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●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔を
して、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であったがために、
余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。佐
木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をして
いる。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動力になった
とも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮面(ペルソナ)とシャドウ

 仮面(ペルソナ)をかぶると、その反作用として、心の奥にもう1人の、別の人格が生まれる。
それをシャドウという(ユング)。たいていは、無意識のまま生まれる。そしてそのシャドウ(影)
に気づく人は、少ない。

 たとえば牧師、僧侶、そして教職者。それほど善人でもない人間が、無理をして善人ぶると、
その反作用として、その人の心の向こうに、シャドウができる。そのシャドウに、自分の中のイ
ヤな部分を押しこめることによって、表面的には、善人を装うことができる。

 そのためたいていのばあい、そのシャドウは、邪悪で、薄汚い。その奥では、ドロドロとした人
間の欲望が、ウズを巻いている。

 反対に、善人でも仮面をかぶれば、理屈の上では、シャドウができることになる。しかし善人
が、仮面をかぶるということは、あまりない。そのため善人の心の奥に、シャドウができるという
ことは、少ない。ふつう仮面(ペルソナ)というのは、悪人が、自分の心を隠すために、かぶる。

 そこでそのシャドウを、いくつかに分類してみる。

(1)仮面とは正反対の、本性としてのシャドウ。
(2)劣等感を補償するためのシャドウ。
(3)優越感を保護するためのシャドウ。

 たとえば、牧師。もちろん大半の牧師は、善良な人である。しかし中には、いつも自分の心を
ごまかしている人もいる。邪悪な心を押し隠しながら、人前では、あたかも神の僕(しもべ)のよ
うなフリをして、説法をする。

 このタイプの人は、正反対のシャドウを、自分の中につくりやすい。(本当は、そちらのほうが
本性ということになるのだが……。)

つい先ごろ(05年4月)、大阪に住む、あるキリスト教会の牧師が、少女たちにワイセツ行為を
繰りかえしていたという事件が発覚した。被害者は、30数名以上とも言われる。体を清めると
か何とか言って、少女たちを裸にして、そのあと好き勝手なことをしていた。とんでもない牧師
がいたものだが、牧師であるがゆえに、かえって邪悪なジャドウが、増幅されてしまったとも考
えられなくはない。

 その牧師のばあい、牧師という顔そのものが、仮面(ペルソナ)ということになる。ふつう、シャ
ドウはシャドウとして、その人の陰に隠れて姿を現さないものだが、その牧師のばあいは、反
対に、シャドウのほうに、自分が操られてしまったことになる。

 ほかに、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいていた大学教授もいた。マスコミの世界で
も著名な教授であった。こうした人たちは、世間的にもちあげられればあげられるほど、善人と
いう仮面をかぶりながら、その裏で、仮面とは正反対のシャドウをつくりやすい。

 また「劣等感を補償するためのシャドウ」というのもある。

 たとえば学歴コンプレックスをもっている人が、表の世界では、「学歴不要論」を唱えたり、容
姿に恵まれなかった女性が、ウーマンリブ闘争の旗手になったりするのが、それ。

たとえば「私は息子たちには、『勉強しろ』と言ったことはありません。子どもは、自由で、伸び
やかなのが一番です」などと言う親ほど、実は、教育ママであったりする。

 あるいは、ある会社の社員は、ことあるごとに、同僚のX氏を、いじめていた。「あいつは、4
年生の大学を出ているくせに、オレより、仕事ができない」と。

 こうしたいじめをする原動力になっているのが、ここでいう劣等感を補償するシャドウというこ
とになる。

 さらに優越感を保護するためのシャドウもある。たとえば超の上に、超がつくような金持ち
が、ことさら自分を卑下してみせたり、貧乏人を装うなどが、それ。

 少し前だが、有名なニュースキャスターが、やや顔をしかめながら、こう言った。「この不況
で、ますます生活がきびしくなりますね」と。

 そのキャスターは、年俸が、2億〜3億円もあったという。1回の講演料が、300〜400万
円。そんなキャスターが、「生活がきびしくなる」などということは、ありえない。いくら演技でも、
限度がある。私はそのしかめた顔を見ながら、思わずつぶやいてしまった。「何、言ってるん
だ!」と。

 彼のばあいは、一応、庶民の味方であるかのようなフリをしながら、コメントを述べていた。
が、内心では、庶民を、軽蔑していた。あるいは庶民に対して、ある種の優越感を感じていた
のかもしれない。

 よく似た例としては、他人の不幸話を、喜んで聞く人がいる。さも同情したようなフリをして、
「それは、かわいそうに」などと言うが、実際には、何も、同情などしていない。このタイプの人
は、他人が不幸であればあるほど、自分が幸福になったように感ずる。

 こうした仮面は、教師には、つきもの。世間一般では、教職者は、それなりに人徳者と考えら
れている。しかし実際には、私も含めてだが、むしろそうでないケースが多い。

 その人の人徳というのは、いくたの苦難の中でもまれて、はじめて身につく。むしろそういう意
味では、教職というのは、意外と楽な仕事といえる。少なくとも、大学を卒業する時点におい
て、とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 だから……というわけでもないが、牧師にせよ、僧侶にせよ、はたまた教師にせよ、大切なこ
とは、シャドウをつくるような仮面をかぶらないこと。ありのままの自分を、まずさらけ出し、その
中から、自分をつかんでいく。それが私は、重要だと思う。

【追記】

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「要するに、自分に正直に生きればいいと
いうことね」と。

 いつも核心部分を、ズバリというところが、ワイフの恐ろしいところ。私が何日もかけて知った
ことを、いつも一言で、まとめてしまう。

 しかしあえて言うなら、ワイフは、少し、まちがっている。(ごめん!)

 「自分に正直に生きる」とはいうが、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 たとえば隣人を殺したいと思うほど、憎んでいたとする。しかしそのとき、自分に正直に生き
たら、どうなるか? 

 あなたは台所から包丁をもちだし、その人を殺しに行くかもしれない。しかしそれは、困る。

 「自分に正直に生きる」ためには、その前に、大前提として、(善良な自分)がなければならな
い。その(善良な自分)がないまま、正直に生きたら、それこそ、たいへんなことになる。

私「だからさ、学校の先生もさ、無理をしないで、自分に、正直に生きればいいのさ。へたに聖
職者意識をもつから、疲れる。それだけではない。シャドウをつくってしまい、今度は、そのシャ
ドウに苦しむことになる」
ワ「ありのままの自分で生きるということね」
私「そうだよ。オレは、給料がほしいから、教えているだけ。本当は、お前たちのようなバカは
相手にしたくねえが、がまんしてつきあっているだけとか何とか、そう思っているなら、そう言え
ばいい。すべては、そこから始まる」と。

 ここまで書いて、新しいことに、私は気づいた。「嫉妬(しっと)」である。その嫉妬も、シャドウ
理論で説明がつくことがある。つぎに、それを考えてみたい。


●嫉妬(しっと)

 もう20年近くも前のことだが、こんな話を聞いた。

 ある出版社に、部下の面倒みはよいが、たいへん厳格な上司がいた。しかしたいへんダサイ
男で、女性社員に、ほとんどといってよいほど、相手にされなかった。

 その中でも、つまり女性社員の中でも、その上司は、とくにA子さんに好意を抱いていたらし
い。ところが、そのA子さんが、同じ部にいる若いB男と不倫関係になった。とたんその上司
は、A子さんに、無理な仕事ばかり押しつけて、A子さんに対して、意地悪をするようになったと
いう。

 ふつうの意地悪ではない。執拗(しつよう)かつ陰湿。最終的には、A子さんをして、その会社
をやめる寸前まで、追いつめたという。

 簡単に言えば、その上司は、A子さんに嫉妬したということになる。しかし嫉妬するなら、その
相手の男、つまりB男に対して、である。どうしてその上司は、B男に対してではなく、A子さん
に、意地悪をしたのか?

 こうしたケースでも、シャドウ理論を使えば、説明ができる。

 その上司は、職場の先輩として、つまり人格者としての仮面(ペルソナ)をかぶっていた。職
場での不倫関係を強く戒(いまし)めていた。部下の面倒をよくみる、できた上司としての仮面
である。しかしその本性は、まったく、別のところにあった。女性社員に相手にされなくて、悶々
としていた。

 その悶々としていた部分が、その上司のシャドウを肥大化させた。邪悪で陰険なシャドウであ
る。そのシャドウが、その上司を裏から操(あやつ)って、A子さんを、いじめつづけた(?)。

つまりこのケースでは、その上司は、嫉妬が原因で、A子さんに意地悪をしたのではない。自
分のシャドウに操られて、そうした。そう考えると、話の内容が、すっきりする。

+++++++++++++++++++++

(補足)

 仮面(ペルソナ)をかぶることが悪いというのではない。だれしも、ある程度の仮面をかぶる。
かぶらなければ、仕事ができないことだって、ありえる。たとえばショッピングセンターの店員
や、レストランの店員など。ブスッとした顔をしていたのでは、売りあげものびない。

 しかしそこで重要なことは、仮面をかぶっているときは、いつも、その仮面をかぶっていること
を、心のどこかで、自覚すること。その仮面をかぶっていることを忘れてしまったり、あるいは
仮面をとりはずし忘れると、たいへんなことになる。

 たとえば教師が、聖職者としての仮面をかぶったとする。子どもを指導するためには、そうい
う仮面をかぶることは、ある程度は必要かもしれない。しかしそれが本当の自分とは、思って
はいけない。さらに一歩進んで、「私は、人格的にすぐれた人間だ」と思いこんではいけない。

 こうした状態が、さらに進むと、それこそ、自分がだれだか、わからなくなってしまうことがあ
る。仮面人間といってもよい。仮面をずっとかぶりつづけていたため、仮面をはずせなくなって
しまう。

DSM―IV(第4版)の診断基準の中には、「演技性人格障害」というのもある。つまりは、「自
分がだれであるかもわからなくなってしまい、他人と良好な人間関係を結べなくなってしまった
人」と、考えると、わかりやすい。

ここでいうシャドウとは、少し話がそれるが、参考までに、それをあげておく。 

++++++++++++++++

【演技性人格障害】 

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状
況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。
(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって
特徴づけられる。
(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を示すために絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象派的な、内容の詳細がない話し方をする。
(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。
(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

++++++++++++++++

 仮にここでいうような、人格障害というレベルまで進んでしまうと、それこそ、「私」が何なの
か、その人自身も、わからなくなってしまう。中には、自分の悪性を隠しながら、「私は絶対的な
善人だ」と信じきっている人もいる。先にあげた、ハレンチ牧師なども、その1人かもしれない。

 仮面をかぶるとしても、その仮面は、必ずどこかで、はずすこと。くれぐれも、ご用心!
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ ユング 演技性人格障害)


●私は善人か?

 仮面をかぶるということは、それ自体、とても疲れる。とくに私のように、もともと性があまりよ
くない人間にとっては、そうだ。

 そういう人間が、人の前で、さも人格者ですというような顔をして、話をする。これはとんでもな
いまちがいである!

 事実、私は、20代から30代のはじめのころまで、職場から帰ってくると、いつも言いようのな
い疲労感に襲われた。瀬一杯、虚勢を張って生きていたこともある。子どもを教えながら、その
向こうに、いつも、親たちの鋭い視線を感じていた。

 が、あるときから、自分をさらけ出すことにした。子どもたちの前ではもちろんのこと、親たち
の前でも、言いたいことを言い、したいことをするようにした。

 とたん、気分が晴れ晴れとしたのを覚えている。

 で、昔から、『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。

 これは自分が泥棒だから、他人も自分と同じように考えていると思うことによる。心理学で
も、そういうのを、「投影」という。自分の心を、相手の心に投影してものを考えるから、そうい
う。しかしもう少し踏みこんで考えてみると、泥棒は、自分自身のシャドウ(影)におびえていると
いうことにもなる。

 「自分の家は、いつも泥棒にねらわれている」とおびえるのは、泥棒に入られることを恐れて
いるのでもなければ、また他人が、泥棒に見えることでもない。実は、自分自身の中のシャドウ
におびえているため、と。

 同じように、仮面をかぶるとなぜ疲れるかと言えば、演技をするからではなく、そのシャドウを
見透かされないように、あれこれ気を使うためではないかということにもなる。

 今から、あの当時の自分を思い出すと、そう考えられなくもない。ある時期などは、さも「お金
(月謝)には、興味はありません」などという顔をして、教えたこともある。しかし私のシャドウ
は、熱心に、そのお金(月謝)を、追い求めていた!

 お金(月謝)がほしかったら、「ほしい」と言えばよい。無理をしてはいけない。つまりは、自分
に正直に生きるということになるが、これがまた、たいへん。

 正直に生きるためには、その前に、自分の中の邪悪な部分を、踏みつぶしておかねばならな
い。冒頭にも書いたように、私はもともと、性があまりよくない。「よくない」というのは、小ずるい
人間であることをいう。

 気は小さいので、たいしたワルはできない。しかし陰に隠れて、コソコソと悪いことばかりして
いた。そういう人間である。

 そういう自分に正直に生きたら、それこそ、たいへんなことになる。

 そこで私は、まず、身のまわりのルールから守ることにした。はっきりとそれを自覚したの
は、自分が、ドン底に落ちたと感じたときだった。それについて書いたエッセーが、つぎのエッ
セーである。

+++++++++++++++++++++

そのときのことを書いた、エッセーをそのまま添付
します。文章が、うまくありませんが、そのまま、で。

+++++++++++++++++++++

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。

そういう意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。

私のばあいも、幼稚園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤った
ア〜」と泣きつかれるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばな
らなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き
方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分
自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運
命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自
分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。
自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねてい
るに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命を、自分
で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私なのか、
と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は
偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その
ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に
吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい
る。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。

今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなた
もその悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのは
ある。

何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつ
づきは、別のところで考えてみることにする。

++++++++++++++++++++++

この原稿につづいて書いたのが、つぎの原稿です。
55歳のときに書いたので、もうそれから2年以上
になります。

内容が少しダブりますが、お許しください。

++++++++++++++++++++++

【自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。「乳がんです。進行しています。診断され
たあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。その日はた
またま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。消えて、私は一日書斎
に座って、猛烈に原稿を書いた。

●五五歳という節目

 私はもうすぐ五五歳になる。昔で言えば、定年退職の年齢である。実際、近隣に住む人たち
のほとんどは、その五五歳で退職している。

私はそういう人たちを若いときから見ているので、五五歳という年齢を、ひとつの節目のように
考えてきた。だから……というわけではないが、何となく、私の人生がもうすぐ終わるような気
がしてならない。

この一年間、「あと一年」「あと半年」「あと数か月……」と思いながら、生きてきた。が、本当に
来月、一〇月に、いよいよ私は、その五五歳になる。もちろん私には定年退職はない。引退も
ない。死ぬまで働くしかない。しかしその誕生日が、私にとっては大きな節目になるような気が
する。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。時間
というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。その日、その日を、ただ楽しく過ごせ
ればよいと考えたこともある。

今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、講演したりしているが、もともと私はそんな器(うつ
わ)ではない。もしみなさんが、若いころの私を知ったら、おそらくあきれて、私から去っていくだ
ろう。そんな私が、大きく変わったのは、こんな事件があったからだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。要するにモグリの講師だった。給料は二万円。大
卒の初任給が六〜七万円の時代だった。

そこで私は園長に相談して、午後は自由にしてもらった。自由にしてもらって、好き勝手なこと
をした。家庭教師、塾の講師、翻訳、通訳、貿易の代行などなど。全体で、一五〜二〇万円く
らいは稼いでいただろうか。しかしそうして稼ぐ一方、郷里から母がときどきやってきて、私から
毎回、二〇万円単位で、お金をもって帰った。私は子どもとして、それは当然のことと考えてい
た。が、そんなある夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。今と違って、当時は、幼稚園
の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。

おかしな序列があって、大学の教授を頂点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そして
小学校の教師と並んでいた。幼稚園の教師など、番外だった。私はそのまた番外の講師だっ
た。幼稚園の職員会議にも出させてもらえないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そうでないこと
がわかった。苦しかった。つらかった。そこで私は母だけは私をなぐさめてくれるだろうと思っ
て、母に電話をした。

が、母の答は意外なものだった。私が「幼稚園で働いている」と告げると、母は、おおげさな泣
き声をあげて、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア、誤ったア!」と、何度も繰り返し言った。と
たん、私は、どん底にたたきつけられた。最後の最後のところで私を支えていた、そのつっか
い棒が、ガラガラと粉々になって飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。寒い冬の夜だったと思うが、カンカ
ンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。死んでは
だめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。私はそのプラモデルをつくっ
て、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。私は床に正座したまま、
何時間もそのまま時が流れるのを待った。いや、そのあとのことはよく覚えていない。一晩中
起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もする。ただどういうわけか、あ
のプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。その夜をさかいに、タバコをやめ
た。酒もやめた。そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかったから、「やめ
た」というほどのことではないかもしれない。

しかしガールフレンドは、何人かいた。学生時代に、大きな失恋を経験していたから、女性に
対しては、どこかヤケッパチなところはあった。とっかえ、ひっかえというほどではなかったかも
しれないが、しかしそれに近い状態だった。一、二度だけセックスをして別れた女性は、何人か
いる。それにその夜以前の私は、小ずるい男だった。もともと気が小さい人間なので、大きな
悪(わる)はできなかったが、多少のごまかしをすることは、何でもなかった。平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。どうして自分がそ
うなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。私は、それ以後の自分について、
いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。一度だけ一〇円を借りたことがあるが、それ
は緊急の電話代がなかったからだ。もちろん借金など、したことがない。どんな支払いでも、一
週間以上、のばしたことはない。たとえ相手が月末でもよいと言っても、私は、その支払いを一
週間以内にすました。

ゴミをそうでないところに、捨てたことはない。ツバを道路にはいたこともない。あるいはどこか
で結果として、ひょっとしたらどこかで人をだましているかもしれないが、少なくとも、意識にある
かぎり、人をだましたことはない。聞かれても黙っていることはあるが、ウソをついたことはな
い。ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。私はその夜を境に、自分が
大きく変わった。それはわかる。しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算されたわけで
はない。邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。

かろうじてそういう自分が顔を出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからにほかな
らない。しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。そこで自分の過去を振り返ってみると、
自分の中のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにできたということがわか
る。

私はそれほど恵まれた環境で育っていない。戦後の混乱期ということもあった。その時代とい
うのは、まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。だから後悔する。私はもっと、
はやい時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。何という無力感。何という虚脱
感。それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学一年生だという。下の子ども
は、幼稚園児だという。

子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その心労の範囲を超えている。「地獄の
ような……」という彼女の言い方に、すべてが集約されている。五五歳になった私が、その人生
の結末として、地獄を味わったとしても、それはそれとして納得できる。仮に地獄だとしても、そ
の地獄をつくったのは、私自身にほかならない。しかしそんな若い母親が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」程度のも
のかもしれない。深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよいのかもしれな
い。私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましをすることができなかっ
た。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつことだ。だ
から私は遊びに行くのをやめた。やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に原稿を書いた。そう
することが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方法と思ったからだ。

++++++++++++++++++++++

 私は善人かと聞かれれば、「?」と思ってしまう。自分の中に、確固たる「柱」がない。それは
自分でも、よく感ずる。

 私は、だれにでもヘラヘラとシッポを振るような人間だったし、今も、基本的には、そうであ
る。たまたま今は、善の世界に生きているから、悪人でないだけである。もし近くに悪人がい
て、「おい、林、お前も仲間に入らないか」と声をかけられたら、そのままスーッと入ってしまうか
もしれない。

 事実、M物産という会社に勤め始めたころ、ヤクザ映画を見て、妙にそのヤクザの世界に魅
力を感じたこともある。魅力というより、あこがれた(?)。

 しかしあの夜を境に、私は、自分でもバカだと思うほど、クソまじめ人間になった。BW教室と
いう、小さな教室をもっているが、その教室ですら、過去35年近く、ズル休みをしたことは、た
だの一度もない。(本当に、ない! 休んだのは、起きあがれないほどの病気になったときだ
け。) 

 電話代の10円を借りたことはあるが、それ以外に、借金をしたことも、ただの一度もない。も
ちろんお金のことで、他人に迷惑をかけたことは一度もない。

 しかしそれらは、自分が善人だからではなく、自分自身のシャドウにおびえていたからそうし
ただけとも言えなくもない。自分が、(泥棒)だから、自分の家の(戸締まりを、厳重)にしている
だけということか。

 その証拠に、お金にルーズな人を見ると、必要以上に腹をたてたりする。しかしそれはその
相手に対して腹をたてるというよりは、自分自身のシャドウを、忌み嫌ってのことではないの
か。そういうふうにも、解釈できる。

 シャドウ(ユング)の考え方を、自分に当てはめてみると、そんな感じがする。

 以上、浅学を恥じず、自分勝手な解釈で、「仮面(ペルソナ)とシャドウ(影)」について、あれこ
れ考えてみた。

 もちろん私は、この道のプロではない。学者でもない。だからそういう意味では、どこか無責
任。書きたいことを書き、こうして書くことを楽しんでいる。ときどき、その道の専門家の先生か
ら、「ここがまちがっている」「ここがおかしい」という意見をもらうが、どうか、そのあたりのこと
は、勘弁してほしい。

 大切なことは、いろいろな意見を踏み台にして、その上で、自分なりの考えを、前向きに発展
させることではないだろうか。(……どこか、弁解がましいが……。)

 しかし今回、「シャドウ」という考え方には、今までになかった、新鮮さを感じた。さすが、ユン
グ先生! あなたはすばらしい!






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●夫婦げんか

●夫婦げんかでキズつく子どもの心

++++++++++++++++

岩手県にお住まいの母親(UK君の母親)から、
夫婦げんかと、子どもの心の問題について相談
がありました。

今回は、それについて、考えてみましょう。

++++++++++++++++

【 お子さんの年齢(現在の満年齢) 】:8歳
【 お子さんの性別(男・女) 】:男(UK男)
【 家族構成・具体的に…… 】:
   息子1人
   父43歳
   母38歳(私本人です)
近所によく行き来をする、私の祖母が在住

【 お問い合せ内容(1000字以内で……) 】:

はじめてご連絡をさしあげます。

子どもの神経症についてインターネットで調べていて、はやし先生のHPにたどりつきました。ま
た、それ以前にも「ポケモン・カルト」という本を拝読したことがあり、先生のお話や子どもに対
するまなざしに、とても感銘を受けておりました。

今回、このようなぶしつけなメールを送らせていただいたのは、現在小学校3年になる、一人
息子について、ご相談にのっていただける方を探していてのことです。

お忙しいところを誠に恐縮ですが、よろしければお読みいただけますでしょうか。どうぞよろしく
お願いいたします。

現在8歳になる息子は、いつも不安やおびえを訴えています。
6歳くらいまでは、しょっちゅう怖い夢をみていました。
今では夢はときどきですが、「なんとなく不安な嫌な感じになる」と、しばしば訴えています。

最近は、なにか新たなことに取り組むときに不安が高じるあまりか、「お腹がいたい」と訴える
ようになり、新学期やクラス替えのときなどは嘔吐もしました。かといって、学校生活に問題が
あるかというとそういうこともなく、学習態度や成績や休み時間の活動量なども、むしろ良好な
ほどだと思っています。

けれど、本人は自分にまったく自信がなく、すぐに卑下するような言葉を言うかと思うと、少しで
もうまくいかないことがあると、「だからUK(自分のこと)はダメなんだ」と怒って、自分を激しく
叩き続けたり、髪の毛をむしったりしてしまいます。「そんなことはしちゃだめよ」とそのたびに
叱ったり、話をしたりして、そのときは本人も「こういうことはいけない」と納得をするのですが、
またすぐに同じ行動をとってしまいます。

こうした息子の不安感や自責感についてずっと気になっていたのですが、先日、とても気がか
りなことが起こりました。

きっかけは私と夫がささいな口論をしたことでした。

おはずかしい話ですが、私と夫は口げんかが絶えません。夫は気に入らないこと---たとえば
その時は「ママの"おいしい"って言うときの顔は、すっごくまずそうにみえるよ」と、冗談なかん
じではなく、ひどく傷つくように言ったのがきっかけでした……を皮肉のようにぶつけてくること
がわりとあり、私もそれを我慢できなくなって、言い返してしまうことが多いのです。

そんな時、息子はいつもだまってうつむいてしまったり、「ケンカはやめてよ」と泣きながら抵抗
したりするのですが、これまではそれがちょっと過剰だな、と思うこともしばしばありました。

たとえば、ケンカではなくちょっとした意見の食い違いとか、大きな声で話しているだけだったり
とか、冗談を言いあっているだけで、ちょっとジェスチャーが大きい時とか、そんな時でもいや
がることがあって、「ちがうよ、勘違いしないで」と言うこともあったのです。

けれど先日ケンカになったとき、息子が「パパとママはケンカをしすぎだ。UKが生まれてから
数え切れないくらいしている」と言いました。そして、「ケンカをしているところにいると、こわくな
ってお腹がいたくなっちゃうんだ」と言ったのです。

私も夫もただ平謝りに謝るしかできず、なにも言い返すことができませんでした。そのとき、「こ
れまで一番こわかったのはどれか覚えている?」と聞いたところ、言い渋っていたのですが、
「パパとママがキッチンでプロレスみたいになったときのこと」と、ようやく言いました。

これは、息子が2歳半〜3歳くらいの時のことで、なにかのきっかけで言い争いになった時、夫
が私に「てめえ」と言い、頭をはり倒したことがあったのです。

不意のことでバランスを崩した私は、よろめいて、そこで倒れてしまいました。背後からそれを
みていた息子は火がついたように泣き出してしまいました。

私は「とにかくこの場を取り繕わなくては」と思うあまりに、その場で息子を抱いて謝り、夫にも
「UKに謝って」と言うのが精一杯でした。

そしてこのことはなんとか収束させた気になっていたのですが、先日の息子の告白を聞き、「も
しかしたらあの時のことが息子のトラウマのようになっているのではないか」と思うようになりま
した。それで、ちょっとした言い合いや大きな声も、もしかしたら私たちが思う以上に息子にとっ
ては「とても恐ろしい」と思うことなのかもしれない、という気がしたのです。

そう考えると、私たちがしてしまった浅はかな行いに、悔やんでも悔やみきれない気持ちで、い
てもたってもいられないのです。

幼い息子に、トラウマになるほどの心の傷を負わせてしまったとは、なんとひどいことをしたの
だろうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

はやし先生に教えていただきたいのですが、息子の心は、やはりトラウマを抱えているのでしょ
うか。

またそうだとしたならば、どのようにすればその体験を乗り越えさせてやることができるのでしょ
うか。

ご指導いただけましたなら、本当に幸いです。

誰にも相談できずに悩むあまり、独りよがりな話の押しつけのようなメールで、本当に失礼い
たしました。

どうか、よろしくお願いいたします。

+++++++++++++++++++++++++++++++

【UK君のお母さんへ……】

●心のキズ(トラウマ)は消えない

 心のキズは、顔についたキズのようなもの。一度、ついたキズは、消えない。

 また夫婦げんかを安易に考えてはいけない。夫婦げんかは、子どもに、深刻な不安感を与え
るのみならず、けんかのし方によっては、生涯にわたって、深いキズを残す。子どもにとって
は、親というのは、そういう存在。

 まず、そのことを、しっかりと認識する。逃げてもいけない。ごまかしてもいけない。いわん
や、子どもに謝ったくらいで、どうにかなる問題ではない。謝って、それですむと考えたら、とん
でもないまちがい。それこそ親の身勝手というもの。

●忘れることこそ、最善

 トラウマは、それから遠ざかることこそ、最善。子ども自身に、想起させないこと。こういうケー
スのばあい、夫婦げんかが一度だったら、それほど、深刻な後遺症を残さなかったかもしれな
い。

 しかしキズがついたあと、そのキズがいやされる前に、つぎのキズを再び、つけてしまう。これ
を繰りかえしているうちに、そのキズがどんどんと深くなっていく。たとえ二度目、三度目が、軽
い夫婦げんかであっても、だ。

 UK君の両親は、とても残念なことに、そのキズを、くりかえしUK君に与えた上、あえてさら
に、そのキズ口をえぐるようなことをしている。一方、子どものほうは、子どものほうで、たとえ
それほどはげしくない夫婦げんかでも、必要以上に、おびえるようになる。UK君の心は、い
ま、そういう状態にある。

●基本的信頼関係

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむ。絶対的というのは、「疑い
すらいだかない」という意味。親子の信頼関係も、そこから生まれる。

 その信頼関係を、つくれなかった子どもは、不幸である。家庭に、やすらぎを覚えないばかり
か、今度は、おとなになってから、暖かい家庭づくりに失敗しやすい。ひょっとしたら、(その可
能性はきわめて高いが)、同じような夫婦げんかを繰りかえし、妻を殴ったり、蹴ったりするよう
になるかもしれない。

 これを世代連鎖という。子どもは暴力を嫌いながら、その暴力から、自分を解放することがで
きなくなる。つまりは自分自身の邪悪なシャドウに苦しむ。

●やがて親からも離反

 夫婦げんかは、父母と子どもの間に、「三角関係」をつくる。心理学用語にもなっている。

 一度、この三角関係ができると、やがて子どもは、親の指導から、離れるようになる。わかり
やすく言えば、親の言うことを聞かなくなる。今は、まだ8歳だから、親の庇護下にあるが、小
学3、4年生を境に、急速に親離れをし、同時に、親を否定するようになる。その可能性は高
い。

 こうした深刻さを、UK君の母親は、どこまで理解しているかということ。

 あえて言うなら、UK君は、どちらか一方の親を、選ぶ。(UK君からみて、弱者のほうの母親
に味方する可能性が高く、父親を完全否定する可能性が高い。)が、母親としては、それを喜
んではならない。

 UK君は、マザコン化し、同時に、自分自身の中に、父親像をつくるのに失敗する可能性も高
い。

●夫婦げんかは、見せない

 以前、「夫婦げんかは見せろ。子どもに意見の対立を教えるよい機会になる」という本を書い
た、バカな教授がいた。(バカだ!)日本でも、1、2を争う、有名な幼児教育家である。

 私はその本を手にしたとき、体が震えるほどの怒りを感じた。しかし同時に、それが私をし
て、幼児教育の本を書かせる動機になった。

 当時は、(と言っても、今からほんの20年ほど前のことだが……)、おかしな権威主義がはび
こっていた。幼児を直接教えたことがない教授でも、そういった本を書くことができた。(今で
も、基本的には、この構図は変わっていないが……。)

 夫婦で、哲学論争でもするなら話は別。しかしそんな夫婦が、どこにいる? 見せるべきこと
は、仲がよいところ。助け合うところ。いたわり合うところ。抱き合うところ。

 そういった姿を子どもは見ながら、夫婦はどうあるべきか、家族はどうあるべきかを学んでい
く。ついでに、子育てのし方を、学んでいく。身につけていく。

●夫婦げんかの(わだかまり)をさぐる

 夫婦げんかが繰りかえされるなら、その原因、つまり心の奥底に潜む、わだかまりをさぐる。
望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、「できちゃった婚」であったとかな
ど。

 出産時や育児期の不安や心配が、わだかまりに変身することもある。

 そのわだかまりに気がつかないと、この種の夫婦げんかは、繰りかえされる。が、気がつけ
ば、すぐというわけではないが、あとは時間が解決してくれる。

 わだかまりは、心に固着し、人間をそのウラから操る。

 UK君の母親のばあい、父親に原因のすべてがあるように思うかもしれないが、母親自身に
も、何か、わだかまりがあるのかもしれない。さらに父親自身も、不幸にして、不幸な家庭に育
っている可能性も高い。つまり父親自身も、何らかのトラウマをもっている(?)。

 こうした親から子へと、代々とつながる、(因果)は、それに気がついた段階で切っておかない
と、つぎの世代へとつながってしまう。

●神経症

 当然のことながら、トラウマが残るような状態になると、その副作用として、無数の神経症(心
身症)による症状をともなうことが多い。UK君が見せる不安感は、「基底不安」と呼ばれる、ま
さに典型的な不安症状である。

 夫婦げんかのはげしさにもよるが、たった一度、母親にはげしく叱られたのが原因で、一人
二役のひとり言を言うようになった例(2歳女児)や、やはりはげしく祖父に叱られたため、自閉
傾向を示すようになった子ども(4歳男児)の例を、私は知っている。

 夫婦げんかであれば、それが直接子どもにおよぶものではないにしても、それと同等、ある
いはそれ以上のトラウマを子どもに残す。

 ここに書いた「不安感」にしても、一般には、「心配性」「不安性」「不安神経症」などと言われ
る。私のようなタイプの人間は、いつどこで、何をしていても、ふと不安になったり、心配になっ
たりする。ものごとを、悪いほうに、悪いほうに解釈するためである。

 たとえば旅行に行って、楽しんでよいはずなのに、そこでもふと、不安になる。もちろんそんな
ふうに思う必要はないのだが……。

 さらに深刻なことと言えば、その原因というか、さらにその奥では、「人を信じられない」という
問題もある。だれにでも、愛想よく、シッポを振るくせに、その実、その人に心を許せない。開け
ない。そういった状態になる。

 基底不安というのは、そういうもの。だから子どもには、……というより、育児には、絶対的に
安心できる家庭が、重要である。とくに子どもが、0歳〜5、6歳の時期にはそうである。それ以
後は、子ども自身にも抵抗力がつくし、子どもの心が、それで大きくゆがむというこおてゃな
い。

 しかし、こんなことは、当然のことである。それがいやなら、つまり、子どもの心にキズをつけ
たくなかったら、夫婦げんかなど、してはいけない。少なくとも、子どもの前では、してはいけな
い。

●対処法

 夫婦げんかをしない。すべては、ここに行きつく。とくにこれからの1〜2年が、勝負。……と
いっても、UK君には、すでにキズがついてしまっている。

 これからは、その罪に恥じるなら、夫婦で、結婚当初の愛情を、たがいに確認しあうこと。言
葉で謝るくらいのことで、キズが消せるくらいなら、心理学など、必要ない。

 重要なことは、前にも書いたように、そのキズを忘れさせるような、つまり遠ざかるような方法
で、UK君に接すること。

 が、仮に数か月に1度でも、また夫婦げんかをしてしまえば、元の木阿弥。この問題には、そ
ういった問題がつきまとう。

 あとは子ども自身の生命力と、判断力に期待するしかない。UK君が、いつか自分の中のトラ
ウマに気づき、それと戦う方法を身につけることを、期待する。

 ただたいへん、幸いなことに、この母親が、私に相談してきたこと。UK君の母親は、問題の
所在に気がついている。この賢明さが、UK君を救う力になる。

 たいていのケースでは、親が、自分たちのしたいることの愚かさに気がつかないまま、夫婦
げんかを繰りかえす。子どもの心のどんな影響を与えているかさえ、気がつかない。しかしUK
君の母親は、それに気がついている。

 あとは、UK君の父親が、どこまでそれに気がつき、反省するか、である。私の印象では、UK
君の父親自身も、先に書いたように、何らかのトラウマをもっている可能性があるのでは? 
父親が自分の背負っている「業(ごう)」に気がつけばよいのだが……。

●私の経験から

 私自身も、親たちのはげしい夫婦げんかを見て育っている。その私は、今も、つまり57歳に
なった今も、そのトラウマに苦しんでいる。

 UK君の不安症状に似た、不安感は今でも、感ずる。悪夢については、悪夢でない夢を見る
ことのほうが、少ない。

 そのあと、つまり成人してからは、毎日が、(本当に毎日が)、そのトラウマとの闘いであった
と言っても過言ではない。が、やはり今でも、それは残っている。しっかりと、残っている。心の
キズというのは、そういうもの。忘れることはわっても、消えることは、ない。ぜったいにない。

 ただ幸いなことに、私は、早い時期に、それに気づいたということ。これは私のしていた職業
のおかげでもある。心に問題をかかえた子どもを扱っているうちに、「私と同じだ」と思うことで、
私自身の心のキズに気がつくことができた。

 だから結論は、ただ一つ。

 子どもをなおそうなどと、考えないこと。なおすべきは、夫婦の関係である。自分たちがなお
せないで、どうして、子どもだけをなおすことができるのか。子どもの立場で、もっとものを考え
るべきではないのか。

 UK君のお母さんには、たいへん申し訳ないが、これが私の結論ということになる。

 世のお父さん、お母さん、子どもに恐怖感を覚えさせるような夫婦げんかなど、子どもの前で
は、ぜったいに、ぜったいに、してはいけない!!!

 これは子育てのイロハ。大原則。
(はやし浩司 夫婦げんか 夫婦喧嘩 トラウマ 心のキズ 心身症 神経症 子どもへの影響
 子供の心 影響 基底不安 不安神経症 はやし浩司)

【UK君のお母さんへ……】

 たいへんきびしいことを書いてしまいましたが、私自身も、UK君と同じようなトラウマを背負っ
ています。

 そういう意味で、きびしく書きました。

 夫婦げんかは、子どもに対する、いわば間接虐待です。どうかそういう視点でも、考えてくだ
さい。決して、安易に考えてはいけません。あなたが安易に謝れば謝るほど、かえって子ども
の古キズをえぐることになります。

 だったら、あなたが先に気がついて、夫婦げんかをしないこと。夫にさせないように、努力す
ることです。

 この世界には、『負けるが勝ち』という大鉄則があります。負ければよいのです。あなたが意
地を張ったところで、問題は、何も解決しません。夫に負けて、あなたが下に出れば、それでよ
いのです。

 しかし、夫婦げんかをそれほどまでにしながらも、今でも、夫婦であるということは、たがい
に、相手を必要としているからなのでしょう。「愛し合う」という状態ではないにせよ、「別れられ
ない」という状態です。

 しかし大半の夫婦が、そんなものです。(私たち夫婦も、そんなものです。)夫には、あまり期
待しないこと。あなたはあなたで、あなた自身の生きがいを求めていく。そういう流れの中で、
夫婦関係が正常化するということはよくあります。つまりは、「こだわりは捨てる」ということ。

 私には、UK君の悲しみや苦しみが、よく理解できます。学校でがんばっているのは、そうでも
しなければ、自分を支えることができないからです。さぞかし、つらいだろうと思います。UK君
が、です。

 だから言葉で謝る前に、それを態度や、姿勢の中で、見せることです。何度も書きますが、こ
の問題だけは、謝ってすむ問題ではありません。(私は、言葉で謝ること自体、卑怯だと思いま
すよ。)

 そしてこれから先、何年も、何年もかかって、UK君の心を、溶かしていきます。10年単位。2
0年単位の大仕事です。

 ここにも書きましたが、あなたの夫も、同じようなトラウマを背負っていると思います。一度、
冷静なときに、夫の過去や、幼児期を聞いてみるとよいですよ。この問題は、そういう問題で
す。

 が、みんな同じような問題をかかえていますよ。問題のない家庭で、問題なく育った人の方が
少ないのです。ですから希望は捨てないように!

 みんな、十字架を背負って生きているのです。みんな、です。私もあなたも、あなたの夫も、U
K君も、です。一つや、二つ、何でもないことです。つまり、そういう十字架と戦って生きるのが、
人生であり、人間なんですね。奥深い、ドラマも、そこから生まれます。

 人間、ばんざい! そんな気持ちで、どうか、この問題を乗り切ってください。あなたはUK君
を愛しています。その愛が通じたとき、UK君は、この問題からかならず、解放されます。『愛
は、まさしくオールマイティ』ですよ。不思議な力がありますよ。

(追記)

 なおそのあと、相談内容にありました件について。

 心のキズを、語らせることによって、心のキズから解放されることはないかとのことですね。

 こういうのをカタルシス効果といいます。これも、私のHPのどこかに書いてありますので、参
考にしてください。

 実のところ、私も、20代、30代のころは、原因不明の不安発作に苦しんでいました。しかし3
0歳をすぎたころ、その原因が、子どものころ体験した、はげしい夫婦げんかであったことを知
りました。

 で、それをワイフに話すことで、以後、発作は、収まりました。そういうことはあります。しかし
それを今の段階で、どうこうというのは、少し性急すぎるのではないかと思います。いかがでし
ょうか。

 しばらく時間をおいて、たとえば5年とか、10年とか……。楽しい思い出をしっかりと充電して
おいてから、そういった方法も試みられるとよいかと思います。

 なお、私はこうしてみなさんから見れば平気で(?)、自分のことを書いているように見えるか
もしれませんが、これは自己開示法による、対処法です。

 自分のことを、オープンにして話すことで、心のキズをいやすという方法ですね。これをするよ
うになってから、ずいぶんと気が楽になりました。「バカだ」と思いたい人には、思わせておけば
よいのです。どうせ人生は一回しかありません。恥だの外聞だのと考えて、小さく生きる必要は
ありません。……ね。


 がんばりましょう!






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●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ離れ
た文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、よく知ら
れている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのことだっ
た。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシャオ人(?)
の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤンシャ
オ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだけである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味が、同じで
あるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、意味は「星から来た
神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書いた。
なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブルとも言
われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。この中の素問
は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだろ
うか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以後に写
本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁和寺にある
という。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされている。な
ぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。年代
的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよい。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブックス」(学
研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってから、ティ
アトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝突してできたと
いうことになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、ど
こか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さら
には冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベースに、宗
教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これまたとん
でもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! それがシュメ
ール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で考え
たり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、ものの見方が、
変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、こう
言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみたいなも
のだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはない。た
だし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人だの、中国人だ
のと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとするなら、一
度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、西暦360
0年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、ロマ
ンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感じたようなロ
マンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始まる、あの映画であ
る。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩いてい
ると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の帰りにでも、
またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の別の
惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。ひ
ょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをしてい
る? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやってくるのは、多
分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消できるのも事
実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成構造が、地球
とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには宇宙
人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月を見なが
ら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情をしてみせるが、
こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の中で、「ウ
ム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、数字が
並び、その計算式が書いてある。

+++++++++++++

1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、ニネヴェ
のアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調査した結
果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に関するものである
と結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(およ
び秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に太陽
のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が1周して
もとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるのである。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転するのに要する
時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的である
が、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、その移動周
期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたっては、現
在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いることだろう。

+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、計算したも
の。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまったく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私たちが
知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2万5920年と、
計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげてみよう。そ
こには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少しずつ、
西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるように、1年に、2
万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第一、その
時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度の微妙な移動など、ど
うすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置いてある跳び
箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、500回転
周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いてあ
る。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描けない。し
かし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図形として
は、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を拾っ
てみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形文字
の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個数と、点
を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれない
可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の点を
線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字ではない
か!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書を買
って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でもよい。そ
の点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文字と一致すると
いう。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で交わっ
ている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということになる。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結んででき
た文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは順序が
逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が集合さ
れて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たちは、文
字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったということになるのだろ
うか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それを結ぶ
線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑なキーボードは
必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動かすこと
なく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。想像するだけで
も、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚えた感動が
もどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明してやるつも
り。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そうねえ」と
感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 運動周
期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくびを始めた。
(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。


(おまけ)

●謎の惑星「フォボス」 

 火星には、「フォボス」と「ダイモス」という2つの衛星がある。火星に近い軌道を飛んでいるの
が、フォボス。

 直径22・2km、火星から、9378kmの上空を飛んでいる。自転周期は、約7時間36分。1
877年に、発見された衛星である(ホール)。

 このフォボスの最大の特徴は、先端部にある、直径が、フォボス自体の直径の3分の1にも
なる、ほぼ真円形のクレーターである。写真などは、NASAなどが公表しているから、興味の
ある人は、見たらよい。

 こうした真円形のクレーターは、月の表面でもいくつか見つかっている。しかし写真でみると、
クレーターといっても、きれいなすり鉢状のようにもなっている。

 となると、このクレーターは、何かということになる。

 一つの可能性としては、何らかの推進装置とも考えられる。このすり鉢の中心部で、何らか
の爆発を起こせば、そのエネルギーは、そのままフォボスを動かす推進力にもなる。一見、原
始的な推進装置に見えるが、もっとも効率のよい推進装置とも言える。ムダなものが、何もな
い。

 このフォボスが、実は、宇宙人たちの中継基地ではないかという説がある。根拠は、いろいろ
あるようだ。

(1)中が空洞になっているらしいということ。
(2)旧ソ連の探査機が、交信を断つ前に送ってきた画像に、巨大なUFOが写っていたこと(探
査機「フォボス2号」)。
(3)表面の縞模様が、自然にできたものとは考えにくいこと。さらにその縞模様が、観測ごと
に、ふえていることなど。

 映画『スタートレック』などを見ると、宇宙船というと、金属製の、複雑な飛行機のようなものば
かりだが、実際には、宇宙を航行するときは、フォボス型の宇宙船のほうが、ずっと、効率がよ
いことがわかっている。

 大きな隕石をもってきて、中をくりぬく。そしてその中に住空間をつくり、そこに人が住む。危
険な放射線や、こまかい隕石との衝突もシャットアウトできる。適当な重力も、手に入れること
ができる。工法も簡単。

 たとえばフォボスは、時速24〜5キロ前後で走れば、その重力圏から脱出できるという。人
間で言えば、全力疾走程度で、宇宙空間へ飛び出すことができる。

 ……と考えていくと、ロマンは尽きない。

 ジャガイモ型のフォボス。その後方(前方かもしれない)に、巨大な真円形のクレーター。そん
なものが、今も、この宇宙空間をただよっている。

 そこでクエスチョン!

 フォボス自体は、巨大な隕石だから、重力をもっている。そのフォボスをくりぬいて、その中に
人が住んだとしたら、その重力は、その人に、どのように作用するだろうか。つまり人は、その
穴の中で、どのような生活をしているだろうか?

 月を例にとって考えてみてもよい。あの月も、中が空洞であるという説がある。仮に空洞であ
るとするなら、その中では、人は、どのように生活をしているだろうか。



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【被害妄想】

●被害妄想

 妄想性の強い女性がいた。年齢は、40歳くらいか。その女性と話していたときのこと。私は、
なぜその女性がそうなのかを、自分なりにさぐってみた。

 妄想……ありもしないことを勝手に頭の中で想像して、それをふくらませてしまう。「あの人
は、こうしたハズだ」「このときは、こうだったハズだ」と。そしてそれを基準にして、ものを考え
始める。

 こうした妄想性を、段階的に区分してみると、こうなる。

【1期】固執期(こだわり期)

 ひとつの事がらに、固執し始める。明けても暮れても、考えることは、そのことばかり。頭から
離れなくなる。悶々と悩んだり、苦にしたりする。

【2期】拡散期(不安、肥大期)

 そのひとつの事がらを核に、それを補強するため、周囲のこと、今まであったことを、それに
つけ加え始める。「あのときも、そうだった」「このときも、そうだった」と。そしてその不安や心配
を、将来へと結びつけていく。「また、そうなるのではないか」「また、ああなるのではないか」と。

【3期】否定期

 一度こうなると、すべてを悪いほうへ、悪いほうへと考えていく。ものの考え方が、自己中心
的で、相手の善意や誠意なども、理解できなくなる。自分のまわりのすべての人が、悪人に見
えてくる。

【4期】混乱・パニック期

 妄想が、一定の思考パターンに入ると、(たいていは、そのパターンができているものだが…
…)、そのパターンに沿って、妄想が妄想を呼び、頭の中は、パニック状態になる。突発的な行
動に出ることが多い。相手の家に押しかけていって、怒鳴り散らしてみる、など。暴力ザタにな
ることもある。

【5期】煩悶(はんもん)期

 妄想が終わったからといって、すぐ、頭の中がスッキリするわけではない。個人差もあるのだ
ろうが、妄想が頭のどこかに張りついたような状態に、なる。また問題が解決しないかぎり、
悶々とした状態がつづく。あるいは、せっかく、落ちつきかけても、同じ問題が起きたりすると、
逆戻りしたりする。

【6期】冷静・反省期

 しばらく考えたり、冷却期間を置くことによって、妄想に振りまわされていたときの自分を、客
観的に見ることができるようになる。しかし妄想を繰りかえす人には、この冷静、反省期がない
ことが多い。つまりそれがないから、何度も何度も、同じ、失敗を繰りかえす。

●ある学校の先生(小2担当)のメモから

 埼玉県に住んでいる、Sさん(女性教師・30歳前後)から、こんなメモが届いた。「ぜったいに
私とわからないように……」ということなので、かなり話を、デフォルメする。

 「私の生徒の親に、日本人の父親と、フィリッピン人(中国系)の母親をもつ子どもがいます。
その子どもを、X君(男)としておきます。

 X君には、1人、とても仲のよい友だちがいました。いつもいっしょに、遊んでいました。その
友だちの名前を、Y君としておきます。

 小学1年生の間は、毎日のように、いっしょに遊んでいました。ところが、何かの拍子に、Y君
がX君に、「お前は中国人だ」と言ったというのです。言い忘れましたが、母親が、中国系なの
で、外見からは、日本人と区別できません。

 これを聞いたX君の母親が、激怒。学校へおしかけてきて、Y君を叱ってくれるように言いまし
た。そのあと、言葉のやり取りの中で、校長と、大騒動になってしまったのです」と。

が、これはもともと問題になるような問題ではない。というのも、その教師の住む地域には、日
本でも有数のバイクメーカーの主要工場がある。外国人労働者も多い。もちろん外国人の子
ども多い。以前のように外国人の子どもが少ないときならまだしも、現在のように多くなってくる
と、むしろ、日本人の子どものほうが、小さくなっていることも少なくない。白人系の子どもたち
は、体格も大きい。

が、X君の母親のばあいは、日ごろの劣等感や、不満が、それに追いうちをかけた。X君の母
親自身も、自分が日本語をうまく話せないこともあって、差別されていると感じていたのだろう。

 で、ここで登場するのが、被害妄想である。

 この段階で、賢明な母親なら、それぞれの問題を区別して、ちょうど棚にものを整理してしま
うように、考え方を整理することができる。

 が、X君の母親は、それができなかった。すべての問題を、「中国人だから……」というところ
に結びつけてしまった。

 「うちの子が勉強ができないのは、日本人の教師が中国人を嫌っているからだ」
 「○○クラブに入れてもらえなかったのは、私が中国人だからだ」
 「親たちの会話の中に入れてもらえないのは、私が中国人だからだ」と。

 しかし実際には、そうではないようだ。そのSさん(女性教師)は、こう言う。

 「電話で話しても、意味が通じないのです。しかたないので、家庭訪問をして、その場で、いろ
いろ説明することにしています。何か行事があるたびに、きちんと口頭で説明しないと、理解し
てくれません。

 それだけならまだしも、自分で勝手に誤解し、(もちろん連絡用のプリント類は読みません)、
あとでいつも怒って電話をかけてきます。

 その少し前も、『横浜の中国人学校では、小1で掛け算を教えている。どうしてこの小学校で
は、掛け算を教えてくれないのか』と怒ってきたこともあります。

 が、そのX君が2年生になりました。私もいそがしくなり、家庭訪問までは、できなくなりまし
た。とたん、また抗議。『どうしてうちだけ、来てくれないのか』と、です。Y君とのトラブルは、そ
んなときに起きました。

 それほど深刻な雰囲気で、Y君は、そう言ったのではないと思います。が、X君の母親は、ど
うしてか激怒。校長にまで、ああでもない、こうでもないと食ってかかっていました。最後は、『ほ
かの日本人の親たちは、あなたにお金(=ワイロ)を渡しているようだが、私は渡さない』『あな
たは、いくらもらっているのか』『うちの息子だけ、体罰を受けている』などなど。

 そのうち校長も本気で怒り出してしまい、収拾がつかなくなってしまいました」と。

 よくある話である。

 学校と親と、一定の信頼関係で結ばれていれば、こうした問題は起きない。冗談は冗談です
む。しかしその信頼関係が切れると、そうはいかない。

 まさにX君の母親の被害妄想が生んだ、妄想劇ということになるが、実際には「劇」と言うほ
ど、生やさしいものではない。当事者たちは、トコトン、神経をすり減らす。そのSさん(教師)
も、数日間、食事も、ノドを通らなかったという。

 しかし、だ。悲劇は、それで終わったわけではない。

 X君とY君は、仲がよかった。しかしこの話を聞いたY君の母親が、今度は、激怒した。「何か
問題があるなら、どうして直接、私に言ってくれなかったのか」と。こうしてX君は、Y君とも、遊
べなくなってしまった。と、同時に、X君は、かえって、クラスの中でも、孤立するようになってし
まった。

 何か、こまかいことを、クヨクヨと気にするようになったら、要注意。だれしも、ときとばあいに
よっては、そういう状態になるものだが、そういうときの鉄則は、一つ。

 じっと、穴にこもって、がまんする。それにまさる対処方法は、ない。
(はやし浩司 被害妄想 妄想)

(注)「ある人、またはある組織から、迫害を受けていると信じこんだり、だれかが悪意をもっ
て、自分をキズつけようとしていると思いこむことを、被害妄想という」(心理学用語辞典)とある




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●道徳的未熟児(?)

 アメリカのブッシュ大統領が、K国の金XXを、「暴君」「危険な人物」と評した。それに対して、
K国が、反対に、ブッシュ大統領を、「人間のクズ」「道徳的未熟児」と、酷評した。

 「暴君」という英単語は、それほど悪い意味ではない。またブッシュ大統領が、「危険な人物」
と評したことについても、事実、そうであるから、しかたない。

 しかし「人間のクズ」「道徳的未熟児」とは!

 とくに「未熟児」というのは、失礼ではないか。いや、ブッシュ大統領に対してではない。世界
中の、未熟状態で生まれた子どもたちに対して、である。今では、医学も進歩しているから、
「未熟」の定義もあいまいになってきている。私の孫のSGも、予定より2週間早く、生まれてい
る。未熟児といえば未熟児ということになるが、今では、何ら、問題はない。

 むしろ問題は、そういう言葉を平気で、国際外交の場で使う、K国の感覚のほうにある。少し
前、国連という公式の場で、日本を、「ジャップ」と呼んだのに、似ている。

 もっともあの国では、ふつうの常識は通じない。だからこうした議論も、あまり意味はない。し
かしこうした口汚い言葉を使えば使うほど、品を落とすことになる。その愚かさに、K国は、まだ
気がついていない。


●トラブル・メーカー

 ある県のある小学校に、「キング・トラブル・メーカー」と呼ばれる母親がいるそうだ。現在は、
長男の時代から、その小学校に、もう8年もいるという。その妹が、今年、5年生になった。

 その母親は、ささいなことでからんで、学校へ怒鳴りこんでくるという。40歳を過ぎたベテラン
教師(男性)ですら、その母親から電話がかかってくると、顔が青ざめてしまうという。

 とにかく、しつこい、ということらしい。

 あるとき、担任の教師が、その妹の頭を、プリントを丸めてたたいた。たたいたというより、ト
ントンとたたいたというほうが正しい。

 が、その3日後のこと。その母親がいきなり、校長室へ飛び込んできた。そして、「(担任の)
○○を呼んでこい!」と。

 校長が「どうしましたか」と聞くと、「うちの子をたたいたそうだが、許せない。うちの子になんて
ことをするのだ!」と。

 あわててやってきた担任には、その意識がない。たたいたという意識がないから、覚えていな
い。そこで「たたいた覚えはありません」と答えると、「相手が子どもだと思って、いいかげんな
ことを言うな!」「うちの子(娘)は、私には、ウソをつかない!」と。

 そうして1時間ほど、ねばったという。

 で、こういうことが、1、2か月おき。あるいは3、4か月おきにつづいた。電話を受け取っただ
けで、顔が青ざめるようになるのは、当然である。

 その男性教師(40歳)から、「そういうときは、どうしたらいいでしょうか?」と。

 私の経験では、(1)こちら側からは、いっさい、アクションをしない。その場だけのことですま
して、あとは、ただひたすら無視するのがよいと思う。そう返事を書いた。

 何かアクションを起こすと、それがとんでもない方向の飛び火することがある。そしてときとし
て、収拾がつかなくなってしまう。

 メールの内容からして、相手の母親は、まともではない。このタイプの母親は、全体の5%は
いるとみる。育児ノイローゼ、過関心、過保護、過干渉。その母親自身が、どこかに心の病気
をもっていることもある。あるいは、アルツハイマーの初期の、そのまた初期症状というのもあ
るそうだ。

 異常なまでの自己中心性、傲慢、強引などなど。妄想性も強く、対処のし方をまちがえると、
烈火のごとく怒りだす。詳しくは書けないが、私も若いころ、そのタイプの母親に、さんざんいび
られた。当時は、そのため、母親恐怖症にさえなってしまった。「お母さん」と相手を呼んだとた
ん、ツンとした緊張感が、背中を走ったのを覚えている。

 しかしここに書いた鉄則を守るようになってから、トラブルは、ほとんどなくなった。要するに、
その場だけ相手にして、あとは、忘れる。この世界には、『負けるが勝ち』という、大原則があ
る。意地を張ったり、反論しても、意味がない。まず、頭をさげて、「すみませんでした」と言えば
よい。あちこちで問題にすると、かえってこじれてしまう。

 ささいな言葉尻をつかまえて、「言った」「言わない」の、大騒動になることもある。だから、無
視。ただひたすら、無視。あとは、時間が解決してくれるのを待つ。

 で、その母親は、校長室で、「隣の席にすわっている女の子を呼んでこい」と息巻いたという。
「その子どもが、証人になってくれる」と。

 校長が「そこまでは、できません。相手の子どもにショックを与えることになりますから」「これ
からは気をつけますから、許してください」と、再三再四、頭をさげたという。

 こういうトラブルは、学校という世界では、まさに日常茶飯事。しかし一番の犠牲者は、その
母親の子どもということになる。

 そのメールをくれた教師は、こう書いている。

「その子が、たたかれたとウソを言ったのは、宿題をやっていなかったからです。それで学校へ
行きたくないと言った。が、母親には、それを言うことができなかった。それで、その子は、母親
に、ウソを言ったのだと思います。ああいう母親ですから、子どもも、ウソをつくしかなかったの
ですね」と。
 
 あなた周囲にも、1人や2人、必ず、このタイプの母親がいるはず。つきあうにしても、じゅう
ぶん注意したほうがよい。とくに、口がうまく、ヘラヘラと、どこか不自然なほどまでに、親しげに
近寄ってくる母親には要注意。これは、ある幼稚園の理事長がこっそりと私に話してくれたこと
である。 

(付記)

 それでもトラブルが起きてしまったら……。学校での活動は、必要最小限にして、学校そのも
のから遠ざかること。

 時間には、不思議な力がある。その時間が解決してくれる。

 またこうしたトラブル・メーカーは、あなたに対してだけではなく、別のところでも、トラブルを起
こすようになる。あとの判断は、周囲の人たちに任せればよい。性急に、自分の正しさを主張
したりすると、かえって問題が、こじれる。

 ほかの世界でのことなら、ともかくも、間に子どもがいることを、決して忘れてはならない。


●道徳的未熟児(2)

 「道徳的未熟児」……私は、どうも、この言葉に、ひかかりを覚える。「道徳的未熟児」とは、
いったい、何? そんな子ども(人)が、いるの?

 精神の発達は、自己管理能力、他人との共鳴性、非自己中心性、他者との良好な人間関係
をみて、判断する(参考、EQ論)。

 これら4つの完成度の高い人を、人格の完成度の高い人という。学歴や経歴、肩書きにだま
されてはいけない。むしろ、過酷なまでの競争社会を生き抜いてきた人ほど、完成度が低い。
……ということは、よくある。他人の犠牲など、平気、と。だから、社会的には、成功者となりや
すい。

 そこであのK国について、考えてみる。

 前にも書いたが、アメリカのR国務大臣が、K国の金xxを、評して、「暴君」と言った。英語で
は、多分、「タイアラント(tyrant)」という単語を使ったのだっただろうと思う。「専制君主」という
意味である。中学生が使うような辞書にも載っているような、ごくふつうの単語である。

 それほど、目くじらを立てて怒らなければならないような言葉ではない。専制君主であるかな
いかということになれば、金xxは、100%、その専制君主である。

 それに対して、K国側は、いつもの、超過剰反応! そこででてきた言葉が、「ブッシュは、道
徳的未熟児」である。

 少し前も、アメリカの国務長官のRも、同じ言葉を使った。それについては、「謝罪しなけれ
ば、6か国協議には出ない」と、金xxは、がんばった。もともと協議などに出るつもりはなかっ
た。だからそれを口実にした。

 それに対して、R長官は、「私たちは、言葉の遊びをするつもりはない」と。「言葉の遊び」とい
うのは、日本的に言えば、「言いがかり」ということになる。

 そこで再び、「道徳的未熟児」だが、この言葉ほど、失敬な言葉はない。「未熟児」と呼ばれる
段階で生まれて、そのあと、懸命にがんばって生きている子どもは、何万人といる。そういう子
どもたちに対して、失敬だ。

 それとも、K国には、未熟児は、いないとでもいうのだろうか? もしそうなら、K国は、すばら
しい国だ。本当にすばらしい国だ。


●無視は、最悪の刺激

 人間関係をうまく結べない子どもというのは、たしかにいる。集団の中に溶けこめず、いつも
一定の距離を置いて、そのワクの外にいる。

 原因は、心を開けない。「開けない」ということは、(1)自分をさらけ出せない。(2)相手を受
け入れられない。この2つを意味する。

 このタイプの子どもは、自分では集団に溶けこめない反面、「無視」については、異常なまで
に敏感に反応する。

 このことは、頭のボケた兄を介護していて気がついた。

 どこかヌボーッとしているから、それだけ性格も鈍感かというと、そうではない。ある特殊な部
分についてだけは、きわめて敏感。とくに、人に無視されると、パニック状態になる。

 こんなことがあった。

 入れ歯展着剤が切れたときのこと。1、2度、兄は、それを私たちに訴えてきた。が、そのと
き、私たちはテレビか何を見ていて、無視したわけではないが、無視した。

 とたん兄はキレて、わざとその場で、ズデンとおおげさにころんで見せた。

 子どもたちの世界には、「シカト」という言葉がある。無視することを意味する。このシカトが、
なぜ、これほどまでに問題になるかといえば、そこに何らかの特殊な心理作用が働くためと考
えてよい。

 たとえば人間関係をうまく結べない子どもは、その分だけ、人間関係について、強烈なコンプ
レックスを感じている。いつも、他人の視線を鋭く、気にしている。視線ばかりではない。その奥
にある、「感情」まで、気にしている。

 そこで自分が無視されたと感ずると、その瞬間、過剰に反応する。あるいは、いじめの世界
では、ことさら、自分がのけ者にされたと誤解する。

 だから私たちも、そういう兄の性質が少しずつわかってきたので、それ以後は、何か話しか
けてきたようなときは、ていねいに答えるようにしてやるようにした。無視したとたん、パニック
状態になり、何をしでかすかわからない。そういう恐怖心もあった。

 「無視」には、こんな問題も隠されている。決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 シカト 無視 人間関係を結べない子ども 人間関係)




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●マザコン女性

 心理学の本をパラパラとめくっていたら、こんな記事があった。

 「女性にもマザコンはいる。しかもそのマザコン性は、男性のそれより、強烈」と。

 どの本だったかは、忘れたが、マザコンになるのは、何も、男性ばかりではないということだ。
知らなかった! ……というより、考えたことがなかった。

 私は、「男」だから、いつもその男を基準にして、ものを考える。そういう意味で、どうしても女
性の心理にうとくなる。ここに書いたマザコンにしても、男だけが、そうなるものとばかり思って
いた。

 しかし考えてみれば、つまりそのメカニズムを考えてみれば、マザコンになる女性がいても、
何らおかしくはない※。少し前だが、ファザコンの若い女性に出会ったことがある。その女性
は、「父親の悪口はぜったいに許さない」と、がんばっていた。

 しかしそこは、同性。男性がマザコンになるのと、少し内容がちがうようだ。特徴としては、つ
ぎのようなものが考えられる。

(1)母親の絶対化……母親を絶対視する。
(2)母親の偶像化……母親に幻想を抱く。
(3)濃密な自我群……濃密な親子関係。
(4)異常な孝行性……母親に献身的に尽くす、など。

 この(3)の「濃密な自我群」というのは、親子という(ワク)から生まれる束縛感をいう。親子関
係が正常なときは、むしろよいほうに作用するが、ひとたび親子関係にヒビが入ると、今度は、
その反対に、子どもは、そのワクに縛られ、そのワクの中で、もがき苦しむことになる。「親子と
いっても、ただの人間関係」という割り切りができない。親のできが悪ければ悪いほどそうだ
が、そのできの悪ささえ認めることができない。

 頭が半分ボケた母親(80歳くらい)に対して、「母だから、わかってくれるはず」「こんなはず
はない」と、がんばっていた娘(55歳くらい)がいた。

 が、問題は、ここで終わらない。

 マザコン男が、恋愛や結婚に失敗しやすいということは、よく知られている。理想の女性(マド
ンナ)を追い求めすぎるためである。つまりマザコン男は、いつも無意識のうちにも、母親の代
用としての女性を求める。

 自分を絶対的な愛で包んでくれる女性、である。

 しかしそんな女性など、いるわけがない。そこでマザコン男は、浮気という、女性遍歴(へんれ
き)を始める。実際、マザコン男ほど、浮気しやすい。このことも、この世界では、常識。

 一方、マザコン女性は、マザコン的でありながら、今度は反対に、自分を理想の母親と、偶
像化しやすくなる。自分をまさに、聖母(マドンナ)化するわけである。

 しかし、そこには、自ずと無理がある。反動形成によって、別人格をつくることもあるし、自分
自身のシャドウ(ユング)に苦しむこともある。そのためどこか不自然な母親になりやすい。そ
れこそ夫が浮気でもしようものなら、狂乱状態になる。

 「どうして、私のようなすばらしい妻がいるのに!」と。

 そして自分の子どもに対しては、無意識のまま、男児であれ、女児であれ、マザコン的である
ことを求めるようになる。またそういう子どもほど、いい子というレッテルを張りやすい。あるい
は自分の息子や娘が、マザコン的になっても、それに気がつかない。

 こうしてマザコン性が、代々と、受けつがれていく。

 少し前だが、こんな例があった。

 妻が、勝手に実家の母親と、新居を買う話を進めてしまった。妻は、母を引き取って、いっし
ょに同居するつもりでいたらしい。

 しかし毎月の返済額を計算してみたところ、その夫の給料では、とてもまかないないことがわ
かった。そこで夫が、「そんな家は買えない」「母とも同居しない」と言った。とたん、その妻と、
妻の母親は、その夫を、責め始めたという。

 「恥をかかせた!」と。

 ふつうの責め方ではなかった。まさに狂乱に近い、責め方だったという。毎晩、電話で、1時
間以上、母と妻(=その母の娘)が、ギャンギャンと、夫を責めたてたという。「恥をかかせた」と
いうのは、近所や親戚の人たちに、今度家を建てると宣言してしまったことをいう。

 結局、妻は、実家のあるM県に帰ってしまい、その夫婦は、離婚してしまった。

 つまりその妻にしてみれば、夫など、ただの(飾り)だったということになる。女性のマザコン
性を、決して、軽くみてはいけない。

 そこであなた(女性)のマザコン度テスト

( )何かにつけて、母親に相談している。母親と行動をともにしている。
( )夫よりも、母親優先の生活。どちらを選ぶかと聞かれれば、迷わず「母」と答える。
( )母親の批判、悪口は許さない。たとえ相手が兄や弟でも、許さない。
( )母親に対して、観音様であるかのような幻想をいだいている。
( )年老いていく母親のめんどうをみるのは、娘の絶対的な義務だと思っている。
( )母といっしょに風呂に入ったりすることが多い。背中を洗ってあげたりする。
( )自分は母親とすばらしい人間関係を築いていると確信することが多い。
( )私はすばらしい母親であると同時に、すばらしい妻であると思うことがある。
( )夫は、私のことをすばらしい妻と思っている。子どもはすばらしい母と思っている。
( )いつも自分の母親を理想像として、その理想像に合わせて、行動を決める。

 以上のような症状がみれれたら、あなた(女性)は、マザコン女性と考えてよいのでは……。
どうか、注意してほしい。
(はやし浩司 女性のマザコン マザコン女性 マザコンタイプの女性 マザコン)

【注※】
 ふつう「マザー・コンプレックス」というときは、母親と男子間の、特殊な心理状態をさす。

 濃密な母子関係が、本来あるべき男子の母親からの独立を阻害し、それでもって、特徴的な
症状を示すことをいう。

 こうした濃密な母子関係を、調整するのが。父親の役目ということになる。が、この父親自身
の「力」が弱いとき、父親自身がマザコンであるときなどには、このマゾコン性は、代々と、世代
連鎖しやすい。

 しかし男児と女児を分けて考えることのほうが、おかしい。女性だって、その環境で育てば、
男のそれとは形こそちがうが、マザコン性をもったところで、おかしくない。またそういう視点で
も、この問題を考えてみる必要がある。





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●親に命令をする子ども(本末転倒)

 とくに盗み聞きしたというわけではない。バス停でバスをもっていると、小学5、6年生とおぼし
き女の子が、母親と思われる人に携帯電話をかけていた。

 どうやらどこかの塾へ行く途中なのだが、何かの忘れ物をしたらしい。

子「何、言ってのよ! もってこいよ!」
子「いいじゃない、そんな仕事。少し休めばア!」
子「だから、もってこいって、言っているのよ」
子「いつものところよ。階段の下のところだよ」
子「サッサともってこい。外で待っているから」
子「あのさ、玄関の横に、自転車置き場があるだろがさ。そこだよ」
子「……うるせえなあ……。うるせえのは、テメエのほうだろがさ」と。

 電話の内容からすると、その女の子が、母親に、忘れ物を届けろと言っているらしい。が、母
親は、何らかの仕事中。こうして文字で書くと、その場の雰囲気はわからないかもしれないが、
かなり、……というより、ヤクザ風の男が怒鳴り散らしているといった感じ。

 しかも、まわりに私のような人間がいることなど、まったくの、お構いなし。平気。傍若無人(ぼ
うじゃくぶじん)。

 親子の立場が転倒する……今では、何も珍しくない。よくある。ざっとみても、15〜20組に1
組はそうではないか。しかも母親と娘の関係が、転倒するケースが多い(?)。目だつ(?)。

 こういうケースでは、たいてい親のほうが、そういう状況を受け入れてしまっている。あるいは
「親子というのは、そういうもの」といったように考えている(?)。そこにいたるまでには、長い
歴史と積み重ねがある。だからそういう状況を見て、あれこれ説教しても、意味はない。

 もちろん親のほうから、相談があれば、話は別だが、親自身も、「どこの親子も、そんなもの」
と考えているフシがある。そうでない親から見れば、「何というドラ娘!」ということになるのだが
……。

 子どもの歓心を買うことだけを考えていない親。
 結局は、子どもの言いなりになってしまう親。
 子どもがこわくて、何も言えない親、などなど。

 こうした親子関係は、ある時期をすぎると、悪循環状態に入る。そしてあとは、ズルズルとそ
のまま……。気がついたときには、冒頭のような会話になる。

 電話の向こうの様子はわからないが、多分、その母親は、娘のその子どもの機嫌をそこねな
いように、ペコペコしているのだろう。オドオドしているのかもしれない。

 携帯電話を、憮然(ぶぜん)とした様子で切りおわったとき、私は、その子どもに、よほど言っ
てやろうかと思った。「あなたねえ……」と。しかし、それはやめた。先にも書いたように、それ
ぞれの家には、それぞれの家の事情というものがある。その事情は、外部のものからは、は
かり知れない。たまたまその日だけ、そうだったのかもしれない。

 しかしこうした芽は、実は、子どもが4、5歳のころには、はっきりしてくる。もう少し詳しく観察
すれば、3、4歳でもわかる。

 子育ては、そういう意味では、リズム。一度、このリズムができると、それを変えることは容易
なことではない。だから、大切なことは、今、親子の関係が、どのようなリズムで流れているか
を知ること。

 それがよいリズムであれば、問題はない。しかしここに書いたような本末転倒になっているよ
うなら、できるだけ早い時期に、それを改める。でないと、結局は、損をするのは、その子ども
自身ということになる。

+++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

●「親のために、大学へ行ってやる」

本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。

そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそ
れまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金
を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者
がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめん
どうを、あなたはみるか」と。それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たっ
たの19%! 

この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者
たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94
年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化
は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均2
7万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に
灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨
大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母
親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけで
も、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何を
いまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、
行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。大半の高校生
は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学
を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新
聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。

「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。私の話は、
すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言っ
た。

「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に四万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろう
か。

(補記)(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約27万円。
毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の
平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182
万円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)




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【夫婦の危機】

 茨城県T町にお住まいの、ASさんから、
夫婦の会話についての相談がありました。
それについて、今回は、考えてみたいと思い
ます。

+++++++++++++++++++++++++++

●4歳1か月の長女、1歳になったばかりの二女がいます。

最近、父親(=私の夫)は、私が再三再四のメールを出しても、まったく返事をくれません。で
も、顔を見ると普通に会話をします。

そのままを受け入れようと思ってはみたのですが、なかなか難しくて。。。長女はこの4月から
保育園に通い始め、父親不在の生活に疑問を抱いている様子です。そろそろはっきりさせた
方が良いのか、(私の母ははっきりさせろと言っていますが)、彼からのアクションを待つ方が
良いのか、悩んでいます。

私のほうから、父子の関係を絶つようなことをしていいのだろうか、という思いがあるのです。
が、今のまま、こちらからの問いかけに一切応えてくれない人を、「父親」として、こだわり続け
なければいけないのだろうか、という思いもあります。

できることならば、「幸せな家庭」をしっかりと感じて成長していって欲しいと願っているのです
が。。。私は彼と、幸せな家族を築きたいと今でも思います。

でも、彼がそうでないのなら、もう諦めた方がみんなのためなのでしょうか。。。。母には「捨て
られたんだ」と、言われました。彼が、「もう嫌だ」と直接言ってくれれば、諦めもつくのですが、
(彼にもそう言ったのですが)、それでも返事はありません。

どう思われますか?

+++++++++++++++++++++++++

●押してダメなら、引いて、もう一度、引く

 間に、子どもがいる。こういうときは、『負けるが勝ち』です。つまり、引き下がります。それで
だめなら、もう一度、引き下がります。その度量の深さが、結局は、夫婦の愛情の深さというこ
とになります。

 再三、再四、メールを出して返事がないなら、もう一度、メールを出す。それでも返事がなけ
れば、さらにもう一度、出す。

 コツは、決して、相手を責めないこと。幸いなことに、会っているときは、ふつうの会話ができ
るということですので、「破局」と考えるのは、少し、早いのでは?

 (愛してはいない)、しかし(別れるほどではない)という夫婦は、今、いくらでもいます。大半が
そうではないでしょうか。いっしょに生活をしていて、10に一つ、100に一つ、チラリと光るもの
があれば、それで、もうけもの。あとは、それを信じて、それぞれが、自分の幸福を充実させれ
ばよいのです。

 で、こういうケースのばあい、決して、つっぱってはいけません。負けて、負けて、それでもだ
めなら、もう一度、負けます。負けることを知らない人には、つらい体験かもしれませんが、負
ければよいのです。

 「あなたがいいように、しますから、どうすればいいか、教えてください」
 「私は、あなたと仲よくしたいのですが、どうすればいいでしょうか」
 「私のまちがっているところを、どうか、話してください」と。

 あなたのお母さんが言っているように、この問題を、(捨てる)とか、(捨てられた)とかいう、次
元の低い話にしてはいけません(失礼!)。あまりにも低次元な話なので、コメントできないほど
です。

 そうではなく、あなた自身を、昇華させるのです。これには、理由があります。

●未練の完全燃焼

 仮にいつか離婚するにしても、あなたの中に残っている(未練)は、完全に燃焼させておかね
ばなりません。さわやかに、すがすがしい気持ちで別れるために、です。

 やるべきことは、すべてした。心残りは、何も、ない。そういう状態にしておかねばなりませ
ん。そのためにも、今、あなたは、自分を高めておきます。方法は、簡単。

 ただひたすら、許して忘れる。あなたの夫に対しては、夫を、慈悲深い愛情で包んであげる。
「あなたは、がんばっています。感謝しています」「あなたは苦しんでいます。私もいっしょに苦し
みます」「あなたは孤独です。いっしょに、孤独と戦いましょう」と。

 最初は、ウソでもよいのです。どこかぎこちなくて、当然。

 しかしそれを繰りかえします。

 あとは時間が解決してくれます。万が一、夫の不倫相手がいても、気にしない。男というの
は、やがて、より心の安らぐ場所を求めて、そこへもどってきます。肉体の魅力など、一時的な
ものです。

 こうして、(未練)をその一方で、(完全燃焼)させておきます。これはあなたのためであると同
時に、2人のお子さんのためでもあります。

 夫婦の離婚が、子どもに影響を与えるとしたら、離婚そのものではなく、離婚にいたる、ドタ
バタです。それが子どもに、悪影響を与えます。そのドタバタだけは、見せてはいけません。

 しかしあなたの高潔な姿……それはたいへんむずかしいテーマですが、それを見て、子ども
たちは、また別の、夫婦観、家族観をもちます。離婚イコール、悪と決めてかかる必要はあり
ません。

●過剰な期待は、しない。あとは、淡々と……

 時期が熟してくると、自然と、その道が見えてきます。それまでは、ジタバタしないこと。それ
が夫婦、家族の問題を考えるときの、大鉄則です。

 離婚にしても、そのときがくれば、ごく自然な形で、離婚の話が進みます。「離婚すべきかどう
か」と悩んでいるときというのは、まだ離婚の時期ではない。離婚は、先ということ。少なくとも、
こちらから追い求めるような問題では、ないということです。

 ここは、どっしりと構えてみてください。

 「あなたは、あなたで、がんばってください。私は、とりあえずは、2人の子どもの世話を懸命
にします」と。

 あとは、その日、その日を、懸命に生きていきます。クヨクヨ考えてもしかたないし、悩んだと
ころで、どうにもならない。離婚するかどうかは、「形」の問題。あなたは、あなたで、すべきこと
をすればよいのです。

 それで、つまり、そのあなたのすばらしさを理解できず、それで夫が別れると言うなら、じゅう
ぶん、責任をとってもらい、そのときはそのときで、あとは、運命に身を任せればよい。子ども
の問題は、そのあと、自然な形で解決します。

●やさしい言葉

 メールが短いので、事情がよくわかりませんが、ひょっとしたら、あなたの夫は、あなたのやさ
しい言葉を待っているのではないでしょうか。

 男の身勝手かもしれませんが、男には、そんな面があります。

 ですからここは、思い切って、引いてみてください。攻撃的に出るのではなく、あなたが下にな
ればよいのです。日ごろの、何気ないやさしさが、あなたの夫の心を溶かすということは、よく
あります。(それが、ここでいう『負けるが、勝ち』にもつながります。)

 「そんなことできない!」と思っているなら、なおさら。あなたの心を、押しつぶしてでも、してみ
てください。苦しいかもしれませんが、それでも、です。一度は、愛しあって結婚をした。肌をさ
らけだしあって、セックスをした。そういう仲です。それを思い出して、今度は、心をさらけ出す。

 離婚の危機などというのは、そのつど、繰りかえしやってきます。そのつど、本当に離婚して
いたら、夫婦などというものは、そもそも、存在しないことになります。

 大切なのは、離婚問題を考えることではなく、そういう問題は夫婦には、つきものという前提
で、夫婦の問題を考えるということです。外から見ると、みんなうまくいっているように見えます
が、そんな夫婦は、ごく少数ですよ。

 みんな。何らの問題をかかえて、がんばっている。ほら、よく、離婚の三原因として、浮気、借
金、暴力をあげますね。私は、逆に、こう考えます。「こうした問題のない家庭というのは、いっ
たい、何%あるのか」と。

 あなたも書いているように、ここはあまり夫婦、家族にこだわらないで、あなたはあなたで、何
か、自分を燃焼させるような、別のことを考えたらよいのではないでしょうか。

 が、それでも、離婚の問題が進行してしまったら……。

 そのときは、離婚すればよいのです。サバサバと、明るく、さわやかに、です。運命というの
は、そういうもの。そのときがくれば、道は、自然と見えてきます。

【補足】

 このところ、私はワイフにときどき、こう言います。

 「お前には、お前の人生があっただろうと思う。ぼくは、その人生を、お前から奪ってしまった
ような気がする。

 申し訳ないと思う。

 で、もし、お前が離婚を望むなら、離婚してあげてもいい。毎日、じっと、何かに耐えながら生
活をしているお前を見ていると、かわいそうに思う。好きでもない男のために、いつも何かを犠
牲にしているようだ。

 どうする?」と。

 するとワイフは、いつも、「そんなことないわよ。あなたの考えすぎよ」と答えます。

 でもね、私には、わかっています。

 ワイフが、本当は、私のことを愛していないことも、本当は、今の生活に満足していないこと
も。

 だから昨夜、眠る前に、こう言いました。

 「これからは、お前のしたいことがあれば、何でも、してみたらいい。応援する。今まで、ひど
い夫だったから、これからは、お前を幸福にすることだけを、考えて生活をするよ」と。

 私自身は、今まで、私のような男に耐えてくれたワイフに、感謝しています。だから今、ワイフ
が、「私の人生をやりなおしたい」と言えば、それに応ずる覚悟もできつつあります。いつまで
も、(=死ぬまで)、ワイフを、(=私の妻)としてしばっておくのは、あまりにも、かわいそうで
す。

 ひょっとしたら、そんなわけで、私たちも離婚するかもしれません。しかしそういう離婚の形も
あるのかもしれませんね。まあ、今のところは、何となく、平凡に、何ごともなく、日々は過ぎて
はいますが……。

 最後になりますが、あれこれ、反対に励ましてくださって、ありがとうございます。ASさんのよ
うな読者の方が、いらっしゃると思うだけで、本当に励みになります。これからも、がんばれる
だけ、がんばってみます。これからも、よろしくお願いします。

 (本当のところ、毎日が苦しいです。たいへんなムダなことをしているような気がしてならない
からです。マガジンについても、6月号から、どうしようかと、ずっと思い悩んでいます。とりあえ
ずは、1000号ですが、それまで気力がつづくかどうか……。先が長すぎます!)
(はやし浩司 離婚 離婚の危機)離婚問題 夫婦の危機 夫婦の問題)



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●自己概念

 自分の姿、立場、位置を正確に把握することは、とても重要なことである。他人の目を意識
せよということではない。(自分)というものを、客観的に知るということ。それは(私)を知るため
の、第一歩ということにもなる。

 「私はどういう人間なのか」「社会からは、どう見られているのか」「どういう立場にあるのか」
と。

 その自己の概念を知るためには、3つの方向性がある。

(1)自分の容姿、姿、態度、姿勢(自分の姿は、他人には、どう映っているか)
(2)自分の社会的地位、立場(自分は、どういう立場にあるか)
(3)自分の義務、責任(自分は、他人に何をするように期待されているか。何をすべきか)

 こうした概念を、正確にもてばもつほど、自分というものが、よくわかってくる。で、そのばあい
でも、自己中心的な人ほど、それがわからない。私が思っている私(自己概念)と、他人の中の
私(現実自己)の間に、ズレが生じてくる。

 よい例として、定年退職したあとまで、それまでの学歴や経歴をぶらさげて、いばっている人
がいる。そういう人は多い。とくに何らかの権力の座についた人ほど、そうではないか。いつま
でたっても、その亡霊から抜け出すことができない。

 このタイプの人は、定年によって、地位や肩書きをすべて失ったにもかかわらず、それにしが
みつくことによって、自分の権威を守ろうとする。しかし実際には、何もできない、ただの老人。

 いや、老人であることが悪いというのではない。その亡霊にしがみつけば、しがみつくほど、
自分を見失うということ。周辺の人たちと、同化できなくなってしまう。

 私が、このタイプの人を知ったのは、30歳くらいのときのことではなかったか。遠い親戚にあ
たる知人の家に遊びに行ったときのこと。その男性(当時65歳くらい)は、私にこう言った。

 「君は、何をしているのかね?」と。

 そこで私が「幼稚園で働いています」と答えると、「もうすこし、まともな仕事ができんかね。学
生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事には、つけなかったんだろう?」と。

 その男性は、定年まで、ある学校の校長をしていた。私は当時、すでに、「何、言ってるん
だ。自分は、ただの退職者のくせに」と思ったのを覚えている。

 現実の(彼)は、年金で遊ぶ、ただの退職者にすぎない。そういう現実が、まったくわかってい
ない。が、それだけではない。いつまでも過去の肩書きにぶらさがっていると、結局は、さみし
い思いをするのは、その人自身ということになる。

 こうした例は、母親たちの世界にもある。

 ずいぶんと前の話だが、つまり、まだバブル経済、まっさかりのころの話だが、こんな話を聞
いた。

 その銀行の寮(ある都市銀行のH支店・家族寮)では、夫たちの地位に応じて、妻たちの地
位も決まるという。妻たちの年齢や学歴は、関係ない。何かの女性会議の席でも、支店長の妻
が中央にすわり、つづいて、次長、部長、課長……と並ぶのだそうだ。

 廊下ですれちがうときも、相手が地位の高い夫をもつ妻だったりすると、道をあけなければな
らない、と。

 さらに上司の子どもと同じ学校は、受験しないなどという不文律もあるとか。うまく両方が、合
格すればよし。しかし上司の子どもが落ちて、自分の子どもが合格したりすると、さあ、たいへ
ん! ……ということで、そんなことにも気をつかうとか。

 そういう世界も、現実に、ある。バカげているが、当の本人たちには、そうではない。大まじ
め!

 つまりこうした悲喜劇も、つまるところ、(自己概念)と、(現実自己)のズレから生まれる。

 ……で、私のこと。

 以前、ある小さな会合で、7〜8人の男たちが、国際政治を論じていた。どの人も、商店主と
か、小さな町工場の経営者だった。

 私はその話を聞きながら、「そんなことを論じても、マスターベーションにもならない(失礼!)」
と思ってしまった。が、すぐに、それは私自身のことだと、気がついた。

 私は、こうして、子育てを論じ、人生を論じ、ついで同じように、国際政治を論じている。

 しかし、だれも、私を相手にしていない。あえて言うなら、私がしていることは、犬の遠吠え、
そのもの。社会的影響力は、かぎりなくゼロに近い。つまり私のもっている(自己概念)と、(現
実自己)は、大きく、ズレていることになる。

 ワイフだって、ときどき、こう言う。「あなた、日本の心配もいいけど、来月の家計も少しは、心
配してね」と。私が出している電子マガジンなどは、ワイフに言わせれば、まさに、道楽……と
いうことになる。

 考えてみれば、なんともさみしい世界だが、これが私にとっての現実ということになるのだが、
しかし目的がないわけではない。

 こうしてモノを書いていると、それ自体が、ボケ防止になる。それに毎日、新しい世界を知るこ
とは、実のところ、楽しい。未開の荒野をひとりで歩くようなスリルさえ感ずる。だから私にとっ
ては、決してムダではない。

 現実の自分がどうであるかをしっかりと知っていれば、あとは何をしようが、それは私の勝手
ということになる。現実の自分がそうであるからといって、必ずしも、それにこだわらなければな
らないということもない。

 自分を知るということは、本当に、むずかしい……。
(はやし浩司 自己概念 現実自己)

【補記】

 同じように、自分の子どもの(概念)を正確にとらえることは、むずかしい。問題のある子ども
を、「問題がない」と思いこむのも、反対に、問題のない子どもをを、「問題がある」と思いこむ
のも、結局は、子どもの(現実)を性格にとらえていないことになる。

 子どもの姿を、正確にとらえることも、子育てにおける、重要なテーマの一つかもしれない。




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●やる気論

 どうすれば、子どもから、やる気を引き出すことができるか?

 実は、今、私は、この問題に直面している。

 こうしてマガジンを毎週発行している。が、このところ、とんとやる気がなくなってきたのを感ず
る。なぜだろう?

 少し疲れてきた。
 テーマが思いつかない。
 読者がふえない。
 見返りが、ほとんど、ない。
 目的があいまいになってきた。
 ほかのことに興味をもち始めた。

 しかし何よりも最大の理由は、達成感がないこと。そのつど、「ヤッター」という喜びがあれ
ば、まだ励みになる。しかしその達成感がない。ときどき、何のために書いているのかさえ、わ
からなくなるときがある。

 で、そういう私がやる気を出すためには、どうしたらよいのか。これは、そのまま、子どもの問
題でもある。

 たとえば勉強をしても、成績が思うように伸びない子どもがいたとする。しかし毎日、勉強だ
けが、うしろから追いかけてくる。宿題もたまり始めている。

 しかし一度、こういう状態になると、子どもは、(そしておとなも)、心が空回りするようになる。
最悪のばあいには、何も手につかなくなってしまう。

 そういう子どもに向かって、「勉強しなさい」「こんなことでは、○○中学には入れないわよ」と
脅すことは、病気で熱を出している子どもに、水をかけるようなもの。かえって逆効果になるこ
とが多い。

 「がんばれ」も、そうだ。

 たとえば今の状態で、だれかが、私に「がんばれ」と言ったら、とたんに、私はますますやる
気をなくすだろう。その言葉に、反発を覚えてしまうからだ。「これ以上、何をがんばればいい
のか」と。

 では、こういうときは、どうするか?

 マガジンや、原稿のことを忘れて、何か、好きなことをする。たとえば今日、私は、部屋の掃
除をした。2部屋、ピカピカにみがいた。それから、寝室を移動した。夏用に、涼しい部屋に移
した。そして夕食前には、ラジコンのヘリコプターを飛ばした。

 そして書斎に入ってからは、しばらく、パソコンを使ってゲームをした。この原稿を書き始めた
のは、そのあとのこと。やっと、少しだが、やる気が出てきた。

 要するに、気分転換ということか。それをうまく利用する。しかしその気分転換にしても、だれ
かに言われてしたのでは、意味がない。かえって、ストレスがたまってしまう。子どもについて言
うなら、「暖かい無視がよい」ということになる。

 子どもは子どもなりに、自分で自分の心を調整しようとする。そういうとき、親は一歩退いて、
暖かい愛情で包みながら、無視する。子どものやりたいように、させる。決して、親の不安や心
配をぶつけてはいけない。

 ……ということで、この問題は、別の機会に、もう一度、考えてみたい。ここに書いたことは、
あまりにも、(浅い)。読むに耐えない原稿だと思う。ごめん!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

●子どものやる気 

 どうすれば、子どもに、やる気を起こさせることができるか。

 方法としては、2つある。一つは、子ども自身の中に、やる気を起こさせるという方法。これ
を、「内発的動機づけ」という。

 子どものもつ好奇心をうまく引き出しながら、それを成果に結びつけていく。

 もう一つは、この内発的動機づけに対して、「外発的動機づけ」と呼んでいるもの。わかりや
すく言えば、おどしたり、あるいは賞罰を与えたりして、子どもに、何かをさせることをいう。

 この外発的動機づけについては、私には、こんな苦い失敗がある。

 子どもに英語を教え始めたころのこと。「単語書きコンテスト」というのを始めた。ノート1枚
に、単語を、ぎっしりと書いたら、1点ということにした。そしてそれを夏休みの間、一番、たくさ
ん書いた子どもに、天体望遠鏡をあげる、と。

 それを知った子どもたちが、毎日、ノートの単語を書き始めた。出だしは順調だった。が、そ
のうち、2人だけの競争になった。その2人は、毎日、ズバ抜けて、たくさんの単語を書いてき
た。

 そのグラフを見ながら、1人、2人……と、ほかの子どもたちが脱落し始めた。で、最後に残
ったのは、先の2人だけ。

 無意味な競争になった。しかし途中でやめるわけにはいかない。

 夏休みが終わり、9月になって、最終的には、K君という男の子だったが、彼が、一番、たくさ
ん書いたことがわかった。そこで約束どおり、私はK君に天体望遠鏡を、与えた。

 が、異変は、そのあと、起きた。

 再び、子どもたちに単語を書かせようとしたのだが、だれも書こうとしない。肝心のK君までも
が、「今度は、何をくれる?」と、賞品をねだる始末。結局、この方法は、失敗に終わった。

 つまり外発的動機づけには、限界があるということ。またそれでは、子どもを伸ばすことはで
きない。

 子どもを伸ばすには、内発的動機づけを、大切にする。

(1)学ぶことは、楽しいと感じさせること。
(2)学ぶことの楽しさを、教えること。
(3)子どもの好奇心や、興味を、じょうずに、引き出すこと。
(4)子ども自身のやる気を、じょうずに育てること。
(5)子どもの(したいこと)と、(していること)を、一致させること。

 これに対して、外発的動機づけというのは、たとえば、子どもを受験でおどしたり、成績で評
価したり、賞罰を与えたりして、無理にやらせることをいう。この方法では、長つづきしないばか
りか、かえって子どもの内発的動機づけを、破壊してしまう。

 そこで登場するのが、「達成動機」である。

 よく誤解されるが、有名高校へ入るとか、有名大学へ入るとかいうのは、ここでいう「達成」に
はならない。「だから、どうなの……?」という部分がないからである。

 動機づけを達成感と結びつけるためには、そこに(1)人間的な完成、(2)社会的な認知、
(3)利他的な満足がなければならない。

 これ以外の動機づけは、一時的なもので終わることが多い。あるいは、そのままその人をし
て、貪欲な世界へと、かりたててしまう。

 たとえば、ある人が、ビジネスの世界で、年商1億円を達成したとする。そのときは、その達
成感に酔いしれることになるが、今度は、それが2億になり、3億になる。気がついたときに
は、マネーの奴隷になってしまっていた。そんなことだって、ありえる。

 つまり「動機づけ」は形を追い求めるのではなく、道徳、倫理、自然観などと深く結びついたも
のでなければならない。そのことを、的確に表現したのが、アメリカの心理学者のマレーであ
る。

 彼は人間の欲求を、最終的には、思想や才能へと結びつけて考えた。東洋的に言えば、
「真・善・美」の探究にこそ、真の動機づけがあるということになる。

 で、よくあるケースとしては、子どもを、脅したり、しかったり、あるいは賞罰を与えて、勉強さ
せるという方法。子どもは、それに従うかもしれないが、効果は一時的。やがて子どもは、フリ
勉、ダラ勉、時間ツブシがうまくなるだけ。

 一度、こういう症状を見せると、立ちなおりは、ほとんど不可能と言ってよい。

 だから……。子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを楽しませればよいということに
なる。とくに幼児期は、そうである。

 「子どもを楽しませてやろう」ということだけを考えながら、子どもを指導する。その意識が育
っていれば、それでよし。そうでなければ、そういう指導は、やめたほうがよい。この時期、一
度、伸びる芽をつんでしまうと、あとがたいへん。本当に、たいへん。

 あとは、子どもを支持し、励まし、ほめる。こうした前向きな姿勢が、子ども自身の内発的動
機づけを、さらに確固たるものにする。

 ついでながら、子どもにやる気があっても、それでその子どもが、当初の目的を達成できると
いうわけではない。プロセスは、プロセス、結果は、結果として、割り切って考えることも、子育
てには重要である。
(はやし浩司 外発的動機づけ 動機付け 内発的動機づけ 動機付け)


●結果は、結果

 東洋思想の特徴というか、日本人は、結果だけを見て、それまでのすべてを判断する傾向が
強い。

 しかし結果などというものは、いつもあとからついてくるもの。ずいぶんと前のことだが、私に
こんなことを言った母親がいた。

 その母親の子どもが、高校受験に失敗した直後のこと、私にこう言った。

 「小さいときから、いろいろやってみましたが、すべてがムダでした」と。

 つまりその子どもが幼いときから、いろいろな習いごとや、おけいこごとをさせたが、すべてム
ダだった、と。

 しかし本当にそうだろうか? そんなふうに考えてよいのだろうか?

 未来のために、いつも現在を犠牲にするという生き方をしている人にとっては、結果こそ、す
べて。しかし考えてみれば、それほど、愚かな生き方もない。今は、今。その「今」を大切にし
て、生きる。

 イギリスには、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。それについて書いた原稿を、ここに掲載する。

(余談)


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『休息を求めて疲れる』について書いた
原稿です(中日新聞掲載済み)。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。

「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなく
なる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えてい
る。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい
た……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。

「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つ
のはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であっ
て、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一
杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同
じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども
時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくても
いいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観
の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味
がわからないのではないか……と、私は心配する。

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同じような内容の原稿ですが、別のときに
書いた原稿です。

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●子育ての「時」は急がない

 時の流れは不思議なものだ。そのときは遅々として進まないようにみえる時の流れも、過ぎ
去ってみると、あっという間のできごとのようになる。子育てはとくにそうで、大きくなった自分の
子どもをみると、乳幼児のころの子どもが本当にあったのかと思うことさえある。もちろん子育
ては苦労の連続。苦労のない子育てはないし、そのときどきにおいては、うんざりすることも多
い。しかしそういう時のほうが、思い出の中であとあと光り輝くから、これまた不思議である。

 昔、ロビン・ウィリアムズが主演した映画に、『今を生きる』というのがあった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える高校教師。一方、進学指導中心の学校側。この二つのはざまで一
人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、ひょ
っとしたら日本人に、一番欠けている生き方ではないのか。

ほとんどの親は幼児期は小学校入学のため、小学校は中学校入学のため、中学や高校は大
学入試のため、と考えている。子どもも、それを受け入れてしまう。

こうしたいつも未来のために「今」を犠牲にする生き方は、一度身につくと、それがその人の一
生の生き方になってしまう。社会へ出てからも、先へ進むことばかり考えて、今をみない。結果
として、人生も終わるときになってはじめて、「私は何をしてきたのだろう」と気がつく。実際、そ
ういう人は多い。英語には『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞
にもなっているような格言だが、やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた、と。

 大切なのは、「今」というときを、いかに前向きに、輝いて生きるか、だ。もし未来や結果という
ものがあるとするなら、それはあとからついてくるもの。地位や肩書きや名誉にしてもそうだ。
まっさきにそれを追い求めたら、生き方が見苦しくなるだけ。子どももしかり。

幼児期にはうんと幼児らしく、少年少女期には、うんと少年や少女らしく生きることのほうが重
要。親の立場でいうなら、子どもと「今」という時を、いかに共有するかということ。そのために
も、子育ての「時」は急がない。今は今で、じっくりと子育てをする。そしてそれが結局は、親子
の思い出を深くし、親子のきずなを深めることになる。

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今を生きる子育て論……それについて書いた
原稿をここに掲載しておきます。

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●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちの
ために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそう
だから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。
 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

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●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を
かかえてしまう。

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を
疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉
を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言
うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ
以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松A幼稚園理事長)

+++++++++++++++++++

 長い前置きになってしまったが、「結果」だけをみて生きる、その生き方の愚かさを、これで理
解してもらえただろうか。

 大切なのは、結果ではない。そこにいたるプロセスである。だいたいにおいて、人生に結果
はない。ある宗教団体では、「その人の死に際の様子を見れば、その人の人生がわかる」など
と、教えている。

 ならば、聞くが、それはその人個人の結果かもしれないが、そこですべての時計の針は止ま
るというのか。「個人の死」も、長い目で見れば、生きている人間の一つのプロセスにすぎな
い。

 今日、結果が出たからといって、すれがすべてではない。その結果をもとにして、つぎの瞬間
が、また始まる。わかりやすく言えば、常に、結果は、つぎの始まりの土台にすぎない。

 高校受験に失敗したからといって、それは結果ではない。もしそれを結果だとするなら、その
母親が言うように、その過去を、すべて否定しなければならなくなる。しかし、そんな愚かな子
育てはない。

 私は、あるとき、こう思った。

 3人の息子たちが、それぞれ自分勝手な方法で巣立ってしまったのを感じたときのことだ。ふ
と、「今まで、人生を楽しませてくれて、ありがとう」と。私は息子たちのおかげで、自分の人生
を、楽しむことができた。親として、それ以上、何を望むことができるのか。

 繰りかえすが、大切なことは、「今」というときを、懸命に生きること。結果は、必ず、あとから
ついてくる。子育ても、また同じ。
(はやし浩司 今を生きる育児論)




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●平和教育

●中国の反日運動

 やはり、ウラがあった。

 中国で起きた反日運動は、「反日」にかこつけた、民主化闘争だった。そんな疑いが、ますま
す濃厚になってきた。(私の予想どおりだったぞ!)

 中国のK首席は、そうした反日運動に参加した運動家らを、処分し始めた。新聞に載った月
刊誌(月刊・B誌)の見出しでは、すでに130人近くが、処刑されているという。(まだ記事その
ものは、読んでいないので、これからその雑誌を購入して、内容を確かめるつもり。)

 ただ単なる反日運動なら、運動家を処分する必要はないはず。やはり中国政府は、今回の
一連の反日運動の中に、国家の転覆(てんぷく)にもつながりかねない、何かを感じ取ったの
だろう。

 この話をワイフにすると、ワイフも、「中国って、恐ろしい国ね」と。

 だからこそ、あれだけの巨大な国をまとめることができるという説もある。もし中国政府が、
国内の民主化運動を認めたら、中国という国は、バラバラになってしまう。

で、私たち日本人は、そういうことが平気でできる巨大な国が、すぐそばにあることを忘れては
ならない。もっとも、日本も似たようなもの。中国共産党というのは、日本では、官僚主義体制
をいう。その官僚たちが、自分たちのいいように、この日本や日本人を操っている。

 それについて、ワイフが、こう言った。

「どうして、日本では、民主化運動が起きないのかしら?」と。

 そこが日本人の特質というか、民族性。

 お上の不正を見せつけられても、「おかしいから正そう」と考える前に、「あわよくば、自分も
その恩恵にあやかりたい」と思う。「せめて、自分の息子や娘だけは、官僚に」と考える。親戚
や家族の中には、そうした恩恵を受けている人が、1人や2人は、必ず、いる。だからどうして
も、口が重くなってしまう。

 中国政府のような露骨な弾圧こそしないが、現に今、官僚にたてついたら、この日本では、
仕事そのものが、できない。そういうしくみが、すでにできあがってしまっている。だからあの社
会H庁の例を見るまでもなく、官僚たちは、まさにやりたい放題。

 つぎからつぎへと新手を考えて、ズルイことをしているから、不正を追及する手がおよばな
い。

+++++++++++++++

 あのね、民主主義というのはね、何か問題が起きる前に、(あとではない! 前に!)、民衆
が声をあげるようなシステムをいうのですよ。何か、問題が起きてから、お上に責任を追及す
るのは、民主主義ではありませんよ。

 今度の脱線事故だってそうです。乗客たちはみな、「恐ろしい運転だった」「いつもよりスピー
ドが速かった」「列車が横に揺れた」と言った。だったら、なぜ、その場で、みなで、声をあげな
かったのか。あげられなかったのか。

 つまり、そこに意識のちがいがあるわけです。何か、事故が起きるまでは、すべてお上任せ。
事故が起きると、「お上が悪い」「お上が悪い」と、いっせいに声をあげる。そしてそれを受け
て、お上は、ますます規制や管理を強化する。

 今度も、お上は、「運転手資格については、国家試験とする」「全国のレールには、ATSをす
べて設置する」などと言い出した。

 それが悪いわけではないが、こうしてますます私たちの世界は、息苦しくなっていく。

 大切なのは、私たち1人ひとりが、もっと自分で考える人間になって、私たち自身が声をあげ
ること。今回も、事故が起きてから、JR西日本の内部規定が問題になった。そこには、「利益
が、安全より優先」とあった。

ではなぜ、その前から、みなが、「おかしい」と、声をあげることができなかったのかということに
なる。さらに事故が起きたあとも、JR西日本の職員たちは、ビールを飲んで、宴会までしてい
たという。

 まさにノーブレインの連中ばかり。ほんの少しでも、自分で静かに考えることができる人間だ
ったら、とても、そんなことはできなかったはず。

 私の印象では、日本人ほど、自ら考える習慣のない民族は、いないのではないかと思う。上
から下まで、ゼーンブ! まったく、考えない。考えることそのものから、逃げてしまう。中には、
考えることを、悪と決めてかかる人もいる。

 ついでだから言っておきますが、バラエティ番組でするような、「知能サプリ」などのようなもの
は、考えることとは、無縁ですよ。パズルのような問題を解くのを考えるから、「考える」というこ
とにはならないのですよ。

 考えるということは、論理に論理を積み重ねて、自分なりの結論を、導くことを言いますよ。そ
れには、たいへんな苦痛がともなう。

 民主主義の大前提。それはそこに自ら考える人間がいること。お上の言いなりに動くようで
は、民主主義は、いつまでたっても達成できない。

 そういう意味では、中国の民衆のほうが、よっぽどよく、ものを考えている。ホント!

【追記】

 さっそく書店で、「文藝S誌(月刊誌)」を買ってくる。

 読む。

 ところで最近、このS誌、あまりおもしろくない。権威主義的というか、権威者ばかりをそろえ
て、雑誌を構成している。ますます庶民性が、消えてきた。編集長にせよ、編集部員にせよ、
ただの社員なのだろうに……。

 「B誌の編集部です」と電話すれば、その電話一本で、こうしたエラーイ権威者たちを、電話
口に呼び出すことができる。原稿の依頼ができる。

 しかしそれは「文藝S誌」という看板を背負っているから、できるだけ。それがわかるのは、自
分たちが定年か何かで、退職したとき。退職したとたん、だれにも相手にされなくなる。

 「しかし今は、わからないだろうな……。若い編集部員ほど、有頂天になりやすい」と思いつ
つ、目的のページを読む。

 記事によれば、中国の浙江省の東洋市というところで、工場閉鎖であぶれた労働者たちが、
工場を占拠したという。

 その占拠が1か月以上つづいた。そこで中国政府は、治安に乗り出したが、そのとき公安の
車が、労働者1人をひき殺してしまった。それが発端となり、労働者が暴動を起こし、中国当局
と衝突。

 労働者たちは、町にくり出した。そのとき、「工場外の不満分子」(同誌)を吸収し、その数は、
5万3000人近くにまで、ふくれあがったという。

 そこで中国当局の治安部隊と衝突。結果、137人の中国人労働者たちが、殺されたという
(以上、「反政府暴動、137人が殺された」・富坂聡)。今年の4月8日のことだったという。

 そのとき、暴動を起こした労働者たちは、「起義(革命)」という言葉を口にしたという。つまり
中国政府は、一連の反日運動が、中国の民衆化運動、しいては、中国政府の打倒に結びつく
ことを恐れた。

 5月に入って、中国政府は、反日運動を、きびしく取り締まっている。当初は、政府と暴徒と
は、どこか馴れあっていた。日本の大使館が攻撃されたときも、それを取り締まる警官も、ニ
ヤニヤと笑っていた。が、それが一転。取り締まりが強化されたのは、反日に名を借りた反政
府暴動を、中国政府当局が、警戒したためである。

 しかし中国の民衆化運動は、猛烈な拝金主義とともに、もうだれにも止めることはできない。
それが世界の流れであり、うねりなのだ。

++++++++++++++++++++++

【石原S氏の「北京5輪をボイコットせよー緊急提言」を読んで】

 文藝S誌には、東京都知事の石原S氏の緊急提言を、掲載している。いわく、「北京5輪をボ
イコットせよ」と。

 冒頭から、先般の反日デモをとりあげ、「あの抗議行動は、"官製デモ"と言って間違いない
だろう」(94P)と断言している。

 つぎに気になったのは、例によって、例のごとく、「日本軍は、南京では、30万人も殺してい
ない」という説。

 そのまま引用する。

 「かつて私は、南京陥落直後に報道班員として、現地入りをした大宅荘一と石川達三氏に当
時の様子を聞いたことがある。二人の話は、『たしかに死体はあったが、数からいっても大虐
殺といわれるほどのことはなかった』という点では一致していました。……当時現地にいた、ニ
ューヨークタイムズのダーディン記者に、在ワシントンの古森記者が、長いインタビューをしてい
たが、ダーディンも当時の南京の人口は、蒋介石軍の乱暴を怖れた市民が逃げだして、20万
人もいなかった。それが30万人も殺したというのは、おかしな話です、と言っている」(同誌、9
7P)。

 さらに「首相のY神社参拝は、当然。私がK首相なら、当然ながら今年も参拝します」(98
P)。「お国のために戦った死者に、哀悼の意を表するのは(当然)」とか、「尖閣諸島に自衛隊
を常駐させろ」とつづき、最後は、「北京5輪を、ボイコットせよ」と。

 南京虐殺事件については、私も調べてみた。

●南京虐殺事件

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。当時のK内閣は、南京攻略に
対して、三光作戦を展開していた。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー
「アジアの戦争」)。その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京
への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公約数的な事実のようである。

 で、ここで注意しなければならないのは、日本側は「南京では、30万人も殺していない」と主
張しているのに対して、スノーは、「日本軍は南京に向って、南京を攻略する過程で、30万人
殺している」「南京では、4万2000人」と書いている点である。

 ここに時間的錯誤がある。また、「三光作戦」というのは、現存したし、それに基づいて、日本
軍は、中国人(中国軍ではなく、中国人)を、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくした)というのは、
動かしがたい事実である。

 これに対して、こんな記事(04年11月)を書いたことがある。改めて、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

10年ほど前のことだが、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が
南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそ
のとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。「あんたは、それでも、日本人
か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガ
ポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。しかし日本は、一度だって、アジアの人たち
に向って、その戦争責任を認めたことはない。ナーナーですませてしまった。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。天皇を最高権威として、
つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これは、まことに、まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事
力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人
を、容赦なく処罰した。三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。(3万人
でもよい。)そのほとんどが、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。「日本
人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。わかりや
すく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰りかえしなが
ら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは! そんな詭弁(きべん)が、はたして、世界で通る
のだろうか。(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社に、A級戦犯として、祭られている。に
もかかわらず、一度も、Y神社を参詣していない。むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、
うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは……!? むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国
人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねない。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。「日本が、道路や鉄道を敷い
てやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したではな
いか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされて
も、文句を言わないことだ。あの中国にしても、5500年の歴史がある。韓国にしても、2000
年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。そ
の漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。文化の優位性ということを言うなら、日
本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中
関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。
いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にす
ら、なりかねない。K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になる
な」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。「私には関係ない」
ではすまされない。

 最後に一言。K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。だっ
たら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。たしかに3
00万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。しかも、日
本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教
科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。が、日本で
は、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。私は、もう知らな
い! 知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派
への1億円の小切手が渡された。だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にな
いが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。いざ、戦争ともなれ
ば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてしまう。H元首
相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。本当
に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 「もう、考えるのも、いやになっ
た」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。だいたいにおいて、「不戦
の誓い」とは、何か? 相手を怒らせ、敵意をかきたてるようなことをしながら、「不戦の誓い」
とは? 私には、K首相が、まったく、理解できない。

(補記)

 日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反
(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(5
5)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年
(求刑・禁固10月)を言い渡した。

++++++++++++++++++++

 話を石原S氏にもどす。

 石原氏は、「なぜ中国の教科書に、文革の記述がないのか」と、中国を批判している。「(文
革で)2000万人の同胞を殺した記述がないのは、おかしい」(97P)と。

 しかしそれこそ、いらぬお節介。つまり石原氏は、中国だって、国内でひどいことをしているで
はないか。だったら、日本軍がしたことなど、問題にするなと言いたいのだろう。あるいは、日
本人が、日本の教科書に何を書こうが、日本人の自由だ、と。

 そして結論的に、「日本には経済力がある。中国など、問題ではない」という趣旨の文章がつ
づく。

 また「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」と説き、もし中国軍が攻撃してきたら、日米安保条約
が発動されて、アメリカ軍が応戦してくれるなどと、説く。「尖閣諸島は、日米同盟の試金石にな
る」とも。

 きわめて自己中心的な国家論である。平和論である。忘れてならないのは、古今東西、「戦
争」というのは、こうした政治家によって始められているということ。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。

●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシ
ア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話
は、いっさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災
難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。

++++++++++++++++++

【母親のみなさんへ……】

 勇ましい好戦論にだまされてはいけない。振り回されてはいけない。それがわからなければ、
あなたの子どもが、戦場に行く姿を想像してみればよい。あなたは子どもの安否が心配で、夜
も眠られなくなるだろう。

 で、石原氏は、「日本の尖閣諸島が中国に攻撃されたら、日米安保条約は発動されるべき。
アメリカは、当然、中国に反撃すべき」という論法で記事を書いたのち、こうつづけている。

 「ニューヨークタイムズの記者が、当時のモンデール駐日米国大使に、『尖閣諸島で、扮装が
さらにエスカレートしたら、日米安保条約は発動するのか』と質問したところ、大使は、言下に、
『NO』と答えた。

 国会議員を辞職したばかりの私は、(この言葉に)、驚きと同時に怒りを感じましたが、なぜ
か日本政府も、国会も、それを問題としなかった」(99P)と。

 ならばあえて言おう。

 私の息子の嫁は、アメリカ人。孫もアメリカ人。今度生まれてくる二人目の孫も、アメリカ人。

 その孫たちが、日本の尖閣諸島を守るために、極東のアジアへやってきて、中国軍と一戦を
交えると言ったら、私は、こう言うだろう。

 「来なくていい。来るな。こんなところで、命を落すことはない。ぼくたちで、何とかするから」
と。

 石原氏の論文には、そういう原点的なものの視点が、欠けている。記事の中には、「お国の
ために……」という表現すら、ある。私たち1人ひとりの命を、まるで、モノのように考えている
感じすら覚える。

 ……と書いても、私のような意見は、この日本では、少数派。たいていの人は、石原S氏のよ
うな人の意見に耳を傾け、それに同調する。しかし念のために申し添えるが、私は、だからと
いって、左翼ではない。もちろん社会主義者でも、共産主義者でもない。ただおかしいものは、
「おかしい」と言っているにすぎない。

 あとの判断は、読者のみなさんに任せる。みなが、それでよいというのなら、それでよい。私
も、それに従う。
 
(追記)

【国家としての威信】

●国って、何?

 あのK国を見ていると、「国って、何んだろう?」と、よく考えさせられる。
 国家経済は、崩壊し、食料も燃料もない。しかし国の為政者たちは、ことあるごとに愛国を訴
え、国としての威信(プライド)を訴える。

 核兵器をもつのも、その理由の一つだという。

 もしK国に、その威信とやらがあるなら、その威信は、もう、ズタズタ。ボロボロ。つい先日
は、中国に肥料の支援を求めて、その中国に断られている※。いったい、彼らは、彼らの何を
守ろうとしているのか。

 同じように、東京都のI知事は、「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」(「文藝S誌・6月号」と訴
える。そのI氏も、同じような言葉を使う。「国家として、き然とした態度を示すべき」(95P)と。

 しかしここは、冷静に考えてみようではないか。

 もし尖閣諸島に自衛隊を常駐させれば、そのまま中国との間に、戦争が起こるかもしれな
い。が、I氏は、こう説く。「日米安保条約がある」「日米関係を試す試金石になる」(同誌)と。

 それがわかっているなら、なおさら、自衛隊など、常駐させてはいけない。たかが無人の島で
はないか。そんな島を取りあって戦争をすることの愚かさ。人の命を奪いあうことの愚かさ。も
うそろそろ日本人も、(そして中国人も)、それに気づくべきときにきているのではないだろう
か。

 日本側に言い分があるなら、ただひたすら事務的に、ただひたすら紳士的に、国際社会に訴
えていけばよい。あまり力はないが、国際裁判所という制度も、あるには、ある。

 韓国との間にある、竹島についても、同じ。

 もともと無人島。昔から、いろいろな国の人が、自由に使っていた。日本のものでもないし、
韓国のものでもない。どうしてそういう視点から、もっとおおらかに話しあいができないのだろう
か。

 都会ではそうはいかないかもしれないが、私の山荘のある農村の人たちは、実にのどか。そ
のつど、境界が1、2メートル移動するなどということは、日常茶飯事。大雨が降って、ガケ(ボ
タ山)が崩れるたびに、境界が移動する。

 しかしだれも文句を言わない。けんかもしない。とくに山については、今でも「入会権」が生き
ている。入会権というのは、だれでも自由に、山に入って、焚き木を取ったり、山草を取ったり
することができるという権利である。

 尖閣諸島や竹島についても、同じように考えることはできないのだろうか。

 I氏は、「それでは国家の威信は守れない」というようなことを書いている。しかし「威信」のこと
を言うなら、戦時中、朝鮮や中国へ出兵し、彼らの威信をズタズタにしたのは、ほかならぬ、こ
の日本である。小さな島どころではない。朝鮮半島や、中国大陸でさえ、「日本のもの」と、日
本は主張した。

 そのことを思うなら、今ごろ、とても恥ずかしくて、「尖閣諸島は日本のもの」「竹島は日本のも
の」とは、言えない。(言うべきことは、言わなければならないが……。またこう書くからといっ
て、尖閣諸島や竹島を、中国や韓国に渡せということではない。誤解のないように!)

 さらにI氏は、Y神社参拝について、「お国のために……」という言葉を使っている。しかし本当
にそうだろうか。戦争で死んでいった人たちは、本当に、国のために、死んでいったのだろう
か。

 私は、そうではないと思う。「上」からの命令に逆らうこともできず、むしろI氏が言うところの
「お国」のために、犠牲になって死んでいったのではないのだろうか。

 当時、日本という国が、民主主義国家であったとするなら、戦争も、また国民総意のもとで行
われたということになる。しかし戦前の日本に、はたしてその民主主義があったのだろうか。も
し、それがわからなければ、今のK国を見れば、わかる。

 今のK国は、皮肉なことに、戦前の日本以上に、日本的な国である。

 当時の日本でも、政府を批判することすら、許されなかった。戦争に異義を唱えただけで、投
獄。ばあいによっては、処刑された。そういう中での戦争である。

 が、むしろ当時の政府(わかりやすく言えば軍部独裁の官僚国家)は、自分たちの責任を逃
れるために、「一億総懺悔(ざんげ)」という言葉を生み出した。国民に戦争責任を押しつけ、自
分たちは、逃げてしまった。

 こうした見解の相違は、結局は、「国があるから、国民がいる」と考えるのか、反対に、「国民
がいるから、国がある」と考えるかのちがいによる。

 当然のことながら、この日本では、奈良時代の昔から、「国があるから、国民がいる」と考え
る。つまり「民」というのは、そのときどきの為政者の「財産(モノ)」でしかなかった。しかしそう
いう意識が残っているかぎり、いつまでたっても、日本に民主主義など、根づかない。

 私の個人的な印象では、I氏は、ますます右傾化してきたと思う。そうしたI氏を批判して、数年
前、アメリカのCNNは、「日本人にワレワレ意識がある間は、日本は世界のリーダーにはなれ
ない」と報道した。「ワレワレ意識」というのは、いわゆる島国根性をいう。排他的な民族主義を
いう。

 悲しいかな、今のままでは、日本という国は、世界からみて、いつまでも、「異質な国」のまま
で終わってしまう。

※注…… 北朝鮮が最近(05年5月)、中国側に肥料40万トンの支援を要請したが、中国が
日増しにこじれる北朝鮮核問題などを考慮、事実上拒否したと伝えられた(朝鮮N報)。






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【マナー】

●子どもたちのBAD・MANNER

 子どもたちのする、バッド・、マナーには、いくつかある。

 立小便、鼻くそほり、ツバ吐きなど。国によっては、きびしく罰せられるところも多い。しかし私
は、これらに、もう一つ、「咳」を加えたい。

 子どもというのは、あたりかまわず、咳やくしゃみをする。しかしとくに咳について言えば、そ
れをかけられた人は、そのままその病気に感染する。

 だから私はいつも、しつこいほどに、子どもたちに、こう言う。

 「人に向って、咳をしてはだめ」と。

 しかしその深刻さを理解する子どもはいない。親もまた、「子どものする咳だから、感染力は
ない」と考えがちである。しかし咳に、おとなも子どもも、ない。むしろ子どもの咳のほうが、感
染力が強いのではないか。(少なくとも、バイ菌は、同じ。)

 中に、手でこぶしをつくって咳をする子どもがいる。「それではだめだよ」と私が言うと、「こう
すれば、人にかからない」などと反発する。しかしそんな程度では、咳から発散するバイ菌を防
ぐことはできない。

 くしゃみにせよ、咳にせよ、口から出た瞬間には、時速100〜200キロにもなるそうだ。仮に
こぶしで押さえたとしても、そのバイ菌は、こぶしを通りこして、相手に降りかかる。距離的に
は、3〜4メートルくらいは、軽く飛ぶ。

 子どもが咳をしそうになったら、顔を、反対側に向けさせる。あるいはタオルで口をふさがせ
る。その程度のマナーは、当たり前ではないのか。

 先日も、電車に乗ったら、隣の席の女性(60歳くらい)が、ゴホンゴホンと、つづけて咳をして
いた。そこで私は、指定席だったが、前のほうのあいている席に、移動した。その女性の席か
ら、2、3つ、前の席だった。

 そこへ車掌が、切符を調べにやって来た。「切符を拝見します」と。そのときの会話。

車掌「ここは、あなたのセキではありません」
私「わかっています。しかし隣の人のセキがひどいので……」
車掌「どこがひどいのですか?」
私「だから、セキがひどいので、ここへ移ってきました」
車掌「だから、あなたのセキは、エート、あそこです」
私「だからア……」と。

 私としては、その女性に会話を聞かれたくなかったから、小声で話した。それを車掌は、これ
また大きな声で、「セキがどうしましたか?」「ここはあなたのセキではありません」と。

 口で、咳をするマネをして、やっとわかってもらえたが、しかしそれにしても、頭の血のめぐり
の悪い車掌だった。ホント!

 子どものする咳。決して、軽くみてはいけない。

余談だが、どこかの大病院に勤務する父親をもつ子どものする咳は、とくに感染力が強いので
はないか。彼らは、ありとあらゆる予防注射を受けている。その上での咳である。

 そういう子どもにすれば、私など、まったくの無防備。丸裸。しかも一度、うつされると、症状
は、ふつう以上に重くなる。大病院経由のバイ菌はこわいぞ! (失礼!)


●親に命令する子ども(2)

 少し前、親に、命令する子どもについて書いた。その原稿について、あちこちから、反響がと
どいた。掲示板への書きこみもあった。中に、「自分の子どもなら、虐待と言われてもかまわな
いから、ぶん殴ってやる」というのもあった。

 しかし、今、このタイプの子どもは、少なくない。

 数か月前も、ある中学校で講演をしたとき、その学校の教頭がこんな話をしてくれた。何で
も、ある母親が、その教頭のところにやってきて、こう言ったという。

 「どの高校(進学校)にするかについてですが、私では言えませんので、先生のほうから、言
ってください」と。

 つまり子どもの進学問題について、その親は、「進学校の話になると、とたんに大げんかにな
ってしまいます」「親の私では何も言えないので、先生のほうから言ってほしい」と。

 その教頭は、こう言った。「今、大切な会話でさえできない親子がふえていますね」と。

 子どもに遠慮する。まるで腫れ物に触れるように、気をつかう。「子ども(中学生)が勉強を始
めたら、廊下を、すり足で歩きます。物音をたてようものなら、何が飛んでくるか、わかったもの
ではありません」と言った母親もいた。

 しかし、それでも、親子は親子。たいていの親は、こう言う。「今だけですから……」と。

 が、これで驚いてはいけない。このタイプの子どもは、むしろ、女子に多いということ。昔は、
日本女性を、『大和なでしこ』などと言ったものだが、今では、そういう子どもは、さがさなけれ
ばならないほど、少ない。

 で、話は変わるが、私は、自転車通勤をしている。その通勤をしているとき、こんなことがあ
る。

 たとえば私が横断歩道にさしかかったとする。そのとき、左右からやってくる車は、私を見て、
車を止めてくれたり、スピードを落としてくれたりする。

 しかし、あえて言うなら、そういうとき、女性ドライバーは、まず、車を止めてくれない。スピード
も落さない。まるで何かに憎しみをぶつけるかのように、猛スピードで、通りすぎていく。「あぶ
ない!」と思っても、視線を、こちらに向けることもない。若い女性ドライバーほど、そうではない
か。

 このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。これはあくまでも、ワイフの説。

 「女性というのは、きっと、会社なんかでも、冷遇されているでしょう。だからそういうときこそ、
自分の優越感を、だれかにぶつけたいのではないかしら」と。

 ナルホド!

 いくら友だち親子といっても、その限界を越えてはいけない。友だちは、友だち。しかしその
限界を超えて、親子の立場が逆転すると、家庭教育そのものが成りたたなくなる。

子「テメエ、何だ、こんな料理! まずくて食えねえだろオ!」
母「ごめんなさい。今、作りなおしますから」
子「早くしろって言ってるんだよ。これじゃ、学校に間にあわねえヨ」
母「ごめん、ごめん」と。

 問題は、なぜ、そうなるかということ。またそれを防ぐためには、どうしたらよいかということ。

 こうした本末転倒の親子関係は、実は、子どもが幼児のときから始まる。

 子どもが生まれると、それこそ、「蝶よ、花よ!」と、親は子どもを育てる。子どもを楽しませ、
子どもによい思いをさせ、そして子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)と誤解する。

 こうしてごくふつうの家庭でも、(ときには貧しい家庭においてでさえ)、ドラ息子、ドラ娘が生ま
れる。

 こうした(甘い家庭)の背景にあるのが、親自身の精神的な未熟性と、情緒的な欠陥。さらに
は日本古来の、日本人独特の依存性(=甘え)がある。子どもを、1人の人間としてみるので
はなく、モノとみる。あるいはペットとしてみる。

 つまりベタベタの親子関係をつくりながら、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
どもイコール、いい子としてしまう。

 ここでいう本末転倒のドラ息子、ドラ娘は、あくまでも、その結果でしかない。

 子どもを愛するということと、子どもをかわいがるということは、まったく、別の問題。

 子どもを愛することには、いつも、何らかのきびしさがともなう。一方、子どもをかわいがると
いうことについては、それがない。親は、そのつど、かわいがりながら、子どもに何らかの見か
えりを求める。

 少し前だが、私にこんなことを言った女性(70歳くらい)がいた。

 「あれほど、かわいがってやった息子なんですがね、今では親の恩も忘れて、京都へ行って
しまいましたよ。親なんて、さみしいものですね」と。

 そう言えば、日本語の(かわいがる)(かわいい)(かわいい子ども)という言葉は、1本の糸で
つながっているのがわかる。

 ここにも書いたように、日本では、子どもに楽をさせることを、「かわいがる」という。そしてそ
の結果、依存心が強く、親にベタベタと甘える子どもを、「かわいい」という。そしてかわいい子
どもほど、いい子とする。

 が、子どもが、幼児期のうちなら、まだよい。しかしやがて手に負えなくなる。先日書いた、
「親に命令する子ども」は、あくまでも、その結果ということになる。

 で、こういうケースで、子どもに命令される一方の親が、それだけそうした状態を、「異常」と
思っているかといえば、そうではない。親自身が、そういう状態を、受け入れてしまっている。あ
るいは、それが「ふつう」と思いこんでしまっている。

 長い時間をかけて、そうなる。

 しかし、異常は、異常。

 「テメエ、文句を言わないで、サッサと、宿題を届けろって、言っているんだよオ。下駄箱の中
に、○時までに、ちゃんと、入れておけよ!」と。

 まだどこかにあどけなさの残る女子(中学生)が、携帯電話で、親に向かって、そう叫ぶ。

 私は、親子は平等と言っても、そこまでは、許していない。つまりそういう親子関係を認める
ほど、寛大ではない。もし私の教え子にそういう子どもがいたら、即刻その場で、退塾させる。

 今まで、そういうことは、一度もなかったが……。

【若いお母さん方へ】

 子どもがかわいいのは、わかります。しかし決して、そのかわいさに負けてはいけませんよ。

 親は親として、き然と生きる。その生きザマが、子どもの心を、まっすぐ伸ばします。決してや
りすぎない、(ほどよい親)に、どうか、心がけてください。いらぬお節介かもしれませんが…
…。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【シャドウ論】(追記)

●仮面は、ゆがみをつくる

 自分をごまかして生きていると、その反射的効果として、その人の背後には、もう1人の(自
分)ができる。

 これを「シャドウ」という。ユングの考えていた「シャドウ論」とは、少しニュアンスがちがうかも
しれないが、そこは許してほしい。

 たとえば、教師や牧師、さらには政治家。それなりに選ばれてなった人だから、それなりの人
物と、私たちは思いがち。しかし中には、人間的にそれほど完成していない人が、こうした職業
につくことがある。で、そういう人たちは、自分の職業をとおして、いわゆる、(完成された人間
であるかのようなフリ)をする。いわゆる演技をする。が、その(フリ)が積もりにつもってくると、
心のどこかに、(ゆがみ)が生じてくる。

 その(ゆがみ)が、まったく別の自分を、心のどこかにつくる。それがシャドウである。私は、こ
のことを、生徒を教えていて、発見した。

 が、私のことについて書くことについては、何かと問題もあるので、書けない。そこで、ここで
は、たとえば教会の牧師を例にあげて考えてみる。(私のまわりには、牧師はいない。知人や
友人の中にも、牧師はいない。)

●邪悪な部分

 が、中には、インチキ牧師というのがいる。マスコミに顔を出し、派手なパフォーマンスで、神
理とか、神の道などといって、自分を売りだしているのは、たいていその種の牧師と考えてよ
い。

 つまりそういう人にとっては、牧師という職業は、人をだますための道具。信者は、金集めの
道具にすぎない。が、そういう人が、教会などで、さも牧師様といった顔をして、聖書を開き、そ
の一節を読んで聞かせたりする。

 そんな生活を毎日つづけていると、気がヘンになる。ヘンにならないまでも、精神的に、たい
へん疲れる。まともな人なら、そうなる。そこでこういうフリをつづける人は、自分の中の邪悪な
部分を、自分から切り離すことで、心を軽くする。心を守る。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●シャドウを受けつぐ子ども

 一組の夫婦がいる。妻は、夫を愛していない。愛しているフリをしているだけ。本当は、夫を
軽蔑し、忌み嫌っている。

 が、人前では、献身的で、慈愛に満ちた妻を演じている。世間的には、(よくできた奥さん)と
いったふう。

 こういうケースでも、その女性(妻)は、自分の背後に、シャドウをつくる。本来ならそのシャド
ウは、だれにも見えないものである。が、その女性の子どもたちは、そうでない。子どもたちに
は、見える。あるいは子どもが、そのシャドウを、そっくりそのまま受けついでしまう。親子の関
係は、それほどまでに密着している。ごまかしがきかない。

●三角関係

 その結果として、そこで心理学でいうところの「三角関係」ができる。父親→母親→子どもの
三角関係である。

 一度、この三角関係が親子の間でできてしまうと、子どもは、親の指示に従わなくなる。つま
りその時点で、家庭教育は崩壊する。が、それだけではない。子ども自身も、母親と父親を軽
蔑し、忌み嫌うようになることもある。

 社会的な地位もあり。世間的な評価も高い夫婦の子どもが、ときとして、想像もつかないよう
な凶悪事件を引き起こしたりすることがある。そういう事件について、このメカニズムで、すべて
を説明できるわけではない。が、おおまかに見て、「そうかな?」というケースは、決して、少なく
ない。

 たとえば、よく引きあいに出されるケースとして、佐木隆三の書いた、『復讐するは我にあり』
がある。敬虔(けいけん)な牧師の息子が、凶悪犯罪を重ねるという、実話に基づいた小説で
ある。

●演技性人格障害

 ところで、話は少しそれるが、精神医学の世界には、「演技性人格障害」というのがある。仮
面をかぶってばかりいるうちに、本当の自分が何であるかさえも、わからなくなってしまう状態
をいう。

 DSM−IVの診断基準によれば、つぎのようになっている。ここで書くシャドウとは、関係ない
が、一応、あげてみる。

++++++++++++++++++

(演技性人格障害)

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状
況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では、楽しくない。
(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって
特徴づけられる。
(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を示すために、絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象派的な内容の、詳細がない話し方をする。
(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。
(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

+++++++++++++++++++

 このタイプの人は、夜のバラエティ番組に出てくる人に多い。派手なパフォーマンスで、絶え
ず他人の注意を自分にひきつけようとする。わざと友人の数を誇張してみせたり、日ごろか
ら、親密な交際をしているかのような話題を並べる。

 ときとして非常識なことを口にしたり、ズケズケをものを言ったりすることもある。先日は、隣
の家からギターを盗んだことを、テレビカメラに向って、得意げに話していた女性タレントがい
た。(驚いたのは、そんなタレントでも、子どもをもつ母親であったこと。ギョッ!)

 このタイプの人も、「演技性」という部分で、仮面をかぶっていると考えてよい。(あるいはただ
の、ノーブレイン?)

 他人と良好な人間関係を結べなくなった状態を、「人格障害」という。仮面をかぶりつづけて
いると、では、どうして、他人と良好な人間関係を結べなくなるのか?

●良好な人間関係を結ぶために

 ひとつには、その人の行為や言動が、どこか不自然になることがあげられる。たとえば見知
らぬ相手でも、ホレホレ、ハイハイと、顔中に笑顔をつくって、その人に応対したりする。さも
「私は人格者でございます」というような、言い方をする。

 口がうまく、相手に取り入るのも、じょうず。さも相手の身になって、心配しているかのようなフ
リをする。ときに涙声で、(しかし涙は、一滴も出ない)、「それは、かわいそうに。ああ、つらい
です、つらいです。それは、お気の毒なことです」と言ったりする。

 つまりすべてが演技。その演技の上に、その人の人格(?)がのっている。だから、本人の意
思とは別に、周囲の人は、その人の心がつかめない。何を考えているか、わからない。だか
ら、周囲の人のほうが、その人から逃げる。距離をおく。そのため良好な人間関係が結べなく
なる。

 (反対に、そういう人を、「すばらしい人」と思いこんでしまう人もいる。実際、このタイプの人
は、他人の前では、いつも、仏様のように振る舞う。たとえばよく言われるが、天才的詐欺師と
いうのがいる。このタイプの詐欺師は、心底、自分は善人であると信じきって、他人をだますと
いう。つまり自分の中の邪悪な部分を、シャドウの中に、完全に切り離してしまう。)

●世代伝播(でんぱ)

 で、そのシャドウが、シャドウとしてこわいのは、そのシャドウが、その人の心の範囲でとどま
らないこと。その人の子どもに、伝播(でんぱ)してしまうことがあるということ。わかりやすく言え
ば、子どもが、親の邪悪な部分だけを、そっくりそのまま、受けついでしまう。

 日本では、『子は、親のうしろ姿を見て育つ』というが、もう少し正確には、『子は、親のシャド
ウをそのまま受けついでしまう。しかも、その多くは、邪悪なものである』ということになる。
 
 では、どうするか?

 子どもの世界では、(1)心の状態と、表情の一致している子どもを、心がすなおな子どもとい
う。(2)いじける、ひがむ、ねたむなどの、心のゆがみのない子どもを、心がすなおな子どもと
いう。

 同じように、こうしたシャドウを避けるためには、ありのままの自分を、そのままさらけ出しな
がら生きる。よきにつけ、悪しきにつけ、そういう人には、シャドウはできない。外から見ても、
わかりやすい。明るい。だから友だちも多い。人間関係も、わかりやすい。

 つまりは、自己開示の問題ということにもなる。もっと言えば、いつも、心を外の世界に向って
解き放ちながら、生きる。それがシャドウを防ぐ方法ということになる。と、同時に、子どもをこ
こでいう(すなおな子ども)に育てる方法ということになる。

 まだこの先は、私にもよくわからないところがある。このつづきは、またの機会に考えてみた
い。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 演技性 人格障害 すなおな子ども 子供)

(補記)

 シャドウというのは、いつでも、またどんな場所でもできる。

 たとえば電車の中で、すてきな女性を見かけたとする。その女性との、あらぬセックスを想像
したとする。(男なら、みな、そうするぞ!)

 しかしそれはあくまでも、想像。で、そのとき、男というのは、かなり邪悪な想像まで、する。
が、ふと現実にたちかえると、みな、何ごともないかのような顔をして、眠っていたり、携帯電話
をいじっていたりする。

 私も相変わらず、何ごともなかったかのような顔をして、静かに目を閉じる。が、その瞬間、
私のシャドウができる。

 で、家に帰って、ワイフを抱いたりすると、そのシャドウが顔を出す。その女性にしてみたかっ
たことを、ワイフに向ってする。とたん、ワイフに、叱られる。「何をするのよ!」「いやらしいわ
ね!」「今日のあなた、ヘンよ!」と。

 こうした現象も、私のシャドウ論で説明できるのでは……。あくまでも、一つの参考として…
…。

(補記2)

 要するに、何を考えているかわかりにくい人。ウラがありそうな人というのは、つきあいにくい
ですね。それがシャドウだと思えば、私がいう「シャドウ論」を、よりよく理解してもらえるのでは
ないかと思います。





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●マザーコンプレックス

●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは
思ってはいけない。一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に
見えることもある。わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(Aさんとしておく)は、聖母に見えた。高校時代、隣のクラスの女の子だっ
た。おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。その上、理知的で、分別もある人に見えた。が、そ
の女性が、別の世界では、まったくの別人? 男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのAさんな、高校生のとき、草むらで、男とセックス
をしていたぞ。自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと
見た」と。

 それでも私は、信じなかった。「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをして
いたのだろう」とか。「Aさんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。別の友人が、こう言った。「ぼくは、あのAさん
と、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、Aさんは、すでに処女ではなかった」と。

 私は「ヘエ〜」としか、言いようがなかった。私がAさんにもっていたイメージとは、あまりにも、
かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、Aさんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってAさんというのは、マドンナだった」
友「あのAさんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、Aさんの、どこを見ていたんだ
い?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。そして好意を寄せる女性
を、マドンナ化する。日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母という。少しニュア
ンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。とくに夫に
聖母化されると、妻は、困る。これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高い
という。浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、
1回以上の浮気をしているという。この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。日本には、宗
教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、
女性を渡りあるく傾向が強い。新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女
性は、ぼくの理想の女性ではない」と。だから離婚しやすい。浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。こ
のタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。女性を聖母化する分だ
け、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている
自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。つまり
Aさんは、私の前では、聖母を演じていただけ? しかしそう考えると、すべて、つじつまが合
う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。母親を絶対化する分だ
け、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私
にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。しかし当時の私は、ワ
イフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!

(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺ
きな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な
女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻
であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、
あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。
(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)

 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……
と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、
自分のことを、親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。男も女も、ちがわない
というのも、その一つ。どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。みんな、そ
のフリをしているだけ。そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、
聖母も娼婦もいない。……ということで、この話は、おしまい。


●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 母系社会というより、母子関係の是正
をしないまま、子どもは、おとなになる。つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがあ
る。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめ
かしく踊る。観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージ
する。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよ
い。セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけ
られても、その場で、照れて見せるだけ。どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、
マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。あるいは母親としての理想像
を、相手の女性や妻に求める。そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。このことは、子どもた
ちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。(反対に、ナヨナヨ
した男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)そういう男の子は、女の子に対して、ストレ
ート。こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこ
と。一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手
に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。「おい、セックスをさ
せろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたように思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好
きと言えば、好き。一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。そこで私が「じゃあ、彼女
は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチをしないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、ブルック・シールズ(当時のアメリカの女優)のウンチなら、みんなの前で食べて
みせることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、お
かしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れて
くれる女性を求める。そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめや
すい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。いろいろ問題が起きてくる。離婚率
や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。夫が望むような妻にならなければならないから」
と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばなら
ない。いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、
今、その父親不在の家庭が多い。あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、
少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言っ
た。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が
理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのとき内心では、
「だらしない男もいるもんだ」と思った。
(はやし浩司 マザコン マザーコンプレックス マドンナ論 聖母 聖母意識 でき愛ママ 溺
愛 溺愛ママ)




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●受験の弊害

(受験生の発想)

 私はある時期、たった一日のサイクルの中で、幼稚園の年中児から高校3年生まで押してい
たことがある。

 たった一日で、だ。

 つまり子どもの成長と変化を、1日の間で、見ることができた。午前中は幼稚園で教え、午後
からは小学生。夕方は中学生。夜は、大学の受験生、と。

 そういう流れの中で、子どもたちの心理が、受験期を境に、急速に変化していくのを感じた。
総じて言えば、受験期の前の子どもたちは、なごやかで、やさしく、思いやりにあふれている。

 しかし受験期にさしかかると、どこかピリピリしてくる。ものの考え方が、どこか、トゲトゲしくな
ってくる。

 そして受験期が終わるころには、合理的、ドライ、そしてものの考え方が、冷酷になる。点数
だけで、ものごとを評価するようになる。

 それぞれの学年だけを教えている先生には、それがわからないかもしれない。自分自身が、
その世界に入ってしまうからである。

 しかし、変化する。確実に変化する。

 とくに有名大学の一流学部を受験するという子どもほど、その傾向は強い。「勉強さえできれ
ばいい」という考え方が、「勉強ができないやつは、落ちこぼれ」というような考え方につながっ
てくる。

 そして「勉強しかしない」「勉強しかできない」……、そんなイビツな子どもが生まれてくる。

 私はそういう(変化)を知るたびに、どうしてもっと、(受験制度)のもつ弊害について、世の研
究者たちは目を向けないのかと、疑問に思う。しかし考えてみれば、その研究者のほとんど
が、これまた、そういう受験勉強を通りぬけてきた人ばかりである。そしてそれなりの恩恵を受
けている人ばかりである。

 受験競争の弊害そのものに、気づかない。あるいは、そのままの(競争状態)が、生涯にわ
たってつづく。

 だから勝ち組の人たちは、平然と、こう言ってのける。「努力した人がいい生活をするのは、
当然ではないですか」と。そしてその一方で、おかしなエリート意識をもつ。

 数年前だが、「フリーター撲滅論」を口にした、どこかの高校の校長がいた。「フリーターは、
まともな職業ではない」と。自分は、恵まれた超特権階級にいて、そういうことを口にするから、
おかしい。

 また「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。

 が、皮肉なことに、今後10年間に、満60歳以上のフリーターが、この日本でも、数百万人に
なるという。社員として雇うには、金がかかる。ハーフ・アルバイトの形で仕事をしてもらえば、
労働コストも安くつく。それで、そうなるという。

 しかしここでいう「フリーター撲滅論」そのものが、鼻もちならぬエリート意識の上に、乗ってい
る。私はその記事を読んだとき、「では、自分は、何様か!」と、思わず叫んでしまった。

 はっきり言おう。若者たちよ、この日本では、公務員になれ。そのほうが、ぜったい、得。仕
事は楽。おまけに一生、安泰。死ぬまで、安泰。給料も、民間の約2倍。2年間、精神病院か
何かに入院しても、クビになることはない。

 が、ガードは、かたい。そこらの小さな図書館や公民館の館長職ですら、公務員どうしが回し
あっている。途中から、フリーターが、入りこむスキなど、どこにもない。人事募集すらない。ま
ったくない。

 一方でそういう現実を放置しながら、「撲滅」はないだろ! 

 つまり長い間、受験競争をし、その指導をしていると、発想そのものが、受験生そのものの
発想になる。私がここでいう、「合理的、ドライ、そしてものの考え方が、冷酷になる」というの
は、そういう意味である。

 今日も子どもたちは、受験勉強をしている。それはしかたのないことかもしれないが、同時
に、その一方で、人間が本来持っていたはずの、暖かい心をなくしつつある。

 その結果が、今の日本の社会とみてよい。あるいは、あなたには、この日本の社会のもつ、
(冷たさ)がわかるだろうか。

 そう言えば、以前、ここに書いたようなことについて考えたが原稿がある。それを紹介する
(中日新聞掲載済み)。この原稿に対する、反響は、ものすごかった。ただしこの話は、塾を経
営している友人から聞いたもの。私が経験した話のように書いているが、私の生徒の話ではな
い。当時、友人が、「そうしてくれ」と頼んだので、そうした。念のため。

++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学三年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言う
な」と。

母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほか
にも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。

言いかえると、親も勉強しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ど
も自身も、「自分は優秀だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。

都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはい
けない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、
いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究
している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

+++++++++++++++++++++  

きびしい話ばかりつづきましたので、ここで別の
角度から、家庭教育を考えてみます。では、どう
考えたらよいのか、その一つのヒントになれば、
うれしいです。

+++++++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小
二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか?  

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻
が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が担当している
ケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの3%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと
求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の20代の男性は比較的家事
に参加しているようだが、40代、50代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性
の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識
改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。

言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていな
い。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大
切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国
心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たっ
た一年足らずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも
言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(01年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。
(はやし浩司 子どもの心 子供の心 家族主義 家族)





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●学力低下問題

【日本PTA全国協議会の報告より】

●学力低下

 このほど、日本PTA全国協議会が、こんな調査結果を公表した(17日)。
 
小中学生の学力低下を心配している保護者  ……76%
教育基本法に「愛国心」を盛り込むことが大切……72%

 ほかに「教員の裁量の大きい(総合的な学習の時間)は、約半数が肯定的に評価しているも
のの、2割は「教員、学校により授業に差がついた」と感じていることもわかった。(教員免許更
新制)も、7割が必要と考えるなど、指導力不足教員への不信感が根強いことも明らかになっ
た」(同、調査)という。

(学力低下について)

 しかしあえて言おう。だれも、どこの親も、「学力低下など、心配していない」。親たちが心配し
ているのは、受験で、自分の子どもが不利になること、だ!

 具体的に報告しよう。

 現在、H市内(人口80万人)の、S女子私立中学校では、1年の半ばごろには、1年生でする
学習内容をほぼ終了し、2年にもなると、3年の範囲まで、学習範囲をのばしている。

 たとえば2年生で、英語では、関係代名詞などを学習している。数学では、二次方程式を学
習している。

 市内に、中高一貫校も一つ、あるが、そこでも似たような指導をしている。学習量そのもの
が、ちがう。ぶ厚い副読本に、テキスト、参考書、さらに問題集などが、生徒に配布されてい
る。中学1年生でも、夏休みには、英語の副読本を、1冊、読むことになっている。

 のんびりと、学習指導要領に沿って学習を進めている、公立のふつう(?)の中学校とは、大
ちがいである。

 これでは、「差」がついて、当然。高校入試、大学入試ともなれば、公立のふつうの中学校の
生徒が、不利になるのは、当然。明らか。これから先、その「差」は、歴然としたちがいとなっ
て、現れてくるはず。親たちは、それを心配している。

(愛国心について)

「教育基本法に「愛国心」を盛り込むことが大切……72%」という。

 こうした調査で注意しなければならないのは、選択肢が、どのように用意されていたかという
こと。

 新聞報道だけではわからないが、たとえば、つぎの二つだけの選択肢だけであったら、あな
たは、どちらに答えるだろうか。

(1)教育基本法に「愛国心」を盛り込むことは、大切。
(2)教育基本法に「愛国心」を盛り込むことは、大切ではない。

 大半の人は、(1)を選ぶにちがいない。賛成か、反対かという議論をする前に、「国を愛する
こと」に、反対する人はいない。(「国」の意味にも、いろいろあるが……。)とくにこうしたデリケ
ートな問題については、調査する側の、隠された意図が、微妙に働くことがある。

 もう25年前になるが、あのA新聞が、北海道で、こんな調査をしたことがある。

 塾についての調査である。当時は、「塾・必要悪論」が、日本中を騒がせていた。いわく、

(1)塾は、必要ないが、あってもよい。
(2)塾は、必要ないので、ないほうがよい。

 この2項目だけ。そしてこれらの質問に答えた人すべてを、合算して、「78%の人が、塾は必
要ないと答えた」と、新聞に、堂々と発表していた。

 あなたには、この統計マジックが、わかるだろうか? 私は今回の調査でも、どこかでそうい
った操作がなされたのではないかと、心配する。つまりこの数字だけを見て、「72%もの人が、
愛国心教育に賛成」と考えるのは、どうかと思う。

 郷土を愛する、文化や伝統を愛する、言葉や風習を愛する……ということと、体制としての
「国」を愛するということは、別。日本で、「愛国心」というと、どうも、このあたりが、すっきりしな
い。戦前の苦い経験も、まだ人々の心の奥に、深く残っている。

なお実際の質問は、「郷土と国を愛する心と、国際社会の一員としての意識は大切」という内
容でなされた。そうならよけに、「反対」と答える人は、少ないはず。

(教員免許更新制) 

 7割の人が、教員免許更新制に賛成だという(71%が、導入に賛成)。しかしここにも、問題
のすりかえがみえられる。

 要するに、親たちは、やる気のない、指導力不足の教師を排除したいということ。免許の問
題ではない。

 つまり免許があればよいという問題でもない。またあったから、それでよいということでもな
い。親たちが求めているのは、教師を選択する自由。だから本来なら、この質問項目は、(教
師選択の自由)という内容で、調査したほうが、よかったのではないか。

(1)教師を選択できるようにすることに賛成。
(2)教師を選択できるようにすることに反対。

 何も、免許にかこつけることはない。アメリカなどでは、公立の小学校でも、学年制もなけれ
ば、担任制もない。クラス名は、そのクラスを統括、管理する教師名で呼ばれるならわしになっ
ている。

 「モーガンズ・クラス」「ジョンソンズ・クラス」と。

 「うちの子は、まだ、進級するだけの学力が身についていないから、もう一年、モーガン先生
のクラスでお願いします」などという会話が、校長との間で、ごく日常的になされている。

 教員免許の問題では、ない!

(ほかに……)

 学校5日制について、よくない……4割
 学校5日制について、よい  ……3割

 休日(土日)に5時間以上テレビを見る中学生……23・5%、とか。

また(総合的な学習)については、

「『よい』が48%で、前年より1ポイント増加。しかし、心配な点として『教師や学校の教育力の
差が広がってきた』(21%)が最も多く、保護者間で、学校や教師によって授業内容が異なる
ことが伝わっている実情が浮かぶ」とか。

 約半数の人が、「よい」と答えているという。

 が、現場からの問題もないわけではない。いわゆる(やる気のない先生)を、どうふるいたた
せるか、それが、それぞれの学校で、問題になっている。まさに「笛吹けど、踊らず」の先生も、
多いということ。

 以上、産経新聞より。
(はやし浩司 学力低下 愛国心 学校五日制 学校5日制 教員免許更新制)

(補足)

 休日に、5時間以上テレビを見ている中学生が、23・5%もいるということは、驚きである。中
には、もっと多く見ている子どももいるだろう。3〜5時間見ている子どもとなると、もっと多いは
ず。

 NHKのニュースや、ニュース解説。教育テレビのクラシック・アワーを見ているというのであ
れば、まだ納得できるのだが……。そういう中学生は、いるのかな……? 今夜、中学生たち
に会うので、聞いてみよう。
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