倉庫3
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●自己分析

●母親を嫌う子ども

 A君(小2男児)は、いつも母親の悪口を言う。「ぼくのママは、すぐ怒る」「100点でないと、す
ぐたたく」「鬼ババ」と。このところ、ずっと、それが気になっていた。

 それをひとり言のように、ずっと繰りかえす。

 が、私の知っているA君の母親は、おだやかで、やさしい人だ。決して、仮面をかぶっている
ようなタイプの人ではない。

 私はA君の様子を見ながら、欲求不満がその背景にあることを知った。私にも経験がある。

 私は小学5年生くらいのときに、好きな女の子ができた。静かで、やさしい女の子だった。し
かしいくら私がモーションをかけても、私には、振り向きもしてくれなかった。で、ある日行動に
出た。

 その女の子が何かのことで、席をはずしたとき、私はその女の子の机からノートを引き出し、
ぐいぐいと、鉛筆で、落書きをしてしまった。その女の子は、いつもノートの使い方がじょうずだ
と、先生にほめられていた。

 そのあとのことは、よく覚えている。その女の子は、そのノートを見ながら、シクシクと泣いて
いた。

 子どもというのは、ときとして、自分の思っていることと正反対の行動に出ることがある。概し
て言えば、それだけ短気でわがままということになる。

 で、A君の母親がA君を迎えにきたとき、私はA君をぐいともちあげて、A君の母親に抱かせ
た。

 最初、A君は、「ママなんか、嫌い」「鬼ババ」「クソ野郎」と、罵声をあびせかけて、それに抵
抗した。が、私はA君を背中からおさえつけて、そのままにした。

 するとA君は、そのまま、大粒の涙をポロポロとこびしながら、泣き始めた。母親の涙を見た
からではなかったか。

私「A君、好きだったら、好きと言え。『ママ、大好き』と言え」
A「嫌いだよ、こんなヤツ」 
私「ウソつくな。お前は、ママが好きなんだ。どうしてウソをつく」
A「……」
私「好きだったら、そう言え。はっきり、そう言え」と。

 しばらくおかしな押し問答がつづいた。が、突然、堰(せき)を切って水が流れ出すように、A
君が、大泣きをしながら、「ママ、好きだよオ」と言いだした。母親は、母親で、「わかっているの
よ」「わかっているのよ」と、A君を抱きしめた。

 何かの大きなわだかまりが、A君にあったのだろう。そのわだかまりが、A君の心をふさいで
いた。が、こうして自分の心を、すなおに表現することによって、そのわだかまりを取りのぞくこ
とができる。カタルシス効果というのである。

 A君は、もうそのころになると、私が背中を押さえていなくても、そのまま母親に抱かれてい
た。

A「ママ、いっしょに、お風呂に入ろうね」
母「いつも、いっしょに、入っているでしょう」と。

 A君は、いつものやさしいA君にもどっていた。もちろん私には、その(わだかまり)が何であっ
たかはわからない。子どもの心は、私たちが想像する以上に複雑だ。それにこの時期の子ど
もは、こうした変化を、毎日のように見せる。

 A君と母親を教室の外に見送ったあと、心の中が暖まっているのを感じた。そして私はどうい
うわけか、あのノートに落書きをしてしまった女の子のことを思い出していた。

 名前を、アイミヤさんと言った。聞くところによると、G県のS市で、今でも元気に暮らしている
ということだ。ごめんなさい!

++++++++++++++++

自己開示(2)

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ
とをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能
がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて
吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、(1)相手もあなた
に自己開示する。(2)あなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

●私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
●私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
●私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
●私にとって、今まで、一番つらかったことは、
●私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信
頼関係の深さを知ることできる。

つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこまで自分と向き合っているかどう
か、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。「のぞく」という言葉は、あまり好
きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞくことができる。家庭では、たとえ
ば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしかったことは、どんなこと?」という
ように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ
れば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない
人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して
みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという
方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく
れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた
わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対
して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示
してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作
用もある。

++++++++++++++++++

【追記】
 
 四人の子どもに、ためしに作文を書いてもらった。

●Kさん(中二女子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、この前あった、学校の野外活動です。ナイトウ
ォークや、カレーづくり。一日中、ずっと友だちと過ごしているということが、なかなかないので、
とても楽しかったです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、野外活動の先生が、私たちをたいへんほめて
くれたことです。ふだん「今の二年生は悪い」と言うだけの、いやな先生たちばかりなので、先
生たちを見返してやった気分でした。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、もうずいぶん前になるけど、かっていた犬が死
んでしまったことです。

●U君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちといっしょにいることが楽しいです。人と
笑うのが楽しいです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、とくにありません。あっても忘れてしまいます。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、三年目にして、部活の県大会で優勝したこと
です。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強。部活の練習も楽じゃないです。二つともと
てもつらいですが、楽しいです。

●R君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちと遊んでいたとき。友だちといっしょにい
たとき。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、おじいちゃんが死んだとき。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強しているとき。部活。

●D君(小六男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、サッカーです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、サッカーでキャプテンになれたことです。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、サッカーで、何周もグランドを走ったことです。

 子どものばあい、身近な経験から、楽しかったことや、悲しかったことをさがしだそうとする。
つまり自分自身を、客観的に見る目が、まだじゅうぶん育っていない。しかし年齢が大きくなる
と、より自分を高い視点から、判断できるようになる。そして自分自身をより深く、見ることがで
きるようになる。「私を知る」というのは、そういう意味で、一見簡単そうで、むずかしい。
(はやし浩司 カタルシス カタルシス効果 自己開示 除反応 除効果)


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●国家主義

●これからの国家主義

 その国のグローバル化とナショナリズムは、たがいに対立関係にある。その国がグローバル
化を進めようとすればするほど、ナショナリズムが台頭し、グローバル化に抵抗する。

 これからは、多種多様な異民族が、自由に移動し、混合し、そしてその中で一つの世界をつ
くりあげていく。そういう時代に、今、世界は、向いつつある。またそのための努力を怠っては
いけない。

たとえば、カントがすでに200年以上も前に予想した、「コスモポリス(世界国家)」という考え方
は、ヨーロッパで、すでに実現された。ここに書いていることは、決して、夢物語ではない。

 が、この極東アジアでは、そうした流れに逆行するようなことばかりが、起きている。「誇張さ
れたナショナリズム」(アインシュタイン)が、アジアのグローバル化に、ブレーキをかけている。
とくに、この日本では、それが顕著である。

 たとえば教育の世界でも、日本は、いまだに、(世界史)と(日本史)というジャンル分けにこだ
わっている。日本を世界と分けることで、日本の独自性(彼らがいうところの「アイデンティテ
ィ」)を、明確にしようとしている。

 しかしそもそも、日本史などというものは、存在しない。日本史というのは、あくまでも東洋史
の一部であり、その東洋史は、世界史の一部でしかない。「自分たちだけは、特別の民族であ
る」と思いたい気持ちはよくわかるが、それを支持している外国の歴史家は、ほとんど、いな
い。

 とくにフランスを中心としたヨーロッパでは、日本語学科は、朝鮮語学部の一つにすぎない。
さらにその朝鮮語学部は、東洋学部の一部でしかない。

 ふつう「東洋」といえば、「中国」をさす。大学でも「東洋学部(オリエンタル・スタディズ)」といえ
ば、まず中国をいう。

 これが世界の常識であり、現実である。

 ……と書くと、「林は、日本人としてのアイデンティティは、どう考えるのか」と質問されそうであ
る。もう5、6年前のことだが、このテーマについて議論しているとき、「君は、それでも日本人
か!」と、私に向って罵声を浴びせかけた男(45歳くらい)がいた。

 しかしもともと日本のナショナリズムなどというものは、島国根性が生み出した、幻想でしかな
い。そうでないというなら、では、「日本人とは何か」と聞かれたとき、あなたなら、何と答えるだ
ろうか。……答えられるであろうか。

 生活様式は、すっかり、「国際化」されてしまった。(あえて、「欧米化」という言葉を使わない
でおこう。)ものの考え方も、行動パターンも、文化も音楽も、芸術も、国際化されてしまった。

 こうした傾向は、どこの国でも、同じである。急速に進んだ情報ネットワークと、交通網。世界
は今、いやおうなしに、その国際化、つまりグローバリゼーションの荒波の中で、もまれてい
る。今どき、ナショナリズムを声高かに唱えるほうが、おかしいのである。

 このことは、人種のルツボと言われるアメリカを見ればわかる。いや、そんな遠くへ行かなく
ても、近くの大型ショッピングセンターをのぞいてみればわかる。この浜松には、万人単位の外
国人労働者たちが住んでいる。

 日本というより、まさに外国。私たちは、そういう世界を、受けいれるとか、入れないとかいう
レベルを通りこして、今、私たちは、そういう現実の中にいるのである。

 そこで愛国心の問題。愛郷心でもよい。

 私たちがまず愛すべきは、家族である。郷土でも、国でもない。その家族どうしが、大きなま
とまりをつくって、共同体となる。最終的には、「国」と呼ばれる組織体になる。だから国を愛す
る心ということは、あくまでも、家族を愛することの結果として生まれる。

 最初に国があって、家族があるのではない。最初に家族があって、国がある。

 たとえばどこかの理不尽な国が、この日本を攻めてきたとしよう。そのとき私たちが、武器を
もって立ちあがることがあるとすれば、それは国を守るためではない。家族を守るためである。
そのために、みなが、力をあわせる。戦う。

 私は決して、この日本という国がどうなってもよいと考えているわけではない。ただ、「国を守
るために、戦え」と言われても、それには、ついていけないということ。いわんや、天皇やその
家族を守るために死ねと言われても、私には、できない。

 もうおわかりかと思うが、世界がグローバル化している今、ナショナリズムというと、どこかの
独裁国家よろしく、為政者のつごうのよい世界を守る方便として、その言葉は利用されやすい
ということ。とくにこの日本では、「官」と「民」の差が、あまりにも目立つようになってしまった。

 日本が民主主義国家と思っているのは、恐らく日本人だけ。日本は、奈良時代の昔から、官
僚主義国家。官僚の、官僚のための、官僚による国家。そういう「国」を守るのが、愛国心とい
うなら、はっきり言おう。

 クソ食らえ!

 恐らく戦争ともなれば、官僚の連中たちは、自分たちだけは、イの一番に、逃げ出すのでは
ないか。自分たちだけは、権利の王国にあぐらをかき、民間の2倍近い給料を手にしながら、
みじんも、恥じない人たちである。暴露するようでつらいが、知人(官僚)の1人は、はからず
も、こう言った。

 「公僕意識? 林さん、役人の中で、公僕意識のある人なんて、今、絶対にいませんよ」と。

 話がそれたが、そのナショナリズムという言葉は、好んで、こうした官僚たちの間から聞こえ
てくる。つまりは、自分たちの特権と恩恵を守るため?

 もちろん日本人が、日本人として、過去1500年以上にわたって作りあげてきたものについ
ては、大切にしなければならない。それは当然のことではないか。それらは今でも、地方の田
舎へ行くと、日本人独特の温もりとなって残っている。

それらの多くは、伝統や文化というものに姿を変えて、残っている。そういうものは大切にしな
ければならない。歌舞伎や相撲ではない。「心」だ。「日本人の心」だ。

 これはあくまでも私自身のことだが、私は外国へ出ると、自分のことを、あまり日本人とは、
言わない。「アジア人」と言うようにしている。そのきっかけをつくってくれたのが、今は亡き、友
人のT君である。

このエッセーのしめくくりとして、そのT君について書いた原稿を添付する。

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【処刑されたT君】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に籍
をおいていた。

最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖
父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。

そのT君。ある日私にこう言った。「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、
「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中
国語じゃないか」と笑った。

そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街
を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ば
しながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしな
かった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。

が、やがて卒業式が近づいてきた。T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディ
グリー)を取得していた。そのT君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロ
シ、ぼくのジェシーは……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。

「ジェシ−は四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。そう言い
終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていたT教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は広
く、それにいつも食べ物が豊富にあった。T教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらっ
てメルボルン大学へ来ていた。

教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ−シアで処刑さ
れたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、それはそれ
ですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、マレ−シア
で、1980年ごろ処刑されている。

T君は大学を卒業すると同時に、ジェシ−とクアラルンプ−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝っ
てビジネスを始めた。しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。

何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから
先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。その後、T君は、マレ−シアでは非合法組織で
ある赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。

遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているという。T教授にその話をすると、
教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかんにくやしがっておられ
た。

そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人
だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

+++++++++++++++++++++

●プロローグ

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。

しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。
それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。

みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。

ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近い
のでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、その
ニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.





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●ピーターパンシンドローム

●掲示板への相談より

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私のHPの掲示板に、つぎのような相談が寄せられた。
この方のもつ問題について、考えてみたい。

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はじめまして。KYといいます。

育児のHPを巡っているうち、こちらにたどりつきました。
いろいろと大変参考になり、食い入って読んでしまいました。

我が家には3歳、1歳の息子がいます。
3歳のお兄ちゃんは、凄く父親に甘えます。
これは1歳頃からそうなのですが、父親が本当によく子供の面倒を、丁寧にみる人で、飽きず
とよく相手をしてくれ、食事の面倒も、オムツ替えも、いる時は育児のすべてをしてくれます。

小さい頃はそれで沢山の愛情を注がれて、いいことだと思っていたのですが・・・。

お兄ちゃんは3歳過ぎてからは、私と普段一緒にいる時はお利口で、頼んだことは何でもよく
やってくれるし、ワガママもほとんど言いません。

3歳過ぎてから、上の子と一緒にいても、楽になったと感じます。(それまではそれなりに大変
だったので)
でも、休日に父親がいると、変貌。

ご飯も自分で食べない、トイレも一人で行かない、どこかに出かければ「抱っこ!」、常に父親
に遊び相手を要求し、とにかく1日中父親にベッタリなのです。

私が変わりにしてあげようとしても、「お父さん!!」と、私は全く無視。
休日に父親が一人でどこかに出かけてしまうと、大泣きです。(しばらくすれば泣きやみます
が)

そして、父親もそれに、すべて応じてしまうのです。

普段、真夜中帰りの父親なので、平日は子供と会うのは、朝のほんの数十分。
下手すると、子供の起きる時間が遅いと、会えない日もたびたびあります。
私が何でもやってしまう旦那に注意をしても、「普段はちゃんと一人でやってるんだろ? 休日
の時ぐらい、甘やかしてあげないと」と言い、本当に甘いんです。

叱るなんてこともよほどでなければしないですし、子供が「〜〜買って!」と言えば、すぐに自分
のおこづかいで買ってあげてしまいます。(いつもではありませんが)

確かに私は、どちらかと言えば面倒見も良くないですし、子供の相手も上手じゃないです。
下の子が生まれて、日ごろ、いろいろと我慢している部分もあるでしょうし、それで余計にお兄
ちゃんを甘やかしてあげたいということなんでしょうが、それでもあまりにお兄ちゃんが父親に
ベッタリで、まさしく依存してしまっているので、このまままでいいのか困惑しています。

私の育て方がよほどダメなのかと悩むこともしばしばです・・。

そして、父親自身、ドラ息子なのです(笑)
長男として、家を継ぐものとして、甘やかされ育っています。(今は同居していませんが)

まず一緒にいて、自立心がないのが苦になります。
自分のことなのに、人の責任にして、人を責めたりします。
自分のことを自分でしない。

人(私)がやって、当たり前なんです。
旦那のことは諦めていますが、子供にはこう育って欲しくないんです。
でも、今のように旦那が子供に全て手を出していると、自立できないようで怖いんです。

よろしければ、アドバイスを頂けたらと思います。
よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、KYさんへ】

 掲示板への投稿、ありがとうございました。

 どこか、それでいて、ほほえましい親子関係が、頭に浮かんできます。まあ、ふつうの言い方
をすれば、あなたの夫は、子煩悩(ぼんのう)、よき家庭人であり、よきパパということになりま
す。

 ただ、それが少し、度を越している?

 原因は、ご指摘のとおり、あなたの夫自身が、甘やかしと、きびしさの同居する、どこかアン
バランスな家庭環境で、生まれ育ったことが考えられます。「長男だから……」と言って、甘や
かされ、同時に、「長男だから……」と言って、きびしく育てられた(?)。

 つまり夫の中の「父親像」が、かなり混乱していると思われます。私の印象では、あなたの夫
が育った環境は、ベタベタに甘い母親(夫の母親)が一方にいて、権威主義的で、きびしい父
親(夫の父親)が、もう一方にいるというような、そんな家庭環境ではなかったかと思います。

 (あくまでも、私の推察ですが……。)

 同時に、あなたの夫の、情緒的な未熟さも、疑われます(失礼!)。おとなになりきれていない
というか、どこかにピータパン・シンドローム的※なところがあるのかもしれません。一見、子ど
もを深く愛しているかのように見えますが、どこかでき愛的(?)。そんな感じがします。(でき愛
は、「愛」ではありませんよ。念のため。)

 で、こういうケースでは、あなたが夫を作り変えようとか、夫に改めてもらおうと考えても、意味
がありません。ムダです。あなたの夫を教育するのは(失礼)、あなたの子どもを教育するよ
り、何倍も、むずかしいということです。

 では、どうするか。あなたの夫については、現状を受け入れ、あきらめ、その上で、よりベター
な方法を考えるしかありません。たしかに、あたなにとっては、深刻な問題かもしれませんが、
全体としてみると、マイナーな問題です。多少の弊害は子どもに現れるでしょうが、しかしそれ
ほど深刻な後遺症を残すということも、ありません。

 この時期、一過性の問題として、すむはずです。ですから、「自立できなくなる」とか何とか、
そんなふうにおおげさに考えないで、夫と協調して、足りない部分については、あなたが妻とし
て、母親として、補えばよいのではないでしょうか。

 (反面、あなた自身は、どこか都会的、もしくは欧米型の合理主義的な家庭で育てられた可
能性が高いようですね……。これもあくまでも、私の推察にすぎませんが……。)

 3歳の子どもの側からみると、1歳の弟に、母親に取られたと感じているのかもしれません。
そこで父親を自分のものにしたいと思っているのかもしれません。嫉妬による赤ちゃんがえり
の、やや変形したバリエーションの一つと考えられます。

 ですから症状としては、どこか「分離不安」的な症状に似ています。(父親の姿が見えなくなっ
て、ワーッと泣きだして、父親のあとを追いかける子どもも、珍しくはありません。)しかしこれも
3歳という年齢を考えるなら、やはり一過性の問題と考えます。

 子どもの自立が問題になるのは、子どもが親離れを始める、10歳前後と考えてください。む
しろ今の時期は、親の拒否的な育児姿勢や育児放棄。冷淡、無視、暴力などが、大きな問題
となる時期です。

 幸いにも、KYさんのご家庭は、その正反対ですから、あまり神経質にならないで、夫に任す
ところは、夫に任せたらよいと思います。(先にも書いたように、問題があるといえば、あります
が、しかしこの程度の問題は、どの家庭にもあります。)

 あなたの夫が、ドラ息子的であるとしても、それはもう、どうにもなりません。いろいろ不平、
不満もあるでしょうが、あきらめて、うまく家庭をまとめるしかないでしょう。そのかわり、私が発
行している電子マガジンなどを、そのつど読んでもらうという方法は、いかがでしょうか。

 親のでき愛にせよ、親像の問題にせよ、ドラ息子論にせよ、そのつど、テーマとして、とりあ
げています。あなたの夫にも読んでもらえれば、それなりに参考になるはずです。

 これから先、まだまだ子育てはつづきます。ぜひ、私のマガジンを購読してみてください。よろ
しくお願いします。

++++++++++++++++++++

ピーターパンシンドロームについて、以前
書いた原稿を、少し手直しして、添付します。

++++++++++++++++++++ 

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性が、とくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサ
イト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、一円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわからなかった」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)(はやし浩司 ピーターパン シンドローム ピータパンシンドローム モラトリアム
人間 パラサイト人間 ダン・カイリー 大人になれない若者)




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●自意識

 自意識というのは、自己意識、つまり「私は私」という意識をいう。しかし、その自意識を自分
で、自覚することは、むずかしい。

 自意識が過剰な人、あるいは自意識が軟弱な人を見て、つまりそういう人たちと、相対的に
自分を比較することによって、自分の自意識を知ることができる。

 自意識が過剰な人というのは、すぐわかる。あたかも自分が、世界の中心にいるかのように
振舞う。また世界中が自分に注目しているかのように振舞う。

 本当のところは、だれもその人のことなど注目していない。しかしそれを認めることは、その
人にとっては、敗北を認めるようなもの。だから、最後の最後まで、がんばる。

 自意識が過剰な人は、自分が注目されているときだけ、安心感を覚える。またそういう環境
を、自分のまわりにつくろうとする。「自分こそ、絶対ただしい」「自分は、みなに大切に思われ
るべき」というふうに考える。

 だからその行動は、どこか演技ぽくなる。言動がおおげさで、わざとらしい。そのため、反対
に無視されたりすると、猛烈にそれに反発したりする。

 もっとも子どもの世界では、この自意識をうまく利用して、その子どもの能力を伸ばすことは
珍しくない。自意識が軟弱になると、自信を喪失したり、未来に不安をいだいたりするようにな
る。ハキのない子どもになることもある。

 私は、もともと自意識過剰タイプと思う。(多分?)人の陰に隠れて静かにしているよりは、ワ
ーワーと騒いでいるほうが、楽しい。だれかがジョークを言ったりすると、すかさず、そのお返し
をしたりする。

 一方、ワイフは、私とは、どこかちがう。人の中で、目立つのを嫌う。嫌うというより、静か。最
初から、「どうでもいいや」というような雰囲気で、人とつきあう。私とは、どこか対照的。私が祭
りか何かの場で、「二人で、のど自慢に出よう」と誘っても、ワイフは、絶対に、応じない。

 ほかに、たとえば若いころテニスを始めた。そのとき私は、「ウィンババドン(=ウィンブルド
ン)に出るまでがんばれ」と励ましたが、ワイフはこう言った。「みんなと楽しくやれれば、それで
いい」と。

 みなと記念撮影などをするときも、ワイフは、いつも一番目立たない、うしろの列の端に立っ
たりする。(私は、中の列の前から見て、左側のほうに立つクセがある。)

 が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、ワイフは、決して軟弱な人間ではない。
強い。私より、はるかに強い。「自分」というものを、しっかりと持っている。孤独に強いし、精神
的にも安定している。昔から「芯(しん)の強い人」という言葉があるが、ワイフは、その「芯」が
強い。

 結婚してこのかた、私のワイフが、取り乱して、ワーワーと叫んでいる姿を、私は見たことが
ない。冷静で、沈着。ビデオを見ていても、ポロポロと涙を流すのは、たいてい私のほう。ワイ
フは、めったに、涙を流さない。

 となると、ここで自意識について、修正を加えねばならない。

 自意識といっても、精神的な完成度の高い人の自意識と、精神的な完成度の低い人の自意
識があるということ。

 力強いリーダーシップをとりながら、社会を指導していく人は、自意識が強く、またそれだけ精
神的な完成度の高い人ということになる。

 しかし同じ自意識でも、精神的な完成度の低い人のそれは、反対に、まわりの人との、かえ
ってトラブルの原因となりやすい。

 話がこみいってきたので、私を例にあげて考えてみよう。

 よくワイフは、こう言う。「あなたは、一生懸命、マガジンを発行しているけど、ひょっとしたら、
だれも読んでいないのかもしれないわよ。あなたは読んでもらっていると思って書いているけど
……」と。

 マガジンの読者の数は、マガジンを発行するとき、そのつどわかるしくみになっている。しかし
メールアドレスなどを変更したりして、実際には、私のマガジンを、まったく読んでいない人も多
いはず。

 私は「読んでもらっている」と信じて、マガジンを発行している。つまりそれが自意識ということ
になる。つまりその大部分は、(思い過ごし)と(思い込み)。

 が、ここで実際、本当の読者数は、その数字の100分の1とか、1000分の1とかであったと
したら、どうだろうか。読んでくれている人は、せいぜい、多くて10人とか……。

 私のことだから、かなりがっかりするだろう。つまりこのとき、私の精神力が試される。

 「それでも、私は書く」と言って書きつづければ、私は、それだけ精神力が強い、イコール、精
神の完成度が高いということになる。しかし「もう、だめだ」と、筆を折ってしまえば、精神力が弱
い、イコール、精神の完成度が低いということになる。

 私は、多分、後者だろうと思う。自分でも、それがよくわかっている。つまり自己意識は人一
倍強いくせに、(だからこんなマガジンを発行している)、精神的には強くない。毎日、自分を支
えるだけで、一苦労。今までにも、「マガジンの発行をやめよう」と思ったことは、何度かある。
一度は、廃刊のお知らせまで書いたことがある。(送信日の直前で、それを取りやめたが…
…。)

 だから私は、自意識を否定しない。しかし自意識だけでは、その人は、不完全のまま終わっ
てしまう。その自意識は自意識としながらも、同時に精神の完成をめざす。車でたとえて言うな
ら、この二つが両輪となって、車を支える。

 心理学でいう「自己意識」とは、少しちがった意見かもしれないが、私流の解釈として、ここに
書きとめておく。
(はやし浩司 自己意識 自意識)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(追記)

●自意識(2)

 少し前、自意識について書いた。

 ふつう「自意識」というときは、「私は私」という意識をいう。この自意識には、強弱がある。

 自意識が強すぎるのも困るが、反対に、自意識が欠落しているのも困る。そこで私は、その
自意識を、(強・普通・弱)という視点で考えてみることにした。

 今日、ハナと散歩をしながら、そんなことを考えた。

(1)自意識が強い……いつも自分は他人から注目されていると思いこむ。また注目されていな
いと、落ちつかない。そのため、集団の中では、わざと目立つように、振る舞うことが多い。

(2)自意識が普通……自意識が、他人との関係で、バランスがとれている。人間関係も、バラ
ンスがとれている。自分の限界をわきまえ、節度を保った行動ができる。が、さりとて、特異な
行動もしない。

(3)自意識が弱い……「私」という概念が希薄で、外から見ると、何を考えているかわからな
い。何ごとにつけても、優柔不断で、他人の目を気にしない。生活態度や習慣も、だらしない。

 要するに、自意識は、ふつうの人間として、ふつうの生活を営むためには、ほどほどであるの
がよいということになる。

 一般論として言えば、自意識の強い人ほど、他人の目を気にする。そのため見栄やメンツに
こだわりやすい。「世間体」という言葉もよく使う。

 が、この自意識が、よい方向に作用することもある。

 たとえば幼児期に何かと問題のあった子どもでも、自意識が育ってくると、自分で自分をコン
トロールするようになる。「こんなことをすれば、人に嫌われる」「こうすれば、もっと友だちが喜
んでくれる」と。

 こうして自分で、自分の問題点を、改善していくことがある。たとえばADHD児にしても、その
自意識が急速に発達し始める小学3、4年生を境に、症状が、外からはわかりにくくなる。

 一方、自意識が弱すぎるのも、困る。ボサボサの頭で、フケだらけ。汚れた衣服を着ていて
も、平気。他人がそれを批判しても、まったく気にする様子でもなし。競争心や向上心がないの
は、まだしかたないとしても、他人の問題については、「我、関せず」と無官関係を決めこんでし
まう。

 そんなわけで、繰りかえしになるが、「要は、バランスの問題」ということになる。

++++++++++++++++++はやし浩司

この自意識について、以前、書いた原稿を
2作、再度、掲載しておきます。
どうか参考にしてください。
自分をより知るための手がかりになると
思います。

++++++++++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレることがあ
る。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(6)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(7)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(8)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(9)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(10)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


++++++++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がついてい
れば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないとき
は、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になることが多い。
(はやし浩司 自分を知る ジョン・ハリ理論 ジョン・ハリー・ウィンドウ理論)







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●幸福論

●夫婦VS育児

 どんな夫婦でも、それなりのプロセスがあって、結婚し、子どもをもうける。たいていは恋愛→
恋愛期間→結婚というプロセスを経る。それぞれの夫婦は、「私たちの恋愛だけは、ほかの人
たちのとは、ちがう」と思いがちだが、それはどうか?

 が、問題は恋愛ではない。男女が恋愛をする部分と、その男女が結婚し、子どもをもうけ、そ
してそのあと、育児をする部分は、別の問題であるということ。

 私はこれを、「夫婦の二層性」と呼んでいる。

 つまり恋愛は、純粋に感情的な問題だが、育児では、男女の思想性、哲学性、社会観、人生
観、それにそれまでにそれぞれが生まれ育ってきた過去が、真正面からぶつかりあう。

 こうした二層性は、国際結婚をしたカップルを見ていると、よくわかる。たとえば今では、ニュ
ージーランドの日本人学校の周辺にも、受験塾があるという。K式算数教室もあるという。

 「日本へ帰ってからのことが心配だ」というのがその理由だが、その夫婦が、ともに日本人な
ら、それほど大きな問題とはならない。

 たとえば夫が日本人で、妻が、ニュージーランド人であったとしたら……? あるいはその逆
でもよい。

 子どもの教育で、どう折りあいをつけるかは、そのつど、重大な問題となる。さらに、社会観、
男女観、夫婦観となると、もっと深刻な問題となる。オーストラリアでは、夫が妻に向かって、
「おい、お茶!(Hey,Tea!)」と叫んだだけで、離婚事由になるという。実際には、そういう夫
はいない。

 独特の教育観をもった夫と、親に溺愛されて育った妻。崩壊家庭に近い家庭環境で生まれ
育った夫と、両親の愛に恵まれて生まれ育った妻。高学歴の夫と、学歴とは無縁の世界で育
った妻などなど。

 組みあわせはいろいろある。そういう夫婦が、子どもを間にはさんで、対立する。……つまり
そういうケースは、多い。

 そこで夫婦は、たがいに悩む。「夫は、甘い」「妻は、冷たい」「息子を、夫のようにしたくない」
「妻は、放任すぎる」とか。

 こういう対立があっても、夫婦の間が、しっかりとした愛情で結ばれていれば、まだ救われ
る。話しあいもじゅうぶん、なされる。子育ての調整もできる。

 しかしそうでないときは、そうでない。『子は、かすがい』というが、裏を返せば、『子は三界の
足かせ』となる。

 そういうときは、どうするか?

 答は簡単。あきらめて、現状を受けいれる。ジタバタしても、始まらない。たとえば妻(=母
親)の側から見ても、夫(=父親)の教育をするのは、子を教育するより、何倍もむずかしい。

 たとえばあなたの夫が、かなりのマザコンタイプであったとしよう。しかしそうしたマザコン性
は、よほどのことがないかぎり、なおらない。あなたという妻の力くらいでは、どうにもならない。

 マザコンであることが、その夫の、哲学になっていることも多い。そんな夫に向かって、「あな
たはマザコンよ」と言えば、その先は、どうなるか? 

 育児にからんで、夫婦で対立するケースは、多い。教育の問題となると、さらに多い。だか
ら、あ・き・ら・め・る。

 料理でいえば、その場にある食材で、できるものを考えるしかない。食材がそろっていないの
に、寿司をつくろうとか、ビーフカレーをつくろうとか、そういうふうに考えるから、ムリが生まれ
る。

 あるもので、つくる。結局は、育児は、ここに行き着く。

 いろいろな問題はあるだろう。弊害や悪影響もあるだろう。しかし全体としてみると、こうした
問題は、一過性の問題で終わる。なぜなら、子どものもつ生きるエネルギーは、親が考えてい
るより、はるかに大きく、強力である。やがて子ども自身がもつ、自己意識が育ってくれば、子
ども自身が、そうした問題を乗り越える。

 親がどう願ったところで、子は、親の願いどおりには、いかない。かりに夫婦の方向性が一致
していても、だ。夫は息子をハーバード大へ。妻は息子を東大へ。しかし肝心の息子は、専門
学校を出て、職人になった……というケースは、いまどき、珍しくも、何ともない。

 ここで私は夫婦の「二層性」について書いた。

 つまり夫婦は、恋愛、結婚というプロセスを経て、さらに子どもをもうけて、この二層性を経験
する。しかしその子育ても終わると、再び、一層性にもどる。だから夫婦も、育児のことで、ム
ダにジタバタしないこと。

 だから繰りかえす。

 あきらめて、受けいれる。それよりも重要なのは、夫婦の信頼関係ということになるが、それ
については、つぎに考える。
(はやし浩司 育児 子育て 夫婦の対立 対立)


●夫婦の信頼関係

 夫婦の信頼関係も、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)で決まる。「絶対的」とい
うのは、「疑いすら、もたない」という意味。

 しかしそれはあくまでも基盤。信頼関係をつくりあげるためには、共通の目的、共通の苦労、
共通の人生観をともにもたなければならない。しかしそれは1年や2年で、できるものではな
い。

 もし若い夫婦の中で、「私たちはたがいに信頼している」「愛しあっている」と思っている人が
いるなら、それは幻想と思ってよい。夫婦の信頼関係は、そんな生やさしいものではない。

 少し視点がかわるが、年をとると、ものの見方が少し変わってくる。たとえば小学生や中学生
の恋愛ごっこを見てみよう。「好きだ」「ふられた」「別れた」「取られた」などと、毎日のように騒
いでいる。

 しかし年をとると、やがて、中学生の恋愛ごっこも、高校生の恋愛ごっこも、それほど、ちが
わないように見えてくる。さらに、高校生の恋愛ごっこも、若い男女の恋愛ごっこも、それほどち
がわないように見えてくる。

 当の本人たちは、「私たちは、高校生とはちがう」と思っているかもしれないが、まあ、これ以
上のことを話しても、どうせ理解してもらえないだろう。

 つまり私が言いたいことは、夫婦の信頼関係をつくりあげるためには、もうひとつ、「時間」
「経験」「年輪」というファクターが、必要だということ。

 が、最終的に夫婦の信頼関係を決めるのは、実は、「命」である。

 私も、私のワイフには、たくさんの不満があった。ワイフにもあっただろう。しかし、自分で自
分の人生を生きてみてわかることは、私の人生には、いつも「限界」があった。はっきり言え
ば、「たいした人生は、送れなかった」。それに「たいしたこともできなかった」。

 「まあ、いろいろやってはみたけれど、私も、ごくふつうの平凡な男に過ぎなかった」と。そんな
私が、たとえばワイフに、今以上のものを、どうして求めることができるかということになる。

 あと、何年生きられるかということを考えると、なおさらである。10年か、20年か。私はそん
なことを考えるとき、いつも、ミレーの『落ち穂拾い』の絵を思い出す。何ともさみしい話だが、し
かし悪いばかりではない。あの絵に見られるような、そこには、深い、「味」が生まれる。

 若い女性の肌も美しいが、しかしシワでゆるんだ肌も、これまた美しい。若いときはいやだっ
たが、ワイフの腸内ガスのにおいも、これまた、悪くない。すべてを許し、すべてを受け入れて
いく。

 信頼関係は、こうして熟成されていく。

 だから私は、ふとこう思う。よく若い男女が、たがいに、「愛しているよ」「信じているよ」と言い
あっているのを聞くと、つい、「バカめ」と思ってしまう。「たがいに疑っているから、そういう言葉
を口にするのだ」と。

 絶対的に愛しあい、信じあっていたら、そんな言葉など、ぜったいに出てこない。

 ……と、書きつつ、「偉そうなことは言えない」と思ってしまう。

 私は本当に、ワイフを信じているかと聞かれると、どうも自信がない。そのことは、ワイフも同
じだろう。

 実は、まだたがいに苦労も足りないし、ここでいう「時間」「経験」「年輪」が、足りないように思
う。

 しかし最近では、あえて言わないようにしている。あの「愛しているよ」とか、「信じているよ」と
いう、どこかフワフワとした風船のような言葉だ。

 夫婦の信頼関係の問題は、これから先、私たち夫婦にとっては、じっくりと煮詰める問題とい
うことになる。

++++++++++++++

ジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」
で思い出したのが、つぎの
原稿です。2年前に書いたものです。

++++++++++++++

●不幸の形

 幸福というのは、なかなかやってこないが、不幸というのは、こちらの都合など、お構いなしに
やってくる。だから幸福な家庭というのは、みな、よく似ているが、不幸な家庭というのは、みな
顔が違う。

 その不幸が不幸を呼び、さらにつぎの不幸を呼ぶ。こういう例は少なくない。

 両親は離婚。兄は長い闘病生活のあと、自殺未遂。母親は、再婚をしたものの、半年でまた
離婚。そのあと、叔父の家に預けられて育てられたが、そこで性的虐待を受ける。その女性
が、17歳のときのことだった。

 そこで家出。お決まりの非行。そして風俗業。しかし悲劇はここで終わったわけではない。や
っと結婚したと思ったが、夫の暴力。生まれてきた長男は、知的障害。夫は、やがてほかの女
の家にいりびたるようになり、そして離婚。今、その女性は四五歳になるが、今度は乳がんの
疑いで、入院検査を受けることになった……。

 その人はこう言う。「どうして私だけが……?」と。

 一つのリズムが狂うと、そのリズムをたてなおそうと、無理をする。しかしその無理が、さらに
リズムを狂わす。だれしも不幸になると、そこがどん底の最悪、と思う。しかしその下には、さら
に二番底、三番底、さらには四番底がある。

 しかし人というには、皮肉なものだ。今、目の前にあるものを見ようとしない。見ても、その価
値に気づかない。仮に見ても、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」と、自ら、それを打ち
消してしまう。

 だから賢明な人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。しかし愚かな人は、そのものの価
値を、なくしてから気づく。健康しかり。人生しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 あなたは、本当に幸福か?
 それとも、あなたは本当に、不幸か?

 ある腎臓病だった人が、こんな投書を寄せている。何かの雑誌で読んだ話だが、こんな内容
だ。

 その人は、10年近く、重い腎臓病で苦しんだ。そしていよいよというときになって、運よく、腎
臓提供者が現れ、腎臓の移植手術を受けた。そしてそのあとのこと。はじめてトイレで小便をし
た。たまたま窓から、朝の陽光が差しこんでいたという。その人は、こう書いている。

 「自分の小便が黄金色にキラキラと輝いていた。私はその美しさに、感動し、思わず両手で、
自分の小便を受け止めてしまった」と。

 何気なくする小便にしても、それは黄金にまさる価値がある。その価値に気づくか気づかない
かは、ひとえに、その人の賢明さによる。言うまでもなく、賢明な人というのは、目の前にあるも
のを、そのまま見ることができる人をいう。

 その女性は、「どうして私だけが……」と言う。しかし本当にそうか? 

 だったら、冷静に、見てみろ! 「私は幸福だ」と笑っている、愚か者たちの顔を。抜けたよう
に、軽い顔を。彼らに、人生が何でえあるか、わかってたまるか! 生きるということが、どうい
うことか、わかってたまるか!

 見てみろ! 目の前にある青い空を。緑の山々を。白い雲を、その向こうにある宇宙を。もし
この世界に、神々がいるとするなら、そしてその神々に奇跡を起こす力があるとするなら、今、
私がここにいて、あなたがそこにいる。それこそが、まさに奇跡。それにまさる奇跡が、どこに
ある!

 釈迦の説話にこんな話が、残っている。あるとき、ある男が釈迦のところにやってきて、こう
言う。

 「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。釈迦よ、どうすればこの死の恐怖から逃れるこ
とができるか」と。

 それに答えて釈迦は、こう答える。「明日のないことを、嘆くな。今日まで生きてきたことを、喜
べ、感謝せよ」と。

 余談だが、釈迦自身は、「来世」とか、「あの世」をいっさい、認めていない。こういうあやしげ
な言葉(失礼!)を使うようになったのは、もっとあとの仏教学者たちで、しかもヒンズー教の影
響を受けた学者たちである。今の日本に残る経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年を経て書
かれた経典ばかりである。ウソだと思うなら、釈迦の生誕地に残る原始経典(『スッタニパー
タ』、漢語で、『法句経』)を読んでみたらよい。法句経のどこにも、釈迦は、あの世については
書いてない。むしろ、釈迦自身は、あの世を否定している。(後世の学者たちが、ムリなこじつ
け解釈をしている点はいくらでもあるが……。)

 不幸だと思っている人よ、さあ、勇気を出して、目の前のものを見よう。目の前のものを見
て、それを受け入れよう。こわがることはない。恐れることはない。恥じることはない。

 不幸だと思っている人よ、さあ、そういう自分を静かに認めよう。あなたには無数の心のポケ
ットがある。奥深く、心暖かいポケットである。そのポケットを、すなおに喜ぼう。誇ろう。あなた
はすばらしい心の持ち主だ。

 不幸だと思っている人よ、さあ、ゴールは近い。あなたはほかの人たちが見ることができない
ものを見る。ほかの人たちが知らないものを知る。あなたのような人こそ、人生を生きるにふさ
わしい人だ。人の世を照らすに、ふさわしい人だ。

 あなたの夫にいかに問題があっても、あなたの子どもにいかに問題があっても、ただひたす
ら、『許して忘れる』。これを繰りかえす。それは苦しくて、けわしい道かもしれないが、その度
量の深さが、あなたの人生を、いつかやがて光り輝くものにする。

 ……いや、かく言う私だって、本当のところ、何もわかっていない。本当のところ、何一つ、実
行できない。しかしこれだけは言える。私たちが求めている、真理にせよ、究極の幸福にせ
よ、それは遠くの、空のかなたにあるのではないということ。私やあなたのすぐそばにあって、
私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている。

 過去がどうであれ、これからの未来がどうであれ、そんなことは、気にしてはいけない。今、こ
こにあるのは、「今という現実」だけ。私たちがなすべきことは、今というこの現実を、懸命に生
きること。ただただ、ひたすら懸命に生きること。結果は必ず、あとからついてくる。

 そう、私たちの目的は、成功することではない。私たちの目的は、失敗にめげず、前に進む
ことである。あの「宝島」をいう本を書いた、スティーブンソンもそう言っている。そういう有名な
言葉をもじるのは、許されないことかもしれない。しかしあえて、この言葉をもじると、こうなる。

 私たちの目的は、幸福になることではない。日々の不幸にめげず、前に進むことだ、と。

 もしあなたが不幸なら、ほんの少しだけ、あなたより不幸な人に、やさしくしてみればよい。あ
なたより不幸な人を、ほんの少しだけ、暖かい心で包んであげればよい。それで相手は救われ
る。と、同時に、あなたも救われる。

 あなたの子どもは、そこにいる。あなたはそこにいて、いっしょに生きている。友よ、仲間よ、
それをいっしょに、喜ぼうではないか。この100億年という宇宙の歴史の中で、そして100億
に近い人間たちの世界で、今、こうして心を通わすことができる。友よ、仲間よ、それをいっしょ
に、喜ぼうではないか。

 不安になることはない。心配することもない。さあ、あなたも勇気を出して、前に進もう。不幸
なんて、クソ食らえ! いやいや、あなたの身のまわりにも、すばらしいものが山のようにある。
それを一つずつ、数えてみよう。一つずつだ。ゆっくりと、それを数えてみよう。

 秋のこぼれ日に揺れる、栗の木の葉。
 涼しい風に、やさしく揺れる森の木々。
 窓には、友がくれたブリキの汽車の模型。
 そしてその上には、息子たちの赤ん坊のときの写真。

 やがてあなたは、心の中に、暖かいものを覚えるだろう。そしてその暖かさを感じたら、それ
をしっかりと胸にとどめておこう。それがあなたの原点なのだ。生きる力なのだ。

 つぎに、不幸と戦う必要はない。今ある状態を、それ以上悪くしないことだけを考える。あなた
は、ミレーが描いた、「落穂拾い」という絵を知っているだろうか。荒れた農地のすみで、三人
の農夫の女性が、懸命に、落穂を拾っている。どういう心境かは私には、知るよしもないが、し
かし私はあの絵に、人生の縮図を見る。

 私たちは今、懸命に、「今という時」を拾いながら生きている。手でつまむようにして拾うのだ
から、たいしたものは拾えないかもしれない。もっているものといえば、小さな袋だけ。が、それ
でも懸命に拾いながら、生きている。しかしその懸命さが、人の心を打つ。つまりそこに、人生
のすばらしさがある。無数のドラマも、そこから生まれる。

 最後に一言。あなたは決して、ひとりではない。その証拠に、今、私はこの文章を書いてい
る。そういう私がいることを信じて、前に進んでほしい。あまり力にはなれないかもしれないが、
私も努力をしてみる。
(はやし浩司 ミレー 落穂 落ち穂 落穂拾い 落ち穂拾い)




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●Independent Thinker(考える教育)

はやし先生、こんにちは。

毎号のマガジンをなるほどと、うなずいたり、考えたりしながら、読ませていただいています。

先日の、"independent thinker"について、考えたことを書かせていただきます。

私は府内の大学に勤めておりますが、講義アンケートや試験の結果などを見ますと、学生の
依存性が、年々強くなっているような印象を受けます。

寄せられる意見では、「レジュメを配布してほしい(教科書はあるのですが・・・)」、「重要部分
は、それと明示した上で、最低3回以上繰り返してほしい」といったものが見られます。試験結
果を見ましても、メモをとるとか、話の重要部分をつかむといったことが苦手なようです。これを
国語力と呼んでいいのかどうかは分かりませんが。

これに関連して、最近の学生はレジュメを見ながら話しを聞かないと情報が頭に残らないよう
だ、と分析しているのですが、(日本語のセリフすら文字にする最近のテレビのせい?)、どう
思われますか。

また、自分で考えるとはどういうことなのかを感じ取ってもらうために、教科書とは異なる意見
を紹介したり、述べたりしたのですが、それに対しては、「批判するような教科書を指定しない
でほしい」という意見が寄せられ、こちらの意図は全く通じませんでした。講義でも、誰かの意
見を鵜呑みにするのではなく、自分で考えることが大切なのですよと言っているのですが、通じ
ないようです。

私が大学生だったころには、(といってもほんの10数年前です)、ワープロすら使えない先生
が大多数で、板書もほとんどなし、教科書指定すらないこともしばしばでしたが、大学は自分で
勉強するところと思って、自学に努めていたのですが、もうそういう時代ではないのでしょうか。

聞き取る能力や、メモを取る能力、考える能力を養いたいと思いつつも(それも通じていないの
ですが)、一方で最低限の知識を備えさせなければと考えると、なかなか悩ましいところです。

高校から大学までのどこかで、(あるいはもっと早く、ないしはそもそも)、「教えてもらう」姿勢か
ら「自分で学ぶ」姿勢に転換する必要があるのではと思うのですが、それがどうもうまくいかな
いままなし崩し的に大学に進学し、さらには就職している印象があるのですが、いかがでしょ
う。はやし先生の大学(とくに学部)教育についての考え方なども、マガジンでお話いただけれ
ば幸いと存じます。

なにやら取り留めなくなってまいりました。これからも頑張ってください。応援しております。

では、失礼致します。

+++++++++++++++++++++++

【SEさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 自分で考えることの重要性は、今さら、言うまでもありません。私がオーストラリアの大学へ
渡ったのは、「戦前の日本人の法意識」の研究のためでした。もっとわかりやすく言えば、「全
体主義国家下における、法意識」の研究でした。

 で、オーストラリア人のもつ、あの自由意識に触れたとき、同時に、(自分で考えることを知ら
ない日本人)に気づかされました。私も含めて、私たちは、教えられたことだけを忠実に守る、
従順な民にすぎなかった、とです。

 このことは、当時、たまたま北京で1年間の留学生活を終えて帰ってきた、D君の話を聞い
て、さらに確信しました。「中国人は、白人を見ると、話すのさえ避ける。また意見を求めても、
みなテープレコーダーみたいに、同じことしか言わなかった」と。

 つまりどの学生と話をしても、ステレオタイプな答(=決まりきった答)しか返ってこなかったと
いうのです。

 一方、日本人は自由だ、自由だといいながら、その一方で、戦前の全体主義国家的な、統一
されたものの考え方しかできませんでした。(私も、含めて、ですが……。)

 情報(=知識)と、思考は、まったく別のものです。ほとんどの日本人は、情報を加工すること
を、思考と誤解しています。思考することには、ある種の苦痛がともないます。ですから、思考
することそのものから、逃げてしまう人も、少なくありません。よい例が、カルト教団の信者たち
です。

 彼らは、徹底した服従を誓うことで、脳ミソの中に、思想を注入してもらっているのです。

 しかし批判ばかりしていてはいけません。

 問題は、どうすれば、教育の場で、子どもたちを、その(考える子ども)にすることができる
か、ですね。

 私はそれには、親自身が、(考える人間である)という、環境が、とても重要なような気がしま
す。教育の世界でいうなら、教師自身が、自ら、考えるという姿勢を、子どもたちに見せていくと
いうことです。

 恩師のT先生は、ときどき、「考える時間」という言葉を使います。私は勝手に、「静かに考え
る時間こそが、重要である」と、解釈しました。(この原稿は、あとで、T先生に送っておきま
す。)何かの機会に、先生が、「あの人たちには、考える時間があるのでしょうかねエ……」と、
口にしたのを覚えています。たしかどこかの政治家の話になったときのことです。

 SEさんが、ご指摘のように、私も、日本人が、むしろ、ますます考えない国民になっているよ
うな気がしてなりません。もの知りで、やたらと情報量だけは多い。さらには、知能パズル的な
クイズ(リドル)を、解くのが、考えることだと誤解している人もいます。最近のバラエティ番組の
影響かと思います。

 ものごとを、身近なところから論理的に(ロジカルに)、考えることを、「思考」というわけです。
それが苦手(?)。

 で、たどりつく結論は、こうです。

 日本人は、考えない国民ではない。考えるという習慣をもたない国民である、と。そもそも静
かに考える、そういう習慣がない。万博で、シベリアで発見されたマンモスの化石を見ても、「ほ
ほう、あれがマンモスか」で終わってしまう。その先を、思考に結びつけていかない。

 これは日本人にとっては、とても不幸なことだと思います。せっかくの名画を見ながら、「この
絵は、2億円の価値がある」「あの絵は、10億円だ」と言うのに、似ています。そういう視点でし
か、自分の得た情報を処理できないのですね。

 なぜ、人間が人間であるかといえば、考えるからですよね。その(考える)ことを放棄してしま
ったら、人間は人間でなくなってしまう。それだけではありません。考えるからこそ、人間は、生
きることになるのです。

 たまたま今、頭のボケた兄を介護して、ちょうど満3か月になりました。昨日、介護申請のこと
もあって、郷里へ連れて帰りましたが、今朝、ウソのように静かになった我が家を見ながら、ワ
イフとこんな会話をしました。

 「この3か月は、何だったのだろうね。ちょうど、ハサミか何かで、切り取られたみたいだね」
と。

 3か月もいっしょにいたのに、兄の思い出という思い出が、まったくないのです。これは不思
議な経験でした。最初から最後まで、いてもいなくても、どうでもよい人間が、そこにいた。そん
な感じです。

 まさに「生きることは、考えること」という、私の持論を実感した瞬間でもありました。

 まあ、グチばかり言っていてもしかたありません。私たちだけでも、考えましょう。いろいろ考
えて、さらに考えて、また考えましょう。そのうち、考えることの重要さをわかってくれる人が、も
っともっと、あとについてきてくれるだろうと思います。それを信じて、前に進むしかありません。

 Independent Thinker ……よい言葉ですね。そうそうT先生というのは、そのIndependent 
Thinker を地でいくような人ですよ。いつか機会があったら、T先生のHPものぞいてみてやって
ください。

 では、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●考える教育

●田丸先生からの論文

 T先生こと、田丸先生の、「Independent Thinker」についての原稿について、
 田丸先生に、私のHPに掲載してよいかという許可を求めましたら、了解がい
 ただけましたので、ここに紹介します。(05年3月31日)

+++++++++++++++++++++

林様;

  私の原稿は貴方のような筆の達人※の中に入れると見劣り
します。 それでもよかったらお使いなさい。

  これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。

  田丸謙二

(※「筆の達人」というのは、先生のいつもの独特のジョークです。)

田丸先生は、この中で、いくつかの教育上の重要なことを、私たちに
教えている。少し難解な論文なので、最初に、それについて、解説し
てみたい。

++++++++++++++++++

●「エデュケーション」と、「教育」のちがい

 先生は若いときから、「エデュケーション」と、「教育」はちがうと言っていた。

 エデュケーションの語源は、「educe」、つまり「引き出す」。子どもから能力を引き出すのが、
教育である、と。

 一方、日本の教育は、各宗派の総本山教育に例を見るまでもなく。「教え、育てる」が、教育
の基本になっている。日本独特の「わかったか?」「ではつぎ」式の詰めこみ教育は、こんなと
ころから生まれた。

●情報と考える力

 先生は、かねてから、「情報(=物知り)」と、「思考」は別と話している。とくに最近では、イン
ターネットに、その例を見るまでもなく、情報は、簡単に手に入るようになってきている。

 これからは、この状況は、さらに加速される。こうした状況をふまえながら、田丸先生は、重
要なのは、「ものを知っている」ことではなく、「どう考えるか」であると説いている。

●アメリカの例

 日本で「アメリカ」というと、ハリウッド映画に代表されるアメリカをいう。

 そういうアメリカを見て、「アメリカの教育レベルは低い」と考える人は、多い。しかし実際に
は、アメリカの教育レベルは、高い。そのことは、私の二男(アメリカの州立大学を卒業)も、指
摘している。

 二男が言うには、「アメリカでは、大学生がアルバイトをするなどということは、考えられな
い」、つまり、「そんなヒマはない」と。

 二男は、当時日本へ帰ってくるたびに、大学生の友人を訪問している。そうした友人たちの
(遊びほけている姿)を見ながら、さかんに「信じられない」と言っていた。

 三男も、1年間、オーストラリアの大学に通った。その三男も、まったく同じことを言っていた。

 こういう現状を、日本の親たちは、気がついているのだろうか。いつだったか、田丸先生が、
「アメリカの大学では、休み時間になると、教授室の前にズラリと学生が並ぶ。しかし日本で
は、そんな光景を見たことがない」と書いていたのを、覚えている。

●教科書改革

 この論文の中で、田丸先生は、教科書問題についても、切り込んでいる。日本の学生が使う
教科書は、アメリカの高校生が使う教科書の、3分の1程度であると書いている。

 私が調べた、プレンティス版の中学校用の数学のテキストにしても、日本の百科事典程度の
大きさと分量がある。

 アメリカでは、教科書は、学校の備品ということになっている。日本のように使い捨てではな
い。また当然のことながら、アメリカおよび欧米各国には、教科書検定制度は、ない。

 日本の文科省は、「教科書の検定制度は、世界の常識」などという、大ウソをついているが、
現在、検定制度を実施している国は、近くでは、韓国、K国、中国などの、全体主義国家の色
彩が強い国だけである。

 これについても、文科省は、「日本のそれは、外郭団体の検定であって、韓国や中国でいう
国定ではない」と、大ウソを言っている。検定も国定も、どこもちがわない。田丸先生の論文を
読むとき、そういう知識をもって読むとよい。

●考える力

 子どもに「考えろ」といっても、無理。子どもは、教師やおとなたちが、自ら考える様子を見な
がら、「考える力」を身につける。

 が、日本では、ペラペラと、調子よくしゃべることばかりが、優先される。またそういうふうにし
ゃべる人を、頭のよい人という。バラエティ番組の司会者に、その例を見るまでもない。

 そこで先生は、「考える姿勢を子どもに見せることこそ、重要である」と説いている。教えるの
ではなく、子どもに考える姿勢を見せ、その姿勢の中に、子どもを引きこんでいく。少し勝手な
解釈で、田丸先生から異議が飛んできそうだが、私は、そう解釈した。

 以上、田丸先生の論文は、一度は、目を通しておいてほしい。日本でも、超一級の科学者で
あるし、また日本の教育も、田丸先生のような人の論文をもとに、その進むべき方向を定めて
いく。

 あわせて、超一級の教育論文がどういうものであるか、この論文を通して、わかってもらえれ
ば、うれしい。

+++++++++++++++++++

●日本は本当にダメになるのか?

もっと考えるエデュケイションを

田丸謙二
現在の中高校の理科教育について何か書けという、思いがけないご依頼があった。以下に普
段思っていることを書いてみる。

はじめに: Education という言葉は辞書には、「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の
「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ
語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。

これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とは、ベクトルが180度違っている。正に逆なので
ある。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は、決して多くはない。むしろ
極めて少ないと言えるのではないだろうか。

新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと、何処かで誰かが漫画の本を見てい
たものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これから
ニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを
開いてみているのではなかろうか。

そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが、今の子供たちであ
る。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この
激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミ
ックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は
自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日
本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。

これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似
をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから
出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する
風土になっている。

高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教
え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識
偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、
自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを
磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、
education とは正反対のベクトルである。

こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏
しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言わ
れても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治
教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いであ
る、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。
理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたの
を止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。

そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方
として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National 
Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り、1992年か
ら150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後
には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science 
Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリ
カにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのであ
る。

わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削
減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学
省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。

しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再
検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。

アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子
供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, 
independent thinker」と言ったという(2)。

つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent 
thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show 
and tell、自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU 
think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生ま
れつき異なるということから始まる。

生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education な
のである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker 
が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

考えさせる教育;わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学
校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お
互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体
の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。

これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言わ
れても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米の
ように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいので
ある。

先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供
たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得
ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダ
メである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。

しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び
抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり
数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダ
イナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必
要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。

これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュー
タの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本
を根付かせ、個性を伸ばすことである。

例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室で
きびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分
かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでも、コンピュータを通して一緒に討論をしながら授業
をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋
がる。

まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学
ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%、聞いただけでは20%、ただけでは30%、見
たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%、実際に体験して80%、誰かに教えてみ
て95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。

同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭
に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いにな
る。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を
生むように「引き出さなければ」いけないのである。
    
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず
入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での
入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。

この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解してい
るか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけ
ているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が
実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。

ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の
方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる
問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。

同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。
Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で
考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試
は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。

今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験
に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの
受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の
色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題
者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。

教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教
科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限
の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。

先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。
そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。
それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究
的に考えろと言う方が無理である(4)。

一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく
説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立
場からの地球のできる火成岩の話しなど、いろいろな興味ある身近な話も入っていたりしてい
る。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせる
ようになっている。

欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実
質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろ
うか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なの
だろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはも
ちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きな
ように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出る
し、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、
もっとよく考えなさい」と言っている。

何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生
にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほど
よくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の
考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験
はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育
つものである。

おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介す
る。

『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番
大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のため
の勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているの
は議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、
自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間
を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)

1. National Science Education Standards, National Resarch Council(1996), National 
Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National 
Academy Press:  .

2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149

3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを
問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146

4  「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学
での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
  「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/    (2005年3月)

++++++++++++++++++++

追伸

林様;

  「わびしく、さみしく、うつ的です」とは何ですか。 今こそ
働き盛りで、素晴らしい奥さんと一緒で、感謝、感謝の日々ではあり
ませんか。 孤独に耐え、身体のあちこちが老化でガタガタしてきて
いる先短い私は何と言えばいいのでしょうかネ。 私は、毎日、毎日、
とにかく元気に生きて居れるのが有り難く、食事を作りながらも、そ
れこそ感謝、感謝です。 万歩計を使いながら、毎日一万歩を超える
よう努めています。 誰にも迷惑をかけずに一日でも多く元気でいよ
うと。 話しましたっけ? 先週街で「カキフライ」を買って食べて、
大当たり、大変な苦しみでした。 4日間入院して、点滴、点滴で、3
リットルもしましたかしら、やっと元気になって、学会に連日上京で
す。 今日で無事終わりました。

  お元気で。
  T・K


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(補記)

●ソクラテスの最後

 あのソクラテスは、最後は、処刑されている。そのソクラテスを脱走させようと、クリトンという
友人が、こっそりとソクラテスに会いにくる。

 それに答えてソクラテスは、こう教える。

 「重要なことは、生き延びることではない。重要なことは、よく生きること。美しく生きること」
と。

 つまり生きることは、時間の問題ではなく、中身の問題、と。そしてソクラテスは、「私の命は、
運命にゆだねる」と言い残して、そのまま処刑される。

 よく知られた有名な話である。

 「運命にゆだねる」。

 私たちの命には、無数の「糸」がからんでいる。四方八方から、からんでいる、家族、友人、
知人、地域、国家、地球……ありとあらゆるものが、からんでいる。私が、たまたま男であると
いうことも、たまたまここにいるということも、それらの糸がからんだ、その結果でしかない。

 その糸の中で、私たちは生きている。生きる方向を知り、その方向に沿って生きている。とき
に、それらの糸は、私たちの前に、「限界」として、立ちはだかる。人は、それを「運命」という。

 人間が生きる美しさは、その運命と、最後の最後のところで戦うところから、生まれる。生き
る尊さも、そこから生まれる。

 しかしその運命が、運命として、その人の運命を定めるときがある。あのソクラテスも、最後
の最後で、それを知った。「運命にゆだねる」と。

 私やあなたにも、いつかすぐ、恐らく、つぎの瞬間には、その日がやってくる。それがわから
なければ、あなたが子どもだったころ、今のあなたの年齢の人たちが、そのあとどうなったかを
知ればよい。

 高校時代の担任、中学時代の担任、近所の知りあいに、親類の叔父や叔母たち。あなたと
ともに、この宇宙の果てで、星がほんの一瞬、まばたきするその間に、私は生まれ、そして死
ぬ。

 だれしも、自分の命を、最後には、その運命にゆだねるときがやってくる。それこそ、まさに
一瞬かもしれないが、その一瞬を、いかにすれば、よく生きることができるか。美しく生きること
ができるか。それこそが、私たちが今、こうして生きている理由、そのものかもしれない。

+++++++++++++++++++++++

 恩師のT先生が、私が、「(最近、何かにつけて)、わびしく、さみしく、うつ的です」と書いたこ
とについて、こう返事をくれました(3月31日)。生きることのヒントになると思いますので、あえ
て、そのまま転載させていただきます。

 今、無数の運命という糸にからまれて、がんばっている人には、先生のこのメールは、大きな
励みになると思います。

 Life is beautiful!(人生は、美しい。)

 みんなで、力を合わせて、よく生きましょう。美しく生きましょう!


++++++++++++++++++++++

●田丸先生のこと

 万歩計をつけて、毎日、1万歩を歩いている?
 だれにも迷惑をかけずに、1日でも多く、元気でいようと務めている?
 4日間も入院して、そのあと、また学会に出ている?
 そして毎日、「感謝、感謝」?

 いつか、100年とか200年とか、そういうあとの時代になって、T先生のこの話は、T先生に
まつわる逸話として、語りつがれることだろう。

 生きることのすばらしさを、教えてくれて、先生、ありがとう。
 生きる力と勇気を与えてくれて、先生、ありがとう。
 私は先生をとおして、生きることのすばらしさ、尊さを学んでいます。

 ぼくも、がんばれるだけ、がんばってみます。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(619)

●T先生のこと

 精神力とその行動性は、当然のことながら、シンクロナイズしている。

 たとえば独立心の旺盛な人は、独立した行動を繰りかえす。依存性の強い人は、行動もま
た、万事につけ、依存的になる。

 恩師のT先生が、現在、何歳なのか、本当のところ、知らない。はじめて出会ったのは、私が
23歳のときだが、そのとき先生は、42歳だと言っていた。

 正直な先生だが、年齢だけは、本当のことを言わなかった。で、この原稿を書くにあたって、
先生の名前を検索してみたら、先生のHPが、最初に出てきた。そのHPに、先生の生年月日
がないことは、よく知っている。

 最初、先生が、自分のHPをたちあげたとき、住所から電話番号まで、(もちろん生年月日ま
で)、記載してあった。それを削除させたのは、私だからである。「この世界には、どんなワルが
いるか、わかったものではありません。削除したほうがよいです」と。

 つぎに、どこかの学会雑誌をヒットした。そこでT先生を調べてみると、1946年、T大理学部
卒とある。

 私が生まれたのは、1947年。逆算すれば、T先生が23歳のときに、私が生まれた。という
ことは、先生の年齢は、私の年齢プラス23歳ということになる。つまり今年、80〜81歳という
ことか(05年)。

 そのT先生は、今、万歩計をつけて、毎日1万歩、歩くようにこころがけているという。若いこ
ろ、奥さんをなくしているので、以来、ずっと、ひとり暮らしである。T先生の人間性もさることな
がら、私は、いつも、T先生の、その旺盛な独立心に、驚かされる。

 本当はそうでないのかもしれないが、つまりT先生はT先生なりに、どこかで孤独と戦っている
のかもしれないが、私には、そうは見えない。少なくとも私には、強靭(きょうじん)な精神力の
持ち主に見える。並外れた、スーパーマンのような精神力である。

 もう少し若いころには、国際学会だとかなんだとかで、ひとりで、世界中を、飛び回っていた。
ひとりで生活をすることさえ、たいへんなのに、その上での、こうした活動である。数年前に、日
本学士院賞を受賞しているが、その一方で、最近は、料理にこっているという。

 「料理は、化学反応のようで、おもしろい」などと、書いてきたこともある。

 私はよく、こう思う。「もし私が、T先生の立場なら、つまりひとり暮らしの立場なら、それだけ
で、めげてしまって、何もできなくなるだろうに」と。そんなわけで、T先生からメールをもらうたび
に、T先生と私は、どこが、どうちがうだろうかと考える。

 昨夜のメールによれば、「カキフライを食べて、大当たり!」とあった。そのため、4日間入院
して、点滴を3リットルも受けたという。T先生は、病院で、どんな気持ちで、寝ていたのだろう。
私は、その先生に、自分の心をのせてみたとき、ゾッとした。

 (もっとも、T先生のことだから、看護婦さんたちと、ジョークを飛ばしあって、結構、それなりに
楽しんでいただろうと思うが……。)

 私とT先生は、親しいと言えば親しいが、しかし立場が、まるでちがう。いつでも会いに行きた
い気持ちはあるが、しかし、簡単に、「会ってください」と言える関係でもない。若いときは、怖い
もの知らずというか、息子たちを連れて、平気で遊びに行くことができたが……。

 私はやはり、私とT先生とは、精神の構造そのものが、ちがうようだ。ときどきT先生は、T先
生の若いときの写真を送ってくれるが、そういう写真から推察すると、T先生の乳幼児期は、た
いへん恵まれたものであったようだ。

 T先生の父親も、やはりたいへん著名な化学者であったという。心理学でいう、「基本的信頼
関係」という点で、私の生まれ育った環境とは、大きくちがう。

 そこで今、考えることは、一方に、T先生のような見本を置きながら、果たして私のような人間
が、自分の精神力だけで、自分の精神の欠陥を乗りこえることができるかどうか、ということ。

 なおそうとは、思わない。もうなおらないことは、わかっている。あきらめている。しかしこれか
らの老後のことを考えると、今の私の精神構造では、その老後を乗り切ることは、不可能なこ
とのようにさえ思う。

 つまり、これはあくまでも相対的なものかもしれないが、私は、依存性が強い。人から見ると、
ひとりでたくましく生きている人間に見えるかもしれないが、その実、精神状態はボロボロ。

 ワイフが、そばにいない人生は考えられないし、かりに4日間も、ひとりで入院するようなこと
になれば、それだけで、自殺することを考えてしまうかもしれない。が、T先生は、そのあとす
ぐ、学会に顔を出している!

 どう理解したらよいのか。どう、T先生から学んだらよいのか。T先生のような人間がいること
自体、私には信じられない。

 今朝、ワイフに、「春休みの間に、鎌倉へ行ってみるか?」と声をかけると、「私が行ってもい
いの?」と返事をした。

 ワイフにしても、畏(おそ)れおおい先生であることは、事実のようだ。あとでT先生に、つごう
を聞いてみよう。

(追記)

 つごうを聞いたら、「X日以後ならいい」とあった。私は「それまで生きていてください」と返事を
書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(補記)

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no 
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his 
pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very 
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It 
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few 
who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a 
good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in the young than 
in grown mean and women. Among children it is very common, and grows naturally out of 
the period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to 
kill it during education... The wish to preserve the past rather than the hope of creating the 
future dominates the minds of those who control the teaching of the young. Education 
should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the 
world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対しては、
楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほとんど要しな
い。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。それ以上
に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒にとっては、教
師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生において、大
きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。そしてそれが
だれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを理解す
る子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育のよさが、
子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い人たちの
間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれたことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period of 
make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、すべてが
教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保全した
いとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせること
passive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向って、能動的
に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞


++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そのと
きの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分を発
見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。それが
自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去の事実
を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって能動的に向わ
せることを目的としなければならない」(Education should not aim at passive awareness of 
dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create)と書
いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論の中で、
「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」ということにな
る。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということになる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せば、「ひ
とりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思うのは待って
ほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、そのつど、
いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。脳の表面に飛来
する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、頭をさすりながら、その
頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。しかしそ
の実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。それぞれ
が、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていない。が、その
実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、電車に
乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれないというこ
と。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、そのワクを踏み超
えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメというワ
クを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先に巣をつくらな
いで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)の条件と
いうことにもなる。

 恩師のT先生は、科学研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要性を説
いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バートランド・ラッセ
ルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、ありふ
れた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽なこと。しかしそ
のワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味がある。
私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰りかえして
いるだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たちも、若
いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言った。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事実は、
私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。やがて君も母親
になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。つまり繰りかえしているだ
けだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなければなら
ない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。私の家の
近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、自分の人生
を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前と同じ生活を繰りか
えしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとしたら、そのま
まつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むことで
ある。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いている。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろんその
女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心を
キズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ出す勇気
を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでいくとい
うのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そしてそのつど、さ
らにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そしてそのあ
と、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、Independent 
Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこに何か、目には見えな
い糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。
(05年4月4日)
(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

++++++++++++++++++++

京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだ
ったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも
独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかり
でしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われて
しました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学へ
の興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入った
だけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけで
す。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タ
イプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M
教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生に
すると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっ
ても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向という
のは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80〜9
0%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢
や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいとい
う学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめ
ざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあ
いは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出ると
いうだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。
行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったか
ら、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試
験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした
時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかっ
た。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混
乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)の
タイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと
思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論
(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝
手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だっ
たんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだ
ったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているの
は、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだ
が、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑
っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話
などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、
そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で
勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受
けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎ
のように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだ
ろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもち
ろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなよ
うに教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出る
し、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線
化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育に
は、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しく
ださい。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、
昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんで
す。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(追記)

TK先生へ

拝復

今回は、ひどいめにあいました。インフルエンザか、さもなくば肺炎という状態でした。2日つづ
けて、38〜40度という熱にうなされました。感冒薬(熱さまし)をのんだら、寒気(悪寒)で、体
が、けいれんしたように震え、そのあと、シャツ数枚、パジャマ数枚を着た上、布団を2、3枚か
ぶりましたが、いっこうに体は温まりませんでした。

で、1時間30分程度、その状態だと思っていたら、今度は急激に発熱。荒い呼吸を3時間ほ
ど。「死ぬ」とは思いませんでしたが、しかし苦しかったです。ホント!

 で、思考力について、子どもの思考力は、世代連鎖(世代伝播ともいう)します。何も虐待だ
けが、世代連鎖するわけではないのです。親、とくに母親が、日常的に思考能力(思考習慣)
があれば、それがそのまま子どもに伝わります。ですから、とくに0歳〜2歳児までの、親の育
児姿勢が、子どもに大きな影響を与えます。

最近の研究では、人間にも、鳥類(卵からかえってすぐ2足歩行する鳥類)のようなインプリティ
ングがあることがわかってきました。0歳から数か月という期間をかけて、刷り込まれるのだそ
うです。

この期間を、「密着期」と呼んでいる発達心理学者もいます。

こうした現象は、たとえば、つぎのような事実からも証明されます。

たとえば4、5歳児に、「山を描いてごらん」「こんどは川を書いてごらん」「つぎに遠くに家が見
えます。家を描いてごらん」と順に指示して、絵を描かせます。(ほかに、「道があります。道を
描いてね」「木が2本立っています。木を2本描いてね」……と、指示していきます。つぎに何を
描くかを教えないで、描かせます。子どもによっては、「どこに描こうか」「どうしたらいいか」など
と迷ったりしますが、助けてはいけません。)

論理的思考能力の高い子どもは、無意識のうちにも、山の下に川を描き、家は小さく描きま
す。

で、べつの場所で、まったく同じ問題を母親にやってもらいます。すると、母子間の密着性の強
い母子ほど、その両者は、ほとんど、同じ絵を描きます。つまりこうした無意識の論理性は、母
親から子どもへと伝えられるわけです。

私の経験でも、20〜30組に1組の母子は、不思議なことに、まったく同じ絵を描くことがわか
っています。(とくに山の形などは、そうです。)

つまり子どもの論理性は、母親からの影響が、きわめて強いということです。子どもからの働き
かけに対して、そのような育児姿勢を見せるかが、その子どもの論理性の発育に大きな影響
を与えるということです。

たとえば子どもが何かを質問したとき、あるいは質問だけにかぎらないことですが、何かの問
題にぶつかったとき、母親が、(もちろん父親も)、その瞬間に見せる、思考習慣が、子どもの
論理性の発育に大きな影響を与えるということです。

で、私が想像するところ、先生の論理性は、実は、小学校のころの教育によるものではなく(先
生は、そう書いておられますが)、先生の父親、母親からの影響というか、それから受け継いだ
基盤があったからだと考えられます。

もし先生が言われるようなら、その小学校の生徒は、すべて、TK先生になっていたはずです。

さらにアメリカでは、子どもに問いかけながら、会話をしますが、それと論理性は、直接的には
結びつかないのではないかと思います。この問題には、日本人独得の子ども観、育児観の問
題がからんでいます。

日本では、旧来より、親に甘える子ども(依存性の強い子ども)イコール、かわいい子イコー
ル、よい子と考える傾向があります。

さらに昔から、「女、子ども」という言い方に代表されるように、女性や子どもは、人間ではない
……という考え方もあります。さらにまた言えば、キリスト教国では、子どもは神の授かりモノと
いう考え方をしますが、日本では、家のモノ、親のモノというように、私物化する傾向が強いで
す。

そのためその家に障害をもった子どもが生まれたりすると、欧米では、みんなが助け合って育
てるという傾向が強いですが、日本では、「家の恥」として隠す傾向が、今でも残っています。
(彼らの教会を中心とする、互助精神には、いつも驚かされるものがあります。)

この問題は、そういう問題にからんでくるということです。つまり子どもの人権を尊重するという
ことと、子どもの論理性とは、直接的には結びつかないということです。

で、問題は、母親の育児姿勢です。

一般的には、父親と母親は、同等に考えられていますが、これはまちがいです。(最近は、出
産時に父親を立ち会わせるラマーズ法などが一般化してきていて、母性愛、父性愛というわけ
方をしないようですが)、実際には母親が子どもに与える影響は絶対的なものです。

父親は、母子の関係を是正する役目しかありません。母子関係を調整し、社会性を教えるの
が、父親の役目というのが、一般的な通説です。(わかりやすく言えば、母子関係にクサビを入
れ、狩のし方を教えるのが、父親の役目ということになります。それを是正しないままにしておく
と、子どもは、総じて、マザコン化します。)

その一例として、母子分離不安はありますが、父子分離不安というのは、ほとんど聞いたこと
がありません。(たまにはありますが、例外的です。)それは生後直後から、子どもは、母親か
ら、乳を受ける、つまり母親が命の源泉だからにほかなりません。

父親がいなくても、子どもは育ちますが、母親がいなければ、子どもは育ちません。このちがい
を乗り越えてまで、父親は母親の代用をするわけにはいかないのです。

さて、では、こう書くと、教育とは何かということになってしまいます。

こうした論理性というか、思考習慣は、かなり早い時期に、子どもの身につくものです。これが
基盤になって、子どもは、その上で、ものを考える子どもになっていきます。たとえば、先生の
お嬢様を考えてみましょう。

お嬢様は、先生を見ながら、幼児期を過ごしています。この時点で、すでに世代連鎖は始まっ
ているのです。(だからお嬢様も、先生と、同じような道を歩んでおられます。)

「おや?」と思われるかもしれませんが、この時期を逸した子どもの例としては、1920年前後
に見つかった、インドのオオカミ姉妹、フランスのビクトール(少年)などの例があります。

いわゆる野生児の問題です。

インドで見つかったオオカミ少女にしても、下の妹は、たしか推定年齢、1歳半でしたが、その
あと感情表現をとりもどすことはなかったそうです。フランスのビクトールにしても、推定年齢1
1歳でしたが、その後、手厚い教育によっても、言葉を覚えることはなかったそうです。(自分で
つくった単語を、50個前後、使ったというような記録はありますが、フランス語は、最後まで話
さなかったそうです。)

こうして考えていくと、0歳〜3歳児というのは、教育的な意味においても、きわめて特異、かつ
重要な時期だということがわかっていただけると思います。

事実、私は4歳児からの指導にあたっていますが、この時期までに、その子どものもつ、方向
性というのは、ほとんど決まっています。とくに重要なのは、満4・5歳から5・5歳の、いわゆる
幼児期から、少年少女期への移行期です。

この時期は、「なぜ?」「どうして?」の質問がとくに多くなります。それはそれまでに形成される
乳幼児の心理形成の修正期にもあたるからです。

ご存知かどうか知りませんが、乳幼児は、たとえば物活論(すべてのものは生きている)、人工
論(すべてのものは、親がつくったもの)、実念論(心で念ずれば、ずべて実現すると考える)な
どという考え方をします(ピアジェ)。(ほかにもう一つ、乳幼児特有の自己中心性をあげる学者
もいます。)

よく赤ん坊が、風に揺れるカーテンを見て、生きていると思ったり(物活論)、「お月様を取って」
と泣く(人工論)のはそのためです。死んだモルモットを手にして、「乾電池を入れ替えて」と言っ
た子どもの例などが、報告されています。

結論を言えば、子どもの教育もさることながら、もっと重要なのは、母親自身ということになりま
す。たとえば母親が迷信を信じ、占いやまじなばかりをしていたのでは、子どもに論理性は育
たないということになりますね。

子どもというのは、何か疑問をぶつけたとき、あるいはそうでないときでも、親の考える姿勢
を、そのまま身につけていくものです。姿勢だけではない。人間的な誠実さなど、無意識の意
識までです。ユングが説いた、シャドウ論も、その延長線上にあるのではないでしょうか。その
母親をさておいて、子どもにだけ、「考える人になれ」と言っても、無理な話です。

子「どうしてお月様はあるの」
母「神様が作ったからよ」
子「どうしてお日様は暖かいの」
母「神様がそうしたからよ」では、そもそも子どもに論理性など育つわけがないのです。

その子どもの思考力は、その子どもがどれだけ思考する習慣があるかで決まります。手段や
方法ではありません。習慣です。

その習慣のないまま、メダカを育てても、球根を育てても、それでその子どもに思考力が育つと
は、とても考えられません。それはあくまでも各論だからです。

で、日本人論ということになりますが、日本人というのは、代々、自ら考える力に乏しい民族と
いうことになります。長くつづいた封建制度なども、その理由の一つかもしれません。あのマー
ク・トウェインがかつて言ったように、「皆と同じことをしていると感じたときは、自分が、変わると
き」という考え方が苦手なのですね。

反対に「長いものには巻かれろ」「出るクギは叩かれる」「みんなで渡ればこわくない」と。

こうした意識を代々、まさに世代連鎖として、大半の母親たちは、受けついでいますから、これ
を変えていくのは、容易なことではありません。さらに「情報の量」「知識の量」をもって、「思考」
と誤解する、日本人独得の考え方もあります。いわゆる(もの知り)を(頭のいい子)と誤解して
いるわけです。

(これについては、先生があちこちで、すでに指摘されていますので、省略します。)

つまりこの問題は、これから先、2代目、3代目を考えた、先の長い話になるということです。

そこでとりあえず、こうした問題を解決するためには、一つの方法としては、いわゆるエリート
教育があります。全国一律の教育改革ではなく、(また日本人全体が、そうなるのを待つので
はなく)、一部でもよいから、こうした「考える教育」を始めるということです。が、この教育にも、
問題があります。現場では、いわゆる「飛び級」と言っているものですが、そこに受験戦争がか
らんでくると、わけがわからなくなってしまいます。(反対に、いくら考える教育でも、受験に不利
とわかれば、親にソッポを向かれてしまいます。)

私も、数年に1、2人と、飛びぬけて、頭のよい子どもに出会います。「おっ、こいつはTK先生
級だな」と思うわけですが、悲しいかな、そういう子どもを育てる環境が、まだないですね。また
さらに悲劇的なことに、そういう子どもを理解できる教師も少ないということです。

2年前、O君という少年を、8年間、教えました。小6のときには、中3生といっしょに教えていま
したが、東京の麻布中などは、不合格でした。社会が苦手だったことと、国語が得意ではなか
ったからです。(現在は、HKラサール中学に在籍しています。)

しかし小4のときには、方程式を使わないで、方程式の問題をスラスラと解いていました。が、
学校では、問題児(?)。先生(女性)には、「生意気だ」とばかり、言われつづけたそうです。
(たしかに生意気そうな様子を見せる子どもでしたが……。)

こういう現実が、あるのですね。

先生がおっしゃった、GIFTED CHILDの問題もあります。それについては、私も、何度か、エ
ッセーにしてきました。

またメールを書きます。やはりまだ風邪の後遺症が残っているようです。

先生も、どうか、お体を大切に! 病気のときというのは、健康のありがたさが、しみじみと、わ
かりますね。今回がそうでした。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●子どもの思考力について

TK先生へ、

子どもの合理尾的判断力についての資料を送ります。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page117.html

↑をクリックしてみてください。

++++++++++++++++++++++

重要なポイントは、

(乳幼児期)の独特の、しかし共通した論理思考性が
(少年少女期)にかける段階で、どのような環境下で、
修正され、脳のシナプスが、構成されていくかという
ところではないかと思います。

これが私の35年間の幼児教育の体験から得た結論
ということになります。

年齢的には、満4・5歳から5・5歳にかけての時期です。
この時期を逸すると、非論理的な子どもがそのあと、
論理的なものの考えたかたをするということは、まず
ありません。

私がいう(基盤)というのは、それをいいます。

つまり満4・5歳以前は、アメリカ人の子どもも、チベットの
子どもも、同じような発達経過をたどります。

北海道のスズメも、九州のスズメも同じような行動を
するのに似ています。

しかしこの時期を境に、環境、教育で、指導を受けた
子どもは、急速に大きなちがいを見せるようになり
ます。

しかし誤解してはいけないことは、だからこの時期の
教育が重要ということではありません。

たとえば言葉の発達でも、満2歳になると、急速に
子どもは言葉を話すようになります。だからといって、
2歳から言葉の教育をすればよいかというと、
それはまちがっています。

それまでの積み重ねが、ちょうど、つぼみが開花するように
変化として現れるわけです。

ですからそれまでに親(とくに母親)が、どのような接し方
をしてきたか、どのような習慣づけをしてきたかが重要
です。

よく医者の子どもは頭がいいと言われるのは、遺伝的な
要素もありますが、それだけ子どもの環境が、生まれな
がらにして、知的であったからです。

その部分をしっかりと見なければいけません。

私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、
花が散って、とうが立ったような子どもに見えます。

中学生や高校生となると、もうどうしようもない
枯れ草です。ホント!

このあたりの、つまりは幼児教育の重要性が
まだ重要視されていないのが、私には残念でなりません。

何かの参考になれば、うれしいです。

はやし浩司






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●劣等意識

 学校に対する劣等意識が、そのままその子どもの劣等意識に、転化することがある。自ら
に、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 ところで人間の行動を律するものには、大きく分けて、二つある。(1)内的規範と、(2)外的
規範である。

 内的規範というのは、その人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観をいう。

 外的規範というのは、その人の社会的地位や名誉、経歴などをいう。

 こうしたものが、いつも総合的にからみあいながら、その人の行動を律する。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 通りを歩いていたら、車が一台、窓をあけたまま、そこにあった。周囲には人影がまったくな
い。遠くに家があるが、そこにも、人の気配はない。

 車の窓の中を見ると、手さげバッグが無造作においてあり、そのバッグからは、札束の一部
が見えている。窓の中に手をのばせば、容易に、手が届く距離である。

 もしあなたがそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか。「もらっちゃえ」と思っ
て、バッグごと、持ち去る人もいるかもしれない。しかしほとんどの人は、この段階で、自分の
行動にブレーキをかける。そのブレーキをかける力が、ここでいう内部規範と、外部規範という
ことになる。

 「自分に恥じることはしたくない」というのが、内部規範。「私には、私の立場がある。もしバレ
たら、私は名誉のすべて失うから、しない」というのが、外部規範。しかし実際には、外部規範
の力は、それほど、強いものではない。たいていは、「バレたらたいへん……」という程度の力
でしかない。

 ともかくも、ほとんどの人は、そういったお金には、手をつけない。しかし、だ。その内部規範
を、その人の内部から破壊するものがある。

 それが劣等意識である。この劣等意識は、いわば心の中のがん細胞のようなもので、その
人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観を、少しずつ、むしばんでいく。最終的には、心そのもの
を破壊することもある。自暴自棄になり、善悪の判断すら、しなくなる。

 ところがこの劣等意識というのは、そのほとんどは、自分以外の人によって、植えつけられて
いくものである。友人とか、教師とか、あるいは親によるばあいもある。「君は、何をやっても、
ダメな人間だ」と言われることによって、劣等意識をもつようになる。 

 もう少し詳しく説明すると、こうなる。

 劣等意識は、長い時間をかけて、その人の中で、欲求不満として蓄積される。しかしさらにそ
れが慢性的につづくと、その劣等意識は、記憶のすみにおいやられ、人は無意識のうちにも、
自我の崩壊を防ごうとする。

 そこで多くのばあい、人は、その劣等意識を克服するため、つまり自我の崩壊を防ぐため、さ
まざまな行動に出ることが知られている。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 たとえば、勉強面で劣等意識をもった子どもが、スポーツ面でがんばる(=補償)、「勉強なん
て、どうせくだらない」と言って、勉強ができないことを、合理化する(=合理化)、有名人のマネ
をして、自分がその有名人になったような気分になる(=同一視)、空想や非現実的な世界に
いりびたりになり、現実を忘れる(=逃避)、まったく別人となるよう、別人格を自分の中につく
る(=反動形成)などがある。

 しかしこれらも一定の範囲に収まっている間は、問題ない。むしろよい方向に作用することが
多い。

 が、その範囲を超えて、度を越すと、問題行動を起こすようになる。社会的に不適応症状とな
って現れることもある。異常行動となって、犯罪に走るケースも、少なくない。

 つまり、人間がもつ、劣等意識を、決して軽く考えてはいけない。

 そこで最初の話にもどるが、こうした劣等意識は、子どもであればあるほど、鮮明にもちやす
い。そしていくつかの過程を、一足飛びに飛び越えて、問題行動へとつながっていく。

 「ボトム校」の問題と、劣等意識の問題は、こうして密接につながっていく。飛躍した意見に聞
こえるかもしれないが、現在の日本の教育には、こうした問題が隠されている。

 もう少し、かみくだいて説明してみよう。

 たとえば受験競争。勝ち組はともかくも、勝ち組が生まれる一方、当然、そこには負け組み
が生まれる。この負け組みは、毎日の学校生活を通して、「どうせ私は、ダメな人間なのだ」と
いう意識を、無意識のうちにも植えつけられていく。「少しくらいがんばっても、どうにもならな
い」というあきらめも、そこから生まれる。

 つまり日本の教育制度の中では、一部のエリートを生み出す一方、同時に、無気力で、従順
で、もの言わぬ民(たみ)を生み出す。そういうしくみになっている。この後者の子どもたちが、
回りにまわって、勝ち組がリードする社会に対して、ブレーキとして、働くようになる。

 つまり勝ち組のつくりあげる社会を、負け組みがそれを打ち消すことで、相殺してしまう。

 たとえば一方に、東大を出て、上級甲種の国家公務員試験に合格して、警察庁のエリートに
なる子どもがいる。が、もう一方に、受験競争から早い段階で脱落し、働いても働いても、夢も
希望ももてず、その日暮らしの労務者がいる。犯罪を取り締まるのが前者で、犯罪を犯すのが
後者ということになれば、では、そもそも受験競争とは何かということになってしまう。

 少し極端な書き方をしてしまったが、おおまかな図式としては、それほど、まちがってはいな
いと思う。つまりは、教育の世界では、「子どもを伸ばす」ことだけが最優先されるが、しかしそ
れよりも大切なことは、「子どもに劣等意識をもたせないこと」も、重要であるということ。

 そのためには、教育は、多様化されなければならない。自由化されなければならない。学校
以外に道はなく、学校を離れて道はないという世界のほうが、異常なのである。

 たとえば同じ学校にしても、アメリカやオーストラリアでは、学校単位で、自由にカリキュラム
を組むことができる。入学年度すら、自由に設定できる(アメリカの公立小学校)。あるいは生
徒一人ひとりに合わせて、カリキュラムを組むこともできる(オーストラリア・グラマースクー
ル)。

 世界の学校は、すでに、そこまでしている!

 私の過ごした高校が、「ボトム校」と言われるようになって、もう20年になる。M高校と、アル
ファベットで書かねばならないほどである。そうするのは、私が自分の母校を卑下しているから
ではなく、現在、その高校に通っている子どもたちの心にキズをつけないためである。

 しかしバカげている。本当にバカげている。こうした序列ができていること自体、バカげてい
る。

 そこでこれは私からの希望ではあるが、世の中には、反対にエリート校というのもある。そう
いう学校は学校で、どうか、おかしなエリート意識を助長するような活動は、さしひかえてほし
い。

 H市でもナンバーワンの進学校とも言われているSS高校ともなると、部活の総会というだけ
でも、壇上には、OBたちがズラリと顔を並べる。気持ちはよく理解できるが、そういうおかしな
エリート意識が、回りまわって、どこかで、これまたおかしな劣等意識をつくる。そしてそれが、
日本人のみならず、社会のあり方そのものをゆがめてしまう。

 あえて言うなら、外的規範に頼らず、みながみな、内的規範によって、自分を律することがで
きるような、そういう子どもを育てるのが、これからの課題と考えてよい。そのためには、学校
教育はどうあるべきか。それを考えていかないと、日本は、ますます国際社会から、取り残され
てしまうことになる。

 「ボトム校」という言葉から感じたことを、書いてみた。
(はやし浩司 劣等感 劣等意識 防衛機制 補償 合理化)





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●子どもの自己中心性

 子どもは、そもそも自己中心的である。ものごとを、(自分)を中心にして考える。「自分の好
きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。
自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。これを「アニミズム」(ピアジェ)という。
(心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って説明する。)

 しかし年齢とともに、この自己中心性は薄れ、他人の視点から見た自分をとらえることができ
るようになる。いわゆる(自己概念)が、確立してくる。

 その年齢は、ピアジェによれば、9〜10歳以後ということだそうだが、私の経験では、もっと、
早い時期ではないかと思う。個人差もあるが、すでに6歳後半には、この自己概念は、かなり
はっきりしてくる。

 ところで、その自己中心性について、こんな話を聞いた。

 自分のひとり息子に、恋人ができたときのこと。その恋人について、母親が、息子に、「どうし
てあんな女がいいの?」「もっといい女は、いくらでもいるでしょう」と迫ったという。これなども、
自己中心性の表れとみてよい。

 その母親は、自分の視点だけで、息子の好みを誘導しようとしている。

 言いかえると、その人が話す、(好き・嫌い談議)で、その人の人格の完成度を知ることがで
きる。

 どんなことでも自分の好みを、相手に押しつけようとする人は、それだけ人格の完成度の低
い人と見てよい(EQ論)。自分からみて、いい人は、いい人であり、そうでない人は、そうでな
い、と。

A「あの人、かっこいいわね」
B「どこが? ぜんぜん、つまらないわよ」
A「でも、すてきよ」
B「あなた、どんな目をもっているの? あなた、おかしいわよ」と。

 この会話の中のBは、かなり自己中心性の強い人ということになる。
(はやし浩司 自己中心性 ピアジェ 物活論 実念論 人工論 自己概念 アニミズム)


●がんこ、わがまま、強引

 その自己中心性は、年齢とともに薄れるものではあるが、人によっては、姿を変えて、その
人の中に、居座ることがある。

 たとえば、がんこ(他人の話を聞かない)、わがまま(自分勝手)、強引(自分の思いどおりに
する)など。

 こうした性格の人は、それだけ人格の完成度の低い人とみてよい。反対に、人格の完成度
の高い人は、いつも、相手の中に自分の視点をおいて、ものを考えようとする。そういうものの
考え方が、極限にまで昇華された状態を、「愛」といい、「慈悲」という。

 が、この自己中心性は、そうである人には、わからない。自分が自己中心的であることにす
ら、気づかない。むしろ、そういう生きザマを、「個性的」と誤解する。

 この自己中心性は、自分が、その自己中心性から脱却したとき。あるいは、より自己中心的
な人に出会ったとき、その反射的効果として、それを知ることができる。

 そこで重要なことは、まず自分自身の中の、自己中心性に気づくこと。

 できれば、あなたの子どもの精神的な発達度を、観察してみるとよい。子どもというのは、乳
幼児期には、ものの考え方が、自己中心的である。その自己中心性を基本に、「私はどう
か?」と自問してみるのがよい。「私は、どうだったか?」でもよい。

 こうして自分の自己中心性に気づく。

 もう一つの方法は、より自己中心的な人を、観察してみるというのがある。あなたのまわりに
も、いるはずである。そういう人を観察しながら、「では、私はどうか?」と考えてみる。いろいろ
な例がある。

 ある女性(60歳くらい)は、80歳を過ぎた母親の介護をしている。要介護度2の母親だが、
「デイサービスを受けるのはいやだ」と、がんばっている。

 そこでその女性が、母親にこう言ったという。「お母さん、本当に私のことを思っているなら、
どうかデイサービスを受けてください。私も毎日、こうして、お母さんの介護をするのに疲れまし
た」と。

 しかしそれでもその母親は、デイサービスに行かなかったという。行かないばかりか、その女
性に対して、「私は、お前のような親孝行のいい娘をもって幸福だ」「お前は神様みたいだ」と言
っているという。

 その女性はこう言った。「私の母は、自分のことしか考えていないのですね」と。

 もう一つは、こんな例だ。

 ウソのような話だが、実際にあった話である。

 あるときその夫(45歳くらい)が、自分の愛人を自宅へつれてきて、自分の妻にこう叫んだと
いう。

 「今日から、この女も、この家に住むことになった。めんどうをみてやってくれ」と。

 それに妻が猛反発すると、その夫は、さらにこう言ったという。「ここは、オレの家だ。お前が
文句を言う筋あいの話ではない。文句があるなら、この家から出て行け」と。

 まだある。

 息子が30歳そこそこで、家を購入した。その家を見て、その息子の母親は、息子にこう言っ
たという。「親の家を建てなおすのが、先だろ」と。

 こうした自己中心性の強い人はいくらでもいる。そういう人を見ながら、「自分はどうか」と自
問を繰りかえす。そういう形で、自分の中の自己中心性を知る。

 さらに、こんな例がある。ごく最近、私にメールをくれた人である。

 その娘(28歳)が、親の反対を押し切って、駆け落ち同然にして、家を出ることになったとき
のこと。その母親は、その娘に、こう言ったという。

 「親を捨てて、この家を出て行くなら、裸で出て行け。お前の服も、下着も、みんな、私が買っ
てやったものだ。出してやった大学の学費も、全部、返せ!」と。

 自己中心的な人、つまり人格の完成度の低い人は、そういうものの考え方をする。そこであ
なたも、自問してみるとよい。

 あなたは、がんこではないか?
 あなたは、わがままではないか?
 あなたは、強引ではないか、と。

 自己中心性は、あなたがおとなになるために、まずあなたが克服しなければならない問題と
考えてよい。
(はやし浩司 自己中心 自己中心性 ガンコ わがまま 強引)

【付記】

●乳幼児の自己中心性

乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。
(はやし浩司 物活論 実念論 人工論 乳幼児の自己中心性)





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●夢と現実

 タイトルは忘れたが、昔、手塚治虫の描いたコミックに、こんなのがあった。

若い青年が、何かの事故に巻きこまれて、意識不明になる。意識不明になったとき、その青年
は、夢を見て、夢の中の世界に入っていく。そしてその夢の中の世界で、その青年は、今度
は、その世界を現実の世界として、生き始める。

 現実の青年は、貧しい家庭の男。しかし夢の中の青年は、金持ちの家の息子。しばらく夢の
中の世界で、生活をしているうちに、しかし今度は、その世界で、その青年は事故を起こして、
意識不明になる。意識不明になって、また夢を見る。そして夢の世界に入り、現実の世界にも
どる。

 つまり夢の世界が現実となり、その夢の中の世界で夢を見て、夢の中でまた夢の世界、つま
り現実にもどってくる。少しわかりにくい話で恐縮だが、そういうような内容のコミックだった。

こうして夢と現実の世界を行ったりきたりしているうちに、やがて、その青年は、どちらが(現実
の世界)で、どちらが(夢の世界)なのか、わからなくなる。そしてどちらの世界にいる自分が本
物の自分なのかも、わからなくなる。

 金持ちの家の息子になったときは、貧しい家庭の男が、夢の中の自分であり、貧しい家庭の
男になったときには、金持ちの家の息子が、夢の中の自分ということになる。

 が、たがいに引きあうように、その二人の青年が、どこかの街角で、出会うことになる。いくつ
かの偶然が、運命のように重なりあう。そしてとうとうその日は、やってくる。たがいにたがいを
見つめあいながら、「やっぱり、お前は、いたのだな」「お前こそ、いたのだな」と。

 そこで2人の青年は、どちらの自分が本物なのか、それを確かめるために、そこで決着をつ
けることにする……。

 が、ここで、どんでん返しが起きる。実は、その2人の青年には、ともに、1人の共通のガー
ルフレンドがいる。コミックの中では、このガールフレンドとの恋愛が、一つのテーマになってい
る。貧しい青年のほうは、貧しい青年のほうで、金持ちの青年のほうは、金持ちの青年のほう
で、それぞれが、同じガールフレンドと、恋をする。

 で、最後のところで、2人の青年がナイフをもって、決闘する。そしてたがいに刺しあうその瞬
間、そのガールフレンドが2人の間に、割って入る。「やめてエ!」と。しかし、まにあわなかっ
た。そのガールフレンドは、2人の青年に、同時に刺されて死ぬ。

 ……と同時に、2人の青年は、煙のように消える。あとの残ったのは、窓から飛びおりて自殺
した、そのガールフレンドだけ。つまり2人の青年そのものが、そのガールフレンドがつくりあげ
た、幻覚だったというわけである。

 思い出しながら書いたので、内容は、不正確。しかしこのコミックは、どういうわけか、ずっと、
私の記憶の中に残っている。

 ストーリーがおもしろい。ハリウッド映画にしたら、そのまま大ヒットしそうな内容である。が、
それだけではない。そのコミックを思い出すたびに、夢と現実は、どこがちがうのかと、よく考え
させられる。

 夢と現実。

 過去というのは、どこにも、存在しない。しかし私たちがしてきたことは、記憶として、脳ミソの
中に残る。あくまでも、記憶として、だ。脳ミソのどこかに、電気的信号として、残る。

 一方、その脳ミソは、勝手に動いて、私たちに夢を見せる。しかしそれとて、脳ミソの遊びの
ようなもの。電気的信号が、脳ミソのあちこちを、勝手に飛びまわっているだけ。原理的には、
記憶も、夢も、同じ。それがわからなければ、昨日の思い出と、少し前に見た夢を比較してみ
るとよい。

 脳ミソの中では、区別がつかないはずである。どちらも、ぼんやりとしている。頭の中におぼ
ろげな映像が浮かぶ。が、そこまで。実体はない。

 少し話は変わるが、私は若いころ、こう思った。そのころの私は、メチャメチャに、忙しかっ
た。そんなある日のことだった。

 「私は、50歳まで働いて、それからは、遊んで暮らす」と。こうも考えた。「50歳まで生きられ
れば、じゅうぶん。50歳をすぎたら、人生も残り火のようなもの。それからの人生には意味は
ない」と。

 しかしそれはまちがっていた。青い空も、緑の野原も、若いころのまま。時は今は、春だが、
その春の陽気も、若いときのまま。私は相変わらずここにいて、同じように生きている。

 恐らく……というより、まちがいなく、この状態は、私が80歳になっても、また90歳になって
も、同じだろう。

 志村武氏の書いた「釈迦の遺言」(三笠書房)の中に、こんな話が載っている。

++++++++++++++

 104歳の国文学者、物集高量(もずめ・たかかず)が、102歳の正則学院校長だった今岡
信一氏に、「あなた、長生きしたと思う……?」と聞くと、今岡氏は、「思わないですねえ」と答
え、物集氏のほうも、「私も思わない」と語っている。

 この2人によって実証されているごとく、人間は「たとえ100歳をこえてまで生きえたとして
も」、当人の実感としては、「人の世間に生まれ、白駒(はっく)の隙(げき)を過ぐるが如きの
み」(人生というものは、馬が走りすぎていくのを、もののすき間から、チラッと見るくらいに、短
くはかないものである)(「漢書」)。

+++++++++++++++

 この文章を読んでいると、現実もまた、夢の如きということになる。事実、過去に追いやられ
た記憶というのは、夢そのもの。もし人に過去というものがあるとするなら、その過去は、夢の
中で過ぎた、一瞬にすぎないということになる。

 が、現実が「主」で、夢が「副」というわけではない。ときに、「夢」が、「現実」を支配することも
ある。

 いつだったか、ある盲目の人が、私にこう話してくれたのを覚えている。「私にとっては、眠っ
てから見る夢の世界のほうが、現実です」と。「夢の中では、ふつうの人のように、ものを見るこ
とができるからです」と。

 反対に、夢の中で、過去に死に別れたボーイフレンドと会っているという話もあった。映画『タ
イタニック』(J・キャメロン監督)のテーマ音楽に合わせて、セリーヌ・ディオンは、切なくも、こう
歌う。

 「♪毎晩、夢の中で、私はあなたに会う。あなたを感ずる。そうしてあなたを思いつづけるの
よ……」(Every night in my dream I see you, I feel you,That is how I know you go on.)

 夢と現実。今は、その間には、明確な境界がある。しかしいつか、私も、その夢の中で生きる
ようになるかもしれない。そして自分の過去を振りかえりながら、「夢のようだった」と言うように
なるかもしれない。

 いや、かく言う私も、実は、その半分を、夢の中で生きているようなもの。現実の私は、みす
ぼらしい、ただの初老男。しかし夢の中では、気高い文筆家。現実の私は、だれにも相手にさ
れない、平凡なブ男。しかし夢の中では、日本の外交をとりしきり、世界の平和をコントロール
する、偉大な政治家。

 手塚治虫の描いたコミックの主人公のように、本当のところ、どちらが(現実の自分)で、どち
らが(夢の自分)なのか、わからなくなる。本当の自分は、ひょっとしたら、すべてのわずらわし
さから解放され、どこか、南の島に逃げたいのかもしれない。が、その一方で、夢の中の自分
が、いつか現実の自分になることを願っている。

 私に神のような力があるなら、いますぐ、世界中の、あらゆる武器という武器を、灰にしてみ
せる、とか。

 ……と書いたところで、ワイフが、今、台所から、こう呼んだ。「あなた、ご飯、食べるウ?」
と。

 こうして私の一日が、始まる。「現実」という一日である。やはり、こちらのほうが、現実なの
だ。私はただの夢想家。気高い文筆家でも、また偉大な政治家でもない。ただの落ちぶれた
初老のブ男。

 では、このつづきは、またあとで……。みなさん、おはようございます。
(050406)






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●7つの大罪

 キリスト教では、つぎの7つの大罪を定めている。

(1)高慢(pride)
(2)強欲(convetousness)
(3)淫乱(lust)
(4)怒り(anger)
(5)貪欲(gluttony)
(6)ねたみ(envy)
(7)怠惰(sloth)

 中世のカトリック教会が定めたことで、イエス・キリスト自身が言ったことではない。こうした教
条的なものの書き方は、後世の学者が好んでしたもの。

 「教条」というのは、信者にものを教えるとき、その内容を、このように箇条書きにしたものを
いう。これが、さらにのちになって、たとえばマルクス主義などでは、定められた教条を絶対的
なものとして、機械的に信奉するようになった。ついでながら、こうした排他的なものの考え方
を、教条主義という。

 そこで、7つの大罪を考えてみる。一読してわかるように、私もあなたも(失礼!)、まさに大
罪のかたまり。実行不可能というか、これを守れるような人は、聖職者だけということになる。

 ところが、である。今朝、とんでもないニュースが飛びこんできた。何でも東京、山形、大阪、
岡山など12都府県に支部までもつ、キリスト教系宗教法人の創設者でもある牧師が、複数の
信者少女に性的乱暴をしたとかで、告訴されたというのだ(4月6日)。

 S神C教会のNG(61歳)というのが、その男。ヤフー・ニュースですら、「宗教団体のトップ
が、未成年の信者への性的暴力で逮捕されるのは極めて異例」とコメントを書いている。

 こういう事件に遭遇すると、信者の考え方は、まっ二つに分かれる。(1)そのまま信仰から遠
ざかる人。(2)「ありえない」「まちがい」と、事実を否定し、それでも牧師についていく人。

 実際には、後者の例が多い。「私たちが信じているのは、牧師ではなく、神だから」と。

 もしこの段階で、牧師を否定してしまうと、それまでの自分の人生は何だったのかということ
になってしまう。つまり自己否定に追いこまれる。

 だからそれこそ、死んでも、殺されても、その信仰に追従するしかない。加えて、こういうケー
スでは、信者の脳ミソはからっぽとみてよい。一応、思想らしきものはあるは、大部分は、「上」
から注入されたもの。自分で考え、自分でつかんだ思想ではない。

 それに信仰から離れたら、信者の心は、それこそ糸が切れた凧(たこ)のようになってしまう。
実際には、極度の精神不安状態となる。私は、そういう信者や元信者を、何十人とみてきた。

 このニュースを受けて、恐らくその全国の支部では、緊急集会が開かれているにちがいな
い。

 「何かのまちがいです」
 「ありえないことです」
 「警察の陰謀です」
 「女の子たちの虚言です」
 「私たちが信じているのは、神です!」と。

 多分、そんな説法が、ガヤガヤとなされているにちがいない。

 だからといって、その教団がまちがっているとか、信者がおかしいと言っているのではない。
こういうケースは、日本では珍しいが、外国では、頻繁(ひんぱん)に起きている。

 たとえば心理学の世界には、「反動形成」という言葉がある。「そうであってはいけない」という
自分を無理に自分の中で、つくりあげてしまい、本来の自分とはまったく別の自分をつくりあげ
てしまうことをいう。そしてたとえばセックスの話などになったりすると、ことさら、マユをしかめて
見せたり、「私はそういうことには興味がありません」などといったことを、言う。

 が、その裏で、少年や少女に、性的な暴力やいたずらを繰りかえす……。

 まあ、この牧師は、神を、金もうけの道具に使っただけ、ということになる。反動形成というの
は、わかりやすく言えば、「仮面」。まだ有罪が決まったわけではないので、今の段階ではここ
までしか書けないが、しかし……その牧師は、仮面をかぶっていた……。

 実におそまつな事件である。この牧師は、信者の心をもてあそんだということになる。が、そ
れほど、恐ろしい大罪はない。

 私なら、7つの大罪に、もう一つ、大罪を加える。そしてそれを筆頭に置く。

(1)宗教を利用して、他人の心をもてあそぶこと。

 あとの大罪は、まあ、大罪は大罪だが、この大罪にくらべたら、かわいいものだ。






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【特集・子どもの巣立ち】

●家出をした高校生

 「親子関係は、完全に破壊されました」(相談者)というメールをもらった。そのため、高校1年
生の息子は、家出。

 たまたま家に置き忘れていった携帯電話を頼りに、息子の友人たちに電話をかけて、息子を
さがしまわる。みな、「知らない」と言っていたが、一人だけ、「連絡してみる」と。

 やがて息子から電話。「もうすぐ帰る」と。一安心したものの、その日のその時刻になっても、
息子は帰らず。心配は、つのるばかり。「どうしたらいいか?」と。

++++++++++++++++++

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものばかりとはかぎらない。たがいにののしりあいなが
ら、別れていく親子も、珍しくない。

 しかしこういうケースでは、親が、何とかしようとあせればあせるほど、逆効果。子どもは、そ
ういう(親の干渉)から、逃れたいのだ。

 それにもう一つ。家出を、三番底、四番底とするなら、さらに五番底がある。六番底もある。

 実際、S市であった話をしよう。

 両親は、その市でも、職業を言ったらその人とわかるほどの名士。その両親の1人娘が、小
学6年生のころから、外泊をするようになった。その前に、門限に遅れてきた娘を、両親が、は
げしく叱っている。

 で、あとはお決まりの非行コース。携帯電話で出会い系サイトに片っ端から電話を入れ、男
遊びをするようになった。もちろん、学校へは行かなくなった。

 両親は、娘をそのつどさがして、家に連れ帰り、はげしく説教。しかし効果はなかった。やっと
学校へ行かせても、その帰りには、もう行方不明。担任の教師と、徹夜でさがしまわる日がつ
づいた。

 何とか(?)小学校を卒業したものの、中学へ入ってからも、ほとんど、学校には行かなかっ
た。父親も、母親も、自分の仕事を優先した。つまりそれほどまでに、重い責任のある仕事をし
ていた。

 娘は、両親が家にいないことをよいことに、さらに外泊を重ねた。

 が、中学2年になった春、娘が、体の不調を訴えた。最初は、軽い風邪と思っていたが、症状
が、長くつづいた。近くの医院から、大病院へ移され、そこで精密検査。その結果、HIVに感染
していることがわかった。

 娘は、夏休みの間、ちょうど、1か月間、入院した。症状は収まったが、しかしその病気は、
治る病気ではない。

 が、そのあと、さらに大きな問題が起きた。その娘が、ことの重大さを認識できないまま、親
友(?)に、「私、エイズよ」としゃべってしまった。

 あとは、大騒動。その話は、数日のうちに、全校生徒の親が知るところになってしまった。「あ
なただいじょうぶ?」「うちの子だいじょうぶ?」と。

 その娘は、かなり多くの、不特定多数の男性、男子と遊んでいた。それでそうなった。男子ば
かりではない。女子生徒の親も、騒いだ。「トイレでうつったかもしれない」と。二次感染、三次
感染の可能性もある。

 私の聞き取り調査によっても、このH市内ですら、3〜4%の女子中学生が、性体験をしてい
ることがわかっている。しかしHIVに感染したという例は、少ない。

 その女の子は、今度は、学校へ行きたくても行けなくなってしまった。

 今、時代は、ここまできている。多くの親は、「うちの子にかぎって……」「まさか……」と考え
ている。しかしそう考えるのは、甘い。

++++++++++++++++++++

 ショッキングな話を書いたが、子どもの非行は、ある日、突然、始まる。そして一度始まると、
あとは、あっという間に、底なしの悪循環。二番底から三番底へと進んでいく。

 親は、そのときのその状態を最悪と思うかもしれないが、しかしその下には、まだつぎの底が
あるということ。

 だから子どもの非行を、どこかで感じたら、親は、手を引く。そして「今の状態を、それ以上悪
くしないこと」だけを考えて、様子を見る。具体的には、暖かく無視し、ほどよい親であることに
努める。

 説教しても意味はない。叱り方にもいろいろあるが、叱れば叱るほど、逆効果。(門限破り)
→(外泊)→(家出)と進んでいく。

 相談者のメールによれば、こうある。

 「息子が出て行くとき、学校に退学届けを出し、就職先も見つけてからにしなさい。それなら
出て行ってもいいと言いました」と。

 しかしこれほど、子どもに酷な話はない。高校に自分で退学届けを出せはないし、就職先に
ついても、そうだ。これは、子どもにしてみれば、「二度と帰ってくるな」と言うに等しい。

 つまり親は、親意識で、子どもをしばっているだけ。自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。無理難題をふっかけて、子どもの家出を阻止しようとしたのだろう。その気持ちはわ
かる。

 では、どうするか?

 相談者は、今も、息子をさがしまわっているという。そしてメールには、こうあった。「いった
い、親って、何ですか」と。

++++++++++++++++++

 私は、「親意識」について、何度も書いてきた。その親意識には、善玉と悪玉がある。「親らし
く、堂々と責任をとろう」という意識を、善玉親意識という。一方、「親に向かって、何よ」と、親風
を吹かす意識を、悪玉親意識という。

 とても残念なことだが、その相談者は、後者の悪玉親意識が強いように感ずる。恐らく、……
というより、まちがいなく、その母親自身も、かなり県移住義的な家庭環境の中で、生まれ育っ
ているにちがいない。

 その悪玉親意識が強ければ強いほど、子どもにとっては、家庭は息苦しい家庭環境となる。
果たして、それを、その母親は、理解していたか。わかっていたか。もっと言えば、子どもの立
場で、子どもの苦しみや悲しみを、理解していたか。

 「携帯電話の請求書だけでも、5万円もありました」とあり、「自己管理能力がまったくありま
せん」と結んであった。

 しかし、本当に、そうだろうか。

 子ども自身が、自暴自棄的になるように、子どもを追いつめていたのではないだろうか。生活
習慣が乱れてくると、約束や目標を守れないという初期症状につづいて、生活態度そのもの
が、だらしなくなる。

 しかしそれは子ども自身の自己管理能力というよりは、いわば心の病気によるものと考え
る。過食症や拒食症と同じように、携帯電話依存症になったことも考えられる。そういう症状が
あったからといって、「自己管理能力がない」と決めつけてはいけない。

 かなりきびしいことを書いているが、母親自身が、かなり自己中心的な子育て観をもっている
のがわかる。その自己中心性がなくならないかぎり、子どもは家には帰ってこないし、また帰っ
てきても、すぐ家を出て行く。私だって、そんな(うるさい家庭)には、一日だって、いないだろ
う。

+++++++++++++++++

 では、どうするか?

 今の状況では、母親にさがしまわされること自体、苦痛であるにちがいない。私には、「もう、
放っておいてよ」と叫んでいる、子どもの声が聞こえるような気がする。

 そこで大切なことは、まず、あきらめること。現状を受けいれること。「今」の状態が現実と考
え、ジタバタしないこと。メールでは、「捜索願いを警察に出そうかと考えている」ということだ
が、事件性が感じられないなら、これもかえって逆効果。

 高校1年生といえば、親が考えているより、子どもは、はるかにおとなである。その(おとなで
ある)部分を、親がもっと、信じなければいけない。たぶん、この母親は、その子どもが乳幼児
のときから、心配先行、過干渉気味の子育てをしてきたにちがいない。もっと言えば、自分の
子どもを、まるで信じていない。あるいは自分自身も、あまり恵まれない家庭環境に育った可
能性もある。とくにその母親と母親の父親(子どもの祖父)との関係が悪かったことが疑われ
る。

 それにもう一つ気になるのは、メールの中に、父親の存在感があまり感じられないこと。それ
はともかくとして、「親として、ここで折れると、また同じことの繰りかえしになると……」と、がん
ばっている点が、たいへん気になる。

 どうして折れてはだめなのか? そう、がんばらないで、折れればよい。すなおに折れる。折
れれば、気も楽になる。

 電話がかかってきたら、すなおに自分の心を表現すればよい。「お願いだから、帰ってきてく
ださい。もう何も言いませんから」「あなたがいなくて、お母さんは、さみしいです」と。泣きたけ
れば、泣けばよい。どうしてそんなふうに、無理にがんばるのか。

 母親自身が、自己開示(心の解放)をしていない。ならば、どうして、子どもにそれができるの
か? 親としての気負いが強すぎる。私は、そう感ずる。

 ときにはバカな親になる。バカな親のフリをして、子どもの自立をうながす。それも、子育てで
は、重要な技術の一つと考える。「親だから……」「子どもだから……」という、『ダカラ論』にし
ばられてはいけない。

 親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩
く。そしてもう一つは、友として、子どもの横を歩く、だ。

 その母親も、勇気を出して、子どもの横を歩いてみるとよい。勇気を出して、だ。悪玉親意識
など、今、すぐ、捨てたらよい。

 そして子どもが家に帰ってきたら、暖かい無視にこころがける。相手が求めてくるまで、無
視。しかし何かを求めてきたら、それにはていねいに応じてやる。あとは、ほどよい親に努め
る。

 高校はそのまま中退することになるかもしれない。しかし心配は、無用。家出をするほどバイ
タリティのある子どもは、そういう逆境を、かえってバネとして、たくましくなっていく。

 非行をすすめるわけではないが、そうしたサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、
あとあと常識豊かなおとなになることが知られている。

 そういうふうに前向きに考えたらよい。

 子どもは、小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。
「私はいい親子関係にいる」という幻想にしがみついたまま、それに気づかない。

 この日本では、親が子離れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてから。その
相談者も、決して、好ましい方法ではないかもしれないが、今、子離れをし始めている。

 大切なことは、子どもも高校生なのだから、子離れをしっかりとして、母親は母親として、つま
り1人の人間として、自分の人生を生きることを考えること。こんな問題で、心をわずらわせて
はいけない。

 はっきり言おう。

 相談者の子どものほうが、私には、相談者より、おとなに見える。だから相談者の方は、何
かと心配かもしれないが、今は、高校1年生の息子を信ずるしかない。

 おういう話は、必ず、笑い話になる。この種の家出は、まさに日常茶飯事。「うちの子だけが
……」と思いこんではいけない。さらにそれから被害妄想をふくらませてはいけない。今、あな
たの子どもは、あなたから巣立ちをしようとしている。

 私の好きなエッセーを最後に、ここに添付します。

++++++++++++++++++++++++

●親離れ、子離れ

 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づ
かないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。

つまり子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。あの芥川龍之介も、「人生の悲劇の第
一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言葉)と書いている。

 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っていた
母親がいた。娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた
父親もいた。自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、
やるんじゃなかった」とこぼしていた父親もいた。

あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られな
がら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。しかし親子
の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本の糸に、親子の希望を託
す。

しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。親は「親らしくしたい」という気持ち
と、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。これは親にとっては、身をひきちぎ
られるようなものだ。ある父親はこう言った。

「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思い
と、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。

もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめ
な親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一枚ま
ではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。し
かしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。

大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きず
って歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。しかしそれとても
とをただせば、子離れできない親に、問題がある。

あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。

タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親
は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポ
の種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。しかし母親
はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできることがどうしてで
きないの」と。

子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあなた
自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。たとえあ
なたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それに耐える
しかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、それこそ
まさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。
(はやし浩司 子どもの家出 子供の家出 家出)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男
は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年の
ときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのとき
も、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

++++++++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感
謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の
言葉で救われた。

そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみる
と、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではない
ですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。





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●業(ごう)

 仏教の世界には、「業(ごう)」という言葉がある。「悪業」「善業」というような使い方をする。

 この「業」について、私のような凡人が、軽々しく論ずることは、許されない。この一語につい
てだけでも、仏教学者たちは本を書くほどである。

 業……「広辞苑」には、こうある。「行為。行動。心や言語の働きを含める。善悪の業は、因
果の道理によって、のちに必ずその結果を産むというのが、仏教および、多くのインドの宗教
の説」と。

 ついでに、「日本語大辞典」のほうでは、こうなっている。「仏教で、身・口・意(しん・く・い)(身
体・言葉・心)によって成す善悪の行為。カルマ。のちの世にある結果をもたらす前世の行為」
と。

 それを「業」と言ってよいのかどうかは知らないが、最近になって、私は、その「業」らしきもの
を、よく感ずる。

 まず生命そのものが、大きな流れの中で、つながっている。それは大海原(うなばら)のうね
りのようなもの。もしその中に「私」がいるとするなら、そのうねりの中でざわめく、小波(さざな
み)程度のもの。

 いくら「私は私だ」と叫んでも、髪の毛1本、私が設計したわけではない。その大海原は、数十
万年という、気が遠くなるほどの昔からつづいているし、私が死んだあとも、何ごともなかった
かのように、さらに永遠につづいていく。

 が、その中で、私は懸命に生きている。その懸命に生きるという行為そのものが、私の前の
時代に生きた人から、そしてつぎの時代に生きる人に対して、何かの橋渡しをすることにすぎ
ない。私は、それが「業」ではないかと思う。

 仏教学者の人が、この解釈を読んだら、吹きだして笑うかもしれない。

 しかし私は残念ながら、「生命」の永遠性は認めても、「個」の永遠性は認めない。私個人に
ついて言えば、私に、前世などあるはずもないし、来世などあるはずもない。「私」が死ねば、
私もろとも、この大宇宙すら、消えてなくなる。

 しかしここで私が、何かの「善」をなしておけば、その善は、つぎの世代に伝えることができ
る。もちろん「悪」をなせば、その悪も、何らかの形で、つぎの世代に残ることになる。

 親子関係というせまい範囲の話ではない。人間全体という、もっと広い世界の話である。

 つまり「私」自身が、前の世代の人たちのなした、「悪業」や「善業」を、そのままひきついでい
ることになる。私の中には、私であって私である部分と、私であって私でない部分が、広く混在
している。

 その(私であって私でない部分)こそが、まさに、「業」のなさせるわざということになる。たとえ
て言うなら、今、韓国や中国では、反日運動が燃えさかっている。彼らが反日的であるというの
は、よくわかる。

 しかし戦後の生まれの私が、どうしてそういう反日運動を見ながら、不愉快な思いをしなけれ
ばならないのか。本来なら「私は関係ない」と逃げることだって、できるはず。が、彼らは、戦前
の植民地時代をむしかえしながら、日本を非難する。攻撃する。

 それも考えてみれば、先に述べた、「大海原のうねり」のようなものかもしれない。私を超えた
ところで、人間社会全体が、その「うねり」の中にある。

 そこで仏教ではさらに、「因果を断つ」という言葉を使う。

 そのうねりの中に、つぎの世代に伝えてはならないものを感じたら、その段階で、その流れ
を、断っておく。反日感情についていうなら、もう私たちの時代でたくさん。うんざり。だから、
今、それを解決しておく。

 先のアジアカップ杯のときもそうだ(04年)。決勝戦は、中国の北京で行われた。中国人側サ
ポーターたちは、「(日本人を)殺せ!」「殺せ!」と叫んでいた。

 しかしそのサッカーをしている選手たちは、私よりさらに戦争とは無縁の、私たちのつぎの世
代の人たちである。私は、その光景を見ながら、何とも、申し訳ない気持ちにすらなった。

 そう言えば、話は少しそれるが、私の恩師にTK氏という人がいる。もうすぐ90歳になる人だ
が、ごく最近まで、内科医をしていた。そのTK氏に、私が、こんな話をしたことがある。

 「香港や台湾へ行っても、日本人だとわかると、高額な値段を吹っかけてきます。それで私は
英語だけをしゃべり、ハワイ人だと言います。すると、値段が、すべて半額程度になります」と。

 その話を聞いて、TK氏は、こう言った。「みんな、私たちが悪いのです。そういう話を聞くと、
戦争を遂行した私たちとしては、申し訳ない気持ちになります」と。

 そういう人もいる。が、その一方で、「Y神社を参拝しないような政治家は、政治家としての資
格はない」などと、どこまでも時代錯誤的な、はっきり言えば、ノーブレインな政治家もいること
も、これまた事実。仏教的な「業」の知識が少しでもあれば、絶対に出てこない言葉である。

 で、話をもどす。

 この「業」だが、大切なことは、善業を重ねるということ。しかも「私」という世界を超えて、それ
をするということ。

 人が見ているとか、見ていないとか、そういうことは、関係ない。人に認められるとか、認めら
れないとか、そういうこととも関係ない。善業を重ねたところで、社会的に成功者になるとはか
ぎらない。「業」というのは、そういう意味で、「私」をはるかに超えている。もっと言えば、人間全
体の問題ということになる。

 何ともむずかしい話になってしまった。が、簡単に言えば、私たちは懸命に生きながらも、そ
の生きるという行為を、私だけのもので終わらせてはいけないということ。心のどこかで、人間
全体のことも考えながら、生きなければならないということ。

 それが「業」ということになる。
(はやし浩司 業 善業 悪業 カルマ 因果応報)

【付記】

 善人が必ずしも、成功するわけではない。同じように、成功している人の中には、結構、悪人
も多い。むしろ現実の世界では、反対のケースが、多い。

 まじめに、コツコツと生きている人が損をし、貧しい生活をしている。その一方で、悪いことを
し放題している人が、豪勢で、よい生活をしている。「いつか、いいこともあるだろう……」と信じ
て生きる人ほど、その結果が現れてこない。「いつか、バチが当たるぞ……」と思う人ほど、ス
イスイと、楽な生活をしている。

 こういう現象だけをとらえて、「業」を考えてはいけない。

 「業」というのは、個人を超えた、はるかに大きな生命の(うねり)のようなものをいう。個人と
いうのは、そのうねりの上ではじける、波のアワのようなもの。小さなアワだけを見て、うねりの
価値を決めてはいけない。

 中には、「私」という個人を超えて、大きなうねりのために生きている人だって、いる。貧しい
生活をし、有名でもなく、損ばかりしていても、人類全体、生命全体のことを考えて、生きている
人もいる。

 それを善業と呼び。そういう人こそ、善人と呼ぶにふさわしい。

 善業、悪業を考えるときは、そんなことも、頭のすみに置いておくとよいのでは……。






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●思考力

●気になる話

 TK氏のHPに、こんな記事が載っていた。たいへん気になる記事なので、そのまま抜粋、引
用させてもらう。

++++++++++++++++++++++++

 東大気候システム研究センターと国立環境研究所などの合同チームが予測すると、世界が
年3%の高成長を2100年まで続け、二酸化炭素の濃度が現在のほぼ2倍になれば、世界の平
均気温は4度上昇する。そのときに日本でも真夏日が約120日になり、夏の気温は亜熱帯に
近づくという。

 大気の温度が上昇すると海面などからの蒸発速度はそれだけ増加し、その蒸発した水蒸気
が違うところで凝縮する結果として、熱の不均衡が顕著になり、台風や
竜巻などの自然災害が増す可能性があることは前からも言われていた。

 世界はいま1秒間に石油や石炭の化石燃料を255トン燃やして、762トンの二酸化炭素を吐き
出している。今では世界の20%の豊かな人たちが80%の自然資源を消費している。未だ豊か
さを手にしていない途上国は、成長する権利を主張するのは自然の勢いである。

最近でも隣の中国が巨大市場になって来つつある。従って「途上国の成長と先進国の生活水
準の向上を両立するには、文字通り大変なことである。今のままでは地球の資源はいずれ足
りなくなることは明らかである。(TK氏のHP「さらば消費社会?」より)

+++++++++++++++++++++++++

 要するに、このままでは、地球温暖化は、ますます進むということ。そしてこの日本でも、やが
てすぐ(2100年)には、真夏日が、120日もつづくことになるという。

 120日といえば、4か月!

 気象庁では、気温が25℃以上の日を、「夏日」、30℃以上の日を「真夏日」としている。さら
に、35℃以上の日を、「超真夏日」という人もいる。

 ちなみに、1961〜70年までの、超真夏日の日…… 41日、
      1995〜04年までの、超真夏日の日……143日となっている。

 が、最大の問題は、2100年で、気温の上昇が、止まるわけではないということ。仮にその時
点で、世界中の人が、いっせいに、化石燃料(石油、石炭、天然ガス)などの使用をやめたとし
ても、気温は、そのまま上昇しつづける。

 さあ、どうするか? 地球は、やはり、火星のようになってしまうのか?

 が、実は、その地球温暖化よりこわいのは、こうした絶望的な未来を前にして、自暴自棄に
なる人が、出てくること。そういう人たちを中心に、人間の精神そのものが荒廃するということ。
そのときどんな地獄絵図が展開されることやら? それを思うと、心底、ぞっとする。

 人類は、静かに滅亡するや否や?
 人類は、そのあと、何らかの救済策をさがしだすや否や?

 TK氏は、光触媒の未来に、大きな望みと期待を寄せている。水を触媒により分解して、酸素
と水素を取り出すことができたら、地球温暖化の問題は、一挙に解決する、と。事実、この分
野の研究は、現在、めざましい発展をとげている。

 さらに地球温暖化に、世界の科学者たちが、手をこまねいているわけではない。これは昔、
ある本で読んだことだが、地球そのものを冷やす方法も考えられている。地球の周辺に亜硫
酸ガスを散布して、地球全体に、傘(かさ)をかけるという方法もあるそうだ。

 だから希望をなくしてはいけない。……というより、地球温暖化は、もう既定の事実なのだか
ら、それなりの対策は、私たち1人ひとりが、始めたほうがよい。今年の夏も暑くなりそうだが、
「暑くなったら、クーラーをかければよい」という発想では、人類は、生きのびることはできない。

 私個人について言えば、できるだけ歩く、できるだけ自転車に乗るという方法のほか、暑さに
強い体力づくりに心がけている。昨年(04年)の暑さには、本当に参った。毎朝、起きあがるだ
けで、精一杯。今年は去年のような、あんなみじめな思いはしたくない。準備をするなら、今の
うちから……と思っている。

 今年の冬は、薄着で通した。身を切るような冷気の中でも、運動をした。地球温暖化は、決し
て、どこか遠くの世界の問題ではない。私たち一人ひとりの問題ということになる。
(はやし浩司 地球温暖化 真夏日)

【TK氏より】

+++++++++++++++++++

亜硫酸ガスを、大気圏外の宇宙にまくという意見に
対して、TK氏から、つぎのようなご教示を、
もらった。それを紹介します。

+++++++++++++++++++

林様

  この文はチョット待ってください。 亜硫酸ガスなど充満させたら人類は滅 
亡です。 三宅島でも分かるでしょ。 気体は容易く拡散しますから。 核融合が無 
公害の将来のエネルギー源と言って努力している人もいます。 植物が人類が消費し 
ているエネルギーの、確か2倍の炭酸ガスを、太陽エネルギーを使って固定しています。  
太陽エネルギーや核融合を使えば、エネルギーの方はどうにかなりますが、物質の方 
がどこから獲るかが問題の一つです。 植物のように空気中の微量の炭酸ガスを効率 
よく有用物質に変える

化学反応(もちろんエネルギーを使って)が、これからの深刻な要求になるでしょう。
やはり人類の生き残りには科学が必要です。 知恵を働かせればどうにかなりますよ。

※TK氏……国際触媒学会前会長


●思考停止

 多くの科学者や教育者たちが、今、口をそろえて、こんなことを言っている。「最近の日本の
若者たちは、思考が停止の状態にある」と。

 ……こう書くと、若者たちは、反発するかもしれない。「何をバカなことを!」と。しかしそう怒る
前に、まず私の意見を聞いてほしい。

 「情報」と、「思考」は、まったく別のもの。情報というのは、モノを知っていることをいう。思考と
いうのは、自分で考えることをいう。多くの若者たちは、モノを知っていることを、「知識」、その
知識の多い人を、「頭のいい人」と、誤解している。

 しかしモノをよく知っているから、頭のいい人とは、言わない。いわんや、「賢い人」とは言わな
い。

 さらに最近は、多分にバラエティ番組の影響だろうと思うが、とんちパズル的な問題を、スラ
スラと解ける人を、頭のいい人と考える傾向が強くなってきている。

 「S−M−T−W−T−Fのつぎは何?」と。
 「O−T−T−F−F−Sのつぎは何?」でもよい。

 答は、「S」と「S」である。「Saturday」の「S」と、「Seven」の「S」である。(1問目は、曜日の
頭文字。1問目は、one,two,threeの頭文字。

 これも一見、思考と関係があるように見える。しかし実際には、頭の中にある情報を、あちこ
ちさがしまわりながら、その問題にあう答をさがしているにすぎない。あえて言うなら、これは思
考の柔軟さの問題ということになるが、それ以上の意味はない。

 「思考」には、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い日に、ジョギングに出
かけるようなもの。たいていの人は、無意識のうちにも、思考することを避けようとする。できる
なら、モノを考えないで、すませようとする。

 よい例が、カルト教団の信者たちである。彼らは、教団に対して、徹底した隷属を誓うことで、
思想を脳に注入してもらう。その結果、自分で思考することを放棄する。それは実に甘美な世
界である。思考することから解放されるというのは、それ自体、ある種の心地よさをともなう。気
も楽になる。

 そのためだろうと思うが、カルト教団では、信者どうしが、実に仲がよい。ときには、他人どう
しが、兄弟以上の兄弟、親子以上の親子になることもある。その居心地のよさが、カルトの魅
力ということになるが、しかし、頭の中は、カラッポ。

 わかりやすい例として、こんなのがある。ある子ども(年長児)が、「どうしてお月様は落ちてこ
ないの?」と聞いたとき、母親は、こう答えた。

母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、お星様は、光るの?」
母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、朝になると、お日様が出てくるの?」
母「神様が、そうしたからよ」と。

 母親の言っていることは、一見、答になっているようで、その実、まったく答になっていない。
もちろん、現実のカルト教団では、こんな単純な教え方はしない。しかしよくよく彼らの聞いてい
ると、それほどちがわないことがわかる。そしてふつうなら、つまりふつうの常識を働かせば、
「そんなバカな!」と思うようなことまで、信じてしまう。そんなケースを、私は、たくさん、知って
いる。

 では「思考」とは何か。それについては、反対に、「思考をしない人」を見ればわかる。

 それが最近の若者たちである。

 携帯電話を片時も話さず、ただひたすらメールを打ちこんでいる。「今、どこ?」「渋谷」「混ん
でる?」「まあまあね」「来る?」「3時すぎならね」「じゃあ、3時30分」「どこで?」「○○の前、ど
う?」「いいわ」と。

 こういうやりとりを、一日中、している。しかしこれは、脳に飛来する情報を、そのつど交換し
ているだけ。思考ではない。論理的な積み重ねが、まったく、ない。ないから、思考ではない。

 英語では、こういうとき、「ロジカル」という言葉を使う。日本語に訳すと、ズバリ「論理的」とな
るが、彼らがロジカルというときは、そこに「合理的」というニュアンスをこめる。「ものの道理に
かなった」という意味である。いくら論理的でも、ものの道理からはずれていたら、ロジカルとは
言わない。

 つまり思考するということは、どんなことでもよいから、思想と言えるものを、体系的にまとめ
あげていくことをいう。そしてその思想に基づいて、一貫とした、自分の意見や考えを、もつこと
をいう。
 
 テーマは無数にある。

 政治論、美術論、文学論、人生論など。しかしここで一つ注意しなければならないのは、たと
えば料理論というものを考えたとき、(料理のし方)と、(料理論)は、もともと異質のものである
ということ。

 料理のし方を知っているからといって、料理論をもっているということにはならない。同じよう
に、草花を育てるということと、自分なりの自然論をもつことは、別の次元の話ということにな
る。

 つまり最近の若者は、こうした「論」にあえて背を向け、そのため、結果として、思考停止の状
態にある、と。

 ……といっても、その状態にある若者が、自分のそういう状態に気づくということは、まず、な
い。これは脳のCPU(中央演算装置)の問題だからである。その若者が、より深く、自分で考え
るようになって、それまでの自分が、(考えなかった人間)であることに気づく。そしてそれを繰り
かえすうちに、その若者の思想はさらに深くなり、それまでの自分が、思考停止の状態であっ
たことを知る。

 で、こうした思考力というのは、年齢には関係ない。50歳になったから、思考が深くなると
か、中学生だから、思考力が浅いということにはならない。50歳をすぎても、思考停止の状態
にある人はいくらでもいる。反対に、小学生でも、ていねいに観察すると、自分で考える力を身
につけている子どももいる。

 そこで重要なことは、かなり早い時期に、子どもに、その方向性をもたせること。その方向性
さえもたせておけば、子どもは、習慣として、ものを考えるクセを身につける。そうでなければ、
そうでない。

 方法としては、子どもを「自由」にする。「自らに由(よ)らせる」。そのためには、ひとりで考え
る時間を、たっぷりと与える。1時間や2時間では、ダメ。毎日の習慣の中で、毎日、数時間
は、ひとりで考える時間をもたせる。読書がよいのは、言うまでもない。しかしそれ以上に大切
なのは、(書く)という習慣である。

 どんなテーマでもよい。いつも、書く。書くことによって、思考力を深める。が、最近の若者た
ちは、文章を、ほとんど書かない。書くという習慣そのものがない。その前に文章を書くという
訓練そのものを受けていない。

 ……と、グチばかり言っていたのでは、話が前に進まない。そのグチは、この程度にして、私
の教室(BW教室)で実践している、いくつかの方法を、紹介する。

(立て札づくり・幼児用)

 A君は、道を歩いているとき、道の中に大きな穴があることを知りました。あとからきた人が、
その穴に入ってケガをすると、たいへんです。あなたはその横に立て札を立てることにしまし
た。その立て札には、何と書きますか。

 Bさんは、自分でつくったクッキーを、おじいちゃんの家に届けることにしました。が、あいにく
と、おじいちゃんは家にいませんでした。そこでBさんは、クッキーを郵便受けに入れ、手紙を
書いておくことにしました。その手紙には、何と書けばよいですか。

 C君は、宇宙人に誘拐さて、高い塔になる部屋の中に閉じこめられてしまいました。そこでC
君は、手紙を書いて、だれかに助けにきてもらうことにしました。窓からその手紙を外に投げれ
ば、だれかが読んでくれるはずです。その手紙には、何と書けばよいですか。

(表現あそび・小学生低学年用)

 1人の子どもに、複雑な形の絵を見せる。その絵を見せながら、その形がどんな形であるか
を、文章で表現させる。つぎにその絵を隠し、べつの子どもに、その文章を読ませ、どんな形で
あったかを、絵に描かせてみる。こうして最初の絵と、べつの子どもの書いた絵をくらべさせ
て、似ているか、ちがっているかを、判断させる。ちがっているときは、どうしてちがっているか
を、話しあう。

 絵だけを見せて、話を作らせる。私がよく用いるのは、影絵。いろいろな影絵を見せながら、
その影絵は、だれが、どうして、何をしているところかを、文章にして書かせる。

 6〜7人で、グループになってする。最初の出だしだけは、私が、6〜7種類、用意する。(1)
湖のほとりに小さな家がありました。(2)白い雲が、山の上に2つありました。(3)川の中に、
二匹の魚が住んでいました、など。そのあとのつづきを、子どもたちに、書かせていく。少し書
いたら、その紙を、時計回りなら時計回りにしながら、つぎの子どもに回していく。子どもは、前
の子どもの書いた作文に、自分の作文をつなげ、ストーリーを考えていく。
(以上、はやし浩司のオリジナル指導法)

 みなさんの家庭でも応用できると思うので、ぜひ、応用してみてほしい。
(はやし浩司 思考 思考力 作文 作文指導 考える力 表現力)




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●萎縮する子ども

【親が、子どもをつぶすとき】

●S君の例

 こんな話が、ある。

 S君はそのとき、中学一年生になったばかりだった。そのS君に、どこかふつうでない様子が
見られるようになったのは、そのころからだった。

 S君は、魚釣りで使う、ルア(lure小魚を模した擬餌)を集めていた。そのルアばかりを、何百
個ももっていた。こうした度を越した、しゅうしゅ癖は、子どもにとっては好ましいものではない。
(こだわり)とみる。自閉傾向のある子どもが、よく見せる症状の一つである。

 S君は、学校から帰ると、そのルアを毎日みがいて、時間を過ごしていた。が、夏休みを過ぎ
ることから、さらに様子がおかしくなった。

 ルアを箱に入れ、その箱を、自分の部屋の本箱の中に入れていたが、本箱が勝手に開けら
れないように、大きなカギをつけた。さらに自分の部屋にもカギをつけた。それまではときどき
母親が、掃除にS君の部屋に入っていたが、それができなくなった。

 それを知った、父親が激怒した。そして父親は、S君が学校へ行っていない間に、S君の部
屋に入り、本箱のカギをこわして、ルアの入った箱などを、庭先へ投げつけて、捨てた。母親の
サイフから、お金を盗んでルアを買っていたことが、わかったからである。

 S君の様子が激変したのは、その夜からだった。従順で、ヘラヘラと笑っているだけ。が、そ
うかと思うと、突発的に、自分のメガネをなげつけて割ったり、ステレオセットを、窓の外に投げ
捨てたりした。

 昼と夜が逆転し、学校へも行かなくなってしまった。S君は、心療内科に通うことになった。今
は、週4回、午前10時から午後4時ごろまで、その内科に併設された施設で、時間を過ごして
いる。

●無理をする親たち 

 こういうケースは少なくない。親の無知と無理解が、子どもの心をゆがめてしまうというケース
である。

 親の強引なやり方が、子どもの心をゆがめてしまう。「気はもちようだ」「子どものことは、私
が一番よく知っている」と。

 燃え尽きたり、荷おろし症候群などで無気力になった子どもを、「わがまま」「なまけもの」と決
めつけて、叱りつづけていた母親もいた。オーバーヒートを起こし、心身症(神経症)を、多発し
ていたにもかかわらず、「まだ、何とかなる」と、子どもを勉強で追いたてていた母親もいた。

 しかしいくら自分の子どもでも、してよいことと悪いことがある。とくに子どもがかかえる、心の
問題は、安易に考えてはいけない。無理をすれば、そのした分だけ、子どもの心は破壊され
る。そしてその後遺症は、ばあいによっては、一生、つづく。

 が、親には、それがわからない。いくら説明しても、わからない。私も、そういった子どもを教
えさせてもらう立場にいるから、「これは、あぶないぞ」と言っても、それを口にすることができな
い。

 「このままでは、あぶないから、受験競争から手を引きなさい」などと、どうして私の立場で言
えるだろうか。私の思いすごしということもあるし、みながみな、そうなるというわけでもない。
「もし、まちがっていたら……」という思いがあるから、口を閉ざす。

 もちろん親のほうから相談があれば、話は別。しかしそういう相談は、めったにない。あると
すれば、「もっと、成績を伸ばすにはどうしたらいいでしょうか」「SS中学へ入るためには、どう
したらいいでしょうか」と。

 どの親も、成功することは考えるが、失敗することは考えない。

 ……とまあ、奥歯にものをはさんだような言い方は、もうやめよう。私も57歳。この世界で、3
5年も生きてきた。だから、はっきり言う。

 せっかく子どもを伸ばしても、また勉強好きにしても、そのあと、親が無理をする。勉強癖そ
のものを、破壊する。「○○進学塾へも通わせることにしました」「家庭教師もつけました」と。

 一時的にはうまくいっても、やがてオーバーヒート。こういうバカげたドラマを、私は、いやとい
うほど、見せつけられてきた。内心では、「ご勝手に」と思いつつ、表面的には、にっこりと笑っ
て、その場を逃げるしかない。

 本当は、「そんなことしても、ムダですよ」「かえって、失敗しますよ」と言いたいが、それこそ
内政干渉。隣の席でタバコを吸っている人に向って、「タバコは、体によくありませんよ」と注意
するのに、似ている。親にしてみれば、余計なお節介ということになる。

●失敗を避けるために

 「無理をしないこと」。すべて、この一語に尽きる。

 子どもが自分で自分の道を歩み始めたら、親は、そっと、それを静かに見守る。何度も書い
てきたが、(暖かい無視)と、(ほどよい親)に、心がける。あとのことは、子ども自身の判断力
に任せる。

 そしてその前に、本当にあなたは、あなた自身を知っているかを、自問してみるとよい。あな
たの子どものことではない。あなた自身を、だ。

 たいていの人は、「私のことは、私が一番、よく知っている」と思っている。しかし「私」を知るこ
となど、一流の哲学者ですら、むずかしい。ギリシャの哲学者のキロンは、『汝自身を知れ』と
いう有名な言葉を残している。つまり「己(おのれ)を知ることが、哲学の究極の目標である」
と。

 つまり自分を知ることは、それくらいむずかしい。いわんや、あなたの子どもを、や。

 あなたは、あなたの子どもの友だちの名前を、3人、言えるだろうか。
 あなたは、あなたの子どもが、どんな趣味をもち、家の外でどんなことをしているか、知ってい
るだろうか。
 あなたの子どもは、あなたに悩みや苦しみを訴えているだろうか。

 こうした簡単なこと(本当は、簡単ではない)から始めて、一度、あなたも、あなたの子どもの
心の中をのぞいてみるとよい。とくに、子どもが小さいときから、子どもの手をぐいぐいと引きな
がら、子育てをしてきたようなタイプの親ほど、一度、子どもの心の中をのぞいてみるとよい。

 話は変わるが、私がある講演会で、「子育てで失敗しないために」という副題をつけたところ、
「失敗とは、何だ。失敬ではないか」と、怒ってきた父親がいた。

 「どんな子どもにも、その子どものよさがある。失敗した子どもというのは、いない」と。

 その父親の言っていることは、正しい。しかしその一方で、親が原因で、心をゆがめていく子
どもが多いのも事実。以前、「母因性〜〜」という言葉を使った。「母原性〜〜」という言葉を使
う人もいる。

 私は、それを「失敗」と位置づけている。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(はやし浩司 母因性 母因性萎縮児)


++++++++++++++++++++

そのとき書いた原稿を添付しておきます。

++++++++++++++++++++

●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 母因性萎縮児 母原性萎縮児)






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