な例としては、「今の夫と結婚しなければよかった」と 言う人もいる。しかし本当にそう悩むのなら、離婚すればよい。が、離婚できないというのであ れば、現状を受け入れ、その中で生きていけばよい。いつまでも過去をズルズルと引きずって 生きてはいけない。
どちらにせよ、日本人は、「今」を生きるのが、苦手な民族である。どうしてそうなったかという
ことについては、いろいろな説が考えられるが、そのひとつが、大乗仏教の影響ではないかと 思う。大乗仏教では、いつも「結果」を重んじる。「死に際の様子で、その人の人生がわかる」と 説く宗教団体さえある。
しかし考えてみてほしい。今、あるのは、「今」だけ。過去など、どこにもない。未来など、どこ
にもない。あなたがどんな過去をもっているにせよ、過去は過去。そんなものに振りまわされて はいけない。またたとえ結果が悪くても、それが、最後の結果だと思う必要はない。大切なこと は、それを乗り越えて生きていくこと。あるいはそのときどきを、懸命に生きていくこと。
ある母親は、息子(中三)が、高校受験に失敗したあと、私にこう言った。「ムダでした」と。
「小さいときから、算数教室や音楽教室へ通わせたりしましたが、すべてムダでした」と。
そこで私はその母親にこう言った。「あなたは子育てをしながら、人生を楽しんだはずです。
子どもが生きがいを与えてくれたこともあるでしょう。だからムダだったなんて、言わないでくだ さい」と。
どちらにせよ、つまり、「(過去に)ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しながら
生きるのも、未来のために現在を犠牲にして生きるのも、愚かなことである。大切なのは、 「今」という時間の中で、精一杯、自分を輝かせて生きること。あなたもそうだし、子どももそうだ し、子育ても、またそうである。
●今を生きられない人たち
「今」を生きるということは、簡単なことではない。とくに、そういう生き方を知らない人にとって
は、簡単なことではない。
こんなことがあった。私の知人が、今度リストラで、それまで勤めていた会社をクビになった。
が、その知人は、その翌週から、仕事さがしを始めた。そこで、私はその知人に、こう言った。
「失業手当が出るなら、どうしてそれで、目いっぱい、遊ばないのか。ぼくなら、半年ぐらいか
けて、外国を回ってみる」と。
それに対して彼は、「林君、君はそう言うけど、不安で不安で、家の中で遊んでいるわけには
いかないのだよ」と。
私も学生時代、テスト週間になると、テストが終わったあと、どうやってその休みを過ごそう
か、そればかりを考えていた。が、いざテストが終わってみると、結局は何もしなかった。できな かった。
同じように、社会へ出てからも、仕事に追われているときは、休暇になったときのことばかり
考えていた。しかし休暇になると、今度は、仕事のことばかり考えていた。しかし考えてみれ ば、これほど、中途半端な生き方はない。最近でも、こんなことがあった。
昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の知人が、こう言った。「私は、定年退職をしたら、
日本中を、車で、一周してみたい」と。
しかしその知人は、退職しても、日本中を、車で、一周するなんてことはしないだろうと思う。
退職したらしたで、今度は、再就職の心配ばかりをするにちがいない。生きザマというのはそう いうもので、ある時点から、急に一八〇度、転換できるものではない。
そこで私はその知人にこう言った。「車で一周したいなら、今からすればいい。手始めに、紀
伊半島を一周するとか……。定年まで待つのはいいけど、そのとき、今のような健康があると はかぎらない。あるいは何か不幸があるかもしれない。今、できることは、今、しておけばいい」 と。
そこであなたの子どものことを、振りかえってみてほしい。あなたの子どもは、月曜日から金
曜日まで、学校に行く。なぜ学校へ行くかといえば、土曜日や日曜日に、自分のしたいことをす るためである。しかしその土曜日や日曜日に、あなたの子どもが家の中でゴロゴロしていると、 きっと、あなたはこう言うに違いない。「明日の宿題はすんだの?」「今度のテストはだいじょう ぶなの?」「勉強しなさい!」と。
こういう生きザマが、子どものころから日本人の基本になっているから、日本人は、それ以外
の生き方を知らない。そしてそれが死ぬまで、つづく。「やっと楽になったと思ったら、人生も終 わっていた」と。しかしこれほど、愚かな生き方はない。
【虐待と非行】
●非行の子ども、3割虐待経験(駐日新聞)
全国の児童相談所で非行相談を受けた子どもの30%は、親などから、虐待されたことがあ
り、ほぼ半数は、育つ途中で、養育者が代わり、親や家族らとの愛着関係を建たれる経験をし ていたことが、6月13日(05)、犬塚峰子、東京都児童相談センター治療行政課長らの、厚生 労働省研究班の調査で分かった(以上、中日新聞の記事より)。
++++++++++++++++++
非行の内容
男子……63%
非行内容……盗み、家出、外泊
こうした非行問題を起こした子どものうち、
虐待を受けた子どもは、全体の30%。複数の種類の虐待を受けた受けた子どもが目立ち、
殴るなどの身体的虐待が、78%、ネグレクト(養育放棄)が、73%で、心理的虐待が50%、 性的虐待が32%。
親が離婚したり、施設に預けられたりして、養育者が途中で代わった子どもは、47%で、うち
約4分の1は、3歳未満で経験。代わった回数は、1回が、66%、2回が、18%、3回は、1 1%いた。
ドメスティックバイオレンス(DV)のある家庭で育った子どもが、全体の10%いることも判明。
攻撃性が高い、情緒不安定などの何らかの心理的・精神的問題をかかえる子どもは、85%
おり、虐待経験のある子どもだと、92%に上昇した(以上、同新聞、6・14、朝刊)。
+++++++++++++++++
●虐待は好ましくないが……
子どもは、絶対的な安心感と、親子の信頼関係のある家庭でこそ、その心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
虐待にかぎらない。育児拒否、放棄、冷淡、家庭騒動、夫婦不和、暴力、貧困など。子ども
の側から見て、「不安」を覚えたとき、子どもの心は、大きく、ゆがむ。キズつく。離婚にしても、 離婚そのものが子どもの心に影響を与えるのではない。離婚にいたる、家庭騒動が、子ども の心に大きな影響を与える。
子どもがいる夫婦のばあい、離婚をどのように進め、離婚後も、どのようにして、子どもの心
を守るか。この日本では、そうした問題については、ほとんど、考えられていない。
ただ、この調査で、「?」と思ったのは、つぎのこと。
現在、子どもに体罰を加えている母親は、全体の50%近くはいる。そしてそのうち、約70%
(全体の35%)は、虐待に近い、体罰を加えているのがわかっている(筆者、調査)。
つまり虐待イコール、非行ということではないのではないかということ。虐待を受けながらも、
子どもの側で、ふんばりながら、がんばっているケースは、いくらでもある。この記事を読むと、 (あくまでも記事を読んでの印象だが)、非行の原因のすべては、虐待にあるような印象をもっ てしまう。)
また虐待といっても、肉体的虐待、精神的虐待のほか、間接虐待もある。はげしい夫婦げん
かを見て育った子どもも、虐待を受けたのと同じような症状を示すことがある。
結論から先に言えば、子どもは、心豊かで、愛情に満ちた、静かな環境で、両親によって育
てられるのがよい。その年齢は、2歳まで(WHO)だが、実際には、満3歳まで。この時期に、 子どもは、親との(とくに母親との)、基本的信頼関係を結ぶ。
この基本的信頼関係が、そののちの、子どもの精神的発達の基盤となる。が、この時期に、
その信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、精神的に大きな影響を受け、慢性的な不安感 を覚えたりするようになる。生涯にわたってつづくため、「基底不安」という。
さらに精神的未熟性が、残ることもある。50歳、60歳をすぎても、親離れできず、そのため
自立そのものができず、親に依存して生きる子どもも少なくない。
もちろん情緒的な問題も起きる。ここに書いてあるような、「攻撃性」もその一つだが、情緒が
不安定になるから攻撃性が生まれるのではなく、他者との良好な人間関係が結べなくなり、そ の結果として、攻撃性が現れる。もっと言えば、このタイプの子どもは、他者に対して、心を開く ことができない。
その結果として、仮面をかぶって、いい子ぶったり、同情を求めたり、依存的、服従的になっ
たりする。内へ引きこもってしまうこともある。攻撃性は、あくまでも、その一部でしかない。
全体としてみると、この調査は、その前提として、虐待と非行を、どこかで無理に結びつけよ
うとしているのではないかという印象をもった。図式としては、わかりやすいが、かえって、親た ちに、誤解を生じかねない。つまりこれだけでは、近年ふえている、そうでない家庭(見た目に も恵まれ、裕福で、家庭円満な家庭)での非行については、説明できない。
●非行の原因は、別の角度から考える
むしろそうではなくて、家庭的な不協和音が、子どもの自我の形成に影響を与え、その結果
として、子どもは、たとえば非行問題を起こすと考えたほうが、よいのでは……。
同じ虐待を受けても、自我の同一性のしっかりしている子どもは、自分の目的に向って進ん
でいく。虐待を受けなくても、同一性の確立に失敗した子どもは、さまざまな形で、その自我を 補修しようとする。その一つが、非行ということになる。
最後に一言。
非行イコール、即、「悪」ではないということ。今どき、「盗み」や「家出」など、珍しくも何ともな
い。そこには、当然、社会全体がもつ、社会的価値観が混入する。極端な例としては、体に爆 弾を巻いて、自爆することを美徳する社会も、ないわけではない。
さらに、最近、こんなことも聞いた。
南アフリカの日本人学校から帰任した小学校の先生が、こう言った。「(日本で)朝礼が終わ
って、子どもたちが二列に並んで教室へもどる姿を見て、ぞっとした」と。
あなたはその先生が、どうしてゾッとしたか、その理由がわかるだろうか。
この話をオーストラリアの友人(ドクター)に話すと、そのドクターも、そう言った。
どこかの駅で列車をまっているときのこと。駅前が運送会社になっていて、そこに10台近いト
ラックが並んでいたという。そのとき、上司らしき人が、トラックの前に運転手を並べ、朝礼をし ていたという。
その友人も、それを見て、ゾッとしたという。
なぜか?
こうした感覚は、日本人として、日本に長く住んでいるとわからない。そこで私は、オーストラ
リアの友人に、こう聞いた。
「オーストラリアでは、どうしているのか?」と。
すると、そのオーストラリア人は笑いながら、「(朝の集会のあと)、みな、バラバラに教室へ入
る。ぼくは、いつも、窓から、入っていた」と。
またトラックの運転手たちについては、みな「ロボットみたいだった」と。
●サブカルチャ(下位文化)
「非行」ということを考えるとき、では、非行を経験しない子どものほうが理想的かというと、そ
うでもない。今の日本の子どもたちを見ていると、(決して、非行を奨励するわけではないが)、 キバを抜かれた動物のようで、かえって不気味ですらある。
男児でも、たいはんが、ナヨナヨしている。おとなしい。やさしい。自己主張も、弱い。ブランコ
を横取りされても、文句一つ、言えない。よく子どもの攻撃性が問題になるが、その攻撃性そ のものが、まるでない。そういう子どもを、はたして、(いい子)と言ってよいのか。
むしろ子どものころ、サブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから、
常識豊かな子どもになることが知られている。反対に、子どものころ、優等生であった子どもほ ど、あとあと、何かと問題を引き起こしやすいこともわかっている。外部に対して問題を引き起 こすこともあるが、内々で、悶々と苦しんでいる子どもとなる、たいへん、多い。)
「非行」といっても、程度の問題もある。ハバもある。どこからどこまでが、許される非行であ
り、どこから先が、許されない非行なのかということを、一度、明確にしておく必要もあるのでは ……。
盗みくらいなら、だれだって、する。家出にいたっては、みな、する。虐待が好ましくないことは
言うまでもないが、虐待イコール、非行という短絡的な発想には、私は、どうしても、ついていけ ない。
(はやし浩司 子供の非行 虐待と非行 虐待 子供の攻撃性 ネグレクト 養育放棄)
(追記)
日本の子どもたちは、全体としてみると、おとなしすぎる。先日も、アメリカ人の小学校の教師
と話したが、アメリカでは、シャイ(shy)な子どもは、問題児だそうだ。
日本では、シャイな子どもは、問題児ではない。むしろ、控えめないい子と考えられていると
話してやったら、その先生は、本当に驚いていた。
●幼児性の持続(ネオトニー進化論)
「ネオトリー進化論」という言葉がある。その世界では、常識的な言葉らしい。しかし私は知ら
なかった。(世の中には、私がまだ知らないことが、山のようにある。ホント!)知らないまま、 1、2冊の本だけを読んで、早合点してしまった。原稿として書く前に、もっとよく調べて書くべき だった。自分の軽率さを、恥じる。
ネオトリー進化論は、言うなれば、脳の未熟化に向けた進化をいう。「未熟化」という言葉にこ
だわるなら、「退化」ともとれる。私は、単純に、未熟化イコール、退化と考えてしまった。しかし これは、明らかに、誤解だった。
つまり生物は、進化すればするほど、未熟化するのだそうだ。未熟化することによって、多様
性を身につける。その一例として、ウーパールーパーと、サンショウウオがいるという。
ウーパールーパー(アホロートル)は、サンショウウオの未熟化した形ということになるが、そ
の分、環境の変化に、より対応した形ということにもなる。人間にたとえると、こうなる。
人間のばあい、乳幼児期がほかの生物にくらべて、格段に長い。満1歳になって、やっとヨチ
ヨチと歩き始める。鳥の仲間の中には、卵から孵化すると同時に、歩き始めるのがいるという のに、だ。
しかし人間のばあいは、長い時間をかけて、自分に多様性をさぐっていく。たとえば脳ミソに
は、無数の神経細胞があり、その神経細胞からは、これまた無数のシナプスという繊維状の 神経組織がのびる。
これらの神経組織が複雑にからみあって、人間の脳ミソを構成する。が、そのとき、人間は、
同時に無数の可能性をさぐりながら、一方で、不必要なものは、どんどんと消していく。泳ぎ方 を見につける子どももいれば、楽器をみごとにひきこなすことができるようになる子どももいる。 つまりこうして長い乳幼児期を通して、無限に近い可能性をさぐりながら、それに適応していく。
たとえば魚は、泳ぐことしか知らない。虫は、子孫に存続のことしか考えない。大半の動物た
ちもそうだ。しかし人間だけは、この未熟化の部分を長くすることで、より環境に適応した生物 として、生き残ることができる。
未熟化が長ければ長いほど、その適応期間が長くなることを意味する。
これをネオトリー進化論という。
つまりネオトリー進化論イコール、退化ではない。未熟化イコール、退化ということではない。
だから、アジア人(モンゴロイド)が、よりネオトリー進化論によって、幼稚ポク見えるからとい
って、欧米人より劣っているということにはならない。
「アジア人は、より幼稚ポイ」と書いた、私が、まちがっていた。この場を借りて、前に書いた
原稿を訂正する。
そう言えば、幼児教育の場でも、早熟的にしっかりしてしまった子どもよりも、やることなすこ
と天衣無縫で、発想豊かな、どこかチャランポランの子どものほうが、あとあとよく伸びるという ことは、よくある。
こうした現象も、ネオトリー進化論で、説明がつくのではないだろうか。
最後に、一つ、告白する。
このまちがいに気づかされたのは、UFOに関する本を読んでいたときだ。(くだらない出典で
失礼!)
ご存知の方も多いと思うが、地球に現れる宇宙人(異性人)の中には、「グレイ」と呼ばれる
宇宙人がいる。目だけが大きく、頭がツルツルの宇宙人である。目撃者の話によると、身長 は、150センチくらいだという。
そのグレイは、どう見ても、童顔である。一説によると、平均寿命は、1000年。血液型はモ
ンゴロイドの中でも、とくに日本人に多いとされる、「O型」。
あのグレイは、ネオトリー進化論によって進化した、異性人の進化形だという。道理で、幼稚
ぽい? (同じく、幼稚ポイ宇宙人として描かれていたのが、スピルバーグ監督作品の『未知と の遭遇』の中に出てくる宇宙人たちである。主人公のロイを宇宙船の中に導く宇宙人たちも、 子どもぽい雰囲気だった。)
……という宇宙人に関する話は、先日、書店で立ち読みした、まことにもって、いいかげんな
内容だが、しかしそれで気がついた。つまり私のまちがいに気がついた。それで、改めて、ネ オトリー進化論について、自分なりに調べなおしてみた。
その結果が、この原稿ということになる。どうか、私の早合点を許してほしい。
(はやし浩司 ネオトリー進化論 ネオトリー 脳の未熟化)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●ネオトニー進化論(2)
++++++++++++++++++++
アジア人(モンゴロイド)は、未熟民族か?
++++++++++++++++++++
澤口俊之著の「したたかな脳」(日本文芸社)を、読みなおしている。これで2読目。たいへん
おもしろい。と、同時に、気になる。
たった今、読みなおしたところは、「未熟化する日本人の脳」(P157)。
要約すると、こうだ。
最近話題になっている精神疾患に、「ボーダーライン」というのがあるそうだ。このタイプの患
者は、(人格障害)と(精神病)の中間、あるいは(神経症)と(精神病)の中間に位置するとい う。(そのボーダーライン上にいるから、「ボーダーライン」という。)
衝動的で、協調性がなく、気分がクルクルと変わる。
ニコニコと笑っていたのが、急に怒り出したりする。自殺することもあるという。
これは本来、欧米人に多い病気とされてきたが、表面的には似ていても、欧米人と日本人と
では、原因が違うという。
欧米人のばあいは、ボーダーラインだけではなく、精神疾患にいたる原因は、離婚や虐待な
ど、家庭に原因があるばあいが多い。とくに幼児虐待や強姦が多い。アメリカの多重人格者の 80%は、このどちらかか、その両方を経験しているという。
しかし日本人のばあいは、虐待や強姦が原因になっているのは、10%以下だと言われてい
る。
日本では、ほとんどが、「自立障害」である。これはボーダーラインにかぎらない。ある精神科
医によると、200人、診察したうちの、ほぼ全員が自立に問題をかかえていたという。
澤口氏は、これらの事実を総合して、つぎのように書いている。
「日本人に自立障害による精神疾患が多いということは、おそらくネオトニー化で獲得した特徴
が、変な方向に助長されたからでしょう。繰りかえすようですが、日本人はモンゴロイドですか ら、もともと母と子が、ベッタリとする素地をもっています」(P158)と。
この部分を読んでいて思い出したのが、(引きこもり)。(引きこもり)という現象は、日本人だ
けに見られる現象で、欧米では、見られないという。(引きこもり)も、考えてみれば、この自立 障害論で説明がつく。同時に、なぜ、日本人だけに(引きこもり)が起きるかも、これで理解でき る。
澤口氏の意見は、ショッキングなものである。わかりやすく言えば、日本人の私たちは、民族
的にも、劣等民族ということになる。「劣等」という言葉は、私が要約して感じたものだが、そう いうことになる。つまり私たち日本人は、進化を完全に遂げないままで終わっている、中途半 端な民族ということになる。少なくとも、欧米人と比較すると、そういうことになる。
たしかに、同年齢の若者や、おとなを比較してみても、私たち日本人は、幼稚に見える。たと
えばテレビ討論会などで、アメリカ人の政治家が何か意見を言ったあと、日本人の政治家がつ づいて出てきたりすると、「これが同じ、人間?」と思うほどの、(差)を感じてしまう。
しかもなお悪いことに、私たち日本人は、その進化を進めるどころか、退化している可能性す
らあるという。澤口氏も、そう書いている。
幼稚で、未熟。自分で論理的、理性的に考えて行動できない。つまりは私たち、日本人は、
自立できない民族ということか?
余談だが、オーストラリアの友人たちを、金沢の兼六園に案内したときのこと。たまたまそこ
で、旗を立てたガイドのあとを、ゾロゾロとついていく日本人観光客の一行に出会った。
それを見て、オーストラリアの友人たちは、ヒャーヒャーと笑っていた。「ヒロシ、君も、旗をも
って歩けよ」と1人が言ったが、それはもちろん、冗談。そういう旅行のし方は、彼らには、考え もつかないようだ。
わかりやすく言えば、自立心に欠けた日本人が、たがいに寄り添って、集団で行動する。そ
れが日本人の旅行のし方ということになる。が、それはまさしく、自立できない日本人を象徴し ているということになる。
同じ日本人であるにもかかわらず、こうまで日本人の悪口を書いたら、袋叩きにあるかもし
れない。しかしこれだけは言える。
私たち日本人が、(自ら考える)という習慣を、ここで放棄してしまったら、本当に日本人は、
サルに近い状態にまで、退化してしまうだろうということ。私は澤口氏の本を読みながら、そん な印象をもった。
(注)ネオトニー進化論
あらゆる生物は、進化の過程を経て、現在の生物になった。しかし中には、同じ系列でありな
がら、進化の途中で、進化を停止してしまい、つまりは未成熟のまま、その状態で生きている 生物もいる。
澤口氏は、ウーパールーパーと、サンショウウオの例をあげて、それを説明している。ウーパ
ールーパーは、サンショウウオの未熟形ということになる。
日本人が、欧米人並に進化するためには、2つの方法しかない。(1)国際結婚を推し進め
て、「血」の交流を進める。(2)より考える人間になって、大脳前頭葉を刺激し、この部分を、よ り発達させる。
子どもぽい子どもイコール、いい子、幼稚ぽい子どもイコール、かわいい子という、子ども観
は、まちがっている(?)……ということにもなるのか。いろいろ考えさせられる。
(はやし浩司 未熟な日本人 日本人の自立)
(訂正)
●ネオトリー進化の誤解(原稿、訂正)
ネオトリー進化論は、言うなれば、脳の未熟化に向けた進化をいう。「未熟化」という言葉にこ
だわるなら、「退化」ともとれる。私は、単純に、未熟化イコール、退化と考えてしまった。しかし これは、明らかに、誤解だった。
つまり生物は、進化すればするほど、未熟化するのだそうだ。未熟化することによって、多様
性を身につける。その一例として、ウーパールーパーと、サンショウウオがいるという。
ウーパールーパー(アホロートル)は、サンショウウオの未熟化した形ということになるが、そ
の分、環境の変化に、より対応した形ということにもなる。人間にたとえると、こうなる。
人間のばあい、乳幼児期がほかの生物にくらべて、格段に長い。満1歳になって、やっとヨチ
ヨチと歩き始める。鳥の仲間の中には、卵から孵化すると同時に、歩き始めるのがいるという のに、だ。
しかし人間のばあいは、長い時間をかけて、自分に多様性をさぐっていく。たとえば脳ミソに
は、無数の神経細胞があり、その神経細胞からは、これまた無数のシナプスという繊維状の 神経組織がのびる。
これらの神経組織が複雑にからみあって、人間の脳ミソを構成する。が、そのとき、人間は、
同時に無数の可能性をさぐりながら、一方で、不必要なものは、どんどんと消していく。泳ぎ方 を見につける子どももいれば、楽器をみごとにひきこなすことができるようになる子どももいる。 つまりこうして長い乳幼児期を通して、無限に近い可能性をさぐりながら、それに適応していく。
たとえば魚は、泳ぐことしか知らない。虫は、子孫に存続のことしか考えない。大半の動物た
ちもそうだ。しかし人間だけは、この未熟化の部分を長くすることで、より環境に適応した生物 として、生き残ることができる。
未熟化が長ければ長いほど、その適応期間が長くなることを意味する。
これをネオトリー進化論という。
つまりネオトリー進化論イコール、退化ではない。未熟化イコール、退化ということではない。
だから、アジア人(モンゴロイド)が、よりネオトリー進化論によって、幼稚ポク見えるからとい
って、欧米人より劣っているということにはならない。
「アジア人は、より幼稚ポイ」と書いた、私が、まちがっていた。この場を借りて、前に書いた
原稿を訂正する。
そう言えば、幼児教育の場でも、早熟的にしっかりしてしまった子どもよりも、やることなすこ
と天衣無縫で、発想豊かな、どこかチャランポランの子どものほうが、あとあとよく伸びるという ことは、よくある。
こうした現象も、ネオトリー進化論で、説明がつくのではないだろうか。
最後に、一つ、告白する。
このまちがいに気づかされたのは、UFOに関する本を読んでいたときだ。(くだらない出典で
失礼!)
ご存知の方も多いと思うが、地球に現れる宇宙人(異性人)の中には、「グレイ」と呼ばれる
宇宙人がいる。目だけが大きく、頭がツルツルの宇宙人である。目撃者の話によると、身長 は、150センチくらいだという。
そのグレイは、どう見ても、童顔である。一説によると、平均寿命は、1000年。血液型はモ
ンゴロイドの中でも、とくに日本人に多いとされる、「O型」。
あのグレイは、ネオトリー進化論によって進化した、異性人の進化形だという。道理で、幼稚
ぽい? (同じく、幼稚ポイ宇宙人として描かれていたのが、スピルバーグ監督作品の『未知と の遭遇』の中に出てくる宇宙人たちである。主人公のロイを宇宙船の中に導く宇宙人たちも、 子どもぽい雰囲気だった。)
……という宇宙人に関する話は、先日、書店で立ち読みした、まことにもって、いいかげんな
内容だが、しかしそれで気がついた。つまり私のまちがいに気がついた。それで、改めて、ネ オトリー進化論について、自分なりに調べなおしてみた。
その結果が、この原稿ということになる。どうか、私の早合点を許してほしい。
(はやし浩司 ネオトリー進化論 ネオトリー 脳の未熟化)
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